箱館戦争,閉幕後のきな臭い戦犯処理1

箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』,拘留後の始末,過去の怨念、嬲り殺しか、謎の獄中死,きな臭い!裁きの実情実情考察おまとめ表,新撰組の横倉甚五郎の獄死と新撰組怨念派,土佐藩の谷干城,薩摩の子飼い:御稜衛士(高円寺党),蟠龍艦長、松岡磐吉の獄死と薩摩海軍の根深い恨み:・阿波沖海戦・宮古海戦・朝陽轟沈,韮山の枷,

きな臭い!戦争終焉後の『犠牲と謎の死』
幕末_WITH_LOVE玄関 <箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』_拘留後の始末_ No.1 (現在の頁)< No.2





箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』_拘留後の始末_No.1
過去の怨念、嬲り殺しか、謎の獄中死
きな臭い!胡散臭い!処刑か私刑かナンセンス

お粗末!無秩序!
・・・新政府、維新・明治_後始末


■慶応3/10/14(1867)大政奉還、■慶応3/12/9:王政復古の大号令、
■慶応4/1/3(1868):鳥羽伏見の戦い、■慶応4/3/13:江戸城無血開城

・慶応4年は7月18日に江戸は東京に。
9月8日に、年号は慶応から明治にかわった。
■弁天台場終焉の様子もっと詳しく解る頁
1. 敵への報恩_薩摩_田島圭蔵
2. 桑名_森陳明弥一左衛門,君にかわれる死出の旅立
■高松凌雲の箱館病院が発信元に:詳しい頁
1. 幕末の虹の彼方_諏訪常吉_賊の置手紙
■土方歳三絶命の日: 箱館総攻撃
■中島三郎助の壮烈終焉の様子もっと詳しく
1. 中島三郎助と蝦夷桜 (宮古湾海戦迄)
2. 木鶏のほととぎす「碧い碧いなぜゆえ碧い
・(終焉)

■他にも色々: 幕末WITH_LOVE玄関
  • 篭城状態にあった弁天台場が転び、高松凌雲の箱館病院が
    発信元になされ、五稜郭もついに被弾、そして降伏へ。
  • 中島三郎助隊のみ、散るを必然の上、
    徳川終焉の殿(しんがり)を為して散った。
明治2年5月18日(1869):ついに戊辰の閉幕、箱館戦争終焉、そして裁き


徳川泰平二百六十余年は、万事零落、露と消え去った。そして、屈辱の抑留。

ここからさらに裁かれて、多くの命が散った。

獄死とあっても、つまるところ、暴力的な訊問、拷問による他殺と考えても、
さほど狂いは生じない。

過去の怨念、嬲り殺しか、謎の獄中死




裁きの実情

そもそも、現代社会でも頻繁に使われる用語
勝てば官軍、負ければ賊軍

戦争の裁きなど所詮そんなもの。いうなれば仕方ない。たとえ何があったとしても・・・。
残念だけれど、誰もそれを止めれない。古今東西、どこだって結局同じなのかもしれない。

しかしながら、『ユージン、ビクター、デュ、メリックの書』を見るに、ついに悲しくなった。

「なんと、ほとんどの人物が、許された。それどころか、新政府は、
戦犯達を新しく登用するなど、実に優遇した。日本は人道的で素晴らしい。」

箱館戦争に係る手記を残した。維新成立の際、新政府の幕軍に対する処遇をひたすら賛美。
彼は、とても若い純朴な医師。賛美に利害やら下心やら、一切ない。

しかし、これだけなら、あまり落胆しない。他所の国のこと。闇の部分に目が届かないのは当然のこと。
各藩自体に、抗戦派代表の首を討たせていたという惨い事実など、知る由もない。

■御維新、即ち首。首。首!_・ 首の犠牲_譜代小藩&代官所
・経緯を含めて読む: 林忠崇,幕末,戊辰,脱藩大名_林忠崇SERIES内
■藩主の犠牲: 桑名_森陳明弥一左衛門,君にかわれる死出の旅立
・他藩例も頁内記有▲

