宮古湾海戦,中島三郎助と蝦夷桜_12

宮古湾海戦とアボルタージュ, 甲賀源吾 ,宮古湾海戦の概要

箱館戦争,中島三郎助と蝦夷桜,宮古湾海戦,甲賀源吾の烈死,大塚浪次郎,回天のアボルタージュ作戦

中島三郎助と蝦夷桜
幕末_WITH_LOVE玄関 <中島三郎助と蝦夷桜<満開桜, 宮古湾海戦 の惨劇, 甲賀源吾 の烈死
No.1 <・・・< No.11 <No.12(完):現在の頁


中島三郎助と蝦夷桜_No.12
宮古湾海戦 の惨劇, 甲賀源吾 の烈死
アボルタージュ作戦_ 宮古湾海戦

ニコールの言うアボルタージュ作戦。
敵の艦に飛び移り、そのまま乗っ取る。
話だけで聞けばそれは、
まるで雲を掴むような夢物語。

しかし、 前頁記載内容のとおり
入念な計画として、
戦士には専用の調練が行われた。



明治2年3月25日(1869年5月6日)、空前の大ドラマが
盛岡藩宮古村(現在の岩手県宮古市)で展開された。


なぜ、榎本はじめ博学のスタッフが揃う蝦夷共和国、このメンバーにありながら、
こんな恐ろしい瓦解劇を予測しえなかったのだろうか。後の世、誰しもそう言う。

しかし、史実は、その経緯詳細が混迷しているものの、結果自体は活写された。
開陽を失った榎本軍、文字通り命を架けた死闘に他ならない。


その証、回天、高雄、蟠竜とは、いわば榎本軍が有する軍艦全てなのだ。
残るは、千代田形一艦だが、軍艦とは言い難い。他には輸送船が有るのみだ。
もし、ここで敗北すれば、榎本軍は壊滅。海軍能力を完全に喪失する。
海の足を失えば、それは、イコール蝦夷共和国全体の自殺行為に等しい。

それだけでない。陸軍も同様、実質上の長、陸軍奉行並_土方歳三が乗船した。
土方を失えば、乱戦に柔軟な対応力を有する武蔵独自の農兵術は消滅する。
長沼兵学やら、ブリュネ達の近代軍戦術があっても、個々の長達が束ねる分散型の
指揮系列を為すこの集団には事を欠く。 無論、蝦夷の大地には、衝鋒隊長_古谷作左衛門、額兵隊長_星恂太郎他、勇敢かつ優秀な
陸軍の各隊長も数多く存在すれば、陸軍奉行_大鳥圭介率いる陸軍大隊がある。
箱館奉行_永井玄蕃尚志、箱館奉行並_中島三郎助も居る。
がしかし、どんなにあれやこれや考えても、土方スペアに値する者は
誰か一人でも、頭に思い浮かぶだろうか?!

後の世、福沢諭吉が語った『痩せ我慢の論』は、榎本の世界、全てにあてはまる。
悲しきかな、それを論破する隙は全くない。まさしく、この時点にも該当した。

じり貧、究極。大博打。榎本は、全財産、全人材を投入したも同然だった。
それでも、指を咥えて、みすみす襲い来る脅威、ストンウォールの到来を待つ
わけにはいかなかった。

明治の世になって、当日回天に乗艦していた安藤太郎は、 林薫 に、
ぼそっとこう語った。安藤太郎本人も大怪我をした人物。荒井郁之助の従兄弟。立場上、
内密事は口外できない。その彼が悔しそうに、語った。

「あの時、やれば、できたはずなんだ。それは、アボルタージュじゃない。
回天たった一艦しか戦闘に挑めなかった状況に至ったのだから、乗っ取りじゃなくて、
砲撃で轟沈作戦に切り替える事前構想があったのならば・・・。
否、全員死ぬ気なら、あの時点でもできたかもしれない。沈めてしまいたかった。」


