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日、市民集会に参加するついでに、阪急宝塚線・曽根駅近くの東光院を訪ねてみました。
<参考> 仏日山吉祥林東光院・萩の寺
東光院
・Wikipedia
東光院、この寺を訪ねるのは初めて。
「萩の寺」という名前と子規の句碑があるというので、行ってみようという気になったもの。
寺の南側低地に「萩の寺公園」という小さな公園がある。
寺の参道が、「延命橋」という橋で、その公園の中央を跨いでいる。
この延命橋という名の由来となった地蔵堂が寺の門前にある。
(北向き延命地蔵)
(同上・説明碑)
※写真をクリックするとフォト蔵の大きいサイズの写真が別窓で開きます。
読みづらい場合はそれでお読みください。
北向き地蔵の裏側には「無事蛙」という石造の蛙さんが居たようだが、気づかぬままでした。しかし、無事に帰れましたから、気づかなくても差支えはないようであります(笑)
。
その蛙と向き合う位置にあるのが「延命の御詠歌碑」。多分、こちらの歌碑に気をとられて、背後の蛙には気がつかなかったということであったのだろう。
(延命の御詠歌碑)
さかえ由く かぎりを志らず 延命の みのりの露に 生ひし樟
大正4年(1915年)6月建立の歌碑。
背後の建物は延命庵。
既にして、1303歳のヤカモチ。
延命は吾事に非ず、であります。
(東光院・ 山門<薬醫門>
)
(同上・説明碑)
門前で拝観料をセルフで投入、参内。
(山門をくぐり・・)
山門を入ると、右手には萩がびっしりの「萩露園」、左手に先ず目に入るのが魯山人観音。
(山門から境内奥へ)
(魯山人観音)
魯山人は、顧問兼料理長を務める高級料亭「星岡茶寮」が昭和10年阪急曽根駅前に大阪店を新設するに際して、自ら製作した「白衣観音像」を、店に隣接する当寺に奉納し、茶寮繁栄を祈願したという。
この魯山人観音は、魯山人奉納の「白衣観音像」を等身大に模刻した石造仏である。
(同上 右は北大路魯山人作の「白衣観音像」)
(同上・説明碑)
魯山人観音の奥にあるのが、三十三観音堂「お砂ふみ霊場」と東照閣仏舎利殿(別称、あごなし地蔵堂)。
(東光院・ 三十三観音堂・お砂踏み霊場
)
この寺は、天平7年(735年)行基開創による寺で、現在は曹洞宗別格地寺院。
もと摂津国西成郡豊崎村下三番、現在の大阪市北区中津にあったが、大正3年(1914年)、阪急電車の敷設に伴い現在地に移転した。
詳しくは、下掲の「東光院・由緒と歴史」をご参照ください。
<参考> 東光院・由緒と歴史
(同上・由緒)
三十三観音堂の隣が、東照閣仏舎利殿、別称・あごなし地蔵堂。
(同上・ 東照閣仏舎利殿・あごなし地蔵堂
)
あごなし地蔵堂の前にはお百度石。
(お百度石)
お百度石から少し奥に行くと、大阪みどりの百選、豊中百景、豊中五勝の一つにあげられている、萩の庭園・萩露園の入り口があるが、萩の花は既に散ってしまった後で、庭園は閉鎖されて養生中、立ち入り禁止となっていました。
その入り口前にあったのが、新西国第十二番霊場御詠歌碑。
( 新西国第十二番霊場御詠歌碑
)
萩の寺 東光院まいり来て 袖ぬらしけ里 はきのてら 波なのにあるも 露の恵に
577577の旋頭歌体の歌になっているのか。
突き当りの建物は納経所。
(同上・納経所)
扁額の文字は「跳龍閣」。
曹洞宗総持寺の布教月刊誌のタイトルが「跳龍」であるが、当院は総持寺派ではなく、本山は永平寺のようだから、この跳龍とは関係ないのでしょう。
その左隣の建物が、道了大権現堂で、その前にあるのが金光明最勝王経の写経塔。
( 金光明最勝王経の写経塔
)
( 道了大権現堂
)<参考> 妙覚道了
・Wikipedia
道了とは、室町時代前期の曹洞宗、修験道の僧らしいが、初めて耳にする名前にて、何の知識も持ち合わせない。
( 道了大権現石仏像
)
遠目には、不動明王像にも見えたが、道了さんだとのこと。
(道了大権現の由緒と五大誓願)
本堂方向に向かうと左手に正岡子規の句碑があった。
この寺訪問の動機となった句碑であるが、句碑は別途記事にまとめて掲載することとし、ここでは割愛します。
本堂への小径を南に向かうと、正面に見えるのが吉祥林永代塔の釈迦如来白仏像。この塔の左が吉祥林墓苑の入り口となっているから、お墓参りの人は、この石仏に手を合わせてから墓参をするのだろう。
( 吉祥林永代塔・釈迦如来白仏像
)
この釈迦如来白仏像は、2000年春にスリランカ仏教徒会議から当院に贈呈されたもとのこと。
本堂は、吉祥林・圓通殿。
( 本堂 吉祥林・圓通殿
)
本堂前には七福神像。
( 宝船七福神像
)
西国七福神霊場というのは、大正3年(1914年)に阪急電鉄が沿線の七福神巡りを発案したことによるものらしいが、東光院は毘沙門天を祀っていることから、その第一番霊場になったとのこと。
まあ、これは阪急沿線での話であるから、近鉄沿線のヤカモチには関係のない話であります。
(萩の寺毘沙門天王略縁起)
本堂の西側の、「萩露園」へと続く空間は「滴露園」と呼ぶらしい。
萩露園という名は、魯山人の命名とのことだが、この滴露園はどなたの命名なんだろうか。
(滴露園から本堂を望む)
萩露園には入れないので、滴露園から覗いてみただけ。
(萩露園)
花が咲き残っている木は見えず、盛りの時期の景観は想像するしかないが、小径は萩の花のトンネルのようになるのだろう。
(同上)
萩まつり・道了祭は9月19日~24日に行われたようですから、その頃が見頃であったのでしょう。
子規の命日は9月19日であるが、萩まつりは、この命日に合わせて催されるのだろうか。
時間には余裕があり過ぎるほどあったが、狭い境内なので、長居には適さない。
山門脇にわずかばかり咲き残っている萩の花に「では、ごめん」と挨拶して、東光院を出る。
(咲き残る萩の花越し・・)
萩の寺 名残りの花を あとにして はてさて我は いづこ行かむや (偐家持)
このあと、市民集会までの時間を潰すべく豊島公園や周辺を徘徊するヤカモチでありますが、ブログ記事的には、掲載を先送りにした境内の句碑などを続編で紹介しますので、もうしばらくは東光院にとどまることとなります。( つづく
)
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