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【2021年10月29日(金)】 27日は、午前中、臨時で事務所出頭し、午後は、月イチの最も大切な集まりでした。残念ながら、事務所に戻る必要があったので、会後の一献はお断りせざるを得ませんでした。そして、28日と今日は、在宅で27日の集まりの後日諸事でした。 「若冲と応挙」第56回。付録4 若冲と同時代の文化人たち その1です。伊藤若冲と同時代の文化人たち●影響を受けた画家大岡春卜(おおおか しゅんぼく)1680~1763 大坂の町狩野の絵師。絵手本を多く出版。大岡春朴の書物から着想を得たと思われる絵が 散見される。「増補近世逸人画史」が「扶桑名画伝」の「若冲」の項を引いて、 「(若冲の)初めの名は春教」しており、「春教」は「春朴」由来とする説がある。 また、天保3年(1832)刊の「続諸家人物誌」の「若冲」の項に、「初名春教、幼ヨリ画ヲ好 ミ、大岡春牧ニ学ブ。」とある。鶴亭(かくてい)1722~85 長崎の黄槃宗の画僧。海眼浄光。沈南蘋の画風を学んで花鳥画などを描き、南蘋風を畿内に 伝えた。●同時代の京都で活躍した画家与謝蕪村(よさ ぶそん)1716~83 池大雅とともに南画を大成した。俳句と絵を組み合わせた俳画も確立。若冲、大典らとと もに、京都郊外へ観梅に出かけたことがある。池大雅(いけの たいが)1723~76 中国南宗画などを学んで独自の南画を展開。若冲、大典と交流があった。曾我蕭白(そが しょうはく)1730~81 奇矯な行動と奔放な道釈画で知られる。伊勢地方を遊歴。「奇想の画家」の一人。円山応挙(まるやま おうきょ)1733~85 わかりやすい題材と写生を重視した画風で、当代の人気絵師となる。弟子らと石峰寺を訪問 したことがある。しかし、そのとき若冲は不在だったようである。皆川淇園(みながわ きえん)1734~1807 儒学者で書画も能くした。画家との交流が広く、絵画に関する詩文が多い。若冲画に詩文や 賛を記している。●交流のあった文人平賀蕉斎(ひらが しょうさい)1745~1805 広島の浅野家の陪臣。号は白山。著書『蕉斎筆記』に若冲の逸話を記した。石峰寺に晩年の 若冲を訪ねている。木村蒹葭堂(きむら けんかどう)1736~1802 大坂の酒造業者。文人・好事家として文化人と広く交流。大岡春卜、池大雅らに絵を学 んだ。大典と親交深く、若冲とも交流。若冲もその住まいを訪問している。 (天明8:1788年、10月21日・29日来訪 蒹葭堂日記より)松本奉時(まつもと ほうじ)?~? 大坂の表具師兼蛙愛好家。若冲と交流していた。与謝蕪村(よさ-ぶそん)の画風をまなび, 蝦蟇(がま)をこのんでかいた。奉時は若冲の象図を写すなど、単に面識があっただけでは なく、画風の上でも影響関係があった。皆川淇園 木村蒹葭堂 ●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/10/29
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【2021年10月25日(月)】 24日は日曜でしたが、終日事務所出頭。 今日は、終日、会の諸事を在宅でするなか、月イチの高血圧・高尿酸の診察で近所のO医院に行きました。血圧の測定結果をグラフにプロットして持っていくので、血圧を計ることもありません。尿酸値は、この前の健康診断結果が良好であり、痛風の発作が起こってないことを伝えました。いつものアムロジピンとフェブリクをもらいました。 「若冲と応挙」第55回。付録3 応挙年譜のその7(56歳から没)です。西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1789(寛政元)57歳 ◆3月8日、僧六如と伏見へ観梅に行く。「龍門鯉魚図」を描く。1790(寛政2)58歳 ◆禁裏造営に際し、一門を率いて障壁画の制作にあたる。1791(寛政3)59歳 ◆2月、東本願寺岐阜別院の障壁画「竹雀図」、「墨梅図」を描く(のちに本山に移され る)。1793(寛政5)61歳 ◆この頃から、老病を患い、眼病も悪化し、制作に支障をきたす。 10月、大乗寺に「竹図」を描く。1794(寛政6)62歳 ◆天明の大火の影響で中断していた金刀比羅宮表書院の障壁画を、 10月に再び制作し「瀑布・山水図」を描き、完成。「竹林七賢図」、「江口君図」を描く。 ☆江戸では東洲斎写楽が江戸三座興業の役者を描き、人気を得る。"1795(寛政7)63歳 ◆天明の大火の影響で中断していた大乗寺の障壁画を再び制作し、 4月に「松に孔雀図」を描き、孔雀の間を完成させる。 5月中旬から備前瑜迦山蓮台寺の「鶏・竹図」の制作を行い完成するが、 落款を入れられず、応挙の死後、子の応瑞が父応挙の印を捺す。 6月、「保津川図屏風」(株式会社千總)を描く。 7月17日、死去。四条大宮西入悟真寺(現在、太秦に移転)に葬られる。 法名は円誉無三一妙居士。墓碑は妙法院宮真仁法親王の筆になる。香住・大乗寺「松に屈若図」 出典: 樋口一貴著「もっと知りたい円山応挙」2013年 東京美術株式会社発行 別冊太陽「円山応挙」2013年 株式会社平凡社発行 山川武著「応挙・呉春・蘆雪」2010年 東京藝術大学出版会発行 これで応挙の年譜を終わります。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/10/25
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【2021年10月23日(土)】 今日は、在宅でPCに向かって会の諸事でした。 「若冲と応挙」第54回。付録3 応挙年譜のその6(51歳から55歳)です。西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1783(天明3)51歳 ◆「浄土宗門人別帳」に「立売中之町浪人円山主水」と記載。四条高倉東入立売中之町に 住む。11月、三井高美の一周忌に「水仙図」を手向ける。 ☆「しら梅に明く夜ばかりとなりけり」の一句を残し、与謝蕪村没(68歳)。 *天明の大飢饉かはじまる。浅間山が噴火する。1784(天明4)52歳 ◆祇園会月鉾「花卉折枝図」に「源」姓を記す。 愛知明眼院(現東京国立博物館蔵)に「朝顔狗子図」、「老松図」、「老梅図」、 「芦帳図」などを描く。明眼院は眼科治療院として有名だったことから、これ以前に眼を 患ったと考えられている。1785(天明5)53歳 ◆5月、紀州草堂寺に「雪梅図」「松月図」などを描く。天明年間中頃、しばしば妙法院 から制作依頼を受けた。1786(天明6)54歳 ◆紀州無量寺に「波上群仙図」「山水図」を描く。弟子の長沢蘆雪は、多忙の応挙に代わり、 これを携えて現地へ赴き、無量寺の「虎図襖」「龍図襖」ほか南紀の数ヵ寺で障壁画を描 く。この頃、「雪松図屏風」(三井記念美術館)を描く。 ☆石田幽汀没(66歳)。 沈南蘋の写実画で江戸画壇に大きな影響を与えた宋紫石が歿す(72歳)。 *田沼意次、老中解任。"1787(天明7)55歳 ◆3月、南禅寺帰雲院に「海辺老松図」、「雪景山水図」などの障壁画を描く。 夏、讃岐の金刀比羅宮表書院に「遊鶴図」、「遊虎図」を描く。 12月、但馬の大乗寺に障壁画「山水図」を描く。 この頃妙法院宮真仁法親王との交流が盛ん。 ☆長沢芦雪(34歳)、南紀旅行の際に「龍虎図」を描く。 *米価高騰で大坂、江戸で打毀しが起こる。雪松図屏風(国宝)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/10/23
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【2021年10月22日(金)】 17日は日曜日でしたが事務所に出頭。18日~昨日22日も連日事務所出頭でした。うち19日(火)は事務所出頭の足で、月イチの津軽三味線レッスン、昨日は月イチの事務所集まり。連日事務所詣でです。 「若冲と応挙」第53回。付録3 応挙年譜のその5(41歳から50歳)です。西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1773(安永2)41歳 ◆12月2日、円満院門主祐常死去(51歳)。「雲龍図屏風」(個人)、 「芙蓉飛雁・寒菊水禽図」、「山水図屏風」、「群仙図下絵屏風」を描く。1774(安永3)42歳 ◆人江玄圃「梅花楼友詩」初編に応挙作「楊貴妃」を読んだ 七言絶句が載る。玄圃著・応挙図「学翼」(上下)刊行。「孔雀図」を描く。 *前野良沢、杉田玄白ら「解体新新書」を刊行。1775(安永4)43歳 ◆『平安人物志』の画家部筆頭に掲載される。二番目以下は、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村。 京都・四条麩屋町西入町に住む。「郭子儀祝賀図」、「鯉魚水禽図」を描く。1776(安永5)44歳 ◆「雨竹風竹図屏風」(圓光寺)、「藤花図屏風」(根津美術館)、 「江州日野村落図屏風」、「蟹図」、「双鶏図衝立」を描く。 ☆池大雅没(54歳)。"1777(安永6)45歳 ◆仙果亭嘉栗(三井高業)撰、「狂歌奈羅飛乃岡」に挿図を描く。三男応受誕生。 9月27日妻の里也が没する。 ☆将軍のお膝元の江戸では文化の高まりとともに[江戸じまん評判記」などか出版された。1779(安永8)47歳 ◆「琴高仙人図」を描く。 ☆平賀源内獄死(52歳)1780(安永9)48歳 ◆本願寺山科別院(西本願寺)に「春景海浜図壁貼付・袋戸」を描く。 ☆「都名所図会」が京都寺町の版元から刊行。人気で製本が問に合わなかったという。1781(天明元)49歳 ◆光格天皇の即位大礼のため「牡丹孔雀図屏風」を描く。 この頃から源姓を名乗つたと思われる。 ☆曾我蕭白没(52歳)"1782(天明2)50歳 ◆7月、『平安人物志』の画家部の筆頭に掲載される。京都四条堺町東入町に住む。 「揚貴妃図」を描く。 ☆松村月渓、画名を呉春と改める。「藤花図屏風」(根津美術館)(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/10/22
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【2021年9月30日(木)】 今日はもともとは「京の冬の旅」六道珍皇寺の予定でしたが、緊急事態宣言でキャンセルになっていたのでフリー日。終日会の諸事でPCとにらめっこでした。 「若冲と応挙」第52回。付録3 応挙年譜のその4(36歳から40歳)です。西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1768(明和5)36歳 ◆『平安人物志』の画家部で大西酔月に続き二番目に掲載される。四条麩屋町東入丁に住む。 三番目以降は、若冲、池大雅、与謝蕪村。「七難七福図巻」を描く。 近世臨済禅中興の祖とされ、多くの禅画を遺した白隠慧鶴没。 清田儋叟(せいた・たんそう)「孔雀楼筆記」のなかで、応挙についての画評・人物評が 載る。*食文化が発達し、てんぷら・刺身・蒲焼などの現在でもお馴染みの料理ができ、料理の本も 実用書から楽しめる読みものが出版された。1769(明和6)37歳 ◆円満院雪之間の襖絵を描く。「雪中山水図屏風」(相国寺)、「芭蕉童児図屏風」(個人)、 「雨中山水図屏風」を描く。1770(明和7)38歳 ◆「写生図巻」、「青鸚哥図」、「人物正写惣本」(天理大学附属天理図書館)を描く。☆鈴木春信没。大坂・木村蒹葭堂のサロンで書画会が開かれ、池大雅が「竹巌新霽図」を出品する。*各地の大干ばつで京の送り火も中止となった。1771(明和8)39歳 ◆「牡丹孔雀図」(相国寺)、「写生雑録帖」、「花鳥写生図巻」を描く。 6月、三井家にて蓮花を写生。この頃から三井家との関係が始まると思われる。☆池大雅と与謝蕪村が合作「十便十宜」を制作。その一作品に明和8年の款記がある。 特に三井家4代高美、5代高清、6代高祐と深い交流があった。*伊勢への「おかげまいり」が流行。1772(安永元)40歳 ◆三井惣領家(北家)で「夕涼み図」を描く。「大瀑布図」(相国寺)を描く。*田沼意次が老中に就任。"「夕涼み図」(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/30
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【2021年9月29日(水)】 今日は京都駅まで車を出した以外は、在宅で会の諸事でPCに向かっていました。 「若冲と応挙」第51回。付録3 応挙年譜のその3(31歳から35歳)です。西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1763(宝暦13)31歳 ◆銭舜挙の花鳥画を模写し、それを宝鏡寺の蓮池院尼公が好み、30歳前後に応挙は尼公に 仕えたという。仕えたのは宝暦中のことと考えられるが、明確な時期は不明。 「淀川両岸図巻下絵」を描く。☆平賀源内が博物学書「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。1764(明和元)32歳 ◆これ以前の署名は、20代中頃までが「一嘯」「主水」、20代中頃から30代初めまでが 「夏雲」「主水」「氐」を主に用いたとみられている。「萬誌」に「丸山左源太」の名が 登場。「岩上虎図」、「葡萄栗鼠図」を描く。☆伊藤若冲が金刀比羅宮奥書院に襖絵を描く。曾我蕭白が六曲一双の屏風絵「群仙図屏風」を 描く。"1765(明和2)33歳 ◆この頃、円満院門主祐常から、「七難七福図」(相国寺)の依頼を受け、親交深まる。 この頃、「仙嶺」「僊嶺」と署名する。すでに「付立て」も筆法を完成。 「破墨山水図」(三井記念美術館)、「淀川両岸図巻」(アルカンシェール美術財団)、 「山水図襖」を描く。☆9月、若冲「動植綵絵」を相国寺へ寄進。この頃江戸では、鈴本春信周辺で錦絵が出現。「淀川両岸図巻」1766(明和3)34歳 ◆この年、名を「応挙」と改め、これ以降「応擧之印」「仲選」の印を終生用いる。 9月13日、次男応瑞誕生。「芙蓉飛雀図」、「龍虎図屏風」、「巌下猛虎図」を描く。 6月23日、相国寺中の間に若冲の「釈迦三尊」ならびに「動植綵絵」24幅が掛けられる。1767(明和4)35歳 ◆「大石良雄図」(百耕資料館)、「岩頭飛雁図」(円満院旧蔵)、「四条河原納涼図」を 描く。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/29
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【2021年9月26日(日)】 今日はもともと在宅日。ちょっとだけ時間の余裕ができたので、2回目のパエリア作り。魚貝類を一旦上げる前に、かき回すことを控えたので、前回より、魚介類が崩れずにできました。有頭エビは高いので、ブラックタイガーに替えましたが、やはり有頭エビから出るダシの分、お味は前のほうがよかったように思います。先入観からくるものかもしれませんが。そのかわり今日はタラが手に入ったので、お魚の調理がしやすかったです。調理時間は約1時間半でした。前回の教訓から、サラダは、最後にお米を入れて煮詰める時間に併行して作ったので、多少時間短縮できたのではないかと思います。 「若冲と応挙」の第49回。前回、若冲の年譜が終了したので、今回から応挙の年譜です。西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1733(享保18)1歳 ◆5月1日、丹波国桑田郡穴太村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)の農業丸山藤左衛門の 次男として生まれる。母は篠山藩士上田氏の娘。幼名は岩二良、通称は主水とも。☆徳川吉宗が動・植・鉱物全般を解説した百科辞典的な「庶物類纂」の増捕完成を命じた (1738年に完成)。本書は、全国の諸藩の協力で編集されたことから各地で物産学・博物学 などが盛んになる。沈南蘋帰国する。1740(元文5)8歳 ◆この頃、金剛寺に小僧として奉公したと伝えられる。金剛寺(京都府亀岡市)1745(延享2)13歳 ◆後に働くことになる尾張屋勘兵衛の店が「びいどろ道具」の店として、『京羽二重大全』に 掲載される。尾張屋はガラスを使った品のほか、人形や玩具などを扱う店。1747(延享4)15歳 ◆この頃にはすでに京都に出ていたと思われるが、11、12歳頃からという説もある。 最初の奉公先は四条新町の岩城という呉服屋で、のち、四条富小路西入町の玩具商 尾張屋勘兵衛の店で働く。1748(寛延元)16歳 ◆5月20日、母が死去する。1749(寛延2)17歳 ◆この年の年紀のある「雪景山水図」があったといわれることから、 この頃から、石田幽汀の門下に入り本格的に絵の画技を学んだと考えられる(15歳という 説あり)。 「雪景山水図」の双幅には「寛延己巳夏円山岩二良」「洛陽山人円岩二良」の落款があったという。1750(寛延3)18歳 ☆池大画が紀州藩の文人画の祖とされる祗園南海を訪ねた。上方浮世絵の中興の祖、美人風俗画を得意とした西川祐信が80年の生涯を閉じた。*二条城天守閣か雷火で焼失。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/26
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【2021年9月25日(土)】 22日は事務所出頭と会議、23日は在宅で会の諸事、24日は事務所出頭でした。 今日はもともとは修学旅行ガイドの予定ででしたが、コロナでキャンセル。午前中、月イチの近所の町医者通いで、高血圧と高尿酸の薬をピックアップ。それ以外は、ほぼ会の諸事でした。 「若冲と応挙」の第48回。付録の2つめ若冲の年譜の「その4(71際~没まで)」です。 伊藤若冲年譜(71歳~没)西暦(和暦)年齢 ◆:若冲の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1786(天明6)71歳 *田沼意次失脚。1787(天明7)72歳 ◆4月26日、妙法院の真仁親王、若冲から届いた鶏の画12枚を一覧し、翌日、若冲に新殿居間 の襖絵を注文-真仁親王御直日記。5月5日、親王、若冲から届いた襖を立てる-同前。 6月18日、親王、若冲の弟子四人及び応挙関係者七人ばかりの、妙法院龍華蔵の虫干し 拝観の願いを許す-同前。この年刊行の『拾遺都名所図会』で石峰寺石像群を紹介。*徳川家斉、江戸幕府11代将軍に就任。"1788(天明8)73歳 ◆1月28日、皆川淇園が応挙、呉春らと石峯寺石像群を観覧-淇園文集。1月晦日~ 2月1日、京都大火(天明の大火)。市中大半が焼土と化す。 若冲の2軒の居宅とアトリエが焼亡。相国寺も法堂を残して焼亡する。 寄進画などは持ち出された。 10月21日・29日、大坂の木村蒹葭堂を訪ねる-蒹葭堂日記。*田沼意次没(70歳)1789(寛政1)74歳 ◆大坂豊中・西福寺の「仙人掌群鶏図」「蓮池図」「山水図」制作。京都伏見・海宝寺の 「群鶏図障壁画」(京都国立博物館蔵)を制作。「鶏頭蝋蜘図」、「石峯寺図」制作。1790(寛政2)75歳 ◆6月12日・13日、相国寺、大病中の若冲を見舞うことを計る-参暇寮日記。 この年、「菜蟲譜」、「垣豆群虫図」制作。☆蒹葭堂、醸造高超過の咎で欠所に処せられ伊勢に転居。 伴蒿蹊、『近世畸人伝』刊行。内裏造営にあたり狩野派・土佐派のほかに円山応挙らが 障壁画を描く。*寛政異学の禁。1791(寛政3)76歳 ◆10月8日、大火類焼後の困窮につき、町内及び相国寺との永代供養の契約を解約 -参暇寮日記。この頃、石峰寺に隠棲したらしい。☆出版統制で洒落本刊行をした山東京伝と版元の蔦屋重三郎を処罰。この頃、喜多川歌麿が 美人大首絵を創案。"1792(寛政4)77歳 ◆6月2日、次弟宗巌(白歳居士)没(74歳)-過去帳。この年、皆川淇園が若冲画 「墨菊図」「蒲桃栗鼠図」の題詩を作る-淇園先生詩文稿。この年、「菜虫図巻」 「葡萄双鶏図」「垣豆群虫図」を描く。☆皆川淇園、東山新書画展観を主催(~1798年まで春秋二回開催)。1793(寛政5)78歳 ◆平賀蕉斎、『焦斎筆記』に若冲に関する聞き書きを記す。遅くともこの年までに石峯寺に 隠棲。☆蒹葭堂、大坂に戻る。1794(寛政6)79歳 ◆9月、蒹葭堂、家蔵の若冲筆「売茶翁像」二幅のうち、一幅を津田氏に譲る-売茶翁像識語。 10月19日、浅野家の陪臣平賀蕉斎ら、石峰寺門前の若冲宅を訪問。米斗庵と落款して墨画 を売り、石像制作の資金に当て、夫に先立たれて子連れの尼となった妹と暮らしていたこと が知られる-蕉斎筆記。この年、「野晒図」「蔬菜図押絵貼屏風」作。 ☆東洲斎写楽、翌年にかけて役者似顔絵を多数発表。1795(寛政7)80歳 ◆「象と鯨図屏風」(MIHO MUSEUM)制作。 10月 「蒲庵浄英像」(萬福寺蔵)制作-蒲庵浄英賛。この年「釣瓶に鶏図」を描く。☆7月17日、円山応挙没(63歳)。1796(寛政8)81歳 ◆9月27日、東山新書画展観に絹本「五百羅漢図」を出品-同目録。この年「双鶏図」「鶏図」 「鵞鳥図」を描く。1797(寛政9)82歳 ◆この年、「蒲庵和尚自賛像」「群鶏図押絵貼屏風」を描く。1799(寛政11)84歳◆「百犬図」制作。☆6月8日、長澤蘆雪没(46歳)1800(寛政12)85歳 ◆4月6日~13日、池大雅の二十五回忌の案内が届けられるが、病気につき欠席の返事をする -案内状。この頃、石峰寺観音堂に「花卉図天井画」(信行寺・義仲寺蔵)制作。 9月10日、若冲没-過去帳・祖塔過去帳(参暇寮日記では9月8日)。石峰寺に土葬-過去 帳。縁故の深かった相国寺に遺髪が埋められた。 10月27日、相国寺一山の仮方丈になっていた鹿苑院で、四十九日の法要が行われる -参暇寮日記。法要は大典が主宰したと考えられる。この年、「伏見人形図」「鷲図」を 残している。 参考文献: 佐藤康宏著「もっと知りたい 伊藤若冲」株式会社東京美術 2006年発行 別冊太陽「若冲百図」平凡社 2015年発行 澁澤龍彦他「若冲」河出文庫 株式会社河出書房新社 2016年発行 石峰寺石像(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/25
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【2021年9月18日(日)】 昨日は、終日事務所出頭。やはり忙しかったです。今日は、会協力のイベントに出る予定でしたが、コロナで中止になりフリー日になっていました。在宅で会の諸事を進めました。 「若冲と応挙」の第47回。付録の2つめ若冲の年譜の「その3(51際~70歳まで)」です。 伊藤若冲年譜(51歳~70歳)西暦(和暦)年齢 ◆:若冲の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1766(明和3)51歳 ◆1月23日、相国寺、前年冬の証状に対する請書を若冲の町内に渡す-参暇寮日記。 4月19日、真如堂本尊の開扉に際し、相国寺方丈の室中正面に「釈迦三尊像」、 左右に「動植綵絵」12幅が飾られる-同前。5月18日、「動植綵絵」12幅、裏打ちのため 南蔵から出される-同前。6月22日、12幅の表装できる-同前。 6月23日、相国寺の例年の虫干しで「釈迦三尊像」と「動植綵絵」24幅、中の間に掛けられ る-同前。 11月、大典の碣銘を刻す若冲の寿蔵(生前墓)を相国寺塔頭松鷗庵に建立-碣銘。☆秋、蕪村が讃岐に赴く。1767(明和4)52歳 ◆春、大典と淀川を下り大坂に行く-乗興舟跋。「乗興舟」この年制作か-大典跋。 9月19日、相国寺に行き、弟宗寂の三回忌法要を請う-参暇寮日記。 9月19日、若冲の家で法要営まれる。-同前。*田沼意次、側用人となる。1768(明和5)53歳 ◆5月、『玄圃瑶華』刊行。「素絢石冊」この年刊行か-四辻公亨跋。 10月1日、東本願寺門跡光遍上人、若冲寄進画の一覧を相国寺に申し入れ、許可される ‐参暇寮日記。この年板行の『平安人物志』に、大西酔月、円山応挙、若冲、池大雅、 与謝蕪村の順で載る。住所は高倉錦小路上ル町。☆与謝蕪村、讃岐より帰京。白隠没(84歳)。1769(明和6)54歳 ◆6月17日、相国寺の閣懺法に際し、方丈正面に「釈迦三尊像」、左右に「動植綵絵」を 掛ける-参暇寮日記。1770(明和7)55歳 ◆10月、父の三十三回忌に当たって、「釈迦三尊像」及び30幅の寄進を完了 する。両親と自分の戒名を刻す位牌を相国寺に奉納-銘。1771(明和8)56歳 ◆多色拓版「花鳥版画」制作。この年の末から1773年にかけて錦高倉青物市場をめぐる争議(営業停止になる)に際し、年寄として尽力-京都錦小路青物市場記録。☆池大雅と蕪村、「十便十宜図帖」を合作。1772(安永1)57歳 ☆大典、相国寺慈雲院に復帰。大西酔月没(生年不詳)。1773(安永2)58歳 ◆夏、萬福寺住持の伯殉照浩から「革叟」の号と僧衣を授かる-伯洵照浩偈頌。1775(安永4)60歳 ◆この年板行の「平安人物志」に、応挙、若冲、大雅、蕪村の順で載る。住所は高倉錦小路 上ル町。☆6月、大典、『小雲棲稿』刊行。1776(安永5)61歳 ◆この頃、石峯寺の石像群の制作に着手-拾遺都名所図会。「猿猴摘桃図」はこの年までの 制作。☆4月13日、池大雅没(54歳)。伯珣照浩没(82歳)1779(安永8)64歳◆9月19日、母清寿没(80歳)-過去帳。☆8月5日、大典、相国寺113代住持となる。1781(安永10)66歳 ☆1月7日、曾我蕭白没(52歳)。1782(天明2)67歳 ◆1月28日、相国寺に寄進画拝借を願い出て許可される-参暇寮日記。この年板行の 「平安人物志」に、安永4年と同じ順で載る。住所も同じ。1783(天明3)68歳◆6月27日、日光准后宮公遵法親王、相国寺で文正筆「鳴鶴図」及び若冲画30余幅を観覧 -役者寮日記。「蟹図」はこの年までの制作。☆12月25日、与謝蕪村没(68歳)。1785(天明5)70歳 ☆12月24日、鶴亭没(64歳)。「乗興舟」(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/18
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【2021年9月15日(水)】 今日はもともとフリーの日でしたが、それを利用して、大阪ガスのサービス会社に来ていただいて、旧湯器エコジョーズと発電機エネファームの設置でした。コロナで東南アジアの工場が閉鎖になって、給湯器の部品が生産できなくなり、給湯器の供給に支障が出ているようで、今日できるかどうか危うかったそうですが、何とかなったようです。 雨があがってよかったです。終日かけて設置していただきました。発電機のエネファームの稼働は関電への手続きが済んで10月になります。キッチンでお風呂の操作ができたり、お風呂と通話できたり、リモコンも以前より便利になりました。 「寂雄と応挙」の第46回。付録の2つめ若冲の年譜の「その2(31際~50歳まで)」です。 伊藤若冲年譜(31歳~50歳)西暦(和暦)年齢 ◆:若冲の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1755(宝暦5)40歳 ◆次弟(宗巌)に桝屋の家督を譲る-町中沽券状。通称を茂右衛門と改めて、家業から解放 され、作画三昧の生活に入る。2月、「月梅図」(バーク・コレクション)制作。 4月、「旭日鳳凰図」制作。同月、朝鮮画の「猛虎図」(正伝寺蔵)を模写し、 「虎図」(プライス・コレクション)制作。 ☆8月3日、京都出身の画家望月玉蟾(ぎょくせん)没(63歳)。 9月、売茶翁、高齢のため売茶の生活をやめる。 12月4日、近江出身の画家高田敬輔(けいほ)没(83歳)。1756(宝暦6)41歳 ☆6月、江戸出身の南蘋派の画家黒川亀玉没(25歳)。1757(宝暦7)42歳 ◆「売茶翁像」制作-売茶翁自賛。☆9月、蕪村、丹後より京へ帰る。"1758(宝歴8)43歳 ◆「動植綵絵」30幅の連作に着手する(あるいは前年からか)。 春、最も早い年記のある「梅花小禽図」制作。 ☆9月5日、大和郡山藩重臣で南画家の柳沢淇園没(55歳)。 曾我蕭白、翌年にかけて伊勢地方を巡る。1759(宝暦9)44歳 ◆2月、「雪中鴛鴦図」(動植綵絵)制作。 8月、「秋塘群雀図」「向日葵雄鶏図」(いずれも動植綵絵)制作。 秋、「紫陽花双鶏図」(動植綵絵)制作。 10月、鹿苑寺大書院5室に水墨障壁画50面(「葡萄図」「松に鶴図」 「月夜芭蕉図・芭蕉に叭々鳥図」「竹図」)を制作。 この年、「大鶏雌雄図」(動植綵絵)制作。 ☆2月12日、大典、慈雲庵住持の隠退願を出し、郊外に閑居。1760(宝暦9)45歳 ◆大典を通して、黄檗僧高遊外(売茶翁)を知る。 この年か翌年頃、大典・池大雅らと京郊外で観梅-小雲棲稿。 8月、「花鳥蔬菜図押絵貼屏風」制作。冬至、「動植綵絵」を見た売茶翁から 「丹青活手妙通神」の一行書(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)を贈られる。 版画「髑髏図」この年か-売茶翁賛。 この頃、大典、「藤景和が画の記」を記す-動植綵絵款記。 *9月2日、徳川家治が江戸幕府十代将軍に就任。1761(宝暦11)46歳 ◆春、「芦鷲図」(動植綵絵)制作。 5月、「寒山拾得図」(ギター・コレクション)制作-無染浄善賛。 この年までに、「芍薬群蝶図」「梅花皓月図」「芙蓉双鶏図」「老松白鶏図」 「老松鸚鵡図」(いずれも動植綵絵)を制作。 ☆秋、大典、『咋非集』刊行。1763(宝暦13)48歳 ◆「売茶翁偈語」に「売茶翁像」を描く。-「売茶翁偈語」 ☆6月19日、大岡春卜没(84歳)。 7月16日、売茶翁没(89歳)、同月、『売茶翁偈語』刊行。 この頃、与謝蕪村が屏風講により屏風を多数制作し頒布。1764(明和1)49歳 ◆金刀比羅宮奥書院上段の間に「花卉図」、二の間に「山水図」、三の間に「杜若図」、 広間に「垂柳図」制作-奥書院障子装飾之記。1765(明和2)50歳 ◆9月19日、末弟の宗寂没-参暇寮日記。 9月29日、相国寺に「釈迦三尊像」3幅、「動植綵絵」24幅を寺の「荘厳具として」 寄進-動植綵絵寄進状。 10月7日、相国寺、寄進の返礼に菓子松風二斤を持参-役者寮日記。 11月11日、宝蔵寺に宗寂の墓を建立-銘。 12月28日、若冲没後に屋敷一か所(高倉通四条上ル帯屋町)を町内に譲渡し、 毎年忌日に青銅三貫文を相国寺常住へ納める旨(永代供養)の証文に対し、 相国寺、請書の案を町内へ持参-参暇寮日記。 ☆5月、円山応挙、「淀川両岸図巻」(アルカンシェール美術財団蔵)制作。 鈴木春信らが多色刷の錦絵を創始。売茶翁(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/15
