「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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桑名藩,森陳明弥一左衛門_1
箱館戦争,幕末,戊辰戦争,
森常吉
こと桑名藩士_
森陳明弥一左衛門
,君にかわれる死出の旅立,闇夜に消えた蒼い炎,十文字切腹,藩主の犠牲に散った臣達について,【楽天市場】
森常吉
,
森陳明
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森陳明弥一左衛門
, 戊辰戦争に巻き込まれた点に的を絞った彼の経歴,箱館戦争,新撰組頭取改役,桑名藩士
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桑名藩_
森常吉
(
森陳明
:
森弥一左衛門
)君にかわれる 死出の旅立
(現在頁)
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桑名藩_
森常吉
(
森陳明
:
森弥一左衛門
)人物おまとめ資料編
臣の切腹、臣たる男の掟_No.1
箱館戦争SERIES
桑名藩_
森常吉
(
森陳明
:
森弥一左衛門
人物について、おまとめ資料はこちら
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上の句、下の句。下の句の余韻。
君にかわれる 死出の旅立
一般的に、よく散見しやすいのは上の句。
桑名藩に於ける『反逆の主謀者』として、全責任(
※関連:他藩の戦争責任犠牲者
)を負い、
切腹を成し遂げた男、森陳明弥一左衛門、44歳。彼の辞世の句である。
うれしさよ つくす心の あらわれて
君にかわれる 死出の旅立
そして、下の句。
なかなかに おしき命に ありなから
君のためには なにいとふべき
彼が責任切腹を成し遂げるその引き換え条件は、桑名藩の存続と、
今や、菊の御紋章輝く天下の官軍。楯突いた罪人、即ち朝敵、旧藩主_松平定敬の存命だった。
この忠誠心満ち溢れる言語・・・『君のため』その語の放つ響き。
しかし、何やら重い。
無論、忠誠心に全く澱みなどない。まさにそのとおりの人物だ。それでいて後味が悪いのは何故だろうか。
桑名の松平定敬同様、箱館戦争突入した備中松山の板倉勝静に於いても、極めて早々、鳥羽伏見から
戻るや否や、帰藩前に玉島で、全責任を負って藩存続と部下達の命を守り、犠牲切腹となった
家老_熊田恰(あたか)
のケースがある。それと森の場合何かが違う。
熊田ケースは不条理な世の掟なれど、少なくとも犬死ではなかった。
対して、森も犬死ではないにせよ、重い。
君に捧ぐ命、その清い魂と、
脅威の十文字切腹は同時進行なのだ。
これは、何を意味するだろうか。
冬の日、闇夜に消えた蒼い炎_十文字切腹
初冬の砌。静寂の中。
端整に敷き詰められた庭石。さっぱりとした小さな屋敷。
ここは、東京深川入船町。旧桑名藩別邸の庭。
冬日に珍しく、風ひとつなく、庭木はじっと押し黙るように、深閑としている。
日が刺して、あたかも穏やかな一日のごとく。
庭木の合間、程よい場所に設えの空間がある。
純白の幕が張られ、一畳の畳。
その上には、神事に用いられる神饌の膳か、
もしくは、雛人形の三人官女が手に持つような器、即ち、三方が置かれていた。
載せられているのは
神饌ならずや、奉書紙が巻かれた白鞘の短刀。
静かに、極めて静かに、渡り廊下を歩む者の気配。
やがて、白装束の男が一人現れた。
時は、明治2年11月13日(1869/12/15)。
男の名は、森陳明弥一左衛門。
本来の置き方と反転された白い屏風が設けられている。
白々しくも、屏風の裏には、居並ぶ検視役。
それをなんら、ものともせず、あっさりと目礼を為し、
男は堂々と、設えの座に進むと、北に向かって座した。
桑名藩に於ける『反逆の主謀者』として
全責任を負い、切腹の瞬間だった。
『反逆の主謀者』の汚名は己だけではない。森家は断絶となる。
