幕軍&松前えとせとら11,会津中心編

箱館戦争,幕軍、松前えとせとらNo.11,資料編,幕末戊辰の人々その後,特命で残留した会津人と戊辰戦後、明治の会津不満分子事件,束松事件他,戊辰時の功労による特例士分取立:窪田伴治,石田和助(白虎隊),石田五助(兄),■石田龍玄常雄(父),

戊辰戦争,会津中心編,会津戦争


幕軍&松前えとせとら

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幕末戊辰の人々、その後エピソード,会津中心編

「幕軍&松前えとせとら」は、色んな長編に対する補足&資料寄せ集め型。軽い系もあれば、小難しい
資料系も混在。一気に読もうとするとしんどいかもしれませんが色々。
◆現在頁Vo.9は、個別に特集する程の要領未満の「みんなのミニ談話」。今後ぼちぼち増えます。
関連:■ 幕末_WITH_LOVE玄関 、■ 人物名から追う 、■ 巨匠達悲劇と懊悩 :幕末関係無の「不遇のアーティスト、偉人」
幕末昂じてはひふへほ! (明治以降さらに引き摺った暗い戊辰の影:生き残りと次世代)

幕軍&松前えとせとらSERIESの目次 <・・< Vol.10 Vol.11 現在の頁< Vol.12 ・・・
(現在の頁:会津中心編)
幕末戊辰の人々、その後,みんなのエピソード,ショートMEMO
この頁シリーズは、どっかの頁(長編特集からのリンク集約の為、50音順ではありません。
従来、あっちこっち散らかってます。詳しくは■ 幕末_WITH_LOVE玄関 、■ 人物名から追う
みんなのエピソード編
幕軍&松前えとせとらSERIESの目次 <・・< Vol.10 【No.11~No.16人物と事象】<現在頁Vol.11<

現在の頁

■特命で残留した会津人と、
戊辰戦後、明治の会津不満分子事件
  1. 束松事件
    会津藩士による久保村文四郎(
    旧越前藩士)暗殺事件
    ■伴百悦、■高津仲三郎、
    ■3:井深元治、■4:武田源三
  2. 思案橋事件
  3. 反政府運動容疑_雲井龍雄
    (米沢藩)「政府転覆」容疑連座
    • 【刑死】:簗瀬勝吉、
      能見武一郎 、原直鉄 他。
    • 【獄死】:自在院啓範、
      加藤武蔵、 他。
    • 【箱館徒刑】:山田陽次郎


  1. その他小事件
    ・武田宗三郎
    ・田邊軍次他
  2. 残留組と旧幕軍に紛れ特殊な
    動きをとった会津の者達
  3. 窪田伴治
    ・一番槍の殉死と、
    功労による特例士分取立
    ・七人扶持とは
    ・会津の士分と入学権利
  4. ■石田和助(白虎隊)、
    ■石田五助(兄)、
    ■石田龍玄常雄(父)、

  1. 究極時、悲しい事件
  2. 会津の一家自刃
  3. 沼沢家&旧家臣団と、斎藤一
  4. 会津降伏時、官軍没収状況と、
    この段階での降伏人数
    (篭城してた者と傷病人他)




現在頁はちょこんとヒトコマ集結編:
▼どっさり大勢のリンクはこちら
人物名から追う


現在頁は、各特集(長編)の
補足解説用内容の集合体につき、
五十音順ではありません。
詳しくは、各リンク先ご参照。
会津に絡む「復讐撃と天誅、反政府運動」
■17_ 束松事件 【久保村文四郎_暗殺事件】

