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17「史上初の全国的な内乱」日本において、この乱以前にも大規模な内乱は発生しているが、それらの反乱は大規模であっても辺境地域に留まる性格のものか中央地域(畿内周辺)における短期間の内乱に限定されていた。だが、この乱は中立的な立場を取った奥州藤原氏が支配する東北地方以外の当時の日本の国土のほぼ全域を巻き込んでおり、かつ5年近くにわたって続くものとなった。ところが、当時の朝廷の軍制はあくまでも京都およびその周辺の短期間の騒擾(僧兵や盗賊など)や海賊対策には十分であったものの、こうした大規模な内乱に対応できる体制にはなっていなかった。平氏政権にしてもその成立のきっかけとなった保元・平治の乱において重代相伝の家人などからなる少数の直属部隊で勝利を収め、政権掌握後は必要に応じて公権力の発動を行うことによって諸国の兵士を動員することで補う形態を採っていた。ところが、この乱において当初小規模勢力でかつ「反乱軍」の扱いを受けていた源頼朝勢力は関東地方の支配権確保とその後の平氏政権打倒という長期的・領域的な目標を達成するために傘下の武士に対して独自の本領安堵や占領した土地の給付などを実施してこれを梃子にして長期戦に耐え得る軍制の確立に成功した。これに対して平氏政権側は朝廷内の旧勢力(王家、貴族、寺社)との兼ね合いからこうした大胆な措置を採ることが困難であり、それが平氏政権側の苦戦につながったと考えられている。平氏政権の排除乱の以前、平氏政権は軍事・警察権を握り、多くの知行国を保有していた。このために、平氏政権に権益を奪われた旧勢力(王家、貴族、寺社)により平氏政権の排除が企図された。最終的にはそれが成功したのだが、旧勢力は平氏政権が保有していた権益をすべて奪還することはできなかった。鎌倉幕府の成立旧勢力に平氏政権を排除する力(軍事力)はなく、その力を持っていたのは武士層であった。当初、東国や北陸で勃興した反平氏勢力は平氏追討を建前として掲げてはいたが、本音では自らの権利の確保、そして中央政府からの一定範囲での独立を真の目的としていた。旧勢力は平氏打倒という目的のためには実際に追討に携わる関東政権に依存しなければならず、寿永二年十月宣旨の発給といった大幅な権限委譲の道を開いてしまう。その結果として鎌倉幕府の成立がもたらされる。草創期の鎌倉幕府は東国の支配権を有するのみだったが、それは当時の幕府を構成する武士たちにとって十分満足できる結果だったはずである。創成期の鎌倉幕府と既存の朝廷は多くの軋轢を抱えながらも荘園公領制の維持という点では利害が一致しており、建久元年(1190年)の頼朝上洛により鎌倉幕府と朝廷の協調体制が確認された。鎌倉幕府と朝廷が全面衝突するのは、それから約30年後の承久の乱である。「源平合戦」という呼称について
2023年09月07日
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源氏の反攻と平氏滅亡やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍に猛攻撃を仕掛けた。平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。『平家物語』には、平氏一門の最後の様子が描かれている。知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。つまり女官たちが源氏の武者にされることになることを示唆している)。これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると、二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。平家の総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまった。剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を多数討つが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最期だが、『吾妻鏡』には教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がある。しかし、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。知盛は「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水した。申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。なお、この戦いで平氏一門は政治勢力としては滅亡したが、一般的なイメージとは異なり一門そのものは断絶することなくその後も続いている。入水した建礼門院は助け上げられ、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されたが、二位尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、宝剣(天叢雲剣)も海に没した(別説あり)。安徳天皇の異母弟の守貞親王(安徳天皇の皇太子に擬されていた)は救出された。平氏一門のうち宗盛、清宗、それに平家と行動をともにしていた平時忠(二位尼の弟)、平時実、平信基、藤原尹明といった廷臣、能円、全真、良弘、忠快、行命といった僧侶、平盛国、平盛澄、源季貞らの武将、大納言典侍、帥典侍、治部卿局、按察使局らの女房が捕虜となっている。義経は建礼門院と守貞親王それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼は九州に残って戦後の仕置きを行うことになった。義経は京に凱旋し、後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官させた。これを知った頼朝は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じる。さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中の義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ、頼朝を怒らせた。元暦2年(1185年)5月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌倉へ向かうが、腰越で止められてしまう。宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面する。義経は腰越状を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年6月に宗盛父子とともに京へ追い返されてしまう。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首された。その後、義経と頼朝との対立が強まり、義経は同年10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の宣旨を出させて挙兵するが失敗。逆に追討の宣旨を出されて没落して奥州藤原氏のもとへ逃れるが、文治5年(1189年)閏4月に平泉で殺された(奥州合戦)。合戦後ほどなく建礼門院は出家し大原に隠棲した。守貞親王はすでに皇位への道は断たれており、後に出家している。平時忠は能登国へ流罪となり、当地で死去した。時忠の子時実は義経に接近して再起を図るが、義経の都落ちの際にはぐれて鎌倉方に捕らえられ、上総国へ流罪となった(後に赦免されて帰京している)。この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は25年にわたる平氏政権の幕を閉じた。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。序盤は平氏が優勢であったが、やがて劣勢となっていく。阿波水軍の裏切りもあり平氏の敗色が濃厚となるに従って、平氏の武将は海へ身を投じていき、安徳天皇と二位尼も三種の神器とともに入水した。この戦いで平氏は滅亡した。
2023年09月07日
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16「壇ノ浦の戦い」詳細は「壇ノ浦の戦い」を参照屋島の戦いの後、瀬戸内海の制海権を失った平氏軍は長門へ撤退する。熊野別当湛増が率いる熊野水軍や、河野通信らの伊予水軍を始めとする中国・四国の武士が続々と義経軍に加わり、時を同じくして範頼軍が九州を制圧したことで、平氏は完全に包囲される形となった。元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われた(壇ノ浦の戦い)。z 壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。z 寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。z しかし、寿永3年/治承8年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して海に逃れ、讃岐国屋島と長門国彦島(山口県下関市)に拠点を置いた。z 鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。z だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって軍を進められなくなった。z この状況を見た義経は後白河法皇に平氏追討を願い許可を得ると都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した。元暦2年/寿永4年(1185年)2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。z 平氏総大将の平宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れて志度に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち彦島に拠った。z 一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。z 合戦の経過z 鎌倉幕府編纂の歴史書である『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は分からない。z そのため信憑性には難があるものの『平家物語』、『源平盛衰記』などの軍記物語を基に巷間で信じられている合戦の経過を述べることになる。z また、以下の経過は大正時代に黒板勝美東京帝国大学教授が提唱して以来、広く信じられている潮流説に基づいている。z 開戦z 彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。z 『平家物語』によれば、合戦前の軍議で軍監の梶原景時は合戦の先陣になることを望むが、義経は自らが先陣に立つとはねつけた。景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない」と義経を愚弄して斬りあい寸前の対立となり、これが後の景時の頼朝への讒言、ひいては義経の没落につながるとされる。z 平氏軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。z 宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。『平家物語』によれば、知盛は通常は安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。z 3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による、『吾妻鏡』では午前)に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。z 範頼軍は3万余騎(『源平盛衰記』)をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。z 『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町三町も射かけたという。z 平氏優勢z 関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。z ここで不利を悟った義経が敵船の水手、梶取(漕ぎ手)を射るよう命じたともされ、ドラマや小説等では、この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行って戦況が変化したとする描写がよく見られる。z しかし、『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や船頭を射殺し、斬り殺したと描かれている。z また、『平家物語』では阿波重能の水軍300艘が寝返って平氏軍の唐船の計略を義経に告げ、知盛の作戦は失敗し平氏の敗北は決定的になったとする。z 『吾妻鏡』によれば、阿波重能は合戦後の捕虜に含まれており、実情は不明である。
2023年09月07日
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扇の的と弓流し❖ やがて、源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。❖ 継信の墓は庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、また激戦の中で継信弟の忠信に射られて討ち死にした平教経の童の菊王丸の墓は屋島東町檀ノ浦にある。 ❖ なお『吾妻鏡』によれば、教経は屋島の戦い以前に、一ノ谷の戦いで討ち死にしている。❖ 夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。❖ 与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。❖ しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。❖ 義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。❖ 怒った平氏は再び攻めかかる。❖ 激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。❖ 2月21日、平氏軍は志度浦から上陸を試みるが、義経は80騎を率いてこれを撃退した。❖ 『平家物語』には、この時、僅か15騎を率いた義経の郎党の伊勢義盛が田内成直の3000騎を降伏させたという話がある。❖ やがて、渡邊津から出航した梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫り、平氏は彦島へ退いた。屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失った。既に九州は範頼の大軍によって押さえられており、平氏は彦島に孤立してしまう。義経は水軍を編成して、最後の決
2023年09月07日
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出港準備と逆櫓論争❖ 2月、義経は摂津国の水軍渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めた。❖ 出航直前の2月16日に後白河法皇の使者高階泰経が渡辺津に来て、義経に「大将が先陣となることはない」と京へ戻るよう法皇の意を伝えている。これに対して義経は「自分には存念があり、先陣となって討ち死にする覚悟があります。」と決意を述べている。❖ この頃まだ都の治安維持には義経が必要不可欠とみられていたからである。 しかし義経はその制止を振り切って出陣に踏み切ることになる。 このころ範頼が九州から引き上げるという話がありこのことが平家を勢いづかせることが懸念されていた。❖ 『平家物語』よれば、渡邊津を出航するにあたり義経は戦奉行の梶原景時と軍議を持ち、景時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案した。しかし、義経は「そのようなものを付ければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。❖ 景時は「進むのみを知って、退くことを知らぬは猪武者である」と言い放ち、義経は「初めから逃げ支度をして勝てるものか、わたしは猪武者で結構である」と言い返した。逆櫓論争である。景時は深く遺恨を持ち、後の頼朝への讒言となり、義経の没落につながったとされる。❖ しかし、『吾妻鏡』『玉葉』の記述から、このころ景時は範頼軍と行動を共にしていたという見解が有力であり、『平家物語』のこの逸話は虚構の可能性が高い。❖ 奇襲❖ 2月18日午前2時、暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、義経は郎党に命じて弓で船頭を脅して、僅か5艘150騎で出航を強行する。同日午前6時に義経の船団は暴風雨をつき通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した。❖ 『吾妻鏡』に「丑の刻(午前2時)に船5艘で出発し、卯の刻(午前6時)椿浦浜に着く(通常は三日の行程)」と記されている。❖ 4時間で到着したことになるが、これは『吾妻鏡』が出発日または到着日を1日間違え、実際には1日と4時間の航行時間だったという見方が有力である。❖ なお、かつて大阪南港-徳島港間を運行していたフェリー(徳島阪神フェリー)の所要時間は3時間30分であった。❖ 勝浦に上陸した義経は在地の武士近藤親家を味方につけ、屋島の平氏は、田口成直(田口成良の子)が3000騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、1000騎程しか残っておらず、それも阿波国、讃岐国各地の津(港)に100騎、50騎と配しており、屋島は手薄であるとの情報を手に入れ、好機と判断した。❖ まず、義経は平氏方の豪族桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破る。その後、徹夜で讃岐国へ進撃して翌2月19日に屋島の対岸に至った。❖ この頃の屋島は独立した島になっていた(江戸時代の新田開発により陸続きに近くなった。ただ、今なお相引川によって隔てられている)。❖ 干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。寡兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。❖ 海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。
2023年09月07日
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15「屋島の戦い」詳細は「屋島の戦い」を参照一ノ谷の戦いで敗れた平氏は讃岐屋島に陣を構えて内裏を置いた。8月、西国へ向かった範頼軍は当初は順調に山陽道を制圧したが、やがて長く延びた戦線を平氏の水軍によって分断された。また、関門海峡も平知盛によって封鎖されて兵糧不足に陥り進軍は停滞した。この状況をみた義経は元暦2年(1185年)正月、後白河法皇に西国への出陣を奏上してその許可を得る。同年2月、義経は阿波勝浦へ上陸後、在地武士を味方に引き入れて背後から屋島を急襲し、平氏を追い落とした(屋島の戦い)。❖ 屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)に讃岐国屋島(現高松市)で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。❖ 寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国の田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。❖ 寿永3年(1184年)1月20日、鎌倉の源頼朝と義仲の抗争が起き、義仲は滅びた(宇治川の戦い)。その間に平氏は義仲に奪われた失地を回復し、勢力を立て直して摂津国福原まで進出する。❖ しかし、頼朝の弟の範頼・義経に攻められて大敗を喫した(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は一門の多くを失う大打撃を蒙った。❖ 平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。一方の鎌倉方は水軍を保有していなかったため、どうしても彦島・四国攻めに踏み切れず、休戦が続いた。❖ 後白河法皇は三種の神器の返還と源平の和平を打診させる使者を平宗盛へ送るが、宗盛はこれを拒否した。❖ 一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官として京に留まった。その後、義経は畿内の軍事と治安維持を担当することになる。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。❖ この体制に基づき義経の指揮の元、梶原景時を摂津・美作、土肥実平を備前・備中・備後の惣追捕使としその地域の武士達を統制に乗り出した他、大内惟義、山内経俊、豊島有経などが畿内の惣追捕使となった。❖ 一方同年6月、頼朝は朝廷に奏上して範頼を三河守、一族の源広綱を駿河守、平賀義信を武蔵守に任官させ、頼朝は知行国主となり関東知行国を獲得した。❖ 同年7月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させた。後鳥羽天皇である。❖ これにより、朝廷と平氏は完全に決裂した。❖ 範頼の山陽道・九州遠征❖ 梶原景時、土肥実平らが山陽道に乗り出したが、6月に入ると屋島に残る平家の勢力が再び山陽道に及び始め、その地の鎌倉御家人たちが平家に度々襲撃されるようになる(『玉葉』)。❖ そのため西国への大規模な出兵が必要となった。その山陽道遠征軍の指揮をとるのは当初義経が予定されていたが、7月に入ると今度は畿内で三日平氏の乱が勃発し、その畿内の反乱を鎮圧するのに義経は専念せざるを得なくなる。そのため頼朝は山陽道への出兵の総指揮者を範頼に変更した。❖ 同年8月7日、範頼率いる和田義盛、足利義兼、北条義時ら1000騎が鎌倉を出立した。❖ 三日平氏の乱は鎌倉方御家人佐々木秀義が戦死するなどの激しいものであり、乱そのものが鎮圧された後も、首謀者の一人である藤原忠清などの行方がわからず都は軍事上の不安を抱えている状態だった。❖ そのころ都の治安維持に義経が必要不可欠であると判断した後白河法皇は8月に義経を検非違使尉に任じた。❖ 8月27日に範頼は入京して追討使に任じられ、9月1日に3万余騎をもって、京を発し九州へ向かった。山陽道を進む範頼軍は10月には安芸国に達し、12月には備中国藤戸の戦いで平行盛の軍を撃破している。❖ だが、範頼の遠征軍は長く伸びた戦線を平氏軍に脅かされ兵糧の調達に窮し、関門海峡を知盛に押さえられており、船もないため九州にも渡れず進撃が止まってしまった。❖ いったんは長門国まで進出するが、兵糧が尽きて周防国へ後退している。範頼は窮状を訴える書状を次々と鎌倉に送っている。❖ 侍所別当の和田義盛ですら鎌倉へ密に帰ろうとする事態になり、範頼軍の将兵の間では厭戦気分が広まり全軍崩壊の危機に陥った。思わしくない戦況に鎌倉の頼朝は焦燥した。❖ 一方、京に留まっていた義経は後白河法皇に引き立てられ、9月には従五位下に昇り、10月には昇殿を許されている。義経は後白河法皇との結びつきを強めた。❖ 元暦2年(1185年)1月に範頼は豊後国と周防国の豪族から兵糧と兵船を調達して、ようやく豊後国へ渡ることに成功。2月1日、範頼は筑前国芦屋浦で平氏方の原田種直を破る。範頼は背後から彦島の知盛を衝くことを企図するが兵船が不足して実行できなかった。❖ この苦境を知った義経は後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得た。
