本日は午後から南方向へ銀輪散歩。
途中、喫茶ナナで珈琲タイム。次回、第6回ナナ万葉の会は9月24日午後2時からと決まりました。店の女主人の小〇さんや客のご婦人お二人と暫し雑談の後、また自転車を走らせる。
大和川を渡り、その支流の石川の河川敷自転車道に入る。大和川に架かる人道橋の上から二上山方面を写真に撮る。このアングルは何度も撮っているが、小生の好きな眺めである。
石川自転車道も南方向への銀輪散歩の場合の定番・お馴染み
コースである。西名阪自動車道の下を潜って竹内街道が通る「臥龍橋」西詰で石川とお別れし、安閑天皇陵へと向かう。これまで何度か安閑天皇陵の前を走っているが、ブログに掲載したことがなかったことを思い出したからである。
安閑天皇。何やらブロ友の「ふろう閑人」さんに似た名前の天皇である(笑)が、閑人であった訳ではなさそう。継体天皇の息子で、継体から譲位されて皇位についた第27代天皇である。越前から大和に入って天皇位についた継体天皇には皇后の手白香皇女(仁賢天皇の皇女)との間に生まれた欽明(第29代)、妃の目子媛(尾張連草香の娘)との間に生まれた安閑(第27代)、宣化(第28代)など何人かの男子が居たが、継体は長男の安閑に譲位したことになっている。
日本書紀では、安閑=宣化=欽明と皇位がつながったことになっているが、これに対して、目子媛を母とする安閑・宣化系と手白香皇女を母とする欽明系とが対立し、両王朝が並立していたとする説もある。ならば安閑天皇も「安閑」とはしていられなかった訳で、「閑人」ではなかったのは間違いないだろう。ふろう閑人氏とは異なる所以である(笑)。
宮内庁の表示では、継体の娘・神前皇女の墓も合葬されているようです。神前皇女の母は広媛(又は黒比売)であるから、安閑とは母が異なる。同じ場所にこの二人の墓があるというのもよくは分からない。まあ、古代の天皇陵はいい加減なものであるから、この古墳が安閑天皇の御陵であるという保証はない。父親の継体天皇陵にしてからが、宮内庁が継体陵としている茨木市の茶臼山古墳ではなく、高槻の今城塚古墳の方であるということは今や考古学上の常識であるのだから。ならば、この二人の関係を詮索しても意味がないということでしょう。
<参考> 継体天皇
、 安閑天皇
、 宣化天皇
、 欽明天皇
安閑天皇陵の向かいに道を挟んで4階建てのアパートがある。4階の廊下まで上がらせて戴いて(と言っても無断であるが、共用廊下までだから家宅侵入にもなるまい)、高い位置から撮影。
この御陵の上に、応永年間に、管領となった畠山基国が城を築かせる。高屋城である。織田信長による大坂の石山本願寺攻めの際、天正3年(1575年)10万の大軍を率いてこの城を攻略している。安閑天皇は織田信長に対しても、此処に城の本丸を築いた
畠山基国やその後の三好氏ほかの城主たちに対しても「何をするんじゃ」と苦々しく思って居られたことでしょうな。死して後も「安閑」とは参らなかった安閑天皇でありました。
<参考> 高屋城
安閑天皇陵から竹内街道に引き返し、西琳寺と西念寺に立ち寄ることに。
各寺の由来などは下掲写真の説明板にてご覧下さい。
西念寺は西琳寺から竹内街道を少し西に行った処にある。
この寺に関して興味を覚えたのは、この寺の庭池の場所が、聖武天皇の時代に、古市郡の人、賀茂子虫が「天平貴平・知百年」という文字を刻んだ甲羅の亀を見つけた場所だと言い伝えられているということである。これが瑞祥とされ、年号が神亀から天平に改元されたというのである。
しかし、その庭池なるものが何処にあるのか、境内を見た限りでは何処にもそれらしきものは存在しない。本堂の裏にあるのだろうか。裏に回るには寺の建物の中を通させて戴く必要がある、建物配置。人影もなく、声を掛けて屋内の人にお聞きするほどのことでもないので、そのまま失礼申し上げました。
本日はここまでとします。
ところで、昨夜の中秋の名月。一応写真に撮りましたので掲載して置きます。余りうまく撮れていませんが。
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