全1648件 (1648件中 1-50件目)
きょうはネラン集落のチャペルでのミサ当番。ミサの説教では、2週間前にローマ教皇が東ティモールを訪問した際に、フランシスコ教皇が大統領府で大統領、総理大臣、各省大臣や政府高官にむかって話された講話の内容を紹介しました。その後は、ゆっくりと1日中在宅勤務。 ↑ ミサがおわってから、お母さんと一緒に帰る子どもたち 4人乗り、ノーヘルメットもOKです ↑ こちらもミサがおわって寮にかえる聖イグナイト学院の生徒と聖ジョアン・デ・ブリトー教育大学の学生たち シスターたちが寮をやっていて、そこにすんでいる生徒と学生たちです 小型トラックの荷台に鈴なり、これもOKです ↑ 家に帰ってくると、ヒヨコたちがが孵っていました
2024/09/22
きのうのおサルさんのいる東ティモール・ディリ市のタイベシ市場のつづきです。市場の写真を撮っていると、「よう、よう、こっちも」と声がかかります。 ↑ 唐辛子屋さん こちらでは「マナス」(熱い)といって、よく使います ↑ 市場の中は、こんなかんじ ↑ おさかなやさんで写真を撮らせてもらうと、「おい、こっちも」 ↑ お肉屋さんで写真を撮らせてもらうと、「おいおい、こっちも撮ってよ」
2024/09/18
きょうはディリ市内のある、タイベシ市場をご紹介します。この市場、はじめは市街地にありましたが、ラハネという場所に移転になりました。わたしがはじめて東ティモールを訪問した2006年には。市場はまだ市街地にありました。いまそこは、コンベンションセンターになっています。さらにラハネから、タイベシに移されました。この市場だけではなく、東ティモールでは市街地にある市場は街の周辺部へ移動させられています。 ↑ 乾物屋さん ↑ こんなところをすすんでゆくと ↑ ここにもいるジャン、おサルさん ↑ 「なんだよ、なんだよ、だれだよ、おまえ」とおサルがいっています ↑ 家のお父さんがでてきて、「こんなんやって、抱けるんだよ おまえも抱いてみるかい」 ↑ 東ティモールでは、おサルさんを抱くこともできます お母さんがでてきて、「欲しければあげるから、連れて帰ってもいいよ」といいましたが、丁重にお断りしました 「また、おサルさんに会いにきます」 ↑ そして本命の公設市場にたどり着きます この区域は、政府が正式に市場として管理しているところです 市場は長距離バスの発着所をかねています
2024/09/17
さて教皇様の東ティモール訪問中、わたしは首都ディリ市に宿泊していたことはもうなんどもブログでおしらせしました。そのあいだ、昼ご飯も街にでかけて旅行気分でレストランにいっていました。 ↑ 13年前に東ティモールに赴任したときよくでかけていた中華料理屋さん なまえは88 香港麺を食べておいしかったので、翌日もういちどでかけこんどは、ワンタン麺 これがとてもおいしかったのです じつはある時期からあまりおいしくなくなり、このレストランからは遠ざかっていました 中華料理屋さんのコックさんが替わると、味もかわってしまうのです しかしながら、これで11米ドル(1500円)、わたしの日給が16米ドルなので、頻繁にはでかけるのはちょっと無理
2024/09/16
教皇フランシスコの東ティモール訪問中、大規模な交通規制がかかるためにわたしはディリ市に泊まっていました。東ティモールは予告なしに突然、いろんなところが通行止めになったります。とくにこんかいは県境も封鎖されるとのこてで、リキサ県に住んでいるわたしはディリ市に早めにでかけていました。東ティモールに赴任した最初の1年間はディリ市に住んでいましたが、それからの12年間は聖イグナチオ学院があるリキサ県ウルメラ村カサイ集落に住み続けています。なのでこんかいのディリ宿泊中は旅行気分で、街中を歩きまわりました。 ↑ 朝ごはんもでかけてじぶんでパンを買ってきてたべました このパン屋さん、ひっきりなしにお客さんがやってきて買って帰ります ↑ 東ティモールはかつてポルトガルの植民地 ひとびとのなかに、パンを食べる習慣が根付いています ショーケースだけではなく、パンがどっさり準備されています そして日中も頻繁に販売されるパンが補充されてゆきますが、はしから売れてゆきます ↑ わたしは3つ買いましたが110円ぐらいでした とてもおいしかったので翌日もでかけてゆきましたが、目当てのパンはもう売り切れていました ↑ こんなパン屋さんです 「あさは何時から開店ですか」ときくと、「5時から」とのことでした
2024/09/15
おとついは9月10日(火)におこなわれた、ディリ市・タシトル海岸での教皇ミサについてご報告しました。おとついの政府当局発表で60万人の人びとがそのミサに参加したとお知らせしましたが、直近の報道では15万人の人びとがミサに参加したとされています。おそらく20万人から30万人ぐらいが参加したのではないかと思います。また多くの人びとが、ミサ会場の広場に入場できなかったと報道されています。3日間の教皇様の訪問中に沿道で歓迎した人びとを数えると、60万人くらいには確実になるでしょう。政府は当初、人出は75万人と予測していたとのこと。 ↑ ミサのはじまるまえの9月10日の午前中、イエズス会東ティモールミッションの40名はバチカン大使館で教皇様との懇談会に招かれました 大使館前でモンセラット修道院のメンバーがそろっての記念写真 ディリ最古のモタエル教会のとなりが、バチカン大使館です ↑ しばらく門の外で待ったのち、館内に招かれました 在ディリのバチカン大使館 ↑ こんな部屋で教皇様にお会いし、会話をしました 教皇様が座る椅子が用意されています ↑ イエズス会員の代表が、代わるがわる教皇様に質問すると丁寧に答えられました 87歳ですが、イエズス会員からのいわゆる神学的質問に頭脳明晰にお答えになられました ↑ 最後に一人ひとりと握手して、祝福をしてくださいました 教皇様のこんかいのアジア・オセアニアへの旅行はViagen Apostolica(使徒的旅行)といわれますが、それは聖パウロが小アジアのトルコやギリシャの諸都市を訪ねて回り、信徒たちを励ました旅行とおなじ意味があります すなわちこんかいの教皇様の訪問で東ティモールの人びとは信仰を鼓舞され将来どんな国づくりをしてゆくか国民共同体としての希望がもてるようになりました フランシスコ教皇は政府高官たちとの会合で、「インドネシアとの熾烈な戦いの後に独立を勝ち取りましたが、いまはインドネシアをはじめ、国内で内戦をしていた者同士が和解しようとしています。このことは、世界の他の紛争地区でも争いの後たがいに和解しあえることを東ティモールのみなさんは証しています」とはなされました
2024/09/12
