幕軍えとせとら5,箱館戦,中島三郎助特集

箱館戦争,中島三郎助えとせとら特集,蛮社の獄,中島三郎之助のブレーン&血縁,中島三郎助と共に千代岡で戦死した人、中島隊と他隊、額兵隊等の犠牲,中島三郎助を反射鏡に映し出した幕末あれこれ年表,【楽天市場】


幕軍&松前えとせとら

現在の頁は「幕軍&松前えとせとら」の中島三郎助特集(No.1~No.3のNo.3)
Vol.1 Vol.2 Vol.3 Vol.4 <(中島三郎助特集: Vol.5 現在の頁< Vol.6 Vol.7
Vol.8 (再び、ONLY中島でなく、幕軍&松前一般編)へ




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中島三郎助えとせとら

【中島三郎助えとせとら】_No.1
【中島三郎助えとせとら】: No.1 (現在の頁)< No.2 No.3

中島三郎助と蝦夷桜


現在の頁、このコーナーは、 「中島三郎之助と蝦夷桜」SEREIS の追加詳細などです。
(本ページ内に書ききれなかった事などのおまとめです。)
この頁内概略
他にも、中島三郎之助こだわりメモ有の頁


  1. 中島隊:中島の千代ヶ岡
    陣屋に関与したブレーン
  2. 他隊ながら、中島隊と共
    に千代ヶ岡陣屋で戦死し
    た人
  3. 下田奉行と浦賀奉行
  4. 中島三郎助の父、
    中島清司永豊時代
  5. 父、中島清司永豊~子、
    中島三郎助移行時代
  6. 蛮社の獄
  7. 中島三郎助_永胤時代
  8. 中島三郎助_の学習
    砲術,剣術,学問
  9. 中島三郎助が理工系に
    強いのはなぜ?
  10. 中島三郎助を反射鏡に
    映し出した幕末:あれこ
    れ年表
  11. 明治天皇と中島町
  12. 他略頁内をどうぞ



【中島三郎之助えとせとら】: No.1 (現在の頁)< No.2 No.3
壮絶終焉_千代台の散華


■最後の砦、中島の千代ヶ岡陣屋に関与した人
  • 明治2年5月16日午前2時、薩摩400の兵が四方から襲い来る。闇夜に銃声、砲煙。壮絶なる死闘。
  • (緑色:明らかに生き残った人、赤色:明らかに死んだ人)
  1. 中島三郎之助 ・・本人:49歳
  2. 中島恒太郎 ・・長男:21歳・・蟠龍稽古人
  3. 中島英(=房)次郎 ・・次男:19歳・・初め、総裁附だった
  4. 中川久太郎・・(病気)
  5. 柴田伸助 ・・浦賀同心:年配
    ■病気の息子の介護のため、暫く中島隊を離れ高松先生の病院に行ったが、ラストで復帰
    ■倅:真一郎は遊撃隊。また、中島が長崎伝習所に出向いた時、同じく推薦された柴田は年齢的に
    _辞退。中島不在中の諸事を献身的に代行。中島は柴田への恩として、後日、この倅:真一郎を長崎
    _伝習生として送り込んだ。真一郎は、担当が砲であったことから、海軍には属せず、陸軍として活動。
    ■そこで、柴田本人は中島の戦場で最後まで生き残り、留まった後、見回りに来た敵1or2名銃殺して自刃
    ■中島が徳川報恩の人ならば、この柴田は、とことん中島報恩を徹した。
  6. 近藤彦吉 :16歳:近藤喜八(与力)の子
  7. 平田銑太(吉)郎(=千太郎) 平田小左衛門(与力)の子または縁者
  8. 直井友之助
    • 降伏後青森蓮心寺に収容「海軍方下士官」:直井大八郎(同心)の子
  9. 福西(田)脩(周)太郎 :16歳、(中島と血縁筋):福西道助(同心)の子
  10. 米山鰐蔵 ・・英次郎の僕。元水夫。中島が蝦夷で士分取立て。苗字付与。
    • 降伏後青森蓮心寺に収容:海軍方_鰐蔵
  11. 佐々倉松太郎 ・・浦賀の中島本人の後輩、浦賀与力仲間の佐々倉桐太郎の子、
    • 降伏後青森蓮心寺に収容「海軍方下士官」江差詰書記方
  12. 朝夷(朝比奈)三郎 :15歳・・軍艦役に朝夷健次郎がいる。
    ・・・若年につき総裁附のところ、中島隊に合流。(中島と血縁筋)
  13. 佐々木直次(三)郎 ・・江差詰書記方
  14. 平山金十郎 ・・蝦夷地元採用
  15. 他に,海軍所属の卒の部(当時苗字を与えられていなかった身分の人含)にある人
    ・・の中にも当該者がいるようです。
  16. 吉之助(通称) ・・謎の人物:中島家の僕(中島の指示で手紙を持って事前に逃走)
    本名は庄蔵ではないかと考えている。(中島の手紙に登場)確か、水夫にこの名があった。

