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本ブログから離れて6年半以上、ずいぶんと縁遠くなってしまったが、本日より再開しようと思う。----------------------------------------------------------------昨日、母の一周忌を無事終えることができた。雲一つない青空、秋の日差しは眩しく暖かで、穏やかな天気だった。夜には442年ぶりという天体ショー(皆既月食、天王星食)も重なり、記憶に残る1日となった。母が突然目の前からいなくなった日から1年、悲しみと後悔の念は幾度も呼び起こされる。しかし一方で記憶や思い出が風化していく怖れは日に日に強まる思いがする。日々の忙しさ、記憶の衰え、さらには母が殆ど夢にも出てこなくなった。入院して会えない母のことを遠くから心配していた当時は、よく母の夢を見たものである。寂しそうな母を夢に見てもっと接してあげないといけないと思ったり、夢の中で母の死に接して現実でなくて良かったと安堵したりもした。ところがここ半年、夢の中で母に会ったのは2、3回だろうか。うち1回は指に無数の針を刺していて、とても痛いはずなのにその感覚を失っている夢だった。コロナ禍で会うことも出来なかった日々、一人で進行する癌の痛み、日に日に酷くなる褥瘡(じょくそう:床ずれ)に耐えていた母、それが思い起こされ、かわいそうで辛かった。もう1回は一緒に生活している楽しい夢だったはずだが、忘れてしまった。また昨夜は、夢の中に子供のころ過ごした家の景色が広がっていたのだが、そこで母に会うことはなかった。大切な母の想い出が失われていくような、そんな怖れをあらためて感じさせられた。日々の想いを綴り、また大切な母の記憶を風化させないようにここに書き留めていこうと思う。
2022.11.09
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父からの電話で母の入院を知らされたのは月曜のこと。ちょうど米国から帰国し、家で横になって休んでいた正午過ぎのことだった。日々確実に症状の悪化していく状況を聞かされ、しかし頑なに病院で診察を受けることさえ拒否していた母に、どう対応すればいいのか?と、もどかしい思いをしてきたが、今回の入院に際しては、何の抵抗もなくそれを受け入れたと聞き、多少救われた気もする。それが良かったというと、経過を見ないことには判断はできないが、今できる最善の方法だったと信じたい。父もそれが良かったのか、入院させた後で迷いがあったに違いないのだが、もはや余談を許さない状況だったと思うからだ。入院直前の3日間は外泊だったという。その間に父と2人で親戚を訪ねもしたが、そこでも必死に幻聴のことを訴えていたという。家にいることで心身は疲弊。近所の人々が一晩中大騒ぎして、眠らせまいとする、追い出そうとしている。それがやがて、勝手に門を入ってくるだの、火をつけられるだの、殺されるだの、と妄想は常に恐怖感と緊張感とを伴うようになった。常にカーテンの外に目を遣り、警察に連絡したり、そしてとうとう幻影に向かって声を発したと言う。だからそれは周囲の目にも本人にも限界点だったと言えよう。外泊しても似た車を目にすると、自分を追いかけてきたのではないかと、窓の外を気にする。"もう家に帰りたくない!"という想いは一層強くなり、母に必要だったのは緊急の駆込み寺。そこが病院で常時自分を守ってくれる場所だとしたら、母もそれを断る理由は無かったのだろう。そしてこの週末、実家へと帰省した。前回の年末年始は、熊本で外泊して過ごしたので、実家に帰るのは11月末以来のことだった。そして父から聞かされていた光景を目にして、事態の深刻さを認識すると共に、今回の決断がやむを得なかったものと納得した。コタツで寝ていたという母、リビングのソファーはテラス側にバリケードのように置かれ、そしてコタツ布団を掛けて寝るのは座椅子。裏口のドアはチェーンとノブが引っ越し用の紐で固く縛られ、台所に並べた鍋には水を湛えていたという。また夜中に玄関や門の灯りを点けないよう父がスイッチ類をテープで固定して、等々。。。父と病院に行き、久しぶりに母と会う。割りと元気そうで安心した。それでも面会はわずかに30分、実に短い。毎日時間を共有してきた父にとって、母と声を交わす時間は突然1日30分となった。それも車で駆けていってのこと。晩年の人生の時間を思えばその30分はとても重い。時間が来れば看護士が終わりを告げ、病棟へと母は連れていかれてしまった。朝の体操に始まり、管理された食事、生活。慣れない病院生活に思うにならないことも多々あるようだが、これまでのように恐怖に怯えて家に閉じ籠る、そんな心身が蝕まれる日々から解放された意味は大きい。最低3ケ月と言われる入院生活、心身の健康を取り戻してほしい。切に願うばかりだ。母の居なくなった家。その寂しさに加えて、これまで母が仕切っていた食事に家事全般。その事実を前に父はどこから手をつければいいのか、まだ生活感が掴めていないように感じた。台所に立って当座の食事の準備やら対応やら、。。。これからは父の方が心配。そんな父を残して遠くにいる自分。こんな状況になって初めて、自身のお親不孝さがより身に染みる。
2016.03.13
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昨日は母親の誕生日だった。普段連絡をとらなくても、その日には必ず電話をかけるのがお決まりなので、昨夜もかけたのだったが、誕生日の"た"の字も発することなく電話を終えてしまった。まさかそのことさえ忘れていたのでは?と思ったのだが、1日が明けて実際そうだったことを知る。自分の誕生日のことを忘れているなんて初めてのこと。今回私からは何のプレゼントもしなかったのだが、家内からの誕生日プレゼントが1日遅れで届き、そこで初めて知ったらしい。家内にかかってきた電話の中で、私が昨日電話をかけてきた理由を悟ったようである。心身疲弊しきっている母親。ありもしない恐怖におびえて常に緊張感を強いられた生活を送っている母親。そんな日々が自分の誕生日も忘れさせてしまったようだ。電話の中で「だから昨日電話をかけてきたんだね。。。」と漏らしていたと聞き、きっとそれに気づいた自分が淋しかったに違いない。それを思うと辛くなる。電話で話をした家内は、しきりに「〇〇(私)のことを頼む。」と母親に嘆願されたというが、そんな別れるわけでもあるまいし勘弁してほしいと思う。しかし、母親は母親なんなだと。自分の置かれた厳しい状態のことよりも息子のことが心配なのだから。。。昨日電話した時もそうだった。来月中旬に帰省する旨を父親に漏らしていたせいか、私からの電話を受けるなり母親の口から出たのは、「帰ってこなくていいよ。何もしてあげられないから。。。」というもの。私にとっては出来る限り会う時間を作って、少しでも楽な気持ちにしてあげることが目的であって、御馳走してもらおうとか、身の回りの世話をしてもらおうとか、負担をかけるつもりはないのだが、母親にしてみればそうもいかないということ。また電話の会話の中で一番気になったのが幻聴の症状。「今帰ってくると危ない。何をされるかわからない。とても怖いよ。回りは皆んな△△(悪い意味での新興宗教)に入って、自分を追い出そうとして、嫌がらせをしている。だから今帰ってきたらダメだよ。」と、。。。父親からはますますその傾向が酷くなっていると聞かされる。以前は夜だけだったのが、今では日中も常に外に目を配らせて、緊張感と恐怖感が高い状態が続いている。警察にも電話したり、心配した知人からの電話にもその状況を切に訴えるという。地域包括センタや病院の診療については、自らの異常と認められないので、自らお断りの電話を入れたりする。引っ越しをすればすればいいのか?しかしそれは大変な労力。では入院させるべきか。良い施設があると一番いい。しかし母親が拒否をすると物事が進まない。救いは睡眠導入剤を飲んでいてくれることだけ。旅や外泊もほんのその場しのぎ。しかし体力も衰え、疲労も重なると、それさえもそう簡単に出来なくなってくる。父親のことも心配。最近は間違いで携帯に電話がかかってくることもあり、そういうことがあると何かあったのではと心配になって折り返す。時間が潤沢にあるわけでもなし。やっぱり何と言われようと、どこかで帰らねばなるまい。
2016.02.25
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実家の母の症状のことで、このところ日記を綴っているが、父から情報を伝えられて、一体どういう対処が出きるのかを都度考える。そこでインターネットで多くの情報が得られるのは助言になり非常に助かる。しかし決して解が得られているわけではない。以前に尤もだろうと認識したことでも、改めて現状と照らし合わせると、その認識は違う、と180℃覆ることもある。妄想性疾患というのは病院に行ってどうなる、薬を飲んでどうなるというものではないと感じた。前回記した"病気と認めたくない自尊心"なんかそこには存在しなくて、本人にとっては生きるか死ぬかの命懸けの戦がきっと繰り広げられている。昨日の父からのメールで、とりあえず薬を飲んで眠ってはいるようなので、効能も強いのだろう。しかし日々の恐怖心は強くなる一方で、 戸締りも厳重、昼間まで門を紐で縛ろうとしているとのこと。またとうとう昨夜、警察に電話している事実が判明した。気付いた父はその後実状を伝えておいたらしいが、外部の公の機関に対して、幻聴の中で大いに被害を受けて殺されると切に訴えていたことを知り、ショックだった。毎晩こたつの台の上に身内からの年賀状を並べ、お布施している寺院からの本や仏像を置いてぶつぶつと祈っているという。眠りが出来ているのはせめてもの好材料だが、心や脳の状況はより悪化していると言って良かろう。警察も何も当てにならないと認識すると、どうなるのか?ネットを調べて改めて理解したことを引用すると、。。。病的な被害妄想には、他者の助言は役立たない。捕らわれているのは不安ではなく、何かやられる殺されるといった極限の、戦場のような恐怖。その恐怖ゆえの錯乱といった心理状態が、際限なく続いている状態。現実には不可能にも拘らず、「盗聴されている」「毒を盛られている」「監視されている」等の根拠のない主張。障害されているのは現実を認知する能力ばかりでなく、他者を信頼する力もない。家族も信頼の対象ではなく、過度に依存する対象でしかない。そこで妄想を修正しようとする試みると、「周囲に脅かされている自分の苦境をどうして解ってくれないのか!」と逆上する。今後警察に対してそういう対応をとるのも時間の問題ではないか。一方の父は耳がだいぶ聞こえなくなっているので、母にしてみれば、父の方が身の危険がわからない。そして父を自身の妄想に現れる危険から守らないといけないと、必死で頑張っているのだ。敵意と怨念に満ち溢れた妄想、これが近所に発せられると正直大変だ。今週末帰省するのは諦めたが、来週末は出来れば帰りたい。1泊して部屋に寝ても誰も外に居ないし騒いでもいなかったよと否定してはいけない。病院に無理やり引っ張って行こうとしてもいけない。何をすれば安心させられるのか、暇を見て、ネットサーフィンし考える日々だ。
2016.02.06
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母親の幻聴が始まって約3ケ月。暫く処方された薬も飲まず、病院もドタキャンしたりで気を揉んでいたが、ここ1-2週間は新たに診療を受けた病院から出された睡眠導入剤を飲んでいるようで少しホッとしている。しかし症状に改善の兆しが見られるかというと、そんなことはなく、今では居間のコタツに寝るのが定着してしまったとのことで、悲しい。時に人が訪ねて来ると直ぐから妄想を切々と訴えている様子。また夜中にも父が寝た後で、民生委員に電話したり、警察などに電話したがるようで、父もこっそり電話の接続を切っている状況という。その症状は典型的な被害型の妄想性障害だ。それは次のように説明されている。”自分に対し陰謀が企てられている、見張られている、中傷されている、嫌がらせをされているなどと思いこみます。裁判所など行政機関に訴えて、繰り返し正当性を主張しようとします。まれに、想像上の迫害に報復しようとして、暴力的な手段に訴えることがあります。”と。先日は故郷鹿児島も大雪に見舞われたが、「夜、いつ入って来るかわからない。叔父さん(父)を守ってあげなければならないから眠っていられない。雪の中、家を取り囲んでガスをまいていた。」などと、心配して電話してくれた従姉に漏らしていたようだ。そういった心の悲鳴も身近な人に話すことで吐き出し、それを親身に聞いてあげ、一瞬でも抜いてあげる。その積み重ねなのかもしれない。そんなことを思いつつ、たまたま検査で訪ねた歯科医に置かれていたニュースレターを手に取ったのは昨日。そこに書かれていた記事が頭に残った。果たして、私は母親の気持ちを全く分かっていなかったのではないか?と自問した。できるだけ早く手を打たねばと、病院に連れていこうとしても、「病院になんか行きたくない」と頑なに拒絶する。理屈が通じない。しかし「行きたくない」の言葉の裏には本人の葛藤がある。それは自分は認知症(記事では認知症)なんかでないはずだ!というやり場のない怒りや悲しみから自分を守るための自衛反応なのだという。実は患者本人も「何となくおかしい」と自らの変化に気がついており、そしてそのことに誰よりも不安を感じている。「なんで出来ないの」「また忘れたの(さっきも言ったでしょう)」という言葉に周囲が思う以上に傷付き、必死で守ろうとしている自尊心がゆらいでしまうために、頑なになったり、暴言を口にしたりといった行動につながっていくのだという。それらの記事に、母親の自尊心から来る反発だとか、頑固さ、そういう考え方さえしてこなかった自分に気付く。振り返れば、記事に述べられていることが当てはまるような気もする。何でも自分でやってきた人だから、。。。目も悪くして、足下のちょっとした段差にさえ足をとられることもあって、お正月行動を共にした際も、「(当たり前に出来ていたことが)何も出来なくなってきて悲しいねえ」と寂しそうに漏らしていたが、そこを回りに指摘されると尚更、否定したくなる気持ちも理解できる。記事ではこう締め括っていた。患者の本当の心を理解するのは容易ではないが、それらは本人の悲しみからくる反応であることを家族が知っておくことが大事だと。
2016.01.30
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仕事の環境の変化やプレッシャー、メンタル面での浮き沈み、体力や年齢的な不安、弱気になったり、気分が乗らず無為に過ごしたり、。。。そのまま怠けものになれるなら、そうなりたいなあと思ったりもする。そこで「もう歳だなあ」とか、「おじいちゃんになってしまったなあ」などと漏らそうものなら、カミさんに「そんなこと言っている50代、60代って回りにいない」と喝!!が入る。弱気の虫に冒されそうになるのを、頑張らねばと、肝心のところでは気持ちをピークに引き上げ、奮い立たせる。そんな繰り返しだが、そういう気持ちにさせるにも、自身をモチベートさせてくれるもの、力を与えてくれるもの、そして想いが必要だ。私にとってその一つは、信じるところをもって頑張っている人、そして物事に挑戦する人の姿だと思う。昨年それを求めてNYへと渡った。思い出せば、キッカケは2015年の4月某日、たまたま見ていたTVで、ブロードウェイのミュージカルへ挑戦する渡辺謙さんの生きざま、姿勢を見たこと。それは、王様と私"The King and I"の主演を演じる謙さん。"独眼竜政宗"でその人を初めて知ったのは数10年も前のこと。その後白血病を克服し、今や世界が認めるハリウッドスター。とは言え、本場ブロードウェイの舞台、いくら前評判が高くても酷評を受ければほんの数日で幕を下ろすショーもある厳しい世界(記憶にあるのは"赤い靴")での挑戦だ。初めてのミュージカル、その一瞬一瞬がやり直しの利かない勝負の世界、そこで英語で表現し、そして歌い踊る。それもミュージカル史上の名作中の名作"The King and I"。ユル・ブリンナーが演じ続けた王様を、渡辺謙がいかに演じきるか。当初、謙さんの話す英語が聞き取れないといった批評もあったようだが、果敢に挑戦された。それはご本人も曰く、55歳にしての人生一大の挑戦。そして2015年のGWを前に謙さんの舞台はいよいよ幕を明け、大変な評判になっていたが、同時に是非それを見に行きたいという想いが私の中で高まっていった。昔から好きだったミュージカル、中でも"The King and I"はお気に入りの一つ。デボラ・カーとユル・ブリンナーが主演した映画はもちろん、約25年前初めてロンドンを訪ねた時にはちょうど上演されていたその舞台を2度見に行ったほど。そういう背景もあって、挑戦する謙さんから力を貰おうと思った。NY行きに迷いは無かった。その舞台についてここで私が何かを述べることは畏れ多いこと。とにかくとても感動した。目の前で王様を演じる渡辺謙さんに鳥肌がたち、涙した。日本人の誇りだと思った。それはトニー賞の主演男優賞にノミネートされたことにも裏付けられるのだが、主演女優賞をとった共演のケリー・オハラの受賞直後の声にも凝縮されていた。"You are my King !!" そして勇気と力をもらった。さてその舞台は、私にとって2015年一番の感動の時間だったが、その場に身を置くことができたのは本当に幸運だったと言っていい。NY行きの航空券を手配した時、既に"The King and I"のチケットを取るのが不可能な状況で、あまりの人気ぶりに何倍ものプレミアがついたりもして半ば諦めていた。しかし、インターネットを調べて辿り着いた最後の砦、"あっとニューヨーク"でチケットを手配。それは出発前日の5月1日のこと。そして舞台の日程は、米国到着日5月2日の夜。時差と疲労を考えると一番過酷なスケジュールとも言えたが、滞在中唯一手配できた日程、価格は1人309ドルと高額となったが生涯1度のチャンス、決断したのであった。(その後、謙さんが演じた6月末までの講演は軒並み争奪戦で1000ドルを超える例もあったようである)ホテルで若干の仮眠をとって、訪れたのはブロードウェイの劇場ではなくて、マンハッタン随一の音楽・舞台芸術の殿堂、リンカーンセンター。他の劇場と比較すると、格の高い雰囲気、そしてオーケストラの質も高く、その後滞在中に見るミュージカル2本も、この日の"The King and I"にはとてもとてもとても及ばなかった。しかも日本からも結構見に来ているのかと思いきや、日本人は本当にまばらで、殆どがアメリカ人(欧米人)。その光景に、ブロードウェイで認められて、大いに受け入れられていることを実感したのであった。惜しまれるようにして、ブロードウェイでの王様役をやり遂げて日本へ帰国した謙さん。その王様が再び、この3月にブロードウェイに凱旋する(~4月)のはとても嬉しい。もちろん見にいくことは出来ないが、そのニュースにまた力を得る思いである。
