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映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 6
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エリア・スレイマン「天国にちがいない」シネリーブル神戸 1月の終わりごろ、予告編を見て、なんか不思議な映画だなと思いました。しばらくすると友達がブログでほめていましたが、どんな映画なのかジメージが湧きません。これは見るしかないなという気分でやって来ました。 2月になって、はや、もう、10日を過ぎたのですが、久しぶりのシネリーブルです。非常事態宣言は続いていますが、商店街の人出はむしろ増えているようです。映画はエリア・スレイマンというパレスチナの監督の「天国に違いない」です。上のチラシで帽子をかぶって、肘をついている男が彼でした。 キリスト教の立派な装束をつけた神父がなにやら神をたたえる言葉を口にしながら、十字架を担いだ従僕と、おおぜいの信者(?)を引き連れて、何やら仰々しく廊下を歩いてきます。扉の前に立ちノックしながら「扉よひらけ」と唱えます。扉は開きません。ノックと呪文のような言葉を、何度か繰り返しますが、開かないうえに中から「神なんか信じない」という言葉が返ってきます。 神父は怒りに満ちた世俗の顔に戻って、装束の帽子を脱ぎ捨て、「扉」の部屋の反対側の裏口(?)に回り、ドアを蹴破り中にいた人物を殴りつける音がして、先ほどの扉がしずしずと開きます。 儀式は何事もなかったように続くのですが、ここで、画面が変わってベランダに立っている主人公が映し出されます。 まあ、こうして映画は始まりました。「さっきの神父の話は何だったんだ?」と思っていると、ここからも不思議なシーンが続きます。 主人公がベランダに立つと住居の庭に無断で入ってきてレモンの実を盗む(?)、いや、収穫か(?)、男がレモンの木によじ登っています。男はベランダから見ている主人公に向かって「ドアはノックしたよ、返事がないから仕方なく入ったんだ」 とか、なんとか、いいながら、こんどは勝手に剪定をはじめます。こういう中々過激な「隣人」をはじめ、変な「隣人たち」が、いろいろ登場します。通りには戦車が走ったり、警棒(?)を持って群がって走ってくる男たちがいたり。 場面がパリに変わって、ファッションショーに出てくる女性たちが繰り返し映し出されますが、ここで、ようやく、主人公が映画監督であり、パリには「映画」の売り込みにやってきていることがわかる交渉のシーンが映ります。(もっとも、ぼくの記憶違いで、これはニューヨークでの出来事だったかもしれません。)「あなたの映画はパレスチナらしくない」 そういって断られた主人公は、次にニューヨークに登場します。 この街の市民たちは、なぜか、銃で武装しています。車のトランクから手動のロケット弾を取り出している人もいます。 公園では天使が警官に追いかけられて、羽根を棄てて消えてしまいました。いやはや、どういう街なのでしょうね、ここは。 主人公はニューヨークでも売り込みに失敗したようで、飛行機に乗って、変な「隣人たち」が住む街に帰ってきます。 土砂降りの中、自宅の塀の前で、「止まらないんだ」とずぶぬれで立ち小便を続ける「隣人」に傘を差しかけたりしながら、ようやく、自宅にたどり着きます。 朝起きてベランダに立つと、出発する前に鉢植えから庭に植え替えておいたレモンの若木が実をつけていて、例の「隣人」が、勝手に水をやっています。 ディスコというのでしょうか、若い人たちが音楽に合わせて踊っているホールのような、酒場のようなところの片隅のカウンターでお酒(?)を飲んでいる主人公が写って、映画は終わりました。 ここで、不思議なことが起こりました。ここまで、「不思議さ」の中をさまよっていたぼくの目に涙が滲んできたのです。これは、どうしたことでしょう。 ぼくにとって、この映画の不思議さは、「天国にちがいない」という題名の謎が全く解けなかったことがすべてといってもいいのですが、主人公の映画監督がほとんど喋らないうえに、ただ直立して見ているだけの人という所にも不思議は宿っています。 この直立感にはチャップリンとかがやどっている印象もありましたが、言葉、台詞についていえば、主人公がセリフを喋るのは一度だけでした。それもたった二言です。 パリだったかニューヨークだったかで、タクシーに乗った時の会話です。「どこの国から来たんだ」「ナザレ」「ナザレは国じゃないだろ」「パレスチナ」 このシーンのこのセリフは、ぼくに対して、この映画のパレスチナらしい! 輪郭を焼き付けたのですが、さて、「天国」は天使が消えたニューヨークだったのでしょうか、立小便がとまらない「隣人」がいる「この町」だったのでしょうか。 最後の最後に、胸に迫ってきたものは、一体何だったのでしょう。最後まで、不思議が残る映画でした。 それはそうと、シネリーブルのサービスでポスターをもらいました。これですが、なかなかうれしいプレゼントでした。監督 エリア・スレイマン製作 エドアール・ウェイル ロリーヌ・ペラッシ エリア・スレイマン タナシス・カラタノス マーティン・ハンペル セルジュ・ノエル脚本 エリア・スレイマン撮影 ソフィアン・エル・ファニ編集 ベロニク・ランジュキャスト エリア・スレイマン タリク・コプティ アリ・スリマン ガエル・ガルシア・ベルナル2019年・102分・G・フランス・カタール・ドイツ・カナダ・トルコ・パレスチナ合作原題「It Must Be Heaven」2021・02・12シネリーブル神戸no80