    ■一般にいわれているこの人物「吉之助(=現在のシリーズ内にも登場してます。)」は、中島の依頼に基づいて、
    事前に中島妻への手紙を持って逃走。その際、 柳川熊吉 が彼のボディーガードとして子分をつけてやって、
    変装させて船で共に浦賀まで送ったといわれています。しかし、後の世、我こそはと名乗った人については不明。
    幼名があった者が士分に取り立てられて、まるごと名前が変わっていることも考えられます。
    ■その為、吉之助(通称)なる人物は、上記の中では、15番か、10番の米山氏が、ひとたび捕まったものの
    手紙を事前に代人手渡したか?説も想定の範囲内に一応対象として。
■最後の砦、中島隊。その際、他隊ながら、共に千代ヶ岡陣屋で戦死した人
・合計170名程いたはずだが、途中でどんどん欠落。それでいて絶対逃げなかった人が一杯。
  1. 武田太郎(小彰義隊:差図役並)5/15
  2. 長谷川鉢三郎(小彰義隊:砲兵)5/16
  3. 岡本新次郎(伝習士官隊:調役)5/16
  4. 千葉謹六(陸軍隊=春日隊:頭取)5/16
  5. 香取隆太郎(器械方【騎馬隊兼】:下役)5/16
  6. 勝田源八郎(額兵隊:頭取)5/16
  7. 管野半左衛門(額兵隊:大砲方頭取)5/16
  8. 佐藤源吾(額兵隊:大砲方取締)5/16
  9. 中村兵之蒸(額兵隊:砲士)5/16
  10. (二関源治(見国隊長)5/11だから、この人はラスト戦時でなないがご参考まで)
  11. (片山源左衛門(見国頭取)5/8・同上)
  12. 橋本兵太郎(見国指図役)5/16
  13. (大滝重次郎(杜稜隊:指図役並)5/11・同上)
  14. 佐藤八五郎(杜稜隊:伍長)5/16・別説有(5/11亀田)
砲兵が多く死亡してます。中島隊の大砲は破損していました。中島は承知の上でした。
決死だったからです。前日説得のために陣屋を訪れた 林薫 に、彼はこう語りました。
「己は、この破れ筒に跨り、敵陣に吹っ飛んで死んでやるつもりじゃ。」
しかし、最後まで頑張ろうとした各隊は、中島隊の弱点を補うべく、砲隊が活躍。
痛々しい結果となりました。(自軍にダメージを受ける元となる砲士は真っ先に狙われます。
それでも逃げ出さずに頑張ったのだろう。そう思うと胸が痛い。
また、卒の部については、書いてももらえなかった人、もっと可愛そう。

壮絶終焉,中島三郎之助親子_木鶏のほととぎす


■下田奉行と浦賀奉行

▼幕臣として一代目の中島定房は下田の与力、それがいつの間に浦賀へ移動したか?

■下田奉行所設立:1616(元和2)、この頃、南蛮船の入港は平戸と長崎限定。各港の廻船を取り締まる
目的で、積荷検査を主とする業務の必要性から設置された。「入り鉄砲に出女」
この頃、下田奉行所の規模は小さく、奉行1名、与力2名。

■徳川四代将軍、家綱の頃、
1669年3月19日、中島定房43歳の時、それまで加賀の前田家の家臣だった中島家はお家断絶になって
いたため、浪人だった中島定房が、下田奉行、今村伝三郎組与力によって頭脳を認められ、
召抱えられた。(定かでないが、頭脳とは、 長崎で勉学していた可能性大

■徳川八代将軍、吉宗の頃、
1720(享保5)年、江戸が巨大化していた。発展に伴い、輸送船の量も増大。下田では手狭。
そのため、下田奉行は浦賀奉行と変更になる。
同時に中島一族も浦賀へ転勤=(中島家は2代目_中島三郎衛門永知の時)。
浦賀奉行所の規模:奉行2名(浦賀在職と江戸在職各1名)+与力12名+同心50名。
浦賀は長崎より奉行所として上位に転ずる。

■ひとたび閉鎖された下田奉行は、1842(天保13)年、再開。しかし、1844年、再び閉鎖。

■浮き沈みで不安定になった下田ながら、1854、3月、日米和親条約(神奈川条約)によって、箱館
と、下田が開港。この後、目まぐるしく下田は展開。下田条約(日米和親条約追加協定)、日露和親
条約の締結など。しかし、1858(安政5)年、日米修好条約が最終ピリオド。神奈川開港となり、
下田は外交の港としては一切閉鎖される。