2023年09月07日
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三日平氏の乱(みっかへいしのらん)は、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。元暦元年(1184年)7月から8月にかけて、前年の平氏都落ち後に、伊賀・伊勢に潜伏していた平氏残党が蜂起した事件。Y 『平家物語』では「三日平氏の乱」と記されているが、本来3日間で鎮圧され「三日平氏の乱」と称されたのは、この20年後の元久元年(1204年)に発生した事件であって、この1184年の平氏反乱は長期間にわたり大規模なものであった。Y 寿永2年(1183年)7月の平氏西走後も、その本拠であった伊賀・伊勢両国には平氏家人が播居しており、元暦元年(1184年)3月に大内惟義が伊賀の守護に補任され、武蔵国の御家人大井実春が平家与党討伐のため伊勢に派遣される。Y 7月7日辰の刻(午前8時頃)に平家継を大将軍とする反乱が勃発し、襲撃を受けた惟義の郎従が多数殺害された。時を同じくして伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山を切り塞いで謀反を起こし、院中は例えようもないほど動揺したという(『玉葉』7月8日条)。Y 19日には近江国大原荘で鎌倉軍(官軍)と平氏残党が合戦となる。家継が討ち取られて梟首され、侍大将の富田家助・家能・家清入道(平宗清の子)らが討ち取られた。Y 平信兼・藤原忠清は行方をくらました。反乱はほぼ鎮圧されたものの、源氏方も老将佐々木秀義が討ち死にし、死者数百騎に及ぶ大きな損害を受けた。Y 8月3日、事態を重く見た頼朝は、蜂起した平氏勢力の中の最有力人物である平信兼の捜索を義経に命じる。Y 10日、信兼の3人の子息、兼衡・信衡・兼時が京の義経邸に呼び出され、斬殺、自害へ追い込まれている。義経はその2日後に信兼討伐に出撃した(『山槐記』8月10日条)。その後の合戦の経過について貴族の日記による記録はないが、『源平盛衰記』によると、伊勢国滝野の城に立てこもる100騎ほどの信兼軍が激戦の末、討ち取られたという。Y この平信兼追討の最中の8月6日、義経は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。Y 8月26日、鎌倉に義経から信兼の子息3人を宿所に呼び寄せて誅した事、信兼が出羽守を解官されたとの報告が届き、9月9日、信兼以下平氏家人の京都における所有地を、義経の支配とするよう頼朝から書状が出された(『吾妻鏡』)。Y 藤原忠清は翌元暦2年(1185年)まで潜伏を続けて都を脅かした。一ノ谷の戦い以降、源範頼以下主な鎌倉武士は帰東しており、またこの反乱の最中の8月8日に、範頼は平氏追討のために鎌倉を出立し、9月1日に京から西海へ向かっている。Y 平氏残党に対する都の不安は大きく、後白河院は治安維持のために翌年正月の義経の屋島出撃を引き留めており、義経の検非違使・左衛門尉任官は、このような情勢の不安による人事であった。近年の研究では、義経が平氏追討から外されたのは、後年の編纂書『吾妻鏡』が記すような無断任官による頼朝の怒りのためではなく、京都の治安維持に義経が必要であり、法皇や貴族たちの強い反対があったためと考えられている。Y なお、平信兼と平家継は源義仲打倒の立場から、義経の入京に協力した京武者たちであった。『吾妻鏡』では信兼の息子たちが事件の張本であったとするが、彼らは義経の屋敷に出向いていることから反乱と深い関わりは持っていなかったと見られる。信兼追討の背景には、独立性の強い京武者の排除、従属させようとする頼朝の方針があったと考えられる
2023年09月07日
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戦後] 範頼軍は平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を、義経・安田義定軍は、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経をそれぞれ討ち取ったと言われている。] ただし、『平家物語』や『吾妻鏡』など文献によって戦死者は多少異なっている。この戦いで一門の多くを失った平氏は致命的な大打撃をうける。] 後白河法皇は捕虜になった重衡と三種の神器を交換するよう平氏と交渉するが、宗盛はこれを拒絶し、合戦直前の休戦命令に従っていたにも係らず、突然源氏に襲われたということに対する抗議と「休戦命令は平氏を陥れる奇謀ではなかったか」との後白河法皇への不審を述べ立てている。] 合戦に大勝した鎌倉政権軍も戦略目標である三種の神器奪還には失敗しており、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと戦いはまだ続くことになる。] 平氏敗北の要因について、後白河法皇が平氏へ講和の提案を行い油断させる一方で、鎌倉政権軍と連携して対平氏攻撃を着々と準備した計略であるという説がある。] この説では、合戦直前の2月6日の後白河法皇の休戦命令と、合戦後の宗盛の「休戦命令を信じていたら、源氏に襲われて一門の多くが殺された、(平氏を陥れる)奇謀ではないのか」という法皇への抗議の書状を重視して、法皇を信頼して和解に向け展望を開いていた平氏にとって、鎌倉方の突然の攻撃は想定できるものではなく、鎌倉側の勝利は必ずしも源義経の将としての能力などだけに起因しているのではないとしている。] 尤も、この説を裏付ける史料は敗れた平家方の書状のみである。当時、地理を熟知していた平氏側は東門・北門(夢野口・古明泉寺(明泉寺)の2箇所)・西門と戦術上の要所に布陣しており、やはり戦を想定していたとする反論もある。 14「三日平氏の乱」詳細は「三日平氏の乱 (平安時代)」を参照一ノ谷の戦いの後、頼朝は義経を総指揮者として畿内西国の軍事体制を整える。土肥実平・梶原景時が山陽道に、大内惟義・大井実春らが伊勢・伊賀に配備されるが、実平・景時は平氏軍の反攻に苦しみ、頼朝は義経を総大将として西国に遠征軍を送ることを検討した。だが、その矢先の元暦元年(1184年)7月、平田家継・藤原忠清ら伊勢・伊賀の平氏家人が軍事蜂起する。激戦の末に反乱は鎮圧されるが佐々木秀義が討死するなど鎌倉方御家人にも大きな被害が及んだ。この乱の影響で義経は畿内の治安維持に専念せざるを得なくなり、代わりに範頼が西国遠征の指揮を執ることになる。一方、東国では頼朝によって甲斐源氏の一条忠頼が殺害され、甲斐・信濃に対して軍事力が行使された。これは頼朝と同格で元々独自に挙兵した甲斐源氏を頼朝の支配下に置こうとする政策である。またこの頃から、頼朝に対して独立性の高い京武者(畿内周辺の軍事貴族)に統制をかけようという試みもなされている。
2023年09月07日
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平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。] 義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃する。] 生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。] 逆落とし] 精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。] 『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。] 坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。] 崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。] 鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、(平氏は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分る。これが逆落しを意味すると解釈されている。] 九条兼実の日記『玉葉』では搦手の義経が丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。大手の範頼は浜より福原に寄せた。] 多田行綱は山側から攻めて山の手(夢野口)を落とした。と戦況を書き残している。ここでは義経が一ノ谷を攻め落としたことは記しているが、逆落しの奇襲をかけたとは書いていない。] なお本項目の経過解説と画像では、逆落しの場所を現在この合戦の説明の際に主流になっている一ノ谷の裏手鉄拐山とする説(一ノ谷説)を採っているが、『平家物語』や上記『吾妻鏡』では義経の戦った場所は鵯越(一ノ谷から東方8キロ)となっており鵯越説も根強く、またそもそも逆落し自体が『平家物語』が創作した虚構であるという見方も有力である(後述)。] 平氏敗走] 混乱が波及して平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。] 生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口(山の手)の救援に向かった。午前11時頃、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。] 安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の宗盛は敗北を悟って屋島へ向かった。] 西城戸の将の忠度は逃れようとしていたところを岡部忠澄に組まれて負傷し、覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。歌人だった忠度が箙に和歌を残していた逸話が残っている。] 合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実は敵を探していると、馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけて「敵に背を向けるのは卑怯であろう。戻りなされ」と呼びかけた。武者はこれに応じて、陸へ引きかえして直実と組むが、勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。直実は首を取ろうとするが、武者の顔を見ると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。] 武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った(『源平盛衰記』による。『平家物語』では名乗らない)。] 直実の息子直家も同じ16歳で、憐れに思い逃そうとするが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。直実は武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登った。] 『平家物語』の名場面である。史実でも直実は敦盛を高野山で供養し、その後出家して法然に仕えている。『吾妻鏡』によると出家の直接の理由は所領を巡る訴訟に敗れた際、梶原景時の言動に怒ったためである。] 敗走した平重衡は、梶原景季と庄氏によって捕らえられた。『吾妻鏡』では児玉党の武将である庄太郎家長に、『平家物語』では庄四郎高家に捕らえられたとある(研究者の間では、武功に見合うだけの恩賞を与えられている点から家長説が有力視されている)。] この敗走で平氏一門の多くが討たれ、平氏は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。
2023年09月07日
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13「一ノ谷の戦い」義仲滅亡に至るまでの間に平氏は勢力を立て直し、寿永3年(1184年)正月には摂津福原まで戻っていた。その頃、都では後鳥羽天皇の即位を控え、三種の神器不在を憂慮されるようになっていた。三種の神器は安徳天皇の元にあり、三種の神器を後鳥羽天皇側に迎え入れる為に平氏と和平するか、交戦して実力で奪取するか朝廷内の意見は割れたが、武力攻撃による三種の神器奪還へと意見が固まる。やがて京都に駐留していた範頼・義経軍は、福原に陣を構える平氏を攻撃することになった。範頼・義経軍は二手に分かれて平氏を急襲し、海上へと敗走させた(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は多くの有能な武将を失い、後の戦いに大きな影響を及ぼした。] 一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つ。] 寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いで源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、同年7月に安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れた。京を制圧した義仲だが、統治に失敗して後白河法皇とも対立するようになった。] 義仲は後白河法皇の命で平氏追討のために出兵するが備中国で大敗を喫してしまう(水島の戦い)。後白河法皇は義仲を見限り、鎌倉の源頼朝を頼ろうとするが、これが義仲を激怒させ、後白河法皇は幽閉されてしまう(法住寺合戦)。] 情勢が不利になり脱落者が続出して義仲の兵力は激減してしまい、讃岐国屋島にまで復帰していた平氏へ和平を申し出るが、平氏はこれを拒絶した。寿永3年(1184年)1月20日、頼朝が派遣した範頼、義経の鎌倉政権軍に攻められて義仲は滅んだ(宇治川の戦い)。] この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、同年1月には大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。] 平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。] 平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。] 1月26日、後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。] 以下は『吾妻鏡』『平家物語』などを基にした巷間で知られる合戦の経過である。] 前哨戦] 寿永3年(1184年)2月4日、鎌倉方は矢合せを7日と定め、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平氏は福原に陣営を置いて、その外周(東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口)に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。] 同日、搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。] 2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。] 平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある(後述)。] 迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分して、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせる(後述)。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。] 『平家物語』によれば、義経の郎党の武蔵坊弁慶が年老いた猟師を道案内として見つけてきた。] 猟師が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問い、冬を挟んで餌場を求め鹿が往復すると答えた。義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と言い案内するよう求めたが老猟師は自分は歳をとりすぎているとして息子を紹介した。義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と名乗らせた。] 難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。] 開戦・生田の戦い] 2月7日払暁、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。] 直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。] 午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ源氏軍をひるませる。
2023年09月07日
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義仲は法皇に迫って源頼朝追討の院庁下文を発給させ、翌寿永3年(1184年)正月には征東大将軍となり、形式的には官軍の体裁を整えた。このような情勢下、頼朝は弟の源範頼を新たに援軍として派遣し、正月20日、範頼軍と義経軍は、それぞれ勢多と田原から総攻撃を開始する。義経軍は義仲軍と交戦して宇治の防衛線を突破し(宇治川の戦い)、そのまま入洛して法皇の身柄を確保した。義仲は近江粟津で戦死した。♠ 宇治川の戦い(うじがわのたたかい)は、平安時代末期の寿永3年(1184年)1月に源義仲と鎌倉の源頼朝から派遣された源範頼、源義経とで戦われた合戦。治承・寿永の乱の戦いの一つ。♠ 寿永2年(1183年)7月、信濃国で平家打倒の挙兵をした源義仲が数万騎を率いて入洛した。義仲軍は京で乱暴狼藉を働き、やがて皇位継承を巡って後白河法皇とも対立した。♠ 9月、義仲軍は備中国水島の戦いで平家軍に大敗、後白河法皇は義仲を見放した。10月、後白河法皇は鎌倉の源頼朝に東海道・東山道の支配を認める院宣を下し、頼朝に接近する(寿永二年十月宣旨)。♠ 11月、起死回生をはかった義仲は院御所の法住寺殿を攻撃、後白河法皇を幽閉して政権を掌握した(法住寺合戦)。♠ 孤立を深める義仲は平家との和平を打診するが、拒絶される。12月、義仲は後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を発出させる。♠ そして翌寿永3年(1184年)1月、義仲は征東大将軍に任命された。1月20日、頼朝は近江にまで進出させていた範頼、義経に義仲追討を命じた。♠ 経過♠ 入洛時には数万騎だった義仲軍は、水島の戦いの敗北と状況の悪化により脱落者が続出して千騎あまりに激減していた。♠ また、義仲は平家との和平交渉とともに後白河法皇らを奉じて北陸道へ下る事も考えていたようであるが関東は飢饉によって兵力を動員できず義経の兵も千騎ほどという情報が入ってきたため、北陸下向を中止して迎え撃つ判断をしてしまったのである(『玉葉』寿永3年正月13・14日条)。♠ 義仲が敵の実勢を把握したのは15日の夜であり、翌16日には範頼が北陸道の入口である近江国の瀬田に兵を進めて義仲軍を京都に閉じ込めてしまった(「関東が飢饉によって兵力が動員できない」という情報自体が頼朝側が流した偽情報であった可能性もある)。♠ 義仲は義仲四天王の今井兼平に500余騎を与えて瀬田の唐橋を、根井行親、楯親忠には300余騎で宇治を守らせ、義仲自身は100余騎で院御所を守護した。1月20日、範頼は大手軍3万騎で瀬田を、義経は搦手軍2万5千騎で宇治を攻撃した。♠ 義経軍は矢が降り注ぐ中を宇治川に乗り入れる。佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」はこの時のことである。♠ 根井行親、楯親忠は必死の防戦をするが、義経軍に宇治川を突破される。義経軍は雪崩を打って京洛へ突入する。♠ 義仲が出陣し、義経軍と激戦となる。♠ 義仲は奮戦するが遂に敗れ、後白河法皇を連れて西国へ脱出すべく院御所へ向かう。義経は自ら数騎を率いて追撃、院御所門前で義仲を追い払い、後白河法皇の確保に成功する。後白河法皇を連れ出すことを断念した義仲は今井兼平と合流すべく瀬田へ向かった。♠ 瀬田で範頼軍と戦っていた今井兼平は宇治方面での敗報を知り退却、粟津で義仲との合流に成功する。義仲は北陸への脱出をはかるが、これへ範頼の大軍が襲いかかる。義仲軍は奮戦するが次々に討たれ、数騎にまで討ち減らされたところで、遂に義仲が顔面に矢を受けて討ち取られた。今井兼平も義仲を追って自害した(粟津の戦い)。
2023年09月07日