束松事件とは:(読み:たばねまつ)
■明治2年7月12日発生。会津藩士による「久保村文四郎(旧越前藩士)暗殺事件」。
■場所:会津坂下町、束松峠。
■原因と暗殺の目的:会津戦争終了後、会津の監督の目的で派遣されていたのが、
民生局監察方兼断獄頭取:久保村文四郎(旧越前藩士)。
遺体を葬るを妨害禁止したり、侮蔑したり・・と、対応が苛烈。
任期が終了して帰藩する途上を下記4名が狙い天誅。
■被害者:上記のとおり、久保村文四郎(旧越前藩士)
  • この人物が恨みをかう原因が前後流れの様子と一緒に見れる頁( その1 その2
  • 伴百悦に対して露骨に侮蔑場面も有り。伴百悦は皆の遺体が粗末に扱われるのが耐えられず、
    自ら志願して、緊急に遺体処理掛のようなセクションを作ってもらってそこへ。これは当時
    差別されていた人々の中、紛れ込んで指揮。その上、彼の容姿は或る事故以来片目。ますます、
    どうせそんな程度の男と見なして、侮蔑言語を露骨に浴びせかけた。
  • 松平容保の命にて贋金作りに着手していた職人達は、見せしめの為、家族の前斬首された。
    この命を下したのが久保村とされる。侍ならずや民まで、会津加担者はこの様。これは惨忍すぎた。
    • 贋金作り職人 とは
      ◆贋金作りで処刑された男達。彼らは優秀な江戸の彫金師等。江戸に赴任していた会津の
      山川浩(大蔵)が会津に連れ帰った。山川浩(大蔵)は帰藩後、若いながら、若年寄に
      任じられ、軍事会計担当。戦闘の最中、当然ながら会津は財政難。そこで軍費の抽出の為、
      幕府の許可を得て、彼らを呼び寄せ、西出丸に金銀吹所を設け、一 分、二分、一両の
      三種の通貨を鋳造し、軍費を助けた。 つまりこれが新政府になった世早速、反覆離反罪。
      賊の会津に加担して、その上贋金作りは重罪犯の扱い。五十余人の斬首とは酷い話。
    • このうち、名の解るTOP階級の職人とは、: 加藤宗周、加藤明宗他の優秀な彫金師
    • 曝首:5名,斬首:49名、その上斬首は「見せしめにて民や家族の目前で実行」
      <曝首の悔しさとは、現代人の感覚で解り難いですが、猛烈な屈辱。 この頁:曝首の屈辱感

■加害者:
◇1: 伴百悦 、(自決)◇2:高津仲三郎(処刑死)、◇3:井深元治(獄死)、◇4:武田源三(不明)
  1. 伴百悦
    事件後、潜伏するも発覚。明治3年(1870)6月、取り囲まれ自刃。
    潜伏:大安寺村(新潟市新津)の慶徳庵
  2. 高津仲三郎:(1827~1877)
    ■投獄されるが脱獄して、変名で凌ぐが、別件事件「 思案橋事件(1876年) 」にて、
    翌年1877年、斬首刑死亡。享年50歳。■変名:中原成業
    ■槍術の達人。■京都では別撰隊士。奥州戦から会津戦争:遊撃隊。
    ■高津平蔵の二男。■伴百悦と同様に遺体の弔いに関与。当時の差別民に交わり尽力。
    この際、久保村の非道に怒りが蓄積、犯行に及んだ。

  3. 井深元治:
    • ■事件後逃走の際、変名:上山大八。■潜伏先:大阪、■享年25歳、■獄中死年:1873
      生年は不明ながら逆算すると1848年位。
      ■潜伏していたが、時効らしいと聞き知り、東京で日下義雄(会津藩士:【旧名】 石田五助
      の紹介で、井上馨の斡旋で学業に専念。しかし、ここで密告されて投獄。捕縛時は、
      横浜の学校で教頭就任という。獄死とされるが、遺体は、小塚原に曝される。
      (完全に懲悪犯罪者の扱い)
      ■日下義雄は自分の墓のすぐ近くに彼の墓を建立してやっている。
      ■会津の井深家は多数戊辰犠牲者。会津九家のひとつ。名家。皆教育に携わる優秀な家系。
      幕末時点で、家の枝葉は大別9つ。この井深元治は親族ながら、直系は明確にされていない。
      その為、らしき人物は割愛。本人も学がある様子。横浜の学校で教頭就任しているもその裏付。
      尚、墓に関しても、上記のとおり東京でも縁のあった日下義雄が墓を建立。

  4. 武田源三:不明

■18_ 思案橋事件

明治9年10月29日(1876)、東京の思案橋で発生。士族反乱未遂事件。 不信な武装集団に駆けつけた
警官と斬り合い、二名の警察官を殺害、逮捕される。当該は会津藩士、永岡久茂ら旧会津藩士他14名。
計画では、千葉県庁を襲撃し県令の殺害、及び、この頃多発していた士族反乱の内、
「萩の乱」に合流する予定だった。しかし完全に本題は未遂。都内殺傷事件で逮捕。

結果
■永岡久茂:明治10年(1877)1月獄死:事件当日の怪我が原因といわれる。
■斬罪:井口慎次郎、中原成業(=高津仲三郎)、竹村俊秀の3名。
・・この内、中原成業(=高津仲三郎)は、真上枠「束松事件」ご参照。
■能見鉄次郎:捕えられ、石川島獄中に終身懲役の間病死
・・(永岡、能見らは、斬首された 武川信臣 と共に、江戸で彰義隊参加生き残りだった。)
■中根米七:明治11年(1878)、喜多方町の寺院境内で切腹。この者は唯一逃亡成功したが切腹。

