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鹿児島県南さつま市加世田「津貫」で本坊酒造が本土最南端のマルス・ウィスキー蒸溜所を2016年11月10日にオープンしたとのことで、ぜひ見学に行きたいと思っていました。 なお、マルスウイスキーの生みの親の岩井喜一郎(当時摂津酒造常務)がマッサンこと竹鶴政孝をスコットランドに派遣し、彼から提供された「ウイスキー実習報告書」(竹鶴レポート)をもとにして1960年山梨でウイスキー造りを始めています。 2018年3月中旬、大阪に勤務している次男の望が鹿児島に帰省してきましたので、彼にお願いして車で津貫のマルス・ウィスキー蒸溜所見学に出掛けることにしました。 その日は小雨が一日中降っていましたが、津貫蒸溜所内にはウィスキーの香りがあたり一面に立ち籠めていました。天高くそびえる旧蒸留塔内では本坊酒造の焼酎造りの歴史を知ることができ、石蔵ではウィスキーの原酒が眠る樽貯蔵庫を見学し、ウィスキー蒸溜棟では二階に上ってガラス越しに真新しい蒸溜釜で発酵モロミが泡立つ様などを見ることが出ました。 蒸溜所に隣接する本坊家旧邸「寶常」では、各種のマルスウィスキーを試飲でき、私は越百(コスモ)を試飲し、またそれを見学記念として一瓶購入しました。
2018年03月24日
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コンコンきつねさん、こんにちは、鳥井信治郎が進学した大阪商業学校についてのとても興味深い御指摘に感謝いたします。 まず初めに、私が「寿屋創立者の鳥井信治郎が進学した大阪商業学校とは」と題してブログに載せた拙論に対する誤解があるようですので、その誤解を解かせてもらいたいと思います。コンコンきつねさんは、やまももが鳥井信治郎の進学先の大阪商業学校が「結論的には大阪市立大学では」としていると考えられたようですね。 しかし、この長文の拙論の目的はネット内に拡散している鳥井信治郎の進学先を「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」とする説に疑問を呈し、結論として、「『大阪商業学校』をルーツとする学校(より前に遡ると「大阪商業講習所」になりますが)として大阪市立大学以外にもう一つ学校があるんですよ。その学校とは大阪市立天王寺商業高等学校のことです」というものでした。 ただ、コンコンきつねさんがパソコンで「近代デジタルライブラリー 大阪府誌 第四編」の299コマから230コマに載っている「私学 大阪商業高校」の説明から、同私学が「明治廿三年六月に至り生徒増加して校舎狭隘を告げしかば更に北区梅田出入橋畔に移転し」とあることを見つけられ、森杉久英『鳥居信治郎伝 美酒一代』中の「鳥井信治郎年譜」の鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地「北区梅田出入橋」と同じことから、「大阪商業学校」とは私学の「大阪商業学校」のことであり、現在の大商学園高等学校ではないかと指摘されていることには一理あるように思います。学校の所在地からそう判断されたのですね。 ただ、市立大阪商業学校も以前は西区江戸堀南通にあったのですが、信治郎少年が大阪商業学校に進学したという1890年(明治23年)から2年後の1892年(明治25年)に北区堂島浜通2丁目に移転しており、この新校舎の所在地も北区梅田出入橋畔付近にあったんですよ。ですから森杉久英が『鳥居信治郎伝 美酒一代』で大阪商業学校の当時の所在地の西区江戸堀南通と移転後の北区梅田出入橋とを混同して書いた可能性は大いにあり得ると思います。しかし、1909年(明治42年)の「北の大火」でこの堂島校舎は全焼し、1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転しています。 所在地だけでは、鳥井信治郎の進学した「大阪商業学校」(実際は同校附設の甲種商業学校だろうと推測しています)が公立なのか私立なのか判断に迷うところですが、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史の71頁に鳥井信治郎の学歴について「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ」としています。 また森杉久英の『鳥居信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫)では、信治郎は明治20年(1887年)に東区島町の北大江小学校に入学し、「翌年の四月には、彼は尋常科四年を飛び越えで、高等科に編入されたという」とありますから、学校の成績は優秀だったに違いありません。 当時の大阪では成績の良い子弟の進学先は一般に公立学校だったようです。