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11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達した。義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟をしていたが、7日になって義仲を除く行家以下の源氏諸将が院御所の警護を始める。頼朝軍入京間近の報に力を得た院周辺では、融和派が逼塞し主戦派が台頭していた。⦿ 『愚管抄』によると、北面下臈の平知康・大江公朝が「頼朝軍が上洛すれば義仲など恐れるに足りない」と進言したという。特に知康は伊勢大神宮の託宣を受けたと称するなど(『吉記』11月15日条)、主戦派の急先鋒だった。⦿ 8日、院側の武力の中心である行家が、重大な局面にも関わらず平氏追討のため京を離れた。後白河と義仲の間には緊迫した空気が流れ、義仲は義経の手勢が少数であれば入京を認めると妥協案を示した(『玉葉』11月16日条)。⦿ 16日になると、後白河は延暦寺や園城寺の協力をとりつけて僧兵や石投の浮浪民などをかき集め、堀や柵をめぐらせ法住寺殿の武装化を進めた。摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長らが味方となり、圧倒的優位に立ったと判断した後白河は義仲に対して最後通牒を行う。⦿ その内容は「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず義仲一身の資格で行え。⦿ もし京都に逗留するのなら、謀反と認める」という、義仲に弁解の余地を与えない厳しいものだった(『玉葉』11月17日条、『吉記』『百錬抄』11月18日条)。⦿ これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。⦿ 兼実は「義仲の申状は穏便なものであり、院中の御用心は法に過ぎ、王者の行いではない」としている(『玉葉』11月18日条)。⦿ 義仲の返答に後白河がどう対応したのかは定かでないが、17日夜に八条院、18日に上西門院、亮子内親王が法住寺殿を去り、北陸宮も逐電、入れ替わるように後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主・明雲が御所に入っており、義仲への武力攻撃の決意を固めたと思われる。⦿ 襲撃⦿ 19日午の刻(午後0時頃)、兼実は黒煙を天に見た。申の刻(午後4時頃)になって入った情報は「官軍悉く敗績し、法皇を取り奉り了んぬ。義仲の士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五条東洞院の摂政亭に渡し奉り了んぬ」というもので、兼実は「夢か夢にあらざるか。⦿ 魂魄退散し、万事覚えず」と仰天した。この戦いで、明雲、円恵法親王、源光長・光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死した。⦿ 『吉記』は「後に聞く」として「御所の四面、皆悉く放火、其の煙偏に御所中に充満。万人迷惑、義仲軍所々より破り入り、敵対するあたわず。法皇御輿に駕し、東を指して臨幸。参会の公卿十余人、或いは馬に鞍し、或いは匍這う四方へ逃走。雲客以下其の数を知らず。女房等多く以て裸形」と戦場の混乱を記している。⦿ 記主の吉田経房は「筆端及び難し」と言葉を濁しているが、慈円は『愚管抄』に明雲・円恵法親王について詳細に記している。兼実は「未だ貴種高僧のかくの如き難に遭ふを聞かず」(『玉葉』11月22日条)と慨嘆した。⦿ 院御所の襲撃は平治の乱の前例があるが、藤原信頼の目的はあくまで信西一派の捕縛だった。⦿ 今回の襲撃は法皇自らが戦意を持って兵を集め、義仲もまた法皇を攻撃対象とし、院を守護する官軍が武士により完膚なきまでに叩き潰されたと言う点でかつてないものであり、およそ40年後の承久の乱に先駆けるものであった。⦿ 戦後⦿ 11月20日、五条河原で源光長以下百余の首がさらされ、義仲軍は勝ち鬨の声を挙げた(『百錬抄」同日条、『吉記』は21日とする)。⦿ 21日、義仲は松殿基房と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」(『玉葉』同日条)と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。基房は師家の摂政就任を後白河に懇願して断られた経緯があり(『玉葉』8月2日条)、娘の伊子を義仲に嫁がせて復権を狙っていた。⦿ 28日、新摂政・師家が下文を出し、前摂政・基通の家領八十余所を義仲に与えることが決定された。⦿ これについて兼実は「狂乱の世なり」としている(『玉葉』同日条)。同日、中納言・藤原朝方以下43人が解官された(『吉記』『百錬抄』同日条、『玉葉』29日条)。
2023年09月07日
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治安回復の遅れ⦿ 義仲に期待された役割は、平氏追討よりもむしろ京中の治安回復だったが、9月になると略奪が横行する。「凡そ近日の天下武士の外、一日存命の計略無し。仍つて上下多く片山田舎等に逃げ去ると云々。四方皆塞がり、畿内近辺の人領、併しながら刈り取られ了んぬ。段歩残らず。又京中の片山及び神社仏寺、人屋在家、悉く以て追捕す。⦿ その外適々不慮の前途を遂ぐる所の庄上の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪ひ取り了んぬ」(『玉葉』9月3日条)という有様で、治安は悪化の一途を辿った。⦿ 『平家物語』には狼藉停止の命令に対して、「都の守護に任じる者が馬の一疋を飼って乗らないはずがない。青田を刈って馬草にすることをいちいち咎めることもあるまい。兵粮米が無ければ、若い者が片隅で徴発することのどこが悪いのだ。大臣家や宮の御所に押し入ったわけではないぞ」と義仲の開き直りとも取れる発言が記されている。⦿ 『平家物語』はこの発言を法住寺合戦の直前とする。⦿ たまりかねた後白河は19日に義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」(『玉葉』9月21日条)と責めた。⦿ 立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、後白河は自ら剣を与え出陣させた。義仲にすれば、失った信用の回復や兵糧の確保のために、なんとしてでも戦果を挙げなければならなかった。⦿ 頼朝の申請⦿ 義仲の出陣と入れ替わるように、関東に派遣されていた使者・中原康定が帰京する。康定が伝えた頼朝の申状は、「平家横領の神社仏寺領の本社への返還」「平家横領の院宮諸家領の本主への返還」「降伏者は斬罪にしない」と言うもので、「一々の申状、義仲等に斉しからず」(『玉葉』10月2日条)と朝廷を大いに喜ばせるものであった。⦿ その一方で頼朝は、志田義広が上洛したこと、義仲が平氏追討をせず国政を混乱させていることを理由に、義仲に勧賞を与えたことを「太だ謂はれなし」と抗議した(『玉葉』10月9日条)。⦿ 10月9日、後白河は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える(『百錬抄』)。ただし、後白河は北陸道を宣旨の対象地域から除き、上野・信濃も義仲の勢力圏と認めて、頼朝に義仲との和平を命じた(『玉葉』10月23日条)。⦿ 高階泰経が「頼朝は恐るべしと雖も遠境にあり。⦿ 義仲は当時京にあり」(『玉葉』閏10月13日条)と語るように、京都が義仲の軍事制圧下にある状況で義仲の功績を全て否定することは不可能だった。頼朝はこの和平案を後白河の日和見的態度と見て、中原康定に「天下は君の乱さしめ給ふ(天下の混乱は法皇の責任だ)」と脅しをかけ(『玉葉』10月24日条)、義仲の完全な排除を求めて譲らなかった。⦿ 義仲の帰京⦿ 一方、義仲は西国で苦戦を続けていた。閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗し、有力武将の矢田義清を失う。⦿ 戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった(『玉葉』閏10月17日条)。⦿ 義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏10月15日に少数の軍勢で帰京する。義仲入洛の報に人々の動揺は大きく「院中の男女、上下周章極み無し。⦿ 恰も戦場に交るが如し」(『玉葉』閏10月14日条)であったという。後白河と頼朝の橋渡しに奔走していた平頼盛はすでに逃亡しており(『百錬抄』『玉葉』10月20日条)、親鎌倉派の一条能保・持明院基家も相次いで鎌倉に亡命した。⦿ 義仲の帰京に慌てた院の周辺では、義仲を宥めようという動きが見られた。⦿ 藤原範季は「義仲は、法皇が頼朝と手を結んで自分を殺そうとしているのではないかと疑念を抱いている。義仲の疑念を晴らすため、また平氏追討のために法皇は播磨国に臨幸すべきである」という案を出す(『玉葉』閏10月18日条)。高階泰経・静憲も賛同するが、この案が実行に移されることはなかった。⦿ 20日、義仲は君を怨み奉る事二ヶ条として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議をした(『玉葉』同日条)。⦿ 義仲は、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給(『玉葉』閏10月21日条)、志田義広の平氏追討使への起用を要求するが、後白河が認めるはずもなかった。⦿ 義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では後白河を奉じて関東に出陣するという案が飛び出し(『玉葉』閏10月20日条)、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された(『玉葉』閏10月26日条)。⦿ しかし、前者は行家、源光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった(『玉葉』閏10月27日条)。⦿ 決裂
2023年09月07日
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12「義仲の滅亡」頼朝は、寿永二年十月宣旨に基づく東国の年貢の納入を実行すると称して源義経らを上洛させた。この情報を聞いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏10月15日に帰京する。義経軍は11月初めには近江まで到達し、味方の離反もあり孤立感を深めていった義仲は、11月19日、法住寺殿を襲撃して後白河法皇を幽閉し、松殿師家を摂政とする傀儡政権を樹立する(法住寺合戦)。法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデターである。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。平氏都落ち.寿永2年(1183年)7月に入ると、義仲・行家軍が入京の可能性が現実味を帯び、7月25日に安徳天皇が後白河法皇の御所がある法住寺殿に行幸することとなった。ところが、後白河自身はその日のうちに比叡山に避難してしまった。これを知った内大臣平宗盛は京都脱出を決意、平清経・時忠に命じて天皇及び摂政近衛基通、剣璽を京都から連れ出すように命じた。天皇と剣璽は六波羅で平氏一門と合流してその日のうちに西国へと落ちていったが、基通は途中で離脱して知足院に隠棲していた平信範(時忠の叔父)の下に逃れた。平氏以外の公卿のほとんどが、臨時に法皇御所となった比叡山の円融房に参集し、26日には対策会議が開かれた。後白河は平氏追討の意向を示したが、天皇と剣璽の返還を優先すべきとする公卿もおり、とりあえず和戦両面を模索することとなり、平氏勢力の撤退が確認された27日になって後白河は法住寺殿に帰還した。平氏追討7月28日、都落ちした平氏一門に代わって、義仲・行家軍が入京する。この日の議定では平氏追討を主張する意見と平氏との和平交渉による天皇と剣璽の奪還を図るべきとする意見に割れた(『吉記』同日条)が、この日後白河は義仲・行家に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。30日、藤原経宗・九条兼実・三条実房・中山忠親・藤原長方が大事を議定するために召集される(『玉葉』同日条)。議題は平氏追討の勧賞・京中の狼藉・関東北陸荘園への使者派遣についてだった。 勧賞は第一・頼朝、第二・義仲、第三・行家という順位が決まり、それぞれに任国と位階が与えられることになった。京中の狼藉は、これまで警察権を掌握していた平氏が7月25日にいなくなり、食糧難の中で大軍が入京したことにより、深刻なものとなっていた。『吉記』には、7月26日には「比叡山の僧兵が降りて来た。市内の放火略奪が発生した」とある。治安回復・狼藉の取り締まりは、義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した。『吉記』7月30日条によると、京中守護の武将と担当地域は以下の通りである。荘園への使者下向は出席者全員が賛成した。院殿上除目議定の席上、経宗は院殿上で除目を行うことを提案した。しかし、除目は天皇の権限に属すると他の出席者が反対したため、経宗は発言を撤回した。8月6日、後白河は平氏一門・党類200余人を解官すると(『百錬抄』同日条、『玉葉』8月9日条)、天皇不在の中で院殿上除目を強行し、10日、義仲を従五位下・左馬頭・越後守、行家を従五位下・備後守に任じた。16日には平氏の占めていた30余国の受領の除目が行われる。結果は院近臣勢力の露骨な拡大であり、兼実は「任人の体、殆ど物狂と謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」(『玉葉』8月16日条)と憤慨している。16日の除目で、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った(『百錬抄』8月16日条)。伊予守は四位上臈の任じられる受領の最高峰とも言える地位であり、この時点では後白河も義仲を相応に評価していたと見られる。天皇擁立を巡る紛糾[編集]後白河は時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』8月12日条)。やむを得ず、都に残っている高倉上皇の皇子2人の中から新天皇を擁立することを決めるが、ここで義仲は突如として以仁王の子息・北陸宮の即位を主張する。兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯だった。後白河は義仲の異議を抑えるために御卜を行い、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が最吉となった。義仲は「故三条宮の至孝を思し食さざる条、太だ以て遺恨」(『玉葉』8月20日条)と不満を表明するが、20日、後鳥羽天皇が践祚する。剣璽のない異例の践祚だったが、経宗が次第を作成して儀式は無事に執り行われた。後白河は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領140余箇所を与えている(『平家物語』)。
2023年09月07日
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12「義仲の滅亡」頼朝は、寿永二年十月宣旨に基づく東国の年貢の納入を実行すると称して源義経らを上洛させた。この情報を聞いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、閏10月15日に帰京する。義経軍は11月初めには近江まで到達し、味方の離反もあり孤立感を深めていった義仲は、11月19日、法住寺殿を襲撃して後白河法皇を幽閉し、松殿師家を摂政とする傀儡政権を樹立する(法住寺合戦)。⦿ 法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)は、寿永2年11月19日(1184年1月3日)、木曾義仲が院御所・法住寺殿を襲撃して北面武士および僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉、政権を掌握した軍事クーデターである。平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。⦿ 平氏都落ち[編集]⦿ 寿永2年(1183年)7月に入ると、義仲・行家軍が入京の可能性が現実味を帯び、7月25日に安徳天皇が後白河法皇の御所がある法住寺殿に行幸することとなった。⦿ ところが、後白河自身はその日のうちに比叡山に避難してしまった。これを知った内大臣平宗盛は京都脱出を決意、平清経・時忠に命じて天皇及び摂政近衛基通、剣璽を京都から連れ出すように命じた。⦿ 天皇と剣璽は六波羅で平氏一門と合流してその日のうちに西国へと落ちていったが、基通は途中で離脱して知足院に隠棲していた平信範(時忠の叔父)の下に逃れた。⦿ 平氏以外の公卿のほとんどが、臨時に法皇御所となった比叡山の円融房に参集し、26日には対策会議が開かれた。後白河は平氏追討の意向を示したが、天皇と剣璽の返還を優先すべきとする公卿もおり、とりあえず和戦両面を模索することとなり、平氏勢力の撤退が確認された27日になって後白河は法住寺殿に帰還した。⦿ 平氏追討⦿ 7月28日、都落ちした平氏一門に代わって、義仲・行家軍が入京する。この日の議定では平氏追討を主張する意見と平氏との和平交渉による天皇と剣璽の奪還を図るべきとする意見に割れた(『吉記』同日条)が、この日後白河は義仲・行家に平氏追討宣旨を下すと同時に、院庁庁官・中原康定を関東に派遣した。⦿ 30日、藤原経宗・九条兼実・三条実房・中山忠親・藤原長方が大事を議定するために召集される(『玉葉』同日条)。⦿ 議題は平氏追討の勧賞・京中の狼藉・関東北陸荘園への使者派遣についてだった。 勧賞は第一・頼朝、第二・義仲、第三・行家という順位が決まり、それぞれに任国と位階が与えられることになった。⦿ 京中の狼藉は、これまで警察権を掌握していた平氏が7月25日にいなくなり、食糧難の中で大軍が入京したことにより、深刻なものとなっていた。『吉記』には、7月26日には「比叡山の僧兵が降りて来た。市内の放火略奪が発生した」とある。治安回復・狼藉の取り締まりは、義仲に委ねられることになる。義仲は入京した同盟軍の武将を周辺に配置して、自らは中心地である九重(左京)の守護を担当した。『吉記』7月30日条によると、京中守護の武将と担当地域は以下の通りである。⦿ 荘園への使者下向は出席者全員が賛成した。⦿ 院殿上除目⦿ 議定の席上、経宗は院殿上で除目を行うことを提案した。しかし、除目は天皇の権限に属すると他の出席者が反対したため、経宗は発言を撤回した。⦿ 8月6日、後白河は平氏一門・党類200余人を解官すると(『百錬抄』同日条、『玉葉』8月9日条)、天皇不在の中で院殿上除目を強行し、10日、義仲を従五位下・左馬頭・越後守、行家を従五位下・備後守に任じた。⦿ 16日には平氏の占めていた30余国の受領の除目が行われる。結果は院近臣勢力の露骨な拡大であり、兼実は「任人の体、殆ど物狂と謂ふべし。悲しむべし悲しむべし」(『玉葉』8月16日条)と憤慨している。⦿ 16日の除目で、義仲は伊予守、行家は備前守に遷った(『百錬抄』8月16日条)。⦿ 伊予守は四位上臈の任じられる受領の最高峰とも言える地位であり、この時点では後白河も義仲を相応に評価していたと見られる。⦿ 天皇擁立を巡る紛糾[編集]⦿ 後白河は時忠ら堂上平氏の官職は解かずに天皇・神器の返還を求めたが、交渉は不調に終わる(『玉葉』8月12日条)。⦿ やむを得ず、都に残っている高倉上皇の皇子2人の中から新天皇を擁立することを決めるが、ここで義仲は突如として以仁王の子息・北陸宮の即位を主張する。⦿ 兼実が「王者の沙汰に至りては、人臣の最にあらず」(『玉葉』8月14日条)と言うように、この介入は治天の君の権限の侵犯だった。⦿ 後白河は義仲の異議を抑えるために御卜を行い、四宮(尊成親王、後の後鳥羽天皇)が最吉となった。義仲は「故三条宮の至孝を思し食さざる条、太だ以て遺恨」(『玉葉』8月20日条)と不満を表明するが、20日、後鳥羽天皇が践祚する。剣璽のない異例の践祚だったが、経宗が次第を作成して儀式は無事に執り行われた。⦿ 後白河は義仲の傲慢な態度に憤っていたと思われるが、平氏追討のためには義仲の武力に頼らざるを得ず、義仲に平家没官領140余箇所を与えている(『平家物語』)。
2023年09月07日
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挙兵の意義・評価% 前述したとおり、本宣旨の意義をめぐってその評価は分かれている。% 本宣旨を積極的に評価する立場には、佐藤進一・石母田正・石井進らがいる。佐藤は、本宣旨により頼朝は既存の国家権力である朝廷から公権(東国行政権 = 国衙在庁指揮権)を付与され、この公的権力との接触により一つの国家的存在、すなわち東国国家 = 鎌倉幕府が成立したとする。ここに、本宣旨が鎌倉幕府成立の重要な画期として位置づけられることとなった。石母田は、幕府が大きな権限を得たことを認めている。石井進は、本宣旨は頼朝に大きな行政権を与えたのであり、その実質上の効果は極めて大きかったとしている。% これに対し石井良助は、荘園公領を本主・国司へ返還させることが宣旨の主目的だったと唱えた。佐藤は、自身に利益のない宣旨を頼朝が施行するはずがないとして、石井良助の論に反駁した。% 上横手雅敬は、一時的に東国を失った朝廷(公家政権)が本宣旨によって東国を回復したのであり、独立した権力を構築しつつあった東国政権は朝廷に併合され、その権力を大きく後退させたとし、本宣旨は朝廷による東国政権併合条約だったとみる。% 上横手は、本宣旨によって、東国政権 = 鎌倉幕府が朝廷へ軍事的奉仕するという体制が構築され、同じく朝廷に軍事的奉仕する義仲に優越するため、頼朝は源氏嫡宗の地位の公認を得ようとしていたのだとしている。% 元木泰雄は、頼朝の実効支配地は南関東周辺のみであり、宣旨の効力はさほど発揮されなかったとする。% 頼朝が本宣旨で目的としたのは、東国支配権の確立よりも、義仲に優越して京武者や地域的軍事権力の担い手を組織化することだったとしている。% 河内祥輔は東国独立論の存在を否定(平広常の個人的意見でしかないと)する立場から、頼朝の立場を平家政権の支配からの独立とそれに代わる朝廷との関係構築を求めて、一貫して後白河法皇との直接交渉を望んだ点を重視する。以仁王の令旨の文中に王自らの即位について触れているために、京都では以仁王の挙兵が後白河-高倉系統からの皇位簒奪のための謀叛行為と受け取られていることを知り、以仁王の令旨に代わる挙兵の正当性を朝廷に求め、同時に令旨を正当とみなしている義仲がいずれ朝廷と対立することを予想して、3カ条の回答で皇位継承を含めた現状の朝廷秩序を支持するとともに暗に義仲討伐の許可を求めたとする。% このように、本宣旨に関する評価は必ずしも一定しておらず、鎌倉幕府の成立史上における重要な画期とする一般的な理解に対しても、異論が唱えられている。% 21世紀に入ってからは新たな視点からの議論が展開しつつある。% 近藤成一は、従来の議論は国家権力が単一であることを前提としているが、その前提を捨てて、国家権力の並存・対立を視野に入れるならば、鎌倉幕府の成立は朝廷から権限を受権したか否かに必ずしも関係しないとした.% 本郷和人は、頼朝は本宣旨によって権限や優越的地位を得たのではなく、既に実力で獲得していたものに宣旨の追認を受けたのではないかとしている。また平治の乱以降流刑者という身分であった頼朝は、以前帯びていた従五位下の位階に復して流刑者の身分から脱する。頼朝は、既に実質的に東国を支配していたが、この宣旨発給は、頼朝が東国支配権を政府に公認され、その正統性を獲得したことを意味する。また、今まで反乱軍とみなされていた頼朝とその支持者たちの軍勢は反乱者とはみなされなくなった。
2023年09月07日
