4月28日の偐山頭火氏との銀輪散歩の主目的であった、太安万侶の分骨が埋納される松の下古墳(参り塚)を見つけることは出来なかった。しかし、翌日に偐山頭火氏が車で再訪し、それを見つけて下さいました。その写真を送信して下さいましたので、追録としてご紹介申し上げます。
既に同氏のブログで紹介されているのであるが、あちらはヤフーブログ、こちら楽天ブログ、と屁理屈つけて、重複を憚らず、記事アップであります。
その場所は多神社の裏地ではなく、神社から南東900mの処にありました。多神社が所有する田圃の中にある小円丘の塚で、「松の下古墳」とも「参り塚」とも呼ばれ、古来、太安万侶の墓と伝承されて来たものだそうな。
1979年に高円山の裏手、奈良市の田原の里で発見された円墳が、出土墓誌から太安万侶の墓とされ、それが定説となったようにて、墓はそちらに譲らざるを得ないこととなった。しかし、元々この辺りは安万侶の一族、多氏の根拠地であり、この松の下古墳周辺に太安万侶の邸宅があったとの伝承もあることから、この塚も多氏や安万侶に所縁のものであることは間違いなく、古事記撰上1300年の今年を記念し、多神社が遺骨を保管している寺院に分骨を申し出て、この度それが実現することとなったもの。この塚への納骨儀式は安万侶の命日の7月6日にこれを行い、周囲に石垣を廻らし、記念碑を建てる計画であるらしい。
あちらの墓があるのも「田原の里」、こちらの塚も「田原本市」にある。同じ田原である処が、偶然なのか、何か関係があるのか、ちょっと面白い。まあ、田原という地名はあちこちにありますから、それだけのこと、というのが落ち着き先のようですな。
いづれにしろ、安万侶の骨はそのふるさとの地に帰って来るという訳であります。
安らけく 眠れとてかや ふるさとの 多にし帰す 安万侶の骨 (偐骨持)
安万侶曰く、
「静かに眠るというのも、なかなかに骨が折れることである。」
(寺川<左>と米川<右>との合流点)
先般の銀輪散歩では、上の写真の寺川沿いへと走ったのであるが、松の下古墳は、写真に写っている白い二階家の手前の道の右側の田園の中にありました。
(松の下古墳)
上の写真では分り難いかも知れませんが、正面の民家の前の田の中に見える小さな円丘がそれです。下の拡大写真でご覧下さい。
(注)写真は全て偐山頭火氏の撮影によるもので、同氏のご了解の下、掲載いたして居
ります。但し、3枚目の写真は小生にてトリミングしたものです。
<参考>偐山頭火氏のブログ記事「 太安万侶分骨墓探索
」
田原本から桜井・忍坂へ銀輪散歩 (1)
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