「死刑になったのはほんの数人だけで、他に類を見ない例だ。
日本は人道的で素晴らしい。」

上記をもう少し、ちゃんと書くと、このフレーズも出てくる。

「新政府は、戦犯達について、幹部だからといって、処刑したりしなかった。素晴らしい。
処刑された者は、 乱暴者と典型的な殺人凶悪犯のみ だった。」


誰が、彼にそんな解説を!そんな事を教えたのだろうか!
  • ユージン、ビクター、デュ、メリック とは、 当時の箱館駐在英国領事の甥子。
    英国艦パール号に乗船していた若い軍医。( もう少し詳しく

堂々と処刑というカタチでなく、謎の獄死
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臭い煙の出所を考察_白か黒か!
1_ 新撰組の横倉甚五郎の獄死 _新撰組怨念派
・■土佐藩の谷干城。■薩摩の子飼い:御稜衛士(高円寺党)
2A_ 蟠龍艦長、松岡磐吉の獄死 _薩摩海軍の根深い恨み
・阿波沖海戦、・宮古海戦、・朝陽轟沈
2B_ 韮山_松岡磐吉 (陸側の枷)

少なくとも、 新撰組の横倉甚五郎の獄死と、
特赦目前にしてなぜか獄死した『蟠龍』艦長、松岡磐吉の件については解せない。


明治2/11/5、長州__大村益次郎が暗殺された。
薩摩は上野戦争で、長州の大村に痛い目にあわされている。

一方、大村は、断固幕軍撲滅強行派。処刑の手は一切緩めない主義者でもあった。その彼が死んだ。
薩摩に、長州は劣勢に傾く。負けじと長州暴れるが、大村殺害犯(神代直人ら)の処刑に際し、
弾正台から監視役として派遣された 海江田信義 (薩摩)が妨害を企て、政府取調べを受け謹慎処分。
粟田口止事件 。闇雲。・・・(関連:海江田信義は「 桜田門外の変で無念の死:有村次左衛門 」の兄)

下記一連について、なぜか長州だけは尻尾が掴めない。その経緯には、上記大村益次郎の死がある。

榎本助命に頭を丸めた男、黒田清隆が薩摩に居る。幕軍にとっては、命拾いしたかに見える。

しかし、この後・・・次から次へと燻り臭い!!





■, 横倉甚五郎 の獄死について

今日、 横倉甚五郎 については、拷問で殺されたのだろうと大抵誰もがそう思っている。
こればかりはどうしようもない。仮に知らぬ存ぜぬ、証拠は無いと言われても、3/2/22に刑部省へ
糾問のため引き出された彼が、同年8月15日獄死。

皆にとっての「目の上のタンコブ、榎本助命に頭を丸めた男、皆に煩い黒田」は
この年、7月~10月は樺太視察で不在。まさに「鬼の居ぬ間の洗濯」。
他藩にとって煩い黒田は、内部の別分派にとってもタンコブだった。

黒田の居ぬ間は、怨念派野放し状態。糾問と称して、何をやってくれたのやら。

さっそく横倉が死んだ。

後述しますが、この頃の糾問は、非常に胡散臭い。

坂本竜馬暗殺は新撰組だと思い込んでる 土佐藩の谷干城 ブレーン( ★注1 )やら、
御稜衛士(高円寺党)( ※▼ )にとっては、八つ裂きにしてもまだもの足りぬ「憎き土方歳三!」が
残念ながら死んでしまったわけだ。一体誰が「黒!」なのだろうか。
(※)御稜衛士(高円寺党):安部十郎、足立林太郎、加納鷲雄他:新撰組脱退組
・・党首、伊藤甲子太郎暗殺事件以来、新撰組に恨みを持って、復讐に燃えている。