■19_反政府運動容疑_雲井龍雄(米沢藩)の「政府転覆」容疑に連座

  • 【斬首】:主犯:雲井龍雄(米沢藩)と同時に、明治3年12月28日斬首メンバー内の会津藩士。
    ・◇簗瀬勝吉、◇能見武一郎 、◇原直鉄(23歳) 他。
    • ▲この内、簗瀬と原は、鳥羽伏見後の会津藩士帰藩命令時、特命を受け残留組の者。
      【現在頁の項目_21_残留組の項目ご参照】
      形式脱藩の上、旧幕府脱走軍を率い早期会津へ向け進軍メンバー。今市で大鳥軍と合流。

    【獄死】:◇自在院啓範、◇加藤武蔵、 他。
    【箱館徒刑】: 山田陽次郎 (西郷頼母の弟)は徒刑(忽ち死亡)他。


武田宗三郎

天誅復讐としては、官軍に加担&誘導した僧侶を恨み殺害した「武田宗三郎」は斬首。
僧侶とは、一向宗極楽寺の和尚。この僧は、8/25西軍を小田山上に導いた。会津のダメージは絶大。
ここは会津の火薬庫。敵に火薬庫を奪われたのではたまらない。

【小田山の火薬庫潜入爆破作戦:期日要確認】:会津の足軽二名が決死で潜入成功。見事爆破。
  • この音に士族婦女子他が、落城と錯覚して自刃に至った家が複数発生。
    杉田兵庫(100石)家の婦女子自刃事件(8/25)とある。:間瀬ミツ記憶)
    太田小兵衛家の妻と7歳の三男自刃他(落城真近とある。: 山本八重子記憶
    別情報では9/7に小田山火薬庫爆破とあるが、9/14段階で小田山から猛攻撃有りにて、これは
    仮にあっても全壊ではないはず。情報が錯綜状態だが、爆破は一度ではない様子。
    他に、「青木火薬庫」の爆破事件もある。これは期日について複数説があるが、8/28または9/6他。
  • 尚、奪った小田山に詰めた官軍は、薩摩藩他、鍋島、松山、大村、土佐等。

  • 小田山火薬庫爆破決死の足軽二人

武田宗三郎は、この和尚が許せなかった。内通によって会津が不利になった
ばかりでなく、こうした二次災害的犠牲、女子供の哀れな自刃。また、この寺は、近年では、
政策に不満があったようだが、もとを糾すなれば、会津の葦名氏縁の寺。それらの要素全て、
武田宗三郎にとっては「裏切り者」として、どうしても許せなかった。

彼はこの天誅に踏み込む際は、高田にて謹慎中の身。脱走して殺害。この時、阻止しようとした周囲
の人物も、なりゆき上、殺害に至った。然るに処刑された。 享年二十歳。

田邊軍次 (1850~1870):父は田邊熊蔵
この人物は、謹慎が終わり、斗南移住後も、裏切り者のある人物を許せなかった。
その人物とは白坂村在住の大平(大竹)八郎。官軍に道を教え加担した旨が我慢できなかった。
彼は今、その時の功労で、引き立てられて裕福な暮らしに至るという。

斗南を抜け出して、復讐のため白坂村へ向う。明治3年8月11日、ついに本人を見つけ出し殺害。
その場で、田邊軍次も自刃死亡。享年21歳。 田邊軍次事件の後始末

・・・以下各事件発生

ここにある人物について:(◆ 人物名から追跡 、◆ えとせとら14番

■鳥羽伏見後の会津藩士帰藩命令時、特命を受け残留した者(約30名)、と
■沼間慎次郎(旧幕歩兵頭並)に追従して、旧幕軍の一員に紛れた20数名。こちらも特命付随。
・・△ 沼間守一1 , 沼間守一兄弟
■旧幕軍の自主的諸隊結成の際にも、各隊に混在している。
  • 鳥羽伏見の後、大半は帰藩命令。ところが特命を受け残留した者と、幕軍に紛れ動いた者の
    宿命は特異。
  • 彼らは、いちはやく兵を会津近郊まで確保、進軍の為の動きチームと、都心部に潜伏して、
    兵器確保&情報収集目的のチームなどがある。前者は、鳥羽伏見の後、拡散する幕軍の雇兵を
    無駄にせず、人数確保の為彼らを引き連れて動いてゆく。(会津人だけでは全然不足。密命
    の思惑)。後者は、商人に変装して、身元発覚斬首の者も居る。
  • 円滑に動く為、脱藩の形式をとっている者が含まれる。(行方不明の者の多くがここに関与可能性
  • 会津戦で活躍した者の他、箱館戦争まで粘った者も居る。
  • 敗北謹慎後、上記の各不満分子事件で命を落とした者も居る。
■密命を帯びたブレーン■

