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▼からくり カストロ暗殺計画も政権を超えて水面下で継続していた。このことは、新政権が全く意図しない出来事が起きる可能性が常にあることを意味する。ある日、突然、米国の大統領も知らないまま、他国のリーダーがCIAの陰謀で殺されることも起き得たわけだ。そうならば、仮に国家の危機を未然に防ぐという使命を担ってきたCIAが、国家安全保障上、正当化されることなら、何をしても許されるという命題を与えられたら、一体、どんなことまでCIAは実行を躊躇しないのだろうか。カストロ転覆計画を自らの決断力のなさで失敗させ、ミサイル危機後も一向にミサイルを撤去しないキューバに対し、何ら有効な対策を採ろうとしない、国家にとっての“危険人物”(メモ32参照)を始末することも躊躇しないのか。 CIAの暴走の一端を垣間見ると、政権内部に、大統領とは別の独立した作戦遂行の命令系統ができてしまったように思えてならない。同時に、このからくりを理解しない限り、ケネディ暗殺の真相を解明することもできないのだ。 ケネディ暗殺事件の研究家が落ち込む矛盾は、実は、ここに起因している。キューバ侵攻を実現させるため、カストロをケネディ暗殺に結びつけようとするCIA強硬派・反カストロ分子の勢力と、米ソ大戦を回避するため、カストロの関与を一切否定しようとする、ジョンソン大統領とその命令を受けたFBIの勢力。このために、カストロの関与を示す証拠が出てきたかと思うと、それを打ち消す証拠が出てくる。相矛盾する証拠隠滅工作が出てくるのはこのためだ(メモ33参照)。これとは別に、CIAと闇の勢力の関係を隠そうとする政府全体の思惑と、ケネディ暗殺を未然に防げなかったFBIの責任逃れの工作が絡み合う。この相反する目的を持つ権力の存在と、組織を是が非でも守ろうとするCIAとFBIの伝統的な工作が、ケネディ暗殺のミステリーをつくり上げてきたのだ。(続く)(メモ32=CIAにとっての危険人物) CIAからみて、ケネディ大統領が国家(少なくとも組織)の利益を危うくする危険人物だったとする説を採っているのが、ロバート・マローだ。その一つ目の根拠は、ピッグス湾事件の失敗と、それに続くCIAに対する粛正。粛正の延長線上には、CIAに替わる諜報機関の設立(編注:オペレーション・マングースはその一環)も視野にあったため、CIAは組織弱体化を阻止するため、ケネディに対して必死に抵抗した。二つ目は、ケネディは大統領就任早々、キューバでミサイル基地が建設中であるというCIAの報告を受けておきながら、62年の議会選挙に利用するため、そのことを62年10月まで国民に隠し、選挙の直前に人類を救ったヒーローになるという政治的筋書きを“演出”したこと。米国の安全保障がこの政治的演出のための道具にされる一方で、ケネディは議会内での民主党の基盤を強化するとともに、政敵であるニクソンのカリフォルニア知事選敗退という結果を手に入れた。これは米国の利益をもてあそぶ、背任行為に匹敵するとの考え。第三の根拠は、キューバのミサイル危機後も、実はミサイルが撤去されていないことを知っておきながら、それを容認。逆にソ連の“ミサイル撤去”に応じる形で、トルコの米軍基地からのミサイル撤去を決め、国家安全保障上、米国に多大な不利益をもたらした。マローはこうした理由から、ケネディ政権による自作自演の情報操作と政治的妥協に嫌気がさしたCIAがある時点で、“CIAの敵”であるケネディの抹殺を実行に移したとみている。(メモ33=証拠隠滅工作) ここでは一つ一つ検証することはしないが、CIA・反カストロ分子の隠滅工作はケネディ暗殺前に始まり、ジョンソン・FBIの隠滅工作は暗殺後に始まった、と簡潔に表現することもできる。 ジョンソン・FBIの工作は、フーバー長官がジョンソンの部下、ウォルター・ジェンキンスとの電話の会話で意味じくも漏らしたように「カゼンバック氏(司法副長官)と同様、私が気にしているのは、オズワルドが真の犯人であると国民に信じ込ませるために何かを発表するということ」だった。そのカゼンバック副長官はさらにはっきりと「オズワルドの動機に関する憶測は断ち切らなければならない。我々は共産主義の陰謀だとかいう考えをやり込めるための根拠を持つべきだ」と語っている。そういう政府の意志でできあがったのが、あのウォレン委員会の報告書だった。 CIA・反カストロ分子の工作は、オズワルドをいかに共産主義、特にカストロと結びつけるかだった。オズワルドが、わざとらしくカストロ賛美のパンフレットを配ったり、オズワルドと名乗る男がメキシコのキューバ大使館かソ連大使館で「ケネディを殺してやる」と叫んだりした工作がこれに当たる。あるいは、オズワルドがソ連の女性と結婚したこと自体もCIAのよる陰謀の一環なのかもしれない。
2005.06.30
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▼反逆 これら以外にもCIA内部の暴走を臭わせる出来事は、数多くある。たとえば、ピッグス湾事件後、CIAへの不信感からケネディ大統領が、国防省、国務省、CIAの反カストロ計画(暗号名・マングース)を調整するために設置した特別グループの中でも、マングースを担当するCIAの「タスク・フォース・W」は、自ら手掛けているマフィアを使ったカストロ暗殺計画については何の報告もしていない。63年3月、反カストロ分子がハバナのソ連船を攻撃した際、CIAはケネディ政権の意志に反して、この攻撃を支援したことが分かっている。 CIAが認め、公にしている作戦だけで、これだけCIAが暴走していく過程がうかがえるのだ。当然、今でも極秘事項となっている作戦(メモ30参照)もあるわけで、そういう作戦では、CIAがどこまで反逆・暴走したか、想像することもできない。 CIAに対するチェックが効かない、こうした仕組みの中では、CIAは独自の判断の下で現政権とは異なる政策を実行できる。話を60年のニクソンによる密約に戻してみよう。この密約に沿ったニクソン大統領の命令が、ケネディ政権になっても、そのまま有効だったことは明白だ。しかも、その時の手段と目的は、新政権とは独立して、新政権の承認を得ないまま、かってに動き出す。ピッグス湾事件で、CIAはニクソン前副大統領の密約に沿って、ケネディの知らないところで、反カストロ分子左派をフロリダで監禁、コーリー政権誕生の手助けをしようとしたことが、その例だ(メモ31参照)。 これは、実質的に60年のニクソンの命令が、そのまま一人歩きし、ケネディの命令を超越して存在していたことにならないか。つまり、新政権に止めろと言われない限り、CIAは前政権の命令を遂行し続けるわけだ。だが、前政権の作戦を新政権に報告しなければ、新政権の政策担当者は、どうやって知らされていない作戦の中止を命令できるのか。(続く)(メモ30=公表されない極秘の作戦) 1969年にCIAを辞めたヴィクター・マルチェッティによると、CIAは自分の悪行がもはや隠し通せないと知ると、真実のほんの一部だけを公表して、国民やマスコミの関心をそちらに引きつけ、CIAに致命傷を与えるような情報を隠すリミテッド・ハングアウト(制限された悪の巣窟)という戦略をよくとるのだという。一種の陽動作戦ともいえるもので、もし、この作戦をカストロ暗殺計画に当てはめると、CIAが、マフィアを使った暗殺計画や「タスク・フォース・W」を公に認めたのは、CIAに決定的打撃を与えるような別の暗殺計画を隠すためだったとも解釈できる。事実、CIAが公表したカストロ暗殺計画には、反カストロ活動ではCIAの第一人者といえるハワード・ハントの名前が主要人物として出てこないのをはじめ、メモ37で述べるオペレーション40という亡命キューバ人を使った暗殺集団の記述もまったくない。公表されていない極秘の作戦が存在したという疑いの根拠はここにある。(メモ31=反カストロ左派の監禁) 反カストロ分子がキューバ侵攻をする際、CIAはキューバ国民に評判が良くなかったバティスタ前政権色を薄めるために、左派系反カストロ分子を入れるよう画策していた。しかし、これは右派系反カストロ分子にとっても、当時のニクソン副大統領にとっても、好ましいことではなかった。そこで、1960年の密約ではキューバ上陸が成功した場合には、直ちに左派系分子のリーダーを抹殺することが決まったのだ。このことはコーリー親子が認めていることは先に述べたが、後にケネディにピッグス湾事件の失敗の責任を取らされて解任されたCIAのチャールズ・カベル副長官も知っていたと、CIA工作員、ロバート・マローは証言している。以下にマローらの話をまとめた。 コーリーから密約を知らされてから間もなく、マローがCIAのマロー担当部員、トレイシー・バーンズに、カベル副長官がいる前で、密約が本当かどうか質したところ、彼らはそれを認めた。 年が変わって61年、ピッグス湾事件の直前、左派系のキューバ革命前線がキューバ侵攻に参加することが決まった。コーリーは、息子に部下のぺぺ・ピネロ大佐と後にCIAの情報員になったサンチェス・モスケラ大佐に連絡を取り、左派系の参加についてはこちらで処分するので心配する必要がない旨伝えるよう電話している。 マローはキューバへの侵攻が始まった61年4月17日、バーンズからミロ・カルドーナらキューバ革命前線のリーダーが、CIAの手でフロリダ州のオパ・ロッカで監禁されているとの報告を受けた。バーンズは「侵攻作戦に参加している二人を除いて、カルドーナとその仲間はここCIAの基地で武装したガードに監視されながら監禁された。馬鹿なやつらだ。キューバ侵攻が成功すれば、自分たちがどうなるかも知らないで!もし、知っていたら、フィデル・カストロの愛すべき腕から離れることはなかっただろうに」とマローに話した。マローはこれを彼らが抹殺されるのだと理解する。 2日後の4月19日、監禁されていたキューバ革命前線の一人、トニー・ヴェローナが監視の隙を見つけて、トイレの窓を破って脱走。すぐにホワイトハウスに、怒りに震えながら電話した。ケネディはアーサー・シュレジンジャー・ジュニアらを派遣、監禁されていたキューバ人から事情を聴いた。しかし、彼らも何故監禁されたのか分からなかったので、この時点でもケネディは60年のニクソンらの密約に気付かなかった、という。 結局、ケネディが第二次空爆を認めなかったこともあり、ピッグス湾事件は大失敗に終わるが、この失敗のお陰で、キューバ革命前線のリーダーたちは殺されずにすんだわけだ。 ケネディは翌20日、今後のキューバ問題のアドバイスを受けるため、ニクソンをホワイトハウスに呼んだ。ケネディは上陸作戦に関係したキューバ人が作戦で肉親や友人をなくし非常に怒っているとニクソンに伝えた上で、ニクソンの目の前で見境もなく、CIAの作戦担当者の実名を挙げ、なじり、ののしった。勝ち誇ったようなニクソンと失意のどん底にあるケネディ。元々はニクソンとCIAの計画でもあるキューバ侵攻が失敗し、しかもその失敗の一因には、ニクソンの密約を含め旧政権と新政権の間に完全な意志の疎通や引き継ぎがなかったことが関係していることを考えると、何とも皮肉な組み合わせだ。
2005.06.29
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今日の東京中心部の気温は何と36・2度。そのうだるような暑さの中、七福神の恵比須様を探しに行きました。実に短絡的な発想で、向かったのはJRの恵比寿駅。まず恵比寿神社にお参り。だけどここには、恵比寿像はないようです。恵比寿駅西口広場。待ち合わせ場所で有名な恵比寿像がありますね。恵比寿像です。鯛を抱えていますね。観察していると、結構触っていく人がいます。すぐそばのEBSビル二階にも恵比寿像が・・・。メタリックな恵比寿様ですね。これは恵比寿像ではありません。招き猫ですね。ガードレール下の通路の壁には恵比寿顔のマーク。え~と、これはエビスの生です。おっと、この恵比寿様が右手に持っているものは・・・ビール!?そう、ここはサッポロビール本社に隣接する恵比寿麦酒記念館(無料)。上の写真は館内に置いてある恵比寿様の置物でした。下はサッポロエビスビールのロゴ。麦酒記念館では麦酒の歴史が学べます。1890年、サッポロビールの前身である日本麦酒醸造会社が当時三田村と呼ばれていた渋谷区恵比寿に設立した工場で、「恵比寿ビール」が誕生。この商売繁盛の神様「恵比寿」にあやかった銘柄が駅の名前となり、町の名前になりました。明治20年ごろのエビスビールとそのラベルです。世界のビールの歴史は古く、紀元前3000年ごろのメソポタミア文明。シュメール人が残した粘土板にビールに関する記述があるそうです。「ハムラビ法典」には、「ビールの支払いは麦で行うべし。銀で支払うもの、またこれを優遇するものは、水中に投げ込まれる」と記されているとか。古代エジプトの壁画にはビールを飲んで酔っ払った人を描いた最古の絵が残っているそうです。「ビール一杯と命の保証さえ手に入れることができたら、名誉なんかくれてやってもいいんだ」――シェークスピア『ヘンリー5世』からの引用。馬越恭平。日本に初めてビアホールを作った「東洋のビール王」だそうです。さて、ここで問題です。なぜ私は龍の彫り物や恵比寿像の写真を撮っているのでしょうか? おわかりの方はかなり勘の鋭い人ですね。明日は北陸方面が豪雨だそうです。北陸地方にお住まいの方は気を付けてください。
2005.06.28