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この時点において、義仲の権威と名声は頼朝のそれをはるかに上回っていたのである。平氏家人打倒を共通の目的として頼朝麾下に集結した関東武士団連合も、本来的には所領をめぐり潜在的な対立関係にあったのであり、敵対勢力の排除や淘汰にともなって徐々に結合が弱まり始めていた。% 元木泰雄は、こうした中で義仲が目覚しい活躍をみせたことは、頼朝政権が崩壊する可能性さえもたらしかねなかったとする。% 上記の状況下において、頼朝は政治的な窮地に立たされ、危機感を強く抱いた。上横手は、頼朝の対朝廷外交の主眼は、頼朝が源氏の嫡宗であること、そして唯一の武家棟梁であることの2点を朝廷に公認させることだったと指摘している。7月末に頼朝が勲功第一と評定されたことはその外交方針による成果だといえるが、その後の状況は、義仲に優越しようとする頼朝外交があえなく失敗したことを物語っている。% ここで頼朝政権内部の状況にも目を向けると、平広常ら有力関東武士層には東国独立論が根強く存在しており、頼朝を中心とする朝廷との協調路線との矛盾が潜在していた。% 前者は以仁王の令旨を東国国家のよりどころとしようとし、後者は朝廷との連携あるいは朝廷傘下に入ることで東国政権の形成を図る立場であった。この2路線の相克が、爾後、頼朝政権が退勢を挽回する上で重要となってくる。% 物資の確保を狙う朝廷側(後白河院)と、義仲に優越する必要に迫られていた頼朝側との間で、9月ごろから交渉が開始した。まず後白河院から頼朝へ何らかの要請がなされたとされるが、その内容を明らかにする史料は残されていない。後白河院からの要請に対して、頼朝は3か条からなる回答を示している。1点目は神社仏寺へ勧賞を行うこと、2点目は院宮王臣家以下の荘園を本所の領有に復帰させること、3点目は斬罪の寛刑特令を発布すること、であった(『玉葉』十月四日条)。% 佐藤進一は、後白河院の真の狙いは国衙支配の回復であったろうが、頼朝の回答は荘園領有権の回復に言及しているのみであり、国衙支配の回復には触れていないことから、国衙支配の回復が重要な外交カードになっていたと指摘する。% また、佐藤は、寛刑特令発布について、義仲による平氏残党掃討を牽制する意図があったと考えている[1]。% 10月中旬に至って交渉は妥結した。朝廷から下されたその宣旨は、東海・東山両道の荘園・公領の領有権を回復させることと、それに不服の者については頼朝へ連絡し「沙汰」させる、という2つの内容を有していた(詳細は上記「内容」節を参照)。前段は朝廷側の要求の実現であり、後段は頼朝側の要請が承認されたものと解されている。% 後段に現れる「沙汰」の意味するところについては様々な議論があるが、佐藤進一が提示した「国衙在庁指揮権」とする見解が有力である。佐藤は、朝廷が求めていた東国における国衙支配の回復が宣旨の前段にて示されたことは、頼朝の譲歩だといえるが、後段において実質的な国衙在庁指揮権が頼朝の権利として公認されたのだとした[6]。% 頼朝は、義仲に対する優越を確実にするため、宣旨の対象地域に北陸道を加えるよう朝廷へ要請していた。% 折りしも義仲は西走した平氏追討のため、10月初頭から播磨へ出陣しており、京に不在であったが、義仲を恐れた朝廷は北陸道を宣旨から除外した。山本幸司は、この点に頼朝と義仲を両天秤にかける後白河院の政治的意図があったとする。% これに対して河内祥輔は3ヵ条の回答の冒頭に京攻めについて神仏の功徳のみを述べて義仲の功績を全否定していることを挙げ、頼朝の要請した対象地域には現在義仲が軍事的に占領している全地域すなわち京都を含めた畿内一帯も含まれていたが、北陸道の除外によって畿内も当然除外されたとする。% 宣旨の発布を知った義仲は激しく怒り、後白河院に対し「生涯の遺恨」とまで言うほどの強い抗議を行っている(『玉葉』閏十月二十日条)。% 宣旨の発布と同時に、頼朝は配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に叙せられ、謀叛人の立場から脱却した。元木泰雄は、この時点で頼朝は王権擁護者の地位を得たとし、宣旨による頼朝の最大の成果は、東国行政権というよりも王権擁護者の地位だったとの見解を示している。本宣旨を獲得したことにより、頼朝政権は対朝廷協調路線の度合いを強めた。それまで頼朝は、朝廷が使用していた寿永年号を拒み、治承年号を使用し続けていたが、宣旨発布の前後から寿永年号を使用し始めている。% その一方で、幕府内の東国独立論は大きく後退していった。東国独立論を強く主張していた平広常が同年12月に暗殺されたことは、頼朝政権の路線確定を表すものと考えられている。% 頼朝は宣旨施行のためと称して、源義経・源範頼ら率いる軍を京方面へ派遣した。軍は11月中旬までに伊勢へ到達している。
2023年09月07日
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11「寿永二年十月宣旨」詳細は「寿永二年十月宣旨」を参照義仲が出陣して不在の間に後白河法皇は頼朝に使者を送った。頼朝は法皇から上洛を催促されたが、鎌倉に留まって逆に法皇へ東海道・東山道・北陸道の国衙領・荘園をもとのように、国司・本所へ返還させる内容の宣旨発布を要請する。その結果、法皇は義仲への配慮のため北陸道は除いたが、ほぼ上記の内容を認める寿永二年十月宣旨を頼朝へ発して東海道・東山道の荘園・国衙領を元の通り領家に従わせる権限(沙汰権)が頼朝に認められた。% 寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)は、寿永2年(1183年)10月に朝廷から源頼朝に下された宣旨。頼朝に対して、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認したものとされる。寿永の宣旨とも。% この宣旨の原文を正確に伝えた史料は現存しないが、『百練抄』および『玉葉』がその要旨を今日に伝えている。% 十月十四日、東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の庄園、元の如く領家に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝の申し行いに依るところ也。% — 『百錬抄』寿永二年十月十四日条% 一方、『玉葉』にはより詳細な内容が記録されている。 寿永二年閏十月十三日条には小槻隆職からの伝聞として、次のように記されている。% 東海・東山・北陸三道の庄園・国領、本の如く領知すべきの由、宣言せらるべきの旨、頼朝申し請う。よって宣旨の下さるのところ、北陸道ばかり義仲を恐れるにより、その宣旨をなされず。頼朝これを聞かば、定めて鬱を結ぶか。甚だ不便の事なり% — 『玉葉』寿永二年閏十月十三日条% さらに同月二十二日条には次のようにある。% また聞く。頼朝の使い、伊勢国に来しといえども謀反の儀にあらず。先日の宣旨に云う『東海・東山道等の庄土、服さざるの輩あらば、頼朝に触れて沙汰を致すべしと云々』。よってその宣旨を施行せんがため、かつ国中に仰知せしめんがため、使者を遣わすところ也と云々% — 『玉葉』寿永二年閏十月二十二日条% また、延慶本『平家物語』巻8に宣旨原文と思われる箇所が残っている。% 上記史料を総合すると、本宣旨は、% 東国における荘園・公領の領有権を旧来の荘園領主・国衙へ回復させることを命じる。% その回復を実現するため源頼朝の東国行政権を承認する% という2つの内容から構成されている。これについて佐藤進一は、前段の荘園公領回復令が本宣旨の主文であり、後段の頼朝への東国行政権委任令が付則の形態をとったであろうと推定している。% このうち、特に後段の東国行政権の公認をめぐっては、鎌倉幕府成立の画期として積極的に評価する説と、独立した東国政権が朝廷へ併合されたのは後退であるとして消極的な評価を与える説とが対立している。(本宣旨に対する評価の詳細については、後述意義・評価節を参照)。また、本宣旨が対象とする地域範囲についても、佐藤進一や石井進らが東海道・東山道全域とするのに対し、上横手雅敬は遠江・信濃以東の13カ国に限定されていたとする。% 背景・経緯% 寿永2年(1183年)7月、北陸道での敗戦により平氏が京を脱出すると、直後に源義仲軍が入京した。% この時点で京の朝廷が直面した課題は、官物・年貢の確保であった。西走した平氏は瀬戸内海の制海権を握り、山陽道・四国・九州を掌握していたため、西国からの年貢運上は期待できなかった。% また東国も、美濃以東の東海・東山道は源頼朝政権の勢力下におさめられ、北陸道は源義仲の支配下にあった。% これら地域の荘園・公領は頼朝あるいは義仲に押領されていたため、同じく年貢運上は見込めなかった。さらに義仲は入京直後、山陰道へ派兵して同地域の掌握を図っていた。% 8月・9月という収穫期を目前としながら、諸国の荘園・公領から朝廷・諸権門への年貢運上はほとんど見込めない状況にあったのである。% さらに、入京した源義仲軍が、京中および京周辺で略奪・押領をおこなっていた[2]ことも併せて、京の物資・食料は欠乏の一途をたどり朝廷政治の機能不全が生じ始めていた。(『玉葉』寿永二年九月三日条)一方、源頼朝も大きな課題に対面していた。源義仲の入京直後に行われた朝廷の論功行賞では、頼朝による政治交渉が功を奏し、勲功第一は頼朝、第二が義仲、第三が源行家とされた(『玉葉』七月三十日条)が、義仲が受領(従五位下左馬頭・越後守)任官を果たした(『玉葉』八月十日条)のに対し、頼朝には本来の官位復帰すら与えられず、謀叛人の身分のままとされた。% さかのぼって同年前半、常陸の源義広が反頼朝の兵を挙げ、同国の大掾氏や下野の藤姓足利氏(足利忠綱)らがそれに同調する動きを見せたが、頼朝はこの反乱を鎮圧したものの、北関東の情勢は頼朝にとって非常に不安定な状態に陥っていた。% その後、源義広は義仲との連携を選び、ほどなく源行家も義仲と結ぶようになる。そして夏になり、義仲軍が北陸で平氏軍に相次いで勝利し、以仁王遺児の北陸宮を奉じて上洛を果たすと、近江源氏(山本義経)、美濃源氏(山田重澄)らのみならず、頼朝と連携を結び遠江にいた甲斐源氏の安田義定も義仲のもとへ続々と合流していった。
2023年09月07日
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10「義仲の上洛」飢饉が小康状態となった寿永2年(1183年)4月、平氏は北陸の反乱勢力を討つために、平維盛・平通盛率いる大軍を派遣する。平氏軍は越前・加賀の反乱勢力を撃破するが、5月に加賀・越中国境の倶利伽羅峠で義仲軍に敗北する(倶利伽羅峠の戦い)。> 倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、倶梨伽羅峠の戦い)、または、砺波山の戦い(となみやまのたたかい、礪波山の戦い)は、平安時代末期の寿永2年(1183年6月2日)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。治承・寿永の乱における戦いの一つ。> 治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181年)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げた。寿永2年(1183年)4月、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。> 平家軍は越前国の火打城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされる。> だが5月9日明け方、加賀国より軍を進め般若野(はんにゃの、現・富山県高岡市南部から砺波市東部)の地で兵を休めていた平氏軍先遣隊平盛俊の軍が、木曾義仲軍の先遣隊である義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲されて戦況不利に陥り、平盛俊軍は退却してしまった(般若野の戦い)。> 一旦後退した平家軍は、能登国志雄山(志保山とも。現・宝達山から北に望む一帯の山々)に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷いた。> 5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向け牽制させ、義仲本隊は砺波山へ向かう。義仲は昼間はさしたる合戦もなく過ごして平家軍の油断を誘い、今井兼平の兄で義仲四天王のもう一人・樋口兼光の一隊をひそかに平家軍の背後に回りこませた。> 平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は樋口兼光に押さえられていた。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとするが、そこは倶利伽羅峠の断崖だった。> 平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅した。平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰った。> この戦いに大勝した源義仲は京へ向けて進撃を開始し、同年7月に遂に念願の上洛を果たす。大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びた。> 『源平盛衰記』には、この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。> しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものである。 7月には義仲軍は延暦寺まで到達した。多田行綱は摂津・河内を占拠して平氏の補給路を遮断、遠江の安田義定も東海道を進撃して京都に迫った。京都の防衛を断念した平宗盛は、安徳天皇や三種の神器を保持しながら都落ちして西国に逃れていく。この時、後白河法皇は比叡山に脱出して都落ちに同行しなかったため、安徳天皇奉じる平氏の正統性は弱まることになった。義仲軍は上洛を果たすが、期待された都の治安維持はうまく機能せず、しかも前年の飢饉の影響により義仲軍を養う食糧が不足して、市中で略奪や狼藉が横行する。また、天皇不在となってしまった都では安徳天皇に代わる天皇が必要となっていた。義仲はそれまでみずからが奉じてきた北陸宮の即位を強硬に主張し、高倉上皇の皇子のうちの誰かを即位させる存念であった後白河法皇や公卿達の反感を買った。このようなことから義仲の評判は落ちて、頼朝の上洛を願う声が高まっていく。結局、義仲の北陸宮擁立は失敗し、高倉上皇の第四皇子の尊成親王(後鳥羽天皇)が位についた。このことにより同時に二人の天皇が存在するという異常状態が発生した。同年9月、後白河法皇の命により義仲軍は平氏追討のため山陽道へ出立したが、閏10月に備中水島で平重衡率いる平氏軍に大敗する(水島の戦い)。
2023年09月07日
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源頼朝無関係説X 野木宮合戦には源頼朝の弟で後の平家討伐で重要な役割を果たす源範頼が初めて登場するが、この戦いでは門葉かつ頼朝の弟でありながら、一介の将としての参加でかつ兄の頼朝から出陣の命を受けた形跡すらない。X また、京都もしくは遠江で育ったとみられる範頼がいつ頼朝の麾下に参じたかに関する記録も存在しない。X これについて、近年になって菱沼一憲はこの当時小山氏・下河辺氏・八田氏らが擁していたのは頼朝ではなく範頼で、野木宮合戦は源範頼と志田義広による北関東における勢力拡大を巡る私戦に過ぎず、鎌倉の頼朝はこの戦いとは無関係であったとする説を提示した(なお、菱沼は野木宮合戦は治承5年(1181年)説を取る)。X 菱沼はその理由として範頼の養父である藤原範季は下野国の受領を務めており範頼が根拠地とする基盤が存在したこと、小山朝政の父である政光が在京しており頼朝の挙兵に直ちに加われる環境になかったこと(頼朝の下には弟の結城朝光らを派遣している)、一方志田義広が鎌倉を攻める意思を持っていれば小山方面に進むのは遠回りであること、頼朝から義広討伐を命じられたとされる関政平が途中で志田側についた不自然さなどをあげ、義広の標的は最初から小山であり、小山朝政も志田義広に対抗できる源氏の貴種として鎌倉の頼朝ではなく、下野に下っていた弟の範頼を擁した結果、志田義広と源範頼の間で軍事衝突に至ったとする。X その後、寿永元年(1182年)までに範頼・小山氏らはいずれも頼朝勢力と合流しているが、後に範頼は誅殺された(なお、菱沼は範頼が誅殺された原因を、頼朝が曾我兄弟の仇討ち直後に発生した常陸国内の混乱から、野木宮合戦を通じて同国に影響力を持った範頼の関与を疑ったとする)。X ところが、小山氏にとって当初は範頼を擁していた事実や私戦としての要素は、裏を返せば頼朝の幕府創設への貢献を訴える点では弱点になる。X そこで『吾妻鏡』編纂時に小山氏が頼朝のために志田義広を討伐したという主張を載せた史料を提示して小山氏が範頼を擁していた事実を隠し、幕府側はその史料を元に野木宮合戦が頼朝による北関東平定の話へと書き換えたとしている。X 菱沼はさらに著書『源頼朝』(戎光祥出版)において、この合戦の本質は下河辺荘水系などをめぐる利権争いに周辺豪族がそれぞれ連帯しておきた争いで、志田義広らに鎌倉を攻める意図はなかったと延べている。X また野木宮は一連の合戦の北の端に起きた戦闘の一つに過ぎず、主要な戦地は下河辺荘一円にあったとしている。 また背後に奥州藤原氏や金砂城合戦後も常陸に勢力を残す佐竹氏の脅威を抱えていた。そのような中で御家人に対して本領安堵、新恩給付といった所領の保証を行い主従関係を強固にすると共に頼朝は自らが有する都との人脈を通じて朝廷との接触や交渉を行って徐々に坂東における優位を獲得していく。一方治承5年(1181年)6月、木曾義仲は横田河原の戦いで城助職を破り、信濃から越後を席巻した。一時は上野まで進んだがその後北陸方面へ転進し、後に越前若狭などで挙兵した北陸の在地勢力と結ぶこととなる。その後、義仲を頼って来た以仁王の子(北陸宮)を推戴し、北陸における優位を確立する。 この時期の東日本は奥州は奥州藤原氏の勢力下にあり、南坂東は源頼朝、越後と北坂東信濃の一部は源義仲、甲斐駿河遠江と信濃の一部を甲斐源氏が割拠するという状況になった。戦乱の膠着治承5年(1181年)都では「養和」と改元されたが、頼朝ら反平氏勢力はこれを認めずに「治承」の元号を用いた。この年から翌年にかけて養和の飢饉という大飢饉が起きたことに加え、平氏政権は安徳天皇の大嘗祭の実施(11月24日)を優先していた。一方『玉葉』養和元年(1181年)8月1日条には、後白河法皇に頼朝から密使が送られ、平氏との和平を提案したことが記されている。 畿内を制圧した平氏は北陸や鎮西方面の反乱鎮圧に乗り出し、養和元年(1181年)8月に平通盛・経正を将とする軍を北陸に派遣した。しかし、通盛と経正の連携が上手くいかない上に兵糧不足に悩まされ、反乱を鎮圧することができずに北陸から撤収する。一方で鎮西の反乱勢力に対しては平貞能を派遣し、一年かけてその反乱勢力を降伏させることに成功している。
2023年09月07日
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9「東国の割拠」当時の坂東の武士にとって、最優先事項であったのは在地における各々の権益の確保と拡大にあった。頼朝は、自らの御家人の権利を確保することが求められており、さらには競合勢力とのせめぎあいを常に抱えていた。、実際に頼朝は、志田義広、新田義重、佐竹氏や足利忠綱といった周辺の敵対勢力を排除・屈服させることに非常に尽力している。治承4年(1180年)11月には金砂城の戦い、翌年(実際は寿永2年とも)の足利俊綱との争い、寿永2年(1183年)2月の野木宮合戦、さらに同年3月頃には信濃国近辺で木曾義仲と大軍を率いてにらみ合ったのち和平を結ぶなど、この頃の頼朝は坂東における自らの勢力基盤の確保と拡大に力を注がざるを得ない状況であった。X 野木宮合戦(のぎみやかっせん)は、寿永2年2月23日(1183年3月18日)に、下野国の野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で源頼朝らと志田義広らが争った合戦。X 志田義広は源為義の三男であり、源頼朝の叔父にあたる。治承4年(1180年)に頼朝が平氏打倒の兵を挙げ鎌倉に政権を建てるが、それには加わらず常陸国信太荘(茨城県稲敷市)に居住していた。X 寿永2年(1183年)2月、源頼朝の御家人らは鎌倉に襲来すると風聞された平家に対抗するため駿河国に在った。X 20日、志田義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、30000余騎を率い下野国・野木宮へと到る。X 源頼朝は下河辺行平と小山朝政に対応を託し、小山朝政の弟長沼宗政と従兄弟関政平は、朝政を助けるため鎌倉を発し下野国に向かった。関政平はその途路で志田義広の軍に加わり、源頼朝は翌日から鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈り始める。X 合戦X 23日、志田義広は鎌倉へ軍を発する。まず、志田義広は足利俊綱・忠綱父子を誘い軍に加えた。足利と小山は同族であるが、下野国で勢力を争っており、足利忠綱は治承4年(1180年)の宇治橋での戦い(橋合戦)でも平家に加わり、以仁王や源頼政を破るなど活躍を見せていた。X その後、俊綱父子は平清盛から希望していた恩賞を与えられず、頼政方についてその後木曽義仲を頼った矢田義清との所領(足利荘・簗田御厨など)争いもあったことから、頼朝に臣従した時期もあったが、義清の異母弟足利義兼との対立から頼朝への反抗に転じたとみられる。X 次に志田義広は小山朝政も誘う。朝政は父小山政光が京で勤仕していたため兵が少なく、義広に加わると偽り、野木宮に潜んだ。さらに足利俊綱の異母弟・足利有綱とその子・佐野基綱(忠綱の甥)も秘かに小山朝政の陣営に馳せ参じ、伯父の足利俊綱と従兄弟の足利忠綱らに対して宣戦布告した。X 一方、返答を受けた志田義広は喜んで小山朝政の館に赴き、その途中の野木宮に到ると、朝政らは声を挙げ、義広らを狼狽させる。X 次に朝政の郎従である太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎、小山朝光の郎従である保志泰三郎らが義広を攻めた。この小競り合いで義広は矢を放ち、小山朝政を落馬させる。この馬を戦場に向う途中の登々呂木澤で拾った長沼宗政は、小山朝政が討たれて合戦は敗れたと考え、急ぎ志田義広の陣へ向い、その途路で義広の乳母子である多和利山七太を討つ。X その後、志田義広は野木宮西南に陣を引き、小山朝政と長沼宗政は東から攻めるが、東南からの暴風により巻き上げられた焼野の灰が視界を妨げ、戦いは乱れ、地獄谷登々呂木澤では多くの死骸が残った。X 下河辺行平と弟の下河辺政義は古河と高野を固め、志田軍の敗走兵を討った。足利有綱・佐野基綱父子、浅沼広綱、木村信綱、太田行朝らは、小手差原や小堤に陣を取り戦った。X 他には、八田知家、下妻淸氏、小野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田爲成、湊川景澄、源範頼らが朝政に加わった。なお『吾妻鏡』において範頼はここが初見である。X 戦後X 27日、鶴岡八幡宮での祈祷を終えた源頼朝は、小山朝政らの使者から志田義広の逃亡を聞く。X 翌日には長沼宗政からの報告を受け、志田義広に加わった武士の所領を全て取り上げ、小山朝政や小山朝光らに恩賞を与える。これにより関東において頼朝に敵対する勢力は無くなった。X 足利忠綱は上野国での潜伏を経て、山陰道を通り西海へ赴いた。敗れた志田義広は源義仲の下に加わるが、最期は伊勢国で討たれた。X 合戦の年月日X 『吾妻鏡』はこの戦いを治承5年閏2月23日に記しているが、元久2年8月7日や建久3年9月12日の記事には、寿永2年2月23日に戦って恩賞が与えられたと記されている。この矛盾は吾妻鏡の編集に誤りがあり、実際の戦いは寿永2年2月23日に行われたと解されている。X その一方で寿永2年説を採用すると、義広とともに反抗して追放された藤姓足利氏(俊綱・忠綱父子)の没落に関する記事に新たな矛盾が生じる。X 更に治承5年閏2月23日条には義広が前年の夏に以仁王の令旨を受け取ったことが明記されており、以仁王の乱の翌年に義広が挙兵したと解すれば治承5年の年次は正しいとも解される。X このため、元久2年や建久3年の吾妻鏡の記事の編集の方に誤りがあった(合戦発生の年次と恩賞支給の年次が混同されたなどの)可能性もあり治承5年(=養和元年)閏2月23日の方が正しい日付であるとする説もある。
