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写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8隅田川は東京の町を育てた川です滝廉太郎の「春のうららの隅田川」のように東京人を育み楽しませました明治の隅田川は時々洪水で東京の下町を悩ませましたが大正時代に荒川放水路が開削されて穏やかに豊かに流れる川になりました昭和の隅田川は川幅は広く水量は多く緩やかに流れます戦前の隅田川は東京の水運の動脈でしたから産業資材も運びましたが町の廃棄物も運びました戦後に一時は悪臭で悩ませたこともありましたが今は遊覧船の行き交う憩いの川となりました(写真1、2、3,4)遊覧船の中には衣装を纏ったものもありますが大半は作業船のように装飾も無い無粋は姿です偶には宇宙船のようにモダンなものもありますが低い隅田川の橋をくぐるため全ての遊覧船は蟹のように皆低く伏していて船上にはデッキも無ければ飾りもありません(写真5、6)昼は遊覧船が行き交いますが夜は屋形船が漂う隅田川です屋形船の船縁に吊した提灯が灯る頃船内で宴会が始まる頃屋形船は隅田川の河口に漂いレインボーブリジを仰ぎ見るのです(写真7、8)以上
2024.09.02
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銀座の大通りには世界の一流のブランド店が軒を連ねて並んでいます。昔から銀座は流行の先端を行く街でしたが、今もその伝統は変わらず、最近は銀座通りのビルの意匠には益々磨きがかかり、街路樹が植えられ、街路そのものが豪華な舞台になっています。(写真1、2、3)銀座中央通りが歩行者天国となる休日には普段着で銀ぶらを楽しむ人も多くなりましたが、銀座通りはハレの舞台ですから、銀ぶらするなら晴れ着で出かけると楽しみが倍加します。(写真4)何でも自由の國日本ですから銀座通りに出店する店舗の種類に制限はありません。しかしハレの舞台に相応しくない日用品屋や一杯飲屋は出店した例を見ません。銀座の老舗の旦那衆の話によりますと、別に街として業種を規制しているわけではないのですが、たとえ銀座に相応しくない店が出店してきても、ハレの舞台に来る人々がその種の店を相手にしないと言うフィルター効果が働くので長く商売が続かず消えていくのだそうです。しかし最近銀座の街を歩いて気付いたのですが、必ずしもそうではなくなったようです。日用品を売るドッグストアが長く営業していますし、昔は裏通りで営業していた質屋が表通りに複数も出店していました。銀座通りに来る人たちも多様化して、フィルター効果も薄れてきたのでしょうか。(写真5、6)なお、銀行は必要なものとの観念がありますので余り指摘されませんが、銀行の銀座通りへの出店も実は街の賑わいにマイナス効果があるのです。土日は休業しますし、午後三時には閉店するので夜になると銀行の前だけが街の明かりが途絶えます。まだまだ銀座通りにはハレの場所として洗練すべきところが残っています。以上写真1写真2写真3写真4写真5写真6
2024.04.13
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東京は江戸300年の歴史を継いだ古い都市ですから、歴史的遺産が多く残っている筈ですが、関東大震災と東京大空襲で都心部では木造建造物の多くを消失してしまいました。しかし郊外の町や農村には、江戸時代から残された歴史的建築物が今日まで未だ残されているところがあります。新宿から西武電車で30分程走って小平駅で下車すると近くに小平霊園がありますが、その霊園の中を通り抜けると、鬱蒼と茂る高い欅林に囲まれた古風な門構えの顧想園(こそうえん)に行き着きます。(写真1、2、3)この顧想園の全域は、江戸時代から代々続く村野家の個人住居なのですが、村野家は天保年間(18世紀初期)からこの地で肥料商を営んで成功し、明治時代には九ヶ村連合戸長、戦後は村議会議長などを勤めた名家です。立派な門構えを潜って敷地に入ると、中央に大きな藁葺きの主屋があり、隣に和洋折衷の離れがあり、複数の白壁の土蔵が周囲を囲んでおり、往時の典型的な豪商屋敷の姿をそのまま残しています。しかし、戦後の昭和30年(1955)頃、柳窪と称するこの地域にも東京のベッドタウン開発の波が押し寄せます。当時は、この辺りは未だ国木田独歩が描いた武蔵野の面影を残していたので、その存続を願う村野家では、周辺地元有志にもその趣旨を伝えて同意を得、共に当局に働きかけて、平成2年(1990)屋敷全体を「市街化調整区域」へ編入することに成功し、開発の波に飲込まれるのを避けたのです。そのお陰で、さらに平成7年(1995)にはこの一帯が東京都によって柳窪緑地保全地域と指定され、顧想園は緑の島と言われる広大な緑地保全地域の象徴的な施設の一つとして残ることになりました。その後、平成23年(2011)には庭園内の7件の建造物(主屋、離れ、土蔵、穀蔵、新蔵、薬医門、中雀門)が國の登録有形文化財の認定を受け、柳窪緑地保全地域の名所となっています。(写真4,5、6、7、8、9)その顧想園では、来訪者に文化財を見せるだけでなく、定期的に音楽会、講演会を開催して都心や近県からの鑑賞者を積極的に招く活動を続けていますので、令和4年(2022)には園主の村野美代子さんは東久留米市から文化功労者として表彰されています。歴史的古民家は東京近郊の各地にも存在し展示されていますが、多くの場合は単体の建物だけであり、かつ、現在は実用に供されていないものばかりですが、顧想園は、多数の建物が往時の生活様式を示したまま配置されていて、しかも村野家の人々が現在も庭園内の一郭に住んで使用し、管理しているのです。これぞ活きている歴史的展示物と言えます。なお、活きている証拠は裏庭にもあります。そこにはテニスコート一面は十分ある広さの茶園があり、訪ねた四月には新芽鮮やかな茶畑の上に鯉幟が泳いでいました。(写真10)武蔵野撮影に興味を持つ写真家の田沼武能氏(元日本写真家協会会長)は顧想園を訪れ、都内にこんな屋敷が残っていたのかと感動し、写真家の東松友一氏と共に数年掛けて顧想園を撮影し、写真集「顧想園」を出版しています。顧想園では平成時代を通して園内の文化財保存工事を年々続けていましたが、昨年の令和4年には主屋の茅葺き屋根の大修理工事を終えて、いよいよ新装開園の運びとなりました。コロナ明けの今年には、是非活きている古民家庭園を訪ねて見たら如何ですか。(以上)写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8写真9写真10
2024.02.19
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東京で花街だったところには今でも旨い物屋が多いそうです。昔の花街は三業地と言いいまして芸者屋と待合と割烹料理屋が軒を連ねていたたところでしたから、高級割烹料理屋の名残りがあるためでしょう。浅草、新橋、人形町には江戸時代から花街がありましたが、震災、戦災で焼かれたこともあり、往時の名残りは見つかりませんが、戦災に遭わなかった根津や湯島などに古風な料理屋が残っています。根津の裏通りを歩いていたら木造三階だけの料理屋がありました。今では串揚げ専門店として有名な「はん亭」ですが、これも根津遊郭の近くの割烹料理屋の名残でしょう。一葉記念館を訪れた後、足を伸ばして土手通りを行くと古い木造の天麩羅屋と桜鍋料理屋が並んで建っていました。ここは吉原大門の近くですから花街近くの旨い物屋の名残でしょう。いずれも戦災を免れた古い木造の建物なので花街の名残りを感じさせます。(写真1、2)江戸時代に大山街道の休憩所だった道玄坂上の円山町には130年ほど前から花街があり、大正時代には賑やかな三業地だったそうです。渋谷の円山町は今ではラブホテルが集積する地域ですが、三業地名残りの高級料理屋が未だ一、二軒営業しています。(写真3)都内に続々と起ち上がる超高層ビルには、都市景観を楽しみながら食事できる高級レストランが数多く出店していますが、昔の花街近くで、下町に残る江戸の郷愁を感じさせる古風な木造の料亭や食事処で静かに食事を楽しむのもよいものでしょう。以上写真1 根津の串揚げ専門店「はん亭」写真2 土手通りの天麩羅屋と桜鍋料理屋写真3 渋谷円山町の高級料理屋
2024.01.27
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西新宿の淀橋浄水場跡地が再開発されて、そこに超高層のビル群が起ち上がったのが東京の都市高層化の第一波でした。平成3年(1991)に都庁が新宿移転してこの第一波は完了しましたが、その後、都内の各地に次々と超高層ビルが建ち並び、令和3年(2021)の東京オリンピック頃までに、超高層化の波は都内をほぼ一巡した感がありました。ところが今、JR新宿ターミナル駅周辺で超高層ビル建設の波が再び現れています。新宿西口のバス・ターミナルを囲むように立地している中層階ビルが次々に超高層化される計画が進んでいるのです。先ず、小田急デパートの解体作業が始まりましたが、それより先、2023年に西武新宿線の新宿駅の隣りに高さ225 m、48階建ての東急歌舞伎町タワーが出現したのです。〔写真1)この度建設された東急歌舞伎町タワーは、以前映画館ミラノ座があったところで新宿歌舞伎町の西端に位置し、若者の集まるシネシティ広場に面しています。と言うことは新宿歌舞伎町のもう一つの超高層ビル、新宿東宝ビル(高130 m、地上31階)とシネシティ広場を挟んで対峙する形とになりました。(写真2)歌舞伎町の二つの超高層ビルの中には、高級ホテル、映画館、ライブホール、レストラン、ゲームセンターとほぼ似たような施設が入っていて、ビル内に入れば、一つの街中に居ることになります。ですから特別の興味がなければビル外の歓楽街に出る必要はありません。(写真3、4)しかし二つの超高層ビルの間にあるシネシティ広場には、二つの超高層ビルに遊びに来る若者達の出会いの場所として賑わいは増しているようです。雑然としている歌舞伎町内では貴重な空間と言えましょう。(写真5、6)10年前、このブログ「東京今昔物語」で「新宿歌舞伎町 由緒ある歓楽街は変身する 2013,7,26」という題名で、コマ劇場の跡地に出現した新宿東宝ビル(高層ビル)の出現で従来の歌舞伎町のイメージを大きく変わることになるだろうと予想しました。しかし、バー、キャバレー、ホストクラブなどが営業し、周辺にはラブホテルが密集している欲望の迷宮都市、歌舞伎町は残念ながらその様相は変わりませんでした。今また、歌舞伎町にもう一つの超高層ビル、東急歌舞伎町タワーが出現しましたが、これも歌舞伎町の町並みの姿を変える力は無いでしょう。超高層ビルは、その建物の中だけで一つの街を形成しているので、ビルの外の町並みとの関連が薄いからです。冒頭に紹介した淀橋浄水場跡地の超高層ビル群の間に商店街が生まれないのは、高層ビル内で一つの街が完結するからです。最近、警察庁長官が歌舞伎町を視察して「悪質ホストクラブを徹底的に取り締まる」と発言していました。ホストクラブで遊ぶ若い女性達が過大な料金をツケで貯めて、その支払いに売春行為を強要される事件が多発しているからです。被害者が男から女に変わっただけで、欲望の迷宮都市、歌舞伎町は変わらないのです。以上 写真1 東急歌舞伎町タワー写真2 新宿東宝ビル写真3 東急歌舞伎町タワーの内部写真4 東急歌舞伎町タワーの内部写真5 シネシティ広場写真6 シネシティ広場
2023.12.25
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飛鳥山公園は江戸時代に桜見物の名所として開発されたところで、今でも上野と隅田川の桜と並んで東京の三大桜見物の名所です。飛鳥山と言いますから人は都内に山があったのかと思いますが、ここは武蔵野台地の北東端に位置し、隅田川、荒川が流れる東京低地との境界線ですが、東京低地から見ると小山のよう高く見えるので飛鳥山と呼ばれたのです。今は樹木が茂っていて公園から東京低地の眺望はよくありませんが、徳川吉宗が江戸町民の行楽の場所として桜を植えた頃は、江戸の高台として眺望の良い花見の場所だったことでしょう。明治の実業家渋沢栄一が飛鳥山に別荘を設けたのも、その地勢の良さからだったからでしょう。飛鳥山公園内には桜を始め種々の樹木が植えられていて、その林の中を起伏のある変化に富んだ散歩道が循環しています。桜の咲く頃は、多くの花見客が桜の林の中にシーツを敷いて宴会を開いていますが、木の葉が落ちた晩秋には、公園内は都内とは思えない自然の静けさが支配します。(1、2、3)都内には大名屋敷跡を日本庭園として公開して場所が幾つかありますが、人工的に誂えた庭園よりも、都内に居て四季を通じて自然を感じさせる公園は飛鳥山以外には余り見る事はありません。自然が残る飛鳥山公園に遊んでみませんか。(5,6)以上写真1写真2写真3写真4写真5写真6
2023.11.17
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大正時代に洪水防止のため荒川排水路(今の荒川下流)が開削される前までは、隅田川は荒川の下流でもありましたから、江戸時代に大川と呼ばれた隅田川は水量も豊かであり、きれいな水が流れていました。歌舞伎の一場面で、早春の隅田川では小舟が漁り火を焚いて白魚漁をする情景が演じられていますが、白魚は清流にしか棲まない小魚ですから、当時の隅田川は川底も見えるほど澄んだ川だったのです。昭和時代になりますと隅田川上流地域に大規模な化学工場などが進出し町工場も増加して、戦前には既に隅田川はどぶ川のように汚れてしまいます。永井荷風の「墨東奇譚」や吉行淳之介の「原色の街」は、いずれも隅田川の東岸の花街を舞台にした小説ですが、それらの小説の中で描かれた戦前の隅田川の水は既に醜悪そのものになっています。東京大空襲で東京が廃墟になった一時期は工場の活動が止まったこともあって、隅田川は昔の清流に戻りましたが、戦後に工場も復活し人口集中が進むと、再び工業汚水と生活排水で隅田川の水質は悪くなります。隅田川の流れは墨汁のように黒くなって「墨だ川」と揶揄される程に汚れ、隅田川の水の臭気は両岸一帯の町中にまで広がりました。そのような隅田川には、汚泥海洋投棄の作業船が隅田川を行き来していた時代が暫く続き、まさに隅田川そのものが東京の下水道になっていたのです。(写真1、2)しかし、昭和45年(1970)公害対策基本法が制定されて工業汚水や生活排水の排出規制が強化されて以降、隅田川の汚染状況は徐々に改善され、平成の頃(2000年の頃)には隅田川の水も年々綺麗になっていき、上流から中流の墨田川の岸辺で釣り人が隅田川に糸を垂れている光景が見られるようになりました。今では浅草の乗船場から浜離宮やお台場の間を遊覧船や屋形船が頻繁に往来しています。(以上)写真1 汚泥を東京湾に捨てて隅田川を戻る汚泥廃船船写真2 隅田川を下る廃棄船の汚泥
2023.10.14