林薫は、結びをこう書いている。事前に、次なる手段の構想設定、作戦の切り替えの必要性。


寡黙な 甲賀源吾 、実は、あまり知られていない分野ながら、涙ぐましいことに、
地味な努力もしていた。ストンウォール号、こと甲鉄の名。一般的な砲撃では、びくともしない。
いくら大砲を撃ったところで、虚しく跳ね返されるだけのこと。それは想定の範囲だった。
  • 箱館近郊砂鉄発見の山とは:古武井鉱山(函館~約30キロ現在の亀田郡尻岸内町。

そこで、砲撃力を増強させるために、箱館近郊の山から良質の砂鉄が発見されたことから、
それを鋳造した強化鉄を砲丸の先端に塗付。硬度増強の緊急対策である。着目点は、鋭いから、
歳月をかければ良策になったはずだが、生憎時間がなかった。子供騙しの気休め程度の
効果と知りつつ、この人物は制約時間内に許された範囲の策として、
黙って静かに、事前対処していた。

この人物は勇猛果敢と伝えられるが、確かに勇敢。しかしながら、果敢かどうか考える。
宮古湾海戦自体は実にショッキングで過激な史実であり、彼のラストはまさに強烈だ。
しかし・・・私的な感として、寡黙なる涙の忠実派と目に映ってしかたない。

なに畜生!やってやれぬことはない。恐れるな!・・・の過激派だっただろうか?
必然の滅びを知りつつ、不足と知りつつ、己に許された範囲内の最大限を忠実に全うしたかにも思える。

いざ行ってみると、甲鉄の甲板が低すぎた・・・のではない。
甲賀源吾 は知っていた。無謀と知りつつ、彼は進んだ。


甲賀源吾 の時下談判&事前の蝦夷上陸
宮古湾海戦の他場面でも、 甲賀源吾 は、やはり黙って静かに、されど・・・忠実に任務を遂行。
鷲の木上陸以前に、回天で甲賀源吾は、事前に蝦夷上陸&交渉:対_蝦夷ラスト奉行_杉浦誠
絶叫!「アボルタージュ!」_宮古海戦


榎本軍に死神のごとく、
いつもつきまとう悪天候、豪雨。

この時も例外ではなかった。
荒れ狂う号風雨に弄ばれた小型の蟠竜は、実も蓋もない。
もともとイギリスの女王が遊覧船と使用した艦ゆえ、蒸気力が弱く押し流された。

予定通り到着できたのは回天一艦。やっと立ち遅れつつ到着した第二回天=高尾は、
舵がへし折れ、戦闘能力を欠いたどころか、浮かんでいるだけで精一杯。
今にも崩れ落ちそうな見るも無残な姿である。一目瞭然、対象外だった。

待てど、暮らせど、頼りの「蟠竜」が現れない・・・・。
皆が苛立った。「あの小男め!この期にもまたか!松岡は、一体、何をやっておる!」


しかも蟠竜には、 実戦知恵袋の 山内六三郎 本人が乗艦していた。
甲鉄の甲板は異常に低い。彼の甲鉄艦乗船経験から、同艦の甲板との落差が最も少なく、
飛び降りて攻め入るのに最もふさわしいとされた艦が即ち「蟠竜」である。
ガットリング砲数台の配置状況、火薬庫の位置など、全て記憶しているのは山内だった。

この時戦闘員として臨時に蟠竜乗船した者の詳細は残念ながら不鮮明だが、 いわゆる剣の
ツワモノという観点以外に、ニコールから特訓を受けた結果、飛び移り戦法に適すると
判断された人材がここに集約されていたという。



甲鉄艦は寝静まっている。二度と訪れることのないこの好機。
まさか、こんな事態を予期できるわけもなく、完全に油断しているのだった。
蒸気機関は停止している。即ち、最も恐ろしいあのガトリング砲が始動するまで、
時間を要するのである。今しかない。もはや、これ以上、待つわけにはゆくまい。