■この間、中島家も、渦中の人。浦賀&下田間を駆け巡る。しかし、このことによって、
沿線全域に様々な人脈も確定される。

中島三郎之助の父、中島清司永豊時代 (この人は在職45年間、相当奮闘した。)
  • 関文衛門(書院番与力)の長男として生まれ、中島家に養子IN
  • 1804(文化元)年3月、先代の保三郎にかわって与力就任。
    • ある意味で、中島三郎之助本人よりも大変な時代。1792(嘉永4)年、ロシア使節ラクスマン
      が大黒屋光太夫を護送の上、根室へ通商請求。1796、8月には、英人ブロートンが蝦夷上陸
      海図制作&勝手に測量。幕府はあわてて、1792(寛政4)年、海防掛老中新設&海防対策。
      ところが、この頃の幕府組織は、典型的な「先送り」主義。誤魔化し、臭いものに蓋、
      ・・・おかげで、ついに手遅れの「付け!」が、ガッチリ回ってくる。ペリーがやって
      きたことなど、全然初の衝撃!びっくり現象ではなかった。やっぱりそうなっただけの
      ことだった。
    • このへんてこりん&煮え切らない方針の幕府時代に辛い対応掛をやらされていたのが
      中島三郎之助の父、中島清司永豊。
      1817(文化14)年、英人ゴルドンの貿易請求を拒否。
      1846(弘化3)アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル来航時の追い出し。
      • いやな仕事&必ず倍になって跳ね返ってくるにきまってる不味い対応を任務上、
        やらされている。しかし、なんとかせねば!!と相当水面下で動いた人物。
    • 1849(嘉永2)年、病気を理由に引退=中島三郎之助に与力を譲り、認められるが、
      極めて難解事情の時代背景から、再び呼び戻されるも、1858年、やっと完全引退。
父、中島清司永豊~子、中島三郎之助移行時代

幕府のはっきりしない態度がどんどん、傷を悪化させる。上記事件前から、他にも、事件は山盛り。
蝦夷はパニック。松前にまかせておくわけにゆかず、第二次直轄時代になるが、全然追いつかない。
レザノフの通商請求。イギリスのフェートン号の長崎浸入、 ロシア艦長ゴローニンを国後で捕縛。
その仕返しが、廻船業者高田屋嘉兵衛の捕縛・・・人身交換


(江川英龍の世界にも異変)

浦賀と密接な関係にある江川の里にも、きなくさい事件。尚歯会と称して、開明派チームが活動。
江川英龍もその一人。断固鎖国派の 鳥居耀蔵 の刃にかかり、「蛮社の獄」で危ないところだったが、
老中水野忠邦に一命を救われた。がしかし、やっぱり、その後、1855(安政2)年3月4日、病没と
いうことだが、釈然としない死に方をした。後を継いだ長男の英敏は、1863(文久3)年に農兵軍
の編成実行するなど、武蔵とこの地の縁をフルに活かして、若いながら頑張ったが、なぜか、
24歳の若さで妙な急死。

「蛮社の獄」
1839年(天保10)年5月:言論弾圧事件
  • 被害者チームは: 「尚歯会」
    開明派の海防問題などを新しい知識と学問を基本に於いて、時代にあわせて前向きに
    深く議論する会。洋学、砲術、造船、殖産興業、科学、海軍、などバージョンも広い。
  • 「尚歯会」メンバーは:
    ■蘭学者_高野長英:蟄居処分。貧困生活。やがて、家系は断絶
    ■小関三英:1839年(天保10)年5月捕縛騒動と同時に自害となっている。
    ■幡崎鼎、■幕臣_川路聖謨、■羽倉簡堂、
    ■蘭医_渡辺崋山(三河田原藩士):
    逃亡、硝酸で顔を焼いて人相を変えていた、垂れ込みで捕縛、
    自害ともいわれるが、拷問?=捕縛籠で既に息絶えていた説もある。
    ■江川英龍(太郎左衛門)など

■中島三郎之助_永胤時代

■文政4(1821)年1月25日 ~ 1869(1869年6月25日=明治2年5月16日)
上記、中島清司の次男として生まれる(生まれて直ぐ亡くなった男児があるようなので、
厳密には三男とする説もある。)

