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きのうは東ティモールの第45回独立宣言記念日。それにちなんで、ワニ通信社は独立記念日式典を特集しました。きょうはその続きで、式典のアトラクションをご紹介します。最初の2つは、式典の中で披露されました。 ↑ 赤い服を着たご婦人が頭の上に壺を載せて、そろそろ歩いて競争するという伝統競技です たくさん壺を頭の上に載せて、はやく歩けるか競います ↑ ぴょんぴょん袋飛び これも式典中に大統領や総理大臣 外交団の前でぴょんぴょんぴょん、とします ↑ 電柱登り競争 これは式典後にはじまりました 高いところに吊してある商品をヤシの木を昇るように上がってゆき、とることができます ↑ 最初にてっぺんに登り着いたのはおじさん この競技、結構危険です ミスをするとみんなの前で墜ちることになります もちろん、セーフティーネットなどありません
2020/11/29
きょうは第45回目、独立宣言記念日です。1975年11月28日、当時のフレテリン党は同日夕方現在の首都ディリで独立宣言をしました。きょうはその記念日です。同年7月にはポルトガルは東ティモールの非植民地化を決めており、同年11月11日には同様にポルトガルの植民地だったアンゴラも独立宣言をしました。フレテリン党が独立宣言をしましたが、当時すでにインドネシア軍は東ティモールに侵入していました。そして極立宣言後の12月7日、インドネシア軍は首都ディリに侵入を開始しました。翌12月8日、ポルトガル政庁は、オーストラリアのダーウィンへ撤退しました。このときから、東ティモールのインドネシア統治時代がはじまり、面積が岩手県と同じくらいで、当時の人口が100万人に満たなかったこの地域で、独立紛争のために20万人が死亡したり行方不明になってしまいました。聖イグナチオ学院の校長宛に式典の招待状が届いたので、わたしが代表で独立宣言記念式典にでかけました。 ↑ 式典でのル・オロ大統領の演説 前半は独立戦争時代の歴史を話し若者たちに忘れないで欲しいとかたりました 中盤は昨年から続いている国民議会と大統領の対立とそれにまつわる予算編成についての政治的なはなし、そして後半はコロナ禍とその中で保健衛生省はよくやっているという話しでした ↑ 国旗掲揚式 15分ぐらいかかります この式に任命された人は栄誉です ↑ 演説に先立ち閲兵式 大統領がオープンカーに乗って兵士の前を一巡します 軍事パレードも兼ねていますが、大陸間弾道ミサイルや戦車、そして上空には戦闘機などは、もちろん全くありません ライフルを抱えた兵士が行進します 攻撃能力はおろか、抑止能力もありません いまでもインドネシアのような大国にとっては東ティモールに侵攻しようと思えば簡単にできると思いますが、人間が戦争を思いとどまるのは、やはり理性とヒューマニティーの自覚だと思います そのために学校での平和教育やヒューマニティー教育が大切です 経済的利益で理性やヒューマニティーが麻痺しないようにあわせて宗教教育も大切です ↑ 独立宣言記念式典会場遠景 リキサ県ラオハタ村の海辺 ↑ 国家功労者に勲章の授与 数年前、イエズス会日本管区のコエリオ神父様も東ティモール政府から独立のために貢献したとして勲章を授与されました 健康を理由に授与式には来られなかったのでわたしが一時帰国の折に持ってゆき勲章を伝達しましたが、じゅうぶんにお元気そうでした ↑ 式典がおわると招待客はレセプションへ レセプション会場はホテルではなく、草葺き屋根の仮庵です 写真上で、シャンペンの瓶を持って中央に立っている(赤いシャツを着た女性の左側の男性)が大統領のル・オロ氏 バンドが音楽の生演奏つき 小さな国なので政治家と民衆の距離は近いです ↑ 午前8時にはじまった式典は正午に終了 帰途につくと、逆に人びとが続々と会場にやってきました 午後から深夜にかけて、音楽やダンスのアトラクションが続きます
2020/11/28