その一方で、新撰組だから処刑して良いという罪状は成り立たない。
仮にそれが、成り立つものなれば、役職からして、島田魁。もちろん、相馬主計は上枠。ラインマーカ
ー付状態だが、京都の恨みは関係ない。となると、やはり、島田魁。
ところが、島田は「油小路事件」に関して完全に白。極めて素直に謝罪したのもあるかもしれないが、
彼は確固たる士分であり、恭順藩の大垣藩士。その点、大石は一橋家の近習番衆生まれだが、
経緯から完全に浪人として粗末に扱っても問題がない状態にあり、また、八王子千人同心の横倉には
慎重に動かねば墓穴を掘るかもしれないと懸念される後ろ盾など一切無い。いうなれば、やりやすい。

こうなってくると、「油小路事件」に関係あってもなくても、 横倉甚五郎 は古参隊士。
御稜衛士(高円寺党)達の報復、近藤勇が襲撃された事件の際にも居た。
横倉甚五郎 は古参隊士の上に、土方歳三と同じ畑、武蔵、八王子の男。

鬼の居ぬ間の余計な洗濯。そこで 横倉甚五郎 は、当然餌食!
実は近藤勇同様に、馬塚同然の小塚原で斬首になったとか、色々説はある。
証拠になるものが無いにせよ、そもそも、そんなもの残すわけないのだから、
現代人の誰もが、どう考えたところで、新政府側を弁護しようがない。

証拠というには細いが、 横倉甚五郎 の死は明治3年8/15。この後すぐに
10/10、 大石鍬次郎 ★注2 )が斬首となった。これは堂々、この段階では堂々の大義名分がある。
「伊東甲子太郎殺害罪」にて斬首として、闇雲にされてない。


この違いはなんだろうか?
伊東甲子太郎殺害罪」という罪状自体が確立されたのは
横倉甚五郎 の死の後ではなかろうか。
樺太から戻った黒田は、それどころでない。頭の中は迫り来るロシアの危機で満タン。
10/20には、北方対策建白。しかし、日本に戻ったのが大石の10/10以後なのかどうかは調中

鬼の居ぬ間も束の間。10月には黒田が帰ってきた。帰る前の事だったと断言するには▲、もう少し調べな
いといけない状態ですが、黒田に限らず慎重派なれば、二の轍踏ませるわけにはゆかない。

坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い・・・
・・・そーゆー低脳な真似やらかすな!
どうせやるなら理詰めで潰せ。要らん輩の嘴挟まれる隙を作るな!上の誰かが言っても不思議はない。

「伊東甲子太郎殺害罪」が以前から斬首当該事項として成立して
いたのだとすれば、 横倉甚五郎 の死も謎の 獄死ではなく、堂々 大石鍬次郎 と同じ扱いなのではなかろうか。


御稜衛士(高円寺党)達にとって「油小路事件」の怨念は半端でない。
新撰組ファンとしては、実にしつこい!存在。しかし、立場替われば、きっとそうだろう。
党首:伊藤甲子太郎を殺害された悔しさからして、許せるわけはない。
彼らはあの後、薩摩の配下で活躍している。いやなことに、 弾正台 に席がある。( ★注3

薩摩は、御稜衛士(高円寺党)達に、ちょいとばかり呵責がある。
慶応4年3月3日(1868年3月26日))。 赤報隊 長の 相楽総三 が突如、「偽官軍」の汚名を被され
速攻処刑されてしまった。赤報隊とは、簡単に言えば、新政府のイメージアップキャンペーン隊。
新政府なれば、年貢は半減!民は救われる!と全国へ移動吹聴。その一方では、徳川の権威失落を狙って、
全国でわけのわからぬ暴動を起こして撹乱。なるほど幕府はもうだめだ。これなら誰しもそう思う。
しかし、彼は善人。本当にそうだと信じていた。

ところが、突如!「偽官軍」の汚名。速攻処刑!

