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マイテ・アルベルディ「83歳のやさしいスパイ」シネ・リーブル神戸 「アンナ、出てきてる人らな、ホンモノや思うねんな。もうな、ちょっとボケてはる様子とかもやけど、顔の表情とか皺とか、なんというか立ち居振る舞いが演技チャウで、あれは!ほんでな、スパイ役のジーさんが、その皺くちゃやったり、『ちょっと太めデンナ』のオバーチャンらの人気モンになんねん。それが、なんか、リアルやねん。作りごととは思われへんで。」 まあ、とか、何とかを帰宅して早速、チッチキ夫人相手にまくしたてた映画でした。 どうしてそう思い込んだのかわかりませんが、予告編から本編を見終わっても、まだドラマ、劇映画だと思い込んでいて、帰宅してチラシとかネットの手ビューを読みながら、ようやくドキュメンタリィー作品だったことに気づきました。 確かに、「探偵」役のセルヒオさんが老人施設に入所する時の面接の場かどこかで、撮影しているスタッフとかカメラが映し出されるシーンはありましたが、展開の「面白さ」に気をとられていたのでしょうね、「まあ、そういう手法もあるな」とか思って、ドラマとして何の不自然も感じませんでした。 それにしても、見ながら、一番圧倒されたことが、登場する老人たちの、とても役者の演技とは思えない「リアル」な様子だったわけですから、気づきそうなものですが、疑いもしませんでした。 で、一番「スゴイ」と思ったのは、この探偵さん相手にオバーチャンたちが実によくしゃべらはって、なんか、とても素直に心を許していらっしゃったことでした。 考えてみれば当たり前のことですよね、オバーチャンたちからすると、同じ年恰好で、同じ境遇の、それも男性(これもかなり重要なポイント?)が、ベッドの枕元まで来て話を聞いてくれて、なんかおしゃべりすると返事してくれる。何せ、探偵なのですから、決して無視しない。 彼女たちが毎日出会っている若い看護や介護の人は、こんな悠長な態度で、彼女たちの相手はできないでしょうし、たとえ出来たとしても、まあ、言ってしまえば「上から目線」のやさしさになりがちでしょうからね。 この作品は、セルヒオさんという80歳を超えていて、「ところで、あなたは大丈夫なの?」と尋ねたいような人が、シーン、シーンでそれぞれの人の隣にすわって話を聞いていたり、心配げにベッドをのぞき込んで話しかける姿を一緒に撮ることで、カメラが持ってしまいがちな「上から目線」というか、テレビなんかで見かける「潜入ルポ」的な興味本位の感覚とは少し違う、自由な映像をつくりだしていると思いました。 セルヒオさんが出会う度に「自分がいろんなことを、すぐに忘れていっている」といって悔やむ女性がいます。数日後、セルヒオさんは、エージェント力を発揮して取り寄せた家族の写真を彼女に見せて、「我慢しないで、泣いてもいいんですよ」と話しかけるのですが、そのセルヒオさんの前で、彼女が声を上げて泣きはじめるシーンがありました。とても他人事とは思えない印象を持ちましたが、そう感じさせたのは、ぼく自身の年齢のせいだけではなく、映画の作り方の工夫に理由の一つがあったと思うのです。 大活躍で人気者の老探偵でしたが、「やっぱり、もう、家族のところに帰りたい」と訴えて、仕事を終え、施設を去っていくシーンで映画は終わりました。 彼だけは役柄を演じていたわけですが、演じながら彼は哀しかったのでしょうね。老探偵の人柄が胸を打つラストでした。いやはや、ご苦労様でした。拍手!監督 マイテ・アルベルディ脚本 マイテ・アルベルディ撮影 パブロ・バルデス編集 キャロライナ・シラキアン音楽 ビンセント・ファン・バーメルダムキャストセルヒオ・チャミー(探偵)ロムロ・エイトケン2020年・89分・G・チリ・アメリカ・ドイツ・オランダ・スペイン合作原題「El agente topo」「The mole agent」(「潜入スパイ」)2021・08・12‐no74シネ・リーブル神戸no109
