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「日本の国は誇れる国だ」といいたい人たちが好んで使う言葉。「自虐史観」ところがこれ程、自分の国を貶める言葉もないのでは?今日テレビをみていたら、『「自虐史観」という言葉を使う人は信じられない』という言葉を聞き、(法政大の田中優子教授?)まさにそうだと同感しました。この言葉には客観性、科学性が感じられません。誰から見ても、あーなるほど、と思えるような説得力がない。大の大人が大真面目にこの言葉を叫んでいるのを聞くと、まことに”誇り”高い姿には程遠い、ものを感じざるをえません。客観的な事実はどうだったのか?ということを知ること。「自虐史観」でものを考えること。この二つをわざと混同させることによって、事実と向き合うことを拒否できると考えているとしたら、それこそ恥ずかしいことではないでしょうか。。。誰が自虐的な歴史観を持ちたいものですか。そう名づけた人の品性を疑いたくなります。自分たちの品性のなさをさらけ出していることに気づかれない・・・本当に誇り高い見識の持ち主なら、事実は事実として認め、その上で、その反省の上にたって、事態をよい方向に(世界平和を構築する方向へ)どうしたら進むことができるか?を指し示すことができるのだと思います。自虐史観という恣意的なものさしで何か人を”ある方向へ引っ張っていこう”としているなら、それは人類共通の願いからはかけ離れていくであろうことを心配するものです。
2007年09月23日
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総裁選の報道を見ていると、まるで世間は自民党応援一色?・・・二人の候補の内からしか選べないのだけど(いやこれが3人でも4人でも)、どなたがなっても所詮、選ばれるのは自民党の総裁。←当たり前ですが、だけど・・・一般の国民はそっちのけで、投票権もないのに、だけどそれでもなお、思ってしまうのです。選択肢が”この”二つしかないのか~(庶民には選択肢いや選択権がないノデスガ・・)ほかの選挙でも、二大政党制をめざすということで選択肢が二つしかない状態が増えました。それでもどっちも大して変わらないもの同士の戦いだと興ざめです。それが同じ自民党の中の争いでは、もっと興ざめ、ではありませんか・・・と思っていたのですが。ところが、報道の様子を見る限りでは、演説会場は黒山のひとだかり。安倍さんがやめてくれたおかげで、自民党の支持層が戻った?かと思われるような熱狂ぶり、をみて、日本人って人がいいのか、忘れっぽいのか、それとも、安倍さんがやめるタイミングがよかったのか?と思ってしまったのでした。マスコミの報道はこれしかしょうがないのでしょうか?選択肢がない、ということは息苦しいということにつながるのですが・・・それを代弁してくれるような報道にはお目にかかれません。
2007年09月17日
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「テロとの戦い」という言葉がそれこそ、世界で一番有名に?なった感のあるキッカケになった、あの事件から6年。20世紀は「戦争の世紀」と言われました。21世紀はまさしく平和を構築する時代、その始まりにせねば、と思っていた矢先、にあの衝撃的な事件。あれでかなり大勢の方々の予定が狂った?カナ・・しかし、どういう”予定”だったのか?と考えますと、平和を求める道は実は変わっていない、のかもしれないですね。ただ、伝えられるメディアでは、テロとの戦いという言葉に対する反論があまり大々的になされていない、ように思われ・・為政者に無批判な世論を引き出そうとしているかに見受けられます。そもそも、テロとの戦いということそのものに反対しなくては、米国に従う道しかない、と思われます。テロとの戦いがすべてのテロとの戦い、ならいいのですが、米国の言うテロとの戦い、では、すでに米国の国家としてのテロは含まれていないのですから、特定のテロのことしか対象にしていない、わけで。テロとの戦い、を言うなら、すべてのテロを対象にしなければ一貫しません。国家の行うテロは正しく、個人あるいは国家でない組織のテロは正しくない、というのでは、テロを本当になくすことはできない、と思うのです。国家のテロもまた人民の敵である、というところまで行ったとき、人々は本当に平和について語れるのだと・・・・思わずにはいられません。テロとの戦いそれは国家のテロに対しても反対していくこと、それなくして語られる言葉は、米国のような、世界の富を吸収してひとりむさぼっているような国家のあり方を永遠に認めることになる、のではないでしょうか?テロとの戦い、それは米国やそれに追随する勢力から語られる場合、真実の戦いから遠ざかるばかり、真の平和から遠ざかるばかり、と思います。世界中から貧困層やそれに対応する富裕層を両方ともなくしていかなくては・・・真の平和も来ない、と思います。(とまた結論はここに♪)
