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青東風(あおこち)や千日前に文楽座 新緑にピンカートンも操られ また今年のお正月にFB友だちの越智律子さんから下記のような文楽関連の俳句をいただいたことがあります。 息が合い阿古屋初春凛と立ち 文楽といえば、内川雅人くんがまだ9歳(小学3年生)の小学生だった頃 、母親が勤務する学校の先生たちの観劇会に一緒に参加して文楽の「蝶々夫人」を観たことがあります。 この文楽の演目はプッチーニのオペラ「蝶々夫人」を文楽化したもので、かしらが西洋人の顔をした赤毛のピンカートン人形が出て来るというものでした。そのことが当時の文楽が伝統に甘えて沈滞化していた状況を打ち破ろうとする大胆な試みとして大変話題になりました。雅人くんも新聞の演劇欄で映画批評等をよく読んでいたこともあり、その前評判をよく知っておりました(チョット変な子ども)。 雅人くんはこの文楽の観劇後にどのような印象を残したのでしょうか。西洋人の顔をした赤毛のピンカートンが出てくるのをずっと期待して待っていたこともあり、いまもその文楽人形が登場した舞台の様子が鮮明に記憶されています。しかし本来は西洋オペラの演目を、文楽人形が義太夫の節に合わせて操られ演じるという文楽化が成功していたかどうかについては当時の雅人くんには判断し難いものがありました。 ところで、観劇会に参加した先生たちが後で雅人くんの母親に「お宅のお子さんはずっとおとなしく観ていましたね」と感心されてましたが、雅人くんの唯一の取り柄(弱点でもありますね)はとにかく非常におとなしいことでした。
2019年05月11日
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奈良の春日奥山をさまよった思い出 母と子が見上げる先に鯉のぼり 木下闇親子さまよう春日山 内川雅人くんの母親が鹿児島で亡くなったのは2001年1月中旬の雪の降る日でした。いろんな意味で彼が敬愛する彼の母親の死に病室で直面して非常に悲しかったのですが、なぜか涙は流しませんでした。 彼が亡き母のことを想って涙を流したのはそれから約4ヶ月後の5月のことでした。昼からの講義のために勤務先に向かうためバスから降りて歩いている途中、母親と小学生の男の子が青空を見上げている後ろ姿に遭遇しました。見上げる先には鯉のぼりが五月の風を受けて気持よく泳いでいました。そのときに雅人くんの目に涙が突然溢れ出し、肩を震わせて号泣し始めました。そのことには雅人くん自身がビックリしました。 そして、母親と過した幼少年時代のことがいろいろ思いだされて来ました。その一つが同じ五月くらいの初夏の奈良の春日奥山の原始林のなかをさまよった思い出です。雅人くんの両親はいつも夫婦喧嘩をしていました。夫婦喧嘩の主たる理由は、父親の金遣いの荒さと浮気でした。特に浮気は日常茶飯、子どもの雅人くんが知るようになった深刻な浮気の数も片手では足りないくらいありました。彼の父親の浮気は「モービョウキ」としか言いようがありませんでした。 普段見る雅人くんの母親の姿は観音菩薩様のように穏やかでしたが、ひとたび浮気のことで夫婦喧嘩が始まると般若の如く怒り狂い、口から火を噴いて激しい言葉で彼の父親をののしったものでした。そのとき雅人くんは甲羅に首をすくめる亀のようにして嵐が過ぎ去るのをじっと待っていたものでした。 夫の繰り返される浮気に苦しんでいた雅人くんの母親は、五月のある日、彼を連れて一緒に春日山のハイキングコースを歩き始めましたが、急に馬酔木(あせび)、梛(なぎ)、榊(さかき)、姫榊(ひさかき)等が鬱蒼と生い茂る林のなかに入り込んで行きました。 しばらく木の下闇のなかをさまよい続けていましたが、母親が雅人さんくんの手を強く握り締め「一緒に死んでもいい」といい出しました。雅人くんの心はウサギのようにおびえだしましたが、母親を見あげてコックリと頷きました。 その後しばらく薄暗い林の中を藪を掻き分け掻き分けさまよい続けていたのですが、いつの間にかまた明るい陽射しを浴びた杉の木が整然と立ち並ぶハイキングコースに戻って来ました。 雅人くんにとって、この日の春日奥山を母親と一緒にさまよったときのことは強烈な思い出として彼の心のなかにいつまでも記憶され続けました。しかし彼の母親は、彼が子どもの頃のことを回想したとき、つぎのように言ったものです。 「お前の子どもの頃は給料も安くて生活は大変だったけれど、でも、お前に辛い思いをさせるようなことはなかったと思うよ」 雅人くんはそのときコックリと頷きましたが、心の中で「アンサン、それ本気で言ったはりまんのかいな。よう言わはる。そりゃセッショウでっせ」と叫んだものでした。
2019年05月03日
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附高への内部進学と昼休みのぼっち状態n 春の昼独りぼっちの悲哀知る 昼下がり生徒が独り藤棚の下 私は内川雅人くんを主人公とした短篇小説を書いていて、つい最近まで彼の附属生活時代を小学校時代と中高時代とに大きく分けて考え語って来ました。しかし、筆を進めていて、いやキーボードを打ち進めていると、中高時代が彼にとって全く同質のものではないことに気が付きました。 附属中学校のときは昼休み時間に語らい遊ぶ友だちが数人いました。浅野くん、吉良くん、大石くん、堀部くんなど三角ベースでゴムボールを打ったりして遊んだ仲間がいつも数人いたものでした。 しかし雅人くんが附属中に在学していた頃、同附属中から同附属高へ内部進学する中3の時点で約40名が外部進学生と入れ替わるための試験がありまし。このことの弊害について当時の同校附属学校長の杉峰英憲は以下のように指摘していました。 「中學校3年生の時點で學級集団のまとまりや人間性豊かな仲間づくりは、競争の寄る辺なき敗者への不安によって非常に困難なものとなったのである。 」(同附属中等学校研究紀要第41集) 浅野くん、吉良くんたちは附属高校への内部進学が不合格となり、大石くん、堀部くんとは別々のクラスに分かれ、内川雅人くんは昼休み時間を教室で独りぼっちで淋しく食事する悲哀を初めて味わうことになりました。 ネットで「昼休み 時間 ひとりぼっち」で検索を掛けると、昼休み時間に於ける「ぼっち」状態での苦痛が予想以上に書き込まれ、「今日初めて教室で一人でパンの袋を開けたとき屈辱、絶望、悲哀等々様々な感情が溢れ出ました」と言ったことが書いてありました。 雅人くんも昼休み時間に教室で独りぼっちで食事することが耐え難くなり、いつの間にか昼休み時間に学校を抜け出し、食事も摂らずに学校の周辺を歩き廻るようになりました。学校の近くの藤棚の下で所在無く時間を過ごすこともありました。 学校の近くの民家の人のなかには、昼下がりになると家の周辺を浮浪する怪しげな高校生の姿に不審を覚えた人もいたことでしょう。 そんな雅人くんは二年生になると、学校をお昼からそのままエスケープし、昼食代としてもらったお金を貯めて大阪まで行き、映画を観たり古書店で美術書を購入するようになりました。雅人くんの不登校時代が本格的に始まり掛けたのですが、雅人くんはすぐにそんな不登校状態に不安と焦りを感じる様になりました。 おっとここは進入禁止。進路もずっと決まらないままでいたのですが、そのことが彼にとって一番の問題だと気付き、現在の学力から判断して一年浪人する覚悟で進学先も決めました。そして三年生からは真面目に附属高校に通学するようになりましたとさ、めでたしめでたし。 川柳 ぼっちから不登校へはキープオフ
2019年04月26日
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武部先生の漢詩の中国語音読み 校門で新入生も花開く 内進に新入学の歓喜無し 私が火曜日のお昼に自動車で県立ナンバーワンスクールの鶴丸高校前を通過したとき、校門の前で新入生たちが笑顔で写真を撮りっこしていました。校内の桜の花が満開でしたが、新入生たちも満開の笑顔を開かせていました。 そのとき思ったんですよね。短編小説の主人公の内川雅人くんは内部進学で高校に合格したとき、こんな笑顔を見せていただろうかと。おそらく彼はホッと安堵の胸を撫で下ろしたでしょうが、またこの学校でこれからも続く息苦しい生活を思うとウンザリしたことと思います。 奈良女子大附属高校を1970年(昭和45年)に卒業された安渓遊地さんから、武部先生の漢詩の中国語音読みに関するコメントをいただきました。附属の幼稚園からの附属っ子の内川雅人くんと違って奈良女子大附属の高校から入学されており、おそらく 満面の笑みを浮かべて入学式を迎えられたことと思います。その安渓さんが 高校三年生のときに武部先生の中国語音での杜甫の漢詩「春望」の「国破山河在」の授業を受けたとされています。そうでした、内川くん同じく杜甫の「春望」の中国語音の授業の洗礼を受けたと思われます。 杜甫「春望」 國破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心 烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪 国破れて山河在り/城春にして草木深し/時に感じては花にも涙を濺ぎ/別 れを恨んでは鳥にも心を驚かす/烽火三月に連なり/家書萬金に抵る/白頭 掻けば更に短く/渾べて簪に勝えざらんと欲す 内川雅人くんは戦後生まれの人間ですが、戦争を体験した人たちは、この「春望」の「国破れて山河在り、城春にして草木深し」の二句になんとも言えぬ感慨を覚えたといわれます。ただし、「春望」の詩の「国破れて山河在ももり」の「國」は国家のことではなく、唐の国都長安のことを指し、「破れて」の「破」は敗戦の意味ではなく、長安の都が「破壊されて荒れ果てている」様子を表現したものですね。 しかし、「城」すなわち長安の都が戦乱で破壊され、春が来ても家の庭は手入れされず、草木が生い茂り、平和な日常が戦乱によってうち破られ、住みなれた街が無惨に破壊され、「家書万金に抵る」とあるように家人の手紙は万金にも値するような貴重で大切なものと思われます。愛する家族とも離散した人間の哀しみと不安が見事に詠われているがゆえに、この詩は時空を越えて戦後の焼け跡にたたずむ日本の人々の心に訴えかけ、またその後の人生の思い出のなかに織り込まれていったのでしょうね。 この漢詩を武部先生はいきなり中国語音読みで読み出されたのです。「クォポーサンハァザイ チョンチュンザオムーセン」と。上がったり下がったり、どすんと落ち込んだり、そうかと思うと急に浮上したり、それはまるでジェットコースターに乗って起伏の激しいレールの上を滑走しているような感じでした。いや、レールの上をゴーゴーと走るジェットコースターよりももっとなよやかでリズミカルでした。 生徒たちはあっけにとられてぽかんとしていました。雅人くんもそのなかの-人だったのです。漢詩は中国の詩であるから、この奇妙な発音も中国語読みであることくらいは推測が付きましたが、それにしてもカルチャーショックを受けました。 彼が驚いたのは、独特のイントネーションを持つ中国語の発音そのものではありません。中国音の発音はラジオやテレビでときどき耳にしていました。衝撃を受けたのは、漢詩に対する既成のイメージをこの先生の朗読がきれいさっぱり吹き飛ばしてしまったからです。漢詩や漢文といえば、ついこの間まで中学生だった彼の頭のなかにも 「国破れて山河在り」とか「虎穴に入らずんば虎児を得ず」といった類の中国の名句・名言の片言隻句が雑然と入っていましたが、それらは格調が高くどんと重々しい感じがしていました。 しかし、教室でいま中国語で朗読されたものはそれとは全く別世界のものでした。なんとも奇妙でなよやかでかつリズミカルでした。この漢文の先生が『白楽天詩集』の著者である武部利男先生でした。 こうして、彼は漢詩に非常な興味を持ち、武部先生と親しく接し、先生の薫陶を受けて漢詩の素晴らしい世界に目が開かれていった、なんてお話をつぎに展開していきたいところですが、残念ながらそんなことは全くありませんでした。大学に進学して後も、漢詩に関してそれほど強い関心を持つことはありませんでした。 それでも、高校で漢文を担当されたあの武部利男先生が中国の古典詩の優れた研究者であることぐらいは知るようになった。また、なぜ武部先生が高校生に漢詩をいきなり中国語で朗読されたのか、その理由も次第に分かるようになった。 確かに、中国の古典語で書かれた漢文や漢詩の内容を理解する上で、日本人が中国の優れた文化を吸収するために編み出した読み下し(訓読)の方法は非常に便利なものです。また、漢文の訓読は、日本の「古典語」としてそれ独自の格調の高さがあり、この漢文訓読そのものが日本語をはぐくみ育ててきたのです。 中国での漢字の発音は時代とともに変化し、現代中国語と古典詩である漢詩が詠まれた時代とでは発音が随分異なっています。しかし、漢詩を現代中国語音(現代北京音)で発音しても、押親や平灰の組み合わせから作り出されるリズムは大体つかめます。先生はおそらくこんなことを生徒たちに印象深く教えるために中国語でいきなり漢詩を朗読されたのであろう。