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▼続行 一方、更迭前のビッセルから方法を問わないからカストロを始末しろと言われたハルパンは63年1月、ハーヴィーに替わって「タスク・フォース・W」の指揮官になったデスモンド・フィッツジェラルドとカストロ暗殺の方法などについて協議するようになる。 ハーヴィーは63年1月まで、ロセッリら裏の人間を使った暗殺計画を依然として続けていたが、計画がいずれも失敗したため、暗殺計画の断念をロセッリに伝える。しかし、ロセッリはそのことを“協力者”に伝えない。 63年8月16日、CIAとマフィアの関係を報じた新聞を見たマコーン長官は、ヘルムズに関係を質す。ヘルムズはエドワーズが以前、作成した偽りの報告書のコピーをマコーンに送り、そのような作戦はとっくの昔に中止されたと報告。 その間、ハーヴィーの「タスク・フォース・W」を引き継いだフィッツジェラルドは、組織名を「スペシャル・アフェアーズ・スタッフ」に変えて、反カストロ派のキューバ人を使ったカストロ暗殺計画を実行に移そうとしていた。この計画は、実にケネディ暗殺の当日まで続けられ、まさにその日に、フィッツジェラルドはパリでカストロ暗殺用の道具をキューバ人の反カストロ分子、ロランド・キュベーラ(暗号名・アムラッシュ、メモ29参照)に手渡している。しかも、CIA公式文書では、ケネディ暗殺を機にアムラッシュによる計画は変更され、CIAはアムラッシュとの関係を絶ったとされているが、その後も、少なくとも65年6月まで、CIAはアムラッシュの暗殺計画を支援し続けていた。 リチャード・ヘルムズが66年、ディーン・ラスク国務長官に送ったメモによると、アムラッシュとの関係はあくまでも情報収集であるとした上で「CIAはアムラッシュの暗殺計画には何ら関与していないし、計画を支援したこともない」ことになっている。しかし、ヘルムズは後に、議会の調査に対し、このメモは“不正確”だったことをやっと認めている。(続く)
2005.06.28
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▼ウソと無視 やがて62年5月になると、CIA内部の分裂は、より深刻になる。糸が切れた凧のように、コントロール不能となったCIA強硬派が国際政治の嵐の中を暴走していくのだ。同月7日、ロバート・ケネディ司法長官の要請で、渋々マフィアを使ったカストロ暗殺計画について説明したエドワーズらは、ここでロバート・ケネディ司法長官に「暗殺計画はもう終わりました」と、ウソをつく。ケネディ長官は「私に知らせること無しに、今後一切、マフィアを使った作戦は認めない」と命令するが、エドワーズはこの命令を無視。その頃、マフィアを使った裏の仕事をエドワーズから引き継ぎ、62年1月から「タスク・フォース・W」という対カストロ工作チームのリーダーになっていたウィリアム・ハーヴィー(メモ27参照)に作戦中止命令を伝えなかった。逆にエドワーズらは5月14日、マコーンCIA長官には暗殺計画のことは一切、報告しないよう画策。後にニクソン政権下でCIA長官として活躍するヘルムズも長官には伝えないことで合意する。エドワーズは「部下にはロセッリというマフィアを使った計画はすべて中止するように命じた」とする実質的に偽りのメモを作成。同時にロバート・ケネディ長官に対し、5月7日の説明をまとめたメモを送付した。実質的に何の意味もないメモだ。もちろんエドワーズやハーヴィーにとっては、ロセッリを使った暗殺計画が継続していることは暗黙の了解だった。 こうしてCIAの組織の一部は暴走を始めたのだ。自分たちで都合のいいように長官の命令を解釈、長官にはウソの報告書を提出し、そして独自の作戦をかってに実行してしまう。62年6月には、ロセッリの説明によると、“ヒットマン3人”がキューバに送り込まれる。9月7日と11日、ハーヴィーはマイアミでロセッリに会い、暗殺計画の進展具合についての報告を受ける。ハーヴィーは「計画はどうせ成功しないと思った」という理由から、暗殺計画に元々反対しているマコーン長官にこのことは一切報告していない。(続く)(メモ27=ウイリアム・ハーヴィー) 1961年1月、リチャード・ビッセル計画局次長から他国の首脳暗殺をしてもよいというお墨付き(殺しのライセンス)をもらい、シェフィールド・エドワーズの後を継ぎ、CIAによるカストロ暗殺計画を担当。マコーン長官がカストロ暗殺に反対していたにもかかわらず、長官に報告せずにマフィアを使った暗殺計画を進めた。 ハーヴィーは太っていたため、飛行機はいつもファーストクラス。よく飲み、大声を出すことで知られた。拳銃をいつも携行、レストランでは上着を脱ぐため、拳銃が他の客に丸見えになっていたという。また、ハーヴィーはFBIからCIAに鞍替えした異色の経歴を持つため、フーバーFBI長官は、ハーヴィーのことをよく思っていなかった。
2005.06.27
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梅雨前線はどこかへ消失、真夏のような日々が続いています。異常気象も毎年のことなので、通常気象のようになってしまいましたね。今日は龍神を探して、お寺めぐり。かめちゃん☆さんが紹介してくれた「ドラゴンを探せ!」のサイトで、めぼしい場所をチェックして、東京・世田谷の三軒茶屋と下馬を訪れました。最初に訪れたのは正連寺。ちょっと見づらいかもしれませんが、向拝虹梁の部分に龍が彫られています。次は西澄寺・本殿内の虹梁に彫られた龍。かわいい目をしていますね。向拝虹梁にも龍の彫り物がありました。ちょっと角度がついてしまうので、見づらいです。世田谷観音寺本殿の彫り物は、かなりはっきりとした立派な龍です。六角堂の前にも龍の彫刻がありました。これは剣を守る龍ですね。龍の写真を撮ったので、その足で上井草へ。かつてグラウンドで練習中に巨大な龍を見たのは、早稲田の今泉コーチでしたね。この日は早稲田のCとDが関東学院のCとDを破り、昨日とあわせて「グランドスラム」を達成。Cで出場した一年生の長尾、佐藤などいいバックスが入ってきましたね。下の写真はDチームのラインアウト。実はナット・ストレートでした。上井草からの帰り道。何気に通った杉並区の馬橋稲荷神社にも龍を発見。鳥居に彫られています。龍づくしの一日でした。
2005.06.26
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▼暗黙と粛清 CIA側でマヒューと接触をする役目は、リチャード・ビッセル計画局次長(メモ26参照)の意向を受けたシェフィールド・エドワーズ安全保障担当部長と、その部下のジェームズ・オコネルが受け持った。ビッセルとエドワーズは60年9月中旬には、アレン・ダレスCIA長官とチャールズ・キャベル副長官(メモ27参照)にマフィアを使ったカストロ政権転覆計画を説明。ビッセルは、ダレスが暗殺計画を承認したと理解する。 しかし、61年4月のピッグス湾事件の大失態後、CIAに対する風当たりが厳しくなる。ケネディは、ダレス長官とキャベル副長官を相次いで更迭。ところが、CIAは61年9月、ダレス長官の後任に決まったマコーンに対し、対キューバ作戦を説明するが、過去を含め現在進行中のカストロ暗殺計画については一切、触れず、マフィアを使っていることも知らせなかった。62年4月に副長官に就任したカーターに対しても、同様に暗殺計画は知らせた形跡はない。 ピッグス湾事件で、ケネディにしきりに空爆を進言したビッセルもケネディに“粛清”される。61年10月、ケネディ大統領とロバート・ケネディ司法長官からカストロ政権転覆に失敗したことで激しく責められたビッセルは、カリブ海諸国担当のサム・ハルパンらに、手段は一切問わないからカストロを始末しろと命令するが、後に更迭され、後任にはリチャード・ヘルムズが就任する。(続く)(メモ26=リチャード・ビッセル) ピッグス湾事件、マフィアを使ったカストロ暗殺計画を含むカストロ政権転覆計画に深く携わったCIAの責任者の一人。ニクソンと亡命キューバ人との密約や、キューバのミサイル基地問題の真相を知る数少ない関係者の一人とみられる。ピッグス湾事件では、ケネディに空爆を懇願した。大失敗に終わった同事件の後、責任を取らされ、アレン・ダレス長官、チャールズ・キャベル副長官らとともに首になった。ビッセルの後任には、後に長官まで出世するリチャード・ヘルムズが就いた。
2005.06.26
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今日は横浜の三ツ沢球技場で行われた早稲田大学と関東学院大学のA、B戦(一軍と二軍戦)を観戦。真夏のような日差しと温度でしたね。今年の関東学院は明大戦で90対0で圧勝するなどかなり強く、今日の試合も関東が有利であろうと予想されていました。しかし早稲田は風下の前半、関東の突進をよく止めて、A、Bとも接戦を制しました。Bが38対19、Aは19対7でした。早稲田のAチームは主将の佐々木をはじめ、松本、内橋らを欠く布陣でしたが、フォワードがほぼ互角、マイボールのラインアウトはほとんど取っていましたね。バックスは矢富、今村の個人技で突破するなど随所に面白いプレーがありました。五郎丸は最後ノッコン(ボールを前に落とすこと)をしてピンチを招きましたが、相変わらず強い。久木元も強い選手ですが、キックが変でした。関東では有賀が逆風を付いて、素晴らしいキックを披露していました。田井中は才能はありそうですが、ちょっとプレーが雑なようです。関東の選手は皆、大きくて力強いですね。荒っぽい選手も多いようです。露骨な反則をする選手もいました。Bの試合はレフリーが取るべき反則を取らないで、取らなくてもいいような反則を取っていたように感じました。両方にとって変なジャッジがあったようです。レフリーのレベルアップが必要ですね。早稲田のBのリザーブに入っていた滝澤、岩永、橋本の1列目は有望です。滝澤と橋本は一年生ですね。後半は彼らの力が流れを作ったように感じました。ともあれ、まだ春の陣が終わったばかり。菅平の合宿や練習試合が組まれている夏の陣、ケンブリッジ大学との試合を経て、いよいよ秋のラグビーシーズンへと突入するわけです。
2005.06.25
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▼暗黒街 CIA内部のタカ派はどのように暴走していったのか。米議会(上院)が76年に作成したCIAによる「カストロ暗殺計画の年表」などを見ていくと、ピッグス湾事件の失敗とそれに続くケネディの粛清に端を発したとみられるCIA内部の反乱、もしくは内部分裂の過程が垣間見えてくる。 それらによると、最初のCIAによるカストロ暗殺計画はアイゼンハワー大統領時代の1960年に遡る。その際、万が一ばれたときの対策として、CIAが直接、カストロ暗殺を実行するのではなく、暗黒街の住人とつながりのあるロバート・マヒュー(メモ22参照)を仲介して実行することが決められた。マヒューは、計画を実行するためにジョン・ロセッリ(メモ23参照)というマフィアを選んだ。そのロセッリは、モモ・サルバトーレ・ジアンカーナ(メモ24参照)とサントス・トラフィカント(メモ25参照)という二人のマフィアのボスに協力を依頼する。(続く)(メモ22=ロバート・マヒュー) ロバート・マヒューは、カストロ暗殺計画やウォーターゲート事件に深くかかわった、CIAと裏の世界をつなぐ工作員。元FBI捜査官で、1954年にFBIを辞めた後、私立探偵としてCIAの裏の仕事を手伝った。裏の仕事に定評があった上、何かトラブルを起こしたとき、元FBI捜査官という肩書きによって、CIAとの結びつきに煙幕を張ることができる、ということで重宝がられた。 マフィアを使ったカストロ暗殺計画のほとんどにマヒューが絡んでおり、CIAにジョン・ロセッリらマフィアボスを紹介、その後も仲介役となった。この暗殺計画のころからCIA情報員、ハワード・ハントの右腕となり、後のウォーターゲート事件でも暗躍した。(メモ23=ジョン・ロセッリ) ラスベガスを本拠地とするマフィア。ロバート・マヒューの紹介でCIAのカストロ暗殺計画にかかわった。その関係でロセッリは、シカゴのマフィアボス、サム・ジアンカーナ、フロリダのサントス・トラフィカント、それにニューオーリンズのカルロス・マルセロの3人のマフィアボスと親交を持つようになる。 ジャック・アンダーソンによると、ロセッリは、マフィアが口封じのためジャック・ルビーに命じてオズワルドを殺させたと語った。しかし、ロセッリ自身も、上院の委員会で第一回目の証言をした後の76年7月、おそらく口封じのために殺される。(メモ24=モモ・サルバトーレ・ジアンカーナ) CIAのカストロ暗殺計画にかかわったシカゴのマフィアボス。通称サム・ギアンカーナ。1960年の大統領選でケネディに有利になるような不正をした疑いや、自分の愛人、ジュディス・キャンベルをケネディ大統領と“共有”していたことでも知られる。 ジアンカーナは75年、上院の委員会がCIAのカストロ暗殺計画での役割について事情を聴こうとした矢先、自宅の地下室で殺された。後頭部に一発、そして、口封じだということが分かるように口の回りに計6発の銃弾を浴びていた。(メモ25=サントス・トラフィカント) ジアンカーナと同様、CIAのカストロ暗殺計画に深くかかわったフロリダのマフィアボス。リチャード・ニクソンと関係の深い労働組合、ナショナル・ティームスターズ・ユニオンの委員長ジミー・ホッファとマフィアとの間の不正を厳しく取り締まり始めたロバート・ケネディ司法長官に怒り「あいつ(ジョン・F・ケネディ)の弟のホッファたたきを見たか? やつはこの種の関係がデリケートな問題であるということを知らないんだ。覚えておけよ。やつ、ジョン・F・ケネディは大変な目に遭う。やつはこれから起きようとしていることを食らうだろう。やつは撃たれるんだ」とケネディ暗殺を予言したとされているが、下院特別委員会では「そんなことは言ったことはない」と完全否定した。 これに関連して、同様にロバート・ケネディによるマフィア取り締まり強化に辟易したニューオーリンズのマフィアボス、カルロス・マルセロは、ロバート・ケネディは犬(ジョン・F・ケネディ)の尻尾であるとした上で「犬の尻尾を止めるには、犬の頭を切り落とすことだ」と発言した、とされている。マルセロ自身61年に、ロバート・ケネディの命令により国外追放という屈辱を味わっており、ケネディ兄弟を暗殺する動機を十分に持っていた。
