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小さなときから、祖父や祖母から君は、孫たちの中でも一番上だから、とか言われたことはなかったが、なんとなくいとこたちの中では中心的な働きをしていたのかもしれません。貧しい家の中で、遊び場を探して、いとこたちと遊んでいました。ミシン(昔は、足踏み式でした)に乗り込んで、車気取りで何時間も過ごしたり、二階家の屋根に上って、鬼ごっこをしたりと、利用できるものは何でも利用したものです。ただ、屋根の上から、従弟が下に落ちて、額を割って、何張りも縫う大けがをしたことは、今でも鮮明に覚えています。
2019.04.30
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私の父は、家に戻りたくない願望、そして、今私が対応している方が、施設に戻りたくない願望、、、。その人にとって、幸せな人生を考えるとき、介護する側は、つい、自分の身として考える癖がある。それはある意味正しいのだが、でも、それは、あくまでも介護する人の気持ちに過ぎない。本人の希望通りにしたいが、実は、問題行動があったり、あるいは経済的な理由から、その本人の希望に添えないことが多々あるのだ。
2019.04.29
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病院としては、腸の様子が落ち着いているけれど、自立生活が遅れるような状態にまで、リハビリを行うようだが、実際は、本人の意向や、意思が後ろ向きなのが一番の問題だと私は思った。どうすれば、家に帰れるのか、または、そのままでよいのか、判断に迷うところである。丁度、個人の介護を行っている方も、同じような悩みを持っている。午前中にご自宅で過ごしていただき、昼食後に施設に戻るといった生活を続けているが、時々、健常な意識に戻られることがあって、そういうときは、施設に戻りたくない、という願望が強くなって、私も、施設の方も対応に苦慮することがあるのだ。この方の場合には、施設介護を拒絶されているので、それを乗り越える方法が見つからない。
2019.04.28
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娘も、息子も、私の弟も、一応入院したことを連絡したので、見舞いに来てくれているが、見舞い時に眠っていたり、あるいは、退院願望がなく、そのまま、入院している方が良い、といった後ろ向きな発言ばかり目立つので、半分安心すると同時に、家に戻れるのかしら、といった感想を伝えてきた。リハビリも見てきたが、家では自分でつかまり歩きを行っていたのだが、リハビリの場では、PTの人に支えられて、ようやく立っているような状態で、自らの意志で歩いているようには見えなかった。
2019.04.27
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頂上から下ると、山荘があるのですが、その時の山行(さんこう、と言っていました。山登りのことです)は、遊びに徹していて、山荘の下にある沢で水遊びとなりました。登山靴もそのまま、沢の中に入りこんで、今度は澤歩きのまねごとです。ザイルも使って、ちょっとした滝も一緒に上りました。全身ずぶぬれです。そんな一日を過ごすと、自然と子供たちも打ち解けてくれて、帰りのバスの中では、当時はやっていた漫画のテーマソングなどを大声で合唱となります。また、学院長が、自腹を切って、子供たちにうどんをごちそうして、一気に塾の雰囲気になれ、学習活動の支えの一助となったようです。
2019.04.26
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一応山登りのはじめに、子供たちが怪我をしないように気を付けてください、という注意があっただけでしたが、そういった山岳行動は、初めてでしたが、何か以前から何となくやっていたような懐かしい感じがして、子供たちと一緒に山登りを楽しんでしまいました。「枯れ枝注意」とか「落石注意」などと大きな声で、皆に伝達しながら、藪漕ぎをやりました。頂上につくと、アルコール燃料と、持参したコッヘルを使って、ラーメンを作ったり、コーヒーを作ったりと、皆でワイワイと大いに山を楽しんでいました。
2019.04.25
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5月の薫風香る青空のきれいな日でした。奥多摩の臼杵山に子供たち5,6人と上ったのです。ちょうど、小学校を卒業して、新一年生で、その塾に入塾した子供たちでした。大体小学6年生、中学生になりたて、といった年頃は、自分にも覚えがありますが、大人もびっくりするようなことをサラッと行ってしまうようなところがあって、私の受け持った生徒の中にも、そういう大人びた子供がおりました。「先生、こんなに天気の良い日に、どうして山登りなんてしてるの。恋人いないの?」全く、意表を突かれて、びっくりしていると、「ずぼしでしょ」と追い打ちをかけられました。
2019.04.24
