ワルディーの京都案内

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2021/05/23
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テーマ: 京都。(6365)
カテゴリ: 若冲と応挙
【2021年5月23日(日)】

 久しぶりのお日様でした。梅雨の晴れ間ですね。そしてジメジメしたおらず、さわやかな一日でした。一昨日打ったワクチンの腕の痛みは、今日は腕を上げても痛くはありませんでした。幸い私は副反応は軽かったようです。

 昨晩はZoom飲み会でしたが、今日は別のグループのZoom飲み会でした。昨日もそうですが、高齢者の会ですので、ワクチン接種がメインの話題の一つでした。自治体によって仕組みが大きく違うことを再認識しました。

 昨日、ちょっとのんびりしたので、今日は、在宅で少し会のこともしました。



「奇想の画家 若冲と応挙」の第9回目です。


◆第2章 伊藤若冲(続き)

2-3 生活環境と人となり

 若冲は錦市場の 青物問屋「枡源」 の長男として生まれたことは述べましたが、実際にどんな環境で生活していたのか、どんな人となりだったのか、前述の 「寿蔵碣銘」 「藤景和画記」 で見ていきましょう。これら文書の原文は漢文ですので、それらを引用する場合は、現代文に変えて示します。場合によっては、省略したり、意訳を加えたりします。

「錦街は魚や野菜を扱う店が並ぶ。毎日、荷をかつぐ人が大勢集まる。」 ここまでは、想像できる市場の風景ですね。実は、次の一文が重要なのです。 「若冲の家は、日々彼らからその場所代をとれば十分な利益を上げることができた。」  問屋というと、百姓から野菜などを買って、それを小売りに売って、その利ザヤで商売するというイメージですが、他の問屋もそうだったかまでは分かりませんが、少なくとも「枡屋」は、商人たちに売り場を貸していて、その場所代で十分な利益を得られたというわけです。家が裕福であると同時に、時間に追われてあくせく働く必要がなかったということです。ですので、若冲は若い頃から、好きな絵を思う存分描くことができたでしょう。そして、若冲23歳のときに、父親が亡くなって、四代目枡屋源左衛門を継いだ後も、絵を描き続けることができたし、高価な画材も手に入れることができました。後述しますが、中国画の模写も数多くしています。 大典顕常 などを通じて、志納金を納めて、寺社の所蔵する中国画を模写することができたのでしょう。この家が裕福だったという点が、若冲の画風を形作る大きな一要因だと思われますし、ここが、後に述べる応挙と大きく異なるところです。

 では、若冲の人となりはどうだったのでしょうか。「藤景和画記」に書かれています。 「幼少から学問嫌い。字も下手。芸事も何もできない。音楽や女性にも興味がない。酒も飲まない。金持ちで贅沢な生活をしている人の話は知っているが、そうなりたいと一度も望むことはなかった。」 大店(おおだな)の若旦那としては失格なのでしょうが、ただただ絵を描くことが好きだったようです。


2-4 絵のスタイルを模索する

 では、絵画にどのように向き合っていったのでしょうか。15歳頃から絵を学び、30代半ばまでは、絵のスタイルを模索する日々が続きます。

 再び「寿蔵碣銘」を見てみましょう。 「絵を描くことだけは好きだった。まず、狩野派の技をなすものに学んだ。」  若冲の若い頃の作品には、狩野派画家の絵を模写したものと思われる絵があります。下に30代半ばの作品とされる 「日出鳳凰図」 狩野探幽筆「桐鳳凰図屏風」 を示します。鳳凰の姿が酷似しています。また、狩野派の画家に学んだといわれる 大岡朴 (しゅんぼく)の編集した絵手本集 「画本手艦」


左:若冲「日出鳳凰図」ボストン美術館      左:若冲「馬図」個人蔵
右:狩野探幽「桐鳳凰図屏風」(部分)      右:大岡春卜編「画本手艦」所蔵
   サントリー美術館蔵               秋月等観「野馬」部分 龍谷大学図書館蔵




 前述したのは、春卜の手本集にある絵から学んだのではないかというだけのことですが、若冲は直接春卜から学んだのではないかという説もあります。江戸後期に編纂された 「扶桑名画伝」 「(若冲の)初メノ名は春教」 とあります。春卜の弟子には「春×」という名の弟子が多かったことが分かっていますので、初め 「春教」 「続諸家人物誌」 の「若冲」の項には「初名春教、幼ヨリ画ヲ好ミ、大岡春卜二学ブ」とあるのも、春卜の弟子説の根拠になっています。家が裕福だったので、師をつけるのも経済的には難しいことではなかったはずです。

 こうやって狩野派の絵を学んだ若冲ですが、やがて 「獲得した技法は、狩野家の法に過ぎない」 と行き詰まりを感じるようになります。そして次にとった行動は、 「宋元画を学ぶ。千点を模写した。」  中国画に学ぼうとしました。前にも述べましたが、こんなにたくさんの中国画を模写できたのは、それらを所蔵する社寺に志納金を払う経済力があったからです。明確に中国画を模写したと分かる作品があります。下に若冲筆の 「白鶴図」 と中国・明代の画家・ 文正 筆の「 鳴鶴図」 を示します。2羽の鶴の姿が非常に類似しています。


若冲筆「白鶴図」若冲38歳頃           文正筆「鳴鶴図」(重文)中国・明代
個人蔵                      相国寺蔵





 ですが鶴以外は大きく異なっています。 土坡 (どは)(地面に当たる部分)の松の木の表現や、青海波(せいがいは)に波しぶきを加えた表現が若冲独特のものになっています。文正の絵は 相国寺 所蔵です。一方、若冲の「白鶴図」は若冲38歳の頃の作品といわれており、大典顕常と知り合った後ですから、大典と知遇を得たことで、この絵を模写できたと想像できます。

 直接中国の絵に学んだ訳ではないですが、中国画を学んだ日本人画家に学んだと思われる作品もあります。下に若冲筆 「牡丹・百合図」 鶴亭 (かくてい)筆 「牡丹綬帯鳥図」 を示します。


若冲30代前半「牡丹・百合図」                 鶴亭「牡丹綬帯鳥図」
慈照寺(銀閣寺)                        神戸市美術館





 江戸絵画史で紹介しましたが、江戸時代中期、日本に招聘されて三都の画家に大きな影響を与えたのが、中国(清)の画家・ 沈南蘋 でした。長崎に滞在した沈南蘋に学んだ画家の一人が 熊斐 (ゆうひ)です。長崎黄檗宗の僧であり、画家であった鶴亭は、この熊斐に絵を学びました。下の若冲の絵を見ると、特に木の幹の描き方が、鶴亭のそれに酷似しており、若冲は熊斐の絵に学んだのではないかと考えられます。間接的にではありますが、若冲が中国画に学んだ例といえるでしょう。


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最終更新日  2021/05/24 12:00:16 AM
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