2019年04月19日
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附属小学校から附属中学校への内部進学 桜咲く小学校の投票所 麗らかや授業参観ふたむかし 雅人さん夫妻は県議会選挙の投票日、久しぶりに投票所となった町内の小学校に出かけました。校内各所に桜の木が植えられており、春の日差しを浴びて薄ピンク色の花が満開状態でした。内川雅人さんは、父親として日曜日にこの小学校の授業参観に赴いたのはもうふた昔前のことになるなと懐かしく思いました。 授業参観と言えば、内川雅人さんの子どもの頃は父兄参観日と名付けられ、彼の父親がいつも教室に顔を出していました。彼の母親は教師として平日は忙しく働いており、病弱ということもあり、日曜日には家で休んでいることが多く、 もっぱら父親が小学校の授業参観だけでなくPTA活動にも参加していました。 雅人くんのハンサムで社交的、陽気な彼の父親は、お母さんたちの間で非常な人気者だった様で、PTAの懇親会などでは中心的人物となって場を大いに盛り上げ、酔って顔を赤くして帰宅した父親は、その日の懇親会の模様をいつも機嫌よく楽しそうに語っていました。 そのように雅人くんの小学校時代のことはずっと父親任せだったのに、6年生の春の担任の先生との相談会には母親が珍しく出掛けて行きました。なぜこの時に父ではなく母が呼び出されて附属の小学校に出かけて行ったのでしょう。話の内容から考えて、父親に話しても埒が明かないと担任の先生は考えたのでしょうか。雅人くんに目を覚ましてもらうためには母親から直接キツく言わないと駄目だと思われたのかも知れませんね。 担任の先生は、「このままではお宅のお子さんの附属中学校への内部進学は無理かも知れませんよ」と指摘されたのです。この附属小学校では、五年生までずっと児童たちに成績通知票を渡して公表するようなことはありませんでした。雅人くんの母親は学校の成績抜群の才媛でしたから、自分の息子も同様に成績優秀と思い込んでいたのですから、担任の先生の話を聞いてサーッと血の気が引いたそうです。その日から毎日ずっと母の雅人くんに対する特訓が開始され、なんとか彼を附属中学に押し込むことができました。 母親の急遽の特訓の成果でなんとか附属中学に内部進学することができた雅人くんでしたが、附属中学では難関試験を乗り越えて外部進学してきた秀才たちと席を並べることになりました。これまで机に座ってじっくり勉強などしたことのない雅人くんでしたから、基礎学力が不足しており、継続して勉強する習慣もこれまでありません。親しい友だちも出来ず、息苦しい中高の附属生活を送ることになりました。 秀才たちの集団に突然投げ込まれ競争させられた雅人くんの息苦しさは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』の主人公が神学校の秀才たちとの競争のなかで精神を疲弊させていく心理に通じるものがあったようです。 後、川柳を一首下記に載せておきます。 父赤く母青ざめマー黄色
2019年04月13日
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驟雨の放課後の思い出 菜種梅雨校舎の階下傘辞退 春驟雨濡れそぼちつつペダル踏む 内川雅人くんは戦後の昭和に産まれ、昭和に育ち、昭和に学んで、昭和に就職した団塊世代の人間です。 その雅人くんが高校生の頃の菜種梅雨の時期のなんとも侘しい思い出があります。放課後、二階の教室を降りて駐輪場に向かおうとすると、春の驟雨が突然降り出してきました。そのき、階段の下にいた同級生の橋川さんが用意してきた自分の傘を彼に差し出して「一緒に行かない」と言ってくれたのです。高校近くのバス停から一緒に帰ろうとの親切心から言ってくれたのでしょう。 しかし雅人くんはなんと彼女の親切を即座に断わり、駐輪場に駆け出して雨の降る中をペダルを校門に向かって漕ぎ出だしたのです。そのとき、彼は彼女の親切心に素直になれない自分の心に非常な引っかかりを感じたものです。 激しい驟雨の中、彼は奈良ホテルを右手に見ながら荒池沿いを濡れ鼠となって泥水を跳ね飛ばしながらペダルを漕ぎ漕ぎ自宅に向かったものです。この春雨の帰り途の思い出は、人の親切心に素直になれなかったその頃の雅人くんの心をずっと傷付け残り続けたものでした。 後、川柳を三首ほど紹介いたします。 令和とは元は張衡漢籍さ 塚田さん忖度で安倍麻生道 忖度を自慢してる政界人
2019年04月05日
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蒲生の「フォンタナの丘 かもう」に宿泊 大阪に勤務している次男が昨日(3月29日)鹿児島に両親への親孝行のため帰省(本人の説明です)しましたので、30日から31日にかけて鹿児島県姶良市蒲生町の「フォンタナの丘 かもう」と云う宿泊施設に一泊二日して食事等を楽しんできました。 お昼から次男の運転で自宅を出発し、往路の自動車道沿いの人家の柿の木の薄緑色の青葉やツツジのピンク色、アカメガシの生け垣の真っ赤な輝き、そして薄ピンク色の桜並木等を目で楽しみながら、木の芽時の若やいだ春の訪れを体感しながらまず蒲生の八幡神社境内の千五百年以上前から生えていたと云われると大楠を見学し、その後「フォンタナの丘 かもう」に向いました。そのときに詠んだ俳句が下記の四首です。 木の芽時心若やぐ往路かな 蒲生の社樹齢千年楠若葉 楠巨木青葉うぐいす良き音色 大楠の隣の人家桜咲く 蒲生八幡神社境内にそびえ立つ大楠は、なんと樹齢約1,500年、根周り33.5メートル、目通り幹囲24.22メートル、高さ約30メートルの日本一の巨木です。 宿泊した蒲生温泉「フォンタナの丘かもう」は2011年10月にオープンしており、「フォンタナ」とはイタリア語の“fontana”が語源で源泉、湧き出る泉との意味だそうです。 平屋建ての温泉施設は鹿児島県産の杉と檜で建築されており、全室和室でヒノキ風呂が備えられており、勿論大浴場もあります。食事は鹿児島県産のオーガニック食材がウリで、美味しので透析時の基準体重のことを忘れて食べてしまい、後で苦しむことになりました(トホホ)。
2019年03月31日
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今日3月23日は「俳句ことはじめ」第五回(最終回)で、3月15日迄に丸山先生のお宅宛に各人ニ首を投函した俳句を、講習会参加者みんなで講評することになっていました。 それで投稿期限日までに21人42首が丸山先生のお宅に届き、先生がそれら42首を全てワープロ文字2ページ分に打ち直し、今日の参加者25人全員に配布して下さいました。それで今日の参加者25人各人が42首中7首をまず選ぶことになりました。 その結果、下記の句が17票も獲得しました。 「産声は春雷さえもかき消して」 とても気持ちのいい生命の讃歌を詠った元気な俳句ですね。私も勿論この句に一票投じましたよ。 次に下記の2首がともに8票を獲得しました。 「冬の朝校長子らにハイタッチ」 「冤罪の晴るる日待ちて辛夷さく」 上の句は私が詠んだものです。下の句は、鹿児島の大崎事件を詠んだ俳句で、「冤罪の晴るる日」という言葉と潔白を意味する白い色の花を咲かせる「辛夷(こぶし)さく」の結びつきが見事ですね。 その他にもいい句が沢山詠まれてました。とても「俳句ことはじめ」のみなさんの俳句とは思えませんでしたよ。
2019年03月23日
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越智さん、コメントに感謝します。「句が懐かしく綺麗」とか幾つかの句が「奈良に育った心 が生きづいてます」とのお言葉、とても嬉しいです。散文ではなかなか言い難い気持ちを俳句ではサラッと言いあらわせることを発見しました。ところで下の句を右から左の様に「藤の下」を「藤棚の下」と表現できる句に訂正させてもらいます。 今日もまた生徒が独り藤の下→昼下がり藤棚の下あの生徒 この句は、高校近くのお店のご主人の様な人の視点に借りて、昼下がりに藤棚の下に独り佇む高校生の姿を詠んだ句です。えっ、そんな高校生がいたことを知っているのかですって? モーチロンです。 岩つつじ、馬酔木「あせび(あせび)、桜桃、エニシダ、椿等の花が満開ですが、そのうち馬酔木と桜桃だけをまず詠んで、その後連想したことを幾つか思い出して俳句に詠みました。 鈴なりの白き花咲く馬酔木(あせび)かな 桜桃花気付かぬうちに散りはじめ 桜桃の実熟れて鳥と競い合う 母と子が馬酔木の森をさまよえり 昼下がり生徒が独り藤棚に 校門で傘を断わる菜種梅雨 朧夜や車窓に走る人家の灯 h
2019年03月16日
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3月15日迄に丸山先生のお宅宛に各人ニ首を投函し、3月23日に最後の講習会でみんなで講評することになっています。 それで皆さんにお願いがありますが、下記の十首のうち、四首以上二首まで選んでもらえませんか。 なお第一首は、私が今から約四0年前に就職ため前夜に大阪駅から寝台車に乗り込んで翌日の早朝に西鹿児島駅に到着し、駅前で真上から照らす暁光に驚いたときのことを思い出して詠んだ俳句です。 八首目は、鹿児島の平地では秋冬になっても木々の紅葉は見られず、緑の常緑樹と黄色になった落葉樹のみが目立つ季節となります。 第十首の「湾生」とは戦前に日本統治下の台湾で生まれ育った日本人のことで、私の母は18年前鹿児島で一月雪の日に急逝いたしました。 その他の俳句は字面からお分かりになると思います。 寝台車春暁に駅降り立ちぬ 庭先の光に溶くる雪柳 木蓮に胡蝶の如き花開く 若草の山が燃えてる花火鳴る 早春や木々の隙間に空広し コート脱ぎ幾年ぶりに講義聴く 墓石群そのまた向こう山眠る 薩摩路やみどり黄色の冬景色 冬の朝校長子らにハイタッチ 雪の日に湾生の母永遠の旅 どうかよろしくお願いいたします。
2019年03月07日