2021.02.16
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W・アルカティーブ E・ワッツ「娘は戦場で生まれた」シネ・リーブル神戸 シマクマ君の映画館徘徊復活の二日目、2020年6月2日はシネ・リーブル神戸にやって来ました。ほぼ50日「引きこもり生活」だったせいで、三宮行きの高速バスに乗るのも二月ぶりです。駅前で降りてあっと思いました。工事中のビルが成長していました。 梢はもはや夏ですが、コロナ騒ぎの中ビルは成長していました。スゴイもんです。そこから、久しぶりにセンター街を通りました。 結構な雑踏を歩いて、古書店「あかつき」に立ち寄りました。一冊本を買い込み、おばさんと挨拶をしてシネ・リーブルに到着しました。 50日前と、そんなに変わっていないのが不思議です。三島由紀夫はあの頃見ました。ここでマスクを装着し、受付で顔見知りの青年と再会を喜び合い、客席に座ると客は数人でした。この映画館の場合、いつでもそんなものなので違和感はありません。 映画が始まりました。「娘は戦場で生まれた」です。 シリアのアレッポの町に最後まで残った、反政府派の女性ジャーナリスト、医師であるその夫、そいして二人の間に生まれたおチビさん「サマ」ちゃんの、戦時下での生活を撮ったドキュメンタリーでした。 編集作業での構成はあるのでしょうが、何の脚本も打ち合わせもない映像でした。映像にこめられた、わざとらしい「意図」は何も感じません。ただ、「意志」があるだけでした。 この町を自分たちの生活の町だと残る人がいる限り、たとえ命懸けであったとしても、「残る」と決めた医師とジャーナリストの「意志」。 二人の間に生まれてきた幼い子供も、その場で共に生きると決めた母親であり父親である「意志」。 医師である、その男は医師であることの極限に挑むかのように働きます。ジャーナリストであるその女は、あらゆる悲惨の現場、虐殺というべき仕打ちの真相を撮り続けています。おそらく一人で扱うことのできる、小さなカメラを扱っているに違いありません。 カメラがとらえている現実は、小さな子供の「死」であり、血が流れる床であり、爆撃の衝撃であり、崩れ落ちる瓦礫であり、徹底的に破壊された廃墟の街でした。 しかし、同じカメラがサマちゃんのあどけない笑顔を、夕焼けと共に暮れていく空を、仮死の赤ん坊の奇跡のような蘇生を、弟の手術を血相を変えて覗き込む少年の顔を映し出します。 カメラ操作はシンプルで、映像と撮っている人の意志が直結しているように見えます。 ここまで、繰り返し「意志」という言葉を使ってきました。この映画の画面が「ぼく」に示した「意志」とは何か。彼らをこの地にとどまらせ、幼いわが子までも命の危機にさらすことの不安に耐え、空爆下での人間の悲しみと笑顔を撮り、廃墟や死体を撮り続けることを支え続けた「意志」とは何か。 それは、「逃げない」という、おそらく人間であることを希求する祈り! のようなものだと思いました。「ふつうの人間」が「ふつうに生きること」が奪われている世界に立った人間に、「人間」であり続ける以外に選択肢はあるのでしょうか。 たとえば、わが子を安全なところにおいて、自分が「正義」を行うというということに対する、かすかな「うたがい」や「ためらい」、それを感じていることを、あまりに苛酷な映像が語っているとぼくは感じました。 「人間であること」の極致に自分を置くことで、はじめて作り出されたのがこの映像ではなかったでしょうか。 どうして、逃げださないのか? 人間であるためには、逃げだすわけにはいかないということを、カメラが語っている映画でした。 映画の後味が「明るい」のは、彼らが無事生き延びたという事実以上に、彼らがそのように「生きている」ことに、未来を感じたからだと思いました。 それにしても、気の休まる暇のない、シネ・リーブル「復活の日」でした。監督 ワアド・アルカティーブWaad Al-Kateab エドワード・ワッツ Edward Watts製作 ワアド・アルカティーブ 撮影 ワアド・アルカティーブ キャストワアド・アルカティーブ(本人) サマ・アルカティーブ(娘) ハムザ・アルカティーブ(夫・医者・サマの父)2019年・100分・G・イギリス・シリア合作原題「For Sama」2020・06・02シネ・リーブル神戸no54ボタン押してね!