群青の海。真っ暗闇の大海原の地平線が、僅かに白んで、夜明けは、もう目の前だ。
回天艦長、 甲賀源吾 、堪忍袋の尾が切れた。

呆然自失状態の高雄に、突如、回天から、手旗信号が送られた。
「我ら、一艦のみで、突貫決行!」

高雄艦長の古川節蔵は我が目を疑った。

事前約束はこうだった。一艦のみならば実行取りやめ。ニ艦なら決行。
漂流した場合は、一艦のみで現場に姿を現すのはタブーであり、必ずニ艦以上揃うまで
待つ。蟠竜の松岡は第一次集合地で、忠実に待っているのではあるまいか?
古川の脳裏には、ふとそうした思いが浮かんでいた矢先のことだった。

それでも、甲賀は決行すると言う。


甲板の高い「回天」は主戦用ではなく、総合司令塔。されど究極のニ艦のみの状況に於いては、
それを脱して実行に踏み切る。それがシナリオだった。

確かに、「回天」は艦が大型であることから、当然乗員は多い。
しかし、シナリオは、主戦が蟠竜及び高雄にあったため、回天乗員は、援兵増員として
他艦への移動覚悟はあったにせよ、まさか、三メートル近い落差を省みることなく、
飛び降りる・・・この覚悟が事前にあった者はというと
・・・はたしてどの程度存在していたものだろうか。

そう考えると、それを語れる者は、生存者ではなく、有言実行の最期を遂げた大塚浪次郎、
土方の右腕、剣のツワモノ新撰組の「野村利三郎」達帰らぬ人となった者達、
恐らく彼らしか居ないだろう。

それでも、 甲賀源吾 は断固踏み切る決断を下した!!

外輪船:推進装置として、水車のようなものが
側面についているタイプ
外輪船の回天は甲板が高すぎるだけではなく、側面の水車型推進装置が邪魔になる。
即ち、反対側に回れる位置環境が伴わない場合、 横付けが不可能なのだ。

接面もなければ、接する線も無い!
なんと!!交点は、文字通りの一点となった。

甲賀源吾 自ら操縦の上、回天はガン!と轟音を発して、いきなり
甲鉄艦の上に、己の先端を乗り上げる形で接舷した。


接舷、飛翔の時

敵艦、「甲鉄艦」奪取作戦
豪雨のごとく降り続く敵弾の中、
アボルタージュ!
甲賀源吾 の怒号が飛んだ。


Abordage!

アボルタージュ!アボルタージュ!
繰り返し連発される。

敵弾を真正面から受けつつ、
甲賀はその位置から一歩も立ち去る
ことなく、ひたすら兵を叱咤激励。

一番!大塚浪次郎


戦闘員は、落差約3メートル、しかも、船の突端だけしか、敵艦に飛び移れるポジションが無い。
一度に飛び降りることができる人数は、たったの一人!!
当然、一斉射撃のターゲットとなる。
まさに、死への飛翔の時!


しかし、勇ましい声が響き渡った。
「一番!大塚浪次郎!」
有言実行。彼は艦の突端に真っ直ぐ進み出るなり、ひらりと宙を舞った。
しかし、空中で既に砲撃されたため、敵艦の甲板に鈍い音を発して着陸したかに見えたものの、
既に息耐えていた。

にもかかわらず、勇者達の飛翔は、2番、3番と続いた。皆、目を覆うばかりの惨劇だ。
犠牲の上にさらなる犠牲が連なるばかり。(犠牲と英雄達は別途別特集でご案内予定)

そうこうするうちに、甲鉄艦から、不気味な音が響き渡ってきた。
蒸気機関が稼動し始めたたのだ。

魔のガトリングが火を吹いた!
たちまち、連発砲の嵐。回天は蜂の巣状態だ。艦上でも、次々と皆が倒れ死んだ。
夥しい屍が横たわる。

絶叫!「アボルタージュ!」


その時だ!甲賀源吾が突如倒れた!

思わず駆け寄ったニコールも撃たれ、運ばれた。
がしかし、それでも甲賀は立ち上がったのである。

左足を撃たれても、気丈に仁王立ちだ。

アボルタージュ!アボルタージュ!