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日記代わりの俳句作り第十二回目は、2月24日に柳家喬太郎師匠の独演会に出掛け、2月28日には映画「万引き家族」を観に出かけたこと等々から作句しました。 独演会では、雛祭りの日より約1週間早く笛太鼓の後に幕が上がり、緋毛氈が敷かれた高座に喬太郎師匠が下手からゆっくり登場して来ました。会場には賑やかな笑いが渦巻きました。 第二首目では、家族は血縁で結び付いていると言われますが、孤立した家族のなかで傷付け合ったり殺し合ったりするニュースを目にしますと、映画の様に万引きで結び付く温もりのある絆も良いなと思いました。 三首目、四首目は私の故郷の奈良のことを思い出して詠みました。春日祭りの露天商が売る定番と云えば地球独楽でした。 緋毛氈雛より早く落語会 暖かや万引家族この絆 春日祭露店に並ぶ地球独楽 若草の山が燃えてる花火鳴る 今回の川柳の二首目は安倍さんのトランプさんへの媚びへつらいぶりと自民党議員の安倍さんへの媚びを売る様を詠みました。 県民の意思が示されニジララン(我慢できない) 平和賞総理四選媚びを売る
2019年03月02日
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笛太鼓幕上がりて緋毛氈 2月24日(日曜)、南日本新聞会館南ホールで鹿児島第九回「柳家喬太郎独演会」が開催され、私たち夫婦は喬太郎師匠の独演会8回目に出掛け、師匠の落語を大いに楽しみ ました。 開演時間が始まるとともに 笛や太鼓が鳴り出し、舞台の幕がスルスルと上がり、スポットライトに照らされて高座に敷かれた真っ赤な緋毛氈と一本のマイク、座布団、そして柳家喬太郎と紙に縦書きされためくりが目に入って来ます。 今日の喬太郎師匠の独演会は喬太郎師匠が先ず開口一番をつとめ、お馴染みの「子ほめ」を演じました。「これはあなた様のお子さまでございますか。あなたのおじいさまに似てご長命の相でいらっしゃる。栴檀は双葉より芳しく、蛇は寸にしてその気をのむ。私も早くこんなお子さまにあやかりたい」と言うお世辞言葉で有名なあの噺ですね。ご隠居さんから熊公がそんなお世辞言葉を習うんですが、その通りに上手に出来ないのが落語の世界で、はちゃめちゃの大笑いが展開致します。 二番目に高座に上ったのが春風亭正太郎さん、まだ二つ目とのことですが、マクラで老人ホームや学校寄席のことで大いに笑わせた後、道楽者の若旦那が出入りの大工の家の二階に厄介になり、合わせて十かいの身の上になりところから始まると云う、これまたお馴染みの「湯屋番」を演じます。川柳に「居候三杯目にはそっと出し」とありますが、そんな若旦那がいつまでも居候している訳にもいかず、お湯屋さんに勤めることになります。でもそこは道楽者の若旦那、湯屋番に上って大いに妄想をたくましくするというお噺です。 三席目が喬太郎師匠の新作落語「夫婦に乾杯」ですが、どうもこの新作の作者は春風亭昇太師匠のようです。社内でワンカップのお酒の商品ネーミング会議が行われ、おつまみ付きの酒として売り出そうというですが、なかなか商品名としていいアイデアが浮かびません。家に帰った社員のひとりは仲良し夫婦ですが、商品名を考案するなかで、夫が耳にしたことのないような男性の名前をつぎつぎに出すところから二人に怪しげな雰囲気が醸し出されす・・・・・。 仲入り後に、喬太郎師匠が次郎長外伝「小政の生い立ち」を手短に演じて今回の独演会は終了した。
2019年02月25日
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今日2月23日の午前中にかごしま近代文学館で「俳句ことはじめ」の講習会四回目があり、文学館周辺を吟行した後に各人2句ずつ作句したものを提出し、丸山先生に講評していただきました。 吟行開始前に少し時間がありましたので、丸山先生にまず下記の拙句四首を見てもらいました。初市とコート脱ぎの最初の二首は問題なく二重丸をいただきました。 つぎの三首、四首も二重丸をいただきましたが、一部少し修正していただいたものをここに載せています。 吟行の後で提出した木蓮と庭先の最後の二首も、講評のときにそれなりに評価していただきましたが、やはりそのときに指摘された問題点に基づき修正してここに載せました。 初市でオッのコンボを一個足す コート脱ぎ幾歳ぶりに講義聴く 春雨や合歓に西施の色香なし 風そよぎ沈丁の香の庭に満つ 木蓮に胡蝶の如き花開く 庭先の光に溶くる雪柳 来月の23日は講習会最後となり、3月16日までに各人二句提出とのことでした。このときまでにそれなりに評価される句を詠みたいと思いますので、できましたらみなさんから忌憚のないご批評をいただきたいものです。
2019年02月23日
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日記代わりの俳句作り第十一回目は早春の風景を詠みました。 早春の我が家の庭を見ておりましたら、島崎藤村の「千曲川旅情の詩」の歌詞がふと思い浮かびました。 小諸なる古城のほとり/ 雲白く遊子悲しむ/ 緑なすはこべは萌えず/ 若草も籍くによしなし/ しろがねの衾の岡辺日に溶けて / 淡雪流る あたゝかき光はあれど/ 野に満つる香も知らず / 浅くのみ春は霞みて/ 麦の色わづかに青し / 旅人の群はいくつか/ 畠中の道を急ぎぬ 暮行けば浅間も見えず/ 歌哀し佐久の草笛/ 千曲川いざよふ波の/ 岸近き宿にのぼりつ /濁り酒濁れる飲みて/ 草枕しばし慰む 旅人が小諸の古城跡で早春の風景を詠んだものですが、近景についてはハコベはまだ若草を生やしておらず、下に敷いて座ることも出来ない、目の前の雪山の雪も太陽に照らされて溶け出しているとし、中景では春はまだ浅く霞んでおり、麦の色も僅かに青味を帯びているだけだとし、遠景では暮方で浅間山も見えないなんて言っているんですね。小諸のなんとも殺風景な早春の風景を詠んでいるのですね。 それで今回は、第二首以降我が家の早春の庭の風景を詠むことにしました。 車窓より木蓮の樹に蕾見ゆ 早春や木々の隙間の空広し 早梅が散りて万両実が真っ赤 刈り取りし雪柳にも芽の息吹 椿の蕾まだ固く浅緑 次は川柳ですが、2月15日の東京新聞に拠ると、前日の衆院予算委員会で立憲民主党会派の小川淳也氏が、統計の重要性をアピールする標語を募集した総務省の対応を厳しく批判するなかで、同省のツイッター上には統計不正を揶揄する次のような標語が多数寄せられたと指摘しています。 「合わぬなら作ってしまえ偽統計」、「お上から鶴の一声、好景気」、「統計は答えを先に決めてから」等々
2019年02月16日
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今日は照国神社の縁起初市が開かれているので出掛けて俳句を詠もうと考えていたのですが、気温が5度程度で寒いので(他地域の人ごめんなさい)、2年前に行ったときのことを思い出して日記代わりの俳句作りの第十回目の俳句を作ることにしました。 初市に漂う香り故郷の香 初市の大漁旗に客撥ねる 初市でオッのコンボを一個足す 最後の一首は、もし今日は行ったとしたら、家族の健康を祈って人数分購入するオッのコンボの数が長男のお嫁さん一人分足すことになったのだと思ったので詠みました。
2019年02月10日
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今日も日記代わりの俳句作りの第九回目をお見せいたします。ところで私が受講している「俳句ことはじめ」の講習会花は3月23日が最終講義なので、日記代わりの俳句作りもそこまで続けたいと思います。どうかそこまで我慢してお付き合い下さい。 第一首の二句には最初「久しぶり」との語彙を使用したのですが、余りにも軽すぎる表現なので別の語彙を調べたところ「幾歳」(いくとせ)という語彙が見つかりました。他に適切な語彙もなく、結局これを選ぶことにしました。第二首の早梅の俳句は、三分咲の頃に咲いた花もハ分咲きの花が開花する頃にはすでに褪せてしまっている様子を詠んだものです。 コート脱ぎ幾歳ぶりに講義聴く 早梅や開いた花に褪せた花 冬晴れや無邪気な笑顔ボール蹴り 川柳は以下の三首です。 シラス不漁鰻食べたし値は高し トップから不正データの隠蔽屋 希望失せ二回は唖然細野さん
2019年02月02日
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講習会「俳句ことはじめ」第三回 今日午前中にかごしま近代文学館で「俳句ことはじめ」の講習会三回目があり、俳句の表現には関する六つの重要点について講義がありました。以下にその六つの重要点を列挙しておきます。 一.リズムを整える(字余り、字足らずを作らない) 二.抽象的に説明しないで具体的に映像化する 三.作り手の心情は直接表現しないで読み手に想像させる。 四.くり返しやむだな言葉を省く 五.係り受けや切れ目に気をつけて分かりやすく表現する 六.感動のある俳句を詠む 今朝の講義開始前に講師の丸山先生に拙句六首をお見せしたところ、以下の四首はOKをもらいました。 冬の川片脚立ちの白き鷺 冬の朝校長子らにハイタッチ 刈り取りし薮の万両みどり赤 墓石群そのまた向こう山眠る 特に最後の二首の俳句は、万両の葉の緑と実の赤さに対する鮮やかな印象や初句の墓と結句の眠るとが連携しているところを評価してもらいました。
2019年01月26日
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日記代わりの俳句作り 第八 愉快、痛快、快速、快進撃で今日も日記代わりの俳句作りの第八回目をお見せいたします。 我が家の庭の繁茂していた樹木を庭師さんに頼んできれいに剪定してもらいました。下の四首は剪定後の庭の景色を詠んだものです。後ろから二首目の俳句は、刈り取られた薮の中から南天のお鮮やかな緑の葉と赤い実が姿を見せた様を詠んだものです。最後の一首は芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」を本句取どりした俳句です。 時雨来て刈り取った枝葉芳し 凍て空や剪定の木々寒々と 刈り取りし薮の南天みどり赤 初時雨ねぶに西施の色香なし 川柳として今回は以下の五首をお送りいたします。 稀勢の里綱取り不安的中す またかよか政府データに不正あり 県民の民意そんなに怖いのか 成人式視たくもない馬鹿騒ぎ 馬鹿言うなニュースソースを確かめろ 「我が家の春夏秋冬 秋冬ページ」 ↓ 我が家の庭の春夏秋冬http://yamamomo02.web.fc2.com/garden/autumn.html
2019年01月19日
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愉快、痛快、快速、快進撃で今日も日記代わりの俳句作りの第八回目をお見せいたします。 我が家の庭の繁茂していた樹木を庭師さんに頼んできれいに剪定してもらいました。下の四首は剪定後の庭の景色を詠んだものです。後ろから二首目の俳句は、刈り取られた薮の中から南天のお鮮やかな緑の葉と赤い実が姿を見せた様を詠んだものです。最後の一首は芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」を本句取どりした俳句です。 時雨来て刈り取った枝葉芳し 凍て空や剪定の木々寒々と 刈り取りし薮の南天みどり赤 初時雨ねぶに西施の色香なし 川柳として今回は以下の五首をお送りいたします。 稀勢の里綱取り不安的中す またかよか政府データに不正あり 県民の民意そんなに怖いのか 成人式視たくもない馬鹿騒ぎ 馬鹿言うなニュースソースを確かめろ 。
2019年01月19日