(年貢半減・・・できそうもないことに気がついたのか、知ってやらせておいて時期来りて、
丁度切り捨て処分なのか。あまり長くやらせておくと、黒幕が割れてネタバレするるからなのか?
いずれにせよ、突如、掌を返した。あやつは偽者!抹殺。薩摩が放って薩摩が抹殺した。)

用が済んだら、飼い犬は捨てる!!

この時、実は上記、御稜衛士(高円寺党)達も危ないところだった。彼らもまた、相楽同様、
赤報隊の別ブレーンとして奔走中。案の定捕縛されて処刑寸前。


「よくも騙したな!」とばかり、加納鷲雄が猛烈に暴れているところ、薩摩内の何者かに救われた。
この何者が誰なのか?
その証拠はない。しかしながら、 こちらの経緯のとおり、村橋久成 と、
無関係ではなさそうだ。そもそも、この村橋久成という人物、「窮地の人物をなんとか助け
てやろう!」とする習性がある。榎本軍の犠牲者を増やすまいと、箱館戦争終焉真近の時、
五稜郭内に居た約2百名の傷病者を湯の川へ安全に移動させたのも彼だった。
この人物は清い。案の定暗転。悲壮な死。(詳しくは上記リンク先)

というわけで、 薩摩は、御稜衛士(高円寺党)達に、ちょいとばかり呵責がある。
その上、御稜衛士(高円寺党)達の悲痛なる心情、「伊東甲子太郎殺害罪」確立の嘆願、
この人物なら無視せず、耳を傾けることだろう。

村橋久成は、黒田の下。独断の権限は無い。しかし彼は非常なインテリ。幕府時代、薩摩藩は、
国禁を犯し密かに留学生を送った。彼はその薩摩に選び抜かれた人物だ。
順を糺して書面尽くしで、黒田より上、西郷に嘆願することはできる。
そもそも、西郷隆盛、上記、相楽総三の例の他にも、土壇場では、トカゲのしっぽ苦手ではない。
安政5/11/16(1858)、月照&西郷入水自殺未遂事件。 月照は死んだが西郷は
偶然?死なずに蘇生、その後、奄美大島で謹慎&潜居。なのだが、死に損ないの傷心の
人は、「島の娘はええでよう!」意の詩も詠めば、現地妻も居れば、子も産ませた。

明治3/2/22(大鳥獄中日記):
相馬主計、 大石鍬次郎 横倉甚五郎 、及び 今井信郎 は刑部省へ引き渡さる。
(注: 大石鍬次郎 は箱館戦争に参戦せず潜伏していたが、タイミング悪く捕縛された為)
★注2:大石鍬次郎と阿部十郎


話が前後しましたが、 大石鍬次郎 処刑の10月の前、 横倉甚五郎 の死が発生した8月に話を戻します。

この段階=8月では、「坂本竜馬暗殺嫌疑」が、処刑当該理由として大義名分。
ところが、京都見廻隊の今井信郎が自白して、 横倉甚五郎 処刑の理由が成り立たない。

横倉甚五郎_義のために


案の定、横倉甚五郎は、
なんだか知らない原因不明の獄死・・・にされてしまった。


こればかりは、冥土の土方歳三も、穏やかではあるまい。
己の死に悔いなくとも、横倉ほどの男に、下らぬ手出し、
あの世で、さぞ怒ったことだろう。これでは、うかばれまい。


義のために
つくせしことも 水の泡
打ちよす波に 消えて流るゝ


【弁天台場降伏の時、彼が詠んだ句】

運命は皮肉にも、この句が彼の最期。実質上の世辞の句となった。



一番すっきりしないのが、 『蟠龍』艦長、 松岡磐吉 の獄死。

■, 松岡磐吉 の獄死について

松岡磐吉 は荒井と共に一番牢。しかし、荒井は、辞書の翻訳。榎本は、石鹸水の作り方を兄に書き送る。
箱館戦争に係るものを書いたりしない。唯一は大鳥圭介の獄中日記。

大鳥は獄中で一種の英語スクールを開始している。他の囚人も含め希望者に英語を教えた。
己と同じ獄舎に入ってきた今井の他、 向こう側から、一番牢の 松岡磐吉 が耳で聞き取り、
声で参加して発音練習してきた様子が書かれている。


