「百済の
王
、
縫衣工女
を
貢
る。
真
毛
津
と曰ふ。是、今の
来目衣縫
の
始祖
なり。」(応神天皇14年春2月条)
他にも、応神天皇37年2月条・同41年2月是月条(呉衣縫・蚊屋衣縫の祖)、雄略天皇14年正月条・同3月条(漢衣縫部・飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の祖の来朝)に衣縫氏が登場するが、渡来系氏族である。
潮音寺に隣接の国府八幡神社の裏から允恭天皇陵に出て、この陵をぐるり一周して、再び東高野街道を進むと道明寺を経て、応神天皇陵・誉田八幡宮である。道明寺山門脇の銀杏が美しく黄葉していました。
(道明寺の銀杏)
(誉田八幡宮)
誉田八幡の祭神は応神天皇である。応神天皇は、日本書紀によれば、神功皇后が三韓征伐の後、筑紫の蚊田(宇瀰の旧名。)にて出産するのであるが、生まれた時に腕に「宍」(コブ)があって、その形が鞆(弓を射る時に着ける巴型の籠手)に似ていて、鞆は昔はホムタと呼ばれた処から、ホムタ天皇と呼ばれるようになった、とある。ホムタ-誉田-コンダと変化したのだろう。
(放生橋)
放生橋は鎌倉時代に造られた花崗岩製の反り橋。説明板によると、「毎年9月15日の秋の大祭の夜には、神輿がこの橋を渡って応神陵古墳の濠のほとりまで運ばれ、祝詞の奏上や神楽の奉納などの神事が行われる。かつては陵の頂上まで渡御していたといい、誉田別命(応神天皇)を祭神とする誉田八幡宮と応神陵古墳との、古くからの深いつながりがうかがわれる。」とのこと。
更に、東高野街道を南下。古市駅裏の白鳥神社に立ち寄る。
(白鳥神社)
白鳥
神社は、寛永年間(1624~43)末期、
軽墓
(軽里)の
伊岐谷
にあった
伊岐宮
を、古市村の
産土神
として現在の地に移築したとのこと。伊岐宮には日本武尊が祀られていたが、南北朝や戦国時代の兵火で焼失。峯ヶ塚古墳にある小さな祠として存在していたが、慶長の大地震(1596年)で倒壊し、放置されていたとのこと。
さて、その峯ヶ塚古墳であるが、古市駅から31号線を西へ、日本武尊白鳥陵を左に見て1km程行った処にある。周辺は公園に整備されている。
(峯ヶ塚古墳)
峯ヶ塚古墳から野中寺へ。途中に仁賢天皇陵(埴生坂本陵)の前を通ったので、ちょっと立ち寄る。
(仁賢天皇陵)
(野中寺)
奥山の 岩に
苔生
し
畏
くも
問ひたまふかも 思ひあへなくに (巻6-962
葛井連広成
)
(奥山の岩に苔が生えて神々しいように、恐れ多くもお求めになることでありますな。<歌を作るなど>思いもよりませぬことです。)
この歌は大伴旅人の家で勅使をもてなす宴会が持たれた際に、一座の人が広成に歌を作るようリクエストしたのに対して、即座に答えて広成がくちずさんだ歌であると左注にある。衆人が広成が即興の歌を作る芸当に秀でていることを認めていたのでしょうな。この歌を覚えて置くと、即興で歌を求められた場合で、直ぐに思い浮かばない時は、これを朗唱、広成のお話をして、お茶を濁すことできますよ(笑)。
(野中寺本堂)
(野中寺塔跡)
(野中寺金堂跡)
(ヒチンジョ池西古墳石棺)
(お染・久松墓)
野中寺には何故かお染・久松の墓があります。
お染・久松の塚なるものは大東市の野崎観音にありますが、先日、偐山頭火君と野崎観音方面を銀輪行しているので、彼曰く「これで完結したことになる。」と(笑)。
<参考>お染久松塚(「
朝は北へ、夕は南へ
」2009.5.30.)
この後、辛国神社、葛井寺、雄略天皇陵、吉村家住宅とめぐるのであるが、それは続編に譲ることとし、ここで一先ずアップします。
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
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