2005.06.25
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▼思惑 トマス・ダウニングが初代委員長を務めた下院暗殺調査特別委員会の最終報告書は、ダイニングの当初の意図に反して、大掛かりな陰謀説を事実上否定するような腰砕けの内容になってしまった。報告書では、車の後方から射撃したオズワルド以外に、車の前方からケネディを狙った暗殺者がいたとみられることや、そのため、ケネディ暗殺には陰謀の可能性があることを公式に明らかにした。しかしながら、同委員会は同時に、ケネディに致命傷を与えたのはオズワルドであるとして、ウォレン報告書の結論を事実上支持したのだ。おそらくここでも、CIAによる証拠隠蔽が行われたのだろう。委員長が替わるたびに、陰謀説でない方向へ誘導された疑いもある。 CIA内部の反ケネディ派(タカ派)は、ケネディ暗殺直後からカストロが暗殺の背後にいることを臭わせ、口実をつくってキューバ侵攻を果たそうとした。ところが、CIA長官のマコーンやジョンソン大統領はその意図に反して、カストロとケネディ暗殺を結びつけることは危険であると判断、ウォレン委員会の報告書もカストロ陰謀説を一切排除する内容となったのではないだろうか。 ジョンソンが今後もキューバ侵攻に踏み切るつもりがないことを知ったCIA内部の強硬派は、60年代後半から戦法を変えたようだ。もし、CIAがケネディ暗殺の背後で暗躍していたことが明らかになれば、CIAは確実に解体されるだろう、組織防衛上、ケネディ暗殺とは一切かかわりがなかったことにしなければならない、と。そこで60年代から70年代にかけて、暗殺にかかわったマフィアや、口を割りそうな工作員や目撃者を次々と殺していった可能性が強い。同時に陰謀説を肯定する下院暗殺調査特別委員会を骨抜きにするため、妨害工作を実施。効果的に証人を抹殺したり情報操作したりするなどして、陰謀説を排除するよう巧みに働きかけた。その結果が、下院暗殺調査特別委員会の「腰砕けの内容」という最終報告書だったのではないだろうか。(続く)
2005.06.24
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▼PRマン ケネディ暗殺直後から、ケネディを殺したのはカストロであると信じたジャック・アンダーソンのその後についても触れておこう。1967年にカストロ陰謀説を記事にした後もアンダーソンの取材は続いた。 アンダーソンの取材対象は、政府高官から実行部隊とみられるマフィアに及んだ。ところが、1960年代から70年代にかけて、ケネディ暗殺事件に何らかの形で関係したとみられるマフィアは何人も殺された。その中でも、特にジャック・アンダーソンが事件の中心人物だとみて接触していたのが、ジョニー・ロセッリだ。ロセッリはラスベガスを拠点とするマフィアで、CIAのカストロ暗殺計画に1960年ごろからかかわっていた。ロセッリは、マフィアがジャック・ルビーにオズワルドを殺させた可能性が強いことや、ケネディ暗殺事件にはカストロの影がちらついている、とアンダーソンに打ち明けた。しかし76年7月、ロセッリは何者かに殺され、足を切断された状態でドラム缶に詰められ、マイアミ沖で浮いているところを発見された。CIAとマフィアの関係をしゃべりすぎたために、殺されたとみられている。 ロセッリとは別にアンダーソンが信頼していたもう一人の情報源は、CIA工作員で後にウォーターゲート事件で逮捕されるフランク・スタージスだ。ただ、スタージスはCIAに都合のいいように、アンダーソンにカストロ陰謀説を吹き込んだ可能性がある。それは、CIAに雇われた女スパイであるマリタ・ロレンツの証言によって明らかになる。スタージスはロレンツに「アンダーソンはわれわれのPRマンだ」と話していたと下院特別調査委員会で証言したのだ。CIAにとっては、カストロ陰謀説をとってくれる方がありがたかったのだ。CIA内部では、アンダーソンがあまりにも執拗にマフィアを取材するので消してしまおうかどうしようか謀議したことがあるという(元FBI捜査員ゴードン・リディ=ウォーターゲート事件で逮捕=の証言)。結局、暗殺は実行されなかったが、アンダーソンがCIAに殺されずにすんだ理由は、CIAのPRマンとして利用価値があったからだと、筆者は推測している。(続く)
2005.06.23
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再び話が複雑になってきたようなので、今日はまとめです。▼まとめ2「CIAの反ケネディ派」・キューバのカストロ政権を打倒するため、亡命キューバ人を使った極秘上陸作戦を計画した。・一九六〇年の大統領選で勝利するとみられたリチャード・ニクソン副大統領との間で、キューバのカストロ政権打倒の密約をする。・密約では、侵攻作戦が成功した場合はコーリーという亡命キューバ人を暫定大統領に就任させ、その他都合の悪いキューバ人指導者は抹殺することが確認された。・同時にニクソンが大統領に就任した暁には、侵攻作戦を直ちに実行し、必要な空爆など軍事支援をすることを確約。・ところが大統領選ではケネディが勝利。CIAはニクソンとの密約のことは一切知らせず、キューバ侵攻作戦を説明する。・ケネディ大統領から空爆などの軍事支援を取り付けることができず、侵攻作戦(ピッグス湾事件)は大失敗に終わり、首脳陣は解任される。・大統領の命令に反して、極秘にカストロ暗殺計画と偽通貨を使ったキューバ経済破壊作戦を進める。・ミサイル危機後もキューバからミサイルが撤去されていないという情報を入手するが、ケネディ政権から無視される。・国家安全保障上、ケネディの外交政策を危惧する。「ケネディ大統領」・大統領就任直後、CIAから「絶対うまくいく」というキューバ侵攻作戦について説明を受ける。ただし、密約については知らされず。・キューバ侵攻にゴーサインを出すが、CIAから要請された空爆は、国際世論に配慮して限定的な作戦にとどめる。・作戦の失敗に激怒し、CIAの粛清を始める。・カストロ暗殺計画や偽通貨作戦があることを知り、中止を命令する。・ミサイル危機後はカストロ政権との融和政策を模索する。・ミサイル危機後もミサイルが撤去されていなかったとの報告を、政治的な理由から無視する。・CIAの通貨偽造作戦にかかわったグループを摘発。「亡命キューバ人(反カストロ)」・ピッグス湾事件でケネディが空爆で援護しなかったことを裏切り行為だとみなす。・CIAの通貨偽造作戦にかかわったグループが摘発され、ケネディに対する憎悪が増大。・ミサイル危機後もミサイルが撤去されなかったという情報をケネディ政権に無視され、このままではカストロ政権を転覆できなくなるとしてケネディ暗殺を決意。「トマス・ダウニング(下院議員、下院調査特別委員会初代委員長)」・ザプルーダーが撮影した影像を見て、オズワルドの単独犯行はありえないと確信。・ケネディ暗殺の背景にはニクソンと亡命キューバ人、CIAの密約があったことに気づく。・下院にケネディ暗殺などを調査する調査特別委員会を設置することに成功。・ケネディに裏切られたと思った亡命キューバ人のグループがケネディを暗殺したと結論づける。・ケネディ暗殺の調査特別委員会委員長を辞した後、委員会の報告は陰謀説を事実上排除するなど歯切れの悪い内容になったと失望している。(続く)
2005.06.22
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梅雨も休みで、まるで夏のよう。花菖蒲も見頃だというので、今日は明治神宮御苑へ。見事に咲いています。150種、約1500株が植えられているそうです。御苑には、泉水も湧いています。ところで、日本代表に2週間囚われの身となっていた五郎丸が今日の練習から早稲田に復帰しましたね。手前が五郎丸。ウッチーこと内橋は松葉杖状態。佐々木主将も足のサポーターが痛々しい。首藤、曾我部、松本各選手は怪我でリハビリ練習をしていました。リハビリ練参加者は全部で15人ほど。怪我人だけで一チームできてしまいます。かく言う私も中学3年生のころ、ラグビー東京都大会二回戦か何かで怪我をして、医者から2ヶ月間運動を禁じられたことがあります。運動好きな身としては、結構つらいものがありました。怪我はスポーツ選手につきものですが、皆さんもくれぐれも気をつけてください。
2005.06.21
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▼インタビューこのように重要な報告書がなぜあまり知られていないのか。私は1999年、この報告書を作成したダウニングを訪ね、報告書を書いた背景やなぜダウニングの陰謀説が埋没してしまったかについて聞いた。ダウニングは政界から引退し、ワシントンDCから車で3時間ほど南に走ったところにある港町、バージニア州ニューポート・ニューズの法律事務所に席を置いていた。気難しい人かな、との不安もあったが、合ってみると非常に気さくな人であった。なぜ日本人の私がケネディ事件に興味をもつようになったのか、など逆に質問をしてきた。私がそれまでのいきさつを話すと、ダウニングも興味を示し、インタビューの最後には、ケネディ暗殺事件の真相を明かすように逆に励まされてしまった。そのときのインタビューの主な内容は次のとおりだ。ーあの報告書を書いたきっかけは。 事件の一部始終をとらえたエイブラハム・ザプルーダーのフィルム(メモ21参照)を詳しく調べたところ、ケネディに向け実は3発ではなく、4発の銃弾が撃たれていることを確信したからだ。しかもうち一発は、明らかにオズワルドのいた後方からではなく、前方から撃たれていた。オズワルド一人の犯行とは到底、考えられなかった。そこでケネディ暗殺事件の再調査を議会に働き掛けるために、あの報告書を76年に書いたのだ。ー議会の反応はどうだったか。 当時、ケネディ暗殺の再調査などは税金の無駄使いだ、とする批判の声が強かった。あのままでは、おそらく議会調査委員会を結成することはできなかっただろう、しかし、同様に陰謀の嫌疑があったマーチン・ルーサー・キングの暗殺も再調査するということで議会内の雰囲気ががらっと変わり、暗殺に関する下院の調査委員会(下院特別委員会)が結成されたのだ。そして、私が初代委員長になった。ー調査結果についてどう思ったか。 私が途中、議員引退のため委員長職を降りなければならなくなるなど人事でごたごたがあったが、特別委員会はきっと陰謀を解明してくれると思っていた。事実、調査団のほとんどが陰謀の可能性を信じていたのだ。にもかかわらず、79年の報告書は、今一つ踏み込みが足らず、失望した。はぐらかされた感じだった。ー今でもCIA・コーリー非合法活動グループがやったと思うか。 CIAが支援していた亡命キューバ人の反カストロ分子のだれかが関与したのは間違いないと思っている。おそらくコーリーと密接に関係する者の仕業だろう。ただ、CIAがケネディ暗殺に直接関与したなどとは考えられないし、考えたくもないというのが本音だ。 ダウニングは、CIAが自分の国の大統領を暗殺するほど腐敗・堕落していなかったはずだ、との信念を持っている。しかし、オズワルドを犯人に仕立て上げ、しかもカストロ信奉者のようにみせかける手の込んだ工作をCIAの協力なしに実行するのは、まず不可能だ。CIAの中の反ケネディ派が暗殺に協力したとみる方が理にかなっている。(続く)(メモ21=ザプルーダーのフィルム) アマチュア写真家、エイブラハム・ザップルーダーがたまたま撮った映画フィルムは、ケネディ暗殺の一部始終を捉えていた。銃声が聞こえる度にザップルーダーは驚き、映像もぶれる。それでも彼は、最後までフィルムを回し続け、貴重な証拠を残した。 フィルムの中で、ケネディは最初の一撃を受けたとき、喉を押さえる。そしてケネディが致命的な一撃を頭に受けた瞬間には、頭は後ろに跳ね返り、車の後方にはケネディの頭蓋骨の一部や血が飛び散るのが見える。ザップルーダー自身も、弾は自分の後方、すなわち、ケネディが乗った車の前方に位置する草の多い小丘から撃たれたと証言している。
2005.06.21
