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もっちん4476さんComments
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高虎は6尺2寸(約190cm)を誇る大男だったと言われている。彼は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に描かれる傾向が多い。しかし、江戸時代に儒教の教えが武士に浸透する以前の日本では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった(高虎も当時としては当然の行動をしただけであるが、同輩からの大名に出世した嫉妬と、外様でありながら家康の覚えが良い事を嫌う徳川譜代との確執が背景にあると思われる)。
慶長の役において加藤嘉明と功を競い、終生仲が良くなかった。高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
武勇だけでなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。
「常に死を覚悟していれば、心は動じない」の言葉を残す。
関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。
城郭建築の名人として知られ(三大築城名人の一人といわれう)、慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けた。しかし全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。

講談、浪曲「藤堂高虎、出世の白餅」では、阿閉氏の元を出奔し浪人生活を送っていた若き日の藤堂高虎(当時、与右衛門)が三河国吉田宿(現・豊橋市)の吉田屋という餅屋で三河餅を無銭飲食するが、主の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するように諭され路銀まで与えられる。吉田屋の細君もたまたま近江の出であったという。後日、大名として出世した高虎が参勤交代の折に立ち寄り、餅代を返すという人情話が伝えられている。ちなみに高虎の旗指物は「三つ餅」。白餅は、「城持ち」にひっかけられているともいう。
あるとき2人の家臣(遊女好きの家臣と博打打ち好きの家臣)が喧嘩を起こして、それを高虎自ら裁いた。このとき高虎は遊女好きの家臣を追放し、博打打ち好きの家臣はまだ見込みがあるとして家中に置いたという。博打打ちなら計算高いであろうことかららしい。