きのう(9月10日)、東ティモールのディリ市の西、タシトル海岸の公園で教皇フランシスコによるミサがおこなわれました。政府発表で60万人の人びとが教皇様のミサに参加しました。東ティモールは総人口は135万人くらいで、岩手県ぐらいの面積の南洋の島国です。 ↑ 同僚のルイス神父さんが、教皇ミサ当日早朝6時にタシトルでミサをする役目があると前日の夕食時に話しかけてきました 「URA神父さん、規制区域内での車両運転許可書(自由通行証)を持ってるんでしょ、あしたのあさ5時半前にくるのでタシトル海岸まで連れていって」といってきました すでに9月9日からディリ市内は大規模な交通規制がかかっていました タシトル海岸には5~6キロ手前に規制線があり、警察官が車両を止めます しかしわたしの車には、「規制除外車」のステッカーが貼ってあり、自由通行許可書も持っています 教皇ミサは夕方4時からですが、早朝6時前にはもう大勢の人びとが歩いて海岸までやってきていました ↑ ルイス神父さんがミサが終わるまで、車を停めて信者さんたちと話をしながらまっていました ↑ イエズス会のディリ市の修道院に東ティモール全体のイエズス会員が集合して、車に分乗して会場に向かいます 聖イグナチオ学院にやってくるスクールバス1台とわたしが運転するトヨタ・ハイエースが自由通行許可書をもっています イエズス会員全員が揃ったので、記念写真 ↑ 炎天下、朝から人びとは午後4時開始のミサをまっていました 東ティモール政府がバチカンの国旗とおなじ黄色と白の傘を配布しました ↑ 午後4時半まえ、ミサがはじまりました 「子どもたちと若者がおおいことは、なんと素晴らしいことでしょう それはおおきな賜物です 人びとに子どもをたちをよく世話するように、子どもたちの場をのこしておくように」と語りました つづけて、「みなさんは神のまえにとるにたらない、小さい者だと恐れる必要はありません」 ↑ ミサの最後にディリ大司教区の教区長ビジリオ・シルバ枢機卿様が挨拶をしました インドネシア占領下の1989年教皇ヨハネ・パウロ2世がおなじ場所、タシトルでミサをしました その時はわたしたち東ティモールの人びとにとって歴史的な瞬間でした そのとき、ミサに与ったわたしたちは独立するという確信を確かにしました そしてまたきょうもわたしたち東ティモールの人びとにとって歴史的瞬間となりました フランシスコ教皇のこのミサで、わたしたちは国づくりをさらに進め、わたしたちのアイデンティティと文化を確かにしてゆくという確かな基盤をわたしたちは共有することができたからです」「教皇様がここまできてくださったのは、素朴で、貧しく、謙遜で、辺境に生きているわたしたちが神様に選ばれているというしるしです そんなわたしたちに教皇様は隣人のように、憐れみのまなざしを向け、愛し、ほとんど世界から忘れ去られているようなこの国に注意をむけてくださいました あなたは父のみ旨をもったわたしたちのリーダーです」 ↑ 最後の祝福が終わったのち 教皇様は聖母マリア像のまえで祈りました ↑ 閉祭後、人びとは教皇フランシスコが会場から去ってゆかれるのを待っています 待っているうちにしだいに暗くなり、スマートフォンの懐中電灯をペンライトにして振りながら教皇様を見送りました ↑ わたしもミサに参加した神父さんたちと記念写真 ↑ 暗くなったころ、人びとは帰途につきます おおくの人びとは10キロ以上歩いてやってきました ディリ市内でも20キロ以上はなれているところからやってきた人びともいますが、みな「kontennte、konntennte、diak、diak」(満足した、満足だった、よかったな、よかったよな)といいなかがら歩いてかえります
2024/09/11
きょうは教皇フランシスコが、東ティモールにやってくる日。予定では午後2時、パプアニューギニアからの飛行機がディリの空港に着くはずです。空港から宿泊先のバチカン大使館までの7~8㎞の沿道は、歓迎の人びとで埋め尽くされました。わたしも1時間かけて歩いて沿道まで行き、3時間待って、一瞬のうちに目のまえを通り過ぎていった教皇様をみて、また1時間かけて歩いて戻ってきました。 ↑ 教皇様の通過を待つ人びと 空港からは大通りですが、バチカン大使館付近になると住宅街のなかをとおってゆきます 教皇様を歓迎するために、おおくのひとは3~4時間沿道でまっています わたしも3時間待ちました ↑ またしてきょうも取材の失敗 デジタルカメラを連写モードにするのを忘れてしまいました 肉眼ではオープンカーに乗っている教皇様をみましたが、カメラで撮影することはできませんでした ↑ 3時間もいると、一緒に待っている人びととなんやかんや話をして、友だちになります わたしのところには若いカップルがいで、子どもたちをつれてやってきました ↑ 下の写真に写っている男性が、上の写真の4人の子どもと女性のお父さんであり旦那さんです ↑ 赤道直下にちかい南洋のお昼時、炎天下、何時間もまって、一瞬だけ教皇様をみることができましたが、みんな「Kontente、kontennte」(満足した、満足だった)といいながら帰ってゆきました お父さんと、お母さんが喜んでいるので、子どもたちも喜んではしゃいでいました 教皇訪問中、幹線道路通行止めになります ↑ 午後5時、お昼ご飯をたべていなかったので、ディリに住んでいたときにでかけていた、きのうとは別の中華料理屋さんにでかけてとても遅い昼ご飯をたべました 香港麺です これで、日本円で1500円ぐらいです あすは、タシトル海岸で、教皇ミサがあります
2024/09/09
きのうは取材した写真をコンピューターにコピーしそこないました。きょうはディリ市最大のタイベシ市場のようすをお伝えする予定でしたが、お昼ご飯を食べに市街地まで徒歩で往復2時間かけて帰ってくると、疲れてしまってゆうがた市場にでかけることができませんでした。その代り市街地を歩いたので、市内にある建物を撮影しました。ポルトガル時代やインドネシア時代の古い建物をリニューアルしながらつかっています。 ↑ これが人口130万人の東ティモールの首都ディリ市(人口20万人ぐらい)市街地の建物のようすです あすの教皇到着にむけてすでにディリ市内は交通規制がかかっていて、きょうは交通量がすくななっています ↑ 建物の写真を撮っていると、とうぜん「俺たちの写真は、要らないの?」と声がかかってきます ↑ きょうのお昼ご飯 チャーハンとコカ・コーラ しめて8米ドル 1,100円ぐらいです このお店、わたしが13年まえに東ティモールに赴任したときによくでかけて、おなじものをたべていました 13年前に東ティモール赴任時、1年間だけディリ市内に住んでいました そしてリキサ県ウルメラ村カサイ集落に引っ越しました ↑ 修道院は満室なので、Centro Juvenilが準備されました ドミトリーですが、わたし一人だけが泊まっています 12年ぶりにディリ市内に宿泊していて、なおかつ修道院でない宿泊施設なので、そしてまいにち歩き回っているので、旅行気分です
2024/09/08
ローマ教皇フランシスコの東ティモール訪問をひかえ、きょうからわたしはディリ入り。Centoro Juvenil(青年センター)に宿泊。近所に、東ティモールの首都で一番大きいタイベシ市場があるので、でかけて2時間近く取材をしました。写真をたくさん撮ったので、きょうは「大特集号」だ!とおもっていましたが、カメラからコンピューターに写真をコピーする際に、うっかり削除してしましました。嘘ではありません、信じてください! ↑ でもこの1枚だけが、なぜかカメラのなかに残っていました さいきんディリ市内には高級志向のスーパーマーケットが続々開店していますが、東ティモールの庶民はこんなところで買い物をします あす、もう一度取材できればとおもいます
2024/09/07
らいしゅうの月曜日から水曜日までの2泊3日で、ローマから教皇フランシスコが東ティモールにやってきます。公称99%がカトリック信者の国。なりふり構わない、歓迎準備が続いています。 ↑ 野外ミサがおこなわれる予定の、タシトル海岸の公園付近 バチカンの国旗と東ティモールの国旗が掲揚されています ↑ 街中のいたるところには、こんな歓迎の横断幕が ↑ 電柱や街路樹にも旗が ↑ ここは野外ミサがおこなわれるタシトルの海岸線道路 まるで、デンパサールのようになりました ↑ この歓迎の横断幕をみたとたん走馬灯のように高校世界史で習ったことをおもいだしました 長辺を下にした二等辺三角形頂点に教皇様 そのしたに3人の東ティモールの司教様 中央はディリの大司教で枢機卿様 右側はマリアナ教区長、左はバウカウ教区長 3人の司教様を挟んで、右がホセ・ラモス大統領 左がシャナナ総理大臣ーーー 教皇イノセンティウス3世、叙任権闘争、カノッサの屈辱、そして教皇のアヴィニヨン幽閉、教皇勅書Unamu Sanctum、ガリカリズム、英国国教会の独立、95箇条の提題、30年戦争 東ティモールはカトリック教会との政教一致の国です ナポレオンが結んだのとおなじ、コンコルダートを東ティモール政府は2018年にバチカンと締結しました ↑ わたしも歓迎準備 きのうの夕ご飯のとき、「野外ミサ参加許可証」をディリ市のバリデ教会にゆくと、もれなくタダで教皇フランシスコ歓迎Tシャツがもらえる、とききました なので、きょうの夕方わざわざ、ディリ市のバリデ教会までTシャツをもらいにでかけました そのときの記念写真 係たちも、みなノリノリ ↑ 困ってしまった歓迎準備は、幹線道路を昼間から閉鎖しての道路や歩道の高圧洗浄掃除 大渋滞にまきこまれ、いつもの2倍以上の時間がかかりました
