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読書案内「鶴見俊輔・黒川創・岡部伊都子・小田実 べ平連・思想の科学あたり」 15
読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 16
読書案内「リービ英雄・多和田葉子・カズオイシグロ」国境を越えて 5
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カール・テオドア・ドライヤー「ゲアトルーズ」元町映画館 「奇跡の映画 カール・テオドア・ドライヤー セレクション」の4本目は「ゲアトルーズ」でした。1964年に作られた作品で、ドライヤーの最後の作品、遺作だそうです。ここまでの3本が、まあ、宗教的な原理主義がらみだったので、かなり構えて席に着きましたが、なんというか、コテコテのメロドラマで、またまたのけぞってしまいました。 弁護士で政治家、ローマに住む国民詩人、若手のピアニスト、パリの精神分析学者、男が4人出てきて、すべての男たちが、主人公の女性ゲアトルーズの、まあ、過去、現在、同時進行、いろいろありますが「愛人」です「した。 このシチュエーションを、コテコテのメロドラマとしてしか受け取れないのはシマクマ君の年齢と、その結果の人生観によるのでしょうかね(笑)。 先に見た3本の作品が「神」に対する信仰の、絶対的な原理主義の行方を描いていたというのが、シマクマ君のシロウト見立てなのです。別の言い方をすれば、超越的、普遍的な「神」に対して、個人の「愛」を持ち出してくると、一般的な、だから、まあ、誰でもが持ちうる「信仰」とぶつかってしまうという話だったと思うのですが、その「愛」の対象を人間にするとどうなるのかというのが、この映画でした。 「愛」という言葉繋がりで対象を人間にして、なおかつ身体的交渉を描くと、「恋愛関係」という言葉でまとめられてしまいます。で、複数の恋愛関係は「遍歴」ということになって、画面の中では「愛の遍歴」に生きながら、真実の「愛」にはたどり着けない、この作品の主体は女性ですが、彼女が世界の真ん中で、まあ、画面のですが、満たされない亡霊化してあらぬ方を見ている姿になって映っているわけで、見ているこちらも呆然としてしまいました。 まあ、何が何やらわかっていないのですが、この女性の位置に「神」をおいてみると、ドライヤーという人が「キリスト伝」を撮りたかったらしいということなんかも浮かんできて、ちょっと感想は変わりますね。 「愛」の不可能性を生きるゲアトルーズこそが神である、そう言いかえてみると、ただのメロドラマでは収まりそうもありませんね。 まあ、映画研究とかする人には、画面の配置、人物相互の目線、鏡を見る女性、会話の不成立、エトセトラ、エトセトラ、話題の種は山盛りだった気がしますが、シマクマ君はとりあえず、のけぞって見終えました(笑)。すごいなあ…、という感じで、スゴイ!とはなりませんでしたが、まあ、しようがないですね。 どこ視ているのか、とうとうわからなかった、美しいゲアトルーズ(ニーナ・ペンス・ロゼ)に拍手!でした。監督 カール・テオドア・ドライヤー原作 ヤルマール・セーデルベルイ脚本 カール・テオドア・ドライヤー舞台美術 カイ・ラーシュ衣装 ベーリット・ニュキェアキャストニーナ・ペンス・ロゼベンツ・ローテ1964年・118分・デンマーク原題「Gertrud」2022・02・21・no20・元町映画館no118
2022.04.27
