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岡本は窓の外に向けていた視線を文次郎に向けなおすと、姿勢を正しながら言った。「向井隊長、私は何が出来る?・・・ここにたどり着くまでいろいろ考えていたんだが、朝鮮がこうなってしまった一因も私が判断を誤まってしまったという責任もある。今の朝鮮の状態を少しでもよくしたいと思っているんだ」「岡本参事官、良くぞ決心なさいました・・・我々は今、朝鮮の有志と独立のためにどうしたらいいのか、皆で考えながら活動しています。今緊急の課題は罪もない朝鮮の人々がシベリアへ連れて行かれていることです。まずこれを何とかしないと」「向井君・・・まず、とかじゃダメだよ・・・一気に体制を変える事を考えないと、逆襲されるぞ。今までの朝鮮の大臣達の権力争いのひどさ、知っているだろう?・・・隙を与えるとどんな汚い手を使っても既得権を守ろうとする」「・・・そうですね・・・」「わしは捨石になってもよい、今の大臣達を一掃する手を考えなければいかん」「・・・・」「何を考えているんだ?」「岡本さん」「なんだ?」「実は若狭総隊長から手紙が来ました」「えっ?若狭から?生きていたのか・・・」「はい高宗と一緒にいるようです」「あの麻浦の騒動でなくなったと聞いていたんだがな・・・あの頃はわしも大院君と組んでよからぬことばかり考えておったよ」「高宗と一緒にロシアに連れて行かれ、今はキエフという町で高宗と一緒に軟禁されているようです」「そうか・・・それなら帰ってこれる日も近いな」「そうなんですか?手紙にもそのようなことが書いてありました」「そうだろう、ロシアは近いうちに内乱が起こる、朝鮮どころではなくなるはずだ」「内乱ですか?」「そうだ、ニコライの力が完全に衰えてきておる」「それが本当ならシベリアに朝鮮の国民を行かせる必要はないんじゃないですか?」「その通り・・・たぶん朴大寿などが私腹を肥やすためにロシアに言われたと称して、ロシアの人身売買組織に国民を売っているんであろう」「ひどい話だ・・・・」「この国は、そういうことがまかり通る国なんだ」 岡本は忠清道・論山の山中の村に滞在中、部下を日本に行かせて朝鮮周辺情報を仕入れていたようである。 岡本が生き残る為に仕入れていた情報が、文次郎にとっても有意義な情報だったのである。 文次郎は岡本に若狭隊長からの手紙の内容を話し、今ウニョン宮に書簡を探しに行っていることも話した。 岡本も、仕入れたロシア情報・清情報を文次郎に伝え、善後策を話し合った。「父上!手に入れました」 健一郎達が三人揃って帰ってきた。「おお!」「これです、この二つです」 二通の手紙はすべて漢文で書かれ、いかにも両班が書いた文だった。 健一郎はハングルも漢文も読める。「父上、はっきり大院君が指示を出しています・・・これは大きな証拠になりますよ」「そうか、ご苦労だった」 文次郎は趙本起と河鐘文にも声をかけ、次の指示を出した。「さっそくだが、開城に行って松都商団を探してきてくれ」 河鐘文が聞いた。「誰を探せばいいの?」「松都商団の全忠一だ、ここまで連れてきてくれないか?」「わかったよ!」つづく
2010年05月29日
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岡本が風呂から上がってきて、文次郎が用意した水を飲むと大きく伸びをしながら言った。「あ~生き返った気分だ、体中のアカが落とせたよ、向井隊長ありがとう」「いえ、気分が好くなられてよかったです」 文次郎と岡本は部屋の中から外の景色を見ながら話し始めた。「もう20年近くになる、この国にはじめて来てから・・」「岡本さん、もうそんなになるんですか?」「そうだ・・・一旦日本に戻ったんだ・・・これでもあの頃は私も優秀な官吏だったんだよ。でも井上閣下から朝鮮をうまく日本にとっていい国にするために手伝ってくれと頼まれてな・・・」「そうだったんですか・・・」「正直、一部の人間だけが肥え太っていて、一般庶民は乞食だらけの地獄のような国には戻りたく無かったよ・・・でも、どうせ行くなら朝鮮を変えてやろう、そして自分がいい国に変えてやろうと志を持って戻ってきたんだ」「・・・・」「それが井上閣下には野心を持っていると思われたみたいだな・・・まあ、私自身もその思いを隠せないほど気持が焦っていたんだろう・・・まず、朝鮮の上の人間に取り入って自分の意見が朝鮮の政策に少しでも取り入れられるようにしようと考えた」「私たち護衛官の間でも、岡本参事官の評判は良く無かったですからね」「ワハハ!・・・そうか・・・わしは気が付かなかった、それだけ周りが見えていなかったんだなぁ~、その結果がこれだよ」「ところで王妃暗殺に関わった経緯は?」「大院君の側近の全明鋪から話が来たんだ」「全明鋪って、あの悪名高い・・・」「そうだ、大院君と一緒に処刑された奴だ」「なんと言ってきたんですか?」「このままだと王妃が朝鮮をロシアに売り飛ばしてしまう、その前に王妃を排除する事になった、手を貸してくれ・・・という話だったな」「それに乗っかった・・・ということですか?」「うむ、自分たちは火力がない・・・つまり鉄砲をうまく操る人材がない、そこを補って欲しいという事だった」「なるほど・・・」「だが実際事が起こると大院君側は見ているだけで何もしない、王宮に一番に突入したのは我々だ、王妃がいた交泰殿の前に真っ先に到着したのも我々だ・・・だから俺が主導したと思われているんだろうな」「それで?」「交泰殿の前で待っていると、朴大寿が30人ほどの手下を連れてきて我々を無視して交泰殿に入っていった」「岡本さんは?」「わしはあいつらが王妃を連れてくるのを待っていた、まさか殺すなんて思ってもみなかった、王妃をどこかに幽閉して廃妃する方向に持っていくのだと思っていたんだ」「そうでしょうね~国母ですからね、王妃は・・・」「そうなんだ、我が国で言えば皇后陛下だ、まさか・・・」「で?」「あいつらは片手で引きずりながら王妃を交泰殿の庭まで引きずり出すと、袈裟懸けに切って捨て王妃を裸に剥き始めたんだ・・・そして50本ほどの木を組んで火をつけた」「そんな・・・」「わしが唖然としていると朴大寿が、わしの元にやってきて”やっと恨みが晴らせました、殺す前に殴り倒してやりましたよ”と言いおった・・・わしは背筋が寒くなったよ」「王妃は?」「庭で切られた時は、もう人間の形じゃなかったな・・・」「なんと・・・・」「わしは、その足で大院君のところへ行くと大院君も上機嫌だった。その場で大臣に指名されたんだ」 岡本の栄華は長くは続かなかった、日本人が高官になったことに大院君の手下達が快く思わなかったのである。 岡本に対する讒言が大院君の下に多く寄せられ、大院君が岡本を遠ざけようとした時にロシアが牙をむいてきた。 大院君に遠ざけられていた事が、逆に岡本にとっていい結果になった。 ロシアの取調べが始まると、朴大寿は自分が助かるように、今まで散々世話になった大院君を裏切り、自分が主導してやったこともすべて大院君に責任をなすりつけた。 朴大寿が自分を守ることに汲々としている間に、岡本は忠清道まで逃げる時間ができたのだ。つづく
2010年05月28日
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第4章 ロシアへの逆襲 君子に戻った文次郎のもとへ意外な人物が尋ねてきた。「岡本参事官じゃないですか?・・・どうされたのです?」 岡本参事官は着の身着のまま、何日も風呂にも入っていないようで悪臭を放ちながら放心したように椅子に腰掛けている。「向井隊長か?」 岡本はドヨンとした目を文次郎に向けながら、のそっと立ち上がった。「お前から見たら私はとんだ道化師だな・・・散々利用されて用が済んだらお払い箱だ」「しかし・・・参事官、いつ朝鮮に?」「私は日本に帰らなかったのだ、大院君に一杯食わされたよ」「というと?」「お前も知っておろう、王妃を殺めた事を」「はい、参事官が一枚噛んでいるだろう事も、うわさで・・・」「そうか」「はい」「私の私兵を使って、大院君に助太刀したのは本当だ・・・だがな・・・大院君が処刑されたあと、わしも命を狙われたんだよ」「朴大寿・・・ですか?」「その通りだ」 岡本は王妃暗殺に関わった後、大院君から南山の東に邸宅と奴婢を10人与えられ、大院君執政時には経済顧問として大臣級の暮らしを与えられていた。 しかし、ロシアが実権を握り大院君が処刑されると、素早い変わり身を見せた朴大寿に讒言され、内禁府の兵士が岡本を逮捕に来る直前に忠清道の論山という町に逃げていたのである。 論山ではハングルを教える寺小屋にもぐりこみ何とか糊口をつないでいた。 そんな岡本の元へ、朝鮮南部に行っている金承宣が日本人らしき人物が論山にいるらしいという噂を聞き、接触を図ったのだ。「お前の仲間の金承宣が、黒田大佐の指示だという事でお前に会いに行けと言ったらしいのだ、お前がやろうとしている朝鮮独立を助けるようにと・・・わしに何が出来るかわからんが・・・」「そうだったのですか、でもここがよく分りましたね」「金承宣から君子だということは聞いていた、君子くらい中心から離れた場所に拠点がないとまずいという事ぐらいはわしにもわかる・・・しかし君子からまだ北の中谷とは思わなかったがな」「金承宣から聞かれたのですね」「そうだ」「岡本さん、もう野望は捨てたのですか?」「野望?・・・こんな状態じゃそんなこと言ってる場合じゃないだろう、今は日本が朝鮮を助けてロシアの影響力を無くすようにすることしか考えておらん、それがわしが朴大寿に借りを返すことになるからな」「岡本さん」「なんだ?」「大院君が王妃暗殺の指令を出したこと、詳しく話してください」「わしは直接聞いたわけではない、しかし大院君がロシアに近づいた王妃を亡き者にするために、当時清の大連にいた袁世凱に渡そうとしていた書簡があるということは聞いている」「それだ!それが・・・」「それがどうした?」 文次郎はちょっと興奮した口調で岡本に言った。「岡本さん、それが我々の手に入ったらどうなります?」「そりゃあ、その書簡があったら今の大臣たちは震え上がるだろうな・・・今の大臣のほとんどが大院君の勢力の残党だからな」「やはりそうですね・・・」「手に入りそうなのか?」「まだ分りません、でも・・・何とか手に入れなくては」 文次郎は岡本に、風呂にでも入ってゆっくりくつろいでもらうよう促し、健一郎と趙本起を呼んだ。「健一郎」「はい、準備は出来ています」「大丈夫か?」「はい、これから私と本起、それと河鐘文と3人で行ってきます」「河鐘文?」「はい、歳は下ですが我々の中で一番足が速くてすばしっこいのです」「よし、では行って来い。大事な仕事だ、ぬかるなよ」「任せてください」 そう言うと3人は部屋を出て行った。つづく
2010年05月26日
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「皇帝陛下」「向井さんじゃないか?どうしたんですか?」「皇帝陛下、なにか息子さんが・・・」 文次郎はそう言いながら頭を振りながら合図を送った。「そうなんだ、皇太子はロシアに行く事になった。これは向井さん、あんたのせいだ・・・」 イ・チェミョンは文次郎の顔を見ながら、目で外に出ようと合図しながら手のひらに”慶熙宮”と書いた。 文次郎はうなづくと・・・「皇帝陛下、私の話に聞く耳を持たないならけっこうです、失礼します」 と、言いながら指で”6”と書き外に出た。 あうんの呼吸で、慶熙宮で6時に会おうと合図をしあったのである。 徳寿宮には皇帝を監視する内官がたくさん配置されていて、話が朴大寿に漏れないよう二人は大事をとって別の場所での待ち合わせをしたのである。 慶熙宮はイ・チェミョンの義理の母の大妃が住んでいて、大院君の霊を弔うため毎日夕方イ・チェミョンが通っているので待ち合わせをしても不思議に思われない。 文次郎は徳寿宮の正門から出た後、景福宮の光化門方面にしばらく歩き、大きく迂回をして慶熙宮に向かった。 6時前には慶熙宮に行って、書壇裏に隠れていなければならない。 イ・チェミョンは慶熙宮に着いた後、いつものように大院君の位牌にお参りをした後、御付の内官に言った。「書壇で調べ物がある、母上と一緒に静かな雰囲気で探したいので、ここで待っていてくれ」「大妃とご一緒なのですな、では私が大妃を呼んで参りましょう」「そうしてくれ、私は先に書壇で待っておる」「わかりました」 イ・チェミョンは書壇に入ると文次郎を呼んだ。「向井さん、あんまり時間がない、どうした?」「皇帝陛下、高宗さんから手紙が来ました」「なに?弟から手紙が?」「はい」「どこにいるんですか?弟は?」「ロシアのキエフという町です・・・高宗さんからの指示がありました」「なんと?」「はい、大院君の住んでいたウニョン宮に、閔王妃殺害に関する文書と東学党の乱を大院君が主導した証拠があるらしいのです」「では・・・」「はい、それがあれば朴大寿を失脚させることが出来ます」「うむ・・・悟られずにやれるんですか?」「はい、すでに調べ始めています」「そうか、うまくやってくれ」「はい、それから・・・近いうちに高宗さんが戻ってくる可能性が・・・」「本当ですか?本当ならこんなうれしい事はない」「その為にも手紙に書いてあることをしっかりやり遂げねばいけません」「私は何をすればいい?」「皇帝陛下には我々が証拠を手に入れたら、何らかの方法で合図を送ります、それまでにロシアの内部事情をなんでもいいですから手に入れてください。きっと役に立つ時が来ます」「よし、わかった」 イチェミョンが答えると同時に書壇の外から人が近づきながら話をする声が聞こえてきた。 文次郎とイ・チェミョンはうなずきながら黙って別れた。 文次郎はイ・チェミョンと別れると、人ごみに紛れるためウンジョン街と呼ばれる鐘路を抜け、東大門を通り過ぎ君子へ急いだ。つづく
2010年05月24日
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「健一郎!」「はい、父上」 文次郎は息子の健一郎に、若狭重伍からの手紙の内容を説明した。「父上、高宗さんも総隊長さんもお元気そうで何よりですね・・・この話を私になさるという事は?」「うむ、お前の仲間の中で一番すばしっこくて口の堅いのは?・・・趙本起だろう?」「そうですね、ウニョン宮への侵入ですね・・・私たちが後方支援すれば・・・さっそく選抜隊を組んでみます」「そうしてくれ、ウニョン宮は今では廃墟のようになっているが油断は禁物だ、定期的に巡回の警備もいるようだからな」「わかりました、さっそく2~3人で偵察に行かせます」「頼んだぞ」「はい」 文次郎は息子に指示を与えると、皇帝であるイチェミョンに会いに行くため王宮に使用されている徳寿宮に向かった。 ロシアが朝鮮半島の実権を握るまでは、王宮は大院君によって再建された景福宮であったが、ロシアが実権を握ったあとはロシアの領事館横にあった徳寿宮に王宮機能が移された。 イチェミョンなどは徳寿宮が狭すぎるため、王宮機能の移転に反対したがロシア側に強引に移されたのである。 今では景福宮はロシアに魂を売った大臣達が政治を行う場になっていた。つまり皇帝であるイチェミョンの許可を得ずにやりたい放題の政治を行っていたのである。 文次郎が徳寿宮の前まで来ると、なにやら門の前が騒がしい。「陛下(チョーナー)お顔を拝見させてください」「陛下、アイゴー、おいたわしい」 文次郎は門の前に集まっている一人に聞いた。「どうしたんですか?何かあったんですか?」「陛下の息子がロシアに連れて行かれることになったんだよ、それを聞いて皇帝陛下がかわいそうで・・・一緒に嘆いてあげるために来たんです」「えっ?息子さんが?」「なんでも皇帝陛下がロシアの言う事をあまり聞かないから息子を人質に取る事になったらしい・・・それもあんた、ロシアに提案したのが皇帝陛下のお父上に一番世話になった朴大寿という事が腹が立つじゃないか、あいつは恩をあだで返すひどい奴だよ」 文次郎は気が付いていた。 朴大寿はイチェミョンと文次郎にやり込められた腹いせに今回のことをたくらんだのだろう。 朴大寿は正しく政治を行うためにロシアと交渉するのではなく、私憤を晴らすために政治力を利用する最低の男である。 そもそも社会の事や政治についてきちんと勉強もせず、大院君が行ってきた事のうわべだけ見て、いきなり権力を持ったのであるから朝鮮の人はその不幸を嘆くしかない。 文次郎は裏門のロシア領事館側に回り、イチェミョン側の顔見知りの門番に声をかけた。「皇帝陛下はおられるか?」「はい、こちらへどうぞ」 文次郎は裏口から徳寿宮の中に入り、イチェミョンの元へ急いだ。つづく
2010年05月23日
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「相当遠い場所に連れて行かれたんだなぁ~」「文基さん、私はペルシャなんてどんな所か想像もつきません、知っていますか?」「いや、私も知らない。私も朝鮮に来て10年以上だ、日本がどのように変わっているのかもあまり知らないんだ」「文基さんでも知らない事があるんですね」「知らない事だらけだよ、世界は広い・・・日本だ朝鮮だと視野の狭い事を行っているから、ロシアに付け込まれるんだ。フィリピンやインドネシア、ベトナムなんかも欧米の植民地になっている、このまま我々が自立できないと日本も朝鮮も未来は暗いよ」「文基さん、それで・・・手紙にはなんて書いてありますか?」「うむ・・・」 文次郎が手紙を読み始めた。 紙質が悪く、しかもこちらに届くまでに雨風に晒されたらしく読みにくい手紙であったが、手紙一枚の文字数が少なく何とか解読できる手紙であった。~~~ 文次郎君、我々は麻浦から一旦バイカル湖という名前の湖の近くに連れて行かれたんだが、今は比較的温暖なキエフと言う町にいる。 なぜモスクワでないのか、最初は分らなかったが今は情勢が断片的だが入手できているので分ってきた。 今ロシアは王族のニコライ2世と新興貴族の対立が激しくなっている。 ロシアは民衆の暮らしが苦しく、新興貴族たちは庶民の暮らしが苦しいことを理由に、社旗制度を変えようと動き始めているらしい。 最近では我々に対する監視も以前に比べると甘くなってきており、我々が朝鮮に帰る日もそう遠くないだろうと考えている。 そこで文次郎君に頼みがある、今の朝鮮の状況をこちらに知らせて欲しい。 この手紙を託した開城の”松都商団”の全忠一に頼んでくれれば、こちらに届けてくれる算段になっている。 君たちもいろいろ困難な状況である事は理解しているが、何卒くれぐれもよろしく頼む。 そして高宗さんからの伝言だ。 これは朝鮮高官に悟られないように動いてくれ。 高宗の父親が住んでいたウニョン宮の書堂の倉庫に、閔王妃が殺害された時の大院君の指示を裏付ける書面があるそうだ。 そして全羅道で広がった東学党の乱を大院君が扇動した証拠があるらしい。 大院君の権力欲はそれだけ大きかったと言う事だ。 いままで高宗はそれをあることは知っていたが、自分の父親を貶める事になると公表する事を躊躇していたのだが、自分がこのような状況に置かれしかも大院君が処刑されたと聞き、残されたお兄さんが窮地に追い込まれているならと教えてくれたのだ。 もし、今の朝鮮王朝が王権をないがしろにしたひどい状況なら、きっと大院君の残党達が朝廷を牛耳っているであろう。 そうであれば高宗が教えてくれた情報は非常に意味を持つ。 文次郎君なら、その証拠を使って日本にとっていい状況になるように、いや朝鮮の人々にとって良くなるように動いてくれるだろう。 こちらにも朝鮮の民が何千人もロシアのシベリア開発に借り出されていると聞こえてきている。 キエフの人たちは、シベリアなど人の住める所ではないと言う。 きっと朝鮮の一部の大臣達が私腹を肥やし、庶民が苦しめられているのであろう。 君なら我々の期待に応えてくれると信じている。 よろしく頼むぞ、健闘を祈る。 向井文次郎殿 若狭 重伍 拝~~~「鉄圭さん、これは忙しくなるぞ」「そうですね、さっそく私がウニョン宮に忍び込んできますよ」「いや、この仕事は趙本起たちのグループの誰かに任せよう、健一郎を呼んでくれ」「では・・・」「うむ、まずその書面を手に入れてからだ、鉄圭さんは高宗さんに送る手紙を書いてくれないか?・・・私も若狭隊長に送る手紙を書く」「では松都商団の全忠一に連絡を取っておきましょう」「そうだな、3日くらいで手紙を書き上げて、彼に託そう」「はい、わかりました」つづく
2010年04月25日
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「父上、心配しました、大丈夫ですか?」「健一郎、ワシは大丈夫だ・・・李完用さんはだいぶん痛めつけられたからちょっと心配だが・・・」「父上が内禁府に拘束されたと聞いて、仲間たちと助けに行こうかと相談していたのです」「皇帝陛下が助けてくれたんだ、あの人も高宗と同じでちょっと意思の弱い所があるが、根は真っ直ぐな考えを持った人だということを知ったよ」「そうですか・・・まあ父上が無事帰ってきてくれたので安心しました」 向井文次郎は健一郎を伴って朴鉄圭へ会いに行き、今後の行動を相談した。「文次郎さん、いや文基さん、お帰りなさい、大活躍だったそうで・・・」 朴鉄圭がにやりと笑う。「ハハハ!、鉄圭さんも経験してみるかい?なかなか熱烈な歓迎だったよ」「いや、私は遠慮しておきますよ、痛いのは大の苦手なんで」「ワハハハ!」「文基先生、おかえりなさい!」 趙本起と李大成がやってきて、満面の笑みを浮かべながら挨拶した。「ゴン、お前のお父さんはすごい人なんだなぁ~、鉄圭先生からいろいろな話を聞いたよ、今回も李完用先生を武力を使わずに開放させたもんな・・・すごいよ!」 健一郎は仲間からゴンと呼ばれている、健一郎の”健”という字をハングル読みすると”ゴン”になるからである。 健一郎の仲間たちは今の政府側から見ると、ある意味若手の愚連隊のような存在だが、まとまりがなかった集団が今回の文次郎の行動で、暴力だけではいけない勉強しながら次に備えていくと言う考えが芽ばえ始め、文次郎と朴鉄圭を中心により結束が高まったようである。 この集団は後の歴史で”ムグンファ青年団”と呼ばれ、朝鮮独立時に大活躍をし、じっと耐え忍び行動を起こす時は大胆に、一致結束して動くと評価された。 「文基さん、ところでこれからどうする?」「うむ、ロシアから何か情報は入っていませんか?」「あっ、これが・・・」 朴鉄圭は、一番奥にある行李から一通の手紙を文次郎に渡した。「これは・・・」「そうです、王様・・いや高宗様とロシアに行った若狭さんからの手紙です、私は日本語がわからないので・・・」「なに?若狭隊長から?」 その手紙は便箋7枚にも及ぶ物であった。~この手紙が文次郎君に無事届く事を祈る~ と言う書き出しで始まる手紙には、ロシアでのこの3年間の生活の様子や、朝鮮のことを気にかける高宗の事、そして朝鮮で文次郎達にやってもらいたいことなどが綴られていた。「鉄圭さん、この手紙はどこからここへ?」「ロシアへ行商に行っている、開城の商団員がキエフと言う町で東洋人風の人に渡されたと・・・朝鮮語を話したが、ぎこちない話し方だったので朝鮮人では無さそうだ、と言っていました」「間違いない、若狭隊長だ・・・キエフ・・・どこにあるんだろう?その町は・・・きっとそこに皆いるんだろうな」「商団員に聞くと、大きな砂漠の北にある町だそうです。その町に行くには朝鮮から3ヶ月以上かかると言ってました。清よりペルシャという国に近いと・・・」「ペルシャ?そんなところから・・・」つづく
2010年04月24日