2024/09/05
せんげつの話になりますが、8月12日に「東ティモールからのニュースレター24号」を発送しました。常夏の国からの「夏号」です。いつも1か月ぐらいで日本のみなさまのお手元に届くので、もう1週間ぐらいではないかとおもいます。 ↑ こんかいは男性の局員さんも加勢にきました 左の女性局員さんは、もうおなじみ 13年前のニュースレター第1号から取り扱ってくれています ↑ 女性局員さんがポンポンポンとスタンプを押しているのは、これ! 消印ではありません 切手のかわりのスタンプです Timor-Leste Taxa Paga(東ティモール、郵便料金支払い済み)とあります あまりにも簡単なので偽造できそうですが、東ティモールには郵便制度がなくて、ココだけしか郵便局がないので心配いりません みなさまのお手元に届く、こんかいのニュースレターにはこのハンコがつかれています ↑ 郵便制度がない国の唯一の郵便局のロビーのようす 発送手続きに1時間以上かかりました 長椅子に座って待っていましたが、1時間以上のあいだにだれも他のお客さんがきませんでした 郵便制度がないのであたりまえですね 昨年から、郵便料金8%引きにしてくれるようになりました 割引額はだいたい8ドルぐらいですがわたしの日給の50%なので、現地人にしてみれば、結構な割引額です 「得したぞ、一杯飲みに行こうか!」といえるぐらいの額かな
2024/09/02
きょうはきのうのお山の会議のようすをお伝えします。おサルさんも参加した、自然のなかの会議。きのうは家に帰ってくるのが遅くなり、ワニ通信は休刊させていただきました。お山の会議は、バザールテテ教会の信徒会館建設の資金集めが議題。最後まで参加しようかどうかと迷っていましたが、参加することにしました。案内書には8時半開始とあります。念のため教会のニコ神父さんに問い合わせると、9時からとのこと。学校で会計室の仕事をしてからでかけたのは9時まえ。現地に到着したのは9時40分。しかし、まだ会議は始まっていませんでした。 ↑ 立って話をしているのは、リキサ県知事さん 右隣りは主任司祭のニコ神父さん 左隣はバザールテテ郡郡長さん 一番左は、建設委員会委員長さん 信徒会館建設資金集め会議に、県知事さんも出席します ↑ 山深いバザールテテ村の教会の会議のようす ↑ つづいて建設会社からの建築概要の説明 2年から3年で建設を完了したいとの大建築構想が発表されました ↑ 一通りひな壇上の要人が挨拶をしたら、本命の資金集めです 各村にあるチャペルのカテキスタが、自分のチャペルの信徒から集めて建設協力金を県知事、郡長、そして主任司祭のまえで金額を発表し、会議参加者全員がみているその場で会計係のシスターに手渡します ↑ 現金を持ってきていない地区代表者いて、「次の集まりのときにはもってきます」といいます 他の参加者も「なんだよ、おれの所と同じか」という感じでみています とうぜん、イエズス会カサイ修道院は、寄付金を持ってゆきませんでした、というか、こういうことになるとはおもっていませんでした ↑ ウルメラ村のネラン集落のカテキスタは、きちんと集めたお金をシスターに手渡していました ↑ さいごにその日に集まった建設資金の総額が発表されました なんと7千ドル以上! 主任司祭のニコ神父さんから県知事に信徒会館設計図が手渡さます 東ティモールは政教一致の国なので、まずは信徒が資金集めをして、それから司教区から補助金もでます 最後に、政府からも補助金がでるので、県知事さんがこんな会議にやってくるのです ↑ 会議がおわりおサルさんに挨拶にゆくと、わたしの手を両手でしっかり握って、「きょうは、ようきた、ようきた、遠いところありがとうな、お土産はあるのか」といって、「えっ、ないのか」といって放してくれません 会議に参加していた山のおじいさんがやってきて、「むかし神様ははじめはこんなおサルさんをつくって、そしておれたちのように人になったんだ」と教えてくれました 「えっ、サルが欲しい?」「こんなの、あの山にいっぱいいるぞ」 ↑ サルのブロマイド写真を撮ろうとしましたが、サルは落ち着きがなくて、なかなかいい写真が撮れませんでした 東ティモールではこんな感じで、おサルさんとも触れ合う生活ができます ↑ 炊事場にはアヒルさんたちもいて、床に捨てられた食材をたべていました
2024/09/01
きょうは東ティモールのインドネシアからの独立を問う住民投票記念日で、国民の祭日です。1999年8月30日、インドネシアとポルトガルの承認のもと、国連が監視するなか、東ティモールの人びとによる独立を問う住民投票がおこなわれた日です。地元の公立小学校では、午前9時、国旗掲揚をしていました。住民投票記念日の過去のブログをご覧ください。独立を問う直接住民投票の記念日 | Tropical East Timor ワニ通信 東ティモール - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) ↑ 午前4時の三日月 もう3日間、水道に水が来ていません 井戸からポンプでくみ上げるのですが、高台に家があるためポンプの力が弱くなり水があがってこないのです 原因は供給されている電気の電圧が低くなっていることと、電柱からポンプまでの配線がつぎはぎだらけでさらに電圧が落ちているとおもわれます これまでも度々同じ原因で断水してきたのですが、こんかいは長引いています 夜中に起きて蛇口をひねると、水がでることがあります 夜中は人びとが電気を使わないので電圧が戻り、井戸水をくみ上げるポンプが動き出すのです ↑ 午後6時半の日没 こうやって1日がすぎてゆきました
2024/08/30
このヤシの木のでは、お酒を採っているところをときどきみかけます。木の先端にポリ容器を結び付けるとその中に樹液のような汁がでてきて、それをそのまま飲むことができます。いちどだけ飲んだことがありますが、甘酸っぱくて、すこし発酵しているかんじです。 ↑ かなり高いところにのぼっての収穫作業 ↑ 下からポリ容器を引っ張り上げます ↑ 写真を撮っているのをみて、この女の子は写りこんできました ごく小さいときからおなじところに住んでいてしっていますが、大きくなりました ↑ 吊り下げられてきた赤いポリ容器に、お酒がはいっています アルコールはそれほど強くないので、よく業務車の運転手さんたちが道端に車を止めて、このお酒をのんでいます あるいは子どもがお父さんにいいつけられたのでしょうか、ペットボトルに入れられたお酒を買いにくるのをみかけます
2024/08/29
きょうの朝、魚やカニがぶら下がっていました。海辺で獲れた海産物。こんな感じで、魚が獲れた日には気にぶらさげて売っています。すると、バイクや車が停まって、買ってゆきます。 ↑ 大きなカニもいました カニはまだ生きていて、ガサガサ、ガサガサと動いていました 海辺の集落なので、新鮮なお魚が食べられます ↑ ときには近所の子どもが走ってきて、魚をかってゆきます お値段は結構高いので、「漁師さんは儲かるな」というと、「まいにち魚が獲れるわけではないので、とても儲かるわけではない」といわれました