その声は止むことなく続いた。彼は、制止に入った荒井の声も、誰の制止も受け付けない。
けっして、その場所から一歩も動こうとしないのだった。

その時だ!ガトリングが彼のこめかみを撃ちぬいた。

彼の体は、そのまま、後方に大きな弧を描き、バタリと甲板に倒れた。
途端に、ずしんと甲板に鈍い音が響き渡った。
それはまさに、回天艦長、 甲賀源吾 、絶命の瞬間だった。





すでに息絶えた甲賀。

しかし、その亡骸は、両足をふんばり、
士気を鼓舞する右手を高く振りかざし、
両の目は、きつく天を睨みすえていた。
享年、三十一歳。


英雄「甲賀源吾」ここに死す。



海軍人:甲賀源吾、宮古の海に散る
甲賀源吾 :天保10.1.3(1839/2/16) - 明治2.3.25(1869/5/6)、享年30歳


1.jpg

「願わくは、たとえ、回天の一艘なりとて、
我に与え賜うものなれば、我、之を試みんと欲す・・・」

それが、あの時、緊急会議時に於ける己の発言だった。

いかに多くの犠牲を払おうと、他になりかわる手段は今や皆無。
甲賀は全てを背負い込んでしまった。

被弾。さらに再び被弾。しかし、息絶えるまで、叫び続けた。
「アボルタージュ!」

失策の罰と、若者達の尊い命を奪った己の罪、
万事、自らの命で贖い、瞬時、天空に消えた!!


昇天の華


究極まで己を追い詰めた一人の男が、またひとり、天空の彼方へ消え去った。
悲しいほどに忠実に、有言実行を全うした。

この人物の声は、どんなに追ってもこれ以上探せない。
耳を清ましても、その肉声は聞こえてこない。
多大なるプレッシャーを背負って、彼は完遂昇天した。

きっと、その決心だったのでしょう。
被弾死亡というより、海軍人としての一種切腹に
近い行為に思えます。忠実に命令に従った若者達が、
次々と殺されてゆく。それでもアボルタージュと
叫び続けていた己。これで生きて帰るつもりはなかった・・・。

無理やり引き止めても、きっと、この人は
切腹してしまったはず。


「我、命に換えても、奮して之を為さん。」

それが 甲賀源吾 だった。


死者達の帰還


死んだ。死んだ。皆死んだ。

舵がへし折れ操船不可能の高雄は、案の定漂流。ついに見失った。
もはや絶望と思われた。回天と蟠竜は、万事絶望の津軽海峡を引き返して行った。
史実は→:漂流した高雄は盛岡に降った。一部逃走。
生死が明確な者はわずか。

敵艦に飛び移った者は7名。そのうち奇跡的に生還した者は僅か2名。
艦上でもガトリングの威力。瞬く間に次々と皆が被弾して、多くの命が散った。
野村利三郎を失った土方は、その亡骸さえ持ち帰ってやれなかったのだった。

「畜生め~っ!」 呻くようにそう叫んだ荒井郁之助が舵を切り、
回天が海上に逃げ去った時、首を討ち取られた野村の屍は、敵艦上に曝されたままだった。

土方は、この男、野村が可愛かった。
蝦夷に到着するなり、持ち前の血に走る気性から、さっそく春日左衛門に喧嘩をふっかけ、
春日左衛門が榎本に直訴。おかげで土方は柄にも無く、榎本の前、頭を掻くは、余計な手間が
増えるは、苦い思い出はいくらでもある。滅法腕は立つものの、何かと困ったやつ。

それなのに泣けてしかたない。
義理兄弟の契りを結んだ近藤勇の救出劇の際、身体を張って近藤に随行したが故、捕縛された男。
それが野村だったのだ。

遭難と思われる高雄には、神木隊の大半が乗船していた。もともと少人数の同隊は
もはや全滅に等しい。回天に乗船していた神木隊長_酒井良祐は、全身数十箇所の
重傷を負いながらも、己の痛みも苦しみも完全に飛んでいた。虫の息にも等しい我が子、
【金扇=セン】太郎を抱き必死で呼びかけていたのだった。
しかし虚しくも腕の中、逝った。僅か16歳の少年だ。まだ人並みの身長にも至らぬ幼い我が子。
この子まで失ってしまった。間もなく本人も病院で逝った。