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▼暴走 ピッグス湾事件でケネディに“裏切られた”CIAの強硬派とコーリーは、今度は偽札をキューバ経済に持ち込み、経済的混乱をキューバ経済にもたらすと同時に、偽札でカストロの部隊を買収するという、カストロ政権転覆計画をスタートさせた。しかし、ここでもケネディの邪魔が入る。62年10月のミサイル危機後、対カストロ政権融和政策の可能性を模索していたケネディが、その政策の障害となるCIA・反カストロ分子の非合法活動の取り締まりを強化し始めたからだ。加えて、62年10月のミサイル危機後も、実はキューバはミサイルを撤去していない(メモ19参照)というCIA・コーリー情報もケネディに無視され、ケネディとCIA・コーリー非合法活動グループの間に、修復できない決定的な亀裂が入る。 そして、63年10月、ケネディが反カストロキューバ人による非合法活動一斉摘発の一環として、コーリーとCIAの非合法協力員、ロバート・モロー(メモ20参照)の二人を通貨偽造容疑などで逮捕に踏み切ると、CIAの支援を受けていたコーリーらの非合法活動グループが暴走。犯行がばれないようオズワルドを使ってカストロの犯行のようにみせかけ、ケネディを暗殺した。カストロがケネディ暗殺の背後にいると分かれば、タカ派のジョンソンならキューバ侵攻を実行に移すと計算したのだ。 以上が、ダウニングの衝撃的な調査報告であった。ダウニングは、この情報の大半を元CIA工作員のロバート・マローから得ている。まさにカストロ政権転覆計画に携わった当事者から聞き出しているのだ。(続く)(メモ19=撤去されなかったミサイル) もし、キューバ危機後もキューバからミサイルが撤去されていなかったとしたら、これはこれまでの歴史を書き換えなければならない一大事だ。フルシチョフにミサイル撤去を発表させることによって自由世界のヒーローになったケネディの面目が丸つぶれになるからだ。当然ながら、公式文書の中には、このことを裏付ける確定的な証拠はない。 ところが、ロバート・マローによると、少なくとも67年まで、もしかしたらその後も、ミサイルは取り除かれていなかった可能性が強い。しかも、マリオ・ガルシア・コーリーが自分の地下組織から得た情報として、キューバ危機後もミサイルがキューバに隠されていることをロバート・ケネディ司法長官に示唆したところ、逆にコーリーはケネディ政権からにらまれるようになった、という。 マローは76年5月、キューバ生まれのキューバ問題専門家で、キューバ国立戦争大学(1946-52年)や米フロリダ大学(1960年代)、米国国立戦争大学(年代不明)で教鞭をとったことのあるエルメニーノ・ポーテルヴィラ博士にインタビューし、次のようなやりとりをしている。 マロー:中長距離ミサイルは62年の10月危機後に取り除かれたと思うか? ポ博士:いや、取り除かれていない。いざというときのために、まだ隠され、保存されているはずだ。(略)ここにフルシチョフがミサイルについて最高ソビエト会議で述べた64年のスペイン語版の議事録がある。フルシチョフは「我々はそこにミサイルを持っているし、持ち続けるつもりだ。取り除かれたという証としていくつかは手元に持っている」と述べたのだ。(中略) マロー:ニクソンが大統領になったとき、ミサイルがキューバに残っていることを知らされたと思うか? ポ博士:推測するに、米政府はこのことを前から知っていたから、ニクソンは知らされてしかるべきだ。ただ、問題はこの種の情報を明らかにすることは厳しく禁じられていた。ケネディによって禁じられ、その後ジョンソン政権でも極秘扱いされた。(中略)・・・とにかく国家にとって非常に重要な事柄だから、米国民にも長年知らされず、隠されてきたのだ。 このほかマローは、英国軍事筋の情報として、ソ連がミサイルをキューバから撤去するために寄港した船は、ミサイルの寸法や重さ、船のバラストや排水量から計算してミサイルを積み込まなかった可能性が強いことなどを挙げ、ソ連とキューバはミサイルの撤去を実施しなかった、としている。 ピッグス湾事件のCIAの首謀者の一人で、ウォーターゲート事件でも暗躍したハワード・ハントが、ニクソン大統領の部下、チャールズ・コルソンに「(キューバの件に関連して)もし真実が知れたら、ケネディの名声は地に落ちるだろう」と言ったのは、このことと関係があるのかもしれない。(メモ20=ロバート・マロー) 反カストロ右派のマリオ・ガルシア・コーリーによる非合法活動の一部を請け負ったCIAの工作員。元々は電気技師で、キューバペソの偽造でコーリーとともに捕まり、服役した後、72年には共和党候補として議会に立候補した。しかし、ニクソン陣営から資金援助を受けられなかったこともあり落選。76年には「裏切り」という本を出版。その中で、60年のニクソンとコーリーの密約をばらした上で、ケネディ暗殺の責任はCIAとコーリーの非合法活動部隊にあると結論づけている。 筆者は、トマス・ダウニングを通じてマローとのインタビューを試みたが、結局接触できなかった。マローは自分自身が命を狙われている恐れがあるため、非常に用心深く、どこに行くときでも「9ミリ・ウォウザー」(ピストルの種類)を背広の下の脇の下のところに携帯、しばしそのことを吹聴することで自分の身を守っている、という。
2005.06.20
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1週間前の6月11日に日本サイ科学会主催で開かれた清田益章さんの講演会で、私が面白いと思った清田さんの話を紹介します。敬称は略させていただきます。▼スプーン曲げから「おのり」へ スプーン曲げばかりやっているが、ほかのことはやらないのかと問われて清田益章は「やらないよ」と意地になっていた時期もあったという。しかし、清田にも転機が訪れる。スプーン曲げはイメージしたことが現実化するということを教えてくれた。思ったことは現象化するのだ。ならば豊かな世界をイメージをすることにより、そういう現象が起こるはずだ。「俺がやらないわけにはいかないだろうと思ったね」。 清田は二〇〇三年春、「脱・超能力者宣言」をして、小さな枠にとらわれない活動をすることを決意。一時期インドネシアのバリ島に移り住み、自然の中で瞑想することの重要性を再確認した。「すべては心の旅である。偶然なものはない。すると感謝の気持ちがわいたんだ。そうだ感謝しようという気持ちになった。感謝すると精神的にもいいんだよね」と清田は言う。 二〇〇四年からは「楽園化計画」を立ち上げ、石油を中心とする消費型ではなく循環型の世の中にするべく、ネットワークづくりを開始した。「資本主義中心の社会はなくなるよ。僕たちの心が中心となるんだ」 清田は二〇〇五年一月、神秘的な体験をしたという。一週間、伊豆大島で火を絶やさないようにする「火守」をやっていたときだ。清田は火を見つめながら、深い世界へ入って行きたいと思っていた。火との距離を感じながら、四時間ごとに炭火を取り替えているうちに、火の原点とつながったように感じたと清田は言う。 そのとき清田はビジョンを見た。古代から現代に至るまで、火について人間がどういう付き合い方をしていたかが、立体影像として目の前に絵巻物のように浮かんだというのだ。火は焚き火のような小さなものから始まり、西洋科学が進歩した現代になると、戦争や原子力で使われるようになった。そのビジョンを見ていると、清田は火が語りかけてきているように感じたという。「お前らはどうするんだ。俺たちをどう扱うんだ」と。 火には方向性も意志もない。火は善でも悪でもない。火とどう付き合うか、その責任は人間にある。清田はそのとき、「もっと火と友だちになったほうがいいのではないか」と強く感じたという。それがいつしか「火起こしの踊り」となった。一月二七日のことだ。 その踊りは「自然から授かった心と肉体すべてを使って、思い、想い、願い、念じ、そして祈り・・・踊る」ものだと清田は説明する。踊りと祈りの融合であった。清田はそれを「おのり」と名づけた。清田の新しい表現方法の誕生だ。「自然と人のコミュニケーション。もっとも原始的な、もっとも新しい神楽である」とも清田は言う。 おのりにより、清田はどのような現象を引き起こそうとしているのだろうか。清田は「おのり人」となり、世界へ旅に出る予定だという。
2005.06.19
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▼密約 ダウニングの調査によると、1960年、キューバ人の反カストロ分子であるマリオ・ガルシア・コーリー(メモ16参照)が、CIAの協力を得て反カストロの右派活動組織「キューバ解放連合」を結成。コーリーの地下組織が、キューバがミサイル基地の建設を進めているとの情報をCIAにもたらす一方、コーリーは、自分の組織を暫定政権と認めるよう米政府に働き掛けた。この計画が米国家安全保障会議の目にとまり、同年10月、当時ホワイトハウスでCIA活動担当だったニクソン副大統領とキャベルCIA副長官、それにコーリーによる3者会談がワシントン郊外の「バーニング・ツリー・クラブ」というゴルフ場で実現した(メモ17参照)。その会談で、CIAの支援を受けた反カストロの亡命キューバ人部隊が、カストロ打倒のためキューバに上陸、上陸作戦が成功した場合は、反カストロキューバ人部隊の中の左派系指導者は抹殺し、米国は右派系のコーリーをキューバ大統領と認めることに合意した。これが、後のピッグス湾事件への布石となった。 ところが同年11月の大統領選でニクソンは敗退。新大統領となるケネディは11月の引き継ぎで、反カストロ分子が米国で戦闘訓練を受けているとの説明は受けたが、ニクソンら3者による密約は知らされなかった。 61年1月に大統領に就任したケネディは当初、CIAによるキューバ侵攻作戦を認めなかったが、アラン・ダレスCIA長官の「今なら成功する」という忠告を信じ、ついに同年4月、3者の密約を知らないまま、キューバ侵攻作戦を実行することを容認。反カストロ亡命キューバ人の部隊はピッグス湾に上陸した。ところがケネディは、おそらくニクソンが大統領だったら実行したであろう米軍による空や海からの支援(メモ18参照)を延期、結局、作戦は大失敗に終わった。(続く)(メモ16=マリオ・ガルシア・コーリー) コーリーの素性は亡命キューバ人反カストロ分子の右派リーダーであるということ以外には、一般にあまりよく知られていない。 ロバート・マローによると、カストロ政権が誕生する以前、コーリーは裕福な企業家兼銀行家で、後に殺された友人のエラディオ・デル・ヴァレ(マローの著作「裏切り」の中では偽名で登場)とともにキューバで政治活動をしていた。コーリーの父はスペイン大使まで務めた。加えてコーリーは、カストロ政権後もキューバに残った地下組織4万5000人を統括するとともに、米国にある115の反カストロ活動グループをとりまとめていた。これらを合わせると、コーリーは反カストロキューバ人の最大グループのリーダーで、マローの言葉を借りれば「事実上の亡命キューバ政府大統領」だったことになる。 コーリーは75年8月5日に死亡するが、その約4週間前にテープに自分の最後の主張を吹き込んでいる。その中でコーリーは、ピッグス湾事件で第二次援護爆撃を取りやめたケネディの“裏切り行為”に対する怒りと当時のケネディ自身に対する不信感を吐露している。同時に、空爆停止を一早く伝えてくれ、結果的にコーリーの部隊の投入を思いとどまらせてくれた元上院議員、オーエン・ブルースターに感謝している。 これでは、まるでケネディ暗殺の動機を説明しているかのようだが、不思議なことにコーリーは、ケネディの死に責任があるのはあくまでもカストロであると結んでいる。トマス・ダウニングはこの発言について、キューバの反カストロ分子がケネディ暗殺に関与したことを隠すための“煙幕”であると分析している。あるいは、長年の友人だったエラディオ・デル・ヴァレまで殺されたことに恐れをなして、死の床までカストロがやったと言い続けたのかもしれない。(メモ17=ニクソンとコーリーによる密談) この60年10月の密約の存在について、ニクソンとCIAが公式に認めたことはない。しかし、コーリーの息子、マリオ・ガルシア・コーリー・ジュニアとCIA工作員のロバート・マローは、それぞれコーリーから直接、ニクソンとの間で密約が成立したことを聞いており、その旨の宣誓供述書を書いている。 まず、76年7月15日の息子の宣誓供述書によると、60年10月、ワシントンDCにいた父コーリーがマイアミ滞在中の息子に対し電話で、当時の副大統領ニクソンが、CIAの手で訓練された亡命キューバ人の反カストロ部隊がキューバ侵略に成功した暁には、左派系のキューバ革命前線のリーダーは抹殺することに同意した、と伝えてきた。この約束は、もし父コーリーがキューバ侵攻の際、キューバにいる父の地下組織の人間を動員し、かつエスカンブリー山中に潜む父の300-400人のゲリラ部隊を投入することが条件だった、としている。 76年7月19日のマローの宣誓供述書によると、60年10月の第3週、コーリーと一緒にいるときに、コーリーが1週間前にニクソン副大統領と会ったと知らされた。その会合で、CIAの手で訓練されたキューバ人の反カストロ部隊がキューバ侵略に成功し次第、コーリーが速やかにキューバの政権をとれるよう、ミロ・カルドナや左翼のキューバ革命前線のリーダー全員を抹殺することでニクソンと合意した、という。コーリーはさらに、マニュエル・アータイムズ(編注:CIAのカストロ暗殺計画に関与した反カストロ分子のリーダー)やその仲間も、上陸作戦が完遂すれば殺されることになっており、残りの革命前線のリーダーたちも、コーリーのゲリラ部隊が侵略作戦に参加するか、侵略が成功した時点でCIAに捕らえられ、始末するためにコーリーに引き渡されることになっているとマローに語った。後日、ピッグス湾作戦が始まった61年4月17日、マローはCIAの担当情報部員、トレイシー・バーンズからキューバ革命前線の連中が侵略の結果が分かるまで独房に監禁されていることを知らされた。その時「やつらは殺されるのだな」と思ったという。 マローによると、この密談によって、後で説明するCIA諜報員ハワード・ハントや女性スパイ、マリタ・ロレンツがかかわる暗殺集団「オペレーション40」が発足する。(メモ18=CIAが約束した空爆) ピッグス湾事件の際、米国政府がキューバに侵攻する反カストロ分子に対して、果たしてどこまでの軍事的支援を約束していたかは、はっきりしていない。リチャード・ニクソンの自伝には、ケネディが、政権内部の空爆反対派とCIAの空爆強硬派の間をとって3回爆撃する計画のうち2回をキャンセルしたとの記述がある。このことから、CIA内部では、作戦遂行に当たって、少なくとも3回は大規模援護爆撃をする計画だったことがうかがえる。 ジャーナリスト、クリストファー・マシューズの著作「ケネディとニクソン」(タッチストーン社、1997年)によると、CIAのピッグス湾事件担当の情報部員、ハワード・ハント(編注:後のウォーター事件の盗聴にも関係した疑惑の人物)らは、ピッグス湾事件に参加するキューバの反カストロ分子から、どうやったらキューバに上陸する少数の部隊がカストロの20万人もの大軍に対して戦えるというのかと聞かれ、空からの援護爆撃であらゆるキューバ軍の戦闘車両や戦闘機を戦闘不能にするから大丈夫だと保証していた。ハントは「すべてが援護爆撃があるという前提で計画されていた」と主張していたが、不幸にも、その保証は米政府首脳から来ているものではなかった。そのため、ケネディがピッグス湾事件で第二次空爆を躊躇しているとき、ハントらはCIAの戦争会議室で、早く空爆するよう、激しいののしりの言葉を発していた、という。 ここで言えることは、CIAが独断で確約した空爆をケネディが実行しなかったにせよ、少なくとも反カストロ分子からみれば、ケネディの第二次空爆延期は、裏切り行為以外のなにものでもなかった、ということだ。元上院議員から空爆停止の連絡を受け、すぐにマイアミの息子を通じて暗号で自分のゲリラ部隊に作戦中止を伝えたコーリーにしてみれば、危うく自分が統制している4万人以上もの地下組織の人間を失うところだった。この時点でケネディは、マローがいうように裏切り者になったのだ。