■結婚:1837年、岡田定十郎(中島の父の実弟)の娘:錫と結婚(この時14歳)、中島本人は16歳
・・・従兄弟同士の結婚になる。この頃、モリソン号砲撃の表彰を受けたばかりの中島本人である。
■幼少より英才教育を受ける
  • 学問:四書五経:浦賀の僧侶&漢学者から習う。
  • 朱子学:佐藤謙三郎(浦賀で塾を開いていた浪人)に13歳で入門し、中絶。
  • 俳諧、和歌:父の清司も達人。三郎之助本人は、俳号を木鶏という。
  • 武芸:
    • 槍術_宝蔵院高田流:6歳で入門、10歳で「目録」
    • 砲術1_幕府鉄砲方_田付流:10歳入門、18歳「目録」
    • 砲術2_荻野流:13歳で入門、19歳で「目録」
    • 砲術3_集最流(師匠:佐々倉覚蔵【佐々倉桐太郎の養父】)
      :21歳で入門、23歳で「目録」
    • 砲術4_高島流:(師匠:下曽根金三郎(信敦)))
      :弘化2年、24歳で入門、26歳で「免許皆伝」
    • 剣術1_天然理心流:13歳で入門、17歳で「目録」
    • 剣術2_北辰一刀流流:20歳で入門、23歳で「目録」

■血統:5~7代まで、中島家は養子INした人物が継いでいたが、久々に中島三郎之助は
完全直系の血統。

■中島三郎之助、少年時代

本人は上記のとおり、文武共にひたすら学習に余念がない。
しかし、時代は暗黒。天保の大飢饉。1837年=大塩平八郎の乱発生。
(偶然だが、中島の俳諧仲間、孤山堂無外(蝦夷で再会、交友する。)の妻は、大塩平八郎の
乱で蝦夷に逃れた大塩(死んだ本人)の長女または、妾だった女性と言われる人物。)
大塩平八郎は、大阪町奉行所の与力であったことから、社会への衝撃は大きかった。本来なら、
鎮圧する側の立場の者が、民の意を汲んで自ら反乱に出たのはショッキング。いかに、この頃、
民の暮らしが過酷であったかを象徴している。おかげで、やっとその後、天保の改革。

■中島三郎之助が理工系に強いのはなぜ?
・・・答え=「浦賀の与力だったから。」

・・・★中島三郎之助を反射鏡に映し出した幕末:あれこれ年表★・・・
  • 浦賀与力の仕事は、造船知識、機械知識、船の就航にかかる通信などの諸知識が必要とされる。
  • その上、この人物は砲術については、全4種類の流派を学んでいる。時代と共に
    進化するせいもあるが、射撃よりも、構造と機能開発に方向性が傾斜する。
  • 長崎伝習所に行くことによって、ますます専門知識を得た。

1_当時浦賀奉行所の主な仕事は、「船改め」
  • 港に出入りする船の荷物検査&取締・・・「入り鉄砲と出女」
    • 密輸入や幕府に謀反を企む者が密かに入手することを警戒。
    • 大名の家族女性が江戸より出て行かないように取り締まる。
  • 運上金の徴収(船の通行税みたいなもの
  • 外国船の警戒
  • 見回り 船の管理、修理
  • 通信術の習得
  • 近郊の民政:(奉行所があるということ=天領(幕府の直轄地))だから、藩のように
    大名はいないわけで、当然治安維持&地方行政の仕事も多い。
  • 与力の役職は{地方掛、吟味掛、+(1842年から2種が追加となる(武器掛、応接掛))}

2_砲術から転じて、機械知識
  • 当時の砲術とは、射撃の練習ばかりでなく、構造やら、火薬の調合やら幅広く学ぶ。
    中島は、どうやら、根っから、機械好きのようだ。
3_異国船打払令の教訓

上記のとおり、幕府は先送り主義で、もたもたやっていたのもあるが、鎖国はいいけど、軍力の
レベルが低すぎるならば、話にならない・・・という点を古くから、林子平の「開国兵談」などで
いわれているにもかかわらず、レベルアップは実に鈍かった。頭打って、お初に少々お目覚め。

■1837(天保8)年、アメリカ商船モリソン号浦賀到来。
「モリソン号に乗っていた日本の漂流民7名」
  • 尾張、知多半島小野浦「宝順丸」の音吉他2名=三人のキチ(岩吉、音吉、久吉
  • 九州肥後の力松他3名=4名

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幕末の悲しき漂流民

▲上記モリソン号到来時、中島三郎之助は大活躍。
なんといっても、この段階の幕府は「外国船打ち払い令」
「ぶっ放せ!追い出せ!」・・・と、たいした気丈なご発言。
モリソン号は、あまりにも勇ましい日本の砲撃に脅えて、ついに浦賀を逃げ出した・・・
ということになってしまった。

浦賀奉行の「太田運八郎」は上機嫌である。お江戸のお偉いさん達に大層褒められた。
砲術の天才、 中島三郎之助(当時16歳) が、真っ先にお呼びを頂戴した。ご褒美も白銀2枚。