2016.01.20
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先週もいろいろ大きなニュースが駈け巡った1週間だったが、そんな中で近所に暴言を吐く80歳過ぎの迷惑おばさんが逮捕されたというニュースがあった。ある意味、似たようなケースは以前より良く聞かされるが、何とも他人事に思えない複雑な心境を覚えた。これまでこの類のニュースを聞かされると、加害者に対してはとんでもないなあと、そして被害者に対しては気の毒だなあと同情はするが、正直テレビの中の遠い場所の話だった。少なくとも母親の幻聴症状が現れる前までは、。。。逮捕された後、警察の問いに対して、心当たり無いと言う本人の弁。よくぞそんなウソを!と思うべきところ、ここ数ケ月母親を見てきた私には、素直にウソをついているとも思えず、いくら警察でも現実認識がない人に現実はこうだと正したところで、白状させられないのではないか、とえ思ってしまった。というのも、幻聴を事実と信じて疑うことのない、そのあり得ない事実に真剣に心身を悩まされている人にとって、第三者がそんなモノは無い、見えないと言ったところで全く通じないからだ。母親のケースでは、逆に見えない聞こえない父親の方がおかしいのだと、周りに漏らしている。前回の日記で、幻聴の中の加害者たる当事者と、被害者たる母親とが、現実世界において面会。元気づけの花を持ってきて頂いたことを記した。その日は不思議と幻聴は現れなかったかのように、しっかり夜眠りについたようだ。しかし、1日、2日、3日、。。。と経ち、いよいよ症状は元の状態に舞い戻り。その加害者は毎日深夜、夜を通して近隣の人を集めて集会だの、何かを唱えるだのして、母親の眠りを妨害する。そういう(実際にはあり得ない)状況を地域の役員やら、知人やらに話をする。しかし、変わらぬ現実にいよいよ心身が病んでくると、もっと吐き出すことになるのではないかと懸念する。それが今回の迷惑おばさんとつい重なってしまうのである。現実世界の被害者にとって、心当りも何も無いことを平気で浴びせられる、それが暴言として繰り返される。母親の不安も外に発せられると、幻聴の中の被害者は現実世界での加害者となる。その関係は今回の件とさほど変わらない。父親も何とかしようと図って、定期的に通う眼科のついでに、診療内科へと連れていこうとしたが、ダメだった。病院になんか行かない。どこも悪いところが無い、と頑なに決めた心は動かせない。診療の予約さえしていたのに、結局その掴んだチャンスを生かせず。キャンセルする羽目になったという。昼間の生活はいたって正常、しかし夜になって不安定となる。寝る時間が迫ると周りで集会が始まるからだ。幻聴は聞いてあげながらじっくりと改善の道を探るべきと聞かされて、幻聴そのものを決して否定しないようにと心掛けてはきたが、病院にも行かない、薬も飲まない、家に相談に来てもらうことも否定する、。。。父親からもどうしようもないと。そうなってしまっては、自然治癒を目指すのではなく、幻聴の徹底的否定、それを認識させる。そうしたいのだが、。。。とりあえずはリラクゼーションの音楽を送ろうと思っている。聞いてくれるかどうかは問題だが、。。。とりあえず、幻聴を打ち消す何かが必要だ。最近は、老人施設で何匹ものペット(犬猫)と同居するケースもあるようだが、そこでは猫や犬は癒しだ。私の方では家で使える癒し探しだ。そして手に入れたらまず試してみること。まだまだスタートライン上、道は険しくなるのか、優しくなるのか、ともかく長くなるのは間違いない。ほんの正月会ったばかりだが、やはり待ったなしの顔見世は考えたほうがよい。(つづく)
2016.01.17
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今日は自身53回目の誕生日を迎えた。通年静かな誕生日も、一昨年来始めたFBで多くの友だちからお祝いのメッセージを頂き、嬉しい限りであり、本当にありがたい。ほんの数年前までは考えられなかったことである。一方で、ああまた1年歳をとってしまったか。。。と1年の経つことの早いこと、早いこと。いつまでも若くありたい、エネルギッシュでありたい、という想いに反して、確実に歳をとる、残された人生も日々短くなっていくことを実感すると、本音のところは悲しい。体力は確実に落ちているし、また気持ちと裏腹に手入れしない肌からは老いを感じさせられる。昨年末には、都内を歩いていて滑って転んだ時、右足の靭帯を損傷したこともあり、そんな事実も年齢を感じさせる。と、そんなことを言っていると、何をおじいさんになっているのか!とカミさんに叱咤されるのである。靭帯についてはまだ治療中で、暫くシーネ固定して、片足だけ大きなサンダルを履いて、仕事に通い、お客様のところに行き、休日も外せず生活していた、それも漸く昨日外れ、今日の誕生日を迎えることができた。周りを見渡せば、実際に60代でも70代でもバリバリに元気な方はいるわけで、挑戦し続ける人はたくさんいる。まだまだこれから夢をあきらめる必要はないし、目標を持って進まないといけない。いろいろと思うことはあるが、歳をとるのを受け入れて、60歳定年で人生が終わるでもないし、きっと現役で働けるよう成長しないといけない。そんな人を見て、勇気をもらうのも大事だし、そういう姿は心にとめておきたい。またこれからの1年、2年、3年、...と、自分の生き方という点では、田舎の母のこともしっかりケアをしていかないといけない。父親から貰った誕生祝いのメール、そのやりとりの中では母のことで心配をかけていることを心苦しく思う旨のコメントもあったのだが、そういう精神状態にしたのは何も母親だけの問題ではなくて、長い年月、遠く離れて心配をかけた自分にもあるわけで、そこは自覚しているので、これからの時間というのはしっかり償っていかねばと思うのである。世の中には比べものにならないほど苦労したり、自身の生活、人生も犠牲にすることを余儀なくされている人も数多くいて、それらと比べると弱音を吐いているレベルではなく、当然対処すべきものとして、受け留め、より良い方向に導けるようにしていきたい。そのためにも、まず自らの心身の健康が第一、その安心感を強固にし上で、身の回りのこと、そして仕事にと対処していきたい。昨年最もエネルギーを貰った出来事、それを求めて海を渡ってNYに行ったのだが、それは渡辺謙さんの"The King and I (王様と私)"。55歳にして人生最大の挑戦!!!、ブロードウェイでミュージカルに初挑戦で主演。毎ステージ1発勝負の舞台で英語で演技し歌い踊る。本当に偉大なる挑戦で感服した。年齢に諦める必要はない。その挑戦を間近に見て、勇気とエネルギーをもらったのだが、その感動を思い出し、年月を重ねていきたい。そう思うのである。
2016.01.14
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年末年始の休みから4日働いて週末の3連休、そして明日から仕事。休暇に新年の挨拶にと、前週までは国内外の顧客対応も静かだったが、明日から本番。とは言え、気分的になかなか吹っ切れず、走り出さねばと気持ちだけが焦って空回りしている感じだ。一方、気がかりなのは実家の母親。熊本と柳川と遠く家を離れて、旅した年末年始。不眠の日々から開放し、割りと夜しっかり寝てもらえた感はある。しかし、心の奥底にあるものが原因なだけに、ベッドに横になっても不安定で何物かと格闘してしているシーンを目にした時には、予想していたとは言え「やっぱりそうか」とショックを感じた。それに加えて視力の衰えがあり、歩いていても足下のちょっとした段差に躓いて危なっかしい。そういう現実には寂しさを感じた。それも眼科に行かずに放置していたのが原因ではあるのだが、何とかならなかったものか。と今に思ってももう遅く、現実を受け入れるしかない。そういう状況を改善するには外の空気を身体に感じ、人々の集まる中に身を置くこと。そう信じて外に引きずり出したわけだがこれまでの心労の蓄積が1晩、2晩の休養で取れる筈も無く、少し外に出ただけで疲れてしまう。そういうこともあって時間はあっても楽しめない。尤も親の楽しみを私が決めるのも勝手と言えそうだが、水前寺公園に連れていっても多くを歩けず、柳川に泊まったものの水郷の風情や北原白秋の生家を感じてもらうには消化不良。白秋のことを口にする母をその生家に連れて行くと、「北原白秋がこういう街で育ったと分かればそれでいい。今から勉強しても仕方ない。」と言うので、つい「せっかく連れてきているのに、、、」と言ったりもした。しかし本当に疲れていたようで、部屋に入ると椅子に座ったまますぐに寝てしまっていた、と後から父に聞かされた。まさに、後悔先に立たず。 それから1週間がたったが、実家に戻ると最初の夜から幻聴が再現したと知らされガックリ。夜な夜な家の回りで繰り返される集会、その明かりと響き渡る何かを唱える声声声。。。その恐怖感に布団で眠れず、電気を点けたままコタツにはいってそのまま一晩、二晩と。そして三晩目は急遽、隣町の温泉宿に泊まらざるを得ない状況になったという。父からのその報告に、現状の環境で住み続けることに限界を感じると共に経済的な不安もよぎる。外泊については年末、熊本に来る直前にもあったとのことで、しかし毎週のようにそれをやっていては何れ破綻するからだ。そんな中、大きな変化が一昨日あったのだが、それは幻聴の中で母を苦しめている中心人物である近所の住人が、きれいな花の鉢を持って元気付けに来てくれたこと。そこに至る背景は想像するしかないのだが、その訪問を受けて母も礼を述べたようだ。そしてその夜は何も騒ぐこと無く布団で一夜を過ごしたという。それを聞いて、一見荒療治だが、直接顔を合わしたことが回復へのキッカケになるのではないかと期待する。その積み重ねが当事者への誤った理解や偏見を少しずつ修正していくのではないかと思う。しかし焦ってはいけない。時間はかかるのだろう。案の定、次の夜はまたコタツで一晩を過ごしたからだ。それでも絶望の縁に光明を見た気はする。遠く離れた地から父を通して母を見守り、また父が疲れないよう私も機を見て帰る。大事な1年の始まりでもある。冒頭の空回り気分もシャキッとしてきた。ガンバロー!!
2016.01.11
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2016年元旦を熊本・水前寺公園で迎えた。昨年末来の母親の心身不安。その悪化と先行き不安を考えると、年末年始に母親に負担をかけることを極力避け、少し離れた土地で過ごすことを思いつき、実行するに至った。元旦と2日が熊本、そして3日目の朝を柳川で迎える。水前寺公園も徒歩圏にある旅館に宿を取り、紅白を最後まで観ていた私は、除夜の鐘をTVで確認すると、公園内にある出水神社へと初詣に出向いた。元旦の深夜に初詣に出ること自体、数10年ぶりのこと。園内の冷気に池の水が蒸気となって霞を水面に落とし、それがなんとも神々しい雰囲気を醸し出していた。早々に床に入った両親を部屋に残して、一人外に飛び出した私。母親が平穏に心身の落ち着きを取り戻してくれることを切に願い、また父親の心労が軽くなることを願い、両親に長寿祈願のお守りを求めた。そして引いたおみくじは中吉。熊本の地でいつもと全く異なる新年のスタートとなった。 さて、今年の年賀状の挨拶は、昨年9月に訪ねた長崎、亀山社中(資料展示場)から。竜馬とお龍、亀山社中のハッピに提灯と剣を手にして、家内は手にピストルを持って記念撮影。仕事も家庭も私事も、難題、困難に対して、竜馬の心意気で1年を乗り切ろうとの思いを込めて、この写真とした。
2016.01.01
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クリスマスの真っただ中、実家の父親からメールが入ってきたのは、ちょうど東京駅のライトアップを新丸ビルのデッキから見下ろしている時だった。昨日より2泊外泊して家を空けている、という連絡。ただそれだけのことだが、これまでそういうことでわざわざメールを寄こすことは無かっただけに、余計に心配になるのである。止むことのない幻聴の症状に精神不安定な母親、しかしそれを全く自覚していない母親。その状態に、改善の糸口は全く見えない。少なくとも父親を通して入る情報によると、幻聴が始まるとどうしようもない。黙って見守るだけだ。前回の帰省以来1ケ月近くが経ち、その間、母親の信頼する齢の近い姪の言葉は受け入れ、処方されていた薬も口にしていたようだが、。。。確かめてみると、その薬も最近では飲んでいないという。飲む必要も理由もないし、病院に行く理由も無いというわけである。夜幻聴が始まると、ほぼ一晩眠れなくなるが、本人にしてみれば近所の人々の声が一晩中、夜を徹して聞こえ続けているので、溜まったものではない。日々の生活を共にし、布団を並べる父親にしてみれば、それは大きなダメージであることに相違ない。地域の相談員に話を聞いてもらい、漸く1歩を踏み出したと思ったのは先月末。その時、医師の相談会の案内や、訪問してくれる病院を紹介してもらい、これで一つ一つ確実に前に進んでいけるという後ろ盾をもらった気もしたのだが、そうそう思い描いたとおりに進むものではない。あろうことかそういう来訪をことごとく断っていることを知らされた。当然病院に行くことも拒む。当然ながら毎夜幻聴に襲われる。事態は良くなるどころか、これでは悪化の一途だ。幻聴の悩みを否定することは良くないという。そんなものは見えないし、聞こえもしない、だから大丈夫だよ!という接し方は、当事者にとっての現実を否定するだけ逆効果だという。だから辛抱強く、聞いてあげて、同じ気持ちになる、それを吐き出させる中で、時間をかけて、気持を徐々に安定させていくことが大事なのだと。。。その過程で精神安定剤によって気持ちを抑え、少しでも眠れるようにすることも重要。事の真実はともあれ、今の段階では見える見えないの議論は言ったところでどうしようもないので、どうでもよい。とにかく睡眠をとることだ。それが原因で眠れないと、心ばかりか身体も蝕まれてしまう。心身の両輪、バランスを考えないといけないだが、薬を飲むことも拒否してしまっては、希望も薄れる。さて、これはどうしたものか?父親のメールにも先行きへの不安が吐露されていた。そんな状況を父親一人に任せて、遠く離れて過ごす自分。一方で、心配をかけたくないので、知らせまいとする母親。しかしズレているのが、母親自身が心の異常を自覚していないことで、父親がおかしくなってしまったと思っているので、何ともしがたい。思うに、自分はしっかり真面目に生きてきた、色々な場面で責任を果たしてきたという、誇り高さが災いしている。そして外の繋がりが希薄、それでいながら周囲の目が気になる性格。先日の相談員との話の中でも、相談員からもこれまで自身が真面目に生きてきたことを述べ、それにも関わらず周囲が嫌がらせをしていることを真顔で述べていた。それを否定することもなく聞きながら、一方でどうやって改善させていくかを考える相談員だが、やがて自分が主張することが周囲への対応として生かされていない、一向に改善されないと感じると、そこで不信感も出てくることを危惧してしまう。現に、母親が幻として見聞きする周囲の嫌がらせは一向に止むわけでない。その結果、相談員とは名ばかりで何もやってくれない、相談に乗ってくれていないではないか、と思ってしまうだろうことだ。だから頻繁に顔を合わせることも大事なのだが、今では来訪を拒否している。何のために来るのかという接し方になると、相談員もきっと相談に乗るのも嫌になる筈だ。そうやってますます深みに入っていくと、その地を出ていくしか選択肢が無いというシナリオになりかねない。実際、父親もそういう想いを漏らしているのだが、80代半ばでの引っ越しなど、父親の描いた人生にはそもそも無かった筈だし、それを思うと辛い。年末年始、帰省するが、家にいるとは言え、やるべきことを徹底してやる母親にとっては、大仕事の日々。そこに幻聴が重なることを考えると、心身疲弊。それを考えると、家で過ごす選択肢は無かった。少し土地を離れて隣県まで出て、3泊することとした。それでも移動距離が長いとかで、当初の計画を変更したりで、漸くプランがまとまった。ひと月に何度も外泊ばかりしているわけにもいかないと思うが、今は辛抱。いかにして自分のことと意識して取り組んでくれるのか、そのために何ができるのか、また年末年始、父親と相談。それまで少しでも平穏に過ごしてくれることを祈るだけ。。。