2005.06.19
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▼再調査トマス・ダウニングの報告書の内容に触れる前に、この報告書が作成された経緯を説明しよう。 ケネディ暗殺から10年以上が経ったにもかかわらず、真相が一向に解明されていていないのではないかと考えた米下院議員のダウニングは75年4月、ケネディ暗殺を再調査する特別委員会を下院に設立するよう呼び掛けた決議案を提案した。それを機会にダウニングの下に多くの情報が寄せられた。その中で、元CIA工作員、ロバート・マローの「裏切り」という著作があった。その著作の中でマローは、自分がCIAの工作員として反カストロ分子によるカストロ政権転覆計画に携わっていたとした上で、ケネディ暗殺事件には、この反カストロ分子とCIAが関与していると結論づけている。ダウニングは早速、マローから事情を聴くなどして独自の報告書を作成、76年8月にマローの解説付きで記者発表した。こうした疑問提起の動きが奏功して、下院は同年9月、ケネディとキングの暗殺を調査する特別委員会設置を決定、初代委員長にダウニング自身が就任した。 76年7月に書かれた「ケネディ暗殺の背景にある動機」と題する13ページにわたるダウニングの調査報告書は、ピッグス湾事件の1年前に、CIA、反カストロ分子、ニクソン副大統領(当時)の3者で合意した密約にまで遡って分析している。その密約こそ、ケネディ暗殺につながる決定的な内容を含んでいたのだ。(続く)
2005.06.18
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▼公文書CIAとしては組織維持や国家安全保障上、どうしてもカストロ政権を打倒しなければならない理由があった、そのためには手段を選ばなかったのではないか、との疑惑が浮上してくる。 その一つの方法が、カストロをケネディ暗殺犯に仕立て上げ、世論を動かしてキューバ侵攻に踏み切らせることだったのではないだろうか。CIAの強硬派にとって、もはや一刻の猶予も許されない非常事態であった。ケネディはCIAを解体しようとしていたのだ。そしてCIAの強硬派にはもう一つ、どうしても譲れない国家安全保障上の問題が緊急課題として挙げられていた。それは前年にキューバから撤去されたことになっていた核爆弾搭載可能なミサイルが、まだキューバにあるという極秘情報であった。私はなにも、推測だけで議論を展開しているのではない。公文書館に貴重な資料が埋もれているのだ。私の公文書館通いは、ジャック・アンダーソンからケネディ暗殺の話を聞いた直後から始まった。米国メリーランド州にある国立公文書館には、ケネディ暗殺事件に関連する秘密文書にあふれている。 国立公文書館は暗殺から30年経った93年、80万ページを超える非公開だった政府文書を公開したが、本当に極秘の文書は、廃棄されたか、依然公開されていないかで、決定的な証拠を見つけることはできない。それでも公開されている文書から、ケネディ暗殺の背景にマフィアやCIAが暗躍していたことや、政府が何を隠したがっていたかを知ることはできる。 たとえば、暗殺後の64年6月17日付けで、フーバーFBI長官がウォレン委員会の筆頭法律顧問、リー・ランキン(メモ13参照)に当てた文書は当時、トップ・シークレット扱いにされていた。この文書は、カストロがケネディ暗殺後にどのような発言をしたかを報告したものだ。その中でカストロは、オズワルドを名乗る男がケネディ暗殺前にメキシコのキューバ大使館に来て「ケネディを殺してやる」とわめいていたことを明かしたり、ケネディ暗殺にはどう考えても3人は必要だったはずで、米国政府は何故オズワルド以外の犯人を捜さないのか、と勘ぐったりしている。このことから、何者がオズワルドとカストロを結び付けようとしており、カストロはそれに気がついていたことがうかがえる。もっと重要な、決定的な証拠はないだろうか。私は公文書館の資料をあさった。その中で目に留まったのが、元下院議員トマス・ダウニングのリポートであった。(続く)(メモ13=リー・ランキンへの文書) ランキンは、ウォレン委員会の筆頭法律顧問。ランキンのウォレン委員会の中での役割に疑いを持っている研究家は多い。つまり、意図的に、オズワルドの単独犯行という結論になるよう委員会を誘導したのではないかという疑いだ。たとえば、ランキンは、死因を決定づけるようなケネディの検死解剖の写真の一部をウォレン委員会のメンバーに見せなかったり、オズワルドが撃ったとされる銃弾の一発がケネディの背中に当たり喉を通って貫通した上でテキサス州知事ジョン・コナリーの右腕を貫通、角度を変えてコナリーの左太股に当たったとするシングル・ブレット(一発の銃弾)説を支持、早々に捜査を切り上げさせたりした疑いが持たれている。もし、そうだとしたら、フーバーもしくは、ジョンソンの意向を受けて、単独犯行説に都合の悪い資料は委員会に知らせなかった、ということも推察される。ちなみにフーバーからランキンに宛てられた文書の内容要旨は次の通り。「ランキン殿 信頼できる筋が、ケネディ大統領暗殺に関するカストロの発言を伝えてきた。それによると、カストロは、メキシコでのオズワルドの言動について次のように言った。オズワルドはビザを申請に来たが、断られると「ケネディを殺してやる」と話していた。さらにカストロは「米政府は何故、他の殺し屋を捕まえないんだ。ケネディを殺すのに3人は必要だったはずだ」とも語った。 その信頼できる筋は、暗殺に3人は必要だったというカストロの推測は、カストロが実際に人を使って同様な条件下で同様なライフルを使って実験したらしいと報告しています。・・・(後略)・・・」
2005.06.17
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▼まとめ1 状況がかなり複雑になってきたようなので、ここでこれまでの議論をまとめてみたい。議論の論点は次のとおり。ジョンソン大統領・ケネディ暗殺の翌日、ケネディ派のCIA長官からカストロが暗殺の背後にいることを知らされたジョンソン新大統領は、カストロがケネディを暗殺したと信じた。・ジョンソンは、カストロがケネディ暗殺にかかわっていたことが世間に知られるとキューバ危機の二の舞になるのではないかと恐れ、カストロ陰謀説を封印することにした。・その結果、ジョンソンが設置したウォレン委員会の報告書は、オズワルドとカストロを結びつけるような証拠はすべて除外され、オズワルド単独犯行説となった。CIA内部の反ケネディ派・CIAは目の上のたんこぶであるキューバ政権を転覆させるため、ケネディが大統領に就任する前からカストロ暗殺計画やキューバ侵攻計画を進めていた。・ピッグス湾事件でケネディに味噌をつけられた反ケネディ派は、キューバを再び侵攻する口実が何としても欲しかった。・ところがケネディに報復され、幹部は粛清、替わりにケネディ派のマコーンが長官となった。・CIA内部の反ケネディ派は、新長官のマコーンに内緒で、カストロ暗殺を含むキューバ政権転覆計画を進めていた。・キューバ政権転覆に執着していたCIA内部の反ケネディ派は、ケネディ暗殺がキューバ侵攻に踏み切る好機であると判断。直ちに、CIAによるカストロ暗殺計画が進行中で、それを察知したカストロが報復した可能性が強いとマコーン長官に報告した。それを聞いて驚いたマコーンは、すぐにジョンソン新大統領にその事実を伝えた。カストロ・カストロは早くからCIAのカストロ暗殺計画に気づいていた。・ミサイル危機後も約束に反してカストロ暗殺計画が続いたので、ケネディに対して警告の意味を込めて報復もありうると発言した。ケネディ・ピッグス湾事件で、CIAと反カストロ部隊から要請された空爆を実施しなかった。・ピッグス湾事件の失敗は、CIAの情勢判断ミスのせいであると判断、CIAを解体し、新しい情報機関を創設することを決めた。そのため、長官ら首脳部を“粛清”、自分の息のかかったマコーンを新長官に据えた。・ケネディの意に反して、CIAはカストロ暗殺計画を実行しようとしていた。ジャック・アンダーソン・マコーン長官がジョンソン大統領にカストロがやった可能性があると報告したことを、政府内部の情報源から知る。・情報源のマフィアから、犯行にはマフィアがかかわっていたとの情報を得る。・アンダーソンは、カストロがマフィアを利用してケネディを暗殺したと信じるようになる。今後の議論展開・CIAは本当に手を下したか。・CIA内部の反ケネディ派は、組織防衛とキューバ政権転覆のためだけで、ケネディを殺したりするだろうか。もっと大きな国家安全保障上の理由があったのではないか。(続く)
2005.06.16
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▼禍根 第三の可能性として浮上したCIAの反ケネディ派の犯行説――。それが事実だとしたら、ジョンソン大統領にカストロが犯人だとする偽情報をつかませたのはなぜか。すべてはピッグス湾事件から始まっている。1961年4月、CIAに強く催促されたケネディは、米国で訓練を受けた亡命キューバ人の活動家ら1400人の反カストロ部隊によるキューバ上陸作戦にゴーサインを出した。しかし、キューバでのカストロ支持の勢力が予想以上に強かったため、作戦部隊は孤立。同部隊は米政府に対し空、海軍による支援を要請したが、米国の直接関与が公になることを恐れたケネディ大統領はこれを拒否。多くは殺されたり、カストロ部隊に捕らえられたりし、作戦は大失敗した。 怒ったのは、CIA内部の強硬派とケネディに裏切られたと感じた反カストロ分子だ。しかも、ケネディはこの作戦失敗後、CIAがキューバ国内でのカストロ支持勢力を過小評価したのが失敗の原因だとして、CIAの“粛清”に乗り出した。ケネディ自身の言葉を借りれば、「CIAを粉々に砕き、風の中にまき散らしてやる」というわけだ。ケネディは、アレン・ダレス長官、チャールズ・カベル副長官、リチャード・ビッセル計画局次長を相次いで解任、ケネディの息のかかったマコーンを長官に据えて、CIA内部に禍根を残した。 そして、この禍根がCIAの強硬派を「大掛かりなウソ」へと駆り立てるのだ。(続く)お知らせ:話が複雑になってきましたので、明日はこれまでの論点をまとめます。
2005.06.15
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▼三つの可能性2 第二の可能性は、カストロがマフィアなど反ケネディの動きを裏から支援した場合だ。マフィアはオズワルドを利用した。支援の仕方としては、暗殺の見返りに、マフィアの利権の一部を認めるなどの便宜供与が考えられる。マフィアを完全に口止めできれば、米国によるキューバへの報復という最悪の事態を回避する可能性が高くなる。カストロがケネディ暗殺前に「ブーメラン」のように仕掛けた本人に戻ってくる、と言ったことも説明できる。 このシナリオでは、カストロは可能な限り、マフィアとの関係を否定することで、火の粉が降りかからないようにすればよい。ただ問題は、米軍によるキューバ侵略のリスクが減るといっても、マフィアが口を割らないとも限らないわけで、それほどマフィアとカストロの間に信頼関係があったとは思えない。 そもそもマフィアは、カストロ政権が誕生したときに、当時キューバで経営していたカジノなど賭博場を没収されており、カストロに恨みをもっていた。カストロとマフィアは犬猿の仲であった。だからこそ、マフィアはCIAのカストロ暗殺計画に参画したのだ。カストロも、昨日まで自分を暗殺しようとしていたマフィアを信用するはずがない。事件後、カストロがマフィアに何らかの便宜供与をした形跡も全くない。▼三つの可能性3 第三の可能性は、CIAの中の反ケネディ派が仕組んだもので、カストロ陰謀説をマコーン長官やジョンソン大統領に信じ込ませたというものだ。この場合オズワルドは、単にカストロ関与を臭わせるためのめくらましに過ぎず、ピッグス湾事件など反カストロ工作に関与した亡命キューバ人の活動グループ(反カストロ分子)と、ケネディの対キューバ政策に不満を持つCIAの一部がグルになって、ケネディ暗殺を実行した。一見途方もない仮説に思えるが、実は、当時の状況を最もよく説明できるのが、このシナリオなのだ。(続く)
2005.06.14