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カール・テオドア・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」元町映画館 先週から「奇跡の映画 カール・テオドア・ドライヤー セレクション」という特集が元町映画館で始まりました。 実はカール・テオドア・ドライヤーなんていう監督は名前も作品も知らない人だったのですが、2年前にジャン=リュック・ゴダールの「男と女のいる舗道」という、これも、まあ。突拍子もないというか、どう感想を書いていいのかわからない映画だったのですが、その中に古い映画を引用したシーンがあって、それがジャンヌ・ダルクが処刑されるシーンだったのですが、妙に印象に残ってしまったので調べていてドライヤーという人の「裁かるるジャンヌ」という映画の1シーンだと知ったわけです。で、今回の企画に飛びついてやって来たというわけです。 で、今日見たのはお目当てズバリの「裁かるるジャンヌ」でした。画面は白黒で登場人物たちの顔が次々とクローズアップされていきます。足に鎖をつけられているシーンが映って、「ああ、この人がジャンヌやな」と分かります。宗教音楽っぽい、チェロでしょうか、弦楽器の音が響いてきます。大写しの顔の口は動くのですがことばは聞こえてきません。画面の横の字幕にセリフらしき言葉が流れ始めました。 「ええー?サイレントなのおー?」 もう、そこから寝ないための努力がたいへんでした。まあ、周りには誰も座っていない一番後ろの端に座っていたので誰かの迷惑は考えなくてもいいわけですが、気持ちよく襲ってくる眠気が半端ではありませんでした。伸びをしたり、お茶を飲んだり、とどつまりは背中がかゆくなって往生しました。 で、映画ですが、これまた半端ではありませんでした。ジャンヌ・ダルクは、フランス人にとっては、おそらく救国の聖女なのですが、実はオルレアンで捕らえられて魔女に仕立て上げられて火あぶりにされて死んだ人です。そこまでの事実は、昔、歴史で勉強して一応知っていましたが、悪名高い「魔女裁判」と、あくまでも信仰を捨てないジャンヌの姿と表情がこの映画の肝でした。 なんというか、キリスト教に限らなにと思いますが、ルネ・ファルコネッティ(ジャンヌ・ダルク)という女優さんの演じる原理主義的な信仰者の表情の独特さが見ものというか記憶に残りました。 哀しいのか嬉しいのか、正気なのか狂気なのか、そのあたりが判然としない、いわゆるエクスタシーというか、陶酔というかの表情なのですが、その表情のあと穏やかな、明らかな悲しみの表情で涙を一筋流すあたりは、果たして演技でできることなのかどうか、まあ、ものすごい映像だと思いました。 それに加えて、印象的だったのは、これまた、ものすごいとしかいいようのない審問官たちの、なんというか憎たらしい顔が次々と映し出されたことです。 こちらは演劇的というか、一つ一つの表情が意味ありげで、音としてのセリフが聞こえないこともあって、見ているといろんな想像が湧きあがってきて、オチオチ寝てなんていられない人相の悪い顔、顔、顔なのでした。 「こいつらはきっと、自分の保身や、権力の都合のために何の罪もない人たちを魔女だとでっち上げたり、免罪符とかで金儲けしてんのに決まってるな。いや、ホンマ、むかつくなあ」 と、いう感じで、結構、ノリノリで、ジャンヌが焼かれるところまでしっかり見てしまいました。「神はあなたを神の子だと認めましたか?」とか、答えらるはずもないことを問い詰めて、とどのつまりは「あなたは自分が悪魔の手先であることを認めてここにサインしなさい。」と、確か、文盲だったはずのジャンヌ・ダルクに無理やりサインさせるようなことをするのですが、それに対するジャンヌの表情が、哀しみとも陶酔とも、いや、ホント、すごい映画でした。 長くなりますが、この作品は1920年の終わりころのフランスで、大評判だったそうで、映画の歴史も、ヨーロッパの人間のことも、キリスト教のことも、まあ、よく知らないなあとため息をついてしまいました。 それにしても、超絶した表情で、終始、圧倒してくれたルネ・ファルコネッティ(ジャンヌ・ダルク)という女優さんには、拍手!拍手!でした。 なんか、この映画もカール・テオドア・ドライヤーという監督も、20世紀前半のデンマークの人らしいですが、とても有名なんだそうで、まあ、ミーハーで言いますが、一度はご覧になったらいいんじゃないかと、見たもの勝ちで思いました(笑)。ぼくは、チャンスなので今回の企画の残りも見ようかなと思っています。