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古代文明は森林を失って滅びたと言われます。現代でも西欧では殆どが人工林で自然林は消滅していると言われます。しかし、日本にはその自然林が数多く残されていると、フランスの人類学者で神話学者のクロード・レヴィー=ストロース氏は言います。そして、それは日本人の自然に対する尊敬の念に原因があると言うのです。同氏は日本の文化人類学者の川田順造氏との対談で、日本の総面積の七五パーセントは開発されないままの状態である、西欧では森林を開発後に保護を試みてはいるが、日本では森林を手つかずに残して自然を尊重しているからだと述べています。神話学者でもある同氏は別の著書で、日本に原生林が数多く残っている原因は神道の自然崇拝にあると見抜いていました。そう言えば神社は必ずと言っていいほど鎮守の森に囲まれています。そして明治神宮を代々木の練兵場跡地に創建するときには、全国から数多くの樹木を集めてきて植林し、その森を自然林として育成し、明治神宮の鎮守の森としました。造林開始から100年後には鎮守の森の計画は見事に成就しました。その後も、明治の森には人手を入れずに樹木の自生に任せており、従って今では樹林の樹種構成は原生林の姿になっています。このように東京の大都会の真ん中に人工で始まった広大な原生林が誕生した姿を見て、クロード・レヴィー=ストロース氏は今度はなんと言うでしょうか。(以上)
2023.09.25
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東京で下町と言われる地域の殆どは、東京湾を埋め立てて拡大してきたところです。ですから昔から下町には絶えず東京湾からの潮風が流れ込んでいました。しかも東京湾は内海ですから海風は穏やかであり、戦前の東京の下町は、温暖で湿潤な住みよい環境の町だったのです。しかし、戦後になると下町の海浜は、臨海工業地帯となったり、都市ゴミの捨場となったりして、海水浴や潮干狩りが出来た海辺は消えていきます。更に東京への集中が始まり下町の臨海地帯にも高層ビルが建ち並ぶようになると、心地よい東京湾からの潮風は遮られて下町に入らなくなり、戦前にあった海の薫りは下町から消え去りました。他方、東京の一極集中が進んだ結果、都心部では都市過密の弊害が生じてきました。そこで、都心部の都市機能を移転させる新しい場所として目を付けられたのが海浜部に存在するお台場でした。都心部に溢れる都市機能の一部を海辺に移転させようという計画です。お台場は、その名の通り砲台を設置するため海中に造られた土塁です。開国を迫る欧米諸国の軍艦が江戸湾に侵入するのを防ぐため江戸幕府が築いた土塁です。ですから、ここは、海に突き出た離れ島で、海の光と風に満ちた自然の溢れる場所でした。そのお台場の一つを核として埋立造成したのが現在のお台場新都市です。いま仕事やレジャーでお台場を訪れる人々は、広いお台場全域にわたって、オフィスビル街が建ち並び、各種の研究機関が進出し、エンターテイメント施設が配置され、素晴らしい近代都市が誕生したのを眺めることが出来ます。すっかり都市化したお台場の海は、波しずかで海風も穏やかな池のように静です。(写真1、2、3)しかし、ここに海浜都市は建設される前のお台場は、遙かに野趣に富んだ海岸でした。遠くまですすき野原が広がり、海岸線は自然の儘に湾曲し、遠くの対岸には荷揚げクレーンが並び、沖から強い海風が吹き込んで海面は波立ち、その海風を受けて疾走するウインドウ・サーファーを見ることができました。酷暑の最中に、爽やかで涼しかった昔のお台場風景を思い出しました。(写真4、5、6)(以上)写真1 お台場に建ち並ぶオフィスビルの街区写真2 お台場海浜公園にあるエンターテイメント施設ビル写真3 お台場海浜公園の海岸風景は波静か写真4 お台場開発前のすすき野の原野 写真5 開発前のお台場の自然な浜辺の風景写真6 お台場海浜で沖からの強い海風を受けて疾走するウインドウ・サーファーたち
2023.08.09
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バブル崩壊で日本経済は長いデフレに落ち込んで経済停滞が20年、いや30年も続いたと言うのに東京の高層ビル建設ラッシュは止まりません。東京は都市計画が無いのに等しく、雨後の筍のように不規則に伸び出す高層ビルで東京の都市景観は乱れに乱れています。(写真1)道幅は狭くても沿道のビルに高さ制限はないので、道行く人の空が狭くなり町並みが暗くなっても構わないのです。町並みを通してみると、東京タワーさえ低く見えてきます。(写真2)ふと見ると立ち退かないで居続ける二階建ての商店街ありました。その商店街は立ち退きに応じないのでしょう、やむなく高層ビルはその後ろに一歩後退して建ちました。そこで、ここの部分だけは、期せずして道幅に見合う高層ビル街が出現しました。そこは六本木の外苑東通りの一区画です(写真3)以上人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1写真2写真3"0" alt="" name="insertImg" />
2023.07.04
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隅田川の東側を墨東(ぼくとう)と言って馴染んだ永井荷風は、その更に東にある荒川放水路の堤防の突端に立って、その広漠たる風景を見て東京の滅亡を感じたと言います。戦後しばらくの間も荒川の向こう側の足立区、葛飾区、江戸川区では、多くの町は賑わいは少なく寂れていました。映画「男はつらいよ」の寅さんの実家、葛飾柴又の江戸川沿いには今でも田園風景が広がっています。中でも荒川の向こう側で最北に位置する足立区は最近まで東京の僻地と言われました。鉄道を敷く程交通量がないということで、この地域に長いこと都心部からの公共交通機関の鉄道が敷かれなかったからでした。ところが鉄道に代わるモノレールなら採算がとれるというので平成20年(2008)にモノレールが敷設されました。現在の日暮里・舎人ライナーです。モノレールは鉄道に比べて速度と輸送量で劣りますが、その軌道は公道の上空に建設できたので安く早く完成できました。またコンピュータ制御による自動運転の新交通システムを採用したので運営経費も安上がりです。(写真1、2、3)日暮里・舎人ライナーの路線は、日暮里から終点まで殆ど尾久橋通りの上を約10km程走り、停車駅は13個もあり、地域にとって路面電車並みの便利さがあります。公道の上空を走りますが、高速道路のように幅広く地上を覆い被さり町を暗くすることも無く、車輪にゴムタイヤを使うので騒音も少なく、誠に地域の環境に優しい交通機関です。しかも車窓からは周囲の景色を俯瞰して見えるので乗客にも喜ばれます。始発駅の日暮里を出て高層ビルの間を走りますが、やがて下町街の屋根風景が続き、やがて緑の風景が増えてきて、樹木が現れて突然森林地帯かと思える駅に止まりました。そこは自然の樹林と広い庭園公園と競技場などのある舎人公園でした。(写真4、5、6)舎人公園は森と池とスポーツ施設のある、東京都内では水元公園、葛西臨海公園に次いで三番目に広い公園です。今や東京の僻地と言われた足立区の郊外は、都心から短時間で行ける緑豊かな行楽地に様変わりです。更には今後は東京の快適なベッドタウンに変身するでしょう。(写真7、8)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1写真2写真3写真4写真5写真6写真7写真8
2023.05.26
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高架高速道路は東京都心部では大抵地上の道路の上空を走るか、用排水路の上空を走ります。場合によっては用排水路を埋め立てて地下道路となりますが、そのケースは少ないです。先進国の主要都市では都市の上空を走る高架高速道路は都市景観を悪くするので建設されることはありません。一旦建設されても後に景観を悪くすると批判されて地下道路に付け替えられています。高架高速道路網が高層ビルの間を縫うように走る東京の町を機上から見た或る外国人は、スパゲッテーをばらまいたような町だと批判していましたが、日本では都市交通の便利さを優先して都市景観の悪さを嘆く声は少ないようです。しかし、流石に日本橋の上空を走る高速道路には苦情が出て、付け替えの計画が持ち上がっていますが、膨大な費用が掛かるので実現する時がいつかは分かりません。ところが、市街地を離れて郊外の河川に沿って走る高架高速道路となると、巨大人工物は意外な自然風景を演出するものです。それは見方によっては、長大な堤防と広大な河川敷の装飾品として存在感を示します。特に都心からの高速道路と接続する、通称ジャンクション部分はアートです。首都高速環状線は荒川の東岸沿いに荒川土手の上空を走っていますが、都心からの高速道路と接続する江北ジャンクション、堀切ジャンクション、小松川ジャンクションの風景は巨大なパブリック・アートを見る感があります。ドライブしながら眺めるには、江北ジャンクションを見るなら五色桜大橋を渡りながら、堀切ジャンクションを見るなら新荒川橋を渡りながら、小松川ジャンクションを見るなら荒川大橋を渡りながらが良いでしょう。高速道路が接続するジャンクションのダイナミックな構造美を観察するには荒川土手に降り立ってみると良いでしょう。土手の下から見ても土手に登って見ても、湾曲している高速道路は荒川土手に沿って大きく弧を描いて伸びています。(写真1、2)振り替えると、今渡ってきた五色桜大橋が荒川の上に大きな円を描いて跨がっています。これは世界初の2層構造のダブルデッキ・ニールセンローゼ橋と言うものだそうです。上層部が板橋方面へ、下層部が江北方面へ行くデッキです。(写真3)大正時代の東京の町を観察し、近代化で消えゆく過去の町の姿を惜しんで「日和下駄」を書いた永井荷風は、震災後に荒川放水路の堤防の突端に立って、放水路の広漠たる風景に滅亡そのものの象徴を見ていますが、高架高速道路が駆け巡る荒川土手に都市エネルギーの発散の跡と見ることも出来るのです。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1写真2写真3
2023.04.08
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寒い日が続きますが、この季節に人気があるのは鍋料理で、その一つに泥鰌鍋(どじょうなべ)があります。泥鰌料理は江戸時代からあった古い料理で、今でも浅草、本所、深川には江戸の伝統料理として食べさせる泥鰌料理屋が数軒あります。江戸情緒が残る淺草界隈では、町人文化が栄えた文化文政時代に駒形橋の袂で開業した老舗の「駒形どぜう」があり、国際通りから河童橋本通りに入って直ぐ右手に「どぜう飯田屋」があり、隅田川を吾妻橋で渡って少し行くと右手に「どぜう平井」があります。(写真1,2、3)いずれも泥鰌を「どぜう」と書いた看板を掲げて営業していますが、「どぜう」という表記は、江戸時代から戦前まで使われていた歴史的仮名遣いであって、奇を衒った表記ではありません。文芸評論家の福田恆存氏は「表記法は音にではなく、語に隨ふべし」と云っていますから、歴史的仮名遣いで「どぜう」と書くのは文学的にも正しいことなのです。江戸時代から土用の丑の日に鰻を食べる習わしがありましたが、「どぜう」もカロリーが低いのにビタミン類を豊富に含み、カルシウムも含む優れたれ食べ物でしたから、冬だけでなく暑い夏にもスタミナ料理として広く食べていました。「どぜう」は泥臭い魚ですから、臭い消しに煮込んだ泥鰌の上に輪切りの長ネギを沢山掛けて食べます。骨と内臓を抜いて煮込むどぜう鍋と、まるごと煮込むどぜう鍋がありますが、まるごと煮込む鍋は、内臓の苦みがあるので食通は渋い味と言って好むそうです。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 どぜう 駒形写真2 どぜう 飯田屋写真3 どぜう 平井
2023.02.19
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小泉八雲は明治時代に来日し、東大で英文学を教えたり、また松江・熊本・神戸など日本の各地で日本人の初期英語教育に尽力し、その間、日本文化に関する著書を数多く書き、欧米に日本文化を紹介したアイルランド人です。その英語名はラフカデオ・ハーンと言います。小泉八雲は、イギリス陸軍の軍医だった父がギリシャ勤務中に産まれ、帰国後、両親が離婚したので厳格なカトリック教徒だった大叔母に育てられました。その大叔母に妖精を見た経験を語ったところ、そんなものは存在しないと厳しく叱責されてから、キリスト教嫌いになったと言われます。長じて世界各地を放浪して来日して、日本では幼い頃の体験談が普通に語られているのに心の安らぎを得たと語っています。日本各地に伝わる伝説などを元にした民話を題材にした有名な「怪談」は、その成果の一つなのです。小泉八雲は、松江に滞在していたとき、その土地の日本人女性と結婚して、後に日本に帰化しました。明治37年(1904)に狭心症で東京新宿の大久保で亡くなり、お墓は東京雑司ヶ谷霊園にあります。小泉八雲終焉の地の路地に彼の碑が建っていますが、その碑の近くに「小泉八雲記念公園」があります。小さな公園ですけれど花壇を中心にした垢抜けした公園で、公衆便所の建屋まで瀟洒た造りです。公園内には小泉八雲の胸像があり、その前の花壇の後ろに並べて建てられた白い石柱の構造物は、小泉八雲の生誕地、ギリシャをイメージしたものだそうです。(写真1、2、3、4、5)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 小泉八雲旧居跡の碑写真2 小泉八雲の胸像写真3 胸像の前の花壇写真4 花壇の端にある瀟洒な公衆便所写真5 花壇の後ろにある石柱
2023.01.19
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東京の下町と言われる地域の殆どは、東京湾を埋め立てて拡大してきた処ですから、東京湾の最奥に位置していて、絶えず東京湾からの潮風が豊かに流れ込んでいました。しかも東京湾は内海ですから穏やかであり、東京都内でも戦前の下町は温暖で湿潤な住みよい環境の町でした。しかし、戦後になると下町の海浜地帯は臨海工業用地や都市ゴミの捨場として次々と埋め立てられいき、戦前には海水浴や潮干狩りが出来た海辺は無くなりました。更に戦後のある時期から下町の臨海地帯にも高層ビルが盛んに建ち並ぶようになり、心地よい東京湾の潮風は遮られて下町に入らなくなり、熱帯夜の悩まされるようになります。他方、東京の都心部には諸産業の頭脳部分に当たる本社機能の集中し、また都市生活快適さを満たす商業や娯楽産業も集中し、オフィスビル、ショッピングビル等が次々と建設されて、都市過密の弊害が生じてきました。そこで、都心部に溢れる都市機能を移転させる新しい場所として目を付けたのがお台場でした。いま仕事やレジャーでお台場を訪れる人々は、広いお台場全域に、エンターテイメント施設が配置され、オフィスビル街が建ち並び、素晴らしい近代都市が誕生したのを眺めることが出来ます。その結果、レインボーブリッジを眺めようとお台場海浜公園の岸辺から眼前に広がる海面に目をやると、その海面は中庭の池のように静かです。(写真1、2)しかし、この場所は、江戸幕府が開国を迫る欧米諸国の江戸湾侵攻を防ぐため築いた土塁の一つを核として埋立造成したものでしたから、開発前までは、光と風が溢れた自然の海岸でした。遠くまですすき野原が広がり、海岸線は自然の儘に湾曲し、日によって東京湾からの海風が強く吹き込んで海面は波立ち、程よい海風を受けて疾走するウインドウサーフィンを楽しむ人々で賑わっていました。今は、こうして一つの都市の誕生で、都心の近くに残された数少ない自然の海浜が消えてしまったことを嘆く人は数少ないのです。(写真3、4、5)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 現在のお台場写真2 現在のお台場写真3 開発前のお台場写真4 開発前のお台場写真5 開発前のお台場
2022.12.18