2024/08/28
きょうの日曜日は、ひさしぶりにウルメラ村のチャペルのミサ当番。夕方も信者さんに山にあるお墓の祝別をたのまれて、でかけました。きょうの写真は、その帰り道。 ↑ 帰り道 集落の村道です 日没もちかく、これから涼しくなるころです ↑ ネラン集落のチャペルの横 牛が草を食んでいました けさのミサ後、村道もチャペルのまえも人びとがたくさんいましたが、日曜日の終わりごろはひっそりとしています
2024/08/25
まいにち一瞬のだけ、こんな黄金のひとときが過ぎてゆきます。下の写真のは、わたしの家のすぐ下の海辺の眺めです。きのうのゆうがた、ちょうどこんな時に、海辺をとおりすぎました。 ↑ 村人たちは晩のおかずをさがしに、海にはいってゆきます 早朝や夕方、引き潮になったとき、この集落に住んでいる限り、ずっとおなじことを繰り返しながら生活を続けている人びとがたくさんいます
2024/08/22
きのうの放課後、校長のカリスト神父さんが「あしたは、休み」といいました。突然のことで、1日ぽっかりと休みになりました。在宅勤務も計画していなかったので、きょうは本を読みました。きょうはTorelancia(寛容の休日)だそうで、なんの休日かわかりません。カレンダーをみても、たしかにきょうは休日ではありません。しかし、教育省のカレンダーでは、きょうは赤丸日。すなわち学校はおやすみです。 ↑ 昨晩からけさにかけては、満月 うえの写真は昨晩午後7時過ぎのものです ↑ これはけさ4時ごろの満月 まいあさ4時ごろに起きて、コーヒーを淹れて飲むのがわたしの日課 クーラーもないので、早朝の涼しい時刻が、ほっとします ↑ これもけさ6時過ぎの満月 村の幹線道路(国道2号線、インドネシア領西ティモールとの国境に繋がっています、2時間弱でインドネシアとの陸路国境です) 寛容の休日は雇用者の判断によって休日にできる日なので、おおくの人びとは通常通りの出勤です 車やバイクがディリ市に向かっているのがわかります ↑ 2日まえに日曜日には南洋の花をブログで紹介しましたが、きょうはわたしの家の庭にある南洋の植物をご紹介します いわゆる「熱帯の観葉植物」系です みんな元気よく茂っています
2024/08/20
けさ、あるいて学校に出勤していると、新しい看板が掲げられているのをみつけました。「ウミガメ救援センター」。わたしの家から一番近い海辺の集落です。隣村のカイテフ集落の海岸には、ウミガメがたくさんやってくる、と聞きました。 ↑ どこかの団体が援助して、設立したのでしょうか こんど「ウミガメ救援センター」をみにゆこうと思います ↑ だけれども、以前、おなじ集落でウミガメの卵を売っているのをみかけました ワニ通信でお伝えしたので、下記からその当時の記事をご覧くださいこれは、大潮で、満月の朝だけに現れる伝説のウミガメの卵の販売所、か! | Tropical East Timor ワニ通信 東ティモール - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) ↑ ウミガメもいますが、こんな看板も集落にいます 「ワニに注意!、ワニがアタックしてくるぞ!」 つい先月も、「海辺でワニに足を噛まれたといって、人がクリニックに運び込まれた」ということをききました ↑ この写真は、わたし自身が撮影した海ワニです ほんとうにこんなのが、岸辺にいるのです
2024/08/17
きょうは昼ご飯まで、きのうの会議の続き。午後からは、学校に出勤して6時過ぎに退勤しました。あっというまに日にちが過ぎてゆきますが、おなじような日没もまいにちみています。 ↑ 8月9日の日没 インドネシア領アウロ島の島影に沈んでゆきます ↑ 8月14日の日没 無風のときは、海がオレンジに染まります ↑ そしてきょうの日没 こんな夕陽をみると、きょうも一日おわったな、と感じます こんな太陽ばかり掲載するのは、代わり映えのない生活をしているあかしのようです
2024/08/16
きょうは8月15日、終戦記念日。日本に占領されていた東南アジア諸国にとっては、解放記念日。日本軍は東ティモールを3年半、占領しました。わたしの村にも日本軍が駐屯したといわれる場所がありますし、当時日本軍に協力したとして戦後捕まった人がいるということをきいたことがあります。従軍慰安婦の問題もあったようです。村の責任者が「15歳ぐらいの女の子を連れてこい」といわれた、というはなしを聴いたことがあります。軍隊が駐屯すると食料を供出しなければならないので、村人は飢えてしまいます。「この人のお父さんは、日本人だ」ということも聴いたことがあります。他のアジアの国の人から、「国連軍がきても、子どもがうまれるんだ」ということを聴いたこともあります。きょうは戦争がなくならなければならないと、祈る日でもあります。日本では、きょうはお盆。カトリック教国では、きょうは「聖母マリアの被昇天」の祭日。「聖母マリア様はこの世での人生を終わられて、天に昇られた」という、第2次世界大戦後に宣言された一番新しい教義です。そんな日に、イエズス会・東ティモールミッションは、Apostolic Planning 2025 --- 2030(宣教計画2025年~2030年)を決定する会議をおこないました。 ↑ イエズス会の各ミッションが、じぶんたちの2025年~2030年のミッション計画を張り出しています 他のグループの人びとがそれをみています ↑ それから、かくミッショングループがそれらについて発表をします ↑ お昼ご飯 きょうの記念写真 わたしの左は、ベトナム人のドミンゴス神父さん 9日まえに宣教師として東亭xモールへやってきたばかりです なのにもうテトゥン語を話しはじめています 右側は、去年神父になった、東ティモール人の、おなじくドミンゴス神父さん 13年まえ、わたしが東ティモールにきたばかりの頃、かれはまだ志願者ででしたが、いまは神父さんになってしまいました 「URA神父さんも、ベトナムからきた神父さんみたいに、昔はテトゥン語を習っていましたねぇ」といいました つづけて、「その頃、ぼくは、まだイエズス会に入っていませんでした」とはなしました
2024/08/15
ローマ教皇様東ティモールご来訪に備えて、黒いスーツの新調。まさか東ティモールで黒いスーツが必要だとおもいませんでしたし、仕立ててもらうことも考えていませんでした。とうぜん、こんな暑いところでは用品店で既製品の黒いスーツを売っているわけでもありません。 ↑ わたしのスーツを縫ってくれたのは、このインド人のお兄さん わたしのスーツを若者向けデザインで仕立てました ということは細身で、現時点でピッタリというかんじ ということはこれ以上は太ることができません 「ズボンのすそがもう少し長い方がいいので、直してくれ」 「なんだよ、これくらいが、ちょうどイインダヨ」といいます 「いやいや、これじゃダメ」というと 「そこで待ってくれ、いま直スヨ」といって、30分ぐらいで裾の長さをなおしました ↑ お兄さんと記念写真を撮っていると、横で見ていて、「わたしたちも」といって縫子さんたちも全員集合 しゃがんでいるのは、インド人の女性 みんなあちこちに腰かけて、ミシンのまえに座っていました 警察官の制服なんかを仕立てていました
2024/08/12
きょうは日曜日でしたが、わたしのミサ当番はありませんでした。その代わり、きのうの土曜日が当番。あさお祈りをして修道院のチャペルでミサをすると、あとはゆっくりと一日中在宅勤務でした。予定していた仕事もほぼ終わり、日没を迎えました。きょう掲載する写真は、きのうの夕方撮影したものです。 ↑ 学校のからの帰り道 こんな浜辺を眺めながらかえってきます 人びとは海のそばにすんでいて、海が生活のなかにとけこんでます ↑ 向こうに見える大きな島影は、インドネシア領アウロ島 きのうは近くにみえました インドネシア統治時代は同じ国内として自由に往き来できましたが、東ティモール独立後はそれが途絶えてしまいました ↑ 夜の帳がおりてきます