監督 カール・テオドア・ドライヤー脚本 カール・テオドア・ドライヤー撮影 ルドルフ・マテ編集 カール・テオドア・ドライヤー歴史考証 ピエール・シャンピオン伴奏音楽 カロル・モサコフスキキャストルネ・ファルコネッティ(ジャンヌ・ダルク)ピエール・コーション - ウジェーヌ・シルヴァン(ピエール・コーション)モーリス・シュッツ(ニコラ・ロワズルール)アントナン・アルトー(ジャン・マシュー)ジルベール・ダリュー(ジャン・ル・メートル)1928年・97分・フランス原題「La passion de Jeanne d'Arc」日本初公開 1929年10月25日2022・02・14-no18・元町映画館(no111) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2022.02.14
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フラレ・ピーダセン「わたしの叔父さん」元町映画館 デンマーク映画だそうです。おそらく脳梗塞か脳内出血で倒れ、マヒの残る老いた叔父の、身の回りの世話をし、数十頭はいるのであろう乳牛の飼育を黙々とこなすクリスという20代の女性の生活を、淡々と描いた作品でした。 クリスがなぜ、この農場で黙々と暮らしているのかということも、父と兄を、ほぼ、同時に失ったらしい過去についても、叔父と獣医ヨハネスの会話から何となくは知られますが、詳しい経緯はわかりません。 教会の合唱の声に耳を澄ませたり、恋人らしき青年マイクとの出会いもあります。しかし、父の死で断念したらしい獣医の勉強も再開するかなと見えた、泊りがけで出かけた大学での講義の聴講という留守に、叔父が再び倒れます。 叔父の再入院という事件は、映画が始まって以来、少しづつ明るい世界に向かって開かれ始めていた窓のシャッターを、一気に引き下すかのように、全てをご破算にして、叔父と二人の生活が、再び始まり、映画は終わりました。 映画を見終えた、ちょうどそのころに読んだいた本の中にこんな話が書かれていました。 アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」第四巻に、とても印象的なシーンがある。 大魔法使いゲドの「伴侶」であるテナーという女性は、テルーという里子を育てている。テルーは、まだ小さな子供だが、言葉では言えないような陰惨なことをされて、顔の半分がケロイドのようにただれている。テナーは、心に難しいところをたくさん抱えるテルーを心から愛している。もちろんその顔の傷も一緒に愛を注いでいる。 しかし、こんなシーンがある。ある夜テナーは、ぐっすりと寝て居るテルーの寝顔を見ているうちに、ふと、手のひらで顔のケロイドを覆い隠す。そこには美しい肌をした子供の寝顔があらわれる。 テナーはすぐに手を離して、何も気付かず寝ているテルーの顔の傷跡にキスをする。(岸政彦「断片的なものの社会学」) 読みながら、ふと、思ったことなのですが、映画では、このお話の「美しい肌」と「ケロイド」が、ちょうど逆の構造になっていたのではないでしょうか。映画は、美しく、働き者のクリスの、普段は隠されたケロイドを、ただ、一度だけ露わに映し出します。しかし、そのシーンが暗示するケロイドの正体が、どういう経緯のものであるか、今後どうなるのかについて語るわけではありません。 観客であるぼくたちは当然ですが、叔父も、獣医のヨハネスも、恋人のマイク青年も、ゲド戦記のテナーのように、クリスの傷跡に静かにキスをして、彼女の生活を見守るほかすべはない、そういう作品だったのではないでしょうか。 デンマークの若い監督らしいですが、美しく、哀しい、しかし、人間の本当のありさまを描いたいい作品だと思いました。監督 フラレ・ピーダセン製作 マーコ・ロランセン脚本 フラレ・ピーダセン撮影 フラレ・ピーダセン編集 フラレ・ピーダセン音楽 フレミング・ベルグキャストイェデ・スナゴー(クリス)ペーダ・ハンセン・テューセン(叔父さん)オーレ・キャスパセン(獣医ヨハネス)トゥーエ・フリスク・ピーダセン(青年マイク)2019年・110分・G・デンマーク原題「Onkel」2021・05・10‐no45元町映画館no77 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.05.27