一族郎党は皆、地に彷徨う。良きに計らう、口約束あれど、己は散る。生憎、この目で
見届けることなどできない。
・・・引き換え条件は藩存続、藩主存命だった。
にもかかわらず、彼、森陳明弥一左衛門は『
むしろ、好んで
』受けて立った。異存は無い。
君(=この段階では旧藩主となった松平定敬)に捧ぐ命。命など惜しい訳はない・・・。
なんと、この男が
やってのけたのは・・・
今や伝説といわれつつある
鬼気満ちた『十文字切腹』だった。
うれしさよ つくす心の あらわれて
君にかわれる 死出の旅立
ついに、男の魂が炸裂した。森陳明弥一左衛門。44歳。・・・(介錯人は木村金次郎。
壮烈なる死に様、彼が見事やってのけた幻の技『十文字切腹』が万事、物語っていた。瞬時の絶命。
万事御無用。介錯御無用。
『十文字切腹』:一般には仕損じない為に、深く突き入れ、一文字切り下げ。切腹時の介錯は死者への尊厳。
仕損じて呻く無様を曝さぬよう、餞に最期のあっぱれを飾らせてやる為に一気に断つ。また、一文字とて
実際可能な者は多くないことから、木刀または扇子を短刀がわりに形式的に手に持ちそれを合図と為して
介錯に頼るパターンが実際は多かったという。こうなってくると、十文字貫徹は並でない。
言い換えれば、それを仕損じることなく貫徹できたのは、怒りが並でないから。
暗転と宿命
あれ以来
、桑名は転落の坂道を転げ落ちた。
弱体化した徳川の屋台骨。その隙に付け入る度重なる薩長の陰謀。
京都所司代に就任した藩主松平定敬及び、実兄の松平容保(京都守護職=会津藩主)は
孝明天皇の死以来、万事、時計の針は狂い始めた。
天皇の御信任を厚く賜った松平容保も、松平定敬も、天地逆転。
『朝敵』の汚名を一気に蒙った。
1864年、藩主松平定敬が京都所司代就任。
その際、主席公用人となった森陳明弥一左衛門の運命はここに決まった。
突如薩摩が攻め入った京の桑名屋敷は、あまりの突然。彼らは食事の真っ最中。
屈辱の裸一貫、追い出されたも同然。無様にも飯粒のくっついた茶碗や鉢をそこらじゅうに
散らかしたまま屋敷を乗っ取られて、追い出される苦渋を嘗めた。
藩主松平定敬は、24歳の清い若者。心底慕う兄、松平容保の意を汲んで、ミカドに命捧げる覚悟で
今日の今日まで尽くした男。それが、突如『朝敵』の汚名を食らって、罷免追放。
なんたる様よ!これでは、誰しも、引くに引けぬ。
そして、桑名はついに、戊辰の終焉、箱館戦争にまで至る。
国許では既に、定敬の前藩主松平定猷の子である定教(幼名:万之助=後の松平定教:)を藩主に
切り替え存続の段取りが組まれて、藩そのものは恭順。
それでも、森陳明弥一左衛門にとっての唯一神、我君_松平定敬は、引かなかった。
薩長の奸賊の手口の汚さ!不義への戦闘に躍り出た。
森を筆頭に、松平定敬に従う者は皆、誰一人として異存は無い。
僅か15歳の西村五十五郎さえも、徹底抗戦を唱え、我が君、定敬の為なれば、散華の覚悟だった。
されど腐敗、臭い据え膳
むしろ、好んで欲するところ
9/27東京軍務局入牢時点で、暗黙にシナリオを感じる。
臭い据え膳。回りくどい。
さようか。むしろ欲するところ。
有り難き幸せよ。
眼光鋭いこの男が、唇の端を歪めて、僅かに微笑した瞬間が、目に浮かぶ。
森常吉
こと、森陳明弥一左衛門の場合は長すぎた。
彼は長く見過ぎた。全て見尽くしていた。
泥濘の中
駒の命と人、主と臣_1
森常吉
とは、
森弥一左衛門
。諱:陳明(つらあき)。桑名藩士。
戊辰戦争時、仙台で藩主・松平定敬に従い蝦夷行き決定。その際、桑名藩士は、
藩主側近家来としては2名のみの乗船許可。溢れた藩士は新撰組加入を条件として
乗船させてもらった。この時、要人に限らず、面の割れた人物の多くは皆改名。
森常吉
(つねきち)とは、箱館戦争時に於ける新撰組隊内での変名である。
榎本の嘆願書は、ことごとく岩倉具視が握り潰してミカドに届くわけなどない。
開陽を失い、不穏な年明け。昨年(1868年末蝦夷上陸後段階)に於ける戦闘に散った多くの命。
1869年、榎本軍は、