「その者、苦しゅうない、近こう寄れ。そなたが、中島の倅か。
確かにその者の砲術の腕たるや、噂に聞き知るところながら、誠あっぱれ!見事でござった!」


この段階で、浦賀与力は、三郎之助の父、中島清司である。
また、遠見番所でいち早く発見して伝達経路を確保したのは、同じく与力仲間、香山助三郎
(香山栄左衛門の父)だ。確かに浦賀の与力のチームワークは抜群だった。
子の世代、現役前の若者二人組み、三郎之助と 、香山栄左衛門の連携プレーは格別だ。
この二人、小僧の頃から銘コンビ
なのである。父が走れば子も走った。

しかし、現実は、ちゃんちゃらお笑い。当時の射程距離は800メートル。全然届かない。
賢い艦長、 貿易商のキングは方向転換。やってられない!ので、薩摩へ向かった。

まさか、この時、同艦の上で、 7人の日本の漂流民が、帰国の途を閉ざされ、泣きに濡れていた
なんてことは、誰も知らなかった。

中島は当時16歳。そりゃ、よほどヒネたボンズでないかぎり、これほど褒められたのだ。
嬉しくないわけはない。しかし、メカの愚劣さが気になる。

「香山(栄左衛門)よォ、わしゃ、こんな貰っといてええのかいのォ?
・・・このまんまじゃ、話にならんぞえ。敵艦がもっと近くまで来んことには、当たらんぞえ。
もったいないわァ。ポッション、ポッション、皆海に落ちてもうた。
なんぞ、もっと優れた砲を造れる方法はないかの?」


香山栄左衛門は中島と同じ年、共に1821年生まれで、この時16歳。答えて言った。

「おぬしにすまんとは思っとったが、そのとおりじゃ。
海上の遠くから、外国の砲撃が先に降ってきたら、ひとたまりもないのう。
きっと、異国の砲なら、もっと遠くまで、ぶっ飛んでおったのう。」


若い二人は顔を見合わせた。

「江川の大殿ならば、きっと、どんとでかい事、やってくれるかものう。」
  • この年、16歳の中島、14歳の妻錫娶る。
4_和欄風説書
1838年、ちょうど上記モリソン号事件から一年を過ぎた頃、和欄(おらんだ)風説書が
長崎奉行所経由で幕府に届いた。幕府にだけ届けばよいが、長崎奉行所がゲットする前に
すでに世界に広がっている。幕府としては隠蔽したいところ、手遅れ。早耳の連中には叶わない。

幕府の「人道的処置の不味さ」があっちこっちで突っつかれた。
といっても・・・そうだとはまさか知らなかったから・・・なのだが、ぶっ放して、追い出した
モリソン号には、 日本に帰りたい哀れな漂流民が乗船していた。それを愚かな日本人が彼らの人生
を台無しにした!!
・・・と世界の目は、完全に侮蔑一色だった。

海の向こうの悪口はさておき、国内のインテリ派が、「外国船打払令」の愚かさを、ガンガン
書き始めたから、たまらない。
  • 高野長英_蘭学者:「戊戌夢物語」
  • 渡辺華山:「慎機論」・・・・上記枠、 蛮社の獄 の導火線だ。
1838(天保9)年、浦賀奉行の太田運八郎は、江戸和防衛強化の意見書提出。
時の老中_水の忠邦は、江戸湾一体と相模海岸線視察調査を下記2名に命令
これがまずかった。江川、死の壺に、はまってゆく恐怖の予兆とは、誰も予期しなかった。
  • 江川太郎左衛門英龍_韮山代官
    • 実戦担当者として江川が選んだ者(渡辺華山に依頼して推薦を受けた者)
      ■奥村喜三郎、■内田弥太郎
  • 鳥居耀蔵_目付(昌平黌、朱子学を尊重する林述斎大学頭の四男)・・・洋学大嫌い派親子
    • 実戦担当者として鳥居が選んだ者
      ■小笠原貢蔵
当然、噛みあわない上記二派は亀裂を生じ、まずいことになった。
幕府批判、国賊!なんでもありだ。江川を含む、洋学派の 尚歯会 はたちまち弾圧、処刑&処罰された。
前述のとおり、江川代官は命だけは、老中水野忠邦に救われ、この場は生きたものの、翼折れた。

幸い、この時、浦賀の者は、この尚歯会に関与していなかった為全員無事だ。
しかし、若い視線で広く物を見ていた少年達、中島三郎之助や、香山栄左衛門達が密かに落胆した
のは否定できない。

「中島よォ、江川の殿は、なんぞ悪いことしてもうたらしいな。
だけど、あのお方は砲術の神様じゃ。国賊なんかじゃないわな。一体、どんな事、
考えておったんじゃろうか?知りたいのう。」


暫し、鳥居耀蔵全盛、左団扇。・・・(とにかく無条件で鎖国派)
ところが、正義の味方登場! 老中、安部正弘 が立ち上がった。
  • 安部: 別に開国が大好きなわけじゃないが、考えもしないで跳ねつける愚かさは
    この国の死を早めるだけだ。柔軟な知恵を持って対処しよう・・というタイプ
安部は、鳥居耀蔵を、丸亀藩預けに処して後退させた。
しかし、遅かった。弾圧により、稼動が止まってしまった。時間は容赦なく先に進んでいた。

時間よ!止まれ~ぇっ!!