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【2021年9月14日(火)】 今日はもともとは会のフィールドワーク研修で、方広寺近辺を歩く予定でしたが、緊急事態宣言延長で中止になり在宅でした。 会の諸事の1つで、ここ1ヵ月くらい根を詰めてやってきたことがあり、今日で成果物を提出しました。これが出来上がってきたら、また忙しくなると思いますが、とりあえずひと段落しました。 「若冲と応挙」の第45回。付録の2つめ、若冲の年譜「その1(30際まで)」です。伊藤若冲年譜(1歳~30歳まで) 西暦(和暦)年齢 ◆:若冲の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向1716(正徳6)1歳 ◆2月8日、京都錦街に生まれる。母は近江の武藤氏出身-碣銘。父(宗清)は 青物問屋「桝屋」の三代目-過去帳。家は錦小路通中魚屋町南側-町中沽券状。 幼名は不詳。 ☆6月2日、尾形光琳没(59歳)。与謝蕪村生まれる。 *8月13日、徳川吉宗、江戸幕府八代将軍に就任。"1719(享保4)4歳 ☆5月9日、大典、近江国伊庭の儒医の家に誕生(権大納言園基勝から里子に出されたか)。1723(享保8)8歳 ☆5月4日、池大雅、京都西陣に誕生。1729(享保14)14歳 ☆3月、大典顕常、相国寺塔頭慈雲庵にて得度。1730(享保15)15歳 ◆この頃から絵を学び始める。 ☆7月26日、中国清の画家伊海(孚九)(ふきゅう)再来日し、8月29日帰国。 曾我蕭白、京都に誕生。 *6月、京都大火(西陣焼け)。1731(享保16)16歳 ☆12月3日、中国清の画家沈銓(南蘋)(しんせん、なんぴん)来日。1733(享保18)18歳 ☆5月1日、円山応挙、丹波国穴太(あなお)村に誕生。9月18日、沈銓(南蘋)が帰国。1734(享保19)19歳 ☆大岡春卜(しゅんぼく)、『欄間図式』刊行。1735(享保20)20歳 ☆この頃、売茶翁、鴨川の水辺に茶店を開く。1736(元文1)21歳 ☆11月28日、木村蒹葭堂(けんかどう)大坂に誕生。1738(元文3)23歳 ◆9月29日、父宗清没(42歳)-過去帳。家督を相続し、四代枡屋源左衛門となる。1740(元文4)25歳 ☆大岡春ト、『画巧潜覧』刊行。1744(延享1)29歳 ☆2月、池大雅「渭城柳色図」(敦賀美術館蔵)制作。冬、大雅、「箕山海布図」制作。 売茶翁、相国寺内の林光院にこれ以後10年間住む。この頃、浮世絵の紅摺絵始まる。1745(延享2)30歳 ☆大典が相国寺慈雲庵の住持となる。 *11月2日、徳川家重、江戸幕府九代将軍に就任。大典顕常(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/14
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【2021年9月13日(月)】 今日はもともとからフリー日。在宅で会の諸事でしたが、今日は時間の余裕が少しあったので、久しぶりに夕食を作りました。「パエリア」に挑戦しました。 買い物でレシピに書いてあったサフランを買おうとして香辛料売場に行きました。瓶を見つけて、底からなかを覗いてみましたが、何も入っていません。隣のターメリックの瓶は、ちゃんと粉で満たされています。思わず、店の人を呼びそうになりました。でも、どのサフランの瓶も同じ空なのに気付き、1個の瓶だけなら何か瓶詰め不良ということも考えられるのですが、全部ということはあり得ないと思い、よくよく見ると、ビニール袋に少しだけ、紫色の小さな細い棒状のものが、入っているのが見えました。そんなわずかんおサフランの入った1瓶が約400円。このとき、初めてとてつもない高価な香辛料であるのに気付きました。 そんば具合で、おっかなびっくりで準備して料理開始。奮闘1時間15分。見てくれはイマイチでしたが、おいしいパエリアができました。「若冲と応挙」の第44回です。付録の1、若冲や応挙の作品に出合うことができる施設の紹介「その2」です。付録1 作品に出会える施設 その1●東海地方徳川美術館名古屋市東区徳川町1017 TEL:052-935-6262 https://www.tokugawa-art-museum.jp/応挙「華洛四季遊戯図巻」「鯉亀図風炉先屏風」静岡県立美術館静岡市駿河区谷田53-2 TEL054-263-5755 http://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/若冲「樹花鳥獣図屏風」ゴールデンウィークに特別展示。その他作品は企画展などで展示。応挙「木賊兎図」企画展などで展示。●東京都宮内庁三の丸尚蔵館東京都千代田区千代田1-1(皇居東御苑内)TEL:03-3213-1111https://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/sannomaru.html若冲「動植綵絵」全30幅、「旭日鳳凰図」応挙「江州日日野村落図屏風」「牡丹孔雀図」「群獣図屏風」三井記念美術館東京都中央区日本橋室町2丁目1−1 三井本館 7階 TEL:03-5777-8600http://www.mitsui-museum.jp/応挙「雪松図屏風」「山水図屏風」「梅花双鶴図小襖」「郭子儀祝賀図」「水仙図」「破墨山水図」「雲龍図」「富士図」「山水図」三井記念美術館東京国立博物館東京都台東区上野公園13-9 TEL: 03-3822-1111 https://www.tnm.jp/応挙「写生帖」、旧明眼院障壁画「老松図壁貼付」「老梅図襖」及び「朝顔狗子図杉戸」、植松家旧蔵「双鶴図」及び「郭子儀携小童図」、「青松白鶴図」、金剛寺障壁画「山水図」及び「波濤図」、「拡元先生像・端淑孺人像」、「雪中老松図」サントリー美術館東京都港区赤坂9-7-4 東京ミッドタウン ガレリア3階 TEL:03-3479-8600https://www.suntory.co.jp/sma/応挙「青楓瀑布図」静嘉堂文庫美術館東京都世田谷区岡本2-23-1 TEL:03-3700-0007 https://www.suntory.co.jp/sma/応挙「江口君図」東京藝術大学大学美術館東京都台東区上野公園12-8 TEL:050-5525-2200 https://www.geidai.ac.jp/museum/若冲「鯉図」応挙「花卉鳥獣人物図」「竹鶏図」「若芽南天」など多数。平木浮世絵美術館東京都江東区豊洲2-4-9アーバンドックららぽーと豊洲ISLABDS 1F TEL:03-6273-1250http://www.ukiyoe-tokyo.or.jp/ 若冲「花鳥版画」根津美術館東京都港区南青山6-5-1 TEL:03-3400-2536 http://www.nezu-muse.or.jp/応挙「藤花図屏風」●関東地方(東京都以外)千葉市美術館千葉市中央区3-10-8 TEL:043-221-2311 https://www.ccma-net.jp/若冲「鸚鵡図」「寿老神・孔雀・菊図」「雷神図」徳川ミュージアム茨城県水戸市見川 1-1215-1 TEL:029-241-2721 https://www.tokugawa.gr.jp/応挙「百蝶図」佐野市立吉澤記念美術館栃木県佐野市葛生1-14-30 TEL:0283-86-2008 https://www.city.sano.lg.jp/sp/yoshizawakinembijutsukan/index.html若冲「菜蟲譜」企画展時展示。常時は複製展示群馬県立近代美術館群馬県高崎市綿貫町992-1 TEL:027-346-5560 http://mmag.pref.gunma.jp/応挙「青鸚哥図」ハラミュージアム アーク群馬県渋川市金井 2885-1 TEL:0279-24-6585 https://www.haramuseum.or.jp/jp/arc/ 応挙「淀川両岸図巻」岡田美術館神奈川県足柄下郡箱根町小涌谷493-1 TEL:0460-87-3931 https://www.okada-museum.com/若冲「梅花小禽図」「孔雀鳳凰図」「花卉雄鶏図」「月に叭々鳥図」「三十六歌仙図屏風」岡田美術館次回は付録2「若冲年譜」です。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/13
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【2021年9月12日(日)】 終日、PCに向かって会の諸事でしたが、直近に締めきりがあるものがないので、時間は自由設計できています。正直なところ、色々キャンセルが入ったので、何とか時間がマネージできていますが、キャンセルになっていなかったらパニックに陥っているかもしれません。 「若冲と応挙」は前回で本編は最終回でした。あと参考資料を投稿していきます。今日は若冲や応挙の作品に出合うことができる施設の紹介「その1」です。付録1 作品に出会える施設 その1 ほとんどの作品が特別展や企画展など期間限定での公開です。期間限定の時期が毎年固定したいる場合や、常時観覧できる場合のみ、その旨記載しました。作品を観覧される場合は、該当施設のホームページや電話で確認してから、訪問してください。●京都府京都国立博物館京都市東山区茶屋町527 TEL:075-523-2427 https://www.kyohaku.go.jp/jp/若冲「乗興舟」「果蔬涅槃図」「石峯寺図」「石灯籠図屏風」「海宝寺旧蔵群鶏図障壁画」「墨竹図」など。応挙「魚籃観音図」「水草に鷺図」「琵琶湖宇治川写生図巻」「双鹿図屏風」「龍門図」「人物描写図法」など。相国寺承天閣美術館(塔頭寺院所蔵含む)京都市上京区今出川通烏丸東入ル相国寺門前町 TEL:075-241-0423https://www.shokoku-ji.jp/museum/若冲「鹿苑寺大書院障壁画 葡萄小禽図」「同 月夜芭蕉図」常設展示。「同 松鶴図襖」「同 菊に鶏図襖」「同 芭蕉叭々鳥図襖」「同 竹図襖」、「釈迦三尊像」「牡丹・百合図」など。応挙「牡丹孔雀図」「七難七福図」「大瀑布図」「雲中山水図屏風」細見美術館京都市左京区岡崎最勝寺町6-3 TEL:075-752-5555 https://www.emuseum.or.jp/若冲「雪中雄鶏図」「糸瓜群虫図」「瓢箪・牡丹図」「菊花図押絵貼屏風」「群鶏図押絵貼屏風」「伏見人形図」「仔犬に箒図」「鶴亀図」「海老図」「虻に双鶏図」福田美術館京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町3-16 TEL:075-863-0606 https://fukuda-art-museum.jp/若冲「柳に鶏図」「群鶏図押絵貼屏風」応挙「黄蜀葵鵞鳥小禽図」「巌頭飛雁図」「陶淵明図屏風」泉屋博古館京都市左京区鹿ヶ谷下宮ノ前町24 TEL:075-771-6411 https://www.sen-oku.or.jp/若冲「海棠目白図」石峰寺京都市伏見区深草石峰寺山町26 TEL:075-641-0792 https://www.sekihoji.com/若冲「石峰寺石像群」常時拝観可能。若冲忌9月10日の時期に寺宝の墨画掛軸「虎図」など特別展示。宝蔵寺京都市中京区裏寺町通蛸薬師上ル裏寺町587番地 TEL:075-221-2076 http://www.houzou-ji.jp/若冲「竹に雄鶏図」「髑髏図」、他に弟子作品。2月8日、若冲誕生会で公開両足院京都市東山区大和大路通四条下る4丁目小松町591 TEL.075-561-3216 https://ryosokuin.com/若冲「雪梅雄鶏図」圓光寺京都市左京区一乗寺小谷町13 TEL:075-781-8025 https://www.enkouji.jp/応挙「雨竹風竹図屏風」(複製は常設展示)金剛寺京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内43 TEL:0771-22-2871 https://www.kongouji.net/応挙「波濤図」の内12襖と「群仙図」の内2襖を復元し常時公開。「群仙図」原図は収蔵庫に保管、11 月 3 日「文化の日」に一般公開。金剛寺(京都府亀岡市)●関西・西日本西福寺大阪府豊中市小曽根1-6-38 TEL:06-6332-^9669若冲「仙人掌群鶏図」「蓮池図」「山水図」「野晒図」。本堂は11月3日公開(雨天中止)MIHO MUSEUM滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷300 TEL:0748-82-3411 http://www.miho.or.jp/若冲「象と鯨図屏風」「双鶏・霊亀図」「松鶴図」応挙「孔雀図」「虹図」「京名所図屏風」「京名所図屏風」「王義之書扇図」「蟹蛙図」「遊亀図」大乗寺兵庫県美方郡香美町香住区森860 TEL:0796-36-0602 http://www.daijyoji.or.jp/main/応挙「松孔雀図襖」「郭子儀図襖」「山水図襖・壁貼付」他、及び応挙一門障壁画(複製常時公開、原図特別公開時)。他に「王儀之龍虎図」「鍾馗図」「柳下狗子図」「波上白骨坐禅図」「野分図」大乗寺(兵庫県美方郡香美町)金刀比羅宮香川県仲多度郡琴平町892-1 TEL:0877-75-2121 http://www.konpira.or.jp/応挙 表書院「遊鶴図襖」「遊虎図襖」「竹林七検賢図襖」「山水図」「瀑布図」常時公開。若冲 裏書院「花丸図」特別公開時。無量寺和歌山県東牟婁郡串本町串本833 TEL:0735-62-0468 https://muryoji.jp/index.html応挙「出山釈迦図」「豊干寒拾図・花鳥図」「豊干寒拾図・花鳥図」「波上群仙図」「群鶴図」(小襖絵)「山水図」「雪中山水図」。その他長沢芦雪作品。(複製・原図常時展示)草堂寺和歌山県西牟婁郡白浜町富田1220-1 TEL: 0739-45-0004若冲「隠元豆・玉蜀黍(とうもろこし」図」「鸚鵡図」(和歌山県立博物館寄託)応挙「雪梅図襖・壁貼付・床貼付」(和歌山県立博物館寄託)(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/12
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【2021年9月11日(土)】 一昨日、昨日と連続で終日事務所出頭でした。色々とてんてこ舞いでした。今日も終日PCに向かって、会の諸事ですが、直近の締めきりのおのはないので、少々気は楽です。 「若冲と応挙」いよいよ本編の最終回です。「絵の比較」を終えましたので、「生涯の比較」をしてみましょう。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-2 生涯を比べてみる 若冲、応挙、二人の画風の大きな違いはどこから来るのでしょう。もちろん、天賦の才能の違いの影響が大きいでしょう。しかし、彼らの生まれた環境、あるいは育った環境も、かなりの部分影響をしているのではないかと私は考えています。そういった点を箇条書きで簡単に比較してみましょう。生きた時代若冲:1716年(正徳6)2月8日-1800年(寛政12)9月10日 85歳没応挙:1733年(享保18)5月1日-1795年( 寛政7)7月17日 53歳没共通:江戸時代中期の画家。応挙の生きた時代は、若冲のそれに完全に含まれる。生まれた環境若冲:現京都市内、錦小路の裕福な青物問屋の長男。応挙:現京都府亀岡市。貧しい農家の次男。共通:現京都市内あるいは京都市近郊育った環境若冲:裕福なので青物問屋主人になっても絵を描き続けることができた。好きな画題、得意な画題を描いていればよかった。⇒動植物の絵がほとんど。動植綵絵は寺院の荘厳。売り物ではない。応挙:幼くして僧になるべく近くの金剛寺に預けられ、やがて京都に出て、玩具商・尾張屋に奉公し、眼鏡絵を描く。絵を描くのは生活のためでもあったので、依頼主の要求に応えなければならなかった。⇒遠近法、オールラウンダー共通:盛年時期は京都中心部に居住。両人住居は至近距離。天明の大火で焼け出される。絵を学ぶ若冲:狩野派の技をなすもの大岡春卜に学んだ? 狩野探幽、鶴亭などに影響を受ける。応挙:狩野派系石田幽汀に学ぶ。沈南蘋、狩野探幽、渡辺始興、日本古典画などに影響を受ける。共通:中国画に学び、影響を受ける。交流のあった人々若冲:大典顕常、伯珣照浩、売茶翁⇒禅の教え。生き方を学ぶ。絵の模写のツテ。池大雅⇒文化的交流応挙:円満院祐常、三井高美、妙法院門跡真仁法親王⇒絵の注文主、絵の模写のツテ。与謝蕪村⇒文化的交流共通:皆川淇園、木村蒹葭堂⇒文化的交流弟子と没後の展開若冲:限られた弟子の数。師を超える弟子は現れず。師が余りにも個性的過ぎた。若冲の代でほぼ途絶える。応挙:多くの弟子を育てた。師は偉大だったが、発展、展開の余地があった。森派、四条派など派生流派も形成された。竹内栖鳳など近代画壇にも繋がる。人々の認知若冲:没後明治時代までは衆目に知られ人気。その後日の目を見なかったが、最近になって若冲ブーム勃発。発刊されている関連本は応挙に比べて圧倒的に多い。応挙:没後も一定の認知と人気だが、若冲に比べると静かな人気。共通:両人、生前は「平安人物志」番付で1位、2位を常に争う。でも応挙が常に上。伊藤若冲肖像画 久保田米僊筆 円山応挙肖像画 山跡鶴礼筆 応挙が長男として生まれてきたら、いやでも農家を継がなければならず、画家応挙は生まれなかったかもしれません。応挙が若冲の家に生まれてきたら、尾張屋奉公の経験は得られず、後世に名を残すような偉大な画家にはなっていなかったかもしれません。若冲が応挙の家に生まれてきたらどうでしょう。若冲の個性は尾張屋奉公では伸びなかったかもしれません。二人が京都から遠くに生まれていたら、ただ絵を描くのが得意な青年で終わっていたかもしれません。偶然に偶然が重なって天賦の才能が開花し、この二人の素晴らしい作品群を今私たちは目にすることができます。 副題を「奇想の画家たちの生涯と生きた時代」としました。第1回で、応挙を奇想の画家に含めるのに違和感を覚える人も多いのではと述べました。この連載を読んでいただいてどうだったでしょうか。「精選版 日本国語大辞典」には「奇想」=「普通では思いつかない考え。奇抜な思いつき。」とあります。応挙の例えば「人物を描くとき、骨格を描いて、それに服を着せる」という着想は「普通では思いつかない考え」という意味で「奇想」と呼んでもいいのではないでしょうか。ということで、私は応挙をあえて「奇想の画家」と呼ばせていただいた次第です。 今回の研究にあたって参考にした主な文献を挙げておきます。【主な参考文献】「新版 奇想の系譜」 辻惟雄著 小学館 2019年「若冲百図」 小林忠監修 別冊太陽 平凡社 2015年「もっと知りたい伊藤若冲」 佐藤康宏著 東京美術 2011年改訂版「若冲」 狩野博幸著 角川ソフィア文庫 2016年「若冲」 渋澤龍彦他著 河出文庫 2016年「若冲」 澤田瞳子著(小説) 文藝春秋 2015年「円山応挙」 金子信久監修 別冊太陽 平凡社 2013年「もっと知りたい円山応挙」 樋口一貴著 東京美術 2013年「応挙・呉春・蘆雪」 山川武著 古田亮編 東京藝術大学出版会 2010年 これで本編は終了ですが、次回から何回かにわたって参考資料を投稿する予定です。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/11
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【2021年9月8日(水)】 昨日午前中は年イチの健康診断で、隣のニュータウン内のエミナースに二人で行きました。二人とも、毎年オプションで付けている、標準腫瘍マーカーの検査もしていただきました。結果は約1ヵ月後に郵送されてきます。 昨日の午後と、今日は、在宅で会の諸事を進めました。締めきりの明確な内容は、一昨日までに済ませたので、プレッシャーをあまり感じることなく進めることができました。 「若冲と応挙」の第41回、「絵を比べてみる」の最終回です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き) 最後に風景画。若冲の風景画となると、人物画よりさらに少なくなります。その一つが以前にも紹介した点描を使った図1「石灯籠図屏風」です。近景と遠景を明確に描き分け、間には雲海を置いて、山は暈したうえで小さく描いて遠近感を表現しています。図2応挙「江州日野村落図屏風」。応挙らしい作品です。両方とも六曲一双の屏風(ここでは片隻のみ表示)で若冲は金泥引を、応挙は金砂子を使っています。若冲の絵は寛政年間(1789-1800)の作、応挙の絵は安永5年(1776)の作です。若冲の絵のほうが後です。若冲が「俺だって風景が描けるんだ。」と、応挙と同じように金を使って六曲一双の屏風で描き上げたとも考えられます。ただ同じ技法では面白くないので、点描画という斬新な技法を取り入れたのかもしれません。図1 若冲「石灯籠図屏風」紙本墨画金泥引 六曲一双の右隻 京都国立博物館蔵(再掲)図2 応挙「江州日野村落図屏風」紙本墨画金砂子 六曲一双の左隻 宮内庁三の丸尚蔵館蔵 もう一つだけ、風景画のジャンルに入る絵を比較しておきます。図3は以前紹介した若冲「乗興舟(じょうきょうしゅう)」。図4はやはり以前紹介した応挙「淀川両岸図巻」です。若冲も応挙も伏見から大坂まで淀川を船旅して描いたようです。若冲作品は木版正面摺で、中国の風景かと思わせるような描き方です。応挙作品は、絹本着色の標準的なスタイルですが、左岸の建物が上下逆に描かれた部分があり、俯瞰図ながら船上の旅人の視線で描いているのが特徴です。同じ対象ながら、全く異なった作品に仕上がっています。若冲作品は明和4年(1767)作、応挙作品は明和2年(1765)作で、応挙作品のほうが少しだけ早く描かれています。若冲は応挙の作品を意識したうえ、正面摺の中国風墨画という応挙絵にはない技法で対抗したのかもしれません。当時、伏見から大坂への船旅が盛んだったことも、この2つの絵から窺い知ることができます。図3 若冲「乗興舟」紙本木版正面摺(部分) 京都国立博物館蔵(再掲)図4 応挙「淀川両岸図巻」絹本着色(部分) (公財)アルカンシエール美術財団(再掲) 若冲、応挙二人の絵を、よく似た画題を取り扱った絵を中心に比較してきました。美術書には、この絵は応挙が若冲を意識したかもしれないとか、若冲が応挙に対するライバル意識丸出しで描いた絵かもしれないなんていうことはあまり書いてありません。たまたま両人の絵を同時に研究することになった私の個人的な見解でしかありません。見当違いかもしれませんが、その場合はこの浅学の身をお許しください。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/08
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【2021年9月6日(月)】 今日はもともとフリー日。今日がタイムリミットの会の作業に時間を費やしました。 「若冲と応挙」の台40回。「絵を比べてみる」の「その4」です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き) 若冲と応挙の絵の比較の続きです。 多くの動物を描いた「群獣図」です。図1若冲「樹花鳥獣図屏風」。以前の回で「升目描き」によるモノクロ調の「白象群獣図」を紹介しましたが、こちらはフルカラーです。右隻には白象を中心に23種類の動物が描かれ、左隻には鳳凰を中心に31種類の鳥が描かれています。モノクロ調の「白象群獣図」に比べると稚拙な技巧が見られるため、若冲の下絵による、弟子たちの彩色ではないかともいわれています。図2応挙「群獣図屏風」。19種類53体の動物が描かれています。多くの動物がつがいで登場し、大小様々な動物たちが争うことなくくつろいでいます。若冲作品も、応挙作品も、動物たちのパラダイスを描いてはいますが、ずいぶん雰囲気の違うパラダイスになっています。図1 若冲「樹花鳥獣図屏風」静岡県立美術館蔵 上:右隻 下:左隻図2 応挙「群獣図屏風」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 上:右隻 下:左隻 図3若冲「蒲庵浄英像」 図4応挙「江口君図」 京都・萬福寺蔵 静嘉堂文化美術館蔵 今までは全部動植物の絵の比較でした。応挙は動植物以外に、風景画や人物画も多く描いたのに対し、若冲はほとんど風景画や人物画を描かなかったので、比較する絵が動植物の絵にならざるを得ないためです。若冲の絵への向き合い方が大典顕常筆「寿蔵碣銘」に記されていることを以前の回で紹介しました。「では何を描くか。雲の上を飛ぶ麒麟や中国故事人物は実存しない。月代頭(さかやきあたま)の日本人を描くのは嫌である。日本の山水も描くほどのものはない。」風景や人物は端から描く対象として考えていなかったのです。とはいうものの若冲は辛うじて、肖像画の形で人物画を遺しています。図3若冲「蒲庵浄英像」。黄檗僧・蒲庵浄英の肖像画です。対して図4応挙「江口君図」。出来栄えという点では応挙の方が数段上回っていると言っても過言ではないでしょう。もともと若冲は人物画が好きではなっかたし、得意でもなかったのでしょうが、お世話になった知己の肖像画だけは描かざるを得なかったのでしょう。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/09/06
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【2021年8月29日(日)】 昨日、会の26日の月イチの集まりの記録は仕上げたので、今日は、会の出来ていなかったことを少しずつ進めました。散歩も行く余裕なく、終日PCに向かってました。 「若冲と応挙」の第39回です。二人の絵の比較の3回目です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き)図1 若冲「百犬図」個人蔵(右は部分拡大) 図2 応挙「狗子図」敦賀市立博物館 「子犬」。図1若冲。毛の模様はそれぞれ違うし、色んな方向を向いていますが、目だけは同じ形をしています。可愛いいですが、どことなく不気味です。一匹だけ前を向いて立って、オチンチンを見せている犬がいます。分かりますか?左端の中央少し下です。 図2応挙。本当に可愛らしく、思わず抱き寄せたくなります。これも写生で様々な姿態を描き止め、子犬「らしさ」を全面に打ち出した結果でしょう。子犬の愛らしさをここまで魅力的に表現した画家はそれまでいませんでした。 「魚」。図3、図4若冲。水の中の視点で描いています。魚たちは同じ方向に泳いでいます。図4は以前の回でも紹介しましたが、蓮の花が水中に咲いていて、現実にはあり得ない世界が表現されています。図5応挙。水面の上から鯉を見ています。自然な泳ぎをしています。応挙の魚の絵は、水中からの視点のものは見たことがありません。日常の生活では、水面の上からしか魚を見ることがないためでしょう。左:図3 若冲「群魚図(鯛)」動植綵絵右:図4 若冲「蓮池遊魚図」動植綵絵(再掲) 図5 応挙「鯉魚図」 いずれも宮内庁尚蔵館 双幅の左幅 個人蔵 「雪」。図6若冲。若冲の描く雪は、以前の回で述べたように、かき氷にかける練乳のようなネットリ感が特徴です。胡粉が用いられ、「裏彩色」も使って、質感を出しています。図7応挙は、生地を塗り残すことで雪を表現しています。ですので、胡粉のように物理的な盛り上がりはないのですが、松の葉の描き入れの密度や、幹や枝の墨の濃淡で、ふわふわした雪の質感・立体感を見事に表現しています。図6 若冲「雪中錦鶏図」動植綵絵(再掲) 図7 若冲「雪松図屏風」国宝(再掲) 部分 宮内庁三の丸尚蔵館 部分 三井記念美術館 次回も「絵を比べてみる」を続けます。その後、二人の生涯を比較した後、二人の作品を観覧できるところを紹介して、終わりにしたいと思います。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/29