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山手線の高輪ゲートウエイ新駅は、東京オリンピック開催に間に合うよう令和2年(2020)慌てて開業しました。当時は山手線では西日暮里駅が誕生(1971)して以来、半世紀ぶりに新駅増設ということで大変話題になりました。三階建ての駅舎は、建築家隈研吾の設計になると言われますが、外観は軽やかな風貌の造りで、プラットホームは明る折紙式の和風の屋根をもち、国鉄時代の駅舎の多くが無骨で無表情で画一的な駅舎に比べると、垢抜けのしたものになっています。(写真1,2)高輪ゲートウエイ駅の現在の改札口は、駅舎の二階の泉岳寺側に一カ所あるだけですが、改札から駅構内に入ると、そこは駅舎二階の広場です。この広場からからは駅の左右の景色を見通すことが出来る展望台のような造りです。(写真3、4)二階の広場の中程にピアノが一台置いてあって誰でも自由に弾ける遊びの場になっています。三階にはコーヒーショップが一軒あるだけですが、将来は色々の店舗が入るとのこと、三階建ての駅舎は、待ち合わせの場所にもなりそうです。(写真5、6)しかしながら、山手線の日暮里、田端の両駅の間に西日暮里駅が新設されたのは、山手線と東京メトロ千代田線との接続を図るための乗換駅が必要であったからですが、高輪ゲートウエイ駅は他の線路との接続は無く、それに品川、田町の両駅が特に離れているわけでもありません。新駅増設は、隣接する約20ヘクタールある旧田町車両センターの再開発のためなのです。JR東日本鉄道が自己所有地の開発事業を成功させるため、公共交通の山手線の全体の輸送効率を低下させる虞のある新駅を増設するのは、私は鉄道事業の本務を忘れた行為かと思いましたが、当時の世論では、そういう批判は聞きませんでした。しかし駅名の決定に際しましては、公募しながら上位三位までの「高輪」「芝浦」「泉岳寺」を採用せず、130位の「高輪ゲートウエイ」に決めたことについて、世間からは反対意見が噴出し、特にカタカナ名への反撥が多かったのですが、JR東日本鉄道は変えるつもりはない、駅名を浸透させる努力をすると返答したそうです。その理由として、この場所が古来より江戸の玄関口であった「高輪大木戸」があったところなので、ゲートウエイの駅名は相応しいなどと強弁していますが、2年後(2024)に完成する「高輪ゲートウェイシティ」のゲートウエイにするつもりなのです。(写真7)高輪ゲートウエイ駅のすぐ隣に品川駅がありますが、この品川駅の海側は嘗て貨物ターミナルや新幹線車両基地があったところで、10年余り前にJR東日本鉄道が再開発して、今では品川グランドコモンズのように立派な高層ビル群が建ち並んでいます。品川駅はJR東海鉄道の始発駅でもあり、品川駅南側の再開発は成功例に挙げられていますから、近傍の旧田町車両センターの再開発でも、JR東日本鉄道は二匹目の泥鰌を狙い、高輪ゲートウエイ新駅を開設したのでしょう。(写真8)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 高輪ゲートウエイ駅 駅舎全景写真2 プラットホームの屋根写真3 駅舎二階からの展望写真4 駅舎二階からの展望写真5駅舎二階にあるピアノ演奏場写真6 駅舎三階のコーヒーショップ写真7 高輪ゲートウエイシティの工事現場写真8 品川グランドコモンズのビル群
2022.11.15
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東京の新宿区に百人町という町があります。その名の由来は江戸時代に鉄砲組百人隊が住んでいたことによります。百人町は、山手線の新大久保駅からほど近くにあり、山手線と中央線に囲まれた地域です。鉄砲組百人隊は江戸城大手三の門前の守備隊でした。大手三の門は大手門から入城した大名などが籠から下ろされ、従者などが待たされる第二関門でして、大手三ノ門の警備は鉄砲百人組の与力・同心(甲賀組・根来組・伊賀組)が受け持ったと言われます。百人町では、その鉄砲組百人隊が武士姿で行進する行事が戦後も復活しており、皆中稲荷神社例大祭には「江戸幕府 鉄炮組百人隊出陣の儀」として鉄砲組の出陣式が神社に奉納されます。神社の名前の「皆中」は、鉄砲組の鉄砲は「皆当たる」との縁起をかついだのでしょう。(写真1)東京の郊外だった百人町界隈は、大正時代に山手線が開通すると山の手の住宅地となり、地の利がよいため作家、詩人、画家、学者など多数住み着いて、文化的土地柄になりました。しかし百人町は新宿歓楽街にも近かったので、戦後のある時期から町のメインストリートと言うべき大久保通りは、新宿から溢れ出る賑わいが流れ込んで大いに賑わいました。(写真2)しかし、近年は大久保通り周辺には途上国からの居住者、来訪者が増えて、多国籍の食堂、食料品店も多くなり、都内でも独特の町並みとなりました。特に山手線内側の大久保通り(職安通り)は韓国系の店舗が多く、山の手のコリアタウンとして韓流ブーム盛んな頃は大いに賑わいましたが、韓国の反日運動の所為で今は沈静化しています。(写真3、4、5)百人町が江戸の軍隊の町からの戦後の住宅地、商業地、外国人の町へと変遷したのは時代の変化を受けたためですが、同じ事は東京の中心街でも、大規模に起きていることで、例えば六本木は戦前は軍隊の町であり、戦後は高級歓楽街となり、その後は一部はオフィス街に変身しています。町は時代と共に変容する生き物なのです。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1写真2写真3写真4写真5
2022.10.16
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小学校唱歌「春の小川」は明治時代の国文学者、高野辰之が作詞した歌です。故郷長野から上京した高野辰之は、当時東京の郊外だった代々木に住み、未だ武蔵野の面影が残る住居付近を散策して、故郷長野を思い出して作詞したのでしょう。春の小川はさらさら流る岸のすみれやれんげの花に匂いめでたく、色うつくしく咲けよ咲けよと、ささやく如く高野辰之の住居跡の前に標識が立っていて、家の門柱には高野という表札が、今も附いています。(写真1)高野住居跡の前の道を少し西へ行くと、嘗て刀剣博物館があった付近に春の小川の水源池がありました。その水源地は地下水がわき出して出来た池で、大きな屋敷の庭の池でもありました。(写真2) 写真の左手の窪地が池でした。今はその大きな屋敷は取り壊されて、その跡にマンションが建ち、春の小川の水源池はマンションの下に埋められて姿は見えなくなりました。しかし、そのマンション前の電柱には「春の小川の水源地はここ」との矢印の看板は残っています。(写真3)春の小川は、水源池から小田急線に沿って流れる河骨川に注ぎ、その河骨川は更に渋谷繁華街の宇田川町を流れる宇田川に注ぎ、渋谷駅近くで渋谷川に合流します。しかしそれまでの間、春の小川は全て暗渠となって姿を見せません。(写真4)代々木小公園に立つ春の小川記念碑に、「春の小川」は高野辰之が河骨川の岸辺を散策して作詞したと書いてありました。(写真5)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 高野辰之の住居跡写真2 春の小川の水源池のあった屋敷写真3 春の小川の水源池を示す電柱の看板写真4 小田急線沿いの河骨川暗渠を示す電柱標識写真5 代々木小公園に立つ春の小川記念碑
2022.09.07
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7月末の隅田川の花火大会はコロナ禍の所為で今年も中止となり、これで3年連続の中止です。江戸時代に疫病退治を祈願して始めた花火大会ですが、令和の時代には、逆に疫病のため花火大会が退治されるとは、随分皮肉な話です。スポーツ、音楽会などは既に平常に戻りつつありますし、各地の夏祭りも再開されています。7月の京都祇園祭り、8月の青森のねぶた祭り、土佐よさこい祭りなど、日本の代表的な夏祭りは、いずれも3年ぶりに再開です。しかし隅田川の花火は今年も見れませんでしたので、花火が打ち上げられる前の、隅田川花火大会の雰囲気だけを、コロナ禍前の写真でご覧に入れます。私は駒形橋の近くに親戚のビルがありまして、そのビルの屋上から毎年のように隅田川花火を見ていましたので、花火当日の午後には早いうちから駒形橋や吾妻橋を渡り歩いて、着物姿で花火見物に来る人々、待ちくたびれて橋の上から川面を眺める人々を眺めて、花火打ち上げ前から盛り上がる花火大会の空気を愉しみました。(写真1、2)隅田川の橋上は、花火打ち上げが始まると一方通行に規制されて、更に立ち止まる事も禁止されるので、橋上からの見物は今のうちと、川面に浮かぶ花火打上船の準備状況や、川面に集結する花火見物船を観察しました。(写真3、4)路上で花火見物の人々は、早くも場所取りに縁石に腰掛けており、見物に良い場所にはぎっしり並んでいます。花火打ち上げが始まり、見事な花火が打ち上げられると、路上観覧席から感嘆のどよめきの声が上がります。そのどよめきは、近くのビルの屋上にいる私たちにも響いてきて、花火大会の雰囲気はいやが上にも盛り上がるのです。(写真5)来年は隅田川の花火をご覧にいれられることを願っています。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 写真2写真3写真4写真5
2022.08.22
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家康が拓いた江戸の町には全国から多くの武士や町民が集まってきて住みました。江戸は新興の町であり武士の町ですから、住んでいるのは独身者が多く、町では今で言う外食産業が盛んになります。そこで生まれた料理が江戸の四大料理と言われる蕎麦、天ぷら、握り鮨、鰻蒲焼きでした。中でも廉価で手軽な蕎麦は人気がありました。森銑三の「風俗往来」によりますと、更科蕎麦の誕生は次のような次第です。「更科そばは今から二百年前、今の日本橋馬喰町三丁目横町にあつた甲州屋と呼ぶそばやが、特にそばの名所産地信州更科のそば粉を取寄せて売出したのが抑ものやうに伝へられて居るが、今の更科は麻布永坂のが本家とされ、五代前、これも二百年ばかり昔に、信州の人で布屋太兵衡といふ人が、同所に経営したやうにも伝へられてゐる。」今では都内には更科蕎麦屋は数多くありますが、更科の本家と称するのは総本家永坂更科布屋太兵衛です。港区の麻布十番商店街にあり、5階建ての立派なビルの一階で営業しています。更科蕎麦の特徴は、ソバの実の中心部の粉、一番挽き粉を使った蕎麦で、白くてさっぱりしていて御膳蕎麦とも言われますが、蕎麦の風味に乏しいきらいがあります。(写真1)次に、藪蕎麦も更科と同じ頃、江戸に現れました。同じく森銑三の「風俗往来」によりますと、藪蕎麦の誕生は次のようです。「藪そばの起りは、伊賀上野の旧主藤堂家の大膳職を勤めてゐた三輪某、何の為にか御殿を辞して、これも更科と前後して、今の(千駄木)団子坂の路辺にあつた大きな藪原の傍らにそばやを営み、藪蕎麦と銘して売出したのが最初である。」現在の東京で藪蕎麦の本家と称するのは神田連雀町にある藪蕎麦です。創業は明治十三年(1880)と称していますが、その頃、団子坂の蔦屋という藪蕎麦屋を譲り受けたとのことですから現在の本家と言えるのでしょう。藪蕎麦の麺の色は緑色なのは蕎麦の若芽を練り込んだからで、見た目の清涼感を出すためだそうです。更科蕎麦のように白色にする必要が無いので一番挽き粉に拘る必要も無く、蕎麦の風味も残るでしょう。ところで、連雀町の藪蕎麦は関東大震災で焼失して再建した数寄屋造りの木造2階建ての店舗でして、東京大空襲にも遭わずに風情のある蕎麦屋でしたが、平成25年(2013)の失火で消失しました。森銑三は「風俗往来」で次のように嘆いています。「苦心を残されてゐた江戸そばの遺物は、一つ残らず焼け失せた。此程焼け跡に建てられたが、もう「神田のやぶ」の面影も薄い。テーブルに曲木椅子で、中腰になつてすするのでは、そばも根ッからうまくない。」(写真2)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。写真1 写真2
2022.07.25
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鹿児島県を訪ねたとき、市郊外に薩摩切子工芸という製作所があり、その近くに薩摩切子を展示販売している磯工芸館がありました。そこで、薩摩切子は、実は江戸切子から学んだものだと知りました。江戸時代末期に江戸町民が製造を始めたガラス細工に江戸切子がありましたが、薩摩藩は、地場産業振興のため江戸のガラス職人を招いて薩摩切子を作りだしたのだそうです。江戸切子は天保年間(1830~1844)に日本橋でガラス業を営んでいた加賀屋が金剛砂でガラス面に切子細工をしたのが始まりとされています。このように、切子とはカットグラス工法によるガラス工芸のことでして、その製品であるガラス細工を「切子」と言うのです。明治時代になって政府によって創設された品川硝子でガラス製品の製造が始まると、海外から吹き硝子技術、カット・摺り技術が導入さます。その技術を習得した者たちは、ヨーロッパで行われていた本格的なグラヴィール技法(回転軸の先に円盤を取り付けて研磨剤でガラス面を彫刻する技法)を用いて、明治の江戸切子を造り始めます。それが現代の江戸切子と言われるものです。 墨田区の錦糸町にある江戸切子館では江戸切子の展示販売を行っており、下町には江戸切子の工房が各所に散在しています。ガラスに色彩を着けて、多面的な切り口を施すと、その反射光が交錯して、ガラス器が輝きます。ダイヤモンドの輝きにも似て、ガラスを宝石に変える力があります。(写真1、2) なお、江戸切子は江戸町民だけの力で産み出したものでしたが、薩摩切子は薩摩藩という財政的後ろ盾があったので、薩摩独自の優れた切子作品を生み出しています。ですから、薩摩切子は現代の江戸切子とは味わいが大分違います。例えば薩摩切子には素地のガラスの表面に着色ガラス層を貼り付ける、色被せという技法を用いた重厚な作品もあります。明治に入り薩摩藩の事業は途絶えましたが、その後、古い薩摩切子の復元を目指した製造が始まり、薩摩切子の特色である、銅で発色させた赤硝子を復活させて、薩摩切子らしい特徴のある新しい製品を産み出しています。 (写真3)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 墨田区にある江戸切子館写真2 江戸切子写真3 薩摩切子
2022.06.10