宮古湾海戦
に躍り出たは良いが、多大なる犠牲を払った。なんら得るものなく。
屍に降り積もった白い雪が溶け出して、やがてそれは濁流と化して、蝦夷の大地を流れ出した。
同時に、官軍は手薄な日本海側、乙部から溢れ出た。
武器も砲弾も、肝心要の金源が底を付いている。背に腹代えられず、贋金鋳造と言われても
否定できない。その実、硬貨の質を落としてばら撒いた。土塁工事に民を徴集。通行税を
絞り上げて金欠の足しにした。年若い寡婦にはその者自身に糧与う為也と諭して、娼宿に指定された例まで
悲しきかな、発生してしまった。民心離反は止め処ない。江差沖の海面に撒き散らしておいた水雷は全て
漁夫が取っ払って、官軍を支援した。榎本軍は泥濘の中。
・・・(関連:松前感情,蝦夷感情,民心離反について解る頁:
関連1
、
関連2
)
彼は長く見過ぎた。全て見尽くした。
それまで、森のポジジョンは、新撰組隊内に於ける役職:頭取改役といい、事実上のTOPであった。
しかし、ついに
5/11、土方歳三を失う
。転落の一途。
5/15ついに、森達が籠もる弁天台場陥落、降伏。この時、初に隊長が相馬主計にかわった。
(・・▲
この時の様子関連:薩摩_田島圭蔵_箱館戦争_敵への報恩
既に、桑名藩士は星を失っている。藩主_松平定敬を乗せた船が、
静かにこの地、箱館を去って行ったのは、いよいよ敗色濃厚となった4月13日のこと。
皆港に公を送る。ここに於いて別杯を賜い、皆言上して曰く、
生前の離別、これを限りとなす。後に必ずや潔く戦死を以って厚恩に報せん。
遂に流涙の離別となる。
殿の御前、潔く戦死を遂げる、戦死の瞬間を殿に見届けてもらえるなれば、
それは最大の誉であり悔いはない。それだというのに、その殿は、津軽海峡の向こうに消えた!
武士の誇り、髷を切り捨て、断髪隊士と化した若い隊士達。
戦にやつれた頬。無精髭。あたかも墨を塗ったがごとく真っ黒に砲煙に汚れた目頭から頬。
星を失った。何も見えない。
心と裏腹、初夏の爽やかな風が頬に吹き付ける。
上空で、鳶が鳴いた。
この時、武器弾薬不足以前、それどころか兵糧の前に水が枯渇。
名馬、駿馬が皆、水が原因で呻き斃れ逝く。そうなる前に馬など、放してさえやれば本能的に
水を求め、どこへでも行ける。
馬は兵でもなければ、徹底抗戦の志もない。犠牲以外の何ものでもないのだから。
忠義で従う末端の兵卒達も皆、よく似たようなものだった。侍の喧嘩に巻き込まれて、
元の出は鳶に、飛脚、石工、大工、農兵。そうした者も今、ここで死なねばならぬ宿命を負う。
さりとて、馬を放すは、士気無しをあたかも露すがごとく、武器を敵に提供するも同然の事。
ならぬ事だった。
一頭、また一頭と、独特の呻き声を発しては斃れゆく馬達。
人は耐えてその断末魔の瞬間を見ねばならぬ。罪の償いに見て耐える。
不憫な姿、その有様を隊士、石井勇次郎が記に残した。
皆は、その哀れなる愛馬の肉を屠って糧となした。
そしてついに、5/18五稜郭降伏。
中島三郎助の隊のみ、散るを必然として、
最期の徳川の殿(しんがり)を果たし、天空の彼方へ消え去った
。
万事零落。長かった戊辰が幕を閉じた。
徳川泰平二百六十余年、それはもはや露と消えた。
囚われ人の『奥の細道』_弘前_薬王院にて
箱館戦争大敗降伏後
明治2年5月22日、桑名藩士は青森へ護送され、
油川の明誓寺に送り込まれた。
後、津軽藩に預かり替となり、薬王院で謹慎生活となる。
ここは最果て。弘前。日中、鶯の声を聞いた。
それは、なぜか、あたかも哀れむがごとく聞こえてくる。
とらわれの身となり奥の油川より弘前へ行く路にて
鶯の音を聞きて、鶯の鳴く音みにしむみちのくの
心細道たとりゆく旅
我がうさをなくさむとてか鶯の鳴く音
みにしむけふのたひ路は
弘前の君に預けの身となりし折よめる
「心細道たとりゆく旅」とは、松尾芭蕉の奥の細道を洒落架け。細道は細道でも
今にも消え失せそうな己の姿。≒「おほろにみゆる我心かな」▼
夏の夜、おぼろ月
ぽっかりと月が浮かんだ。
おぼろ月。みちのくの果て。
今の己は、なんなのだ?