2015.12.25
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前回の帰省から3週間。再びの鹿児島帰省は母親の心の病への対応。駅に出迎えに来てくれた父親から話を聞き、早速重い気持ちに陥ってしまったのだが、とにかくその後の状況を自分の目で確認することがまず第一。そして偶然にもこの日に設定されていた地域の支援センタ担当者との初めての面会に立ち合うこと。そこで次のステップへの手掛かりを見出せれば、と思って臨んだ帰省だった。3週間前に外泊2連泊して、診療してもらい、安定剤を処方してもらったのに、今回聞くと服用していないという。自身の幻覚を異常と認められないことから、それを服用することを自ら遠ざけ、引き続き幻覚に悩まされる日々。服用することによる体調の不調を言い訳に、精神を安定させずして、何をもって病状の改善を図るというのか? とにかく年寄りに寝不足で心労をためて、いいことは何もない。家に訪ねてきてくれた相談員との面会は2時間近くに及んだ。ありもしない幻影を真顔で相談員に吐き出し、全然関連性の無いことまでと、本当によく聞いてはもらったと思う。それでも、逆に相談や診療を勧める提案には聞く耳持たず、自分は(誰が悪いということを)良く分かっているので、それは必要無いの一点張り。そうなってしまうと、親父も私もどうしようもないという感じで聞き流すだけだが、可能性を提案してもらい焦らず模索していく方向性の確認だけは出来た。本人の腰をあげさせるのは容易でないだろうが、諦めないことだ。可能性として危惧するところは、ありもしない迷惑な話をもって、近隣周囲の人々を巻き込み、ますます孤立感を増すこと。そうなると本当にこの地に住むことが困難になる。親父がそういうことを考えているのを知り、とにかく最初ショックだったのだが、以前住んでいて親族もいる田舎に借家がないか調べてもらっているという。どう思うかと意見を求められたが、年齢的にも80代を半ばにして、35年過ごした家を捨てて、一重労働と言っていいだろう引っ越しに踏み切るというのには。簡単に頭を縦にふれない。一方的に心に強くレッテルを刻み込んだ近隣住民との関係、抜本的には真実を知る努力をする必要があると思うのだが、これは今の母親の病状の性質上困難。諦めてなんとも思わないようにできるか?実際出来ずに症状は悪化する。そうなると、自ずとこの環境を離れる(幻影の登場人物から離れる)、事態が悪化する前に抜け出すかのか?それは悲しい。しかし、現実に起こり得る話だ。引っ越すとして、それは息子の責任として引き取るべきという選択肢も一般的にはある筈だ。首都圏に呼び寄せる?そんなことだったら、そこまで考えた住宅計画もすべきだったが、そうしていない。経済的に成り立たない。スペースも必要だ。皆が倒れると困る。母親は自分で行きたい地を持っているが、しかしいざ住んでみて誰も知人もいない地でまた(新しい対象者で)同じようなことを繰り返すとも限らない。それは誰も知らないこと。確かなのは、そういう心配はあっても今の症状は、仮に望んだとしても施設に入るような状況とは認められないこと。せめて病院入院でもとは思うのだが、。。。頭の整理も何もできないまま、再び明日から仕事へ。こういうことを考えていると、本当に仕事どころじゃなくて、(少しは仕事もするつもりでPCを持って帰ったが)やる気が失われて、何も手につけられなかった。親父任せになって申し訳ないけれど、仕事と夫婦生活とを両立されるには、やはり距離感は必要だ。良くも悪くも、こういう形で親父と連絡を取るのが密になってきたのを良しとして、遠くから見守る生活へ。まだ始まったばかりだ。変えることを急かさずに、変わらないことを恐れずに受け入れて、。。。(桜島の影を見ながら鹿児島を後に)
2015.11.30
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16年ぶりに訪ねた徳島。限られた時間の中で早起きしての朝の散策。徳島城址を約1時間歩き、これまで知らずにいた徳島城の魅力を発見する。四国は言ってみれば名城王国。天守閣が現存する国内12城のうち4城(松山、宇和島、高知、丸亀)があり、さらには高松城と大洲城には重文の櫓が現存する。何れの城もマニア(?)には外せない。それらと比較すると、再建された門が1つあるが、現存する建造物もなく、どうしてもインパクトの弱さは否めないのが徳島城だった。実際16年前にも徳島城を訪ねている私だがその印象は薄い。その後訪ねた四国諸城の記憶にすっかり徳島城のメモリーは上書きされてしまった。当時、城内の博物館と庭園とを見、堀と庭園に海水を引き込まれているとの説明を受けた記憶だけはあるのが、城郭のイメージはなし。空港バスの時間だったろう、追われるようにそこを後にしたのだった。そして今回、早朝だったので博物館や庭園の拝観は出来ないが、典型的な平山城、当時足を踏み入れていない小高い山を一気に山上の本丸まで駆けあがった。山中には石垣がしっかり残っていて、それを目にしただけでも再訪早した甲斐もあるというもの。まず驚かされたのが、天守閣の跡地。当然本丸にあるものと思いきや、一段下がった東二ノ丸の郭にそれが聳えたっていたということだ。これはとても珍しい。そしてもう1つは石垣の積み方だ。それは結晶片呼ばれる石をつみあげたもの。堀にその影を映す石垣、粗削りだが緑白色(?)に輝いても見えるのが何気に美しい。その内側には庭園を取り囲む石垣とに挟まれた路地が走るが、それもまた他の城郭ではあまり目にしない景色だ。16年の月日に失われていた徳島城の記憶。建造物こそ現存しないが、その特徴のある遺構には、思わず唸らされた。四国には徳島城もあり。我がメモリーにそれをしっかり残しておきたい。
2015.11.23
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最後にここに記したのが昨年のお正月。それと時を同じくして始めたのがFB。その手軽さに、すっかり楽天ブログの方は疎かになってしまい、約2年間手つかずのままこの日を迎えた。その間、何のアップもしていないと心配になり、私にとっての大事な記憶、それが消え去っていやしないかとたまに確認し、安心する。そんな繰り返しだった。しかし頂いたコメントに返事せずにいたことに気付き、また日々訪れてくれる人々がいることに気付くと、何か書き始めようかなという気になってきた。FBの気楽さに比べると、私にとってブログの場合、何かと体裁やら気にして、つい仕上げるのに時間もかかるので、頭に浮かんだ記事が吐き出せすに溜まってくると、やがてそれがストレスにもなっていた。実際、執筆途中の記事が、未だに数多く下書きのまま残っている。そこをある意味FBが解消してくれたわけで、引き続きFB主体ではあるが、ゆっくり焦らずブログの方も書いていこうと思う。その再開にあたっては、重い話題なのだが、これから直視していかないといけないテーマ。ここに残しておこうと思う。歳を重ね、加速度的に年月が過ぎ去っていく感じの日々。気が付けば、自身も映画館が割引になるシルバー世代に足をつっこみ(一人が50歳以上であれば夫婦で2100円、これはこれで有難いが)、我が両親にいたっては正真正銘の高齢者。親にとって子供はいくつになっても子供だが、子供にとっても若い時の親のイメージは脳裏に焼き付いている。帰省して、ふと見る親に老いを感じるのは現実とは言え、辛い。この週末、悪質な詐欺対策で父親の携帯情報を変えるために帰省した。それはそれで目的を果たしたのだが、新たな心配事に直面する。それは母親の幻聴。当然本人はそういう意識は全くないのだが、1週間前に発症、連日連夜それに悩まされているという。そして1泊した昨夜、それは起こった。静寂な山の上の団地、寝静まった夜、通りに人気も物音さえもしない。辺りは、各々の家から漏れる明かりと、風の音だけ。そして夜半からは激しい雨も降っていた。しかしそこで起こっているのは、近隣の人々が集まって大騒ぎして自身の悪口を言っているという幻。そのいやがらせにより、眠ることが出来ない様子。たまりかねて、寝る部屋をかえると、そちらの方へ騒ぎは移動する。激しい雨の中、そんな音も声もしないのだが、それはある家の中から、あるいは車の中から、そして床を飛び跳ねする音とか、。。。ありもしない幻を信じて口にする症状にショックを受けた。重症だが、本人がそれを現実と信じているので、自身で異常と認められない。日常生活や家事、掃除洗濯、アイロンがけ、料理、等々、相変わらずしっかりきっちりとやっているのだが、厳格で生真面目。ものを頂いたらしっかりお礼をする。しかし、長年気になっていたのが、外に出ないことで、日々の買い物も、専ら父親の役目だ。心配症、思い込みをして話が勝手に出来上がる、等々。。。そして、今回、日中の話題は幻聴、そのありもしない一部始終について聞かされる。1泊2日の帰省、私は今日、一旦東京へそして仕事へと戻るのだが、おそらく猶予を許さない状況。母親は、週明けにも役所に苦情の連絡をすると言っているのだが、そんなありもしない言いがかりをつけられては、やがてこの街に住み続けることもできなくなる。そしてどうやって診察を受けさせるか。とりあえず今夜は外泊して、明日病院にいく手筈となり、1歩を踏み出したが、皆が疲弊しないように、父親とも連絡を密にとって、うまくやっていかねば。。。いよいよ自分にも、そういう現実と向き合っていく時が来たのかなと思う。
2015.11.08
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2014年謹賀新年。その2日目はわが故郷、鹿児島の景色から。そこは日置市にある、市来(いちき)城址。実はその存在さえも、最近まで知らなかった場所だ。安土桃山時代に宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』。何年も読み続けているその書の中に、宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島の地に上陸し、島津貴久と謁見してキリスト教布教の許可を得た記録を見るのだが、その地が我が故郷のすぐに近くにあったことなど、意識することも無かった。そのザビエルが訪ね、そして弟子アルメイダが訪ねたのが市来城だ。時はまだ1561年、織田信長が桶狭間に今川義元を討ったとは言えまだ尾張・清洲に城を構える時代、群雄割拠の時代のこと。その時、アルメイダが『日本史』に残した記述が、興味深い。「私たちは市来といわれるその城に行きましたが、私にはそれまでに目撃した城のうちでもっとも堅固なものの一つだと思われました。すなわちその城は一つの山で、それが十ばかりの砦に分かれていました。それらは、すべて鶴嘴で掘ったとても深い濠でもって、それぞれ相当距てられていました。それし私は、これは人間業ではできかねることと思えました。そべてこれらの砦に行くのには、一つの砦から他の砦へと架けてある橋を渡るのですが、私がそこを渡って行って下を見下ろしますと、まるで奈落の底を眺める思いがしました。」と。それを読んで以来、いつかこの地を訪れようと温めていたのが、この日を迎えた背景だ。かつてそこに立派な城郭があり、キリシタン布教の歴史上にも名を残しているその地も、今ではまるでその面影はない。麓に小学校があって、またちょうど正月ということで、ひっそりと静まり返っていて、城を登ろうという人影も全くなかった。そういう空気に浸るのもいい。登城口には歴史を物語る説明があり、ザビエルの像も立つが、これまで教科書等で慣れ親しんだイメージとは程遠い。整備された登山道、ところどころ大きく切れた 山肌に郭の間の空堀を連想させられるが、石垣も何も無く、当時アルメイダが見た感じた情景を重ねるのは困難だ。しかし、かつて450年前そこに栄華があったという歴史的事実を想い、誰もいない城跡に暫し身を置いた。 麓には小さな神社。いかにも田舎の神社という雰囲気だ。しかし、しっかり手入れされており、こういうところにも日々脈々と、地元の守り神として拝められ、歴史を刻んでいるんだなと、神聖な空気を感じさせられた。その空気を独り占めした時間。それが私の2014年初詣となった。そしてこちらは伊集院の町を見下ろす小高い山にある一宇治城址。そこに初めて、ザビエルが島津貴久と謁見した記念碑が立っている。これが日本におけるキリシタン布教とその後の弾圧の歴史の始まりなんだなあと感慨。 (書きかけのまま放置していた記事、思い立って完成。2015.11)完訳フロイス日本史(6(大友宗麟篇 1)) [ ルイス・フロイス ]
2014.01.02
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2014年謹賀新年は、昨年世界遺産に指定された富士山の景色から。 年末、羽田から萩・石見空港へと飛んだ飛行機から眼下に臨んだ、富士山の景色。彼方には、伊豆半島の全景に、駿河湾の海岸線が広がる景色は、新しい年を迎えるにふさわしい御馳走。
2014.01.01
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平成の大修復でその優美な天守閣が大きな箱にすっぽりと覆われている、世界遺産の国宝・姫路城。その姿の見納めにと姫路城を最後に訪れたのが2009年の10月(関連ブログはこちら)。以来4年の月日が立ち、修復工事の様子を間近に見られる見学施設の人気ぶりや、その貴重な機会をテレビ等で目にするにつき、1度はそれを見に行かねばならないだろうと思っていた。そんな私が腰を上げるキッカケとなったのが、今週初めに目にしたニュースの記事。それは、"天空の白鷺”と名付けられた見学施設が来年1月をもって終了するというもの。そして、週末には見学する人の長蛇の列で入場するのに1時間以上も待ち、さらに1月は予約も埋まってきているという内容。もはや行くとしたら12月の平日しかないではないかと、本気モードのスイッチも入りかけたところで、ふと新大阪への日帰り出張が予定されていたのが、偶然の巡り合わせ。急遽、私を姫路城へと足を向かわせることになる。新大阪でのお客様との打合せが終了したのが、目算通りに14時ほんの少し過ぎたところ。新幹線の駅に向かい、そのまま東京へ、そして直接家に帰る予定だったので、敢えて帰路を急ぐ必要もない。とは言え、この日は小雨の混じるとても寒い1日で、東日本では降雪の予報も出されていたことから、多少私の決断を鈍らせたのも事実。しかし、この機会を逃すともう行けないだろうという思いが、私の背中を押した。新大阪~姫路の新幹線往復の切符を買うと、いざ姫路へと向ったのである。 駅の改札を出ると、まず駅の景色が最後に訪れた時と変わっているのに戸惑うが、真っ先に駅の正面出口へと向かい、姫路城と対面した。新しく出来ていた駅の展望デッキから正面、大きな箱に覆われた姫路城の姿を遠く臨むと、一路、姫路城を目指した。途中、4年前にも訪れた、姫路城の遺構を見渡せるビューポイントからその姿をカメラに収める。そして、歩くこと30分弱、4年ぶり4回目となる姫路城へ入城したのは15時30分過ぎだった。雨と肌寒さの平日の午後、人々の足も鈍っているだろうという予想は的中。記事で知らされていた長蛇の列が無いばかりか、全く並ぶことなく、"天空の白鷺"に入ることが出来たのはラッキーだった。箱の一面に設けられたエレベータで、大天守閣のまっ白い外壁を舐めるように、一気に高度を上げると、そこは最上層、そしてその屋根と鯱を眼前にする。それは、まるで大きなショーケースの中に、天守閣がすっぽり入っているかのよう。その周囲は、しっかりと足場が階層に設けられているが、作業者は無し。見た目の外装は、すでに作業完了と言っていいに等しい。 その場所に初めてやって来て、それまでの修復作業の経緯を映像や写真で見るにつけ、もっと早く来るんだったなあ、と思っても時すでに遅し。まさに修復しているその様子を経時で見たかったなあと思う。しかし、工期も最後のところで、全く混雑なくゆっくりと間近に見ることが出来たのは幸い。その場にとどまって、暫し目に焼き付けたのであった。さすがに姫路城の城郭の中は、工事用の通路が敷設され、また至るところに案内係が立っていて、順路に沿って歩くという感じだったので、さすがに自由度は無いのだが、大天守が箱に覆われた姿を見るのも一生に一度だけの貴重なチャンス。お決まりの連立天守の優美さとは対照的だが、何と表現したらいいのか分からないその貴重な姿をカメラに収めた。 姫路駅まで小走りし、16時59分の新幹線に滑り込むと、一路、新大阪に戻って一旦、改札を出、そして座席指定していた新幹線で東京へと帰路についたのである。次に姫路城を目にする時には、真新しい白い壁が眩しく輝いていることだろう。