親も余程の特殊事情がない限り新たに設立されたばかりの私立学校より10年前に設立された公立学校に行かせたかったでしょう。また、同校に進学した信治郎も初めから丁稚奉公するつもりではなかったようですが、父親の忠兵衛が彼の長男の喜蔵に家業の米屋を継がせた後、次男の信治郎を大阪商業学校から中退させて丁稚奉公に出しています。 前掲の森杉久英『鳥居信治郎伝 美酒一代』によると、明治初年の大阪では、子どもを将来立派な商人に仕立てるには、早くから丁稚に出して下積みの苦労や実地体験をさせることが賢いことだとされていたとしています。次男を進学先から中退させた大阪商人の鳥井忠兵衛のことですから、次男の最初の進学先としては新設の私立学校ではなく公立学校をまず選んだであろうと推測するのですが、これはあくまでも私の勝手な推測でしかありません。なんとか確証を得たいものだと思っています。
2015年07月11日
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私は朝ドラ「マッサン」の影響を直に受け、最近はいつもウィスキーの水割りを晩酌に楽しんでいます。なお、実在人物のマッサンこと竹鶴正孝は『ウイスキーと私』(NHK出版)で、ウイスキーを毎日飲むような人にはウイスキー1、水2の割合の水割りを勧めていましたので、私も小さなグラスにウイスキーを30mlほど入れ、氷の塊を落とした後、そこにミネラルウォーターをその2倍ほど注いで楽しんでいます。 そんな私ですが、ソーダ入りのウィスキーも初めは自己流に作って飲んだことがありますが、それは一度も美味しいと感じたことはありませんでした。ソーダ特有の苦味がウィスキー独自の味わいを打ち消しているように感じたのです。 それで試しにウィスキーをソーダで割った「ハイボール」なるものを料理店で注文してみることにしました。鹿児島市山下町の中華料理店「林光華園」のドリンクのメニューに「ハイボール」があり、「寿庵」荒田本店のテーブルに「桜島小みかん角ハイボール」の宣伝チラシが置いてあり、それぞれ注文してみました。 どちらのお店の「ハイボール」もソーダに柑橘類の味わい(林光華園はレモン、寿庵は桜島小みかん)がほどよくミックスされたなかなか爽やかな飲み心地でした。 これらの「ハイボール」の爽やかさはソーダの苦味を柑橘類が中和するところから来ていると思われますが、しかしウィスキーとソーダの比率が1対3もしくは4の感じで、柑橘類の香りが強いこともあり、ウイスキー独自の芳香と味わいを楽しめず、やはり私には水割りが一番かなという結論に達しました。 みなさんのなかにはウィスキー通の方もいらっしゃるかもしれませんが、ウィスキーのおいしい飲み方をご存知でしたら是非教えてくださいね。
2015年05月30日
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NHK朝の連続ドラマ「マッサン」では、鴨居商店の山崎ウイスキー工場から出荷された日本初の国産ウイスキー「鴨居ウヰスキー」は全く売れず、経営者の鴨居欣次郎(堤真一)は「従業員、食わせていくためや、メイドインジャパンのウイスキー、広めるためやったら、わては、何でもやったる!」として日本人の嗜好に合わせるようマッサン(玉山鉄二)に命じますが、マッサンは本格ウイスキー造りの夢を捨てられず、「そのためには、大将のもとを離れる事が、一番じゃ、思いました」と言って鴨居欣次郎に辞表を提出します。そしてウイスキー造りに最適と考える北海道の余市にまず資金造りのためリンゴ汁製造・販売する北海道果汁株式会社を設立することになります。 そんなウイスキー醸造創業期の困難に屈せず、経営者として日本人の嗜好に合わせてウイスキーを改良していこうとする鴨居商店の鴨居欣次郎とウイスキー醸造技師として本格的なウイスキー造りを目指すマッサンとの対立がドラマでは次第に深まっていくのですが、そんな経営者と技術者との対立過程も興味深く描かれていました。 この経営者としての鴨居欣次郎と技術者であり職人であるマッサンの対立はこのドラマの大きな見せ所となっていますが、実際の寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝との間にはどのような関係があったのでしょうか。実話を基にした小説やテレビを読んだり見たりして興味を持ちますと、私の悪い癖で実際はどうだったのだろうかと無性に知りたくなります。それで文献に基づいて、日本で最初の本格ウイスキー造りにかかわった寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝のことを調べてみることにしました。 寿屋の鳥井信次郎について書かれた文献としては、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史や森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』(新潮文庫、1983年)がありますが、まず主として両書に基づいて鳥井信次郎の略年譜を日本初の本格的ウイスキーサントリーウイスキー白札」販売までを簡単に紹介しておきたいと思います。 