昨日(19日)は、八尾市、柏原市と南へ走ったので、今日は北へ走ることに。北に向うと大東市、四条畷市、交野市、枚方市などとなるのだが、今日は四条畷神社の先の坂道を室池園地へと登り、かなりの高みまで行ったので、そこでギブアップ。昼食は家でという予定での朝の銀輪散歩ゆえ、帰途に着きました。では道すがらの風景などをご紹介申し上げます。お暇なお方は最後までお付き合い下さいませ(笑)。
まずは、花から。
(ハクモクレン)
自宅を朝9時に出て、恩智川沿いに北へ。大東市に入って川が西へと蛇行して行く処で、川にお別れして東へ。大阪桐蔭高校の処で外環状道路に出て再び北へ。寺川交差点で東に入り、阪奈道路を行き、大阪府立野崎高校の前を過ぎて、東高野街道の旧道に入る。野崎観音の手前でハクモクレンが目に入ったので写真に。道を挟んで梅も「な忘れそ」と咲いていました。
野崎観音への坂道を過ぎた処にある、野崎まいり公園で休憩。ここの庭でミツマタの花とクリスマスローズの花を目にしました。
(ミツマタ)
(ミツマタの花)
ミツマタは、その樹皮の繊維から和紙を作る。万葉では「サキクサ」である。先端で三つに枝分れする形から「さき(割く)くさ」と名付けられたのである。
春されば まず
三枝
の
幸
くあらば
後
にも逢はむ な恋ひそ
吾妹
(巻10-1895)
<春になると真っ先に咲く三枝のように、さきく(無事で)いたら、後にまた逢いましょう。恋に苦しみなさるな、吾妹よ。>
(クリスマスローズ)
(サンシュユ)
<これは、帰途脇道の住宅街に迷いこんで見つけたもの。>
四条畷神社の参道を過ぎて暫くゆくと、和田賢秀の墓がありました。
<参考> 和田賢秀
和田賢秀は楠正行の従兄。四条畷の戦<正平3年(1348年)1月5日>で高師直の大軍と戦い討ち死にする。その時、敵の首に噛みつき放さず、それがもとで敵が死んだということで、以来、地元の人は彼の霊を「歯噛(神)様」として祀っているという。
墓の前の手水鉢には花が浮かび、背後の楠の大木の影を映していた。
むらさきの 花に映せる もののふの
果てぬうらみの 楠の葉の風 (偐家持)
(クスノキ)
和田賢秀の墓の裏道から山の方へと走るうちに府民の森の「室池園地」への登山道に出る。初めての道ゆえ、ともかくも登ってゆく。延々と続く登り坂。道端でお話しているオバサンに息を喘がせながら、「この坂道キツイですね。」と声を掛けると、「これ位でネをあげていて、どうすんの。この先もっとキツイよ。」と叱咤激励される。更にも登ると「みつくえ橋」という碑の立っている橋がありその先に神社がある。休憩を兼ねて自転車を橋の上に停めて、覗いてみる。
(みつくえ橋の架かる川、権現川)
(御机神社)
(拝殿)
御机神社を出て元の道に出ると、向いに「龍尾寺」の石碑。石段を登ってみる。これがまた結構上にある。
(龍尾寺登り口)
(左に行くと本堂。右に行くとご住職のお住まい)
(お住まいへのアプローチも風情ある雰囲気である。<写真右>)
(本堂と鐘楼ー
と言っても境内にあるのはこの二つだけ。
)
境内の説明板には「元禄11年(1689年)に当地を旅行した貝原益軒は、『飯盛の東北、龍鼻山に観音有。里民はなはだ尊信す』と記し、龍尾寺住職慶道は寛文3年(1663年)8月22日付記録で『観音山の旧地は人煙遠く距るにより、現在地に移し、禅宗に転じた』と書きしるす。御机神社と相対する懸崖上に建つ龍尾寺は、桜、紅葉の名所としても著名。縁起書の語る観音山旧地は、現在地より更に500m程山系へ踏み分けた地を指すが、人煙遠く距るにより、江戸初期に現在地に転じたもの。」とある。京都府相楽郡加茂の海住山寺の大般若波羅密多経600巻のうちの大半はこの龍尾寺の経典を1090年代に筆写したものとされているから、平安末期には大寺院でもあったようだ。
更に坂を登った処に寶蔵寺滝霊園というのがあった。この「滝・瀧」の名の三水偏が取れて、龍尾寺の「龍」になったのだろう。
霊園の高みから交野・枚方方面を眺め、今日から開通という第2京阪道路・緑立つ道を遠く眼下に眺めて、今朝の銀輪散歩は終了ということに。
「はよ、帰ろ。ハラ減ったァ」(笑)
<参考> 恩智川銀輪散歩
(3月19日の散歩・・3.20.の日記前編)
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