きょうはJoventude(若者の日)で、祭日です。きょうの祭日は、インドネシアからの独立闘争でなくなった人びと、特に亡くなった若者たちを記念する日です。インドネシアからの独立戦争に、多くの若者たちが参加しいのちを落としたからです。また1991年のきょう11月12日に、サンタクルス墓地でインドネシア軍による無差別虐殺があり、そこでも500人が亡くなったといわれています。それを記念して、今晩は墓地や道端にロウソクを灯します。 ↑ 写真を撮っていると人びとがよってきて、話しかけてきます 多くの家庭は犠牲者がいて、彼らのためにロウソクを灯しているそうです 最後の大虐殺があったのが1999年でした 当時人口が100万人に満たなかった東ティモールで、約20万人が殺されたり行方不明になりました きょう聞いたはなしでも、「まだ忘れられない」といっていました
2020/11/12
きょうは東ティモールでは、第3回国民議会選挙が実施されました。前回2012年7月には既にわたしは当地にいて、議会選挙のようすを見ました。当時は、まだ国連が東ティモールにいて、国際選挙監視団が選挙活動や投票所を監視していました。しかし今回は、国連警察も、選挙監視団もいない、独自で行なうはじめての国民議会選挙でした。わたしも村の投票・開票所へ取材に出かけてみました。 ↑ 村の公立小中学校が、投票・開票所です ↑ 投票が終わるとすぐに、その場で開票がはじまります 一枚づつ読み上げ、各政党名が掲げられた机に投票用紙を持って行きます ↑ 大きな紙が投票用紙です 字が読めない人がいるので、各政党の番号と旗印は大切です これを頼りに投票政党を判別する人が多いからです ↑ 人びとは開票を見守ります ↑ 読み上げられた政党名を逐一メモしてゆく人びともいます 午後3時に投票が締め切られ、開票がはじまります わたしは午後4時に出かけましたが、午後4時現在「フレテリン党」が優勢でした 比例代表制です ⇒ 2012年の選挙のようすは、こちらからご覧ください
2017/07/22
こんどの日曜日は、東ティモールの第3回・国民議会選挙です。選挙のために、金曜日から月曜日まで、学校は休みになります。比例代表制で議席を多数獲得した政党が、総理大臣を指名します。大統領もいますが、象徴だといわれていて、総理大臣が政治の実権を握ります。 ↑ 選挙運動のようす 支持者が隊列を組んでパレードします 各政党の勢力を誇示します ↑ 警察官がパレードをライフル銃を持って警戒します 暴動となりかねないからです 選挙後に暴動が起こるのではないかとの噂もあり、食糧を買いだめするように勧められています 実際に在東ティモール大使館からも、そのような連絡メールが届きました 前回の2012年の国民議会選挙後(その時はすでにわたしも東ティモールにいましたが)、ディリ市内では暴動があり商店が数日間閉店した経緯があるからです
2017/07/18
東ティモールでは今日、第3回大統領選挙が実施されました。ワニ通信では、リキサ県ウルメラ村のカサイ小中学校の投票所で午前と午後の2回取材しました。当選者は、有権者総数の50%以上を獲得しなければならないので、投票率が高くなければ選挙は成立しません。大統領選挙に先立って行なわれた統一地方選挙では、ウルメラ村村長選挙は1回目は成立せずに、2回投票が行なわれました。 ↑ 候補者一覧 8名が立候補しています 新聞広報より ↑ ウルメラ村の投票会場 午前7時か午後3時までが投票時間です 多くの人びとが、開票作業を見守っています ↑ その後、すぐにその場で開票されます 先ず、何人が投票したか確認します そして投票用紙1枚ずつなまえを読み上げてゆき、黒板に張ってある模造紙に各候補者の得票を書いてゆきます 午後4時半時点では、候補者④のFransiscoと⑧のAntonioが競っていました ↑ 読み上げられる候補者氏名を聞き、自分で記録を取っている人びとも何人もいました 午前中の投票を見に行ったときある人はわたしに「Hakamatek」(平穏でしょう)と話しかけてきました 前回の選挙までは、国際選挙監視団が監視していました 今回の選挙ははじめて東ティモール国民だけで実施された最初の選挙です また独立して15年しか経っていない国です ↑ 人びとが、投票にやってきます わたしが住んでいるのはこんな村です
2017/03/20