2024/08/11
ローマ教皇様の東ティモールご訪問が、1か月近くに迫ってきました。先週の夕食のときルイス神父さんが、バチカンのProtocol(儀礼規則)で神父さんたちが教皇様に謁見するときは、黒のスーツとローマンカラーシャツを着なければならないといっているといいました。するとシデ神父は、修練者はもうみな黒のスーツを仕立てたといいました。ルイス神父さん、黒のスーツもってますか。「持ってるよ」。イザイヤス神父さん、黒のスーツもってますが。「持ってます」。とのこと。そこで教えてもらった仕立て屋さんにゆくと、「申し訳ありません神父さん、たくさんの神父さんたちが「プロトコル、プロトコル」といって黒のスーツを注文していて、もうこれ以上引き受けられません」といわれました。 ↑ いぜんポルトガル語の本屋さんの向かいに仕立て屋さんがあったのをおもいだして、でかけてゆきました するとインド人の店主が「きょう注文すれば、あした仕上げるよ」といいました そこで今日もう一度出かけてゆき、「注文します」といって採寸してもらいました まだ1か月あるのでそんなに急がなくてよいというと、「じゃあ、らいしゅうきてください」といわれました 右手にたっているインド人の青年が採寸して、わたしのスーツをしたててくれることになっています 東ティモールでスーツを仕立ててもらうなんて、夢にも思ったことはありませんでした 東ティモールでは、スーツなんて絶対着ないとおもっていたので
2024/08/07
あっというまにもう3学期。東ティモールでは3学期には行事がたくさんあり、またたくまにおわってしまいます。創業検定国家試験で、中3、高3以外は1週間お休み。11月はじめの死者の日を挟んで、5日間ぐらいお休み。ことしは9月はじめにローマ教皇様が東ティモールを訪問されるので、政府は3日間祭日にすると発表していますが、その前後にも学校を休みにしなければならないので、1週間ぐらいお休みになりそうです。そしてレギュラーの国祭日も3学期は目白押し。 ↑ さきほどの夕暮れ まだ太陽が力があって輝いていした わたしの家からの眺めです ↑ これはきのうの写真 問屋街の風景です この店で買い物をしました もう閉店時刻のゆうがた6時近かったのですが、またお客さんはいました 問屋街の活気がすきです
2024/08/06
きょうの日曜日はミサ当番がありませんでした。せんげつバンコクへユネスコの会議にでかけたことをブログでおしらせしましたが、その際に作成された文書についてリアクションをするようにお願いされたので、きょうはその文書を一日中家で読んでいました。 ↑ ときどき外にでて休憩です うちにはさいきんニワトリがどんどんふえています こんなかんじでニワトリのお母さんがタマゴを温めるバスケットが3つ用意されています いま卵を抱えていて、近づくと雌鶏がグル、グル、グル~と怒っています ↑ このニワトリは人間でいえば、中学1年生か2年生ぐらい じつは修道院別館が聖イグナチオ学院のまえにあり、そこにもニワトリがたくさん走り回っています 「だったら食べればいいじゃないか」といいますが、「走り回っているニワトリを捕まえるところから料理をはじめる」ので面倒くさいのです 「だったらスーパーで買ってくるほうが楽じゃん」ということで、もも肉や、ささみ肉など、切り身になったのをかってきて食べます ↑ もう雨期なのに、3日まえから雨がふりはじめました とくにきのうは午後3時ごろから夜まで本降りでした ↑ 冷蔵庫にケーキが入っていたので、3時のおやつ 東ティモールで特段進歩を遂げたのは、ケーキ わたしがきたときには、スポンジに砂糖をセメントのように塗り付けたもものでした いまはちゃんをしたクリームです お茶は鉄観音です
2024/07/28
きょうはFahilebo(ハヒレボ)村のチャペルの祝別式(落成式)にでかけました。わたしの住んでいるカサイ集落からバイクで1時間15分のところにあります。マリアナの町から司教様がきて祝別式をします。ハヒレボ村も、ウルメラ村も、バザールテテ小教区に属しているので、司教様がやってくるからにはでかけなければなりません。 ↑ 長い道 ハヒレボ村のチャペルには7~8年前に1度だけミサにでかけたことがあります そのときは村全体にまだ電気がきていませんでした 写真に電柱が写っているように、いまは電気がきています 幹線道路からそれて、約30分舗装されていないみちを山に向かってはいってゆきます ↑ この村はとてもきれいなところにあります 山に囲まれた盆地で、湿地帯があります ↑ 司教様を迎えてのチャペルの祝別式は、村を挙げてのお祭りです ↑ 司教様の到着を待つあいだに、警護班の青年と記念写真 青年たちは、手に手にこん棒を握っています ↑ ミサがはじまるまえに、司教様はチャペル(聖堂)を聖水で祝福しお祈りを唱えます ↑ それから、祝別式のミサ ミサがはじまるのをまつあいだに、マウバラ教会のルイ神父様と記念写真 ↑ ミサがおわると、祝賀会 思いおもいに座って、ご飯を食べます ↑ こちらは炊き出し班 村人やお客さんたちが祝賀会でたべる食事を一手に引き受けます ご飯を炊いたり、おかずを盛りつけしたり、大きな鍋で牛肉を炊いたりしています ↑ かわいい女の子たちは、民族衣装で式に参列 ↑ 帰途につくまえに、長老と一緒に記念写真 ↑ 帰りはバザールテテ村経由で帰ることにしました 帰りは、1時間半かかりました 帰路はとても山深い小径をグングンと上り詰めてゆきます 途中、こんな小さなチャペルがありました 東ティモールは集落ごとに、じぶんたちのチャペル(聖堂)があります ときどき神父さんがやってきてミサをします チャペルで、赤ちゃんが生まれると洗礼を授け、人がなくなると葬儀をします それほど、カトリックが根付いています
2024/07/23
7月21日の午後7時過ぎが満月だったそうですが、写真は22日早朝5時ごろのものです。東ティモールでは、自然と一緒に生活している感じがします。 ↑ 乾季になり、空気が乾燥してきて月が澄んで見えます ↑ きょうの帰路 午後7時過ぎ、ヤシの木をみながら歩いてい帰ってきました
2024/07/22
きょうの日曜日のミサ当番は、バザールテテ村の教会のミサ。お祝いがあったときにはでかけましたが、単独でバザールテテの教会でミサを司式するのは数年ぶりでした。バザールテテ村は、わたしの家から1時間かかる、山の中にあります。2年まえからバザールテテの教会は準小教区に昇格し、ウルメラ村はバザールテテ郡にあるので、ウルメラ村のチャペルは、リキサ小教区から分割されこの教会に所属になりました。リキサの町までは30分で行けるのに、バザールテテ村へは1時間かかります。 ↑ 真中の青いシャツを着ている男性が、主任司祭のニコ神父さん 「ニコ神父さん、居るのに、なんでわたしにミサを頼むんですか?」の謎。ミサがおわってから、司祭館前で記念写真 ↑ 久しぶりにバザールテテ村の教会にでかけると、こどもたちの侍者が入れ替わっていました ある女の子がやってきて「URA神父さん、むかし、わたしはこんなだったでしょ」といいました いまは聖歌隊に所属していて、きょうも歌っていました
2024/07/21
きょうも一日、村から出ずに村で過ごすことができました。東ティモールで生活していると、外界との連絡が遮断されれば、引きこもってゆったりと生活することができます。 ↑ 学校へ出勤途中、山羊さんたちが向こうから歩いてきて、近くになるとヤギさんたちはわたしをよけてあるいてゆきました ↑ 帰りは牛たちが、ゆうがた自分の家のまえでゆっくりとしていました ↑ わたしのいえに一番近い集落 ↑ そこから坂道を登ってゆく途中、海がみえます 乾季で季節風が吹きはじめ、砂埃が舞いますが、すこし涼しくなり過ごしやすくなりました