しかし、その大鳥でさえ、 松岡磐吉 について書いたものはこれ以外存じません。
病気になって、徐々に弱っていく様子や病気になって牢を移されるなどの話も、
糾問に呼び出された様子も存じません。 不思議なくらい、誰も何も語らない。完全に不思議だ!!
官軍側の糾問所関連資料には、 松岡磐吉 入獄後病気、しまいに、明治5年1月6日の赦免確定直前にして、
病死を匂わせる文章がどこぞにあるらしい。しかも、その期日とは、前日もしくは、当日と判断
せざるをえない文章だと読み知った。否、4年の暮れだとするものもある。何れにせよ不思議な曖昧。

また、明治を生き、後に記を書き残した幕軍側出身者の記録にも、同様に病死とあるのは、
いくつも見た。しかし、それは彼ら明治に出仕している者。インテリ派が、なんらかの資料に基いて、
主観に振り回されることなく淡々と記したもの。
恐らく、上記の糾問所関連資料であろう。その為、多くの人が、敵側だけに限らず、味方側がそう言うの
だから真実なのだろうと漠然と思い込んでしまったのではなかろうか。

糾問所関連資料やら、第三者が何を書き残そうと、榎本達幹部全員、即ち当のご本人達は
何ひとつ語っていない。 人とは・・・語るに語れぬ事だけは、永久に、語れない。
後の世、榎本の子も、田村銀之助の子も、たった一言で父が、あたかも瞬時に異次元へ飛び去るような
恐ろしい瞬間を経験している。尋ねた内容は松岡とは全く別の分野だが、子供としては、生まれて
初めて見る父の表情に何れも身の毛がよだつような体験。彼らが成人して改めて心の傷の深さを痛感している。

徐々に病気で弱っていったのであれば、獄中英語スクールの師匠(大鳥)としては、
何やら記載していてもよさそうなものだ。病魔に蝕まれ可愛そうだった、苦しそうだった。
もうだめかもしれない等、何ひとつ無い。不思議だ。

大鳥は、惨敗絶望の時にこそ、へらへらと笑ってみせたり、冗談を言ってみたり、そうゆう男。
しかし、彼ほど嘘のつけない男は、まず無いだろう。(終焉段階では、他にも土壇場人情発揮。後日別シ
リーズでご案内予定)淡々とした文章にさえ、それが隠せず滲んでいる。
今井信郎を送り出した時の大鳥はこうだった。
  • 明治3/2/22(大鳥獄中日記_略概要)
    相馬、大石、横倉、+我房の今井信郎は刑部省へ引き渡さる。坂本竜馬暗殺嫌疑の旨聞き知る。
大鳥圭介が見た獄中の「今井信郎」以外な姿

大鳥は獄中で今井を可愛い男と感じたようだ。素直で勤勉。姿勢を正して一生懸命に、
英語を教わって、師として大鳥をひたむきに慕う旨の記述有。

坂本竜馬暗殺嫌疑とくれば、大義名分。脱する見込みはない。
しかも、これは初耳ではなかった。五稜郭時期より、既に、今井がこの一見に絡んでいるらしい噂は
幕軍の中でも浸透していた。その恐ろしいはずの男の実態は、師を慕う素直で可愛い男だった。