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日記代わりの俳句作り 第七回 今回も怒涛の進撃で日記代わりの俳句作り第七弾をお送りいたします。 今回も両親の眠る墓に詣でたときに咏んだ俳句の続きです。言うまでもなく、墓参りとは故人の面影を思い浮かべて人の心に甦えらせる行為ですね。第二首の「偕老同穴」は字面どおりの意味なら「生きてはともに老い、死んでは同じ墓に葬られる」との意味ですが、その字面通りでしかない両親でした。墓前で「あの世では本当に夫婦仲睦まじくね」と手を合わせました。後から二首目の俳句は、母が正月の料理店内で見掛けた親と幸せそうに語り合う華美な晴れ着姿の女の子を見て、「プチブル的ね」と侮蔑的に言ったことを思い出しての俳句です。しかし母はどこからこんな言葉を仕入れたのでしょうね。 冬墓参思い浮かべて甦える 数珠冷た偕老同穴手合わす 父と見た農業機械初展示 父買いし僕のセーター母けなす 母くさすプチブル的と春着の子 冬晴れの庭の五分咲き梅の花 つぎは芸能スポーツネタの川柳です。ただし最後の一句だけは、ネットにあった記事の文章がたまたま五七五だったので、それを丸写ししただけのものです。 大迫はハンパない2ゴール 沙保里さん綺麗で既に辞めてたと 竹田さんゴーン返しか仏捜査 三平の親の光も芸のうち 志らくさん俳句の技量さすがです 懐かしや即席麺が朝ドラ化 恵方巻需要に合った販売を
2019年01月13日
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日記代わりの俳句作り 第六今回も飽きもせず日記代わりの俳句作りを続け、その六回目を紹介したいと思います。冬の昼我が影歩むフラフラと...カイト揚げ我が頰掠め浮上 公園で初天神の如きカイト揚げ冬木立どんぐり拾う親子たち冬の庭梅花咲き出す三つ四つ上から一首目から四首目までの俳句は、六日の日曜日に鹿児島市営の健康の森公園で初散歩していたときに詠んだ俳句です。その二首目は、近くでカイト揚げしていた親子の小さなカイトが急に低空飛行して、公園側を歩んでいた私の頰を掠めながら再浮上していった様子を詠んだものです。上から三首目の「初天神」とは落語の演目名で、子どものために買った凧をおとっつぁんが夢中で揚げ始める噺で、六日の公園でも子どもより熱心にカイト揚げしているお父さんが目に付いたので、その様子を俳句に詠みました。最後の一首の「梅」は、そのままでは春の季語なので「庭」に「冬の」と言う言葉を付け加えました。次はこれも飽きもせず川柳三首です。 武さん滑舌悪く聴き辛い韋駄天は西郷(せご)どんの後視聴せず日韓は空と海とで泥仕合
2019年01月09日
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日記代わりの俳句作り 第五回 日記代わりの俳句作り、さて今回は五回目です。下記の前の二首は、亡くなった両親のことを詠んだ俳句で、「湾生」とは台湾生まれの日本人のことです。母は常夏の地である台湾に生まれ、珍しく雪が降った冬の鹿児島で他界しました。また他界後も私たち夫婦は暫く「両親の家」と呼称していました。後ろの二首は、年明け三日に夕方の鹿児島中央駅で大阪に戻る次男を見送った後に詠んだ俳句です。 雪の日に湾生の母永遠の旅 冴ゆる夜に両親の家父独り さようなら仕事始めの次男坊 三日から車燈流れるUターン 次にみなさんご期待(??)の川柳三首です。 年忘れ歌の祭典忘れたよ 透析気に掛けお雑煮一個 オヤジさん母他界後にバー通い 上の最初の川柳は如何様に理解していただいても構いませんよ。第二首は、透析治療を受けている患者個々人の基準の体重値をオーバーするとそれだけ透析時間が長くなるため、食事の節制が求められ、正月一日から三日まで出されるどのお雑煮にもお餅が一個しか入っていない悲哀を詠んだ川柳です。最後の一首は、私が「親父も寂しかったのだろう」とある人に言いましたら、その人に「もともと好きなのよ」と一蹴されてしまいました(トホホ)。
2019年01月05日
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2019年元旦 本年もよろしくお願いいたします。今年は亥歳で私もイノシシ生まれですから年男(としおではなくとしおとこです)になります。 さて今回も日記代わりの俳句作り第四回目です。下記の前の二首は、年の瀬に谷山御所霊園に出掛け、私の両親の墓参りをしたときに詠んだものです。後ろ二首は年末年始の我が家での風景を詠んだものです。 両親が眠る墓前に桜島 墓石群そのまたむこう山眠る 玄関に橙付きの注連(しめ)飾る 初春や朱の梅蕾(うめつぼみ)てんてんと 次にみなさんご期待(?)の川柳四首です。w 美智子さんミッチーからのフアンです 安倍夫妻政治の私物化許さない トランプはなぜツイッター利用する 僕の歳干支(えと)が六回で七と二 最後から二番目の俳句ですが、私が思いますに、トランプさんは論理力、語彙力不足から短い言葉でしかインターネット上に扇動的な言葉を撒き散らすしかないのでしょう。
2019年01月01日
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今回も日記代わりの俳句詠みを続けます。 最初の俳句は、幼かった頃の長男がサンタさんの贈りものが鹿児島生協の紙包みに包まれていたことを指摘したので、「サンタさんの国にも生協があるんだよ」と納得(?)させたことを思い出しての一首です。 上から第ニ首目の俳句に詠まれた「石橋」は、1993年8月6日に鹿児島を襲った水害(八六水害)で破壊された新上橋(五石橋のうち、武之橋も破壊され、残りの三石橋も水害の原因になるとして後に取り壊されました)のことです。「今の妻」と書きましたが、一番目の妻、二番目の妻と数えての「今の妻」ではなく、結婚後いまもずっと続いている妻のことです、念のため。 サンタさん地元の店の紙包み 冬晴れの石橋出会った今の妻 年の瀬や包丁研ぎに街に出る 初デート寅さん映画で初笑い 寝台車春暁に駅降り立ちぬ カーデガン左ボタンねと言ったひと(彼女) 寝台車春暁に駅降り立ちぬ 最後から二つ目の俳句は、部活の相棒(女性)から私の着ていカーデガンが婦人用(母親のものでした)であることを指摘されて驚いたことを回想しての一句です。 最後の俳句は、私が夜行列車で赴任地の鹿児島西駅(今は鹿児島中央駅と改称)に早朝降り立ったことを詠んだものです。 さらに川柳二首 隣国で信教自由奪うクリスマス 原発でツケを残すな次世代に
2018年12月28日
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今日午前中にかごしま近代文学館で「俳句ことはじめ」の講習会二回目があり、俳句の吟行とそのとき作句されたもの全てに対しての講評がありました。 かごしま近代文学館は鶴丸城二ノ丸趾に建てられており、今回の吟行で参加者のみなさんの多くの方が城跡のお堀の枯れ蓮や西南戦争時に城の石垣に撃ち込まれた無数の弾痕等のことを詠まれると予想し、私はそれを避けて下記の二作を作句して講師の丸山先生に提出して講評を受けました。 冬木立国旗と市旗も背比べ 文学館前に冬枯れの大木があり、その右隣りの二本のポールの上に国旗と鹿児島市の旗が翻っていましたので、私なりに捻って「背比べ」と結びました。丸山先生は「この俳句が沖縄で詠まれたものなら違った意味を持ちますね」とコメントされました。 石蕗が庭の小道で儀仗式 この句は、家の玄関前庭にある黄色い石蕗の花の列が儀仗兵の隊列のように思えたので、その言葉から兵を式 に変えて結んだのですが、丸山先生からやはり「に儀仗兵」と訂正を受けました。 講習会の帰り道に下記の三首を作句しました。 冬霞屹立してる桜島 山茶花や落ち葉を焚ける人も無し 亡き母が郷愁覚えた冬の楠 最後の一首は、台湾生まれの母が晩年に鹿児島に来て冬でも青々と茂っている楠並木に郷愁を覚えて喜んでいたことを思い出しての俳句です。 c
2018年12月22日
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日記代わりの俳句作り その二 日記代わりに俳句作りを始めましたので、最近作句した三首をご紹介します。 冬の朝透析往路の陽眩し 私は腎不全のため週3回早朝から透析治療に通院しています。往路を走る車中に射し込む朝の太陽の光の眩しさを詠みました。 冬川に片脚立ちの白き鷺 甲突川を眺めていると一羽の白い鳥がぽつんと片脚立ちしている姿が目にとまりました。どうも鷺の一種の様です。それでこの一句。 石蕗の花咲き終わりて綿毛舞う 我が庭で咲き誇っていた石蕗(ツワブキ、つわ)の黄色い花も咲き終わり、花びらが散った後に出来た綿毛が風に乗って舞い散っている様子を詠みました。
2018年12月17日
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最近は俳句を作りに凝っていて、なにを見ても五七五と指折り数えてしまいます。初めは良い句を詠もうと構えていたのですが、最近は日記代わりに詠むようになりました。 そんななかで詠んだのが下記のようなものです。 南天や頬に触れたる手冷たし 早朝、庭に出て赤い実が成っている南天を見たとき、自然と手に触れた手の冷たさをそのまま詠みました。「冷たし」だけで冬の季語になるんですね。 城趾の堀の水面に枯れ蓮 街で映画を観に行くときに、通りかかった鹿児島の鶴丸城趾の堀の水面に見えた枯れた蓮を見ての一句です。「枯れ蓮(はちす)」で冬の季語になるそうです。 古希過ぎて苦吟あれこれ師走かな 「古希」は「古代稀なり」と昔は言われた七十歳のことで、後の句はそのまんまです。
2018年12月13日
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かごしま近代文学館講座の「俳句ことはじめ」で丸山眞先生から俳句の季語を知るために角川の歳時記などを紹介してもらいましたので、早速最寄りの書店で角川書店の『俳句歳時記』(冬を購入しました。 この歳時記の本を参考にあれこれ作句を開始した翌朝、玄関のドアを開けますと前庭から駐車場に通じる小道づたいに植えた黄色い石蕗(つわぶき)の花が目にパッと飛び込んで来ました。それで歳時記を参考にして作句したのが下記の俳句です。 石蕗(つわ)の花 庭の小道で 栄誉礼 「石蕗の花」を「つわのはな」と読んで冬の季語となります。この庭の小道に沿って植えられた黄色い石蕗(つわぶき)の花の列から儀杖兵の隊列がまず最初にイメージされたのですが、「儀仗」とは「儀礼のために用いられる武器・武具のこと」だそうで、武器とはいささか物騒です。それで俳句の終わりの五文字を「栄誉礼」と結んでみました。 忌憚の無いご批評をよろしくお願いします。
2018年12月01日
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今日(11月24日)、かごしま近代文学館・メルヘン館に赴いて2018年度かごしま近代文学館講座の第1回「俳句ことはじめ」を受講しました。 俳句は全くの初心者なのですが、夏井いつき先生が俳句の査定をするテレビ番組「プレバト!! 俳句」で俳句に興味を持つようになり、かごしま近代文学館で「俳句ことはじめ」の受講生を募集していることを知って応募したのです。 講師は丸山眞先生(俳句雑誌「火の島」代表、句集に「かごしま詩季」、「再生」)が担当され、今回の第1回目の講習会では、受講生用に配布されたレジュメに俳句で重要な意味を持つ季語と「一.その写生、思い、想像」、「二.季語以外の事象、人事」とを取り合わせて詠んだ秀句をそれぞれ複数句紹介され、とても分かりやすくてユーモア溢れる語り口で解説してくださいました。 それら紹介された秀句から特に私が印象に残った俳句を下に紹介したいと思います。 戦争が廊下の奥に立っていた 渡辺白泉 くがねの秋の風鈴なりにけり 飯田蛇笏 沙羅咲いて往路ばかりの月日かな 脇本星浪 初蝶の迷いを風が掬いけり 野間妙子 噴煙の俄に高く菊咲けり 米谷静二 野菊咲くわれのみ生みし母の墓 中原 塊