2024/07/19
スクール・ジャーナルが校了したのち、またのんびりとした南洋の島のスロー・ライプがもどってきました。徒歩で出勤、退勤ができるようになりました。 ↑ 車に乗って出勤、退勤すると、だれとも挨拶をかわすことがありません しかし集落を歩いていると、子どもたちとも、おじさんたちとも、おばあさんたちとも、声をかけてくれて、挨拶をかわしながらすすみます ↑ 新規開店のやさいスタンド こちらのひとびとは簡素な売店をつくって、小商いをサッサッとはじめます 店をたたむのもはやいです ↑ あるいていると牛さんともあいさつをかわします ↑ 牛は草原の牧場にいるとおもていましたが、こちらの牛はアスファルトの道路わきの草をたべて生活しています 先週のワニ通信で、集落の住人が海辺でワニに足を噛まれてクリニックに担ぎ込まれたことを報道しましたが、自動車やバイクが牛や山羊、ブタと道路で衝突するというのことは、日常茶飯事です 牛とぶつかると、車の修理代がばかにならない額になってしまいます ↑ きょうの午後5時ごろの退勤時 こんなヤシの木とマングローブの森をみながら歩いて帰ってくるのは、まさにスロー・ライフです
2024/07/18
ことしの9月9日から11日まで、教皇フランシスコが東ティモールにやってきます。きょうは、関連行事に出席するために必要な身分証明書をつくってもらうために、ディリ市のバリデ教会へでかけました。 ↑ おもったより空いていて、係り員以外にだれもID申請者はいませんでした パスポートをみせて個人情報を登録してもらい、写真撮影があり、その場でコピー用紙にIQコード付きの身分証明書を印刷してもらいます 証明書をいれるプラスティックケースは自分で買うようにいわれました
2024/07/14
らいしゅうの月曜日から2学期末考査がはじまるために、きょうは生徒が準備の勉強をするために学校は休みです。しかし、らいしゅうの月曜日が15日の給料日。支給日に給与を受け取ることができるために、休校日にかかわらず会計室の担当者とわたしは出勤して、給与計算をしたり、確認したり、銀行振り込み申込書をつくったりしました。午後は、校誌の最終校正作業。これも月曜日に「これにて、校了です」と印刷所に伝えるよていです。 ↑ いろいろやって結局退勤したのは、午後6時過ぎ きょうの夕暮れの景色です インドネシア領のアウロ島の島影が、ずいぶん近くにみえます
2024/07/13
きょうもミサ当番がない日曜日。しかし朝から、1日中School Journalの第1校正。やはりたくさんミスがあり、あす印刷屋さんにでかけてオペレーターさんと一緒に修正をします。夕方近く校正中に、ああ水のにおいがするな、乾季がはじまったのにしょぼしょぼと小雨がふっているな、とおもっていました。集中してやったので、計画通り校正は終了しました。さあ、水浴びしようとおもったときに、洗濯ものを外に干したままだったことに気づきました。がっかり。いつもは昼ご飯を食べ終わるととりこむのですが、校正に集中していて、後でもいいや、とおもってしまいました。やはり、規則正しく、「昼ご飯を食べ終わると洗濯物をとりこむ」必要があることを学びました。 ↑ ソーセージ炒め朝定食 もう何度もご紹介しました これをたべることができる日曜日は、ゆっくりできる日曜日の印です 東ティモールの朝ごはんです
2024/07/07
きのうの夕暮れの写真です。校誌(School Journal)の原稿を印刷屋さんに渡して、一安心。きのうは学校から歩いて帰宅しました。ちょうど、この写真にある、トワイライトのときでした。道端の屋台で、ココナッツジュースを飲んで、この写真を撮りました。 ↑ もう暗くなりかけていましたが、よくみると海の中に人びとがはいって海の幸をとっています わたしがすんでいる村の人びとにとっては、豊かな海です この海辺に、わたしが住んでいる家もあり、聖イグナチオ学院もあります
2024/07/04
きょうの日曜日は、ミサ当番はなし。あさから一日中、校誌School Journalの出稿前の校正作業をしていました。さいわいきょうは、停電なし。先週は午後ずっと停電で、校正作業がはかどりませんでした。きょうはこれから夜なべ仕事をすると、今晩中に校正作業がおわりそうです。あすの午後2時半、印刷所に出稿です。それから本格的な3回のゲラ校正がはじまります。 ↑ 写真はわたしの住んでいる部屋からの眺めです 乾季ははじまっていますが、3日ぐらいまえからどんよりとした日和で気温も湿度も高くなっています そんな景色を眺めながら、夕方には、「この単語、ほんとうは小文字ではじまるけれども、いまから全部修正するのこあれだから、間違えのまま放っておいてもいいよネ、みんな気づかないよネ」という会話がはじまりました
2024/06/30
きょうは子どもたちの、初告解の日。そして、あしたは初聖体(はつせいたい)の日。あす、ウルメラ村のネランチャペルでは、赤ちゃんの洗礼式、子どもたちの初聖体式があります。初聖体の秘跡は小学生が受けますが、その前日初告解の秘跡が授けられます。初告解とは、いわゆる懺悔です。「初」がついているのは、赦しの秘跡(告解)は何度でもうけることができるので、はじめて受ける赦しの秘跡のことを初告解といいます。初聖体とは、ミサのなかでキリストの体(聖体)をはじめて食べる式のことです。どちらも、カトリック信者にとっては大きなお祝いです。聖体もミサに与れば何度でも受けられるので、はじめてミサの中で聖体をたべることを「初聖体」といいます。 ↑ きょうの午後4時 ネラン集落のチャペルへ、子どもたちの初告解を聴くためにでかけました カトリック要理(教え)では、7歳ぐらい、すなわち善悪の判断ができるようになり、またミサの中でたべるホスティア(丸いパン)が真にキリストの体であると信じることができる年齢になったら、初告解と初聖体の秘跡を受けることができるようになります チャペルに着くと子どもたちが順番にならんでいました お父さんお母さんたちはきょうは仕事を休んで、子どもたちの初告解と初聖体の準備をします あしたの式は、バザールテテ村の主任司祭がやってきて式を司式します そして夜は各家庭でお祝いをします 5分ほどまえ、修道院の用務員さんがやってきて、「あしたとあさっては、初聖体があるので休ませてほしい」といいました あしたは、村のお祝い日です
2024/06/27
先週の土曜日、新司祭ネリーニョ神父さんの初ミサが盛大に祝われました。東ティモールでは、初ミサは家族、親類、出身教会が総力を挙げてお祝いします。 ↑ エルメラ県グレノの町の教会 大聖堂に満堂の信者さんたちが、初ミサに詰めかけます ↑ ミサの奉納で、あるおじさんは子ヤギを抱いてやってきました ミサへの捧げものです よほど嬉しいのでしょう ↑ 大聖堂の外は、南洋のどかな田園風景が広がっています 東ティモールでは教会やチャペルが地域の人びとが集まることができる、一番大きな建物です 政府が建設費を援助します ↑ ミサで伝統舞踊を披露した長老たち ミサ後も余興がつづき、太鼓をドンドコ 鳴り物をチンチンさせて踊っていました ↑ こちらは子ども太鼓をポンポン ↑ 祝賀会のご馳走はこれ ↑ 食事がおわると余興がはじまります 定番の民族舞踊 ↑ 子どもたちがたくさん見入っています 日本からみればうらやましいほどの子だくさん カトリック国では、子どもは神様からのお恵みだといいます ↑ 記念写真 わたしの右が新司祭のネリーニョ神父さん 彼のお兄さんは日本人女性と結婚して、広島県に住んでいるそうです わたしの左はイエズス会前地区長のジョアキム神父さん 初ミサのまえのおやつです 信者さんたちは聖堂でミサがはじまるのをまっていますが、神父さんたちは司祭館でミサのまえにおやつをたべるようにと案内されてゆきます すでにおやつが準備されているので、たべなければ失礼なります これも東ティモールの習慣です