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白信起がピストルで腹を撃たれ苦しんでいる姿を横目に、朴大寿はイチェミョンに言い放った。「お坊ちゃま、大院君はもうこの世にはおらんのですよ。いつまでお坊ちゃまのおつもりなのですか?・・・いいですか、我々は今まであなたのお父上に受けた恥辱をこれから晴らすのです」「おのれ、父上から受けた恩恵を恥辱だと申すのか?・・・常民であったお前が両班でもないのに今の地位にいられるのは父上のおかげであろう。盗人猛々しいとはお前のためにある言葉だ」「ハハハ、何を甘っちょろい事を申される?・・・やはりお坊ちゃまはお坊ちゃまだ。私が今あんたを殺しても誰も私をとがめる事など出来ないんですぞ、状況を考えなされ」「ムムムムム・・・とにかく早く白信起の手当てをせよ」「こいつはもういけません、手当をしても無駄ですよ」 朴大寿はそう言い放つと、おもむろに白信起に近づき、もう一度ピストルを撃った。 その一部始終を見ていた向井文次郎が一言つぶやいた。「救いようの無い状態だな。ロシアに支配されるとこんなことがまかり通るのか?・・・ハハハ!・・・もう笑うしかないわ、国家としての体裁さえ失ってしまっておる。世界を見渡してもどこの国に国家元首がこのような扱いを受けている国があるというのか?」 その呟きを聞いたイチェミョンは朴大寿に向かって毒づく。「向井殿、朝鮮はもう終わりです。こいつらが最後の最後まで欲の限りを尽くし朝鮮から富を奪い去り、終わってしまいますよ」「お坊ちゃま、人聞きが悪いですな・・・我々は今までの働きに対してもらうべき物をいただいておりませんでしたから、これから頂戴するだけでございますよ・・・それに向井とかいったな、お主自分の置かれておる立場が分っておらぬようであるな?・・・私の一存ですぐあの世に行く事になるんだぞ!」「朴大寿よ、わしを殺せるものなら殺してみよ。その後どんな事になるのか、あんたの視野の狭い頭では想像もつかないだろうがな!・・・これはわしだけではない、皇帝陛下にとってもそうだ。ロシアが本格的に介入してきた時、今わしらに対してやっていることは必ず問題になる。そうなったらあんたは間違いなくロシアに処刑されることになるぞ」「何を寝ぼけた事を言っておる?ロシアがお主たちの肩を持つわけが無いであろう」「あんたに国際的なバランスの話をしても仕方がなかろうと思うが教えてやる。ロシアも国の中が今ぐらついているんだ、ロシアが朝鮮半島の全面制圧に動き出すとアメリカやヨーロッパ、我が国日本が黙っておらん、ロシアも力だけで朝鮮を征服する事はできんのだ・・・あんたの後ろ盾になっておるロシアは、あんたが思っているほど強い国ではなんだ・・・いいか?よく考えてみろ、ロシアがアメリカなどから干渉されて事実関係が分った時、ロシアが生贄として差し出すのはあんた達という事になるんだ」「???」「その事態を防ぐことが出来るのは、第三者的に朝鮮にいる我々と皇帝陛下だけなんだ」「なぜ?」「国際的には国家元首である皇帝陛下の言葉は重んじられる、そして我々他国の人間の言葉もだ・・・当事者であるあんた達の言葉は信憑性が無いと判断される事になるんだ」「ますますわからん・・・どういうことだ?我々が生贄とは?」「このあと今の混乱が世界の知る所になって、数々の事件について調査される事になるだろう、ロシアの引き起こしている事もだ・・・シベリヤへ多くに市民が連行されている事がばれてみろ、ロシアは国際社会から相当な非難を浴びる、そうなった時に責任をあんた達になすりつけてロシアは逃げ切るしかないんだよ」 朴大寿は向井文次郎の話を聞き、あわてて尋問場から出て行った。 向井文次郎はイチェミョンと李完用に話しかけた。「これで大丈夫でしょう、あいつらの仲間にも今の話を理解できる人物はいるでしょうから・・・早ければ今日中にも解放されると思いますよ」「向井殿、ありがとう」 イチェミョンが言う。「いえ、礼には及びません・・・礼を言うのはこちらです皇帝陛下・・・あいつらに私の意見を言うきっかけを作っていただいて・・・ありがとうございました」「我が民族にも向井殿のような奥ゆかしい人物がいない物か?なぜ自分勝手なやつしかおらんのだ?」「皇帝陛下、ここにいるじゃありませんか、有能な家臣が・・・李完用さんは素晴らしい見識を持っていますよ」「私は多くの人材を見落としてきているのかもしれないなぁ~人を見る目も皇帝としては大事じゃ、弟の方が皇帝に向いておったのに・・・・・」「皇帝陛下、あなたの弟さんは必ず生きていると思います、あなたのお父上の謀略でロシアに連れて行かれていますが、きっと戻っていらっしゃる時が来るでしょう」「そうであろうか?そうであればうれしいが・・・」 朴大寿と文完元が連れ立って尋問場に入ってきた。「この者たちを解放しろ」 二人が内禁府の兵士達に指示を出した。 向井文次郎の説得が功を奏したようであった。つづく
2010年04月04日
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昨日、やっと自宅に帰り小説の続きを書ける状態になりました。この一ヶ月立ち上げに頑張ってきた「関西空港・韓情館」も予想以上の来客でいい状態のまま同僚に任せることが出来ました(といっても度々関空には行く事になりますが・・・) マスコミにも多く取り上げていただき、上々の滑り出しになりましたがお客様の期待を裏切らないよう、このブログと共に長く皆さんに支持していただける様に頑張らなくてはと思っています。 応援していただいている皆さん、ありがとうございます。 では次回の更新から本来の小説に戻ります、よろしくお願いいたします。
2010年04月03日
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小説の更新についてのご報告・・・今日からソウル・パジュ・水原に4日間行った後、仕事で1ヶ月間関西空港に出張になります。PC環境が良くない為、しばらくの間更新出来ない可能性があります。今でも更新スピード度は遅かったのですが、3月は更新できない可能性すらあります。大変申し訳ありませんが、気長にお待ちいただければと思います。私といたしましては10日に一度くらいは、インターネットカフェに行ってでも更新したいと考えては居りますが、出張先の状況も不明ですので思うとおりに行くかどうかわかりません。関西空港の事・・・3月6日に関西国際空港ターミナルビル3階に「韓情館・ハンジョウカン」という韓国の商品を扱うお店がオープンいたします。(韓情館とは韓国情報館の略で、繁盛しますようにと言う意味もあります)このオープン準備のため1日から関西空港に行き、3月中はショップに詰めっぱなしになる予定なのです。(パート社員の方々の教育を1ヶ月で行い、私はその後東京に戻る予定です)このブログをごらんの皆様で関西空港に行かれる予定がある方がいらっしゃいましたら、ぜひターミナルビル3階の「韓情館」にお越しください。3月中であれば「”サンキュウ”いますか?ブログ見ています」とおっしゃっていただけましたら割引させていただきます。以上、お知らせとご報告でした。ちなみに明日は敵地ソウルで浅田真央ちゃんはじめ日本選手の応援をしてきます(笑)
2010年02月24日
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イチェミョンは内官を伴い内禁府に向かった。勤政殿を出て内禁府に向かうと近衛兵が10人ほどイチェミョンの行方をさえぎる。「お前達、皇帝陛下に失礼であるぞ!」「陛下、どちらに行かれますか?」 近衛兵の責任者らしき男がイチェミョンに尋ねる。「馬鹿者!お前達が誰何できるお方ではないわ!本来なら正3位以上の大臣でないと声もかけられないお方である、失礼にもほどがある」「まあよい、内禁府に行くのだ。道を空けよ」「陛下、申し訳ありませんが文完元内務大監の許可がないとここは通れません」「なんと!この国の皇帝陛下は誰だか分っておるのか?無礼にもほどがある!どけ、そこを!」 内官の白信起がイチェミョンを通そうと3人の内官に指示を出すと、近衛兵たちは剣を抜いた。「引き下がってください、我々では判断できません」「お前達調子に乗りおって!世が世なら死罪であるぞ!陛下、行きましょう」 内官たちと近衛兵がもめていると、文完元が腰ぎんちゃくの取り巻きを連れてやってきた。「どうしたのだ?何をもめている?・・・あっ、皇帝陛下・・・お前達剣を収めなさい」 内官の白信起が口から泡を飛ばしながら、文完元に食ってかかった。「従1位の大臣が皇帝陛下より偉いのが大朝鮮国か?・・・大監、いい加減になされ!」 文完元は白信起を無視するように、イチェミョンに向いて言った。「皇帝陛下、どちらに行かれますか?」「内禁府だが・・・」「どういうご用件で行かれるのですか?」「朴大寿に会いに行くのじゃ」「わかりました、朴大監なら今ちょうど内禁府にいらっしゃると思います、私がお連れいたします」「うむ」 イチェミョン一行が内禁府の入口まで来ると、中から怒号が聞こえてきた。「この野郎!早く吐け!ウェノムの指示で大朝鮮国を混乱させようとしているのであろう!早く吐いて楽になれ!日本が大朝鮮国を征服する指示があったといえば楽に殺してやる!」 怒号と共にうなり声も聞こえる。「まさか向井文次郎に拷問を加えているのではあるまいな?朴大寿を呼べ!」 イチェミョンが珍しく興奮した面持ちで言った。「これはこれはお坊ちゃま・・・いや、今は皇帝陛下でしたな、何の御用で?」「今何をしておる?」「逆賊を捕らえましたので、自白させている所でございます」「逆賊だと?誰のことだ?」「李完用と向井とやらの日本人が結託して我が国を混乱に陥れようとしました、きっと皇帝陛下を廃して日本が実権を握ろうとしているに違いありません」「そのような事はあるまい、私が尋問するから案内せよ」「お坊ちゃま・・・いや・・・昔のクセが抜けませんなぁ~ハハハ!・・・皇帝陛下がお出ましになるまでも無い事です、我々だけで処理いたします」「わかった、とにかく案内せよ」「おい!皇帝陛下が尋問を閲覧なさる、皇帝陛下をご案内せよ」 朴大寿が内禁兵に声をかけると、隊長らしき兵がイチェミョンの前に来て言った。「こちらへどうぞ」 イチェミョンが尋問場に入ると、李完用と向井文次郎が二人並んで椅子に座らされ、両側にチュリを持った兵が2人ずつ立っている。 李完用はすでに相当な拷問を受けたらしく、血を流しぐったりしている。 イチェミョンは息を飲むほどの状況を見ると・・・「タンジャン ブロジョ!(今すぐ解放しなさい)」 イチェミョンは言うなり二人に近づき縄を解き始める。 朴大寿は内禁兵に目配せをすると、イチェミョンに向かって歩きながら言った。「皇帝陛下、勝手なまねは困りますな・・・皇帝陛下を部屋にお連れしろ!」 内禁兵たちは無言でイチェミョンの両腕を抱きかかえると、建物の中に連れて行こうとする。「おのれ!放せ!」 イチェミョンの声にいきなり気がついたように内官たちが、イチェミョンに走り寄ってくる。 白信起が先頭でイチェミョンの前に出ると、朴大寿がピストルを懐から引き抜き白信起に向けて引き金を引いた。”パーン!” 銃声が鳴り、白信起が崩れるように倒れる。 銃声に誘われるように尋問場に外にいた多くの兵がなだれ込んできた。「これが今の朝鮮か?・・・こんな事は我が父も望んでいた事ではない、あまりにひどい・・・むごすぎる」 イチェミョンはそうつぶやくと、地面にへたり込んでしまった。つづく
2010年02月19日
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向井文次郎が大朝鮮国の一部大臣達の政策会議の場に出席していた。「向井殿、今日はあなたから皇帝陛下に話があるそうだが、まず私たちに聞かせてもらおうか」 大朝鮮国の総理大臣に当る、左政領・李相道が話を始めるように促した。「私が日本から朝鮮に来て早15年が経ちます、その間いろいろな出来事がありました・・・いいこと悪い事たくさんありましたが、今の現状は朝鮮にとっていい状況とはいえません、ロシアに実質支配され朝鮮の民はロシアにどんどん送られています。このままでは朝鮮王国はどんどん衰退してしまいます」「チッチッチッ、そんなことを言っても、もう我々ではどうしようもないではないか、我々はすでに自分たちが生き残る方法を考えておる」「あなた方はそれでいいかもしれませんが、この国に住む民はどうなります?そして民がいなくなったら次はあなた方の番です、そんなこともわからんのですか?李完用さんは正論を吐いた・・・彼に罪はありません」「それは皇帝陛下が決める事である」「だから私の持論を皇帝陛下にお伝えしたいんです」「その持論を言ってみたまえ」「三和論です」「三和論?」「はい、我が国の福沢翁が提唱している話です、すなわち日本・清・朝鮮が一致協力しロシアをはじめとする西洋の勢力に立ち向かえる勢力を作るのです・・・これは李完用さんも共鳴されています・・・彼の考え方は今の朝鮮が生き残るために一番いい方法なのです」「李完用はお主達に騙されておるんだ、そんなことを言って日本だけが有利になる話なのであろう、聞くまでもないな」「日本の国論も三和論が主流派だったのですが、今は朝鮮を見放してしまえ、と言う意見も出てきています。今を逃すともう朝鮮半島をロシアから守る事は難しくなるかも知れません」「朝鮮を守る?・・・なぜそんなに我が国を見下すのだ、我々は我々だけで守れる、余計なお世話だ」「守れていないではないですか!・・・いいですか、国を守ると言うのは国の体制を維持する事ではありません。その国に住む国民に安全な幸せな生活を提供する事なのです・・・今のように朝鮮国民がいつシベリアに行かされ命を落とすかわからない状況は、国がないに等しいのです」「なんと無礼な!国が無いだと?・・・衛士!こやつを捕らえて牢にぶち込め!」「ちょっと待て!本当にこれでいいと思っているのか?・・・自分たちだけが今良かったらそれでいいのか?」「我が国の事は我々が決める、シベリアに行く方が我が国の国民にとってもいい事かもしれないではないか」「そんなわけ無いだろう!死にに行くのがいい事なのか!」「お前も死にたいのか?・・・おい!早く連れて行け!」 向井文次郎は皇帝陛下に会う前に、牢につながれてしまった。 その頃、皇帝になったイ・チェミョンは、内官から向井文次郎が来ていることを聞いていた。 お飾りの皇帝である事をわかっているイ・チェミョンは、向井文次郎に会って日本が朝鮮のことをどう考えているのか聞きたかった。そして今の大臣達を追い出し本当に大朝鮮国にとってよい政策を出してくれる体制を作りたかった。 イ・チェミョンはお飾りの皇帝から本物の皇帝になるように、いろいろと考えをめぐらしていたのである。「皇帝陛下、向井文次郎をお呼びになりますか?」 内官が聞くと・・・「うむ、勤政殿に連れてまいれ」「ハッ!」 大臣達の会議場から戻ってきた内官は、あわてふたむいた様子でイ・チェミョンに報告をした。「皇帝陛下、大変です!」「なんだ?今以上に大変な事があるのか?」「向井文次郎が内禁府に連行されたようです」「大臣達ならそうするだろう、予想できたことだ・・・朕が直接行かなければ行けないな」「皇帝陛下、そんなことをすると・・・」「わかっておる、朕にも手が及ぶと言いたいのであろう・・・しかし内禁府の責任者は朴大寿である、昔から父上の御付をやっていた人間だ、まさか私に害は与えないであろう、では内禁府に参ろう」 つづく
2010年02月14日
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このように朝鮮王朝の大臣達による自己利益の追求が目立っていた。 この頃ロシアからも政府顧問が派遣され、王様は益々形だけの王様になっていた。 健一郎たちの青年義勇隊のほうは、あれから永登浦と果川が加わり総勢300名に達していた。「ゴン、そろそろ朴鉄圭先生との連携を考えたらどうか?」趙本起が言った。「うん、僕もそう思っていた。一緒に私の父上の所に行こう」「ゴン、お前の父親って?」永登浦の李大成(イテソン)が聞いてきた。「うん、今は朴鉄圭さんたちとロシアの支配をどうやったら抜け出せるか考えているんだよ・・・平和的に朝鮮が主権を取り戻すにはどうしたらいいか・・・」「そんなことできるのか?平和的にって血を流さずに・・・と言う事だろう?」「ちがうよ、今の状況では無理でしょ。まずそういうことが出来る下地を作ることをやっているんだ」「下地って?」「朝鮮全土で市民の教育をやっているだろう?」「そんなことが、朝鮮の独立を勝ち取れる事になるのか?」「そうだよ。独立するだけじゃ意味がないでしょ、独立した後ちゃんとした国家の運営が出来る人材を育てておかなくっちゃ!」「そんなの独立できなければ無意味だよ、独立できるかどうかわからないのに真剣に勉強なんかしないよ」 ここで趙本起が二人の会話に割り込んできた。「独立に貢献した人間が実権を取ればいいんだ、そんな難しい事を考えなくても・・・そうしないと誰も独立運動に参加しないよ。独立できた時にいい思いが出来るから頑張れるんだ」「それは違うよ、役割分担をしなけりゃ・・・体を張る人、頭を使う人、みんな得意な事が違うんだから」「ゴン、お前は変わっているなぁ~・・・でも命張って実権を握れないなら俺はお前とは一緒に行動できないぞ」「僕も最初はそう思ってたさ、まずは朴鉄圭さんの所に行こう、あの人たちの話を聞けば分るよ」 君子の北にある中谷部落に、健一郎と仲間になった地区のトップが集まってきた。「先生、お久しぶりです。元気にしていらっしゃいましたか?」 趙本起が、朴鉄圭に深々と頭を下げて言った。「おう、お前は・・・」「本起です、超本起」「お前生きていたのか?」「はい、ロシアが来た時漢江の家から逃げました。でも・・・」「他の家族か?」「はい、ヌナ(姉)が・・・ロシアに連れて行かれました」「順玉(スンオク)が?・・・今どこにいるのかわからないのか?」「はい」 趙本起はあふれる涙をぬぐおうともせずに嗚咽を繰り返していた。「先生、俺くやしいんです。ロシアの連中に何とか俺たちの力を見せたい、俺は死んでもいいからヌナの仇を討ちたいんです」「お前に気持は分かるが、まだ死んだと分ったわけじゃない、それにロシアに対抗するのはまだ時期が早すぎる」「先生・・・」「きっと朝鮮人の時代がまた来る、それまではお前もしっかり勉強して、そのときに備えよ」「はい・・・」「ところで鉄圭さん、李完用さんの救出はどうしましょう?人数的にはもう大丈夫です。どう行動したらいいですか?」「健一郎、お前の父上とも相談したんだが、朴大寿をさらうのは良くない。さらっても李完用を返してくれるかどうかも分らん」「では?」「うむ、お前の父上が大臣達や王様と面識があるんだ」「父上が?」「そうだ、何か方法を考えてみるとおっしゃていた」 つづく
2010年01月31日
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健一郎は河鐘文に手紙を渡し、チャムシルで趙本起の説得に成功したとの内容で伝令に走らせた。 趙本起の説得に成功した健一郎だったが、2ヵ所の青年達だけでは心もとない。健一郎はそう考え次のリーダーがいる町、永登浦に向かった。 その頃朝鮮の朝廷では、大院君の代わりに立てられた名ばかりの王様が大臣達を集め会議をしていた。 この王様、大院君の息子で高宗の兄である完興君、イ・チェミョンという人物だった。 大院君が生前にこの息子に対し「大馬鹿者」「無能」と公衆の面前でののしられていた事が今の王の座につく理由になった。 人生何が幸いするのかわからないと言う典型的な例だ。 こういう事態になっても、朝鮮の朝廷は名目にこだわっていたのだ。本来ならロシアに対抗できる王様を推戴しなければならないのだが、王様の正統性を重んじ高宗の兄、李載冕(イ・チェミョン)を大院君のあとを継ぐ大朝鮮王国の王様とした。 ロシアにとっても気の弱いこの王様は扱いやすく、独立国家の体裁は整えていたが実際はロシアに実質支配されていた。 ロシアのニコライ2世にとって、国内に新しく台頭した新勢力を抑えるためには王家の威厳を示さなければならない。朝鮮半島支配はそのためにどうしても必要な事だったのである。 会議ではロシアの影響力をいかに弱体化させていけばいいのかという話をしていたのだが、朝鮮朝廷の大臣の中にはロシアと内通している大臣達で埋め尽くせられていたので、会議の内容はロシアに筒抜けであった。 大臣たちはライバルをいかに蹴落とすかに夢中で、力の無い王様のことなど眼中になかった。「ところで王様、ロシアの事は置いておいて、李完用の処分どういたしますか?」「今は李完用の話をする時ではないわ!」 総理大臣になった金弘集が王様に迫っていた。「王様、ロシアには好きにさせるしかありません、それより謀反をたくらんだ李完用の処分の方が大切です、私は死罪にすべきかと・・・」「おのれ、それでも大朝鮮国の大臣か?李完用の行動は国を思ってのことである。そんなこともわからぬか?」「李完用の処分を考えませんと、王様も謀反の罪に問われますぞ」 金弘集の言っている事は完全に王様をなめてかかっている発言だ。 朝廷ではこのように、王様の威厳も何もあったものではなかったのだ。 王様が会議から退席した後の大臣の発言はもっとひどかった。 まず金弘集が口火を切った。「そろそろロシアに働きかけて王様を退位させるべきではないか?」「そうだ、我々の意のままになる人物がいい」「民に教育を受けさせるなどと、たわごとを言い出さない王様がいいですな、民が知識を持つとろくなことがない」「そのとおりだ、しかしハングルなど女子供の文字を教えている連中がいるとか、お笑いですな」「そんな連中がいるのか?」「ドゥフタノフの郊外の書院で子供を集めてハングルを教えている連中がいるらしいですぞ、ハングルなど覚えてもすぐロシアの言葉を覚えなければならない、馬鹿な連中です」「あんな大昔に作られ、誰も使っていない文字を覚えようとは、酔狂な連中だ・・・そんな連中はほっておいて、ドゥフタノフ殿下から指示されている若い男千人と若い女五百人はどうした?」「西大門の新しく出来た独立門近くに集めております」「そうか、今回の報酬は?」「金100斤と銀300斤です、次回の三千人はもっと弾むといっていました」「ワハハ、皆で分けても一人頭相当あるな、これからもロシアには協力しなければならんな」 この期に及んでも朝鮮の大臣たちは自己の利益しか考えていなかったのある。つづく
2010年01月24日
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健一郎は河鐘文を連れて蚕室(チャムシル)に向かった。 この時代の蚕室は文字通り、一面の桑畑が広がり蚕を飼う小屋があちらこちらに点在していた。「鐘文、ちょっと先に行って趙本起を探してきてくれないか?」「いいよ、じゃあ三田渡の河原で待っていて」 三田渡の河原とは、漢江に合流する支流の小さい川の河原のことだが、朝鮮にとっては屈辱的な場所でもある。遠い昔の1600年代の半ば、この地で当時の朝鮮の王・仁祖が清に敗北し清への隷属を約束させられた場所なのである。 しかも清の皇帝はこの地に石碑を建てることを要求した。この石碑も2年前大院君が政権を握った時、漢江の支流の川に投げ捨てられていたが・・・ 健一郎がその石碑の近くの河原に腰を下ろし鐘文を待っていると、鐘文と一緒に3人が駆け足で健一郎のもとにやってきた。「お前が君子のゴンか?」「そうだけど」「まだ子供じゃないか?」「もう14歳だよ、日本じゃ立派な大人だ」「お前、日本人なのか?じゃあ大将には会わせられないな」「俺は2歳の時朝鮮に来てもう12年になる、朝鮮のことが好きなんだ、何とかしたいんだよ!大将に会わせてくれ!」「何言ってんだ?生意気な奴だな、朝鮮のことに日本人がクビを突っ込むな!痛い目にあいたいのか?」「大切な話なんだ、趙本起に会わせてくれよ」「わからん奴だな」 健一郎と話をしていた青年がいきなり健一郎に殴りかかってきた。健一郎は身軽に身をかわすと河原に落ちていた木の枝を握り正眼に構えた。「おっ、お前剣術をやるのか?おもしれ~そんなガキの遊びで俺様がやられるもんかよ」 そう言うなり再び健一郎に向かってきた。 健一郎は相手の動きを見極め、一発で戦意を無くすようにする為、相手の眉間を狙って木の枝を振り下ろした。「あっ痛い~、血が出てるじゃないか?まいった、なかなかやるじゃないか」「俺はケンカしに来たんじゃないんだ、李完用を陥れた大臣を懲らしめようと思って相談に来たんだ」「えっ?うちの大将と同じ事言ってら~・・・本当に変わった奴だな、何も朝鮮の事にクビを突っ込まなくてもいいのに、よしわかった。大将の所に連れて行ってやろう、でも覚悟しておけ、俺よりもっとキツイぞ、うちの大将は」 河原から10分ほど西に入った集落の竹やぶの近くに朽ち果てそうなあばら家があった、ここが趙本起の拠点の住処であった。 趙本起は白丁(ペクチョン)の出自で、言わずと知れた身分制度の最下級である。主に屠殺や革のなめし、処刑された罪人の処分などを生業とする身分だ。 最下級とは言いながら白丁のすぐ上の階級の賎民で、両班の私奴婢や官奴婢の立場より考えようによってはマシな立場であった。 この時代になると売官行為が横行し、両班の身分をお金で買えるようになっていたが、それも白丁の身分ではかなわぬ夢だった。「大将!」 健一郎と一戦交えた青年が、部屋の奥にいる若者に声をかけた。「どうした三秀(サムス)?・・・君子から来た奴は帰ったのか?それともやっちまったのか?」「いや、大将。連れてきた」 趙本起は振り向くと金三秀を見るなり言った。「派手にやられたなぁ~、お前が血を流すなんて久しぶりじゃないのか?」「いや面目ない、この小僧剣術をやるんですよ」「ほ~、まあうちの3本指に入る三秀を負かせたんだ、話だけは聞いてやろう、言ってみろ」 健一郎は一歩歩み出ると、真正面に趙本起を見て話し始めた。「初めてお目にかかります、私は君子の北・中谷の向井健一郎と申す者」「なに?日本人かお前。日本人が何の用だ?」「はい、今私の父は朴鉄圭さんと一緒に朝鮮人の教育をやっています、文字を読めない人たちにハングルを教えているのです」「朴鉄圭だと?・・・良才の朴鉄圭か?」「はい、そうです」「父親のことはわかった、それでお前は何をやっているんだ?」「私も近所の子供を集めてハングルを教え、今のロシアに征服された世の中がいかに間違っているのか、皆に話をしています」「お前が先生か?笑わせるな・・・・それで?」「今回の李完用の件で、君子の皆が怒っています。大院君の手下の朴大寿(パクテス)を懲らしめようという話になりました」「お前達が?それはいい心がけだ、ワハハ!なぁ~三秀よ」 金三秀は頭をかきながら健一郎を見て言った。「大将、こいつならやるかもしれません、剣の腕は大人顔負けですぜ」「三秀、お前負けたから言い訳しているんじゃなかろうな?」「いやいや、こいつは本物です、一振りでわかりました」「・・・しかし、相手は鉄砲を持っているぞ、どうやって対抗する?」「本起さん、それを手助けしていただきたくてここまで来たのです」「手助け?何をどうしろと?」「我々は15名しかいません、この人数ではどうしようもありません、景福宮から朴大寿が私宅に戻る道は大きな道です、我々だけでは取り逃がしてしまいます」「どうするつもりだ?殺すのか?・・・殺すのだったら簡単だ、ほらよ!」 趙本起は言うなり鉄砲を健一郎に渡した。「いいえ、私は殺すつもりはありません」「何馬鹿なこと言ってるんだ?殺さなきゃ殺されるよ・・・三秀、やっぱり甘いや、まだ子供の考えだね」「殺さずに拉致します」「拉致?」「はい、我々の拠点で監禁します」「それでどうするんだ?すぐ相手は動くぞ」「李完用の釈放を要求して、要求が通れば釈放します」「通らなかったら?」「釜山の金承宣さんの所に送ります」「金承宣も参加しているのかお前達に?」「はい」「う~ん・・・これは協力しないわけにはいかんな」 趙本起は、以前朴鉄圭や金承宣の書院に通っていたのだ。そこでいろいろな事を教えてもらっていた。 朴鉄圭と金承宣は趙本起にとって恩人だったのである。つづく