2013.12.18
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最初で最後になるだろう桐蔭席の茶会。席中の謡に圧倒された余韻そのままに、門をくぐり後にすると、急に現実空間へと戻される。季節はまさに文化祭シーズン、すぐ隣の京都女子大の文化祭に飲み込まれそうになるが、そこで余韻を断ち切るわけにはいかない。目に飛び込んできた"抹茶"の案内に一瞬気持ちが傾くのを抑えると、席を共にした社中仲間と三十三間堂隣のハイアットへと吸い込まれていった。朝早くからの茶会で、時間はまだお昼になったばかりで、周囲はこれからランチタイムというところ。懐石料理で既に満たされた我々はロビーラウンジでビールで乾杯。余韻を楽しんだが、長い1日これから何をしようか?ということで、ちょうど特別公開中の京都御所を訪ねることとした。幕末、京都守護職として幕府側の盾となった会津藩。京都御所もその防衛を巡って攻防のあった地だ。いつもはそんな歴史も思いながら歩いてもいたが、この日は人人人。。。これまで伺い知ることのなかった塀の内側、その華やかで美しい世界を忙しくも漫喫した。 そして御所を後に今出川通を渡ると、薩摩藩邸跡地に建てられた同志社大学に立ち寄る。"八重の桜"第二章の舞台だ。構内には、そのポスターも飾られており、自ずとその世界に入っていく。新島譲、新島八重、山本覚馬、山川大蔵、。。。翌日、降りしきる雨の中、黒谷の金戒光明寺へ。幾度となく訪れている京都だが、ここを訪ねるのはこの日が初めて。会津藩が本陣を追いた地、松平容保、。。。綾野剛の苦悩の表情が重なる。特別公開で八重の桜関連で当時の写真やらゆかりの品々の展示があり、この機会に訪れずしていつ訪れるのかという感じ。来れて良かった。 桐蔭会、瀬田の夕照、そして"八重の桜"、その最終章に向けて、ゆかりの地にちょっぴり身を置いた11月京都の休日の記憶。
2013.11.03
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近江八景の一つ、"瀬田の夕照(せきしょう)"。それを今に見る、私バージョンの夕照の思い出。この3連休、京都・桐蔭席でのお茶会に出席するにあたり前後に宿泊したのが、琵琶湖畔にあるロイヤルオークホテル石山。以前より、庭園が美しくホスピタリティの高いホテルとして気になっていたホテルだ。最寄駅の石山からはシャトルバスこそあるが、足の無い旅行者には場所柄行きにくいホテル。それでも京都に宿が取れなかったので、下手に寝るだけの郊外のビジネスに泊まるくらいならと宿泊を決めた次第。夕刻チェックインし、翌朝はお茶会のため早起きして京都まで。そして2泊目もまさに陽が沈もうかという時間に部屋に入った。十分その滞在を満喫できたかというと短い時間ではあったが、京都を旅していながら、京都の賑わいから抜け出して来て味わう開放感。京都に来ていることをつい忘れてしまうメリハリは悪くない。というわけで、"瀬田の夕照"。目の前は琵琶湖の端、そこは宇治川、淀川へと向かう旅の始まり。ここでは瀬田川と呼ばれる。そこに架かる天下の要衝、瀬田唐橋で見る夕照こそが、まさに近江八景のそれなのだが、そこに行くには幾分遠い。その代わり瀬田川に眩しく姿を映す夕照に暫し時を忘れた。2泊したロイヤルオークホテル石山、滞在中、石山寺まで足を伸ばし、"石山の秋月"をも臨もうなどとも思っていたが、そんな余裕も元気もなかった。11月という季節も、湖畔では晩秋。夜の湖畔は寒く、ホテルの中を散策。帰る日の朝、湖畔を歩き、ベンチに座ること暫し。カヌーのコースにもなっているようで、学生たちの朝の練習風景が新鮮だった。湖畔を自転車で駆けて指示を飛ばす部員、そして新人だろう一人乗りカヌーを一つ一つ動きを確認するようにゆっくり漕いでいく部員。そんな景色を楽しんだ。この次は京都旅行の宿ではなくて、じっくり腰を下ろして過ごしたい、そんな場所の思い出。
2013.11.03
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京都は東山七条、智積院の脇を入って、豊国廟の下。鬱蒼とした山麓の一角に、茶室桐蔭席はある。そこで開かれる茶会にお招きを受ける以前は、その存在を知る由もなかったのだが、それは千家で最も格の高い茶席と言われている茶会。そこに身を置いた幸運なそしてサプライズな時間。その記憶を記そう。桐蔭席で釜を掛けることは、裏千家では大変名誉なことで、一生に一度でも掛けられれば茶人冥利に尽きると言われているほど。その貴重な席にお招きを受けるのも、釜掛けの席主に縁がないとその機会も無い訳で、これを逃せば次は10年後ですよと師匠に言われ、2つ返事で参加させて頂いた次第。ちょうど連休、気がつけば京都に宿は無く、琵琶湖畔の石山に宿をとり、その日の朝を迎えた。社中からは私達夫婦の他には頼もしい熟連の先輩2人。1人はこの日が記念すべき誕生日。豊国廟の下で待ち合わせると、前日京都で準備した白い靴下が誕生日プレゼントに化けてしまったのは想定外の貢献。そして、期待と楽しみ、緊張感の中、千宗室との表札の掲げられた席へとはいっていった。待合に入るにあたり、招待して頂いた師匠とも顔を合わせて緊張もほぐれる。床には富士山、土佐派の筆。江戸から箱根を越えていざ京へ、その途上に見た富士山と重ねてみる。その間、颯爽と登場された大宗匠の姿も目に入ると、席へと入られたので、待合で待つこと暫し。やがて順番となり、露地へと出ると、そこは静寂。歩を進め手水で清めると、躙り口から茶室へと入った。そしてその後はというと、、、緊張感からか、ふわーっと浮いてしまった気がする。一期一会の出会い、道具の取り合わせも一期一会。しかしその焼き付けた筈の残像も記憶ももろくも消え去ると、頼りは会記だ。竹の花入れは"相生"。そして来るソチオリンピックにかけて、五色をお道具で表現されたとのお話があったが、黒織部(アフリカ)、赤楽(オーストラリア)、黄伊羅保(アジア)、青交趾(ヨーロッパ)に、緑は青磁(アメリカ)、とあらためて会記を見てうなずいた。その後、広間で懐石。欄間には瓢だったか? 箸も進んだところで、能を嗜まれているという亭主から一曲、謡(うたい)を披露。そんなサプライズに息つく間もなく、すかさず亭主から正客へ返答のリクエスト。 するとそこで正客様が謡で返礼。その席の情景、感動を即興で詠まれたのだろうか、圧倒的な迫力。ただただびっくりさせられた私は、固唾を呑んでその場に身を置いていた。その場面に、前年の大河ドラマ"平清盛"の和歌の応酬、藤原摂関家と渡り合う平忠度(ただとき)、そのシーンが重なった。茶席で能に触れようとは思いもよらなかったが、茶の湯は日本の総合芸術。それを昇華させる上では、能への理解も重要な要素と知らされ、とても到達しえない奥の深さを感じた。お道具の記憶は薄れても、あの謡の衝撃は今になっても脳裏から消えない。(書きかけだった日記、2年の月日の後に回想して、。。。)
2013.11.02
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茶の湯の道に飛び込んでから既に5年以上。このブログにおいては、すっかり茶の湯の話題から遠ざかってしまっているが、その間、記憶に残る経験や茶会がなかったわけではない。記憶がまだ薄れないうちに、記しておこうと思う。その一つが今年4月の稽古茶事だ。振り返れば、茶の湯との出会いは、それまでの人生に新たなスパイスを加えてくれるキッカケとなった。大きな転機の一つだったと言ってもいい。新たな世界と視野の広がり、また多くの出会いや経験は、今や私の人生の財産であり、また多くの人と接することが自分自身に自信も与えてくれたと思っている。入門してからの数年、お茶会や月釜の催されている寺社を見つけては、精力的にお茶会に顔を出していた。苦い思い出もあったが、それを学びに変え、ステップにして場数を踏んでいった。茶の湯から広がる知識の連鎖は、私の歴史への関心をさらに深堀りし、多くの再発見をもたらしてくれた。稽古を殆ど休むこともなかった。しかしここ数年、仕事の多忙で出張が多くなると、稽古を休むことも増え、稽古に出ても気持ちの余裕が無くなり、状況が変わってきた。貪欲さを失い、気持ちが乗らないまま稽古している自分もいた。社中では最古参、しかし後から入ってくる人達に越えられてしまい、お点前の技術も道具への関心も当初の情熱は失せて。何とかせねばという気持ちも空回り。社中のお茶会でお点前したり、お運びしたり、水屋仕事したりするが、それらをこなすのもいっぱい、いっぱい。そういう空気を師匠も感じていたに違いない。そんな自分にチャンスを与えてくれたのが、師匠からのひとこと「稽古茶事で亭主をしてみませんか?」だった。その企画があがったのは今年の初め、社中での茶事は2度目となるが、前回の茶事の際には海外出張が入って直前でキャンセルを余儀なくされた。従って、私にとっては今回が初めての稽古茶事。そこで亭主役をしないかと師匠から声がかかったのだった。ここで首を縦に振らずしてどうするか。尤も亭主の役割全てを1人でやるわけではなく、水屋を含めて3人による分業。3人で亭主の一端を実体験して習得するのが狙いだ。私が主とあり、濃茶と点心でのお客様対応、あとの2人がサブと水屋回りで、炭点前、薄茶点前を担当してもらう。露地の手入れも何もしないし、点心の内容などは全くのお任せだ。道具も大筋のところ殆ど師匠がお膳立てしてくれる。ただせっかく亭主をさせてもらうからには、私にとっても眠っていた茶道具を表舞台に登場させる機会。席に合うかどうかの取り合わせを含めて、師匠に相談した。そしてもう1つの難関がお菓子選び。これも1度アイデアを却下され、ギリギリまで頭を悩ました。とは言え、席のテーマと深くリンクする要素であり、悩み抜くことに楽しみや充実感を覚えた。私なりに創り上げたのは、インターナショナル、そして季節の花、その移ろいだ。干菓子は、末富のうすべにと、吉野松屋本店の吉野懐古で春の装い。そして主菓子は北鎌倉の"こまき"さんに茶巾絞で"花菖蒲"(5月の端午の節句、菖蒲の節句にかけて)を作って頂いたのを朝早起きして取りに行き。薄茶には、萩の坂高麗左衛門(当代)さんの桜絵付けがされた茶碗に、ソウルで買った青磁の高麗茶碗(水鳥と花が描かれ)。長崎で購入した鼈甲茶杓には、長崎出島に縁のシーボルトが"紫陽花に名付けた"おたくさ"(お滝さん)を。煙草盆がオランダ風情。そして濃茶の茶入れに萩の吉野桃李釜の肩衝をデビューさせ、銘を'初陣'とした。思えば後から連想が繋がっていった。お客様は7人。大変だったのは1椀7人分の濃茶加減。家でも何度か練習したが、たっぷりの濃茶を1人で7回で飲み干すと目がさえて眠れなくなり、、、あとはその感覚のまま本番、1発勝負に賭けた。点心での千鳥、杯の交換7連発に立ち上がる時、ちょっとよろけるも、千鳥足の由来もこういうことか(大丈夫)。反省点は前週にご招待のお手紙を出せなかったことで、後追いで当日用意した次第。席に入って一人一人に対してご挨拶を述べて始まって3時間超の長丁場。最後の締めは、露地に設けられた特設の野点舞台!!で家内が薄茶の点前も爽やかに。 貴重な亭主体験は記憶に残る素敵な時間。前週日帰りで、京都の浄敬庵を茶時体験の訪ね、一連の流れを肌で感じ、気持ちを高めて臨んだことも自信になったと思う。充実の時間、その余韻を噛み締めた。そして1週過ぎて頂いた数々の御礼状に再び感動した。それでもこの日の亭主役はまだ一部。全てを1人で仕切ることは大変、素晴らしい。道は遥かなり。しかしこの日の記憶を決して忘れることなく、また自身の意識を高める記憶としてここに留めておきたい。
2013.10.18
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自身のアーカイブのデータを振り返ると、前回、犬吠埼を訪れたのが1997年8月のことだったと知る。当時、既に夕刻で入場できなかった犬吠埼灯台に、この日16年越しで登ることが出来た。私にとっての犬吠埼と言えば、何と言っても銚子商業の校歌である。それは少年期、甲子園を沸かせた銚子商業の記憶だ。黒潮打線と土屋投手を擁しての全国制覇、そして江川卓投手との雨中の延長戦。そして、勝利の後で流れる校歌。その歌詞とメロディは、以来35年以上が過ぎた今でも、私の脳裏から決して消えることが無い。甲子園を流れた校歌で、これほど印象的で、またこれほど短い校歌はないだろう。♪ 幾千年の昔より 海と陸との戦いの 激しきさまを続けつつ 犬吠埼は見よ立てり ♪宿泊したペンションの主人に、地球の丸く見える丘展望館に連れていってもらい、その後で、犬吠埼まで歩いた。10月にしては、日差しも眩しく、ここ最近の暑さの余韻がまだ続いてか、海からの風も心地いい。 (上:展望館からの犬吠埼、下:同じく屏風ヶ浦の遠望)驚くなかれ、銚子は有数の水揚げを誇る漁港の町という顔だけではない。全国一の生産量を誇るというのが春キャベツ、さらにはメロンも。黒潮と親潮とが交わるところ、そして地中海のような温暖な気候がそれを可能にしているらしい。外国に自国の食を委ねる日本において、何と銚子は自給率280%(確か)を誇るという。これは脅威としかいいようがない。そんな豊穣の畑の合間を縫って、丘から岬へと歩いたウォーキングは爽やかな時間だった。 そして到着した犬吠埼。約100段の螺旋階段を一気に上った。眼下の岩礁にはじける波しぶき、そして遥かに広がる太平洋。その海風を灯台の上で一身に受けた。そして、また驚かされたのが、灯台の入口にあったプレートの文字。そこには、犬吠埼が何と1874年(明治7年)11月15日に点灯を始めたことが記されていた。 銚子電鉄名物の"ぬれ煎餅"をほうばりながら歩いた小一時間。かつて訪れた時も食した筈だが、当時以上においしく感じて、食べ始めたら止まらなくなっていた。そして、犬吠駅で目にした"ぬれ煎餅アイス"。そこに銚子商業プロデュースの文字を認めると、思わず手にして、帰路銚子駅への車中で食べていたのであった。以上、爽やかな銚子・犬吠での1日は、銚子商業の校歌と共に、私の記憶に焼き付けられたのである。
2013.10.14
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縁あって、千葉県の銚子に来ている。銚子を訪れるのは何年ぶりだろうか、'97年ごろだったろうか。当時、思い立って一人ふらりと犬吠埼までやって来て、それを見ると慌ただしく帰っていったが、それ以来のこと。利根川の河口、太平洋に突き出した銚子は、日本本土で最初に日の出が見える場所であることを、訪れてみて知る。しかし、前夜、銚子港近くの割烹で地魚の美味と美酒にすっかり気分もお腹も満たされた私には、やはり連休の最終日、ゆっくり寝ておこうと思ったのであるが、。。。。カーテン越しに外の明るさを感じて、目を開けて時計を見ると5時20分。もう太陽も上がったんだなと思い、外を見ると、まさに目の前の太平洋、地平線の彼方から赤い太陽が昇り始めたところであった。 この日、日本で最初の御来光。暫しその光景を眺めていると、日々の慌ただしさ疲労感も忘れ、心が無になるようである。今日も快晴、犬吠埼との再会が楽しみである。
2013.10.14
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どういうところに縁が転がっているのか予測できない。尤も、私は家内が作ってくれた縁に便乗させて頂いているだけで、何の努力もしたわけでもないのだが、それが新しい出会いとなり、また世界が広がるキッカケにもなる。そんな縁に本当に感謝するばかりだが、この日お呼ばれしたのが、煎茶のお茶会。場所は品川のグランドプリンスホテル新高輪にある茶席、『惠庵』。かつて家内の持つ婦人雑誌に見てその場所を知ってはいたが、すっかり忘れてしまい、そこを訪れる関心も失っていた。しかし貴重な機会に恵まれて、そういう場所があったという記憶も蘇る。煎茶は昨年、岡崎城で頂いたのが最初だが(関連ブログへ)、煎茶のお茶席に出席するのは初めてだ。もちろん勝手は分からないのだが、ご招待頂いた席主の先生に"気楽に..."と声をかけて頂いた家内に促され、私も便乗させて頂いたわけである。グランドプリンスホテル高輪の庭園の奥、鬱蒼とした木々の中、編笠門(下左)を潜ると、茶席がいくつかあった。もうけられえた茶席は5席、私達夫婦が参加させてもらったのは、2席だった。社中の枠を越えた大寄せのお茶会は久しぶり、しかも初めての煎茶の席入りには緊張感を感じつつも、抹茶と異なる席のしつらえや席の進行に、興味深さを覚えた。席中、男性は私一人だったが、席入りの最初の不安、正客を強く勧められなかったことが非常に良かった。男性ということだけでそこに座ったはいいが、作法もわからない者が、楽しみにされている相伴の方席を台無しにしては大変だ。床にあった仙人のような像(ウェブを探すに分からない)、抹茶の侘び寂びとは無縁の華やかな花。お点前座は大きく華やか、道具の種類も多い。最初にお茶を頂いてからお菓子を頂く、お菓子を置く位置が横、全ての客のお茶を点てる、最後の一滴まで絞り出して注ぐ、お菓子の後にもう一服、しかしお茶の量は少ない。会記が回される。お点前の挨拶される人が複数。等々。。。。抹茶のお茶会と異なるその一つ一つがとても新鮮だったが、その新鮮さに目を奪われて、目はキョロキョロ、気持ちはフワフワしているまま、あっという間に席が終わってしまったような、そんな気もする。しかし、まだ見ぬ知らない世界に接するいい経験をさせて頂いた。そんな時間を頂いたことに感謝である。この次の機会には、もっと腰を据えて楽しみたいと思う。その時には、今回の経験を生かして、少し勉強してから臨めるといいだろう。