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【2021年8月25日(水)】 昨日は、京都市産業観光局に立ち寄り、事務所出頭、夕刻から会の月イチの集まりでした。今日は、計画在宅で会の諸事です。そろそろ夏の梅雨が明けて、暑くなりそうです。 「若冲と応挙」の第38回。「絵を比べてみる」の2回目です。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる(続き)4-1 絵を比べてみる(続き) 図1 若冲「老松孔雀図」動植綵絵 宮内庁三の丸尚蔵館(再掲)「松」の表現も比較しましょう。図1若冲(前回も紹介)の松は葉が密で、そのうえ中心部の背景に濃い緑色が加えられ、まるでイガクリのように見えます。動植綵絵で登場する松はすべてこのような表現になっています。それらの前景には必ず白い鳥が描かれており、松の緑を濃くしているのは、鳥の白さを強調するためだと思われます。一方、図2応挙の松の絵は、葉が疎らで、根元まで葉が一本一本認識できます。葉が一本一本見えたほうが、より松らしく見えるという考えから、意識的に葉を疎らに描いたのではないでしょうか。例のそのまま「写す」のではなく、「らしく見せる」の「写す」です。図3応挙は、遠景として描かれた松部分の拡大です。遠景では葉の一群が小さくなるので、葉を一本一本描こうとすると、さらに疎らにせざるを得ません。すると緑色が弱まり松らしく見えなくなるので、よく見ると葉の後ろに薄く緑色を置いているのが分かります。図2 応挙「松に孔雀図」部分(再掲)大乗寺 図3 応挙「保津川図屏風」重文 部分拡大 千總 松のついでに「梅」です。図4若冲のほうは、あり得ない奇妙な枝ぶりが多く描かれ、満月の夜の静けさの中に緊張感が漂います。図5応挙のほうは、梅らしい枝ぶりで、紅梅はピンク色、紅色が混ざり、春に向かうのどかな日を感じさせます。図4 若冲「月夜白梅図」個人蔵 図5 応挙「梅花双鶴図小襖」三井記念美術館 図7 応挙「黄蜀葵鵞鳥小禽図」 図6 若冲「芦鵞図」動植綵絵 とろろあおいがちょうしょうきんず 宮内庁三の丸尚蔵館 部分 個人蔵 続いて「鵞鳥」です。図6若冲。ガチョウの羽や体は真っ白なはずですが、「裏彩色」による錯視的な金色が加えられているようです。動植綵絵の他の白い鳥の絵も、すべてこの錯視金色が加わっています。ガチョウの体型はもっとずんぐりしているはずですが、三角形状にスタイリッシュにデフォルメされています。図7応挙。オデコの出っ張りといい体型といい、こちらの方が実際に近いでしょう。しかし、体や羽に金色が配されています。絹本ですので、若冲と同じように「裏彩色」を用いているかもしれません。これも「動植綵絵」を見た、あるいは評判を聞いた応挙が「俺だって、裏彩色で金色を出せるんだぞ」とライバル意識むき出しで描いたのかもしれません。「色」の面では、応挙らしからぬ表現かなと思います。 図8 若冲「雪中鴛鴦図」 図9 応挙「芙蓉飛雁・寒菊水禽」 せっちゅうえんおうず 双幅の内左幅「寒菊水禽図」 動植綵絵 宮内庁三の丸尚蔵館 個人蔵 「鳥」です。図8若冲。真横を向いた石上の鴛鴦(おしどり)。もう一羽は水中に顔を入れています。番(つがい)でしょうか。でも石上の鳥は、水上の鳥を見ているわけではありません。「おしどり夫婦」という言葉もありますが、反対に冬の景色と相まって孤独感を感じます。若冲の絵はこのように一枚の絵に複数の動物・鳥・昆虫が描いてあっても、何か孤独感を感じさせる絵が多いように思います。対して図9応挙。仲のよさそうな鴨や鴛鴦の群れです。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/25
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【2021年8月23日(月)】 昨日も今日も計画的在宅日として、26日の会のことで忙しくしています。今日も、雨が降ったりしています。梅雨以上の長雨のように感じます。長い間お日様を長時間見ていません。 「若冲と応挙」の第37回。前回まで若冲と応挙の生涯と作品をシリーズで紹介してきましたが、今回から、この2人の巨匠の比較にトライアルしたいと思います。まず、絵を比べてみます。◆第4章 若冲と応挙を比較してみる4-1 絵を比べてみる 前回で応挙の章が完了しました。「若冲と応挙」というタイトルで書いてきましたので、最後にこの2人の画家の比較をしてみたいと思います。まず、同じ画題を扱った絵を並べてみましょう。同時代に生きた画家とはいえ、大きく画風の違う2人の絵を比較することなど無意味かもしれませんが、案外と似ているところもあるのです。 最初は「鶴」です。図1若冲と図2応挙はよく似た構図です。余白のとり方もよく似ています。両方とも鶴を描いた中国画を土台にしているのかもしれません。ただ図1若冲は「裏彩色」を使って羽を金色に輝かせる技法を使っている(筆者の推定)ところ、背景の梅の木の枝ぶりなどに若冲らしさが見えます。図3若冲の動植綵絵のバージョンでは余白が少なくなり、鶴も真横向きか、真正面向きになり、若冲らしいインパクトの強い絵になっています。 図1若冲「竹梅双鶴図」 図2応挙「双鶴図」 図3若冲「梅花群鶴図」動植綵絵 プライス・コレクション 島根・八雲本陣記念財団 宮内庁三の丸尚蔵館 次に「蝶」です。図5応挙はもちろんですが、図4若冲も珍しく遠い蝶ほど小さく書いて遠近感を表現しています。ただ若冲の方は飛んでいる蝶はすべて翅を180度開いているのに対し、応挙の方は色んな翅の開き角度の蝶を描いています。ある一瞬を捉えれば、現実は応挙の絵です。こういう瞬間が見えるわけではないので、応挙は蝶の死骸の翅を色んな開き角で広げて写生をしたのかも知れません。若冲は意識的に全部180度開いた蝶を描いて、色彩豊かな大輪の芍薬(しゃくやく)とともに華やかさを演出したかったのではないでしょうか。 図4若冲「芍薬群蝶図」動植綵絵 図5応挙「百蝶図」 宮内庁三の丸尚蔵館 徳川ミュージアム 次に「孔雀」です。図6若冲のは白孔雀です。白孔雀は実際にいるようです。「裏彩色」を使って錯視的な金色を加えています。また、白孔雀の場合、羽のハート形に描かれた部分は通常は白色のはずですが、背景の松と同じ緑色を置いています。意識的に煌びやかさを加えたのでしょう。図7応挙のは写実的で、頭から胴にかけての光沢のあるグラデーションを使った質感表現が見事です。この2つの絵の孔雀の格好が同じです。若冲の動植綵絵の人気が出て、「細密さでは、負けないぞ」というライバル意識をもって応挙は描いたのかも知れませんし、同じ中国画を参考にしたのかもしれません。図6若冲「老松孔雀図」動植綵絵 図7応挙「牡丹孔雀図」(再掲)宮内庁三の丸尚蔵館 宮内庁三の丸尚蔵館 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/23
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【2021年8月16日(月)】 今日は京都では「五山の送り火」ですが、昨年に続いて、部分点火でした。去年は、来年は絶対大丈夫だと思っていたのに、2年連続となりました。「来年こそは」と思いたいですが、あまり期待しないことにします。会の20日の集まりの準備をしました。 「若冲と応挙」第36回、円山派についてです。◆第3章 円山応挙(続き)3-7 円山派 応挙はたくさんの弟子を受け入れて育て、「円山派」を形成しました。応挙の画風を受け継いだ呉春も多くの門人を育て「四条派」を形成しました。両派合わせて「円山四条派」と呼ばれています。図1に系図を示します(字が小さくなるので、半分に分割しています)。図1 円山派とその派生流派の系図 すでに紹介した宗家の円山応瑞、応震、応立が右端に書かれています。左下には明治時代から昭和前期に活躍した竹内栖鳳の名もあります。応挙と同時代に活躍した若冲や曾我蕭白は、多くの弟子を持たず、ほとんど本人の代で終わっているのに、狩野派のような伝統を持たない応挙がこれほど多くの門人を持ち、かつその画派が長く続いたのは何故でしょう。 まず、応挙の生きた時代が背景として考えられるでしょう。文化にかかわる層が町人へと拡大しました。平常の暮らしの中で、掛軸、襖絵などで美を求める人が増えたわけです。技の秀逸さと、部屋を飾るに相応しい分かりやすく、かつ新しい画風に注目が集まり、注文が増えます。若冲・蕭白とも「平安人物志」の人気ランキングに登場しますが、実際の需要は応挙のほうが格段に大きかったと思います。その需要に応えるには、弟子をたくさん受け入れ、育てなければなりません。弟子を多く持つと、手取り足取り教えるのでは賄えなくなります。明確な絵画理論を弟子に伝え、写生帖を有効活用するなどもして、弟子を育てたのだと思います。そして、既に述べましたが、大規模障壁画の仕事などをするにはチームワークが大切です。そのようなマネジメント能力も応挙は持ち合わせていたのでしょう。そして、弟子たちの個性も大切にしたのではないでしょうか。長沢蘆雪は「奇想の画家」の一人に数えられるほど個性的な絵を描いたし、呉春は四条派を形成し、森徹山らは森派を形成するなど一味違った画風を追求しました。応挙の画風は、秀逸だけれども、発展性があり、応用展開できる余地があったので、弟子たちは師とは異なった高みを目指し、円山四条派は後世に長く引き継がれることになったのではないかと思います。図2 長沢蘆雪「虎図」串本・無量寺 図3 呉春「池辺雪景図」 個人蔵 図2に長沢蘆雪「虎図」、図3に呉春「池辺雪景図」を示します。「池辺雪景図」は雪を白く塗り残す技法や構図が以前の回で紹介した応挙の「雪松図屏風」に似ていますが、応挙の絵にはない洒脱さが加わっています。 これで応挙の章を終えます。次回から若冲と応挙の比較をしていきます。 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/16
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【2021年8月15日(日)】 雨が続きます。雨の被害が相次いでいますが、幸い私の地域は今のところ避難指示は出ていません。修学旅行ガイドでよく通る清水寺参道の茶わん坂での崖崩れは驚きました。 もう一つ気になるのが甲子園。「天候不良のため、本日8月15日第1試合の開始を午前8時から遅らせます。天候の回復を待って、試合を行う予定です」とのことですが、果たして・・・。 3連続在宅日の中日。会の集まりの準備に追われています。京都駅往復もします。 「若冲と応挙」の第35回。応挙のその他の作品の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 その他の作品(続き) 図1「氷屏風図」。やはり天明期の作です。左上へ、右上へ、水面の氷のひびが入っています。現代絵画と見まごう構図です。図1「氷図屏風」天明年間(1781~1788)大英博物館蔵 図2「海上竜巻図」天明7年(1787)個人蔵 図2「海上竜巻図」。応挙55歳の作品です。竜巻の恐怖感を水墨画で見事に表現しています。天に昇る龍も描かれています。当時は竜巻は龍が起こすと信じられていました。 図3「富士図」。応挙60歳の作です。富士山は、生地色のまま塗り残し、外側を墨でぼかす「外隈」の技法が使われています。「外隈」は狩野探幽が得意とする技法でした。円満院祐常は「萬誌」で「探幽は遠山、ことに外隈が美しい。この隈は一回の刷毛では施すことができない。最初に水でほどよく隈をとり、その湿ったところへ淡墨や濃墨を入れると”ほっこり”としてよい」と書いています。応挙はこの絵で探幽風の外隈を意識したのかもしれません。図3「富士図」寛政4年(1792)三井記念美術館蔵 図4「龍門図」寛政5年(1793)京都国立博物館蔵 図4「龍門図」。応挙61歳の作です。中幅は滝の中を昇る鯉が砲弾のような形で描かれています。これは応挙独特の鯉の描き方です。中幅の寸法を左右より長くして、鯉の上昇が強調されるよう工夫されています。 最後に制作年代はよく分かりませんが、軽妙な作品を2点紹介します。 図5「狗子図画賛」。「己が身の闇より吼て夜半の秋」の句を蕪村が添えています。「秋の闇夜で吠える黒い犬は、自分の色のように黒い心の闇から吠えるのだろうか」という意味です。句の意味と可愛い黒犬の対照が面白い絵です。 図6「猫も杓子も図画賛」。「ぢいもばばも猫も杓子もおどりかな」の句を蕪村が添えていますが、「猫は応挙が戯れに描き、杓子は蕪村が酔って描いた」と右側に書かれており、絵は蕪村との共同作品であることが分かります。応挙らしくない猫の描写が面白いです。左:図5「狗子図画賛」賛は蕪村 個人蔵 右:図6「猫も杓子も図画賛」応挙・蕪村筆 海の見える杜美術館蔵 (続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/15
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【2021年3月14日(土)】 12日は雨の中を二人でお墓参り。その足で名古屋に寄って帰ってきました。お墓参りのとき雨が激しく、閉口しましたが、レインコートを持っていっていたので助かりました。雨とコロナで渋滞がなかったことも助かりました。 昨日13日は、終日事務所。 今日から3日連続在宅ですが、今日は夜にオーイ会のZoom飲み会があります。 近くに避難指示が出ています。私の住む所にも出るかもしれません。 「若冲と応挙」の第34回です。応挙の代表的な作品以外を観察していきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 その他の作品 ここ3回は晩期の応挙、雅号の由来、ゆかりの地、肖像画について紹介してきました。 今回は、生涯についての解説の流れの中で紹介しきれなかった作品について、一風変わった作品を中心に紹介したいと思います。年代順にみていきます。 図1「鬼の念仏図」。「円山主水」の署名のある20歳代の作品ですが、水墨画でひょうきんさを描き出す余裕さえ感じさせます。僧・可円の「見るや人角のはえたる鬼さへも かねをたゝいて南無阿弥陀仏」の歌が添えられています。 図2「山水図」。応挙33歳の作品で「仙嶺」の雅号を用いています。画面奥から手前にかけて、墨の色を次第に濃くすることによって遠近感を出しています。淡墨でだいたいの図をつくり、これが乾かないうちに勢いよく濃墨を溌ぐ溌墨(はつぼく)という技法で描かれています。右下の、叩きつ付けるような激しい濃墨は現代書道のような筆遣いです。図1「鬼の念仏図」18世紀 個人蔵 図2「山水図」明和2年(1765) 三井記念美術館蔵 図3「夕涼み図」安永元年(1772) 個人蔵図3「夕涼み図」。応挙40歳頃の作品です。描かれているのは、三井総領家の4代目三井高美(たかよし)と伝わります。高美は応挙のパトロンだったわけですが、この無防備にくつろぐ姿からは、高美にとって応挙は心許せる存在でもあったことを窺い知ることができます。絵の右端には高美作・書と思われる「さつぱりと はらひはてたる まるはたか さそやすゝしく世をわたるらむ」の歌が入っています。 図4「幽霊図」安永年間(1772~1780) 個人蔵 カリフォルニア大学バークレー美術館寄託 応挙の絵の中でよく知られているのが、「足のない」幽霊の絵です。図4に「幽霊図」の代表作の一つを示します。応挙40歳代の作です。江戸時代の国学者・藤井高尚(1764-1840)は、その著書の中で次のように記述しています。 「今人幽霊といへるものは、足なきもののやうに思へり。しかるに100年以前(享保以前)描くところのえん魂にはことごとく足あり。さてこの足なき幽霊はいつ頃より出来しといへるに、こはいと近く円山応挙よりおこりしなり」 足のない幽霊を描きだしたのは応挙だとしています。以前の回で紹介した「七難七福図巻」の凄惨な場面を描いた応挙にとっては、恨みの形相をもった見るからに恐ろしげな幽霊を描くことはたやすかったでしょうが、応挙は足が消えかかり、伏し目がちのはかない表情を持つ幽玄な幽霊を描きました。こういった幽霊図のモデルとなったのは若くして亡くなった最初の妻・雪で、夜中に髪が乱れたまトイレに立った姿を写したと伝わります。 図5「元旦図」18世紀 個人蔵 図5「元旦図」。作年代は不詳です。正装した男性が初日の出を拝しています。元旦の静粛な雰囲気が伝わります。回りの景色も日に照らされて明るいはずですが、描かれていません。日の出で太陽が顔を出した瞬間は眩しくて、それまで見えていた回りの景色が一瞬見えなくなるという経験はないでしょうか。応挙は、人の眼に感じる日の出を描いたのかも知れません。 図6「波上白骨座禅図」天明期 香住・大乗寺蔵 図6「波上白骨座禅図」。天明期の作ですから、50代前半の作と考えられます。波の上で白骨の人体が座禅するという特異な画題です。仏教的な寓意が何かあるかも知れませんが、人物を描く場合、裸体に服を着せるという考え方で描いた応挙ですので、さらに突き詰めて、骨格を描くというところまで入り込んだのかもしれません。「解体新書」が刊行されたのが、応挙が42歳のとき。応挙は解剖学も学んだといわれています。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/14
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【2021年8月11日(水)】 昨日は、午前中、事務所で関係の組織の方々の打ち合わせ。午後からは外に出てお世話になる組織へのご挨拶でした。それが終わって、事務所で諸事。終日外出していました。今日は、終日在宅で、会の諸事です。 「若冲と応挙」の第33回。生涯のお話しを前回で終え、今回は、雅号の由来、肖像画、ゆかりの地についてです。◆第3章 円山応挙(続き)3-7 雅号の由来、肖像画、ゆかりの地 応挙という雅号の由来について触れておきます。 以前の回で、応挙が私淑した一人が、宋から元にかけての中国の画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)であると書きました。応挙はその精密な描写力を高く評価し、彼を目標とし、彼に近づこうと努力を重ねたといわれています。それだけではなく、写実を追い求めた円満院祐常も銭舜挙を高く評価していたようです。パトロンとなった祐常が銭舜挙の画力に近づこうとする応挙を見て、「銭舜挙の筆意に応ぜむ」という意味で与えたのが「応挙」という雅号であったといわれています。銭舜挙は銭選とも呼ばれます。応挙は「仲選」という落款印も多く押しています。「仲選」は「銭選に伯仲せむ」という意味だといわれています。図1「雪松図屏風」の落款上の印:応挙之印 下の印:仲選 落款のことについてさらに付け加えると、応挙の作品には「応挙冩」(冩=写)の款記を記したものが多くあります。一般的には「――筆」「――画」「――之図」が使われますが、応挙の作品では圧倒的にこの「写」が書かれたものが多くなっています。「写」には「えがく」という意味もあるので、応挙は「筆」という意味で「写」を使ったとも考えられますが、いわゆる「うつす」という意味で「写」を使ったと考えたいところです。ただ、応挙の「写」は、実物をそのまま写すという意味の「写」ではなく、対象を対象らしく描くという意味の「写」であることは、今まで述べてきたことで推し量ることができます。図1に「雪松図屏風」(以前の回で紹介)の落款を示します。「応挙之印」、「仲選」の落款印と「応挙冩」の款記を見ることができます。 図2 応挙肖像画 山跡鶴礼筆 さて、若冲の肖像画については、生前時に描かれたものは存在しないことを書きました。応挙はどうでしょう。実存します。応挙の弟子の一人である山跡鶴嶺(やまあとかくれい)が晩年の応挙を描いたものです。図2に示します。生前の肖像画なので、こんな風貌だったのでしょう。まじめな人柄のように見えます。 応挙ゆかりの地は、ポイントポイントで説明してきましたが、地図を使って説明したのは、誕生・幼少期の亀岡のみでしたので、ここで現京都市中心部のゆかりの地をプロットした地図を図3に示します。図3 京都市中心部の応挙ゆかりの地(若冲生家、若冲親族菩提寺・宝蔵寺を含む)図4 円山応挙宅跡碑 四条堺町西入ル南側 その中に若冲の生家や親族の菩提寺「宝蔵寺」もプロットしました。若冲生家は錦小路高倉、応挙の自邸はその目と鼻の先にありました(1782年以降は四条堺町。図4の碑が建つ)。応挙のアトリエは浄土宗寺院大雲院にありました。大雲院は現在東山の高台寺に近い「ねねの道」沿いにありますが、当時は今の京都高島屋の場所にありました(図5の碑が残る)。昭和48年、高島屋の拡張で現在地に移転したのです。図5 大雲院跡地碑 四条寺町下ル東側(高島屋裏側) 右端は現・大雲院 東山高台寺近く 「ねねの道」沿い 若冲のアトリエの場所ははっきり分かっていませんが、生家に近い場所だったとすると、応挙と若冲は、1キロも離れていないところで絵を描いていたことになります。ただ、文献上では、応挙と若冲が会ったという記録は残っていません。以前の若冲のところで述べたように、若冲、応挙両名と交流のあった著名人の一人儒学者皆川淇園(みながわきえん)(応挙の絵の弟子でもありました)が、天明8年(1788)に応挙、呉春らとともに石峰寺の石像群を観覧しましたが、そのとき若冲は石峰寺にいなかったと、自ら著した「淇園文集」に書いています。しかし、別の機会に二人が顔を合わせ、言葉を交わした可能性は大きいと筆者は思っています。仮に会わないまでも、互いの絵を目にする機会は多かったと思います。「平安人物志」でも、常に上位を争ってきた2人ですので、互いにリスぺクトし、互いに影響を受けたものと思います。それを窺わせる作品もありますので後述します。 応挙の弟子でもあり、四条派の始祖である呉春の自邸跡が、錦小路東洞院上ル西側にあり、碑が建っています。その碑の建つ場所には、低層マンションがあり、何と「Shamaison 呉春」という名が付いています(図6)。呉春やその弟子たちの多くが四条通付近に住んだので「四条派」と呼ばれます。図6 呉春宅址 次回は、円山派、応挙の一風変わった絵などを紹介します。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/11
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【2021年8月9日(月・祝)】 今日は在宅。会の諸事なかなか思うようにはかどらず気持ちが落ち着きません。お天気も台風接近で朝から雨で、朝の散歩は無しです。気温は高くないようですが、蒸し蒸ししています。 「若冲と応挙」第32回。応挙の晩期の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 晩期(続き) 図1 悟真寺 応挙は大乗寺の「松に孔雀図」を描いた3ヶ月後、寛政7年(1795)7月17日、63歳で亡くなります。応挙は菩提寺である浄土宗の寺院・悟真寺に葬られました。悟真寺は元々は四条大宮(大宮東映のあった場所)に在りましたが、1951年に太秦の現在地に移転しました(図1)。応挙の墓は悟真寺の墓地に子孫の墓とともに建っています(図2)。墓地の向こう側に見える建物は東映太秦映画村です。 図2 応挙とその子孫の墓@悟真寺(左から応誠、応震、応挙、応瑞、応立) 右の写真は応挙の墓の拡大 墓碑は妙法院真仁法親王揮毫 中央が応挙の墓で、墓碑は応挙のパトロンの一人であった妙法院宮真仁(まさひと)法親王(光格天皇の兄)揮毫です。応挙の墓の向かって右が円山派2代応瑞、応挙の向かって左が3代応震、一番右が4代応立(おうりゅう)、一番左が5代応誠です。 図3 円山応挙家系図(再掲) もう一度、応挙の家系図を図3に示します。応挙の次男・応受も画家になりましたが、母方の祖父木下萱斎の養子となって木下家をついだので、木下応受とも名乗っていました。養子として出たため、ここには応受の墓がないわけです。2代応瑞は子に恵まれなかったのか、応受の子の応震が応瑞の養子になって円山派3代を継いでいます。しかし、この応震も子がなく、友禅工寺井久次郎の子が養子に入って応立として4代を継ぎます。5代は応誠ですが、4代応立との血縁的な関係を調べましたが、よく分かりませんでした。そしてこの5代応誠のあとは、円山家による円山派は続かなったようで、3代応震の妹(国井家に嫁いだ)の子が国井(円山)応文として、円山派一門の後継者となり(応誠同様5代を名乗った)、その子国井(円山)応陽(6代)に引き継がれました。家系図には書かれていませんが、応陽の子・国井(円山)応祥が7代として継ぎ、現在は応祥の縁戚にあたる駒池(円山)慶祥氏(本名駒池慶子)が8代として活躍されています。近年、悟真寺の天井画や襖絵を、慶祥氏の弟子(恐らくご子息)円山真祥氏(本名駒池真)といっしょに描いています。 図4「応挙誕生地」碑 図5「応挙誕生地」碑 @太秦・悟真寺 @亀岡・穴太寺近く (「もっと知りたい円山応挙」から) さて、この悟真寺で「応挙誕生地」と書いた大きな石碑を見つけました(図4)。そのときは、新しく建てられたもののように見えました。応挙は亀岡で生まれたので奇異ですが、京都府生まれという意味では合っているので、悟真寺なりの解釈によるものなのだろうと、そのときは理解しました。その後、亀岡の穴太寺近くの「応挙誕生地」の碑を訪ねたときに、以前の回で述べたように、近年どここかに移築されて無くなってしまったことを知りました。そのときは気付かなかったのですが、あとでひょっとしてと思って、美術書に掲載された亀岡の碑(図5・再掲)と悟真寺の碑(図4)を比べると全く同じ形、全く同じ字形であるのが分かりました。亀岡の碑が移築された先は、太秦の悟真寺だったのです。悟真寺の碑の近くには何も説明書きがなく、これを見た亀岡市民は「応挙は悟真寺近くで生まれたと誤解するじゃないか」とクレームをつけるのではないかと心配しています(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/09