2021.08.15
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ルイーズ・アルシャンボー「やすらぎの森」シネ・リーブル神戸 6月の予告編の頃からねらいはつけていました。「これはいけるんちゃうか。」そんな感じです。7月に入って上映が始まりましたが、時間がうまく合いません。いよいよラスト三日になってようやくたどり着きました。 映画は「やすらぎの森」です。カナダのルイーズ・アルシャンボーという女性の監督の作品です。客は5人でした。 カナダの美しい森のなかの湖が映し出され、ここに隠れ棲んでいるらしい3人の老人が水浴をしています。中の一人が、冷たい水のせいでしょうか、心臓発作を起こします。翌朝、彼が愛犬とともに亡くなっているシーンから映画は始まりました。 残された二人は、元郵便局員で、末期がんのチャーリー(ジルベール・シコット)とアルコール依存症から回復できない歌うたいのトム(レミー・ジラール)です。死んだのはテッド(ケネス・ウェルシュ)、森林火災で家族を失った苦しみを「雨のように鳥が降っ」ている絵を描き続けた絵描きです。 同じころ、スティーヴ(エリック・ロビドゥー)という青年の父がなくなり、父の姉ジェルトルード(アンドレ・ラシャペル)が精神障害者の施設から弟の葬儀にやってきます。彼女の突然の登場に、葬儀に集まった人々は困惑した様子ですが、彼女はいたって正気です。 葬儀を終えて、スティーヴが彼女を施設に送ります。車中でそこに帰ることを拒む伯母の顔を見ていたスティーヴは、彼女を森の棲家に連れて帰ります。ジェルトルードの表情にはスティーヴが彼女にかかわってしまうとことを納得させる、ある「深さ」があると思いました。 ここから、ぼくはこの映画の世界に一気に引き込まれていったように思います。 スティーヴは客など誰も来ない、森の奥のホテルの支配人を名乗っていますが、本業は大麻の密売人で、その大麻を作っているのが森の3人の老人でした。 彼らは反社会的隠れ家に潜んでいる世捨て人、で、かつ、匿名の犯罪者の集団ですが、そこに転がり込んだのが4人目の老人ジェルトルード(アンドレ・ラシャペル)だというわけです。 施設に帰ることを拒否したジェルトルードが、マリーと名を変えて、森の棲家の暮らしを始めるところから「物語」が動き始めました。 三人の老人が森林と湖水の美しい風景の中で文字通り素っ裸になって暮らす光景が、ようやくたどり着いた穏やかで自由な人生の終わりのための「やすらぎ」のアジールを思わせます。 森を歩くトムが鼻歌で歌う「アメイジンググレイス」、焚火のまえでギターをつま弾きながら愛犬に歌って聞かせるレナード・コーエンの「Bird on the Wire」、死を決意した夜、酒場で歌うトム・ウェイツの「TIME」。トムが映画の中で歌っていたこれらの歌は、この映画のナレーションだったのですが、やがて、森の棲家を追われることに絶望をしたトムは、愛犬とともに自ら命を断ちます。 テッドが描き残して去った、「Il pleuvait des oiseaux(雨のように鳥が降った)」の連作は森林火災で家族を失ってしまった彼自身の心のさまに形を与えた作品ですが、映画に登場する老人たちをシンボライズしているかのように哀しく美しい絵でした。 水辺で日向ぼっこをするマリー、自分の腕で水を搔き、自分の足で水を打って浮かぼうとするシュミーズ姿のマリーを支えようとするチャーリー、水の中で抱き合う二人の老人のほほえましい姿。その夜だったでしょうか、80歳にして生涯初めて、愛の官能を経験したマリーがチャーリーに囁く言葉が「愛撫っていいものね」でした。 