鳥井信次郎前半生の略年譜 1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。 1890年(明治23年)11歳で大阪商業学校(後の大阪市立天王寺商業高等学校)に入学。 1892年(明治25年)13歳で同上学校を中退し大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出る。 1899年 (明治32年) 大阪西区靭中通に鳥井商店開業、葡萄酒の製造販売を開始。 1906年 (明治39年) 店名を寿屋と改名。 1907年 (明治40年) 甘味果実酒「赤玉ポートワイン」を発売。 1924年 (大正13年) 4月に京都郊外の山崎にウイスキー工場起工、11月に竣工し本格的蒸留作業開始。 1929年 (昭和4年) 4月に「サントリーウイスキー白札」販売。 1937年 (昭和12年) 10月に山崎工場で12年間熟成された「サントリーウイスキー角」発売され大ヒット。 1962年 (昭和37年) 2月20日に急性肺炎で死去。享年83。 1981年 (昭和37年) サントリーオールドが年間出荷数1240万ケース、1億3000万本以上で単独銘柄としての世界最高を記録。 なお、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』の147頁~148頁には鳥井信治郎がウイスキー醸造を開始しようとして竹鶴正孝の名前を知る経緯がつぎのように書かれているだけです。「信次郎は、三井物産に頼んで、本場のイギリスからムーア博士を招く計画をたてていた。そのときイギリスでウイスキーづくりを勉強して帰って来た青年技師がいることを教えられた。それが竹鶴正孝である。/まだ二十代であった竹鶴を年俸四千円でむかえいれた。」 同上書にはウイスキー造りについての両者の対立など全く書かれていません。しかし森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』の121頁~123頁には、鳥井信次郎が大正13年(1924年)に竹鶴正孝に任せて起工した山崎のウイスキー工場から約4年半後の昭和4年(1929年)4月1日に寿屋から売り出した「サントリーウイスキー白札」が全く売れず、ウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)が「こげくさい」と敬遠されたことや、その後さらに原酒が数年樽に寝かされて熟成し、そこに多くの学者と技術陣の知識と研究が加わってサントリーならではのウイスキーの味が作られたことや、その過程で初代工場長の竹鶴正孝と対立し、竹鶴が辞任して北海道で大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立する経緯がつぎのように紹介されています。 「ところが、鳥井信治郎が勢いこんで売り出した『サントリー』の評判はよくなかった。『こげくそうて、飲めまへんわ』 これが、大方の意見であった。信治郎自身も後日、正直にそれを認めている。『初期の頃はこげくそうて、実際に飲めたもんやなかった。モルト(麦芽)の乾燥に、ピート(草炭)は多い方がええと思うて、燃やしすぎたんやな。それで大麦が、死んでしもたんや。あのこげくさい匂いも、ほんまのところ、ちょっとはなくちゃいかんのやが……。 なんぼ造っても売れんから、蔵へ入れ蔵へ入れして、ほっといたんや。そないしてストックしているうちに、だんだん味がようなってきた。禍い転じて、福となったわけや。』 この"こげくささ"は、本格的なウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)とよばれるもので、必要なものなのである。が、過ぎたるは及ばざるが如しで、どうも初期の頃はこれを重んずるあまり、ピートを焚きすぎたらしい。 実際のところ、信治郎のブレンドが真にその力を発揮しはじめたのは、山崎の原酒が次第に良くなってきてからのことである。良き原酒があってこそブレンドも生きてくる。しかしそのためには、京都帝大の片桐英郎博士らの意見を取り入れ、さらに台湾の専売局から、日本でアミロ法による醸醇を最初に成功させた、上田武敏や佐藤善吉らを社に招く必要があった。多くの学者と技術陣の知識と研究が加わって、はじめてサントリーは、サントリーとしての味を身につけたのである。 不幸なことに、初代工場長・竹鶴政孝は、これらの新しい技術陣と相容れず、またブレンドについても、鳥井信治郎と意見の一致しないところがあり、後日、信治郎が始めた横浜のビール工場に移り、そのあと寿屋を去って北海道へ渡り、大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立した。」 