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▼三つの可能性1 カストロには、ケネディに報復するという動機が確かにあったようだ。それを踏まえながら、ジョンソン発言の真意について、三つの可能性を論じていきたい。まず、カストロがマフィアらを雇ってケネディを殺したという第一番目の可能性について考えてみよう。この場合、カストロはオズワルドを雇ってケネディ暗殺を企んだか、寝返ったマフィアを利用してケネディ暗殺を企てたことになる。 この説だと、何故、ウォレン委員会がオズワルド単独犯行説に固執したかがよく説明できる。もしカストロが絡んでいると発表しようものなら、第三次世界大戦にも発展しかねなかったからだ。 問題は、カストロが、米国のキューバへの武力報復や世界大戦勃発の危険を犯してまで、ケネディを暗殺する利点があったかだ。 1978年4月3日の米議員団によるインタビューでカストロ自身が語った言葉を借りれば、「(ケネディ)大統領を暗殺するなどという考えは実に馬鹿げている。狂気の沙汰だ。・・・(中略)・・・もし、ニクソンがピッグス湾事件のときに大統領だったら、間違いなく米国の軍隊はキューバに上陸していただろう。我々は、ケネディだったからこそ、何百万人もの死者がでたかもしれないような侵略を思いとどまったのだと確信している。・・・(中略)・・・それに我々は常に、米国にキューバ侵略の口実を与えないよう細心の注意を払ってきた。もし、米国の大統領を暗殺などしたら、それこそキューバ侵略の口実を与えるようなものだ。そんなことを一体誰が考えるというのか」ということになる。 確かに62年10月のミサイル危機後は、カストロとケネディの関係には好転の兆しが見られた。カストロとしては、民主党でもタカ派のリンドン・ジョンソンが大統領になるより、ケネディが大統領でいた方が利点は大きかったに違いない。 さらに言えば、仮にオズワルドが犯人だとしても、カストロがオズワルドを雇ったとする見方は疑問だ。キューバに一度も来たことがない男が、いきなりカストロに雇われたりするだろうか。しかも、暗殺1ヶ月前の10月にメキシコのキューバ領事館に来て、ビザを申請。却下されると米国に戻り11月にケネディを暗殺するというのは、カストロの陰謀としては、あまりにも情けない筋書きだ。 カストロが、オズワルドではなく、自分の諜報部員か、マフィアなどプロの殺し屋を使った場合はどうだろうか。カストロの諜報部員がケネディ暗殺に成功したとすれば、カストロは武器の調達から計画遂行、逃走経路確保まで米国にかなり強力な地下組織を持っていたことになるが、むしろ当時の米国、特に南部は、反カストロのキューバ人グループが群雄割拠しており、カストロ支援のムードはなかった(メモ14参照)。孤立無援状態のカストロの刺客が、万人監視の中でオズワルドを犯人に仕立てながら、あのような鮮やかな暗殺を実行できたとは思えない。また、直接マフィアを雇うというやり方は、第二の可能性のシナリオで説明するが、無理がある。(続く)(メモ14=米国のカストロ支持グループ) この当時、カストロ支援のグループとして登場するのは、オズワルドが1963年8月にニューオーリンズでカストロ支持のビラを配っていたことで有名になったフェア・プレー・フォー・キューバ委員会ぐらいだ。オズワルドはここで反カストロのキューバ人とけんかになり逮捕される。ただ、同委員会は、ニューオーリンズには支部を持たず、オズワルドがかってにニューオーリンズ支部をつくったらしい。しかし、その支部の所在地が反カストロ活動の本拠地であったことから、オズワルドとカストロを結びつけるためのやらせだったとの見方が強い。
2005.06.13
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▼根拠 ジョンソン発言の三つの可能性に関する議論を進める前に、そもそもカストロにケネディを殺す動機があったのかどうかについて述べてみたい。ジョンソン発言によると、ケネディが先にカストロを殺そうとしたので、カストロがケネディを殺したことになっている。おそらく、そのカストロ陰謀説の第一の根拠になっているのが、ケネディ暗殺の約2ヶ月前の1963年9月7日に、カストロ自身がブラジル大使館で語った発言内容だ。その中でカストロは、米国が自分を殺そうとしていることを知っていると警告した上で、それに対して報復があり得ることを示唆している(メモ12参照)。このブラジル大使館での発言趣旨について、後にカストロ自身が1978年4月3日、ケネディ暗殺を調査していた米下院議員調査団に対し次のように答えている。 カストロ「・・・(前略)そこであるジャーナリストが私にたずねた。私は、何と答えたかは正確には覚えていないが、その時(63年9月)の意図は、我々が我々の生命を脅かすような謀略の存在を知っていることを米政府に警告することだった。そこで私は、そのような謀略は非常に悪い前例となるだろうと言ったのだ。とても重大な前例――。つまり、そうした謀略を計画した作者に対し、(謀略が)ブーメランのように返ってくるだろうと言ったのだ。しかし、間違ってもらっては困るが、私は別に脅していたわけではない。全くそういう意図はなく、むしろ、我々は(米政府が)何をやっているか、知っているぞ、という警告のようなものだった。もし、他の国の指導者を暗殺するような謀略を前例にしてしまったら、非常にまずい、マイナスの前例となるだろう、という警告だ。もし、現在(78年4月)私が、当時と同じような状況に置かれたら、間違いなく63年9月のブラジル大使館での発言と同じことを言うだろう。だから、脅しではないし、同様な謀略による報復を意味したのでもなかった。当時は3年もの間、我々は、そういう謀略があることを知っていた。そんなことは日常茶飯事のことだった。だから当時の会話は何気ないものだったのだ。・・・(略)」 カストロはこのインタビューの中では、ケネディ暗殺関与を全面的に否定している。それはそうであろう。仮に関与していても、そんなことを認めれば、米国や国際社会からどのような非難や報復があるか分からない。それをみすみす許すはずがない。ただ、面白いことにカストロは、暗殺計画は、その謀略を仕掛けた本人に対してブーメランのように戻り、同様な報いをもたらすと警告したことを認めている。CIAによるカストロ暗殺計画も、事実であったことが確認されている。CIAやウォレン委員会は当然、このことを知っていたとみられるが、ウォレン報告書は、そんなことに触れていない。ここには、明白な作為性が認められる。(続く)(メモ12=ブラジル大使館でのカストロ発言) 1963年9月7日、ハバナのブラジル大使館の歓迎会に現れたカストロにAPの記者が即興でインタビューした時の発言で、その時の記事の内容(要旨)は次の通り。 ハバナ発(AP):フィデル・カストロ首相は土曜の夜「米国の首脳たちが、もしキューバの首脳たちを亡き者にする企みを援助するなら、彼らこそが身の危険にさらされるだろう」と語った。 カストロ首相は、最近キューバ領土内で米国により企てられた“侵略”を激しく非難した上で「我々は侵略者と戦い、同様な反撃をする用意ができている。米国の首脳たちは、キューバの首脳たちを暗殺するテロリストの計画を支援するのならば、自分たちが今度は安全ではなくなるということを考えるべきだ」と述べた。 さらに首相は「国際問題の環境は・・・少し前はもっと穏やかな時代に入ったと思われた。ところが、今この傾向は侵略攻撃とともに変わってしまった」 「米国はいつも交渉し、約束をする用意があるようだが、その約束は後に尊重された試しがない。10月危機(前年10月のキューバ危機のこと)で交わされた約束も守られていない。現に新しい侵略攻撃に見られるように、約束は破られている」 「しかし、私はこれが非常に危険な状況をつくり出すと警告しておく。10月危機よりも悪い状況をつくり出すだろう・・・」などと話した。
2005.06.12
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今日(6月11日)は元超能力少年で現在は楽園民を名乗る清田益章さんの講演会に出席した後、日没まで時間があったので、文京区の白山神社へ行ってきました。路傍に紫陽花が咲く参道を登って行くと、白山神社が現われます。紫陽花もずいぶん咲いていました。紫陽花を富士山のように配置した「あじさい富士」もほぼ満開。境内では、神の使いである猫にも遭遇。白山神社なので白い猫ちゃんです。「こっちだよ」と、境内を案内してくれます。でも、ちょっと顔が疲れているように見えました。だれか近所の優しい人に、ご飯をもらってね。本殿です。白山神社の御祭神は、菊理姫ですね。神話ではイザナミとイザナギのケンカを仲裁したので、結びの神とされています。全国に白山神社は2000社以上ありますが、その所在地の多くが非農耕系の人たち、つまり被征服民の聖地だったのではないかとみられています。本殿の脇にも紫陽花が咲いていました。ところで清田益章さんはこんな人です。43歳ですが、私と同様若く見えますね。ただし、清田さんは女の子にもてたくて、顔を変えたそうです(もちろん念力で)。講演会ではスプーン曲げを実演。祈りと踊りを合体させた「おのり」も披露しました。「今度遊びに来れば」と言っていたので、取材を兼ねて清田さんの家にお邪魔するかもしれません。
2005.06.11
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▼突破口これでジョンソン大統領がスミスにカストロ陰謀説を吐露したことが確認された。大きな収穫であった。複雑怪奇な謎を解く場合、何かよりどころとなる事実が一片でも確認できれば、そこを突破口に謎を解明できる場合があるからだ。ジョンソンはカストロがケネディを殺したのだと述べた――これがケネディ暗殺の謎を解く決定的な鍵となるのだ。なぜジョンソンは、カストロが犯人であるなどと発言したのか。ジョンソンはウソをついたのだろうか。ウソである可能性は、まず考えられない。ジョンソンとスミスとの懇談があったときは、ケネディ暗殺から既に3年以上が経ち、オズワルドを殺したジャック・ルビーもその年の1月に獄中で“病死”している。死人に口無しで、ケネディ暗殺の真相も闇の中に消えようとしていた。そこでジョンソンがカストロ暗殺説を自分から披露した意味は大きい。わざわざスミスにウソをついてまで寝た子を起こす必要は全くなかったからだ。さらに、自分がお墨付きを与えたウォレン委員会の報告が間違っていたと発言することは、政治的にも自分で自分の首を絞めることにつながる。自分の政治生命を絶たれかねない話をわざわざでっち上げるはずはない。むしろ、状況から言って、ジョンソンは、カストロが事件の背後にいるとの情報をつかんでいた、あるいはそう信じていた。そして3年経った今、つい、口を滑らせてしまった、と見る方がはるかに自然だ。 ここで三つの可能性が考えられる。一つは本当にカストロがケネディに反感を抱くマフィアなどを使ってケネディを暗殺したという可能性。二つ目は、ケネディ暗殺計画のことを薄々気付いていたカストロは、間接的に反ケネディによる暗殺の動きを支援したという可能性。そして、三つ目は、ジョンソンはカストロがやったと信じていたが、実は、ジョンソンは間違った情報を持っていたという可能性だ。(続く)
2005.06.11
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東京地方は梅雨入りしました。来週の予報もほとんど雨。これからは紫陽花の季節ですね。
2005.06.10
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▼手紙 ハワード・K・スミス本人から手紙が届いたのは、それから三日ほど後のことであった。手紙といっても、連絡先として書いたファックス番号に一枚の紙が送られてきた。ちゃんと、スミスのサインもしてあった。私の手紙をちゃんと読んでくれたわけだ。スミスの返信には次のように書かれていた。―――――――――布施泰和(注:これは筆者の実名ですね)殿 同様にこちらからもこんにちは。あなたの質問にお答えしましょう。1967年3月31日、私はホワイトハウスの大統領執務室の隣にある小さな個室でリンドン・ジョンソン大統領と向き合って座っていました。それは3時間にわたる私的な会話だったのです。会話というよりも、大統領があらゆることに関して一方的に発言したと言った方がいいかもしれません。もちろん時々私も質問したため、一連の発言は途中、遮られることもありました。 前任者のケネディの話をしていたある時点で、大統領は私に「これを聞いたら君は驚くぞ」と言ったのです。少し間を置いてから「ケネディはカストロを殺そうとしたが、カストロが先にケネディをやったのだ」というようなことを言ったのです。(もちろん大統領が話している間、私はメモをとりませんでしたから、一言一句同じではありません。しかし、私はその懇談が終わり自由になるやいなやタイプライターに向かい、思い出せる限りのことを書きとめました。)その発言には確かにびっくりしました。しかし、しばらくして、大統領にケネディ暗殺についてもう一度話してくれないか、と頼むと、今度は一転して、私を制して、「あれらのことは話したくない」というようなことを言ったのです。 そういうわけで、ジョンソンの発言は公のインタビューではなかったのです。その後私が何度も同様に大統領と持った懇談の、その最初の懇談でのことでした。私はジョンソンの発言をどう解釈していいか今でも分かりません。そのことは私の番組の中でも後に何度か言及しました。ジョンソンはかつて、ケネディ暗殺は陰謀ではなく、気違いによる単独犯行だと決めつけたウォレン委員会の結論にお墨付きを与えておきながら、今度は私に、キューバ人による陰謀が存在したと信じていると言ったのです。彼はこうした衝撃的なことを会話に挟むことで、彼が話していることに私が全注意を傾けていることを確認したかったのでしょうか。私は今でも困惑したままです。 これであなたの質問に答えられたとおもいますが。敬具。 ハワード・K・スミス――――――――――スミスはその後、2002年2月に亡くなった。享年87歳であった。ジャーナリズムの一時代を築いた“第二次世界大戦を取材した伝説の特派員”であったとCNNは伝えている。(続く)
2005.06.10