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ダルデンヌ兄弟「その手に触れるまで」シネ・リーブル神戸 映画館を徘徊し始めて2年が過ぎました。相変わらず知らない映画監督の作品と出合い続けています。今回はダルデンヌ兄弟の作品「その手にふれるまで」でした。ベルギーの監督らしいのですが、彼らのフィルモグラフィーには興味をひかれていましたが、実際に作品を見るのは初めてでした。 中学生ぐらいの少年が、どうやら「コーラン」の虜になりつつあるようです。「コーラン」には家族以外の女性と触れることを禁じる戒律があるらしいのですが、学校のイネス先生が差しだす挨拶の握手の手を拒絶するあたりから、少年の現在が語られ始めたようです。 見ているぼくは、ただ、ただ、ハラハラし続け、意外にあっけない結末にも、さほどの驚きも感じないで、ただホッとしただけで見終わりました。 宗教的な原理主義に関して、イスラム教であろうがキリスト教であろうが、あるいは仏教や神道であろうが、信じるには信じるだけの理由が信仰対象にも、信じる主体にもあるに違いないし、そういうことが起こることはさほど珍しいことだとも思いません。 詩人で思想家の吉本隆明が「皇国少年」だったとか、彼が愛した宮沢賢治が「八紘一宇」を唱えた田中智学の国柱会の信者だったとか、他にも実在の人物が沢山いそうです。 この映画で、主人公アメッド君の「盲信」の契機は明らかではありませんが、そこから「テロル」へと突き進んでいく過程を見ながら、ハラハラはするものの、そうなるべくしてなるのかなあ・・・ という詠嘆的な気分でした。少年院に入ろうが、年頃の女の子にキスされようが、部屋に帰ると歯ブラシの柄をとがらせて、チャンスをうかがい続けるのだろうなと思っているとそのとおりでした。 善悪や社会規範、家族関係の齟齬とかの問題ではなく、ある種の少年にとって「少年期」特有の「事件」として遭遇する問題だという感じが、ぼくの中にすでにありました。 「ある種の」とつけたのは、当たり前のことですが、誰もがそういう「事件」に遭遇するわけではないからです。 それが「少年」というものなのだという気分があって、それに合わせて映画を見ている感じです。 こんなふうに書くと、面白くなかったと取られるかもしれないのですが、実は、面白かったのです。まったく偶然なのですが、ぼくはこのタイプの少年と少女に出会ったことがあります。40年前に仕事に就いたばかりの最初の卒業式の日ことでした。式も終わって準備室だったか、他に誰もいない部屋に、その少女はやって来ました。「お世話になりました。先生がお書きになる小説を読みたいと思っています。」 「えっ?ぼく小説なんて書かないよ。」「そうなんですか?どうか、お書きください。」「いや、そんな才能ないし。で、あなた卒業後はどうするの?」「布教です。」「布教って、大学とかは?」「行きません。O先生にはご心配をおかけしていますが、やはり、布教一筋で…」 握手して別れましたが、その後、音信もなく、一度も出会うことなく、40年経ちました。 もう一人は退職する年に出会った少年です。この映画の主人公に顔と体つきがとても似ていて思い出したのです。「あのさ、答案、最後まで書いてくれる。」「ああ、はい。」「はい、じゃないでしょ。配点50点のところでやめているでしょ。」「はあ。」「はあ、じゃないでしょ。他の教科もそうなの?」「はい。」「なに、きっぱり言ってんのよ。高校にきて三年間ずっとなの?中学でも?入試は?」「アッ、入試は書きました。最後まで。」「なんだ、じゃあ、一度書いて見なさいよ。どんなもんか、興味あるし。授業中ボクと雑談ばっかりしてるから、迷惑だと思われてるかもしれないし。