「坂本竜馬暗殺嫌疑の旨聞き知る。」大鳥はそこまで書いて、筆が完全に止まった。
とても悲しそうにしている大鳥の姿が目に浮かぶ。やはり、絶望感が滲んでいる。

松岡について、書ける状態の事なれば、この人物なれば・・・、何か書き残したはず。


赦免真近の4年、辰口糾問所で、榎本幹部の中、なぜかたった一人獄死した 松岡磐吉 は、
あの日、忘れもしない明治2年5/11(土方歳三死亡の日) 軍艦朝陽を見事轟沈した男


艦長、松岡磐吉は、徳川の頭脳畑、
江川代官の右腕左幕派手代頭、松岡昌(正)平の次男である。

彼は今、見事、江川の里、韮山の意地を立証した。

軍艦朝陽轟沈の時


蟠龍艦長、松岡磐吉は、
敵艦「朝陽」をみごと、
撃沈させた!

敵艦「朝陽」轟沈の様子:(北州新話:丸毛利恒【彰義隊&総裁付】)

百雷の轟が如く、激浪遡ること数十丈。

黒煙もろとも霹靂一斉のもとに破壊し、
砕粉となって飛散し、
波上に只舳を残せしのみ




明治5年赦免直前
軍艦朝陽を轟沈した
松岡磐吉
だけが
なぜか死んだ!

海の枷


軍艦朝陽を轟沈した 松岡磐吉 だけが死んだ!

朝陽轟沈 は、榎本軍対官軍の戦闘の中、一瞬の一撃による殺傷量に於いて最大。死者は57人。
たった一弾での数値で考えれば、おそらく戊辰中でも一番といわれる。
・・・その松岡だけが死んでしまった!なぜなんだ!!はたして、本当に偶然なのだろうか?


朝陽は薩摩の艦船。犠牲者は、ほとんど薩摩。
薩摩海軍は、 阿波沖海戦( 慶応4年1月4日(1868/1/28日) で最大の屈辱を食らっている。
追い散らされて、翔凰丸は自焼に追い込まれた。
薩摩海軍にとって、あの時、小さな体で、小さな船=『蟠龍』で、小癪にも、せっせと追い詰めて
くれたのは、まさにこの男。憎しみは半端でない。

その上、明治2年3月25日(1869年5月6日)、 宮古湾海戦 の恨みも積み重なっている。官軍にとっての
首謀者ともいうべき存在、 甲賀源吾 は、今となれば逆に惜しい。新撰組と聞けば、ただそれだけで
八つ裂きにしたいぐらい憎んでいる上記人物達が居るのと同様、薩摩海軍にとっては、 甲賀源吾 の甲の字
見ただけで爆裂寸前。その怨念をぶちまけたいところだが、当日現場で死亡しており、地団駄状態だ。

宮古湾海戦結果としては、榎本軍側の死者が圧倒的に多く、いうなれば自爆に近いが、隙をやられた
薩摩は、死傷者が敵より圧倒的に少ないのは全く自慢にならない。面目丸潰れ。実は黒田が、警戒せよと
忠告を発していたにも拘わらず怠った結果のこの惨劇。勇敢に戦って戦死した者の他、恥じて自刃した
者の裏数値もあれば、責任追及処分として切腹申しつけ犠牲者も出すといった惨めな苦汁を嘗めた。
現場責任者を裁いて処分は済ませたものの、薩摩内で薩摩海軍はまるで面がない。
堂々物申せる立場でなくなった。「宮古の失態」の一言食らえば、黒田にぺちゃんこ状態。
いうなれば、過去の失態を、現況の恥部のごとく、延々引き擦っている。

阿波海戦の屈辱に始まり、宮古湾襲撃の苦渋、そしてクライマックスは朝陽の轟沈。
薩摩海軍の恨みは一言に尽くせぬ程に根深い。

この恨みがどれほど酷いものだったか、 その象徴たる話がここに。明治13年、まだ強烈に引き摺っ
ている。明治13年、外務大臣の榎本武挙は、海軍中将兼務だったが、「幕府の者など断じてならぬ!」
猛烈な抗議で引き摺り下ろされた。この頃、榎本を拾った男、 黒田はスランプ 。明治20年に還り咲く迄
魔の醜聞と疑獄事件と散々荒れている。彼らにとって目の上のタンコブ黒田が丁度弱っている隙!
だった。その隙に早速、榎本が辻斬りを食らった形。その人物とは、伊東祐亨、清輝艦の井上良馨等

