西大寺山門を出て、山門(東門)前の道を南に向かう。程なく菅原の里に着く。菅原道真の生誕地と伝えられる菅原の里である。という訳で、先ず菅原天満宮にご挨拶に立ち寄る。
<参考> 菅原天満宮ホームページ
(菅原天満宮)
菅原天満宮では盆梅展をやっていたが入場料 (写真右のボックスが臨時の入場受付所) が要るので、パス。受付前の人と暫くお話して退出。喜光寺へと向かう。
(喜光寺・本堂)
生憎と境内は工事中で、工事車両と工事の人達で落ち着かない。まるで、工事現場に迷い込んだみたいである。本堂の南に面する山門が完成したばかりでピカピカの姿を見せていたが、工事仮設が残ったままなので撮影はせず。
この寺の本堂、何かに似ていませんか?そうです。大仏殿にそっくりなのです。喜光寺は養老5年(721年)行基によって創建された寺であるが、大仏殿はこの本堂を参考にして建てられたと伝えられている。元は菅原寺と呼ばれていたが、748年聖武天皇が参詣した際に、本尊が不思議な光明を放ったらしく、それを喜んで聖武天皇が喜光寺に改名させたとのこと。
境内は6月下旬から7月には200鉢余の蓮の花が咲き匂うのが楽しめるのであるが、今は何もない。
万葉歌碑を撮って
(ピントが甘かった。)
退散。
(石川郎女万葉歌碑)
大き海の
水底
深く 思ひつつ
裳引き
平
らしし 菅原の里
(万葉集巻20-4491 石川郎女)
(大海の水底のように深くあなたのことを想って、裳裾を引いて道が平にならされ
てしまう程にもたび重ねて通った菅原の里であることです。しかし、それも今は昔
のこと。)
(注)作者石川郎女は藤原宿奈麻呂の妻。宿奈麻呂は藤原宇合の子。仲麻呂の乱
後に内大臣となっている。
喜光寺を出て国道308号を渡ると巨大古墳がある。垂仁天皇陵である。垂仁天皇は、実際の初代天皇とされる第10代・崇神天皇の三男。第11代天皇である。
(垂仁天皇陵)
(濠の中に陪塚がある。)
(陪塚には鷺の群れが憩う。)
(南西の田園から眺めるのもいい。)
陵の西側に回ると、濠に添うように小さな祠がありました。
(平松町皇大神社)
祭神 右社 上筒男命
(うはつつのをのみこと)
住吉三神の一つですな。
盤長媛命
(いはながひめのみこと)
木花咲耶姫の姉ですな。
大日靈貴命
(おほひるめのむちのみこと)
天照大神のことですな。
(注)原文は、「靈」の字の巫の部分が女です。
天児屋根命
(あめのこやねのみこと)
中臣氏の祖。藤原氏の氏神の一つですな。
左社 市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)
宗像三女神の一つですな
。
垂仁天皇陵から畑中の道を行くと唐招提寺、薬師寺へと至るが、本日はこれはパス。近鉄京都線の線路を左に見ながら一路、南へ。民家の並ぶ狭い路地をうねうね走っていると、こんもりした森が目に入ったので立ち寄ると、養天満宮という祠でした。
(養天満宮社)
養 天満宮社の森はツブラジイ、ナナメノキ、アラカシ、ネジキなどの高木の他、サカキ、カナメモチ、イヌビワ、ネザサ、ベニシダ、フユヅタ、ヤブコウジ、ジャノヒゲ、マンリョウ、サネカズラなどが織りなし住宅地の中では珍しく原始林的な森林形態を残しているのが貴重だとして、奈良市指定文化財ー天然記念物ーになっているとのことである。
養天満宮社の鳥居を出ると直ぐに近鉄線の踏切になっている。これを渡って南北の道に出て暫く行くと三叉路の辻に「曹洞宗三松寺」という石碑が立っていたので、右折してそれを目指す。
(三松寺)
(三松寺山門脇)
(三松寺・本堂)
写真左に見えている石碑に近付いてよく見ると、それは道元禅師の歌碑でありました。川端康成がノーベル文学賞受賞記念講演で引用して有名になったあの歌が刻まれていました。
小生も気に入っている歌の一つでもあれば、この歌碑に出会えた偶然に謝してパチリ1枚。
(道元歌碑)
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 涼しかりけり
もとの三叉路に戻って、また南へ。近鉄九条駅前に着く。そこから東に行くと西の市跡で、そこには犬養先生の万葉歌碑があるので立ち寄ることに。
(平城京西市跡)
西市は東市
(奈良市杏町付近)
と共に、平城京域内に設けられた日本最初の官営の市場である。
(犬養万葉歌碑)
西
の
市
に ただ
一人
出
でて
目
並
べず
買ひてし絹の
商
じこりかも
(万葉集巻7-1264)
(西の市にたった一人で出掛けて、よく見比べもしないで買ってしまった絹の不良品め。)
まだまだ、矢田寺に着きません。やっと大和郡山市内に入りましたが、本日はここまで。この後しばらく奈良自転車道を走りますが、明日またご一緒下さいませ。
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