まあ、悪いのはボクかもしれないけど。」 この少年が入信していたのは宗教ではなくて、「量子力学」とかでした。興味を持ったぼくに解説しようとするのですが、ぼくの頭がついていかなくて、国語の時間にホワイト・ボードまで使った量子力学の解説会が始まって、他の生徒さんは唖然としているという、そういう少年でした。 大人のふりをしていえば、こういう「盲信」には社会制度や教育は無力ですし、カウンセリングも通用しないと思います。もちろん親には理解できません。自分で壁にぶつかるか、頭を打つかするほかないのではないでしょうか。 映画で壁から落ちたアメッド君を見て、思わず笑ってしまった。「この監督はよくわかっていらっしゃる。」 アメッド君が今後どうなるか、誰にも分らないと思います。吉本隆明は「敗戦」でしたたか頭を打ったようですが、宮沢賢治は信じたまま「銀河鉄道の夜」や「永訣の朝」を残して去りました。ジョバンニの孤独や、「天上のアイスクリーム」という美しいイメージに「盲信」が影を落としていないとはなかなか言えないのではないでしょうか。 そういう意味で、この監督が「少年」の危なっかしさとイスラム原理主義のファナティズムとの「親和」性を描いている点は、鋭いと思いました。 しかし、ヨーロッパ的「寛容」と「不寛容」な異文化の対立の場所でこの少年の危険性を描いている点で、アメッド君がかわいそうだなと思いもしました。実際、危険な存在なんですけどね。そのあたりはよくわかりませんね。監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ製作 ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ ドゥニ・フロイド製作総指揮 デルフィーヌ・トムソン脚本 ジャン=ピエール・ダルデンヌ リュック・ダルデンヌ撮影 ブノワ・デルボー美術 イゴール・ガブリエル衣装 マイラ・ラメダン・レビ編集 マリー=エレーヌ・ドゾエンディング曲演奏 アルフレッド・ブレンデルキャスト イディル・ベン・アディ(主人公アメッド) オリビエ・ボノー(少年院教育官) ミリエム・アケディウ(イネス先生) ビクトリア・ブルック(教育農場の娘ルイーズ) クレール・ボドソン(アメッドの母) オスマン・ムーメン(導師)2019年・84分・ベルギー・フランス合作原題「Le jeune Ahmed」 英題「YOUNG AHMED」2020・07・21シネリーブル神戸no56 ボタン押してね!
2020.07.24
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ペアニル・フィシャー・クリステンセン 「リンドグレーン」シネ・リーブル神戸 レイモンド・ブリッグスの「エセルとアーネスト」に感心して、その勢いに乗ってやって来たのがシネ・リーブルの「リンドグレーン」でした。もちろん「長靴下のピッピ」の作者アストリッド・リンドグレーンの伝記映画だと思い込んでやって来たのですが、予想は半分はずれで、半分は当たりでした。 2020年3月初旬の水曜日、もちろん映画館はゆったりのびのびでした。もう、個人試写会のノリですが、ぼく自身は「儲けもの」の気分です。 映画が始まりました。洒落た書棚があって、大きな机が窓に面している書斎が映し出されて、後ろ姿の女性が机に向かい、誕生日プレゼントの手紙の封を切ってゆく手元が映し出されてゆきます。 子どもらしい文面の手紙と絵が出てきます。たくさんの手紙が届いていて、順番にかわいらしい絵がひろげられてゆきます。封を切っている人の正面は、カメラには映りません。とても高い鼻のシルエットが印象に残ります。「お話しの中で、たくさんの人が死ぬのは何故ですか?」「どうして、そんなに子供のことをよく知っているのですか?」 男の子(?)の声が手紙を読み上げます。その声とともにシーンが変わります。 畑で働く農家の家族の姿が映り始めます。男がいて女がいます。中学生ぐらいに見える少女がいて、その父がいて、厳しい表情の母がいるようです。 