では、竹鶴政孝自身はその頃のことをどのように述べているのでしょうか。非売品として発行された竹鶴正孝著『ウイスキーと私』(ニッカウヰスキー、1972年2月)がNHK出版から2014年8月に改訂復刻されていますので、同書に基づいて紹介したいと思いますが、まず先に同書や植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)、オリーヴ・チェックランド著、和気洋子 翻訳『マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキー誕生』(NHK出版、2014年8月)、早瀬利之『リタの鐘がなる 竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(朝日文庫)、植松三十里『リタとマッサン』(集英社文庫)、「『マッサン』と呼ばれた男 竹鶴正孝物語」(産経新聞出版)等に基づいて竹鶴正孝の略年譜を作成し、下に簡単に紹介しておきます。 竹鶴正孝 略年譜 1894年 広島県竹原市に造り酒屋の三男として誕生。 1916年 旧制大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)醸造科卒、大阪の摂津酒造に入社。 1918年~1920年 イギリスに留学、スコットランドのウイスキー蒸留場で修行。 1920年 ジェシー・ロベールタ・カウン(愛称リタ)と結婚、同年日本に帰国。 1922年 不景気のため摂津酒造でのウイスキー造りを断念し同社を退社。 1923年 寿屋(現サントリー)にウイスキー醸造技師として入社。 1924年 寿屋のウイスキー山崎蒸留所完成、初代工場長に就任。 1929年 日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」発売。 1934年 寿屋を退社、独立して大日本果汁を設立、北海道余市にウイスキー蒸留所完成。 1940年 余市初の「ニッカウヰスキー」発売。 1956年 「丸びんニッカウヰスキー」(二級、通称丸びんニッキー)発売、大ヒット。 1961年 リタ64歳で死去。 1962年 「スーパーニッカ」(特級)発売。 1965年 髭のおじさんマークの「ブラックニッカ」(一級)発売、幅広い人気を得る。 1979年 85歳で死去。 竹鶴政孝は、1929年に日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」を発売した当時のことを『ウイスキーと私』でつぎのように述べています。 「無理からぬことであるが、当時の日本にはコンパウンダー(混合者)の知識はあっても、ブレンドや熟成の体験的な知識はなかった。古い原酒がないためブレンドするにもむずかしかったという理由はあるが、他方ではウイスキーを商品として早く出さねぼならない情勢もあった。 だからこのときは、まだ理想的ブレンドをしたウイスキーとまではいかなかったが、とにかく昭和四(一九二八)年四月一日、初めての本格ウイスキー『白札サンーリー』は世に出たのである。 発売価格は一本三円五十銭であった。ジョニー・ウオーカーの赤が五円の時代である。その後、普及品の『赤札サントリー』を出したが、いずれも売れ行きも評判もよくなかった。 また時代も早すぎたのである。 鳥井さんがウイスキーによせられた期待と情熱、その要望にこたえようとした私も一生懸命であったが、宴席といえぼ日本酒ばかりで、夏はともかく、冬ともなればビールも顔を見せない時代で、誕生したばかりのウイスキーなど相手にもされなかった。 売れないから当然原酒が残った。 だがこのとき残った原酒は十年前後の歳月がたって十分に熟成するとともに、りっぱな原酒に成長したのである。」 日本で最初の本格ウイスキー造りを開始した寿屋ですが、同社は同年にさらに「オラガ・ビール」を買収し、竹鶴正孝にビールの横浜工場長の兼務が命じられます。そのときのことを竹鶴正孝はつぎのように語っています。 「しかし工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。 私もそろそろ四十歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。 とはいえ、鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。 もともと契約は十年の約束であったし、私はつねづね自分でウイスキーづくりをしたいと思っていたので、その期限の来た昭和七年に退社したいと申し入れたが、保留されていたのだった。 とにかくあの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。 そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない。」 なお、植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)によりますと、鳥井信治郎がビール製造に手を出したのは、売れ行きの悪いウイスキーを擁護するためであり、67万円で買い取ったビール工場が300万以上で売却できると知るとすぐにビール工場を手放してしまいます。そして竹鶴正孝に「さあ、もう安心やで。これで金繰りのほうも一息ついたよって、あんたはんも山崎工場に戻って、また以前のようにバリバリ働いてや」と言ったそうです。しかしこのとき竹鶴正孝は自分が一介の技術者に過ぎないことを痛切に感じ、約束の10年間は働いたことでもあり独立しようと考え、1934年3月1日に寿屋を退社、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵と共同出資して同年7月に北海道の余市に大日本果汁を設立することになります。そのとき、加賀からは「わては株屋や。ウイスキーのほうはわかりまへん。わては金出すさかい、竹鶴はん、あんたは技術を出しなはれ」と運営の一切を任され、北海道余市にウイスキー蒸留所を完成することになったとのことです。
2015年05月09日
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朝の連続テレビドラマ「マッサン」に、初めてウイスキー醸造事業に本腰を入れることになった鴨居商店の鴨居欣次郎(堤真一)がマッサンを高額で醸造技師として招く話が出てきます。この鴨居商店の鴨居欣次郎は実在の人物である寿屋の創業者である鳥井信治郎をモデルにしています。 この鳥井信治郎の生誕と学歴について、ウイキペデアの2015年4月8日以前に書かれた「鳥井信治郎」に関する記事中にはつぎのように書かれていました。 「1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。 1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学 1892年(明治25年) 13歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出た。」 ウイキペデアに2015年4月8日以前に書かれていた記事によりますと、鳥井信治郎は1879年生まれで1890年に大阪商業学校(現・大阪市立大学)に入学しているとのことですから、11歳で現在の大学レベルの学校に飛び級入学したことになります。最近も大川翔という14歳の日本人少年がカナダでギフテッド(天才児)に認定され、カナダの複数の大学に合格したことが話題になりましたから、遥か遠く霧の彼方にあるような大昔の明治時代に11歳で現在の大学レベルの学校に飛び級なんてことも有り得るんじゃないのと特に疑問を抱かなかった人も多いかもしれませんね。 確かに大阪商業学校という名前が大阪市大の文系4学部(商・経・法・文)関連の同窓会「有恒会」の記念誌『有恒会七十年の歩み』(有恒会、1960年発行)139頁掲載の母校(大阪市立大学)八十年年譜に出ています。同年譜の明治年間の部分を要約するとつぎのようになります。 1880年(明治13年)母校(大阪市立大学)の前身たる大阪商業講習所が立売堀北通三丁目に開設。 1881年(明治14年)江戸堀南通三丁目一八旧府会議事堂二階に移転、大阪府に移管され府立大坂商業講習所として授業開始。 1885年(明治18年) 大坂商業講習所廃止、府立大阪商業学校設立。 1889年(明治22年) 大阪府より大阪市に移管、市立大阪商業学校と改称 1892年(明治25年) 堂島浜通二丁目に新校舎開校。 1901年(明治34年) 大阪市立大阪高等商業学校と改称、甲種商業を附設。 1909年(明治42年) 北の大火、校舎全焼、仮校舎を江戸堀南通三丁目に開設。 1911年(明治44年) 鳥ケ辻新校舎の新築落成祝典。 その後、1929年に大阪商科大学入学式挙行、1949年には新制大阪市立大学発足としています。 また『有恒会七十年の歩み』の5頁には、片岡清という明治32年(1899年)に市立大阪商業学校を卒業した人物が寄せた「六十年前の母校を回想して亡き面影を偲ぶ」という文章があり、同文章中に当時の大阪商業学校の「学級制度は、補習科一年、予科二年、本科二年を正科」としたと記すとともに、「尚簡易科として普通商業校程度の別科が、設けられてありましたが、これも数年にして廃止と記憶します」と書いています。 どうもこの「尚簡易科として普通商業校程度の別科」こそが鳥井信治郎が11歳のとき進学した大阪商業学校のことかもしれませんね。 さらに片岡清は、彼が進学した大阪商業学校の世間の評価や学制についてつぎのような興味深い事実を語っています。 