薩摩出身海軍だった。戊辰戦争、箱館戦争の頃、
井上良馨は春日に乗っていた為、阿波沖海戦では追われて命からがら逃げ帰り、宮古海戦では、
面に泥を塗られ、箱館戦争では、朝陽轟沈で仲間を大勢失っている。


不幸なことに、その宮古湾海戦にも、やはり松岡磐吉は居る。
到着が遅れ、直接関与してないわけだが、彼らにとって、それはどうでもいい。
そこに居た!ただ、それだけで怨念は燃え盛る。




そして、松岡が恨みを食らう理由は、もう一つ、『海』以外の方向からもある。

松岡磐吉 は韮山。徳川の頭脳畑、江川の韮山。
近代的軍術の発祥の源である。古くから江川龍英が農兵論を転回。反射炉を有し、優秀な砲隊を持ち、
その上、命をも惜しむことなく戦う武蔵の男達、近藤勇や土方歳三でおなじみの八王子千人同心は、
元を辿れば司令塔はここだ。

口では「小癪にも、たかが農兵共め!」散々に罵りつつ、その「たかが小癪にも・・・の連中」に
こっ酷く泣かされた。恨みつらみは半端でない。いうなれば徳川から供出される兵力の要。
彼らは全国、どの戦いにも登場してくる。長州征伐の際にもごっそり繰り出した。

鳥羽伏見の後、韮山は代官所手代、柏木総蔵が中心に典型的な恭順姿勢を見せているが、
このとおり、遊撃隊が譜代小藩を駆け巡る騒動の時、韮山から手渡された軍資金は群を抜いている
官軍からすれば、裏の誰かが、小癪にも動く。そやつが捕まらない・・・状態にあった。

薩長泣かせの徳川の頭脳畑が韮山にあることを嗅ぎ付けた薩摩。かつて、韮山塾に
昔の黒田がちゃんと潜入している!
(箱館戦争終焉の黒田榎本対談の際、大鳥を連れて来いと言い出したのは、ここで師弟関係)
・関連: 韮山塾の「西洋砲学と軍学」と薩摩考察資料表 はこちら

鳥羽伏見以来、抗戦派の首は、各藩からきっちり挙げさせているわけだが、この韮山代官所に於ける
首謀者、松岡正平( 松岡磐吉 の父)が捕まっていない。

明治3:1870/11/18 、 吉岡勇平 が斬首になった。
彼は、榎本艦隊が品川沖から、仙台へ目指す時転覆した咸臨丸の悲劇の一人だが潜伏していた。
出元は農家ながら、松岡正平の仲立ちで吉岡家の養子となり、江川塾で学ぶ。かつて、
1860年、遣米使節団の艦ポーハタン号に随行艦として咸臨丸が太平洋を横断した時、
公事事務係を務め、アメリカへ渡っている。
つまり、薩摩海軍にとっての憎き「韮山の男」に該当する。しかもホシである松岡が絡んだ男。
彼は不幸なことに、薩摩に限らず全官軍にとって、搾って叩いて吐かせる価値は充分にある存在だった。

彼は、如何なる苦痛を強いられたところで、口を割るようなタイプではない。
上記1860年の渡航の際、同乗のアメリカ人水兵が甲板で水をザブザブ使って洗濯を。船に於いて水は貴重。
彼は、思わずアメリカ人水兵を殴り飛ばした。この時、艦長の勝海舟は、情けないが、船酔いのマックス
で、完全に倒れている。
士官達も肥田浜五郎、赤松大三郎、及び木村摂津守従者として乗船している福沢諭吉等ごく一部を除き、
全員同様にダウン。(残念ながら、松岡磐吉も同様)正常なのは塩飽の男、彼ら水夫達だけ。(勝海舟手記
には、この惨めな実態一切書かれていない。米人に書かれてしまった。)