しばらくすると新しい手紙を読む声がします。新しい場面が展開し始めます。20世紀初頭のスウェーデンの農村です。北欧の自然の風景は美しく、農作業は厳しそうです。「ああ、こうして、少女が、やがて、あの部屋に座ってた童話作家リンドグレーンになるまということやな。。」 そう思いながら見ていましたが、映画の中で少女「アストリッドUnge Astrid」は、作文が上手でソーダ水が大好きですが、とうとう、童話作家にはなりませんでした。 学校を出て勤め始めた少女は16歳だったでしょうか。純情な少女は、勤め先の新聞社の社長と恋に落ち、今でいう不倫の子供を産みます。少女はご都合主義の社長を拒否し、篤実で農村的な、信心深い生活を生きる父からも母からも拒絶されたその赤ん坊ラースをデンマークの里親施設に預け、一人働き始めます。 10代で母になった少女を理解したのは、この施設を運営する女性マリーだけでした。数年後、病に倒れたマリーは「愛すればいいのよ。」という言葉を残し、この世を去ります。少女を母だと理解できない小さな少年ラースとアストリッドの暮らしが始まります。 自転車に乗り、ダンスが大好きだった少女が、マリーが恋しい少年ラースの「母」になった姿がチラシの写真です。 少年ラースの手を引いて森を歩く少女の姿が映し出され、子どもたちから贈られた「歌」が老いた作家の部屋に響き渡ります。 映画が終わった時、少女は、まだ「アストリッドUnge Astrid」であって、リンドグレーン氏の妻、アストリッド・リンドグレーンではありませんでした。しかし、「長靴下のピッピ」の読者の子供たちの質問の「答え」はわかりました。 大切なものを次々と失う、一人ぼっちの人生の中で、ただ、子どもたちに、いや、だれかに「こんにちは」と声をかけることを続けてきたからということですよね。 そして子供たちが応えてくれる「奇跡」が、今、ここにあります。 「こんにちはアストリッド!」 蛇足で、馬鹿なことを言いますが、老いたリンドグレーンの横顔のシルエットの尖った鼻は、本物のリンドグレーンにとてもよく似ていました。主演のアルバ。アウグストの演技には好感を持ちましたが、花の高さが違うんじゃないかということが、見ていてずっと気になってしまいました。アホですね。 でも、予想外に、いい映画だったと思いました。映像が美しく、作り方が丁寧だと感じさせているところと、作家の本質のとらえ方が気に入ったからでしょうね。監督 ペアニル・フィシャー・クリステンセン 製作 マリア・ダリン アンナ・アントニー ラーシュ・G・リンドストロム 製作総指揮 ヘンリク・ツェイン 脚本 キム・フップス・オーカソン ペアニル・フィシャー・クリステンセン 撮影 エリク・モルバリ・ハンセン 美術 リンダ・ヨンソン 衣装 シーラ・ロービー 編集 オーサ・モスバリ カスパー・レイク 音楽 ニクラス・スミット キャスト アルバ・アウグスト (アストリッド:若き日のリンドグレーン) マリア・ボネビー (ハンナ:母) マグヌス・クレッペル(サムエル:父) トリーヌ・ディルホム (マリー:デンマークの里親)2018年 123分スウェーデン・デンマーク合作原題「Unge Astrid」2020・03・04シネ・リーブル神戸no49追記2020・03・23 レイモンド・ブリッグスの「エセルとアーネスト」ととてもよく似た出だしでした。回想に入る人物の設定が、子どもの立場なのか本人自身なのかという具合に違うわけですが、リンドグレーンは映画製作時には亡くなっていたはずなので、本人の回想という設定は少し無理かなと思いました。 伝記的な描き方も違いますし、だいたい「エセルとアーネスト」は全体がアニメなので簡単な比較はできません。もう一つの違いは「リンドグレーン」のフェミニズム的な観点も見落とせない大切なところだと思いました。「エセルとアーネスト」の感想はここからどうぞ。ボタン押してね!長くつ下のピッピ新版 (岩波少年文庫) [ アストリッド・リンドグレーン ]
2020.03.23