精神障碍者として60年近い隔離生活を強制された人生から逃れてきた彼女の歓びを、こんなに「ズバリ」と表す言葉が、他にあるでしょうか。彼女は80歳にして、初めて「生きる歓び」に出会い、もっと「生きる」ことを願いはじめます。「自動車が通る道が見える家で暮らしたい。」 やがて、森林火災の危険を理由に、森の犯罪者たちに官憲の手が伸び始めます。しかし、「Il pleuvait des oiseaux(雨のように鳥が降った)」の連作のなかに、一枚だけあった光の絵のように、生まれて初めて自由であることの喜びを知ったマリーは、愛するチャーリーと、彼女が夢見ていた「自動車の見える通り」に面した小さな家に逃れてゆきます。 80歳を超えて、マリーを演じた女優アンドレ・ラシャペルは、公開を待たずにこの世を去ったそうですが、施設を逃亡し、生まれて初めて「人間」の暮らしを始めたマリーの生活が、そんなに長く続くわけではないことを暗示するような女優の最後ですが、庭でサクランボを摘む「笑顔のマリー」は、おそらく彼女の生涯で、最も美しい演技の一つだったのではないでしょうか。 トム役のレミー・ジラールが「今、愛のときが始まる」と歌う「TIME」の深い歌声、アンドレ・ラシャペルの年齢を忘れたかのようなかわいらしく、且つ、官能的な演技、老俳優たちの存在感たるや、ただ事ではありませんでした。 蛇足ですが、この映画は老人たちが美しい森の奥に人生の最後のアジール、静かな逃避の場所を見つける「やすらぎ」の物語ではないと思いました。荒削りの印象はありますが、「生きる」という苛酷を最後まで、自分なりに生き抜こうとする希望の物語でした。 最後まで輝いていた女優アンドレ・ラシャペルと、若い女性監督ルイーズ・アルシャンボーに拍手!でした。監督 ルイーズ・アルシャンボー製作 ギネット・プティ原作 ジョスリーヌ・ソシエ脚本 ルイーズ・アルシャンボー撮影 マチュー・ラベルディエール編集 リチャード・コモーキャストアンドレ・ラシャペル(本名ジェルトルード・森での名前マリー・デネージュ)ジルベール・シコット(チャーリー)レミー・ジラール(トム)ケネス・ウェルシュ(テッド・ボイチョク)エブ・ランドリー(愛称ラフ=ラファエル写真家)エリック・ロビドゥー(マリーの甥・スティーヴ)ルイーズ・ポルタル(ジュヌヴィエーヴ)2019年・126分・G・カナダ原題「Il pleuvait des oiseaux(雨のように鳥が降った)」シネ・リーブル神戸no106
2021.08.12
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テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ「ペトル―ニャに祝福を」シネ・リーブル神戸 北マケドニアという国があるということさえ知りませんでした。ユーゴスラビアという国だったあたりのようです。マケドニアというとアレキサンダー大王しか思い浮かばないのもどうかとは思うのですが、まあ、そういう気分で見た映画が「ペトル―ニャに祝福を」でした。 原題は「Gospod postoi, imeto I’e Petrunija」で、「神は存在する、彼女の名はペトルーニャ」だそうで、「祝福」ということばは神様に対する態度のようなことを意味しているのかなとか、そういえば、あの辺りは「東方正教会」、「ギリシア正教」か、とか思い出して、まあ、だからどうということもなく見終えました。 橋の上から町の教会の司祭が「幸運の十字架」を川に投げ込んで、男たちが競ってそれを拾うという「女人禁制」の、宗教的年中行事の現場に通りかかった、えらく体格のいい女性、今日はとりわけむしゃくしゃしていた主人公ペトル―ニャが文字通り「飛び入り」して、流れていく十字架を拾ってしまうという出来事が、すべての始まりでした。 