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【2021年8月8日(日)】 暑い日が続きます。昨日は、「京の夏の旅」大覚寺の見学で外出しましたが、今日、明日は、在宅で会の諸事などです。 今晩はオリンピックの閉会式。日本選手の活躍はすごくて、感動しましたが、やはりどこか物足りなさが残るオリンピックでした。何かなぁと思ったら、無観客とかではなく、競技場外の触れ合いがないからでしょうね。普通なら、ホストタウンと選手たちの触れ合い、外国からの観客が日本を楽しむ様子、そんなニュースが、選手の活躍の後に流れるのですが、それがないのです。世界中から選手以外も集まるお祭だったはず。残念です。「若冲と応挙」第33回目です。応挙の晩期へと入っていきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 晩期 前回、前々回は、応挙工房をあげて多くの障壁画大作を遺した、45歳から56歳までの円熟期を中心に述べました。今回は、応挙の生涯最後の時期、57歳から63歳の晩期を中心に紹介します。年代でいえば、寛政元年(1789)から寛政7年(1795)です。 天明8年(1788)1月30日、若冲もそうであったように、応挙は京都市中の大部分を焼き尽くした天明の大火に遭遇します。応挙は、この大火前から、襖絵などの大作を描くにあたって、大雲院という浄土宗寺院の方丈をアトリエとして使わせてもらっていました。場所は寺町四条の現・京都高島屋の裏手です。自宅は当時四条堺町にありましたので、そこからは数百メートルのところです。ところが、この天明の大火で、応挙はアトリエも自宅も同時に失うことになります。 焼け出された応挙は、幼少の頃、僧になるべく預けられた亀岡の金剛寺(以前の回でで紹介しました)に一時身を寄せ、そのときに、金剛寺のために、障壁画「波濤図」「山水図」「群仙図」を描いたと云われています。応挙の場合、障壁画はアトリエで描いたうえ、弟子たちに現場に運ばせるのが常だったので、これらの襖絵は応挙がその場で描いた唯一の障壁画群ということになります。図1に「波濤図」の一部を示します。図1「波濤図」重文(部分) 亀岡市・金剛寺蔵(東京国立博物館に寄託) 金剛寺ではデジタル複製画常時展示 「波濤図」は3室30襖と一間の壁紙に描かれたものですが、応挙が生涯をとおして同一テーマで描いた作品としては最大のものです。また、3室を分割する襖を外したり開いたりした場合でも絵がうまく繋がるように、緻密な配慮のもとに描かれています。図示の部分は、仏間に面しており、本尊釈迦如来像を正面に見て左側の部分です。画面左から右に向かって、すなわち本尊に向かって波がせり上っていくように描かれており、宗教的な高揚感を演出しています。「波濤図」「山水図」「群仙図」とも重要文化財に指定されており、「波濤図」「山水図」は軸装されたうえ、東京国立博物館に寄託されています。金剛寺では、「波濤図」のデジタル複製8面が常時観覧でき、「群仙図」原画が11月3日に公開されます。 天明の大火では御所も焼失することになりましたが、2年後の寛政2年(1790)には寛政度御所造営が竣工し、その障壁画制作にあたっては応挙にも声がかかり、一門で参加しました。御所の障壁画を担当するということは、最高権威によって認められたということであり、絵師として最も名誉なことです。応挙本人の評価だけでなく、応挙工房が、応挙の統率のもと多くの質の高い障壁画を描いていたことも評価されたのでしょう。「平安人物志」で市中人の人気でトップであったことは既に述べましたが、朝廷・幕府からも認められたということです。この障壁画には、円山派だけではなく、狩野派、土佐派のそうそうたる絵師も参加しましたが、残念ながら1854年の火災で焼失してしまいました。 奥文鳴「仙斎円山先生伝」によると、応挙は61歳の頃から病で歩行困難となり、井以前の回でも述べましたが、眼病も患い絵画制作に支障をきたすようになっていました。しかし、まだどうしてもやり遂げないといけない仕事が残っていました。天明の大火で中断していた障壁画制作です。いまや立派に成長した弟子たちにも支えられて、寛政6年(1794)には讃岐・金刀比羅宮表書院の中断分「瀑布・山水図」を完成させ、寛政7年(1795)には、香住・大乗寺の中断分「松に孔雀図」を完成させました。「松に孔雀図」は以前の回で紹介しましたので、ここでは金刀比羅宮表書院(図2)の「山水図」の一部を紹介します。図3に金刀比羅宮表書院の障壁画配置図を示します。図2 金刀比羅宮表書院 図3 金刀比羅宮表書院 障壁画配置図 「富士一の間」「富士二の間」は明治時代の画家である邨田丹陵筆ですが、それ以外は全て応挙筆で、重要文化財に指定されています。応挙が筆を執るにあたって、三井家総領家5代三井高清が資金を出したという記録が残っています。今回の研究に際し、筆者もここを観覧しましたが、何よりも原画がオリジナルの位置で鑑賞できることが最大の魅力です。ただ、廊下からのガラス越しの鑑賞のため、天気が良いとガラスへの外光反射で見にくくなってしまうのが難点です。四国八十八ヶ所巡礼をされている方がいらっしゃったら是非お立ち寄りください。以前の回で紹介した張り子の虎のような虎の絵も、「虎の間」の「遊虎図」の一部です。そして図4が天明の大火後の晩年の作品「山水図」です。図4 金刀比羅宮表書院「山水図」(部分) この部分は、貴人が着座する一段高い上段の間から、左方向を見下ろす部分です。岩山が直角に折れ曲がった部屋の角に描かれていますが、それが左右面で自然に繋がり、その後ろの山々が、途中で直角に折れ曲がっているにも関わらず、右の面から左の面にわたって、真っすぐ遠くまで連なっているように見えます。上段に座った客人は、室内に居ながら広大なパノラマ風景を楽しむことができるのです。応挙イリュージョンです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/08
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【2021年8月4日(水)】 5連続在宅日の最終日です。今日は、朝から良い天気で午前中から暑いです。もうじきエアコンオンしようかと思います。 在宅が多いので、またご近所散歩を復活させていますが、暑いので朝散歩しています。「お通じ」が何か調子いいです。朝散歩の効果かもしれません。 「若冲と応挙」第30回。応挙の円熟期の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-5 円熟期(続き) 大乗寺の次の襖絵は、応挙が最晩年に描いた、「松に孔雀図」(図1-1)です。金地墨画で、色調のわずかに違った2種類の墨が用いられ、青みがかった墨で松の葉が表され、それ以外の部分はやや赤みのある墨で描かれています。その違いは僅かなのですが、金地に描かれた効果も相まってか、松は青々と茂っているように見えます。図1-1 大乗寺客殿「松に孔雀図」(部分) この絵が、襖がL字型に配置されることを利用して、巧みに立体表現をしていることは、一目瞭然です。右側襖には手前に伸びる枝、奥の襖には左に伸びる枝が描かれています。そして、よく見ると2本の松の右側の幹から、こちらに向かって伸びる枝を発見することができます。八方に枝が拡がる松をその場で見ているような錯覚にとらわれます。そして、奥の2本の松の幹の根元に地面が見えます。ところが、決して盛り上がっているのでなく、畳から連続に平坦に地面が繋がっているように見えるのです。観察者は襖の向こうに広大な空間を見ているような感覚にとらわれます。 図2-2「松に孔雀図」(部分)仏間を開けたとき さらに、もう一つマジック。右側奥の欄間に彫刻がある4枚の襖の向こうは仏間になっています。仏間は襖が開けられたままになる場合も多くあります。図1-2が開けた状態です。松の幹は1本になってしまいますが、松の枝が見事に繋がっています。 大乗寺は常時、客殿の内拝が可能です。内拝料は大人800円。詳しくは次のホームページをご覧ください。http://www.daijyoji.or.jp/main/index.html この円熟期の代表作の筆頭は、図2-1「雪松図屏風」でしょう。応挙生涯の代表作の筆頭といってもいいかもしれません。若冲・応挙の絵のなかで、唯一国宝に指定された絵です。この絵はいわゆる「金地屏風」です。それまでの画家の金地屏風の金地は、モチーフを引き立たせるためのものでした。ところが、応挙は、風景画においては、そのような効果に加え、金地で透明な大気を表わそうと意図しました。さきほどの図1-1「松に孔雀図」もそうですが、本作品にはその意図がより顕著に表れているといえるでしょう。図2-1 「雪松図屏風」上:右隻 下:左隻(国宝)三井記念美術館蔵 構図に目を向けてみましょう。右隻の松は直線的で力強い老松で、左隻の松は曲線的で柔らかい若木です。右隻の松の幹は大胆に上下をカットされ、狩野永徳の大画面巨樹表現を思い起こさせます。やや下から松を見上げ、鑑賞者に迫りくるようです。右から左に伸びる大枝は、画面奥から手前に張り出してきています。一方、左隻の松はかなり下から見上げています。枝は手前から奥へ向かう方向性をもっています。右隻の松葉の一かたまりと左隻右の松の松葉の一かたまりの大きさを比べると、右隻の松の方が手前にあって、左隻の松の方が後方にあることが分かります。屏風一双を並べたとき中央に余白ができますが、その余白が左隻、右隻の奥行き差を強調しているようにも見えます. 次に細部を見てみましょう。図2-2に右隻の部分拡大を示します。雪の部分は、遠くから見ると白色の絵具を使っているように見ますが、そうではなく、紙の地の色を残しているだけなのです。雪を描かずして、雪を描いているのです。雪の部分には一筋の筆も入っていません。それを遠くから眺めると「あら不思議」、幹や枝を柔らかく覆った雪に見えるのです。以前の回でお話しした「遠見の絵」です。樹皮は墨を何度も重ねて、ごつごつとした質感を出しています。これも近くで見ると筆が連続しておらず、粗い感じですが、遠くから見ると自然なゴツゴツ感になります。幹や枝は輪郭線を用いない没骨(もっこつ)法で描かれ、特に横に伸びる枝には、付立(つけたて)の技法が使われていることが分かります。一本の筆全体に薄墨を含ませ、さらに先の部分に濃墨を含ませ、筆を横に倒して引くと、一筆の中で濃淡を表現できます。これが付立です。今風にいうと「グラデーション筆」です。近くで見ると粗い印象ですが、襖を鑑賞する位置から見ると、この枝が丸い立体となって見えるのです。これも応挙の「遠見の絵」理論を実践したものです。図2-2 「雪松図屏風」右隻の部分拡大 そして、以前の回で紹介した「雲龍図屏風」同様、屏風が折り曲げられた状態で見ると、さらに臨場感、奥行き感が増すのです。屏風の折り曲げも考慮したうえでの、立体表現が図られているからです。 「雪松図屏風」は東京日本橋にある「三井記念美術館」所蔵です。「三井記念美術館」は常時観覧できますが、「雪松図屏風」がいつも観覧できるわけではありません。1年に一度くらい、期間を限って観覧できます。私も今回の研究で、2019年の「雪松図屏風」公開の折り、三井記念美術館を訪問しました。最も感動したのはやはり「雪松図屏風」でした。近寄って見ると粗いのですが、屏風を観賞する距離から見ると、同じ絵とは思えないほどの存在感が醸し出され、圧倒されました。 興味のある方は、次のホームページで展示予定など確認ください。「雪松図屏風」以外にも多くの名品を所蔵しており、本稿でもすでにいくつか紹介してきました。 http://www.mitsui-museum.jp/exhibition/index.html 図3 左:三井記念美術館入口(東京日本橋) 右:筆者観覧の美術展パンフレット 次回以降は、応挙の晩年、応挙ゆかりの地、応挙の名の由来などについて、述べていきたいと思います。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/04
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【2021年8月2日(月)】 今日も早朝に散歩。勤務がほとんどないので、意識的にウォーキングをしなければなりません。8時にはもう暑いので、7時半には終えることができるよう、6時半には歩き始めたいところです。会のお役目の月イチの集まりの記録は昨日出せたので、今日は自分のペースで会の諸事をそjました。 「若冲と応挙」の第29回。応挙の「円熟期」に入っていきます。◆第3章 円山応挙(続き)3-5 円熟期 前回は、三井家の庇護を受けた「黄金期」について述べました。 これに続く時代は、応挙45歳から56歳までの時代で、美術書では「円熟期」とも呼ばれる時代です。以前の回でも述べたように、円満院時代の安永4年版「平安人物志」(図1)では応挙の弟子である島田元直や源琦(げんき)がランクインしています。円満院時代には、既に応挙工房が形成されつつあったものと考えられます。三井家の庇護を受けた黄金期には、応挙工房ががさらにしっかりとしたものになり、労力を要する寺社の障壁画制作などの仕事が入ってくるようになったと考えられます。そして、続く天明期(1780年代)には、大規模な障壁画を数多く制作することになります。これが「円熟期」です。図1 「平安人物志」安永4(1775)版 画家の項(再掲)(応挙、島田元直、源琦の名が見られる) 何面にも及ぶ障壁画を描くためには、頭領絵師が中心となって一貫した構想を立て、これに沿って門人たちの能力を考慮しなながら、仕事を分担して仕上げていく統率力が必要となります。若冲も障壁画の大作を遺してはいますが、その枚数からいうと応挙が圧倒しています。応挙は自身の絵の力に加え、頭領絵師としても非常に長けたものを持ち合わせていたということです。 この時代に制作した障壁画を年代順に列挙していきます。安永9年(1780)応挙48歳、本願寺山科別院「春景海浜図」、天明4年(1784)52歳、愛知・明眼院(みょうげんいん)「老梅図」「芦雁図」「老松図」「朝顔狗子図」。その後は、ほぼ毎年障壁画制作に携わっています。天明5年(1785)53歳、和歌山白浜・草堂寺「雪梅図」、天明6年(1786)54歳、和歌山串本・無量寺「波上群仙図」「山水図」、天明7年(1787)55歳、京都・南禅寺帰雲院「海辺老松図」、香川・金刀比羅宮「遊鶴図」「遊虎図」、兵庫香住・大乗寺「山水図」、翌年同寺「郭子儀図」。和歌山・草堂寺と無量寺は、臨済宗東福寺派の禅宗寺院です。当時の両寺のそれぞれの住職は京都の本山に居た頃から応挙と旧知の間柄で、本堂が普請された際に、応挙に障壁画制作を依頼したのです。明眼院は、その寺名からも窺い知れますが、中世から眼病で知られる寺院です。奥文鳴の「仙斎円山先生伝」に、応挙は最晩年眼病に悩まされたと書かれており、この時代すでに眼病が持病になっていて、この寺院で治療を受け、そのお礼に障壁画を描いたのではないかといわれています。 このように非常に多くの障壁画を一時期に遺していて、すべてを紹介しきれませんので、ここでは一部を紹介します。 代表作の一つが兵庫県・香住 大乗寺の客殿の障壁画群です。山陰海岸にある香住は冬場の蟹で有名ですが、この大乗寺は応挙寺とも呼ばれ、知る人ぞ知る観光スポットになっています(図2)。和歌山の2寺と違って、どのような経緯で大乗寺が応挙に障壁画制作を依頼したのかはよく分かっていません。図2 兵庫・香住 大乗寺 山門・応挙碑・応挙像 障壁画の面数はなんと165面で、すべて重要文化財に指定されています。応挙一門総がかりで制作しています。応挙に加え呉春、奥文鳴、円山応瑞(応挙の子)、山本守礼、秀雪亭、亀岡規礼、源琦、長沢蘆雪が筆を執っています。そして多くの絵が、天明7年(1787)から翌年にかけて描かれているのに対し、孔雀の間の絵だけは、時期が数年空いてます。寛政7年(1795)、応挙は63歳で他界しますが、その3ヶ月前に自らが描いたものです。なぜ時期が空いてしまったかというと、完成直前だった孔雀の間の絵が天明の大火(天明8年・1788)で灰燼に帰してしまったからです。痛手から立ち直った応挙が、眼病に悩まされながらも、弟子たちに支えられて、最後の力を振り絞って描いた作品なのです。 図3に大乗寺客殿襖絵の配置図を示します。薄く色付けしたところが、応挙本人の筆による絵が入った部屋です。筆者は去年(2019年)に大乗寺を訪れましたが、原画をデジタル複製と置き換えるプロジェクトを進めているところで、既に大部分がデジタル複製と置き換わっていたと記憶しています。置き換えられた原画は収蔵庫に収納されており、気候の安定した春・秋に期間限定で公開されているようです。普段訪れると多くはデジタル複製での観覧となるわけですが、応挙やその門人たちが納めたままの位置で、しかも間近で眼にすることができるところが大きな魅力です。図3 大乗寺客殿 襖絵配置図 応挙本人が揮毫したのは3室で、山水の間の「山水図」、郭子儀の間の「郭子儀図」、孔雀の間の「松に孔雀図」です。ここでは「山水図」と「松に孔雀図」(こちらは黄金期ではなく晩年の作ですが)を紹介します。 山水の間は、床・棚・付書院を備えた本格的なつくりの部屋で、貴賓が訪れたときの座所とする間です。一段高い上段の間に座って、左手側の「山水図」を眺めると、奥の方へと水面が延びてゆくのが見えます(図4-1)。反対に下段の間の下座から上座を見上げると、広がる水平線が次第に陸地へと収斂してゆくのが見えます(図4-2)。この2つの写真は非常に表情が異なっており、なかなか同じ絵からの写真とは信じられないくらいです。しかもどちらから鑑賞しても遠近法に破綻がありません。複数の鑑賞者の位置を想定して構想を練って描いた応挙ならではの作品です。図4-1 大乗寺客殿「山水図」(部分) 図4-2 大乗寺客殿「山水図」(部分) 上段の間から見る 下段の間から見る この山水図の付書院の床の間の上の絵(図5)を見てみましょう。水辺に小さな崖があり、その上に家が建ち、松が水面の上に伸びているという景色に見えます。この絵の下は艶のある板間になっており、崖や松が水面に映っているような効果が見てとれます。板間を水面と見たて、絵の一部として利用しているのです。応挙はこの襖絵を描くにあたって大乗寺を訪れていないとのことなので、部屋の構造・間取りなどの情報を弟子たちから得て、アトリエでこの構図を練り、絵を描いたのだと思います。これも応挙ならではの構想力といえるでしょう。図5 大乗寺客殿「山水図」(部分) 床の間に絵が映っている(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/02
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【2021年8月1日(日)】 昨日は、30日の会のお役目月イチの集まりの文書作成で終日費やし、今日は、その最終化でした。それ以外に、車の1年目の定期点検でディーラーを往復しました。オリンピックの熱戦とともに、暑い日が続きます。 「若冲と応挙」の第28回目、「黄金期へ」の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-4 黄金期へ(続き) さて、そろそろ「黄金期」のお話しに入っていきましょう。「黄金期」は三井家の庇護を受けた時期でもあると書きました。三井家のことについて触れておきます。 三井家の初代三井高利(1622~94)は、三重・松坂(現松阪市)で生まれました。高利は延宝元年(1673)、江戸に呉服店・越後屋を開き、京都に西陣織などを仕入れる仕入れ店を置き、そこを商いの本拠とし、やがて高利も京都に移り住みました。高利は「現金正価販売」「薄利多売」という当時としては画期的な商法で越後屋を発展させるとともに、両替商も営み、一代で三井家の業容を大きく発展させました。代々の三井家の人々は、江戸時代の間は、多くの分家も含め、ほとんどが京都に住まいました。現在の三井グループは東京が本拠となっていますが、江戸時代は京都が本拠だったのです。この11月3日、超豪華ホテル「ホテルザ三井京都」が二条城前に開業しましたが、その地は、もと三井の総領家(本家)があった場所なのです。 図1「郭子儀祝賀図」一幅 三井記念美術館 財力をつけた三井家は、18世紀になると、茶道具など美術工芸品の収集を盛んに行い、芸術に対する関心を高めていきました。しかし新興商人であった三井家の芸術に対するアプローチはかつての商人たちのようにはいきません。古いタイプの商人は、伝統に基づいた貴族的な美を追求しました。以前の回で書いたように、江戸時代前期に活躍した尾形光琳の絵は商人たちに人気がありましたが、宮廷生活など伝統的な約束事の知識をもっていないと、真に観賞できないものでした。京都の伝統という基盤を持たない新興商人の三井家にとっては、近寄りがたいものでした。しかし、応挙の写実的な絵は、前提知識を必要とせず、平明で分かりやすく、かつ美しく心に訴えるものだったため、三井家は応挙の絵を所望するようになります。こうして応挙40歳、安永元年(1772)頃、応挙と三井家の関係が始まりました。東京日本橋の三井記念美術館に応挙の作品が多く所蔵されているのはこのような経緯によるものです。 特に応挙と親しかったのが、三井家四代の三井高美(たかはる)です。図1は高美が実弟の高彌の還暦祝いに送った「郭子儀(かくしぎ)祝賀図」です。郭子儀は唐の人で、多くの武功に輝く名将で、子宝に恵まれ、長寿を誇ったといわれ、吉祥画題としてよく採り上げられます。この絵では郭子儀は高彌の肖像画で描かれています。高美の一周忌に応挙は図2の「水仙図」を供えています。図2「水仙図」一幅 三井記念美術館蔵 黄金期の応挙は多くの傑作を遺しており、前回の「雲龍図屏風」は黄金期初期のものです。もう一つ黄金期の傑作を紹介します。図3「藤花(ふじばな)図屏風」です。純金地にフジのみを描いています。フジは他の植物や物体に絡まって育つ植物ですが、あえてフジのみをピックアップし、複雑に絡み合う樹形に興味を集中させています。幹や蔓(ツル)は、輪郭線を用いない没骨(もっこつ)法で、付立(つけたて)(2種類の濃淡がある墨や絵具を大きめの筆含ませ一気に描き上げる技法)の画技をもって、刷毛で一気に描かれています。それに対して、花や葉は没骨法ではあるものの極めて精緻に描かれています。応挙の大画面作品のなかでも、極めて装飾性が高い作品で、以前の回で述べた写生理論、「気ヲ写ス第一ト(シ),其上理ヲ学て可レ付レ意云々」=「生き生きとした生命感を写すことを第一義としたうえで、理(対象の構造や構成の原理)を学び、意(画家の制作意図)を加える。」を実践した作品といえるのではないでしょうか。図3「藤花図屏風」六曲一双の右隻 根津美術館蔵(下の図は部分拡大) 若冲のところで述べたように、「平安人物志」には応挙も常連として登場します。繰り返しになりますが、「平安人物志」は、江戸時代中期から後期にかけて刊行された京都の市井の各方面の文化人を人気番付のようなかたちで紹介した書物です。円満院時代の初期、明和5年(1768)版の画家部門で、応挙は大西酔月に続き2番目にランキングされています。このとき若冲3位です。さらに黄金期の安永4年(1775)版では、応挙は1位にランキングされ、若冲は2位です。後の時代の天明2年(1782)版でも応挙1位、若冲2位です。特筆すべきは、明和5年版にはランキングに応挙の弟子の嶋田内蔵助(島田元直)が既に入っており、安永4年版には、円山派から派生した四条派の祖である松村文蔵(呉春)、応挙の弟子である駒井幸之助(源琦)らがさらに加わっていることです。天明2年版(1782)にはやはり応挙の弟子である山本主水(山本守礼)、長沢蘆雪も加わっています。若冲がランキングで孤軍奮闘していたのに対して、応挙の門人たちは、応挙が画風を確立し始めた頃に既に活躍を始めていたということです。 次回は円熟期へと入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/01
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【2021年7月29日(木)】 明日の会に必要なものは昨日作成し終わって送り済みなので、今日は少し気持ちに余裕をもって、PCに向かって会のことを進めることができました。今日も朝の涼しいうちに散歩しました。 「若冲と応挙」#27です。応挙の円満院時代の次は黄金期と呼ばれる時期ですが、黄金期のお話しに入る前に、応挙の絵画理論を続けます。 ◆第3章 円山応挙(続き)3-4 黄金期へ ここしばらく円満院祐常をパトロンとした34歳から41歳までの、所謂「円満院時代」の応挙について述べてきました。この時代は、写生法を極め、絵画理論を追求した画風確立期であったともいえるでしょう。円満院祐常の「萬誌」中の「秘聞録」に書かれた写生に関する応挙理論も紹介しました。 もちろん「秘聞録」には、写生だけでなく、正式な作品を描く場合の理論も記述されています。それが、円満院時代の後に続く時代の大作の数々に繋がっていきます。円満院祐常は安永2年(1773)、51歳のときに亡くなります。応挙は41歳でした。その少し前から、応挙は現在の三井グループに繋がる三井家の庇護を受けるようになり、祐常亡き後は、三井家をパトロンとして活躍し、多くの傑作を残しました。この安永2年から安永5年(応挙41歳~44歳)に至る時代は「黄金期」と呼んでもいいでしょう。。 ここで祐常の「秘聞録」に書かれた絵画理論の続きを述べておきます。応挙は立体のとらえ方について、石の描き方を例に次のように説いています。「石見二三面一事、上一面、左右二面、合三面」。=「石は三面を見せること。上面と左右、全部で三面である。」円満院時代の作品ではありますが、その理論を実践したのが、図1の「雪中山水図屏風」です。中央の岩は、上面、左面、右面の三面を見せています。図1「雪中山水図屏風」二曲一双 相国寺蔵(右は中央部分拡大) 「三遠の法」も説きました。「三遠之法、平遠深遠高遠此三、人物花鳥山水万物三遠ヲ可レ意、々不レ掛ハ図不二出来一云々、クルシンデ学ブベシ・・・」=「三遠の法とは、平遠・深遠・高遠の三つである。人物も花鳥も山水など何においても、それを意識しなかれば出来の良い絵は描けない。」 高遠とは仰視、平遠とは水平視、深遠とは俯瞰視のことです。その理論は先ほどの図1「雪中山水図屏風」に見ることもできますが、もっと端的に表れているのが、これも円満院時代の作ですが、図2「湖山烟靄(あい)図」です。川や草庵を俯瞰し、川の上流の岸を水平視し、遠くの山を仰視しています。図2 「湖山烟靄(あい)図」一幅 個人蔵 応挙の絵の卓越したところは、掛け軸にしても、襖にしても、屏風にしても、それがどのように置かれ、観察者がどの位置で見るかを熟考して描かれているところです。襖絵なら、その襖が部屋のどの場所に入れられるのか、主人や客人がどこに座るのかを熟考して、その状態で観賞してベストな絵を描こうとしているし、屏風であれば、平面の状態でなく、折れ曲がった状態で置かれたとき、どう見えるかに思いを馳せて描いているのです。 図3「大瀑布図」一幅(重文) 相国寺蔵 図3「大瀑布図」は、円満院祐常が、同院の庭園に滝がないのを惜しんで描かせたものだと伝わります。滝の上部は仰視、中央は水平視で描かれています。俯瞰視はどうでしょう。この絵は縦3.6メートルもあり、円満院の書院に掛けると畳面でL字型に折れ曲がり、下部は水平に置かれることになります。滝壺や川の流れの俯瞰視は、それを念頭に置いて描かれているのです。バーチャル3次元絵画ではなく、リアル3次元絵画と呼びたいところです。 もう二つ「秘聞録」からの絵画理論を挙げておきます。一つは「遠見の絵」「近見の絵」です。「春台話円山談云画可有其意得或懸物屏風間之絵等其間ヲ置テ見テ宜様二可画近クヨリテハ筆ハナレアリ草木惣而何モツヽカザル所モアレトモ遠見如真ミユル様可心得近ク見之画者細密一毫之所モ真ニセマル様細筆彩色モ可有其意得是其大意也云々甚深妙之理也云々」=「春台という人物が、円山応挙が次のように語ったと言った。掛軸・屏風・襖絵などは、距離を置いて観たときに、よく見えるように描かなければならない。近くで見たときに、筆が連続していなくて、草木が続いてないところがあってもかまわない。遠見で真の如く見えるように描くこと。逆に近見の絵は、細かな部分も真に迫るように、筆遣いや色彩を意識しなければならない。」遠くから見る絵と、近くで見る絵で、意識すべき点が異なるというわけです。「遠見の絵」の例は、後の回で紹介するとして、ここでは「近見の絵」として、図4の「華洛四季遊戯図巻」を紹介します。二巻の巻物に京都の四季景物を描いたもので、老若男女あらゆる階層の人々の営みを描いたものです。巻物は近くで見るものなので、細密に描いています。しかも遠近法はあえて使っていません。近くで見る場合は、遠近法に無理矢理こだわる必要もないし、遠近法を使うと、遠景の人物は小さくなり、描き切れなくなってしまうためです。臨機応変な応挙です。図4「華洛四季遊戯図巻」二巻の内上巻部分 徳川美術館 もう一つの理論は、写生のところで紹介すべきだったかもしれませんが、次の文言です。「・・・難不レ見生ハ可レ依二画本一、不レ見物モ生物数品写内自然ト図モ可二出来一・・・」=「実物を見るのが難しい場合は、画本を写しなさい。存在しないものは、他の生物をいくつか写すと、自然と描けるようになる。」 空想上の動物は見ることができないが、画本を参考にしたり、色んな生物を写したりするうちに自然と描けるようになるという訳です。その理論が結実したのが、図5の「雲龍図屏風」ではないでしょうか。龍は空想上の生き物です。中国のある古い書物には、龍の姿は「頭は駱駝、角は鹿、目は鬼、耳は牛、項(うなじ)は蛇、腹は蜃(みずち)、鱗は鯛、爪は鷹、掌は虎に似る」と書かれています。この絵の龍は、様々な生物、様々な中国画を写生した応挙ならでは龍といえるでしょう。また、図5は平面に拡げた図ですが、屏風は折り曲げられた状態で観賞するものです。応挙は屏風が折り曲げられたときの凹凸に配慮しながら、前後の方向性まで加えており、三次元空間で躍動する龍の圧倒的な立体感が表現されています。さらに、「たらし込み」や「滲み(にじみ)」、「暈し(ぼかし)」など、多彩な画技を駆使して、渦巻く雲や、しぶきをあげる波を表現しています。このような迫真性に富む大気表現はそれまでにはなかったものです。龍の絵は古今を問わず、多くの絵師、画家が描いてきましたが、その中の最高傑作の一つであるのは疑いの余地がありません。図5「雲龍図屏風」(重文)六曲一双の左隻 個人蔵(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/29