■1840~1842は清国_アヘン戦争の生け煮え状態

■1842(天保13)8月_天保の薪水令
時の将軍は12代_徳川家慶。漂流民の変換目的が明確な外国船にだけは水と薪を与えよの令下す。
聞こえは良いが、裏を返すとそれ以外なら、ぶっ放せ!ということ。
■この時、反論したのは、老中、松代藩主_真田幸貫(この人の部下が、佐久間象山)
・むしろ、打ち払い令を暖和しないと危ないゾ!の意見。

■1844(天保15)オランダ国王ヴィレム2世が開国勧告 を幕府に送る。
・本気で危ないぞ!清国はやられたぞ!開国したほうが身の為だぞ!

この年、中島三郎之助と 合原操蔵 は幕府から砲を船に乗せて対処せよと命令を受ける。
普通の船に乗っけてどうする。早い話、軍艦が必要ってことじゃないのか!

■1845(天保16)マンハッタン号 22人の漂流民を乗せて、船長クーパー対、中島の父、清司と通詞
堀達之助対応。その間、若い中島本人は乗り込んで、軍艦構造を観察。

■1846(天保17)ビットル来訪
・武力を表に出さずの問いだったものの、砲83門搭載。

■1846(天保17)浦賀奉行強烈人事異動&組織変更
  • 一柳直方→後退→新規:戸田氏栄(1853ペリーが来た時もこの人)
  • 大久保忠豊→後退→新規:朝野長祚(ながよし)
  • お囲め四藩制度設定(川越藩、忍藩、+新規:会津藩、彦根藩
■1849(嘉永2)中島三郎之助、浦賀与力に任命される。 (父から子へ、時に29歳)
  • 中島は与力の中でも役職は「外国船応接掛」
  • 長男、恒太郎誕生、1851年には次男、英次郎誕生。
■1853(嘉永6)6月3日、浦賀にペリー来る。 ■1853(嘉永6)6月3日、黒船騒動の中、将軍家もお家騒動。
  • 12代将軍_徳川家慶、 6/3の黒船来航の19日後 、6月22日に病のため薨去。享年61
  • 13代将軍_徳川家定・・・
    • 病弱、神経質、不適任はいうまでもないのだが、誰かが白痴と称した件は、そうでは
      なかったようだ。聞き取り難い発音。神経的な痙攣現象(チックのような)はあったらしい。
  • 1857年8月6日(安政4)、老中、安部正弘死亡
  • 1858年8月14日(安政5)、徳川家定、薨去。享年35
■1854(安政元)、アメリカに次いで、今度はロシアと日露和親条約。
・・・★ヘダ号の造船
  • ロシアのディアナ号が台風に巻き込まれ富士沖で沈没。
  • 船を造って、国に帰してあげようということになった。
  • この機会に便乗して、中島三郎之助と同僚 、笹倉桐太郎 は調査を任命される。
    米人にMEMO魔と恐れられた中島は流石。得意MEMO&図面をきっちり書き取る。
  • 完成した船は「ヘダ号」。これで、ディアナ号に乗ってきたプチャーチンは無事国へ帰る。
  • このどさくさに紛れて、 密航成功した人物が一人。元掛川藩出身の僧「橘耕斎」
    露西亜のペテルブルグに無事到着。ゴシケビッチと共に「日露辞典」刊行。
    明治になってから姿を見せる。ロシア訪問中の福沢諭吉、寺島宗則、森有礼達の目前に
    出現した通訳とは、まさにこの 「橘耕斎」 だった。1874(明治7)帰国。
■1854、中島家に、桂小五郎、ころがりこむ。
  • 鳳凰とヘダ号の造船に多忙の中島。その矢先に来客。海防について弟子入りしたいとのこと。
  • ■桂小五郎、■蘭学者_東条英庵(東条英機の祖父:■船大工2名、計4名。
    • 1853のペリー来訪時、弟子、金子重輔と共に、密航に失敗して暫し謹慎の吉田松陰だが、
      この段階でまだ生きており、松下村塾を開いている。彼ら4人は松蔭から中島を紹介されて
      きていた。後、金子は死亡。松蔭も1859安政の大獄で処刑。
■1855、中島三郎之助(35才)、長崎伝習所へ
(下記メンバーと同時に江川系も共に出向)
  • よって、上記居候4人組、無念ながら、中島家を去る。
  • 伝習所の要人:総督:永井尚志、学生代表:矢田掘景蔵、永持享次郎、勝鱗太郎
  • 長崎伝習所へ派遣された浦賀メンバー
    • (与力):1_中島三郎之助、2_笹倉桐太郎(与力),
      (同心):3_土屋忠次郎,4_浜田興右衛門,5_春山弁蔵,6_岩田平作,
      ・・・・・7_山本金次郎,8_飯田尊敬之助
      (船大工):9_熊蔵,10_長吉,他
      (員外聴講生):11_渡辺長蔵(中島三郎之助若党)
      (海兵隊鼓手):金沢種米之助
      (塩飽の水夫):24名
    • 学ぶには年齢的に問題有りと辞退した者:
      柴田伸助 (同心)【 この頁、給仕と蝦夷桜枠内にも登場 】,斎藤太郎助,(同心)
  • この時知り合った仲間
    • 佐野常民(佐賀藩:後、日本赤十字社)
    • 江川系:◇望月大象、◇鈴鹿勇次郎、◇下曽根次郎助(下曽根金三郎の息子)
  • この頃、故郷では (1855/10月)安政の大地震 、死者6600人、家屋倒壊15000
    水戸の儒学者_藤田東湖、被害者の一人となり死亡。
  • 中島達の次に入学した者の一人が榎本武揚。また中島は親戚の岡田井蔵(セイゾウです。土佐
    の人斬以蔵じゃなくて)を推挙した。
■1858(安政5)5/29、中島三郎之助、浦賀へ戻る

