ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

2017/01/25
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テーマ: 京都。(6081)
カテゴリ: 常駐ガイド
2017年 1月25日(水)】

 今日は、「八木邸」の第5日。通常集合時間の10分、遅くても5分前には皆さん来られるのですが、ペアの方が集合時間5分前になっても来られず、心配しましたが、集合時間ギリギリに来られました。朝出る間際になって、お孫さんがグズって出るのが遅くなったとのこと。途中で「遅れるかも。」とメールを送ってくださったのですが、マナーモードで気が付きませんでした。こういうときはマナーモードを解除しておかねばなりません。反省です。

 外人さんを一人案内しました。カナダからの女性だったと思います。日本語はある程度話せるようでした。案内が終わった後で聞いたら、新選組のことは少し知っていて、ガイドの内容も少し理解できたとのことでした。

 ちょっと失敗をしました。お客様が少ないときは、ガイドが終わると次のお客様の到着を待ってガイドをするということも発生します。今日空きがあった後、新しいお客様が来られて「それでは今から案内させていただきます。」と案内する場所にいっしょに向かったところ、お客様が何人か待っておられました。途中からのお客様の何人かが、聞き逃した最初の部分を聞こうと待っておられたのです。それほどお待たせしなかったのですが、もし次のお客様が来られなかったら、長時間お待たせするところでした。交替の際に、待っておられるお客様はいないと思っても、確認のために案内場所に行くことが必要ということです。







 先祖は越前の国主であった 朝倉義景 。義景は朝倉家の養子。義景は天正元年(1573)8月、 織田信長 との戦いに敗れ自刃。そのとき與三兵衛という者が、義景の息子 又兵衛 と娘を連れて、丹波の 八木の庄 (今の南丹市八木町)に逃げた。丹波の国は、当時、 明知光秀 の所領。光秀は義景に仕えていたこともあり、彼らを客人として迎えた。

 又兵衛はそこに居住。八木の地名を姓にしたのであろう、八木姓を名乗ったが八木家初代となる。義景の娘は越前にいたときの約束で、西本願寺に嫁入り。儲けた子が後の 教如聖人 。その後、豊臣秀吉の時代に、又兵衛は山城国葛野郡洛西 壬生村 へ移住し、 壬生郷士 となった。壬生郷士は、武士の身分で壬生の農政を取り仕切った 地方(じかた)役人

 八木家の家紋は 「三つ盛木瓜(もっこう)」 。朝倉家の家紋でもあります。瓜を輪切りにした断面や鳥の巣を図案化したものといわれ、子孫繁栄を祈る家紋です。

20170125-朝倉紋.jpg


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)


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最終更新日  2019/05/23 08:43:45 AM
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