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【2021年7月28日(水)】 オリンピックの熱戦が続きますが、暑い天気も続きます。そしてコロナ感染者数も、うなぎ上りで心配です。歩き不足になっているので、朝の涼しいうちに散歩しました。あとは、30日の会に向けて、一日PCに向かっていました。 「若冲と応挙」#26です。写生の技術を極めた円満院時代のお話が続きます。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代(続き) さらに「秘聞録」には次のような意も書かれています。「・・・動物難レ写人物鳥獣等、宜細工之人形等画本ニ用ユヘシ・・・」。「動物は写すの難しいので、人物鳥獣等はよくできた細工の人形を画本に用いるとよい。」という意味です。尾張屋に奉公し、身の回りに人形がたくさんあった応挙だからこその理論かも知れません。図1の「人物描写図法」は応挙原図に基づく版本で、裸体に着衣を重ねた人物図や相書(人物画)から抜書きした顔や手足の部分図が描かれています。その中の「眉目図」は人物の写生だけでなく、人形や絵図など人工的なものからの写生も有効であることを示した一例です。図1 「人物描写図法」の内 京都国立博物館 左:眉目図、中:貴女二十余図(貴人二十代女性 右:貴徧中年図(貴人中年男性) 図2の「大石良雄図」は、人形浄瑠璃や歌舞伎で人気を博した忠臣蔵物に取材したと思われる作品です。薄物の着物の下にはうっすらと身体の輪郭線が見え、実在の人間が感じられますが、女性の顔や手足はまるで人形のようです。応挙の人物画はに、このように本物の人間の現実感と作りものの人形の美をミックスしたようなものが多くあります。応挙がそのような人物画を目指したのかもしれませんが、「人形を手本に」という絵画理論の結果かもしれません。図2 「大石良雄図」 武井報效会百耕資料館 (右は部分拡大。足が透けて見える) 図3「遊虎図襖」重文 金刀比羅宮(表書院虎の間) 図3の「遊虎図襖」も、張子の虎をそのまま描いたように見えます。 そして「秘聞録」には「猿ハ多人ニテ書不レ宜、犬ニテ可レ書、左ナケレハ耳サカリ首近過云々」「鹿ハ馬ニテ画故不レ宜、羊ニテ可レ画云々」と記されています。「従来、猿の頭部は人に、鹿の体躯は馬に似せて描いていたが、それは間違いである。むしろ猿は犬、鹿は羊(ここでは山羊)を念頭に置いて描きなさい。」という意味です。応挙は、描こうとするものの表面的な類似や先入観に惑わされることなく、構造的に把握しなさいと説いているわけです。その現われが、 図4の「虎皮写生図」です。、実際に生きている状態を目にすることができない虎を、毛皮の状態で写生し、寸法まで測定し書き入れています。理論的な応挙の片鱗が表れています。さきほどの張子の虎とは、また違ったアプローチです。図4「虎皮写生図」本間美術館(右は部分拡大。寸法が書き入れられている。) 写生に真摯にかつ理論的に向き合ったことが結実した作品の一つが、図5の「牡丹孔雀図」です。装飾性と写実性とが見事に融合した、円満院時代を代表する傑作です。応挙の弟子の一人長沢蘆雪がほぼ同じ図様の孔雀を描くなど、円山派画家たちの手本となった作品でもあります。この作品は明和8年(1771)に描かれています。若冲の「動植綵絵」が相国寺の閣懴法に毎年掛かるようになって、衆人が目にするようになったのは、明和6年(1769)ですから、応挙もきっと目にしたでしょう。「細密さでは俺も負けないぞ」というライバル意識むき出しで応挙は描いたのではないかと筆者は勝手に想像しています。図5「牡丹孔雀図」重文・相国寺蔵(右は部分拡大) 番外.「皇室の名宝展」 ちょっとここで横道にそれます。2020年10月25日)に京都国立博物館「皇室の名宝」を観に行ってきました。東京の「宮内庁三の丸尚蔵館」所蔵のかつては皇室が所持していた名品を中心とした美術展です。「三の丸尚蔵館」といえば、すでにご紹介した伊藤若冲の「動植綵絵」を所蔵しているところです。今回の展示にも「動植綵絵」が下記8幅来ています。・前期(10/10~10/31):「雪中鴛鴦図」「群鶏図」「薔薇小禽図」「老松白鳳図」・後期(11/3~11/23):「大鶏雌雄図」「南天雄鶏図」「牡丹小禽図」「菊花流水図」後期には若冲の「旭日鳳凰図」も展示されます。本稿で現在とりあげている円山応挙については、次の作品が来ています。・前期:「牡丹孔雀図」「群獣図屏風」 (「牡丹孔雀図」は図11と同図様の作品ですが、少し後代の作品です。)・後期:「源氏四季図屏風」その他、近世の画家では下記作品が観覧できます。・前期・後期共通:岩佐又兵衛「小栗判官絵巻」、尾形光琳「西行物語絵巻」・前期:伝狩野永徳「四季草花図屏風」、海北友松「浜松図屏風」、狩野探幽「源氏物語図屏風」、狩野常信「糸桜図簾屏風」、渡辺始興「四季図屏風」・後期:伝狩野永徳「源氏物語図屏風」、海北友松「網干図屏風」、狩野探幽「井出玉川・大井川図屏風」、住吉廣行「四季絵屏風(俊成卿九十賀屏風)」 その他、中国画、巻物、書、掛軸など見応え満載です。 コロナ禍で予約制になっており、普通なら押し合い圧し合いでなといと観れない「動植綵絵」も、かぶりつきで、ゆっくりと観ることができました。 次回は、応挙の絵画理論を続けたうえで、三井家の庇護を受けた黄金期に入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/28
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【2021年7月27日(火)】 体調は完全に快復したようです。昨日は月イチの事務所の集まりでした。 月間サイクルで今一番忙しい時期。今日はやはり月イチの集まりが京都市内であり予定でしたが、キャンセルになり助かりました。この頃歩いてないので、ご近所ウォーキングをしましたが、それ以外は、日ながパソコンに向かっていました。体が快復したので、エアコン無しでもいけましたが、無理してはいけないと思い、暑さのピーク時にはONしました。 「若冲と応挙」の続きです。円満院時代のお話がまだ続きます。応挙の代名詞でもある「写生」の技術がこの時代に極められていったので、応挙を語ろうとすると、どうしても円満院時代部分のボリュームが大きくなってしまいます。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代(続き) 写生のお話しの続きから入ります。 図1 「写生雑録帖 野駒・黄鶲・尉鶲図」 個人蔵 赤の四角は筆者付加。右は部分拡大 図1に「写生雑録帖 野駒・黄鶲・尉鶲図」(のごま・きびたき・じょうびたきず)を示します。「此図肩高也」と肩の高さの訂正が必要であることなどが記されています。 図2は「写生雑録帖 虎杖・蕨図」(いたどりわらびず)ですが、それとよく似た図3「写生図巻 虎杖・蕨図」が存在します。「写生雑録帖」は墨のみで速写された一次写生図で、絵の対象が重なりあったりして未整理の状態です。応挙が持ち歩いて、写生をしたものでしょう。それに対して「写生図巻」は、対象はほぼ同じながら、整然と配置され、着色で浄書された二次写生図です。この「写生図巻」には「曽祖父応挙真蹟円山応立識蔵」「明治壬申三月」の墨書があり、円山派4代目の円山応立が明治時代に所持していたことが分かります。このように、応挙の写生は応挙本人の絵画制作に活用されただけではなく、応挙一門に引き継がれ、彼らの絵画制作の糧とされました。図2「写生雑録帖 虎杖・蕨図」個人蔵 図3「写生図巻甲巻 虎杖・蕨図」千總蔵 以前の回で応挙のことを記述した資料として奥文鳴の「仙斎円山先生伝」と、岡村鳳水の「円山応挙伝」をあげましたが、もう一つ有力な資料があります。円満院祐常は記録魔であり、応挙と知り合う前の宝暦11年(1761)から亡くなる安永2年(1773)まで、「萬誌(ばんし)」という日記のような書物を残しました。その中の「秘聞録」には、食料、医療、園芸など多岐にわたる聞き書きが記されると同時に、応挙から絵の指導を受けた際に、応挙から聞き取った画材の知識や絵画技法、絵画制作上の理念が記されています。図4に「萬誌」「秘聞録」(部分)を示します。図4 円満院祐常「萬誌 秘聞録」 そこには応挙の言葉として、「画学物ニ目ヲ付ル意ナクハ不レ成レ画・・・真ヲトクト覚ヘ人物鳥獣其真ヲ写、気ヲ写ス第一ト(シ),其上理ヲ学て可レ付レ意云々」と書かれています。対象を注意深く観察して写生し、生き生きとした生命感を写すことを第一義としたうえで、理(対象の構造や構成の原理)を学び、意(画家の制作意図)を加えることが大切だと説いています。正確に写すのが第一義ではなく、生命感を写し、対象の原理を学び、作者の意図を加えることが大切だというのです。写生に関してのシステマティックな絵画理論といえるでしょう。 また「図出来ルホドナラハ生物ニテ可二写学一、依レ之予亦日記ノ小冊ヲ以日々図二得之一、山川草木禽獣虫魚人物、何二てモ見レ生可二図写置一・・・」とも書かれています。「絵を描かけるならば、まず生物を写生することを学んで、その後、日記のような小冊子を得て、景色や動植物・人物何であっても実物を見てを写生を残しなさい。」というような意味が書かれているのでしょう。それを実践したのが、さきほどの「写生雑録帖」なのです。 より具体的な写生の理論として次のような言葉もあります。「人物ヲ画ニ先骨法(人体の骨組)ヲ定、次ニ衣装ヲ付ヘシ・・・初心ニハ先裸躰ニ老幼男女画レ之、是ニ衣装ヲ付ヘシ、図出来ハ如レ此スレハ如何様ニモ図出来る云々」。人物を描くにときは、まず人体を描き、その上から着衣を重ねる「裸形着衣法」と呼ばれる技法が良いと説いています。それを実践したのが、図5の「琵琶湖宇治川写生図巻」です。人物の着衣に透けて裸形が見えており、着衣は赤色で描かれていることが分かります。図5 「琵琶湖宇治写生図巻」一巻の内 京都国立博物館蔵 赤の四角は筆者付加。 右の絵は赤の四角の拡大図 しかし人物の裸形は頻繁に写生できるものではありません。そこで応挙は人物の裸体画手本図を制作しています。図6に「人物正写惣本」を示します。第一・二巻には色んな年代の男女のほぼ等身大の全身裸像が描かれています。その余白には貴賤・男女・年代によって異なる肌や毛の色を描き分けるように細かな彩色の指示が書かれています。第三巻に は身体の部分図が写されています。「秘聞録」には、「・・・人物手足鏡ニウツシ、我手足ヲモ可レ写レ以レ鏡、写以ニ遠眼鏡一可レ写レ之云々」とあり、鏡に自分の手足を写して写生したり、遠眼鏡で身体の部分を見て写生したりすることを説いています。図6はその実践といえるでしょう。図6の大きな方の円の中の手足は、ひょっとすると応挙自身のものかもしれません。図6 「人物正写本」の内 天理大学付属天理図書館 上:第一巻、第ニ巻(文字は筆者付加) 下:第三巻補図(手、足、口) さらに「秘聞録」には次のような意も書かれています。「・・・動物難レ写人物鳥獣等、宜細工之人形等画本ニ用ユヘシ・・・」。「動物は写すの難しいので、人物鳥獣等はよくできた細工の人形を画本に用いるとよい。」という意味です。尾張屋に奉公し、身の回りに人形がたくさんあった応挙だからこその理論かも知れません。図7の「人物描写図法」は応挙原図に基づく版本で、裸体に着衣を重ねた人物図や相書(人物画)から抜書きした顔や手足の部分図が描かれています。その中の「眉目図」は人物の写生だけでなく、人形や絵図など人工的なものからの写生も有効であることを示した一例です。図7「人物描写図法」の内 京都国立博物館 左:眉目図、中:貴女二十余図(貴人二十代女性 右:貴徧中年図(貴人中年男性)(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/27
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【2021年7月23日(金・祝)】 ここしばらく体調不良でした。13日のゴルフ練習のあと、37.5度の熱が出て、すぐ平熱に戻ったものの、その後も体調がすぐれず、この4日間ほど風邪の症状がないのに、37度前後の体温が続きました。3日前、掛かり付けの医者にいったとき、「症状からコロナではありません。37度は熱があるとはいえません。軽い熱中症でしょう。」と言われました。25日のゴルフラウンドもキャンセルし、三味線レッスンも欠席して静養しましたが、なかなか平熱には戻りませんでした。2回目の「がん」になったとき、微熱が続いたので、「がん」再発も心配しました。 ところが、昨晩、寝ているとき汗をかき、今朝体温が平熱に戻るとともに、しんどさもなくなって、ケロッと体調回復しました。やはり軽い熱中症だったのでしょうか?忙しくて体力が落ちているところに、暑さがやってきて、暑さに慣れていないうちに、暑い場所に長時間いたり、急な運動をしたりして、身体の体温調整機能がおかしくなって熱がこもったのでしょうか。もう若くないのだから、無理をせず、かつ水分補給怠らないようにしなければなりません。とりあえず平熱に戻ってほっとしました。 「若冲と応挙」の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代(続き) 応挙は裕常の様々な注文に応えていきます。祐常が最初に応挙に命じたのが「七難七福図巻」(重文)です。祐常は「仁王経」に説かれる七難と七福を、想像上の地獄極楽ではなく、この世の現実で絵画化して、人々を教化したいと考えていました。しかし、この要求に応えることができる絵師がなかなか見いだせず、ついに応挙に出会って、徹底した取材を通じて、3年間をかけて完成させたというものです。図1に「七難七福図」の一部を示します。上・中2巻では、武士や庶民の苦難を描き、下巻では宮廷の貴人の理想生活を描いています。下巻の船遊びの場面では、水中の魚と水面に映った児童を同時に描くなど、現実の視覚を取り入れている点が応挙ならではの表現と注目されます。図1 「七難七福図」(部分)重文・京都 相国寺蔵(右下の絵は、2段目右の絵中央部分の拡大) また、この絵を描くにあたって、応挙は日本の古典研究にも力を入れました。図2に「七難七福図巻」の下巻の部分と「信貴山縁起絵巻」(国宝)の「延喜加持(えんぎかじ)の巻」の部分を示します。応挙の古典研究の現われです。図2 左:「七難七福図巻」(重文)部分 右:「信貴山縁起絵巻」(国宝) 京都・相国寺蔵 「延喜加持の巻」(部分) 平安時代 朝護孫子寺蔵図3 左:応挙「写生帖」 右:渡辺始興「鳥類真写図巻」 東京国立博物館蔵 三井記念美術館蔵 応挙は「写生の画家」とも呼ばれます。写生に力を注いだのもこの円満院時代です。奥文鳴の「仙斎円山先生伝」によると、応挙は円満院祐常の命で「昆虫草木一百幀」を描いたといいます。若冲のところで述べたように、大典顕常は寿蔵碣銘に「数十羽の鶏を窓から見える庭で放し飼いにし、その姿かたちを観察しきったうえで、初めてそれを写し取った。それが数年に及んだ。」と刻みました。若冲も写生しているはずなのですが、スケッチや写生の類は皆無といっていいほど残っていません。そういったものは散逸あるいは焼失してしまったのかもしれませんし、写生を挟むのでなく、観察して直接作品にしたのかもしれません。それに対して、応挙の写生はたくさん残っています。 応挙が学んだ画家の一人が渡辺始興であると述べました。渡辺始興は応挙より50年早く生まれ、琳派に分類されている画家です。始興は摂政や関白を歴任した近衛家煕(いえひろ)に仕えました。家煕の娘・近衛尚子(新中和門院)は中御門天皇の女御となり、二人の間に生まれたのが桜町天皇です。蓮池院尼公が桜町天皇に仕えていたことは既に述べましたが、中御門天皇にも仕えました。応挙は蓮池院尼公の知遇を得ており、ここに応挙と始興の接点ができたものと考えられます。渡辺始興は近衛家熈の指導もあって写生画にも先鞭をつけ、写生図を残しています。この接点を通じて、始興の作品を知ることになった応挙は始興の写生画を写生しています。写生の写生です。図3と図4に始興の「鳥類真写図巻」と応挙の「写生帖」の一部を示します。ここで応挙は始興の絵を忠実に写しているわけですが、図4の鴨の絵では、始興の鴨は間延びして平面的になっているのに対し、応挙の絵は短縮法で描かれ背中の丸みがあって立体的に見えます。手本を超えてしまっているのです。図3 左:応挙「写生帖」鷹図部分 右:渡辺始興「鳥類真写図巻」鷹部分 東京国立博物館蔵 三井記念美術館蔵 白井華陽(しらいかよう)は「画乗要略」で、応挙は常に始興を「能手」だと賞賛したと書いています。応挙は、後の回で紹介するように、かわいい子犬の絵を多く残していますが、始興も「芭蕉竹に仔犬図屏風」で子犬を描いています。そして応挙の「芭蕉童子図」と始興の「芭蕉に仔犬図屏風」「芭蕉童子図屏風」の芭蕉は、表現方法が類似しています。さら始興は琳派の絵師たちが得意とした「たらし込み」を使っていますが、応挙もこの技法を効果的に使っています。このように渡辺始興は応挙が尊敬し大きな影響を受けた画家の一人といえます。 図5に「写生図巻」に描かれた兎を示します。様々な角度から見て描いているのが分かります。こうして描き溜めた写生図は、後の作品に素材としてそのまま使われたりもしました。図6の正面から見た兎の顔は、そのまま図7の「木賊(とくさ)兎図」に活かされています。ところでこの「木賊兎図」は京友禅の老舗「千總(ちそう)」所蔵です。こういうお宝を持っているのが京の老舗の驚くべきところです。図5「写生図巻 甲巻」 図6「木賊兎図」 千總蔵 静岡県立博物館蔵 図7に「昆虫・筍図 写生図巻」を示します。蛍や蜘蛛を色んな角度、色んな姿態で描いています。これも「千總」所蔵です。図7「昆虫・筍図 写生図巻(乙巻)」千總蔵 右は部分拡大 次回は写生の話を続け、その後、応挙の絵画理論へと入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/23
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【2021年7月22日(木・祝)】 今日はもともとから在宅のみの予定で、静養の為、散歩も出かけずです。 「若冲と応挙」の第23回、応挙の円満院時代と呼ばれる時期です。◆第3章 円山応挙(続き)3-3 円満院時代 前回で玩具商尾張屋への奉公がその後の応挙に大きな影響を与えたことを述べました。その一つが「眼鏡絵」を描くことで、西洋の遠近法や細密に描く画技を会得したこということでした。もう一つが円満院祐常の知遇を得たことです。この円満院祐常というパトロンを得て活躍した応挙34歳から41歳にかけての時期は「円満院時代」と呼ばれています。その円満院時代のお話しの前に、応挙が石田幽汀に学ぶ以外にどのように絵を学んでいったかについて述べます。 まず渡辺始興(しこう)の絵を学んだことがあげられますが、円満院時代との関わりが深いので、そのときに述べます。 渡辺始興以外では、沈南蘋(しんなんぴん)があげられます。江戸時代の絵画史のところで、沈南蘋が清から招かれて3年間日本に滞在し、江戸、大坂、京都の三都の画家に大きな衝撃と影響を与え、上方では応挙、蕪村、若冲らが、その影響を受けたと述べました。南蘋の花鳥画には、当時の日本絵画にはなかった独特の写実性があったためです。そのときにも示した南蘋の「枇杷寿帯」をもう一度図1に示します。応挙が南蘋の画法をどこで学んだかはよく分かっていませんが、明和7年(1770)、応挙38歳の頃に描かれた「青鸚哥図(あおいんこず)」(図2)の桐箱の底には、大徳寺孤蓬庵(こほうあん)にあった南蘋の絵を模写したものだと記されています。その他にも南蘋の影響を受けたと思われる作品が多くあります。 図1 沈南蘋「枇杷寿帯」 図2 「青鸚哥図」群馬県立近代美術館 三井記念美術館蔵 戸方庵井上コレクション 図3「花鳥図」 (二幅中の左福) 大英博物館蔵 清より前の宋~元時代の画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)の絵にも学んだといわれています。応挙は若い頃ある人の依頼で銭舜挙の花鳥画を模写したところ、本物と見まがうほど精巧な絵を描いて、それがきっかけで彼の名が世に知れるようになったとも伝わります。その片鱗をうかがわせるのが図3の「花鳥図」です。なお応挙という雅号は、この銭舜挙が由来だといわれています。これについては後の回で述べます。 そして応挙は円満院時代へと繋がる1765年(明和2年)、33歳の頃、最初の大作といわれる「淀川両岸図巻」を描いています。図4にその一部を示します。原作は長さ17メートルにもぶ巻物で、京の伏見の舟着き場から大坂城辺りまでの淀川の両岸の景色を流れに沿って描いたものです。途中には雨の降っている場面もあり、大坂城付近では夜の帳(とばり)が下りる頃が表されています。四次元絵画ともいえる作品なのです。そしてよく見ると、巻頭から少し進んだところから、左岸の風景が上下反転しており、図4では左岸の淀城が逆立ちしているのがわかります。上下反転の絵は淀川を舟旅する人の視点で描いたためです。「眼鏡絵」は観察者をあたかもその場にいるような錯覚に陥らせます。この作品は細密な描写も含め「眼鏡絵」の経験が生み出した作品といえるでしょう。これぞ応挙という作品です。図4「淀川両岸図巻」(部分)アルカンシエール美術財団蔵(下は部分拡大) では「円満院時代」のお話しに入っていきましょう。応挙は宝暦13年(1763)31歳のときに、尾張屋に出入りしていた京都宝鏡寺の蓮池院尼公(れんちいんにこう)の知遇を得ます。宝鏡寺は皇女や王女が入寺した尼門跡寺院で、蓮池院尼公は入寺した皇女や王女のための人形など玩具の買い入れのために尾張屋に出入りしていたものと思われます。宝鏡寺には、そういった人形などが今も残されていて「人形の寺」とも呼ばれ、毎年春と秋には特別公開が行われています。 この蓮池院尼公は桜町天皇とその皇后・青綺門院(せいきもんいん)に仕えました。この青綺門院の弟が円満院祐常です。この姉弟の父は、関白を務めた二条吉忠で、祖父が二条綱平です。綱平も関白を務め、尾形光琳、乾山のパトロンでもありました。図5に、これらの人々の関係を示します(後に登場する渡辺始興との関係も含めています)。このような環境に育った祐常は12歳のときに得度して、門跡寺院(皇族・公家出身者が住職を務める寺院)である円満院に入寺しました。円満院は今も滋賀県大津市園城寺町に天台宗系の単立寺院として残っています。祐常は当時流行した本草学(薬用に重点をおいて、植物やその他の自然物を研究した、中国古来の学問)を学び、動植物の写生を行うことで、写実の重要性を身をもって知ることになります。そこに写実を得意とする応挙という画家が尾張屋にいるという情報が、蓮池院尼公、青綺門院のルートで祐常にもたらされたのでしょう。応挙は明和2年(1765)に10歳年上のこの祐常の知遇を得ることになり、祐常は安永2年(1773)に51歳で他界するまで10年近くパトロンとして応挙を支えました。この時代を「円満院時代」と呼んでいます。 図5 応挙と円満院祐常の関係 次回は円満院時代の続きです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/22
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【2021年7月21日(水)】 一昨日19日は、午後少しだけ事務所に出頭。ここ1週間、37度以下ですが、微熱が続いているので、昨日20日は月イチの高血圧・高尿酸の薬をもらうついでに、掛かり付け医に相談。「症状からコロナではありません。37度の熱なんか微熱にも入らない。軽い熱中症では?」とのことでした。7年前のちょうど今頃、風邪の症状がなく、微熱が続いた(そのときは37.5度前後)ことがあり、結局「がん」による熱だったので、ちょっと心配です。もう少し様子をみます。大事をとって三味線レッスンも休みました。「若冲と応挙」の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-2 若年期の応挙 十代前半で京都に上ったた応挙ですが、明治期の日本画家久保田米僊(べいせん)によると、最初、四条新町の岩城という呉服店に奉公し、その後、四条富小路西入町の尾張屋勘兵衛という店に仕えます。この尾張屋は有名な店だったようで、延享2(1745)年刊行の京の案内書(今でいう観光ガイドブックのようなもの)「京羽二重大全(きょうはぶたえたいぜん)」に「びいどろ道具」の店として掲載されています。尾張屋は人形や玩具も扱っており、このことが応挙に色々な意味で大きな影響を与えることになります。尾張屋には30歳を過ぎる頃まで勤めたと考えられています。 応挙は尾張屋時代と呼ばれるこの時期に、石田幽汀(ゆうてい)という京の町絵師に絵を学んだといわれています。幽汀は狩野派の流れを汲む鶴沢派の画家です。応挙が本格的な絵を描き始めたのがいつかは明確ではありませんが、前述の資料には、応挙筆の「雪景山水図」があり、そこには寛延2(1749)年の年記があったこと書かれており、17歳の頃には本格的に絵を描くようになり、この頃、幽汀から絵を学んでいたと考えられています。ただ、画家になろうと思って幽汀に学んだとはいいきれないという見方もあります、玩具などを扱う尾張屋での仕事では、絵筆の使い方や絵の具や画材の知識が必要なので、必要に迫られて絵を学んだという見方です。 さきほど尾張屋で扱う商品が色々な意味で応挙に大きな影響を与えたと書きましたが、その1つが「眼鏡絵」です。尾張屋の看板商品である「びいどろ道具」の中に「のぞき眼鏡」がありました。これはヨーロッパ発祥の玩具で、レンズの付いた覗き穴を通して、箱の中に入った風景画を拡大して見るものです。風景に奥行きのある写真を片目だけで見つめていると、何となく立体感が出てきます。「のぞき眼鏡」では、視野全体にその風景が拡がることになり、さらに立体的に見えます。そして、あたかもその世界に入り込んだような感覚に陥ることになります。当時の日本の人々にとっては異次元の体験で、非常に人気が出たのもうなずけます。「のぞき眼鏡」の中に入れる絵を「眼鏡絵」と呼んでいました。 最初は舶来の外国の風景を描いた絵を見て楽しんでいましたが、当然の流れとして、日本の風景の絵が求められるようになります。舶来の絵には、遠近法が使われていました。今では当たり前の技法ですが、当時としてはほとんどの日本人が初めて目にする技法でした。日本の風景の「眼鏡絵」を描くためには、この遠近法をマスターしなければなりませんでした。それからレンズで拡大しても臨場感が損なわれないようにするため、写実的であること、細密であることが求められました。尾張屋はこの「のぞき眼鏡」と「眼鏡絵」を販売し、そこに勤めていた応挙は「眼鏡絵」を描くことになったわけです。この「眼鏡絵」制作に携わることで、応挙は合理的な遠近表現を獲得し、かつ臨場感を絵に持たせるすべを体得していったのではないかと考えられます。 図1に「のぞき眼鏡」と「眼鏡絵」を示します。図2に応挙筆と思われる(玩具の位置づけなので落款はない)「眼鏡絵」をいくつか示します。図3の従来の寺社の描き方と比べてみてください。いかに西洋の遠近法がそれまでの表現方法と比べて異次元のものであったかが分かります。図1 覗き眼鏡と眼鏡絵 図2 応挙筆 眼鏡絵 応挙筆「三十三間堂通し矢図」 上:賀茂競馬図 下:円山座敷 図3 「神社仏閣京都一覧」(『都名所手引案内』京都府立総合資料館蔵)(当時の普通の立体表現) 応挙が尾張屋時代に描いた絵をいくつか紹介します。応挙が「応挙」の雅号を名乗ったのは34歳以降で、それまでは別の雅号を使っていました。そして、この時代は水墨画作品が主になっています。図4に「魚籃(ぎょらん)観音図」を示します。現在、存在が知られている作品の中では20代前半と、最も早い時期に描かれた作品の1つです。魚籃観音は中世から水墨画に多く描かれてきた画題ですが、応挙のこの絵は、若年ながら根を詰めて描いたのでなく、さらりと描いたようにみえ、それがかえって応挙の天才ぶりを示しているようにも思います。ここには、「円一蕭(えんいっしょう)」という署名をしています。図4 「魚籃観音図」 京都国立博物館蔵 図5に同じく「円一蕭」の署名のあるやはり20代前半の作品「白鷹図」を示します。江戸時代の画家は中世の水墨画の流れを汲む狩野派の技術を学ぶことが多く、応挙も前述のように石田幽汀に学ぶなどしました。ただ、この絵では、鷹の画題は狩野派風ですが、中間調を加えて立体感を表わすなど狩野派にはない表現を試み、背後の空間を単なる余白にせずに滲ませて深みをつけるなど応挙独自のチャレンジ精神があふれています。図5 「白鷹図」京都・大雲院 図6に「円夏雲」の署名がある20代後半の作品「水草に鷺図」を示します。伝統的な狩野派の図様や水墨表現の持ち味を生かした作品ですが、筆づかいはとても自由で、遊び心もみてとれて、狩野派とは一味違った作品に仕上がっています。鷺の部分は、輪郭は書かず、周囲に薄い墨を塗る「外隈」(若冲の動植綵絵でも説明しました)の技法で白さを表現しています。賛は丹波国亀山家老 松平敏によります。応挙の出身の縁でしょうか。 図7にやはり「円夏雲」の署名のある20代後半の作品、「猛虎図」を示します。虎は応挙が後の時代にも好んで描いた画題の一つです。この虎は狩野派にもない非常な繊細さで描かれていますが、岩は逆に狩野派にもない大胆さで描かれています。図6 「水草に鷺図」 京都国立博物館蔵 図7 「猛虎図」個人蔵 この4作品を観るだけでも、応挙が若いときからいかに、画題、画風、画技が多才であったかが分かります。本稿に貼り付けた絵では分かりにくいと思いますので、美術書などでご覧ください。なお、応挙は若い時代「円一蕭」、「円夏雲」以外に、「円山主水(もんど)」という署名も用い、33歳の頃には「仙嶺(せんれい)」を短期間だけ用いました。 次回の円満院時代に続きます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/21