2020.06.06
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ナディーン・ラバキ―「存在のない子供たち」パルシネマ 2019年の秋にシネリーブルで公開されていた映画でした。予告編も繰り返し見ました。「見よう」という決心の踏ん切りがつきませんでした。2020年になって、パルシネマが「風をつかまえた少年」との二本立てで公開しました。二本ともが、封切りで躊躇した映画でした。「そりゃあ、見とかんとあかんわよ。私は見ないけど。予告編で無理。」「そうですね、じゃあ、見てきて喋らしてもらおか。」「ハイハイ。聞いたげるよ。」 というわけで、月曜日のパルシネマでした。二本目の「風をつかまえた少年」から着席しました。「あの、子役の子、すごい目えしとったねえ。どうやって見つけたんやろ。」「ほんまやなあ。人買いって、まだあるんやねえ。」 今見た映画に浸ってはるおばちゃんたちが元気にしゃべっていらっしゃいましたが、意に介さず。とりあえずコーヒーを一杯飲んで、来る途中で見つけた100円のカレーパンで腹ごしらえです。一本観終わって、外に出て一服。さあいよいよ「存在のない子供たち」です。 男の子が医者の診察を受けています。医者が驚いた様子で叫びます。「乳歯がない。」 裁判のシーンが映し出され少年が両親を訴えています。「ぼくをこの世に産み落とした罪で。」 次のシーンでカメラは空から街を映します。スラム街です。屋根が飛ばないようにタイヤが置かれているようで、それが上から見下ろした街の不思議な模様に見えます。動くものがが映し出されて、子供が銃撃戦ごっこをしているようです。ひとりの少年が木で作った自動小銃のおもちゃをもって路地を走っています。この映画の主人公、ゼイン君でした。裁判所で両親を訴えていた少年です。映画が始まりました。 彼は初潮の出血を経験したばかりの11歳の妹を、無理やり妻として娶り、妊娠させて「殺した」家主の男を刺した罪で少年刑務所に服役中です。 映画は路地を走っていた少年が裁判所で両親を訴えるまでの数か月の生活を映し出した作品でした。 ゼイン君は、初潮と同時に娘を売り払って口減らしをした両親と争い、家を飛び出しバスに乗ります。観覧車がまわる遊園地のある大きな町で身分証を持たない、エチオピアからの不法移民の黒人女性ラウルとその子供ヨナス君と出合います。ゼイン君が歩き始めたばかりのヨナス君の世話をして、母親のラウルが働きに行く、極貧ながら、ちょっと平和な生活が始まったと思ったのもつかの間でした。 不法就労でラウルが捕まってしまいます。何日も行方が分からないラウルを待ちながら、二人の生活は極まっていきます。「ここ」に居続けることに絶望したゼイン君は金を稼いで「ここ」から出て行こうと決心します。 カツアゲしたスケート・ボードに大鍋を乗せ、ヨナス君を座らせてロープで引っ張る「子連れ少年」の出来上がりです。回りに吊るしている小鍋はもちろん売り物です。 映画は全体的な構成の意図をはっきり感じさせる以外はドキュメンタリータッチで撮られています。二人の姿を追いかけて、後ろから青空を背景に映し出したところからゼイン君がヨナス君を捨てようとするシーンまで、「哀切」極まりない少年とやっと歩き始めた小さな子供の交歓は、演技のかけらも感じさせないドキュメンタリー、現実そのもの、生きている人間をそのまま映し出している素晴らしいシーンの連続です。 