見終えて、ゆっくり感動しました。何の罪なのか、捕らえられているペトル―ニャにも、彼女の母親にも、警察署長にも、司祭にも、十字架を取りそこなって腹を立てている男たちにもわからないまま、架空の「罪」だけは、みんなの頭の中にあるようです。「女だてらに幸運を手に入れようとしている!」 ひょっとしたら、映画を観ている人の多くが、そんなふうな、ありもしない罪を当然のこととして思い浮かべているかもしれない、そんな「世界」に、ぼくも生きているのかもしれません。 体格、容姿、年齢、学問、そして、何よりも女性であること、どうしてそれが「罪」なのかわからないまま、「罪」が捏造されてきたし、これからも、されつづけていくらしい「世界」にペトル―ニャはどうやって戻っていくのでしょう。母親のように罪を引き受けるのでしょうか。父親のように心の中で罪を無視するのでしょうか。「それをは罪ではない。」 映画は、社会全体の「回心」を描くわけではありませんでした。たった一人の若い警察官ダルコが「迫害」に耐え続けるペトールーニャを「理解」したにすぎません。 たった一人の他者の「理解」が閉ざしていたペトル―ニャの心のドアを開いたようでした。「わたしがそう考えることは「祝福」されるべきことだ。」 映画の終盤、何気なく映し出された警察官ダルコとペトル―ニャの穏やかな会話のシーンは、他者からの「同情」ではなく「理解」を描いていたのでした。 ぼくがそれに気づいたのは、映画館を出てメリケン波止場あたりのベンチで、久しぶりに晴れ上がった海を見ていた時でした。警察署を出ていくペトルーニャの晴れやかで、堂々とした姿を思い浮かべながら、思いました。「世界は、まだまだ捨てたものではなさそうだ。」 最初の一歩の可能性を真摯に描いたテオナ・ストゥルガル・ミテフスカという監督と、堂々とした体格で「世界」と対峙して見せたペトル―ニャを演じたゾリツァ・ヌシェバに拍手!でした。監督 テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ製作 ラビナ・ミテフスカ脚本 エルマ・タタラギッチ テオナ・ストゥルガル・ミテフスカ撮影 ビルジニー・サン=マルタン美術 ブク・ミテフスキ衣装 モニカ・ロルベル編集 マリー=エレーヌ・ドゾ音楽 オリビエ・サムイヨンキャストゾリツァ・ヌシェバ(ペトルーニャ)ビオレタ・シャプコフスカ(母:ヴァスカ)スアド・ベゴフスキ(司祭)ラビナ・ミテフスカ(ジャーナリスト:スラビツァ)ステファン・ブイシッチ(警官:ダルコ)シメオン・モニ・ダメフスキ(検察長官:ミラン)2019年・100分・G・北マケドニア・ベルギー・スロベニア・クロアチア・フランス合作原題「Gospod postoi, imeto I’e Petrunija」(神は存在する、彼女の名はペトルーニャ)2021・07・13‐no65シネ・リーブル神戸no101
2021.07.17
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チェン・ユーシュン「1秒先の彼女」シネ・リーブル神戸 2020年に作られた台湾の映画だそうです。チェン・ユーシュンという監督さんは、結構有名な方らしいのですが、ぼくは知らない人でした。映画は「1秒先の彼女」、中国語の題が「消失的情人節」だそうで、こっちのほうがおもしろそうですね。 郵便局で事務員さんをしている女性ヤン・シャオチーさんが、まあ、なんというか、面白いオネーさんで、やたら下ネタをいうのが、笑っていいのか、知らん顔をしていいのかわからない人でしたが、「1秒先」の人でした。マア、慌て者ですね。 で、彼女の幼馴染だったらしいのですが、彼女は全く覚えていないバスの運転手をしているオニーさん、ウー・グアタイさんが「1秒後」の方で、いわゆる引っ込み思案ですね。