つまり、船を動かしているのは、同乗したアメリカ人のブルック船長と米人士官達。
この状況下、普通の人物ならば、米人を怒らせる真似は、堪えて絶対やらない。
ところが、吉岡勇平は、殴り倒した。理由も状況も関係ない。ならぬものはならぬ!
彼は、正義の強烈熱血漢でもあった。関連: 吉岡勇平1 吉岡勇平3

斬首されねばならぬ程の罪とは?その罪状はよく知らない。潜伏の罪にしては重くはないか?

※韮山自体は恭順。維新後の転回も良好。
しかし、韮山内の抗戦派幹部首が討ち取れた話は聞いたことない。相手が譜代小藩なれば、
首謀者の首を提出せよとばかり、このとおりの結果: 首の犠牲_譜代小藩&代官所
しかし、韮山は代官所。幕府の直轄。各代官所ごとに首を出せでは低脳極まりない。勝手が異なり、
地団駄状態だったのか、それとも闇の処分が実はあったのか定かでないが、
いずれにせよ、資料にはお目にかかれない。みごと韮山から松岡情報が消えて存在しない。
おかげで、現代に至っても松岡の生年月日も年齢も不明。
長崎伝習所に留学後、築地軍艦操練所にて教授方をつとめたほどの男。その情報が無い。
それは、完全士分ではなく、江川の手代だったからとふと楽観的に考えるには腑に落ちない。
隠滅の臭いが漂う。その隠滅が何を指すかは不明。せめて、松岡の父が逃げ切った証で
あれば良いのだが。


いつも寡黙で澄んだ目をして、
じっと静かで目立たない男。
それでいて、ここぞという時、
強烈な力を発揮する男。

『蟠龍』艦長,松岡磐吉小さな体で、
重い枷を背負わされて
旅立つを強いられた運命に思えて仕方ない。


大名達の責任は、家老が被って皆腹を斬って死んで終わらせた。

黒田が必死で嘆願して得た「枠」その内にあった榎本幹部の内、
松岡だけは、『幹部』に値せぬながら、あえて、ここに収容されている。

幹部と共に、真っ先に一番牢に入れられたのは、弁天台場降伏の際、交渉の矢面に
立った男であることと、朝陽轟沈の張本人だということなのだろう。重罪犯として。
やはり、遅れて、松岡と共にあの時矢表に立った相馬主計も辰口入り。

捕縛段階では、長州の大村益次郎が生きている。黒田が大奔走しているものの、全員危なかった。
大村は典型的な強硬派だった。2年の11月、大村暗殺事件が起きた。
特赦確定したのは、ずっとその後。公表は明治5年1月6日。

獄舎内では、密かにその直前に、
何かが起きている。

主と臣ではない。
されど、松岡だけは『幹』でない以上、
『従』に値する。

微妙な位置に居た人物だった。

なにやら、彼の魂が不憫で仕方ない。


幕末_WITH_LOVE玄関 <箱館戦争終焉後の『犠牲と謎の死』_拘留後の始末
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関連:◆ 箱館戦後処理の様子一望表 、◆ 檜山方面戦後処理様子と高松凌雲の激怒
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写真等、素材については頁下表示


榎本達の終焉(時期的には、だいたい順番)

中島三郎助と蝦夷桜

敵の報恩、薩摩の田島圭蔵

箱館総攻撃

壮絶終焉,中島三郎之助親子_木鶏のほととぎす


幕軍&松前えとせとら


幕末_WITH_LOVE玄関


わくわくドキドキ!


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薫風館 :和風イラスト


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