しかし、やがて、大家によって住まいから締め出され、隠していた脱出資金までも失ったゼイン君は万策尽きてしまいます。ついに彼はヨナス君を「人買い」に差し出し、「ここ」から出ていく金を手にします。これで出国に必要なのは「身分証明書」だけです。 しかし、「身分証明書」を求めて、久しぶりに帰宅したゼイン君が知るのは「出生証明書」さえない自分の境遇と妹の死でした。目の前の包丁を握り締め、階段を駆け下りていく少年を止める事が出来る「人」はいるのでしょうか? 映画の中でゼイン君は一度だけ笑います。モチロン、カメラマンに指示された作り笑いですが、その笑顔と引き換えに彼は「存在」の証明書を手に入れるはずです。 この映画の原題は「Capharnaum」、「混沌」とか「修羅場」という意味だそうです。邦題は「存在のない子供たち」でした。中々、センスがいい邦題だとも言えるかもしれません。見ている人は、ぼくも含めて最後のシーンに「オチ」を感じて納得するように題されているからです。でも、それは少し違うのではないでしょうか。 監督はキャスティングから、映画と同じ境遇の人たちから選んだそうです。映画に登場する人たちは、主人公も、ヨナス君も、ラウルさんも、ゼイン君の家族たちも、皆さん「存在のない」人たちばかりでした。 ひょっとしたら、彼らは実生活でもそうなのかもしれません。映像も徹底的なドキュメンタリー・タッチを貫いています。子役たちは表情の演技なんかしていたのでしょうか。「人買い」がどこかの金持ちのために横行している現実で子供たちは生きているのではないでしょうか。 「存在証明書」を手に入れる少年の笑顔に、ホッとして涙をこらえる事が出来ませんでした。しかし、本当に忘れてはいけないことはゼイン君もヨナス君も確かに「存在」しているということだったのです。「どうやった?」「うん、ヤッパリ、いつか見た方がええと思う。あんな、周りの人、子役がすごいとか感心してはってん。おカーちゃんのおっぱい探す子が、演技なんかするかいな。あれ見たら、アンタ確実に怒り狂って泣き出すと思うわ。「家族を想うとき」どころちやうで。」「やろ。そやから見いひんねんて。」監督・脚本・出演:ナディーン・ラバキ―Nadine Labaki製作 ミヒェル・メルクト ハーレド・ムザンナル 脚本 ナディーン・ラバキー ジハード・ホジェイリ ミシェル・ケサルワニ ジョルジュ・ハッバス ハーレド・ムザンナル撮影 クリストファー・アウン 編集 コンスタンティン・ボック 音楽 ハーレド・ムザンナルキャスト ゼイン・アル・ラフィーア(ゼイン:存在のない子供その1) ラヒル ヨルダノス・シフェラウ(ラヒル:存在のない大人その1) ボルワティフ・トレジャー・バンコレ(ヨナス:存在のない子供その2・ラヒルの子供) カウサル・アル・ハッダード(スアード:存在のない大人その2・ゼインの母) ファーディー・カーメル・ユーセフ(セリーム:存在のない大人その3・ゼインの父) シドラ・イザーム(サハル:存在のない子供その3・ゼインの妹) アラーア・シュシュニーヤ(アスプロ:存在を作る男) ナディーン・ラバキー(ナディーン:弁護士)2018年125分レバノン原題「Capharnaum」アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われる。2020・02・03パルシネマ新公園ボタン押してね!