2010年01月16日
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ロシアの支配が始まり半年が過ぎた。 ロシアはさっそく元山、ウルサン、浦項、釜山、木浦、仁川に大掛かりな港の建設を始めたかったが、アメリカやイギリスによる交渉で、元山以外の港湾施設の建設を認めない事になり、仕方なくロシアは元山に軍事港湾の建設を始めた。 ロシアはその他の港は現状維持をしながら、港近くの高台に大砲を据え付け要塞のような施設を建設したのである。 第3章 ロシアの呪縛から解放へ ロシアの支配から2年がたち、ロシアの横暴な振る舞いもひどくなる一方であった。 その頃向井一家は君子の北にある中谷集落に紛れ込み暮らしていた。文次郎もちえ、綾、健一郎に教えられ、朝鮮語はほぼマスターし朝鮮人としてうまく溶け込んで暮らしていた。 文次郎一家も朝鮮に来てから10年近い年月が経とうとしていた。「ドゥフタノフの様子はどうだい?」 向井文次郎が息子の健一郎に聞いた。「父上、我々の世代もロシアに連れて行かれている人が増えています」「そうか、あまりドゥフタノフにか行かない方がいいのう、お前ももう14歳じゃからな、ロシアから見ればいい労働力だからな」「3日前、東大門の近くまで行きましたが、道行く人は老人ばかりで、若い人たちはロシア人ばかりです」「これだけシベリアに連れて行かれたら若い人はいなくなるわな・・・・うむ・・・」「父上、北から順番にロシアが一つ一つ村を回っているそうですね」「そうだ、私もそう聞いている」「父上がやっている寺小屋も、もう少し規模を小さくした方がいいのではないでしょうか?」「うむ、私も考えたが朝鮮人への教育を今やめるわけにはいかん、鉄圭も手ごたえを感じておる。まだ大丈夫であろう」「ですぎたまねを・・・父上がお考えでないはずが無いです、申し訳ございません」「いや、これからも気が付いた事は言ってくれ・・・しかし、すっかりロシアに牛耳られてしまったな、この国も」「いえ父上、いずれこの国の若者が立ち上がりますよ、私の友人たちの中にも祖国を取り戻したいと考えている人たちが大勢存在します。近いうちに若者たちの力が爆発する時が来ると思っています」 健一郎は文次郎とは別に、朝鮮人集落に深く食い込み独自に組織を築き上げつつあった。 朝鮮の各地で文次郎や鉄圭のように、子供や青年達を対象にした手作りの学校が作られていた。 その中にはリーダーシップを発揮し始める子供や青年達も現れ始めている。 そんな中、李完用というロシア派と思われていた両班が突如ロシアの朝鮮総督府に対し、一部の自治権を求める意見書を提出したと噂が広がった。 李完用は元々は閔王妃派で親ロシアの開国派であった、しかし李完用の本当の姿は朝鮮の発展と生き残りを考えていた実直な両班であった。 ロシアに支配されてからは、元々が親ロシア派だったのだから権力を握る事ぐらい簡単なことであったが、元大院君派の大臣達が次々と寝返る中、李完用は一歩離れ権力の中枢にいることを良しとしなかったのである。 中谷の細い北に向かう街道沿いにある水車小屋が健一郎たちの秘密小屋だった。 健一郎たちの仲間は15人、2日と置かず集まっては相談を繰り返している。「ゴン(健一郎の愛称)李完用が捕まったらしいね」「うん、俺も聞いたよ。なんか元大院君の金魚の糞が一枚かんでいるらしいじゃないか?」「やっぱりそうなんだね、くそ~腹が立つ!ゴン、やっちゃおうよ!」「待て!あわてるな淳昌(スンチャン)!あいつらもバカじゃない、俺たちだけじゃなくて良才や蚕室、永登浦にも声をかけよう」「そうこなくっちゃ!一っ走り行って来るわ!」「待て待て、計画を立ててから声をかけないと、お前はどうして先走るんだ?」「ゴン、ごめんよ。あんな汚い事をする奴らをほっとけなくて・・・」「あわてても失敗するだけだよ、今日の夜俺が蚕室に行って、向こうの大将に会ってくる」「えーっ、蚕室の大将って白丁の本起(ホンギ)だよ、あんな気が荒い奴の所に?」「ああ、あいつを説得できれば、他の皆も付いてくる。難しい所を避けてはいけないんだ、こういう時にはあえて難しい所から行かなくては」「俺にはよく分からないけど、ゴンはすごいんだね。俺なら簡単なほうから行っちゃうけど」「淳昌、お前は皆を集めて3日後の夕方ここに集合って伝えておいてくれ」「わかった、皆に言っとく・・・武器はどうするの?たぶん相手は鉄砲持ってるよ」「それも蚕室で相談してくる、伝令で足の速い鐘文(チョンムン)を連れて行く」 健一郎は健一郎で父文次郎とは違った形で朝鮮のことを愛し始めていた、生まれ育ったのが朝鮮だったせいか、父親以上に朝鮮の今の現状を憂いていたのだ。つづく
2010年01月16日
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日本軍が撤退した中、向井文次郎は安達源六と共に朝鮮に残った。もちろん家族とともにである。 向井文次郎は朴鉄圭たちと京城の東の荒地・君子(クンジャ)に拠点を構えた。君子は京城の東大門から15キロほど東にある。 屠殺場が集まる馬場(マジャン)より、さらに東に5キロほどの荒地であった。 朴鉄圭の支援に来ていた黒田少佐は、向井たちと合流した後、釜山に行って日本と連絡を取りながら釜山で活動をすると言って金承宣と共に南へ下った。「文基さん(向井文次郎はまた朝鮮名を名乗っていた)来月から京城の名前が変わるそうですね」「鉄圭さんも聞いたのかい?」「はい、ロシア式の名前に代わるとか・・・」「うん、ニコライの従兄弟の極東司令官の名前をつけるそうだね」「ドゥフタノフ・・・ですか、変な名前ですね」「何とかしなければ・・・」「そうです、もうすぐロシアの朝鮮州になってしまいます」「あいつらは何をやっているんだか?大院君にへつらいまた今度はロシアに擦り寄って自分だけいい思いをしようとしているんだろう」「でも昨日、元大院君派の大臣が一人殺されましたね・・・私には大臣を襲った彼らの気持がよく分かります、同じ朝鮮の人民をロシアの手先になって進んで捕まえていっていますからね」「俺たちの他にも、この現状を怒っている人たちがいるという事だな。しかし闇討ちはよくない、我々は底辺を広げる活動をしよう」「そうですね、我々の仲間も各地に散らばって民への教育を始めています・・・ロシアは日本が援助してくれた学校や病院などの施設を解体して、ロシアに持って帰っていますから我々が今踏ん張らないと、朝鮮はなくなってしまいます」「幸いアメリカは今の現状を良くは思っていない、きっとどこかのタイミングで動いてくれると思う、もちろん日本も・・・」「期待しています、本当に」「鉄圭さん、でも本当の朝鮮の独立は朝鮮人の手によって成し遂げねばならないんだよ、そうでないとまた同じことが繰り返される・・・」 京城では再びロシア軍による朝鮮人の強制徴用が始まっていた。男性はシベリアへ女性はイルクーツクやウラジオストックの工場へ。 元大院君派の大臣達の中にはロシアにゴマをするため、渤海や高句麗はロシア人が作った国だったと言い出すものまで出る始末で、朝鮮人民は同じ朝鮮人に裏切られ続けていた。 2ヶ月がたち、京城はドゥフタノフと名前を変えた。 日本ではこの事態を受け、伊藤博文が井上馨と共に軍のトップを集め協議を繰り返していた。堂々巡りの議論は何日も続けられたが、いつも最後はどうやってアメリカに動いてもらえるか?という話になる。 軍の中には秋山真之のように日本軍だけで立ち向かえると、意気盛んな参謀もいたが一部の少数意見として黙殺されていた。秋山好古の弟の真之はアメリカとスペインの戦いであるカリブ海海戦を間近で観戦仕官として見てきていた。 無敵艦隊といわれたスペイン戦艦群をアメリカがうまくあしらい勝利する場面を見ていた。 真之の心の中にはバルチック艦隊殲滅の作戦が浮かんでいたのだ。 真之の兄の好古には別の構想があった。朝鮮に残っている日本人を活用する方法である。秋山兄弟は諸外国の情勢を見ながらもたもたしている高官とは違い、方法は違えど兄弟そろってロシアと一戦構える気構えでいた。 一方、ドゥフタノフではイギリスの協力で開通していた電気もロシアが奪って行った。臨津江の水力発電所の施設をロシアがイルクーツクに持って行ってしまったのだ。 また日本が敷設準備中であった鉄道敷設用の資材もすべて奪われた。ロシアは徹底的に朝鮮半島から奪える物を奪った、物資も人民も・・・つづく
2010年01月15日
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「朴鉄圭たちは、朴泳孝と一緒に我々が京城に入城するのを待って行動を起こすと言っているらしいです」「行動とは?」「はい、南山のふもとで200人の同志を隠れ住ませ、我々が京城に入ったら大院君の住まいのウニョン宮を押さえるべく動くと・・・」「200人で大丈夫だろうか?ちょっと不安だな」「大院君の反対勢力もまだ京城にはいますし、勢力を大きくするように今も動いているようです」「うむ、しかし・・・おい!黒田少佐を呼んでくれ」 秋山好古少将は騎馬隊先鋒の黒田少佐を呼んだ。「黒田少佐、今向井さんと話をしていたんだが・・・どうも京城の我々との協力勢力の人数が足りないようだ、黒田少佐が行って加勢してくれないか?」「私の調べでは200人ほどらしいですね、私も人数が足りないと感じております」「よし、では先鋒は私が代わるから黒田少佐は一個中隊100名ですぐ京城に行ってくれ、分かっていると思うが夜暗闇にまぎれて動くように」「はっ、承知いたしました」「ところで向井さん、麻浦からのルートはどうする?」「はい、麻浦の先に孔徳という名前の丘があります、この丘の北側からだと景福宮まで1時間少々です。この丘を拠点すればいいのではないでしょうか?」「孔徳?」「はい、大院君が自分の墓を買い求めた場所です。大院君もまさか自分の墓を建てた場所に日本軍が駐屯する事になるとは思いもしないでしょう」「そうなのか?それは面白い。向井さんの話は現地の生情報だなぁ~」 翌日秋山将軍を先鋒とした日本軍が麻浦に到着した。秋山将軍の先鋒隊はここで本軍を待つため漢江の麻浦港近くの市場で休憩していた。 その半日後、高宗を連れた日本軍本隊も麻浦に到着した。 その市場で、大院君がかねてから用意していた爆薬が酒幕で爆発し、それを合図にするように日本軍を囲むようにあちらこちらで爆発が起こった。 黒田少佐や若狭重伍、向井文次郎、安達源六などは混乱の中、負傷した朝鮮人達の救護に当っていたが、次々と発生する爆発に仕方なく現場を離脱した。 大混乱に陥った日本軍は、体勢を立て直すため一直線に孔徳に向かったが、そのさなか高宗の行方がわからなくなってしまった。「秋山少将、大変です!」 向井文次郎は秋山に駆け寄った。「どうした?」「高宗がいません」「なに?護衛の兵はどうした?」「あの爆発で混乱し・・・申し訳ありません」「探すんだ、高宗がいないと我々が京城に行く大義名分がなくなるぞ」「はっ!」 この日から丸1日、向井達は必死になって高宗を探したがとうとう見つからなかった。 こうなると朴鉄圭のもとへやった黒田たちの安否も気がかりになってくる。 高宗はこの日から5年間、まったく消息がわからなくなった。 朝鮮半島をめぐる情勢は日本にとって最悪の事態となった。朝鮮半島に展開していた日本軍は撤退を余儀なくされ、ほどなく大院君は朝鮮の独立を宣言した。 一旦朝鮮半島に大朝鮮王国が誕生し、落ち着くかと思われたが・・・ 朝鮮の独立をロシア、フランスが認めなかったのだ。またヨーロッパではイギリスとフランスの対立が際立ってきていた。 すでに第一次世界大戦の火種がくすぶっていた。 こういう国際情勢の隙を縫って、ロシアが電撃的に朝鮮半島を占領し大朝鮮王国の国王となっていた大院君は処刑された。 わずか2ヶ月足らずで大朝鮮王国は崩壊したのだ。 大院君の夢も実現と同時に終焉を迎えた、大院君の支持勢力は大院君が処刑されると雪崩を打ったようにロシア支持派に転向していった。 ロシアのニコライ2世は国内の支持を強めるため朝鮮半島を我が物にする必要があった。ニコライ2世も国内の反ニコライ勢力との生存競争に必死になっていたのである。つづく
2010年01月15日
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秋山好古は向井文次郎に景福宮までのルートの相談をした。「向井さん、ここから京城までの行軍ルートだが、あなたはどういうルートで行くのが適切と考えるのか教えていただけないか?」「そうですね・・・総勢1万人を越える行軍になります。ロシアに気付かれずに行く事ははじめから不可能ですが、真正面から行くというのも無理があります」「そうなんだ、一番最短はこのまま3キロ先で本隊と合流してから、街道を進むルートだがロシア軍の待ち伏せが予想される、向井さんならどうするか・・・聞かせていただけないかね?」「・・・そうですね・・・私なら金浦郡を通り一旦漢江に出て、楊花から漢江沿いを東へ行きますね。行軍の規模を考えますとこのルートが一番安全かと考えます」「なぜ安全なのだ?」「まず金浦郡までは我が国の勢力範囲に入っています、その先も漢江をさかのぼる事によって敵の伏兵を避けることが出来ます。進行方向への見通しがいいこともこのルートの利点ですね、そして何より北から上陸した部隊とちょうど京城を挟み込む形になりますので、京城を制圧するには戦略的にも一番かと・・・」「そうだな、私に来た報告ではウルサンに上陸した部隊が、丹陽から利川まで来ているらしい、その部隊も明日の夕方には漢江の上流までこれるという事だから、明後日の昼には京城の東の入口まで進軍できるだろう」「それならなおさらです、朴鉄圭さんたちも京城の中から支援してくれる形になりますので、高宗を景福宮まで連れて行くには、私が申し上げたルートが一番かと思います」「わかった、では向井さんは至急朴鉄圭に連絡を取って、彼らの工作がどこまで進んでいるのか確認して欲しい」「はい、ではさっそく連絡を取ってみましょう」「頼んだぞ」「はい」 向井文次郎は秋山将軍のもとを離れると、安達源六に朴鉄圭と連絡を取るように指示を出した。 そしてほどなく秋山将軍から全軍に3キロ先の合流地点まで進軍を開始するとの命令が出された。 児玉源太郎将軍率いる本軍と合流した秋山好古率いる別働騎馬隊は、先鋒を引き受け1日かけて金浦郡まで進軍した。 その頃、ロシア本国ではニコライ二世がクロパトキン将軍を呼び出し、朝鮮半島情勢の責任を取らせクロパトキン将軍を解任するという事態になっていた。 ロシアではニコライ二世の側近が自分の権力を増すため、クロパトキンに変わり自分の親戚を極東方面司令官に任命させるように工作していたのである。これがロシアを滅ぼす事になるとも知らず自分の権力を高める事に夢中になっていた。 日本とロシアの極東方面における情勢が日本勝利という結果になったあと、ロシアは革命によって滅び、社会主義の国に生まれ変わる。 すべてはクロパトキンという優秀な将軍を側近の諫言によって解任し、無能な将軍を極東方面の司令官に任命した事がニコライ二世自身の首を絞める結果になった。 こういうロシアの国内でのゴタゴタが結果的に日本に味方した。 秋山将軍達は麻浦の近くまでは何の抵抗も無く進軍していった、ロシア軍からの妨害が無かったのはこういった理由による物であった。 さらに朝鮮に配備されたロシア兵たちの悪逆非道な振る舞いも、各地で朝鮮の国民から反感を持たれる原因になっていた。シベリヤへの男性の徴用もそうだが女性に対する性犯罪が各地で頻繁に起こり、抵抗する女性は容赦なく殺されたのである。 なので朝鮮の民は日本軍の進軍を見かけてもロシアに報告しないばかりか、日本軍の食料の差し入れなど逆に日本軍を助けていた。朝鮮の民は目の青い肌の色が白い人間より、同じモンゴロイドの日本人のほうが安心できると感じていた。 このころの世界の常識は白人以外は動物である、殺しても慈悲をかける事などさらさら無いという考えが、アメリカやヨーロッパなどでは当たり前の考えだったのである。 なのでロシア人が朝鮮人に対して取った行動というのは、世界的に見ると常識だったということになる。「若狭隊長、そろそろ麻浦ですね」「そうだな、文次郎・・・お前の読み通りであったな。そうそう先ほど安達がお前を探していたぞ」「源六が戻ってきたんですか?」「うむ、うまく朴鉄圭と接触できたらしい」「そうですか、それはよかった・・・さっそく源六に会って秋山将軍に報告しなければ」 向井文次郎は安達源六から聞いた、朴鉄圭の情報を秋山好古に報告に赴いた。「秋山将軍、向井文次郎です」「おう、向井さん」「京城の状況がわかりました」「どうだった?」「大院君の側近達や役人が相変わらず自分たちの権力を広げるのに必死のようです、それと高宗が心配していたように、我々の進軍に対して朝鮮人民から徴兵をして備えているようだと・・・」「なに?我々に抵抗しようというのか?」「そのようですね、ロシアの影響が弱まった今、大院君を中心とした独立国として世界に宣言する準備を進めているようです」「で、朴鉄圭たちは?」「はい、彼らは・・・・」つづく
2010年01月05日
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このブログにお越しいただきました皆さん。新年明けましておめでとうございます。いつも拙著をご拝読いただきましてありがとうございます。今年も出来る限り小説を書きたいと思っております。末永くご拝読いただければ幸いでございます。また皆さんのご意見も広く聞かせていただければと考えております。では、本年もよろしくお願いいたします。サンキュウ拝
2010年01月02日
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大院君に促され岡本は自分の計画を話し始めた。「今度来た新任の三浦公使は軍人なので、対外的には彼が王妃殺しの主導者として外国に発表できます。そのために私が現場に三浦を行かせるようにワナをかけたのです」「そうであったな、しかしどうやって三浦がやったと外国に思わせるのだ?」「大院君、いまからロシア公使を呼び、王妃殺しの現場に三浦が居たようだとお話ください。ロシアも日本にこれ以上朝鮮で権益を大きくされたくないでしょうから、必ずこの話に乗ってきます。そしてロシア公使と親交のあるイギリス人の宣教師達に王妃殺害の真犯人は三浦だと言うのです」「根拠は?」「私がいます、私は王妃殺害を指示されたが反対したため、今回の作戦からははずされた・・・と証言します」「なるほど・・・日本領事館の三浦大使の補佐をしておるそなたの話なら皆信じるであろうなぁ~」「では、私はその線で話をまとめられるよう手を打ってまいります・・・くれぐれもお約束お忘れにならないように、次回お目にかかるときにはちゃんとした書面をいただきますぞ」「ワハハハ!わかっておる、事が済んだ後も私が実権を握れるように協力してくれよ」「それより大院君閤下(テウォングンハッパ)明日にも戻ってくるあなたの息子、高宗をどう押さえるのか?・・・それが大事ですぞ」「それならもう手を打っておる」「まさか・・・ご自分の息子を?」「殺しはせん、ただここには戻ってこられないように手を打っただけじゃ」「どうされるので?」「息子が京城に入る前、麻浦の船着場で浪人たちの暴動が起こるんじゃ、そこに50人ほどの手下を行かせておる、息子にはしばらく清に行ってもらうつもりじゃ、わしが天津に幽閉されたようにな」「清・・・ですか?・・・大丈夫でしょうか?」「清はまだまだ大国じゃ、日本になど負けやせぬよ」「大院君閤下、ご存じないかもしれませんが清はもうダメです、国が乱れまくっています」「岡本参事官、心配無用じゃ、わしに任せておけ」「はい、では・・・」 岡本参事官の心配はあとで現実の物となった。清は程なく辛亥革命でその歴史を終えることになる。 相当国力が弱っていた上に、最後の王妃”西太后”の猟奇的な行動により民心がすっかり離れとどめを刺された格好であった。 話は戻るが、このように景福宮では大院君と岡本参事官の陰謀が着々と進行していた。 高宗が心配しているような状況が、景福宮では話し合われていたわけだ。 文次郎達一行は臨津江を渡り、オドゥサンの麓で日本軍との合流を待っていた。「秋山将軍、ここがオドゥサンです」「では、ここから南に3キロの地点で合流だな、黒田少佐」「その通りであります」「高宗と向井たちの別働隊の様子は?」「我々騎馬隊に遅れずついて来ておりました」「なかなか優秀じゃないか?」「私は向井文次郎君としばらく一緒に転戦した経験がありますが、軍人ではないのですがなかなか使える男であります。イノシシ武者ではなく頭の方も切れるようです」「そうか・・・我が弟も海軍で参謀をしておるが、文字通り文武両道ということだな、それは頼もしい」「はい、朝鮮の状況は彼らのほうがよく把握していますし、朝鮮語も出来ますから現地住民からの情報収集も容易にできます。今回の作戦には欠かせない人材であります」「そのようだな、あっそうそう、向井文次郎に相談がある、呼んで来てくれないか?」「はっ」 秋山好古は京城までの行動を文次郎に相談したかったのである。ここオドゥサンからだと京城へは3つのルートがあり、どのルートを通るのがいいのか向井の意見を聞きたかったのだ。 一番の候補は京城までの最短ルート、むかしから清の使節団が通ってきた平坦なルートで西大門を抜け、景福宮に一直線に向かうルート。 二番目の候補は途中から、朝鮮王族の墓が集まる西五陵の前を通り、更に北から景福宮に向かうルート。 三番目は大きく南に迂回し麻浦から景福宮に向かうルートである。「秋山将軍、お呼びでしょうか?」「向井君か?」「はい」「ご苦労様、入ってくれたまえ」「はい」 向井文次郎は秋山好古に促され、黒田少佐と共に秋山の前に進み出た。つづく
2009年12月30日