2013.10.06
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ボストンからの帰国便は、デトロイト乗り継ぎ。国際線へのトランジットにしてはわずか50分。そのため実際お土産を買う時間もラウンジで寛ぐ時間も無く、搭乗ゲートへと直行した。尤もデトロイトのトランジットに際しては何の期待もしていなかった。というのもデトロイトといえば、失業率が高く、アメリカで最も治安の悪い都市というイメージ。積極的にアメリカ渡航のゲートウェイにしたいとは思わなかった。そして降り立ったデトロイト。そこは他のハブ空港と何ら違わない空港の光景。搭乗券にそして発着ゲートの案内に成田行きのゲートを確認すると、それは遥か彼方の番号。見れば真っ直ぐに伸びる長ーいコンコース。既にそこがデトロイトなのか何処かは問題なく、足早に歩を進める。縮まってはいるが、なかなかに近づかない目的にゲート。それはあたかもマンハッタン島を縦に42nd, 41st, 40th, ...と、目的のストリートを目指し、1つ1つクリアしていくかのよう。 すると、頭上を走り抜ける赤い車両。見上げれば、すぐ上を何とレールが走り、長いコンコース上、真っ直ぐに伸びていた。その瞬間、"さすがはデトロイト!!"と思わず感嘆した。ターミナル間を走るシャトルトレインなら珍しくもないが、コンコース上ゲート間を結ぶシャトルを目にするのは初めて。それをアメリカの自動車産業の中心地デトロイトに見たのはまさにピッタリに思えたからだ。その名もEXPRESS TRAM。時間が許せば、これには乗りたかったなあと思う。きっと、これまで空港で見たことのない違った景色が見られだろうと想像。アメリカの自動車産業に打撃を加え、日本バッシングの象徴的都市でもあった筈のデトロイト。しかし多く目にする日本人に、そうは言っても自動車産業に日本の技術は欠かせないんだなあと感じた。そしてそこに思いきりの日本を見ると、搭乗ゲートもすぐそこ。足早に機内へと吸い込まれていったのだが、短い時間の中にもデトロイトを感じることが出来た。機会があればまたトランジットに使ってみたい。
2013.09.24
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旅先のホテルのロケーション、そして部屋からの眺め。それは限られた旅の時間を有効に活用する上でも、そしてホテルの部屋で過ごす時間をリラックスしたものにするか否かを判断する上でも、重要な要素だ。1年前の9月、初めてのボストンを訪れた時、宿泊したホテルのロケーションが、どこに行くにも少し不自由で、そして部屋から臨む景色も落胆すべきものだった。そんな記憶が、2度目のボストンでの滞在先を決めるにあたって大いに影響したのは事実。そして今回、訪れた展示会がプルデンシャルセンターの一角で行われたこと、また昨年そのタワーを訪れながらも展望フロアに上がれなかったことが、プルデンシャルセンターをターゲット・エリアとして決定づけた。 何と言っても、プルデンシャルセンターは、ボストン美術館、フェンウェイパーク、さらにはトリニティ教会からパブリックガーデンへと、それらを徒歩圏内に中間的な位置にある非常に便利なロケーション。そしてショッピングにもこと欠かない。そして、プルデンシャルセンターとは、道路を挟んだ向いのシェラトンホテルの中を通って繋がる、ヒルトンホテルに宿泊する。そして部屋からの景色はというと、ラッキーだったのが、正面シェラトンホテルの後方に聳えるプルデンシャルタワーを臨み、また青々としたチャールズ・リバーをも遠くに臨めたこと。多くの時間を部屋で仕事に費やしていた私には、窓からの景色が潤滑油となり、また景色の移ろいに部屋にいてもカメラを手放せなくなった。というわけで、そんな景色をここにご紹介。シェラトンと背後のプルデンシャルタワー。そして、プルデンシャルセンターのドームのあるタワーの壁面には鏡となってビル群を映す。(中央:中秋の名月が、中右:ドームが朝焼け、下中:深い霧にタワーも隠れる)ホテルの部屋からは臨む、チャールズリバーにはヨットが浮かぶ。そして廊下に出ると、対岸のMIT(マサチューセッツ工科大学)のドームが川面に影を映す。 そして息抜きに、隣接するChristian Science Churchへと散歩すれば、池に映る夜景が美しい。 わずか2泊4日の米国ボストンへの旅。しかし、ホテルのロケーションの良さが、短い滞在時間を実に密なものにしてくれたと思う。これらの景色もまだその恩恵の一部、引き続きボストンの時間を記していきたい。
2013.09.21
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ボストン滞在は9月19日から21日までの2泊。その間、プルデンシャルタワー50階にある展望フロアSKYWALKに足を運んだのは、19日昼と20日夜の2回。正確には19日の夜にも訪れたのが、フロアの半分が貸切りパーティに使われていたため、翌日の夜に出直す。ちょうど1年前に訪れた時、それは滞在最終日の夜だったが、イベントのため入場出来なかった。それから約1年、再びその地を訪れる機会に恵まれ、そして当時見ることの出来なかったボストンの眺め、その昼と夜との景色を目に焼き付けることが出来た巡り合わせには、まさに感謝する次第である。驚いたのが、1Fの専用エレベータに乗り込むと、一気に50Fの展望フロアの受付へあっさりと辿り着き、入場を果たしたこと。というのも、これまで幾多の国内外の名のある高層ビルやタワーに登った経験を振り返ってみて、入場までの長い列、荷物検査、展示、観光客狙いのお決まりの記念撮影、等々、そんなのが一切無縁だったこと。展望フロアに辿り着くまでに疲れ果ててしまったNYのエンパイアステートビルの記憶など全く嘘のように、実に快適至極だった。ともあれ、そのタワーからの素晴らしい景色をここに遺しておこうと思う。(左上:Charles RiverとBACK BAYのレンガ色、右上:BACK BAYをCommonwealth Ave.の緑が貫きPublic Garden, Boston Commonに至る、右手にJohn Hancock Towerが聳える、左下:MITのGreat Dome、右下:FENWAY)(左上:Boston Bayを臨む、左下:Logan Airportへの着陸機、右上:Fenway Park、右下:Trinity Church)夜の景色を見ようと再び訪れた最大のお目当ては、Fenway Parkでのレッドソックスのナイターを俯瞰すること。さすがに遠過ぎてプレイヤの姿を認めることは出来ないが、昼間の姿と一変した球場の熱気は伝わってきた。この時、知らなかったのだが、実はこの眼下で行われていたゲームが地区優勝を決定させたゲームだったとは、後からホテルの部屋に戻って知るところとなる。(左上:John Hancock Towerに満月が、右上:カクテル光線に輝くのはFenway Park、左のドームはChristian Science Church、右下:Fenway Parkに接近、左下:Purudential Centerのドーム)そしてこの日は満月。まさか中秋の名月をボストンで見ようとは、。。。
2013.09.20
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この日の早朝7時前、米国ボストンに到着した。約1年ぶり、2度目のボストンだ。天気は快晴。乗り込んだタクシーの運転手が言うには、朝はChilly(冷んやり)とのことだったが、それまでの猛暑の日本の気候と比べると、肌に感じる空気が心地よく感じた。それにしても昨年来、一体何度目の深夜便だろうか。今回の渡航、羽田を飛び発ったのが19日の深夜1時半。デルタ航空での8時間超の飛行は暦を1日逆戻りさせた18日夕刻、23年ぶりとなるシアトルへの入国。とは言え、シアトル・タコマ(SEA-TAC)国際空港から外に出ることなく4時間近く待つと、今度はアラスカ航空の深夜便で一気に西から東へ5時間かけての大陸横断。現地を夜10時半過ぎに出発すると、東海岸の朝6時半過ぎに到着。出発から約17時間超をかけて、19日の朝、ボストンに到着したのだった。 (左:SEA-TAC空港Central Terminal, 右:同Concourse Dから満月臨む)深夜便にも関わらず、予想に反して両便とも満席。その結果、幸いだったのは、羽田の搭乗口のところでエコノミーコンフォートからビジネスにアップグレードしてもらえたこと。フラットに身体を横たえられるのは、それだけで全然違う。もっとも、搭乗後間もなくのディナーに既にお休みモードだった私のお腹は活動を余儀なくされ、そのせいか意外と眠れなかったのではあるが。。。その分、アラスカ航空の深夜便では、リクライニングが殆ど無く、直ぐ真横のトイレの音を聞かされ続け、また寒くもあったのだが、終始寝ていた。そのため、早朝到着にもかかわらず、ボストンの1日を大した睡魔に襲われることなく、無事に過ごす。空港で軽くお腹を満たした後で、タクシーでホテルに到着したのが午前8時前。予めアーリーチェックインのリクエストを申し出ていたのだが、あいにく満室で部屋に入ることが出来ず、そのかわりフィットネスルームの鍵を貸してもらい、シャワーと着替えさせてもらうことに。狭い更衣室にはすぐにもう一人のゲストがやってくるが、申し訳さなげにスーツケースを広げて荷物の出し入れをする私。そして、ほどなく1人となると、ゆっくりと準備させてもらった。あまりに占有している時間が長かったからか、途中でホテルの人がチェックに入ってきたが、その時にはすでにシャワーに汗を流し、髭を剃り、そしてそれまでの私服からスーツへと着を包みかえた後だった。なんだか映画の中で見るロッカールームの光景だなあ、と鏡に映る自分を見て、そう思ったりもしていた。結果的にチェックイン出来たのは14時半過ぎとなるのだが、この朝はスーツケースを預けると、ビジネスバッグを肩に、すぐ近くにある展示会会場、コンベンションセンターへと出陣していったのである。その会場は、ボストン一の高層ビル、プルデンシャルセンターの一角。そのビルは、昨年、滞在最終日の夜、タワー展望フロアSKY WALKに上がろうと訪れて、上がることの出来なかったビルだ。今回、その近くにホテルを取ったのも、タワーに登ることを当然意識してのことだった。この日、朝9時に展示会のregistrationを済ますと、開場まで約1時間半。それならまずは展望フロアに上がろうと思ったのだが、その営業開始にも早すぎた。大きなショッピングセンタとなっているビルを歩き、タワーをカメラに収めると、ファストフードのカフェで資料を広げて、展示会会場歩きの下調べ(結果的にはあまり役立たなかったが)をしながら、開場を待ったのであった。
2013.09.19
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加藤清正の菩提寺・本妙寺に始まった熊本での1日。清正の子、忠広が改易されて加藤家が取り潰されると、以来、幕末までこの地を治めることになるのが細川家(小倉より細川忠利が熊本城へ。忠広が築城した八代城に父忠興が)。その歴史を追うように水前寺公園へと行き、細川幽斎ゆかりの古今伝授の間で一服し、さらに幽斎、忠興、忠利を祭神とし、ガラシャをも祀る出水神社にお参りしたのが前回まで。そして次の目的地としたのが、細川家繋がりで立田自然公園。ここは細川家の菩提寺・泰勝寺の跡地。表通りから奥まったその場所はひっそりとして、そこにかつて寺が存在していたことの石碑が。鬱蒼とした木々の中、夏の陽射しを遮り、その園内を奥に進むと、幽斎、忠興、そしてガラシャの墓が姿を見せた。それぞれが独立した廟で立派なものだ。忠興、ガラシャについてはかつて勝竜寺城で想像を働せ、そして大徳寺高桐院では二人並んだお墓を拝んだ。ここに置かれたガラシャの手水鉢は、死を前にして最期の身じたくを水鏡に映したものというので感慨深い。 そして奥には茶室群が。細川家といえば、利休七哲にも数えられた忠興に始まり、現代の細川護煕さんまで、茶の湯との縁は深い。この日園内は歩く人も無く、僅かばかりの清掃の人のみ。開け広げられた茶室にも人影は無く、無防備の感があって果たして使われているのかな?と心配になった。 そんなつい心配になるほど静まり返って、それが寂しいくらいの感覚だったが、それは杞憂と後で知る(虫干ししていたのだろうか)。遮るもののない園内の池が眩しく光り輝いていた。
2013.08.19
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熊本を経由して鹿児島に帰省したこの夏、熊本市内に宿泊したのだが、それは自身子供の時以来のこと。中学生だった当時、歳の離れた従姉の結婚式が熊本であり、その時、熊本城を真っ正直に臨む"五峯閣"という名の教職員組合の施設に両親と共に宿泊した。それが熊本市内に宿泊した最初で最後。この時初めて熊本城を訪ね、水前寺公園を訪ねた(その後、修学旅行、学生時代、そして4年前20年以上の歳月の後に再訪)。忘れ得ない記憶は部屋から目の前に臨む、ライトアップされた熊本城大小天守閣。暗闇に浮かび上がる天守閣、その姿を父親と何枚もカメラに収めたが、それが初めて撮った夜景の写真だろう。あれから36年がたった。今回熊本での宿を決めるにあたり、その記憶が甦り、是非そこに宿泊したいとの思いが募ってきたのだった。調べてみると既に"五峯閣"という名のホテルは無く、そこで地図から探してみるととした。そして当時と同じ場所に"KKRホテル熊本"として、それは存在した。懐かしい景色。36年前の景色はこれだったんだなと、感慨に浸った時間。城を臨む部屋こそ取れなかったが、天守閣の勇姿をロビーから見上げ、エレベータから臨み、そして高く聳える大いなる石垣の足下を歩き、過ぎ去った昔日の時間を取り戻していた私だ。この時期、夜間も開放されていたのでそのまま3時間ほど歩いただろう。1人ホテルに戻ると、予約で暫し待たされ最後の客となったが、光輝く天守閣を眺めながらディナーを味わい、美酒に浸った。 懐かしさと年月の経つことの早さ、そしてその場に両親を迎えられていれば、なお良かっただろうなあと感無量になった。見送りしてくれた店員に"実は36年ぶりにここに泊まったんんですよ!"と感慨を伝え、その日を締めくくった。
2013.08.18
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4年ぶりに訪ねた熊本城。故郷鹿児島の隣県にあって修学旅行を含めて在郷中4度は来ただろう熊本城だが、約25年もの長い長いブランクを経てその地に立ったのが前回。そこで、子供の時分には感じ得なかった迫力に圧倒される。当時2時間の滞在で、大小天守閣、再建されたばかりの本丸御殿や重要文化財の櫓群を拝観し、威圧感ある高い石垣群と(いくつ命があっても足りないだろう)強固な郭の作りに、圧倒されつつ、そして感嘆一番低い竹の丸から本丸へと石段を上っていった。その広大な城郭は、まさに日本三名城と言われるに相応しく、2時間の城歩きで圧倒されたとは言え、マップに示された二の丸や三の丸に足を伸ばすに至らず、その全容を感じるには時間不足であった。そして再び来ることを誓ってから4年、夏の帰省のついでに熊本を訪れるチャンスが訪れた。今回は、ちょうど夜間拝観もやっているとの情報もあり、泊りがけでじっくりと、まだ知らぬ熊本城をじっくり魅力を探訪したというわけである。今回のスタートは三の丸、二の丸から。そこはオーソドックスなアプローチではまず来ることない、言ってみれば裏側の方なのだが、どうしてどうして巨大な石垣というか壁、その迫力に早速圧倒され期待感はいきなりMAXに達した。それから歩くこと約3時間半、熊本城を満喫した。まずは三の丸より威圧感ある百間石垣を二の丸へと登城。二の丸を歩を進めると西出丸の戌亥櫓、その先には第3の天守と称される宇土櫓と、その奥に大小天守閣。そして歩を進めていった。 と、その前には三の丸の細川刑部邸を訪ねていたことも忘れずに。長いアプローチの先、そこで抹茶を一服としたかったが既に遅し。というわけで、その後ろくに飲食もとらず歩きに歩く。二の丸には明治維新の後の士族反乱の痕跡。中でも、西南戦争で新政府軍の最前線となって、西郷隆盛を担いだ薩摩士族の北上を防いだのも、熊本城の強固さゆえ。加藤清正の築いた鉄壁の城がその威力を発揮するのが武士の時代の終焉を告げる戦となるのも、歴史の不思議な巡り合わせだ。 その西南戦争で新政府軍・熊本鎮台の指揮を執ったのが土佐出身の谷干城。かつて本丸脇にあったその像も、本末御殿の復興と共に移設。今では城外に静かにたたずんでいる。そしてこの日の入口とは反対側、熊本城の市街地地側、長塀にそって歩くと、飯田丸五重櫓とその向こうに熊本城が、そして陽もいい塩梅に落ちてきた。 そしてここで初めて入場料を払って、いざ本丸へ。ライトアップされた熊本城をこれほどまで間近に見上げるのも初めてだ。火の国熊本には、華麗な白亜の天守より、威風堂々、黒い天守閣が夜空に映える。 時間を気にせず、思いのまま、気の向くままに歩いた、熊本城。実にサイコー!