2007年09月11日
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「高校生が電車内で、おもちゃの拳銃を乗客に向けて遊んでいた」のを「注意した巡査長が平手打ちをして逮捕された」というニュースの取り上げ方について、気になっていることがあります。時間が経って、このニュースは事実関係に違いがあることがわかり、県警も二度目の記者会見をして訂正したというのですが。。。訂正の内容はおもちゃの拳銃を向けられた乗客はいなかった、とか注意したのは車掌で、高校生はその注意に素直に従ってしまっていた、とか巡査長は注意もしないでいきなり暴力に及んだとか・・・随分話の趣が変わってくるな~ということはおいておいても、このニュースに関連して、「道徳教育の必要性」を説いていた方々は、そういうことなら、この件に関しては適切なコメントではなかった、と訂正したのでしょうか?ということでして。。。ことあるごとに、「道徳教育」の必要性という言葉がはびこり、それが気になって仕方がない、のです。何か事があれば、「道徳がなっていないから、教育しなきゃ」、と言いさえすれば、大人はそれでいいとでも思っているのでしょうか?道徳教育といってれば何か正しいことを言ってるように思っていませんか?道徳教育ってそんなにいいものなのかどうか、考えてみる”必要”がありそうです。そもそも、子供が健全に育つために、道徳教育なんか”必要”ないのでは?その必要があるのは、どちらかと言えば、この巡査長のような方の方ではないでしょうか。子供より前に、まず、政治家や、高級官僚、企業の偉いさんのような方々にこそ、道徳教育がなされるべきではないのか、と思います。これだけ、非道徳的な社会を創った張本人たちが責任をとらないで、どう子供たちに道徳を教えるというのでしょうか?コメントの訂正がもしなされていたなら申し訳ございませんm(__)m。
2007年09月07日
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NHKの『クローズアップ現代』で「キレル大人」をとりあげていましてその中で、歩道を歩いていて後ろから自転車のベルを鳴らされ、カチンと切れた女性の話が出てきました。しかし、この場合、あの程度なら切れてもおかしくないのでは?と思ったのです。歩道を自転車に乗って走ってはいけない、はず。自転車は車道と決まっているはずですよね?・・・歩道を通りたいなら、自転車は下りて、押して歩かなくてはいけません。ところが、通常見かけるのはその逆です。歩道を走っている自転車の方が車道を走る自転車より多い、というか・・・自転車が車道を走っていると、車が威嚇している感じで追いかけてきて(そう感じるのです)、とてもそのまま車道を走り続けるなんてできなくて、サーっと歩道に逃げ込む姿をよく見かけます。つまり落ち着いて走れるのは車道でなく、歩道の方というわけです。住まいの近くでは交通量はとても多いのに、車道も歩道も狭いところばかり、といった環境なので、自転車は本当に居所がありません。車が怖いので、自転車は必然的に歩道に追いやられ、歩道で走る結果になっているようです。その歩道を自転車を下りて歩いている人は見た事がない、といっていいくらいです。隣の市まで自転車で行ったとき、どうしても車道を走る事ができず、歩道を使わずにはいられませんでした。実はほとんど歩道を押して歩いたり乗ったりしましたm(__)m。。車道を走ることは、昔、まだ上手く乗れない頃、府中街道を50CCのバイクで川崎の方まで行った事がありますが、そのとき以上に怖いものがあります。歩道は乗ってはいけない、と決まっていても、車道がこんな有様では乗らざるをえない、というのが現実だと思います。車道を走るのは命がけ、というしかない状況では・・・そこで、ベルですが、自転車のベルは、余程でなければ鳴らさない方がいい、と思います。すみません、と声をかけるか、しばらく下りて歩いて潮時を待つか、どちらかしかないだろう、と。テレビで取り上げられていた方は、気配を察して極力歩道の脇へ寄っていたのに鳴らされ、それでプツンと”キレタ”とのことでしたが、その気持よくわかります。相手のことをホンの少し考えてみる、だけで、あ~よけてくれているんだな、とか、悪いな~とか思えば、まず、ベルをならすなどという行動には出られないのでは?なんて考えて見ました。(もちろん、自転車は歩道では乗ってはいけないのだから、この場合、そうでなくてもベルを鳴らすのはとんでもないことだ、ということは大前提なのですが・・・)自転車に走りやすい道を下さい!!!と叫びたい思いです・・・・
2007年09月03日
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