きょうは日曜日、いつものようにチャペルへでかけました。いつもと異なるのは、きょうはティモール全国一斉に全ての教会とチャペルで、ミサの説教の際に東ティモール司教協議会が公布した「司教教書」朗読することでした。7ページもあり、朗読するのに40分もかかりました。教区司教総代理の神父さんが直々に修道院まで届けに来て、リキサの町の神父さんからも「きょうは説教をしてはダメで、司牧教書を朗読してください」とメッセージが届きました。 ↑ 「Carta Pastoral ba Eleiçoes 2017」 今年の3月に大統領選挙、5月に国民議会選挙があるので、それについてのそれについての東ティモール司教協議会からの手紙です ことし独立15年目を迎え、第3回目の総選挙です 東ティモールは独立してはじめて「民主主義」を経験しています これまで2回の総選挙では感情に駆られた行動も見られました それゆえに民主主義における、イデオロギーや意見の相違の表現を落ち着いたものに、成熟したものにするようにという呼びかけも含まれています また、そして、独立後15年が過ぎて、独立当時のカリスマ的な指導者が引退しつつあるし、5年後の2022年の総選挙までの間も東ティモールの国家設立に寄与してきた人びとと新しい人びとの世代交代が続くと考えられるため、その点も考えながら民主主義の根幹である「投票に参加するように」と書いてありました また、地方の伝統と国家レベルでの価値観の均一化とのバランスなどにも触れられていて、興味深い文章でした ↑ 司牧教書を読んだ、カイテフ集落のチャペル 第2回目の総選挙の時にはすでにわたしは東ティモールに赴任していて、選挙結果を受け入れがたい政党の若者はデモンストレーションを繰り返していました ディリ市内は店が全部閉まったそうで、バウカウにいたわたしには「外に出ないように」と友人から電話がかかってきました インドネシアとの独立戦争の際にはこのような「教会文書」が大きな役割を果たしました テレビ、ラジオ、新聞は、情報統制されていて、教会で日曜日に読まれる「教会文書」は、99%がカトリックの東ティモールにおいて民衆の意思形成に大きな影響を与えました そのような文書をわたしが田舎のチャペルで読み、みなが静かに訊いていたのを見たとき感慨深いものがありました 朗読後、高校生が祭壇脇で「共同祈願」を読みますが、涙声でした わたしには分かりませんが、東ティモールの人びとは1つひとつのフレーズから多くのことを感じたのだと思います
2017/02/26
今日は1991年11月12日に起こったサンタクルス墓地でのインドネシア軍による虐殺事件の記念日で、国民の祭日です。今年は私が住んでいるウルメラ村の記念式典に参加しました。サンタクルス墓地虐殺事件についてと、サンタクルス墓地のようすは、次の「ワニ通信」のブログを見てください。 サンタクルス墓地での虐殺事件について その1 その2 その3 ↑ 昨年同様、ウルメラ村でもサンタクルス墓地での虐殺事件で亡くなった特に青年たちのための追悼ミサがあり、その後、チャペルから海辺の丘の上まで行列し十字架に喧嘩しました ↑ ウルメラ村のリウライ(小王様、ジェラルド氏、小中学校の校長先生)が、この村では独立戦争中どこでどんなことがあったか皆に説明しています インドネシア軍が村に入ってきたとき、みなあっちの山に逃げたんだ、と子どもたちに話しています その時に山の中でできたことは「神様にお祈りすることだけだった」と語っていました その後わたしに、今は平和に寝たいだけ眠れるけれど、当時はいつ人が殺しに来るか分からずに、怖くて寝ることができなかった、と話しました ↑ 献花とお祈りが終わって帰るときあるお父さんが、うちの子と一緒に写真を撮ってくれといいました このあと、帰途につきました 午前10時とはいえ、南洋の太陽は強烈です
2016/11/12
1999年8月30日に当時のインドネシア領ティモールで、現在の東ティモールの独立の賛否を問う、住民による直接投票が行なわれました。詳しくはこのブログを、ご覧ください。また、東ティモールの独立の一連の歴史についてはこちらをご覧ください。 ↑ タシトル海岸の広場で、記念行事があったようです 各地から若者がタシトル海岸へ集って来ます 気になるのは、若者の多くがフレテリン党の旗を掲げていることです 前回の国民議会選挙では、第一党の座を奪われた政党です 独立の際には中心的役割を果たしたゲリラグループです 敬意を表すために党旗を掲げているのか、政治的に若者がフレテリン党を支持しているのか・・・ 多くの若者の姿が見られました 来年はまた、国民機会選挙があります