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ロビン・ルッツ「エッシャー 視覚の魔術師」元町映画館 オランダ人の版画家で画家マウリッツ・コルネリス・エッシャーという名前は、今の若い人たちの間でも有名なのでしょうか。「だまし絵」って言うんですよね。1980年か90年にかけてだったと思いますが、ブームがあったと思います。平面が立体化して見えるのが、まず最初の錯覚で、次に循環が導入されて、有限が無限化する。そういう絵が、あちらこちらに氾濫していました。 絵や版画は止まっているけれど、映像は動くよなあ、それがこの映画を見た動機でした。 始まりの画面は古いタイプライターのクローズ・アップで、タイプライターを叩く音と一緒に、画面に文字が打ち出されていって「エッシャーを映画にできるのはエッシャーしかいない。」 というテロップになって、シーンが変わりました。 ここからエッシャーの世界のはじまりでしたが、少年エッシャーが、視覚の魔術師エッシャーへと成長してゆく過程が、この映画の最初の見どころでした。 岩山の上の城塞の町や、海に突き出した丘の町のうつくしいスケッチが映し出されます。若き日のエッシャーのスケッチですね。そこに現実の写真が重ねられてゆくのを見て、最初のため息が出ます。そこまでで、充分美しいのですが、その絵が、ぼくたちが知っている「エッシャーの絵」に変貌してゆくのです。 二つ目の見どころは、イスラムのモスク、アルハンブラ宮殿のタイル画の文様に出会った青年エッシャーが、トカゲや鳥や人間を二次元の無限として描き始めるところです。そこには広大な草原の美しい具象的なスケッチから、無限に連なる並木道が生まれてくるシーンもあります。二次元だった無限は三次元へと進化し、やがて無限に上り続ける階段が生まれてきます。 最後は球体の導入です。平面がゆがめられて水晶球の中に描かれます。そこから眼球の眸の奥にある「死」が発見されいていくようです。人間に与えられた「時間」の有限が描かれているのでしょうか。有名な「描き続ける二つの手」で「無限」を描こうとしたエッシャー自身の辿りついた「死」のイメージが印象的です。 それを象徴するのが、最後に描いた「蛇」でしょうか。何とも、禍々しい三匹の蛇の文様です。 たった80分の映像が繰り広げる不思議を、こうして数え上げていて気づきました。キリがないのです。さすがはエッシャーというべきなのでしょうか。 最後にタイプライターのシーンに戻ってきます。そこで、なにが叩き出されたのか、残念なことに思い出せません。ヤレヤレ・・・・。 チラシの裏面にある、テープになった「二人の顔」はエッシャーと彼の妻だそうです。この映画はエッシャーの子供たちの証言を軸にして語られている、現実の時間の中で生きたエッシャーの伝記ドキュメンタリーでした。 裕福で内気な少年時代。彼の才能を見出した師メスキータとの出会い。妻となるイエッタ・ウミカーとの愛。メスキータを殺したナチスドイツ。息子のジョージにファシスト少年団の制服を着せたムッソリーニのイタリア。エッシャーを流行の先端に祭り上げた60年代のヒッピ―文化。病んだ妻との別れ。そしてエッシャー自身の死です。1972年、73歳だったそうです。 エッシャーを称賛するナレーターとしてグラハム・ナッシュが出てきたりします。エッシャーをまだ知らない人にも見てほしい映画でした。バランスの取れたいい作品だと思いました。監督 ロビン・ルッツ 製作 ロビン・ルッツ 脚本 ロビン・ルッツ マラインケ・デ・ヨンケ 撮影 ロビン・ルッツ ナレーション スティーブン・フライ 出演ジョージ・エッシャー(長男) ヤン・エッシャー (次男)リーベス・エッシャー(次男の妻) グラハム・ナッシュ (ミュージシャン・CSNY)エリック・バードン(ミュージシャン・アニマルズ)2018年・80分・オランダ 原題「M.C. Escher - Het oneindige zoeken」2020・03・02 元町映画館no34ボタン押してね!EPO-06-100 エッシャー 上昇と下降(1960) 500ピース ジグソーパズル
2020.03.04