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正岡子規といえば知らぬ人のない明治の俳人ですが、短い生涯を終えた晩年、根岸の里に住み、そこで亡くなりました。現代まで続く日本文学の一ジャンル、俳句を確立したのは江戸時代の芭蕉ですが、明治になって、革新を唱えて俳句に新風を吹き込んだのは正岡子規です。子規が俳句の世界を称揚して短歌の世界を批判したため、短歌の影が薄くなったと云われていますが、正岡子規が主張したのは、俳句の世界で流派をつくり自己満足していることを強烈に批判したのであって、短歌でも同じ現象が起きていていましたから、ついでに短歌にも同じ批判を浴びせただけなのです。正岡子規のエッセーに次のような行がありました。「土佐派、狩野派などいふ流派盛になりゆき古の画を学び師の筆を摸もするに至りて復画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌も同じ」と。俳号の子規という文字はホトトギスの別名ですが、ホトトギスは死ぬまで啼き続けると云われる鳥なので、肺結核で血を吐いた自分をその鳥になぞらえたのです。それほど強烈な意志を持つ子規でしたが、晩年は東京の隠居場所、静かな根岸の里に居を構え、最後まで俳句を作り続けました。根岸の里は、山手線鶯谷駅を東に出て少し歩いたところで、「根岸の里のわび住まい」という言葉があるように、如何にも俳人子規が住むのに相応しいところでした。根岸の里を隠居場所と云いましたのは、江戸時代に輪王寺宮の別邸「御隠殿」があったところだからです。輪王寺宮の「御隠殿」が設けられた時代は、そこは老松の林に包まれ、入谷田圃の風景が臨まれる長閑で静寂な江戸の奥座敷でした。時は下って明治になっても、上野台地の東北に位置する根岸は、音無川の流れに水鶏(クイナ)が囀り、ここから眺める月は美しく、根岸は観月の名所でした。子規の家の前の通りを昔は鶯横丁と云ったそうですから、梅が咲いて鶯が飛び交っていたのでしょう。今、子規が住んでいた家が子規庵として保存されています。コンクリートブロックで囲われた仕舞屋(しもたや)風の質素な家で、中庭を覗いたら、よしずに囲まれて朝顔などの花壇がありました。(写真1、2)嘗ての鶯横丁は、昔の位置のまま残っており、その横丁に面する家々の門扉には子規の俳句を書いた短冊が貼ってありました。鶯横丁の細い枝道には、子規が住んでいた頃のような草茂る路地もありました。時代を経ても根岸の里の風情は変わらないようです。(写真3、4)ところが、子規庵のある鶯横丁にも好ましくない変化が現れています。それは、戦後のある時期から鶯谷周辺に風俗ホテルが密集してピンクゾーンとなったことに始まります。そこから溢れれ出た風俗ホテルが鶯横丁にまで進出しているのです。子規を愛し、根岸の里を愛する地元人々の努力が、無為に終わらないよう願うばかりです。(写真5)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1写真2写真3写真4写真5
2022.04.23
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谷中、根津、千駄木は、山の手の下町として纏めて千駄木と呼ばれますが、中でも根津は根津神社の門前町として発展した歴史がありますので、往時には料理屋や飲食店が並ぶ賑わいがあったそうです。そして根津の町は戦災に遭わなかったこともあって、大正から昭和初期に建てられた建物が所々に今でも残っています。その一つが不忍通り沿いにある串揚げ屋のはん亭本店で、今では珍しい木造三階建ての建物で、国の登録有形文化財になっています。(写真1)一方、根津は職人の町でもありましたので、今では都内では見られない珍しい職人の店を散見します。根津神社参道を進むと、店頭に屏風、表具、襖額と看板を掲げ古風な木造商店が残っています。また藍染川を埋め立てた道路に面しては藍染業の店が今も営業しており、染物、洗張という看板を掲げておりました。(最近、古い建物が建て替えられてモダンになりましたが、写真は改装前の古風な店舗です)(写真2、3)更に、根津の町並みの裏通りには格子状に縦横に小道が続き、戦前からの木造家屋が軒を連ねて並んでいます。家の前に鉢植えが並び、公道が住民の中庭のようにつながっています。このような風景は本所、深川の下町にも見られる風景です。その小道を時々何が珍しいのか外国人観光客が散策していました。(写真4)西洋の整然とした町並みと違う、どこか雑然とした日本の町並みを東洋的猥雑さと批判していた嘗ての西洋の都市評論家の中には、今では住宅街の公道が住民の中庭のように草木で飾られている東京の下町を見て、言葉の使い方は違いますが Urban Village(町の中の村)と呼んで再評価しています。根津の裏通りを散策する外国観光客は、そういう人たちなのでしょう。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 写真2写真3写真4
2022.03.13
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谷中は寺町です。広大な谷中墓地は高台にありますが、墓地の西側は斜面となり、そこには大小数々の寺院が集まっています。そのうちの一つの観音寺の長い築地塀に沿って小道を行くと、道は深い階段となって谷中の低地に降り立ちます。初音の森の広場を背にして右手に曲がると岡倉天心記念公園があります。明治の開国で西洋文明の衝撃を受け、軍事と産業で西欧との格差を見せつけられた日本は、西欧に追いつくのに悪戦苦闘しますが、絵画芸術の世界でも欧米に対抗して奮闘したのが岡倉天心でした。岡倉天心は日本美の原点に立脚した新しい美術を実現しようと東京美術学校(現・東京芸大)や日本美術院を創設し、日本美の復権を目指したのです。訪れた記念公園は、岡倉天心が横山大観などの新進気鋭の画家達を糾合して新しい日本画革新運動を起こした日本美術院発祥の地です。岡倉天心の旧居跡に作られた公園内には、後に活動拠点を移転した茨城の五浦の六角堂を模した堂があり、堂内に平櫛田中作の岡倉天心像のコピーが据えてありました。(写真1、2、3)記念公園の少し先には夕焼け段々で有名な谷中銀座の町並みがありますが、これは昭和生まれであり、記念公園に来る途中、通り過ぎた築地塀のある観音寺は江戸時代の赤穂浪士ゆかりの寺です。岡倉天心記念公園は、明治、大正に活躍した岡倉天心、横山大観たちの拠点だったところで、谷中の町には江戸、明治、大正、昭和の各時代の活動の記録が隣り合わせになった場所があるのです。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 岡倉天心記念公園写真2 五浦の六角堂を模した堂写真3 平櫛田中作の岡倉天心像
2022.02.11
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東京大空襲で焼け野原となった東京の下町にも被害を免れた地域が所々に残っていますが、万世橋の袂の一廓に戦前の町並みを残した一廓があります。その区画は南北を神田川と靖国通りに挟まれ、東西を幅広い万世橋通りと昌平橋通りに囲まれていたので、戦火の延焼を免れたのです。この区画の北端を流れる神田川に沿って、万世橋から昌平橋に延びる煉瓦造りの長大な構築物がありますが、これは甲武鉄道のターミナル駅、即ち万世橋駅として建設されたもので、当時としては将来は現在の中央線と総武線を繋ぐ交通の要所となる筈のところでした。ターミナル駅前の一等地でしたから、この地域には戦前も早い時期から高級料理屋や飲食店などが建ち並びました。(写真1)しかしその後、中央線は東京駅が始発駅となり、総武線は秋葉原経由となり、万世橋駅は不要となり、駅周辺は発展から取り残されることになりました。その結果、取り残されたのが今日の静かな高級料理店街と言う訳です。今の東京には珍しくなった純日本風の木造建屋が数軒建ち並び、日本料理あんこう鍋、鳥すき焼き、甘味処などが狭い地域に纏まって建っています。この近くには若者で賑わう秋葉原電気街やサラリーマンで混み合う神田駅周辺の飲食街がありますが、この須田町の一郭は、それらとは対称的な静かな街区で、戦災前の東京の古い町並みの情緒を残すところとして人々を惹きつけています。(写真2、3、4)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 甲武鉄道のターミナル駅、即ち万世橋駅写真2 あんこう鍋写真3 鳥すき焼き写真4 甘味処
2022.01.17
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写真1写真2写真3戦前の神楽坂は、関東大震災で焼け出された下町の花街や商店街が移転してきて山の手銀座と言われる程の賑わう町となりましたが、戦後も花街の伝統を受け継いで、裏通りには多くの料亭、小料理屋が存在し、山の手の静かな料亭街として繁盛しています。それら料亭街には横丁と称する小道が曲がりくねった迷路のように延びており、初めて足を踏み入れた人は料亭の黒塀で囲まれて歩いて行くと、都会の中の隠れ場所に入り込む気持ちになります。その小道の一つに「かくれんぼ横丁」がありますが、正にその名の通り屈曲した小道を進むと行き止まりになっていたり、行き先が何処にたどり着くのか分からなくなります。小道の両側には料亭、小料理屋、天麩羅屋などが軒を連ねています。(写真1)「かくれんぼ横丁」の西隣にあるのが「兵庫横丁」という石畳の小道です。その道に沿って黒塀の旅館、料亭、飲食店などが黒尽くめの外装で並んでおり、旧い佇まいの裏道となっています。この「兵庫横丁」は鎌倉時代からの古道で、この界隈は武器商人の町のあったそうで、今でも古めかしい小道には歴史を感じます。(写真2)神楽坂の町の魅力は、メインストリートの神楽坂通りの路地裏にある、幾筋もの迷路のような小道にあります。そこに都会の秘めたる隠れ場所のような雰囲気があるからなのでしょう。昼間から若い人たちも多く訪れていました。(写真3)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ
2022.01.02
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昨年5月にこのブログ「東京今昔物語」の訪問者数が百万回を越えた機会に一冊の本に纏めて出版しました。「東京の街を歩いてみると知らない東京が見えてくる!」(幻冬舎)という題名です。ブログ「東京今昔物語」は令和3年7月に「寛永寺 灰燼に帰した寛永寺の跡地は上野公園に(2021.07.19)」を最後に掲載してから休載していましたが、令和4年より「東京今昔物語」を再開致します。しかし、脚力の衰えに抗しがたく、従来のような広範囲にわたる東京の街の観察は難しく、今年からは既に訪れた場所で新しい発見のあったところ、或いは新しく誕生して未だ訪れた事のないところ、それらに訪問箇所を絞って紹介することに致します。どうぞ、今まで通りご訪問下さるようお願い致します。(以上)
2022.01.02
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上野の山は、江戸末期の戊辰戦争で幕府軍の彰義隊と新政府の薩長軍とが激しい戦闘を行った唯一の場所です。大村益次郎率いる新政府軍は、現在の東京大学構内に最新式のアームストロング砲を据えて不忍池越えに寛永寺境内に多量の砲弾を打ち込んだと言います。その時の砲撃で生じた火災で、根本中堂を含む寛永寺の主要な伽藍の大半は焼失(慶応四年1868年)しました。残った遺跡も太平洋戦争の空襲で燃えて歴史的建造物の殆どは灰になりました。寛永寺の元敷地内で上野公園内に分散して残っている当時の建造物としては五重塔、清水観音堂であり、その他は徳川家の霊廟で唯一つ残った五代将軍綱吉の霊廟勅額門と水盤舎だけです。なお上野の山の入口、西郷銅像の近くにあった寛永寺の総門(黒門と言われる)は荒川区の円通寺に移築されて保存されています。(写真1、2、3)現在ある寛永寺の根本中堂は、明治十二年(1879年)に川越喜多院の本地堂を寛永寺の山内子院であった旧大慈院の跡地に移築し再建されたものです。と言うことは、寛永寺の境内は、嘗ては上野公園全域の広さであったのが、嘗ての子院の一つであった大慈院の境内の広さにまで狭められたということです。(写真4)徳川宗家の墓地は、谷中墓地の中に区画されて存在しますが、増上寺境内の将軍宝塔墓所ように公開されていません。しかし、徳川慶喜だけは徳川宗家の墓地と離れて一般の谷中墓地の中に建てられていますので参拝できます。慶喜は朝敵の汚名を赦免してくれた明治天皇に感謝の意を示すため神式で葬儀を行ったため、徳川宗家の墓地には入らず谷中霊園に埋葬されました。(写真5、6)寛永寺の復興が増上寺に較べて大きく見劣りするのは、維新後の明治政府の政策に依るところが大きかったのです。明治政府は、廃仏毀釈の中で寛永寺の復興は後回しにして、最初は上野の山に医学校や病院を建設する計画でした。しかし、そのために招聘した蘭医ボードウィンの意見によって、公園として活用することとなり、今日の上野公園が誕生したのです。なお上野の戦闘の傷跡としては、寛永寺の裏手、日暮里駅の近くにある経王寺の山門の門扉に弾痕が残っていて、これは寺に隠れた彰義隊の兵士を追ってきた新政府軍が撃った弾痕だと言われています。(写真7)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 徳川家霊廟全景 右端は霊廟勅額門 写真2 上野の森写真3 旧上野の黒門写真4 現在の寛永寺本堂写真5 徳川家墓苑写真6 徳川慶喜の墓写真7 経王寺写真 8 東京の街を歩いてみると(東京今昔物語の本) ご 報 告ここ十数年間、東京の街の写真を撮りながら観察した記録を写真ブログ「東京今昔物語」に書いて参りましたが、最近脚力が衰えてきて散策を続けるのが難しくなり、この辺で一区切り着けたいと思いました。幸い今日までにブログへは百万回を越える多くの訪問者がありましたので、東京の街の観察日記として一冊の本(写真8)にまとめてみました。長期間に亘る観察文ですから、全体としての纏まりが悪く読みにくい内容となりましたが、その時々の写真も並べましたので写真だけでも笑覧下されば幸甚です。なお、このブログ「東京今昔物語」は今後も月1回位の頻度で掲載を続けていきますので引き続きご高覧下されようお願い致します。(以上)
2021.07.19
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上野寛永寺は、芝増上寺と並ぶ徳川家の菩提寺として有名ですが、両者は寺院としての成立ちと性格が大分違います。増上寺は、室町時代から浄土宗の寺院として存在しており、家康が江戸に居城を構えたときに菩提寺に選んだのですが、寛永寺は、天台宗の僧、天海が江戸に天台宗の拠点となる寺院を望んだので、幕府が上野の山を与えて建立した寺でした。当初は、徳川家の祈祷寺ではありましたが菩提寺ではありませんでした。家康、秀忠、家光の徳川三代の将軍に仕えた天台宗の僧、天海は秀忠から現在の上野公園全域にわたる広大な土地を与えられ、上野の山を比叡山に見立てて、寛永二年(1625)に今の東京国立博物館の敷地に本坊を建立したのが始まりです。寛永四年(1627年)に、法華堂、常行堂、多宝塔、輪蔵、東照照宮を建立し、寛永八年(1631年)には清水観音堂、五重塔を建立し、最後に元禄禄十一年(1698年)五代将軍綱吉により根本中堂が建立されました。(写真1、2、3、4)山号は東の比叡山という意味で東叡山とし、寺名は創設年号をとって寛永寺としました。不忍池は琵琶湖に、弁天島は竹生島に見立てたと言われます。(写真5)比叡山は京都御所の鬼門に当たりますが、上野の山も江戸城の鬼門に当たりますので、三代将軍家光は寛永寺も徳川家の菩提寺にして江戸城の守り神にし、家光自らも将軍として初めて寛永寺に埋葬されました。その後、徳川家の将軍達は交互に増上寺と寛永寺に埋葬され、両寺とも徳川家の菩提寺になりました。天台宗の寛永寺と浄土宗の増上寺は、宗派は違いますが、共に徳川家の菩提樹となり、幕府の保護を受けて大寺院となりました。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 東京国立博物館写真2 上野東照宮写真3 清水観音堂写真4 寛永寺五重塔写真5 不忍池写真6 ブログ「東京今昔物語」の本(幻冬舎) ご 報 告ここ十数年間、東京の街の写真を撮りながら観察した記録を写真ブログ「東京今昔物語」に書いて参りましたが、最近脚力が衰えてきて散策を続けるのが難しくなり、この辺で一区切り着けたいと思いました。幸い今日までにブログへは百万回を越える多くの訪問者がありましたので、東京の街の観察日記として一冊の本(上記写真6)にまとめてみました。長期間に亘る観察文ですから、全体としての纏まりが悪く読みにくい内容となりましたが、その時々の写真も並べましたので写真だけでも笑覧下されば幸甚です。なお、このブログ「東京今昔物語」は今後も月1回位の頻度で掲載を続けていきますので引き続きご高覧下されようお願い致します。(以上)