2016/08/30
昨日の続きです。独立宣言記念日の式典で出会った人と話をしているうちに、私が住んでいるウルメラ村にも第二次世界大戦中に日本軍が駐屯していたそうです。そして、食べ物を供出して協力するように強いられたそうです。ある人びとは協力しましたが(協力しないと殺されるかもしれないので)、第二次世界大戦後彼らはポルトガルから刑罰を受けアタウロ島へ流刑されたそうです。何人島へ送られたか聞いていませんが「2人だけ、生きて帰ってきた」そうです。 ↑ 式典では国歌に続き、亡くなった人びとの冥福を祈る歌も歌われます ↑ 一昨日のフィエスタで一緒になった、校長先生と村長さん その隣には、退役軍人会の代表者が座っています。 ↑ この方も、退役軍人です 退役軍人のIDカードを見せてくれました 現在63才なので20才過ぎから独立運動に参加したそうです この年代の人びとはポルトガル統治時代から現在に至るまで、すべてを知っています 村の公立小学校の校長先生は挨拶で、村人や生徒たちに、独立運動の歴史を話しました ちょうどユダヤ人たちが過越祭の食事の前に、父親が家族にいかに自分たちの祖先ががエジプトから解放されたかを語るように ↑ 村の小中学校の生徒たち ブログ 日曜日に教会で読む聖書 もあります 東ティモールの 聖イグナチオ学院を紹介するHP もあります どうぞご覧ください
2015/11/29
今日は1991年11月12日に起こったサンタクルス墓地でのインドネシア軍による虐殺事件の記念日で、国民の祭日です。今年は私が住んでいるウルメラ村の記念式典に参加しました。サンタクルス墓地虐殺事件についてと、サンタクルス墓地のようすは、次の「ワニ通信」のブログを見てください。 サンタクルス墓地での虐殺事件について その1 その2 その3 1975年からはじまったインドネシアによる東ティモール占領は、1991年のサンタクルス墓地でのインドネシア軍による虐殺事件を期に転換期を迎えます。この事件が国際的に明るみに出て、世界各地に東ティモール独立へ向けた支援の連帯が広がりました。東ティモールでの今日の祭日のなまえは「若者の日」です。この事件で多くの若者が亡くなったこと、この事件を期にさらに多くの若者が東ティモール独立へ向けた運動に関わるようになったことを記念しています。 ↑ 朝8時半、ウルメラ村のチャペルでミサがあり、その後犠牲者を記念した丘の十字架に花を手向けに皆で出かけます ↑ 村の水上警察署のおまわりさんも見えます 現在の警察官や軍人の多くは独立戦争時代にゲリラ活動をした人びとです 軍人会の代表者もいます その当時の苦しみを、私たちはどれほど自分の身をもって感じることができるでしょうか ↑ 「この村でもたくさんの人が死んだ」と聞きました その人びとを記念する十字架です つい数日前、「独立派とインドネシア派との戦いのために、今でもご主人が刑務所に入っている」という方に出会いました
2015/11/12
今日は東ティモールの再独立記念日。2002年に再独立し、13周年を迎えました。今日は朝から、村役場前の広場で独立記念式典が行なわれました。朝8時集合ということで時間ぎりぎりに出かけて行くと、まだ人影はまばらです。朝8時から準備を始めるという意味だそうです。式典は、全国一斉午前10時に国旗掲揚ができるように、9時55分からはじまります。ウルメラ村の素朴な独立記念式典です。 ↑ 国旗を準備 ウルメラ村の公立中学校の生徒と村に住んでいる聖イグナチオ学院の生徒が一緒に式典の司会をします ↑ 式が始まる前 公立小中学校と聖イグナチオ学院(一番向こうで見えません)の生徒が整列しています 他にリキサの町の公立高校とカトリック教会付属高校に通っている生徒、そして村の大学生も反対側に整列しています ↑ 小学校の先生が生徒を並べています ↑ 村人も整列して式典が始まるのを待っています ↑ ウルメラ村の神父の私は来賓席です 私の左側は村の公立小中学校の校長先生(村の小王様リウライです)、その左側の勲章をたくさんつけた服を着ている人は村の軍人会の会長です 私の右側に座っているおじさんは村のルリック(霊媒師)の家族です ↑ 午前10時 いよいよ国旗掲揚です ↑ その後民族衣装を着た村人の行進です ↑ アトラクション 公立中学校の生徒のダンス というかラジオ体操みたいなエアロビクスです ↑ アトラクションその2 聖イグナチオ学院の生徒の出し物は、モダンダンスです 公立小学校の生徒も混じっていました ↑ 青年の綱引きがありましたが、その後子どもたちが綱引きをして遊んでいました ↑ 村のおまわりさんは大活躍です 生徒に号令をかける役目の生徒に号令のかけ方を教えています 綱引きでは審判です 東ティモールの国旗を振って審判をしていました そのほかおまわりさんは、村人を整列させるように号令もかけていました 過去の独立記念日のようすは、こちらから見てください 東ティモールの略史もあります
2015/05/20
15年前の昨日、9月6日は、1999年8月30日の東ティモールの独立を問う住民直接投票の結果が公表された後、インドネシア軍に支援されたインドネシア支持派の民兵やインドネシア軍が東ティモール全土で破壊活動を行った記念日です。国連監視の下8月30日の独立を問う住民直接投票の結果は9月4日に公表されました。結果は約80%の住民が独立を支持したというものでした。そのため9月は「黒い九月(Septembro Negro)」と言われています。 ↑ 1999年9月6日の南部の町スアイの教会で虐殺事件がありました 特にスアイはひどかったそうです これはスワイの教会の隣にある、犠牲者を追悼する碑ですブログではこれまで掲載した、関連ページを見てください。 1999年9月4日は、東ティモールの独立が決まった日でした この時スアイの町の教会の中で、イエズス会のDewanto神父も殺害されました 現在のスアイの町のようす ブログ 日曜日に教会で読む聖書 もあります
2014/09/07
5月20日、今日は東ティモールの独立回復記念日です。インドネシアからの再独立を祝います。もともと、1974年に東ティモールはポルトガル植民地からの独立を宣言しましたが、すぐにインドネシア軍が侵攻しインドネシアの一つの州として併合されてしまいました。1999年8月31日、独立を問う直接住民投票が行われ独立が決定され、準備期間を経て2002年5月20日東ティモールは再独立を果たしました。今、リキサ県カサイ村の田舎に住んでいます。昨年は首都ディリに住んでいて独立記念のお祭りの雰囲気を味わいましたが、漁村ではいつもとかわらない静かな時間が流れています。 ↑ 5月17日 ニコラウ・ロバート・サークルのようす 交差点のロータリーに巨大な初代大統領ロバート・ニコラス(Nicolau dos Reis Lobato 1946-78)の像が建立されました 彼がポルトガル植民地から独立宣言をしたときの初代大統領です(1975年12月7日) 1975年12月7日、インドネシア軍はディリに侵攻しました 今日5月20日の独立回復記念日に彼の像の除幕式が行われます この写真は式典準備のようすです 軍隊が出て警備にあたっているのも、新しい国の特徴でしょうか 最近政情不安定だといわれています ちなみにディリの国際空港の名前は、ニコラウ・ロバート国際空港といいます こちらも見てください インドネシアからの独立記念日 2013年5月20日 独立記念日パレード 2013年5月27日 独立10周年記念日と新大統領就任式を前に 2012年5月19日 独立10周年 2012年5月21日 →独立10周年の式典に参加したくて2012年5月12日に東ティモールへやってきました
2014/05/20