皮肉にも晴天の箱館港。回天と蟠竜のみが、帰還した。
神妙な面持ちで向かえ入れた榎本は、涙ながらに、自ら経を読み、死者の勇戦を賛した。

この時、榎本の後に控えた男、大塚鶴之丞 (榎本の切腹を止めた人) は、両の拳を固く握り締め、
嗚咽を必死で堪えながら、その肩は激しく振るえ泣いていた。

弟、弟!血肉を分かち合った実の我が弟!可愛い弟よ!

皆から聞かされた。最も勇敢だったと。誰もがそう言う。
真っ先に躊躇することなく、まっしぐらに敵艦目指して飛び降りたという。
まさに、死への飛翔の時! 彼は声高らかに名乗ったというではないか。

「一番!大塚浪次郎!」

我が弟よ。二度と帰らぬ弟の声が、どこからともなく聞こえてくる。
もう涙を堪えきれなくなった。

鶴之丞の瞼には、出陣の時が焼きついて消えない。
己自身が発した言葉が、悪魔の囁きのごとく、耳裏から蘇ってくる。

「そなた、解っておるな。よいか、武士の名に恥じなきよう、
くれぐれも、この兄が申しておるのじゃ。
徳川報恩、武士に二言は無いぞ。我が総裁、榎本殿の
お顔に泥を塗るような真似だけは、断じて許さぬぞ。
解ったか!解ったのなら、これ、返事をせぬか!」

そう言って人前で叱り付けるような口調で説教してみたものの、内心
いても立ってもいられず、着こなしを口実に、弟の襟元を調えてやった。

「馬鹿者!しゃきっとせぬか!だらしないぞ。
襟が歪んでおるではないか。馬鹿者!」

散々馬鹿を連発されても、弟には、兄の愛が伝わっていた。
回天乗員の中、屈指の勇猛果敢な男、浪次郎。彼は臨時戦闘員ではなく、
一等測量士。鶴之丞にとって自慢の弟だった。
「他人が飛ぼうと飛ぶまいと俺は飛ぶぞ!」 浪次郎は、そう断言していた。
しかし、その彼が、兄に対しては、少年のように大人しく、頷いた。

それが、今生の別れになろうとは・・・。


よくやった。お前は誰よりも偉い。声に出さずして、そっと褒めてやりたかった。
されど、その屍は、ここにない。弟の屍が、敵艦上に残されてきた無念。
鶴之丞は今、再び振るえ泣いていた。

海風が目に沁みる。彼は、ふと無意識に、山側を振り返った。



蝦夷無常、夢色桜
咲いた、咲いた満開桜、罪色の花


さく花のころといへども
桃さくら なへて開かぬ 春ぞ つれなき

中島三郎助 が、この句を詠んだのは、ほんの少し前のこと。
三月三日のことだった。

蝦夷の三月は、急旋回。目まぐるしく事態が揺れ動いては消えてゆく。

今月の初旬には、いつまでもすがり付いて消え去ろうとしないあのしぶとい冬が、
時折雪混じりの冷雨を降らせていた。いつまでも、待たせてばかりで、一向に咲こうと
しなかったあの桜。

それが、今、まるで嘘のようだ。




宮古湾海戦の惨劇。死者達を乗せた軍艦が帰還した日、なんと、箱館の港は、晴天、
心地よい小春日和だった。青い海が春の光を浴びて、眩いばかりに輝いている。


運命とは、なんと残酷なものだろうか。

咲いた 咲いた 満開桜。幻の蝦夷夢桜。
今頃咲いた。夢色一色。

五稜郭も、台場も皆、花盛り。
桜散る 散る。舞い落ちる。
死者達の屍に降り積もる・・・罪色の花びらよ。

褐色の大地には、遅れて、緑が徐々に蘇りつつある。
よく見ると、そこには、いくつかの蕾が、丸みを帯びたその形のまま、地に転がっているではないか!