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大学時代には、二浪して親に迷惑をかけたという意識から、バイトをして、学費くらいは稼ぎたいという気持ちがありました。学生課に行くと、週二日で、4時間で、月2万4千円という塾のバイトが目につきました。この塾は大学への通学の途上にあって、便利だと思い、応募してみたのです。応募の詳細は今では、かなり昔のことなので、はっきりしないのですが、初日が日曜日で、山登りの格好を指摘なさいというものでした。おかしなことをする塾だと最初は思ったのですが、兎に角その塾の最初の仕事は、子供たちと山登りをすることだったのです。これが、私のその後の人生を大きく変えることになるとは、最初は思いませんでした。
2019.04.23
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入院して10日、輸血も終わり、9日目から粥が夕食に出されたとのこと。リハビリは、毎日行われている様子で、今日もリハビリの様子を見せてもらったが、担当者からは、最初の方が元気よく歩いていたという感想を聞いた。昨日も今日も、依頼心が強くなり、リハビリを拒絶しているようで、退院願望が薄れているようだ。父には、歩けるようにならないと、退院できない、と伝えるが、わかったというだけで、相変わらず態度は後ろ向きである。入院して、10日も寝ていれば、筋肉も落ちるし、歩くのも一苦労だ。
2019.04.22
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そんな状態であるから、実際に見舞いは10分程度で退散せざるを得ない。子供たちも、父が元気な姿を見れたので、一安心で帰途についた。リハビリの計画書に署名をして、家族として父の復帰後の状態について、希望を書き込んだ。入院する前は、自室で一応自立して生活しており、自ら炊飯し、食べ物とは言い難いが、夕食はこちらがサーブするものを、朝食は残りだったりするのだが、実は、父の行動をよくみていると、ごはんにソースをかけて食べているときがあった。栄養的には問題だが、間食として、ごはんを食べるのに、ソースをかけるくらいはいいか、と目をつぶっているのだ。
2019.04.21
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先日の日曜日には、父にとっては孫である娘二人が見舞いに行った。輸液の針を抜く恐れがあり、右手にミトンをされている。本人は、抜くつもりがなくても、寝ているときとか自然に針を抜いてしまう恐れがあるためだ。しきりに、孫娘たちに、ミトンを外してほしいと訴えている。娘たちは可哀想だといいながら、理由を聞くと、ごめんね、外せないんだ、と答える。また、経口による食事がないことと、治療のために水分量が規制されているので、のどが渇くらしく、しきりに水を欲しがるのだが、摂取量が決められており、これもむやみに飲水させることができない。
2019.04.20
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入院してから、一週間くらいは、輸血と輸液でベッドで寝たままで、恐らく、筋肉量は激減し、歩行は無理だろうと思っていたら、その病院のリハビリセンターから手紙が来て、大腸炎に関しては、改善傾向にあるので、近いうちにリハビリを行う計画であること、基本的なリハビリの目標をどのようにおくか、教えてほしい、というものだった。父は、アルツハイマー病でもあり、コミュニケーションに不安があるため、私に手紙が来たものだと思う。
2019.04.19
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知り合いの医師から、下血を止められれば、癌でないこともあり、ラッキーです、というようなコメントをもらった。とりあえず、虚血性大腸炎は治療可能なので、後は経過を見て、癌の疑いのある部位の検査を行うかどうか、医師との相談になる。本来、今日区分変更の面接がある予定だったが、結局この入院によって、延期されることになった。
2019.04.18
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救急車の中でも、独特の便臭がしており、下血が続いていることが理解された。5分で医療機関に到着すると、直ちに、胴体のCTスキャンが行われ、2時間後に、担当医より説明を受けた。診断は、虚血性大腸炎による腸内出血ということだった。一部画像に腫瘍の可能性のある塊も発見され、大腸炎の経過に伴って、大腸内視鏡検査を行う可能性を示唆された。救急搬送された医療機関は、以前歩行時に転倒し骨折した後入院したことのある機関で、帰宅願望が極めて強く、当時は、ほとんど1日か2日で退院したことのある医療機関だ。父の様子を見ていると、当時ほど元気があるわけではなく、脱走する恐れはないと思った。
2019.04.17
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排泄処理が住んだところで、血圧、体温を測定する。特に血圧は、101/63 P101と平常時より20ほど下がっており、脈拍も通常よりも高くなっていた。素人判断は禁物だが、町内の出血を疑って、基本的には医療機関へ搬送すべきだという判断を下して、東京都の九九相談センターに電話をかけた。一連の顛末を話すと、やはりそのままでは危険なので、救急搬送したほうが良いとの結論に至り、8時半ごろ、救急車が到着し、そのまま父と同乗して、救急病院に向かうことになった。
2019.04.16