2018年11月24日
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父親と8ミリカメラ撮影 内川雅人くんが中高生の傾、彼の父親の趣味は8ミリカメラでの撮影でした。なんでもかでも8ミリカメラで撮影し、現像して編集したものを映写機でスクリーンに映し出し、それを家族にほぼ強制的に見せたものです。 落語の「寝床」の商家の旦那の場合は、義太夫に凝って、それを家作の長屋の連中に半ば強制的に聞かせようとし、あまりにも下手なので迷惑がられるという噺ですが、雅人くんの父親の場合はその8ミリカメラ版といった具合でした。撮影対象としては、初めは家の近くの奈良公園や神社仏閣などを撮っていましたが、本来奈良の町の歴史に全く関心の無かった父親ですから、何の新鮮味もない平凡な映像と陳腐なナレーションに雅人くんは辟易させられたものです。 この父親の8ミリカメラ撮影に、なんと雅人くんの大学受験の様子も対象にされてしまいました。このとき、雅人くんは1年間大学受験のために仙台で浪人し、一期校受験に失敗した後、二期校を故郷の奈良市近くの大阪で受験することになり、その気持はとても憂鬱でまた非常に緊張していました。そんな彼を対象にして8ミリカメラを向ける父親に正直激しい怒りを感じたものです。父親同伴の受験なんておそらく希有のこと(現在ではどうなんでしょうね)で、それを見た他の受験生たちはよほど息子思いの父親だろうと推測したかもしれませんね。 しかし、雅人くんの父親は自分の息子には殆ど関心の無い人でした。家の外では趣味のオートバイを乗り回し、酒場で呑んだり、軟式テニスや社交ダンスを大いに楽しみ、家に居てもジャズレコドを専ら鑑賞していました。そんな父親が8ミリカメラ撮影に凝り出し、嗚呼、なんと言うことでしうか、雅人くんがその格好の対象にされてしまったのです。
2018年11月14日
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先週の白酒師匠の独演会に引き続き昨日(11月3日)も林家たい平、春風亭昇太、桂雀々、立川生志、桂文枝の五人の師匠たちが出演した「博多・天神落語まつり」の鹿児島公演を楽しむために鹿児島市民文化ホールに出掛けました。 最初に5人の師匠たち全員が舞台挨拶をした後、第一席で林家たい平師匠が「初天神」を、第二席を春風亭昇太師匠が「猿後家」を演じましたが、両師匠とも「笑点」でお馴染みの噺家ですからまくらで「笑点」で司会を務め、最近他界した歌丸師匠のことや、笑点のメンバーで病院の人間ドックで診てもらったことなどを話題にして、会場の笑いを取っていました。そして第三席で桂雀々師匠が「代書」を、第四席で立川生志師匠が「青菜」、第五席のとりで桂文枝師匠が「惚けてたまるか」を演じました。 今回の五師匠の噺のいずれもドッカン、ドッカンと観客たちの爆笑が続き、笑いの渦に包まれていました。私が特に印象に残ったのは桂文枝師匠が「惚けてたまるか」で、難聴になった高齢者が認知症にもなったのではないかと家族が疑い、長男が父親の彼を病院に検査に連れて行く噺でした。演目名の「惚けてたまるか」どおり、このお父さんはお医者さんをけむに巻いて、ボケ老人と思われてたまるかと奮戦するもので、私も難聴になっているので、笑いながらも他人事とは思えませんでした。
2018年11月04日
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今日(10月28日)、桃月庵白酒師匠の独演会が鹿児島県民交流センターで開かれましたので夫婦で出かけました。 第一席の演目は古典落語の名作中の名作の「ときそば」です。「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ、いまなんどきだい? 」「へい、ここのつです」「とう、じゅういち、じゅうに」と蕎麦の代金と時間の刻「とき」とが混じり合う有名な噺ですね。そんな超有名な噺を聴衆を飽きさせずに爆笑を誘いつつ聴かせる話術に感心させられました。 ところでまくらで文化庁芸術選奨の大衆芸能部門文部科学大臣賞に入船亭扇遊師匠、新人賞に桃月庵白酒師匠が選ばれたことを紹介しつつ、如何にも役所的な通知の仕方や京都での授賞式には交通費、宿泊代は受賞者持ちというこれまた役所的な対応を紹介して会場の笑いを誘っていました。 第一席の演目は古典落語の名作中の名作の「ときそば」です。「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ、いまなんどきだい? 」「へい、ここのつです」「とう、じゅういち、じゅうに」と蕎麦の代金と時間の刻「とき」とが混じり合う有名な噺ですね。そんな超有名な噺を聴衆を飽きさせずに爆笑を誘いつつ聴かせる話術に感心させられました。 第二席もこれまた超有名な古典落語「そこつ長屋」で、八五郎から自分の死骸を引き取れと言われた熊五郎が「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」とふと疑問に思うという、なんとも滑稽でシュールな噺ですが、白酒師匠は八五郎から死骸の顔は熊五郎そっくりだと言われ、熊さんが死骸を抱きあげながらあの有名な「抱かれてるのは確かに俺だが、抱いてる俺はいってえ、誰なんだろう」と疑問に思わせています。 仲入り後の第三席では「百川」が演じられました。この百川は田舎から出て来た方言まる出しの人物のその方言を江戸っ子たちが勘違いしてトンチンカンな会話をする噺ですが、地方の人間の方言を笑いの対象にするもので、この噺を私は好きになれません。鹿児島出身の白酒師匠ならではの工夫がほしかったですね。 下記の URA は拙サイト「十人十色の噺家の高座」です。 十人十色の噺家の高座
2018年10月28日
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雅人くんが小学校低学年の頃に彼の母親が勤務先の学校から白い仔猫を紙箱に入れて持ち帰って来ました。校内に捨てられ、生徒たちがエサなどを与えて可愛いがっていたのですが、教頭先生が処理することになったと聞いた母親が可哀想に思って家で飼うことにしたのです。 この白い仔猫を雅人くんはシロと名付けて可愛いがり始めましたが、この仔猫の元気さ、特にジャンプする飛翔力には驚かさせられました。雅人くんが紐などを使ってじゃらして、その紐の先端を彼の頭上近くに引き揚げたとき、なんとこの仔猫はピヨーンとジャンプして紐の先っぽにツメをかけてから飛び降りました。 それからは照明器具のスイッチの紐を使ってのシロのジャンプの訓練を毎日行ない、その飛翔力はどんどん伸びていき、ついには仔猫の世界新記録を達成したとかしなかったとか、とにかくそのジャンプ力には驚かされました。 シロは成長するにしたがい庭で狩りをはじめました。トカゲやカエル、ヘビの死骸を咥えてもちかえったときには雅人くんはビックリしましたが、シロがスズメに脚を忍ばせて近寄り、ジャンプ一番襲いかかって捕獲する様子を目の前で見たときには感激を覚えました。 シロは一歳を過ぎると身体がでっぷりと太り始め、家の近所のボス的存在になったようで、道路の真ん中をのっしのっしと歩く姿を雅人くんは何度か目にしています。しかし、たけきものもついにはほろびぬ、と申します。いつしかシロの姿がどこにも見られなくなってしまいました。保健所の職員に捕獲されてしまったのか、狂暴な野良犬に噛み殺されてしまったのか、嗚呼、祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す、でございますね。 雅人くんが小学校高学年の頃と思います、これまた雅人くんの母親が勤務先の学校から小さな黒い仔犬をケーキの小箱に入れて家に持ち帰って来ました。黒い仔犬は痩せ細っており、身体をブルブル震わせていました。栄養不足のためか身体の毛もあっちこっち抜け落ちており、なんとも貧相な仔犬でした。 雅人くんはこの黒い仔犬にクロと言う名前を付けて大切に育てましたが、1年ほどしても身体はさほど大きく成りませんでした。どうやら豆柴との雑種のようですが、その賢さには驚かされました。いつも雅人くんの表情を確かめ、彼の意思通り忠実に動こうとしているようでした。お手、お座り、お待ちは勿論んのこと、小枝を目の前5センチほどの高さに握って飛べと声をかけ掛けますと、1回で飛び越えたのには感心させられました。 チッシュにいろんな臭いのものを擦り付け、複数のチッシュを並べた中からクロに嗅がせたものだけを探し出せと命じますと、これまた1回で咥えて持ってきたものです。どんな犬も嗅覚が優れていることは自明なんですが、人間が嗅がせた臭いのものだけを選び出して持ってくるなんてことはそう簡単に出来るものではないと思いますよ。 雅人くんが故郷の高校を卒業して仙台で一年間浪人生活を送った後、里帰りしました。そのとき雅人くんの母親がクロを連れて家の前で待っていてくれたのですが、遠方から雅人くんが母親とクロの姿を見つけ、「クロ」と大声を掛けましたら、クロが脱兎のごとく走り出し、彼の身体に飛び付き、何度も嬉しそうに繰り返し抱き付きました。 そんな賢くて可愛いクロも雅人くんが大学2年のときにフラリアに罹り、あっけなく病死してしまいました。 d
2018年10月08日
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人の親はだれでも子どもの可能性を伸ばしたいものです。 雅人くんは、彼の母親に対して、国立大学の附属の幼稚園、小学校、中学、高校に押し込んで彼の子ども時代を非常に限定的なものにしたと些か恨みに思っていました。しかしまた彼の母親が様々な分野の楽しさを提供し、いろいろな可能性を提供してくれたことにも感謝するのでした。 雅人くんは幼いころから本を読むのが大好きでしたが、最初に読んだ本として記憶 されているのはやはり母親から購入してもらった講談社版世界名作全集に入っていたバーネットの『小公子』でした。物語を読む楽しさを知った彼は、近所の商店街にある豊住書店の書棚に並んでいる『宝島』 、『ロビンソン漂流記』、『ガリバ旅行記』等の物語を次々と購入していきました。 また母親から多数の図版入りで出版されていたポプラ社の『日本の歴史』全12巻や『世界の歴史』全10巻も購入してもらいました。歴史上の有名な人物たちの活躍を中心に物語風に描いた子ども向け歴史シリーズで、雅人くんは歴史に対して大いに関心を持つようになりました。 漫画を描くことは、彼自身が自然と好きになったのですが、母親からスケッチ帳とクレパスを与えられ、絵を自由に描くことの楽しさを知りました。京都や大阪で開催されたゴッホ展やフランス美術展等にも連れて行ってくれました。 水槽に水草を浮かべ、金魚やメダカを飼う楽しさも味あわせてくれました。家の庭で畑を耕し、ニンジン、カボチャ、サツマイモ、ナス等の野菜を植えて収穫する経験も与えてくれました。ヒマワリ、ダリア、ヤグルマソウ、キンセンカ等の花ばなを栽培して花開かせました。 しかし母親が提供した可能性のなかには見事に空振りに終わったものもありました。安い給料をはたいてオルガンを購入してくれましたが、雅人くんは鍵盤をブーカ、ブーカと押しましたが、すぐにこの楽器に飽きてしまいました。まさに猫に小判だったのです。雅人くんはなぜか音楽には全く関心を示そうとはしま せんでした。 全く関心を示さなかったものと言えば、母親が彼のために定期購読した誠文堂新光社から出版されている「子供の科学」という小中校生向け科学雑誌もそうでした。この雑誌は自然科学の解説や科学の実験、工作等が載っていましたが、彼はこの雑誌をほとんど読まず「積ん読」状態になってしまいました。 全てが効果を挙げた訳ではありませんが、母親が雅人くんにこのように様々な可能性を提供しようとしてくれたことをいま回想し、母親の彼に対する深い愛情を身にしみて感じるのでした。