◇1_原直鉄(鐵),◇2_簗瀬克吉,
(▲雲井龍雄(米沢藩)に連座処刑された者に、この2名は確実に含まれている。)
◇3_梶原平馬(景雄)(関連: 梶原平馬:目次 )、◇3_鈴木多門(関連: 彼と甥子郡長正 )、
◇4_佐瀬八太夫、◇5_田口治八 、◇6_ 一柳幾馬、◇7_神尾鐵之丞 、 ◇7_ 広澤富次郎(安任)、
◇8_ 外島機兵衛、◇9_手代木直右衛門勝任、◇10_池上岩次郎 、
◇11_柏崎才一,◇12_南寅次郎(保),◇13_水島辨治(純),◇14_浮州七郎,
◇15_小出鐵之助(光照): 【後に山川操の夫:佐賀の乱で死亡:この人物については上記梶原目次から各種行動,】
◇16_小川徳次郎(渉),◇17_小池帯刀,◇18_安部井政治,◇19_安部井壽(ひさ)太郎(武雄)、
◇20_山口伊左美、◇21_柿沢勇記(森三之丞)、◇22_米澤昌平(井上誠之進)、
◇23_柳田勝太郎(理記) 、◇24_佐川主殿(佐川官兵衛の弟)、◇25_内田衛守(工藤衛守)、
◇26_石黒恒松(石黒則賢、上村恒二)、◇27_江上太郎(秋月登之助)、◇28_牧原文吾(松井九郎)、
◇29_齋藤友記 (慶応4/4/19(1868)岩井宿で戦死。この時、秋山寅四郎【純義隊差図役:下記34番】も一緒に戦死)
◇30_小池周吾 (渡邊綱之助、滝川右京)、

◇31_服部武太郎 (西東軍司)、◇32_栃木大学、◇33_栃木辰次郎、
◇34_秋山寅四郎:この後、【純義隊差図役】に就任。
・・・△ (慶応4/4/19(1868)岩井宿で戦死。この時、齋藤友記(上記26番)も一緒に戦死)
◇35_ 武川信臣 (武川三彦、武川兵部)
・・ (信臣=別働隊幡随院分屯「信意隊」隊長、梶原平馬の弟。 関連シリーズ
・・・官軍に捕まり、拷問されてさらに斬首曝し首。これは兄が平馬と見破られた為。


■密命なのか、自主的なのか、各旧幕軍に存在した者■
  • 今井半次 (筒井半蔵、筒井半三):
    箱館戦争~敗北謹慎:江戸から脱走時、純義隊副長。
    少数化して隊として機能しなくなった各小諸隊の生き残りは、箱館戦争に至る仙台乗船時に、
    大抵は彰義隊か、衝鋒隊に組み込まれている率が高い。
  • 原五郎:
    重症を負ったまでは純義隊。しかし墓はどこ?会津到着前落命か?不明。
    またこの人物の姉妹は、新撰組の中島登の絵画「會藩_原五郎妹女_行年十七才」に登場。
    乙女達の会津魂 に記載)
  • その他多数居ると思います。


■22_ 窪田伴治

一番槍の殉死と、功労による特例士分取立

窪田伴治(1826-1864 )。享年39歳。本姓は吉村。名は忠順(ただのり)。

元治元年7月19日(1864 )_禁門の変に勇戦&戦死。一番槍の実績者。
御所を守る建春門の攻防戦に於ける、一番槍。
「一番槍!」と声発して勇ましく、長州軍に突入。一人で2~3人刺殺。直後銃弾に即死。

本姓は吉村であり、この実績前は正式な士分ではなく、倅の藩校入学権はなかった。
本人は殉死してしまったが、子の「窪田芳太郎」には、日新館の入学を許され、
また、家は、七人扶持の禄を得る。
  • 七人扶持とは:
    一人扶持は、玄米四斗俵四箇半にて一石八斗とす、
    一人の食料一日に五合とし、一ヶ年を三百六十日として算出し得たる数なり、
  • 会津の士分と入学権利
    本藩の制度により、士分即ち 羽織の紐に花色 を許されたるもの以上の子弟に限り、
    日新館四塾に入ることを得、
  • 関連:身分のこと:真下バナー以外にも「戊辰時の身分に係る問題」追及特集は各種。 幕末玄関
    戊辰に埋もれた存在の人