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ニテーシュ・アンジャーン「ドリーミング村上春樹」 予告編で目にして「風の歌を聴け」を読みなおしました。とにかく、見なくっちゃという気分でシネリーブルのシートに腰掛けました。今日はいすゞベーカリーのカレーパンがおやつです。ぼくを入れて6人の客が座っていましたが、とりあえずパンをかじっていると始まりました。 木立に向かってカメラが進んで行って、「森」と呼んだ方がいい感じのシーンが映し出されます。 「おや、なんかいるな?」 「かえるくん」でした。「かえるくん、東京を救う」の、あの「かえるくん」ですね。当然、期待は「みみずくん」ですが、残念ながら最後まで登場しませんでした。 「ドキュメンタリーとちゃうのかな?」 ふと、そう思いました。 困惑を打ち消すかのようにというか、たしかにというか、メッテ・ホルムという女性がメインで登場し始めました。 彼女は「完璧な文章」という、村上春樹が「風の歌を聴け」に書きこんだ小説の日本語をデンマーク語に翻訳するのに難儀しています。 日本人とおぼしき男性にこんな質問をします。すると男が答えます。「パラレルワールドという考え方は、日本では普通なの?」「ええ、そうですね」 オイオイ、と思わずのけぞりそうになりましたが、これがこの映画の「地下二階」でした。 「ジェイズ・バー」、「芦屋川」、「レコード・ショップ」、「JR芦屋駅南口」、「神戸の坂道」、「ピンボールマシーン」、「首都高速」、「公園の滑り台」、「青空には白い月が二つ」、そして「かえるくん」。 ぼくは、ちらりと映し出された神戸の何でもない坂道が、「知っているあそこではないか」とか、「お、芦屋駅は南口でないと、この場合、絵にならんなあ」とか、映画の意図とは、おそらく、何の関係もないミーハー気分が盛り上がってしまって、楽しかったのですが、映画は高層ビルの屋上のハッシコに腰掛けた「かえるくん」が東京の夜景を遠望しているシーンで終ります。 そういえば、公園の滑り台にもいたような気がします。ホルムさんが紛れ込んでしまった世界はかなり周到に「村上ワールド」をなぞっていたようです。「夢を見るために毎朝僕はめざめるのです」(文春文庫)という村上春樹へのインタビューを集めた本があります。なかなか、読みでのある文庫ですがご存知でしょうか? この映画は村上春樹によって「夢に目覚めさせられた」翻訳家、メッテ・ホルムの「夢」をドキュメントした作品だったようです。 蛇足ですが、夢の中とはいえ、彼女の仕事場のニャンコが、これまた実にいいんです。監督 ニテーシュ・アンジャーンキャスト メッテ・ホルム(デンマーク翻訳家) 書斎のネコ カエルくん2017年 60分 デンマーク 原題「Dreaming Murakami」2019・10・29・シネリーブル神戸no35追記2019・11・02 60分の短いフィルムですが、村上ファンのかたがご覧になられると面白いんじゃないかと思いました。書き忘れましたが、最後は大学だかのホールの舞台のうえ、人の背丈より、ずっと、大きな本のページが開かれているセットの前で、ホルムさんが、対談の相手である村上春樹を待っているシーンでした。このシーンというか、舞台のデザインも一見の価値があると思いました。 ノーベル賞がどっちを向いたというような騒ぎ方ばかりしている、この国のメディアには、絶対に作れない、村上作品に対する「真摯さ」があふれた作品でした。 村上春樹は「世界に僕の作品を待っている人がいることを信頼している」という意味のことを、誰かのインタビューで語ったことがありますが、まさにそれを実感する映画でした。にほんブログ村神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫) [ 村上春樹 ]神戸の震災のあと発表された短編集。傑作ぞろいです。
2019.11.02
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