1999年8月30日、東ティモールではインドネシアからの独立か、自治領としてとどまるか、の住民による直接投票が行われました。投票率は98.6%、独立支持は78.5%でした。当日、人々は正装して投票に向かったそうですが、ライラコの山間部では谷の下から続々と尾根にある投票所に人びとが続々と登ってきたそうです。アイナロ地方出身者から聞いたところによると、投票中もライフルや機関銃が発射され、威嚇されたそうです。この投票の後、さらにインドネシア軍や独立支持派民兵による殺害破壊活動、西ティモールへの強制移住などが続きます。 ↑ 政府庁舎前にはこんな感じで国旗が掲げられています 海に面して国旗掲揚台があります ↑ おそらくここで朝、記念式典があったのだと思います 後はアトラクションが続いています 昼前の暑いときなので観客はまばらです 夕方涼しくなると人が増えるでしょう ↑ パラシオ(政府庁舎)前の噴水 平和な感じがします 首都ディリは人口10万人くらいの小さな町です ↑ 民族衣装を着ている人がいました ディリ地方の衣装だそうです
2013/08/30
特別増大号(過去のブログの再掲載ですが)長いので、写真だけ見るのもいいと思います 5月20日の独立記念日は、インドネシアからの独立を記念する日です。正式には独立回復記念日といいます。今日のブログは昨年(2012年)11月28日・29日にブログに掲載した東ティモールの独立の歴史の再掲載です。東ティモールには独立記念日が2回あり、11月28日はポルトガルに対して東ティモールが独立を宣言した日です。東ティモールは2002年5月にインドネシアから独立した人口110万人、面積は長野県ほどの小さな国です。昨年の12月には国連がほぼ完全撤退したので、今後は独り立ちして国づくりをおこなうことになります。 ↑ 東ティモールの国旗 どの家、どの会社、そして多くの車やバイクに掲げられます 11月28日は、東ティモールがポルトガルからの独立宣言をした記念日です。16世紀にポルトガルがティモール島に進出し、1769年にオランダとの条約により同島の東半分がポルトガル領、西半分がオランダ領と定められました。それゆえに、西ティモールはオランダの植民地から独立したインドネシア領となっています。1950年代からアフリカのポルトガル植民地のアンゴラやモザンビークは独立運動を繰り広げ、それに対してポルトガル政府は「植民地は本国領土と不可分」との方針の下弾圧運動をおこなっていました。ポルトガル本国から多数の軍隊が送られましたが若者は徴兵を忌避し海外亡命するものもいて、結果としてポルトガル本国は弊害してしまいます。ポルトガルでは1974年に植民地戦争に不満を抱いていた青年将校によるクーデターが起こり成功し、新政権は植民地の独立を認めました。(カーネーション革命、あるいはリスボン革命と呼ばれます。)たとえば、モザンビークは1975年6月に独立宣言を行います。 ↑ 今日(2013年5月20日)のディリ市の目抜き通りのようす 東ティモールはポルトガルの植民地でしたが、1950年代から続いていたアフリカのポルトガル植民地の独立運動からは取り残されていました。しかし、東ティモールでも1959年に独立運動があり、首謀者は国外追放になりアンゴラやモザンビークに逃げています。後に、東ティモールの独立の際に両国の影響を受けることになります。その後。東ティモールにはFRETILINやUDTなど独立を達成しようとするゲリラや政治団体が運動を始めました。ポルトガル政府の本国の事情から、ポルトガルは(1)本国に属したままの状態、(2)独立、(3)インドネシア併合の三つのシナリオを考えていたといわれます。FRETILINは完全な独立をめざしていましたが、UDTはインドネシアとの関係を重視していました。当時インドネシアは、FRETILINはマルキストでソーシャリズムだと宣伝していましたが、実際に国際社会がインドネシアの侵攻を黙認した背景には、第二次世界大戦後の社会主義勢力伸張に対する懸念があったといわれています。東ティモールが、アジアのキューバになる恐れに対してです。 ↑ パラシオ 政府庁舎・国会議事堂すでにインドネシアが東ティモール併合を意図し介入してきているのに対し、FRETILINはポルトガル本国や国ワルトハイム事務総長時代の国連に訴えたりしますが反応は鈍く、1975年11月28日にFRETILINは一方的にポルトガルからの独立宣言をおこないました。それに対し、1975年12月、スハルト大統領時代にインドネシア軍は東ティモールに侵攻し、1976年7月、東ティモールをインドネシアの27番目の州として宣言します。