で、この「1秒」が、まあ、ネタというわけでした。 映画というのは、いろんなことができるなあ、と感心したのですが、よく考えてみれば、「映像を止める」という、まあ、実に古典的な方法なわけで、そんなによろこぶほどのことでもないんじゃないかとは思いながら、しかし、素直に笑えました。うまいものです。 時間が止まっている人間をマネキンみたいにしてポーズを取らせたり、おぶったり、タンスから突如ヤモリの神様が登場したり、窓の向こうにラジオの映像が見えたりとか、なんだか、昔のテント芝居のごった返しを観ている感じで、そこに生まれてくる、まあ、ハチャメチャな「空間」が実に刺激的で、かつ、実にノスタルジックな気分にならせていただきました。 なかでも、海辺というか、海の中を走る通勤バスのシーンとかは、ノスタルジーを越えてうなりました。リアルな風景がイマジナリー空間へと見事に変貌していきました。「これは、これは!うーん、やるな!」 そんな納得でした。「1秒先」の女性と、「1秒後」の男性の凸凹コンビの、凸凹の合わせ目をとても巧妙に現前させてみせてくれた、この映画の作り手の、このセンスと構成力をもっと見てみたい。そういう良い気分で映画は終わりました。拍手! ところが、帰り道に考えこんでしまいました。「1秒早く反応するというのは、1分に対して59秒しか使わないわけで、1秒遅れるというのは1分に対して61秒かかっているわけやから、時間が余るのは「慌て者」の方ちゃうんか。なんで、引っ込み思案の方に余るんや?」 もちろん結論は出ていませんが、映画の面白さとは、ほぼ、関係ありませんね。(笑)監督 チェン・ユーシュン脚本 チェン・ユーシュン撮影 チョウ・イーシェン美術 ワン・ジーチョン編集 ライ・シュウション音楽 ルー・リューミンキャストリウ・グァンティン(ウー・グアタイ)リー・ペイユー(ヤン・シャオチー)ダンカン・チョウ(リウ・ウェンセン)ヘイ・ジャアジャア(ペイ・ウェン)リン・メイシュウグー・バオミンチェン・ジューションリン・メイジャオホアン・リェンユーワン・ズーチャンチャン・フォンメイ2020年・119分・G・台湾原題「消失的情人節 」・「My Missing Valentine」2021・07・05-no61シネ・リーブル神戸no99
2021.07.10
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パオ・チョニン・ドルジ「ブータン山の教室」シネ・リーブル神戸 文部省推薦とか書かれていて、ちょっと引きましたが、まあ、見てみないとわからないという気分でやってきたシネ・リーブルでした。 圧倒的なという修飾語がついてしまう風景とか、人々の暮らしとか、笑顔とか見てしまうと言葉を失いますが、言葉を失いました。 というわけで、なんというか、まあ、圧倒的な映画でした。スクリーンに映し出される世界はドキュメンタリーのようですが、筋立てのあるドラマでした。そして、その筋立てがなければ2時間近い全体を見続けることは、実は難しいのかもしれませんし、登場する村長や小学生の堂々たる風情も伝わらないのですが、標高が5000メートルを超えるヒマラヤの村ルナナの風景や、そこで生きて暮らしている人間をはじめとする「いきもの」の姿が、山あいに響き渡る歌声と共に、圧倒的にドキュメンタリー、つくりものではない「ほんもの」として迫ってきました。 それにしても、この時間的にも空間的にも、はてしのない「遠さ」を思わせるギャップについてなんといえばいいのでしょう。 ルルナの村の先祖たちが「未来」を求めて、ヒマラヤのこの土地にやって来たときから、いったい、何百年の年月が流れたのでしょう。 映画の中で、村の少年が、明るく思慮深い表情で口にする、「教室で教えられる未来」は、本当に「人間」を「しあわせ」にするのでしょうか。 