2023年09月07日
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その中で特に被害の大きかった興福寺・東大寺のうち、東大寺では金堂(大仏殿)・中門・回廊・講堂・東搭・東南院・尊勝院・戒壇院・八幡宮など寺の中枢となる主要建築物の殆どを失い、焼け残ったのは中心からやや離れた高台にある鐘楼・法華堂・二月堂や寺域西端の西大門・転害門およひ正倉院などごく一部であった。R また建物だけでなく、多くの仏像・仏具・経典などがこの兵火によって灰燼に帰した。東大寺の本尊であり、国家鎮護の要であった大仏も甚だしく焼損し、頭部と手は焼け落ちてそれぞれ仏身の前後に転がっていたという。R 東大寺は奈良時代の創建以来、延喜17年(917年)の講堂および僧坊の焼失、承平4年(934年)の落雷による西塔の焼失などの災害に見舞われたことはあったものの、大仏殿をはじめ寺の中枢部を一挙に失うほどの火災は初めてのことであった。R また興福寺でも五重塔と二基の三重塔の他、中金堂・東金堂・西金堂・講堂・北円堂・南円堂・食堂・僧坊や大乗院・一乗院を始めとする子院など、寺の主要建築物のほとんどにあたる38の施設を焼いたと言われている。R 興福寺においても多くの仏像が焼失した。R 中でも南円堂の本尊不空羂索観音像は、この当時藤原氏の主流であり、摂関家も属していた藤原北家の祖である藤原房前の室牟漏女王の追善のため、夫妻の子真楯が天平18年(746年)に講堂の本尊として造立した像であるとも、またはその子内麻呂が造立した像であるとも伝えられ、その後、北家興隆の礎を築いた藤原冬嗣が弘仁4年(813年)に南円堂を創建した時にその本尊とされるなど北家に縁の深い像であり、また不空羂索観音が藤原氏の氏神である春日明神の本地仏とされていたことから、北家の繁栄を守護する像として、主に北家に属する藤原氏一門の信仰を集め、過去の火災にも救出されてきた像であったが、この像も今回の兵火によって焼失した。R この火災で被害を免れたのはわずかに禅定院のみであり、焼け残った仏像が後にここに仮安置された。R 興福寺は平安時代に入ってから何度か大きな火災に見舞われたが、寺域のほとんどが一挙に焼失するほどの火災は、永承元年(1046年)12月24日、寺の西郊から出火した火が、同じく師走風に煽られて北円堂・正倉以外の建物が全焼して以来であった。R 東大寺・興福寺を焼いた火は猿沢池を越えて興福寺の南に隣接していた元興寺との境界付近にまで達し、元興寺の子院である玉華院を焼いたが、その南にある極楽房や金堂などの主要部分にまで被害が及ぶことはなく、興福寺の東に隣接する春日社やその南の新薬師寺とその周辺の民家も無事であった。R その他の被害としては、東大寺・興福寺の西に位置する佐保辺りにあり、摂関家を初めとする藤原氏一門の宿泊施設であり、大和国における藤原氏関連の事務を行う出先機関でもあった佐保殿や率川社などが焼失した。R また東大寺・興福寺の西郊にあった西里と呼ばれる集落も被害は免れなかったと思われるが、その被害状況については不明である。R この兵火の犠牲者について『平家物語』では大仏殿を始めとする東大寺・興福寺の建物に避難した多数の僧侶や地元住民などが火炎に巻き込まれ、合計3千5百余人が焼死したとしているが、修学のため南都に滞在中にこの焼き討ちに遭遇して関東に帰還した印景という僧侶の報告を記録した『吾妻鏡』によれば大仏殿に火が及んだ時、動揺のあまり炎の中に飛び込み焼死した者3人、心ならずも焼死した者は東大寺・興福寺両寺の間で百余人であったという。R この兵火による惨状を『平家物語』では「天竺・震旦にもこれほどの法滅あるべしとも覚えず」と語り、この知らせを受けた右大臣九条兼実は日記『玉葉』に「凡そ言語の及ぶ所にあらず。筆端の記すべきにあらず。R 余是の事を聞き、心身屠るがごとし。(略)当時(現在)の悲哀、父母を喪うより甚し」と悲嘆の言葉を綴っている。R 生き残った大衆は春日山に逃げ込み、平重衡は討ち取った30余りの首級を現地で梟首して29日に帰京したが[35]、この時持ち帰られた南都大衆の首級49余りは南都の焼亡を知った朝廷の動揺により、謀叛人として獄門にかけられる事なくことごとく溝や堀にうち捨てられたという[36]。 治承5年(1181年)正月には、紀伊の熊野三山勢力が挙兵して、伊勢や志摩で平氏側勢力と交戦するという動きもあった。 治承5年(1181年)初頭には美濃源氏を撃破し(美濃源氏の挙兵)平氏は畿内制圧に成功する。 一連の軍事行動の中で清盛は平宗盛を惣官に任じてもらうなど反乱勢力に対抗する体制を整えていく。そうした中で院政をとっていた高倉上皇が崩御したため、平氏は停止していた後白河院政の復活を余儀なくされる。さらに閏2月に、清盛が熱病で没して平氏政権は強力な指導者を失った。直後の3月、平氏は再び東海道へ追討軍を派遣し、尾張墨俣川で源行家と会戦して勝利を収める(墨俣川の戦い)。 この勝利の後平氏は東国への進軍を中止し、奥州藤原氏、越後城氏と提携して東国反乱勢力にあたる方針をとろうとした。
2023年09月06日
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戦後z 甲斐源氏の武田信義が駿河、また安田義定は遠江へと本格的に進出し、駿河・遠江は甲斐源氏の勢力下に収まることになる。z 一方、頼朝はこのまま平家方を追撃して上洛しようと望むが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄がこれに反対して東国を固めるよう主張した。頼朝は東国武士たちの意志に逆らうことができず、まだ頼朝の傘下に入っていない同盟軍武田信義が駿河、安田義定が遠江と坂東と都を結ぶ東海道の途上を制圧しているので、彼らの意向を無視して上洛することもできなかった。z 結局、頼朝は鎌倉へ帰還したが、その帰還の途上、相模国府において本領安堵と敵から没収した領地の新恩給付を行なった。z これは頼朝が反乱軍として出発したためできたことで、律令体制の下にある平氏政権とは別個の形で行ない得た事項であり、頼朝の権力の源泉の一つとなる行為であった。z その後、頼朝は佐竹秀義、志田義広、足利忠綱ら反対勢力を討って、東国の制圧に専念することになる。z 一方官軍を派兵して破れて大敗を期したのは平安初期の蝦夷征伐以来なかったことで、この敗戦に平清盛は激怒した。z 富士川の戦いの官軍敗北は畿内、北陸、四国などの反乱勢力の挙兵を誘発し、戦乱は東国のみの反乱に留まらず全国規模の内乱に発展していくこととなった。 これにより駿河・遠江は甲斐源氏の勢力下に入った。一方頼朝はこの機を捉えて上洛を検討するが、坂東経営を優先すべきという上総氏らの意見を受け入れ、まずは上総氏千葉氏の利害の対立者である佐竹氏と交戦する(金砂城の戦い)。その後鎌倉に帰還した頼朝は侍所を新設し、和田義盛を別当、後に梶原景時を所司に任じる。戦乱の拡大東国以外でも反平氏勢力の動向は活発となっていった。土佐の源希義をはじめ、河内源氏のかつての本拠地だった河内石川の源義基・義兼父子、美濃の土岐氏、近江の佐々木氏、山本義経、熊野の湛増、伊予の河野氏、肥後の菊地隆直らのほか、若狭・越前・加賀の在庁官人など、多くの勢力による挙兵があった。
2023年09月06日
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水鳥の羽音についてz 平氏撤退に関しては以下のような逸話が有名である。その夜、武田信義の部隊が平家の後背を衝かんと富士川の浅瀬に馬を乗り入れる。それに富士沼の水鳥が反応し、大群が一斉に飛び立った。z 『吾妻鏡』には「その羽音はひとえに軍勢の如く」とある。これに驚いた平家方は大混乱に陥った。『平家物語』や『源平盛衰記』はその狼狽振りを詳しく描いており、兵たちは弓矢、甲冑、諸道具を忘れて逃げまどい、他人の馬にまたがる者、杭につないだままの馬に乗ってぐるぐる回る者、集められていた遊女たちは哀れにも馬に踏み潰されたとの記載がある。z 事実がどのようなものであったかは不明ではあるが、平家軍に多少の混乱があったものと推察される。平家方は恐慌状態に陥った自軍の混乱を収拾できず、忠清は撤退を進言した。総大将の維盛もこれに同意し、平家方は総崩れになって逃げ出した。遠江国まで退却するが、軍勢を立て直すことができず、全軍散り散りになり、維盛が京へ逃げ戻った時にはわずか10騎になっていた。z 水鳥のエピソードは、太平の世で戦に不慣れとなっていた平家の惰弱ぶりを示すものとして知られるが、軍記物語の『平家物語』や『源平盛衰記』はもちろん、『吾妻鏡』の記述は誇張、ないしは虚構で、水鳥の羽音を敵襲と誤認したのではなく、水鳥の羽音で敵の夜襲を察知し、迎撃の準備ができていなかったので撤退したという見方もある。また、戦力差を考慮して水鳥の羽音とは関係なく撤退を決めていたとの見方もある。z この水鳥の羽音に関する各本の異同を一覧にすると以下のようになる。z 『源平盛衰記』…日付なし、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。z 『平家物語』…10月23日、平家軍は水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る。z 『山槐記』…10月19日、平家軍は水鳥の羽音に驚き、自ら陣営に火を放って撤退した。z 『吾妻鏡』…10月20日、平家の諸将は包囲されるのを恐れていたところに水鳥の羽音がしたので撤退した。z 『玉葉』…10月18日、羽音の記述はない。開戦前に平家側数百騎の兵が源氏に逃亡したため平家は撤退をした。z 『吉記』…日付不明、羽音の記述はない。敵の軍勢が多いのをみて撤退した。撤退時に敵からの放火と疑われる火災が起こり、それにより混乱があった。z なお、『玉葉』のみ源氏の総指揮官を武田信義としている。z また、『吉記』は開戦前に官軍に対して使者が送られたが使者を送った元が頼朝か武田か不明としている。z 黄瀬川の対面z 合戦の翌21日(11月10日)、黄瀬川駅(静岡県駿東郡清水町)で若い武者が頼朝との対面を願い出た。z 『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていた。頼朝の挙兵を聞いて奥州平泉から駆けつけた弟の九郎義経であった。z 土肥実平、岡崎義実、土屋宗遠は怪しんで取り次ごうとしなかったが、騒ぎを聞きつけた頼朝は「その者の歳の頃を聞くに、陸奥にいる九郎であろう」と言い、対面がかなった。z 頼朝は後三年の役で源義家が苦戦していた時、その弟の義光が官職を投げうって駆けつけた故事を引いて、義経の手を取って涙を流した。後に義経はもう一人の兄範頼とともに木曾義仲討滅、平家追討の指揮をとり、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで勝利し、そして壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼすことになる。z 『平治物語』によれば、頼朝と義経が対面したのは頼朝勢が鎌倉から足柄・箱根を越え黄瀬川に向かう途上の大庭野(神奈川県藤沢市大庭)となっている。z また、平氏は富士川河畔に布陣したと記述があるが、頼朝は黄瀬川に到着したとあるのみで、甲斐源氏の布陣地については記述がない。
2023年09月06日
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追討軍の編成頼朝挙兵の報は、9月1日(9月21日)に大庭景親より福原へもたらされた。5日(25日)に平清盛は追討軍を関東へ派遣することを決定する。追討軍の編成は遅々として進まず、平維盛、忠度、知度らによる追討軍が福原を出立したのは22日(10月12日)であった。京に入っても総大将の維盛と次将(参謀役)の藤原忠清が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があり、京を発したのは29日(10月19日)になってしまった。平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、甲斐国では甲斐源氏が、信濃国では源義仲が挙兵した。追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めたことで7万騎(『平家物語』)の大軍となるが、所詮は寄せ集めであり、折からの西国の大飢饉で兵糧の調達に苦しみ、士気は非常に低かった。三者の布陣この項の以下の日付は吾妻鏡による。10月13日(11月2日)、追討軍は駿河国へ入った。10月14日(11月3日)の鉢田の戦いにて甲斐源氏は駿河の平氏方現地勢力を撃破する。16日(5日)に頼朝は平氏軍を迎え撃つべく鎌倉を発する。17日(11月6日)に武田信義は維盛に挑戦状を送りつけ、「かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という不敵な内容に侍大将の伊藤(藤原)忠清が激怒し、使者は斬らない兵法は私合戦に置いての事で、官軍には適用されないとして使者2人の首を斬った(『山槐記』『玉葉』『吉記』)。 同日頼朝は相模国豪族波多野義常を討つために派兵する(『吾妻鏡』)10月18日(11月7日)に大庭景親は1000騎を率いて駿河の維盛の軍に合流しようとするが、頼朝または甲斐源氏に行く手を阻まれ、相模国に留まった後、軍を解散し逃亡した。景親は後に頼朝に降参するが許されず、斬られている。2万余騎の甲斐源氏の軍勢は10月18日(11月7日)に布陣した。同日夜頼朝は黄瀬川沿いに布陣した。10月19日(11月8日)、伊豆から船を出して維盛と合流しようと図った伊東祐親・祐清父子が捕らえられた。大庭氏、伊東氏、駿河豪族などの在地親平氏勢力の壊滅や坂東などの豪族たちが雪崩をうって頼朝らについたという状況は、在地勢力による反乱軍への初期対応を戦略の一貫に組み込んでいた平氏方の構想を挫くことになった。平家の撤退玉葉によると18日、吾妻鏡によると20日、甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、『吾妻鏡』によると頼朝は駿河国賀島に進んだとある。平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている。両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていたものと思われる。両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結する。なお、従来は頼朝が富士川の戦いの当事者と見なされていたが、最近の見解では合戦に勝利した主体そのものが甲斐源氏であり、『吾妻鏡』の記述は治承・寿永の乱で頼朝が常に源氏の中心であったかに装う後世の創作で、実際には頼朝は後方にあって副次的な役割しか果たしていないという説が有力である。近年発行の出版物では甲斐源氏主体説をとるものが増えている
2023年09月06日
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7「富士川の戦い」詳細は「富士川の戦い」を参照東国での状況を受けて平氏政権は平維盛、平忠度らが率いる追討軍を派遣した。追討軍は東海道を下り、10月18日、駿河国富士川で反乱軍と対峙する[6]。大軍を見て平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、平安時代後期の治承4年10月20日(ユリウス暦1180年11月9日、グレゴリオ暦16日)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦である。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。石橋山の戦いで敗れた源頼朝は安房国で再挙し、進軍しながら東国武士がこれに参集して大軍に膨れ上がり、鎌倉に入る。一方、甲斐国で挙兵した武田信義らは駿河国目代を討ち取った。その両者が駿河国で合流し、都から派遣された平維盛率いる追討軍と戦い勝利し、頼朝は南坂東で、武田信義ら甲斐源氏は甲斐・駿河・遠江での割拠を確立させた。治承三年の政変により知行国主の多くが変更となり、それに伴い坂東は新知行国主の息のかかった平氏家人や平氏方目代により、上総氏、千葉氏、工藤氏などの旧知行国主に近い豪族たちが圧迫されていた。圧迫されていた豪族達は反撃の機会を窺っていた。治承4年8月17日(1180年9月8日)、伊豆国に流されていた義朝の三男・頼朝は以仁王の令旨を奉じて、舅の北条時政や土肥実平、佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害した。だが、続く8月23日(9月14日)の石橋山の戦いで頼朝は大庭景親、伊東祐親率いる平家方に惨敗してしまう。頼朝は山中に逃げ込んで平家方の追跡をかわし、土肥実平の手引きで船を仕立てて真鶴岬(神奈川県真鶴町)から安房国へ向かった。頼朝に味方していた三浦一族も平家方の畠山重忠らに本拠衣笠城を攻められ、城を捨てて海上へ逃れた。頼朝の再挙8月29日(9月20日)、頼朝は安房国平北郡猟島に到着した。同地で先発していた三浦一族らと、地元の豪族安西景益が頼朝らを迎え入れた。頼朝は和田義盛を千葉常胤へ、安達盛長を上総広常のもとへ派遣した。その他、小山朝政、下河辺行平そして豊島清元、葛西清重父子にも参陣するよう求めた。千葉常胤はただちにお迎えするとの返事を寄こし、挙兵して下総国府を襲い、平家一族の目代を殺したが(結城浜の戦い)、房総半島に大きな勢力を有する上総広常の向背には不安があった。9月13日(10月3日)、頼朝は300騎を率いて安房国を出立した。17日(10月7日)に頼朝は下総国府に入り、千葉常胤が一族を率いてこれを迎え、千葉氏の300騎を加えた。19日(10月9日)に武蔵国と下総国の国境の隅田川に達したところで、上総広常が2万騎の大軍を率いて参陣した[2]。29日(19日)の時点で、諸国の兵が集まり、2万5000余騎に膨れ上がっていた。10月2日(10月22日)、頼朝は武蔵国へ入り、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠らが続々と参じた。頼朝の軍は数万騎の大軍に膨れ上がり、何らの抵抗を受けることなく10月6日(10月26日)に源氏累代の本拠地・鎌倉に入った。甲斐源氏の挙兵治承4年8月頃には武田信義、安田義定、一条忠頼ら甲斐源氏が挙兵して甲斐国を制圧した(『山槐記』)。8月25日には、石橋山で頼朝を破った大庭景親の弟俣野景久と駿河国目代が安田義定らと波志田山にて交戦した(波志田山合戦『吾妻鏡』)。駿河国へ侵攻し、10月14日(11月3日)に富士山の麓で目代橘遠茂の3000余騎を撃破した(鉢田の戦い『吾妻鏡』)。 鎌倉幕府による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、甲斐源氏に対して頼朝は北条時政、加藤景廉らを派遣して、その指示のもとに行動していたように記されているが、これは後世の幕府による創作であり、甲斐源氏は頼朝とは別に以仁王の令旨を受けて挙兵しており、この時期に頼朝の指揮下に入る理由がなく、そもそも維盛の追討軍の目的は頼朝ではなく、甲斐源氏であったという見方もある。
2023年09月06日
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第五巻三段Y 妙見大菩薩の本地の事Y 北条の四郎を始めとして、人々詮議の末、大庭三郎景親や畠山次郎重忠を討つことの方が大切とされ、千田荘の次浦館に退いた親正については小者とし追討はしないことになった。Y そして、詮議を「尤も然るべし」とし、右兵衛佐の仰るには「侍共承るべし。今度千葉小太郎成胤の初軍に先を懸けつる事有り難し、頼朝若し日本国を討ち隋えたならば、千葉には北南を以って妙見大菩薩に寄進し奉るべし。Y 抑妙見大菩薩は、云何にして千葉に崇敬せられたまいけるにや。又御本躰は何の仏菩薩にて御座しけるにや」と。それに答えて、常胤が申し上げた。Y 「此の妙見大菩薩と申すは、承平5年8月上旬のころ、相馬の小次郎将門、上総介良兼と伯父甥不快の間常陸において合戦を企つる程に、良兼は多勢将門は無勢なり。蚕飼河の畔に追いつめられて、橋も無く船も無く思い労う処に小童出て来たりて『瀬を渡さん』と告ぐ。Y 将門はこれを聞いて蚕飼河を渡り、河を隔てて戦う程に矢種尽きかける時、彼の童落ちたる矢を拾い取りて将門に与え之を射けり。将門疲れに及ぶ時は将門の弓を捕って十の矢を矯げて敵を射るに、一つも空箭無かりけり。これを見て良兼『只事に非ず。天の御計らいなり』と思いながら彼の所を引き退く。Y 勝利を得た将門が『抑君は何なる人にて御座すぞや』と童に問うと、答えて云わく『吾は是れ妙見大菩薩なり。汝は正しく直く武く剛なるが故に汝を守らんため来臨する所なり。吾は上野の花園という寺に在り。汝若し志有らば速かに我を迎えるべし。吾は是れ十一面観音の垂迹にして、五星の中には北辰三光天子の後身なり。汝東北の角に向かいて、吾が名号を唱うべし。自今以後、将門の旗印には千九曜の旗(今の世には月星と号するなり)を差すべし』と言いながら何処ともなく消えた。Y 仍て将門は使者を花園に遣わしてこれを迎え奉り、信心をして崇敬した。しかしその後、五年間のうちに東八ヶ国を打ち隋え、下総相馬郡に京を立て将門親王と号する。然りながらも、神慮も恐れず朝威にも憚らず仏神の田地を奪い取りぬ。故に妙見大菩薩、将門の家を出でて村岡の五郎良文の許に渡りたまいぬ。甥の将門の養子為るに依つて、流石他門には附かず、渡られたまいし所なり。Y 将門は妙見に棄てられ、天慶3年正月22日、天台座主法性坊の尊意、横河において大威徳の法を行いて、将門の親王を調伏せしむるに、紅の血法性坊の行う所の壇上に走り流れにけり。爰に尊意急ぎ悉地成就の由を奏上せしかば、即ち法務の大僧正に成されにけり。Y 然妙見大菩薩は、良文より忠頼に渡りたまい、嫡々相伝え常胤に至りては七代となり」と。Y 右兵衛佐これを聞いて「実に目出度たく覚え候う。然らば、いささか頼朝が許へも渡し奉らんとおもう。いかが有るべきや」Y 常胤が答えるには「此の妙見大菩薩は余の仏神にも似ず、天照大神の三種の神器の国王と同じく居たまいてこそ代々の御門を護りたまうがごとし。此の妙見大菩薩も、将門以来嫡々相伝わり、寝殿の内に安置し奉りて未だ別家に移し奉らず。物恠しき不祥出で来らんときは、宮殿の内騒動して化異を示し、示現して氏子を守る霊神なり。Y 一族為りといえども本躰は永く末子の許へは渡られず。何に況や他人においてをや。詮ずる常胤君の御方へ参り向つて仕えたるを、偏に妙見大菩薩の御渡り有ると思食さるべく候う」と申した。右兵衛佐頭を傾けて渇仰致したまいしかば、侍たちは身の毛堅つ思いであった。 また、都から遠く離れた地にあっては豪族達は自力で所領を守るしかなく、その不安定な状態から抜け出し所領を安堵してくれる者を求めたいという潜在的な要求もあった。10月6日、頼朝は先祖のゆかりの地である相模国鎌倉へ入って本拠地とする。これにより関東政権(後の鎌倉幕府)が樹立される。また、この時までに関東政権は坂東南部の実質的な支配権を獲得している。同時期に甲斐の武田信義を棟梁とする甲斐源氏の一族や、信濃の木曾義仲も相次いで挙兵している。
2023年09月06日
