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詳細は「 以仁王の挙兵 」を参照
治承4年(1180年)、安徳天皇の即位により皇位継承が絶望となった 以仁王 が、 源頼政 の協力を受け、平氏追討・安徳天皇の廃位・新政権の樹立を計画した令旨を発した。その令旨は 源行家 により、全国各地の源氏や 八条院 の支配下にある武士達に伝えられた 。
z 以仁王の挙兵 (もちひとおうのきょへい)は、 治承 4年( 1180 年 )に 高倉天皇 の兄宮である 以仁王 と、 源頼政 が打倒 平氏 のための挙兵を計画し、諸国の 源氏 や大寺社に蜂起を促す 令旨 を発した事件。
z 計画は準備不足のために露見して追討を受け、以仁王と頼政は 宇治平等院 の戦いで敗死、早期に鎮圧された。しかし
z これを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、全国的な動乱である 治承・寿永の乱 が始まる。 以仁王の乱 、 源頼政の挙兵 とも呼ばれる。
z 保元の乱 、 平治の乱 を経て 平清盛 が台頭し、 平氏政権 が形成された。 仁安 2 年( 1167 年 )には清盛は 太政大臣 にまで登りつめる。 承安 元年( 1171 年 )、清盛は娘の 徳子 を 高倉天皇 に入内させた。
z 平氏一門は 知行国 支配と 日宋貿易 で財を増し、10数名の 公卿 、 殿上人 30数名を占めるに至る。『 平家物語 』に云う、「平家にあらずんば人に非ず」の全盛期となった。
z これには朝廷内部でも不満を持つものが多く、 嘉応 2年( 1170 年 )には 摂政 ・ 松殿基房 と 平重盛 との間で暴力沙汰に発展した紛争が起きている( 殿下乗合事件 )。治承元年( 1177 年 )には 鹿ケ谷の陰謀 が起き、 藤原成親 、 平康頼 、 西光 、 俊寛 ら院近臣多数が処罰され、 後白河法皇 も事件への関与を疑われた。
z 治承2年( 1178 年 )11月、 中宮 徳子は 言仁親王 を産み、直ちに立太子された。
z 治承3年( 1179 年 )11月、 近衛家 の所領継承問題に端を発し、ついに清盛は兵を率いて 京 へ乱入して クーデター を断行。法皇は 鳥羽殿 に幽閉され、 関白 ・基房は解任・配流、院近臣39名が解官された( 治承三年の政変 )。
z そして治承4年( 1180 年 )2月、高倉天皇は譲位し、中宮徳子の産んだ言仁親王が即位した( 安徳天皇 )。
z 大衆 ( だいしゅ ) の両院誘拐計画
z 安徳即位直後の3月に1つの事件が発生している。それは、 園城寺 の 大衆 が 延暦寺 ・ 興福寺 の大衆に呼びかけて後白河・高倉両院を誘拐して寺院内に囲い込み、朝廷に対して後白河法皇や前関白基房の解放、そして平家討伐命令を要求しようとした。
z 摂関政治 の解体以後、 太政官 は最高意思決定機関としての機能を喪失し、安徳天皇も 3 歳であったことから後白河法皇・高倉上皇のどちらかが 治天の君 として 院政 を執る必要があった。
z その両院がいなくなれば朝廷は機能停止に陥るが、当時は「 仏罰 」の存在を武士達からも信じられていた時代であり、寺院の攻撃は一種の 禁忌 となっていた(鹿ケ谷の陰謀自体が、清盛への延暦寺攻撃命令に対する平氏側の報復とする説もある)。このため、公卿たちには要求を認めるしか選択肢は無くなるだろうという計画であった。
z 実際に興福寺は同意、親平氏派が多い延暦寺でも反平氏派の恵光房珍慶の集団が参加の意思を示した。
z 決行日を高倉上皇が 厳島 行幸に向かう3月17日と決定したが、前代未聞の計画であったため、興福寺の使者が鳥羽殿幽閉中の後白河法皇に打ち明けたところ、驚いた後白河法皇が平宗盛に事の次第を告げたために、高倉上皇の出発日が19日に変更されて失敗に終わった。
z だが、これを機に高倉上皇と清盛の間で後白河法皇の安全を理由に幽閉場所を鳥羽殿から京都市中へ移動させることについて協議された。5月14日の深夜、後白河法皇は鳥羽殿から八条坊門烏丸邸に遷った(『百錬抄』は藤原俊盛邸、『玉葉』は 藤原季能 邸とする)。
z 引き続き高倉上皇が院政を執ることになったものの、幽閉生活から解放されることになった。以仁王が園城寺や興福寺を頼りにした背景にはこの出来事の存在が背景にあったと思われる。
z 以仁王と源頼政
z 微妙な立場にあったのが後白河法皇の第三皇子・以仁王であった。彼は学芸に優れた才人だったが、平氏政権の圧力で30歳近い壮年でなお 親王宣下 も受けられずにいた。
z それでも、莫大な 荘園 をもつ八条院 暲子内親王 (後白河法皇の異母妹)を後ろ盾に、彼女の 猶子 となって、出家せずに皇位へ望みをつないでいた。だが、安徳天皇の即位によってその望みも断たれ、経済基盤である荘園の一部も没収された。
z 源頼政は 源頼光 の系譜に連なる 摂津源氏 で、 畿内 近国に基盤を持つ京武士として大内守護に任じられていた。
z 保元の乱では勝者の天皇方につき、平治の乱では主 美福門院 の意向を汲みながら形勢を観望して 藤原信頼 に与しなかった。摂津源氏の頼政はその後も地味ながら 軍事貴族 の一員として過ごしていた。
z 平氏全盛の中、源氏の頼政は地味な立場であり続けたが、治承2年(1178年)に清盛の推挙により 従三位 に昇進した。
z 『平家物語』では、不遇の身を嘆く 和歌 を詠み、それを知った清盛が、「頼政を忘れていた」と推挙したことになっている。 九条兼実 が日記『 玉葉 』に「第一之珍事也」と記しているように、平氏以外の武士が 公卿 (従三位)となるのは異例であった。
z 頼政はこの時70代半ばを超えた老齢で、念願の三位叙位が叶った翌年には出家して、家督を嫡男の 仲綱 に譲った。
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