「母校は、大阪市の経費にて賄われた市立でありますから、大阪市民の子弟を収容するを本旨と成し、且又設立者たち市先覚有力者の意向は、必ずしも高等商業教育を目的と成したるものに非ざる哉に推量せられ、従って市の高等小学修了者は受験の上補習科に入学の制度でありました。併し母校の評判は各地に散在する普通商業学枚に比し、断然頭角を顕わし、当時唯一の存在たる高等商業東京一橋の声価には及ぼざるも、是に次ぐものと認められ、従て他府県よりの入学希望者、逐次多きを加え来り、市在籍者子弟の数と相半ばするか、又は是を凌駕するに到りました。中学五年の課程を終えた官公立卒業生は受験の上、本科一年に入学許可の制度でしたが、私共の如き中学中途退学者にして、上級入学希望者は、先ず予科一年入学を受験、更に予科二年受験の順序を踏み、私は明治二十九年三月、予科二年に入学しました。」 片岡清の上掲の文章をまとめますと、当時の市立大阪商業学校本科に入学が許可されたのは、基本は官公立の旧制中学五年課程を終えた卒業生(通常は17歳)で同商業学校本科を受験し合格した者でしたが、中学中途退学者だった片岡清は明治28年(1895年)に先ず18歳で予科一年入学を受験して合格しており、更に予科二年受験の順序を踏んでから本科二年に進み、同校本科を明治32年(1899年)に22歳で修了したことになります。 なお、1884年(明治17年)に公布された「商業学校通則」によりますと入学資格は年齢十三歳以上だそうです。また橘木俊詔『三商大 東京・大阪・神戸』(岩波書店、2012年2月)には、明治28年(1895年)に大阪商業学校の校長に就任した成瀬隆蔵が「十四歳以上の生徒を入学させるようにし」たとのことです。しかし優秀な鳥井信治郎少年なら11歳で大阪商業学校に飛び級入学した可能性だってあるかもしれませんね。しかし大阪商業学校は英語力を重視しており、上掲の『有恒会七十年の歩み』7頁掲載に掲載された明治37年(1914年)卒の塩崎喜八郎「在学時代を偲んで」と題した文では、塩崎喜八郎が明治31年(1898年)14歳のときに大阪商業学校予科を受験し「英語の書取りに躓いた」ために不合格となり、1年浪人して明治32年(1899年)15歳で予科に合格したと書いています。 では鳥井信治郎少年は子どもの頃からその非凡な英語力で才能を発揮していたのでしょうか。彼が語学力の天才だったという話は聞いたことありませんし、邦光史郎『芳醇な酒 やってみなはれ』(集英社文庫、1991年9月)81頁には、鳥井信治郎が二十歳代で鳥井商店を開業し和製葡萄酒の調合や販売を手掛けた頃、「英語のエの字も知らない」ので欧米人の所に和製葡萄酒を直接持ち込むことには躊躇したと書いています。どうも11歳で大阪商業学校飛び級入学説にも無理がありそうです。 これらのことから推測しますと、明治23年(1890年)に鳥井信治郎が満11歳で進学した「大阪商業学校」とは、片岡清が前掲の文章中に記していた「普通商業校程度の別科としての簡易科」のことかもしれませんね。 実は「大阪商業学校」をルーツとする学校(より前に遡ると「大阪商業講習所」になりますが)として大阪市立大学以外にもう一つ学校があるんですよ。その学校とは大阪市立天王寺商業高等学校のことです。同校の同窓会が出版した『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の34頁には同校帽章についてつぎのようなことが書かれています。 「天商の帽章は、梅花の中央に『商』の字が配された」ものが明治25年(1892年)に採用され、「のち大阪高商昇格時『商』の字を『高商』と改め使用し、大阪甲種商業学校分離後は甲種校は『商』の字を復活使用」されたそうです。 また同校史に載っている前史を要約するとつぎのようにまとめられます。 1880年(明治13年)に大阪商業会議所会頭五代友厚が中心となって住友家・鴻池家・藤田家の代表も加わり大阪商業講習所が西区立売堀北通に開設。 1881年(明治14年)に経済的理由で大阪府に移管、「府立大阪商業講習所」として西区江戸堀南通に移転、授業再開。 1885年(明治18年)、前年に「商業学校通則」が公布され、「府立大阪商業学校」が開設、「大阪商業講習所」の一切を継承。 1888年(明治21年)本校規則を制定し、予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く。 1889年(明治22年)に大阪市発足とともに「市立大阪商業学校」と変更 1892年(明治25年)に学制改革を行い、北区堂島浜通2丁目に新校舎落成。 1901年(明治34年)に「市立大阪高等商業学校」が開設、「この大阪高商に附設された3年制の甲種商業科が後の甲種商業学校に継承されることとなる」。 1909年(明治42年)の「北の大火」で堂島校舎は全焼。 1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転。 