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京城では高宗が心配している事態の芽が産まれ始めていた。 朝廷は閔王妃とその姻戚大臣のかわりに、全員が大院君派に変わっただけである。 彼らにとって今の事態をどう収拾するのかより、いかに自分がつかんだ権力を使って私腹を肥やすか?という競争が始まっていた。 大院君派の大臣や官吏にとっては位の上下は関係なかった、今まで王妃派が押さえ込んでいた利権をむさぼる事に夢中であった。 位が高い人物は高いなりに、低い人物は低いなりに・・・である。 大院君はウニョン宮に戻らず、景福宮の大殿の裏にある離宮で執務を行っている。 大院君は騒動で焼け落ちた景福宮の一部の建物の修繕を指示した後、高宗が帰ってきてからも自分が権力を握ったままでいられるよう、日本排除の手を打ち始めていた。 大院君とその取り巻き達はロシアも清も今となっては日本の力が無くてもなんとかなると考えていた。 まずは新任の三浦大使を落としいれ、王妃暗殺の全責任を三浦大使に押し付ける。その手はずは岡本を朝廷内での利権を餌に三浦公使を裏切らせ、岡本の証言を元に日本を封じ込める。 宮廷の内官が大院君に声をかけた。「大院君閤下、岡本参事官がお目通りを願っています」「お通ししなさい」「はい」「大院君閤下、お呼びでしょうか?」「おお、これはこれは・・・今回の大功労者のお目見えですな」「ハハハ、何を仰る。明日にも王様が帰ってくるのですぞ、対策はもうお考えで?」「だからそなたを呼んだのだ・・・この後の手、何か考えを持っておろう?」「もちろんですとも」「タダてとは言わん、ご教授願おうか」「大院君閤下・・・私も祖国を裏切るのですぞ、安くはない買い物になりますが」「わかっておる、ワシが権力を掌握した暁には、そなたが一生遊んで暮らせる金と邸宅、そして軍事顧問の席を用意しよう」「ハハハ!、どうやら大院君閤下の目には、私は小物に見えるようですね・・・必要とされないのでしたら、私はこれにて失礼させていただきます」 岡本参事官は深々と頭を下げ、部屋を出ようとした。「ちょ・・ちょっと待て。そなたは・・・」 岡本参事官は振り返ると言った。「おわかりでしょう、日本を売るのです、それに見合った代償がないと売れません、では・・・」 岡本参事官も相当な野心を持っていた。 この機会に朝鮮経済の全権を握り、実質的な支配者になろうと考えていたのである。「わかった、なにが望みなのか言ってみろ・・・ただし・・・」「ただしなんです?」「私の一存では決められない事もある、殿下とも相談しないとな」「ワハハハ!なにをおっしゃっているんですか?閤下・・・王様には何一つ権力を渡すおつもりは無いくせに・・・そのためにわたしをお呼びになったのでございましょう?」「・・・食えん奴だなぁ~・・・言ってみろ望みを」「はい、閤下・・・朝鮮の商権を私に下さい、商権の全てをです」 大院君は結局岡本参事官の要求を飲む約束をし、岡本参事官の秘案を聞き出した。 その秘案とは・・・つづく
2009年12月15日
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朴鉄圭が裏道を抜け京城に向かった翌日、高宗と共に京城への道を海沿いに取って進む文次郎達に驚くべき知らせが届いた。「若狭隊長、聞かれましたか?」「うむ、しかし本当だろうか?」「おい!安達君、高宗に・・・いや、王様に言ったのか?」「向井副長、まだです」 文次郎が返事をする前に、若狭が安達に言った。「まだ言うな、裏を取ってからだ・・・向井副長、秋山少将に事実確認をしてくれ」「わかりました、では行ってきます」「頼んだぞ!」 若狭は文次郎が秋山の元へ行くのを見届けると、安達を見て考えながらつぶやいた。「おい、安達。閔王妃が死んだというのは本当か?」「はい、三浦公使から秋山少将に書簡が届いたようです」「どこで死んだんだ?」「景福宮です、朝鮮軍の護衛軍と民衆がなだれ込み、混乱の中で行方不明になっていたらしいのですが、死体が見つかったと・・・」「なんとなぁ~、2年ほど前に岡本参事官が王妃を亡き者にしようと井上公使に進言した事があったが、井上公使は”馬鹿者!”と岡本参事官を一喝したんだ・・・しかし王妃がなぁ~」「宮殿を守っていた100名のロシア兵も、ほとんどが死んだか逃げたらしいです」「我々にとって、いい出来事なのか悪い出来事なのか?・・・」 若狭が空を見上げて腕組みをしていると、文次郎が息をきらして戻ってきた。「若狭隊長、どうやら事実のようです」「そうか・・・安達、高宗を呼んで来い」「はい」「向井副長、宮殿は今どうなっているんだ?」「それが・・・」「うん?」「大院君勢力が事を起こしたようですが、その中に岡本参事官らしき人物がいるといううわさが・・・」「本当か?・・・まだあきらめていなかったんだなぁ~井上公使にあれほど怒られたのに・・・どうも岡本参事官は、他国の王族を軽んじる傾向があったからな、自分が朝鮮の実権を握りたいという野望を隠そうとしなかったからなぁ~」「もう一つ、悪い知らせが」「なんだ?」「大院君勢力に協力した、日本人の浪人たちが居たそうです。日本刀を武器にして切り込んだ30人ほどの男達がいたらしいです」「岡本参事官の差し金か?・・・それはまずい事になったぞ」「はい、秋山好古少将も事態をどう収めるべきか、参謀長の児玉中将閣下に相談すると言っていらっしゃいました・・・それと王様には自分から説明するから余計な事は言わないようにと・・・」「わかった」 高宗が安達源六に連れられ文次郎達に近づいてきた。「何か騒がしいようだが何かあったのかね?」「はい、詳しいことは秋山少将から申し上げます、向井副長、王様を秋山将軍の所へ案内してくれ」「お前達は何も知らないのか?」「はい、京城で少々問題が発生したという事しか・・・」「京城で?・・・私の今後の行動に影響があるのか?」「いや、それは秋山将軍から話があると思います」「あい、わかった。秋山将軍の所へ連れて行ってくれ」 若狭が目で文次郎に合図を送った。 文次郎はうなずくと、王様のほうを向き言った。「では王様、私がご案内いたします」 京城では撤退したロシア軍が議政府で体勢を立て直すべく、ミシャローノフ大佐が孤軍奮闘していたが、事態を軽く見ていたロシア軍の本体はまだ義州から動いていない。ロシアの朝鮮方面の責任者クリパトキン将軍は戦況を完全に見誤まっていた。 宮殿を制圧した大院君勢力は、大院君の摂政としての地位回復を宣言し、再び大院君閤下(ハッパ)としての地位を取り戻したのである。 高宗無事奪還の知らせは、岡本参事官を通じて大院君勢力に知らされていた。それが大院君を王様として即位する事をためらわせたのである。 大院君自身は高宗が帰ってこなければ自分が王様として実権を振るうつもりでいたし、大院君の取り巻きもそうなる事を望んでいたが、高宗が無事なら大院君が王様になる大義名分が無い。「秋山将軍、朝鮮の王様をお連れいたしました」 秋山好古は高宗の姿を認めると、大きくお辞儀をし椅子をすすめた。「将軍、騒がしいようだが何があったんだね?」「はい、王様。非常に悲しい出来事ですが王妃様が御崩御されました」「・・・?今なんと申した?」「景福宮で王妃様がお亡くなりになりました」「王妃が・・・なぜ死んだんじゃ?・・・病気か?それとも誰かに殺されたのか?」「はい、王様、あなたのお父様が」「なに?父上が?」「はい、昨日の未明に総勢300名で宮殿を襲い、王妃を含め王妃派の大臣達など10名以上が殺された模様です」「本当かそれは?」「はい・・・王様の父上は、大院君閤下として王様の摂政を宣言なさったようです」「・・・・」「何を意味するのかお分かりになりますね?」「私も命を狙われるという事か?」「はい、お父様の大院君はそう思っていなくとも、取り巻き連中は王様がいると邪魔ですからね、どんなはねっかえりが現れないとも限りません」「どうなっていくんだ我が国は?・・・私はこれからどうしたら良いのだ?」「王様、予定通り明日金浦郡で我が国の軍隊と合流しましょう、その頃には私の上司から指示が届いているはずです、決して王様にとって悪い話にはならないと思います」「そうだろうか・・・」つづく
2009年12月13日
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高宗を救出した文次郎達は、できる限り早く京城へ着くルートを選んで行軍する事にした。そのルートとは海州から西海岸沿いを南下するルートである。 このルートだと山越えをする必要がなく、比較的平坦な道を選んで行軍できる。リスクは海側からの攻撃に晒される事である。 そのためにもロシア軍が高宗護送に失敗したとの情報を得て、動き始める前に上陸部隊と合流する必要があった。 文次郎達は急いだ。 2日後にチェムルポ(今の仁川)から上陸する日本軍本体と、金浦郡で合流しなければならない。 ロシア軍はすでに釜山、ウルサン、大川、チェムルポ、元山で日本軍に押され撤退を始めている。ロシア軍の撤退の合流地点は大田付近が予想された。 日本軍の作戦は大田を含む忠清道にロシア軍を封じ込め、北からの支援部隊と分断しながら京城を制圧するというものであった。 海州からの道を南下中の文次郎達は、高宗の奪還に成功したことでほぼ任務を達成したと言えたが、朴鉄圭や金承宣たちと相談し京城内での工作に動いてもらうようお願いをしていた。「鉄圭さん、あなた方の仕事はこれからですよ」「わかっています、これから我々二人で近道の山道を抜け京城に入ります」「気をつけてください、まだまだロシア軍兵士がうろうろしていますから」「そうですね、京城に入ってからのほうが大変かもしれません、しかしなんとしても朴泳孝に会って、市井の良識派を動かさねばなりません、朴泳孝は反閔王妃派の急先鋒です、彼がこの事を聞けば動いてくれる手はずになっていますから・・・我々の同志が動くだけでは心もとない所もあります、少しでも動ける人数は多いほうが・・・」 文次郎と朴鉄圭が話していると、高宗が話しかけてきた。「朴泳孝か・・・彼にも苦労をかけた、私はおろかな王だった・・・金玉均をも救いきれなかった」「何をおっしゃるのです、一番の味方であるはずの王妃に裏切られたのです、これからです、民は王様が戻ってくるのを首を長くして待っていますよ」「鉄圭・・・そうだろうか?」「王様、私は何度か井上閣下とお目通りをさせていただきました、向井文次郎と申します」「・・・うむ、覚えておる。今回は助けてもらって礼を言うぞ。あのままロシアに連れて行かれていたらと思うと・・・」「王様、ある意味こちらのほうがイバラの道かもしれません、これから王様は朝鮮という国を立ち直らせなければいけないのです、我々はその道筋を付けるだけしか出来ません」「文次郎と申したか?」「はい」「なぜ日本は私を支援してくれるのじゃ?」「私にも国が考えている難しいことは分かりません、しかし私には朝鮮人民がロシアに好き放題されて苦労をしている姿は見るに忍びない物があります。特に奴隷としてシベリアに連れて行かれた人々はもう10万人を越えていますよ」「そんなにもか?・・・私は何も聞かされていなかった・・・」 朴鉄圭が文次郎を引き継ぎ言った。「王様、王妃達が国民を売っているのです。ロシアに経済援助をしてもらう代わりに民を売っているんです!彼らは自分たちが贅沢するために・・・うっうっうっ・・・いつからこの国はこんなことになってしまったのか?」「泣くでない、すべて私の弱さが招いた事である。すべての責任は私にある」「王様、私達も精一杯頑張ります、この国を日本のようないい国に作り変えてください。文次郎に聞きました、日本は誰でもが教育を受けられる平等な国になったと・・・そして誰もが国を愛するようになったと・・・私はうらやましいんです、朝鮮もそんな国になって欲しいんです」「わかった、私も精一杯やると約束しよう。このままロシアに行っていれば一度は死んだ命だ、もう怖いものなど無い。今は本当に民のために何かやれそうな気がする」「王様!・・・・」 朴鉄圭は高宗の力強い言葉に感動して泣いていた。今度こそ朝鮮が本当に変わるときだ、誰もが平等に暮らせる世の中に変わると感じた。「文基さん、いや文次郎さん・・・では行ってきます」「はい、くれぐれも気をつけて」「私にも怖いものはなくなりました、王様の言葉を聞いて体中に力が湧いてきています」つづく「
2009年12月10日
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元山の南にある小さな漁港では、文次郎達が日本からの部隊と接触した。「ハヌル」(天)「ピョル」(星) お互いの合言葉を言い合った。 秋山好古と文次郎達は闇夜の中、無事合流できた。 20艘の小船から次々と銃などが運ばれ、朴鉄圭が用意した馬車に運ばれていく。「おう、向井大尉・・・・いや向井さん、どうだ情勢は?」「黒田少佐、お久しぶりです・・・もうすっかりロシアの天下ですよ、高宗を助け我々が朝鮮の人達と動かなければ終わりです」「で、段取りは?」 文次郎は秋山と黒田に計画を話し、一致結束して海州で高宗を助けて京城に凱旋する事までを打ち合わせた。 「わかった、では海州に急ごう」「秋山将軍、我々が先導します、しんがりをお願いします」「いや、馬で斥候を出そう、黒田少佐3騎で行ってくれ」「はっ!」「秋山将軍それなら地理に詳しい金宣承を一緒に連れて行ってください」「それは助かる、黒田少佐、馬の用意を」「わかりました」 文次郎達は秋山好古が放った斥候のおかげで、順調に海州への道を進軍した。 ロシア兵が常駐している検問もうまくすり抜け、海州から義州に抜ける山道に兵を伏せて高宗を護送する行列を待った。 高宗を乗せた駕籠の行列は、わずか100人ほどのロシア兵に警備されながら海州に到着していた。 高宗が宮殿から連れ出された時は、高宗にとって非常に屈辱的なものであった。 閔王妃派の大臣達が薄笑いを浮かべ、高宗がロシア兵に連れ出されるところにいた。そして、高宗に捨てゼリフを言い放ったのだ。「哀れなもんだ、王様らしいことは何一つ出来ないままロシアで果てるのか・・・ハハハ!・・心配なさらずとも、この国はロシアに守ってもらい新しい王様のもとで発展していきますよ」 高宗は口惜しい思いをしながら、抵抗できずにロシアに護送される自分の運命を呪った。 日が変わって夕方になり日が暮れるころ、文次郎達が待ち伏せしている場所に高宗を護送している行列の先陣が見えてきた。「皆の者、いいか、敵を充分ひきつけ、中軍が通り過ぎた時が攻撃だ、合図に日章旗を掲げる、よいか!」秋山好古が全軍に指示を出した。 壮絶な高宗救出作戦は、日本側の犠牲者はけが人18名だったのに対し、ロシア側は多くの死者を出し、最後は高宗の駕籠を放置したままロシア兵全員が逃げ、日本側の圧勝であった。 秋山好古率いる騎馬部隊が、ロシア兵を蹂躙したのだ。ロシアにも優秀な騎馬部隊があるが今回の護送では、わずか10騎しか付いていなかった。 文次郎達にとってはここからが勝負である、高宗を救出した今、ロシアからの大量の援軍が来る前に京城を制圧する必要がある、時間との戦いであった。 文次郎達は高宗救出に成功した事を、すぐさま伝令で報告し京城で児玉源太郎中将の連隊と合流しなければ成功したと言えない。 朴鉄圭は、同志の朝鮮人たちに京城での日本軍の活動を手助けするように動いた。「文基さん、これが成功したら朝鮮も日本と同じように、皆が平等に教育をうけれる国になるのですか?」「それは、朝鮮の人達が努力しなければいけません、我々はその手助けをするだけです」「その言葉信じますよ、大王殿下と共に新しい朝鮮を作ります」「その意気です、鉄圭さんと宣承さんでみんなを引っ張っていかなくては・・・それに今はまず高宗殿下を京城にお連れし、王権を復活していただく事が第一です」「はい、文基さんの指示通り、我々が京城に入ったら同志が王妃派の大臣を抑える手立てを整えています」「そうですか、後は出来るだけ早く京城に行かなければなりませんね」「そうです、急ぎましょう!」つづく
2009年11月29日
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会議を重ねた井上馨らは、秋山真之大佐が提案した案を採用しようと決めかけていた。 その案とは・・・ 1・騎馬部隊は2日後、秘密裏に朝鮮半島元山に上陸させ、現地協力者と行動する。 2・その5日後、全海軍力で旅順のロシア艦隊を叩く。少なくとも旅順港に押し込め外洋に出れないようにする。 3・旅順のロシア艦隊を押さえたあと、陸軍の上陸船を朝鮮半島5ヵ所に10艘ずつ派遣し、3万人の兵力で朝鮮半島のロシア兵を押さえたあと、総兵力10万で京城を制圧する。 4・京城を制圧後直ちに清軍と協力し、遼東半島のロシア勢力を一掃する。 5・文官は外交戦術を用いて、4の段階で講和を結べるようルーズベルトに働きかける。 1の実行騎馬部隊は秋山好古少将が指揮を取り、副官に黒田少佐と決まった。中隊規模は200名、朝鮮の反ロシア勢力に配布する最新式銃を500丁運搬する。 海軍の旅順封鎖作戦は坪井航三少将が司令官として指揮を取り、参謀に秋山真之大佐。艦隊規模は旗艦”秋津洲・あきつしま”、2番艦から4番艦までは三景艦といわれる”松島””厳島””橋立”5番艦浪速・なにわ、6番艦千代田、7番艦赤城、8番艦比叡、9番艦扶桑、10番艦吉野に決まった。 伊東祐亨少将がしんがり10番艦に乗り込み坪井司令官の補佐をするという2段構えの作戦である。 旅順を押さえた後の朝鮮半島上陸作戦は、児玉源太郎中将を司令官とし秋山好古少将と朝鮮にて合流後、両面から京城を押さえる。 そして遼東半島には大山巌大将が司令官として3個大隊を率いて旅順を攻略、副官には乃木希典中将に決まった。第3章 反撃ののろし 若狭重伍、向井文次郎、安達源六、朴鉄圭、金承宣は闇夜の中、元山港に近い南側の小さな漁港のあばら家に潜んで、秋山達が来るのを待っていた。「あと、2時間ほどだな」若狭が文次郎に話しかけた。「そうです・・・哲圭さん、銃を運ぶ段取りは?」「文基さん、大丈夫です。5頭の馬に荷車をつけてあります」「それで海州に運ぶんですね」「はい、すでに海州では千人以上の民衆が、王様を助けようと我々の到着を待っています」「途中ロシア兵がいる場所は?」「2ヵ所ありますが、承宣が手はずを・・・」「駐屯所の近くに薬の入った酒を用意しています、我々が通過する1時間前にキーセン5人に酒を運ばせます」「なるほど・・・酒に目の無いロシア兵に・・・名案だ!」「もししくじっても、駐屯所のロシア兵は50人ほどです、駐屯所の外におびき出して分断する策も用意しています」「二段構えだな」 若狭も安心したようだ。 高宗の護送は2日後にせまっている。 護送される高宗は、閔王妃派の裏切りに忸怩たる思いで景福宮の大殿にいた。夜空の星を眺めながら、自分が王様になった理由はなんだろうと考えていた。 王になったときは、趙大王妃が摂政で実権はなかったし、王妃と結婚してからは実父の興宣大院君が実権を握っていた。 ”今は王妃の閔氏の天下だ、自分は利用されただけなのか?民も自分を見捨てるのか?それならロシアの要求にも甘んじて受け入れよう”高宗の思いである。 今では王の威厳など、どこにも無く王妃派の大臣達が我が物顔で朝廷を牛耳っている。王妃派の大臣達は高宗がロシアで処刑されるようロシア領事館に働きかけている。 次の王を誰にするかを話しながら、完全に浮ついた気持ちになっていた。 文次郎達は高宗を助けた後、高宗を伴って日本陸軍の本軍と共に京城に凱旋する予定でいた。 王妃派の大臣達はそんな計画には全然気付かず、短い我が世の春を謳歌していた。つづく
2009年11月23日
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日本軍が朝鮮から撤退した後、ロシアが瞬く間に朝鮮半島を勢力下に置いた。 清と朝鮮の連合軍は抵抗する間もなく、京城をたった3日で占領され、高宗はロシアに対し降伏文書にサインをした。 ロシアは李王朝の存続自体は認めたものの、外交権、自治権などすべてをロシアが派遣した朝鮮政府最高顧問に権限を与え、李王朝は見かけだけの政権になってしまった。 ニコライ2世は、朝鮮半島をロシア領にするためにフランスと協議し同盟関係を強化すると共に、国内での徴兵を増やし極東地域での兵力増強を模索していた。 次の狙いは清だ。 ロシアが遼東半島をも実質的に占領している現状には、アメリカやイギリス、ドイツも相当な危機感を感じていた。 ロシアは朝鮮半島で釜山港・浦項港を整備するため、朝鮮人の強制徴用を始めた。それに伴いロシア兵8万人を朝鮮半島に常駐させ、実質支配の度合いを深めていった。 ロシア兵の朝鮮人民への暴虐も日増しに多くなっていっていたが、シベリヤ開発のためにロシア商人が朝鮮人民を理不尽な理由を付け連れ去る事件も多く起こっている。 こういった事態がロシアが支配を始めて1年ほどで頻繁に起こっていたため、朝鮮人民の中にはロシアに反発する勢力も生まれつつあった。「鉄圭さん、私はこれからピョンヤンに行こうと思う、平安道と黄海道にはロシアに対する抵抗組織があると聞いたので、連携を提案してきますよ」「文基さん、それは危険だ。我々の仲間ももう何人も捕まって処刑されている、もう少し様子を見たほうがいい」「いや、来週には高宗殿下もモスクワに連れて行かれる、朝廷の連中もすっかり閔王妃派ばかりになって、ロシアの代弁者ばかりだ。今動かないと後々で後悔する事になりますよ。高宗殿下も朝廷に味方が誰もいないんです、我々が動かないと・・・」「あせってはいけません、文基さんの言う事ももっともだが今は時期が悪い・・・???・・この状況で言い出すということは、何か策があるのですか?」「はい、重狭さんと安源さんがすでに通川で我が国よりの銃器を受け取っている頃です、4日後海州で合流します」「銃器?何丁ですか?」「2万丁です、最新式です」「2万丁も?本当ですか?・・・それなら・・・」「でしょう、なので鉄圭さんにも動いてもらいたいんです、来週の高宗殿下がロシアに護送される時に高宗殿下をお助けしましょう」「どこで?」「今本国と調整しています、たぶん義州あたりかと・・・朝鮮国内でお助けしないと意味がありません・・・まだ未定ですが、来週初めに本国から騎馬部隊の応援も予定されています」「騎馬部隊?どこに上陸するつもりなんだろう?」「今、ロシアはすっかり油断しています、清へ手を伸ばすこととヨーロッパ方面の勢力拡大に力を入れていて、朝鮮は高宗さえモスクワに連れてきたら、朝鮮併合文書を交わして終わりと思っています、なので今がチャンスなんです」「やはり日本は世界の情勢をよく知っている、惜しむらくはそういう考えを持った朝鮮人がいないということだ、朝廷の連中は自分さえ良ければいいという連中ばかりだ、情けない」 文基とは、向井文次郎の朝鮮名だが、朝鮮半島がロシアに支配されて1年、朴鉄圭らと連携し着々と朝鮮で足場固めを行っていた。 鉄圭と文次郎は、良才で寺小屋形式で近隣の子供たちにハングルなどを教えながら、朝鮮各地にいる反ロシア勢力と連絡を取り合っていた。 その頃日本政府は、弱体化した清王朝を助けるため頭を悩ませていた。 このまま放置すると、清もロシアの勢力下に置かれる事になる、もちろんアメリカやヨーロッパ各国がそれを許さないだろうが、情勢はどんどんロシアにとって有利な状況になりつつある。 ドイツやアメリカからの軍事物資の援助を受け、日本政府としても決断を迫られている。 朝鮮半島に出兵するのか否かを。 伊藤博文は、井上馨に指示を出した。「井上君、板垣退助先生と大山巌大将のところに行って、朝鮮半島攻略の戦術を話し合ってくれ」「閣下、陸軍だけではなく海軍のほうも調整する必要があるのでは?」「そうだ、海軍の坪井航三少将と参謀局の児玉源太郎中将も呼びたまえ」「はっ!ただ今!」 井上馨は陸軍省に出かけ、大山巌大将と話し合った後、乃木希典中将、秋山好古少将、海軍の坪井航三少将、東郷平八郎少将、参謀局の児玉源太郎中将、秋山真之大佐を呼び、朝鮮半島攻略のための作戦を話し合った。つづく
2009年11月23日