2018年09月28日
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前回、雅人くんは大学の文学部で歴史学を志望することにしたと書きました。しかし志望学部、志望学科に関して唐突に書きましたので、不審に思われた方も多いと思います。 雅人くんが小中高通して唯一得意だった学科科目は日本史、西洋史の歴史科目でした。雅人くんが小学校時代の愛読書にポプラ社から児童向けに多数の図版入りで出版されていた『日本の歴史』全12巻や『世界の歴史』全10巻がありました。これらの児童書を繰り返し愛読したので、小学校の社会科の歴史関係の知識はとても豊富でしたし、中高では岩波新書の『ナポレオン』『平家物語』等の歴史関係書を読み漁っていたので、彼の歴史関係の成績はなかなか良かったんですよ。 漫画や絵画の才能はないことを痛感した彼は、大学では何を志望したらいいのか大いに迷いました。高校で唯一得意な科目は歴史でしたが、彼は当初、歴史は暗記科目でしかなくて、才能の有無とは関係が無いと看做していましたが、大学への志望学部、学科を明確にすることが迫られるなかで、好きこそものの上手なれでそれも才能の一つではないかと思うようになりました。 そんなことから彼は大学で文学部、歴史学を志望することに決めたのです。
2018年09月24日
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雅人くんは、大学の附属高校を卒業した後、母方の祖母や叔父、叔母が住む仙台市の家の近くに下宿し、仙台の予備校に通うことになりました。この仙台の予備校生活はその後の雅人くんの人生の分岐点として大きな意味を持ちました> 予備校に通い始めた頃、通学路に立ち並んでいた欅並木のみずみずし緑の若葉になんとも言えぬ開放感を覚えたものです。それは何よりも長年続いた附属生活から開放されたという思いでありました。自ら選択する余地もないままに14年間過ごすことになった附属生活からやっと解放されたのです。彼は進学先として東北大学文学部を目指し歴史を学びたいと思ってたのです。 雅人くんは、仙台で始まった予備校生活に始めから予測していたことが一つありました。それは予備校ではそれほど試験の成績で苦しむことはないであろうということでした。奈良市でも他校に移った同学年の生徒がみんなそれなりに高い成績をあげ、部活などをエンジョイしていることを聞かされていたからです。 実際、雅人くんの仙台の予備校での試験の成績は初めからそれほど捨てたものではありませんでした。雅人くんは自分のことを勉強嫌いの生徒と思い込んでいましたが、附属の授業になんとか付いて行くために参考書を買って基本的なことは勉強していたのですね。予備校でそれなりの試験結果が出た雅人くんは、勉強意欲が大いに湧いてきて、下宿に帰っても毎日の予備校の予習、復習を欠かさず、予備校の授業中には自ら手を上げて黒板の前に積極的に出て英語や数学の課題を解くようになりました。 雅人くんの試験の成績は月を追って良くなり、年明けの予備校での進路指導では、志望の東北大学文学部合格確実との太鼓判を押してもらえるほどになりました。仙台での予備校生活はとても充実したものでした。 しかし、またこの仙台での一年間は緊張の糸が張り詰めたような一年間でもありました。そのことに気が付いたのは、3月上旬の国立一期校入試が間近に迫ったある日のことでした。商店街でショッピングした帰りにアーケードを抜けてふと空を仰ぎ見たときに青い青い大空か目に飛び込んで来ました。目に染み入るような青い空でした。驚くほど清冽な青空でした。そのときに彼は気が付いたのです。空を見上げる余裕さえうしなっていたことを。 3月上旬に第一志望の東北大学文学部を受験しましたが不合格となり、3月下旬に受験した二期校の大阪外国語大学中国語学科には合格することが出来ました。 雅人くんは、当時のことを振り返って思いますに、この仙台での一年間の浪人生活は張り詰めた日々でありましたが、またとても充実したものでありました。そのような一年間の猶予期間を与えてくれた今は亡き両親に心から感謝するのでした。
2018年09月15日
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いまムーブメント淸水という施設で、私は毎週木曜午前中に3時間リハビリ治療を受けています。まずエアロバイクで足腰のトレーニング、つぎに理学療法士の方による手足の揉みほぐし、そして最後にレッドコードを使っての柔軟体操をしています。これをいきなりレッドコードから開始したことがありますが、2、3日体の節々痛んで困ったことがあります。何でも順番が大切ですね。 さて話変わって、前に雅人くんが「幼稚園から小学校、中学校、高等学校と同一の大学の附属にずっと籍を置いていました」と書いたことがありましたね。そして、雅人くんの実体験から「親しい友だちも出来ず、息苦しい中高の附属生活を送ることになりました」と附属生活を否定的に描きました。 しかし、この大学の附属の校風は「自由・自主・自立」を謳っており、実際そのような校風の中で伸び伸びと育ち、社会に雄飛していった附属生が沢山おられることを雅人くんも知っており、そのことに彼自身が大いに誇りを感じています。 でも雅人くんの場合、静かな小川に足を浸して楽しく遊んでいた児童が、突然競泳用プールに投げ込まれ、溺れかかって水泳が大嫌いになったようなものでした。 雅人くんが大学の附属に通っていることを認識したのは、奈良市内の国立大学の正門近くの大豆山(まめやま)町から小学校の1年生になって同じ奈良市内の油留木(ゆるぎ)町に引っ越したときのことでした。それまで近所で一緒に遊んでいたよりちゃん、よしちゃんたちは同じ幼稚園に通っていましたし、同じ年頃の子どもたちがどこに通っているかなんて考えたこともありませんでした。 ところが油留木町に引っ越して、近くで遊んでいる雅人くんと同年代と思われる子どもたちは、小学校で全く見掛けたこともない子どもたちばかりでした。人見知りの激しい雅人くんは自分から近所の子どもたちに声も賭けられず、附属小学校で同級生とばかりばかり遊んでいました。そのときにはたと気が付いたのです。附属大学の小学校に通う子どもは世間では極めて少数派だということです。 それでもまだ小学校時代は同級生に仲良しの友だちが複数いましたから良かったですが、小学校から内部進学制度を利用して同大学の附属中学校に進級したときには親しく声を交わす友だちが極端に減りました。周囲の同級生たちがみんな雅人くんより秀才ばかりに思われ(実際そうでしたが)、彼はすっかり萎縮してしまったのです。同大学附属高校に進学したときにはその傾向は一層強まりました。アップアップしながらなんとか泳いでいる状態だったのです。 雅人くんは学校にも近所にも誰一人として親しく語り合う友人等はいない孤独で寂しい中高生活を送ったのです。その頃の雅人くんが一番悩んでいたのは自分自身の才能でした。大好きだった漫画で身を立てることなどとっくに諦めていました。油絵用のキャンバス、絵具、筆などを購入して試しに描いたりもしましたが、彼なりに満足できるものを完成することもできまんでした。ただ孤独と焦燥の日々が無駄に過ぎていくように思われました。
2018年09月09日
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幼い子どもたちはみんな将来の夢を持ったものです。スポーツが得意な元気な男の子たちの多くがプロ野球の選手に憧れたものです。 内川雅人くんですか。彼は手塚治虫のような漫画家に憧れました。いつも広告の白い後ろ紙に、鉄椀アトムに登場するひげオヤジやお茶の水博士たちをとても上手に描いていました。そんな彼の右手の中指にはペンだこ、おっと鉛筆だこがポッコリ出来たものです。 小学校の授業中も先生の話を聞くふりをして、彼は教科書の余白部分に手塚漫画のキャラクターを描いていたものです。とにかく手塚漫画のキャラクターを描かずにはおれなかったのです。 そんな手塚漫画を描くことが大好きな彼に、4才年上の従兄弟の威ちゃんがとても貴重なアドバイスをしてくれました。本当に漫画家の道を目指すなら手塚漫画にそっくりなものを描いていては駄目だよってね。威ちゃんがいいたかったことは、雅人くんならではのオリジナルな漫画が描けないと駄目だよという忠告でした。 それからです、雅人くんは漫画を描くことにスランプに陥ってしまいました。雅人くんなりの漫画を描くってどうすればいいのでしょうか。どうやっても描けません。雅人くんはこのとき漫画家になることをあきらめました。小学校五年生の頃に味わった挫折でした。しかし、勉強嫌いの雅人くんの右手中指には鉛筆だこがしっかりと残っていました。いや、いまも雅人くんの右手中指には鉛筆だこがあるんですよ。なにか悲哀を感じる右手中指の鉛筆だこです。
2018年08月30日
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内川雅人くん一家が祖父母の大豆山(まめやま)町に身を寄せていた頃の話です。 玄関に四輪の手押し式木製荷車が置かれていました。まだ幼かった雅人くんに彼の母親が、この荷車を指差しながらいろいろな思い出を語ったものです。 戦後の食糧難の時代、配給制が取られており、遅配や欠配が続き、町の人々は闇市で高額な値段の食糧品や基本的必需品を購入するか、農村部に直接買い出しに行って手に入れる必要がありました。 雅人くんの母親も、故郷の台湾から夫の実家の奈良市に引き揚げたときに持ち帰った嫁入り道具の着物などを荷車に乗せて農村部に買い出しに出掛けたそうです。 雅人くんの母親は、当然持参した着物などを農民たちは高く評価してくれて、沢山の食料品が手に入るものだと思い込んでいました。しかし、彼らは町の人間が食糧難で困っていると足もとを見て僅かな食糧品しか渡してくれませんでした。雅人くんの母はとてもくやしい思いをして、そのことを物心のついたばかりの雅人くんに何度も語ったものです。 この木製の荷車はまた乳母車の役割も果たしてくれました。粗末な木箱をその上に乗せ、幼い雅人くんを入れて、手押しでゴロゴロと舗装されていない道を歩く女性の姿こそが、最初に振動音ともに記憶された雅人くんの母親の姿でした。 l
2018年08月12日