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▼探索 予想したとおり、ベセスダは大きな町(首都ワシントンのベッドタウンとして発展した)で、人々でごった返していた。この地域で一人の人間を探し出すことは、大海に落とした釣り針を探すようなものなのだろうか。私は地図で、有名人が住んでいそうな住宅地を見つけ、事前に印を付けておいた。その場所についてから、周辺の聞き込みをすれば、手がかりが得られると思ったのだ。ところが通行人の何人かに聞いても、だれもわからない。そもそもハワード・K・スミスの名前を知らない人がほとんどであった。そういうときはどうするか。おそらく新聞記者の一年生なら誰でも知っていることだ。道は消防署に聞け。彼らは、大通りから路地裏まであらゆる道を知っているエキスパートだ。スミスの居所などわけなく教えてくれるはずだ。案の定、消防署の人は、難なく教えてくれた。車でスミスの自宅前に乗り付けると、大きな正門があり、奥の邸宅へと道が続いていた。邸宅の前は小さなロータリーになっている。一瞬、敷地内に入ることに躊躇したが、門は開いているし、門に呼び鈴もない。恐る恐るではあるが、中に入り、邸宅の呼び鈴を押した。見ず知らずの人間がいきなり押しかけて、取材に応じてくれるだろうか。マイケル・ムーア張りのアポなし突撃取材である。10秒、20秒と時間が過ぎていくが、応答がない。また、呼び鈴を押す。やはり、応答はなかった。その日、スミスは留守であった。だが、住所はわかった。これで十分だ。自宅に戻った私は、スミスに手紙を書いた。(続く)
2005.06.09
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▼気になる言葉 私はアンダーソンに再び聞いた。「ジョンソンは本当に、そんなことをハワード・スミスに話したのですか」アンダーソンは言った。「そうです。疑うのならば、スミス本人に聞いてみればいい。まだ生きているはずだ」その日のアンダーソンとのインタビューはこの後、ビル・クリントン大統領(当時)の下半身スキャンダル問題にまで及んだが、ここでは割愛させてもらう。私はアンダーソンに取材に応じてくれたことを感謝して、ワシントンDC市内の自宅に戻った。自宅でアンダーソンとのインタビュー内容をメモにしているときに、アンダーソンの言葉が再び耳に響いた。「疑うならスミス本人に聞いてみればいい」面白い。本人に聞いてみようではないか。私は作業を中断し、ハワード・スミスを探すことにした。まず、ABC放送局に電話した。応対に出た広報担当はもうすでに会社を辞めた人なので住所はわからないと言う。ただ、かつては、メリーランド州のベセスダに住んでいたということは教えてくれた。ベセスダならそんなに遠くない。だが、ベセスダといっても広い。電話会社の番号案内に問い合わせたが、ハワード・K・スミスでの登録はなかった。住所もわからずにスミスを探し出せるだろうか。有名人だから誰か知っている人がいるかもしれない。私は翌日、車でとりあえずベセスダに向かった。(続く)
2005.06.08
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▼確証 ジャック・アンダーソンは、政府関係者だけでなく、マフィアにも取材を広げて情報収集、カストロによる陰謀説をほぼ確信し、記事に書いた(メモ6参照)。確かに動機面では、カストロ陰謀説やマフィア犯行説を臭わせるような状況は存在した。 まず、1960年の大統領選で、マフィアはケネディ当選のため暗躍した(メモ7参照)にもかかわらず、ケネディは大統領に就任するとマフィアを厳しく取り締まった。カストロに閉鎖されたキューバのカジノを取り戻せるとマフィアが期待していたピッグス湾事件(メモ8参照)でも、ケネディはCIAが約束していたとみられる空爆などによる反カストロ部隊に対する支援(援護爆撃)を認めなかった。さらに、マフィアはカストロ暗殺計画でCIAに協力しているという“貸し”があるにもかかわらず、ケネディはマフィア糾弾の手を休めなかった。カストロもCIAによる暗殺計画に気付き、報復を考えていた・・・。しかし、私にはカストロがケネディを暗殺させたというアンダーソンの説をにわかには信じることができなかった。状況証拠は確かにカストロによる陰謀説を支持しているといえなくもない。それでも、なにか決め手となる証拠や裏づけがないと、その仮説が正しいとはいえない。「アンダーソンさん、非常に面白い仮説ですが、一つ聞きたいことがあります。カストロによる陰謀説を裏付けるような証拠か、決め手はあるのでしょうか」と私は聞いた。アンダーソンは答えた。「ジョンソン大統領自身が認めているのです」「認めている? まさか」「本当です。ジョンソンは、ハワード・スミスというジャーナリストに真相を話したのです。ケネディがカストロを殺そうとしたら、カストロが先にケネディをやったのだ、と」これは驚愕するような話だった。私の長年の記者経験から言って、現職のアメリカ大統領がジャーナリストに対して、ケネディ暗殺事件についてそのように明確な発言をしたのであれば、それはかなり信憑性が高い。しかも、それが一般に知られている事実と異なる場合であれば、なおさらだ。(続く)(メモ6=アンダーソンの記事) カストロがケネディ暗殺の背景にいたとするアンダーソンの最初の記事は、1967年に登場した。アンダーソンは、CIAのカストロ暗殺計画にかかわっていたジョニー・ロセッリというマフィアから情報を得て、オズワルドがCIAとマフィアの関係をばらす恐れがあるので、マフィアがジャック・ルビーを使ってオズワルドを殺した可能性があること、それにケネディ暗殺の背景にもこのカストロ暗殺計画にかかわったCIAやマフィアの影がちらついていることなどを記事にした。 後にウォーターゲート事件で暗躍、逮捕された元FBIのゴードン・リディによると、CIAとマフィアの関係をあばいた一連のアンダーソンの記事の結果、CIAの信用が著しく損なわれたという理由で、リディと、CIA情報部員で同様にウォーターゲート事件で逮捕されたハワード・ハント、それにもう一人、ドクター・ガンとして知られるCIA工作員の間で、アンダーソンを暗殺すべきかどうか、協議したことがあったという。(メモ7=ケネディの大統領選とマフィア) 60年の大統領選は史上まれにみる激戦の末、ケネディが共和党候補ニクソンを僅少の差ながら破って当選した。しかし、この選挙の裏には、少なくとも2つの州で不正があったのではないかとみられている。 一つはイリノイ州で、シカゴ・マフィアのボス、サム・ギアンカーナが“墓場から”ケネディに約1万票投票させた疑いが持たれている。つまり、本当ならありえない票がケネディに大量に流れ、同州でケネディが勝利したのだ。ギアンカーナはケネディと愛人を共有していたことでも知られているが、愛人に対し「俺がいなければ、やつ(ケネディ)は今、ホワイトハウスにいることもできなかった」とよく語っていた、という。 もう一つは、問題のテキサス州で、ここではリンドン・ジョンソンが暗躍、独断的に10万票を無効にして、同州でのケネディの勝利をもぎ取った疑いが持たれている。 この2州でのケネディの勝利の結果、ニクソンに行くはずだった51の大統領選挙人の票がケネディに流れた。もし、この51票がニクソンに流れていたのなら、ニクソンが僅差で大統領になっていたのだ。(メモ8=ピッグス湾事件) 大統領就任早々のケネディを待っていたのは、キューバ問題だった。 キューバでは、1959年1月カストロの革命政府が成立し、ソ連寄りの路線を鮮明に打ち出していた。米国の目と鼻の先のカリブ海に共産主義国が誕生したことは、米国にとって国家安全保障上の脅威にほかならなかった。そこで、アイゼンハワー政権時代から国外退去していた反カストロのキューバ人の軍事訓練を密かに始め、カストロ政権転覆のための反カストロ分子によるキューバ侵攻を計画した。 新大統領のケネディは61年4月、この計画にゴーサインを出す。まず16日にニカラグアを飛び立ったB-26爆撃機がキューバの空軍を攻撃。17日には、1500人の反カストロ分子がピッグス湾からキューバ上陸を始めたが、ソ連の過剰な反応をおそれたケネディは二度目の援護爆撃を中止。このためピッグス湾の亡命キューバ人の部隊は孤立、多くはカストロの部隊に殺されたり、捕らえられたりし、計画は大失敗に終わった。
2005.06.07
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▼密談 ジャック・アンダーソンによると、ケネディが暗殺された翌日、新しく大統領に就任したリンドン・ジョンソンとジョン・マコーンCIA長官が極秘に緊急会談した。その場でマコーンは、CIAによるマフィアを利用したカストロ暗殺計画(メモ4参照)が失敗したことや、オズワルドが暗殺の2ヶ月前にメキシコシティのキューバ領事館を訪ねていたことをジョンソンに話した。そして米国の暗殺計画に怒ったカストロが、オズワルドか、ケネディの政策に反感を抱き寝返ったマフィアを使ってケネディに報復したように思えると話したというのだ。 マコーンはさらに「もしこのことを国民が知ったら、国民は激怒し、カストロに制裁を加えろと叫ぶだろう。また、もしカストロに対して報復したら、既に1年前にキューバからのミサイル撤去という政治的屈辱(メモ5参照)を経験しているソ連の二キータ・フルシチョフ第一書記(首相)は、クレムリンで非常に難しい立場に立たされる。つまり、今ここでキューバに軍隊を派遣しようものなら、フルシチョフはもう妥協しないだろう。核のボタンを押すことになるかもしれない。だから大統領。私のアドバイスは、カストロの件は伏せておくことです」とジョンソンに伝えた。 ジャック・アンダーソンの説明は続いた。この会合の後、ジョンソンはエドガー・フーバーFBI長官を呼び、ケネディ暗殺の捜査に当たっては、カストロは事件に関係ないことを前提に進めるよう命令した。ジョンソンは、これは米ソによる核戦争を防ぐためだと説明、フーバーはこれに従った。このため、FBIは、カストロと暗殺を結びつけるような情報は極力排除、オズワルド単独犯行という結論が出るような捜査結果のみを意図的に委員会に報告した。(続く)(メモ4=カストロ暗殺計画) 現在公表されているCIAによるカストロ暗殺計画は、60年8月まで遡る。CIAのリチャード・ビッセル計画局次長が部下のシェフィールド・エドワーズ安全保障担当部長にマフィアを使ったカストロ暗殺計画を打診したのが始まりだ。ビッセルとエドワーズは、ボツリヌス菌を染み込ませた葉巻をカストロに吸わせることを考案したり、マフィアに対して、カストロ暗殺に成功した者には15万ドルの報償を与えると約束したりしている。61年4月のピッグス湾事件の失敗で、一時は暗殺計画も中断したかに思われたが、その後もCIA側の担当者が替わりながら、マフィアを介在するカストロ暗殺計画は継続。カストロの食事に毒を入れる計画やマフィアの暗殺団をキューバに送り込む計画などが実施されたが、いずれも失敗している。(メモ5=ミサイル危機) いわゆるキューバを舞台にした1962年10月のミサイル危機のこと。キューバ危機ともいう。10月22日、ソ連がキューバに中距離ミサイル基地を建設していることを空中偵察で知ったケネディ大統領は、ソ連に撤去を要求。艦艇183隻、軍用機1190機を動員してキューバを海上封鎖すると同時に、西半球に対するキューバからのミサイル攻撃は、ソ連の米国への攻撃と同じとみなし、ただちに報復攻撃をするという態勢をとったため、緊張が一挙に高まり、一時は米ソ核戦争に突入する可能性のある危険な状態になった。国連緊急安全保障理事会での交渉や非公式の会談を通じて、ケネディはフルシチョフにキューバ不侵攻を約束し、フルシチョフは同月28日、ミサイル撤去を発表、核戦争の危機は回避された。この結果、米国ではケネディの勇敢な決断力が地球の危機を救ったとして、ケネディの株が上がる一方、ソ連では核戦力と海軍力の立ち後れが再確認され、64年10月のフルシチョフ失脚の遠因になったとされている。
2005.06.06
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天気がよかったので、再び神代植物公園へ行ってきました。今日は薔薇です。ピークは過ぎましたが、6月中旬ぐらいまでは楽しめそうです。次はナデシコですね。温室には、フィリピン・ルソン島原産のヒスイカズラが咲いていました。ヒスイみたいな色ですね。再びバラ園。こんな薔薇もあります。心配された夕立もなく、のんびりとした一日となりました。最後に薔薇の話。マリリン・モンローが62年に当時のケネディ大統領のために描いた赤いバラの水彩画が4日、ロサンゼルスのオークションで7万8000ドル(約840万円)で落札されたそうです。AP電によると、落札したのはロードアイランド州の画商。この絵は結局、ケネディ大統領に贈られることはなかったということです。
2005.06.05