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水原の朝鮮防衛連隊に行った二人を待っていたのは、撤収作業を始めている兵隊達の姿だった。 一人の兵隊に聞くと、今日中に水原を放棄し3日後に釜山に行って5日後に日本に渡る予定だと言う。 若狭重伍と向井文次郎はそれを聞いて暗い気持ちになった。すでに撤収命令が出ている中、朝鮮半島に残って死をも伴う仕事を進んで志願する兵隊などいるわけが無い。 若狭と向井が連隊本部の方に歩いていくと、秋山少将と黒田少佐が立ち話をしていた。「ご無沙汰しております、黒田少佐」「貴官は向井大尉、どうして水原に?」「今日は連隊の責任者の方に会いに来ました」 文次郎が言うと、秋山少将が話に入ってきた。「ちょっと待て、連隊の責任者といえば大山巌大将である、約束も無しにそんな方には会えぬぞ」「はい、井上馨公使からの紹介状を持ってきております」「井上公使?・・・私が大山大将の連絡役もかねておる、私に見せてみろ」 文次郎は若狭の顔を見た。若狭はうなずくと、井上馨公使からの紹介状を秋山好古少将に渡した。 秋山好古は紹介状をざっと見ると「御用向きは承った、私が大山閣下にお会いしてくるので、本営で待つように・・・黒田少佐、ご案内しなさい」「はっ!」 黒田少佐に案内され本営の一室で小一時間ほど待っていると、秋山少将が厳しい顔をしながら入ってきた。「若狭隊長、大山閣下は今となっては我部隊から志願者を募るのは無理だろうという見解です・・・すでに撤退命令を全軍に出した後なので、兵の士気が高まらないだろうと・・・」「そうですか、仕方ないですね」「あと1日、いらっしゃる日が早ければ・・・残念ですが」「わかりました、我々だけで任務を遂行できるよう、何とか考えて見ます」 若狭と向井は思いとおり行かなかった結果に、重い足を引きずりながら水原を後にした。 チェムルポの軍艦高千穂にいる、岡本参事官に報告を済ませた二人は領事館付きの武官20名で任務を遂行できるか考えていた。 岡本から戦況を聞いた二人は残されている時間がそう多くないことも分かっている。 クロパトキン率いるロシア陸軍の10万の軍勢は、臨津江の戦線を突破するべく着々と準備を進めているらしい。 日本の朝鮮戦線撤退を知ったロシアは、朝鮮半島の利権はすでに我が手にあると考えている。 海軍の方も遼東半島の旅順にある清・北洋艦隊を相手に、ウラジオストック艦隊がほぼ勝利を手に入れていた。 バルチック艦隊はニコライ2世の指示で、すでに地中海に戻るべく小型艦のみスエズ運河を通り黒海に向けて航行している。 スエズ運河を通れない大型戦艦は、マダガスカルに向け艦頭を回航させていた。 戦艦高千穂内にいる井上馨と岡本は、朝鮮に残す部隊にどういう指示を出すか話し合っている。「井上閣下、私が残って指示を出しましょう」「何を言ってるんだね、まさか朝鮮の実権を握ろうなどという野心をまだ持っているんじゃなかろうな?」「何をおっしゃるんですか?この状況でそんなことが言えますか?大日本帝国のために命を捨てようと思っているんです」「やめたまえ、ミエミエだお前の考えは!・・・彼らに任せよう、若狭は忠義心が強い人物だ、きっと我が国にとっていい方向で動いてくれるだろう」 岡本参事官は内心、忸怩たる思いを抱えながら渋々承諾した。 岡本は井上に指摘されたように野心の強い人物で、朝鮮半島の利権を我が手に入れたいと強く思っていた。 岡本は井上馨との話し合いを終えると、若狭と向井を呼び指示を出した。「若狭隊長、今後の活動についてだが・・・」「岡本参事官殿、向井隊長とも話し合いましたが、我々はここを今すぐ離れ、京城内の民衆にまぎれて活動を始めようと思っています」「うむ、そこでだ・・・まず、ロシアが朝鮮の実権を握ったら、朝鮮の民衆を扇動し独立運動を始めるように」「それは・・・」「うむ、向井文次郎が以前息子と会いに行った、朴鉄圭を利用するんだ」「・・・」「朴鉄圭なら朝鮮人民の支持を得られる、そこから撹乱してくれ。本国もこのまま朝鮮の利権を放棄するとは考えづらい、きっと近いうちに朝鮮人民の要請を受けてという形でロシアに対抗していくはずだ」「それはいつごろでしょうか?」「早ければ半年後、遅くても1年後には何らかの行動があるだろう、本国も朝鮮半島の重要な点はわかっているはずだ」「なるほど・・・」「私は一旦日本に帰るが、一ヶ月ほどで朝鮮に戻ってくる、それまでに体制作りをやっておいてくれ」「承知いたしました、ご指示の通りに!」「頼んだぞ!」つづく
2009年11月22日
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日本政府としても苦渋の決断だった。 朝鮮を一旦放棄して、体勢を立て直すという事はすなわち、北海道などがすぐにロシアの脅威に晒される事になる。 伊藤博文や大久保利通、陸奥宗光の3人は、外務次官の林薫次官を通じイギリスやアメリカに対し、ロシアの侵攻をこれ以上許さないよう働きかけると共に、朝鮮半島での全面撤退を決定し、朝鮮防衛連隊の大山巌大将に通達した。 そして3人はその指令とは別に、秘密裏に決死隊をつのり朝鮮人に紛れ込んで、朝鮮半島内部からロシアを撹乱する特殊部隊の編成も指示をした。 この決死隊の編成にはアメリカの意向も絡んでいた。 朝鮮半島をめぐってはアメリカも非常に高い感心を持っている。アメリカはフィリピンをほぼ手中に収め、その利権を確保するのに夢中であったが、もともとがスペインの勢力下であった為、全土を掌握できていないのだ。 フィリピンを完全に手に入れるためには、朝鮮半島での利権を他国に早く認め、そのバーターとして国際的にフィリピンの領有を認知させたい。 アメリカの考えではロシアにこれ以上力をつけさせるより、イギリスか、もしくは日本、清に朝鮮半島を任せればいいと考えていた。 ルーズベルト大統領はロシアのニコライ2世に対し、早い段階から朝鮮半島に手を出さないように求めていたが、ロシアからの返答は「極東の事にアメリカが干渉しないように」というつれない物であった。 ルーズベルトは考えた、朝鮮半島をイギリスに任せるには本国から遠すぎる、清は大国であるが王妃の西太后による国の疲弊でそれどころではない。 残る選択肢は日本しかなかった。 アメリカは日本に滞在中のドイツ人軍事顧問を通じ、政府高官にアメリカの考えを伝えていた。 本国からの秘密指令を受けた井上馨公使は、若狭重伍を呼び善後策を協議した。「若狭君、決死隊の人選だが・・・」「はっ!私が残ります」「ふむ、そうしてくれるとありがたい・・・で、副官は誰がいいのだ?」「向井文次郎を」「うむ、向井か・・・的確な人選であるな、本国からは200人規模の撹乱部隊を残せとの指令だ、向井隊長と人選を進めてくれ・・・今、水原に駐屯している朝鮮防衛連隊からも180人は選抜せねばならん」「はっ!ではさっそく」「わかっていると思うがロシアに悟られてはならん、朝鮮人と同化してあくまで朝鮮人として活動するのだ、ロシアに悟られたら生きて本国には帰れないものと覚悟せよ」「承知しております、お任せを」 若狭重伍は井上馨からの指令を受けると、さっそく向井文次郎を呼んだ。若狭にとって向井は朝鮮で一番信頼できる部下であった、剣の腕も立つし最近では銃の扱いもうまくなった。 若狭は向井文次郎を呼ぶと事の経緯を説明し、是非一緒に残ってもらいたいと伝えた。「若狭隊長、言われるまでも無い事です。私にとってはやりがいのある仕事です・・・ただし、一つお願いがございます」「?・・・お願い?・・・なんだ?」「はい、息子の健一郎も一緒に残して働かせていただきたい。朝鮮語の事、朝鮮人の友人達の事、どれをとっても私より能力があります。息子ももう9歳になりました、私も息子と一緒にいたほうが疑われないかと思います」「娘と妻はどうする?」「出来れば一緒に残れれば・・・私と家族は一心同体です。きっとみなそれを望んでいると思います」「・・・・わかった、私も家族と共に残るつもりであった。お互い日本のために精一杯働こう」「ありがとうございます」「では、これから水原に向かうぞ。朝鮮防衛連隊に行って同志をつのるのだ」「はい」つづく
2009年11月21日
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議政府の手前に野営駐屯しながら次の命令を待っている黒田や文次郎のもとには、戦況報告が次々と届いていた。 臨津江を挟んだ両軍の戦況は膠着状態が一週間続いていたが、その他の各所では清・朝鮮の連合軍が次々と敗走していた。 東海岸のほうではロシアの軍勢はウルサンまで、内陸部でもアンドンまで勢力を広げつつある。 このまま事態がロシア有利に推移し、朝鮮がロシアに奪われると日本にとっては喉元に刃を突きつけられる状態になり、たちまち北海道などがロシアの標的になることは火を見るより明らかである。 ロシアはヨーロッパ方面での対立をフランスとの同盟で安全を担保し、ドイツやイギリスからの攻撃に備えながら、兵力の60%をアジア戦線に投入しつつあった。 海軍もウラジオストックの極東艦隊に加え、ヨーロッパのバルチック艦隊を遠くアフリカの喜望峰を回航させる準備を進めている。 もしバルチック艦隊が日本海や黄海に展開される事態になると、制海権をロシアに完全に奪われる。 清の李鴻章北洋大臣が指揮する遼東半島の根元の都市・旅順を基地にしている、清北洋艦隊もウラジオストックの艦隊を押さえるだけで精一杯である。 一方日本は海軍力を充実させるべくドイツに新造艦を5隻発注していたが来年の夏にしか日本に届かないため、状況が切迫してきている状況で、ドイツの現役戦艦2隻を急遽購入し、その2隻はすでにインド洋まで来ているので、あと2ヶ月ほどで日本に到着する。 ドイツからの戦艦が日本に到着し、乗組員の航海訓練などをしなければならないことを考えると、バルチック艦隊が日本海に現れると思われる時期が遅くなればなるほどいい。 日本はロシア艦隊に補給をしないように、インドを含めた東南アジア諸国に外交戦術を駆使していた。 その日本の外交戦術が功を奏し、バルチック艦隊の到着が2週間ほど遅れる成果を挙げていた。 文次郎のもとに副官の安達源六が小走りにやってきた。「隊長、岡本参事官からの伝言です」「うむ、なんと指示があったのだ?」「はい、本日付で我中隊は大山巌大将率いる、日本陸軍朝鮮防衛連隊に合流し、黒田大尉はそのまま我中隊を率いて、水原の防衛連隊に向かうようにと・・・そして向井大尉は、領事館付き武官を率いて原隊を離脱し、領事館に復帰せよ・・・とのことです」「では、ここを放棄するのか?」「はい、岡本参事官からの指示ではそう言ってきています」「うむ・・・斥候部隊からの報告では、すでにここから5キロの地点までロシア軍の前線部隊が迫ってきているとの話だ、今ここを放棄すると京城も危ないぞ」「しかし隊長」「わかっている、命令は絶対だからな」「はい、では」「そうだな、至急領事館付き武官達を集めて、今の指令を伝えてくれ、2時間後に原隊を離脱するぞ」「はい、行ってきます」 向井文次郎は、安達副官に指示を出した後、黒田大尉の軍幕に向かった。 黒田大尉の元に文次郎が着いた時、黒田大尉も朝鮮防衛連隊からの指示を受けているようであった。「黒田大尉、貴官を少佐に任命し朝鮮防衛連隊・第5中隊の中隊長を命じる」 黒田大尉に向かって、大佐の襟章をつけた軍人が命令を出していた。「はっ!秋山大佐!黒田少佐、任務を全うするべく全力にて職務を遂行いたします」「わかっているだろうが、私の大隊に所属する事になる。私はこの期に騎馬小隊を各部隊に作りたいと思っている、協力してくれるな?」「はっ!」 秋山好古大佐は、この戦争の後ロシアとのドロドロの戦いの中、騎馬中隊を率いて清の関東州を駆け回り、弟の海軍の秋山真之とともに日本の歴史に名を残す人物となる。 京城の領事館に戻った文次郎は、岡本参事官のもとを訪れた。今後の方針を聞くためである。「向井隊長、ご苦労であった。これから我々はチェムルホ(今の仁川)に引越しをする事になった。準備をしっかりしてくれ・・・明後日出発である」「チェムルホですか?」「そうだ、チェムルホに停泊している軍艦”高千穂”に領事館の機能を移す」「高千穂に?」「そうだ、結城隊長と向井隊長は、しっかり井上馨公使の護衛を頼む・・・いつなんどきロシア軍が来ないとも限らん。臨津江の戦線がいつ敗退してもおかしくない状況なのだ」「そんなに・・・」「清と朝鮮の連合軍では戦いにならない、すでにロシア軍は遼東半島全域に勢力を伸ばしておる。だから我々もいつでも本国に帰れる状態にしておかねばならん」 井上馨はその頃、景福宮に高宗を訪ねていた。 チェムルホに日本領事館を移す事を通告に来ていたのある。 高宗は井上の話を聞き、清との連合軍ではロシアに対抗できない事を悟り、正式に日本政府に保護を求める考えを示したが、井上は冷淡にこの申し出を断った。 すでに本国からは朝鮮の権益をいったん放棄し、落ち着いてから奪還について検討という考えであった、つまり現時点での朝鮮半島の利権の放棄を決めたのだ。つづく
2009年11月18日
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文次郎が日本兵達と漢江を渡り、京城の市内に入って行くと鐘路の広場に人々が大勢集まっていた。「隊長、あれは何で集まっているのでしょうね?」「安達君、ちょっと見てきたまえ」「はっ!」 安達源六副官が小走りに群衆のほうに駆け出すと、逆に群衆の中から文次郎達に朝鮮政府の役人が駆け寄ってきた。「日本軍の方々ですね?」「そうだが・・・なんだね、あれは?」「これから罪人達の処刑が行われます、立ち止まらずに早々に立ち去っていただきたい」「処刑?誰だね?」「今日は3人です」「今日は?」「明日も処刑が行われます」 文次郎は進軍を停めないように指示を出し、行軍を続けながら安達源六が戻ってくるのを待っていた。鐘路を通り過ぎ昌徳宮の北の端に着くころ安達源六が行軍に追いついた。「隊長、閔王妃派の大臣達の処刑です。閔王妃の兄や親戚に当る大臣が処刑されるようですね・・・たて看板には”ロシアに内通して国を売った売国奴”と書かれていました」「そうか・・・このような国難の時でも、朝鮮の朝廷は相変わらず権力争いをやっているんだなぁ~・・・これからは大院君の天下だな、でも朝鮮という国がなくなってしまうかもしれないという時に、わかってないんだなぁ~」「大院君といえば、井上閣下が清と結託しているから信用するなといつも言っている爺さんですね?」「そうだ、本当に食えない爺さんだよ」「隊長は会った事、あるんですか?」「あるよ、小柄な横柄な人だった」 文次郎と源六が話しながら歩いていると伝令が文次郎のもとにやってきた。「向井隊長殿、岡本書記官殿からの伝令です」「なんだ?」 文次郎は指令書を手に取って読み終わると、源六に指示を出した。「先軍の黒田大尉にこれを持って行って伝えてくれ」「はっ!」「今日はここで野営する」「はっ!」 指令書には、”ロシアの軍勢が開城から京城に向けて進軍中、次々と防衛線を突破されている次第、貴官は議政府まで行かず、昌徳宮北方で陣を張り次の指示を待て”とあった。 ちょうどこの頃、袁世凱率いる2万人の清の軍勢と朝鮮兵4千人は京城郊外から開城に向かう街道沿いを北上中であった。 大院君の要請でロシアを迎え撃つべく、最終防衛線の臨津江に向けて急いでいたのである。 全体的な戦況は、陸戦も海戦も各地でロシア軍の勢いが強く、清・朝鮮の連合軍は敗走を続けている状況であった。 袁世凱の軍が向かっている臨津江の最終防衛線は、清と朝鮮の兵3万人で臨津江の南岸を守っているが、圧倒的な火力の差で朝鮮側が劣勢である。 情勢的には援軍が到着しても、朝鮮側がたちどころに有利になるということはない。 文次郎達は野営の準備をしながら次の指示を待った。「向井大尉」「あ~、黒田大尉、どうされましたか?」「どうも私は納得できないのだが・・・この戦、お上はどうするつもりなのだろうか?」「岡本書記官殿の指示ですと、我軍は積極的にこの戦いには関わらず、撤退のタイミングを計っているように感じますね」「撤退?」「はい、本国でも決断がまだついていないようです。なので基本的には方針が決まるまで関わるな・・・ということだと考えますが」「なるほど・・・貴官の言う事は一理あるな」「恐縮です」「向井大尉、貴官は朝鮮については詳しいようだが・・・」「そうですね・・・もう5年になります、朝鮮民族はかわいそうです・・・朝鮮の国民は奴隷同然です今でも・・・」「それではかえってロシアがこの国を治めたほうがいいんじゃないのか?」「一番いいのは政治構造が変わって我が国のようにすべての人が教育を受けられる、国民のための国に生まれ変わってくれるといいなぁ~と思っています。そのための人材も朝鮮には多くいます。ただ今の体制では野に隠れているしかないんです、そういう気概を持った人物が・・・」「そうか・・・私は軍人だから難しいことはわからんが、朝鮮国が向井大尉が思うような国になってくれればいいんだがな」つづく
2009年10月21日
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第2章 ロシアの野望 元山港でのロシアの艦砲射撃に驚いた李王朝であったが、ただ一人大院君だけは強硬姿勢を崩さなかった。 狼狽するほかの大臣達に対して、次々と指示を与えていくと共に、ロシアに近い閔王妃とその一族を電撃的に逮捕し朝廷内の親ロシア威力を封じ込めた。 大院君の打った手は、清の李鴻章に密使を送り、清の北洋艦隊を元山に派遣してもらうように要請し、清の陸軍兵を袁世凱の指揮のもと元山に3千名の派遣を要請した。 又、日本の井上馨公使には先に増兵した日本兵を京城防衛のために、京城南方の蚕室(チャムシル)の付近に集結してもらうように依頼した。 朝鮮国内は、元山港のロシアの攻撃の噂が駆け巡り、一部の若者の間では朝鮮軍に志願する者も現れ始めていた。 向井文次郎は、井上馨公使の指示を受けて副官の安達源六と共に、日本兵案内役として蚕室に派遣される事になった。 実戦経験の無い副官の安達は不安そうに文次郎に話しかけた。「向井隊長、実戦のなるとお思いですか?」「ロシア側の出方次第だが・・・今すぐ京城で、と言うことは考えづらいと思うが・・・」「ならいいのですけど」「ただし、元山での事態が悪い方に動くと、我々が地上部隊として派遣される可能性は高いと思う」「しかし我々は案内役ですよね?」「確かに案内役だ、しかし30名の手練れがいるのだから、白兵戦になったら戦わざるを得まい」 事態は文次郎の予想通り、ロシアの攻撃が強まり元山とその一帯は、日本兵が派遣される間もなく、瞬く間にロシアに占領されてしまう。 そして元山沖でロシアのバルチック艦隊と清の北洋艦隊の海戦が始まり、同時にロシアの地上兵が咸鏡道と平安道に攻め込んできた。 わずか1ヶ月足らずで松都(今の開城)近くまで勢力を伸ばしたロシアは一転して、清の領土である遼東半島方面にも兵力を展開し始め、露清戦争の様相を呈してきた。 日本政府はこの事態に苦慮し、積極的に関わるのか、一歩引いて事態の推移を見るのかで国論が二分していた。 伊藤博文や福沢諭吉は、朝鮮にこれ以上関わるには日本の国力が不足していると、一歩引く見方をしているのに対し、大久保利通や前島密などは、この際清と共に朝鮮を助け日本の勢力下に朝鮮を置くべきだと主張している。 朝鮮国内にいる日本関係者の間でも、井上馨公使は伊藤博文などに近い考え方なのに対し、野心を強く持っている岡本書記官は、この混乱に乗じて自分の野望である将来の朝鮮の支配権を自分が持てるよう、戦争に積極的に関わってそのきっかけにしたいと考えていた。 そんなある日、蚕室で日本兵の世話をしている文次郎のもとに、予告も無く井上公使が若狭重伍を伴いやってきた。「向井隊長、来週には議政府への部隊の移動があるが準備はどうかね?」「はい、井上閣下。順調に整っております」「分かっていると思うが、ロシアの挑発に乗ってはいかんぞ、どうも部隊の大隊長の黒田大尉は血の気が多くていかん。薩摩の人間はすぐ頭に血が上るからのう・・・それを押さえる事もそなたの仕事である」「承知しております」「伊藤博文閣下の承認を得て、貴官を臨時陸軍大尉に任命する事になった。これで黒田と同じ立場になるから話もしやすかろう」「はい、わかりました」「いいか、向井隊長。もし戦闘行為が起こる気配があったら、戦わずにすぐ京城に撤退しろ。兵力を温存して京城に戻ってくるのだ」「一度も戦わずにですか?」「そうだ、私の考えではロシアの勢いには勝てない、一旦引いて体制を立て直す必要がある、それに我が国の方針もまだ決定していない。決して早まることの無いように」「わかりました」 井上との話を終えた文次郎に若狭重伍が近づいてきた。「ご苦労さん」「はい、ありがとうございます」「君の家族の事だが・・・」「はい」「我々京城領事館付きの武官の家族は、明後日日本に帰国させることになった。向井隊長の家族も済物浦(チェムルポ・今の仁川)から日本に帰す。なにか伝言はあるか?」「・・・京都の私の家に戻るように伝えてください、ちょっと待ってください」 向井文次郎は若狭重伍を待たせて、妻ちえに手紙をしたため若狭に託した。「安達君、君の家族にも伝言を・・・」「私には子供が居りませんので、妻には京都三条の私の兄の所に行って居れと伝言してください」「安達君、君のお兄さんが三条にいるのかね?」「はい、三条東洞院に住んでおります」「私の家は三条麩屋町だ、ご近所さんじゃないか・・・」「実は私は向井隊長の家は存じ上げています。私の母と向井隊長のご母堂が同じ茶道の道場での顔なじみです」「そうだったのか・・・こんな遠き朝鮮国で故郷京都の話をするとは思わなかったな」 若狭重伍が二人の話をさえぎり「ふるさとの話はその辺にしておけ、今度の任務は簡単ではないぞ、心してかかるように」「はい、わかりました」「うむ、では家族の事は安心して仕事に当ってくれ」 週が明け、向井文次郎達を含めた2千人の日本兵部隊は漢江を渡り、議政府に移動を始めた。つづく
2009年10月17日
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井上馨公使は高宗に謁見すると日本側の考えを高宗に伝え、民生面での支援を強く約束して高宗の決断を迫った。 井上が提案した内容は次のようなものであった。1.日本政府が10万両の財政支援をし(借款の形)1年以内に100以上の初等教育の機関を建設する。2.教育機関の教師育成のため、来月より師範学校を開校する。3.京城と釜山に西洋医学の大病院を建設する。4.仁川から京城間に鉄道を敷設する。5.日本は以上の約束を果たすため前島密を朝鮮担当長官として派遣し常駐させる。副官として朴鉄圭を復権させ朝鮮側の窓口とさせる。6.前島密は朝鮮でも大監職相当の地位を得る。7.新たに元山港、浦項港、大川港の埠頭使用を認める。8.貿易にため滞在する日本人警護に新たに日本陸軍兵5千人の駐在を認める。 そして、井上は高宗にこう迫った。「以上の条件プラス王妃の散財をやめさせる事ができたなら、日本はロシアに対する李王朝の借金9万両を肩代わりする用意がある。そのためにはロシアが朝鮮半島からの撤退を約束させる事が条件になる」 高宗は迷いに迷った。 日本側に提案は非常に魅力的なものだ、しかし天津に幽閉されている父の大院君は外国勢力の廃除を強く推進していた。 この条件を飲んで、日本の朝鮮への関与を大幅に認めると大院君が朝鮮に帰ってきた時、大きな叱責を受ける事は間違いないだろう。しかしこのままの状態をほっておくとロシアにもっと厳しい条件をつき付けられる事は間違いない。 王妃の親ロシアの考えを説得できる自信も無い。王妃は元山港をロシアに渡して新たな金策をしようと圧力をかけてきている。 高宗には大きな欠点があった。君主に一番必要な決断力が無かったのである。 冷静に考えると日本側の提案は非常に魅力的で、高宗自体が望んでいる教育問題もクリアになる。しかし大院君側からも王妃側からもこの日本からの提案に乗ると反発が予想される。 高宗は持って生まれた優柔不断さを発揮し、井上の提案に魅力を感じつつも決断できないでいた。 高宗は京城に滞在中の清の袁世凱に使いを出し、李鴻章・北洋大臣宛に密書を送った。どうしても自分一人で決断できなかったので大院君を朝鮮に戻してもらいこの難局を乗り切ろうと考えた。 この要請には乗ってこないであろうと考えられていた李鴻章だったのだが、2年間に渡った大院君の幽閉を中止し、すんなり大院君の釈放を認めた。 大院君は朝鮮に戻ってくるなり、外交内政問題より閔王妃派大臣の粛清を始めた。まったく時代が読めていなかった。 高宗の苦悩は益々深いものになっていく・・・ 清の李鴻章の狙いは、大院君を朝鮮に帰しロシア側の王妃と日本になびきかけている高宗との三すくみ状態を作り出し、影響力が落ち始めている清の影響力を維持させるための苦肉の策であった。 李鴻章の思惑通りになるかと思われたが・・・ ロシア側の大きな巻き返しにあい、その狙いも頓挫する事になった。 ロシアの軍艦3隻が元山港に入港し、砲台を街の裏山に向けて艦砲射撃を始めたのである。 高宗をはじめ李王朝の大臣達は震え上がった、なだれを打ったように国論はロシアに迎合するものが形成されていった。つづく
2009年10月14日