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【2021年7月10日(土)】 梅雨空が続きます。早く始まった梅雨なので、早く明けるかと思ったのですが、例年通りの梅雨明けになりそうです。そして雨がよく降った梅雨でもありました。しかも、各地に甚大な被害をもたらしました。昔の梅雨とは明らかに様相が異なってきているようです。これも地球温暖化の影響でしょうか。 7日は予定になかったですが事務所行き、8日も事務所行き。9日は午前中会の月イチの集まり。終わった後、仲間で昼食会+ちょい呑みでした。今年初の会食・リアルちょい呑みでした。ワクチン接種も終わったので参加しました。食事以外のときは、マスクを着けるなど気は付けました。このまま、こういうことが気がねなくできるようになっていって欲しいものです。 今日は、フリー日で、床屋に行ったり、会の雑務をしたりでした。 6月4日を最後に(こちら)、「若冲と応挙」の投稿が途絶えていました。久しぶりの投稿です。そして、応挙パートのスタートです。今日は「応挙生誕」です。◆第3章 円山応挙3-1 応挙生誕 前回で若冲の章を終え、今回からいよいよ円山応挙登場です。応挙も若冲同様京都で生まれ、京都で活躍した画家です。若冲が生きたのは1716年(正徳6)~ 1800年(寛政12)、応挙が生きたのは1733年(享保18)~1795年(寛政7)ですので、若冲と応挙は全く同時代の画家といえるでしょう。また、応挙の生きた期間は、若冲の生きた期間に完全に含まれています。すなわち応挙のほうが後に生まれて、先に亡くなったということです。とはいえ、応挙が亡くなったのは63歳ですので、当時としては、特に短命であったわけではありません。ちなみに若冲が亡くなったのは84歳ですので、応挙に比べると随分長命です。 応挙も京都生まれと書きましたが、若冲が今の京都市内の地の生まれであるのに対し、応挙はそうではありません。今の亀岡市の生まれです。享保18年(1733)5月1日、丹波国桑田郡穴太村(あのおむら)(現亀岡市曽我部町穴太)に父丸山藤左衛門の次男として生まれました。若冲が青物問屋の裕福な家に生まれたのに対し、応挙は貧しい農家に生まれました。ここが若冲と大きく異なるところで、若冲と応挙の画風の違いの大きな一要因になっています。ただ、母は篠山藩士上田氏の長女といわれており、藤左衛門の家はある程度の家格であったと思われます。穴太は西国三十三所第二十一番札所穴太寺(図1)でよく知られていますが、応挙が現にそこで生まれたというわけではないのでしょうが、穴太寺の近くには「円山応挙生誕地」の碑が建てられ、数年前発刊の美術書にもそう紹介されています(図2)。ところが、今回の研究で昨年(2019年)現地を訪れたところ、この碑が見当たらず、穴太寺の方に尋ねると、「最近どこか別の場所に移築されたようです。」とのことでした。どこにいってしまったのか、その謎は後日解けました。後の回に述べたいと思います。図1 穴太寺(撮影2011年11月) 図2「円山応挙生誕地」の碑 「もっと知りたい円山応挙」から (今はこの地にはない) さて、若冲の生い立ちが、大典顕常の書いた「藤景和画記」や「若冲居士寿蔵碣銘」を見ることで分かるように、応挙にもその類の資料が存在します。1つは応挙の弟子で応挙十哲にも数えられる奥文鳴によって書かれた「仙斎円山先生伝」であり、もう1つが、同じく応挙の弟子であった岡村鳳水が書いた「円山応挙伝」です。前述の生誕の状況もこれら資料から読み取れるものです。 応挙の家系図を図3に示します。若冲は生涯独身で子がなかったため、以前#7(こちら)で紹介した家系図にあるように直系の家系は若冲で途切れています。これに対して、応挙は結婚し、子供もいて、子供も画家となったため、画家の家系として続きます。この点も若冲と応挙で異なるところです。図3 丸山家家系図 前述の史料によると、応挙には兄藤兵衛と妹ヲ井ヨがいました。応挙の幼名は岩次郎(岩次良)といい、応挙は幼い頃から絵を描くのが好きで、農作業は好きではありませんでした。父母は近くの金剛寺(図4)に預けて僧侶となる修行をさせました。しかし、これも長続きせず、京都の街中の町家に奉公することになりました。応挙10代前半の頃ではないかと考えられています。図4 金剛寺(撮影2019年4月) 金剛寺の近くの小幡神社(図5)には、応挙筆の「神馬図」絵馬(図6)が奉納されています。なお、余談ですが、歴史学者として有名な上田正昭氏は、中学時代に小幡神社の社家の養子となり、大学時代からこの神社の宮司を務めていました。 図6 「神馬図」絵馬の写真図5 小幡神社(撮影2019年4月) 小幡神社内(撮影2019年4月) (黒い影は手前の防護ネット) 図7の地図に金剛寺、小幡神社、穴太寺の所在を示します。近くの方は、是非訪れてみてください。金剛寺には、後の回で述べるように応挙が襖絵を残しており、別名「応挙寺」とも呼ばれています。レプリカですが、その襖絵を常時観ることができます。ただし、事前に連絡が必要です(電話:0771-22-2871)。私が訪れたときは、ご住職がご不在で、奥様が懇切丁寧に案内してくださいました。そのとき裏話として、以前のデジタル複製画は1ショットで複製可能なサイズが小さかったので、襖絵を分割して複製する必要があり、昔作った複製画はよく見ると継ぎ目があるが、技術が進んで、最近作ったものは、襖1枚をそのまま、しかも昔に比べると安価で複製できたとおっしゃってました。金剛寺の収蔵庫には応挙直筆の「群仙図」が保管されており、毎年11月3 日に一般公開をしています。しかし、今年はコロナ禍で止むなく中止となったようです。(金剛寺ホームページ https://www.kongouji.net/ クリックしても開かない場合はこのアドレスを検索窓に貼り付けてください)。図7 亀岡市内の応挙ゆかりの地とランドマーク 応挙は京都へ出ます。続きます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/07/10
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【2021年6月4日(金)】 今日はもともとフリー日。ですが、いつものように、会のこと色々でした。でも、時間の余裕があり、久しぶりに料理をしました。「肉じゃが」初体験でした。じゃがいもを小さく切り過ぎたりで、不具合もありましたが、味はそこそこでした。 「奇想の画家 若冲と応挙」の第20回目、「その他の若冲の絵(続き)と若冲の住まい異説」です。いよいよ若冲パートの最終回です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-12 その他の若冲の絵(続き) 動植綵絵にも、他の画家の絵を意識したかもしれないと思われる絵があります。図Aの若冲「菊花流水図」は、図Bの尾形光琳「紅白梅図屏風」(国宝)を意識して描いたものではないでしょうか。 若冲の活躍した18世紀後半は、版画が隆盛した時期でもあります。浮世絵で錦絵と呼ばれる多色刷り版画が生まれ、司馬江漢が銅版画を手掛けました。そのなかで、若冲は「拓版画」と呼ばれる異色の技法を取り入れた木版画の逸品をいくつか残しました。 浮世絵も含む通常の木版印刷は、左右逆に描いた版下(はんした)と呼ばれる下絵を、版木に貼り付けて陽刻(絵や字の部分を残し、それ以外の部分を彫る)します。これに紙を貼り付けて、「ばれん」でこすると、刷り上がりで絵や文字がポジで正しい方向で再現されます。 拓版画は、左右逆にすることなく、そのままの方向で描いた版下を版木に貼り付け、それを陰刻(絵や文字の部分を彫る)します。そして、彫った版木の上に紙を置き、水分を含ませて密着させ、彫った部分にも紙が入り込むように押しつけます。紙が乾いたら、刷毛や「たんぽ」で紙の上から墨を乗せていきます。すると絵や文字の部分(彫った部分)には墨が乗らず、そこがネガのように白抜きになります(図C参照)。「正面摺り」とも呼ばれています。 図Dに拓版画の代表作である「乗興舟(じょうきょうしゅう)」を示します。大典顕常が賛文を寄せており、それによると、明和4年の春、大典が当時52歳の若冲といっしょに、伏見から舟に乗って淀川を下り、その体験をもとにこの作品が描かれたことが分かります。漢詩の賛もあるためか、中国風の装いになっています。版画はその技法から、オンかオフかの明暗のはっきりした絵になりますが、この「乗興舟」では、暈し(ぼかし)の高度な技術が見てとれます。版下の描画だけではなく、彫りや摺りにも若冲が関わったのではないかと見る向きもあります。なお、淀川下りは多くの画家が描いており、円山応挙も描いています。応挙のところで、後に紹介する予定です。 また、若冲は「合羽摺り(かっぱずり)」と呼ばれる多色摺りの版画も、数少ないですが手掛けています。「合羽摺り」は、最初に輪郭線を版木を用いて墨塗りし、色部分は防水加工した型紙を置いて、顔料をつけた刷毛を使って彩色する方法です。色数と同じだけの型紙を必要とします。防水紙を使用することから、「合羽」と呼ばれます。 図Eに合羽摺りを使った「花鳥版画」全6図のうちの1つを示します。若冲は強烈なコントラストを意識して、背景全体を版木を使って摺り出しています。2-13 若冲の住まい異説 筆者が若冲研究の途中、京田辺市でガイドをしている知人から、「若冲は京田辺にも一時期住んだことがあり、その跡に立て札がある。」との情報を得ました。「京田辺に一時期住んだ」ということは、私が読んだ美術書には一切書かれておらず初耳でした。早速現地に行ってみました。京田辺市普賢寺公家谷(こげだに)という場所です。立て札は京田辺市教育委員会と京田辺市文化財保護委員会によるものですので、「京田辺居住説」は公式に認められた一説といえそうです。(図F参照) その知人によると、昭和50年発行の「田辺の昔はなし」という本に「若冲の画は、普賢寺の二家に保存されていたが、一つは、古物にまぎれてなくなり、もう一つは、座敷に4枚の花鳥が描かれてあったが、改築の時に親類の人が焼いてしまった。(普賢寺宮崎宗太郎談)」と書かれているとのこと。知人は、若冲は天明の大火後、1788~1790年の1~2年間が行方不明で、その時期この場所に住んだのではないかと推定していますが、その時期は第14回で書いたように、大坂西福寺や伏見海宝寺に身を寄せたという説が有力です。弟子が若冲名で絵を描いたことも多いとのことなので、私は焼け出された弟子の一人が故郷のこの地に戻ってしばらく住み、若冲名で絵を描いたのではないかと推測しています。 次回からいよいよ円山応挙です。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/04
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【2021年6月3日(木)】 今日は、6月1日の会の終了後の記録を完成させて、ほっと一息というところです。「奇想の画家 若冲と応挙」第19回目、「その他の若冲の絵」の続きです。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-12 その他の若冲の絵(続き) 図Aの「雨龍図」は、「ニャロメ」を彷彿とさせます。赤塚不二夫氏は、この絵から「ニャロメ」のデザインの着想を得たのかもしれません。また、この絵は同時代に生きた曾我蕭白の「柳下鬼女図」(図B)のパロディではないかという説があります。この「雨龍図」はユーモラスな作品ですが、龍の鱗(うろこ)には「筋目描き」が使われています。 図Cに「雷神図」、図Dに「月に叭々鳥図(ははちょうず)」を示します。いずれも絵の主人公が真っ逆さまに降下する可愛らしさのなかにも緊張感あふれる絵です。縦長の掛け軸を活かした構図といえそうですが、垂直落下の絵は彩色画にもあり、「動植綵絵」の図E「芦雁図(ろがんず)」にも垂直に落下する鳥が描かれています。 若冲は人物画をほとんど描きませんでしたが、水墨画では相応の作品を残し、少ないタッチで愛嬌のある顔を描くことが多かったようです。そんな顔の描かれた図F「白衣観音図」、図G「托鉢図」、図H「三十六歌仙図屏風」を示します。「三十六歌仙図」は、誰一人まじめに和歌を詠んでいる人物はおらず、「琴を弾く」ならず「琴を引く(ひっぱる)」姿、ヨーヨーのようなものに興じる姿など、自由奔放な姿が笑いを誘う作品になっています。ところでこの「三十六歌仙図」ですが、黒鉄ヒロシ氏の漫画を思い起こさせませんか。 前回、風景画「石灯籠図屏風」の明確に分けて描かれた近景・遠景や遠景の暈し(ぼかし)は、円山応挙を意識して描いたものかもしれないと書きました。また、今回の図A「雨龍図」は曾我蕭白の「柳下鬼女図」のパロディーではないかと書きました。その他にも、他の画家を意識して描いたように見える絵があります。 図Iに若冲「象図」、図Jに琳派・俵屋宗達「白象図」を示します。想像の域を出ませんが、若冲は宗達の絵を意識して描いたのかもしれません。 象の絵では、もう1つ他の画家の描いた絵とよく似た絵があります。図Jに若冲の「象と鯨図屏風」の右隻部分、図Kに長沢蘆雪(後述する円山応挙の弟子)の「白象黒牛図屏風」の右隻部分を示します。両方とも白象を左横向きに置き、ここでは絵は省略しますが、それぞれ鯨という海の大きな動物、牛という陸の大きな動物を左隻に右横向きで置いたところが似ています。ただ、若冲の作品の方は1795(寛政7)年と制作年が特定されているのに対し、蘆雪の作品の方は、寛政後期(1794〜1799)頃というだけで制作年が特定されていません。ですから、若冲が蘆雪から影響を受けたのか、蘆雪が若冲から影響を受けたのかはよく判りませんし、筆者が読んだ美術書のなかには、この2つの絵の類似性について触れた本はありませんでしたので、たまたま似ているだけということなのかもしれません。しかし、若冲の象の背中には花が描かれ、蘆雪の象の背中には、同じような位置にカラスが乗っています。蘆雪の象は画枠をはみ出すように描かれ、鼻もしわくちゃに描かれています。蘆雪が若冲の象の絵を観て、その象をパロディー化し、「向かい合わせるなら陸の動物だろ。」と牛を向かい合わせたのではないかと筆者は勝手に想像しています。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/03
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【2021年6月2日(水)】 昨日は朝歯医者に行きました。左上奥歯の治療継続の予定でしたが、前回治療開始の後、鎮痛剤を服用するほどの痛みが3日間続き、その後も、振動が伝わりると痛みが少しあるので、薬を詰め替えるに留まりました。その帰りにホームセンターに寄って、買い物してきて、庭の散水ホースに手を加えました。午後から在宅で会の重要な用事でしたが、準備は完了していたので、そんな時間もとれました。 今日は、そのフォローで終日費やしましたが、何とか約束した時間に約束のものを間に合わせることができました。「奇想の画家 若冲と応挙」の第18回目「その他の若冲の絵」です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-12 その他の若冲の絵 前々回と前回は、「動植綵絵」だけに焦点を当てて述べてきました。若冲は「動植綵絵」以外にも、同じような細密彩色画を多く描いていますが、これから先は、細密彩色画以外の絵を紹介していきたいと思います。 若冲は、斬新的な技巧を多く試した画家でもあります。その一つが「枡目描き」という技巧で、無数の小さな枡目1つ1つに絵具を塗っていくという一種のモザイク画です。デジタル画の原点といってもいいかもしれません。若冲は西陣織から着想を得たのではないかといわれています。 図Aに「白象群獣図」とその部分拡大を示します。枡目1つをベタっと同じ色で塗るのではなく、枡目の中で暗色と明色を塗り分け諧調表現をしています。また、輪郭線は枡目の中を通っているので、デジタル的でありながら、輪郭はスムーズに描かれています。この絵はモノクロ調ですが、「樹下鳥獣図屏風」(静岡県立美術館蔵)や「鳥獣花木図屏風」(プライス・コレクション)と題する極彩色の枡目描きの絵も残っています。ただし、前者は枡目内の描き方の稚拙さから、若冲の下絵に基づいて弟子たちが描いたものではないかという説があり、後者は動物の描き方の凡庸さから、前者の完全な模倣作品ではないかとの説があります。 若冲は墨画も多く残しており、その画風は多種多様です。 図Bの「菊花図」には「筋目描き」という技法が使われています。「筋目描き」は、墨の滲み(にじみ)と滲みがぶつかると、境目が白くなる性質を利用した技法で、邪道とも言われたりしますが、若冲は積極的に利用して、この作品では菊の花びらの質感を見事に表現しています。 下図の図Cは当然ながら若冲の絵ではありません。点描画の創始者といわれるフランスの画家、ジョルジュ・スーラによる「サーカス・サイドショー」という作品です。スーラは日本でいえば明治時代の画家です。 ところが、若冲はスーラが生まれるずっと前に、墨画ではありますが、点描画を描いているのです。図Dの「石灯籠図屏風」がそうです。スーラと違って、点の密集具合で濃淡を表わす方法です。若冲は風景画をほとんど描きませんでしたので、その点でも特異な作品です。またこの絵では、近景(灯籠など)と遠景(山)が明確に分けて描かれ、遠景は暈されています。応挙を意識したのかもしれません。複雑に屈曲した松の枝ぶりや、お化けのようなユーモラスな燈籠を配するなど若冲らしさも健在です。 若冲ならではのユニークな墨画も残しています。右図の「果蔬涅槃図」です。いわゆる釈迦涅槃図ですが、釈迦は大根で表され、嘆き悲しんでその回りに集まる弟子や、鳥獣も果物や野菜で表され、沙羅双樹が玉ねぎの葉で表されています。青物問屋の主人だった若冲ならではの作品です。これ以外に、野菜や果物が多く登場する絵としては、彩色画では「菜虫譜(さいちゅうふ)」(佐野市立吉澤記念美術館蔵)、墨絵では「蔬菜図押絵貼屏風」(個人蔵)がよく知られています。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/06/02
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【2021年5月31日(月)】 5月も最終日。今月はついに有償でのお仕事の日が一日もありませんでした。会に入ってすぐの月は別にして初めてです。コロナのときも、事務所に出たので、何らかの務めがあったのですが、それも4月には無くなり、他のガイドもなかったので、ついにゼロとなりました。しかし、来月は両足院がある予定なので、ゼロは今月限りとなるでしょう。 昨日、6月1日の準備を終えたので、今日は、久しぶりにプライベートの時間をとるいことができ、庭のアベリア、マンサク、グリーングローバルのトリミングをすることができました。「奇想の画家 若冲と応挙」第17回 「動植綵絵」の技巧と遊び心(続き)です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-11 「動植綵絵」の技巧と遊び心(続き) 前回は、「動植綵絵」の裏彩色などの技巧と、遊び心とも映る描画について述べました。もう少し、遊び心的な描画について触れてみたいと思います。 「動植綵絵」では、1枚の絵の中に多くの動植物が描かれているものが多いのですが、それらが皆同じような色や形をしているように見えながら、よく見るとどれか1つだけが他と違うというところを、多く見出すことができます。「仲間はずれ」がいるのです。 「秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)」(図A)では、空から舞い降りてくる雀は皆同じ方向を向き、同じように羽を広げていますが、その中に一羽だけ白い雀がいます。これは一目瞭然です。 「蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)」(図B)には、10匹の魚が描かれていますが、全部アユのように見えます。しかし、よく見ると、一番下の魚だけ、ヒレの形や胴の模様が違っています。オイカワという魚のようです。蓮の花が水中で咲くというのはあり得ないので、不思議な空間に迷い込んだような錯覚に襲われる絵でもあります。 「群鶏図」(図C)には、色彩鮮やかに、多くの鶏が描かれています。どの羽がどの鶏のものなのか、よく判りません。だまし絵のような不思議な印象を受けます。そして、鶏の顔はすべて横向きのように見えますが、これもよく見ると、中央やや下の鶏だけが前を向いていることが分かります。 前回も紹介した「紅葉小禽図」(図D)をもう一度示します。非常に多くのモミジ葉のうち、中央下右の1枚だけが、枝から離れているのが分かります。 このように「仲間はずれ」が多くあるのが、単なる偶然なのか、意図的なものなのかはよく分かりません。「仲間はずれ」は若冲自身が、自らの孤高な姿を表したのだという学者もいます。 他にも遊び心的な部分を紹介します。これは「別冊太陽 若冲百図」という美術書に紹介されていた内容で、私も驚いたのですが、「若冲の絵には、多くの相似形が隠されている。」というのです。図E-1に「梅花小禽図」を示します。この中に、相似形が隠されているというのですが、分かりますか? 答えを図E-2に示します。 私も他に相似形がないか探してみました。いくつか発見しましたが、最も明瞭だったのが前回も紹介した「梅花皓月図」(図F-1)です。どこに相似形があるか探してみてください。正解は図F-2です。 図E-2は「梅花小禽図」の相似形隠し絵を示しています。右図矢印の鳥部分の拡大が左図です。この鳥の外形が、右図の黄色の枝ぶりに拡大されています。また目や枝を掴む足の位置には、木の節や、花の固まりがあります。 図F-2は図6「梅花皓月図」の相似形隠し絵を示しています。こうしてみると、一目瞭然ですね。それでは元の図F-1を見てください。不思議なもので、今度は否応なしに相似形が目に飛び込んできます。 図Gに「牡丹小禽図」を示します。2羽の鳥がいますが、右側の鳥は不自然なくらい頭を右に向けています。何を見ているのでしょう。その視線の先に虻(あぶ)が一匹飛んでいるのが発見できます。他に昆虫が描かれているか探してみると、絵の中の昆虫はこの虻一匹だけということが分かります。「ウォーリーを探せ」という絵本が一時期流行りましたが、これは若冲版「ウォーリーを探せ」のようでもあります。鳥の首の曲げ方と視線がヒントになっています。 若冲の動植綵絵は、多くの動物や植物が描かれていても、その奥行き感は、あまり意識せずに描かれているように思います。奥にあるものも、手前にあるものも、ほぼ同じ大きさで描かれており、奥のものをぼかして描くというテクニックも使われていません。絵が平面的です。だからこそインパクトがあるのですが。それが、図H「貝甲図(ばいこうず)」に限っては、奥に行くに従って、貝類が小さく描かれていて、奥行き感が感じられます。「こういう描き方もできるんだぞ。」というところを示したかったのかもしれません。ですが、奥の貝類も手抜きはなく、決して細密さを失っていません。こういったところや、回りに比べると異様に大きくかつ俯瞰的ではなく平面図的に描かれ、手前の宙に浮かんでいるようにも見える左上隅の茶色の二枚貝、左下のお化けのような大きな貝、生き物のようにくるくると巻いた波など、若冲の面目躍如というところが多く発見できる絵です。 本来は「動植綵絵」の細密な絵の描写のことも述べたいところですが、このような文書あるいはパソコンでの表示となると、どうしても絵が小さく、解像度も低くなり、十分に表現しきれません。そのあたりは多く刊行されている美術書に譲りたいと思います。あるいは実際に美術館に足を運んでいただいてご覧いただきたいと思います。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/31
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【2021年5月30日(土)】 今日は6月1日の会関係の準備のタイムリミットでした。もともとフリー日で、あわよくば昨日終わっておいて、今日は自由に時間を使いたかったのですが、結局今日までかかってしまいました。「奇想の画家 若冲と応挙」の第16回目、晩年の若冲です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-11 「動植綵絵」の技巧と遊び心 若冲の生涯を、いくつかの代表作と交流のあった人物を交えながら紹介してきました。ここから先は、若冲の絵の技巧や見所を紹介していきます。まずは、一番の代表作である、「動植綵絵」に焦点を当てます。 美術書の絵の解説には、必ずといっていいほど、どんな材料に絵を描いているのかが書かれています。代表的なのが、「紙本」「絹本」です。それぞれ「しほん」「けんぽん」と読みます。読んで字の如し、材料はそれぞれ、紙(日本画の場合は和紙)と絹です。 「動植綵絵」は絹本です。絹本絵画には通常の絹織物ではなく「絵絹(えぎぬ)」と呼ばれる、織目を密にしないで、隙間を作って織りあげた絵画専用の絹織物が使われます。隙間があるので、下絵を下に敷きながら描けるし、「裏彩色(うらざいしき)」と呼ばれる裏から彩色するテクニックが使えます。裏彩色は、平安仏画や中国絵画にも用いられた伝統的な彩色方法です。絵絹裏面にも絵具を施すと、織目の隙間を通して表面にも見え、より繊細な色彩表現が可能となります。しかし、中世以降は、圧倒的に紙本作品が多くなり、近世絵画には、裏彩色が積極的に使われることが無くなったと考えられていました。ところが、近年の修復を通して、「動植綵絵」には、裏彩色が積極的に使われていることが分かりました。また、若冲が顔料系絵具と染料系絵具の違い(染料系は絹の繊維に染み込むが、顔料系は織目隙間を覆うことなど)を熟知したうえで、彩色表現をしていることも分かりました。さらに、肌裏紙(はだうらがみ)には、通常自然色(生成り色)を使うのですが、「動植綵絵」では、濃灰色に染めた紙が用いられており、この色が絵絹に透けることによって、コントラストが強調されていることも分かりました。 2、3裏彩色の絵をみてみましょう。まず、「老松白鳳図」(下図左)です。羽が白と金色に輝いているように見えます。金色の部分は金泥(きんでい・金を粉末状にして膠水[膠が入った水]で溶かした絵具)が使われていると考えられていました。ところが修復のとき、表面は羽の表情に合わせて非常に繊細に胡粉(ごふん・貝がらを焼いて作った白色の顔料)で描き分けたうえ、裏面に胡粉による白色と、黄土にとる黄色が施されていることが分かりました。さらに肌裏紙の濃灰色が作用して、人間の眼には金色に見えるのです。 もう一つ「紅葉小禽図」(下図右)をみてみましょう。表面の葉には赤色とやや黄色がかった赤色の染料が使われ、裏面には色彩変化を表わすために黄色の裏彩色が施されています。その施し方を葉によって微妙に変化させることで、一枚一枚異なった表情をもたせ、太陽に透かして紅葉を見るような透明感を与えることに成功しています。 絵のインパクトばかりに目がいって、なかなか気付きませんが、その他の古典的な技巧についても触れておきます。 「梅花皓月図(ばいかこうげつず)」(下図左)には、右上の満月に、輪郭を描かず、外側に色をつける「外隈(そとぐま)」の技法が使われています。 「桃花小禽図」(下図右)の幹と枝、葉と葉が重なる部分には、少し隙間を開ける「彫り塗り」という技法が使われています。 若冲の意図はよく分かりませんが、観覧者にとっては「遊び心」とも映る部分に触れていきましょう。「動植綵絵」における雪の描き方が独特です。常にかき氷にかかる練乳のようなネットリ感のある雪を描いています。「雪中錦鶏図」(右図)を示します。「動植綵絵」の雪の場面を描いた絵は、多かれ少なくかれ、このような質感で描かれています。独特の質感で、この雪を見れば一目で「若冲だ!」と分かります。 真丸い穴が多く登場するのも特徴です。病葉の穴の形は現実には不規則なものも多いはずですが、何故か若冲の病葉には真丸い穴が多いのです。あり得ないところに丸い穴があることもあります。何かを象徴しているのか、仏教的意味合いがあるのか、単なるインパクト狙いなのか筆者にもよく分かりません。前ページ図11に、真丸い穴が多く登場する「芙蓉双鶏図」と「棕櫚(しゅろ)雄鶏図」を示します前述の「雪中錦鶏図」の枝の雪にも真丸い穴が発見できます。 魚を描いた両「群魚図」(下図)をよく見ると、ユーモラスな表現に溢れています。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/30