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父の便秘が継続していたので、多少心配していたのだが(時々、自分でトイレで排便していた様子があったのと、オムツに便が付着していたことがあったので、様子を見ていた)、4/7の午後に多量の排便があったと、妻から聞き、安心していた。翌朝、オムツ交換に入ると、赤黒い泥状便が多量に出ていて、上下更衣と、シーツ交換を行った。便は背中にまで回っていて、洗浄するのに手間取ったが、そのあとで、医療機関に搬送すべきか、迷っていた。
2019.04.15
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私の場合には、大学に入るまで2年余計な時間を使いました。親のすねをかじって、最初の一年は家で、料理を作ったりして遊んでいました。2年目は、さすがにこのままではだめだと思って、予備校に通いました。そこで、出会った先生とは今でも連絡を取り合っています。漢文と古文の授業が面白く、勉強になりました。親の穀潰しだった私は、何とか一年頑張って、私大に入学。そこで、ある組織に出会うことになります。同時に、大学3年からのゼミでは、とても優秀な教官に指導を受け、今でも感謝しています。
2019.04.14
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大学を卒業して、大体私のような特にとりえのない人間は、一応会社に就職するしかないわけで、それまでは、何か自分でやりたい、なりたいと思っていても、実際は何もできない普通の人間だということを思い知らされるわけです。ですから、例えば、役者さんだとか、歌い手、ジャーナリスト、作家など自らの溢れる才能で生きていける方を見ると目がまぶしくて、羨ましい限りだったわけです。だから、大学はモラトリアム期間だといわれていました。大学の4年間で自分のやりたいことを見つける、といった意味でしょうか。
2019.04.13
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先見の明のある経営者は、既にそこを見越して、定年制を延長したり、様々な手段で有能な人材を登用する方法を目指しています。問題は、国で、もう少し柔軟に対応しなければいけないのですが、実態に追いついていけません。また、日本は法治国家ということで、実態と法律を合わせることが優先されるのに、事実は追いついてません。
2019.04.11
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昔、モラトリアム世代という言い方をしたことがありますが、実は私の場合、ずっと今までモラトリアム状態が続いているといってもよいのです。ネットで調べれば、モラトリアムとは、人が一人前の大人として社会に出る前の、社会的な責任や義務を果たすことを猶予されている期間を表す概念です。英語では「moratorium」と表記し、日本では「モラトリアム」とか「猶予期間」と訳されます。とかモラトリアムは、元々「債務の支払いの猶予期間」、「法律の公布から施行までの猶予期間」という意味で用いられていた単語です。しかし、ライフサイクル理論(心理社会的発達理論)で有名な心理学者のエリク・H・エリクソン(Erik Homburger Erikson)が、青年期(12歳~22歳)における人の特質を表すために「心理社会的モラトリアム」という言葉を使ったことから、発達心理学用語として定着しました。現在は、発達心理学におけるモラトリアムの認知度が高まっています。(https://www.chiikunote.com/entry/moratorium)などといった説明が見られます。
2019.04.11
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ボケ防止と、自らの糧食は自分で稼ぐ、という考え方に立てば、何か手に職を持つことが、まず大切でしょう。その仕事は、なんでもいいのです。最低限人生が送れるだけの、お金がまかなえれば、なんでもいいのだと思います。(泥棒と人殺しは除きますが)私の場合には、先のリーマンショックのおかげで、何回目かの就職後についたサラリーマンの仕事を50代半ばで放り出され、何回目かの就職活動を余儀なくされました。普通の会社は、当時のトップは皆阿呆ですから、私のような「有能」な人材を雇うことはせず、定年も60で皆放り出したものです。
2019.04.10
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この考え方は、私自身も同じ考え方をずっとしていましたが、私の高校の担任の先生も同じような考え方を同窓会で、あいさつされています。中部大学の武田先生も同じようなことを述べられており、実際に実践されています。人生100年時代を迎えて、大方の日本人ならば、隠居するのではなく、元気なうちは働こう、という考え方に傾きつつあるのではないでしょうか。
2019.04.09
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「人生八掛け論」は論などと大げさな言い方ですが、要するに、自分の年に0.8を掛けた数字が、その人の第二の連例だという「説」です。要するに、60歳だと思っているが、実は48歳。まだまだ、これからだという考え方ができるようになります。20歳の人は、まだ16歳。やり直しが効きます。この生き方は、これからを過ごすうえで、この上なく便利で前向きな考え方だと思うのですが、私の独りよがりでしょうか?