2021.06.05
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増上寺は江戸時代に徳川家の菩提寺でしたから、境内には徳川家にかかわる貴重な文化的建造物が沢山あったのですが、明治時代の二度の大火と太平洋戦争の空襲で殆ど消失し、現在残っているのは、前回取り上げた三解脱門の他には黒門と有章院霊廟二天門と台徳院霊廟惣門の三点だけです。日比谷通りの面してプリンスホテル駐車場を背にして建つのが、七代将軍家継の有章院霊廟の惣門であった二天門です。廟は東京空襲で焼失しましたが門は残りました。門の両脇には、広目天と多聞天が祀られているため二天門と言われ、徳川家霊廟建築の最後の遺構と言われています。(写真1)日比谷通りを南下して三解脱門前を過ぎると、増上寺方丈の表門であった黒門(くろもん)があります。三代将軍徳川家光が寄進したと言われているもので、風触のため古色を帯びていますが、江戸時代初期の建造物で、増上寺にある多数の建物の中でも古いものです。(写真2)黒門前を少し通り過ぎると、二代将軍秀忠の台徳院霊廟の惣門があり、惣門の左右には寄木造りの仁王像が安置されています。秀忠の霊廟は増上寺境内の中でも最大の規模で、惣門の奥の高台には江戸時代初期の桃山建築様式の建造物群が建てられていましたが、惣門を除いて廟の建築物は全て戦災で焼失しました。(写真3)戦前まで、徳川家代々将軍の霊廟は増上寺本堂を囲むように南・北・西に配置されていましたが、北廟、南廟共に被災しましたので、昭和33年から学術調査を経て、北廟一ヶ所に将軍宝塔墓所として纏められました。その将軍宝塔墓所は増上寺の北西の隅、安国殿の裏側にあります。墓所入り口には六代家宣公霊廟の鋳抜の中門が据えられています。墓石の宝塔は殆どは石塔ですが、六代家宣公と静寛院和宮だけは青銅製です。(写真4、5、6)将軍宝塔墓所内には二代将軍秀忠の正室お江の墓、十四代家茂の正室和宮の墓など、大河ドラマでお馴染みの方々の眠る霊廟ですので参拝者は多いです。(写真7、8)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 有章院霊廟の惣門であった二天門写真2 増上寺方丈の表門であった黒門写真3 台徳院霊廟の惣門写真4 六代家宣公霊廟の鋳抜の中門写真5 墓所全貌写真6 将軍家宣写真7 将軍秀忠の正室お江写真8 家茂の正室和宮
2021.05.06
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仏教は5世紀に日本に伝来し、奈良、平安、鎌倉の各時代に夫々複数の宗派が誕生し、日本古来の神道と習合して全国に伝播しました。仏教の宗派としては、奈良時代には華厳宗、法相宗、律宗が、平安時代には真言宗、天台宗が、鎌倉時代には浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗が誕生し、現在まで存続しています。鎌倉時代になると外来の仏教の布教が日本社会の底辺にまで広まります。鎌倉仏教は信者に厳しい戒律を求めず、在俗生活のままの信仰によって人々は救済されると説いたので、信者は広く一般大衆に根付きました。他方では戦国時代には織田信長の比叡山延暦寺焼き払いがあり、浄土真宗の一向一揆などがあり、政治勢力との戦いがありましたし、江戸時代には儒教や国学から仏教排斥運動が起きたことがありましたし、明治初期には政府による神仏分離運動で廃仏毀釈運動が広く行われました。しかし日本社会への仏教の浸透は揺るぎなく、現代では日本国民の8~9割は仏教徒です。芝の増上寺は、現在、関東における浄土宗の大本山の地位にある大きな寺院です。その創建の歴史は9世紀に遡ります。空海の弟子、宗叡が現在の紀尾井町辺りに建てた光明寺が起源です。その後、室町時代に聖聡が真言宗から浄土宗に改宗して、寺名を増上寺と改めました。江戸時代に増上寺が徳川家の菩提寺となりますと、関東における浄土宗の宗務を統括する総録所が増上寺に置かれました。総録所は幕府と宗団との連絡事務を取り扱うところで、芝増上寺は京都にある浄土宗祖山の知恩院と肩を並ぶ地位を占めることになります。浜松町駅から増上寺の山門に向かう途中に芝大門があります。ここは昔は増上寺の総門・表門のあったところで、隆盛時の増上寺は極めて大きく、東西はこの大門から東京タワーが建っているところまで、南北は芝公園から御成門までの広大な境内を持つ寺でした。(写真1)また、大門交差点付近から増上寺の方向を眺めると、大門と三解脱門と本殿の大殿の三つの瓦屋根が三段になって繋がって見える地点があります。増上寺の境内はほぼ平坦なのですが、このように増上寺の建造物を立体的に見せる工夫が施されています。(写真2)参拝するには、日比谷通りに面した、今は正門となった三解脱門から増上寺境内に入るます。三解脱門は増上寺内で戦災を免れた数少ない建造物で、元和八年(1622年)建立の二重屋根のある重層門です。この門をくぐると三毒(貪、瞋、癡の三つの煩悩)から解脱できるとされる門です。(写真3)三解脱門をくぐって正面を見ると巨大な大殿が聳えています。大殿の一階正面は拝殿となっていますが、二階が本堂で本尊の室町期の阿弥陀如来像が鎮座しています。三階は道場、一階は檀信徒控室、地階が宝物展示室と立体的な構造になっています。本殿は敗戦の昭和20年(1945)消失し、昭和49年(1974)再建されたものです。(写真4)大殿の右隣りに安国殿があり、「黒本尊」といわれる室町時代の恵心僧都作とされる秘仏の阿弥陀如来が祀られています。安国殿の右奥に進みますと、代々の徳川将軍家の霊廟があります。(写真5)その他の増上寺の主要建物群を列挙しますと、大殿の左隣りに光摂殿(講堂)が建ち、その左に三棟の増上寺会館が建ち、黒門から境内に入ると慈雲閣と経蔵が並んで建ち、大殿の後ろには圓光大師堂と貞恭庵が建っています。誠に増上寺の伽藍は壮大です。(写真6)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 増上寺大門写真2 大門、三解脱門、本殿の代殿が三重に連なって見える。写真3 三解脱門写真4 本殿のある大殿写真5 安国殿写真6 増上寺の全貌
2021.04.08
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湯島天満宮の正門は南側の青銅の鳥居です。鳥居をくぐり右手の宝物殿前を通って直進すると正面に参拝者が祈願する拝殿があります。この拝殿は本殿とは幣殿で繋がっておりまして、権現造りという建築様式です。湯島天満宮の建物は土蔵作りだった明治時代の神殿を平成7年(1995)総檜造りの木造で改築したものです。神田明神が防火上の配慮から戦時中に鉄筋コンクリートに改築(1944)されたのに対して、戦後の改築でしたが総檜造りの木造で伝統を維持しています。(写真1,2、3)道真ゆかりの梅園は参集殿の前にあり、大小の白梅、紅梅が植えられていて、その間に菅公一千年祭碑、菅家遺戒碑、泉鏡花の筆塚などが建っています。神殿と社務所と参集殿を繋ぐ渡り廊下は高架となっていて境内に立体感を与えています。(写真4、5)山の手地域の神社の多くがそうであるように、湯島天満宮も高台の端に建っています。この高台は武蔵野台地が南東に伸びた上野台地と本郷台地が江戸湾に突き出た端に当たり湯島台地とも言われるところで、江戸時代までは上野の森や不忍池を見わたせる絶景の場所でした。従って湯島天満宮の東側と北側は崖ですから参道は階段です。東側の参道は、急な階段の男坂と緩い階段の女坂の二つあり、北側の参道は夫婦坂と言います。(写真6、7、8)泉鏡花の小説「婦系図」で湯島天神が別れ話の舞台となり、歌謡曲「湯島の白梅」で「湯島通れば想い出す お蔦主税の心意気 知るや白梅玉垣に残る二人の影法師」と歌われたのは、多分玉垣のある女坂でしょう。江戸時代、講談師は辻講釈といいまして町の辻ゝで講釈していたのですが、あるとき講談師の伊東燕普が家康公の偉業を読むに際して聴衆と同じ高さでは恐れ多いというので高座に上がって講釈する形式が始まったそうです。その最初の場所が湯島天満宮の境内だったというので、ここが「高座講談発祥の地」と碑が建っています。(写真9、10)なお、湯島天満宮の正式名称は「湯島神社」ですが、天満宮、天神様という呼称は歴史の記憶を呼び起こすものとして使いました。同じ事は神田明神にも言えます。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 湯島天満宮の正門 青銅の鳥居写真2 拝殿写真3 本殿と幣殿写真4 梅園写真5 渡り廊下写真6 男坂写真7 女坂写真8 夫婦坂写真9 高座講談発祥の地の碑写真10 高座講談の実演中
2021.03.07
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湯島天満宮の前身、湯島神社の誕生は5世紀中頃と古く、雄略天皇の勅命(雄略天皇2年458年)により天之手力雄命を祀る神社として創建されました。後に南北朝時代の正平10年(1355年)に住民の請願によって北野天満宮から菅原道真公を勧請して合祀したという少し変わった神社で、今では天神と敬われた菅原道真にあやかって湯島天満宮という名前で有名です。菅原道真は平安時代の政治家で、若いときから学問に優れ、政治家として手腕を発揮していたのですが、宇多上皇と醍醐天皇との後継者争いで始まった昌泰の変に巻き込まれて、藤原時平との政争に敗れて九州の太宰府に左遷され、その地で亡くなりました。道真の死後、都の各地で疫病、日照り、落雷など不吉な現象が数々起こり、人々は無念の内に太宰府で病死した道真の祟りだとして恐れ、道真の怨霊を鎮めるため、京都に北野天満宮を、九州に太宰府天満宮を創建しました。その後の江戸時代になると、天満宮は怒りを鎮める畏敬の神ではなく、学問を崇める神として尊崇されて、今では全国各地に勧請されて神社が建ち、その数数千とも言われています。東京では湯島天満宮、亀戸天神、谷保天満宮が江戸三大天神として有名でした。例年2月は中学と高校の入学試験のシーズンです。この時期になると天神様は沢山の受験生から合格するよう頼まれるのでしょう。神社の境内のあちこちに合格祈願の絵馬が沢山掛けられているのを見かけます。うずたかく積まれた絵馬の小山で湯島の梅の花も隠されてしまいます。(写真1、2)大宰府へ左遷される時に菅原道真が梅の木に向かって詠んだと言う歌「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名で、湯島天満宮の境内にも加賀梅(白梅)を中心に紅白の梅の木が植えられていて、学生達の合格祈願の頃、梅の花が咲き始めますので、境内は花見客でも賑わいます。(写真3、4、5、6)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1写真2写真3写真4写真5写真6
2021.02.15
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神田祭りは神田明神の例大祭のことで、江戸の天下祭りと言われました。神田明神は江戸城の下町全域に氏子を持つ総鎮守でしたから、江戸時代には江戸町民の最大のイヴェントでした。そして時代が東京に変わっても、東京の商工業とオフィスの中心地、神田、日本橋、大手町、丸の内をカバーする地域の氏子が参加する東京最大の祭りです。神田祭の行事は二つに分かれます。一つは神幸祭(しんこうさい)と言い、神社本社から三柱の祭神が三基の鳳輦・神輿に乗り氏子の居る町々に巡行し、神々の力によって各町会を祓い清める祭事です。鳳輦・神輿とは屋根に鳳凰の飾りのある豪華なもので、神が乗る山車のことです。(写真1、2)江戸時代の狂歌に「神輿深川、山車神田、だだっぴろいは山王様」と言うのがありましたが、神田の山車は特に有名でして、鳳輦・神輿の装飾は豪華で風格がありました。祭りの日には当時の装束を纏った人々が山車を曳き、氏子のいる町中を巡回しました。(写真3)もう一つの行事は御輿宮入でして神幸祭の翌日に行われます。各町会は各町神輿で御輿連合を設立し各地区を巡行すると同時に、代表の神輿が神田明神の境内に繰り込むり込むのです。狭い神田明神の境内には多くの神輿が入れ替わり立ち替わり乗り入れてくるので、夕方遅くまで賑わいは続きます。(写真4、5)隔年5月に開催される神田例大祭は、守護神による地域の祓い清めと、地域の氏子達の守護神への感謝を交わす行事です。その時には下町全体は大いに盛り上がります。町の中には江戸時代からの堀割りが未だ流れてもいますし、近代的な高架鉄道が走り鉄橋が架かっています。氏子の住む町並みには、近代的な高層ビルが立ち並ぶ新しいオフィス街があれば、昔からある伝統的な商店街もあります。また戦後誕生した専門店街の秋葉原電気街もあります。その中を古式豊かな山車と神輿が練り歩く光景は、街の歴史の変化の深さを感じさせるひとときです。(写真6、7)江戸の天下祭りと称するものには、神田祭りの他に山王祭があります。山王祭は江戸山王権現の日枝神社の祭りで、日枝神社は家康が入府したとき城内に鎮座していたのですが、後に江戸城改築のとき城外に移転し、現在は赤坂山王にあります。山王祭りも神田祭りと同様、将軍の上覧と江戸城内への祭礼行列の練り込みが認められている特別の祭りです。文化文政の頃には江戸城内での山車・神輿の観覧が盛大に行われていたと言いますが、山王祭は山の手気分、神田祭は下町気分と言われていました。(以上) 人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 御神輿担ぐ人は正装して写真2 ユーモラスな山車も参加写真3 古風な装束で歩く山車の行列写真4 青銅張りの鳥居を入る御神輿写真5 正門の随神門をくぐる御神輿 写真6 高架鉄道の下をゆく御神輿写真7 秋葉原電気街へ繰り出す御神輿
2021.01.25