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【2021年5月29日(土)】 今日は、もともとは修学旅行ガイドの予定でしたが、コロナでキャンセルとなり、在宅でした。6月1日の準備を今日終えたかったのですが、明日に持ち越しです。「奇想の画家 若冲と応挙」の第15回、「売茶翁との交流と若冲の名の由来」です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-10 売茶翁との交流と若冲の名の由来 若冲の生涯と主な作品について述べてきました。そのなかで、若冲と交流のあった人物のうち、最も重要な人物は大典顕常であると記しました。若冲は大典以外にも、多くの文化人や禅僧と交流をもっていました。池大雅、黄檗僧 伯珣照浩、儒学者 皆川淇園、木村蒹葭堂(けんかどう・大坂の酒造業者で文人・好事家)などですが、大典の次に忘れてはならないのが売茶翁(ばいさおう)です。 売茶翁は、肥前(佐賀県)に生まれ、11歳で肥前の黄檗宗龍津寺(りゅうしんじ)に出家し、僧名を月海元昭といいました。江戸、仙台などで修業し、黄檗山萬福寺でも修業しました。その間に長崎で煎茶の知識を得たといわれています。 享保16年(1731)、月海57歳のとき龍津寺を法弟に譲り上洛します。そして、享保20年(1735) 、月海61歳のとき東山に「通仙亭」という庵を構え、街中で茶を売りながら禅や人の生き方を説きました。人々は親しみを込めて「売茶翁」と呼ぶようになりました(以下「売茶翁」と記します)。売茶翁のもとには多くの文化人も集まり、そのなかに若冲もいたのでしょう。そして、売茶翁は、延享元年(1744)70歳のときから約10年間、相国寺塔頭林光院に住まいます。大典顕常はそのとき26歳で相国寺の役僧でした。そこで、大典も売茶翁と知り合うことになったのだと思われます。 この売茶翁が所持した茶道具 注子(ちゅうす・水差し)が現存しています(右写真)。その腹には次のような漢詩が書かれています。『去濁抱清 縦其灑落 大盈若冲 君子所酌』誰がどこで詠んだものかも刻まれています。『丁卯之夏日 東湖山人題 于糺林水涯』「丁卯」=延享4年(1747)」の夏の日、「東湖山人」=大典顕常、「糺林水涯」=下鴨神社糺ノ森(ただすのもり)の川辺。延享4年は、売茶翁が林光院に住み始めて4年目、大典と売茶翁が下鴨神社の糺ノ森に遊び、大典が詩を書き、注子に刻んで、後日売茶翁にプレゼントしたのでしょう。詩の書き下しは「濁を去(あら)い清を抱き、其の灑落(しゃらく)を縦(ほしいまま)にす。大盈(たいえい)は冲しき(むなしき)が若し、君子の酌む(くむ)所」。意味は「非常に大きな器があるとする。その中に何も入っていないときは、役に立たない無用の長物と見える。しかし、そこに水か酒でも満たし始めると、底知れぬ大きさだと気付くだろう。」 この「大盈若沖」は、大典オリジナルではなく、次の老子第四十五章からの言葉です。「大成若欠 其用不敞 大盈若沖 其用不窮 大直如屈 大巧如拙 大弁如訥」書き下しは、「大成は欠けたるが若きも、其の用は敝きず。大盈は沖しきが若きも、其の用は窮まらず。 大直は屈するが如く、大巧は拙なるが如く、大弁は訥なるが如し。」意味は「本当に完全な物は何かが欠けている様に見えて、その働きは衰える事が無い。本当に満ちている物は空っぽに見えて、その働きは枯れる事が無い。本当に真っ直ぐな物は曲がっている様に見えて、本当に巧妙な者は下手くそに見えて、本当に能弁な者は口下手に見える。」 「若沖」という言葉が入っています。ここに「若冲」の名のルーツがあるのです。若冲が大典と知り合ったのが、宝暦元年(1751)頃、若冲36歳の頃ですから、大典がこの詩を書いた4年後です。若冲は、この注子の「若冲」を目にする機会があって、大典に雅号として使いたいと言ったのかもしれませんし、大典が老子四十五章から直接「若冲」の雅号を与えたのかもしれません。ただ、もう一度よく見てください。注子のほうの「じゃくちゅう」の「ちゅう」は「にすい(冫)」ですが、老子の原文の「じゃくちゅう」は「さんずい(氵)」です。雅号「じゃくちゅう」は「にすい(冫)」。ですので、「若冲雅号、注子から説」をとりたいところです。 若冲の制作年が分かっている一番早期の作品は「松図番鶏図」(現在所在不明)で、37歳のときの作品です。そこに「若冲」の落款があります。注子の大典の詩が作られた後で、かつ若冲が大典の知遇を得た後ですから、次期的には符合します。しかし、制作年代は分からないものの、この絵よりさらに早い作風の狩野派風の「旭日鳳凰図」(第10回で紹介)にも「若冲」の落款があり、大典と知り合う前から「若冲」を使っていた可能性はあります。そうなると「若冲」が老子四十五章に由来しているとしても、どのような経緯で「若冲」を名乗るようになったのかは謎となります。 売茶翁と若冲の関係は非常に濃密だったようです。若冲は人物画をほとんど描いていません。肖像画となると皆無といってもよいくらいですが、売茶翁だけは肖像画を描いています。しかも、複数描いています。右図はそのうちの1つで、大典顕常の賛も入っており、大典、売茶翁、若冲の3人の親密さを示すものといえるでしょう。 一方、売茶翁は若冲の絵の技量に惚れ込んでいました。次のような一行詩を若冲に与えています(右図)。「丹青活手妙通神」(丹青活手の妙、神に通ず。たんせいかっしゅのみょうかみにつうず。)「丹」は丹塗りの「に」で赤色のこと。「丹青」は赤と青で「絵」という意味です。「あなたの素晴らしい絵は神と通じ合っている」最上級の賛辞です。詩の両側に「宝暦庚辰(10年)冬極月」「八十六翁高遊外書付 若冲隠士」とあり、宝暦10年(1760)若冲46歳のときに、86歳の高遊外(売茶翁の還俗後の名)が若冲に送ったことが分かります。若冲が「動植綵絵」の制作をしていたころで、売茶翁はその細密で印象的な絵の数々に感動したのでしょう。若冲はこの一行詩を、「動植綵絵」の1つ「蓮池遊魚図」の遊印に使っています(右図)。この一行詩は明治時代「動植綵絵」と併せて皇室の御物となり、現在は「動植綵絵」同様、宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されています。 また若冲は「斗米庵」「米斗翁」という雅号も落款として使っています。この雅号の由来もみていきましょう。寛政6年(1794)若冲78歳のとき、浅野家陪臣の平賀白山らが、石峰寺門前に住む若冲宅を訪問しています。その白山が「蕉斎筆記」の中で、若冲と交流のあった大坂の画家・松本奉時から聞いた話として、次のように書いています。「今は稲荷街道に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後ろの山へ自身の下絵の思い付きにて、羅漢一体ずつ建立しぬ。よりて米斗庵と落款をば書きぬ。」これをもって、石像群を建てるようになってから、米一斗(約18ℓ、「一斗缶」で想像できます)相当の代金で絵を売り、米斗庵の落款を使うようになったとされることもあります。しかし、色んな場面で依拠として引用した、若冲51歳のときに大典が書いた「寿蔵碣銘」に「観る者、その妙なることに感服し、遂にこれを以て斗米に易えて給に取る。ここにおいて斗米庵の号あり。」と書かれています。また、少なくとも若冲55歳までには全部完成した「動植綵絵」のなかの「池辺群虫図」に「斗米庵」の落款があり(右図)、石像群を建立するずっと以前から「斗米庵」という落款を使っていたことが分かります。 その時期は家督を次弟に譲ったものの、金銭が特に必要な生活環境ではありませんでした。では何故、米一斗あるいはそれに値する金銭を絵と引き換えに受けとったのでしょうか。ここにも売茶翁の影響があるという見方があります。売茶翁が僧職を捨て、煎茶を売ってわずかばかりの金銭を得る生活に転じたのは、宗教家や知識人の「商いは卑しい」という考え方への痛烈な批判からではないかともいわれています。その考え方に啓蒙された若冲が同じような行動をとったという見方です。あり得るかもしれません。これに加え、家督を次弟に譲り、いわば居候だった若冲が、せめて自分が食べる分だけは稼がなければという現実的な側面もあったのかもしれません。後者のほうは筆者の勝手な推測ですが。 一方「米斗翁」のほうは、前回紹介した、天明の大火で焼け出された直後に描いた大坂・西福寺の「仙人掌群鶏図」に初めて落款として登場します。ですので、こちらの方は石峰寺石像群を建立し始めた後から使いだした雅号ということになりそうです。「白衣観音・鶴・亀図」にも「米斗翁」の落款がありますが(右上図)、「米斗翁」のあとに「行年八十歳画」とあり、かなり晩年の作品です。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/29
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【2021年5月28日(金)】 今日は在宅日でした。会の関係で、急な依頼対応があり、バタバタとした一日となり、6月1日の準備が進みませんでした。「奇想の画家 若冲と応挙」の第14回目、晩年の若冲です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-9 晩年の若冲 皆川淇園や応挙が、石峰寺を訪れた直後、京都では大変な災害が起きます。「天明の大火」です。天明8年(1788)1月31日のことです。当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰す大火災で、若冲の居宅も焼亡しました。焼け出された若冲は、大坂・西福寺、伏見・海宝寺に身を寄せた後、寛政3年(1791)、若冲73歳の頃から、石峰寺の門前に暮らすようになります。独居ではなく、若冲50歳のときに若くして亡くなった末弟・宗寂の妻、心寂とその連れ子と暮らしたといわれています。心寂を若冲の妻と思う人もいたようです。 天明の大火後、若冲は精力的に大作を手掛けています。寛政元年(1789)、西福寺障壁画「仙人掌(さぼてん)群鶏図」、同「蓮池図(れんちず)」、海宝寺「群鶏図障壁画」、「鶏頭蟷螂図(けいとうとうろうず)」、「石峯寺図」、寛政2年(1790)の「菜蟲譜(さいちゅうふ)」、「垣豆群虫図(かきまめぐんちゅうず)」などです。 石像群奉納の資金集めのために、短時間で描ける水墨略画を多作していた状況からの大きな方向転換です。このような多くの大作に取り組んだのは、天明の大火で焼け出されて経済的に困窮し、金銭目的で絵を描かざるを得なかったからだといわれています。現に相国寺には、若冲が大火類焼後の困窮のため、寛政3年(1791)に永代供養の契約を解約したとの記録が残っています。若冲は生涯初めて、金銭のために絵を描くことになったわけです。 前述で列挙した絵のいくつかについて少し触れておきます。京都・海宝寺の「群鶏図障壁画」は現在京都国立博物館蔵となっていますが、この障壁画のあった部屋は「若冲筆投げの間」と呼ばれています。この作品を最後に若冲は筆を執らなくなったという逸話に由来するとのことですが、実際にはその後も精力的に絵を描いています。 大坂・西幅寺障壁画「仙人掌群鶏図」(下図)は、今までの若冲の鶏の絵とは、様相が異なっています。極めて微笑ましい家庭的な光景になっています。老境を迎えて、若冲の世の中を見る眼差しに変化が生じたのかもしれません。「仙人掌群鶏図」 大阪・西福寺蔵(重要文化財) 「菜蟲譜」(下図)には、98種の野菜や果物と、およそ56種の昆虫などが描かれています。かつての青物問屋主人の面目躍如というところでしょうか。ただ、「動植綵絵」と同じように絹本(けんぽん)着色画でありながら、「動植綵絵」のような生気がギラギラする様は見られません。これも老境を迎えての画風の変化かもしれません。「菜蟲譜」(部分)佐野市立吉澤記念美術館蔵(重要文化財) その後も若冲は石峰寺門前で隠遁生活を送りながらも、絵画の制作意欲は衰えず、寛政12年(1800)に85歳で亡くなるまで、作品を描き続けました。亡くなる年にも、石峰寺観音堂に「花卉図天井図」(現在、京都・信行寺蔵)を残しています。若冲は石峰寺に土葬され、相国寺で四十九日の法要が行われました。石峰寺には若冲の墓があります(右写真)。墓のそばには、幕末の書家(幕末の三筆の一人)貫名海屋(ぬきなかいおく)撰文による筆塚が立っています。 石峰寺は晩年の若冲ゆかりの寺院ですし、本人の墓もありますので、若冲の命日である9月10日には、「若冲忌」と称して法要が行われます。その前後には石像寺が所蔵する若冲の水墨画掛軸が展示されます。今年(2020年)はコロナ禍で完全予約制での観覧となったようです。 遺髪は伊藤家の菩提寺宝蔵寺(下の写真)と相国寺に埋納されました。宝蔵寺は裏寺町通蛸薬師上ルにある浄土宗の小さな寺院です。堂宇内は通常非公開ですが、境内には自由に入れ、門を入ったところに若冲の親族の墓があります。もともとは境内の檀家墓地にあったようですが、若冲ブームもあって、門を入ったところに移設されたようです。 下の写真に宝蔵寺の親族の墓の写真を示します。左から、末弟・宗寂、次弟・宗厳(白歳・五代目枡屋源左衛門)、父母、早世した弟と妹の墓です。宗厳と父母の墓は、若冲が建てたことが知られています。宗厳の墓は誰が建てたのかをご住職に尋ねたところ、宗厳自身が生前に建てた寿蔵とのことでした。宝蔵寺(裏寺町通蛸薬師上ル) 若冲の親族の墓(宝蔵寺) 宝蔵寺では、毎年2月8日の若冲の誕生日に法要「若冲誕生会」が営まれます。一般の方も参列でき、宝蔵寺所蔵の若冲や若冲の弟子の絵が観覧できます。 次回から、若冲ゆかりの人物「売茶翁」と若冲の名の由来、「斗米庵」「米斗翁」の雅号について述べたうえ、若冲の絵の技法の解説に入ってゆきます。 ●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/28
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【2021年5月27日(木)】 今日は、もともとは修学旅行ガイドの予定でしたが、コロナでキャンセルとなり在宅でした。会の月イチの集まりに向けての準備に時間を費やしました。 「奇想の画家 若冲と応挙」の13回目です。今日は老年期の若冲です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-8 老年期の若冲 前々回、若冲の一番の代表作群「動植綵絵」について述べました。若冲55歳のとき、明和7年(1770)に父親の三十三回忌が営まれ、それまでに相国寺への「動植綵絵」全30幅の寄進が完了しました。若冲はその後も、ずっと作画三昧の生活を送ったであろうと信じられてきました。 ところが、比較的最近、それを覆す発見がもたらされ、若冲研究者を驚かせました。滋賀大学の経済学者・宇佐美英樹氏が1989年に「京都錦高倉青物市場の公認を巡って」という論文を書きました。「京都錦小路青物市場記録」(京都大学蔵)(右図)に記された、明和6年(1771)から安永3年(1774)にかけての錦高倉青物市場の動向について研究したものです。若冲がこの論文に登場するのですが、長らくこの論文は美術史研究者に知られることはなく、ようやく2008年になって大阪大学・奥平俊六氏が紹介して、世間の注目を集めることになりました。宇佐美氏の論文は、次のような内容です。『若冲は枡源の主人は隠退していたが、高倉四条上ル町(帯屋町)の町年寄に就任していた。ライバルの五条問屋町市場が多額の冥加金を奉行所に納めるなどして働きかけ、錦高倉市場の営業停止を企んだ。ついに奉行所は錦高倉市場の市を停止させた。錦高倉市場は、若冲の住む帯屋町を含め4つの町の商人が商売をしていた。五条問屋町市場の使いが若冲のところに来て、もし帯屋町だけが五条から市の権利を借り受けるようにするなら世話をするという。若冲はこの取り崩し工作を拒絶し、4つの町全体での市場再開を模索する。錦高倉市場も冥加金を納めて一旦市場は再開するが、再び差し止めになる。若冲は精力的に活動をし、取引きする壬生村などの百姓に市場の必要性を訴えさせたり、自ら江戸表に訴える決意までしたりした。こういった努力が実を結び、錦高倉市場の再開が許された。五条問屋町市場との闘争が始まった後、解決までに足掛け4年の歳月を要した。』 このように、若冲は枡源主人引退後も、社会に背を向けて絵を描くことだけに没頭したわけではなく、いざとなれば命もかえりみず、社会的な行動をしていたことが分かります。若冲56歳から59歳までの出来事でした。 この騒動のさなか、若冲は安永3年(1773)の夏、58歳のとき、萬福寺住持の伯珣照浩(はくじゅんしょうこう)に会いにいっています。萬福寺は黄檗宗の大本山です。若冲と交流のあった重要人物の一人として後述する売茶翁も元黄檗宗の僧で、臨済宗の僧、大典顕常と交流がありました。黄檗宗も臨済宗も禅宗です。その禅宗繋がりがあって、若冲は伯珣照浩にまみえることができたのかもしれません。そのときの様子が. 伯珣照浩の「革叟偈頌(かくそうげじゅ)」(右図)の中に書かれています。次のような意味の文です。「若冲が今年の夏、萬福寺に来て私は初めて若冲に会った。若冲は言う『絵画の仕事は既に達成した。自分はいつまでも世俗に混じって生きるべきではない』と。新しい名前と僧衣を与えて欲しいという。それゆえ革叟(かくそう)という僧号を与え、自分の衣を脱いで与えた。」ここで「革叟」とは「革命的な老人」というような意味です。若冲は、僧号と僧衣を与えられ、事実上の出家をしたわけです。 若冲が伯珣に出会った後に描いた「猿猴摘桃図(えんこうできとうず)」(下図)には伯珣の賛が入っています。 さて、ますます禅の道に傾倒した若冲は、安永5年(1776)、還暦を迎え、この頃から伏見深草の石峰寺(せきほうじ)に五百羅漢石像群の奉納を始めます。石峰寺は黄檗宗の寺院ですので、前述の伯珣が間に入って実現したのでしょう。 若冲自身が石像を彫ったわけではありません。若冲が下絵を描き、石工が彫るという分業です。石工に彫ってもらうためには、多額の費用が必要です。そこで若冲は、略筆の墨絵を多く描き、それで代金を得て、費用を捻出をしたのです。若冲の絵といえば「動植綵絵」のような細密な彩色画が有名ですが、軽妙な水墨略画もたくさん残っています。ただ若冲の落款がありながら、弟子の絵と思しき作品も混在しています。石像群を完成させるために、水墨画を量産する必要があったからでしょう。 なぜ、この石像群が造られ始めたのが、安永5年(1776)頃と分かるのでしょうか。大典が若冲のことを記した、「藤景和画記」は若冲45歳のとき、「寿蔵碣銘」は若冲51歳のときに書かれています。もはやこれら2つの史料に頼ることはできません。 実は、江戸時代にはすでに観光ガイドブック的な本が発刊されていました。その一つ「拾遺都名所図圖會(しゅういみやこめいしょずえ)」(天明7年[1787]・秋里籬島{あきさとりとう]著)にこうあります。「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、・・・ (中略)・・・近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」安永は10年までですから、安永5年頃に、石像群が造られ始めたと特定できるわけです。 その前年にやはり秋里籬島によって刊行された「都名所圖會」天明6年再版(下図)には、挿絵の中に五百羅漢が登場しています。 明治時代の廃仏毀釈の影響などもあって、石像の数は少なくなっていますが、今も多くの石像群を拝観することが可能です。石峰寺は京阪電車龍谷大前深草駅の東方約400メートルにあります。五百羅漢像は、釈迦の一生を表わしています。以前は、写真撮影可能でしたが、今は禁止になっています。下の写真は、撮影可能だったときに撮ったものです。 ●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/27
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【2021年5月26日(水)】 昨日は、午前、午後、別々の会の用事で事務所に出向きました。サプライズの件もあり、今日で会の勤務最後の方にご挨拶をさせていただくなど、濃厚な一日でした。 歯の痛みは続き、昨日も昼間と寝る前に鎮痛剤を服用したのですが、今日は、昨晩服用してから12時間経った今も痛くはないので、治まりつつあるのかなと思います。痛みが続くようであれば、歯医者に駆け込もうかと思ったのですが、見合わせました。 昨日は雨は降りませんでしたが、曇り空で、残念ながら皆既月食を見ることはできませんでした。今日はまた雨です。本当に梅雨らしい天気が続きます。6月1日の月イチ打ち合わせに向け、準備を進めました。「奇想の画家 若冲と応挙」の12回目。当時そして現代の若冲人気について探ります。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-8 若冲人気 若冲は、第1回で述べた辻惟雄氏の「奇想の系譜」で紹介されましたが、その後も一般の人々にとっては、まだまだ無名の存在でした。一般の人々が名前を知るようになり、いわゆる「若冲ブーム」が起こったきっかけが、平成12年(2000年)に京都国立博物館で開催された「特別展覧会 没後200年若冲」だったといわれています。「こんな絵描きが日本にいた」というキャッチコピーでした。この言葉のように、皆さんの中にも、「生前から最近までずっと埋もれていた画家」という印象をお持ちの方も多いのではないでしょうか。決してはそうではなかったということも含めて、以降の若冲の生涯を紹介していきたいと思います。なお、第10回で紹介したプライス・コレクションの作品群も、このときに多く展示され、一般の方もジョー・プライス氏の名を知るようになり、海外に多くの若冲作品が流出したことが認知されることになりました。 若冲によって相国寺に寄進された「動植綵絵」や「釈迦三尊像」は、その後どのように扱われたのでしょうか。 明和3年(1766)若冲51歳のとき、真如堂本尊開帳の際に、相国寺方丈室中正面に「釈迦三尊像」、左右に「動植綵絵」12幅が飾られ、同年、相国寺例年の虫干しで「釈迦三尊像」と「動植綵絵」24幅(まだ24幅しかなかった頃)が、中の間に掛けられました。 続いて、明和6年(1769)若冲54歳のときには、相国寺閣懴法に「釈迦三尊」と「動植綵絵」が掛けられました。閣懴法とは、観音菩薩に帰命信従して、自己の罪業を懺悔する儀式です。相国寺のそれは京の年中行事になっていました。以降、毎年掛けられ、その折には、門前に出店が軒を連ね、多くの参拝者が列を作りました。これらは相国寺の記録に残っています。 真如堂開帳の際や、虫干しの際は、どこまで一般の人々に公開されたかは、私自身は詳しく研究できていませんが、少なくとも閣懴法の際は、一般にも公開され人気を博したようです。真如堂開帳の際や虫干しの際に、若冲作品を目にした一部の人々から口コミで伝わって、閣懴法での人気に繋がったのかもしれません。「釈迦三尊像」は仏画ですが、仏教には「草木国土悉皆成仏」(草木や国土のような非情なものも,仏性を具有して成仏する)という考え方がありますので、「動植綵絵」も一種の宗教画といえるでしょう。若冲も「釈迦三尊像」の脇幅という意味を込めて「動植綵絵」を寄進したのでしょう。相国寺もそういう意味を込めて、「釈迦三尊像」と「動植綵絵」を並べて公開したとのだ思いますが、お寺の宣伝にもなったのではないかと思います。そんなことは解説本には書いてありませんが。 明治時代になると、この脇幅の「動植綵絵」が、廃仏毀釈で困窮する相国寺を助けることになります。明治5年(1872)に「京都博覧会」が開かれました。その後毎年開かれ、昭和3年まで続きました。明治5年の第1回では、西本願寺も会場となり、そこに「動植綵絵」30幅が展示されました。その後の「京都博覧会」でも、何度か展示されました。幾ばくかの出展料が相国寺を助けたはずです。 しかし、廃仏毀釈による相国寺の疲弊はさらに続き、ついに明治22年(1889)、京都府知事の斡旋で、「動植綵絵」は、皇室に献上されることになり、見返りとして1万円(詳しくは分かりませんが、当時の1万円は相当の価値です)の下賜金が相国寺に納められました。これによって、相国寺は失われようとしていた寺地を確保することができました。今の相国寺の姿があるのは、「動植綵絵」のお陰だと言っても過言ではありません。 このように、若冲は江戸時代の生前から、明治前半に至るまで、一般の人々にも人気があった画家なのです。決して平成になって、初めて発掘された画家ではないのです。では、何故最近まで注目されなかったのでしょうか。「動植綵絵」は明治中期に皇室への献上によって、御物(ごもつ、ぎょぶつ)になりました。これによって若冲の代名詞でもあり、一番の飛び抜けた代表作群である「動植綵絵」が一般に人々の目に触れる機会が無くなってしまいました。こういったことも一つの要因となって、最近まであまり注目されることがなかったのかもしれません。 昭和天皇崩御後、平成元年(1989)に「動植綵絵」は国に寄贈され、宮内庁三の丸尚蔵館蔵となりました。それが2000年の特別展が企画・開催に繋がり、若冲ブームに火が点くことになりました。 さて、江戸時代若冲の生前時代には、若冲の人気がいかに高かったかを示す、動かぬ証拠があります。「平安人物志」という書物です。江戸時代中期から後期にかけて刊行された書物で、京都の市井の各方面の文化人を紹介し、人気番付のかたちで掲載しています。明和5年(1768)から慶應3年(1867)にかけて、計9回刊行されました。平均すると約12年に一度の刊行で、都度アップデートされました。「画家」の項もあり、京都の市井の画家の人気番付を知ることができます。死亡すると名簿から抹消されますので、若冲の名が記載されているのは、明和5年(1768)版、安永4年(1775)版、天明2年(1782)版ということになります。 まず、明和5年版(1768)(下図)を見てみましょう。右から左へ1番人気、2番人気と続きます。「平安人物志」明和5年(1768)版 画家の項(赤の四角は、筆者追加。現在もよく知られた画家。他の版も同様) 番付1位は「大西酔月」。いきなり名前も聞いたことのない画家です。このように我々のあまり知らない画家も多く記載されているので、よく知られた画家だけピックアップしていきましょう。2位:円山主水(応挙)、3位:若冲、4位:池野秋平(池大雅)、5位:与謝蕪村、9位:嶋田内蔵助(島田元直・応挙の弟子)、16位:玉蘭(池大雅の妻)。後に詳しく紹介する応挙が堂々2位に入っています。若冲は3位。応挙だけでなく、弟子の島田元直もランキングに入っていることが注目されます。 次に、明和5年版の7年後に刊行された、安永4年版(1775)(下図)を見てみましょう。「平安人物志」安永4(1775)版 画家の項 明和5年版で1位だった大西酔月は亡くなったため、もはやランキングには登場しません。替わって1位になったのが、円山応挙、そして2位が若冲、3位:池大雅、4位:与謝蕪村、5位:島田元直、6位:玉蘭と続きます。このあたりまでは、明和5年版と同じような顔ぶれですが、以降、新しい顔ぶれが加わります。11位:原在中、12位:松村文蔵(呉春、円山派から派生した四条派の祖)、14位:駒井幸之助(源琦、応挙の弟子)、15位:曾我蕭白。「奇想の画家」の一人、曾我蕭白が加わり、円山派関係の画家がさらに加わっています。 その7年後の天明2年版(1782)(下図)を見てみましょう。「平安人物志」 天明2年版(1782) 画家の項 1位:応挙、2位:若冲、3位:蕪村、4位:島田元直(名が変わって嶋田主計頭)、9位:原在中、11位:源琦です。大雅が亡くなったので登場しませんが、1位、2位の応挙、若冲は動かず、蕪村も3位と相変わらず強いです。15位:山本主水(山本守礼、応挙の弟子)、19位:岸健亮(岸駒、岸派の祖)、20位:長沢蘆雪(応挙の弟子、奇想の画家の一人)が新たに登場します。25位に玉蘭です。 このように、応挙、若冲は常に大人気でした。若冲は決して埋もれていた画家ではなく、生前から非常に人気の高い画家だったということが、この「平安人物志」からも知ることができます。それから、多くの応挙の弟子も人気があったことが分かります。このことは、応挙の紹介のところで触れたいと思います。また、このような「人物志」が何度も刊行されたのは、経済力をつけた町人たちが、価値のある絵画とか書を手に入るための参考にするという需要があったからだと考えられます。町人文化の発展の一端を示す事実といえるでしょう。絵描きを目指す人が、誰に弟子入りしたらいいのかを考える指針になったのかもしれません。 次回から、若冲の老年期、晩年に入っていきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/26