2020.02.07
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ジアド・ドゥエイリ「判決、ふたつの希望L’insulte」パルシネマしんこうえん パレスチナがある、レバノンがある、イスラエルがある、。ぼくは何も知らない。イスラエルの少年兵士の死を「運命は踊る」なんていう題名で商品化する社会に生きている。その遠さが何とも言えない。そんなときがある。 パレスチナの男たちが施工不良住宅の修繕工事をしている。アパートのベランダの雨どいにつながっていないパイプから水が垂れて、工事の作業員たちに汚水がかかる。二階のベランダで花に水をやっていたのは自動車修理工をしているレバノンの男だった。 パレスチナの男たちのリーダーが罵声を浴びせる。レバノンの男は上からにらみつける。それがすべての始まりだったのか。 二人がにらみ合い、一方が殴りつけて一方が骨折し、暴行傷害をめぐって裁判が始まる。 内戦の過去。ムスリムとキリスト教徒の争いの悲惨。ガザ空爆から逃れ難民化した不幸。故郷に帰れないレバノン人。行き先のあてもないディアスポラのパレスチナ人。 やり手の二人の弁護士は、それらを、それぞれ原告(トニー)、被告(ヤーセル)の過去として、ほとんど執拗というべき態度で暴き出していく。悲惨でしかない、それぞれの体験が、それぞれの心の中に憎悪の種を蒔いてきた過去が、フラッシュバックされてゆく。どちらの憎悪が正当か。 トニーとヤーセルの苦難の人生を覆っている「怒り」、「憎悪」、「悲しみ」の実相が、何にも知らない「日本人」であるぼくの中に広がっていく。 この二人には何の罪もない、少なくとも、見てもいない人間、「遠く」でうわさに聞いていた人間に裁く権利はない。 裁判の終盤、ヤ―セルはトニーを訪ね、トニーがヤ―セルにしたように侮辱し、殴らせる。それぞれが違った世界に生まれ、働き、生活する二人のあいだの解決はそこで付けられる。 パレスチナ人の恥辱を煽り立てた、レバノン人の態度に対する反省を促すように、二対一で、殴ったヤ―セルは無罪になる。 「人間であることの誇りを傷つけてはならない。」 監督ジアド・ドゥエイリが、実に、堂々と結論付けたメッセージは印象的だった。 私たちは根っこのところで、このことを忘れていないだろうか。忘れていることに気付きもしない、おろかな自己肯定の「平和」。夜郎自大に「国家」を美化する無知。考え始めると暗澹とするこの国の現実が浮かんでくる。「人間であることの誇り」とは何か、ぼくたちは真剣に考える土台そのものを失いつつあるのではないだろうか。 この映画が映し出しているのは、気の短い貧乏人の喧嘩騒ぎに対する、海の向こうの「大岡裁き」の経緯ではない。「人間であることの誇り」を失いつつある、ぼくたち自身の足元なのではないだろうか。 二本立ての一本だったが、もう一本の不完全燃焼を忘れさせるいい気分だった。「運命は踊る」はこちらをクリックしてください。 監督 ジアド・ドゥエイリ Ziad Doueiri 脚本 ジアド・ドゥエイリ ジョエル・トゥーマ 撮影 トマソ・フィオリッリ 編集 ドミニク・マルコンブ キャスト アデル・カラム(トニー=レバノンキリスト教徒) カメル・エル・バシャ(ヤーセル=パレスチナ難民) リタ・ハーエク(シリーン・ハンナ=トニーの妻 ) クリスティーン・シュウェイリー(マナー=ヤーセルの妻) カミール・サラーメワ(ジュディー・ワハビー=弁護士 ) ディアマンド・アブ・アブード(ナディーン・ワハビー=弁護士) 原題「Linsulte」 2017年 レバノン・フランス合作 113分 2019/03/20・パルシネマno15にほんブログ村
2019.11.20
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フィアース・ファイヤード「アレッポ 最後の男たち」 徘徊ゴジラ老人シマクマ君は、今日から夏休み。ゆっくり朝寝かと思いきや、10:30には元町映画館。今日が最終日のこの映画がお目当て。 内戦の続くシリアにアレッポという町がある。2011年以来、反政府軍の拠点地域として、政府軍、ロシア軍の空爆が繰り返され、ほとんど廃墟のようになった町。その町で、爆撃で生き埋めになった市民を助ける、通称「ホワイト・ヘルメット」。「シリア民間防衛隊」(Syria Civil Defence、SCD)の活動の記録だった。 画面の真ん中に、井戸の底のような、穴から覗いた夜空のようなものが見える。カメラがだんだん引いていて、赤い金魚の目玉だとわかる。なぜ、金魚なんだと思っていると、爆音がする。 男が空を見上げている。