褐色の地面に、初々しい桃色の蕾が汚されて痛々しい。咲かずして散らされた不憫な花々。
蝦夷の畝繰り返すあの強風にやられたにちがいない。

それは、敵艦「甲鉄」に勇敢にも、飛び降り、討ち死にを為した若者達、まるで、
甲板に置き去りにされた彼らの姿を見るようで辛かった。

中島三郎助 、四十九歳。目頭から溢れ出る涙と共に、様々な思いが湧き出て、止まらない。

宮古に散った若き英雄達よ。
中でも、彰義隊の名に恥ずことなく、勇敢に飛び降りた笠間金八郎、加藤作太郎、
そして兄の大塚鶴之丞(彰義隊出身)の影響で、一等測量士官にありながら、
勇猛に真っ先に飛び降りた大塚浪次郎。

もしも、天がそれを許すなれば、無念の自刃を遂げたあの若者、同じ彰義隊に属した 佐野豊三郎
の魂も、ここに共に堂々と散らせてやりたかったものだ。人一倍、徳川報恩、殊勝な若者だったのだ。

中島にとって紙一重、病に倒れた長男の恒太郎は陸の者となり、存命できた。
実質上、次男の英次郎を干したも同然の大塚鶴之丞ながら、弟の死に振るえ泣く姿は、
あたかも我が身のごとく、胸がはりさけそうだ。・・・( 大塚鶴之丞1 大塚鶴之丞2

中島の窶れた頬に、箱館の海風が吹きつけた。


咲いた 咲いた
おくれさくらよ,蝦夷桜、

冥土に咲くのか、夢桜


<完>

宮古湾海戦に絡むMEMO

中島三郎助 と蝦夷桜
No.1 No.2 No.3 No.4 No.5 No.6 No.7 No.8 No.9 No.10 No.11 No.12 (完):現在の頁

そして、 中島三郎助 は、悲壮な終焉

壮絶終焉,中島三郎之助親子_木鶏のほととぎす

中島三郎助えとせとら


以下資料(ご参考)
宮古湾海戦 資料(参考)

宮古湾海戦 死者と概要
分乗の様子=
三艦計

◆主な士官クラス
約100余人
=約(60+24+20

◆雑夫込計
=約
(250+120+150
=520


複数資料読み合せ
にて表記ご参考迄
こんなに一杯
居たかな?
【1】_回天:実戦の唯一艦
荒井郁之助(総監), 甲賀源吾(艦長),土方歳三,ニコール,相馬主計,野村利三郎,
渡辺忻三【(軍艦役)死んでない大正まで生きてる:浦賀の与力朝夷の子で養子IN】
神木隊(約36),彰義隊(約10),新撰組他=(主士官クラス約60人:海軍雑夫込250余名 )
海軍その他雑夫200余名

【2】_高雄
故障敗損ながら、到着するが実戦不可能(帰還途上座礁。多くは盛岡に投降。一部逃走。
古川節蔵(艦長)、コラーシュ、神木隊(23~25人),海軍その他雑夫70余名
= (主士官クラス約約24人+?:海軍雑兵込120余名 )
   この中に島田魁が居たとする説と、否説双方有。前者側説でゆくと、他数名と共に漁船を
   奪い、4/3遅れ、箱館帰還。否説では、別途、後日他用で一時本州へ偵察。

【3】_蟠竜 :到着遅れ、実戦不参加=(主士官クラス約22人:海軍雑夫込150余名 )
松岡磐吉(艦長),クラート,山内六三郎,彰義隊(約10人),遊撃隊(約12人)
新選組(約10名)+海軍その他雑夫100余名+臨時!林董三郎、