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頼朝の強兵経過Y 治承4年(1180年)に始まる治承・寿永の乱の中で、以仁王の挙兵に続き、源頼朝は同年8月23日に伊豆国で挙兵した。Y 緒戦の石橋山の戦いにおいて敗北を喫した頼朝は、真鶴から海路安房国に逃れ、上総国から下総国に向う。そして下総国で千葉常胤の孫成胤が、平家の総帥清盛の姉婿藤原親政を打ち破るという快挙を成し遂げ、坂東の武士団がこぞって頼朝の軍に合流、関東における頼朝の軍事力は平家方の勢力を大きく上回り、一転して武蔵国から鎌倉を目指した。Y この間の顛末について『吾妻鏡』は、頼朝や諸豪族の動向を逐一日毎に記述し、親政との合戦前日の治承4年9月13日条で、上総広常の遅参と、千葉常胤一族の頼朝軍への参陣およびそれに先立つ下総目代の殺害に付いて触れ、Y 「安房国を出て、上総国に赴かしめ給う。所從の精兵三百餘騎に及ぶ。而るに廣常、軍士等を聚めるの間、猶遅参すと。今日、千葉介常胤子息親類を相具し、源家に參らんと欲す。爰に東六郎大夫胤頼父に談りて云く、當國目代は平家の方人なり。吾等一族悉く境を出て源家に參らば、定めて凶害を插むべし。先ずこれを誅すべきかと。常胤、早く行き向い追討可し之旨、下知を加う。仍て胤頼并びに甥の小太郎成胤、郎從等を相具し彼の所に競い襲う。目代は元自り有勢の者なり。數十許りの輩をして防戰せしむ。時に北風頻りに扇ぐの間、成胤僕從等を舘の後に廻らせて放火せしむ。家屋燒亡し、目代は火難を逃れんが爲已に防戰を忘る。此の間、胤頼其の首を獲たり。」とし、合戦の当日の治承4年9月14日条は、Y 「下総国千田庄領家判官代親政は、刑部卿忠盛朝臣の聟なり。平相国禪閤に其の志を通ずるの間、目代誅せらるの由を聞き、軍兵を率い常胤を襲わんと欲す。之に依って、常胤孫子小太郎成胤相戰う。遂に親政を生虜り訖んぬ。」Y と記すのみで、戦場がどこかの指摘はなく、その後、千葉常胤一族と頼朝は9月17日下総国府で初めて対面し、その際成胤が生虜にした藤原親政が囚人として引き出されている。Y ところが、『平家物語』の異本である『源平闘諍録』第5巻 1,2,3段には、これとは全く矛盾する説話が収録されている。Y 頼朝は治承4年9月4日に安房国を発ち、結城浜で藤原親正(政)を破って、翌9月5日下総国府に入り、その後9月12日に武蔵国に向った、とするものである。以下『源平闘諍録』にある「結城浜の戦い」ついて記す。結城浜の戦い第五巻一段Y 兵衛佐、坂東の勢を催す事Y 治承4年9月4日、右兵衛佐頼朝は白旗を差して五千余騎の兵を率い上総から下総に向かい、千葉常胤及び上総広常の軍勢がこれを迎える。ここで、上総・下総の大部隊を率いた広常が先陣を望むが、常胤がこれを阻止し子や孫などの三百騎を率いて先陣をつとめた。Y ここに、上総広常の率いる武士団は、臼井四郎成常・五郎久常、相馬九郎常清、天羽庄司秀常、金田小太郎康常、小権守常顕[4]、匝瑳次郎助常、長南太郎重常、印東別当胤常・四郎師常、伊北庄司常仲・次郎常明・太夫太郎常信・小太夫時常、佐是四郎禅師等を始めとする一千余騎とされる。また、常胤に従ったのは、新介胤将[5]、次男師常、以下田辺田四郎胤信・国分五郎胤通・六郎胤頼、孫の堺平次常秀・武石次郎胤重[8]、能光の禅師等を始めとする三百騎とされる。第五巻二段Y 加曾利の冠者、千田判官代親正と合戦する事Y 頼朝を迎えるため常胤が上総に向かった留守に、平家の方人千田の判官代藤原の親正、右兵衛佐の謀叛を聞いて、「吾当国に在りながら、頼朝を射ずしては云うに甲斐無し。京都の聞えも恐れ有り。且うは身の恥なり」とて、赤旗を差して白馬に乗って、匝瑳の北条の内山の館より、右兵衛佐の方へ向おうとした。Y 鴨根常房の孫の原十郎太夫常継、その子平次常朝、同じく五郎太夫清常・六郎常直・従父金原庄司常能、その子五郎守常、粟飯原細五郎家常、その子権太元常、同じく次郎顕常等を始めとする一千余騎の軍勢を率い、武射の横路[13]を越え、白井の馬渡の橋[14]を渡って千葉の結城を襲う。Y その時、常胤の孫の加曾利冠者成胤[15]は、養子であったがため父祖とともに上総へは向わず、千葉に留まって祖母の葬送にあたっていた。Y 親正の襲撃の知らせを聞いた成胤は「父祖を相待つべけれども、敵を目の前に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず。豈勇士の道為らんや」と七騎を率い親正の軍に立ち向かい、「柏原の天皇の后胤、平親王将門の十代の末葉、千葉の小太郎成胤、生年十七歳に罷り成る」と名乗りをあげ、四角八方に懸け破る活躍を見せるが、多勢に無勢両国の堺河に追いつめられる。Y するとそこへ僮姿の童子が現れ、敵の射る矢を空中で受け止め成胤勢には当たらない。Y やがて頼朝を迎えた上総広常や常胤の軍勢が戦場に着く。Y 両軍入り乱れての戦闘のなか、原六郎常直の馬が天羽庄司秀常の射た矢によって射倒され、原平次常朝と五郎太夫清常が、手負いの六郎常直を助けようとするが叶わず、また粟飯原権太元常も戦死し、親正は形勢不利となり千田荘の次浦館[19]に退いた。
2023年09月06日
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波志田山合戦(はしたやま かっせん)は、治承・寿永の乱の中の戦いの一つ。「波志田山」の位置は富士北麓に想定されているが、正確な場所の比定は諸説あり不明である。Y 『吾妻鏡』に拠れば、治承4年(1180年)4月9日、後白河法皇の子以仁王は東国の源氏諸氏に対して平家討伐の令旨を下し、令旨は伊豆の源頼朝をはじめ甲斐国、信濃国へも伝達される。伊豆の頼朝は同年8月に挙兵し伊豆・相模国の武士を率いて挙兵し、8月24日の相模石橋山(神奈川県小田原市)において平家方の大庭景親率いる軍勢に破れて敗退する。Y 12世紀初頭に甲斐へ土着した甲斐源氏は甲府盆地一帯に勢力を及ぼしており、工藤氏など頼朝に近い伊豆の武士と姻戚関係を持つ氏族もいれば、加賀美遠光の一族である秋山氏や小笠原氏、武田有義など在京して平家方に仕えている氏族も存在していた。Y 甲斐に所縁のある氏族のうち、工藤景光は頼朝の挙兵に賛同し一族の茂光・親光父子が頼朝のもとへ馳せ参じており、富士北麓の甲斐大原荘(富士吉田市、富士河口湖町)を領する加藤光員・景廉兄弟は石橋山合戦の後に富士山麓に潜伏している。頼朝は石橋山での敗退後に箱根山中に潜伏し、舅にあたる北条時政・義時父子を甲斐へ派遣することを企図しており(『吾妻鏡』)、頼朝は伊豆の武士と姻戚関係にある甲斐源氏の存在を意識していたと考えられている。Y 甲斐源氏の挙兵時期は不明だが、藤原忠親『山槐記』に拠れば石橋山合戦においては大庭景親旗下に甲斐源氏の一族である平井義直(冠者)が含まれており、頼朝の挙兵当初の甲斐源氏は旗幟を鮮明にしておらず、『吾妻鏡』に拠れば平家方は8月24日に甲斐への軍勢派遣、26日には三浦氏討伐を行っていることから、石橋山合戦直後の8月12日・22日段階で挙兵していたと考えられている。Y 『吾妻鏡』に拠れば、石橋山合戦の敗退が甲斐へ伝えられると、甲斐源氏の一族のうち安田義定を筆頭とする、工藤景光・行光、市川行房ら伊豆の頼朝と近い氏族が頼朝救援に向かっている。Y また、平家方では大庭景親の弟である俣野景久が駿河国目代の橘遠茂とともに甲斐へ軍勢を派遣しており、両勢は8月25日に「波志田山」において衝突したという。Y 俣野勢は富士北麓における宿泊中に襲撃を受けており、「波志田山」の位置は富士北麓の西湖と河口湖の間に位置する足和田山(富士河口湖町)などが考えられている。『吾妻鏡』では合戦は安田勢の強襲から、俣野軍の弓の弦が宿泊中に鼠によって食い破られ、応戦するものの逐電したという。Y 甲斐源氏は石橋山での頼朝敗退を知り甲斐へ退去したと考えられているが、『山槐記』では上野国新田荘(群馬県太田市)の下司である新田義重が平家方に近い領家藤原忠雅(忠雅は『山槐記』の著者忠親の兄)に対し書状を送り、甲斐源氏の棟梁武田信義を伊豆の頼朝に並ぶ反平家勢の存在として報じている。Y 以降は新田義重も東国において独自の動きを見せており、波志田山における勝利が、甲斐源氏の存在が東国をはじめとする諸国において意識される契機になったと考えられている。Y 頼朝は8月28日に相模真鶴(神奈川県真鶴町)から安房国へ脱して再帰をはかり多くの東国武士を結集させていたが、甲斐源氏の武田信義、一条忠頼らは9月に入ると信濃国伊那郡へ出兵し、9月10日に大田切郷(長野県駒ヶ根市)の菅冠者平友則(信濃平氏笠原頼直の子)を討つと甲斐へ帰還し、9月14日には甲斐北西部に想定される「逸見山」において頼朝の使者北条時政を迎える。Y さらに9月24日には石和御厨(笛吹市石和町)において頼朝の使者土屋宗遠を迎え出陣を要請され、10月13日に武田信義を頭領とする甲斐源氏の一族は駿河へ出陣し、鉢田合戦や富士川合戦において平家方と戦う。頼朝は、海路で安房国へ移動して相模三浦半島の豪族である三浦氏と合流した後、安房の在庁官人をはじめ房総半島の上総広常、千葉常胤、武蔵の足立遠元、畠山重忠らの諸豪族を傘下に加えながら急速に大勢力となっていく。この勢力の大部分は、坂東一帯に勢力をはる平氏系武士であり、在地領主でもあった。当時、坂東の在地豪族間の争いは激しく、特に親平氏勢力そして新たに知行国主となった平氏が支配する国衙に圧迫されていた千葉氏、上総氏などはこの挙兵を自勢力回復の好機と捉えていた(頼朝の房総進出と前後して、千葉氏と平氏系の目代との戦いである結城浜の戦いが起きている)。Y 結城浜の戦い(ゆうきはまのたたかい)は、治承4年(1180年9月24日)に下総国であったとされる合戦であるが、『源平闘諍録』にある説話である。千葉常胤一族と千田荘の領家藤原親正(政)の間の合戦で、千葉・千田合戦とも呼ばれる。Y 背景Y 千葉氏の祖千葉常重は、平常晴から相馬郡を譲られて相馬郡司となり、大治5年6月11日、伊勢神宮に寄進し相馬御厨が成立する。Y しかし、保延2年(1136年)には、官物未進を理由に下総守藤原親通に召し上げられ、更に康治2年(1143年)には源義朝の介入があり、永暦2年(1161年)には、藤原親通の子親盛から入手した新券を理由に佐竹義宗に奪い取られるなど、従来からの下総在地豪族だった千葉氏と、為光流藤原氏や佐竹氏との相馬御厨や橘荘などの荘園を巡る軋轢が生れていた。Y そして、親盛の子の親政は、千田荘の領家として下総匝瑳郡に進出し両総常陸の武士団を率いていた。親政は、千田荘の本家である皇嘉門院の判官代でもあり、本家は勿論領家も中央に在るのが通例にも拘らず、皇嘉門院とそれに連なる摂関家の威光を背景にした下総進出であった。Y また、親政は時の平氏政権を築いた伊勢平氏とは、忠盛の婿でありかつ資盛の伯父という二重の姻戚関係にあった。このため、下総における千葉氏の立場は、治承の頃には危機的な状況に追い込まれていた。Y 石橋山の戦いに敗れ安房国に逃れた源頼朝に加担したのは、こうした状況を打破するための千葉常胤の起死回生の賭けだったともされる。
2023年09月06日
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由比ヶ浜の戦い] 頼朝と合流すべく所領の三浦半島を出た三浦義澄、和田義盛ら三浦一族500騎は丸子川(酒匂川)の辺りまで来ていたが、豪雨の増水のために渡河できずにいたところ、頼朝軍の敗北を知り、引き返した。] 三浦一族は鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来て事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。] 双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た。停戦がなり、双方が兵を退いた(小壺坂合戦、小坪合戦)。] 26日に畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら平家方の大軍が三浦半島に押し寄せた。三浦一族は本拠の衣笠城で防戦するが、先の合戦で疲労していたこともあって支えることができず、城を捨てて船で海上へ逃れることに決した。] このときに89歳の三浦義明は「源氏累代の家人として、その再興に立ち会うことができた。これ程の喜びはない。武衛(頼朝)のために我が老命を奉げて子孫の勲功を募らん。皆は彼の生死を確かめよ」と言って、ひとり城に残り、討ち死にしている(衣笠城合戦)。] 戦後] 頼朝、実平一行は箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、船を仕立てて現在の岩海水浴場(神奈川県真鶴町)から出航。加藤景員らは甲斐国に落ち延びた。時政も落ち延びた。頼朝らは海上で三浦一族と合流し、安房国を目指して落ち延びた。] なお、頼朝が真鶴町に逃げ込んだ際、食事の世話などを親切にしてくれた3人の村人に「御守」「五味」「青木」の姓を与えたと伝えられている。真鶴町で青木姓は3521世帯中299世帯である。(平成15年6月時点)] 9月、安房においては頼朝は再挙し、安西氏、千葉氏、上総氏などに迎えられて房総半島を進軍して武蔵国へ入った。] 平氏方目代に圧迫されていた、千葉氏、上総氏などの東国武士が平氏方目代や平氏方豪族を打ち破りながら続々と参集して、1か月かけて数万騎の大軍に膨れ上がった。その後武蔵豪族を味方につけ10月6日に頼朝は鎌倉に入る。10月20日に富士川の戦いにて、武田信義らの甲斐源氏らとの同盟により京から派遣された平維盛の軍勢を撃破した。] この後、佐竹氏、新田氏などの頼朝に従わぬ豪族達との対立を制し頼朝は坂東での覇権を徐々に確立していくことになる。] 石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親と伊東祐親は平家方に合流しようとするが失敗し、景親は降参するが許されずに斬られ、祐親は捕えられ自害した。
2023年09月06日
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山木館襲撃] 頼朝は8月17日をもって挙兵することを決め、まず手始めに伊豆目代の山木兼隆を討つことにした。山木兼隆は元々は流人だったが平時忠と懇意であったために目代となり急速に伊豆で勢力を振るうようになっていた。] また目代であるがゆえに旧知行国主系の工藤氏、北条氏の攻撃の標的とされることとなった。] 挙兵を前に、頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」と言い、彼らは自分だけが特に頼りにされていると喜び奮起する。] そして挙兵の前日に至るが、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら佐々木兄弟が参ぜず、頼朝は盛綱に計画を漏らしたことを悔いるも、挙兵の8月17日(新暦9月8日)、洪水により遅れ、急ぎ疲れた体で兄弟が参着すると、頼朝は涙を流してねぎらった。] 兼隆の雑色男が頼朝の家の下女と恋仲で、その日も来ていた。多くの武者の集まっていると注進される恐れがあるので用心のため生け捕る。] 襲撃は朝駈けを図っていたが佐々木兄弟の遅参によって計画がくるってしまった。頼朝は明朝を待たずに直ちに山木館を襲撃すべしと命じ、「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん」と決意を述べる。] また、山木の館を放火するよう命じ、それをもって襲撃の成否を確認したいと欲した。] 時政は「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがあるから、間道の蛭島通を通ってはどうか」と進言するが、頼朝は「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創であり、間道は用いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。大道を通るべし」と命じた。 ] 深夜一行は進発。途中の肥田原で時政は佐々木定綱に兼隆の後見役の堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けてこれを討つよう命じた。佐々木兄弟は信遠の館に向かい、子の刻に経高が館に矢を放った。 ] 『吾妻鏡』はこれを「源家が平家を征する最前の一箭なり」と記している。信遠の郎従が応戦して矢戦になり、経高は矢を捨てて太刀を取って突入。信遠も太刀を取って組み合いになった。] 経高が矢を受けて倒れるが、定綱、高綱が加わり、遂に信遠を討ち取った。また、信遠は田方郡に勢力を築きつつあり、北条氏にとっては競合関係にある豪族でもあった。] 時政らの本隊は山木館の前に到着すると矢を放つ。その夜は三島神社の祭礼で兼隆の郎従の多くが参詣に出払い、黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。館に残っていた兵は激しく抵抗。信遠を討った佐々木兄弟も加わり、激戦となるが容易に勝敗は決しない。] 頼朝は山木館の方角を遠望するが火の手は上がらない。焦燥した頼朝は警護に残っていた加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家を山木館へ向かわせる。特に景廉には長刀を与え、これで兼隆の首を取り持参せよと命じた。] 景廉、盛綱は山木館に乗り込み、遂に兼隆を討ち取った。館に火が放たれ悉く燃え尽きる。襲撃隊は払暁に帰還し、頼朝は庭先で兼隆主従の首を検分した。] 19日、頼朝は兼隆の親戚の史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚での非法を停止させる命令を発給した。『吾妻鏡』はこれを「関東御施政の始まりである」と特記している。
2023年09月06日
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6「東国における挙兵」詳細は「石橋山の戦い」、「波志田山合戦」、および「市原合戦」を参照以仁王敗死の頃、令旨が各地の武士に配られていた。そのうちの1人である源頼朝は、相模・伊豆・武蔵の武士団への呼びかけを始めた。頼朝は8月17日に挙兵、伊豆国目代の山木兼隆を襲撃して殺害する。その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが頼朝軍は惨敗する(石橋山の戦い)。その直後に平氏方は甲斐国境付近で甲斐源氏の安田義定らと軍事衝突する(波志田山合戦)。] 石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。『義経記』では小早川の合戦[1]と表記されている。] 源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。] 敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになる。] 源頼朝の父源義朝は若年期坂東に下向し南坂東の豪族達に強い影響力を有していた。義朝は保元の乱、平治の乱で自らの勢威の及んでいた豪族と共に戦ったが、平治の乱で義朝は謀反人となり敗れて殺され、その三男の頼朝は伊豆国(静岡県)に流罪となった。] 頼朝は流人の身のまま20年以上を過ごしていて、その間読経に精進していたと言われている。その間に頼朝は北条時政の娘政子を妻とし一女をもうけ、伊豆国の豪族北条氏が流人の頼朝の庇護者となる。] 治承4年(1180年)後白河法皇の子の以仁王は摂津源氏の源頼政とともに平家打倒の挙兵を決意。諸国の源氏、藤原氏に令旨を送り蜂起を促した。その使者となったのが頼朝の叔父の行家である。4月27日に行家は蛭ヶ小島(または北条館)を訪れた。] 行家はほかへも令旨を届けるためにすぐに立ち去った。] 5月、挙兵計画が発覚し、以仁王と頼政は準備不充分のまま挙兵を余儀なくされ、平家の追討を受けて戦死(以仁王の挙兵)。] 6月24日、京の三善康信(頼朝の乳母の妹の子)が平家が諸国の源氏を追討しようとしているので直ちに奥州藤原氏の元へ逃れるようにと急報を送ってきた。] また、源頼政の孫の源有綱が伊豆国にいたが、この追捕の為清盛の命を受けた大庭景親が8月2日本領に下向して頼朝らの緊張が高まった。27日に京より下った三浦義澄、千葉胤頼らが北条館を訪れて京の情勢を報告する。] 一方この頃伊豆国の元の知行国主であった源頼政の敗死に伴い、伊豆国の知行国主は平清盛の義弟平時忠となり、それによって伊豆国衙の実権は伊東氏が握ることになり、源頼政に近かった工藤氏、北条氏は逼塞していくことになる。] またその頃治承三年の政変に伴う知行国主の変更により、坂東各地では新知行国主に近い存在となった平氏家人や平氏方目代により旧知行国主系の豪族達が圧迫されており、頼朝が挙兵した場合旧知行国主系豪族の協力が見込まれることが予想できた。] 頼朝は安達盛長に源家累代の家人の動向を探らせた。『源平盛衰記』によると波多野義常は返答を渋り、山内首藤経俊に至っては「佐殿(頼朝)が平家を討とうなぞ、富士山と丈比べをし、鼠が猫をとるようなものだ」と嘲笑した。だが、大庭景義(大庭景親の兄)は快諾し、老齢の三浦義明は涙を流して喜び、一族を集めて御教書を披露して同心を確約した。] 千葉常胤、上総広常もみな承諾したという。三浦氏、千葉氏、上総氏はすべて平氏系目代から圧迫されていた存在だった。
2023年09月06日
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院御所議定z 27日、院御所議定が開かれ、謀反を起こした園城寺・興福寺に対する措置が議論された(『玉葉』『山槐記』同日条)。議定の始まる前に宗盛・時忠・藤原隆季・藤原邦綱が集まり、高倉上皇の御前で「内議」を行っている。z 議定において源通親・隆季は「園城寺は衆徒が退散したので張本人を捕らえるだけで良い。z しかし、興福寺は謀反に同意した罪は軽くない。すみやかに官軍を派遣して攻撃し、末寺・荘園を没収するべきである」と主張した。z その他の公卿は「張本人を差し出すように要求して、拒否されてから官軍を派遣するべきだ」と慎重論を唱え、右大臣・兼実、左大臣・経宗もこれに同意した。z 経宗が左少弁・藤原行隆を呼んで、高倉上皇に議定の意見を奏聞しようとしたところ、隆季は「興福寺別当・権別当が衆徒を制止できないと言い切っているのに、どうして使者を派遣する必要があるのか。どの道を通って誰に下達するつもりなのか」と抗弁した。z 兼実が「一宗を磨滅して何の益があるのか」と反論したため、隆季は不快の色を見せた。その後、奏聞から戻ってきた行隆が以仁王誅伐の情報を伝えたため、興福寺即時追討論は退けられた。z 兼実は、隆季・通親の申状を「権門(清盛)の素意を察し、朝家の巨害を知らず」と激しく非難している。z 戦後z その後しばらくの間、以仁王の生存説が噂され、またそれが反平氏運動に利用された。園城寺と興福寺は再び平氏への反抗の動きを見せ、その結果12月11日に堂塔などの宗教的要素の濃い部分には手を触れないことを条件として日本史上最初の仏教寺院への本格的武力行使となる園城寺攻撃が行われた。平氏を中心とした官軍は攻撃に慎重を期し、金堂に火が燃え移った際には戦闘を中断して鎮火に努めたという(『玉葉』・『山槐記』12月12日条。z なお、『百練抄』・『平家物語』・『吾妻鏡』は大半あるいは全域が炎上したとするが、日記などの同時代史料にこうした記述はない)。z だが、12月28日に平重衡らの兵によって興福寺他南都の寺院が焼き討ちにあっている(ただし、これは連絡ミスによる失火と考えられている(南都焼討))。z 以仁王と頼政の挙兵は短期間で失敗したが、その影響は大きく、以仁王の令旨を奉じた源頼朝や源義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、治承・寿永の乱の幕を開けることになる。z 八条院の御所にいた以仁王の子供たちは、平頼盛が連行して出家させた。そのうちの一人が北陸に逃れて源義仲に助けられる。z 義仲はその皇子を「北陸宮」と名付けて、上洛時にこれを押し立てて平氏とともに西走した安徳天皇に代わって皇位に就けようと画策するが、かつて以仁王が勝手に親王を称して令旨を発行したことを不快に思っていた後白河法皇によって退けられたという。z 以仁王の死後も頼朝は自らの関東支配の大義名分として以仁王の「令旨」を掲げ、寿永改元後も治承年号の文書を発給している。しかし、寿永2年(1183年)後白河法皇から『寿永二年十月宣旨』によって実質上の関東支配が公認されると、以仁王「令旨」は効力を失い、頼朝も寿永年号を使用するようになる。 しかし挙兵直前に紀伊熊野の平氏方(権別当湛増を中心とした本宮勢力)と反平氏方(行快を中心とした新宮・那智勢力)との熊野新宮合戦があり、その後、権別当湛増からの平氏への注進により平氏追討の企てが発覚した。以仁王らは、平知盛・平重衡率いる平氏の大軍の攻撃を受け、同年5月、宇治の平等院で戦死するが、この挙兵が6年間に及ぶ内乱の契機となった。