■23_石田和助(白虎隊)、■石田五助(兄)、■石田龍玄常雄(父)、

【資料編】_ 石田和助:関連総括ガイド 超略型皆の情報(石田和助,五助,龍玄常雄)
石田和助(白虎隊) 、■ 石田五助 (兄)、■ 石田龍玄常雄 (父)、■ 階級と羽織の紐色と身分の話

白虎隊(石田和助)、兄と父についても

石田和助,花色の羽織紐_淋しん坊の晩酌

白虎隊悲劇の裏事情

■24_ 究極時、悲しい事件


■会津落城も史実の数値から目前の頃、もう少しで罪に陥らなかったものを・・・。
悲しい事件が発生した。
9/3 の夕方のことだった。藩金泥棒発生。犯人は悲しいことに藩士。酒井又兵衛という。
多額の金を盗み、一人逃亡を諮り、発覚。捉えられて斬首の上、これは罪悪の罪に値するため、
曝し首にされた。彼は酒井寅之助の弟だった。兄の生死、その後も埋もれて判然としない。
一族も猛烈に片身が狭い。
篭城中で、執務を取り仕切っていたのは梶原平馬。上記処刑を実行した。残酷で可愛そうだが、
これは、それまでの会津の執政法規に則っての上。侍、藩士にあるまじき行為だから・・・。

  • この事件は書こうか否か悩んだ。可愛そうで。しかし、この人物の行いは罪としてより、
    なんだが、明日は我が身。 究極なれば、人である以上、不幸にしてその要因が揃ってしまえば、
    誰しも同じではないか・・・ 運命の犠牲者に思える。悲しい。 戦争さえなければ、彼は永久の善人だったはず。


主に自宅で自刃
(下行に追記有りには●印)
  1. 西郷頼母近悳の妻子親族 計21人
    老臣の土屋(92歳)1人自刃
    (頼母近悳と長男は無事)
    (当該姓は西郷,町田,小森,浅井
  2. 北原采女(2800石)
    母は西郷刑部家族と共に別途自刃
  3. 西郷刑部(700石)家族5人
    同時に芥川家女性3人及び、上記
    北原老女も同時につき、総合9人
    関連頁
  4. 井上丘隅(600石)妻子2人刺殺
    &自刃
  5. ●木村兵庫(500石)家族9人
    (下行にに追記有)
  6. 多賀谷勝之進(450石)家族7人
    他親籍2人
    勝之進本人は朱雀士中四番隊小隊
    頭(越後福井方面戦闘で6/24死亡,
    20歳)勝次郎(44歳、8/23死亡は
    叔父)。勝右衛門は勝之進の祖父で
    3/11、甲賀口にて戦死の71歳。
  7. 永井左京(400石)家族7人
  8. 小山田伝四郎(400石)家族4人
  9. 中沢志津馬(300石)家族4人
  10. 柴太助(150石)家族3人
  11. ●中野慎之丞(150石)家族6人
    (下行にに追記有)
  12. 和田勇蔵(100石)家族3人
  13. ●高木豊次郎(100石)家族4人と
    怪我人療養中の弟武之助(18歳)
    豊次郎は生きて謹慎。
    (下行にに追記有)
  14. 岡田又五郎(100石)妻1人
  15. 野中此右衛門(75石)家族6人
  16. 樋口多司馬(70石)妻1人
  17. 赤塚藤内(28石)家族1人
  18. ●沼澤出雲九郎兵衛(1000石)
    家族女性4人(下行に補足有)
    と家臣二人
8/23自刃≒230余名