飛行機雲がたなびいて舞い上がっていく、ずっと向うの街並みから煙が上がる。出動して、がれきを掘る。子供が出てくる。二人無事で、残りはダメだった。 男はハレドという。栄養失調の娘がいる。薬局を訪ね歩くが、必要なビタミン剤もない。トルコに移住するか、どうか悩んでいる。もちろん、難民としてだ。 空爆がある、ハレドと男たちが駆けつける。がれきの山の中から、子どもの声がする。夜空に、美しい花火の閃光のように瞬きながら、ゆっくり爆弾が落ちてくる。救助の現場で仲間が死ぬ。ホワイト・ヘルメットの車両や、消防車も標的らしい。 がれきの空き地に、水のない池を作っている。買ってきた金魚を放して上から水を足している。 最初のシーンの金魚は、どこからも水が湧いてくるわけではない。誰かが器で水を運んできて、上から流し込んで、漸く生きている、この小さなコンクリートの池の金魚だった。 最後のシーンは、ほとんど主役のように画面がとらえ続けていたハレドの葬儀だった。 見ていたぼくには、もしも、これがドキュメンタリーであるなら、全く理解できない結末だった。こんなことがあるのだろうか。映画は、あたかも死ぬと決まっている男の活動や、生活の苦しみを撮り続けていたように見えた。 見終わって、これほど元気を失ったドキュメンタリーも珍しい。「やらせ」であるとか「プロパガンダ映画」だという批判もあるらしい。金魚のエピソードだって、出来すぎている。 しかし、ぼくは、そうは思わなかった。宗教であるのか、政治であるのか、それは知らない。だが、「奴らは敵だ、敵は殺せ。」という最悪の思想が、はるか上空から丸腰の市民や、何も知らない子供たちに襲いかかり。一方で、なんとか瓦礫に埋まった命を救い出そうと、文字通り命がけで活動していた人間がいた。 それは、水なんて、どこにもない小さな池で死を待っている金魚に水を運ぶような絶望的な仕事だ。ハレドの死は、絶望に念押ししている。それでも、ぼくは、水を運ぶ人がいるという希望を失いたくないと思った。 監督 フィアース・ファイヤード 共同監督 スティーン・ヨハネッセン 製作 ソーレン・スティーン・イェスパーセン カリーム・アビード ステファン・クロース 撮影 ファディ・アル・アラビ 編集 スティーン・ヨハネッセン マイケル・バウアー 音楽 カルステン・フンダル 原題 「De sidste maend i Aleppo」 2017年 デンマーク・シリア合作 104分 2019・07・26・元町映画館no14ボタン押してね!にほんブログ村
2019.07.27
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ジアード・クルスーム「セメントの記憶」十三第七藝術劇場 連休の人出に恐れをなして、見たい映画をすべてパスして引きこもっていた十連休の最終日です。もう、そろそろ大丈夫やろ?まあ、この映画は出かけてみようかな。 やってきたのは十三第七芸術劇場、映画はジアード・クルス―ムという監督の「セメントの記憶」です。 案の定と言うべきでしょうか、まあ、映画が映画という面もあるかもしれませんね。観客は十名足らず。ひとつ前の映画が「主戦場」で、話題の映画ということもあって、結構の数の人が劇場から出てきたのですが、こっちはのんびり、ゆっくり、座席も大きいし、お茶とソーセージ・トーストで一息つきました。 石切り場のような、切り立った石の山がかなり高いアングルで映し出されて、カメラがゆっくり動いていきます。「さあ、始まったなあ。この岩山なんやねんやろ?」 穴の底のようなところから高層ビルの工事現場が上むきに映し出され、下に戻されると工事用のエレベーターに乗り込む労働者が穴倉から出てきて並んでいます。エレベーターがゆっくり上昇し、カメラの視線も上昇して風景が変わります。 チラシにある現場のてっぺんで空を見ているシーンはすぐに映し出されて、ベイルートの街や、道を行く自動車の動きははるか下方に、「米粒」のように見えます。 空と海はスクリーンいっぱいに広がって、完璧に青いのです。「この高さ、この距離。この隔絶感。ふー」 こういう映像に「迫力」などという言葉は、なんだかやはり違うと思うのですが、催眠術のように、朦朧とした世界へ誘う力があります。あまりにも、遠く、青いのです。「眠い!アカン!眠い!」 久しぶりの映画だから、というわけではないのです。目の前には、文字通り「目の覚めるような青空」の光景が映し出されているのですが、とりあえずぼくはとても眠いのですのです。うつら、うつら・・・突如の爆発音、立て続けに起こる大音響が響きわたりました。悲鳴。叫び声が飛び交っています。ナッ、なんなんや。空爆かよ。