ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

2009.01.30
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カテゴリ: 民衆の歴史
乳母と里子 マルレの石版画集より(1)

乳母管理局

母が子を母乳で育てる習慣は、18世紀以降次第に普及しましたが、1820年代のパリでも、生まれたばかりの乳飲み子を田舎に里子に出す風習は、根強く残っておりました。

この絵は、石版画家ジャン・アンリ・マルレが1821年から24年にかけて発表した『タブロー・ド・パリ』という連作の中の1枚で、『乳母管理局』と題された絵です。

マルレは少し後の世代のドーミエのように、名声を博した大画家ではありませんが、当時のパリの世相を、まるで写真に写したかのように正確に描写した人物ですから、この絵も当時の様子を正確に描写していると、考えられています。

先ず、乳母管理局ですが、これは1765年に設けられた役所で、革命によっても廃止されず、むしろ拡大強化された機関です。パリ近郊の貧困農民にとって、里子を引き受けることは、現金収入を得るために欠かせない仕事でしたから、もう乳のでないような女性まで、何とか乳母の仕事にありつこうとヤッキになり、多くのトラブルが起きていたのです。

こうしたトラブルや弊害を除くために出来たのが「乳母管理局」でした。そして、この絵の発表時期とも重なる1821年まで、農村地帯から乳母の希望者を集めてくるのは、運び屋と呼ばれた40人ほどの斡旋業者でした。彼らは乳母希望者をパリに運び、乳飲み子と一緒に農村に連れ帰るのです。その上、約束された毎月の手当ての受け渡しも担当していました。

それが1821年からは、パリに27名の有給の係員が置かれることになり、この係員が乳母希望者を斡旋、確かに乳母たるに足る資質を備えているか否かは、医師の検査によって決定することとなったのです。乳母管理局は、各家庭からの里親探しの依頼を一括管理し、乳母(里親)の紹介と賃金の定期的な支払いを保証する役割を果たしたのです。

乳母管理局の中央本部には、乳母24人分の休息・宿泊施設もあり、1821年には、日帰りせずに宿泊した乳母が5420名に達しました。そのうち6%にあたる希望者は、契約相手を見つけることが出来なかったと記録されています。

この絵は、農村から乳母希望者を連れてきた係員が、契約の成立した乳飲み子を乳母たる農婦に渡している、出発準備風景です。正門前と中庭には、出発待ちらしい女たちのグループ(画面の一番右手)と、到着したばかりらしい女たちのグループ(歩哨のそば)が見えます。



子を里子に出す風習は、この時代にもなお、根強く残されていました。その点は、19世紀40~50年代に活躍したフローベルの代表作『ポヴァリー夫人』の主人公エンマが、わが子ベルトを里子にだしていることからも、理解できますね。





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最終更新日  2009.01.31 15:19:22
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