◆お寺で総自刃「梶原平馬の実家:内藤系親族」

■慶応4年9月17日(2家族計19名の集団自刃)=泰雲寺(会津南)にて
(◇内藤、◇上田:この寺に避難していた家族が観念して自刃:内藤上田は親戚)
関連シリーズ:「梶原平馬SERIES」
  • ◇内藤信節介右衛門(家老)の家族10名
    (信順(67)、妻(58)、娘4人、信節の妻(23)、孫2人他。
    ◇上田八郎右衛門家5名
    (伊閑(61=八郎右衛門の父)、妻(58)、妹(56)、娘(30)、孫(9)
    ◇内藤家の家臣4名
    (古川十兵衛47歳,石野八四郎31歳,安部重次郎30歳,元木喜代之助35歳)
    ◇従僕:上記状態を知った従僕(名不詳)も後を追い自刃。
    寺にくれぐれも頼み後を追った。
    犠牲者一覧もう少し詳しくと、前後経緯
  • 尚、 この家系、末弟の武川信臣(武川兵部)は官軍に捕まり、拷問され
    てさらに斬首曝し首。これは兄が平馬と見破られた為。最後まで
    口を割らなかった。彼は偽名で彰義隊に参加の上、上野戦争参戦後、
    潜伏していたところ捕縛された結果が上記。
  • 内藤信節介右衛門本人、及び実弟の 梶原平馬 は生き明治へ。
  • 梶原平馬は明治22年死亡。その後も生きた 内藤信節介右衛門は、
    斗南移住後再婚、五戸に留まり開拓・漢学教授で凌ぎ生きる。  
    最終的には、明治32年享年60歳死亡。
◆お寺で総自刃
南摩弥三右衛門(砲兵一番組頭)の{母他坂下勝方寺にて3人自刃
+途上自刃の荘司(21歳)=計4人。

・母:南摩勝子(母)、弥三右衛門の弟{壽(8歳)、辛(4歳)}
勝子が少年と幼児を刺殺後自刃。壽は男児として一人敵を殺し戦死したい
と言ったことが言い伝えている。これは、下僕が生き残ったことから、
伝えられていると思われる。

自刃の前の段階、家には戦闘で負傷した荘司(21歳)も共に居た。下男に
担がれ移動途上、彼は喉が渇いたを口実に、その間に自刃。勝子の姉は
町野家へ嫁いでいるキト。その姉に道で会った。姉家族町野と一緒に自刃。

尚、生き残りの倅「 南摩節(15歳) 」も9月死亡。西郷寧太郎率いる護衛隊
(少年中心の隊)で砲弾が右手と肋骨に。城中で絶命。

町野家総自刃=5人 (上記、南摩と親戚)、共に自刃。
町野源之助主水(朱雀士中二番隊頭)の家族の悲劇:
妻ヤヨ(24歳), 長女ナヲ(7歳)、長男源太郎(3歳)、
母キト(47歳)、姉フサ(31歳)。(南摩家の嫁もフサというが、
南摩フサは、この場は逃れ城へ向う。)

尚、余談ながら、上の町野家のフサ(31歳)は、一度佐川官兵衛に嫁ぐが、
若い頃の官兵衛は暴れ馬。出戻り、こうなった。一方、官兵衛二人目の妻は、
左列の多賀谷家のカツ。カツは、戦乱生き残るが明治2年早々死亡。
カツは、多賀谷勝右衛門(会津藩士450石)の娘で、 白虎隊の多賀谷彦四郎 の姉
佐川官兵衛特集はこちら 。【注】尚、彦四郎はカツの弟といわれますが、年齢
的には、そうすると、上記父の勝右衛門から見ると恰も孫のような年齢。ことに
よると、勝右衛門は2代居るかもしれません。

◆父子の自刃 黒河内家の父、長男、二男

黒河内伝五郎(傳五郎) :(1803~1868:65歳):神夢想一刀流の剣術の師範家柄。
次男百次郎(佐川官兵衛隊)は、北越戦で重症。8/23、伝五郎は百次郎(36歳)を介錯し、自分も自刃。
尚、この時既に、伝五郎は失明しており盲目だったが、素人と異なり、師範の腕の為、介錯できたのだろう。
長男百太郎(二番砲隊(43歳)):翌8/24日戦死。

◆諏訪神社で総自刃
<犠牲者: 西郷寧太郎の一家
◇西郷なほ子(祖母:60歳)、◇西郷みね子(母:44歳)、◇西郷うら子(姉:21歳)、◇西郷やほ子(妻:16歳)

この時偶然難を逃れた老婆の存在:名前と続柄不明:小ミステリー
自刃の為に、神社へ向う時、老婆は下男に背負われていた(老齢につき足不自由)が、死に送る事に
躊躇したらしき下男は、老婆を道端に捨てて逃走。その老婆は、這って山川唐衣の元へやってきた。
この謎の老婆の続柄如何で、一般に言われる続柄に変動が生じる者も発生。



上左側枠【5番】_木村兵庫(500石)家族9人(8/23総自刃)