この頃、林董三郎(少年)は義兄榎本の言い付に反発。勝手に乗り込む。
   この経緯後日別編にてご案内
飛び降人の概要
=計7人=
(死者5人)
+(無事帰還2人)
■飛び降りて死亡
【1】大塚浪二郎、【2】笹間金八郎(彰義隊指図役)、【3】加藤作太郎(彰義隊指図下役)、
【4】?、【5】野村利(理)三郎 (新撰組)
上記の【4】?は高田嘉一郎 (裁判役付属か?=謎
■無事帰還の2人:【6】渡辺某、【7】伊藤弥(彌)七 (※▼)
この二人は、戦い後、海に飛び込み帰還。二人について詳細不明。一般に海兵と言われるが、
※伊藤弥(彌)七は、彰義隊と思われる。<現在頁下側の「伊藤弥七考察枠」へどうぞ!>
◇渡辺は、軍艦役の渡辺の親族か?海兵との表記も有るが・。
◇伊藤は、敵艦の帆に旨く体を包ませながら、抜刀戦闘。渡辺は、使った武器は刀でない。
なぜか棍棒を振り回し撲殺戦法。目撃では最低2名は撲殺。引き上げの際背中斬られるが被害は
服だけ。無事海に飛び込み帰還。
死傷者
・◆死傷者:(17人即死+追って2人死亡=19人。24人説も。重負傷者は30人位。真下データ足し算合致しないが大体)
・◆死=飛死5+艦上死+帰還後死
■艦上死(青色) ■飛び降り死(赤色)
■帰還途上&帰還後入院間もなく死+即死か帰還途上死か判然としない死(色塗り無し=黒色)
死亡
15+?
甲賀源吾:(艦長)
矢作平三郎沖麿:(副軍艦役)

・▲飛ぼうとして目胴複数受弾
渡辺大蔵:(1等士官:忻三と別人)
筒井専一郎:(見習い2等)
小幡忠甫:(1等測量士)

大塚浪次郎 :(1or2等測量士)
布施半(孫三郎):(見習い1等)
柴山昇(幟):(見習い3等)
半七:(舵取)
山口忠也:(見習い3等)
伏見清三郎(小筒方)
浅羽源之助(源之丞:(稽古人)
永島赤郎(次郎:(稽古人)
横田正五郎(新吉:(稽古人)
長之助

?高橋某? (高橋と渡辺同一変名説有
新撰
1人
野村利三郎
野村は飛降失敗。海面で捉えられ斬殺説有
神木

7人
酒井良輔(隊長)
▲本人も致命傷複数傷ながら倅看護虚しく
酒井扇太郎 (16歳隊長の倅帰還途上艦上死
三宅八五郎,
古橋丁蔵 ,
関本滝治郎,
金子万蔵
川島金次郎

元々70人の少数隊で7人死亡。高雄便乗の23
人は、高雄帰路座礁にて喪失。残約40人。
実質上の隊崩壊に至った神木隊
彰義隊
3人
笹間金八郎 (差図役
菅沼三五郎(頭取改役
加藤作太郎 (頭取改役
不明
高田嘉一郎 (裁判役付属
考察&トピックス・・ 宮古湾海戦絡みの補足MEMO各種
■伊藤弥七(彌) 彰義隊
蝦夷に於ける彰義隊とは、仙台で蝦夷に向う段階で色々混入。脱走幕軍各諸隊の生き残り混入。
その上、彰義隊二分騒動があり、小彰義隊と大彰義隊という名目で二分している。その為、
元祖彰義隊時代の者にとって、混入派の身元知識も仲間意識も希薄で不明点多大。
私的に色々調べてみたところ、脱走幕軍各諸隊に類似名有ながら確証無し。
明治の世、宮古湾海戦参戦者は、同じ賊軍出身者扱いの中、最も凶悪扱いされた新撰組絡みと
同様に、差別&怨恨を背負う。その為、仮に幸い存命しても、身の危険&生活の困窮から、
本人及び遺族は語らない。薩摩海軍による怨念は、信じられない位、極めて延々続いている。
(この話: きな臭い戦犯処理
神木隊実質崩壊