2013.08.16
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4年ぶりに立ち寄った熊本。そして前回切望しながら果たせなかったことが一つ、それは水前寺公園の古今伝授の間でお茶を頂くこと。4年前そこを訪れた時、解体修理のため姿を目にすることがなかった建物も、2010年末に修理が終わり、漸くその目的達成する機会が訪れたというわけである。古今伝授の間については当時のブログにも詳しく書いたので、ここでそれについて述べることは割愛するが、そこは水前寺公園を借景に抹茶を頂く、実に贅沢な空間である。歴史の重みを感じる佇まいはもとは京都御所にあったもの(細川幽斎が伝授を受け)。その後、長岡京(細川忠興がガラシャを迎えた勝竜寺城の地)、そして最後はここ熊本・水前寺公園(細川忠利が作った茶屋に始まる)と、歴代細川家の歴史を追って安住の地を得た。まさに夏の陽気、ここを訪ねる前に加藤清正の菩提寺、本妙寺を大汗かいて、麓の電停から山上まで往復してきたこともあり、この景色は大いなる安らぎである。古今和歌集の奥義の伝授がされたという部屋に腰を下ろし、景色を前に抹茶を頂くという贅沢。席入り前の注文で、お菓子を選択するのだが、上品で美味しそうなお菓子を前に、”思わず2つ注文してもいいですか?”と、。。。 というわけで、一服の抹茶と主菓子2つと相成った次第だ。そして期待を裏切らない美味。これは是非お土産に買って帰ろうと思って後にしたのだが、悲しいかな他の観光地や熊本駅においても、同じお菓子を見つけることが出来なかった。それだけが心残りと言えば、心残り。次回までのやり残しだ。後で調べると陣太鼓でも有名な"香梅さん”のお菓子。そして"古今伝授の間"の文化財としての保存と公開、そして文化の伝承に一役買われていたことを知る。実にすばらしいことだ。
2013.08.15
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熊本に立ち寄るほんの1ケ月前、信州・松本城の本丸の一角で目にした"清正公駒つなぎの桜"。それは加藤清正が江戸からの帰りに松本城に立ち寄った際、城主石川康長が土産として選りすぐりの名馬を二頭連れてきて、その時に馬を繋いだという桜の木。 それは二頭差し上げるので選ぶように薦められた清正が、「あなたほどの目利きが選んだ馬をどうして私が選ぶことができましょうや」と言い、二頭とも連れて帰ってしまったという伝説。意外な地で目にした加藤清正の足跡、その記憶もまだ新しいままに訪ねた熊本は、まさに清正が基礎を作った城下町。そこで加藤清正像を拝もうと、菩提寺・本妙寺を訪ねようと思った。何度も訪ねている熊本だが、本妙寺は初めてだ。そしていざ訪れるのだが、炎天下の夏、火の国・熊本。本妙寺参拝は大汗かいてヘトヘトになる、結構ハードな思い出となる。最寄のバス停を降りて本妙寺までは一本道の参道を約1キロの道のり。最初に目にする仁王門は寺の門にしては何とも違和感も感じる白い門。しかしそこからが長かった。 両側に塔頭が並ぶ平坦な参道を暫し歩くと、176段の急勾配の石段、その中央には石灯篭が立ち並ぶ光景は圧巻。そして本堂へと一気に高度をあげていった。振り返れば仁王門を見下ろしていた。 しかし、ここまで来ての誤算は、そこに清正像が無かったことだ。目的のその像は本堂は以後の山の上、さらに300段の石段を上ることに。この時、重い荷物を背負っていた私は、既に大汗かいてバテていたので、もう断念しようか気持ちも傾く。石段の下まで足を運ぶと、それが遠くに見えてきた。そして歩き始めた。とにかく大変だったが、清正公との対面を果たす。 まさに熊本の町を眼下に見下ろす清正の像。そして彼方には清正の築いた熊本城の勇姿が。そしてこの清正の像が立つ位置(高さ)は、熊本城の天守閣の高さ(標高)と同じだと言われている。誰もいない山上に暫し佇み、一息も二息もついた後で、来た道を下界へと下りていったのである。とりあえず清正公に会うという目的は果たせた。
2013.08.14
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仔猫"まーる"が猛暑の中、命を落として半月。朝の散歩も兼ねて、ちょうと2週間前に埋葬された合同供養墓のあるお寺まで、30分以上の道のりを歩いていき、お祈りをしてきたのが、今日1日の始まりだった。合同なので、多くのペットたちが眠っているのだが、先週置いてきた"まーる"の置物が、そのまま同じ場所にあり、それを見て触ってあげることで、"まーる"との再会を実感できる。ちょっと雑然とした感のある供養墓の汚れを洗い落とし、供えられた水を入れ替え、両側に並んだ花入れの水も全て入れ替え、また片づけられた餌の容器なども洗った。また、蓮の形の蝋燭を真ん中に置き、線香の火に使えるようにしたので、だいぶ見た目にも落ち着いて、また清潔感ある感じに掃除出来たと思う。そうやっている間、大きな蝶が何度かやってくる。もしかしたら"まーる"が会いにきたんじゃないか?、喜んでくれているんじゃないか?と、家内と顔を合わしたりもした。そして、それが、この日の最後に起こる出来事の伏線となろうとは、予想だにしない。夕刻、来週知人を招き入れるに当たって、専ら部屋の片づけやら掃除に精を出している時、ふとガラス越しに外を見ると、植栽のブロックの上に小さな黒い猫がうずくまっている。仔猫である。そして、起き上がって歩き出すと、泣きながら植栽の中へと。すると母猫の姿が、。。。まさに、"まーる"が逝ってしまった夜に姿を見せて以来、見ることのなかった、黒い母猫、それに間違いなかった。テラスへと回って外に出て、植栽の中を目を凝らすが、姿が見えない。と、振り返るとエアコンの空調機の上、"まーる"の匂いが残っているのかもしれない敷いたタオルの上に、親子並んで座って、私を見ているではないか、。。。家内が近づくと、母猫は飛び跳ねて植栽の中へと逃げていった。まるで、あの夜と同じような素早さだ(関連記事はこちら)。取り残された仔猫は、なすすべもなく家内が手に取って連れてくる。目は大丈夫。"まーる"は、感染症で目があまり開いていなかったが、この仔猫は大丈夫。少しだけ、目やにがあったのを見て、すぐさま家内が以前本で確認した目薬を持ち出してくると、1滴、2滴。両手で掴まれた小さな体、それは"まーる"のそれと殆ど変らない。洗面器に入れて、お腹をさすってあげる。するりと抜けだすと、植栽の方へと歩き去っていき、母猫を探しにいったのであった。しかし、やがて仔猫はテラスへと戻ってきて、ガラス越しに私達を見上げる。つい今しがた初めて会って、私達の手から逃げていった筈なのに、また戻ってきて何か言っているのか、。。。すぐ傍は、"まーる"の最期の場所。それを偲んで、蝋燭と線香を焚いていた。果たして、この黒い仔猫は、"まーる"なのではないか、"まーる"が天国から降りてきたのではないか。そう思った。今夜はどこにいるのか、寝ているのか、ただテラスにはいない。また、やってくるのか、はたまた幻か。"まーる"は居るかな?とテラスを覗く日々が再び始まった。
2013.07.21
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7月13日、25年ぶりに訪れた松本。そのシンボルと言えば、国宝・松本城。しかし久かたぶりの天守を目の前に、入口の大手門には入城待ち30分の案内が。。。既に閉門の17時まで1時間を切った状況下、慌ただしく見るくらいなら出直した方がよかろうと、再び訪れたのが7月14日午前。狙い通りスムーズに本丸への入城を果たす。松本城の天守閣に登閣するのは3度目だか4度目。最後に登ったのは1985年ではないかと思うが、その記憶も既に定かではない。当初、小雨混じりの天気もすぐに晴れてくるのだが、まずは登閣に先立って本丸の一角で催されていた野点茶会へと足を進め、天守閣の雄姿をご馳走に、煎茶を一服、二服とし寛いだ。 3連休の中日、そうこう寛いでいるうちにも本丸へと続々と入城する観光客の波は途絶えることはない。そしてそれを迎えていたのが、はるばる隣国美濃からやってきた岐阜城盛り上げ隊。天守閣の石垣の前、斉藤道三らの一行が、訪れる観光客との記念写真に応じて、気分を盛り上げる。そして、我々もその順番待ちの列に並んでいた。戦国期に建てられた現存する天守(松本、犬山、丸岡の3城のみ)としては、唯一の5層の連立天守を誇る松本城。その黒塗りの実戦的な外観は、同じ5層の連立天守閣の姫路城の優雅さとは対照的。その他の国内現存天守には決して見られない威容だ。幾多の城を歩き、数10年ぶりに再び訪れてみて、あらためてそれに気付かされる。天守閣の内部も5層という外観とはさほど広々したものでもない。上層階へと上がる階段は急峻で、最後の登りには梁と交差する箇所もあったりで、なかなか難儀である。そんなわけで天守閣に入ったはいいが、まだ低層階にしてほどなく渋滞の中に埋もれてしまう。その様は、まるで混雑する美術館さながらで、流れに身を任せて、ただゆっくりと進むのに似ていた。限られた空間、各階が、くねくねと列を作った人で一杯になった状態に、400年以上も前に建てられた天守閣自身の耐荷重は大丈夫なのだろうか、と余計な心配が頭をもたげる。当然籠城戦というのも考えて建てられている筈と思えば、そんな心配もないのだろうが、それはこれまで多くの登閣した城郭でも経験したことも混雑ぶりだった。果たしてどれだけの時間をかけて天守閣の最上階に辿り着いたことか、30分以上かかったことは疑いようがない。 天守閣から眺める、松本城下、そして遥か北アルプスに美ヶ原高原。入城時の雨もすっかり上がり、 雲も晴れてきたのは幸いだった。その切れ目からアルプスの山々の雄姿を拝むことが出来た。そして、眼下の本丸に目をやると、天守閣への入場を待つ長い列が。。。天守閣の雄姿を目に焼き付け、いよいよ本丸を後にすると、大手門に立つ案内板には、何と"80分待ち"の文字が記されていた。本当に早く訪れてよかった。
2013.07.16
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山の天気はこと変わりやすいものだ。それをいい意味、意識させられたのも、上高地の朝の景色だ。前日、雲に隠れた穂高連峰を是非とも目にしたい一心で、つい外の明るさを感じると早くに目が覚めてしまう。梓川の清流の流れ、その音は部屋の窓をキッカリ閉めると殆ど聞こえなくなるのだが、穂高から吹き降ろしてくる風のピューピューという音、そして屋根をたたく雨の音だか、それが時折聞こえると、つい窓越しに外の様子を確認する。朝5時半くらいには起きただろうか、穂高連峰には前日より低く雲が垂れ込め、一階部の屋根が雨に濡れている。そして、雨具に傘をさした重装備の登山客が早くも穂高へ向けてと歩み始めるのが見えてくる。2泊3日の松本、上高地紀行。最終日となるこの日は、すでに10時40分の帰りバスを予約済。沢渡バスターミナルへのバスは7時ごろが始発。それに乗って大正池で下車し、河童橋まで歩いてきてから帰る。そんなシナリオを描いていたのだが、朝の雨に穂高も隠れる景色を見ては、仕方ないなあとまた布団に横になる。そして家内共々、最終的に起きたのは朝7時。そしてとりあえずは浴衣姿にて朝食へと向かったのである。朝食会場は朝6時から8時半だった。案の定、混んではいたが、食事をしながら窓の外、穂高方面の景色を伺う。するとどうだろう、垂れ込めていた雲がだんだん晴れてきて、穂高の稜線が見えてくるではないか。日も差してくる。そして、穂高を臨むビューポイント、河童橋を上流にすぐ梓川が大きくカーブをきる地点で多くの観光客や登山者がカメラを穂高に向けている。朝食のペースを上げた。 そして浴衣のまま河童橋へ。さらに雲が晴れてくる。急にこの朝の行動がスピードアップする。朝7時半、まず大浴場に行って汗を流すと、部屋にもどってパッキング、そしてチェックアウトし、荷物を預ける。朝の天気を見誤った結果の大きなタイムロス。まだ焼岳には雲がかかっていたが、とにかく大正池へと向かうべく、上高地バスセンターへ。運よく発車間際の沢渡行きのバスがあり、乗り込む。8時40分だった。大正池下車。正面に見上げる焼岳の山頂部にはまだ雲がかかっていたが、これもあっという間に切れてきたのは幸いだった。一方の穂高連峰にはまた雲がかかってきたりと目まぐるしい。そして朝の空気が気持ちいい。鳥たちのさえずり、鴨や緑豊かな浅瀬に餌を求め、川魚の稚魚が透き通った清流に気持ちよさげに泳いでいる。既に朝の遊歩道は、多くの人とすれ違い、たまに挨拶を交わすのがまた気持ちいい。 大正池~田代池~中の瀬園地~河童橋、と約3.5キロほどだったろうか。時間が許せば、途中で穂高の景色を見ながら、おにぎりの弁当を食べたりもしたかったのだが、時間も押していたので、前日同様に中の瀬園地で暫しベンチに寛ぐと、ゴール河童橋へと歩を急いだ。1時間を少し上回るほどの、ちょうどいい感じの時間。再び河童橋に到着したころには、今後は穂高が雲に隠れ始めていた。おにぎりの代わりに河童橋たもとで、ソフトクリームをほうばると、穂高連峰にも最後のお別れ。帰りのバスの中で食べるために、"おやき"を買うと、予定通り、新島々行きのバスへと乗り込んだ。そしてバスが大正池にかかると、車窓に穂高を見納めした。25年ぶりの上高地で穂高連峰を拝むことが出来た達成感に浸っていた。さて、家に帰りついたのは上高地を出発して、5時間後のことだった。上高地の涼しさから一気に喧騒の街に戻ってきたのだが、思ったほどの暑さではなかったのは意外であり、幸いだった。そして3連休の締めくくりは、前週死なせてしまった仔猫"まーる"の供養に、"まーる"の待つお寺へと行ったのであった。"まーる"の置物も置いてきた。
2013.07.15
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この日、25年ぶりに上高地の地を踏んだ。上高地バスターミナルでバスを降りた瞬間、感慨深く、思わずこみあげそうになるのを抑えた。北アルプスの登山基地として、かつて幾度となく訪れた上高地も最後に訪れてから早や四半世紀。年月の流れるのは早い。勿論、大きなリックに登山靴、防寒着に雨具、とそんないでたちではない。しかし、北アルプスを再び目にしたいという気持ちを長年持ち続けていた。特に、ここ数年は「今年こそは!」との思いを持っていたので、この度の3連休、まさに思い立ったが吉日、直前にしてホテルの空きがネット上に現れたのを逃さず、行くことを決心する。大正池にバスがさしかかると25年ぶりに目にする穂高連峰は低く垂れ込めた雲の中だった(下左)。ターミナルでバスを降りると、荷物を持って梓川河畔へと足を運ぶ。その速い流れに引き寄せられ、その上流に目をやると河童橋の姿が(下右)。それはかつて見慣れた景色。まるで25年間のブランクも無かったかのように記憶は蘇り、我が愛する場所に帰ってきたなあ!と思わず嬉しさがこみ上げてきた。すると、家内を後方に取り残し、河童橋へと向かう足も自然と加速していくのであった。 さて、この日、松本を松本電鉄、いやアルピコ交通の鉄道に乗って新島々に向かったのは12時44分。新島々でバスへと乗り換えると、一路、上高地へ。稲核(いねこき)、水殿(みどの)、奈川渡(ながわど)と三つのダムを通過点に順調に高度を上げていくと共に、目の前の景色を過去の記憶と重ねながら、一つ一つ噛みしめていた。あらためて凄い場所を走っていたものだと思う。万が一、ガードレールを外したら、谷底あるいはダムの湖底へと沈むだろう。それを思うと緊張感さえある。しかしその一方で、25年の歳月が、上高地へのアプローチに変化をもたらしていることにも気付かされた。まずマイカー規制で沢渡(さわんど)に設けられた駐車場の規模の大きさに驚いた。バスが駐車場を結んで、ピックアップしていく光景などはかつては無い。ほんの1ケ所の沢渡バス停があるだけだったが。。。沢渡と上高地との間はバスのピストン輸送で、駐車場に停められた車の数が観光客の多さを物語っていた。かつては季節限定のマイカー規制だったが、今では通年だ。そして、いよいよ上高地へのアプローチもクライマックス、中の湯へとさしかかると、梓川を挟んだ対岸、中の湯温泉が視界に飛び込んでくるのを待ったが、見落としてしまったのか、それが無い。そして、最後のクライマックス、釜トンネルへと入っていくにあたり、家内にも「ここからが凄いよ!」と身構えさせたのであったが、。。。何か違う。トンネルがきれいすぎる。そして広くないか?。。。おかしい。雪避けのスノーシェッドの先にある釜トンネル。バスが1台入ると一杯一杯の狭くて暗いトンネル。そして、そして壁面はガツガツしたむき出しの素掘りのトンネル、その石の表面が湧水に濡れて、窓のすぐそこに見えるそんな距離感だ。それは上高地に入る最後の難所であり、また名物だったのだが、この日、かつての釜トンネルをそこに見ることはなかった。思えば、登り下りの交互の片側通行だった。信号待ちになると15分ほど、対向車が走りすぎるのを待つ。車から降りて信号が青になるのを待つドライバーもいた。片側通行は距離にして1キロ近くあったのではなかろうか、トンネルの両方の出口にはスノーシェッドが続いていて、大正池から下るところからは、遥か前方、梓川の急流が蛇行する岸壁に掘られたスノーシェッドを車列が通過するのを臨んでいた記憶が蘇る。そして、もう一つの名物、中の湯もかつてあった場所から消えていたのであった。上高地への最後のアプローチ、バスの車窓から対岸の”中の湯”の看板と、湯煙を上げる露天風呂に入る人、そこには下山してきた登山者が良く似合うのだが、それが目に入ってくると安房(あぼう)峠と釜トンネルへの分岐も目前だ。この日もその光景を楽しみにしていたのだが、。。。その名物温泉も、中の湯と平湯温泉とを貫く安房トンネル工事のため場所を移転していたのだ。かつてシーズンには1時間以上もかけて通行した安房峠。狭い山岳道路をバスが出会うと、前に進む1台とすれ違う地点までバックで下がるもう1台、バスガイドが欠かせない。急峻なヘアピンカーブは1度の切り替えしでは曲がれない。何度も切り返してはカーブを曲がる。まさにバスドライバーの腕の見せ処であり、またこの路線ほどバスガイドが活躍するのを見たこともない。その都度渋滞はつきものとなるのだが、それも安房峠の名物。しかし、そんな光景を今後見ることも無い。25年の歳月の重みだろうか。。。さて、上高地に入った時には陽が差していた天気も、河童橋河畔のホテルにチェックインして一服している間に、雨模様に様変わり。当初、大正池までの往復トレッキングを予定していたが、小雨交じりの中、梓川が大きく蛇行する中の瀬園地(下左)までの軽めの散歩へと変更する。 25年前に上った西穂高岳の登山口(下左)で一人山に入っていった当時を思い出し、そしてウェストン碑(下中)、対岸の霞沢岳の三本槍(上右)を眺めた。河童橋付近の喧騒を離れて、森林浴を楽しみながら、河童橋の方へと折り返していき、ロッジの建物が並ぶのが目に入ってくるとこの日の散策も終わりである。 山の夜は早い。18時には夕食、そして21時にはホテルの鍵が閉まり、ロビーフロアも消灯する。浴場も22時までだ。食事の後、一人外に飛び出すと、ついさきほどまで雲に隠れていた焼岳が姿を現し(下左)、また穂高連峰も雲の位置がだいぶ高くなっていた(下右)。日没ギリギリまで粘ったが、残念ながらその全容を見るには至らなかった。しかし、静まり返った河童橋の上で、1日の最後、25年ぶりの上高地に私は浸っていた。