西郷寧太郎( 関連 )が率いる少年隊(白虎隊とは別)の高木盛之輔が書き残す。
木村家自刃の後、高木らの隊に既に居る木村丑徳(16歳)の元へ、二人の弟が泣きながら来る。
木村新次(14歳)、木村兵蔵(11歳)。励まして、仇の参戦を呼びかけると二人の少年は奮起。
このうち兵蔵は篭城に送り、新次は兄の丑徳に付いて参戦。

上左側枠【11番】_中野慎之丞(150石)家族6人(8/23総自刃) :中野慎之丞(槙之丞):山崎主計組)
<犠牲者>父:大二郎(72歳)他皆の遺体が焼け跡から発見される。そのうち一人は 省吾 で、この話を語った
河原勝治の同期友人。皆の骨拾いの後、井戸を汲み上げたところ、中に幼い娘二人と慎之丞の妻(安子34歳)の遺体。
女児につき幼くても恥辱を恐れたか、それは母ならではの思いかもしれない。
母の安子は喉に刀が突き刺さったままの状態だったという。
これを語った 河原勝治 は、自分の妹の遺体を埋葬する時、着物が剥がされていた事に奮え、悔し涙に濡れた人物)

上左側枠【13番】高木豊次郎(100石)家族4人と怪我人療養中の弟武之助(18歳)(8/23総自刃)
・犠牲者は(豊次郎の母、妻、子二人)+弟の武之助
・高木豊次郎(18歳:朱雀隊在隊で越後方面にて負傷の為自宅に居た。)
・高木豊次郎(寄合組士分) は生きて謹慎:高田_善導寺内廣正院
  • 【女中の大驚愕目撃談】
    武之助は怪我人の為、婦女子と共に家に居た。いよいよ自刃の時、女中を叱って無理やり追い出した。
    ところが、外は砲弾が飛び交い危険すぎて、彼女は引き返す。その為、見てしまった。
    武之助がまずは幼児2歳の子からと抜刀しているところへ女中が戻った為、一瞬の隙で幼児が刀を握り流血。
    しかし、武之助はその後、皆を介錯または斬殺後、自刃。女中は耐えきれず戸外の危険も忘れ途中で飛び出した。
  • 故に武之助が刀にかけたのは己の妻子ではなく、母以外は兄の家族。女家族に余計な不義を
    身に受けさせまいと兄への面目かけて無理したのだろうか。生き残った豊次郎はさぞ、
    複雑な思いだったことだろう。
  • この話は、後時代に、上記内容を河原勝治が、当時のその女中に聞き知り伝えた。

上左側枠【18番】沼沢家補足(8/23総自刃)▼ 真下枠ご参照


上左側枠【18番】沼沢家補足(8/23総自刃)

明治を生きた「沼沢七郎」の家族惨事


◆父=沼沢九郎兵衛弘通(1000石)=通称は沼沢出雲。九郎兵衛は歴代。
◆兄=沼沢明通(禁門の変にて戦死)
◆本人=【沼沢小八郎(幼名小八郎,諱名:思通)は生き延び、後に 沼沢七郎。
戊辰時15歳だが家督を継いでおり参戦。
・・戊辰時の「沼沢七郎」本人活躍◆遊撃隊長となる。主な奮戦地(越後口、六十里越、大内村)

<自刃の家族>
・◇沼沢貞子:小八郎の祖母(西郷氏)86歳,◇沼沢道子:九郎兵衛弘通の妻。52歳;
・◇沼沢ゆや子:小八郎の姉。27歳; ◇沼沢すが子:小八郎の姉。23歳;
<追従自刃の家来>
・◇鈴木勝之丞:52歳; ◇内川源吾(源吉):30歳
・・この二人は自刃か戦死か?下行の通り、薩摩が踏み入る為、主人居宅の前死亡につき、
防戦戦死も考えられる。
  • これは河原勝治が後に、野間兼一(薩摩)に聞き知る。焼け跡に野間が踏み入り状況を語る。
    老女,妻らしき,娘らしき2人。宅はほとんど燃えず状態にて、遺体の状態を野間が確認できた。
    殉難者附合して合致したため、河原が、これを沼沢一家であると断定。
  • 尚、この沼沢道子は烈女。夫は既に死亡。僅か15歳の倅を隊長に任命して一隊を編成させ参戦させた。
    この隊は、自家の領地の沼沢村在住の旧家臣団で、この隊名も遊撃隊(複数有)という。この時、
    場を仕切り、皆の介錯後自刃と伝わる。(誰か下僕か女中か状況を後に伝えた生き残りが
    居たんでしょうね。)
  • 【沼沢道子がここまで頑張った訳】
    沼沢家は、昔、会津河沼郡の豪族 。伊達政宗の会津攻略の時滅びた名家。会津藩保科正之が
    会津に移封された時、家臣として取り立てられた報恩。農民達も、元々昔家臣の末裔。
    報恩と侍精神は残っている。
  • 尚、新撰組の斎藤一は、後に会津の高木時尾(高木小十郎の娘)と結婚しますが、この時尾の母、克子と、
    沼沢道子(旧姓:高木)は姉妹。明治、上記の経緯から当然、沼沢七郎には跡取の子が居ませんから、
    藤田五郎と名を改めた斎藤一は、三男竜雄をすぐ、沼沢家の養子にあげています。
上記に限らず、元家臣団だった農民達は、かつての直属領主様の子孫が呼びかけると、突如猛奮闘。
こちらの人物も当該。 河原田治部と河原田精神隊&倅:河原田包彦(16歳)

