●十禅寺
徳林庵横の大きな石碑に従って北上し、京阪京津線を渡ります。
本山修験宗、聖護院門跡の末寺。
平安時代の859年(貞観元年)に 人康親王
が病気によって失明し出家した山荘(山科宮)を
親王が崩御された後、寺にして聖徳太子(しょうとくたいし)の作と伝わる聖観音像
(しょうかんのんぞう)を本尊とし親王を開山に創建したといわれています。
その後、度重なる戦火で荒廃してしまいますが、江戸時代前期に
江玉真慶(こうぎょくしんぎょう)が再興をし真慶に帰依した
明正天皇(めいしょうてんのう:第109代天皇)が1655年(明暦元年)に伽藍を
寄進しました。
また、天皇が崩御された後遺言によって天皇と父母の位牌が安置され菩提寺勅願所として
36石の禄と
数々の宝物が下賜されました。
●人康親王墓
十禅寺の北東にあります。
参道の入り口は閉っていたので、参道横の駐車場の奥まで行き、横から撮影しました。
わずかにお墓の頭が見えます。
十禅寺に、「弦楽ふるさとマップ」というのが置いてありました。
そこにGoogle Mapに載っていない 「四宮大明神」
が案内されていましたので行ってみることに。
途中、さきほどの観光ツアーの一行が戻ってくるのに会いました。
住宅地の間の細い道の入り口に案内がありました。
●琵琶琴元祖四宮大明神
琵琶・琴などの弦楽器の祖として人康親王が祀られています。
前出の「やましな飴」で財を成した 松村興三郎
が祠を再興したそうです。
格子戸のある祠には、人康親王の時代の 園城寺(三井寺)
再興者、 智証大師円珍
が
慕われ信仰された大峰山修験道の祖として知られる 役行者
の石像が安置されています。
御足摺水(おあしずりのみず)
運命を嘆いた親王が、悔しさに地面を足でこするとみるみる泉が湧きだしたといいます。
東海道線がすぐ奥を走っており、その工事で水が出にくくなったとのことで、今は水が
溜まっていませんでした。
御足摺水を示す石柱
京都石仏 不動明王・大日如来・地蔵尊(右から)
最近、三井寺が寄進を受け、飛び地境内地として守っていくとことになったとの駒札が立っていました。
●圓光寺(浄土真宗大谷派)
旧東海道に戻ります。
この圓光寺も十禅寺同様京阪京津線の北にありますが、旧東海道に戻ってもう一度踏切を渡らなけ
ればいけません。
踏切の先には圓光寺しかないので、踏切は圓光寺専用のようです。
寺名の石柱の裏に、前出の 松村興三郎氏
の名が刻まれていました。
旧東海道を西に歩きます。
●毘沙門尊天是より北へ八町【道標】
[北]毘沙門尊天 是ヨリ北江八町
[南]文政五年壬午三月
皇都施主 山田又左衛門綏正
●東海道【道標】
[南]東海道
[東]京三条はし迄 一里半
[西]大津札の辻まで一里半
[北]為往来安全 三品英造建之
昭和二十三年十一月日
道標の後ろには、江戸時代に牛馬車の車輪の幅にあわせて道路に二列に敷設された
凹状の舗石 「車石」
が置かれています。
旧東海道を西進し、外環状線を横断します。
●旧東海道【道標】
[北]旧東海道
[西]平成十二年二月建之
京都洛東ライオンズクラブ
ラクト・ショッピングセンターの南側にあります。新しい道標です。
●明治天皇御遺跡碑
上記の「旧東海道道標」の西にあります。
明治天皇(1852~1912)は,明治元(1868)年9月の東幸,同2年3月の還幸,同11年10月の還幸の途中,毘沙門堂領地内で東海道沿いのこの地にあった 茶店奴茶屋
に駐輦した。奴茶屋は,片岡丑兵衛という勇猛な弓の達人が,街道に出没した盗賊を討ち取り,文安4(1447)年,茶店を建てて旅人を送迎したことにはじまると伝える。以後,茶店,宿場,本陣として利用された。この石標は,明治天皇が立ち寄った奴茶屋を示すものである。なお,奴茶屋は,平成(1994)年に山科駅前再開発に伴い建物を取り壊し移転した。
(「フィールドミュージアム京都」から)
そばに説明板があり、そこには「奴茶屋」は近くのショッピングセンターRACTO2階に移転したとあります。でも、ネット検索で調べると「閉店」とありました。
●本願寺山科両別院是より左六町【道標】
京阪山科駅東の踏切の東北にあります。
[北]本願寺山科両別院 是より←ひだり 六丁
[西]明治四十二年十二月建之
地下鉄山科駅から帰途に就きました。
山科区第10日は、これで終わりです。
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