映画が映し出す、「ルルナ村」にまぎれ込んだ、ブータンの首都に住み、海の向こうの国、オーストラリアに憧れる青年教員の「困惑」と「ためらい」は、神戸の繁華街の映画館でぼんやり映画を観ているぼく自身の「ためらい」であり「困惑」でした。 映画はオーストラリアのシドニーの酒場で、全くウケない「ビューティフル・サンデー」を歌う青年が、意を決して「ヤクに捧げる歌」を熱唱して幕を閉じますが、残念ながらアンチ・クライマックスな幕切れでした。 理由は明らかだと思います。ルルナの村の少年が目を輝かせ、村長が厳かに口にする「未来」が、青年が夢見たシドニーや、ぼくがトボトボ歩いている神戸の街角にはないからです。シドニーで青年が歌う「ヤクに捧げる歌」はルルナの村に木霊していた歌ではないからです。 ルルナの人たちが希求し、おそらくぼくたちの先祖も信じていたに違いない、あの「未来」はどこにいってしまったのでしょう。 メリケン波止場の向こうに広がる海を見ながら、一生に一度も海なんて見たことがない人々が未来を希求している姿と、ぼく自身の祖父や祖母たちの姿が、ふと重なり合うような気がしました。センセイが教えるはずの「未来」を見失ったのはそう古いことではないのかもしれませんね。 監督 パオ・チョニン・ドルジ製作 ステファニー・ライ脚本 パオ・チョニン・ドルジ撮影 ジグメ・テンジンキャストシェラップ・ドルジ(ウゲン:教員)ウゲン・ノルブ・へンドゥップ(ミチェン:ヤク飼いの青年)ケルドン・ハモ・グルン(セデュ:歌うたいの女性)ペム・ザムペム(ザムペム・ザム:級長の生徒)2019年・110分・G・ブータン原題「Lunana: A Yak in the Classroom」2021・06・30-no60シネ・リーブル神戸no98
2021.07.02
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ジョージ・ギャロ「カムバック・トゥ・ハリウッド!!」シネ・リーブル神戸 今日は朝一番のシネ・リーブル神戸でした。10時半のスタートなので、いつもより早めのお出かけですが、永遠の「タクシードライバー」のロバート・デ・ニーロさん、77歳。「宇宙人ジョーンズ」のトミー・リー・ジョーンズさん、74歳。シマクマ君のボンヤリ記憶では、初めて見かけたときはお金持ちの女の人の、まあ、その頃から老運転手だった気がするモーガン・フリーマンさんに至っては83歳。 それにしてもお元気な三人が顔をそろえていらっしゃるというのですから、少々の早起きは仕方ありませんね。それに、今日はチラシを見て「これは見ないとしょうがないわね。」とのたもうたチッチキ夫人と同伴鑑賞でした。 久しぶりの「チョーB級映画」でした。芸達者な老優が「イカレタ」三人を楽しく演じて、遊んでいらっしゃいます。いったい、どれくらいのギャラなんでしょうね。 なんというか、「映画の映画」という設定ですから、もう、インチキ満載、小ネタ満載なのがぼくでもわかるドタバタぶりで、そのうえ、妙にノスタルジックなんですよね。 チンピラギャングの親分に扮したモーガン・フリーマンの、あの「まじめな」声が聞こえてきて、ジーさんそのものの顔のド・アップで画面がいっぱいになった時には、笑っていいのか、涙ぐんでいいのかわからないし、インチキならお手のもの、目からインチキがにじみ出ている風情のデ・ニーロがC級映画のプロデューサです。あんまりぴったりで笑いを忘れそうでした。彼が「オスカー間違いなし!」と叫んで振り回している脚本が「パラダイス」。で、撮ったけど大コケした映画が「尼さんは殺し屋」ですからね。ホント、よーやるわ!って感じでした。 それにしても宇宙人ジョーンズのカウボーイには、もう呆れるしかないというか、いやはやなんとも、「頼むから落ちんといてね。」という気分でしたね。 