本日はトレンクル君をお伴に恭仁京へ。
恭仁京というのは、聖武天皇の時代、740年12月から744年2月の難波遷都までの3年余の間、都が置かれた場所である。JR加茂駅の西方一帯、木津川を挟んだ地域に造営され、途中で放棄された都である。平城京からの遷都の理由は定かではないが、740年9月に起こった藤原広嗣の乱が契機となったことは間違いないだろう。大宰府で起こったこの乱に呼応する動きも都にあったことなどから聖武天皇は天武天皇の故事に倣って東国への脱出を図ったとする見解もあるようだ。
この時期、政権の中枢にあったのは橘諸兄。この地域は諸兄の本拠地、勢力圏であったから、この遷都を主導したのは諸兄と考えられる。諸兄を支持する反藤原・皇親派はこの遷都を歓迎したのでもあろう。若き大伴家持も新都・恭仁京を讃える歌を作っている。
(加茂浜跡・背後の丘は流岡山、橋は恭仁大橋)
加茂駅から船屋通りを北進すると木津川の堤防に突き当たる。堤防上の道に上がると、木津川の岸辺にちょっとした空地・草地がある。其処が加茂浜の跡だという。この地は奈良と京都・近江、奈良と伊賀を結ぶ交通の要衝でもあり、木津川の水運と相俟って江戸時代には船屋の町は大いに栄えたという。その水運の拠点の一つがこの加茂浜であったそうな。今は何もない草地であり当時を推測させるものは何も残っていない。
恭仁大橋の南詰に中納言藤原兼輔の歌碑がある。
みかの原 わきてながるる いづみ川
いつみきとてか こひしかるらむ
(中納言兼輔 小倉百人一首27 新古今集996)
この歌は古今六帖・三の「川」にある29首の歌の1首であるが、最初の1首のみが兼輔の歌にて、他は作者不詳の歌であり、契沖も「改観抄」に於いて「されば此歌もよみ人しらずなるを、新古今に誤りて兼輔の歌とて入れられたるを」と述べて居り、兼輔集にも此の歌は見えないことから、兼輔の作ではないというのが定説である。
歌碑には誰の作とも記していないから、正解ですな。
加茂の方から恭仁大橋を北へと渡ろうとすると目の前に見えて来る小山が流岡山である。万葉に出て来る「活道岡 (いくぢのをか)
」はこの小山であるとする説がある。
活道岡には安積皇子の宮があり、天平16年(744年)1月11日に市原王と大伴家持はこの岡で宴をし、歌を作っている。
一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の
声の清きは 年深みかも (市原王 万葉集巻6-1042)
たまきはる 命は知らず 松が枝を
結ぶこころは 長くとぞ思ふ (大伴家持 同巻6-1043)
しかし、翌閏1月安積皇子は急死してしまう。藤原仲麻呂に毒殺されたという説などもある不自然な死であった。
大伴家持は安積皇子の内舎人であったという説もあるが、彼は聖武天皇の後継としてこの皇子に期待していたのであったと思われる。皇子の死を傷んだ家持の歌がこれ。
愛しきかも 皇子の命の あり通ひ
見しし活道の 道は荒れにけり
(大伴家持 万葉集巻3-479)
流岡山の東方にある湾漂山が活道岡だとする説もある。
恭仁大橋から西方を望むと正面に鹿背山が見える。
橋を渡った北詰にあるのが大伴家持の歌碑。恭仁京を讃える歌である。
今つくる 久邇の都は 山川の
さやけき見れば うべ知らすらし
(大伴家持 万葉集巻6-1037)
家持歌碑から西へと行く。正面に狛山が見える。狛山と鹿背山とは木津川を挟んで向かい合っている。写真の細道を行くと突き当りが河原区公民館である。そこで右折、北へと進む。国道163号に架かる横断歩道橋を渡る。
(横断歩道橋から西を見る。鹿背山<左>と狛山<右>)
国道163号を渡り北へ直進。突き当りが恭仁小学校である。小学校の裏側が恭仁京大極殿跡である。
大極殿の北側(上の写真では奥)が内裏である。
コスモスが一面に咲き誇っている。
大極殿は恭仁京が廃された後、748年には山城国分寺に施入され、その本堂となる。従って、恭仁宮跡は山城国分寺跡でもある。大極殿跡の東側に開けた芝生の広場に塔の礎石が残っている。東大寺のそれと同じに七重塔であったという。
ヤカモチのトレンクル君とザックが置き忘れになっています(笑)。
(山城国分寺跡)
恭仁京の歌や鹿背山、狛山の万葉歌は明日の続編に記すこととします。どうやら字数制限にかかりそうです。( つづく )
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