2019.04.08
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今の時代、様々な人たちが、年齢と人生の過ごし方について、同じようなことを述べられています。それは、人生100年時代を迎えて、いくつかの区切りを自ら設定する必要があるのではないか、ということでしょう。今までは、特にそう遠くない昔は、60歳まで生きられれば、それは、素晴らしいことだったのです。現代、医療の進歩などによって、人生は平均寿命が軒並み伸びて、60歳は、まだ青二才、というのは言い過ぎですが、それに近いような自覚もあります。このブログを見ている人が、すべて60代以上の訳はありませんが、一つ提案があります。それは「人生八掛け論」です。
2019.04.07
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第二の人生に当たって、二つの目標ができました。一つ目は、真実に近い歴史の探求と、自分なりにその結果を公にすること。そのために、いろいろな学習会に出席して、勉強を続けること。(今、ヴェノナ文書を研究しています。)二つ目は、介護の仕事を生活の糧の一つとすることです。
2019.04.06
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そんなわけで、大学の勉強は、まあまあ、卒業できる程度で、出来の良くない学生だったかもしれません。ただ、大学のゼミは、良い指導教員に恵まれて、基本的な勉強や書籍の読み方、資料のまとめ方、本の出来上がりまでに、その著者が辿った、道のりを同時に考える習慣ができました。つまり、ある単語なりがあれば、その単語の出てきた裏まで調べて、その文章を理解することができるようになったことです。また、英語も中の下の実力しかないのに、結構難しい原書を数冊読みました。卒論は「技術革新の指数化」というテーマでした。
2019.04.05
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学生時代は、塾で子供たちを教えていました。(教えるなんておこがましいですが、結局、彼らから学んでいたというのが正解でした)同時に、土日は、子供たちと山登りに出掛けていました。当時は、時間があると、山に登っていました。(実際は、一升瓶抱えて、山野を汚していた、のかもしれませんが)かなりスパルタンな生活でした。睡眠時間は、ほとんど数時間の四年間でした。おかげで、学生らしい生活は送っていません。仲間が女友達と遊んでいるときも、私は深夜まで子供たちと一緒に過ごしていました。
2019.04.04
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恩師の家に伺って、帰宅し、前々回の同窓会のショートムービーを見ると、先生のお話の部分を見ることができました。概略次のようなことをお話でした。人生は、100年の時代であり、60歳の還暦は、今では第二の人生のスタートにも理解することができるようになった。自分は、その第二の人生を自分のやってきたことの延長上で、再スタートしたい、といったような内容でした。そして、先日の同窓会で、私の昔淡い思いを抱いていた女性から、その先生の著作を見せられ、早々にネットで検索すると、いくつもの著作があることを見つけました。私も、既に第二の人生をスタートし始めており、体を動かす介護の仕事と、もう一つ、頭を使う仕事を始めようと準備しています。
2019.04.03
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先日、父と個人の方の介護を休んで、久しぶりに高校の同窓会に行ってきました。恩師の先生は、体の具合が良くないということで、出席されませんでしたが、同窓だった仲間たちが10人強集い、旧交を温めました。次回の幹事を仰せつかりましたが、恩師の体調を考慮して、今年の9月に開催することを決めました。早々に、恩師の方のところに伺い、報告とお体の具合を伺いました。見た目では、体調はよろしいようで、昼食時の会合とすること、それに油ものを控えた食事形態でということをお聞きしました。外出時にも、父の様子は遠隔で確認ができます。妻が帰ってくる数時間は、父だけになるので、すぐに戻れるわけではありませんが、リアルタイムで様子が見れるのは、安心です。父は、ベッドで横になっていました。
2019.04.02
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妻もいろいろと忙しいので、今後は、私の休息日を土曜日にして、その日に父の介護に専念することにします。私の現在の仕事、個人の介護は、土曜日は休みで、その代わり日曜日に振り替えることにします。介護は、連続している人生の不断の生活のサポートですから、本来は24時間、休みなしが原則です。しかし、個人でできる範囲には当然ながら、限界もあり、4月以降は、このようにしたいと思っています。妻も訪問介護を一日くらい入れたほうが良いという認識を持つようになりましたが、まあ、体がもつ限り、少し個の状態を続けようと思っています。
2019.04.01
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