2013.07.14
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信州松本、この地を訪れるのは、一体いつ以来だろうと、過去のメモ帳をめくっていたのは今朝のこと。毎年のように”今年こそは!"と思いながら、実現できずにいた、もう1度訪れたい場所。その念願の再訪を、この日漸く果たす。しかし時が流れるのは実に早い。北アルプス登山の玄関口として、かつては頻繁に訪れた松本の地も、どうやら最後に訪れたのは1988年7月31日から8月1日にかけて。それは上高地から西穂高岳に登山した時のこと。しかし、自身それを最後に北アルプスから離れ、そしてまた登山からも離れてしまった。そんなお気に入りの地だった場所、松本、上高地を訪ねる今回の旅。指を折って数えると少なくとも今回が8回目、しかし実に25年ぶりの再訪となった。家内にとっては初めてである。久しぶりに降り立った松本駅。当時、北アルプスの山なみを眼前に収める展望デッキがあったと記憶しているが、さすがに25年の歳月は駅自身もグレードアップし、駅ナカの景色は都内に見るそれと遜色ない。大きなガラス越しに展望した北アルプスは雲に霞んでいて、白馬八方へと連なるくっきりした山肌を認めることは出来なかったが、シンボル的な常念岳の三角の頭を認めることが出来た。そして何より、首都圏の猛暑とは裏腹に、涼しささえ感じる空気にその地に来たことを実感させられた。 そして早速ホテルに荷物を預けると、松本のシンボル松本城へと向かう。途中、何度か寄り道をしているうちに、ゆっくりと登城する時間がなくなり、しかも30分待ちという状況から入場は翌日に持ち越し。そのかわり城の堀をゆっくりと1周。そして少し足を延ばして訪れた明治初期に作られた開智学校はおそらく29年ぶり。当時就職も決まらぬまま、大学4年の秋、はるばる九州の南の果てから旅をしてきた日は遥か昔のことだ。 (中:天使は男の子、右:風見鶏でなく東西南北)そして縄手通りに中町通りにと、かつて歩いた記憶のない場所に数々の発見や心地よさを堪能。松本に蔵のイメージは無かったが、随所にそれを目にし、城下町風情を醸し出す。また雰囲気があり特徴あるお店も多く、歩いていてふらりとお店に入る。ゆったりとした楽しい時間を過ごさせてもらった。骨董品屋を多く目にしたのはまた意外なところで、つい茶道具に目をやっては、ちょっと買えないなあと家内と目を合わすのであった。 ちょうどお腹も空いたころ、中町通りに見つけた、風情ある蔵と庭が奏でる雰囲気に引き寄せられて入ったのは栗菓子の名店、竹風堂。そこで私は栗強飯(おこわ)、そして家内は麦とろ膳に舌鼓をうっていると、やがて日も傾き、再び松本城へと歩く。お城のライトアップを見るには、ちょうどいい時間帯になってきたからだ。 松本城は日本に現存する12の天守閣のうちの一つ。その中でも年代的には、犬山、越前丸岡と共に戦国期に築城された古い部類のもの。かつては、そのいずれもが日本最古を標榜していた記憶があるが、今ではそれを目にすることもない。城フリークとしての私は当然としても、家内もその12城のうち8つ目の登城となり、私様々だろうと、そんな話をライトアップされた天守閣を目の前に話をしていたのである。 内堀の端から光を照らす、そのライトに群がる多くの鯉。パクパクと口をさせていたのは、どうやらライトに目がけてやってくる虫たちが堀に落ちるのを狙ってのこと。夜の城内には隣接するビアガーデンから酒宴たけなわの声が響いていたが、ライトアップされた松本城を目の前に飲むという最高のロケーション。それも頷けようというものである。
2013.07.13
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仔猫"まーる"の突然の死から3日。助けてあげられなかったことの無念さ、一人ぼっちで死なせてしまった哀れさ、その悲しみを心の片隅に置いて、今日も会社での一日を過ごしていた。 家内はというと、帰る途中、ペットショップに立ち寄って、いろいろな飼い猫グッズを見てみたり、ネットで情報収集して、何かしてあげられなかったものか、と調べてみては話を聞かせる。テラスに設けた仮の祭壇に線香を捧げ、そして黒い仔猫の人形にキャットフードを供える。まさに死んだ"まーる"と重なるような、雰囲気の人形。傍らには花一杯の花瓶。あの日の朝、埃にまみれた身体を温水で洗い落してあげていたその傍らを、この夏初めてだろう、大きなトンボが飛んできたのを覚えている。トンボには、霊が乗り移ってやってきたのではないか、と思わされる時もかつてあり、あの時のトンボは神様の遣い、伏線だったのかなあ、と今に思ったりもするのである。黒猫が住みつくとその家に幸運がもたらされる。 黒猫は魔除けや厄除けとして家を守ってくれる。また黒猫は病気を吸い取るとして結核の患者がよく飼ってて、沖田総司も黒猫を飼っていたとか、。。。そして、夏目漱石の「吾輩は猫である」も黒猫が主人公。また黒猫は温厚で人なつっこい。等々。それを知って態度を変えるわけではないが、なぜもっと大事にしてあげられなかったか。仔猫への思いやりが欠如していた自分が、こういう結果になっただけに悔しい。夏の熱中症のことは多く語られているし、目や皮膚の病気についても、家にある薬でそのまま動物病院で猫に処方される薬もあったことを知り、もし事前に知っていれば、ということは、今となっては遅すぎるのだが、枚挙のいとまがない。人間に処方されている薬の多くは、動物で効能を確認されているので、共通して使われるものも珍しくないようである。あの夜以来、母猫も仔猫の死を受け入れたのか、このテラスを訪れることはない。合掌。
2013.07.09
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夜帰宅の途につくなり、先に家に戻っている家内に、「(テラスに)"まーる"は居るかにゃ?」とメールするのが、日課になろうとしていたのだが、この日それが無いのがなんとも淋しい。家に帰るなり、ガラス越しにテラスを覗き込む、また朝布団から出てまず最初にテラスへと向かう。"まーる"が居ない現実を確かめ、またつい2日前のことを思い浮かべ、線香を立てる。熱中症注意報も出るとても暑い一日だった。人様でさえ、外に出るのもはばかれるところ、病気持ちの仔猫にとって、それに耐えられよう筈もなかった。しかし、それに気付いてやることが出来なかった。気付くべきであったのだが、まさかあんなことになろうとは、正直予想だにしなかった。場所をかえては、芝生に横たわり、また顔を上にして寝ては、口で息をする音が聞こえるのを間近に見て、かわいいなあと微笑んでいた私。しかし、口を開けて息をするのは、熱中症のサイン。その後、見えなくなったのも、暑さから逃げる場所を探しにいったに違いない。そんなことは全て後の祭り。お茶の稽古へと外出した空白の5時間、いつ"まーる"はテラスの定位置、竹カゴに戻ってきて、息絶えたのだろう。しかし、そのカゴに入ることなく、その隣に横たわっていた。実際、カゴの中は熱がこもり、中に敷いたタオルが通気を塞いだ結果だろう、寝床となる筈のタオル自身も暑くなっていた。日よけのロー・チェアの中も同じ。きっと、中に入るにも入れず、開くことのないカーテンに向かって最後の鳴き声を響かせていたのかもしれない。水曜の夜、木曜の朝、そして金曜の夜まで、その場所は確かに快適だったと思う。しかし、土曜の朝、カーテンを開けてテラスを見ると、カゴの外で横になって寝ていた。今に思うと、きっとあの時すでに、カゴの中は暑くて眠れなかったのだろう。特に、早朝より東から上る太陽が正面からまともにテラスに射し込んでくるので、あの時点で既に熱中症の兆候を見せていたのだろう。キャットフードを差し出しても、前日まではすぐに口にしていたのが、殆ど食べなかったのだから、。。。家内が昨日買ってきた黒い仔猫の人形、それに食べさせることのできなかったキャットフードが供えられているのを見て、そしてデジカメに映った"まーる"の写真を見ると、また涙が溢れ出す。今日は会社でも、同僚に仔猫のことを話した途端に涙が溢れてきた。一方で、思い出さないようにガムシャラに仕事をしたり、と気持ちの上では落差の大きい1日でもあった。 もしかしたら、介入しない方が良かったのか、いや飢えに泣かない日があったのはせめてもの救いだった筈。最期の姿を目に浮かべると、本当にかわいそうなことをしたなあと思う。植栽の木陰に散骨してやれば良かったかなあ、と思ってももう遅い。また週末、供養に行こう。
2013.07.08
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昨夜以来、何とも言えない無力感にさいなまれていて、時間だけが過ぎている。今朝、9時に仔猫"まーる"の亡骸を、火葬埋葬してくれる施設へと託しに行ってきた。ちょうど1日前の同じ時間には、テラスで同じ時間を共有していたというのに、。。。休日のため役所への持込みが出来ない中、猛暑の週末に受入れしてくれる場所をネットで探していたが、車で10分ほどの場所にペットを火葬埋葬してくれる、お寺付属の施設があることを知ったのは幸いだった。受付開始の朝6時に電話すると、部屋で最後の別れをした。この世に生を受けた短い時間、その多くを過ごしたであろう、我が家の植栽の木陰、その木々の枝葉を集めて亡骸に被せてあげた。そして、最後の棲家となった竹籠に入れて、まさに家ごと運んであげた。もっとも竹籠は炭が出るということで、一緒に燃やして頂けなかったのは残念だったが、仕方がない。朝9時、施設にある祭壇に"まーる"を運ぶと、そこで本当に最後のお別れ。焼香すると、顔を撫でてあげ、助けてあげられなかったことを詫びた。その後を施設の方に託すと、本日中に他のペットと共に合同火葬され、合同供養塔に埋葬されるとの説明を受けた。そして、合同供養塔に案内してもらった。役所の場合、供養のしようがないところ、ここだと供養塔を訪れれば、供養できるし、多くの人にも供養してもらえる。ちょっと頑張れば、散歩がてらに来れない距離でもない。多くの時間を一人ぼっちで過ごし、そして死んでいった"まーる"も、ここに来れば、心細いこともないだろう。 そう信じ、そうしてあげることがせめてもの供養だと思った。すっかり家内との会話も言葉少なに、湿った時間を過ごしている。そして、どうして死んでしまったのか?と、今にその原因を考えても、後悔先に立たず。ネットを調べてみると、仔猫の目やに、風邪の症状、それらはウィルス性鼻気管炎のサインですぐに病院に連れていくべきたっだこと、そしてこの猛暑。抵抗力の無い仔猫には命取りになることまで、。。。こんなに早く別れが来ようとは思ってもみなかった、では済まされない現状認識の甘さが招いた不幸。家内からも「病院に連れていってあげたい」と言われていたので、昨日連れていってあげていれば、。。。2度とそこに"まーる"を見ることの無いテラスを眺めては、ただただ涙。そして今夜もし母猫がやってくれば、何とする。突然、心に穴が開いてしまったようだ。でも、いつまでもクヨクヨしていてはダメだ。気持ちを入れ替えて、そして"まーる"の供養にも、この七夕の日の記憶を忘れずに留めておきたい。合掌。
2013.07.07
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夜7時半、茶の湯の稽古から自宅に戻り、テラスを覗いて仔猫は居るかなあと目を巡らすと、本来居るべき竹籠の外で硬く横たわっていた。死んだように寝ているのかと思って近づくと、既に呼吸は無く、その変わり果てた姿にただ愕然とした。この日、テラスに出て、そして庭の芝生の茂みを転々と場所を変えては身体の向きを変えて寝ていて、その後どこかに居なくなったのは昼過ぎのこと。母猫に会いに行ったのか、それでも気が付けば、いつも籠の中に戻って横たわっていた仔猫。そしてこの日、最期の安住の地を私達に託したのだろう。そう思うと涙が止まらなくなった。思えば、母乳をねだる泣き声と共に、我が家に仔猫がその姿を見せたのは6月最終週25日だったろうか、すぐそばには母猫もいて、まとわりつくように場所をかえては母乳に吸いつく。母乳を一杯飲んだのか、やがて泣き声もおさまる。そんな微笑ましい黒猫の親子の光景を優しく窓越しから見ていて、そんな私達から目を離さずに仔猫に母乳を与える母猫。翌朝には、横長の鉢が仔猫の寝床となっていた。そして、植栽の木陰に小さく身を潜めていた仔猫を発見したのはその週末。その時、仔猫を外敵から守る場所として、我が家が選ばれてしまったことを悟る。気になったのは、近づいても逃げようともせず、埃にまみれた身体を震わせていること、そしてその表情は、目脂だらけで病気ではないかと、しかも目が細くパッチリしていないことに驚く。しかし、これまで我が家を含めて近隣が猫の糞尿に迷惑した経験、さらには我がマンションにおいても猫対策として網を張ったりもして、勿論さほど殆ど効果が無いとしても、そういう背景もあって決して手を差し伸べることをしなかったのであった。しかし、再び目の前に現れた7月3日の夜。この日は市ヶ谷でチャリテイコンサートを家内と2人で鑑賞してきて、夜10時半ころに帰宅したのだが、窓を開けるとテラスにあるロー・チェアの下から泣き声が聞こえる。そして、とうとう越えてはいけないと思っていた一線を越えてしまった。明らかにお腹を空かして弱っているその姿に、家内が部屋に取り上げると、タオルにくるんで温める。鼻水に鼻風船、そして時折のくしゃみ、身体を温めるのと同時に、私は思わず冷蔵庫から出した牛乳をヨーグルトのスプーンに取る。この時、無知がそうさせたのであるが、今思うと後悔である。ちょっと舐めると、お腹が空いていたのだろう、ペロペロいき始める。と、急に飲んだからか冷たくてお腹がびっくりしたのか、しゃっくりのような仕草があり、暫し間をおいて再び口にする。その間、濃いのと冷たかったことに気付き、水で希釈するとプリンのカップを満たした。そして、テラスに放置していた竹籠に風よけの新聞とタオルで寝床を作ると、そこに仔猫を入れてやったのであった。翌朝そこに横になって眠る仔猫と共に、希釈した牛乳の入ったカップも空になっているのに気付く。その日以降、その竹籠は完全に仔猫にとって安住の寝床となり、朝夕とテラスを覗くとそこに丸くなっている黒い仔猫を確認しては、微笑ましく思っていたのである。早速、仔猫の飼い方の本を書店で購入した家内は研究に精を出し、仔猫用のゼリー状ペットフードを買ってきて与える。ゴマ豆腐のカップを洗って、少量のペットフードを入れると食欲は旺盛で、すぐに平らげた。4日の夜には母猫もやってきて、我々の目の前で仔猫の母乳のおねだりに応える。母猫は竹籠の寝床をさりげなく覗きこみ、ペットフードを口にする仔猫を植栽の生垣に寛ぎつつ温かく見守っていたのが印象的だった。5日朝、ペットフードと水を竹籠の外に置くと、寝床から仔猫が出てきて徐に口をつける。そんな姿を目に焼き付けて私は出勤していった。気が付けば私も、朝夕、仔猫の様子を見ては餌をあげるのが楽しみになっていた。その夜には、何度も母猫がやってきて、テラスを並んで歩く姿を目にすると、ほのぼのした気持ちにさせられ、また母猫の表情にも私達に安心しているかのような穏やかさを感じた。そして、仔猫も確実に元気になっているように見えたのだったが、。。。。3回目の朝となる6日、竹籠の外で寝ていた仔猫。思えば確かに、ペットフードを積極的に口にする仕草はなかった。母乳も飲んで、まだお腹一杯なのかな?、そんなつもりだった。汚れた埃を落とそうと、家内が温水で身体を拭ってやり、毛繕いする仔猫。庭の雑草を取る家内のすぐ傍で寛ぎ、寝ている光景。それがきっと週末の日常の景色になる筈だった、そう思った矢先のことだった。 まずは早く健康に元気になってもらうこと、そして自然に母猫の下に去って行くこと、たまに親子で顔を見せに来てくれるといい、と思っていたのだが、。。。冷たくなった仔猫を包んでやって、組み立てた小箱に収めたところで、母猫が様子を伺いにやってきた。竹籠を覗き込む。当然、応答が無いので、状況を察したのだろうか。それでも仔猫の顔だけでも見せてやろうと、箱を見えるようにと近づけてやったが、警戒して走り去っていってしまった。果たして、その行為が良かったのか、悪かったのか、。。。それから4時間近く待ったが、母猫が再びテラスに現れることはなかった。母猫にも申し訳ないことをした。今日昼過ぎ、私達の視界から消えた後、仔猫は一体どこに行ったのか?植栽の茂みにいたのか、母猫を探しに彷徨ったのか、しかし最期は私達を頼ってきたのは確かだった。最期の声を聞いてあげれなかったこと、看取ってあげれなかったこと、。。。暑さに脱水状態になったのか、まさに仔猫用のミルクを買ってきたところだったのに、便は異常なさそうだった、しかし初日の牛乳の影響があったのか、風邪や病気で弱っていたためか、芝生に仰向けになって口で息をしていたのは何かの伏線だったのか、。。。しかし全ては後の祭りだ。勇気と覚悟を持って、動物病院に連れていってやれば、何とか助けることも出来たかもしれない。本当にかわいそうなことをしてしまった。本当に短い、薄幸な仔猫の一生。”まーる”と呼んであげていたのは、わずか3日間。既に日付は変わってしまったが、明日、旅立たせてあげたい。
2013.07.06