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前回まで訪問した明治神宮も靖国神社も日本の神社としては特殊なものでして、日本人に馴染みのある鎮守の神社ではありません。東京で代表的な鎮守の神社を挙げるとすると神田明神です。創建の歴史は奈良時代に遡りますが、江戸の下町の殆どの町人が氏子と言う神社ですので、日本の代表的な神社と言ってよいでしょう。神田明神の縁起によれば、天平二年(730年)武蔵の国造り(当時の地方長官)であった真神田臣が先祖の神、大己貴命(大国主神)を現在の皇居大手門付近に祀ったのが始まりとありますから、天平文化の栄えた奈良時代に都から遠く離れた武蔵の国に初めて建てた神社が鎮守の神社の始まりでした。祖先の霊を鎮守の神として祀るのが民俗宗教としての神道の伝統であり、その子孫は死後には祖先霊に統合されていくと考えるのが神道の思想ですから、神田明神の誕生のお話は、日本の鎮守神社の典型的な成り立ちを物語っています。神田明神が鎮座した場所は、その後の江戸城増築の際に大手門から現在に神田台地に移動しましたが、神社の氏子の所在は、創建時の大手町を含む下町の大半に及びました。江戸時代には幕府の手厚い庇護を受け、明治政府の時代になってからも神田、日本橋、大手町・丸の内、秋葉原の108町の人々の氏神として東京の総鎮守となって崇敬されています。神田明神の本殿は江戸の大火で何度も焼失しており、関東大震災で江戸時代の社殿を焼失した後は、昭和九年(1934)神社建築としては全国で最初のコンクリート造りの耐火耐震建築の本殿に造り替えられました。お陰で東京大空襲では本殿だけは焼失を免れました。(写真1)境内の入り口には青銅張りの鳥居があり、短い参道を進むと正門の随神門があります。この門は昭和五十年(1975)に創建されたもので朱色の総檜の入母屋造りで正面側に随神像が、裏手には神馬像が納められています。(写真2、3)現在の神田明神には三柱の祭神が祀られています。縁結びの大己貴命(大国主神)、商売繁昌の少彦名命(えびす様)、除災厄除の平将門命です。大国主神は、古事記や日本書紀では国造りの神とし登場し、その國を天照大御神に国譲りをした神として有名です。色々な女神との間に多くの子供をもうけた神でもありまして、神田明神では縁結びの神となっています。この土地に生まれた者の守護神(産土神)に相応しい神様です。少彦名命は大国主命の國作りに際して産業面で協力した神ですから、大手町や丸の内に沢山ある大小の株式会社にとっては商売繁昌を祈願するに相応しい神様です。平将門は神話の世界の神々ではなく、平安時代の関東の平氏一族の豪族です。朝廷に背いた罪で成敗されましたが、関東では強きを挫き弱きを助けた武将として尊敬され、祭神に祀られました。明治時代に朝敵として不適切だとして一時祭神から外されましたが、その後、除災厄除の神として鎮守の神に復活しています。なお、神田明神は平田篤胤などの江戸国学発祥の地であります。また鎮守の神として長い歴史がある神田明神の境内には縁のある摂末社が数多く祀られています。その他、野村胡堂の捕物控で活躍した銭形平次が明神下に居を構えていたと言うので境内に彼の碑があります。狭い境内には神田明神に縁のある神社と碑が所狭しと建っています。(写真4、5、6)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 神田明神本殿写真2 青銅張の鳥居写真3 随神門写真4 江戸国学発祥の地写真5 摂社、末社の看板写真6 銭形平次の碑
2020.12.13
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靖国神社の境内は、その他の都内の神社に比べて極めて広く、長い参道の他に展示場の遊就館、静かな神池庭園があり、その背後には小規模ながら神社の森もあります。季節が春なら靖国の桜も名所となっています。本殿の参拝をした後は、是非、靖国遊就館を尋ねて靖国神社に合祀された英霊達が活躍した歴史を学んでみたら如何ですか。(写真1)遊就館に入る前に館外にあるパール判事記念碑が目につきます。パール判事は東京裁判での印度代表の判事で、東京裁判の判事達のなかでただ一人法律の専門家でした。そして東京裁判でただ一人、全面的に日本の無罪を主張した人でした。パール判事記念碑には次のような彼の言葉が刻まれています。 時が熱狂と偏見とを やわらげた暁には また理性が虚偽から その仮面を剥ぎとった暁には その時こそ 正義の女神は その秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに その所を変えることを 要求するであろう(写真2)遊就館内には、明治維新以降、太平洋戦争に至るまで、國を守るため國の内外で多くの戦いがあり、その戦いで國のため命を捧げた英霊達の活躍ぶりの歴史が描かれています。また当時使用された兵器、武器、遺品などが展示されています。(写真3、4、5)遊就館内には太平洋戦争で名誉の戦死と遂げた英霊の遺影写真を一同に集めて展示した部屋があり、参拝者が在りし日の父、夫、兄と靖国神社で相見ることができます。(写真6)参道とその周辺には多数の桜の古木が植えてあり、桜の季節には靖国神社の境内も桜の名所の一つとして賑わいます。千鳥ヶ淵の混雑を避けて靖国神社へ花見に来る人も多いようです。(写真7、8)本殿の裏側になりますが、境内の最奥には神池庭園があり、洗心亭ではお茶会が催されています。その付近は大きな樹木が茂る森となっていて、神社は森の中にあるという伝統を靖国神社は守っています。(写真9、10)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 靖国遊就館写真2 パール判事記念碑写真3 零式戦闘機写真4 戦車と高射砲写真5 魚雷回天写真6 靖国遊就館に入場する遺族たち 写真7 靖国神社参道の桜写真8 靖国神社の桜の庭写真9 神池庭園写真10 靖国の森
2020.11.03
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それでは靖国神社の参拝に出かけましょう。靖国神社は皇居の北の丸公園に隣接する、都心の一等地にあり、都内では明治神宮に次ぐ広大な境内をもつ神社です。地下鉄九段下駅から九段坂を上り終わるところに大鳥居が建っていますが、これが第一鳥居で、ここが境内への入り口です。境内に入ると参道の両側に多数の石灯籠が並んでいます。(写真1、2)大鳥居をくぐり少し進むと、前方に高さ12メートルの大村益次郎の銅像が聳えています。大村益次郎は長州藩出身で戊辰戦争を戦い、上野戦争、東北戦線などで戦略家として名を挙げ、新政府でもいち早く国民皆兵を唱えるなど、日本陸軍の創始者と言われた人です。(写真3)更に参道を進むと参道をよぎる道路がありますが、この道路が靖国神社の外苑と内苑の境界になります。内苑に入ると青銅製の大鳥居が建っています。これは第二鳥居でして、明治20年建設されたもので、円筒形の柱は継ぎ目がない重厚な鳥居です。内苑の入り口には両側に大きな石灯籠が建っており、その基壇のレリーフに日清・日露戦争の戦闘場面が描かれています。(写真4、5)青銅大鳥居をくぐると、その前には靖国神社の正門となる神門が建っています。神門は昭和9年(1934)年に建造されたもので、切り妻造りの屋根を持つ、間口の広い門です。門扉には皇室の紋章である菊の紋章が輝いています(前回の写真参照)。(写真6)神門をくぐると前方に大きな拝殿が見えますが、その拝殿の前には檜造りの中門鳥居が建っています。この鳥居は拝殿前の広場を仕切る優雅な鳥居です。拝殿は明治34年(1901)に建築され、正面の屋根を寺院建築にある曲線的庇を採用しているのが特徴的です。(写真7、8)本殿は拝殿の真後ろにあります。明治5年(1872)に建築され、構造は神社建築の神明造りで、千木と鰹木を載せ、平入り屋根の直線的な建物です。本殿の建物は正面階段を上った高い位置にあり、雄大な印象を与えます。平成元年には大修築がなされて、高齢の遺族や多くの参拝者のために参拝しやすいように廊下とエレベーターを改築しました。本殿には二百四十六万六千余柱の祭神が祀られています。今時大戦で戦死された英霊の場合も名前を和紙に記した霊爾に魂を呼び寄せる招魂式を行い、霊爾を本殿に移すことで合祀となります。合祀されて魂の抜けたあとの霊爾簿は本殿とは別の鉄筋コンクリート銅板葺き神明造りの霊璽簿奉安殿に保管されています。本殿に昇殿参拝するときに、この霊璽簿奉安殿を眺めることが出来ます。どの家庭でも祖先の御霊を家庭の守り神として大切にし、お彼岸、年始の墓参りをするのが日本の伝統です。また、家庭という共同体だけでなく、地域社会や国家という共同体に貢献した御霊を神として拝んでいます。靖国神社は墓地ではありませんから遺骨も位牌もありませんが、英霊の御魂は、このように安置されています。国家のために一命を捧げられた方々を慰霊し国民として感謝を顕す場が靖国神社なのです。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 巨大な第一鳥居写真2 参道両側に並ぶ石灯籠の列写真3 大村益次郎の銅像写真4 青銅製の第二鳥居写真5 大きな石灯籠写真6 神門写真7 中門鳥居写真8 拝殿
2020.10.07
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靖国神社は明治天皇と極めて縁の深い神社です。と言いますのは、明治天皇が維新の討幕を終えたとき、江戸城の西の丸で戦没者のため招魂祭を執り行いましたが、それが靖国神社誕生のきっかけとなったからでした。東京が日本の首都と決まると招魂祭のための神社、東京招魂社が明治2年(1869)創建され、明治12年(1879)明治天皇によって靖国神社と改名されたのです。日本古来の神道では自然の山、海、川に神々が宿るという信仰ですから、私たちが住む土地にも鎮守の神が存在し、その神はそこに住む人々を守っていると考えました。そして鎮守の神が守護する地域に住む人々は氏子(うじこ)となり、年初の初詣をはじめとして、秋の収穫感謝祭、子供の七五三祝いなど鎮守の神に感謝の祈りを捧げてきました。しかし、靖国神社は鎮守の神社とは全く性質を異にしています。創立の目的が天皇のために戦って命を落とした人の霊魂を鎮めるため創建した神社であり、祀られる祭神は国のために戦って命を落とした一般の国民であり、国家の象徴である天皇陛下が戦死した国民のため鎮魂の儀式を行う神社なのです。靖国神社に祭られた祭神は、先ず明治維新達成に貢献した志士たちでした。幕末に国事に倒れた志士の霊を慰めようと、文久3(1863)年、京都の東山の霊明社と祇園社(八坂神社)でひそかに招魂の祠(ほこら)を建てたのが靖國神社のルーツをなすと言われ、その祠は昭和6年に靖国神社に奉納され、元宮となっています。本殿の左側、回廊外側の小さなお社がそれです。(写真1)次いで、明治政府発足以来、外国との戦争で命を落とした軍人等が靖国神社の祭神となりました。それは国運を賭けて勝利した日清戦争、日露戦争に従軍した祭神たちであり、敗戦に終わった太平洋戦争に従軍した祭神たちです。靖国神社には内戦の戊辰戦争から太平洋戦争までに戦死した兵士たちが祭神として祀られているのです。参拝者は靖国神社の正門である神門をくぐり拝殿に進みますが、そのとき神門の門扉に金色の十六弁の大きな菊の紋章が飾られているのに気づく筈です。この菊の紋章はパスポートの表紙に国章として使われているので馴染みのある紋章ですが、これは皇室の紋章なのです。神門の紋章は、ここが天皇陛下の「屋敷」という意味を表しています。靖国神社は、天皇陛下と国民を結びつける絆の場所であることを示しているのです。(写真2)靖国神社の拝殿には毎日多くの参拝者が訪れていますが、彼らは祭神の縁者だけではありません。国を外敵から守るため戦死した兵士の霊たちの功績を称え、そのお陰で今日の自分たちがあるのだと感謝する思いで参拝に訪れている人々です。靖国神社は、国土と文化を守るために戦死した死者たちと、現在の生者たちが交流する場所でもあります。(写真3)欧米諸国を始め大抵の国では国のため戦って命を落とした兵士のため、その功績を称え、霊を慰める墓地を国内に創設しています。米国のアーリントン墓地は南北戦争という内戦の戦死者から始まり、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争等数多くの戦争に参加した米国人戦死者が埋葬されています。内戦の犠牲者をも埋葬し追悼する点で、アーリントン墓地は靖国神社に似ています。太平洋戦争が敗戦に終わったため東京裁判で戦争犯罪人と認定された一部の日本軍人を靖国神社に招魂したことを否定する議論が起きていますが、厳密言えば靖国神社の祭神になる資格の有無は天皇陛下が決めることです。日本軍人が国に尽くしたか害を与えたかは、敵国が決めるものではなく、日本人が決めることでしょう。況して東京裁判は国際法に基づいて行われたものではなく、占領軍の最高司令官であったダグラス・マッカーサーの特別宣言書に基づいて設定され「極東国際軍事裁判」で決められたことであり、裁判という形の占領行政行為によって戦争犯罪人と称されたに過ぎません。敗戦の責任を執って終戦直後に自害した軍人は靖国神社に合祀されていませんが、彼らを合祀するか否かも改めて判断すべきなのです。その判断は天皇陛下の意思に沿ってなされるものです。なぜなら靖国神社は、天皇のために戦って命を落とした人の霊魂を鎮めるために創建されたのですから。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 京都から移築された元宮写真2 菊の紋章のある神門写真3 拝殿前に並ぶ参拝者たち
2020.07.01
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北参道口から明治神宮の境内を出てJR中央線に沿って東に進みますと、間もなく右手に東京オリンピックのために建設した巨大な国立競技場が現れますが、その左手に明治神宮外苑の聖徳記念絵画館が建っています。明治神宮外苑に入る時、表通りの靑山通りから大きな銀杏並木道を抜けて進みますと、遠くに聖徳記念絵画館が見えますので、明治神宮本殿と聖徳記念絵画館はかなり離れたところにあると思っていましたが、裏通りを歩くと極めて近い位置に建てられていたことが分かります。聖徳記念絵画館は、明治天皇の偉大な御事績と御聖徳を長く後世に伝える場所として建造されたもので、館内には明治天皇にかかわる幕末から明治時代に至る内外の政治事象を描いた絵が展示されており、明治神宮外苑のシンボル的存在なのです。しかし聖徳記念絵画館の外観は洋風で、中央部にドームのある重厚な西洋風の石造りの建物であり、その前面に広がる庭園も池のある四角の洋風庭園です。洋風な造りは聖徳記念絵画館の周辺だけでなく、明治神宮外苑の全体に及んでいます。(写真1、2)聖徳記念絵画館は、苑内を回遊する車道の楕円形の基底部に位置しており、前方に広がる総合球技場を展望し、その先にある直線の銀杏並木通りを見通せるようになっています。代々木練兵場跡地に造成された明治神宮の森が伝統的な和風の造りに徹しているのに対して、靑山練兵場跡地に造成された神宮外苑は幾何学的な構造の明るい洋風の造りで対称的です。しかし、明治神宮のように鬱蒼たる森はありませんが、要所要所には多くの樹木を植えてあり、明治神宮外苑も緑の深い庭園ではあります。(写真3、4、5)更に神宮外苑が明治神宮と決定的に異なる場所だと印象づけるものは、苑内に種々のスポーツ施設が配置されていることです。代表的なものは、先ほど紹介した巨大な国立競技場の他に、前回の東京オリンピックの会場となった東京体育館、六大学野球で有名な明治神宮野球場、テニスコートなどがあります。(写真6、7、8)宗教哲学者の中沢新一氏は、その著書「アースダイバー 東京の聖地」で、明治神宮と明治神宮外苑の違いを明治神宮の二元論と称して次のように説明しています。「代々木の内苑は、内部に向かって「閉じる」ことを原理としている。そこには目には見えない明治天皇の御霊が祀られている。それを取り囲む「人工の原生林」は、視覚化というものを拒否しようとしているように見える。神話的な時間の内側に閉じこもって、自分を森の緑の奥深くに「隠す」という考えが、森の全域にゆきわたっている。これにたいして青山の外苑は、世界史の現実に向けて自分を「開こう」としている。陽光のもとでスポーツする身体は、観客によって見られるために、誇らしげに躍動する。絵画館の中に展示されるのは、明治天皇の御霊ではなく、現実の歴史の中で活躍した、明治天皇の人生を視覚化した絵画である。」と。明治神宮本殿と聖徳記念絵画館が一組のものとして造られたことは、北参道経由で歩くと両者の距離が極めて近い位置に建っていることで分かります。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 聖徳記念絵画館写真2 庭園の池写真3 銀杏並木通り写真4 明治神宮外苑の樹木写真5 明治神宮外苑の樹木写真6 国立競技場写真7 東京体育館写真8 明治神宮野球場