これが原因で
実質上の隊崩壊に
至った神木隊の宿命
元々70人の少数隊で7人死亡。高雄便乗の23人は、高雄帰路座礁にて喪失。残約40人。
◆神木隊 :越後高田藩榊原家脱藩藩士による隊。飛島沖で長崎丸座礁後、12/24ロシア船で、
遅れて別船にて蝦夷へ。
◆高雄喪失組の結末:殆ど投降&行方不明≒絶望&死亡。
◆生き残り約40名の宿命
生き残りは一隊を率いるに至らず、他隊の配下に入るが士気激減。可愛そうに末期は逃亡発生。
尚、逃亡した者の結末は殆ど捕縛死。(残党狩りの様子: 箱館戦後処理の様子一望おまとめ表
官軍被害と怨恨
宮古湾海戦での官軍犠牲死亡について、加害者側である榎本軍に比べると実に少数。
人材及び艦損失の結果からすると、榎本軍の自爆自殺に近い。ところが、薩摩海軍は
特に怨恨。同じ薩摩ながら陸の黒田に警戒せよと注意された矢先故、怠惰を指摘され、
顔が潰れた上、長州対薩摩の歪みに加速度。(死)甲鉄9人。戊辰丸7人。飛竜丸6人。
但し、上記純粋な戦死以外に、逃走を恥じて自殺した者や、責任切腹させられた者など、
余計な死者数が、上記数値にさらに、加算される。
尚、この様子を見ていた東郷平八郎(春日に乗船)は、後に日本海軍で、これを教訓ヒントに。
この頃榎本海軍

まともな軍艦2つ!
しかも、蟠竜は
性能良いが超小型
<海軍奉行(荒井郁之助)配下>
■回天艦長- 甲賀源吾 (31歳はこの宮古湾海戦で死亡につき)→新艦長は「根津勢吉」となる。
■蟠竜艦長-松岡盤吉,■千代田方艦長-森本弘策(末期恐怖のあまり錯乱、艦を敵が奪取=喪失。
■輸送船(大江・長鯨・鳳凰・回春)、
<宮古湾海戦が原因で喪失した艦:◇高雄艦長-小笠原賢蔵(捕縛されるが明治存命)>
<蝦夷で喪失した艦:◇開陽、◇神速(開陽沈没の際、救おうとして同じく沈没)>
宮古湾海戦の影響

二関源治達の見国隊
二関源治達の見国隊が、明治2年4月14日、蝦夷到着。
可愛そうなことに末期榎本軍に、わざわざ、自ら船を雇い蝦夷に到来。この頃、榎本軍は
金欠の究極。これほど酷いとは、いざ到着するまで予測できなかったことだろう。
因みに二関源治は蝦夷到来から死亡迄一ヶ月未満の命。5/11大森浜致命傷、翌12日死亡。




★あれれ?イギリスと仲良しだったはずの明治政府、なんでいきなりフランス軍調練!?
原因はコレだった! 尊ぶべきはピラミッド、蔑むべくは団子!
  • ピラミット型の指揮系統がいかに優れた軍隊 であることが解った明治政府。
    そのため、フランス軍調練を、明治政府が着目取り入れることになった。
  • 開眼の原因は、ブリュネからウートレーに送られた報告書だった。
  • 皮肉にも、実例として立証されたものは、榎本軍に於ける終焉時の様子だった。
    ■榎本軍の最大の問題点:個々の長達が束ねる分散型の指揮系列の問題点
    ブリュネより、我が尊敬する上官、ウートレー様
    「 彼らは、それぞれの長が率いる無意味な小さな団子状態になって個々バラバラに
    戦うのみなのであります。我々の指示に従わないのです。それゆえ壊滅です。
    それゆえ、カズヌーブも怪我をしました。それゆえ撤退決意しました。

    無意味な団子には、完全ピラミット型の指揮系統が全く行き届きません。

  • ウトレーなかなか、したたか!これを機会にしっかとフランスポジジョン確立。
    「我々は、その極めて優れた指揮系統ノウハウを有するばかりでなく、そもそも、
    日本人に対する調練指導経験豊かな教官を数多く抱えております!いかが?
  • 明治政府、思わず、「ほんじゃ、宜しくお願いしますね!フランス式軍隊調練決定!」

中島三郎助 と蝦夷桜
幕末玄関 No.1 ・・< No.11 No.12 (完):現在の頁

文章解説(c)by rankten_@piyo


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