それ以降、インドネシアによる統治が行われ、ディリはインドネシアの地方の一つの町、軍の駐屯地となりました。しかしながら一方で、ポルトガル政府は、1999年9月の東ティモールのインドネシアからの独立をめぐる住民投票の直前になってはじめて、同年5月ニューヨークの国連で植民地東ティモールを放棄することをはじめて宣言しました。 ↑ 政府庁舎前では、バイクの曲芸大会が開催されていました だんだんと盛り上がってきましたが、最前列に近いところにいたので「まずい」と思い引き上げました お分かりになると思います 警察はきちんとライフルを持って警備しています 1975年11月28日にFRETILINが独立宣言をした数日後の同年12月、インドネシア軍は旧ポルトガル領東ティモールに侵攻しました。76年に27番目のインドネシアの州として併合された後、インドネシアによる行政がはじまります。健康保健、農業、公共事業、教育、報道などは、インドネシアの政策それ自体と一体化してゆきます。政治的な行事である、国政選挙も東ティモールの地方選挙もインドネシア国家として、またインドネシアの一地方行政地域のものとして行われました。これらのことは、national identityがインドネシアのものに移行していることを意味しました。 ↑ FRETILIN派の若者たちは集団でバイクを乗り回し、示威行為を繰り返していました FRETILIN党は先頭に立って独立運動を戦い、一回目の国民議会選挙では第一党になりましたが、二回目、三回目と議席数を減らし連立に失敗し政府与党になれませんでした 特に東部地方に支持者が多いのですが、比例代表制なので都市部に負けてしまいます 東ティモールの国旗はFRETILIN党の旗から作られました バイク集団の後を、きちんと軍隊の車が続いていました 1991年には、11,036人のインドネシアの公務員が働いていましたが、要職はインドネシア人が占めていました。また学校教育でもインドネシア本国と同じ教育が行われインドネシア語が教えられました。小学校の教員は東ティモール人も多かったそうですが、高校の教員のほとんどはインドネシア人が占めており、東ティモール独立後にインドネシア人教員が一斉に引き上げたため、東ティモールの教育制度は一旦崩壊してしまいました。現在でも、教員の7割は教員養成を受けていないといわれています。6万人から7万人のインドネシア軍も駐屯していました。1989年10月、スハルト大統領がディリを訪問した後、インドネシア政府は東ティモール開放を宣言し観光客も当地を訪れることができるようになりましたが、1991年11月2日のサンタ・クルス墓地の虐殺事件では外国人もインドネシア軍の犠牲になりました。この時に、外国人ジャーナリストがインドネシア軍の暴虐ぶりを海外に伝えました。(11月2日のブログをみてください。) ↑ 平和になったディリの海岸で そのような中、1996年に独立運動の指導者であるディリのカトリック教会のベロ大司教とラモス・ホルタ(後の大統領)が、ノーベル平和賞を受賞しました。同時にEUや米国でインドネシアによる東ティモール侵攻が問題視されるようになります。政治的黙認と、イギリス製やアメリカ製の兵器が侵攻に使われている事実も議会で問題になりました。1998年、インドネシアもアジアの金融危機に見舞われスハルト大統領は辞任しましたが、後任のハビビ大統領が東ティモール問題に対する国連のサポートを認め、1999年5月9日ニューヨークで関係国会議が開かれ、1999年8月30日の「独立か」、「インドネシアの自治領として留まるか」を問う直接国民投票実施に至りました。投票率は98.6%、独立支持はほとんど80%でした。そして、2002年5月20日、国家復興の日を迎えます。しかし、この1975年から2002年までの間に、多くの難民と、約20万人近い死者・行方不明者が出たといわれています。 ↑ 海岸沿いのこの公園には、最近まで難民が住んでいたそうです 昨年独立10周年を機に、公園が造られました
2013/05/20
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