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1953年12月に奄美が復帰しましたが、それから50年後に私が勤務している短大から奄美在住の生徒のために実施していた推薦入試のために名瀬に赴きました。名瀬の街のいたるところに「奄美復帰五十周年記念」の貼り紙が張られていましたので、推薦入試の受験生たちに軽い気持ちで「奄美復帰と言っているけれど、どこから復帰したの」と訊きました。すると受験生たちはだれもが首を傾げ、苦し紛れに「ソ連」、「中国」、「韓国」なんて答えるのです。受験生を苦しめてはいけませんので、四、五名質問してから、こんな「難問」を訊くことを止めにしました。 佐竹京子さんが2003年1月に南方新社から初版を出され、今年重版を出された『軍政下奄美の密航・密貿易』を送っていただきました。奄美は戦後に沖縄、小笠原同様に日本から行政分離されアメリカの軍政下に置かれました。行政分離後、鹿児島市の伊敷町旧歩兵第四五連隊跡に奄美への引揚者収容所が設けられています。いまは県立短期大学の敷地となっており、私は以前よくバスで三号線上にあるこの県短横を通り過ぎておりました。この奄美への引揚者収容施設から定員150人を遥かに超える乗客が密航船「宝栄丸」に乗船し、錦江湾を出港し、中之島沿岸で多数の死傷者を出しています。この他、日本から行政分離時代の教科書密航、密貿易等が詳しく紹介されています。 特に興味深かったのは、行政分離後の奄美の二人の教員が日本本土の六三三制となった新しい教育状況を知ろうと金十丸に乗って密航し、東京、神戸、鹿児島で教科書や教育資料を集め、奄美に持ち帰って役立て用と努力した事実です。でもこの二人の教員は密航の罪で教壇を追われてしまったそうです。
2018年08月08日
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去年の8月以降新たに創作短編をほぼ一週間に一篇ほど書き綴ってきましたが、それらを今回拙ホームページに纏めてみました。興味がございましたら下記のURAをご覧下さい。" http://yamamomo02.web.fc2.com/shortstorys/index.html
2018年07月28日
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1974年、その年は内川雅人くんが大学院の修士課程を修了し、博士課程に進学した年でした。 新たにアルバイトで夜間に週一回の幼稚園の宿直を開始しましが、毎夕刻、その幼稚園で勤務を終えて帰るある先生に心惹かれ、「おつかれさまでした」「よろしくお願いします」なんて簡単な挨拶を交わす度に胸をときめかせ淡い恋心を抱いたものです。 そんな幼稚園の先生が雅人くんが宿直室に辿り着いたばかりのときに、彼を待っていたのかすぐに宿直室の入り口近くにやって来て、雅人くんになんと声を掛けてきました。「私の弟に来年2月に国立大学受験を目指す高校3年生の弟がいますが、できたら英文和訳の家庭教師をしてもらえないか」というのです。どうも幼稚園に提出した履歴書から雅人くんが外国語大学の卒業生らしいと知ったようです。「理系の学科は得意なのに文系の科目が不得意で、特に英文和訳がからっきし駄目なんです」とのことです。 それから毎週1回夕方、天王寺駅から阪堺線のちんちん電車に乗って天下茶屋駅近くのその高校3年生の家まで和文英訳を教えに通いました。彼は府立天王寺高校の生徒で、理系の学科は得意で、数学などはほぼ満点を取るけれど、英文和訳は苦手とのこと。しかし天高生、流石に英単語や英文法の基礎力はしっかりしていました。ただ彼の勉強部屋の本棚に並んでいるのは学習参考書のみで、文学書と言えるような本は一冊もありませんでした。そのためか一緒に勉強を始めた頃は、使用することになった英語短編集を訳させると、とても奇妙な英文和訳の羅列に驚かされました。しかし、回数を重ねるごとに次第に分かりやすくて文法構造もしっかりした日本語に訳せるようになって行きました。 使っている英文短編集には小説、エッセイ、評論、記事などが課題文として載っており、オー・ヘンリー「賢者の贈り物」、アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」、サマーセット・モーム「月と六ペンス」などの名作も載っており、それらの一節の意味を分かりやすく解説することに高校生も次第に興味を示し出し、教える内川くんもそのことを大いに楽しんだようです。 対話を楽しんだと言えば、モハメド・アリがジョージ・フォアマンと挑戦し、劇的な8回逆転KO勝利を収めた世界ヘビー級タイトルマッチを雅人くんがテレビで観戦し、その直後に高校生の家に赴いたとき、熱を込めてその試合の有様を高校生に語ったものです。モハメド・アリは人種差別に反対し、ベトナム戦争で徴兵されたときにはそれを拒否したためにボクシングの王座を長期間剥奪されていたが、今回の世界ヘビー級タイトルマッチでは、フォアマンがエンジン全開で猛攻をかけてくるのを巧みなクリンチで忍び、フォアマンが疲れ切った8回に顎に強烈なワンツーパンチを浴びせてマットに沈めたなんてことをこと細かに語ったものです。 さて高校生の大学受験結果はどうなったでしょうか、一期校の大阪大学工学部は駄目でしたが、二期校の大阪教育大学中等教育理科コースに合格し、ご両親に喜んでもらえました。えっ、姉の幼稚園の先生とはどうだったのかって。今回もほろ苦い片思いで終わりましたよ。
2018年07月21日
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7月14日(土)に南日本新聞会館「みなみホール」で鹿児島市で立川志らく独演会があり、私たち夫婦も出掛けました。その日の演目は立川らくぼさんの「短命」、立川志らく師匠の「幇間腹」「妾馬」でした。 立川らくぼさんの古典落語「短命」では、伊勢屋の旦那の短命の原因についての大家さんと八五郎のトンチンカンな会話で大いに笑わせました。 さて次に立川志らく師師が高座に上り、まずまくらで観客を大笑いさせています。笑点の司会を長年に渡って務め、最近亡くなった桂歌丸師匠の思い出では、テレビで笑点の企画を立てたのは立川談志師だったが、酔っ払い運転だと人を轢き殺す快感を味わえないなんてブラックユーモア好きの談志師匠が司会を務めていたら番組は長続きしなかっただろうとか、山田洋次監督の「家族はつらいよ」に志らく師匠は刑事役で出たが、同じく出演していた林家正蔵師匠の芝居が下手なため山田監督のダメ出しが繰り返されたとか、志らく師匠が演出する芝居に蛭子さんが出演したが、台詞を全く覚えないために物語のストーリーが続かなかったなどという裏話が語られたりしています また志らく師匠が美空ひばりの「悲しい酒」のメロディーで「どんぐりコロコロ」を熱唱するサービスもあり、館内は爆笑の渦に包まれました。 本題の演目では「幇間腹」が語られ、中入りの後に「妾馬」が語られます。八五郎が大名の世継ぎを産んだ妹を祝うとともに母親が孫のだっこをしたり子守歌を歌ったりすることも出来ない悲しみを語る場面で、私の前の席の老婦人がハンカチを取り出して顔を拭い出しました。館内は冷房も効いており、汗を拭うなんて変だなと思いましたら、涙ぐんでいるのです。この古典落語は大いに観客をしんみりさせるのですが、志らく師匠は大名が母親にだっこも子守歌もオッケーと許可を与えていす。 ところでこの古典落語は「八五郎出世」という題名で語られることが多いのですが、志らく師匠はこの噺の最後に題名が「妾馬」であるとしています。なんて「妾馬」なんて題名なんでしようか。ネットで調べてみると、この古典落語に噺の続きがあって、武士に出世した八五郎が使者の役を仰せつかって馬で出掛けています。それで何となく納得です。
2018年07月16日
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今日は雅人くんが学生時代に女の子を泣かせた話をしたいと思います。 あれは夏の蒸し暑い日のことでした。彼女が突然泣き出し、部屋を黙って出て行きました。一人取り残された雅人くんは、彼女の後を追わず、ただ扇風機だけが静かに首を左右に振りながら風を送って来る状態にまかせていました。 しばらくすると部屋をノックして彼女の母親が入って来ました。母親は、言いにくそうに彼女が黙って部屋を出て行った理由を雅人くんに伝え始めました。 母親の話だと、彼女が数学の解答を間違う度に雅人くんが馬鹿にしたように笑うのが嫌で堪らず部屋を飛び出したというのです。 雅人くんが中学一年生の彼女のために数学の家庭教師となって3回目くらいのときのことだったと思います。お世辞にも彼女の学力は高いとは言えず、初歩的なレベルで躓き、珍回答とも言うべき解答を何度も披露してくれました。 こんなとき、どう対応したらいいのでしょうか。家庭教師としての経験未熟な雅人くんは、少なくとも彼女が間違う度に厳しく叱責するようなことだけはしないでおこうと思っていました。間違った解法理由をじっくりと聞いて、その誤りの根っこから根気強く正していくべきだろうくらいのことは分かっていました。 でも彼女が何度も同じ様な箇所で躓くので、そのようなときは叱責するようなことはせず、じっと我慢し、出来るだけこやかにtk彼女の躓き理由を明らかにし、その誤りの理由を説明し、正しい解法を繰り返し彼女に伝えるとにしました。でもそのときの雅人くんの笑顔が彼女には馬鹿にされたように感じられたのでしょう。また雅人くんはそのとき無意識に小さな笑い声も出していたかもしれません。 雅人くんは、中高時代お世辞にも出来のよい生徒ではありませんでした。授業中に当てられて間違った恥ずかしい体験を何度も繰り返しています。ですから、叱責されるようなことだけでなく、笑われるようななことも辛い体験としてしっかり記憶されています。それだけに母親から「馬鹿にしたように笑うのが嫌で堪らなかった」との言葉を聞いて驚き、雅人くんは深く反省するのでした。 雅人くんは中学生に謝り、その後数回数学を教えに彼女の家に赴きましたが、その後上手くいったという記憶は全くありませ。その後、切りのいいところで彼女の家庭教師を辞めました。その後も家庭教師は何度かやりましたが、幸い女の子を教えたことは一度もありませんでした。 でもそんな雅人くんがなんとその後に女子の短大で教えるようになりましたから、きっと沢山の女の子を泣かせたに違いありません。
2018年07月08日
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去年、杜甫の詩文中の「人生七十古来希なり」に由来する古希を迎えましたが、また七十の誕生日を迎えた直後に軽い脳梗塞を患ってしまいました。そして入院中の検査で大動脈弁狭窄症の症状があることが判明いたしました。 若い頃は就活に迷いましたが、古希を過ぎると待ったなしに終活を考えざるを得なくなりました。勿論心身ともに矍鑠(かくしゃく)とした老後を過ごせれば素晴らしいことですが、寝たきりの認知症老人なんてことになる可能性も大いにあり得ると思います。 ですから認知症を患って自己判断能力を失う前に、「身体にメスを入れてさらに身体を弱らせたりするようなことは御免こうむりたいし、間違っても「点滴や胃ろう、人工呼吸器などによって延命措置を取るようなことだけはしないでほしい」との気持ちを家族に伝えるくらいの終活をしておくことにいたします。
2018年07月07日