2020.05.22
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正参道を進むと第三の鳥居の南玉垣鳥居があり、鳥居をくぐり南神門から社殿前の広場に入ります。拝殿広場に入る門は東・西・南の3つがありますが、この南神門のみが二階建てであり、かつ、創建当時の唯一の建造物です。明治神宮のその他の建造物は戦災で全て焼失しました。(写真1、2)南神門をくぐり拝殿前広場に入りますと、拝殿の両脇に巨大な楠が繁っているのが目に入ります。楠はいずれも明治神宮創建時(大正9年)植えられたものです。左側の注連縄(しめなわ)で結ばれた二本の楠は夫婦楠と呼ばれて縁結びの神木となっています。右手の一本の楠は絵馬で囲まれて祈念を届ける神木です。訪れた4月は新緑の季節で、左右の楠は明るい浅緑色で輝いていました。(写真3)拝殿は内拝殿と外拝殿があり、外拝殿の前にお賽銭箱などが置かれていて一般の参拝者は、ここでお参りします。祭神である明治天皇が鎮座する本殿は、内拝殿の奥にあり、参拝者は本殿を見ることは出来ません。(写真4、5)拝殿前の広場は回廊によってほぼ正方形に囲まれています。右手の回廊には東神門があり、北参道への出入口であり、左手の回廊には西神門があり、西参道への出入口です。新年初詣の除夜の鐘が鳴る頃、参拝者が南門、東門、西門から押し寄せて拝殿前の広場は人の波で埋まります。(写真6、7、8)拝殿前広場では、毎年春と秋に手数入(てずいり)奉納と称する横綱土俵入りが厳かに行われます。一般参拝者も観覧できるので、神聖な社殿領域は拍手で賑わいます。また、運が良ければ社殿前広場で行われる参進の儀と称する花嫁行列に巡り会うこともあります。(写真9)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 南神門前の南玉垣鳥居写真2 南神門写真3 拝殿前広場の楠の神木写真4 外拝殿写真5 内拝殿写真6 東神門写真7 西神門写真8 明治神宮元旦初詣の社殿前広場写真9 社殿広場前の参進の儀
2020.04.26
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南参道の途中の左手に明治神宮御苑の入り口(東門)がありますが、ここは御苑の裏門でして、表門(北門)は南参道から正参道に入って直ぐ左手にあります。ここは江戸時代、加藤家、井伊家の大名屋敷の庭園があったところですが、皇室の御料地になってから、明治天皇と昭憲皇太后が度々お二人で訪問され、皇后陛下が気に入られたところでしたので、明治天皇自らが設計し、散策の場として整備させたと言われる庭園です。御苑に入ると直ぐ隔雲亭という木造の建物が見えますが、昭憲皇太后の休息所だったところで、現在の建物は戦後の昭和に再建されたものです。隔雲亭から見下ろすところにある南池は、井伊家の庭園時代からあった自然の池です。(写真1、2)南池にはお釣台があり、その先には細長く菖蒲田が続きます。曲折した小径が菖蒲田に沿って延びていき、小高い所には休憩所の四阿(あずまや)があり、武蔵野特有の雑木林が菖蒲田を囲んでいます。(写真3、4)この菖蒲田は明治天皇が皇后のために水田に花菖蒲を植えさせたもので、5月には見事な花を咲かせます。(写真5)明治神宮御苑の最奥に湧き水の清正井(きよまさのいど)があり、菖蒲田と南池の水源となっています。江戸時代初期の武将、加藤清正が自ら掘ったという伝説も残る井戸でして、近年、パワースポットとして人気が高く、多くの人が訪れています。(写真6、7) (以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 隔雲亭写真2 井伊家の庭園時代からあった南池写真3 お釣台写真4 曲折した小径と菖蒲田写真5 菖蒲の花咲く頃写真6 清正井(きよまさのいど)で順番を待つ行列写真7 清正井(きよまさのいど)で水くむ人たち
2020.04.01
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現在、明治神宮があるこの地域一帯は、江戸時代は加藤清正家、井伊直弼家の下屋敷のあったところで、明治になって新政府に返還され、天皇家の御料地となったところです。代々木の御料地内の井伊家の庭園だったところは、その後、明治神宮御苑になりましたが、その他は代々木練兵場として使われていましたから、木立の少ない荒れ地になっていました。明治神宮の森造りは、その荒れ地に植林することから始まりました。神社の森は、人工の公園や庭園の風致とは違った、神聖さと荘厳さを備えたものでなければならず、また、そのためには永遠の命を持つ自然の森と言うことになりました。そのような鎮守の森の樹には、カシ、シイ、クスなどの常緑樹が望ましいと選ばれましたが、最初は地味の痩せたこの地域にも育つマツ、スギ、ヒノキの針葉樹を植え、それらが生育して自然環境が整った後で、常緑樹が植えられました。樹種の世代交代の中で徐々に森の樹種の組み合わせを変えて、最終的に自然林が出来上がったのです。(写真1、2、3)70ヘクタールの明治神宮の境内には、約17万本の木が植えられているそうです。その多くは、全国各地から寄贈された樹木であり、勤労奉仕で運ばれ植えられたと言います。明治神宮の森が造成されてから百年余り年月が経ちますと、至るところに太い樹幹の木々が林立しています。中には樹齢百年以上の巨木もありますが、これらは明治の森の植林前に生えていたものでしょう。代々木という地名は、明治神宮御苑近くにモミの大木があったことに由来すると言いますから、昔は代々木には洪積層台地の森林があったのかもしれません。(写真4、5)常緑樹の森は、昼なお暗く鬱蒼と茂っていますが、新緑の頃には鮮やかな明るい緑の輝きを見せ、自然林としての安定した姿を示しています。森の霊気は、辺りの空気を爽やかに浄化し、参拝する人達の心をすがすがしく清める働きをしています。(写真6)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 自然な樹林の姿写真2 森の樹種は色々写真3 森の樹種は色々写真4 鬱蒼とした森写真5 代々木の巨木写真6 新緑の頃
2020.03.21
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ファッション・ストリートとして有名な表参道は、明治神宮へお参りする道として造成されたのですから、明治神宮の正面入口は、表参道に繋がる南参道です。JR原宿駅から神宮橋を渡ると直ぐに南参道口の鳥居があります。鳥居は神域の境界を示すもので、ここからは明治神宮の境内ということです。(写真1)明治神宮への参道口には、その他に、JR代々木駅からの北参道口と、小田急線の参宮橋駅からの西参道口とがあります。いずれの参道口から境内に入っても本殿に達するまでの参道は、深い森の中を進みます。北参道は直線の道ですが、南参道は緩やかなカーブと僅かな起伏がある道です。西参道はやや道幅が狭く、鬱蒼とした木々の中を曲がりながら歩く道です。三本の参道には砂利が敷いてあり、長さはほぼ同じくらいです。(写真2、3、4)南参道と北参道は途中で合流し西に向きを変えて正参道となります。その合流点に日本一の大鳥居があります。正参道を少し進むと直角に北に曲がって、明治神宮の社殿広場に向かいます。(写真5)いずれの参道も深い森の中にあります。この森は自然のものでなく、植林によって造成された森ですが、人手を入れずに原生林の状態にしてあります。昔から日本では、森や山はそのものが神様だと考えていましたから、社(やしろ)は自然の森の中に祀りました。明治神宮の森も自然の森が相応しいと考えたからです。明治神宮の森を遠くから眺めると、ビルが林立する大都会の真ん中に、巨大な黒い塊の原生林の森があるように見えます。明治神宮の森は、さしずめ東京都の鎮守の森と言えます。(写真6)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 南参道入り口の鳥居写真2 南参道写真3 北参道写真4 西参道 写真5 大鳥居写真6 明治神宮の森 全貌
2020.03.03
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明治天皇は崩御されると遺言により京都の伏見桃山陵に葬られました。明治天皇は、王政復古以後は江戸城跡の皇居に住まわれて、代々の天皇が住まわれていた京都には戻られませんでした。ちょっと東京に往ってくると言われて、そのまま東京に留まっておられる天皇を待ちわびていた京都の人々は、ようやく天皇が京都に還られたと安堵しました。しかし東京市民は京都に還えられた明治天皇の遺徳を慕っていましたから、東京にも明治天皇を祀る神社が欲しいと願い出て、明治天皇を祀る神社を建立することになりました。こうして大正9(1920)年に明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする明治神宮が建立されたのです。そして、今年(令和2(2020)年)11月1日に鎮座100年祭が執り行われます。(写真1)昭和、平成、令和と天皇の御代は代わりましたが、時代を経ても明治神宮には多くの国民が参拝を続けており、特に新年初詣の参拝者は毎年全国一と言われます。これは、西欧列強が圧倒的な力で殆どのアジアの国を殖民地化していた19世紀に、日本だけが独立を守り、近代化を成し遂げた明治の御代を築いた明治天皇に国民が深い敬愛の念を持ち続けている証拠です。(写真2、3)明治神宮を建立することが決まると、東京市民だけでなく、全国から建立に必要な労力、資金、資材などが寄せられて、今日見るところの明治神宮と神宮外苑が完成しました。明治神宮は、謂わば国民総出で造り上げた神社なのです。練兵場だった代々木の荒れ地は緑の森に生まれ変わり、その森の中に明治神宮の本殿が鎮座しています。緑の森は百年余り経て原生林のように繁り、明治天皇の御霊は、その奥深くに隠されて祀られています。他方、同時に靑山練兵場跡地に造成された明治神宮外苑には聖徳記念絵画館が建設され、そこには幕末から明治までに日本が遭遇した歴史を描いた絵画が展示されています。明治神宮外苑は明治天皇の在世中の業績を称える場所だからです。霊の世界は内宮の明治神宮に、現実の世界は外宮の神宮外苑に、対(つい)となって造られたのです。(写真4)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 明治神宮本殿写真2 明治神宮初詣風景 除夜の鐘を聞きながら写真3 明治神宮初詣風景 昼間写真4 明治神宮外苑 聖徳記念会館
2020.02.23
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京都御所や西本願寺は長い土塀で囲われていますが、これらの土塀は築地塀(ついじべい)と呼ばれるもので、外敵の侵入を防ぐ堅牢な防護壁として築かれたものです。古都京都では、公家の屋敷や伝統のある寺院・神社が築地塀で囲われている例を良く見かけます。嘗ての江戸でも武家屋敷や寺院には築地塀が数多くありましたが、明治以降、武家屋敷は壊され、残ったものも震災と戦災に遭って取り壊されて、今の東京では築地塀を見る場所は滅多にありません。しかし、現在の東京の町中で、築地塀が見られる場所が三ヶ所あります。それは港区赤坂にある報土寺と台東区谷中にある観音寺と浅草にある待乳山聖天です。赤坂の報土寺の築地塀は、瓦と粘土を交互に積み重ねた形態ですが、瓦の層が幾層にも密に重なっているので、瓦と瓦を粘土で張り付けた様な仕上がりになっていて、重厚な築地塀です。しかも粘土の部分は白い漆喰で塗り固められているので、瓦屋根の黒色と漆喰の白色が縞模様になって美しい築地塀です。報土寺は三分坂という急坂の途中に建っているので、傾斜に沿って斜めに走る築地塀の縞模様の線はダイナミックであり、モダンに見えます。(写真1、2)谷中の観音寺の築地塀は、観音寺の南側を通る小道沿いに長く続いています。築地塀の途中に境内への出入口の扉があるので、それが長い築地塀の単調さに変化を与えるアセサリーになっています。観音寺の築地塀も、報土寺と同じく多層の瓦が積まれていますが、瓦の層には欠けた部分も目立ち、粘土の部分に彩色を施していないので、却って江戸時代からの築地塀の古さを感じさせます。小道を挟んで、観音寺の築地塀の対面には真新しいモダンなデザインの土塀が建っているので、この小道は新旧土塀のコントラストを演出した面白い光景です。(写真3、4)浅草の待乳山聖天の築地塀は、参道の階段を上った右側に一部残された短いものです。待乳山は堆積層の平地に独峯のように突き出た10メートる程の丘で、隅田川を眺める名所でしたから、歌川広重が描いた絵にもこの築地塀が描かれています。(写真)5、6)築地塀は、鉄砲の弾を通さないので、安土桃山時代以降は城郭の内部に多く使われました。そう言えば、戦国時代には寺は屡々臨時の軍事拠点として使われましたから、寺に築地塀が多いのはその所為かも知れません。築地塀が装飾的になったのは江戸時代以降だそうです。現在の東京には、江戸時代を偲ばせる遺跡は江戸城跡の皇居の他には見附跡しか残っていませんが、築地塀は東京にある江戸時代の数少ない証拠品です。 (以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 赤坂にある報土寺の築地塀写真2 三分坂の途中にある報土寺の築地塀写真3 谷中寺町の観音寺写真4 観音寺の裏門写真5 浅草の待乳山聖天の築地塀写真6 浅草の待乳山聖天
2020.01.29
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明治の開国は文学、藝術の世界にも衝撃を与えました。西欧の文学に触れて日本の伝統的文学は変革を試みますが、その代表者が夏目漱石であり、森鴎外でした。その他多くの文士達も変革の波に飛び込み格闘し、日本の近代文学が花咲きます。明治・大正時代に日本文学の近代化に挑んだ文士達は、東京では何故か特定の場所に纏まって住みました。既にご紹介した本郷界隈と田端の丘と、そして今回取りあげる馬込の文士村です。馬込の文士村も田端のそれと同じように丘の上にあります。JR大森駅からやや急な坂を上ると起伏のある丘があります。馬込文士村には、明治末から文士達が集まり始めますが、大正末に尾崎士郎が馬込に引っ越してくると、盛んに他の文士達を勧誘しましたので大勢の文士達が住み着きました。また関東大震災で焼け出された文士達も加わりました。昭和の初期に文士村は賑やかさを増し、馬込の丘のあちこちに分散して居を構え、互いに訪ね合って、あるときは真面目に文芸論を戦わし、あるときは酒、麻雀、ダンスで生活を楽しんだようです。阿佐ヶ谷に住んでいた井伏鱒二は、新宿郊外の中央線沿線には三流作家が住み、世田谷には左翼作家が住み、大森(馬込)には流行作家が住んだと自嘲していました。(写真1、2)大森駅から南馬込の丘に上る途中に山王会館があります。その館内に馬込文士村資料展示室があり、馬込文士村に住んだ文士、詩人、画家たちの活動記録が展示されています。そして山王会館の門の脇に「馬込文士村散策のみち」という大きな看板が掲げてあり、文士達の名前が住んだ場所に書き込んでありました。主な名前を拾うと次の通りです。(写真3)尾崎士郎、室生犀星、石坂洋次郎、山本有三、萩原朔太郎、倉田百三、佐藤惣之助、宇野千代、稲垣足穂、広津和郎、小林古径、川端龍子、北原白秋、三好達治、山本周五郎、川端康成、和辻哲郎、徳富蘇峰、小島政二郎、倉田百三など。(写真4)大森駅から山王口でジャーマン通りを行くと尾崎士郎記念館と、蘇峰公園の中に山王草堂記念館があります。山王草堂記念館は徳富蘇峰の住居跡で、有名な「近世日本国民史」の大半をここで書いたと言われます。蘇峰は明治天皇の崩御を期に国民歴史の著作を思い立ち、厖大な著書の7割を明治時代に充てましたが、西欧文明が明治の日本に与えたインパクトを記録に留めようとしたのです。(写真5、6、7)本郷の文士達には明治時代に活躍した人が多く居て、田端、馬込の文士達には大正、昭和に活躍した人が多く居ました。文士村の作家や詩人や画家達は、互いに交流し切磋琢磨し、そのため他の文士村との間を渡り歩いた人もいました。明治以降の日本は、西欧文明との力の差を乗り越えるのに悪戦苦闘しましたが、軍事と産業だけでなく、文化と宗教を含めて西欧に対抗し、凌駕しようと格闘した場所の一つが文士村だったのです。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 川端康成と石坂洋次郎の住居跡の標識写真2 尾崎士郎と宇野千代の住居跡の標識写真3 山王会館写真4 文士達の住居跡の地図写真5 尾崎士郎記念館写真6 尾崎士郎記念館の庭写真7 蘇峰公園にある山王草堂記念館(徳富蘇峰住居跡)