■1858(安政5)6/18、中島三郎之助築地の講武所の「軍艦教授所」教授方就任
  • 軍艦教授所→軍艦操練所→海軍所(呼び名は色々転回
  • 他教授方&取締:矢田掘景蔵,小野友五郎,笹倉桐太郎、浜口英幹,山本金作,岩田平作,
    中浜万次郎(ジョン)他、
  • 中島は江戸住まい、与力はひとたび引退した父清司が中継して、中島の次男英次郎へ。
    長男の恒太郎は、父と共に海軍系で多忙。
  • 1859、長崎の伝習所は閉鎖。
  • 1860、遣米使節団派遣:1_新見正興、2_木村喜毅(随伴船が咸臨丸の大冒険)
    • 木村使節団:木村の他、木村の従者として福沢諭吉が乗り込む。通訳メインは中浜万次郎
      勝海舟、笹倉桐太郎、鈴鹿勇次郎、浜田興右衛門、小野友五郎、伴鉄太郎、 松岡盤吉
      • この時、福沢は大量の本を買いつけ、経費流用とお叱りを受け、帰ったら謹慎。
        しゃあないので塾を始めた。1867年に中島の助けで謹慎解ける。
■1860/3月、桜田門外の変:大老、井伊直弼暗殺される。
■1862/1/15、坂下門外の変、老中、安藤信正襲撃される。

・一命取り留めるが負傷、武士らしからぬ等口実で、この期に隠居、謹慎、減封されてしまう。
■1862年9月14日(文久2年8月21日):生麦事件
■1863年8月15日(文久3年7月2日)~8月17日(7月4日):薩英戦争
■1863~長州征伐
  • 第一次 :1863(文久3)年、8/18の政変。1864(元治元)年、禁門の変。長州藩は朝敵、幕府が
    長州征討の勅命を受けて、長州へ進軍。禁門の変責任者として、三家老(国司信濃・益田右衛門
    介・福原越後)の首級で長州は恭順に逃げ切り藩主無事。不満の幕府ながら、12月撤兵。
  • 第二次:1866年(慶応2年)6月~8月(家茂死を理由に撤退)幕軍全敗
■1863年:四国連合の下関攻撃
  • 長州藩対(英仏蘭米:1863年(文久三年)5月 ~1864年(元治元年)7月
外国と大喧嘩をやって弱ったはずの薩長は、いつの間にか、英国の応援を得ていた。
アーネスト・サトウ:「私は長州人が好きになった。」

■1864、勝海舟、神戸操練所開設 (塾長、坂本龍馬)・・間もなく、小栗に潰される。

■1864、12月、中島大出世 1863に富士見宝蔵番格軍艦頭取=旗本格=御見得以下ラインから離脱
(同年7月、父清司死亡の後の大出世)しかし、体を壊し、長男恒太郎を跡番台として引退。
・・・それでも呼び戻される。