しかし、若い人がご覧になっても、同じように面白いのかどうか。なんとなく「笑い」が古いのかもしれないと感じたことも確かですが、でもね、だからといって、エンドロールが回り始めたからといって、さっさと席をお立ちになるのはおやめになった方がいいかもしれません。明るくなる直前に一番インチキなシーンが待っているかもしれないわけで、これが、なかなか、油断大敵でしたよ。(笑) こういう、余裕シャクシャクの映画って久しぶりでした。このところ、なかなか、見る機会がなかったのですが、これも、ぼくにとっては「映画」の原点の一つのような気がしましたね。チッチキ夫人も、なかなかゴキゲンでした。もちろん感想は「アホやね!」でしたがね。 監督 ジョージ・ギャロ オリジナル脚本 ハリー・ハーウィッツ 脚本 ジョージ・ギャロ ジョシュ・ポスナー 撮影 ルーカス・ビエラン 美術スティーブン・J・ラインウィーバー 衣装 メリッサ・バーガス 編集 ジョン・M・ビターレ 音楽 アルド・シュラク キャスト ロバート・デ・ニーロ(マックス) トミー・リー・ジョーンズ(デューク) モーガン・フリーマン(レジー) ザック・ブラフザック・ブラフ エミール・ハーシュエミール・ハーシュ エディ・グリフィンエディ・グリフィン 2020年・104分・G・アメリカ 原題「The Comeback Trail」 2021・06・09-no53シネ・リーブルno96
2021.06.12
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KENTARO「ターコイズの空の下で」シネリーブル神戸 日本人のおバカな青年がモンゴルを旅する映画でした。いきなり麿赤児のクローズアップが映し出されて、映画が始まりました。マア、この顔を見るためにやってきたのですから、文句はありませんが、なんと言うか、実に安易なお話でしたが、映画としてはさほど悪くないと思いました。 悪くないと感じた理由は二つです。一つはアムラという馬泥棒を演じるアムラ・バルジンヤムという俳優の好演です。韓国映画のスターにソン・ガンホという方がいますが、ちょっと雰囲気が似ていると思いました。 おおらかで、実に庶民的な表情、見ていて、なんとなくおかしくて、安心する物腰の演技でした。馬に乗るシーンも、さすが、馬の本場を思わせる乗り方で、東京のアスファルトの道を、馬に気を使いながら(わかりませんが)走らせている様子がとてもいいと思いました。 二つ目は「ターコイズの空」、トルコ石風のスカイブルーの空ですかね、をはじめとした、モンゴルの風景や人ですね。 一応、ロード・ムービーなわけで、要するに、怪友、麿赤児演じるお金持ちのオジーちゃんが、柳楽優弥君演じるバカ孫を、どんより広がる「日本」の空じゃなくて、モンゴルの草原の「ターコイズ」の空のもとで、まあ、通過儀礼的「体験学習」をしてきなさいという、のどかな設定で、送り出しわけです。 その結果、ボンクラ青年「タケシ」君が、馬泥棒のアムラが運転するバンに乗って、モンゴルの草原を旅しながら、日本では味わえない「人間的現実」や「自然」と出会うという、ロード・ムービーなわけで、「出会う」対象が風景も人間も実にいいのです。 マア、問題は、物語の「山場」の設定が甘いというか、「落ち」だけ考えついて、そこから作った印象が残るのですが、最後に映し出された、死にかけの麿赤児の顔を見ながら、どうも、「遊び心」で作ったコメディだったようだと得心し、腹を立てても仕方がないかという結論でした。監督 KENTARO脚本 KENTARO アムラ・バルジンヤム撮影 アイバン・コバック照明 中村晋平録音 シルビーノ・グワルダ・ベセラ美術 エルデンビレグ・ビアンバツォグト 菊地実幸 安藤秀敏衣装 TAKEO KIKUCHI MACHIKO JINTOヘアメイク 須見有樹子音楽 ルル・ゲーンズブール OKI マンダハイ・ダンスレン オランキャスト柳楽優弥(タケシ)アムラ・バルジンヤム(アムラ)麿赤兒(三郎)西山潤(若き日の三郎)ツェツゲ・ビャンバ(遊牧民女性)サラントゥーヤ・サンブ(ツェルマ)サヘル・ローズ(三郎の秘書)諏訪太朗(警察署長)2020年・95分・G・日本・モンゴル・フランス合作2021・04・12‐no37シネリーブル神戸no90