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「それは、日本から教育担当の顧問を迎え全面的な教育改革をする事です。更に財政面でも何らかの手を打つ必要があります。日本は決してこのことであなた方を支配するつもりはまったくありません」「教育顧問?それは抵抗がありますね・・・まず無理でしょうな」「民生面で改革をしていると言う姿勢を諸外国に見せれば簡単に征服される事は無くなります、私たちはその手助けをしたいだけなのです」「・・・向井さんが言う、学校を作って誰でも教育を受けられる事が本当に実現できるなら素晴らしいと思いますが・・・私にはその力は今は持っていないですからね」「朴鉄圭さんにその気があるなら、井上公使から王様に働きかけます。朝廷はあなたもご存知の通り、大院君派と閔王妃派との争いがまだ続いています。今のタイミングならあなたの復権もそんな難しいことではないでしょう」「私の復権?どんな方法で?」「それは井上公使に任せれば大丈夫です、ただしあなたに改革の意欲が無ければ私達の動きも無駄になります」「・・・皆と相談してみます、ちょっと時間を下さい」 朴鉄圭は向井親子が帰った後、友人達を集めて向井親子が言った事が本当かどうか調べる事にした。 本当に日本の制度が向井文次郎の言うようになっているなら、朝鮮国の子供たちにとっても素晴らしい事だ。それを手助けしてくれるなら日本を拒否する理由は無い。 それに日本を今の朝鮮国に積極的に引き入れることで、清国やロシアを牽制できる。 後は日本に対するアレルギーをいかに抑えるか・・・これが一番の問題かもしれない。 この頃、朝廷では高宗がロシアからの要求に頭を悩ませていた。先日ロシア公使が高宗のもとを訪れ言った。「今までのロシアからの資金提供は7万両になる。利息を含めると9万両相当だ。私も本国からどうなっているのか聞かれ非常に困っている。もし元山港をロシアに割譲してもらえるなら今までの借金を棒引きした上に、さらに5万両出しましょう。返事は半月後に・・・」 高宗は閔王妃の浪費にはホトホト手を焼いていた。財政がこんなに逼迫しているのに祭祀をやめようとしない。 今ではにわか巫女が王妃の祭祀を目的にどんどん増え、前回の祭祀など巫女だけで800人を超える規模であった。 大院君も景福宮再建のために朝廷の財産を湯水のごとく使ったが、まだ景福宮再建という大義名分があった。 しかし王妃の浪費は、わが子と爆死をした自分の親に対する祭祀なので、あくまで個人的な支出である。それを国のお金を使っているというところに国民の怨嗟がつのっている。 高宗は大臣達と相談していたが具体的に方向性は何一つ決まっていなかった。 大院君派の大臣達は、王妃を廃する事を言い出し、王妃派の大臣は大院君が天津に幽閉されていることに目をつけ、清に働きかけて大院君を死刑にするように画策している。 閔王妃は今までに2度、刺客を天津に送ったが暗殺に失敗している過去がある。 双方とも自分たちが生き残るために必死なのである。このような国内情勢で外国に目を向けなさいと言う方が無理であった。 そうこうしている間にもロシアからの借金返済の圧力は強まっている上、その間にも王妃の浪費は続き、ロシアはどんどん王妃にお金を使わせるように仕向けていた。 ロシアからの高宗謁見から1週間ほど過ぎたあと、井上馨公使は向井文次郎を伴って高宗に会いに来た。 向井親子の朴鉄圭との話の内容を伝え、朝鮮独立のために日本からの財政支援の話をするためである。財政支援の条件に朴鉄圭の復権を求めるつもりである。 清とロシアの関係も風雲急を告げ、日本も動きを早めないと今までの朝鮮政策がすべて覆される事態が起こりかねない状況になっていた。 つまり両国の戦争である。 井上馨は今回の謁見は妥協できないぞ、と覚悟を決めていた。つづく
2009年10月13日
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朴鉄圭のあばら家の近くに行くと、あばら家の裏の畑で農作業をしている男がいた。 健一郎は、それを見ると男達の方へ走っていった。 文次郎は息子の健一郎を見ながら、わが息子ながら聡明に育っていると感心しながら、成り行きを見守るように木陰に隠れて様子を伺っていた。「おじさんたち、ここで何を作っているの?」「なんだ?ぼうず、何しにこんな所まで来た?」「あのね、朴鉄圭さんに会いに来たの」「鉄圭?・・・あそこにいるのがそうだよ。おーい、鉄圭!」 クワを肩に担いだいかつい男が坂道を降りてきた。「なんだ?承宜」「お前が好きそうな頭の良さそうな子供が、お前を訪ねてきたぞ」 鉄圭は健一郎の方を見ながら「見たことがない子供だなぁ~誰だお前は?」「はじめまして、私は向井健一郎と申します。父上は日本領事館の署員です」「なに?倭人の子供?・・・倭人に知り合いはいない、帰れ!」「ナウリ、私は1歳の頃から朝鮮に来て5年少々経ちました、日本人と言っても日本のことは何も知らないのです。でも幼い私でもこの国の病気は何か知っています」「・・・病気?面白い事をいう子供だなぁ~・・・では聞く、この国の一番の病気のもとは何だ?」「ナウリ、それはナウリがここで畑仕事をしている事が一番わかりやすい事です・・・正しい者が真っ当な評価を受けない・・・これが一番の病気の原因かと」「鉄圭、この子供すごいな、慧眼だよ・・・お主、本当に6歳の子供か?・・・こんな子供にさえ見えていることが、朝廷の大臣達には見えていないんだ」「承宣、倭人はこんな子供でも世の中の道理を理解している、倭国が急激に発展するわけだ。我が国は両班の子供は、500年前の明や清の古典ばかり読んで、世の中を広く見ると言う事が出来ん・・・それどころか我が身の出世の方法ばかり勉強している・・・あぁ」「ナウリ、日本には私ぐらいの子供は掃いて捨てるほど居ります。すべての子供が学校で勉強する機会があるのです」「すべての子供?そんなでまかせを言うな。身分の高い親を持つ子供だけの話しだろう?」「いいえ、日本では平民の子供でも学校に行けます。村に一つは国民学校があります」 朴鉄圭は、健一郎の話を聞き衝撃を受けた。子供の教育、しかも身分に関係なく教育を受けさせている日本に対してである。 このままでは今以上に日本と我が国の国力の差は開くばかりだ、朴鉄圭は即座にそう思った。 健一郎の話を聞き、朴鉄圭は仲間たちと向井文次郎の話を聞くことを承諾した。 向井文次郎は、日本の学校教育の制度をわかりやすく話し、朝鮮国でもこの制度を取り入れるべきであるとの持論を展開した。「いいですか皆さん、これは亡くなった金玉均さんにも話したことですが、朝鮮国での学校教育の柱はハングルを教えることです。それが教育を受けた者に国に対する忠誠心を養う事になるし独立心も生まれてくるのです」 朴鉄圭は金玉均の名前を聞いたとたん、驚いたように言った。「向井さん、あなたは金玉均先生と会ったことがあるのですか?」「会った事があるどころか、上海から日本まで1ヶ月一緒に船旅をした仲です。朝鮮国に日本の制度を取り入れて教育に力を注ぐとおっしゃっていらっしゃいましたが・・・残念です」「そんなことを言って、朝鮮国を乗っ取るつもりなんじゃないでしょうね?プンシン・スギル(豊臣秀吉)の事を、我々はまだ忘れていないのですよ」「ハハハ!・・・今の朝鮮国はねずみを怖がって虎と狼を呼び込もうとしています、お分かりになりますかな?」「清のことですか?」「さよう、清とロシア」「我が国は昔から清の弟国でしたから、招き入れると言う表現はおかしいですな、そんなことも知らず・・・」「鉄圭さん、そんなことは百も承知です。逆にお伺いしますが今の清の考えをご存じないのですか?」「清の考え?」「くだらない政争ばかり繰り返している朝鮮国を正式に清国に組み込もうと動いておりますぞ」「ロシアは?」「閔王妃に相当深く食い込んでいますぞ、このままだとロシアの兵士が朝鮮国に進駐する日も近いでしょうな」「兵が進駐?」「まだわかりませんか?清とロシアが朝鮮国を取り合って戦争が起こるということです」「そうなると日本は?・・・混乱に乗じて・・・」「だから、ねずみを恐れて虎と狼を招き入れると言っているのです。この状況を防ぐ手は一つです」「それは?・・・」「それは・・・」つづく
2009年10月12日
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金玉均の事件より半月ほど後、向井文次郎は6歳になった息子の健一郎と共に京城から1日がかりで良才(ヤンジェ)まで出かけた。 良才洞は京城から漢江を南に渡り、18キロほどさらに南に行った所にある。 向井文次郎は井上馨からある密命を受けていた。良才に住んでいる朴鉄圭に会いに行く事であった。 彼は今でこそ白丁(ペクチョン)の身分だが、5年前の軍乱までは李王朝で期待の若手の官僚であった。軍乱の処分に連座しひどい拷問を受けた後、両班から最下級の白丁に身分を落とされていた。 実は朴鉄圭は軍乱には一切関わりが無く、彼の才能と出世の速さをねたんだライバルの諫言がもとで陥れられたのであるが、彼の無実の叫びも届かず、言われなき罪を被ったのである。 しかし彼のもとには彼の才能を惜しみ、良識派の若手両班が1ヶ月に何人も訪れている。外から李王朝を見ることで彼の李王朝に対する見識眼は一層鋭さを増したようで、特に外交政策に対しては高い見識を持っているようであった。 警戒心の強い彼に会うためには初対面の文次郎一人では会ってくれそうにも無い、ただ無類の子供好きとの情報を得て、文次郎は息子の健一郎を連れてきたのだ。 一応300年ほど前からの日本への朝鮮通信使の出発地点である良才には宿泊施設はあるはずである。しかし漢江を渡り良才に近づくにつれどんどん山深くなり文次郎は日が落ちる前に良才へと急いだ。「健一郎、あと1時間ほどで着くはずだ、日が落ちる前に良才に到着するように早足で行くぞ」「はい、父上、私は大丈夫でございます。ケンチャナヨ・・・でございます」「ハハハ、お前は朝鮮語も大分覚えてきておるのう、どこで覚えるのじゃ?」「朝鮮人の友人がおります、私は物心付いた時より朝鮮で暮らしておりますゆえ・・・」「そうか、綾やお前の事はちえに任せっきりで、父は何も知らんからなぁ~・・・そうか朝鮮人の友人がおるのか」「そうでございます、姉上も朝鮮語は話せますし、母上も話せます」「なんと!わしが知らなかっただけだのう・・・考えてみれば朝鮮に来て早5年、家族みんなが話せても何の不思議も無いわい」「父上は、井上閣下や岡本様の護衛をされて、忙しい毎日を送っていらっしゃるのですから仕方ありません。私も母上も姉上も家族みんな父上を尊敬しております」 健一郎は6歳にしかなっていないにもかかわらず、実に堂々とした男の子に成長している。文次郎は改めてちえに対して感謝の気持を持った。 何とか日が沈む前に良才に着いた文次郎親子であったが、宿泊が出来る酒幕がなかなか見つからなかった。幾つか酒幕だったらしき建物もあったが廃墟になっている。 やっとの思いで探し当てた酒幕も決して心地よく寝泊りできる宿ではなかったが、雨露がしのげるだけでよしとしなければならない。 酒幕の女将に聞くと、忠清道で起きた民乱を鎮めるため派遣されてきた清の兵士が、良才一帯を荒らしまわり、300人ほど住んでいた人たちが今は100人ほどになっていると言う。「女将、お尋ねしたいことがあるんじゃが・・・お主は朴鉄圭さんの家はどこか知らんかね?」「ナウリ、知っとおりますよ、向こうの丘を下った谷の脇の家ですよ・・・でも・・・」「でも?」「ナウリ、ナウリは倭人じゃろ?」「まさしく、日本人であるが、それが?」「倭人には会わんと思うがの」「しかし会わねばならんのじゃ、わしは彼の友人を知っておる、女将が心配するまでもない」「それなら良いのじゃが・・・ここが清の兵士に荒らされてからは、朝鮮人以外信用できないと言っておったしの」 朴鉄圭は白丁に身分を落とさせてはいたが、彼を慕って両班の若手が多く彼の回りに集い、いわゆる両班の若手の先生のような存在になっていた。 翌日文次郎は健一郎を従え、意を決して朴鉄圭が住むあばら家へ尋ねていった。つづく
2009年10月06日
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向井文次郎は晒された金玉均を見て、副官の安達と一緒に金玉均と南京・上海から日本までの船旅を思い出していた。 あの理想に燃えた青年が、今は五体をバラバラにされ極悪人として晒し者にされている・・・この国はどこか間違っている・・・文次郎はなぜこの青年が罪人にされなくてはならなかったか・・・金玉均の無邪気な笑顔を思い出すと、むなしさが募る。 約一ヶ月の日本への旅の道中で、金玉均が語った朝鮮国の将来像は素晴らしかった。「文次郎さん、私は日本がこの10数年でヨーロッパやアメリカに負けないくらいの国力を蓄えた秘密を知りたいのです。たぶん朝鮮国の素晴らしい将来も同じ東アジアの日本に答えがあると思っています」「玉均さん、私も4年間朝鮮国を見てきましたが・・・一番大きな違いは何だとお考えですか?」「・・・国民の意識・・・ですかね?」「そうです、その通りです」「いいですか?玉均さん。私は朝鮮国が好きだ、だからあえて言わせてもらいます。日本は庶民でも多くの人が文字を読めるし、子供たちは学校に通って勉強できる。努力すれば総理大臣にだってなれるかもしれない・・・でも朝鮮国はどうです?両班は国民から財産を搾り取る事しか考えていないし、国民が学を持つと厄介になると学習する機会さえ与えない。そして朝廷は国民の事より自分たちの勢力争いだ・・・玉均さん、庶民を目覚めさせるのは新聞ですよ、ハングルですよ、学校ですよ・・・わかりますか?」「私も両班の端くれです、今の朝廷の状態や両班の行動を、他国の方々に見せるのは恥ずかしい。しかし教育が大事と思いますが、ハングルですか?」「そうです、朝鮮民族を意識し団結力を高めるためには独自の文字です、朝鮮にはハングルと言う立派な言葉があるではないですか?国民を目覚めさせるためにはハングル教育が一番ですよ」「文次郎さん、ハングルですか・・・もう400年、朝鮮国で眠っている言葉ですからね・・・果たして、どうでしょう?」「いいですか、話し言葉としては確立しているのですよ。清の影響から脱するためにも漢文から独自の文化であるハングルに目を向けるべきです、それが民族に自立につながります」 金玉均は文次郎との話のなかでも、目を輝かせながら朝鮮国の未来について語っていた。文次郎の遠慮の無い批判にも素直に耳を傾け、さかんにうんうんとうなずきながら話を聞く度量の深さがあった。 文次郎はあの屈託の無い笑顔を思い出していたのである。 金玉均は日本に到着すると、伊藤博文や福沢諭吉などに会い、明治維新以来の日本の取ってきた道や考え方、国を富ませ国民に豊かな生活をさせるためにどうやってきたかを聞き、秘かに朝鮮国に帰って高宗に謁見し、見たまま聞いたままを話したのである。 高宗は金玉均の話に痛く感激し、朝鮮国のお手本は日本であることに気がつき、金玉均を制度改革のための大臣に指名し周囲を驚かせた。 金玉均の制度改革は、もう革命に近いほど過激であった。税金の制度の問題や身分制度の問題、両班の国民への過剰な搾取に対する問題。 しかし彼の改革は性急過ぎた。 いつもの李王朝のパターンである。 守旧派、つまり既得権を持っている連中の陰謀にはまり墓穴を掘ってしまう。 高宗の指示で日本へ逃げた金玉均だが、閔王妃派の陰謀により日本から上海に呼び出され、彼の地で暗殺されて屍となって朝鮮国に帰ってきたが、王妃派の大臣達はその屍をバラバラに切り刻み、朝鮮国の各地に晒したのである。 どの時代でもそうであるが、正論がつぶされ既得権者の利権が増大していく国は、間違いなく滅びる。 この出来事一つでも、朝鮮国が滅亡への一里塚へ猛スピードで突き進んでいた事がわかる。 金玉均が処刑されてから、彼に賛同していた若手の官僚たちも日本や中国に亡命したが、彼らたちの一族はことごとく誅殺され、守旧派大臣達対する反抗心を持つ人物は朝廷から消え去った。 その結果、王妃の暴走を止める人間がいなくなり朝廷の財政難から、閔王妃は混ぜ物をした通貨を大量に作り、庶民の暮らしぶりは益々困窮していく。 財政難からロシアにどんどん借りを作っていく王妃。 朝鮮の崩壊も間近、と言う空気が色濃く漂い始めていた。 金玉均の事件から1年程が過ぎ、文次郎はたびたび井上馨公使に付いて景福宮にも入るようになった。 若狭重伍が井上公使の護衛の責任者であったが、サブとして文次郎が指名される事が増えてきたのだ、それには理由があった。 この頃になると清の袁世凱の李王朝へのプレッシャーが大きくなり、景福宮内に清の兵隊がなだれ込み威嚇行為を繰り返していたのである。 朝廷内で不測の事態が起こる事も考えられ、井上公使や岡本事務官が高宗に謁見する時には、15人体制で護衛に付き、一番剣の腕の立つ文次郎は2度に1度は指名されるようになっていた。 高宗は朝廷内では孤独であった。 彼の手足となるはずの大臣達は閔王妃の息のかかった人物ばかりで、こんな事ならまだ自分の父親が権力を握っていた時の方がマシであった。 いつの頃からか高宗は、権力をもぎ取られた今までの王様と同じように、酒と女色に耽るようになる。 文次郎が景福宮に出入りするようになって、しばらくして高宗が空を眺めながらため息をつくところを度々目撃するようになった。つづく
2009年09月30日
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大院君の手下の犯行であった閔王妃の母兄の爆殺事件の影響で、清の袁世凱の兵が2千人ほど京城の町に常駐するようになった。 日本側としては面白くない、本国からも”事態の打開方法を考察し上申せよ”と指令が来ている。井上馨公使は閔王妃に度々接見し復讐をしないように説得しながら、清に対してもこれ以上清の兵士を京城に入れるなら、日本側も邦人保護のため軍隊を常駐させると通告した。 邦人保護を口実にされると、清の側も反論できない事情があった。 清の兵隊が京城になだれ込んだ時、略奪や女性に対する暴行が頻繁に発生し、袁世凱も手を焼いていた。清の兵士達は伝統的に敵国に入ったら略奪や陵辱を行う事で有名である。これは儒教の国に多く見られる現象で、自分たちの民族以外は基本的に人間とはみなさないので、敵地に入ると悪の限りを尽くすのである。 今回も京城への派兵の過程で、清の先兵による日本人の商店や日本人女性への略奪や放火、陵辱事件が発生していた。なので袁世凱も井上の要求を呑むしかなく、2千人の兵士を1ヶ月以内に半数に減らす事を約束した。 しかし袁世凱もタダでは転ばない。表立っては外国との交渉をしないといっている大院君が日本側と秘かに接触していると言う情報をつかむと、大院君を拉致し天津に幽閉してしまった。 こうなると李王朝の権力は、閔王妃に集中する。 1882年の軍乱によって、趙大王大妃の勢力はほぼ殺されてしまい、同時に殺された閔王妃の義兄に代わって、王妃の義弟や兄の息子が権力を握るようになる。 王妃は権力を握ると益々、朝廷のお金の無駄遣いを始める。 爆殺された母親の祭祀(チェサ)、生まれた時から肛門が無く生後一週間で亡くなった息子の祭祀などを頻繁に行い、お金が足りなくなるとロシア公使の妻にお金を無心するという事を繰り返すようになった。 井上馨にとって、清だけでも頭が痛いのに、そこにロシアが加わるという朝鮮半島の利権をめぐっての争いも混沌としてきたのだ。 朝鮮半島の利権とは何か?それは各国の事情によって異なる。 清は人的資源の確保、これは今まで毎年何百人もの優秀な人材や女性をを朝鮮から得ていた。 日本は中国大陸進出のための橋頭堡としての利権。 ロシアは南方の領土拡大と、冬になっても凍らないアジア側の拠点となる港を求めていた。 朝鮮には資源と呼べるようなものは何も無く、利権と言っても当時の大国が運営する植民地経営のようなお金が絡む話ではなかった。 そういった情勢の中で文次郎の仕事も次第に隠密性を秘めるようになる。 朝鮮国に来て4年ほどが経過し、文次郎も朝鮮や京城のことを把握して一人前に仕事をこなしていたある日、井上馨から呼び出しを受けた。「向井隊長、安達副官と2人で清に行ってくれんか、任務は・・・」 井上が命令した任務は、清の南京に留学している金玉均(キム・オッキュン)に接触し、秘密裏に日本に連れて行き、伊藤博文と福沢諭吉に会わせる事であった。 金玉均は若手の論客であり、高宗からも信頼が厚く、高宗は秘かに宮廷に呼んでは意見を聞いていた。 井上は金玉均を日本側にしっかり取り込もうと考えたのだ。 そのためには日本が朝鮮占領などの野心が無い事を金玉均に知らせる必要がある。 なので金玉均を日本に連れて行き、朝鮮の植民地化に反対している伊藤博文と福沢諭吉に会わせるのである。 向井文次郎は副官の安達源六と清の南京に向かった。 この後任務を果たした二人は、金玉均が高宗と組んで大院君側の大臣の一掃を試みるが、失敗に終わり、大逆罪に問われ亡命先の日本から上海におびき出されて暗殺され、金玉均が死んでも五体をバラバラにして晒されるという、ひどい仕打ちを受ける結末を見ることになる。つづく
2009年09月27日
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若狭重伍に連れられ、向井文次郎がやってきた所は日本領事館ではなく、井上馨公使の公邸であった。 井上馨公使の公邸は日本風の建物ではなく、まわりの景色とはなじまない洋風でレンガ造りの大きな塀に囲まれた洋館が敷地の奥に建っていた。 公邸の裏には雑木林がうっそうと茂っていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。 文次郎が公邸の中に入って行くと、外からは洋館風の建物だけしか見えていなかったのに洋館を取り囲むように小さな納屋のような物が5つほど建っていて、そこに人影が見える。 どうやら自分の仕事はこれのようだなと、文次郎は感じながら公邸の建物に入っていった。「井上閣下、今日着任した武官を連れてまいりました」「うむ、ご苦労」 向井文次郎は直立不動の姿勢で、井上馨公使に向かって名前を名乗った。「京都府庁、天皇陛下御所蛤御問警護職より転籍してまいりました、向井文次郎と申します」「君が向井君か・・・去年の宮内庁の剣道大会で優勝したつわものと言うのは君だね」「はい、運良く」「謙遜しなくてもいい、ここでは君の力が大きく役立つ、心して任務に付くように」「はい」「若狭君、しばらくは君が向井君の面倒を見てやってくれ」「はっ」「特に領事館から朝鮮の朝廷がある景福宮の周辺をくまなく案内しておいてくれ」「はっ」「向井君、若狭君は朝鮮国に来て1年以上経つ、彼に朝鮮国についてしっかり教えてもらい、10日で勉強期間を終えるように仕事に励め、わかったかね」「はい」 文次郎は初めて会う明治維新の中心人物に、しびれるような緊張感を感じながら井上馨との対面を終えた。 井上馨は文次郎が思ったより若く、伊藤博文のようにひげを蓄えるでもなく、有能な官吏のようなイメージであった。 実際日本政府は外交で一番のキーポイントの朝鮮国を井上に任せているのだから、やり手である事は間違いない、うわさでは井上馨の一番の部下の岡本の方が野心家であるとの話だ。 その日から10日間、文次郎は若狭に京城をあちらこちら案内され、要所要所では文次郎に歴史的な話や、今の現状を説明していく。 文次郎は若狭の簡素でわかりやすい説明を聞きながら、若狭も相当な勤勉家であると感じていた。若狭も決して剣だけの猪武者ではない。 文次郎は朝鮮国に来て3日目の日記にこのような一文を書いている。”朝鮮国京城は名前は似ているが、我輩が生まれ暮らしてきた京都とは雲泥の差がある。特に庶民の暮らしぶりは天国と地獄なり。朝鮮国に住む民は何を楽しみに生きがいに暮らしているのか・・・昼間から男が道端に座り込み汚い衣服を身にまとい、頭にいる虱取りをやっている。子供たちはほぼ全裸に近い格好で川と呼ぶには汚れきっている水が流れている溝で、ドロドロになりながら遊んでいた。 言葉はまるで理解できない、辻に掲げてある札は漢字で書いてあるので理解できるが、話し言葉は理解するために相当な時間を要するであろう” このように文次郎は着任早々、朝鮮国について相当なカルチャーショックを受けていた。 このことを若狭に告げると、若狭は「しばらくすれば慣れる、朝鮮国では話が出来るのは朝廷にいる人間と、粗末でも門がある家に住んでいる人間だけだ。それ以外の人間は文字も知らない、勤労する事を嫌がるただ生きているだけの人間である」と言った。 確かに庶民文化というものは一つも存在しない。 京都のように整備された大きな通りも無い、庶民でにぎわう店舗も無い、医者らしき建物が無い、看板と言う物が一つも存在しない、そして何しろ空気が臭い。街中に悪臭が漂っている。 文次郎はこの臭いに慣れるだけで1ヶ月はかかった。 文次郎は10日に及ぶ京城の勉強を終え、領事館の任務に付いた。予想の通り井上公使の公邸と領事館の警備を3つの部隊で交互に行うのである。 文次郎はその3隊目の編成を任された。隊員は各隊15名、向井文次郎の副官には廃藩置県で同じ京都になった丹後舞鶴出身の安達源六になった。 ちょうどその頃、李王朝内では閔王妃の姻戚大臣達による興宣大院君の失脚に向けて、次々と陰謀が進められていたが、大院君側がその陰謀を見抜き、王妃の母親や実兄などが屋敷もろとも爆破され死亡する事件が起こるなど、李王朝内の政争も風雲急を告げ始めていた。つづく