生きながらにして亡霊のごとく
夏の夜の寝やにさし入る月かけも
おほろにみゆる我心かな
箱館のやふれし時に身ををし終へは
かかるうきめに逢はさらましを
生きながらにして亡霊同然の我が身を嘲笑。
いっそ死んでおけば良かったのだろうか。
万事藩主様の為だった。その藩主は、今や囚われ人。痛ましいお姿を思い浮かべ嘆いている。
※この段階で、己の宿命はまだ察知していない様子が伺われる。
断髪隊士達の秋、決別。
しかし、その夏は、密かに逃げ去ろうとしている。
なにものかを恐れるように、慌てて去り行く気配を見せているではないか。
朽ちても散っても、今日まで皆を率いた森陳明弥一左衛門。
怒りに燃えてひたすら戦い続けた去年の奥州。いつも、そこには、森が居た。
ふと、赤とんぼが、ひとつ。
初秋の冷気に羽を濡らして
やっと枯れかけの彼岸花にとまっている。
断髪隊士達に、二度目となる奥州の秋は、
森陳明弥一左衛門を奪い去った。
東京で治療中の重傷者:谷口、金子、角谷他を除く皆は、
この後青森蓮華寺で10月迄再び謹慎。
11月には帰藩となる。
据え膳、東京軍務局入牢
明治2年9月27日、森は他藩士と別れ、みちのくを去り、
一人東京軍務局入牢となった。
この時点で、たとえば会津藩主松平容保を守り、
萱野権兵衛
が犠牲になったのは、
同年5月18日(1869年6月27日) 。
森は謹慎中の身につき、情報をどの程度知っていたかは
不明だが、少なくとも容保が存命である旨は知っていたはずだ。
また、一連関連を見渡す限り、鳥羽伏見以来、
他藩に於けるどの例を見ても、
藩主自ら死罪は無い。皆、家老が被って腹を切って終わらせた。
それが臣たる者の掟。
言い換えれば、臣ありながらにして、主を逝かせるは
具の骨頂。それは当に臣に与わずというものである。
解りきったことではないか。ついに時期到来。
臭い据え膳。回りくどい。
「否」と答えるわけのない者、その己がご親切にもここに呼び出されたまでのこと。
己にとって、有り難き幸せよ。丁度願ってもない砌というものよ。
再び同じような詩を詠まねばならぬ手間が減った。
箱館のやふれし時に身ををし終へは
かかるうきめに逢はさらましを
青年藩主_一雫の涙
駒の命と人、主と臣_2
森の脳裏には、あの時、若い藩主_松平定教の頬を伝って零れ落ちた涙の一滴、
それが今だ焼きついて消えない。
いよいよ榎本軍敗色濃厚となった4月、箱館の港を去って行った一艘の船。
己を慕うが故付き従った藩士達。その彼らを置き去りにしてまでも、
立ち去らねばならぬ己の使命、藩主の立場に胸を痛め、堪えきれず、はらはらと涙を溢した青年藩主。
森は44歳。藩主は24歳。いわば親子程の年齢差がある。
かつて主の器、力量不足を痛感する場面に於いても、本気で苛立ったり、不足を嘆いたことはあるまい。
主に不足を生じさせるは己の不始末。
あの清い御人は、なんとしてでもお守りせねば。この命に換えて。
どうか、清い御人よ、これ以上なんらお苦しみ下されるな。
軍務局の糾問所。森陳明弥一左衛門は『むしろ、好んで』受けて立った。
桑名藩に於ける『反逆の主謀者』として
全責任を負うを自ら進んで語った。
森は念を押した。引き換え条件は藩存続、藩主存命。
どうか、清い御人よ、酷な願いながら、必ずや耐えてご存命下され。
我々が弁天台場で目にして耐えた駿馬の斃れゆくさま同様
我ら駒の断末魔の喘ぎを見て耐え、それで尚も生きねばならぬ。
それが主たる者のつとめよ。
うれしさよ つくす心の あらわれて
君にかわれる 死出の旅立
なかなかに おしき命に ありなから
君のためには なにいとふべき
なかなかに惜しき命ながら
血潮が搾る挑戦状
「君のため」
を二度反復している。
忠誠心のみを連呼する程、森は単純かつ、清涼感満ち溢れる若者ではない。