2024/06/26
6月22日午前10時8分が、日本での満月の時刻。東ティモールと日本は時差がありません。6月のこの満月は、ストロベリームーンといわれているそうです。けさは学校の早朝ミサの当番。あるいてでかけながら、満月をめでました。 ↑ ほんとうにピンク色の月のようにみえます 午前6時ごろ ちょうど家をでたところ ↑ 午前5時まえ 部屋をでると満月が煌々とかがやいていました ↑ あさ6時15分ごろ 満月がやまの向こうに沈んでゆくのを、学校へのみちすがらながめながらてくてくとあるきました バイクに乗った人、車を運転している人も、みんなおなじ月をみていたとおもいますが、なにを感じていたのでしょうか ↑ ヤシの葉の向こうに満月がみえます こういう眺めも、当地で暮らす楽しみです
2024/06/22
きのうに引き続いて、ローカルなウルメラ村の出来事です。けさ学校に出勤している途中、とても高い木にのぼって、樹の枝の先からにじみでてきたお酒を採集しているところにでくわしました。白い、甘い、アルコールを帯びた液体がとれます。ときどき、こうやってお酒をとっているところにでくわします。 ↑ とても高い木の上まで登ります ↑ 写真を撮っているのに気づいて、手をふってくれています 気を付けてください! ↑ 下で待ち構えているひとびとは、お酒がはいったポリ容器をうけとります きのうのヤギさんの話とどうよう、これが東ティモールの村での日常生活の一場面です
2024/06/20
学校からの退勤時、道をあるきながらふと横をみるとヤギを縛っていました。あいさつすると、「これからディリにもってゆく」とのこと。東ティモールでは、山羊や豚、牛は冠婚葬祭で贈答されます。ニワトリは、菓子折り感覚で手土産にもってゆきます。 ↑ 村の公立小学校の先生ビンセント氏がヤギの手綱をもっていました これから、ディリに連れてゆくとのこと わたしはヤギ肉がすきで、インドネシアにゆくとヤギのサテ(串焼き)をたべます ↑ きょうの日没 だんだんと陽がしずんでゆきます 乾季がはじまり、ことしは例年よりも涼しくなるのがはやいようです 寝つきがよくなりました
2024/06/19
↑ さてきょうのご報告は、デンパサールの空港でお昼ご飯にたべたこのハンバーガー コカ・コーラ込みで、なんと3,388円! 円安で海外旅行の食事が高いと聞いていましたが、まさかインドネシアでそれを実感するとは想像もしていませんでした 国際線ターミナルのレストランだからかもしれません いぜん国内線ターミナルのレストランでピザをたべたときは、1,000円くらいでした ↑ きのうの機内食たべくらべで敢闘賞をもらった、エアロ・ディリ航空の飛行機 同社は、この1機しか保有していません 東ティモールでは、後ろの乗降口からも、乗り降りします デンパサールに向けて出発するとき、到着時刻ちょうどに飛行機が着陸してきて、駐機場にとまり、乗客がおりてきたので、「これから機体整備や機内清掃で、1時間ぐらいはかかるな」とおもいいていました すると最後の乗客がタラップから降りてきたトタン、「みなさま、おまたせしました、ご搭乗ください」と切符をちぎりはじまました まさに、西武線や小田急線新宿駅の折り返し電車のようでした 機長さんはバスの運転手さんみたいに、すぐに折り返し操縦するのでしょうか 機体点検しなくても大丈夫 しかし機内食や広い座席幅は好評です! ↑ 飛行機からずっと小島がみえますが、飛行機から見下ろせばわたしもこんなかんじの場所にすんでいて、こんなところを深夜ドライブしているのだとおもいます
2024/06/18
↑ タイ航空 デンパサール→バンコク チキンのパスタ ワインとコーヒーは食後に運ばれてきました OKでした ↑ おなじくタイ航空 帰途 ポーク・ライス 帰りはワインも一緒に提供されました ↑ いつもがっかり、Citilinkの機内食 水だけで、ソフトドリンクもありません ふたには、「カルボナーラ」とかいてありましたが、、、 いぜんメルパッチ航空(倒産)が同路線に就航していたときは、航空運賃はもっとやすくて、2時間弱ですがピザとビールなどがでていて、楽しみだった思い出が忘れられません ↑ 敢闘賞 エアロ・ディリ航空の機内食 魚のフライ エアロ・ディリ航空は昨年から就航した東ティモールの航空会社 毎日1便ディリーデンパサール、週2便ディリ-シンガポールに就航しています デザートは完熟バナナ1本とプリン 100人以上の乗客がいるのに、完熟バナナを100本以上調達するのです 水のボトルも社名入り そして、食後にはコーヒーもでます 新規就航社なので、意気込みがちがいます
2024/06/17
きょうは日曜日。メタゴウ集落のチャペルへ、ミサにでかけました。以前は教会の主任司祭に頼まれて、ときどきでかけていました。以前は悪路で1時間半近くかかりました。いまはセメント道路になったので、1時間弱でつきました。とてつもない急坂がふもとからチャペルまで30分くらい、ずっと続きます。以前は舗装してなくて、雨期にはバイクがスリップして転んでいました。他のチャペルで復活徹夜祭のミサをして、三つ目のチャペルのメタゴウ集落についたのは、夜中の1時だったこともあります。それでも、信者さんたちは立って待っていました。 ↑ ミサで「以前はときどき来ていたけれども、きょうは4年ぶりですね、そのときは古いチャペルでした」とあいさつすると、古いチャペルでミサをしたのなら、「8年ぶりですよ、神父さん」といわれました かなり標高がたかいところにの集落に、みんなで立派なチャペルを建設しました チャペルと呼ばれる巡回教会で神父さんは住んでいません なおかつ月に数度しか、ミサはありません でも、ミサがあるときには、300人位やってきます チャペルは集落のコミュニティーセンターです だから建設時には政府からの補助金もあります 東ティモールは政教一致です ↑ チャペルから下界のながめ 遠くに海がみえます 東ティモールの人びとは、もともと涼しい標高が高いところに住んで、雑穀や芋類をたべていました 文明化されると人びとは低地にやってきて住むようになりました なので、熱帯性のマラリアやデング熱が流行るようになりました ↑ ミサがおわると、子どもたちが活動をしていました 公立小学校が集落にありますが、教会学校も子どもたちの教育の一端をになっています 教会で子どもたちの世話をするのは、小学校の先生です ミサにくるとき、きれいな洋服を着てきます ↑ ミサがおわると、朝ごはんを準備してくれていました ニワトリのスープです ↑ 侍者たちと記念写真 わたしの右側にたっているのは、カテキスタのマヌエルさん 小学校の先生でもあります
2024/06/16