どこやここは。わーえらいことになってるやん。ベイルートって戦争中?えー、ちがうやろ。シリア? 間抜けな驚きで目覚めると、壁が崩れ落ちて生き埋めになっている人もいるようです。爆撃された建物の中でしょうか?戦車も出てきます。砲撃するきます瞬間のシーンもあります。ここはどこ?これは現実なんか? 再び工事現場の穴の底です。働く人々の食事が映し出されています。最初に封を切った缶詰のイワシはどこに置いたんや?アカン、関連がようわからん。 コンクリートの床に段ボールを敷いて毛布をかぶって寝ている男がいます。テレビがズット映っています。どの男なのか、目は開いていて、その目にカメラの焦点が合わせられているようです。誰もしゃべりません。灯が消されます。朝か? 今日もエレベーターが上昇し、摩天楼の世界が映し出されていきます。仕事の現場が映っています。何日目や?眠い! 水の中にカメラは深く潜っていて、魚の影が見えます。沈んだ戦車もあります。上に向けたカメラがとらえるのは小さな気泡と光っている水面です。カメラは水底を漂っているかのように、偶然目の間に浮かび出るものを映し出します。 最初のシーンから何日目になるのでしょう、工事はつづいています。作晩も爆撃があったのでしょうか。夜のうちに雨が降ったようです。床に水たまりができていて、その水たまりに建物が映っています。 初めの方では、人の眸に世界が映っているシーンもありました。カメラはいつも何かに何かが映っている映像をとらえようと、じっと辛抱しているようです。人が歩いてきます。その姿が水に映って、さかさまの姿になります。狙いは鏡に映る像か?ここは前後も上下も左右もみんな逆か?あの水は、水中映像は何なんや。あかん、眠い。アカン、映像のつながりがわからん。 高層ビルの現場で働いている男たちが、夜になると地下のコンクリートの床に直接横たわり、毛布にくるまって眠ります。夢を見ます。爆撃機の爆音や生き埋め、悲鳴や、怒号が夢の中で響き渡ります。その夢を補足するように水没した戦車が映し出されて行きます。 ようやく、観ているぼくにちょっとした納得がやってきました。男たちが戦火を逃れてそこにやってくるまでの世界と、生きていくために働いている世界があるのです。 毎日エレベーターで昇ったり下ったりしながら、記憶と夢と現実を行き来している男たちの記憶に、その眸の奥にカメラを向けることで、近づこうとしています。意識と現実の「あわい」を、なんとか映し出そうとしてきたのです。 男たちは牢獄のような地下室で、囚人のような食事をとり、毎晩、夢を見ています。爆撃で生き埋めになったときの、ざらついたセメントの味が残ったままの口を拭いながら、毎朝、目覚めるのです。机にうつぶせになったまま眠ってしまった母親の夢をエレベーターは地上数十階を超える高層ビルの現場のてっぺんまで運んでゆくのです。 男は蒼空と青い海とのど真ん中の足場の板一枚の上に立って、遠くを見ています。カメラは男の眼差しををたどるように、摩天楼が林立し、金持ちたちが繁栄を謳歌する風景が、岩山と海と空の裂け目のように、向こうまで連なっている風景を映し出します。 口いっぱいにひろがるセメントの味と母親のことを思い出しているのでしょうか?戦いに出て帰ってこなかった父親は、あの水底に沈んでいるのでしょうか。 明るい絶景の中に立っている男の真っ白い闇がぼくの中に浮かんできます。空虚?いくら考えても彼の内側に具体的な今日の生活の喜びのような色も形も浮かんできません。哀しく空虚な乾いた風が吹いてくるだけです。息を詰まらせるように凝視しているシーンが暗くなりました。映画は終わりました。ぼくは何とも言えない「辛さ」のようなものを噛みしめて席を立ちました。 六階から地上に降りると小雨が降っていました。 阪急の十三駅前で今日のお土産「柏餅」を買いました。ぼくは、五月には「柏餅」を買って喜ぶ世界にいることを、不思議なことなのかもしれないと思いました。監督 ジアード・クルスームZiad Kalthoum 製作 アンツガー・フレーリッヒ エバ・ケンメ トビアス・N・シーバー脚本 ジアード・クルスーム アンツガー・フレーリッヒ タラール・クーリ撮影 タラール・クーリ編集 アレックス・バクリ フランク・ブラウムンド音楽 セバスチャン・テッチ原題「Taste of Cement」 2017年 レバノン・ドイツ・シリア・カタール・アラブ首長国連邦合作 88分ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.05.07
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