むしろ、さぞ胸を痛めているであろう若い藩主には酷なフレーズ。
自分が藩主_松平定教の立場になって読んでみるなれば、たちまち胸につっかえて窒息寸前だ。
なぜならば、「君のため」の文字は、本人にとっては、そのまま「犠牲」の文字に当てはまるから。
万事、己のせいなのだ。痛い程に胸に突き刺さる。
「犠牲」「犠牲」
と二度も語られたなら、卒倒してしまう。
父と子程年齢差のある森なればこそ、獅子の子を千尋の谷から突き落とす
教訓も滲んでいるかもしれない。酷なフレーズ。
しかしながら、発信先は青年藩主様に掛けて、別と読める。
「なかなかに惜しき命ながら」
は、官軍内のどこぞに、仮に単細胞が居れば、
女々しい言語にも聞き違える節。
森ほどの男だからこそ、堂々ニヒルにあっさり詠み込んだ。
「怖い」と「惜しい」という言語は、「己は実は弱い!」を自覚してる者なれば、
歯を食い縛ってでも、絶対口には出さない。
鼻で笑える余裕がある程強い者のみぞ、洒落で語れる特権用語と解する。
現代に置き換えるなれば、
弱い者程、「怖いものか!惜しいものか!嘗めるな!」と叫び、
強い者程、惚けて「おうっ!怖っ!こっちは滅法臆病なんでね、なるべくお手柔らかに・・・」
ざっと、こんな会話なれば想定できることでしょう。
相手の構えを見るなり、瞬時に数段下と見破って、侮る時、
「あたしゃ、命が惜しくて、惜しくてのう・・・」
これは、完全に、一種挑戦状として受け止めても可笑しくはない。
錦の旗、官軍。御維新。大層に語るわりには、腹を斬らせて終わらせる原始的始末。
なんら進展性がないではないか。
「君のため」の連呼。誰に対して連呼したか。
我らにとって、君は唯一でござる。君なる御人は、かの御人以外はござらぬ。
貴殿達の迎せられる君・・・とやら。尊王を掲げて偽物の御旗を翳して、
君を仰ぐ心が誠か否か、見え透いとるわ。
『君を仰ぐ心』が誠か否か、我の死に様を見て知るがよい!
「我君のため」なれば、こちらは痛くも痒くもないぞや。御維新とやら、せいぜいまともにやって下され。
万が一、この「君のため」を疎かにしようものなれば、冥土の果てからいつでも天誅見舞いますぞ。
こちらにとっては、死んで終わらせて頂いても、
貴殿方には、死なせて無事終わったと、愚かしくも錯覚なされるな。
少しオーバーな表現を使えば、どうもこんなニュアンスを帯びてはいまいか。
今や伝説といわれつつある鬼気満ちた
『十文字切腹』。時は、明治2年11月13日
森陳明弥一左衛門、
壮絶なる最期の瞬間だった。
臣の切腹犠牲、即ち当然の掟
(飯野藩江戸藩邸は会津藩主_松平容保(桑名藩主_松平定敬の実兄)の義姉_熙姫の生家)
ここにも一人居る。
61歳の家老、
飯野藩家老_樋口弥一郎
は、その最期に於いて、
見事、辞世の句に意地を全うした。
責任切腹=討ち死に!
・・・痛烈な『突き!』を句に吐いて散った男
大幹や松の恵みの露受けて
死も草の木も育ちぬるかな
一見年齢相応、穏やかに趣のある静なる自然を謳いこんだ風にみせておきながら、強烈な皮肉。
61歳、老臣。なんといわれようが、伊達に屈して切腹してない。
突きを句に含めて散った。これは完全に、討ち死に!以外のなにものでもない。
『静』の描写に
深掛して含みが重厚
。人物の器を痛感する。
隙を抜いて突きこんでることから、剣の使い手、かなりの腕と思われる。
武士道なれば、句も刃。
大幹とは徳川。松とは松平の意。
徳川報恩、それに一切悔いはないと言い切って切腹を為し遂げた。
彼にとっては、下らぬ奸賊ごときの捌きに命を散らしてなるものか。
徳川御為、藩主御為なれば、たとえ不条理とて、なんら捌きに不服はない。
偽者の錦の御旗
振りかざして、官軍などと名乗るは許せぬ!