2009年09月26日
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序章 京都で1868年の明治維新を迎えた17歳の向井文次郎は公家付きの役人だったが、新政府では出世コースからはずれ、新政府では薩摩長州出身者の陰に隠れ下級役人に甘んじていた。 向井文次郎の先祖は代々京都の綾小路家の公家付き役人で、明治維新の前の時期、新撰組や京都守護職の会津藩からの攻撃に備え、15歳の頃から父親の雄一郎と共に綾小路家に寝泊りし警護に当っていた。 公家の仲間では岩倉具視が新政府に深く食い込み、高官になっていたが綾小路家は世俗に疎い公家だったため、世に出るチャンスを逃したので綾小路家にいた役人達も出世からは程遠い存在になっていたのである。 明治維新から10年余りがたった頃、向井文次郎は公家付き役人時代の友人で岩倉具視に付いていた長倉新左ェ門からの誘いに心を揺れ動かされていた。 30歳前になっていた向井文次郎であったが、相変わらず京都府庁の下級役人でうだつの上がらない生活を送っていたのだ。 長倉から来た誘いは文次郎を悩ませるのに充分な内容であった。 文次郎が独身であったなら、間違いなく二つ返事であったであろう決断を悩ませていたのは家族の存在である。 文次郎には妻と3歳になる娘と1歳の息子がいた。 長倉からの誘いは、大日本帝国が大陸に進出するための橋頭堡になる国、朝鮮国に行って領事館に勤めないかと言う話である。 政情が不安定な朝鮮国では、各国からの援助で国家が持っている状態で、特に高宗の王妃である閔王妃が息子を亡くした頃から、シャーマニズムにはまり祭祀などにより国家財政を食いつぶすほどの無駄使いを繰り返していた。 その為、朝鮮各地で民による暴動が発生し、治安低下は国家の維持を困難にするほど、国力が低下していた。 日本はそういう状態の朝鮮国を他国に奪われないよう、独立国家として再建できるように手を貸し、清やロシアからの朝鮮への干渉をやめさせようと考えていた。 日本政府は軍隊を表立って派遣できないため、日本から朝鮮に派遣する人材を明治維新で平和を迎えた日本に活躍の場を失った、腕に自信のある武士に求めたのである。第1章 京城の空「なぁ、新左ェ門の話だが・・・ちえ、お主はどう思う?」「文次郎様、私共は綾も健一郎も、あなた様に付いていくだけでございます、朝鮮国だろうが大海を渡った桑港でも・・・」「わしは・・・朝鮮国に行こうと考えておる、新左ェ門の話だとわしの剣の腕が充分に活かせる国らしい・・・ちえ、おぬしの言葉で決断が付いた、明日新左ェ門に返事をしてくる、よいな」「はい、覚悟は出来ております」 こうして、まだ見ぬ国朝鮮国に行く決断をした向井文次郎一家は、1880年朝鮮に渡り京城にある日本領事館の公使付き武官として着任した。 その頃の朝鮮半島を統治していた李王朝は、高宗の父親である興宣大院君が執政を敷き、アメリカやイギリスなどからの外圧で、開国するのか鎖国を続けるのか大臣達の間でも対立が起きていた。 それはまさに鎖国政策を続けようとする大院君の勢力と、開国政策を敷く大院君との対抗勢力の閔王妃の姻戚大臣達との主導権をめぐる対立でもあった。 また、その間隙を縫い主導権を再び握ろうとする、趙大王妃の存在がますます情勢を混沌とさせていた。 清は属国である朝鮮の実効支配に乗り出すため、李鴻章北洋大臣に命じて袁世凱を京城に常駐させ、京城の町は本来の住人である朝鮮の民より、清の兵士が我が物顔で闊歩していた。 そういう場所に向井文次郎は家族と共に赴任したのだ。 日本領事館は南大門の北、ちょうど南大門と景福宮との中間くらいにあった。 領事館の公使は井上馨で、向井文次郎は井上馨公使の第3武官として領事館で働く事になった。 日本からの旅支度を解き、領事館に程近い日本人が固まって住居を構える一角に住まいを構え、文次郎は第1武官の若狭重伍に挨拶に出向いた。「君が綾小路家で護衛を担当していた向井雄一郎の息子か?」「はい、若狭隊長」「何を言ってるんだ、君も3番隊の隊長だよ」「はい、総隊長」「これからは総長と呼んでくれ、君の事は向井隊長と呼ばせる、いいね」「わかりました」「君の事は長倉君から聞いている、剣の腕はすごいらしいね、京都では敵無しだそうじゃないか」「真剣ではありません、竹刀、木刀の話です、私は井の中の蛙ですよ」「ハハハ・・・謙虚なところも武官としては最適だ・・・じゃあ、井上公使に挨拶に行こうか」「はい、総長」 文次郎は若狭に連れられ、朝鮮での第一歩を歩き始めた。つづく
2009年09月25日
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このブログを書き始めるきっかけになった「時のそよかぜ」と言う小説。今読み返すと、やはりド素人が書いた文章ですから、随所に拙さがでています。お恥ずかしい・・・しかししかし・・・また性懲りも無く・・・実は小説の次回作を構想中なのですが、タイトルをどうしようか決めかねています。内容的にはある程度テーマなど思いついていて、当然ですが日本と韓国に関するものを書こうと考えています。簡単に構想を書くと・・・話は1900年代初頭の朝鮮半島。主人公は日本政府から派遣された役人の男性、日本人男性の目から見た朝鮮半島の状況や庶民の暮らし、そして当時の李王朝の政争を語らせるつもりです。そして大きなテーマは、もし朝鮮半島を日本ではなく当時のロシアが保護国にしていたら現在の朝鮮半島はどうなっているか・・・というSF小説にするつもりです。前半部分はある程度史実に沿った内容で、後半部分は私の頭の中での創造の話になります。大きな流れとしては、朝鮮に派遣された主人公が、ロシアに保護国として実質支配された朝鮮半島の人々と共に、ロシアからの独立運動に日本人として参加する・・・と言う感じになるかなと・・・書いている途中で支離滅裂になるかもしれませんが、お付き合いいただければ幸いです。又、皆さんからの応援、ご批判をいただければと思います。よろしくお願いいたします。
2009年09月25日
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「野人時代」を見終わって。 この中で、日本が盧溝橋事件から日中戦争に入っていくくだりから太平洋戦争に至るまでを、ドラマの中で説明していました。 低い声のナレーションで、資料映像のような戦闘シーンを流しています。 これがひどい! 中国に対し宣戦布告をしないで違法に一方的に不意打ちを食らわせた。 そして南京大虐殺をはじめ1,400万人の民間人を虐殺した。 (1,400万人ですよ、どうやって殺すのですか?オーバーにも程があると思いませんか?) それに怒った世界各国が日本を非難し、資源が入ってこなくなった日本はアジアを侵略する太平洋戦争を起こす。 (中国を除く、他のアジア各国は太平洋戦争は日本の侵略戦争ではない、アジア開放の戦争だったとの共通認識があります・インドネシアやパラオには日本軍が自分たちに変わって戦ってくれたという公式文書まで存在します) 大まかに書くとこういう説明です。 ドラマを見た韓国の視聴者は、資料映像と共にあたかも本当らしいナレーションで、どんどんどんどんウソを刷り込まれていきます。 こういう手法、他のドラマでも「英雄時代」などでも見られました。 当時の日本を、我々だけではなく中国やアジアの他の国でも、悪逆非道を繰り返した悪魔の国である、なので日本は朝鮮人にもひどいことをしたのだ。 という自分たちの歴史解釈に間接的な説得力を持たすようにドラマを作っています。 知らないうちにドラマを見た韓国人は、10中8,9はドラマのナレーションを信じ、日本とはこんなにひどいことをやっていたのだ、という間違った認識を植えつけられるといったやり方です。 話は飛びますが、ベトナム戦争当時を扱った韓国ドラマでは、ベトナム戦争で韓国軍がベトナムの民間人にどのようなひどいことを繰り返しやったのか?と言う事には一切ふれません。韓国マスコミの報道の仕方は、自国の悪行については一切触れないが、他国の事に関しては話をでっち上げてでも悪人に仕立て上げるというやり方が定着しています。韓国人がベトナムで行った事・・・あまりにひどくてここでは書けません。 マスコミの力ってすごいですね~ 何千万人の国民を洗脳する力を持っているのですから。 こういう手法、いわば韓国ドラマのお約束の部分ですが、いつの日にか「昔の韓国ドラマって日本のことはウソが多かったよね」と韓国のマスコミ人が公開の場で言える時代が来て欲しいと切に願います。 こんな事ばかり書いていると、サンキュウは右翼と言われそう~ 違いますからね(笑) ただ韓国に関する歴史の勉強をしているうちに、自分が子供の頃先生に教えてもらっていた、幾つかの日本の歴史も間違いが多かった事に気付いただけです。 特に戦争当時のアジアのことについて。 私が小学校の高学年の時には北朝鮮の事を「身分に上下の差がなく、教育も医療も無料の地上の楽園」と教えられていましたからねぇ~ 日本も他人の国の事を言えないくらいの、子供に対してひどい教育をしていましたよね。(反対の意味でです、日本国民であることが恥ずかしくなるような・・・)
2009年09月24日
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日本人は韓国人を心の底から信用していない。 韓国人も日本人を心の底から信用していない。 これはなぜか・・・一番大きな原因は、韓国政府の反日教育とマスコミの政府より激しい右翼的報道にあると考えます。 韓国人の心に今なお流れる、反日は美徳と言う感覚、日本を認めることすなわち売国奴と言う意識。 なんでこんな極端な思考になったのか、今も中国でよく使われている国内情勢が時の政府によくない時、政府に対し国民の不満が積もった時、政府が不満の目をそらすために、捏造した又はひとつの話題を大げさに(ほとんど捏造に近い)自国民にあおる。 そしてノムヒョン元大統領が作った法律、日韓併合時代に日本に協力した人物の子孫の資産を没収すると言う、100年前にさかのぼった馬鹿げた法律を作りました。 こうなると民主主義国家、法治国家とは言えません。 今の考えで過去を裁くと言う事は、すべての自国の歴史自体を否定する事につながります。 なぜなら、どの国も100%正しい事だけを行って来ている国はないのです。 またその当時の常識(当たり前の考え)が現在では通用しない(違法になる)ことも多いです。 国民への教育でも、教科書問題、大臣の失言問題、従軍慰安婦問題、強制連行問題などなど・・・ これらの問題は日本だけが100%悪いと教え込まれています。 実際は違いますよね。韓国内の常識的な考えで日本のことを考えます。たとえば私が韓国で言われた事にこんな事がありました。韓国人「来年からの歴史教科書、ひどい内容ですね」私 「そうですか?でもまあ全国のうちのごく一部だけですからね」韓国人「でも、国定教科書なら全国で使うのでしょう?ニュースでは日本の学校すべてで使われると・・・」私 「それは違いますね、日本の教科書は10社以上の教科書を作っている会社があり、どの教科書を採用するかは学校や地域の教育委員会が決定します」韓国人「そんなことは無いでしょう?どの教科書を使うかを学校が決めるなんて・・・韓国は決まったら全校の学校がすべて同じ教科書を使います、あなたの言っている事はウソです、学校が教科書を決めるなんてありえない・・・KBSのニュースでも日本の教科書がすべてあの教科書に変わるといっていました、KBSのニュースはうそを言いません」私 「そうじゃないんです、私の話は事実です、これだけじゃないですよ、韓国のマスコミがあなた方に流しているニュースは・・・ウソばかりとは言いませんが、わざと事実を隠して報道し、国民が勘違いをして日本を悪者に感じさせようという意図が随所に感じられますね」韓国人「それは日本のマスコミだって同じでしょう」私 「確かに・・・でも、韓国のマスコミよりマシですがね、日本人はマスコミが煽っても、国民それぞれが考えて行動しますからベクトルが一方に偏ってしまう事は滅多にありません」このように教科書の話も「日本では教科書の採用は韓国とは違い個別の学校で決めます、今現在扶桑社の新しい歴史教科書は全体の10%も採用させていません」と言うところが韓国マスコミ報道からは抜けているんです。その事実を隠し、すべての歴史教科書が扶桑社の教科書に変わると感じさせるように意図的に国民感情を煽っているのです。そして・・・韓国人「従軍慰安婦だって・・・」私 「従軍慰安婦なんて捏造です、そんな制度はありませんでした」韓国人「日本だって認めているじゃないですか?」私 「公式的には認めていませんよ、一部の文化人と呼ばれているバカな人達が、煽りに乗っかって騒いでいるだけです」韓国人「あなた右翼ですか?ひどい考えですね、そんな人には韓国に来て欲しくないです、帰ってください!」私 「韓国マスコミが作った嘘話しに騙されないでください、従軍慰安婦とは朝鮮人の元キーセン・・・政府が許可していたキーセンですよ、この方々が募集に乗っかって朝鮮で働くより10倍の高級な報酬に釣られて、自ら戦場近くに行ったのです、強制的に連れて行ったというのは、親が子供を売った例もあるらしいので、親は強制的に連れて行かれたと言わないと自分が子供をお金につられて売ったと言われるから、強制的に日本人に連れて行かれたと言っているのです」韓国人「それはひどい解釈だ」私 「日本でも昔はあったんですよ、親が子供を売るということが・・・でも、他人のせいにはしませんでした」私 「それに、私は韓国が好きです、それゆえに間違った認識を改めていただきたいと強く感じているんです」韓国人「あなたが韓国のことを好きと思っているなんて信じられません」私 「好きじゃなければ300回近くも韓国に来ませんよ」韓国人「300回も来てるなら、もっと韓国の味方をしてください、韓国の良い所宣伝してください」私 「やっていますよ、韓国のいいところを日本で広める仕事をしています、でもあなた方がそれを全部ぶち壊すような事をされるから困っているんです」韓国人「それは?どんな?・・・」私 「さっきから私が言っている、韓国マスコミのウソ話に乗っかってすぐ日本を責めたてる事です」韓国人「あなたは間違っている、韓国はウソを言っていません、そんな人に韓国が好きだなんて言って欲しくない」こんな感じです・・・マスコミや政府の都合のいいウソにまるっきり洗脳されています。日本人のように、自分たちの過去の過ちは認め、反省して未来につなげるという感覚が少ないのです。韓国の人の傾向は、悪い出来事はすべて他人のせい、自らの過ちはよほどでないと認めません。韓国民は根本からウソを中心に教えられているので、政府がちょっと国民感情を揺さぶれば、簡単に反日の火がつきます。 韓国ソウルのタプコル公園に行くと老人達が「日本人が何しにこの公園に来たのだ、ここは日本人の来る場所ではない」と恫喝してきます。 この老人達が本気でそう思っているのか、ソウルに来るヒマな日本人相手に、日本人をおちょくって遊んでいるのか分かりませんが・・・ この老人達に「柳寛順・ユガンスン、の事を勉強しに来た」と言うと、とたんに機嫌が良くなり、「お前のような日本人ばかりだといいのだが・・」と言いながら、3・1独立運動の話を始めます、もちろん日本語で。 まあこれはほんの一例ですが・・・ 時間が立てば解決する問題ではありません、韓国政府自体が今までの日本に関する教育は間違いであったと認め、国内の反日施設を無くし、本気で日本との正常な関係を再構築する気持ちにならなければ、冒頭で書いた内容が解消される事はないだろうと考えます。 日本人側は、一部の過激な人たちを除いて、日本と韓国が正常な関係になって欲しいと思っている人が多いのですから・・・ と言うより、韓国だけをそんなに意識していないと言う方が正しいでしょうか・・・普通に他の国と同じように交流したいと考えている人が多いと思います。 もちろん日本にも過去には問題があったとは思います。 日本だけが全て正しいとは思いませんが、今の日韓状況を作り出した原因の大部分は、今までの韓国の政府だと思います。 李明博大統領は世界的視野で物事を考える事のできる常識を持った人物だと思いますので、今後の韓国政府の変化に期待しています。今日から広島出張です、23日夜に帰ってきます。しばらく更新できません。PC環境が良くなれば更新いたしますのでよろしくお願いいたします。ではご訪問いただきました皆さん、ごきげんよう。
2009年09月18日
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「チマパラン(日本題・スカートの風)」言わずと知れた、呉 善花氏の代表的な著書の題名です。 この人、韓国内では親日派の代表選手のような人で、韓国政府や韓国の右翼からは売国奴と言われている人です。 年齢は1956年生まれの52歳、女性、済州島生まれで現在日本在住です。 ご自分の幼少の頃の日本に対する印象と、自分が実際日本に留学して感じた印象、韓国と日本の冷静な比較、日本人の欠点、韓国人の欠点、韓国の歴史に関する韓国マスコミのウソ、などを韓国人の視線から見た著書をたくさん書いていらっしゃいます。 私は呉善花氏の本は、5冊ほど読みましたが、表題の「チマパラン・スカートの風」と「韓国併合への道」は読み応えのある、かつ歴史の検証に役に立つ、本当に面白い本でした。 韓国ドラマの「明成皇后」「野人時代」「クッキ」「英雄時代」など、韓国人の目から見た日本の横暴が描かれているドラマは多いのですが、現実は日本におもねって、日本人以上に同胞の韓国人をいじめていた韓国人の存在が多かった事には、あまり触れられていません。今韓国内にある、反日施設に展示してある蝋人形の拷問シーンは、李王朝の(朝鮮式の)拷問のやり方です。私はこうした施設は3ヶ所見たことがありますが、これは日本に媚びていた朝鮮人たちが、自分たちの手で同胞を拷問する時のシーンであると思っています。こうした誤まった反日意識を煽る施設の事も、呉善花氏は一日も早く誤まった認識の施設は内容を改めるべきと主張されています。 朝鮮人がライバル(もしくは商売敵)に罪をなすりつけ(捏造し)抹殺しようとする朝鮮人があとを絶たなかったようで、今はその事実が隠され、すべてが日本人の仕業として展示されています。こういう朝鮮人の存在の多かった事など、いろいろな面をこの著者から学びました。 韓国政府から入国を拒否されたり、いろいろな面で韓国政府から活動に対する妨害を受けておられますが、一部の韓国内での良識派の方々と連携して著作活動を続けておられるようです。私は、呉善花氏の今後の活躍をさらに期待しています。
2009年09月17日
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韓国李王朝の王様は死んだ後、○宗、とか○祖、とかの名前を追贈されますが、たった2人だけその名誉をもらえなかった王様がいます。 その2人とは、燕山君と光海君です。 2人とも王様に相応しくなかった暴君だったので王様の位を剥奪されたからである、と朝鮮王朝実録にはありますが、実は2人とも大臣達の権力争いに巻き込まれ、暴君の汚名を着せられて宮廷から追放されたというのが実際のようです。 今日はその2人の中の1人「光海君・クァンへグン」を描いた2つのドラマについて書こうと思います。 まず光海君は宣祖(ソンジョ)の妾腹の第2王子で本来は王様になれる立場ではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵が無ければ王様になれたか分からなかった人物です。 お兄さんの臨海君(イムヘグン)が秀吉軍に捕まって人質になっている時に王世子に指名されました。 この時代の1人の女性を主人公にした韓国ドラマが2つあります。 「王の女」と「西宮」です。 2つとも、キム・ケットンという1人の女性を主人公に、光海君とその父の宣祖とのつながりを描いたドラマです。 キム・ケットンは宮廷に採用されるとすぐ才能を開花させ、ふとした事がきっかけで幼い光海君と知り合い、宮中でたびたび会う仲になります。 もちろんその時点では男と女の関係ではないのですが、お互いの心に抱えている複雑な事情に心のつながりを持ったようです。 その何年か後、豊臣秀吉の朝鮮侵攻が始まります。 その頃の朝鮮は、軍事に関しては明(中国)に頼り切っていて、軍備らしき物は一切していませんでしたので、日本軍は無人の荒野を進軍するように朝鮮半島を北上していきます。 その当時の王様、宣祖はピョンヤンのまだ北の義州(ウィジュ)まで逃避行をしますが、その途中宮女のキム・ケットンをみそめて、妾にしてしまいます。(逃げている途中でも女性に目が行くとは・・・庶民は逃げ惑って殺されていっているのにです) この王様、李王朝の歴代の王様で一番たくさんのおめかけさんを持った人物で、とにかく好色だったのです。 キム・ケットンは宣祖に抱かれながらも、光海君を王様にするためにどうしたら良いかを考え、事あるごとに宣祖を洗脳していきます。 豊臣秀吉の朝鮮出兵が終わり、朝鮮には平和が戻りました。 しかし大臣達は、3人目の皇后から生まれた王子派と、光海君派、臨海君派、と入り乱れて政争が起こります。 光海君は秀吉の動乱の時、大活躍をしたので大勢は光海君に有利でしたが、いつもの通り大臣達の嘘八百を並べた陰謀合戦が始まります。 宣祖が死んで光海君が即位しますが、明からの承認を受けていないことを理由に、王権をめぐるゴタゴタが続きますが、ケットンが光海君側の大臣達と、反対派を陰謀で抹殺していき、最終的には臨海君・永昌大君(3人目の皇后から生まれた王子)などの兄弟をも次々と粛清していきました。 光海君は、苦悩を浮かべながらケットンの指示に従うわけですが、ケットンを取り巻く大臣達にも朝廷内では翻弄されていたようです。しかし内政面では、大同法などの法律を制定し、戦乱で荒れ果てた国土の修復に努めていました。 キム・ケットンは宣祖・光海君、2人の王様と関係を持った、李王朝最悪の女と評されています。 結局、光海君は反対派の生き残りの反逆にあい、仁祖反正(インソパンジョン)で、宮廷から追放されます。 「王の女」「西宮」とも、丁寧にこの時代の事情を描いています。 歴史的には、この仁祖反正で王様になった、仁祖(インソ)が無能この上ない王様で、自分の命と引き換えに朝鮮を清に売った、最悪の王様でした。 (取り巻きの大臣達が無能だったという事もあります) 光海君は外交的には有能な王様で、秀吉動乱で明が助けてくれたといっても、明の兵隊が朝鮮の女性たちを手当たり次第、陵辱したり、財産を強奪したりというのを知っていましたので、新しく生まれた清という国に対しても、明と同じようの接していたのです。 しかし光海君を追い出した仁祖と大臣達は、光海君の取った時流に合った政策をも否定し、親明排清政策を取り、日の出の勢いであった清に攻め込まれて負けてしまいます。 この後、1900年代初頭に日清戦争で日本が勝つまで、朝鮮は清の属国でした。 (日本が清の支配から開放したわけです、ソウルの西大門にある独立門は、清からの支配から独立したことを記念して立てられた物です) このように李王朝では、誰が王様に相応しいかではなく、誰が王様になるのが自分にとって有利かという理屈で、大臣達が動きます。 儒教の国とは言いながら、庶民には儒教を押し付け、自分たちは利己の都合で儒教に反することを繰り返していたのです。 2つのドラマは、その辺の事情がよく理解できるドラマです。ちょうど「ホジュン」とも時代が重なります。ホジュンが罪人扱いされたのは、宣祖の死の責任を取らされたこともありますが、光海君とも懇意にしていて、一旦名誉回復されましたが、その後の仁祖の時代になり、光海君と通じていたとの嫌疑で、再び獄につながれてしまいます。こうしてみると、どれほど民に貢献したか、どれほど国のために働いたかと言うことが評価につながるのではなく、時の権力者にどれほど協力的かということが最大の価値観になっていたのですね。こういう風習が今の韓国社会にも通じているような気がしてなりません。