2019.12.18
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東京今昔物語の街並みシリーズは、前回の新宿通り(麹町大通り・四谷大通り)で終了します。これからは、東京の町のあちこちを思いつくままに訪ねてみて、面白いと感じたこと、何故かと考えたこと、懐かしく思い出したことなど、写真を添えて報告風に書いて参ります。どうぞお気軽にご訪問下さい。先ず、最初は、私が住む代々木の周辺から、始めます。その歴史を辿ると、代々木には加藤清正や彦根藩井伊家の有力武士たちの屋敷があったところで、明治神宮境内に清正の井戸(湧水)があり、彦根藩の下屋敷には代々木と言われた大樅木があったように、地下水に恵まれ、地勢に優れたところでした。(写真1)大名屋敷の跡地は明治時代に桑畑や茶畑になりましたが、明治末期に都心のお茶の水から八王子への鐵道(今の中央線)が敷けると、大正時代には山手線が開通し、代々木駅周辺は下町から見て交通の便のよい郊外となり、詩人や画家や小説家たちが移り住み、文化人ゆかりの土地になりました。「春の小川」の作詞者で国文学者の高野辰之は代々木に居を構えましたが、その住居跡には今も「高野」という表札のある木造の家が残っています。場所はJR代々木駅から西に歩いて10分程のところです。(写真2)高野辰之の旧居跡の前の道を真っ直ぐ西に進むと小さな坂があり、その坂を下った先に「春の小川」の水源池(今はマンションの下に埋まる)があり、そこから小川が流れ出ていました。高野辰之はその畔を散歩しながら故郷の長野県野沢の風景を思い浮かべて作詞したのでしょう。(写真3)高野辰之が見た「春の小川」は河骨川と言い、渋谷で宇田川に合流し、その後渋谷川に流れ込みます。最近、渋谷駅の南側が大開発されて渋谷川の浄化作業が行われた時、「春の小川」が復活したとメディアが騒ぎましたが、「春の小川」は渋谷川の支流の、また支流なのです。高野辰之が春の小川に行き着く余中で通った下り坂は、後に岸田劉生が描いた絵画「切通しの写生(道路と土手と塀)」(重要文化財)の坂です。土手を切り開いて造られた赤土の道、垂直に切り立った片側の赤土の土手、反対側の真新しい石垣と石塀は、当時、代々木のこの辺りが住宅地開発中だったことを物語っています。岸田劉生は、その頃、代々木の山谷町に住んでいましたから、散歩の途中にこの光景に出会ったのです。(写真4)岸田劉生の絵は、よく見るとディテールまで現実を精細に描いているのに、道路の消失点は高く、両側の塀と崖の消失点は低く、一致しておらず不自然です。奥行きを表現する消失点を二つにずらして、道路を立ち上がるように強調したデフォルメ絵は、赤土の真新しい坂道を強調するつもりだったのでしょう。銀座生まれの岸田劉生は堆積層の地面しか見ていませんから、代々木に来て関東ローム層の柔らかい赤土に暖かさを感じたのかも知れません。(写真5)茨城県の五浦で横山大観と共に画業に励んでいた菱田春草は、目を患って代々木に引越してきます。高野辰之の旧居跡の近くに代々木山谷小学校がありますが、その校庭の角に菱田春草終焉の地の史跡標柱が建っています。菱田春草の絵画「落葉」(重要文化財)は有名ですが、菱田春草は同じような雑木林の絵を何枚も描いていますから、当時の代々木は、まだ国木田独歩の言う武蔵野の一部だったのでしょう。(写真6)自然主義文学者の国木田独歩は、佐々城信子と離婚して、明治末期に代々木公園の南端のNHK放送センター付近に住んでいました。代表作の「武蔵野」は、おそらく自宅付近の雑木林を歩いて書いたでしょう。明治から大正にかけて都心から見た代々木は武蔵野だったのです。文化服装学院の裏通りの一隅に小説家、田山花袋終焉の地という史跡標柱が建っています。田山花袋は明治末期に代々木のこの地に居を構え、没するまで住んでいました。その場所は甲州街道に近く、高野辰之の旧居跡から遠くないところです。(写真7)田山花袋は「蒲団」「田舎教師」などの告白型小説で有名で、島崎藤村と共に自然主義文学の旗手として活躍しましたが、懺悔と小説(フィクション)との区別を知らない当時の文壇の人々から攻撃され、その後、白樺派の台頭と自然主義派の衰退で文壇の主流から離れ、晩年は静かな郊外の代々木で過ごしたと言います。しかし、人生の真実を追究する文芸の立場からは、当時の日本の文壇では私小説の存在意義は大きく、キリスト教会的考え方に支配された西欧文学には生まれなかった独特のものでした。第一次世界大戦で戦勝国となり、日本は大正デモクラシーと言われる平和な時代を謳歌しますが、その頃、多くの文化人は、豊かな自然のある代々木を愛して住み着きました。現代の代々木も、原生林のある明治神宮と広大な代々木公園があり、都内では皇居に次いで緑の多いところです。(写真8)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 清正の井戸 明治神宮内にあるパワースポットとして有名写真2 高野辰之住居跡写真3 春の小川の水源地は瓦屋根の屋敷の中庭の池でした。(写真左手の窪地)写真4 岸田劉生が描いた切通し坂写真5 岸田劉生の絵画「切通しの写生(道路と土手と塀)」写真6 菱田春草の住居跡写真7 田山花袋の住居跡写真8 代々木公園
2019.11.26
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それでは、麹町大通り(半蔵門から四谷見附まで)と四谷大通り(四谷見附から四谷四丁目まで)の二つの街並みを観察してみましょう。麹町大通りは内濠通りの半蔵門から始まりますが、その内濠通りを南に行けば三宅坂で靑山通りに接続し、北に行けば九段坂上で靖国通りに接続します。麹町大通りは東で皇居に突き当たって行き止まりという訳ではなく、南北に分かれて皇居を巻いて更に東へ行くことが出来ます。出発点の半蔵門の丁字路交差点正面には、皇居吹上御所の門があり、南角にはエフエム東京とワコールの東京本社ビルがあり、北角には、嘗ては結婚式場で有名だった東条会館がありましたが、今はラ・トゥール半蔵門ビル(高級賃貸マンション)になっています。半蔵門交差点の周辺には、国立劇場があり、イギリス大使館があるという、高貴で高級感のある、かしこまった雰囲気です。(写真1、2、3)麹町大通りの北側は麹町小学校、女子学院中学・高校、千代田女学園などがある文教地区であり、南側は上智大学の大きなキャンパスがあります。教育施設のほかは、麹町大通りの両側には高級マンションが沢山あり、「山の手」の元祖らしい静かな街区です。(写真4、5、8)新宿通りがJR中央線を渡る跨線橋は、東京でも美的に最も優れた装飾が施された橋です。跨線橋の欄干、街灯、橋袖の四谷駅駅舎、それらのデザインはいずれも垢抜けしてモダンです。駅の傍らには江戸城の四谷見附の石垣が保存されていて麹町大通りのなかで歴史を感じさせる場所です。(写真6、7、8)四谷大通りが外苑東通りと交差する四谷三丁目交差点角に、消防博物館があり、現代から江戸時代までの消防活動の歴史を展示しています。四谷三丁目交差点近くの南方には四谷怪談に縁のある四谷於岩稲荷田宮神社があり、北方には荒木町という粋な料亭が建ち並ぶ飲食店街があります。荒木町は、関東大震災ののち、坂の小径のある粋な花街として栄えたところで、今でもその風情を残している、山の手の穴場です。(写真9、10)ここから少し西に進めば、新宿繁華街の中心地、新宿三丁目の交差点に達しますし、近くには新宿御苑裏門があります。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 半蔵門の丁字路交差点正面 この奥に吹上御所がある。写真2 エフエム東京とワコールの東京本社ビル写真3 嘗ての東條会館写真4 番町文人通りにある女子学院高校 写真5 上智大学写真6 新宿通りがJR中央線を渡る跨線橋 四谷見附橋写真7 新宿通りがJR中央線を渡る跨線橋 四谷見附橋写真8 江戸城の四谷見附の石垣写真9 四谷消防博物館写真10 四谷荒木町の杉大門通り
2019.09.27
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東京の初代の山の手地区とは、四谷、赤坂、麹町と言われています。先に、赤坂の町を通過する靑山通りを山の手の街を貫く目抜き通りとして取りあげましたが、麹町と四谷を通過する新宿通りも、立派な山の手の目抜き通りです。新宿通りと言いますと、誰もが新宿三丁目から新宿駅東口までの、新宿で最も賑わう繁華街通りを思い浮かべますが、今回取りあげる新宿通りは、半蔵門から四谷四丁目までの区間で、麹町大通りと四谷大通りに分かれます。この新宿通りのこの部分も、靑山通りと同じく、前回の東京オリンピック(昭和39年1964)のお陰で大幅に改善された通りで、東京オリンピックのマラソンコースの一部となったので、オリンピック関連道路として整備されたのです。今回取りあげる新宿通りのこの部分は、武蔵野台地の一つである淀橋台地の尾根筋を西に行くところで、道路の左右は低地帯となっており、北側は傾斜の急な坂であり、南側はゆるやかな坂です。尾根筋ですから見晴らしの良い道路でしたので、江戸時代には大規模の旗本の武家屋敷が並び、明治維新になって薩長の政治家、軍人、財閥関係者など上流階級の人々が住んだ地域でした。東京は大正、昭和、平成と時代が進むに連れて、街は西に向かって延びていきましたから、麹町大通りの沿道にも大手企業、有名企業がオフィスビルを構え、中高層ビルが建ち並び、格式の高い街路に発展しました。麹町大通りは、台地の尾根筋に合わせて左右に緩いカーブを描く優雅なオフィス街路です(写真1、2、3)新宿通りは四谷見附でJR中央線と総武線の駅上を跨ぎます。半蔵門からここまでを麹町大通りと言い、ここから先四谷四丁目交差点までを四谷大通りと言います。四谷大通りも、高層ビルの建ち並ぶ街路で、道筋は直線的ですが、ビル地上階には商業店舗が多くなり、歩道は麹町大通りよりも賑やかさを増します。(写真4、5、6、7)平成三年(1991)新宿四丁目から新宿三丁目まで間に新宿通りに並行して新宿御苑トンネルが開通して甲州街道へ抜ける自動車専用道路ができたので自動車の流れが良くなりました。半蔵門から甲州街道を経て西方に通じる基幹道路として、新宿通りの利便性は高まりました。(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 麹町大通り 片道三車線の幅広い道路が緩やかにカーブしています。写真2 麹町大通り 両側の歩道も幅広く、楽しく歩けます。写真3 麹町大通り 信号待ちで待つ自動車はありますが渋滞はしません。写真4 JR中央線と総武線の四谷駅上にある跨線橋越しに四谷大通りを見る。写真5 四谷大通り 直線的でビルの高さは麹町大通りより低い感じです。写真6 四谷大通り写真7 四谷三丁目交差点付近の商店街写真8 新宿御苑トンネル
2019.08.20
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表参道のファッション・ストリートは、神宮前交差点を起点として発生しましたが、そのエネルギーは、先ずケヤキ並木のある表参道を靑山通りに向かって延びていきました。そして、それが一服すると環状道路の明治通り沿いの街路に戻ってきます。そのファッション街の明治通りへの回帰の原動力は、原宿駅から明治通りに通じる竹下通りの存在です。竹の子族に憧れる若者達が竹下通りに集まり、それを目当てに芸能人達がタレントショップを次々と出店すると、東京だけでなく全国から若者達が原宿界隈に集まってきました。竹下通りは最新の若者ファッションに憧れる人々で何時も渦巻いています。外国からの観光客にとっても人気スポットのようです。(写真1、2)竹下通りから明治通りに溢れ出た若者達は、明治通りを渡った裏原宿通りに足を運びます。裏原宿通りは路地の様な細い道で、古着屋や個性的な商品を扱う店が並び、レアものを探す若者を惹きつけます。この裏原宿通りはキャッツストリートへと繋がり、表参道から来る人と原宿通りから来る人とが合流する場所でもあります。(写真3、4)明治通りの東側には、南北に走るキャッツストリートと裏原宿通りが明治通りと並行して延びています。そして西側では東西に長い竹下通りと、短い数本の小道が明治通りに繋がってます。明治通りは、これらの裏通りを繋ぐ役割も果たしています。ですから明治通りの通行人は絶えること無く賑わうのです。それでは、明治通りを渋谷側から新宿方向に歩いて見ましょう。先ず奇妙な外観で目に付くのは、キャッツストリートが明治通りに合流するところにあるピンクドラゴンと言う奇抜なファサードの衣料品店です。もとは表参道でアメリカのロカビリースタイルの衣装を扱っていたCREAM SODAという店が名前を変えて移転してきたのです。(写真5)明治通りには、早い時期からFOREVER21、H&Mなどファーストファッション店が出店しましたが、カジュアル衣料のリーバイス店、ビームス店などデニム・ジーンズなど若者に人気のある衣類を販売する大型店も出店していています。最近はファッション以外にも、SNSのLINEショプが進出して若者を集めています。神宮前交差点の賑わいは、最初はワシントンハイツからのアメリカ文化の導入で始まったのですが、今や、全国からの若者文化が加わり、それに海外からの若者文化も加わって、明治通りには常に熱気に満ちています。(写真6、7、8)また、明治通りに並ぶビル群も高層化が進み、神宮前交差点近くには奇抜なデザインの大型ビルが目立ちます。厳めしく黒光りする重厚な高層ビル、巨大なサイコロを不規則に積み上げた透明感のある高層ビルなど、明治通りも表参道に負けないビル・アートの街になりました。(写真9、10)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 原宿駅側から竹下通りのの人波を見る。写真2 竹下通りは欧米からの観光客にも人気写真3 裏原宿通りの店舗 レアものを求める若者たち写真4 明治通りの竹下口 明治通りを横断待ちする人々写真5 アメリカ衣料品を販売するピンクドラゴン写真6 欧米のファーストファッション店が並ぶ明治通り写真7 カジュアル衣料のリーバイス店 写真8 SNSのLINEグッズ販売店に若者が集まる。 写真9 巨大なサイコロを不規則に積み上げた奇抜なデザインの高層ビル写真10 黒光りする重厚な高層ビル
2019.07.29
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