■関連: Vol.13 :出身地不明の会津絡み人物の関連地考察



詳細数値は多説有り。ご参考までに。



1_役&事務
軍務担当:131人
役  人:68人
【3】について:
中間など:身分は侍ではないが、士族に奉公するだけでなく、
戦国時代の興亡で滅んだ遠い昔の戦国武将の血を引く者も多い。
刀1本、或いは2本のみ帯刀の者も居る。糾し、兵として機能する
者は、【2】。その為【3】は純粋に雑用など手伝いの従僕。
【5】について:
火消しや、大工的な仕事(城中破損の補填)をしていた民も
尚、この火消し屋さんは近郊の者でなく、江戸でスカウトされて
会津に連れてこられた者も居る。巻き添えの民ともいえる。
【6】について:
他藩から転戦応援の者、幕臣、幕兵他。
郡上藩凌霜隊:朝比奈茂吉らもこのブレーン。彼らはこの後、
自藩に護送されるが、投獄されて最悪の扱い。自藩に裏切られた
も同然の運命。 詳しくはこちら
【8】について:
婦女+老人(男性だが兵として不可な老人)+男女児童&幼児
2_兵戦闘員
卒&農兵他含:646人
士中兵(士分侍):746人
足軽他低身分兵:1609人

3_従僕
侍の従僕:42人
4_傷病者
城内の傷病者:570人
5_鳶
6_他藩と&幕兵
他領脱走者:462人
7_奥女中
奥女中:64人
8_婦女老幼
女子供+老人:575人
▲ここまでの合計:5235人(足し算すると合致しませんが、参考迄)
9_近郊避難者他
他に、近郊避難者+近郊療養中の傷病者+城外で降伏の者などが居た。
▲篭城枠+他枠全般の処置概略

9_傷病者:570人+アルファ
【9】について:青木村に移し、治療。
10_近郊避難者

農村避難の婦女・老人
児童、幼児
篭城組に入らず、下僕の家等農村避難していた老人と婦女子供。
彼らは、ぐんと離れた塩川・喜多方方面へ立ち退き命令。
約1700人が追放される。
11_城外降伏の者
城外降伏藩士&兵:?名
兵として機能する内訳も不明だが、農兵でない限り捕縛謹慎。
▲主に【8】+【10】+【3,7等の一部】:約1700人が上記【10枠】のとおり、追放された。
没収の兵器は?
◇大砲(弾込):51門、◇小銃:2845丁、◇小銃弾薬:22,000発、
◇胴乱(装着携帯用鉄砲弾入れ箱。本来は薬、印鑑等も入れ歩く為の箱):18箱、
◇槍:1320本筋、◇長刀:81本
近郊他藩も含め、東北最終段階:戊辰降伏状況
◇9/4:米沢藩降伏
◇9/10:仙台藩降伏
◇9/22:会津藩降伏
◇9/26:庄内藩降伏
◇10/11:南部藩降伏
<皆:明治元年(1868)>
<南部藩降伏について>
謝罪降伏の意はもっと早い。庄内が降伏の姿勢を明確にした翌日、9/25に謝罪状提出するが、
二度三度拒否された。新政府は不服で、潰したかった様子。結果も、極めて手厳しい罰。

戊辰の悲惨に絡んださらなる第二の悲惨「根深い身分差別」については、真下バナー以外にも多数、
幕末玄関 から選べます。


老人と少年奮戦散華

幕軍&松前えとせとらSERIESの目次 <・・< Vol.11 現在の頁< Vol.12 Vol.13 ・・・
文章解説(c)by rankten_@piyo、


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