■1866、1月、薩長同盟(キーマン:坂本龍馬)
■1866/8月、徳川家茂死亡
■1866/12/25、孝明天皇崩御
■1867/1、明治天皇即位
■1867(慶応3/10/15)大政奉還
■1867/12/10(慶応3/11/15)、坂本龍馬暗殺される。

■1867(慶応3/3/26)榎本釜次郎、開陽丸でオランダより帰国
  • 彼らは1862(文久2/7/14)咸臨丸で長崎へ向かい、オランダ船でロッテルダムへ。
  • メンバー:
    • 内田恒太郎,榎本釜次郎,澤太郎左衛門,赤松大三郎,田口俊平,津田真一郎,西周助他
      吉川庄八(水夫小頭)、中島兼吉(鋳物師),大川喜太郎(鍛冶師:オランダで死亡
      久保田伊三郎(宮大工:長崎で下船病気),林研海(医学生),伊藤玄白(医学生),他
■1867(慶応3)徳川昭武パリ万国博使節団で渡仏。1868(明治元)年帰国。
  • この時のメンバー
    • 高松凌雲,山内六三郎,渋沢栄一(篤太夫),木村宗三,服部順次郎,皆川源吾,
      加治権三郎,大井六郎左右衛門,三輪端蔵,杉浦愛蔵,生島孫太郎,山内文次郎,日比野清作,
      箕作貞一郎,保科俊太郎,山高石見守,井坂泉太郎,菊池平八郎,向山隼人正,田辺太一,他

  • 行ってみると、薩摩と佐賀が一国のごとく、別途出席していた。
  • オランダから榎本が駆けつける。榎本と山内六三郎、心打ち解け、語り合う。
■1868(慶応4/1/3)鳥羽伏見
■1868(慶応4/4/11)無血開城
■1868(慶応4/5/15)彰義隊全敗

■1868(慶応4/8/19)榎本艦隊大脱走~終焉1869/5/16まで
  • 中島三郎之助、長男_恒太郎、次男_英次郎同行
  • 要の浦賀は新政府に接収される。その前に家族を静岡に逃がす。
  • 開陽で出陣する時、残した家族
    • 妻_錫,母_きた,次女_順,三女_とう,五女_お六,末っ子_与曾八
  • 妻_錫、一家を抱えて、駿府西草深町へ
    • この時、かつて中島が世話をした豪商達の傘下に妻子を隠し、妻は光田屋と称して、
      居酒屋、細腕繁盛記状態。妻子を匿った豪商達について:初め浦賀では塩の取り扱いが
      できなかったところ、中島が許可に漕ぎ着けた。よって、下記2名は、中島家への報恩。
      • 太田又四郎:川津屋・回船問屋
      • 臼井儀兵衛:大黒屋・回船問屋
    • 妻、咸臨丸の惨劇目撃する。
    • (箱館戦争の後、香山栄衛門の東京都巣鴨橋脇に開園した茶園で暫し暮らす。
      栄衛門の妻は、錫の実妹_きん子。しかし、栄衛門は明治10年死亡。
    • 明治6年、母きた死亡
    • 明治9年、木戸孝允(桂小五郎)が、五女_お六を引取るが、明治18年若くして死亡。
    • 明治16年、妻_錫死亡
  • 中島が妻に送った手紙明治2年4月7日付
  • 長男_恒太郎が母に送った最後の手紙は明治2年4月29日付
  • 中島が妻に送った最後の手紙明治2年5月7日付、あて先は
    • 大黒屋儀兵衛(臼井儀兵衛:大黒屋)
    • 大黒屋辰右衛門(同大黒屋)
  • もうひとつの記録(中島本人ではないが、恒太郎なのか、英次郎なのか、他?不明
    • 箱館陣中日記3/26~5/10までの日記
■1869(明治2)終焉の覚悟、千代ヶ岡の親子
  • ほととぎす、われも、血をはく思いかな

この詩の他に、終焉を予測した親子が詩で語り合ったものが、 ここにあります。



明治天皇と中島町

幕軍敗れて、真意の明治が幕を開けた。
明治天皇が、後にこの地にご訪問された際の話がひとつ。
当時、幕府にちなんだもの、最後まで戦った賊軍側の地名はほとんど、抹消訂正されている。

にもかかわらず、中島町の名があった。不思議に思われた天皇がご質問なされたそうだ。
「この者は、何を為した者なのか?」
・・・・一同、言葉につまったそうだ。

【中島三郎之助えとせとら】: No.1 (現在の頁)< No.2 No.3
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示

現在の頁は「幕軍&松前えとせとら」の中島三郎助特集(No.1~No.3のNo.3)
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Vol.8 (再び、ONLY中島でなく、幕軍&松前一般編)へ

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