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映画の予告編で館ひろし主演の「終わった人」が突然映し出され、あのダンディの象徴のような彼のなんと疲れきったような老け顔が大きく写し出され、そこに大きく「夢なし、趣味なし、仕事なし、そしてわが家に居場所なし」のコピーが続いたとき、私は思わず自虐的な思いから大笑いしてしまいましたが、また是非これは見てみたいと思いました。 昨日(六月三十日)鹿児島ミッテ10に出掛け、この映画を見ましたが、見終わっての感想は、やっぱり館ひろしはダンディでかっこいいなと言うことでした。そりゃそうですよね、ダサイ初老男を長時間見せられ続けたらたまりませんよね。 この映画はその点でとても上手く出来ています。定年退職をした館ひろしがまさに「夢なし、趣味なし、仕事なし、そしてわが家に居場所なし」状態の姿をしばらく描いた後に、IT企業ゴールドツリー社の若手社長今井翼から顧問になってもらいたいと要請を受けた後の館ひろしは急速に活力を取り戻していき、え物語は意外な展開を見せ、悲劇的な結末を迎えるのかと思いきや、最後は一応ハッピーエンドで結ばれます。 この映画のもう一つの見どころは館ひろしと黒木瞳の夫婦関係でしょう。この二人の夫婦関係は館ひろしが定年を迎える前から相当冷え切っているような感じで、お互い顔を向き合っていません。ですから卒婚という形式(法律上は離婚という形を取らず、夫婦それぞれの生活をする形態)を取ることになります。 夫の館ひろろしは故郷の盛岡に帰り、盛岡復興のために頑張っている友人のNPO法人に参加することになり、妻の黒木瞳は東京で美容室を経営するのです。まあこんな形式の夫婦のあり方も寂しいけれどこれから増えていくのかなって思いました。
2018年07月01日
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内川雅人くんが高校2年生のとき、彼の父親は大阪府松原市に一軒家を借りて民間会社で働き始めましたが、半年も経たないうちに「いやだ、いやだ」と音を上げ始めました。 父親は畑地灌漑のためにスプリンクラーの技術的な設計、施工をすることを主として考えていましたが、まだまだスプリンクラーが畑地には普及していませんでしたから、まず農家にパンフレットを持ち歩いて宣伝普及活動をしなければなりません。一軒一軒農家に頭を下げて廻っての営業活動は、これまで大学教員をしていた父親には大変苦痛なものだったようで、土日に奈良の家に帰ると雅人くんの母に「民間会社を辞めたい」と弱音を吐くようになりました。 そんな父親の心を慰めたのが畠山みどりが唄ってヒットした「出世街道」(作詞:星野哲郎 作曲:市川昭介 )でした。レコード店で購入して来たこの歌謡曲の「やるぞみておれ、口にはださず」「男のぞみをつらぬく時にゃ、敵は百万、こちらは一人」「俺の墓場は、おいらがさがす、そうだその気でゆこうじゃないか」「泣くな怒るな、こらえてすてろ、明日も嵐が、待ってるものを」なんて歌詞部分を何度も口ずさんでいたものです。 しかし雅人くんの父親は、民間会社に転職して3年も経たないうちにとうとう辞職してしまいました。雅人くんがちょうど大学に入学したばかりのときで、父親が無職だったので大学の事務で授業料免除、奨学金(日本育英会)貸与の申請手続きを行ったこを彼は鮮明に覚えています。 しかしその後、父親は以前勤務していた大学から内地留学先でお世話になった教授の紹介で、島根の大学に新たに職を得ることができました。 そんな父親のこの民間会社での体験が、雅人くんのその後の生き方に大きな影響を与えたものです。
2018年06月22日
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前回、「雅人くんは幼稚園から小学校、中学校、高等学校と同一の大学の附属にずっと籍を置いていましたから、とても息苦しい思いをしていました。それが別の府県の全く異なる高校に転籍できる可能性が生じたのですから、こんな嬉しいことはありません」と書きました。 なお、雅人くんが通った大学附属の進学の仕組みをちょっと説明しておきます。1973年から附属は中高一貫教育に移行し、附属幼稚園、小学校から附属中高への内部進学制度は廃止され、中学校への外部進学者のみの中高一貫校になりましたが、雅人くんが通っていた頃の附属中高は附属小学校から内部進学者と外部進学者が混在していました。他の小中からこの付属の中学やさらには高等学校へ外部進学することは非常に難関で、同高校は県下随一の進学校と評価されていました。 しかし、内部進学者のなかには学力に些か疑問符が付く生徒もいたのです。そんな生徒の一人が雅人くんでした。小学校六年一学期末に雅人くんの母親が小学校から青ざめた顔をして家に帰ってきました。担任の先生から、このままでは附属中学校に進学できないと言われたのです。雅人くんの母親は学校の成績抜群の才媛でしたから、自分の息子も同様に成績優秀と思い込んでいたのですから、担任の先生の話を聞いてサーッと血の気が引いたそうです。その日から毎日ずっと母の雅人くんに対する特訓が開始され、なんとか彼を附属中学に押し込むことができました。 母親の急遽の特訓の成果でなんとか附属中学に内部進学することができた雅人くんでしたが、附属中学では難関試験を乗り越えて外部進学してきた秀才たちと席を並べることになりました。これまで机に座ってじっくり勉強などしたことのない雅人くんでしたから、基礎学力が不足しており、継続して勉強する習慣もこれまでありません。親しい友だちも出来ず、息苦しい中高の附属生活を送ることになりました。 秀才たちの集団に突然投げ込まれた競争させられた雅人くんの息苦しさは、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下で』の主人公が神学校の秀才たちとの競争のなかで精神を疲弊させていく心理に通じるものがあったようです。 そんな雅人くの附属生活高校一年生末期になって、父親の転職に伴う一家引っ越しを理由にしての他高校への転学話が持ち上がったのですから、彼は大喜びしました。 ところが残念、結局は一家引っ越しせず、雅人くんの転校話も立ち消えになってしまいました。彼の父親の転職しなかっのでしょうか。いえいえ、雅人くんの父親は大阪府茨木市の民間会社で働くことになりましたが、その会社の近くに家を借りて単身赴任することになったのです。 なぜ雅人くん一家の引っ越し話は立ち消えになったのでしょうか。いま住んでいる家は内川家先祖伝来のものだからで、売ることはもちろん駄目で、他人に貸すことも難しいという理由でした。そんなことを突然言い出したのは雅人くんの母親でしたから、雅人くんは大変驚きました。夫と連れだって内川家の先祖の墓参りなどほとんどしたことのないような母親が「内川先祖の家を大切にしなければならない」なんて突然言い出したのですから、雅人くんは大いに首を傾げましたが、結局は父親だけが大阪府茨木市に新たに借りた家に単身赴任することになりました。 いま雅人くんは思うのでした。なぜ彼はそのとき大声を上げて「もういまの高校生活には窒息しそうだ。他校に転校させてくれ」と言わなかったのでしょうか。いつも優柔不断な自分自身に恥じ入るばかりです。うん、そうですね、やはり附属のことですから、決断力がフゾクしていた、いやフソクしていたのは致し方なかったでしょうね。えー、お後はよろしいようで。
2018年06月15日
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雅人くんの父親の転職と雅人くんの転校 あれは内川雅人くんが高校一年生三学期の頃のことだと思います。雅人くんの父親が家に帰って来てすぐに彼の母親に大きな声で言いました。 「今の勤務先の大学を辞めて民間会社に入らないかという話がある。給与はいまの倍になるし、専門も活かせる。」 当時、雅人くんの父親は奈良の学芸大学の教育学部職業学科で教えていました。父親の本来の専門は農業土木でスプリンクラーの研究をしていました。転職先の民間会社は畑地灌漑のためにスプリンクラーを販売施工する企業でし なお、この民間企業は大阪府茨木市にあるとのことで、いま住んでいる奈良市から通勤に五、六時間は掛かるとのことでした。この企業に父親が転職するためには、いまの住居は転居し、雅人君の母親はいまの職場を辞めねばならず、雅人くんも転校しなければなりません。 身体の弱かった母親は自分の教師生活に疲れ切っており、共稼ぎ生活を辞めて自分が専業主婦になることを大喜びしました。では息子の雅人君は高校転校話が話題に上がったとき、どのように思ったでしょうか。悲しんだでしょうか、それとも喜んだでしょうか。そのとき雅人くんはなんともいえぬ解放感を味わいました。 雅人くんは幼稚園から小学校、中学校、高等学校と同一の大学の附属にずっと籍を置いていましたから、とても息苦しい思いをしていました。それが別の府県の全く異なる高校に転籍できる可能性が生じたのですから、こんな嬉しいことはありません。。
2018年06月11日
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東映フライヤーズが優勝した年はいつだったかな? その頃、私は何年生だったのかな? おっと、東映フライヤーズについての説明がまず必要でしょうね。1954年から1972年までパシフィックリーグに所属していたプロ野球チームの名前で、いまの日本ハムファイターズの前身ですね。ウィクペディアで調べると1962年(昭和37年)に水原茂監督の指揮の下、土橋正幸、尾崎行雄両エースを擁してパリーグで優勝し、日本シリーズでも阪神タイガースを破って日本一に輝いています。私が中学校2年生のときです。 この頃に活躍した同球団の野手陣は、毒島、青野、吉田(勝豊)、張本、山本(八郎)、西園寺、岩下、安藤等だったと記憶しています。 小学生の頃、大友柳太朗、市川右太衛門、中村錦之助たちが活躍する東映時代劇映画が大好きだった私は、野球も小学校時代はラジオで、中学校時代はテレビの野球中継でいつも東映フライヤーズを応援していました。同チームはパリーグで万年五位(万年最下位は近鉄バッファローズでした)でしたが、61年に巨人軍から水原茂を監督に迎え、62年に高校2年中退ルーキーの尾崎が加わり、内野の守備陣を青野、岩下で堅め、打撃陣は毒島、吉田、張本、山本たちで強化し、パリーグで南海フォークスと優勝を競うまでになりました。 その頃までは、中学生だった私は、家でテレビ中継を視聴するだけで我慢していましたが、東映フライヤーズがパリーグで優勝を競うようになりますと、母におねだりして森ノ宮球場に対近鉄戦、難波球場に対南海戦の野球観戦に出掛けたものです。 母は学校の教師でしたが、養命酒などをいつも愛飲しているような虚弱体質で、土曜日や日曜日は家でゆっくり休養したかったでしょうが、東映フライヤーズを熱心に応援する一人息子のためにプロ野球観戦のために大阪まで連れて行ってくれました。母はそれほど野球には関心が無かったようですが、球場観戦で「わっ、土橋投手だ、張本だ」と歓声を上げて喜ぶ息子の顔を見てきっと幸福感を味わっていたのでしょうね。それは私自身が後に人の親となって初めて気が付きいたことです。 私たち母子が森ノ宮球場に初めてプロ野球観戦に出掛けたとき、球場三塁側でネット越しに東映フライヤーズの選手たちを目の当たりにした母が、「身体が大きく顔が艶やか健康そうね」と感嘆していたのがとても印象的でした。 2回目のプロ野球観戦は、大阪難波球場でした。この球場は南海ホークスのホームグラウンドで、杉浦投手、野村捕手、広瀬野手たちが活躍していました。 しかし、東映フライヤーズが1962年秋にパリーグで優勝し、日本シリーズでも阪神タイガースを破って日本一に輝いてから、私の野球熱は急速に冷めていきました。 なお、宮部みゆきのミステリー作品『火車』の文中に、大阪人のスポーツウーマンの真智子先生が南海ホークスのダイエー買収後の大阪難波球場のことを紹介し、このミステリードラマで下記のような意外な役割を演じているのを紹介していることに驚きました。 「一九八八年に九月に、南海ホークスがダイエーに買収されて福岡に移ったでしょう。だから空いちゃったのよ、大阪球場が。取り壊しもされないまんま。いまでも残ってる。イベントの会場になったり中古車販売フェアの会場に使われたりしながらね。」
2018年05月27日
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