( 承前 ・昨日26日の記事の続きです。)
健人会の宴は午後3時に終了。駅へと向かう他のメンバーと別れ、小◎氏と鯨麻呂氏と偐家持の3人は日吉大社へ向うべく、緩やかな坂道を上って行きました。
日吉大社へは3年振りの久し振りの訪問(普通には参拝と言うのであるが)である。
<参考> 日吉大社・比叡山延暦寺
(2008.10.27.)
鯨麻呂氏の絵は以前当ブログでもご紹介しています。
絵画その2
(2008.6.13.)
近江鯨麻呂絵画展
(2008.6.18.)
旧竹林院、約千坪ある庭が美しいらしいが、今回は入場せず、入口入園受付の前から引き返す。延暦寺の僧侶が高齢になると山麓に里坊を賜り、そこで余生を送ったそうだが、この竹林院もその里坊の一つ。
(旧竹林院入口)
(同上)
竹林院の説明板の脇に、大津市観光のゆるキャラ、「おおつ光ルくん」が居ましたのでご紹介して置きます。どうぞお見知り置きを。
(おおつ光ルくん)
竹林院から日吉大社参道に出て、大鳥居へと向かう。
(日吉大社鳥居)
日吉大社については下記をご参照下さい。
<参考> 日吉大社・Wikipedia
(西本宮楼門)
(西本宮本殿)
(東本宮楼門)
(東本宮拝殿)
正面が本宮拝殿、左が樹下神社拝殿。右側の建物にはお神輿が置かれてありました。
(神輿)
(東本宮本殿)
日吉大社を出て南へ。ケーブルカー乗り場に向かう道の辺りで西に入る小道を行く。慈眼堂へと裏から入る形になる。
慈眼堂の裏には、慈眼大師、歴代天台座主などの供養塔が並んでいる。そんな中にひと際目立つ塔は、桓武天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、徳川家康の供養塔である。
(慈眼大師供養塔) (桓武天皇供養塔)
(徳川家康供養塔)
家康・秀忠・家光と徳川三代にわたって幕府の顧問格を務めた天海さんの慈眼堂とあっては、家康の供養塔があるのは当然としても、紫式部、和泉式部、清少納言の供養塔もあるのが面白い。しかし、何となくこれは眉つばな気がしないでもない。
他に、新田義貞の供養塔があったが、これは、徳川がその流れを汲む家系であると考えられていたからであろう。
(左から、紫式部、和泉式部、清少納言の供養塔)
(阿弥陀如来石像)
この石像は、桃山時代に、近江国観音寺城主 六角承禎
が母の菩提を弔うため、母の郷里の近江鵜川の地に48体の阿弥陀如来像を安置し奉ったとのことであるが、江戸初期に天海大僧正(慈眼大師)がそのうちの13体を当地に移したものとか。
<参考> 天海大僧正(慈眼大師)
(慈眼堂)
慈眼堂は慈眼大師南光坊天海大僧正の廟所。家光の命により建立されたらしい。慈眼堂から滋賀院を経て、生源寺の前で参道の通りに出て、駅へと向かう。
( 滋賀院門跡
)
(穴太衆積みの石垣)
穴太衆による穴太積みという石垣は大小の自然石を組み合わせて造るものであるが、坂本の町はその穴太積みの石垣の美しい町でもある。
(老舗の蕎麦屋)
(京阪坂本駅・写真は朝、会場に向かう途中に撮ったもの。)
そろそろ、1記事当たりの文字数制限に近付いて来ました。急ぎます。
一廻りして、京阪坂本駅前で、ここから電車に乗るという鯨麻呂氏と別れ、小◎氏と小生はJR比叡山坂本駅へ。
(石占井 神社)
暫く行くと、道の辺に小さな祠。石占井神社とある。天智天皇の時代にオオナモチの神を三輪山から日吉大社に勧請せむとしたとき、当地で石に座した占いの女神に会い、女神はオオナモチの御足を井戸水で洗い、日吉大社西本宮の聖域までご案内したとのこと。この故事に因み、当神社を石の占い井、女神を石占井大明神として祀るようになったとのこと。
程なくJR比叡山坂本駅に到着。姫路行き新快速に乗車。神戸までお帰りになる小◎氏とは京都で別れ、小生は近鉄線に乗り換え、西大寺経由で帰宅いたしました。
<追記・注>
縦長写真など9枚が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。
過去記事の写真が歪んでいたりすること
2020.10.12.
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