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【2021年5月25日(火)】 梅雨の晴れ間でした。月イチの会のお役の私担当の打ち合わせで、5日ぶりの京都市内でした。本来ならば修学旅行生で賑やかなはずなのですが。昨日の歯の治療でしたが、今日、痛みが出てきてました。ガマンできるレベルですが、つらいです。「奇想の画家 若冲と応挙」の11回目です。いよいよ代表作「動植綵絵」を若冲は描きます。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-7 「動植綵絵」を描く 10代半ばから絵を描き始めた若冲は、今まで述べてきたように、描くべき絵のスタイルを模索しながら、絵の技量を伸ばしていきます。さらに鶏の写生を経て、技量を一段と高めた若冲は、画家として独り立ちすることを決意します。宝暦5年(1755)40歳のとき、家督を次弟・宗厳に譲ります。このことは第7回で紹介した「町中沽券状」で知ることができます。宗厳が五代目枡屋源左衛門として、枡屋を継ぎ、若冲は絵を描くことだけに専念します。そして、宝暦8年(1758)、若冲43歳のとき、一番の代表作、いや代名詞といってもよい作品群「動植綵絵」の連作に着手します。 若冲筆「動植綵絵」(一部)宮内庁三の丸尚蔵館 「動植綵絵」は全30幅の彩色画ですが、「藤景和画記」では、「花鳥三十幅」と表現されており、当初は水墨画が三幅あった(「墨画三」)と書かれています。しかし、やはりインパクト狙いなのか、最終的には全30幅とも彩色画となりました。「動植綵絵」についての記述@「藤景和画記」 「動植綵絵」は大典顕常が住持を務めていた慈雲庵の本山・相国寺に寄進されたものですが、若冲は「釈迦三尊像」も合わせて相国寺に寄進しています。この釈迦三尊像は、東福寺にあった伝・張思恭筆「釈迦三尊像」を模写したものです。東福寺も相国寺同様、臨済宗の本山であり、やはり大典顕常繋がりで模写が実現したのでしょう。その東福寺の原本の中幅・釈迦像は、現在米国・クリ―ブランド美術館に所蔵され、模写の方の若冲筆「釈迦三尊像」が相国寺に残っていているというのも歴史の綾なのでしょうか。 若冲筆「釈迦三尊像」 宝暦11(1761)~明和2(1765)相国寺蔵 若冲が相国寺に寄進したのは、「動植綵絵」30幅と「釈迦三尊像」3幅、合計33幅になるわけですが、何故33幅なのでしょうか。観音菩薩が衆生を救うため相手に応じて33の姿に変化すると、法華経のなかの観音経に書かれています。このいわゆる「観音三十三応現身」と呼ばれる信仰に基づいたのではないかといわれています。因みに「西国三十三所巡礼」も、この「観音三十三応現身」の信仰に由来するといわれています。 しかし、最初から33幅全部同時に寄進されたわけではありません。明和2年(1765)若冲50歳のとき、末弟の宗寂が亡くなります。同じ年に、父・宗清の27回忌が営まれます。これに間に合うように、まず「釈迦三尊像」3幅と、既に完成していた「動植綵絵」24幅、合計27幅が寄進されました。このとき寄進状に「動植綵絵」という画名が使われています。若冲は43歳から「動植綵絵」を描き始めましたが、非常に細密な絵のため、制作に時間がかかったのでしょう。そのうえこの時期、いくつかの他の大作も手掛けています。ですから、「ようやく27幅だけが間に合った」という考え方もできます。一方で、父親の27回忌なので、「27という数字に拘った」という説もあります。 そして、明和7年(1780)若冲55歳のとき、父親の33回忌が営まれ、それまでに「動植綵絵」残り6幅を完成させ、ようやく全30幅の寄進が完了しました。 前述したように、この40歳代は、「動植綵絵」だけでなく、他にも大作をいくつか残しています。代表的な作品だけでも、宝暦4年(1759)44歳のときの、鹿苑寺(金閣寺)大書院の50面に及ぶ水墨画の障壁画、明和元年(1764)49歳のときの、金刀比羅宮奥書院の「花卉図」、「山水図」、「杜若図」、「垂柳図」などがあります。鹿苑寺大書院の水墨画は、現在は相国寺承天閣(じょうてんかく)美術館で、常時公開されています。若冲筆「葡萄小禽図(ぶどうしょうきんず)」鹿苑寺大書院障壁画 相国寺承天閣美術館蔵 また、大典の「小雲棲稿」によると、宝暦10年(1760)若冲45歳の頃、大典は若冲、池大雅らと京郊外で観梅を楽しんだとあり、若冲と文人画家・池大雅との間に交流があったことも分かります。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/25
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【2021年5月24日(月)】 午前中は歯医者でした。この頃1週間に一度のペースで治療が続いています。今日から、左上奥歯(親知らず)の治療が始まりました。もともとは弱ってきているので、抜いてしまいましょうということだったのですが、再考の結果、何とか残しましょうということになりました。根の治療したうえ、土台を作って被せをします。帰ってきてから、月イチの高血圧薬、抗尿酸薬の投薬で、近所の医者通いでした。いつものアムロジピンとフェブリクをいただきました。あとの半日は、会のこと色々でした。 「奇想の画家 若冲と応挙」の10回目です。有名な若冲の鶏を飼って写生をした時代のことです。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-5 自分で見る「物」を描く さて、そうやって中国画から学ぼうとした若冲ですが、またまた行き詰まりを感じます。いくら模写をしたり、絵から学んだりしても、絵を手本とする限りは、「宋元画の画人と肩を並べることはできない。模写では、自分と物が隔たるばかり。」 そんななか、37歳で描いた「松樹番鶏図」に初めて「若冲居士(こじ)」という落款を使います。「居士」とは男子の戒名の下につける称号の一つですが、ここでは、在家の仏道帰依者という意味です。「若冲」の名の由来については、後ほど触れます。 さて再び行き詰った若冲はどうしたのでしょう。引き続き「寿蔵碣銘」からです。「自分が見ることのできる『物』を描くべきだ。」と結論付けます。そして皆さんよくご存知の「鶏」を写生する時代が来るわけですが、何故「鶏」なのかということも「寿蔵碣銘」には書かれています。「では何を描くか。雲の上を飛ぶ麒麟や中国故事人物は実存しない。月代頭(さかやきあたま=前頭部から頭頂部にかけての範囲の頭髪を剃った髪型)の日本人を描くのは嫌である。日本の山水も描くほどのものはない。では動植物だ。孔雀やカワセミ、鸚鵡(おうむ)や錦鶏鳥などは美しいが、いつも目にすることはできない。鶏であればいつでも見られるし、羽は五色の美しさをもっている。そうだ鶏を描くことから始めよう。」 鶏というのは、現在では、食用や産卵用の鶏だけを想像しがちなので、鶏を描くというのは、奇異にも思いますが、江戸時代には観賞用の鶏が流行したという文化的背景があったことを書き添えておきます。 「数十羽の鶏を窓から見える庭で放し飼いにし、その姿かたちを観察しきったうえで、初めてそれを写し取った。それが数年に及んだ。」「その姿かたちを観察しきったうえで、それを写し取った。」というところが、若冲の写生術の真骨頂のように思います。後述する応挙も写生を重要視した画家です。想像の域を出ませんが、応挙はまずは見たままをすぐ写生したと思います。若冲は「観察しきったうえで・・・」とあります。印象に強く残ったところが絵に現われることになり、若冲独特のインパクトのある絵になったのだと思います。その頃描いた鶏の絵の一つが下の図1「旭日雄鶏図」です。 若冲は絵の対象を拡げます。「草木や他の鳥、虫や獣、魚といった動植物の姿を知り尽くすことによって、それらに潜む『神』に出会うことが可能になり、手が動いて描けるようになった。」 こうやって、鶏以外の動植物や架空の鳥などを描く力をつけていきました。下に昆虫が描かれた図2「糸瓜(へちま)群虫図」、架空の鳥、鳳凰を描いた図3「旭日鳳凰図」を示します。 図4に「旭日鳳凰図」と「旭日雄鶏図」の落款を拡大してみます。字が少し斜めになったり、字がヨタヨタとしていたりするのが分かります。若冲の生い立ちのところで、「藤景和画記」に「字が下手」と書かれていることを述べましたが、これら落款はその事実を示すものではないかと思われます。若冲の初期の作品群のなかには、このような落款が見られます。図1 旭日雄鶏図 図2 糸瓜群虫図 宝暦3(1754)頃 プライス・コレクション 細見美術館蔵(右は部分拡大) 図3 旭日鳳凰図 宝暦5年(1755) 図4 字が斜めになった落款 宮内庁三の丸尚蔵館 旭日鳳凰図(図3) 旭日雄鶏図(図1) 2-6 プライス・コレクション ここでちょっと寄り道します。前述の「旭日雄鶏図」は「プライス・コレクション」からの作品です。若冲の展覧会には、この「プライス・コレクション」の作品群が出展されることがよくあります。 「プライス・コレクション」のフルネームは「エツコ&ジョー・プライス・コレクション」です。ジョー・D・プライス氏(1929年10月20日生まれ。今もご存命です。)の所蔵する日本絵画コレクションです。コレクションのフルネームから分かるように、奥様は日本人です。しかし、日本絵画を蒐集するようになったのは、奥様と知り合う前です。 1953年(昭和28年)にニューヨークの古美術店で伊藤若冲『葡萄図』に出会います。当時、伊藤若冲は日本でも無名に近く、プライス氏もただただ絵に惚れて買った訳です。その後もプライス氏は自らの審美眼を頼りに蒐集を続け、世界でも有数の日本絵画コレクションを築きました。蒐集した作品は伊藤若冲を中心に当時日本であまり人気のない作者のものが多くありましたが、次第に日本で逆輸入的に評価されていきました。ロサンゼルス郊外に鑑賞室などを併設した豪邸を構え、全コレクションは約600点に及びました。ただ、近年は高齢などを理由に、一部を「日本の専門美術館に引き継いでほしい」と受け入れ先を探していたようで、2019年に190点が出光美術館に売却され話題になりました。 若冲はいよいよ代表作「動植綵絵」の制作にとりかかります。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/24
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【2021年5月23日(日)】 久しぶりのお日様でした。梅雨の晴れ間ですね。そしてジメジメしたおらず、さわやかな一日でした。一昨日打ったワクチンの腕の痛みは、今日は腕を上げても痛くはありませんでした。幸い私は副反応は軽かったようです。 昨晩はZoom飲み会でしたが、今日は別のグループのZoom飲み会でした。昨日もそうですが、高齢者の会ですので、ワクチン接種がメインの話題の一つでした。自治体によって仕組みが大きく違うことを再認識しました。 昨日、ちょっとのんびりしたので、今日は、在宅で少し会のこともしました。「奇想の画家 若冲と応挙」の第9回目です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-3 生活環境と人となり 若冲は錦市場の青物問屋「枡源」の長男として生まれたことは述べましたが、実際にどんな環境で生活していたのか、どんな人となりだったのか、前述の「寿蔵碣銘」や「藤景和画記」で見ていきましょう。これら文書の原文は漢文ですので、それらを引用する場合は、現代文に変えて示します。場合によっては、省略したり、意訳を加えたりします。 「寿蔵碣銘」にこのように書かれています。「錦街は魚や野菜を扱う店が並ぶ。毎日、荷をかつぐ人が大勢集まる。」ここまでは、想像できる市場の風景ですね。実は、次の一文が重要なのです。「若冲の家は、日々彼らからその場所代をとれば十分な利益を上げることができた。」 問屋というと、百姓から野菜などを買って、それを小売りに売って、その利ザヤで商売するというイメージですが、他の問屋もそうだったかまでは分かりませんが、少なくとも「枡屋」は、商人たちに売り場を貸していて、その場所代で十分な利益を得られたというわけです。家が裕福であると同時に、時間に追われてあくせく働く必要がなかったということです。ですので、若冲は若い頃から、好きな絵を思う存分描くことができたでしょう。そして、若冲23歳のときに、父親が亡くなって、四代目枡屋源左衛門を継いだ後も、絵を描き続けることができたし、高価な画材も手に入れることができました。後述しますが、中国画の模写も数多くしています。大典顕常などを通じて、志納金を納めて、寺社の所蔵する中国画を模写することができたのでしょう。この家が裕福だったという点が、若冲の画風を形作る大きな一要因だと思われますし、ここが、後に述べる応挙と大きく異なるところです。 では、若冲の人となりはどうだったのでしょうか。「藤景和画記」に書かれています。「幼少から学問嫌い。字も下手。芸事も何もできない。音楽や女性にも興味がない。酒も飲まない。金持ちで贅沢な生活をしている人の話は知っているが、そうなりたいと一度も望むことはなかった。」大店(おおだな)の若旦那としては失格なのでしょうが、ただただ絵を描くことが好きだったようです。2-4 絵のスタイルを模索する では、絵画にどのように向き合っていったのでしょうか。15歳頃から絵を学び、30代半ばまでは、絵のスタイルを模索する日々が続きます。 再び「寿蔵碣銘」を見てみましょう。「絵を描くことだけは好きだった。まず、狩野派の技をなすものに学んだ。」 若冲の若い頃の作品には、狩野派画家の絵を模写したものと思われる絵があります。下に30代半ばの作品とされる「日出鳳凰図」と狩野探幽筆「桐鳳凰図屏風」を示します。鳳凰の姿が酷似しています。また、狩野派の画家に学んだといわれる大岡朴(しゅんぼく)の編集した絵手本集「画本手艦」(えほんてかがみ)に所蔵された「野馬」に類似した「馬図」という作品も残っています。下に示します。左:若冲「日出鳳凰図」ボストン美術館 左:若冲「馬図」個人蔵右:狩野探幽「桐鳳凰図屏風」(部分) 右:大岡春卜編「画本手艦」所蔵 サントリー美術館蔵 秋月等観「野馬」部分 龍谷大学図書館蔵 前述したのは、春卜の手本集にある絵から学んだのではないかというだけのことですが、若冲は直接春卜から学んだのではないかという説もあります。江戸後期に編纂された「扶桑名画伝」に「(若冲の)初メノ名は春教」とあります。春卜の弟子には「春×」という名の弟子が多かったことが分かっていますので、初め「春教」と名乗ったという若冲も、春卜の弟子だったのではないかということです(ただし、「春教」の落款がある絵は残っていません)。やはり江戸時代後期の「続諸家人物誌」の「若冲」の項には「初名春教、幼ヨリ画ヲ好ミ、大岡春卜二学ブ」とあるのも、春卜の弟子説の根拠になっています。家が裕福だったので、師をつけるのも経済的には難しいことではなかったはずです。 こうやって狩野派の絵を学んだ若冲ですが、やがて「獲得した技法は、狩野家の法に過ぎない」と行き詰まりを感じるようになります。そして次にとった行動は、「宋元画を学ぶ。千点を模写した。」 中国画に学ぼうとしました。前にも述べましたが、こんなにたくさんの中国画を模写できたのは、それらを所蔵する社寺に志納金を払う経済力があったからです。明確に中国画を模写したと分かる作品があります。下に若冲筆の「白鶴図」と中国・明代の画家・文正筆の「鳴鶴図」を示します。2羽の鶴の姿が非常に類似しています。若冲筆「白鶴図」若冲38歳頃 文正筆「鳴鶴図」(重文)中国・明代個人蔵 相国寺蔵 ですが鶴以外は大きく異なっています。土坡(どは)(地面に当たる部分)の松の木の表現や、青海波(せいがいは)に波しぶきを加えた表現が若冲独特のものになっています。文正の絵は相国寺所蔵です。一方、若冲の「白鶴図」は若冲38歳の頃の作品といわれており、大典顕常と知り合った後ですから、大典と知遇を得たことで、この絵を模写できたと想像できます。 直接中国の絵に学んだ訳ではないですが、中国画を学んだ日本人画家に学んだと思われる作品もあります。下に若冲筆「牡丹・百合図」と鶴亭(かくてい)筆「牡丹綬帯鳥図」を示します。 若冲30代前半「牡丹・百合図」 鶴亭「牡丹綬帯鳥図」慈照寺(銀閣寺) 神戸市美術館 江戸絵画史で紹介しましたが、江戸時代中期、日本に招聘されて三都の画家に大きな影響を与えたのが、中国(清)の画家・沈南蘋でした。長崎に滞在した沈南蘋に学んだ画家の一人が熊斐(ゆうひ)です。長崎黄檗宗の僧であり、画家であった鶴亭は、この熊斐に絵を学びました。下の若冲の絵を見ると、特に木の幹の描き方が、鶴亭のそれに酷似しており、若冲は熊斐の絵に学んだのではないかと考えられます。間接的にではありますが、若冲が中国画に学んだ例といえるでしょう。 ●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/23
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【2021年5月21日(金)】 今日はもともとは年イチの会の全体会でしたが、緊急事態宣言で集まっての開催はなくなり在宅になっていました。その後、ワクチン接種1回目がちょうど今日に入り行ってきました。 打ったときの痛みは、ほとんどなかったです。昔に比べると針も細くなったりしているのでしょうね。ちょっと頭痛がしましたが、それ以外の副反応は今日はなかったです。「奇想の画家 若冲と応挙」の第8回です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-2 大典顕常との交流 若冲の生涯を語るうえで忘れてはならない人物が大典顕常(だいてんけんじょう)です。梅荘顕常とも呼ばれます。若冲が画家として成功するのに大きな役割を果たしました。禅の高僧であり、漢詩人、文化人としても、当時著名だった人物です。若冲の庇護者ということで、若冲の父親的な存在というふうに誤解しがちですが、実は若冲より3歳年下です。ですので、よき理解者、支援者であると同時に親友のような存在だったといってもいいかもしれません。大典顕常 世継希僊筆 11歳で相国寺(しょうこくじ)塔頭(たっちゅう)の慈雲庵で得度し、27歳で慈雲庵の住持に就いています。相国寺は臨済宗相国寺派の大本山で、同志社大学今出川キャンパスの北側に位置します。金閣寺(鹿苑寺)や銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭です。 大典は33歳の頃、若冲と知り合います。若冲36歳の頃で、後述しますが、若冲が絵のスタイルについて色々模索していた時期です。そして大典は41歳のとき、慈雲庵住持を隠退し、詩作や書に身を投じ、42歳のとき(若冲45歳)、12巻に及ぶ「小雲棲稿」という漢詩文集を著します。その第8巻に「藤景和画記」(とうけいわががのき)と題し、若冲の人となりや若冲の絵のことを書きました。 大典顕常筆 「小雲棲稿」巻之八 「藤景和画記」の部分 「藤」は「伊藤」の「藤」で、「景和」は若冲の字(あざな)です。「景和」の落款は若冲の初期の絵にも使われています。 さらに48歳のとき(若冲51歳)、相国寺塔頭の松鷗庵に若冲の寿蔵(生前に建てる墓)を建てます。そして、そこに若冲のそれまでの生涯についての記述を漢文で刻みました。同じ文章が、さきほどの小雲棲稿の第9巻に「若冲居士寿蔵碣銘(けつめい)」として収められています。この寿蔵は、現在は相国寺の墓地に移され、足利義政や藤原定家の墓と並んで建っています。若冲の寿蔵(相国寺墓地内)と寿蔵碣銘 他にも種々若冲のことを知る手掛かりは残されていますが、この「藤景和画記」と「寿蔵碣銘」が、若冲の生涯を知るうえで、最も重要な情報源となっています。 大典は54歳で、慈雲庵住持に復帰し、61歳で相国寺第113代住持に就き、禅の高僧としても名を残しました。 大典は、若冲が画家として成長する支援をしたのみならず、若冲についてこのような重要な記録を残しました。そういった2つの意味で、大典顕常は、若冲を語るうえで、忘れてはならない存在なのです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/21
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【2021年5月19日(火)】 午後から外出でした。出るときに雨が降り出しました。まず歯医者。前回で右上奥歯の治療が終わり、今日はメンテだけでした。今後、左上奥歯(親知らず)の治療が始まりますが、以前、劣化が進んでいるので、抜歯と言われたのですが、今日は「何とか残しましょう。」ということになりました。その後、月イチの三味線レッスンでしたが、事務所が近くなので、少しだけ寄って用事もしました。三味線をかついで傘差しての、歯医者、レッスンは少々堪えました。 「奇想の画家 若冲と応挙」#7です。前回で近世日本画の概略史を終え、今回から、いよいよ若冲のお話です。◆第2章 伊藤若冲2-1 若冲生誕 若冲は、正徳6年(1716)京都の中心部、錦高倉青物市場の問屋「桝屋」の長男として生まれました。今でこそ、京都中央卸売市場ができ、錦市場は寺町通から高倉通まで、すべて小売店ですが、当時は問屋もあり、柳馬場通から高倉通までは問屋が並んでいました。若冲の生家「桝屋」は、その西端、錦小路高倉にありました。今の錦市場から想像して若冲は「町の八百屋に生まれた。」と思っておられる方も多いのではないでしょうか。そうではなく問屋に生まれたのです。このことが若冲の絵を理解するうえで重要なポイントの一つです。あとで詳しく述べます。 若冲生家と伊藤家菩提寺「宝蔵寺」の位置 若冲肖像画 久保田米僊筆 佐藤康宏著「もっと知りたい伊藤若冲」から 上図に若冲の肖像画を示していますが、これは明治時代の京都画壇の日本画家 久保田米僊が「若冲ハ十回忌」の際に、古老達に若冲の容貌を聞き取って描いたものです。若冲の自画像や生きている時代に描かれた肖像画は残っていません。 さて、若冲の生家は「錦小路高倉」にあったと断定的に書きました。実際にその場所に行ってみると、「伊藤若冲生家跡」という看板が立っています。京都大丸の東側を北上して、錦商店街の西側の入り口の南東角です。若冲生家跡(錦小路高倉南東角) 何故、断定できるかというと、若冲の生家が所在した京都錦小路高倉の中魚屋町では,江戸時代から町の共有文書「町中沽券状之写(ちょうちゅうこけんじょうのうつし)」が保存されていて、そこに枡屋源左衛門(代々の主人をこう呼んだ)の家屋敷の記録も残されているからです。 「錦街通中魚屋町南側」とあり、東には伊勢屋何某の店、西に高倉通とあるので、この場所が特定されたということでしょう。今この場所は、「錦そや」というお豆腐屋さんになっています。「町中沽券状之写」寛政19年(1793) 京都市歴史資料館蔵 下図に伊藤家の家系図を示します。若冲は三代目枡屋源左衛門である父・伊藤宗清(そうせい)、母・清寿(せいじゅ)の間に長男として生まれました。若冲の次弟が宗厳(そうごん)、その下の弟が宗寂(そうじゃく)です。さらに梅會(ばいえ)という妹と亀之助という弟がいましたが、この二人は早く亡くなっています。ですので、宗寂が実質的な末弟ということになります。宗清、清寿、宗厳、宗寂とも伊藤家の菩提寺宝蔵寺(場所は上に掲載済みの地図参照)の過去帳に書かれている法名であり、俗名は不詳です。 あとで述べますが、父・宗清が42歳で亡くなり、若冲は23歳で四代目として枡屋源左衛門を継いでいます。さらに若冲40歳のときに、家督を次弟・宗厳に譲り、宗厳が五代目として枡屋源左衛門を継いでいます。 宗厳のところに「白歳(はくさい)」と書いてあるのは、絵を描くうえでの雅号です。宗厳は兄・若冲から絵の手ほどきを受け、絵も嗜みました。宝蔵寺には、墨絵ですが、宗厳(白歳)筆の絵も残っています。家が青物問屋なので、野菜の白菜から「白歳」という雅号にしたという説もあります。 末弟・宗寂は若冲50歳のときに亡くなっています。宗寂には妻がおり、宗寂が亡くなった後、仏門に入り、心寂と名乗りました。若冲が晩年深草の石峰寺近くに住まいしたとき、この心寂とその連れ子といっしょに暮らしたと云われています。 伊藤家 家系図●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/18
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【2021年5月17日(月)】 昨日、近畿地方も梅雨に入ったようです。平年より21日、去年より25日早く、昭和26年に統計を取り始めてから、最も早い梅雨入りとなりました。コロナの影響かと思いたくもなります。 16日連続在宅の後、今日、久しぶりの長時間外出となりました。雨がひどくなくて助かりました。事務所で諸事しました。「奇想の画家 若冲と応挙」#6 です。◆第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-5 江戸時代後期 江戸時代後期の特徴は、江戸での展開です。 下に#2で示した年表「近世日本絵画の代表的な画家」の、該当部分を拡大して示します。年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分拡大 前項に書きましたが、18世紀後半に、南蘋派、秋田蘭画の画家らが江戸で活躍し、江戸にようやく本格的な民間画壇が成立しました。そこへ文人画や琳派が上方から伝わり、谷文晁や酒井抱一が、それらの画風を受け入れながらも、独自の展開をしていきます。さらに、文人画は、江戸の地にとどまらず、関東各地に広まりました。たとえば、水戸の林十江、立原杏所です。 また洋風表現は浮世絵師の間にさらに入り込み、葛飾北斎や歌川国芳によって新生面が開かれていきます。下の国芳の風景画は、洋風画の陰影法を取り込んでいますが、その付け方は極端で、空の諧調表現も独特です。歌川国芳 「忠臣蔵十一段目夜討之図」 天保2~3年(1831-32) 国芳の人物画には、江戸っ子の粋から乖離したグロテスクな絵を描いたものも多くあります。図7は水滸伝のヒーローたちをエキゾチックな筆致で描いたもの。「武者絵の国芳」と有名になりました。図8は、「寄せ絵(だまし絵)」と呼ばれるもの。いずれも印象的です。国芳はこのように風景画も人物画も独特の画風を持っていましたので、辻惟雄氏は、「奇想の画家」の一人としてあげています。 歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個金毛段景住」 同「みかけハこハゐがとんんだいゝ人だ」 一方上方では浦上玉堂や岡田米山人といった個性的な文人画家や円山応挙、呉春の流れをひく四条派が活躍します。また、幕末になると勤王派による王朝復古の風潮が盛り上がり、田中訥言(とつげん)に始まり、冷泉為恭(れいぜいためちか)へ受け継がれた復古やまと絵派が活躍しました。江戸でも江戸狩野の狩野養信(おさのぶ)が、やまと絵を極め、極彩色の王朝絵巻の作品を多く残し、面白いことに、そこに遠近法を取り入れたりしています。和と洋、新と旧の出会いといっていいでしょう。 洋風画は亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)、安田雷州(やすだらいしゅう)によって深められました。下に亜欧堂田善の「両国図」を示します。#5で示した勝川春章のぎこちない遠近法は払拭されて、より正確になり、陰影法も非常に繊細です。 亜欧堂田善「両国図」(部分) 19世紀初め 秋田市立千秋美術館 そして江戸時代は終焉を迎え、明治維新という大きな時代変化を経て、絵画は近代画壇へと繋がっていきます。 江戸時代の絵画史を駆け足で紹介しましたが、今回、とりあげる伊藤若冲、円山応挙はいずれも江戸時代中期の画家です。しかも、#5で示した画家年表を見ていただいたら分かりますが、応挙の生存時期は若冲の生存時期に完全に含まれています。全く同時代に生きたといっても過言ではないでしょう。若冲の方が先に生まれ、応挙が亡くなった後も、若冲はしばらく存命だったということです。それでは、次回から先にこの世に生を受けた若冲のほうから紹介していきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/17
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