2021.04.20
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セドリック・ヒメネス 「ナチス第三の男」シネリーブル神戸 高校の図書館で、自称館長を名乗っていた数年前に本屋大賞をとった、フランスの小説を新しく棚に並べたことを覚えている。ローラン・ビネという人の「HHhH (プラハ、1942年)」(東京創元社・海外文学コレクション)という作品だ。記憶に残ったのは、翻訳小説としては、珍しく評判になったからだが、表紙のデザインが面白かった。 チラシを見ていて、「ああ、あれじゃないか!」そう思って観客席に座った。 いかにも、ドイツの青年という風情の男が画面に登場する。表情のわかりにくい顔立ちだが、傲慢さの(この手の男前がみんな傲慢に見えるのは、全く個人的な勝手な印象なので、誰もがそう思うかどうかはわからない)裏側に、かすかな不安を感じさせる。 マーロン・ブランドという、もし、個人的に出会ってもどうしても好きになれそうもないが、映像の上ではスゴイなという俳優がいたが、そっくりだ。 この、金髪で青い目の男が主人公だった。 ナチスのユダヤ人問題の最終解決政策の発案者であり、実質的遂行者となった、この男の内面を映像はクリアーに暗示している。 劣等感、幼児性、いわれのない不安。 原作小説で、ビネは「4つのH」(Himmlers Hirn hei?t Heydrich、ヒムラーの頭脳、すなわち、ハイドリヒ)というこの男につけられた嘲りの綽名を使っているが、「ナチス第三の男」という邦題は、ヒットラー、ヒムラーに続く、三番目のHという意味もありそうだ。 画面が、もう一組の主人公たち、イギリス空軍機から雪原に舞い降りた二人のチェコスロヴァキア亡命政府軍兵士の、敵地と化している故国の町での活躍を映し始める。もう目を離せない。 秘密の計画、下見、そして、ロマンスもある。かろうじて成功した暗殺。報復が始まる。次々と人々が殺されて行く、裏切り、密告がある。自殺、逃亡がある。銃撃戦がある。 追い詰められたヒーロー二人はが、なんと地下室の水の中で自殺して映画は終わる。 殺す側と殺される側、両者を主人公にした筋はこびは、見ていて微妙なずれのようなものを感じさせて、落ち着かない。 穏やかな気持ちで見終えることはできなかったが、なぜか、自転車が印象的な映画だった。 三ノ宮の町は暮れ始めていた。歩く元気が湧いてこないので高速バスで帰ってきた。バスを降りると時雨ていた。「日が、すこし長くなったなあ。でも、まあ、もうしばらくは冬か。」監督 セドリック・ヒメネス Cedric Jimenez 原作 ローラン・ビネ 「HHhH (プラハ、1942年)」(東京創元社・海外文学コレクション) 脚本 オドレイ・ディワン キャスト ジェイソン・クラーク(ラインハルト・ハイドリヒ) ロザムンド・パイク(リナ・ハイドリヒ) ジャック・オコンネル(ヤン・クビシュ) ジャック・レイナー(ヨゼフ・ガブチーク) ミア・ワシコウスカ(アンナ・ノヴァーク) 原題「The Man with the Iron Heart」 2017年 フランス・イギリス・ベルギー合作 120分2019・01・30・シネリーブル神戸no37にほんブログ村にほんブログ村
2019.12.08
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