1912年(明治45年)に甲種商業科を廃し、新たに「市立大阪甲種商業学校」を大阪高商内に開設。 1919年(大正8年)に「大阪市立第一商業学校」と改称。 1920年(大正10年)に「大阪市立天王寺商業学校」と改称。 1948年(昭和23年)に「大阪市立天王寺商業高等学校」として発足。 鳥井信治郎は1890年(明治23年)満11歳で進学していますから、1888年(明治21年)に「予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く」の「付属科」(後の甲種商業科)のことかもしれませんね。 では鳥井信治郎が進学したこの商業学校の当時の所在地はどこだったのでしょうか。山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)に山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史が載っており、その71頁に鳥井信治郎の学歴がつぎのように紹介されています。「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ。 (中略) 四年制の高等小学校にも二年しか在籍していない。北区梅田の大阪商業学校に進んだ。当時の学制は、まだアイマイなものであって、信治郎の成績がずば抜けていたためにこうなつたものかどうかという証拠はない。ただ、後年の信治郎から推察して、才気換発の腕白小僧ではあったろうと思われる。 大阪商業学校は、年代から考えて、私塾から発展したものだろう。この学校に二年在学はしている。 明治二十五年、十三歳で、道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公する。『丁稚一名を求む』という小西儀助商店の新聞広告が残っているから、欠員があり、その一名が信治郎であったに違いない。」 また森杉久英『鳥井信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫、1983年)の13頁~15頁に付けられている「鳥井信治郎年譜」では、誕生年月日を「明治12年1月30日」とし、大阪商業学校入学年を「明治23年4月」とし、鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地を「北区梅田出入橋」と記しています。 しかし前掲の『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の天王寺商業高等学校前史(明治年間)によれば、大阪商業学校は1892年(明治25年)以前は西区江戸堀南通にあり、同年に北区堂島浜通2丁目の新校舎に移転しています。鳥井信治郎が同校に入学したのは明治23年(1890年)ですから、当時同校は西区江戸堀南通にあったようです。 大阪市立大学の同窓会有恒会の記念誌や天王寺商業高等学校の同窓会の記念誌に基づけば、鳥井信治郎が入学したのは大阪商業講習所をルーツとする市立大阪商業学校の付属科と思われます。ですから2015年4月8日以前に書かれたウイキペデアの「鳥井信治郎」に関する記事中の「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」の( )内の「現・大阪市立大学」は削除するか訂正する必要があるようです。それで、私が2015年4月8日にそのことに関連する事項を幾つか追加して訂正することにしました。 しかし、ウイキペデアの2015年4月8日以前の「鳥井信治郎」に関する誤った記述「1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」がネット内にすでに拡散しており、「鳥井信治郎」に関連する様々なサイトで「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」とされています。さらに2014年11月に日本経済新聞出版社から発行された永井隆著『サントリー対キリン』にも鳥井信治郎の学歴として「大阪商業学校(現在の大阪市立大学)」としていました。単純多数決なら「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」が正しいとされてしまいそうですね。 ものごとを調べるのにやはり確かな文献に基づく実証的検討が必要ですね。
2015年04月05日