ナンセンスな後始末にモノ思う・・・
【外国人の目には映らなかったJAPANの実態】・・・・ブラックリストの暗黙処理
ユージン、ビクター、デュ、メリックの書
ユージン、ビクター、デュ、メリックとは、
◆英国艦パール号軍医、◆リチャード・ユースデン(=箱館駐在英国領事)の甥子
彼は、英国艦パール号に軍医として乗船していた。
日本の箱館戦争に係る手記を残した。維新成立の際、新政府の幕軍に対する処遇をひたすら賛美。
「なんと、ほとんどの人物が、許された。それどころか、新政府は、
戦犯達を新しく登用するなど、実に優遇した。
死刑になったのはほんの数人だけで、他に類を見ない例だ。
日本は人道的で素晴らしい。」
・・・と書いた。彼は若い。純粋に喜んでくれたようだ。
しかし、まさか、ひとたび、あたかも釈放したかのようにしておきながら、各藩自体に、
抗戦派代表の首を討たせていた・・・という惨い事実など、知る由もなかった。
しかも、もっとも罪が重いと見なされた「幕臣」と「仙台系&額兵隊」、「会津」は別。
会津は実質上流刑同然の斗南へ送られた。
そして、「幕臣」と「仙台系&額兵隊」、・・・青森に収容されていた彼らは、一体、何のために
箱館弁天台場に戻されたか?・・・
ぞっとする現実!
純粋に喜んでくれた若い軍医、上記メリックは、もちろん、そんなことは・・・知らなかった。
詳しくはこちらご参照下さい。
▼
【外国人の目には映らなかったJAPANの実態】・・・・ブラックリストの暗黙処理
腹切って、死んで詫びて、首差し出さなきゃ終わらない!・・とは、
江戸時代じゃない!・・・まさに明治維新がそれだった!
なんちゅう!ナンセンス&野蛮なのだが・・・舞台裏までは、外人さんの目には映らなかった。
当事者達は当然ながら既に他界。この時代、これが武士たる者の掟なのやら、
ナンセンスなのやら、それはもちろん、本人達に聞かない限り不明だ。
後の世に生きる我々が感じるのとは全く別の感覚で、犠牲者達も武士として、
案外それで良かったのかもしれないが・・・。潔く己が被って散って終わらせる。
武士の誉・・・だったろうか。
しかしながら、土壇場の足掻きで、恭順派側の焦りから、多くの生き煮えが供出されたであろう節も
否定できない。切腹ならまだしも、命を受け、戦闘に繰り出され、自藩の忠義が故戦い、命からがら帰った男が
突如、罪人として斬首及び、屈辱の曝し首にまでされたケースもある。実戦に送り出された者はいわば駒。
『駒の首』まで、捧げねばならぬ程、零落したかと思えば無償に悲しい。
維新と名がつく以上、極端なアンバランスを感じる。
この段階だけならまだ良いが、明治はずっとそれだ。
後に、
福沢諭吉が蜂の一刺し入れた。
「いつまでも、馬鹿な真似やりなさんな!」
(後日別途SERIESでご案内予定)
藩の戦争責任を負って散った臣達
御維新、即ち、首。首。首!
関連その1
_
首の犠牲_譜代小藩&代官所
、夥しい悲惨の連発。首。首。首!
▲経緯を含めて読むには、
林忠崇,幕末,戊辰,脱藩大名_林忠崇SERIES
のTOPから
関連その2
_仙台では・・・
切腹家督没収:計7人(明治2年4月9日処刑
和田織部、遠藤吉郎左衛門(主税)、玉虫左太夫、若生文十郎、安田竹之助、
粟村五郎七郎、斉藤安右衛門
東京で処刑:計2人
但木土佐、坂英力(明治2年5月19日処刑
家督没収入獄:計51人
明治元年時点、他、額兵隊を星隊長の許可の上、脱退して家へ帰ろうとした少年の数多くが
斬首されたなど、数値不明の犠牲多大。古老談有り。榎本艦隊が去った後、石巻海岸に曝し首
が百とも二百とも。仙台での降伏は「命は保証」が条件だったはず。これは何?