きのうの正午に出発して、片道135㎞離れたマリアナの町まででかけ、翌未明午前1時過ぎに自宅に戻ってきました。往復270㎞の信号機が一つもない下道を、13時間でいって、戻ってきました。マリアナ司教区司教総代理のルイス神父さんの司祭叙階25周年記念行事に参加するためです。ただメインの行事はきょう15日土曜日の銀祝ミサ。しかし、きょうは別件の大切な用事がありきょうの銀祝ミサには参加できません。そこで、招待状に14日午後6時より前夜祭とありましたので、それに参加することにしました。こちらではこういう大切な行事では暗黙裡に出欠が確認されていて、義理を欠くとあとで影響があるので、トンボ返りでお祝いにでかけることにしました。都合よく、夜の7時半より神父さんたちの夕食がはじまりました。 ↑ 帰途、深夜12時半ごろ マリアナへの道の半分は海岸沿いをはしります いつもは青い海がみえますが、昨晩は赤い半月がみえました マリアナの町を午後9時まえに出発して、片道4時間30分ぐらいの深夜ドライブ 東ティモールではたびたび車が故障したりタイヤがパンクしたりするので、夜間は運転しない方がよいのですが、ビジネスなのでしかたありません その代わり、写真ではご紹介できないな美しい景色をみることもできます 海辺に車を止めて満点の星空をみあげると、「なんでこんなところにいるんだろうか」と不思議になります ↑ 午後11時半ごろ ロエスという集落のドライブイン街 ちょうどディリとマリアナの中間地点 焼き魚が売り物の屋台が連なっています 電灯は明るくみえますが、みな閉店して軒並みは静まり返っています いつもはここで、焼き魚をたべとコーヒーを飲みますが、昨晩は素通りです ↑ 夕方、マリアナの町にはいったところで、いつものようにバクソ(インドネシア風ラーメン)のおやつ 150円 謎肉がゴロゴロ ↑ 道には、「25周年ミサへようこそ」と横断幕が掲げられていました ↑ そして、優雅との前夜祭がはじまるまで、まちの市場の散策 ↑ ニワトリはこんなふうに、生きたままで売られています 左端に立っている女性が店主で、「ちなみにお幾らですか」と尋ねると、「ちいさいのは8ドル(1200円)、大きいのは15ドル(2300円)」だそうです
2024/06/15
この日曜日にバンコクからウルメラ村へもどってきて、またいつものように学校に出勤しています。きょうはバンコック滞在中に食べたものの、ご紹介です。わたしは中華街ファンでもあるので、二日目の会議が終わったあとにバンコックの中華街へでかけることにしました。しかし下調べもしていなくてでかけたので、暗くなって中華街の門にはたどり着いたのですが、あたりはシャッターがしまって静まり返っていました。中華街のファストフード店で夕ご飯とおもっていましたが、いまいちイメージがちがってしまいました。場所をまちがったような気もします。 ↑ 街並みは中華街ですが、歩道にはタイ料理の屋台がならんでいます そのひの晩御飯は、ここでたべることにしました ↑ わたしがたべた屋台 みなおいしそうにたべています ↑ タイ・ヌードル いろんなホルモンをふくめて部位のお肉がはいっています 約250円 ↑ その屋台のとなりは、くだものの氷菓子やさん あまいシロップがかかった果物の盛り合わせのデザートをたべました 約130円 ↑ 街並みはそれとなく、中華街なのですが シャッターが閉まったお店のまえには、タイ料理の屋台が並んでいました ↑ 最後の晩は、着いた晩に最初にみた食堂にでかけました とんかつライスとビールで約470円 食べ終わると、会議に参加していた紳士とばったり食堂の入り口であいました ↑ デザートはこの果物の屋台で、パパイヤを買ってホテルへ帰りました 1パック約200円 「写真をとっても良いですか」と訊くと、屋台のお姉さんがとても喜んでくれました おにいさんは「OK、OK」 ↑ とても大都会でした
2024/06/12
5泊6日のバンコク行きでしたが、きょうの午後2時過ぎわが家へもどってきました。お世話をしてくださるかたのご案内で、はじめてユニセフの会議に参加させていただけることができました。ありがとうございます。わたしが参加させていただいた会合は、「Recommendation」という教育に関する勧告やEducation for Sustainable Develpomentの文章の、実施指針案のアジア版を作成するたたき台をつくるためのあつまりでした。カザフスタンやウズベキスタン、そして世界で2番目に国ニウエ(Niue、ニュージーランドの上あたり、日付変更線の向こう側)の方などにお会いすることもできました。意見を出し合いアイデアや表現することばを練ったりしながら、普遍的に理解できる文章を作り、それを各個別地域にどのように適応してゆくことができるか、練り上げてゆきます。だから参加者の多様性が必要だったのだとおもいます。どのようなユネスコの文章ができあがってゆくか、楽しみです。 ↑ きのうのあさ バンコクの国際空港で記念写真 お世話そしてくださったかたが、撮ってくださいました ↑ ディリの空港の到着口で 教育省のパウロさんとガブリエルさんと記念写真 バンコクの会場ホテルのロビーでばったり会うまで、お互いの参加をしりませんでした ↑ きょうの午後3時ごろ わたしの部屋からの眺めです ディリにかえってくると、「もう乾季がはじまったな」ときづきました ↑ さきほど6時まえのゆうぐれ おまちかねの、「さすらうバンコック、食べ歩き編」と「エコノミークラス機内食 どんぐりの背比べ競争」は、また日にちを変えておおくりいたします
2024/06/09
きょうはバンコックから、バリ島のデンパサールへもどってきました。午後ついたので、東ティモール・ディリ行きの飛行機は、もうおしまい。あしたの朝まで、待っていなければなりません。もうデンパサールには何度も来ているので、定宿があります。以前は20米ドルで泊まれていのが、きょうは35米ドル。デンパサールもインバンドで沸いているのでしょうか。夕方は、ショッピングモールにでかけて、聖イグナチオ学院の図書館の本の買い出し。定宿はショッピングセンターに近いのです。 ↑ きょうの夕ご飯を食べた屋台 ここにももう3度目です ↑ この屋台はサテ屋さん インドネシア風串焼きです わたしはヤギさんがすきで、「ヤギ5本、鶏5本、ヤギのスープ」をたのみます エス・テーといわれる甘いお茶も一緒です 出張最後の夜は奮発したので、しめて500円くらい ヤギ肉はすこし高めですが、おいしいです ヤギのスープはココナッツミルクで煮込んでいました 脂身たっぷりで、絶対に生活習慣病のひとには不向きです 帰りがけに隣の屋台を覗いてみると、大きなフライパンでNisi Gorenといわれるインドネシア風焼きめしをつくっていました 次回は、焼き飯の屋台で食べようかと思いました ↑ ヤギ肉の屋台からのかえりみち インドネシアではまだこんなガソリン給油所が健在です 手回しポンプでガソリンを上部のガラスのシリンダーに汲み上げます 大きなビーカーみたいなのはリッターが刻まれていて、何リッターくみ上げたかわかります それからその汲みあげた分だけ、給油します ↑ けさ、バンコックの空港にいると、「神父さん」と声をかけられました 「カサイの学校の神父さんでしょ、うちの娘は高1ですよ」 そこで、記念写真 つづいて搭乗口で「うちも娘は神父さんの学校の生徒です 高1です」とあるお母さんから声をかけられました あしたのあさ、みんな同じ飛行機にのって東ティモールにかえります
2024/06/08
会議は午後2時過ぎに終了。帰りの飛行機は、あすの午前9時半。ということは、すこしだけ観光ができます。そこで、Wat Pho(ワット・ポー、涅槃寺)に出かけることにしました。とうぜん、高架鉄道と、地下鉄を乗り継いでゆきました。 ↑ ワット・ポー寺院は、なんといっても寝ている仏様。写真ではなんども見たことがありますが、ジャアみてみようと、でかけました ↑ お寺を出たのは、もう6時過ぎ ほんとうはつぎに世界のバックハッカーの聖地といわれている「カオサン通り」にあるいてむかおうとしましたが、即席観光、地図ももっていなくて、もちろんスマートフォンもないので、ぐるぐると道に迷ってしまいました さまよっていると、パークロン市場というお花屋さんが立ち並んでる市場にゆきあたりました チャオプラヤ川の橋をわたって、なおさすらい次ぐ毛ました チャオプラヤ川も地理でしっていたけれども、はじめてみました 1時間半ぐらいあるいたところで、なんと地下鉄の駅に行き当たりました そこから、素直に地下鉄に乗って帰ってきました 最後に、ホテル近くの大衆食堂で、夕ご飯 食事編はまた他日、ご報告いたします
2024/06/07
全1648件 (1648件中 1-50件目)