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昨年9月に開始されたNHK朝の連続ドラマ「マッサン」は今年2015年の3月28日に終了しましたね。私は、これまでNHK朝の連続ドラマを視聴することがほとんどなかったのですが、このドラマの主人公がウイスキーづくりに情熱を燃やす竹鶴政孝とその妻リタの実話をもとに創作されることになったと知ってとても興味が湧き、ほぼ全話を毎朝楽しむことになりました。また、竹鶴正孝『ウイスキーと私』(NHK出版)、オリーヴ・チェックランド著、和気洋子 翻訳『マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキー誕生』(NHK出版)、早瀬利之『リタの鐘がなる 竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(朝日文庫)、植松三十里 『ヒゲのウヰスキー誕生す』 (新潮文庫)、植松三十里『リタとマッサン』(集英社文庫)、「『マッサン』と呼ばれた男 竹鶴正孝物語」(産経新聞出版)等も購読したものです。 テレビドラマでは、マッサンこと旧制の大阪高等工業の醸造科で学んでいた亀山正春(玉山鉄二)が住吉酒造に就職後、社長の田中大作(西川きよし)の命令でスコットランドに留学し、ウイスキー醸造を学ぶとともに同地でエリー(シャーロット・ケイト・フォックス)と恋におちいって結婚します。ドラマは、妻のエリーを連れて日本に戻ったマッサンが第一次大戦後の不景気のために住吉酒造ではウイスキー作りが出来ないために退職しますが、妻のエリーに励まされてウイスキー造りの夢を捨てず、日本で初めてのウイスキー醸造事業に本腰を入れることになった鴨居商店の鴨居欣次郎(堤真一)に高額で醸造技師として招かれることになります。 マッサンの妻エリー役を演じる女性は、約500人が参加したオーディション から選ばれた米国出身の女優シャーロット・ケイト・フォックスですが、エリー 同様に慣れない異国で懸命に努力する姿がとてもチヤーミングで、このジャパニーズ・ウイスキー造りのドラマの大きな魅力となっています。 ドラマを視聴して、これまで日本ではほとんど知られていなかったウイスキー醸造業の大変さがよく分かりました。ウイスキーは醸造後に熟成するのに最低5年はかかるため多額の資金が必要ですし、値段は他の酒類に比較して高額ですし、味はウイスキー独特のピート臭が煙っぽいと日本人になかなか受け入れられなかったようです。 そんなウイスキー醸造創業期の困難に屈せず、経営者として日本人の嗜好に合わせてウイスキーを改良していこうとする鴨居商店の鴨居欣次郎とウイスキー醸造技師として本格的なウイスキー造りを目指すマッサンとの対立が次第に深まっていくのですが、そんな経営者と技術者との対立過程も興味深く描かれていました。 マッサンは自分の納得できるウイスキー造りを目指して鴨居商店を退社し、北海道の余市に工場を設立します。しかし、マッサンの工場から出荷されたウイスキーはなかなか売れないようで、戦前は日本海軍、戦後は駐留軍に買い上げてもらってなんとかウイスキー醸造事業が続けることが出来たようです。こんなジャパニーズ・ウイスキーの誕生の物語にエリーというスコットランド生まれの外国人妻が、慣れない日本での生活にもめげず夫を励まして「人生はチャレンジ&アドベンチャー」をモットーにして明るく前向きに生きる姿が加わって強く心を打たれました。 私は、独身時代、寝酒にウイスキーを少量生で飲むことがあったのですが、結婚後は夏の暑い季節に夕食時にビールをグラスに一杯程度飲むようになり、腎不全で健康を害してからはほとんど酒を断っていました。それがテレビドラマ「マッサン」を見るようになってからまたウイスキーを楽しむようになりました。竹鶴正孝『ウイスキーと私』(NHK出版)によると、実在人物のマッサンはウイスキーを毎日飲むような人はウイスキー1、水2の割合の水割りを勧めていましたので、私も小さなグラスにウイスキーを30mlほど入れ、そこに氷を一個落として水をその2倍ほど注いで楽しんでいます。マッサン(竹鶴正孝)略年譜1894年 広島県竹原市に造り酒屋の三男として誕生。1916年 旧制大阪高工(現大阪大学工学部)醸造科卒、大阪の摂津酒造に入社。1918年~1920年 イギリスに留学、スコットランドのウイスキー蒸留場で修行。1920年 ジェシー・ロベールタ・カウン(愛称リタ)と結婚、同年日本に帰国。1922年 不景気のため摂津酒造でのウイスキー造りを断念し同社を退社。1923年 寿屋(現サントリー)にウイスキー醸造技師として入社。1924年 寿屋のウイスキー山崎蒸留所完成、初代工場長に就任。1929年 日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」発売。1934年 寿屋を退社、独立して大日本果汁を設立、北海道余市にウイスキー蒸留所完成。1940年 余市初の「ニッカウヰスキー」発売。1956年 「丸びんニッカウヰスキー」(二級、通称丸びんニッキー)発売、大ヒット。1961年 リタ64歳で死去。1962年 「スーパーニッカ」(特級)発売。1979年 85歳で死去。
2015年03月31日
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