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▼偶然ジャック・アンダーソンが語った元FBI長官エドガー・フーバー(メモ3参照)の話はそれなりに面白かった。強大な権力をほしいままにしていたフーバーを、アンダーソンは執拗に追跡、取材した。フーバーの自宅前で密かに張り込んで24時間監視したり、フーバー家が出すゴミの中身を調べたり、あらゆる手段を講じてフーバーを調べ上げた。アンダーソンによると、フーバーは“権力の濫用者”と呼ばれていたが、意外と私生活は質素でやましいことはほとんどなかったらしい。フーバーのゴミを分析した結果、消化器系の病気をもっていたこともわかった、とアンダーソンは話していた。およそ40分ぐらいだろうか。依頼されたフーバーの取材はほぼ終わった。そのとき私は、これだけフーバーのことを取材して、なおかつ政府内部に太いパイプをもつアンダーソンならば、ケネディ暗殺の真相についても何か知っているのではないか、と不意に思いついた。断っておくが、私はそのときまでケネディ暗殺事件について、とくに興味をもっていたわけではない。ふと頭に浮かんだので、質問したくなっただけなのだ。「ところでアンダーソンさん、フーバーがまさに絶頂期にいたとき、ケネディ暗殺事件が起きていますが、何かご存知ではないですか」と私は聞いた。そのとき、聞いた話は衝撃であった。アンダーソンの話は次のようなものだ。アンダーソンは、ケネディ暗殺直後から、独自の情報網を使って、暗殺の真相に迫っていた。取材の結果、米連邦捜査局(FBI)や米中央情報局(CIA)から得た情報で、マフィアの殺し屋やカストロが関与している可能性があることに気付いたというのだ。(続く)(メモ3=エドガー・フーバー)FBI長官に長年君臨した「権力の濫用者」。ケネディ大統領に引退を勧告されるのではないかと恐れていたフーバーにとって、権力の椅子に座り続けるためにはケネディは邪魔な存在だった。しかし筆者は、フーバーがケネディ暗殺にかかわっていたとは思わない。今後の日記で明らかにするが、フーバーが証拠隠滅工作をしたのは、あくまでもジョンソン大統領の命令によるものだと推察されるからだ。フーバーは忠実にジョンソンの命令に従い、オズワルド単独犯行をでっち上げたと筆者はみている。興味深いのは、フーバーがFBIの組織力を維持するため、リチャード・ニクソン大統領やCIAと権力抗争を展開していた1972年5月1日に突然、病死したことだ。その二週間後の5月15日にニクソンの政敵、ジョージ・ウォレスが撃たれたことや、同月27日にウォーターゲートの民主党本部への最初の侵入事件があったことを考えると、フーバーの死が“偶然”だったにせよ、いかに大統領再選を目指すニクソン陣営にとって都合がよかったかがうかがえる。1973年12月12日付けのハーバード大学新聞「ハーバード・クリムゾン」は、CIA筋の話として、ウォーターゲート事件で捕まったゴードン・リディとキューバ人がフーバーの家に忍び込み、燐酸塩系の毒物をフーバーの使用するトイレ用品に塗り込んだ結果、それを使ったフーバーが心臓発作で死んだとする記事を載せている。
2005.06.05
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▼依頼ジョンソン発言の真相について議論する前に、私がどうやって、このジョンソン大統領とハワード・スミスの「私的な懇談」にたどり着いたのかについて触れておこう。1998年秋のことだ。私はジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究大学院(SAIS)を卒業して、ワシントンDCでぶらぶらしていると、朝日新聞のワシントン支局記者から電話がかかってきた。 内容はたしか、「どうせお前はヒマでぶらぶらしているなら、ちょっと仕事を頼まれてくれないか」というものだった。朝日新聞は当時、20世紀の世界史に出てくる重要人物を掘り下げる企画を日曜版に連載していた。そこで米連邦捜査局(FBI)長官として長年君臨したエドガー・フーバーを取り上げる予定だったが、ちょっと追加取材が必要になった。そこで誰かワシントンDC郊外に住むジャック・アンダーソン(メモ2参照)という、フーバーのことをよく知るコラムニストに追加取材できる人を探していたのだ。私は「どうせヒマだったから」二つ返事でOKした。 私はすぐに電話でアポを取り、ワシントンDC郊外の緑多い広い敷地にある邸宅で今では多くの孫に囲まれて暮らしているというアンダーソンに会いにいった。約束の時刻より少し早めに邸宅の敷地内についたが、建物がいくつかあり、どの建物にアンダーソンがいるのかよくわからない。五分ぐらい歩き回って探していると、大きな家の前で初老の男性が私を見ているのに気が付いた。私の方から歩み寄って、「ジャック・アンダーソンさんですか」と尋ねると、「そうだ」と言う。いくつもある建物には、自分の子供たちが孫たちと暮しているのだという。私にとっては、迷路のような敷地の中で、あちこち歩いた末にようやく本人にめぐり合えたわけだ。邸宅の中に入っていくと、大きな暖炉がある応接間に通された。そこで私は取材の趣旨を説明し、エドガー・フーバーに関する取材を始めた。(続く)(メモ2=ジャック・アンダーソン) 特ダネのすっぱ抜きで名を馳せたコラムニスト。1922年生まれ。10代から新聞記者の仕事を始め、第二次世界大戦中、中国を中心とするアジアで従軍記者を務めた。戦後、ジョージタウン大学などで学び、47年からワシントン・メリーゴーラウンド社のコラムニスト。政府内部に太いパイプを持ち、独自の調査報道で次々と特ダネを書いた。69年に同社社主になり、72年にはニクソン政権がインドーパキスタン戦争で極秘にパキスタンを支援していたことをスクープした一連のコラムなどが評価され、国内報道部門でピューリッツァー賞を受賞した。ワシントンDC近郊に住み、9人の子供に孫が36人いる(98年11月現在)。
2005.06.04
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▼発端「これを聞いたら、君は驚くぞ」 アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ジョンソンは、前任者の故ジョン・F・ケネディの話をしている時に、突然こう切り出した。時はケネディ暗殺から3年以上経った1967年の3月31日。当時ABCニュースのアンカーマンをしていたハワード・K・スミス(メモ1参照)が、ホワイトハウス大統領執務室の隣にある小さな個室で、ジョンソンと一対一の「私的な会話」をしていたときのことだ。テレビカメラの持ち込みはおろか、メモもとらないという、いわゆる非公式の懇談の形をとっていた。スミスが、どんな驚く話が出てくるのか椅子から身を乗り出した、ちょうどその時、ジョンソンは、おもむろに口を開いた。「ケネディがカストロを殺そうとしたが、カストロが先にケネディをやったのだ」――。 こうした衝撃的な会話が、現職大統領と当時の有力ジャーナリストの間で交わされたことを知る人は極めて少ない。こんなにも重大な大統領の発言が知られていない第一の理由は、この会話が記者会見など公の性質を持たない私的な懇談であったこと。 第二の理由は、カメラの前で同じことを話してくれと頼んだスミスの執拗な要請にもかかわらず、ジョンソン大統領が頑なにテレビでの発言を拒んだこと。そして、第三の理由は、おそらくスミス自身が、ジョンソン大統領の発言の真意をよく理解していなかったことだ。(続く)(メモ1=ハワード・K・スミス) ハワード・スミスのことを知らない方も多いと思う。そう言う筆者も7年前まで知らなかった。知らなかったといっても、テレビ、あるいはビデオで見たことはあったが、名前を知らなかったと言った方が正確だ。一九六〇年の米大統領選の際、あの歴史に残るケネディとニクソンの最初のテレビ討論を司会した、といえば、ご存じの方もいるかもしれない。 スミスは、1914年生まれ。36年に大学卒業後、ジャーナリストを目指した。ユナイテッド・プレス記者として第二次大戦前夜のヨーロッパを取材したのをはじめ、CBSラジオでは、エドワード・マロウの配下で、ベルリン特派員。米国人記者として一番最後まで戦時下のベルリンに残り、ドイツ降伏後は一番最初にベルリンに入った。 戦後、エドワード・マロウの後継者として、CBSヨーロッパ総局長を11年務めた。米国に帰国してからはCBSと対立。ABCに移り、最初は解説者、やがてアンカーマンとして活躍した。引退し、ワシントンDC郊外のメリーランド州ベセスダで暮らしていたが、2年ほど前に死去した。(編注:このシリーズは拙著『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』(近代文芸社)の一部を改定したものです。著作権はもちろん私にあります。)
2005.06.03
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精神が世界をつくる私は顔を変えたことがある。といっても整形手術をしたわけではない。精神の力で変えたのだ。まさかと思う方もいるだろうが、実はこれは誰でも無意識のうちにやっていることでもある。苦労やストレスは顔に出るし、穏やかな心は、顔を穏やかにするではないか。ウソばかりつく政治家が醜悪な顔になるのと同様なメカニズムだ。私はそれを意識的にやっただけで、別にたいしたことではない。それは私がまだ、中学生のときだった。友人に裏切られ、私は極度の人間不信に陥った。すべてを疑いの目で見るため、誰も信じられなくなり、ひたすら孤立していった。あるとき、ふと鏡の前で、自分の顔をまじまじと見た。何ということか。鏡に映し出された自分の顔は、それまで見たことがないほどいびつになっていた。対称性が失われ、歪んで醜く見えた。「これはひどい。病んだ精神がこれほどまでに自分の顔を歪めるとは!」――。私はかなりショックを受け、打ちひしがれた。それからである。私は顔を変えることにした。不思議なことに、私はそれができると確信していた。病んだ精神が顔を変えるのだから、健全な精神をもってすれば、また顔は変わるはずだ、と考えたのだ。猜疑心、不信感、憎悪などの私が持っていたマイナスの感情を、すべての可能性を信じることにより、信頼、愛情、寛容などのプラスの感情にできるだけ変えていった。今から思うと、一種の自己催眠であったのではないかと思う。悩みはほとんどなくなり、ストレスにも強くなった。ストレスがあっても、自分を客観視(ストレスに悩む自分を観察)して、まさに客観的に楽しむようにした。予想通りに私の顔は、再び元の自分の顔へと戻っていった(そして、自己催眠が効きすぎたのか、今でも童顔のままである)。人間の苦労は顔に出てしまう。これは誰もが認めるはずだ。しかし、同じストレスがあったとしても、ストレスに苦しみ、その苦労が顔に出てしまう人もいれば、ストレスをプラスに考え、苦労とも思わない人もいる。これが結局、顔を変えることにつながる。ストレスに負ければ、中学時代の私のように顔が歪む。額の皺の刻印は深くなり、実際の年齢よりも老けて見えるようになるだろう。だが視点や意識を変えることにより、ストレスは、ある程度の緊張をもたらすだろうが、苦労にはならなくなる。同じ年月を経ても、一人は老人のように、もう一人は若々しく見えてしまうのはそのためだ。すべては人間の意識が決めるものである。あなたの意識が決まれば、肉体や物質はそれに従うのだ。意識(精神)はおそらく、あなたの世界の統治者である。あなたはこれから、どのような世界をつくろうとするのだろうか。これまで多くの超能力者を紹介した。彼らは不思議な世界を旅するものたちである。しかし、実はあなたこそ、この深遠にして不思議にあふれた世界の主役であり、かけがえのない「神の旅人」でもあるのだ。(了)お知らせこれで本当の終わりです。明日からのテーマとしては、「不思議な世界パート2(研究者編)」、「ジョン・F・ケネディ暗殺の動機」(ダイジェスト版)、「カストロが愛した女スパイ」、「ハーバード経済日誌」の続き、「留学のための英語論文・ペーパー作成術」、「スコットランド探検記」、「英国留学記」、メディア論、風刺劇「大統領プー」などがありますが、何かリクエストはありますでしょうか?
2005.06.02
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目をつぶると見える世界2私には目をつぶると見える世界はもう一つある。それは意識的に見る夢のようなものである。想像して見る映像とどう違うのか、と問われれば、答えは簡単。夢と同じで次がどうなるかわからないことである。つまり無意識にゆだねて、その動画を見るわけだ。もちろん意識ははっきりとしており、夢ではない。深くリラックスして(多分アルファ波を出して)、人間の第3の目のある辺りに意識を集中する。いつも成功するわけではないが、しばらくすると映画のような動画が見えてくる。ストーリー性はほとんどないようだが、細部までが極めてリアルだ。何か乗物に乗っているのか、周りの風景が飛ぶように動く場合もある。見たこともないような風景だ。本当に乗物に乗って旅をしている気分になる。ただし、旅をしているのは視覚だけで、嗅覚や聴覚、触覚はない。この現象については、二つの解釈ができると思う。一つは、脳に記憶されたかつての影像が喚起されたとの考え。おそらく人間の脳は、それまでに見た画像をストックしておくような保管庫を持っているのだろう。その容量はスーパーコンピュータをもはるかにしのぐもので、ほぼ無限にストックできる。ただ、意識下にその画像情報を置いておくと、収集がつかなくなるので、無意識下のどこかに保存しておく。それが瞑想状態になることにより、どうしたきっかけか、意識下に呼び出される。もう一つの解釈はユング的だが、瞑想することにより、集合意識の世界にアクセスして映像を見ているのだというもの。他人が見ている映像だろうとなんだろうと、視覚が捉えることができる、宇宙にあるすべての影像にアクセスできる。脳はその受信機であり、あとは、どのような周波数にその受信機を合わせることができるかにより、見る映像が違ってくるわけだ。私にはどちらの解釈も成り立つように思うが、必ずしも記憶のなかの情報ではないと思えるような影像も見たことがある。いつものように遊び感覚で、意識的に脳の中の影像をスキャンしていると、ある人物がいることに気が付いた。その人は長い髪の女の人で、見たこともないような雰囲気を持っていた(もちろんどこかで遭遇した人である可能性も残っている)。問題は、私がその女性に気づいたと同時に、向こうも私の存在に気づいたと思われたことだ。最初はその女の人は後ろ向きであった。しかし、私の存在に気づき、明らかにこちらに振り返ろうとしているところだった。横顔が見えた。まだ、目は合っていない。そのとき私は、なぜか「まずい」と感じた。目と目が合うと、私がどこにいるかがその女性にわかってしまう、との焦りに似た感覚があった。その間にも女性は、こちらを向こうとしている。もう目と目が合うと思った瞬間、私は目を開けてその影像をかき消していた。あのまま目をつむっていれば、確実にその女性と目が合ったであろう。それがどういう結果につながったのか。知りたいようでもあり、知りたくないようでもある。(続く)
2005.06.01
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