2009年09月16日
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しばらく仕事の話から離れていたので、韓国イベントの続きを・・・ 2006年4月から5月にかけて、広島空港と広島駅南口地下イベント広場で約1ヶ月にわたる韓国イベントを開催しました。 広島空港のほうは「第2回最新の韓国 観光・文化と技術フェアー」広島駅の方は「大邱の日協賛 韓国観光フェアー」です。 後援に、駐広島大韓民国総領事館・韓国観光公社・アシアナ航空 協賛に、ロッテホテル、LG電子ジャパン・KNTV・マガジンランド・HIS 協力に、広島県日韓親善協会 がそれぞれ付いてくださり、内容的には前回を上回る内容に仕上がりました。 韓国観光公社福岡支社の協力で「チャングムの誓い」(韓国題・大長今)のパネル展を開催した事もあり、NHKや中国新聞社などが取材に来ていただき、多くのお客様に来場していただきました。 ただこのパネル展に関してアクシデントがありました。 まず、開催前に「チャングムの誓い」と言う名称をポスターやチラシに入れるためNHKとの事前協議が難航しました。 あくまで「大長今」が韓国観光公社の持っている名称使用権で「チャングムの誓い」はNHKが名称使用権を持っています。 「大長今」だけではポスターやチラシの訴求力が弱くなります。NHK広島放送局では判断が出来ないと、渋谷のNHK本局の広報部と話をしました。NHKさんは基本的に物販を伴うイベントには、一切の協力はしない。という基本方針だそうです。しかし、「チャングムの誓い」が使えないとなると、集客力に大きな違いがでます。粘り強く交渉した結果、「総合テレビ土曜日夜11時より放送中」という文章を入れることでNHKとは話がつき、「チャングムの誓い」というタイトルとロゴを使えるようになりました。これには我が社がNHK本局内で2ヶ月に一週間のペースで、韓国の食品を販売していた実績を考慮する、という判断をしていただきました。 そして更なるアクシデントが発生しました。開催前日、韓国観光公社から電話があり「パネルのうちイ・ヨンエさんが写っているパネルは使えなくなりました、日本での版権を買った会社から使用しないでくれという要望です」・・・・ 参ってしまいました、イ・ヨンエさんは主役です。 チャングムがいないパネル展など「チャングムの誓い」のパネル展ではありません。 交渉に交渉を重ねて、やっと「イ・ヨンエさん単体で写っているもの以外は何とかいいでしょう」との回答を得て、何とか格好が付きましたが・・・ でもパネル展に来場してくれた「チャングムがあんまりいないよ」と言う多くの子供達の声を聞くたび、切なくなってきました。 韓国との付き合いは、直前になっての変更や事前の打ち合わせの通りに行かないことはしばしばですが、このチャングムのパネル展については「そんなバカな・・今更そんな事言われても・・」 と言う気持ちになりましたね。 しかし今回の出来事で多くのことを勉強しました。 画像や映像を使うためには細心の注意が必要である事。 またそのためには事前の調査が不可欠である事。 たまたま我が社は以前からNHKと取引があったので、名称使用も何とかなりましたが、以前からの取引が無ければ名称使用もクリアできなかったに違いありません。NHK広島放送局さんが初日に取材に来てくれて、その映像を夕方から夜にかけての地元ネタのニュースとして流していただいた効果で、翌日はすごい人並みがイベント会場に押し寄せてくれました・・・ありがたかったです。こうして2度目の広島における韓国イベントも、大きな事故もなく無事終了しました。
2009年09月15日
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昨日の私の韓国でのバカ話、お付き合いいただいただけではなく、皆さんからのコメントや多くのメッセージ、ありがとうございました。昨日の日記の件、あきらめたわけではありません。あきらめていい金額でもありません。お金だけではなく、私の善意も踏みにじられました。ああいう人間をほったらかしにすると、甘く考え次の犯罪を犯し、また次の被害者が出ます。韓国のカジノには、私のあらゆるツテを使い(仕事上韓国観光公社にも縁がありますので、その下部組織のセブンラックや、古くからの知り合いがいるパラダイスなどは話がついています)昨日の日記の女が現れたら私に連絡が入るようになっています。そして、旅行業界には私の親友が網を張ってくれていますので、早晩見つかるのではないかと考えています。私自身が韓国に行った時に、カジノに行って顔見知りの日本人客には、事の顛末を話し「あなたは引っかかってはダメですよ」と忠告しています。2年前の件を覚えていた人もいて「やっぱりやられましたか・・・私にも来たんですよ、貸してくれって・・・でも私はその時負けていてお金が無かったので助かりました、○○さん、もし見つけたらすぐ連絡してあげますからね」と言っていただいたりもしています。ただ、その後、その女の保証人にまでなって、その分もだまされたと言うと、私の顔を見て「本当ですか?人が良すぎますよ」と言われました。何度も書きますが、本当に私はバカでした。世の中、どこに落とし穴があるのかわかりません。私自身はこの件を教訓にして、二度とこんなバカ話に乗らないようにしようと思っています。ありがとうございました。
2009年09月14日
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前回の続きです、この回も長いです・・・バカだなぁ~と笑いながら最後までお付き合いください。さて、次の日私と親友はウォーカーヒルの1階の入り口を入ったところにある、コーヒーショップで女と会いました。まず女に、正式な借用書を書かせ拇印を押してもらい(印鑑を持っていませんでしたので)今後の事を聞きました。女「今回保証人になってもらう分は、上野さんが来たら解決できます。万が一ダメになったときには私の生命保険を解約して払います。それでたりなければ銀行のローンカードを作って払います」私「間違いないんだろうね?」女「間違いありません、最初に借りた分は帰国後すぐ返しますし、保証人になっていただく分は金貸しと話をして10月15日を期限にしてもらうように話しました。15日でしたら間違いありません」私「(親友に向かって)○○さん、こうなったら保証人になってやろうと思いますが、どう思いますか?」親友「(女に向かって)あなたの話、間違いないんでしょうね?私も旅行関連業界にいますので、万が一の時は動きますよ、でも本当に○○さんの温情を裏切ったら許しませんよ、わかっているのでしょうね?」女「では保証人になっていただけるのですか?本当に本当にありがとうございます、本当にこのご恩は一生忘れません」そういいながら女は、目を真っ赤に濡らしながらさめざめと泣いていました。(このとき心の中で舌を出しながら、ひっかかった・・・バカな奴だ・・・と思っていたのでしょう、くやしくてなりません)そうして韓国人の金貸しに一緒に会う事になり、私は8百万ウォン(当時のレートで110万円ほど)の保証人になり、女は9月30日に帰国する事になりました。当初は一緒に羽田に帰国し、その場で振込みを確認させてもらう約束でしたが、女が新潟に直接帰らなければツアーコンダクターの仕事に間に合わないとのことで、ここまで来れば大丈夫だろうと一人で帰国させました・・・それが甘かったのです。9月30日、夕方入金がないので電話をしました。しかし女は電話には出ません。翌日になって電話がかかってきました。女「帰国してすぐには動けませんよ、銀行のローンカードを作るにも時間がかかるし・・・」私「ちょっと待てよ、俺に返すお金は日本に帰ったらすぐ振り込めるんじゃ無かったの?話が違うよ」女「そんなこと言っていません、それからツアーコンダクターの仕事中は電話に出られません、メールでの連絡にしてください、電話は迷惑です!」私「なんだ、その言い分は!迷惑とは何だ迷惑とは!」女「今月中には返しますから、もう電話しないで下さい」私「おい、おい」女「ツーツー・・・」電話を切られてしまいました。頭にきて、女の実家に電話をかけました。そして父親に事の経緯を説明したところ・・・父親「またですか・・・もう娘のしでかした不始末の尻拭いする力は私にはありません、もうビルも売り飛ばして1億円以上持っていかれています。今回も親戚のおばさんに3百万円借りて韓国に行っていたのです、おばさんは返ってこないと聞き寝込んでしまっています。○○さん、娘をもう好きにしてください、私には助ける力はありません」私「そうですか・・わかりました。直接会社に連絡してみます、突然の電話すみませんでした」そうなんです、この女、親にも見離されている常習犯だったのです。もっと突っ込んだ話を父親としましたが、話を聞いて同情してしまいました(同情している場合ではないのですが)そして会社に電話をすると、確かに連続して4本の仕事が入っていて忙しいと言う事でした。それを聞いて、今月末に返すと言っているのだから、仕事はちゃんとやっているようだし待ってやろうと思い、しばらく様子を見ることにしました。そして25日、この日が給料日だろうと久しぶりに電話をすると・・・なんと呼び出し音が韓国なのです。ピンときました。カジノに行っている。そして居場所を確かめるため、次々とカジノに電話をかけました。居ました・・・ヒルトンのセブンラックです。カジノでプレーしていない事を確かめ、ホテルの部屋に電話しました。私「どういうつもりなんだ!明日行くから待ってろ!」女「何で私がここに居ることが分かったの?カジノで聞いたの?文句を言ってやる!個人情報を漏らしたと訴えてやる!」もう救いようがありません。泣きながら「このご恩は一生忘れません」と言っていた女が私に対しての態度がこうです。その電話を切って30分もしないうち、信じられない電話が韓国からかかってきました。金貸し「○○さんですか、約束の日が10日も過ぎているのに、お金を払ってくれません、約束の通り保証人の○○さんが払ってください」私「えっ?払っていないのですか?その分は絶対自分が都合つけるって言っていたんですよ」金貸し「あのうそつきの言う事は信用できませんよ、○○さんもすっかり騙されましたね」私「わかりました、今本人はヒルトンに居るようですから、連絡を取ります」そして再び電話をかけると・・・女「今調子よくて、もう少しで全額返せる、金貸しの分も私が払って行きますから」私「そうしてくれ、本当に頼んだよ」翌日、女からメールが来ました。”あなたがあせらせるから、あなたのせいで昨日あれから全額負けた、来年まで返済を待って欲しい・・・韓国の金貸しには私が払うと言っているからと言ってくれ”・・・本当に頭にきました、そんな言い分が金貸しに通用するわけがありません、保証人になるということは約束事なのです。すぐカジノに電話をかけて今日の韓国便のチケットを取ってもらい韓国に飛びました・・・すると・・・すでにヒルトンはもぬけの殻、カジノが用意した帰国のチケットは予約を取り消され、いつどの便で帰るのか分からなくなっていました。しかし保証人になった分は私が払わねばなりません。金貸しに連絡を取り、800万ウォンを支払いました。そして翌日日本に帰国し、本人の携帯電話に電話をすると・・・なんと着信拒否!メールを送っても”なしのつぶて”です。すぐさま会社に電話をかけました。新潟営業所の所長と、本社のお客様相談室に電話をし、今回の顛末を話しました。すぐ○○日本ツーリストは動いてくれました。しかし本人を呼び出して事実関係を確認した所、借金をしたのは事実だが24時間しつこく返済を迫る電話がかかってくる、警察に訴えようと思っている、と本人が話したと・・・そしてお金を貸してくれた時、いやらしい目で私を見ていたと・・・ふざけるな!です。その電話がかかってきた後、翌日女からメールが来ました。届いたメールは私を罵倒する内容です。”○○さんが会社に電話をしたので、私はクビになった。あなたのせいです。あなたが電話をしたので父親も自殺未遂をした。今まで何度も人からお金を借りたがこんな仕打ちをされたのは初めてです。私がクビになったことで私があなたにお金を返す必要はなくなりました。逆に慰謝料を請求できると友人が言っているので弁護士に相談しています”もっとひどいことが書いてありましたがここに書くことはやめておきます。女とは9月以降、50回くらいメールのやり取りをしていましたが、このメールを最後に携帯電話も自宅の電話もすべてつながらなくなりました。その後いろいろなルートで、女の話した内容を調べましたが、生命保険の話もウソ(とうに解約されていました)、銀行のカードローンの話もウソ(ブラックで作れるわけがありません)上野さんの話もウソでした。結局保証人になった分や、親友を韓国に同行してもらった費用、弁護士に相談した費用などを含めると280万円ほどを、この女のためにやられてしまいました。あ~もったいなかったなぁ。この女の名前は「小川美香」といいます。これは本名です。新潟の○○日本ツーリストの子会社の○ンテックスで、添乗員をやっていた小太りの30代半ばの女です。見た目はそんな悪人のような変な風には見えません。この女には人間見た目じゃないと言う事、女はウソで涙を流せる、あんなふうに手のひらを返す人間がいる・・・と言う事を教えてもらいました。今私の手元に残っているのは、小川美香が書いた借用書と、韓国の金貸しの小川の借用書と私が韓国の金貸しに払ったときの領収書だけです。皆さんはこんなへんな女に引っかからないようにしてください。皆さんはそんなことは無いですよね・・・私くらいか?こんなにバカなのは?・・・反省しています。もしどこかでこの名前を聞いたら、私にご一報ください。以上私のカジノでの大失敗談でした。
2009年09月13日
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何度か訪問している方のブログに、カジノが話題になっていて思い出したことが・・・ちょっと今日の日記は長いです。2年前の今頃の出来事です・・・韓国・仁川のハイアットホテルにある、ゴールデンゲートカジノ。2007年の8月の終わりに近い28日に、たまたま一緒にテーブルでゲームをしていた日本人の女性から声をかけられました。私はその日思いのほか調子がよく、5時間で相当勝ちこんでいました。連続して5時間ほどゲームをしていたので、疲れてコーヒーを飲む場所で休憩をしていると・・・女「調子良さそうですね、隣で見ていましたがお強いですね」私「いやいや、たまたまです。いつもは負けています」女「申し上げにくいのですが・・・お金を貸していただけませんか?」私「はぁ?」女「あさって日本に帰ったら必ず返します・・・実は私こういう者です、○○日本ツーリストですので会社にも迷惑がかかりますからウソは言いません」女はそう言いながら、超有名企業の名刺を私に差し出しました。そこの会社は、旅行業界では超有名企業で○○日本ツーリストの新潟営業所の名刺です。聞くとそこでツアーコンダクターをしているが、会社から預かったお金を紛失してしまい、何とか取り返そうとカジノに来たが、負けてしまってどうしようもない。このままだと日本に帰れない・・・と言います。いくら必要なのか聞くと、百万円と言います。女「あさって日本に帰ったらすぐ振込みします、百万円お借りできたら百二十万円お返ししますので・・」私「・・・・」女「あさってまでに三百万円ないと身の破滅なんです、お願いします・・(この場面で泣かれる)」相当迷いましたが、有名企業に勤めているし、外見が小学校に先生のような真面目そうな雰囲気です。(後から考えたらカジノに一人で来る女性のプレーヤーが真面目なわけが無いんですが・・・)私「分かりました、では今から会社と家に電話させていただきますよ、それから借用書を書いてください」そう言って、会社と借用書にかかれた家に電話をして、在籍確認と実際親と同居しているかを確認しました。私「普段は絶対、お金は貸さないのですよ、今回だけです」女「(泣きながら)ありがとうございます、必ず今月中に返します」私「3日後の8月31日ですね、振込先はここです」こういった経緯で、すっかり騙されてお金を貸してしまいました。しかし私のバカさ加減はこれで終わりません。翌日日本に帰った私は、31日になるのを心待ちにしていましたが、31日になっても振込みがありません。女に電話をしてみると、呼び出し音が韓国なのです。不思議に思いました。あれ?日本に帰ってきていないんだろうか?・・・会社に電話してみると「本人から韓国滞在が延びました」と連絡があったと・・9月2日になって本人からメールが来ました。”あれから韓国人の金貸しにもお金を借りて、何とかお金を増やそうと頑張ったが、逆に負けてしまい、パスポートを金貸しに取り上げられ、○○さんに振込みしたくても日本に帰れないので振込みが出来ません、大変も申し訳わけありません”・・・なになに?あれからまた借金したの?どうなっているんだ?・・・私はすぐ電話をかけました。私「どうなってるの?・・・メール見たけど、あれからまた借りたって?」女「申し訳ありません、パスポートを取り上げられ、今ウォカーヒルの近くのサウナに軟禁されています、日本に帰れる方法を探しますので時間を下さい」私「冗談じゃないよ、事情は知らない、約束は守ってくれなくちゃ」女「長く話すと電話代が高く付きます、いつ帰れるか、わかり次第メールします」私「パスポートを取り上げるなんて違法だろう、大使館に電話してやるから待ってなさい」女「それはダメです、ツアーコンダクターの仕事に影響がでます、私が解決しますので余計な事はしないで下さい」なんて勝手な言い分かと思いましたが、渋々自分自身を納得させて彼女からの連絡を待とうと思いました。そして数日後・・・彼女からメールが来ました。”新潟の知り合いがお金を持って私を助けに来てくれることになりました、長くご迷惑かけましたが、もう少しでお返しできます”内心良かった~と安心し、もう少し待とうと思ったのですが・・・その3日後、またメールが来ました。”新潟の知り合いが仕事の都合で韓国に来れるのが10月になると連絡がありました、10月になるまで待ってください”おいおい、どうなっているんだと又電話しました。私「いったいいつまで待たせるの?悪いけど振込みする時迷惑料を足して返してくれよ」女「本当にすみません、私も10月1日からツアーコンダクターの仕事が4本連続して入っているんです、それまでに日本に帰らないとクビになります」私「新潟の知り合いが来てくれるんでしょう?」女「来てくれるんですが、10月のいつ来るのかまだわからない状況です」私「来週韓国に行くから、俺がその金貸しと話して解決してやろうか?パスポートを取り上げるなんて違法だからね、私もちょっとは政府関係にも顔が利くし」女「事を荒立てないで下さい・・・来週いらっしゃるのですか?」私「あなたのことを解決しなきゃならんでしょう、仕事の都合もあるし・・・」そして私は旅行関係の業界にいる親友にソウルまで同行をお願いし、飛行機やホテルなどすべてこちらで手配し、証人になってもらうべく親友とソウルに行く事にしました。ソウルに飛ぶ2日前、彼女から又メールが来ました。”金貸しと話をした結果、新潟から来る知り合いの上野さんが10月にいつ来れるのかわからないので、○○さん(私の事)の保証人になってもらったら、パスポーを返してくれると言う話になりました、私が日本に帰ったら帰った日に返しますので保証人になってもらえませんか?・・・それとこの半月ほどの軟禁中、所持金がそこを尽きお金が無く数万円を周りの人から借りています、帰るに当ってそれも精算しなければなりません、お願いできませんか?”あきれてしまいました、そして又電話をしました。なんて自分勝手なんだろうと・・・しかし新潟から上野さんという人がお金を持って助けに来てくれる、その人が10月の5日ごろになりそうなので、それだと10月のツアーコンダクターの仕事が間に合わないと言います。それならもっときちんとした借用書を書かせ、一緒に行く親友にも彼女の様子を見てもらって意見を聞いてからどうするか対応を決めよう・・・と決心し、ソウルに向かいました。ソウルの金浦空港に着くと、女は一人で来ていました。親友に女を紹介します、女は「今、遠くから金貸しに監視されています」と釘を刺します。今までの経緯を聞き、私達も対応を相談するため、明日の昼にウォーカーヒルホテルで会う約束をしました。女「すみません、申し上げにくいのですが、今日知り合いが日本から来るから今まで借りたお金を返しますと言ってきています、日本円で8万円くらいなのですが、お借りできませんか?」私「それは聞いてないよ」女「それを返さないと、お金を借りた男の人に体を許さなければならなくなります(女、泣く)」私「わかりましたよ、8万円ですね?」親友「○○さん、貸すんですか?」私「そうしなければしょうがないでしょう・・・乗りかかった船ですし・・・」親友「(女に向かって)○○さん、この温情を裏切ったら私が許しませんよ、わかっているでしょうね」女「(ボロボロ泣きながら)このご恩は一生忘れません、必ずこのお金もお返しします」こうして私は最初に貸した百万円に加え、8万円を追い貸ししました(私は本当のバカ者でした、その後もっとバカになります)親友とホテルに帰った私は、明日の相談をしました。法的に通用する借用書を取る事を確認し、日本に帰った時どのように私に返済するのか、それを確認した後、窮余の一策ですが保証人になって日本に帰してやろうと決めました。そうしないといつまでたっても、お金が返ってこないと判断しました。最悪、女の知人の上野さんの話もあります。こうして翌日、ウォーカーヒルで親友と共に再び女と会いました。続きます。
2009年09月13日
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広島空港での韓国イベントが終了して、3日間は何も仕事をせずボーっとしていました。 やり遂げた充実感と終わった脱力感が入り混じりクタクタになっていました。 その状態から現実に引き戻されたのは一本の電話でした。 「広島市の平和文化センター国際交流課です、私たちが毎年開催している広島市との姉妹都市の「大邱市」の協賛イベントを来年のゴールデンウィーク明けに開催しませんか?」 広島駅の南口の地下通路に140坪の大きなイベントスペースがあり、以前から営業活動をしていました。 そこは広島市の関係する第3セクター、広島駅南口開発株式会社が管理する場所で、その会社のイベントスペース担当の○宮さんに以前から「なんとかイベント開催しましょう、いい方策を考えてください」と依頼していました。 やはり地方自治体が管理する場所ですので、使用するには厳しい制限がある場所です。 平和文化センターの当時の担当、○浦さんに話を聞くと、やはり○宮さんの後押しで電話をいただけたそうで、○宮さんが広島空港の韓国イベントを見てくださった内容を○浦さんにアピールしてくださったようです。 地道な営業活動が実を結んだわけです。 その後すぐ、広島空港からも第2回の韓国イベントの企画を提出して欲しいと連絡がありました。 ここで○内さんと私の意見の違いが出てきました。 ○内さんは「連続した大掛かりなイベントは危険だ、見合わせたほうがいいと思う」と言う意見。 私は「この大きなチャンスを逃す手は無い、○久物産にとって願ってもない話ではないですか」という気持です。 私たちのような小さな会社が本来やれる仕事ではありません、それだけにやり遂げたら大きな実績になると私は考えました。 約1ヶ月に渡り、○内さんとディスカッションを重ねましたがとうとう合意に至らず、別々の道を進もうと言う事になりました。 それから私と○甲揆氏とで翌年春に開催する、連続した韓国イベントの準備に忙殺されることになります。広島市と姉妹都市の慶尚道のテグ市の市庁に行ったり、韓国にも頻繁に仕事がらみで行くことになりました。その後、滋賀県の彦根市からも「彦根城築城400年祭」に出店しないか?という話も飛び込んできます。大きな仕事が続きました。続きます。
2009年09月12日
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