2023年09月06日
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挙兵露見z 行家は4月から5月にかけて東国を廻ったが、5月初めには計画は露見した。『平家物語』によると、密告したのは熊野別当湛増である。令旨によって熊野の勢力が二つに割れて争乱に発展したため、湛増が平氏に以仁王の謀反を注進したのである。z 5月15日、平氏は以仁王を臣籍降下させ、「源以光」と改めた上で、土佐国への配流を決定した。検非違使別当・平時忠は、300余騎を率いて以仁王の三条高倉邸に向かった。この中に頼政の次男・兼綱が加わっていたことから、平氏は頼政の関与は察知していなかったようである。z 仲綱から知らせを受けた以仁王は、女装して邸を脱出、御所では長谷部信連が検非違使と戦って時間を稼ぎ、以仁王は園城寺へ逃れた。z 16日、平氏は園城寺に以仁王の引き渡しを求めたが、園城寺大衆はこれを拒否した。以仁王は興福寺と延暦寺にも協力を呼びかけた。大寺社が相手では平氏も容易には手が出せず、数日が過ぎた。z 21日、平頼盛、教盛、経盛(以上、清盛の弟)、知盛、重衡(以上、清盛の子)、維盛、資盛、清経(以上、重盛の子)、そして源頼政を大将とする園城寺攻撃の編成が定められた(『玉葉治承4年5月21条』)。z この時点でもまだ頼政の関与は露見していなかったのである。z その夜、頼政は自邸を焼き、50余騎を率いて園城寺に入り、以仁王と合流した。z 橋合戦z 23日、園城寺で衆議が行われ、六波羅(平氏の本拠)夜討が提案されたが、平氏に心を寄せる者[8]が議論を長引かせ、夜討は立ち消えとなった。この間に平氏は調略を行い、延暦寺大衆を切り崩した。z 園城寺も危険になったため、25日夜、頼政と以仁王は1000余騎を率いて園城寺を脱出し、南都興福寺へ向かった。z 『平家物語』では知盛・重衡を大将とする平氏は2万8000騎でこれを追ったとするが、この数は誇張で、『玉葉』によれば、26日に平氏家人の藤原景高(飛騨守景家の嫡男)・同忠綱が先発隊として300騎を率いて出動し、平等院で頼政・以仁王に追い付いて南都入りを阻んでいる。追って大将軍として平重衡・平維盛が宇治へ派遣された。z 南都に防御の間を与えず直進しようと言いつのる重衡・維盛に対し、同行した維盛の乳母父・藤原忠清は「若い人は軍陣の子細を知らず」と諫めて制止している(『山槐記』5月26日条)。頼政の兵は、わずか50騎であったという。z 夜間の行軍に疲れた以仁王は幾度も落馬し、やむなく宇治橋の橋板を外して宇治平等院で休息を取ることになった。26日、宇治川を挟んで両軍は対峙した。『平家物語』のこの場面は「橋合戦」と呼ばれる。z 頼政の軍は宇治橋の橋板を落として待ち構え、川を挟んでの矢戦となった。『平家物語』には、頼政方の五智院但馬や浄妙明秀、一来法師といった強力の僧兵たちの奮戦が描かれ、攻めあぐねた平氏の家人・藤原忠清は、知盛に河内路への迂回を進言した。z 下野国の武士足利俊綱・忠綱父子はこれに反対し、「騎馬武者の馬筏で堤防を作れば渡河は可能」と主張した。17歳の忠綱が宇治川の急流に馬を乗り入れると、坂東武者300余騎がこれに続いたという。渡河を許したため、頼政は宇治橋を捨てて平等院まで退き、以仁王を逃そうと防戦した。z 頼政方は次第に人数が減り、兼綱は討たれ、仲綱は重傷を負い自害した。頼政はもはやこれまでと念仏をとなえ、渡辺唱の介錯で腹を切った。仲綱の嫡男・宗綱、頼政の養子・仲家(木曽義仲の異母兄)、その子仲光らも、相次いで戦死や自害を遂げた。z 『玉葉』(『治承4年5月26日条』)によれば、先発隊に合流した平氏軍の藤原景高の部隊が橋桁を伝って攻撃をしかけ、藤原忠清の部隊が河の浅瀬から馬を乗り入れて宇治川を渡った。z 平等院で頼政軍と戦闘となり、源氏方は少数の兵で死を顧みず奮戦し、特に頼政の養子・兼綱の戦いぶりは、あたかも八幡太郎義家のようであったという。以仁王は30騎に守られて辛うじて平等院から脱出したが、藤原景高の軍勢に追いつかれ、山城国相楽郡光明山鳥居の前で、敵の矢に当たって落馬したところを討ち取られた(『吾妻鏡』)
2023年09月06日
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挙兵の動機z 以仁王と頼政が反平氏を唱えた挙兵の意思を固めた経緯と動機には諸説ある。z 『平家物語』では、挙兵の動機は、頼政の嫡男・仲綱と平宗盛(清盛の三男)の馬をめぐる軋轢ということになっている。z 宗盛が仲綱の愛馬“木の下(このした)”を欲しがった。仲綱は断ったが、宗盛は平氏の権勢を傘にしつこく要求し、頼政に諭されて、仲綱はしぶしぶ“木の下”を譲った。z 宗盛はすぐに譲らなかったことが気に入らず、“木の下”の名を“仲綱”と改めて焼印を押し、「仲綱、仲綱」と呼んで引き回したり鞭打ったりした。この屈辱と恥辱が、頼政・仲綱父子に謀反を決意させた。z この事件が事実がどうかはともかく、平氏一門の専横と源氏への日頃の軽侮に対する長年の不満の爆発は、理由として挙げられている。z 他に、頼政等摂津源氏は鳥羽上皇直系の近衛天皇、二条天皇に仕える大内守護の任にあったことから、別系統の高倉・安徳天皇の即位に反発したという説もある。z 『平家物語』では、頼政が夜半に不遇の以仁王の邸を訪れ、謀反を持ちかけたことになっているが、当時頼政は77歳という高齢であり、皇位への道を断たれて不満を持っていた以仁王の方から頼政に挙兵を持ちかけたという見方もある。z もっとも、頼政と以仁王が挙兵以前に関係を有していたことを示す証拠が、同時代の貴族の日記などの史料には存在せず、脚色の入る余地がある『平家物語』とそこから派生した書物にしか求められないことなどを理由に初めから謀議などはなかったという見方もある。z その見方によれば頼政の離反の原因として彼の篤い仏教信仰が背景として挙げられ、頼政は以前にも彼が配流のために護送していた天台座主明雲を延暦寺大衆が奪還しに来た際も抵抗せずに奪われている前例があること、今回も検非違使として以仁王を逃がした兼綱の責任を問われている状況下において既に出家していた頼政が以仁王を匿う園城寺の寺院や僧侶への攻撃を拒絶したために、今度は頼政親子が命令違反で捕らえられる可能性が浮上し、追い詰められた頼政親子がやむなく以仁王側について敵対するに至ったとする。z 以仁王の令旨z 治承4年(1180年)4月9日、源頼政と謀った以仁王は、「最勝親王」と称し、諸国の源氏と大寺社に平氏追討の令旨を下した。皇太子どころか親王ですらなく、王に過ぎない彼の奉書形式の命令書は、本来は御教書と呼ばねばならないが、身分を冒してこう称した。z 原文は『吾妻鏡』や『平家物語』に納められているが、令旨としての形式に不備があり、史料によって文言に異同がある。z 内容は自らを壬申の乱の天武天皇になぞらえ、皇位をだまし取る平氏を討って皇位に就くべきことを宣言するものであった。z 『平家物語』には、挙兵を呼びかける諸国の源氏の名が列挙されている。源光信(美濃源氏)、多田行綱(多田源氏)、山本義経(近江源氏)、武田信義、一条忠頼、安田義定(甲斐源氏)、伊豆の源頼朝、陸奥の源義経などの名があるが、当時の重要人物の欠落や錯誤が多く、後世の創作と考えられている。z その一方で、以仁王は園城寺退去以後に1通の文書を作成しており、これが令旨であった可能性も指摘されている。これは『愚管抄』に以仁王が滞在している間に「宮の宣」が出されたというもので、『平家物語』においては5月19日に源行家が伊勢神宮に納めたとされる願文にも「最勝親王の勅」というものが登場し、4月9日の令旨に類似する部分もあるものの、5月15日に園城寺に逃れた件まで引用されている。つまり、園城寺に逃れた直後に作成されたもので、行家が(4月9日の令旨ではなく)これに基づいて活動しているというものである。宣者が源仲綱(頼政の子)になっており作成日時が頼政らが合流した22日以後になるという矛盾はあるものの、「最勝親王の命」・「一院第三親王の宣」という命令書が出されて王の没後も流布していたことが『玉葉』や『明月記』にも登場すること(ただし、両書とも以仁王生存説にかこつけた偽書と推測しているが、両者とも実物は見ていない)から、4月9日の令旨は創作としても、園城寺に入った後に「以仁王の令旨」と呼ばれるのに相応しい文書が作成され、『吾妻鏡』に先行して成立したとみられる『平家物語』がそれをモデルとした可能性は考えられる。z この令旨を伝達する使者には、熊野に隠れ住んでいた源行家(源為義の末子)が起用された。行家は八条院の蔵人で、以仁王と近い関係にあった。行家は令旨の日付と同じ4月9日に京を立ち、諸国を廻った。z 4月27日には、山伏姿の行家が伊豆北条館を訪れ、源頼朝に令旨を伝えたという。
2023年09月06日
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5「以仁王の挙兵」詳細は「以仁王の挙兵」を参照治承4年(1180年)、安徳天皇の即位により皇位継承が絶望となった以仁王が、源頼政の協力を受け、平氏追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を計画した令旨を発した。その令旨は源行家により、全国各地の源氏や八条院の支配下にある武士達に伝えられた。z 以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)は、治承4年(1180年)に高倉天皇の兄宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した事件。z 計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は宇治平等院の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかしz これを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である治承・寿永の乱が始まる。以仁王の乱、源頼政の挙兵とも呼ばれる。z 保元の乱、平治の乱を経て平清盛が台頭し、平氏政権が形成された。仁安2年(1167年)には清盛は太政大臣にまで登りつめる。承安元年(1171年)、清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させた。z 平氏一門は知行国支配と日宋貿易で財を増し、10数名の公卿、殿上人30数名を占めるに至る。『平家物語』に云う、「平家にあらずんば人に非ず」の全盛期となった。z これには朝廷内部でも不満を持つものが多く、嘉応2年(1170年)には摂政・松殿基房と平重盛との間で暴力沙汰に発展した紛争が起きている(殿下乗合事件)。治承元年(1177年)には鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、平康頼、西光、俊寛ら院近臣多数が処罰され、後白河法皇も事件への関与を疑われた。z 治承2年(1178年)11月、中宮徳子は言仁親王を産み、直ちに立太子された。z 治承3年(1179年)11月、近衛家の所領継承問題に端を発し、ついに清盛は兵を率いて京へ乱入してクーデターを断行。法皇は鳥羽殿に幽閉され、関白・基房は解任・配流、院近臣39名が解官された(治承三年の政変)。z そして治承4年(1180年)2月、高倉天皇は譲位し、中宮徳子の産んだ言仁親王が即位した(安徳天皇)。z 大衆(だいしゅ)の両院誘拐計画z 安徳即位直後の3月に1つの事件が発生している。それは、園城寺の大衆が延暦寺・興福寺の大衆に呼びかけて後白河・高倉両院を誘拐して寺院内に囲い込み、朝廷に対して後白河法皇や前関白基房の解放、そして平家討伐命令を要求しようとした。z 摂関政治の解体以後、太政官は最高意思決定機関としての機能を喪失し、安徳天皇も3歳であったことから後白河法皇・高倉上皇のどちらかが治天の君として院政を執る必要があった。z その両院がいなくなれば朝廷は機能停止に陥るが、当時は「仏罰」の存在を武士達からも信じられていた時代であり、寺院の攻撃は一種の禁忌となっていた(鹿ケ谷の陰謀自体が、清盛への延暦寺攻撃命令に対する平氏側の報復とする説もある)。このため、公卿たちには要求を認めるしか選択肢は無くなるだろうという計画であった。z 実際に興福寺は同意、親平氏派が多い延暦寺でも反平氏派の恵光房珍慶の集団が参加の意思を示した。z 決行日を高倉上皇が厳島行幸に向かう3月17日と決定したが、前代未聞の計画であったため、興福寺の使者が鳥羽殿幽閉中の後白河法皇に打ち明けたところ、驚いた後白河法皇が平宗盛に事の次第を告げたために、高倉上皇の出発日が19日に変更されて失敗に終わった。z だが、これを機に高倉上皇と清盛の間で後白河法皇の安全を理由に幽閉場所を鳥羽殿から京都市中へ移動させることについて協議された。5月14日の深夜、後白河法皇は鳥羽殿から八条坊門烏丸邸に遷った(『百錬抄』は藤原俊盛邸、『玉葉』は藤原季能邸とする)。z 引き続き高倉上皇が院政を執ることになったものの、幽閉生活から解放されることになった。以仁王が園城寺や興福寺を頼りにした背景にはこの出来事の存在が背景にあったと思われる。z 以仁王と源頼政z 微妙な立場にあったのが後白河法皇の第三皇子・以仁王であった。彼は学芸に優れた才人だったが、平氏政権の圧力で30歳近い壮年でなお親王宣下も受けられずにいた。z それでも、莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王(後白河法皇の異母妹)を後ろ盾に、彼女の猶子となって、出家せずに皇位へ望みをつないでいた。だが、安徳天皇の即位によってその望みも断たれ、経済基盤である荘園の一部も没収された。z 源頼政は源頼光の系譜に連なる摂津源氏で、畿内近国に基盤を持つ京武士として大内守護に任じられていた。z 保元の乱では勝者の天皇方につき、平治の乱では主美福門院の意向を汲みながら形勢を観望して藤原信頼に与しなかった。摂津源氏の頼政はその後も地味ながら軍事貴族の一員として過ごしていた。z 平氏全盛の中、源氏の頼政は地味な立場であり続けたが、治承2年(1178年)に清盛の推挙により従三位に昇進した。z 『平家物語』では、不遇の身を嘆く和歌を詠み、それを知った清盛が、「頼政を忘れていた」と推挙したことになっている。九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているように、平氏以外の武士が公卿(従三位)となるのは異例であった。z 頼政はこの時70代半ばを超えた老齢で、念願の三位叙位が叶った翌年には出家して、家督を嫡男の仲綱に譲った。
2023年09月06日
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祭神S 祭神は次の3柱。3柱は「宗像三女神」と総称される。S 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)S 田心姫命(たごりひめのみこと)S 湍津姫命(たぎつひめのみこと)S 市杵島姫命は神仏習合時代には仏教の女神の弁才天と習合し、隣接する大願寺と一体化して大伽藍を構成していた。現在、大願寺は「日本三大弁才天」の1つとされている。S 創建S 社伝では、推古天皇元年(593年)、当地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵島姫命を祀る社殿を創建したことに始まるとされる。「イツクシマ」という社名も「イチキシマ」が転じたものとする説がある。S 厳島神社の鎮座する厳島(宮島)は「神に斎く(いつく = 仕える)島」という語源[* 4]のように、古代から島そのものが神として信仰されたと考えられている。厳島中央の弥山(標高535m)山頂には巨石が連なっており、山岳信仰の対象であったとされる(「厳島#歴史」も参照)。S 概史S 文献での初出は、弘仁2年(811年)に名神に預かったという記事である。平安時代中期の『延喜式神名帳』では「安芸国佐伯郡 伊都伎嶋神社」と記載されて名神大社に列したほか、安芸国一宮とされた。その頃には神職は佐伯氏が掌握した。この社格が昇っていく過程で祭神が整備されていったと考えられており、祭神の市杵島姫命が明記されるのは『一宮記』以降になる。S 平安時代末期、神主・佐伯景弘と当時の安芸守・平清盛の結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けた。仁安3年(1168年)頃、平清盛が社殿を造営し現在と同程度の大規模な社殿が整えられた。S 平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となった。平家滅亡後も源氏をはじめとして時の権力者の崇敬を受けるが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災で建物の全てを焼失している。そのため、現在残る社殿は仁治年間(1240年~1243年)以降に造営されたものである。S 厳島は神の住む島として禁足地とされ、鎌倉時代頃までは地御前神社(外宮)において主な祭祀が行われていた。S 鎌倉時代末期から南北朝時代以降、社人・僧侶が禁を破って住むようになったとされる。S 戦国時代に入り世の中が不安定になると社勢は徐々に衰退する。毛利元就が弘治元年(1555年)の厳島の戦いで勝利を収めて厳島を含む一帯を支配下に置き、厳島神社を崇敬するようになると再び隆盛した。S 元就は大掛かりな社殿修復を行なった。また、豊臣秀吉も九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、大経堂(現 千畳閣)の造営を行なっている。S 江戸時代には厳島詣が民衆に広まり、門前町や周囲は多くの参拝者で賑わった。S 明治維新後、明治新政府が派遣した大参事によって社殿が「仏式」と判断され、神仏分離の原則によって社殿の焼却が命じられた(廃仏毀釈)。S 厳島神社の棚守(宮司に相当)が東京の明治新政府に直訴したことによって社殿の焼却は免れたものの、仏教的と考えられた社殿の彩色がすべて剥がし落とされて「白木造」に改められ、千木と鰹木が新設されるなどの「復古」が行われた。また大経堂(千畳閣)は内陣の木鼻を切り落とし、仏像などを撤去したうえで末社「豊国神社」に改めるなど、社殿の損壊と分離が行われ、大聖院(旧別当寺)、大願寺といった寺院が独立した。S 明治4年(1871年)近代社格制度において国幣中社に列し、明治44年(1911年)に官幣中社に昇格した。明治末に社殿が国宝に指定されたことを機に、廃仏毀釈で破壊された部分が明治末の大修理と大正の修理で復旧され、千木と鰹木も撤去された(このため、明治時代の厳島神社の写真にのみ千木と鰹木が写っている)。神階S 弘仁2年(811年)7月17日、名神に預かる (『日本後紀』)- 表記は「伊都岐島神」、文献上の初見。S 天安3年(859年)1月27日、正五位下から従四位下 (『日本三代実録』)- 表記は「伊都岐島神」。S 貞観9年(867年)10月13日、従四位上 (『日本三代実録』)- 表記は「伊都岐島神」。S 神職S 厳島神主家参照。飛鳥時代に厳島神社を創建したとされる佐伯鞍職に始まり、文献に記載のない期間を経て平安時代以降は代々佐伯氏が世襲したことが分かっている。S 平安時代末期には佐伯景弘が平家一門と結んで繁栄を見せた。S 鎌倉時代に入り承久の乱では後鳥羽上皇側として活動したため、佐伯氏は神主家当主の座を降り藤原親実が新たな厳島神主家となった。その後の佐伯氏は厳島神社の神官として活動する。以後、藤原氏が戦国時代に滅亡するまで神主家を務めた。藤原氏滅亡後は佐伯氏が復権し現在に至っている。 また、この政変で平氏の知行国は17か国から32か国に急増するが、このことは全国各地において国衙権力を巡る在地勢力の混乱を招いた。東国においてはそれまでの旧知行国主のもと国衙を掌握していた在地豪族が退けられ、新たに知行国主となった平氏と手を組んだ豪族が勢力を伸ばすなど、国衙権力を巡る在地の勢力争いは一触即発という状況となった。
2023年09月05日
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治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王に譲位(安徳天皇)、平氏の傀儡としての高倉院政が開始された。♠ 影響♠ 今回の事件の原因として、『玉葉』や『山槐記』は、越前国の問題・平盛子亡き後の摂関家領の問題・松殿師家の権中納言昇進問題があるとしている。越前国は鹿ケ谷の陰謀の処理を巡って清盛と不協和音を抱えたまま死去した重盛の知行国であった。しかも没後にその遺児の維盛ではなく弟の宗盛が後継者となったことによって、宗盛と小松家の対立が危惧される中で起きた事件であり、対応を間違えれば平氏一門が分裂する恐れさえあった。♠ 後者の2つは摂関家継承を巡る問題で、平氏とつながりの深い近衛家への摂関家継承は、その実現によって天皇家 - 近衛家(摂関家) - 平氏の連帯が可能となるもので、清盛と後白河の相互信頼の象徴であるとともに、今後の平氏政権の帰趨に関わるものであった。政変後の越前国の知行国主は院から清盛の異母弟の平教盛となっている。♠ 更に鹿ケ谷の陰謀の前後から続く後白河と延暦寺による「王法」と「仏法」の衝突の問題、後白河の近臣で一定の武力を有した頼盛との確執など、清盛と後白河の対立は個人的なものに留まらず、平氏一門の分裂、更には国政全般まで広がりかねない深刻な構図になっていた。♠ 清盛はこうした閉塞状況を打破し、治天の君である後白河の責任を追及して政治的な引退を促すために行動を起こしたと推測される。♠ 更に頼盛との間に和戦両方の可能性が存在したために、大軍をもって都を制圧する必要が生じたと見られている。頼盛が清盛に屈したことで衝突は回避されたものの、九条兼実の元に後白河の鳥羽殿幽閉の理由として清盛の頼盛討伐計画の噂が伝えられるなど、緊迫した状況が数日間にわたって続くことになった(『玉葉』11月20日条)。♠ 後白河を幽閉して政治の実権を握ったことは、多くの反対勢力を生み出した。関白・基房の配流に反発する興福寺、後白河と密接なつながりをもつ園城寺が代表である。さらに新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が巻き起こった。♠ 特に、この時に交替した上総・相模では有力在庁の上総広常・三浦義明が平氏の目代から圧迫を受け、源頼朝の挙兵に積極的に加わる要因となった。中央で一掃された対立は地方で激化することになる。 治承3年(1179年)11月、清盛のクーデターにより後白河法皇の院政は停止される。また、このクーデターによって摂政基房は解任され、代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任する。また、院近臣の多くが解官された。翌治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王(安徳天皇)に譲位、高倉院政が開始される。3月、高倉上皇は清盛の強い要請により厳島神社への参詣を計画するが、先例を無視するものとして畿内の寺社勢力は猛然と反発する[3]。S 厳島神社(いつくしまじんじゃ、公式表記:嚴島神社)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。S 古くは「伊都岐島神社」とも記された。全国に約500社ある厳島神社の総本社である。S 平成8(1996)年12月にユネスコの世界文化遺産に「厳島神社」として登録されている。S 広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座する。厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の1つに数えられている。S 平家からの信仰で有名で、平清盛により現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。S 社殿は現在、本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定されている。そのほか、平家の納めた平家納経を始めとした国宝・重要文化財の工芸品を多数納めている。S 厳島神社の平舞台(国宝:附指定)は日本三舞台の1つ[* 1]に数えられるほか、海上に立つ高さ16mの大鳥居(重要文化財)は日本三大鳥居の1つである。また、夏に行われる例祭は「管絃祭」として知られる。