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この日の朝、成田に到着したのは朝9時。ANAラウンジでシャワーを浴び、再びビジネススタイルに身を包むと、途中、コインロッカーにキャリーバッグを預け、午後、会社へと出勤。月曜深夜に羽田を発った、シンガポール弾丸ツアーは完結した。シンガポール滞在1日における唯一の訪問先は、マリーナ・ベイ・サンズ。そして、チャンギ国際空港で過ごした時間は、何と約10時間にも及んだ。訪れたコンベンションセンターにおける展示会は非常にこじんまりしたもので、さほど時間を必要とするものではなかったので、食事を挟み、また巨大なショッピングセンタの謂わばウィンドウショッピングを含めても、滞在は5時間ほどだったろうか。 外は、赤道直下の熱帯特有のシャワーもあり、またさすがに暑く、PCの入った重いカバンを持って歩き回るには、結構体力を消耗。一方で、室内は冷房が効いているので、逆にスーツが心地よく、そのギャップがますます睡眠不足の身体には応えて、何度かお腹の不調でトイレに駆け込むことを繰り返すうち、動き回る元気も萎えてくる。さらにはネットワークにアクセス出来ないことで、仕事の重要メールの存在が気になり、外はまだまだ明るいながらも5時前には一路空港へとメトロに乗り込だ次第。出発時間が深夜であることを考えれば、まだまだシンガポールを満喫できた筈で、昨年対岸のマーライオンのあたりから見た、光のスペクタクルショーなども間近に見られたことだろうが、体力温存を優先。それらの楽しみは、いつか家内と訪れる日にとっておくこととした。マリーナ・ベイ・サンズのタワーを見上げると、屋上に人影も見られ、天空の船の端から海風を浴びて眼下を見下ろす感覚を想像しつつ、その地を後にしたのである。 結果的には、シンガポールに入国していた時間は、約7時間。18時にはチェックインして、出国手続きをとった。帰路の深夜便は、羽田便が既に満席だったのに対して、成田便はガラガラ。お陰様で、帰路もアップグレードポイントを使って、ビジネスクラスをゲットし、また専用カウンターで早々にチェックインできたのは幸いだった。出発便までの待ち時間は何と6時間半。まずはお腹を満たすと、すぐに会社のメールへとアクセス。仕事へと取り掛かり、メールでの回答対応や指示に没頭。やっと落ち着いたところでシャワーを浴びて、機内用のラフな格好に再び着替えたのであった。離陸は深夜12時45分。朝の食事に和食を選択したが、就寝中は起こさない方に印。結局、帰路ビジネスクラスをゲットしたものの、ただ寝ているだけで、朝食を頂くこともなく、何とも勿体ない印象。これで昨年来、往復深夜便による海外渡航は4回目を数え、癖になりそうであるが、現地0泊は今回限りにしたいものだ。
2013.07.03
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シンガポール0泊3日。かつてワールドカップ観戦の弾丸ツアーとして、こんな日程のツアーもあったろうか。そんな日程を仕事にも当てはめてみると、。。。昨年4月末以来、約1年2ケ月ぶりに訪れたシンガポールでついにそれをやってのける。前日7/1、房総・鴨川から東京駅へと夕刻戻ってきた私は、そのまま羽田空港へと向かう。そして搭乗3時間半ほど前にチェックインを済ませて出国手続きを終えると、ANAラウンジへと入る。シャワーを浴びてラフな格好に着替えると、羽田を23時半に発ち、チャンギ国際空港に早朝5時10分に到着した。この早朝着の深夜便は昨年と同じだが、大きく異なるのが前回は3泊、今回は0泊ということ。同日の深夜、日付の変わる0時45分にシンガポール発の飛行機で帰国の途につく。昨年は宿泊したホテルにアーリーチェックインしたものの、今回は宿泊するホテルはなく、しかし仕事に向かうには朝が早すぎるために、対応を事前調査。今回初めての取組として、空港内のトランジットホテルで仮眠を取ることとした。バス、トイレのある部屋は既に一杯だったが、それでもシャワー、トイレを共有で使うベッドだけの部屋が空いていたのは幸い。約3時間半をそこで過ごした。往路の飛行機、ビジネスクラスへのアップグレードが出来たものの、欧米線のようなフルフラットシートではない。また飛行時間が睡眠を取るには十分に長くなく、かつ到着前の朝食の案内に早く目を覚まされると、眠ることが出来ず寝不足のまま到着となる。また寒くて身体が冷えたのと、ビジネスクラスも最後部だったのが、すぐに後ろのエコノミー席が赤ちゃん対応席だったせいか、赤ん坊の泣き声にも眠りを妨げられたこともあり、ちょっと芳しくない飛行だったため、トランジットホテルでの時間は貴重だった。入国せぬまま、フロアーを端まで歩き、漸くその上の階に見つけたトランジットホテル。寝るには問題ないが、窓はなく、狭い廊下の両側にドアが並ぶ光景は、なにかカラオケボックスのようにも思えた。ともかく再びシャワーを浴びると仮眠をとり、そしてスーツに身を固めると、ガーデンを階下に対面にあるラウンジで軽くお腹を満たし、到着後5時間ほどを経てシンガポール入国となる。 そして空港内の荷物一時預りにキャリーバッグを預けると、メトロで市街地を目指す。地下鉄に乗るのは、自身2度目のシンガポール出張の2004年以来9年ぶり。事前にネットで調べていた内容を頭に入れて、いざ券売機に。何ということはなく、乗り換えもまた非常にわかりやすい。つい車内でペットボトルの水を飲みたくなったが、車内飲食罰金の貼り紙が。。。そして、2度地下鉄を乗り換えて訪れた目的地は、今シンガポールで最も人気の観光スポット、ベイフロントに立つ、マリーナ・ベイ・サンズ。一昨年、三つのタワーの上に船が乗ったその姿を遠目に臨んだ時の衝撃。その場所を2年越しで初めて訪れることになるキッカケは、コンベンションセンタで開催されていた展示会だった。 メトロを出ると、ついさきほどまでの激しいシャワーも上がり、マリーナ・ベイ・サンズの雄姿を間近に見上げた。もはや、仕事で来たことも忘れてしまいそうになりつつも、会場hwと足を進めていったのだった。
2013.07.02
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この日、千葉県鴨川市にある亀田総合病院(亀田メディカルセンター)を訪ねた。房総半島南部、太平洋に面したっ鴨川の地は東京からも特急で約2時間。お世辞にも交通の便がいいとは言えず、私にとっても初めて訪れる遠い場所。そんな場所にありながらも、日本で最も注目される人気病院の一つであることは、羽田空港とを結ぶ浜松町や東京駅からバスが1日に約20往復も運行されている事実からも推し量られようというもの。過去には、ANA国際線の機内プログラムでも院長のインタビューが放映されたりもして、私自身非常に感銘を受けていたので、偶然にも仕事という形で、その地を訪れることの幸運さに想いも通じたというところである。亀田総合病院でメディアに良く取り上げられるのが、リゾートホテル並みのロケーションとサービス。そこにあるのは病院の中という息苦しさではなく、日常の生活空間としての環境、開放感。特に、眼下に太平洋を見渡しながら、高級ステーキも頂けるという、タワー最上階にあるレストランは、是非とも目にしておきたいところ。というわけで、朝早い電車に乗り、約束の時間より2時間半以上も早く到着すると、院内を散策。そしてレストランへと向かった。 ・・・Kタワー(左下)13階レストランからの太平洋の眺望。頂いたのは、ばらちらし丼。明るく広い空間の院内は、絵画が目を和ませ、ショップに入るとアロマの香りがリラックスさせる。カフェやロビーに寛ぐと、ついそこが病院であることを忘れてしまうほど。そして南房総、海風も心地よく、目の前に太平洋が広がる景色もまた人気の秘密だろうか。しかし、それはほんの一部。日本で最初に電子カルテを導入し、国際標準JCI(Joint Commission International)の認証を日本で最初に取得したことでも有名だ。最もIT化が進んだ病院の一つと言えよう。そして、メディカル・ツーリズムで海外からの患者さんも受け入れ、外国人看護師さんも。。。そして、モットーは"Always Say Yes !”。この日、面会した病院の方の胸にもそのバッジを目にした。そんなことを思いながら、面会前の一時をレストランで過ごした私の眼下に、ドクターヘリが着陸。あまりにも滑らかな着陸に驚かされるが、待機していた救急者に運ばれるのにも、上からの視線に対して目隠しがされる配慮に頷かされる。そして速やかに、病棟へと運ばれると、ドクターヘリの翼が回転し始め、休む間もなく次の救急患者の下へと飛び立っていった。そんな所に、患者を救う現場の戦いを目にしたのである。ドクターヘリのポートに記された、"QUALITY OF LIFE"の文字が印象に残った。 と、ふと砂浜に目をやると、流木で記されたメッセージに目が留まる。凝らしてみると、そこには、”パパがんばれ!ママ”の文字。それは海に面した病室に向けてのメッセージ。この下の階には闘っている人がいる現実。ここが病院であることを強く意識した瞬間だった。この日、この景色が、一番目に焼き付いた。そういう多くの闘いを最高の技術とサービスでサポートしているんだな、と。。。いろいろな意味で、貴重な病院訪問の1日の記憶。ここに残しておきたい。
2013.07.01
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この日、ひょんなことでお世話になっている方よりチケットを頂いて、東京グローブ座に行くことになる。その劇場の名を耳にするのも、20年ぶりくらいで一瞬その場所がどこだったか考えてしまうのだが、新大久保駅近くのシェークスピア劇場だったことを思い出す。訪れるのは初めてだ。是非代わりに行って欲しいと言われたのも開演の3時間前。お茶の稽古を手早く切り上げると、家内と2人、一路劇場へ。演目も知らぬまま窓口を訪ねるのだが、劇場入りがギリギリになったことから、恥ずかしながら、そのタイトルを確認する間もなく、舞台のシーンへと飛び込んだのであったのだが、。。。。実に素晴らしい作品。気持ちがスッキリ、晴れやかな気持ちにさせられた。多忙な日々に一杯一杯になっていた私には、何と言おうか、暫く忘れていた楽しい気分のスイッチが入って、活力をもらったような、そんな感じだった。実にテンポのいいストーリー展開と、歌の入り方の絶妙さ。そして何と言っても出演者の歌唱力の素晴らしさ。また演奏が舞台袖のピアノとアコーデオンというのも、洗練された演出という感じで、実によかった。舞台と音楽と観客とが本当に一体になった、ジャパニーズ・コメディ・ミュージカル。鳴り止まぬカーテンコールが、それを物語っていたと思う。その舞台の名は、"シルバースプーンに映る月"、実に粋なタイトルだ。ブロードウェイのミュージカルなど、来日公演を含めた著名ミュージカルを見ることはあっても、純国産で舞台設定も日本というオリジナリティ溢れるミュージカルを見るのは、初めてだったかもしれない。こんなに心地良いものであろうとは、。。。そして、パンフレットに書かれていたのが、”日本人の、日本人による、日本人のためのミュージカルをお楽しみください”と。実にいい時間を頂いたことに感謝。そして、まだ見ぬ方にも是非見てほしい、そう思う。*. ちなみに、東京グローブ座の公演は6/30まで。大阪公演は7/3~6(サンケイホールブリーゼ)、とのこと。お急ぎあれ。。。
2013.06.22
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2013年3月1日、オーストリア・グラーツGraz郊外のUnterpremstaettenという街で朝を迎える。オーストリアを訪れるのは、2006年5月ににザルツブルグを訪れて以来、約7年ぶりのことだった。 前夜21時過ぎ、ニュルンベルクから車で約5時間かけてこの地に到着。夜のドライブは、オースリア・アルプスを全く目にすることなく、オーストリア奥深く入っていったのだが、到着したホテルは長旅の疲れもつい和む高原のロッジ風の建物。ホテルのレストランでドイツ人同僚2人とヴァイツエン・ビールで乾杯したが、そのビールの名もまた"Edelweiss(エーデルワイス)"。というわけで、つい仕事でその地を訪れたことも忘れそうになる。 そして朝、窓の外は深い霧。そして空気は冷たいが、それがまた高原の雰囲気を醸し出すのだが、その冷たさが顧客訪問を前に頭をギアチェンジさせてくれた。しかし、それがいとも簡単にリセットされる。というのも、カーナビに導かれて訪れた顧客のある場所は、森の中。そして門を入った細い道の先には、何とお城。それは映画『サウンド・オブ・ミュージック』にも見た、トラップファミリーの家を思わせるものだったからだ。 朝霧の静寂の中、まだ雪の残る池の周りには石像が立ち、多くの鴨たちがのんびりと朝の一時を過ごしていた。そんなのどかな光景に、この後の顧客との打合せへ向かう緊張感をリラックスさせてくれたのは疑いようもない事実であった。もっともこのお城の中に入ることはなく、隣接する新しい建物の方で顧客と席を共にしたのだが、上々の打合せをすることが出来、訪れた成果を感じることが出来たのも幸いである。さて、お城がホテルとして使われている例はいくらか聞くが、会社として使われていようとはサプライズ。しかし、かつてグラーツで仕事をした経験のあるドイツ人同僚にこの話をしたところ、その彼のグラーツ時代の会社もお城だったというから、また驚かされたものである。まさに、ところ変われば、。。。と言ったところだろうが、私にとってもいい思い出となった。
2013.03.30
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この3月初旬のドイツ出張でのプライベートな時間。シュツットガルトで週末を過ごしたのも、かつて同僚として共に仕事をしたフランス人との再会を果たすためであった。とは言え、実は昨年秋、東京で約2年ぶりに再会したばかりだったで、それから半年と経たずにその彼の住む町に行こうとは、当時予想だにしなかった巡り合わせである。というわけで3月最初の週末、シュツットガルトから電車に乗って約50分、ハイルブロンHeilbronnという町に降り立つ。駅で迎えてくれたその同僚、そして奥さんとは9年ぶりの再会、温かく迎えてくれた。まずは街を散策。この日、前日までの重い雲に覆われた天気が嘘のように、気持ちのよい青空に恵まれたのは幸運。その夫婦が言うにも、この冬一番の天気とのことで、春の気配を感じる陽気。天文時計が目にはいる市庁舎前のマルクト広場には、マーケットが立ち並び、新鮮な野菜や果物に、かつて2年を過ごしたパリの休日朝のマルシェの景色も蘇り、懐かしい気持ちになった。(下左:キリシアン教会の西の塔、下中:ドイツ騎士団聖堂、下右:市庁舎) ハイルブロンの街は緑と水に溢れた、落ち着いた地方都市。ネッカー川の中洲に建つInsel Hotel(この街一番のお勧めホテル)のレストランで一緒にランチをとった。この地方はワインの産地で、ビールよりもワインが好んで飲まれるとのことで、シーズン中、マルクト広場はオクトーバーフェストのワイン版で賑わうとか。というわけで、ランチのお供も当然ながらローカルのワイン、Lemberger Heilbronn。そしてローカルフードは、一見ラビオリ風で美味なもの、ご馳走になった。 (下:右上は郵便局) さて、その知人が住むのは、ハイルブロン郊外、車で10分と走らないところにあるフラインFreinという名の小さなヴィレッジ。そこはハイルブロンの街を臨むなだらかな斜面にあり、周囲にはワインヤードが広がる、ワインの一大産地。収穫の時期には、葡萄の香りが漂っていそうである。 次回は是非夫婦2人で来てくれと、見送られて後にしたハイルブロンの街。もしその機会が訪れるなら、是非、今度は収穫の時期に訪れたいものである。
2013.03.24
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ドイツ・シュツットガルトの街を歩いたのは、3月2日と3日の夕刻。中央駅から、ショッピング客で賑わうメインストリートのケーニヒ通りを歩き、教会や宮殿、美術館などの建造物にカメラを向け、。。。と限られた時間ではあったが、まだ紹介していない印象に残った場所を最後にアップしておこうと思う。ガイス通りとテプファー通りの交わる広場(下左)。その中央に佇むのは、Hans im Glueck fontain(幸運の噴水のハンス)という名の噴水?(下中)、その由縁は分からないが。。。そして、この辺りの夕刻の雰囲気は、まさに大人がグラスを傾けるに相応しい空気が漂う。ふと目に留まったバーの看板には、MATA HARI(下右)。かつてグレタ・ガルボやマレーネ・ディートリッヒも映画で演じた女性だ。 そして何度も異なるアングルから見上げては写真を撮ったのが、Stiftskirche。それはシュツットガルト・ヴァレイ(Valley)で一番最初の教会として7世紀に建てられた教会(現在の建物がいつのものかは不明)で、シュツットガルトのランドマーク。(下) まだまだ尽きないのだが、その一部を。ケーニヒ通りに面した教会、St.Eberhard Kirche(上左)、昼間にベンチに座ってゆっくりしたかった宮殿広場(上中)、旧宮殿の中庭(上右)、ライトアップが鮮やかなWilhelmspalais(下左)、芸術館のてっぺんにはシカ?(下中)、市庁舎(下右)。 そして最後にシュツットガルト中央駅。3月4日、フランクフルトに出発する直前に撮った写真(下)。シュツットガルト21という大規模な投資による新都心事業があり、それに反対するデモが起こったりしているという渦中の駅。もしその事業が実行されると、シュツットガルト駅のホームは現在のターミナル形式から、通過駅となりホームも地下に潜るという。 再び、このシュツットガルトを訪れる日が来るであろうか?そんなチャンスがあれば、今度は仕事を気にせず、ゆっくり時間を過ごしたいものである。今回、ゆっくりしようと思えば出来ないことも無かったのであるが、週明けの顧客訪問の準備がまだ不十分だったこともあり、早々にシュツットガルトを後にした私である。
2013.03.17
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先日、初めて訪れたドイツ・シュツットガルト。実は、私がその地の名を知るのは、今から19年前のこと。シュツットガルト・バレエ団の日本公演"ON YOUR TOES(オン・ユア・トーズ)"の舞台を見に行った1994年4月のことである。以前、ここにも記したことがあるが、それはブロードウェイ・ミュージカルの巨匠コンビ、ロレンツ・ハーツとリチャード・ロジャースの作詞作曲による、名作ミュージカル。そんなミュージカルをバレエ団が演出するところに不思議さを感じつつも、当時はバレエやタップやロシア(あるいはウクライナ)の踊りにと、。。。とは言え、その記憶は既にぼんやりしているのだが、とても楽しく印象的な舞台だったことだけは記憶している。というわけで、シュツットガルトを訪れると決まって、その地を訪れる日が漸く来たんだなあと思っていたのだが、手にしていたガイドブックにも、ホテルにある観光マップにもそれを認めることはなかったので、その存在を感じることもないのかなと思っていた。しかし、それはすぐ身近なところにあった。滞在2日目の夜、再び前日と同じように夜景の見納めに外に出ると、前夜池越しに見た州立劇場、その正面壁面にStuttgarter Ballettと垂れ幕がかかっているのが目に入る。そして、その建物の周囲に沿って歩き、舞台の案内を見て想いを馳せたのであった。 この日、劇場で舞台があったかというとおそらく無かったように思うのだが、そこがバレエ団の本拠地であり、19年ぶりにシュツットガルトバレエ団を身近に感じることが出来たのは、まさに偶然のサプライズであり、再会の喜びを噛みしめていたように思う。そして、今この記事を書きながら、昔のファイルを発掘し、日本公演当時のパンプをそしてチラシを、まさに19年ぶりに開いている私である。
2013.03.16
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