新政府側によるものなのか、もはや恭順姿勢に揺らぎ無し立証を焦った内部の業か?不明。
◆箱館戦争参戦の三殿族と会津戦争のケース
会津戦争
会津藩主_松平容保【32歳=会津戦争時】
松平容保は命は助り、晩年は日光東照宮宮司並びに上野東照宮祠官。
しかし、恭順の時点で、萱野権兵衛が切腹させられた。彼より上位の家老は自分で切腹して
既に果てている。もともと恭順派で抗戦派ではなかったものの、地位的に当該なのは、西郷頼母。
しかし、その段階で行方不明。それもそのはず、西郷頼母は榎本軍に飛び込んできている。
その為、
萱野権兵衛
が犠牲になった。(関連:
萱野権兵衛と西郷頼母
)
(ここで唯一の美談として残るは、薩摩_中村半次郎(桐野利秋)が武士の情け、庭先でなく、
座敷内での切腹を許可との逸話有)
箱館戦争の三殿
【】内数字は箱館戦争突入時の年齢
◆桑名藩主_松平定敬【24歳】
松平定敬は自首。命は助かる。しかし、榎本軍終焉の最期まで戦い、降伏して
獄中に送り込まれた苦労人、
森常吉
(現在頁の主人公)は、処刑という形を取られずに、
回りくどい形で、結局処刑された。
桑名江戸藩邸別邸に押し戻され、そこで抗戦派責任者として、切腹。
◆小笠原長行【46歳】(唐津藩江戸藩邸)の場合
・・・(注)唐津藩は恭順。開国派長行とその周囲のみ
江戸藩邸脱走の上、東北参戦&箱館戦争突入
この人物は自首せず、長らく潜伏。
穴を掘って、そこで暮らすくらいなら、自首したほうが、ある意味で、
余程楽だったに違いない。たとえ命を奪われようと・・・。しかし、耐えた。
その訳は・・・
▼ _
失踪の小笠原長行,夢の訳:普遍の契り,小笠原長行と家臣達の明治
弘前謹慎中、
小林幸次郎
が死。(病死?よく解らない。傷に病んでいればここには来ない。
他藩士は国許から小笠原を慕いやってきた書生風であったり、死んだ甥子(小笠原胖之助
(=三好胖))の家来であったり。その点、小林は純粋に小笠原の身元家来(重役じゃなくて
馬廻りのような。江戸在中常時側に居た。いつも全ての行動を見ているが、発言するでなく
進言するでなく、寡黙で口が堅いタイプの仕事。)
小笠原の行方、知らぬ存ぜぬ言い難い立場であるのは事実。(現代風に言うなれば、お抱え
運転手が窮地に黙するを徹して自殺した例のような臭いも多少。・・偶然かもしれないが、
多少気に掛かる死)
小林幸次郎に関しては謎が多い。資料では弘前謹慎中死。しかし函館の称名寺に墓有。
三好胖こと小笠原胖之助も、従者の犠牲者も一度埋葬されたが、改めて唐津。小林は江戸勤
だが、後やっと安定した段階で小笠原長行は、いつも側に居た男の墓を別途江戸近郊に改め
てやったのだろうか。不明。
◆備中松山藩主_板倉勝静【45歳】:注)彼は松山といっても備中高梁。
鳥羽伏見参戦の首謀者という扱いで
家老_熊田恰(あたか)が早々犠牲切腹
となったが、藩主自ら
箱館戦争突入したことに対して更なる犠牲の首が発生したかどうかについては、特定できない。
蝦夷へ渡った板倉ファミリーと隊士
: 重臣(辻七郎右衛門、伊藤惟清)倅、(万之進、勝全:11歳)
溢れた藩士は新撰組編入。仙台で土方歳三を怒らせたトラブル有。その為蝦夷新撰組で、松山の
役職者は存在せず。全員平で兵糧係にされた。(乗船させてもらう為の名目上の入隊だとの発言が土方の耳に入り激怒) 末期土壇場迄は戦闘第一線≒殺傷の場に立つ機会は稀で犠牲者も少ない。
こうなると気の毒なのは、唯一戦死が明確な乙部剛之進 。
桑名藩家老_
森常吉
(
森陳明
:
森弥一左衛門
)
No.1(現在頁)<
No.2_人物について、おまとめ表
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