2023年09月05日
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4「治承三年の政変」詳細は「治承三年の政変」を参照♠ 治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)は、治承3年(1179年)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。♠ 治承元年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により後白河法皇と平清盛の関係は危機的状況となったが、この時は清盛も首謀者の藤原成親・西光の処刑と参加者の配流にとどめ、後白河自身の責任は問わなかった。後白河も表面は清盛との友好関係を修復することにつとめ、両者の対立は緩和されたかに見えた。♠ 治承2年(1178年)11月、中宮・徳子が高倉天皇の第一皇子を出産する。清盛は皇子を皇太子にすることを後白河に迫り、12月9日、親王宣旨が下されて言仁(ときひと)と命名され、15日、立太子した。皇太子の後見人・東宮傅(とうぐうのふ)は左大臣・藤原経宗が任じられ、春宮坊は、春宮大夫・平宗盛、権大夫・花山院兼雅、亮・平重衡、権亮・平維盛など一門や親平氏公卿で固められた。♠ 皇太子周辺から院近臣は排除され、後白河は平氏に対して不満と警戒を強めることになる。言仁誕生直後に生まれた坊門殖子所生の高倉の第二皇子・守貞親王も平知盛が養育することになった(『山槐記』治承3年2月28日条)。♠ 要因♠ 治承3年(1179年)3月、平重盛は病の悪化で内大臣を辞任する。重盛は鹿ケ谷の陰謀で清盛に藤原成親の助命を頼んで聞き入れられず、政治への意欲を失い表舞台に出なくなっていた。♠ 6月17日、清盛の娘である白河殿盛子が死去する。盛子は夫・近衛基実の死後、摂関家領の大部分を相続していて、九条兼実は「(世間の噂では)異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」と日記に記している(『玉葉』治承3年6月18日条)。盛子の管理していた摂関家領は基通(基実の子)もしくは、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続すると思われていたが、後白河は白河殿倉預(くらあずかり)に近臣・藤原兼盛を任じて、事実上その所領の全てを没収してしまった。♠ 7月29日には重盛が死去するが、10月9日の除目で院近臣の藤原季能が越前守となり、仁安元年(1166年)以来の重盛の知行国が没収されてしまう。しかも、この日の人事で関白・松殿基房の子で8歳の師家が20歳の基通を差し置いて権中納言になった。♠ 基房は摂関家領を奪われた上に、殿下乗合事件に巻き込まれたこともあり、反平氏勢力の急先鋒となっていた。この人事は自らの娘・完子を基通に嫁がせ支援していた清盛の面目を潰すものだった。♠ さらに親平氏の延暦寺でも反平氏勢力が台頭して内部紛争が起こるなど、情勢は予断を許さないものになった。♠ 勃発♠ 治承3年(1179年)11月14日、豊明節会の日。清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。♠ 京都には軍兵が充満し、人々は何が起こるか分からず騒擾を極めた。15日、基房・師家が解官され、正二位に叙された基通が関白・内大臣・氏長者に任命された。清盛の強硬姿勢に驚いた後白河は、静賢(信西の子)を使者として今後は政務に介入しないことを申し入れたため、一時は関白父子の解任で後白河と清盛が和解するのではないかという観測も流れた。♠ しかし16日、天台座主・覚快法親王が罷免となり親平氏派の明雲が復帰、17日、太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官される。♠ この中には一門の平頼盛や縁戚の花山院兼雅などが含まれており、この政変の発端となった越前守の藤原季能にしても清盛の次男の平基盛の娘が妻であった。♠ 諸国の受領の大幅な交替も行われ、平氏の知行国はクーデター前の17ヶ国から32ヶ国になり、「日本秋津島は僅かに66ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」(『平家物語』)という状態となった。♠ 18日、基房は大宰権帥に左遷の上で配流、師長・源資賢の追放も決まった。これらの処置には除目が開催され、天皇の公式命令である宣命・詔書が発給されていることから、すでに高倉天皇が清盛の意のままになっていたことを示している。♠ 20日の辰刻(午前8時)、後白河は清盛の指示で鳥羽殿に移された。鳥羽殿は武士が厳しく警護して信西の子(藤原成範・藤原脩範・静憲)と女房以外は出入りを許されず幽閉状態となり、後白河院政は停止された。清盛は後の処置を宗盛に託して、福原に引き上げた。次々と院近臣の逮捕・所領の没収が始まり、院に伺候していた検非違使・大江遠業は子息らを殺害して自邸に火を放ち自害、白河殿倉預の藤原兼盛は手首を切られ、備後前司・藤原為行、上総前司・藤原為保は殺害されて河へ突き落とされた。♠ 後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となった。♠ ただ、清盛も当初から軍事独裁を考えていたわけではなく、左大臣・経宗、右大臣・兼実など上流公卿には地位を認めて協力を求めた。♠ また、知行国の増加に比して人事面では平経盛が修理大夫になったのが目立つ程度で、解任された公卿たちの後任の多くを親平氏あるいは中間派とみなされた藤原氏の公卿が占めた。また、解任された公卿の多くも翌年には復帰している。
2023年09月05日
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陰謀発覚[ 出撃直前の6月1日夜半、清盛の西八条邸を多田行綱がひそかに訪れ、平氏打倒の謀議を密告した(『平家物語』。[ 謀議を知った清盛は直ちに軍勢に動員をかけ、市内は武装した平家の武士たちで溢れかえった。平家軍は西光を捕縛、清盛のもとに連行し、拷問にかけて全容を自供させてから斬首した。呼び出されて清盛邸に出頭した成親も西光の自供を突きつけられ、拘束された。[ 事を聞いて清盛邸に来た重盛は、命だけは助かるようにすると妻の兄である成親を励ましたという(『愚管抄』)。[ 西坂本まで下っていた山門の大衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送り敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。[ 4日、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。[ 9日、尾張に流されていた師高が、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺される。成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず、崖から突き落とされて殺害された。[ 影響[ 謀議が事実であったかどうかは当時でも疑問視する向きが多く、西光と成親が清盛の呼び出しに簡単に応じていることから、平氏側(清盛)が院近臣勢力を潰すため、もしくは山門との衝突を回避するためにでっち上げた疑獄事件の可能性もある。[ 清盛が狙いをつけたのは院近臣の中核である西光・成親で、後白河には手を下さず福原に引き上げた。後白河は「こはされば何事ぞや、御とかあるべしとも思し召さず」と白を切ったという。また、清盛も後難を恐れて院御所への出仕を拒む諸臣に出仕を命じている(『玉葉』6月3日条)ことから、この時点で後白河への処分を見送ったと考えられている。[ 延暦寺攻撃という後白河の命令に清盛が抵抗した理由については次の理由が考えられている。当時の人々からは、神罰や仏罰の存在が真実であると考えられていた。しかも平安京を仏法で守護していると信じられてきた延暦寺を攻撃するともなれば、ただでは済まされず必ず仏罰を受けると思われていた。[ これは、『平家物語』のこの事件の件において、かつて関白藤原師通が延暦寺大衆の攻撃を命じた仏罰を受けて死亡したという故事を載せていることからも理解可能である。[ 特にそれを命じたのが治天の君であり、「王法」の代表者とされた後白河であったことは、王法と仏法の相互依存によって国家が守護されるという「王法仏法相依」理念の崩壊を意味することにもなりかねない深刻なものであった。[ 実際に攻撃を命じられた清盛の立場からすれば、延暦寺攻撃による因果応報によって自己及び平家一門が仏罰を受けて滅亡するという事態を危惧することは十分に考えられ、それを強制的に平家一門に行わせようとした後白河及び院近臣に何らかの意図を疑う余地があったと考えられる。「延暦寺攻撃命令=平氏一門滅亡の謀略」という発想は、その後の足利義教・細川政元・織田信長の比叡山焼き討ちの事実を知る後世の人々には突飛に見えても、清盛及びその時代の人々には通用する構図であったと考えられるのである。[ 一方、重盛は、白山事件で家人が矢を神輿に当てる失態を犯したのに加え、妻の兄が配流されて助命を求めたにも関わらず殺害されたことで面目を失い、6月5日に左大将を辞任した。[ この結果、宗盛が清盛の後継者の地位を確立した。また、清盛の弟で、成親捕縛時に重盛と共に居合わせた頼盛も、妻の兄弟の俊寛が参加していた事で同じく面目を失い、後白河の院近臣としてただでさえ微妙だった立場がより悪化していく事になる。[ 清盛は山門との衝突を回避し、反平氏の動きを見せていた院近臣の排除に成功したが、清盛と後白河の関係は修復不可能なものとなり治承三年の政変(1179年)へとつながっていく。 一方、その頃から高倉天皇が政治的発言権を強めるようになっていく。治承2年(1178年)、高倉天皇の元に入内させていた清盛の娘・徳子が皇子を出産。後継者となる皇子の誕生で、高倉天皇が退位して院政を敷く条件が生まれる。しかし治承3年(1179年)、清盛の息子平重盛と娘の平盛子(近衛基実の妻)が相次いで死去。この二者の遺領や知行国を巡って当時の摂政松殿基房や後白河法皇と清盛の間に対立が起きるようになった。
2023年09月05日
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3「鹿ケ谷の陰謀」詳細は「鹿ケ谷の陰謀」を参照後白河法皇と清盛の政治提携は続いていたが、この二者を橋渡ししていた建春門院(清盛の義妹)が安元2年(1176年)に亡くなると、両者の間に齟齬が生じていくようになる。そして安元3年(1177年)北陸の国衙と比叡山の末社の対立をきっかけに比叡山と院近臣が対立し、院近臣を守る立場にある後白河法皇は清盛に比叡山攻撃を指示したが、清盛はこれを拒否、逆に比叡山側の要求を通し院近臣の身柄を拘束するという手段に出る。これによって後白河法皇は比叡山の言い分を聞かざるを得なくなり、近臣の追放を許す結果となる(鹿ケ谷の陰謀)。[ 鹿ヶ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)は、平安時代の安元3年(1177年)6月に京都で起こった、[ 平家打倒の陰謀事件。京都、東山鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)の静賢法印(信西の子)の山荘で謀議が行われたとされ、このように呼ばれる。近年では、この陰謀が平清盛によってでっち上げられたものだとする説など解釈に諸説あり、「鹿ヶ谷の事」と著す学者もいる。[ 建春門院の死[ 安元2年(1176年)後白河法皇は50歳となり、正月から祝いの行事が続いた。平氏一門も法住寺殿の宴に出席して、法皇との親密ぶりを誇示した。[ しかし6月に妻の建春門院の病状が悪化して、7月8日に死去した。相前後して、異母妹で長男の二条天皇の中宮だった高松院(姝子内親王)・孫の六条上皇・異母弟近衛天皇の中宮だった九条院(藤原呈子)が亡くなり、政界はにわかに動揺する。[ まず母・建春門院の死により、皇子のいない高倉天皇の立場が不安定となった。成人して政務に関与するようになった高倉天皇と、院政継続を望む後白河の間には対立の兆しがあったが、12月5日の除目において後白河近臣の藤原定能・藤原光能が、平知盛らを超えて蔵人頭に任じられた。後白河院政派の躍進に対する巻き返しとして、翌安元3年(1177年)正月の除目では平重盛が左大将、平宗盛が右大将となった。[ 建春門院という仲介者を失ったことで、人事を巡り高倉を擁する平氏と後白河院を擁する院近臣勢力は相争うことになる。[ それでも3月14日に後白河院が千僧供養のために平清盛が滞在している福原を訪れて平氏に好意的態度を示し、亀裂は修復されたかに見えた。[ 白山事件[ ところが、後白河が帰京した3月22日、山門(比叡山延暦寺)の大衆が加賀守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こした(白山事件)。[ 発端は後白河の近臣である西光の子・師高が加賀守に就任し、同じく子の藤原師経がその目代となり、師経が白山の末寺を焼いたことに激怒した白山の僧侶が山門に訴えたことだった。[ 国衙の目代と現地の寺社が、寺領荘園の所務を巡り紛争を起こすことは各地で頻発していたが、この事件では白山が山門の末寺で、国司と目代が院近臣・西光の子であることから、中央に波及して山門と院勢力の全面衝突に発展した。[ 後白河は目代・師経を備後国に流罪にすることで事態を収拾しようとしたが、大衆(僧徒)は納得せず4月12日に神輿を持ち出して内裏に向かう。[ 後白河は強硬策をとり官兵を派遣するが、翌日警備にあたった重盛の兵と大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たって死者も出したことから事態はさらに悪化する。[ 大衆は激昂して神輿を放置して帰山、やむなく朝廷は祇園社に神輿を預けて対応を協議した。4月20日、師高の尾張国への配流、神輿に矢を射た重盛の家人の拘禁が決定、大衆の要求を全面的に受諾することで事件は決着する。[ 父親の西光については一時配流が決定された(『愚昧記』4月15日条)が、実際には後白河の取り成しを大衆側が受け入れる形で許されることになった。[ 山門攻撃準備[ 直後の4月28日、「太郎焼亡」と称される安元の大火が発生、大極殿および関白松殿基房以下13人の公卿の邸宅が焼失して、人々に衝撃を与えた。[ このような中で、後白河は突如として先の事件を蒸し返し、5月4日に天台座主明雲の逮捕を検非違使に命じ、翌日には座主職を解任、所領を没官すると5月21日に伊豆国へ配流した。西光が師高の流罪を嘆き、強訴の張本人が明雲であるとして処罰を訴えたことが原因であったという。[ また、『愚昧記』(5月5日条)によれば、著者の三条実房が院近臣の藤原光能から先に延暦寺が起こした嘉応の強訴の際に大衆の強訴を明雲が許可していたとの密告があり、その証拠となる文書が届けられたという説明を受けたという。[ 嘉応の強訴で配流された藤原成親は西光の義兄(西光は成親の父である藤原家成の猶子)であった。[ ところが、座主の解任と配流に反発する大衆が再度強訴に踏み切るという噂が京中を流れるが、実際には解任と配流の取消を求める使者を派遣して後白河に却下されるに留まった。[ なお、この時後白河は警備担当者の検非違使山木兼隆に対して強訴の大衆が明雲奪還に向かった際には明雲を即刻斬首せよと命じたとされている(『玉葉』・『愚昧記』・『百練抄』)。[ 5月22日明雲の身柄は伊豆の知行国主であった源頼政の兵に護衛されて京都を出発する。[ ところが23日に近江国(粟津とも国分寺とも)にて大衆2千人が護送の行列を包囲、明雲の身柄を奪回して比叡山に逃げ込んでしまった。頼政は後白河の叱責を受けるが、先に大衆と戦ったために却って捕らえられた重盛の郎党を目の当たりにしているだけにこれを防ぐ意欲はなかったと考えられている。[ 次いで明雲捕縛に派遣された多田行綱も空しく帰還するだけであった。明雲の奪還と比叡山内への隠匿には全山的な合意があったと考えられ、日本におけるアジール出現の最初の事例とも言われている。[ これに激昂した後白河は平重盛・宗盛(この時両名が近衛大将を占めていた)に対して坂本を封鎖して山門(延暦寺)そのものを攻撃するようにという命令を出したのである。驚いた2人は福原にいた父・清盛に判断を仰いだ。容易でない事態と判断した清盛は直ちに上洛し、27日の夜に京都に入った。[ 28日に後白河と会見した清盛は攻撃には消極的で後白河を思いとどまらせようとしたが、後白河に押し切られる形となり、近江・美濃・越前の武士も動員されて攻撃開始は目前に迫った。
2023年09月05日
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2「治承・寿永の乱の起因」(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。一般的には「源平合戦(げんぺいかっせん、げんぺいがっせん)」あるいは「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある(詳しくは後述)。また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。平氏の隆盛平安時代末期、朝家・貴族内部の権力闘争が、保元の乱・平治の乱といった軍事衝突に発展するようになった。こうした内乱で大きな働きをした平清盛は、対立を深める後白河上皇と二条天皇の間をうまく渡り歩き、さらに摂政近衛基実と姻戚関係を結ぶなど、政界に於ける地位を上昇させていく。清盛の地位向上に伴い、平氏一門の官位も上昇、知行国を次第に増やしていった。二条天皇が崩御すると六条天皇が即位するが、後に高倉天皇が即位する。この間、清盛は後白河上皇と政治的に接近して更に栄達を遂げ、仁安2年(1167年)には太政大臣に就任。朝廷内における発言権を大いに増すこととなる。
2023年09月05日
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「歴史の回想・治承・寿永の乱」1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・・22、 「治承・寿永の乱の起因」・・・・・・・・・・・・43、 「鹿ケ谷の陰謀」・・・・・・・・・・・・・・・・54、 「治承三年の政変」・・・・・・・・・・・・・・・145、 「以仁王の挙兵」・・・・・・・・・・・・・・・・266、 「東国の挙兵」・・・・・・・・・・・・・・・・・417、 「富士川の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・648、 「清盛の死と南都焼き討ち」・・・・・・・・・・・769、 「東国の割拠」・・・・・・・・・・・・・・・・・8410、「義仲の上洛」・・・・・・・・・・・・・・・・・9211、「寿永二年十月の宣旨」・・・・・・・・・・・・・9612、「義仲の滅亡」・・・・・・・・・・・・・・・・・10713、「一の谷の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・12214、「三日平氏の乱」・・・・・・・・・・・・・・・・13215、「屋島の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・・13616、「壇ノ浦の戦い」・・・・・・・・・・・・・・・・14617、「史上初の全国的内乱」・・・・・・・・・・・・・15518、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・・161 1、「はじめに」1180年(治承4)の以仁王・源頼政の挙兵から。1189年(文治5)の奥州合戦に至るまでの、10年間にわたって全国的に展開した内乱。1179年11月、平清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して政権を樹立すると、翌年以仁王・源頼政らは、以仁王の令旨を発して諸国の反平氏武士に蜂起を呼びかけるとともに、平氏の政策に反発する園城寺・興福寺などの權門寺院勢力と糾合して挙兵の準備を進めた。1180年5月個の挙兵は事前に露顕し、平氏軍によって鎮圧されたが、8月伊豆国で源頼朝、9月に信濃国源義仲が挙兵し、甲斐・紀伊・豊後・土佐・伊予などの諸国でも蜂起が相次ぎ、内乱は同時多発的形態をとって瞬く間に全国的に広まった。子の内乱が地域社会に巻き込んで一斉に広まった理由について、かつては古代的貴族階級に対しする在領主階級闘争として理解されてきた。しかし」王朝貴族の、封建領主としての性格が指摘されとともに、鎌倉幕府に結集することが必ずしも在地領主制一般の発展コースではなかったことが主張されるようになり、この見方は後退ししつつある。むしろ荘園公領制の形成に伴って、地域社会の在地領主間の競合・矛盾が展開されてきた。富士川の戦のあと上洛を主張した源頼朝に対して、有力御家人の上総広常や千葉常胤らが反対して、彼らと所領紛争を続けていた。平氏軍の北陸道遠征での敗戦であり、7月の平氏西走、木曾義仲・源行家軍の入京と、情勢は急激に変化していった。1184年1月、義仲軍を破って入京した頼朝派遣軍は2月に一の谷の戦で勝利し畿内、近国を軍事制圧し。翌年1185年(元暦2)3月壇ノ浦で平氏一門を滅亡させた。
2023年09月05日
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