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もっちん4476さんComments
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高虎は、いわゆる実力主義者であった。取り立てて血筋がよかったわけでもない。にも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。津田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。
秀吉の死後、豊臣氏恩顧の大名でありながら、いち早く徳川家康に接近したことは、多くの諸大名から咎められた。確かに忠義を重んじる武士の士風においては決して賞賛されるべきことではない。それに対して、史書に伝えられる高虎の言葉は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」。高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国征伐の時には秀長に従って多大な功績を立てている。また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。
家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。徳川家臣の多くは主君をたびたび変えた高虎をあまり好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せたようである。臨終の席では外様では高虎のみ枕元に侍ることを許された。
ただし、幕末の鳥羽・伏見の戦いで幕府劣勢と察し、真っ先に官軍に寝返って、幕府側に砲撃を開始したのは藤堂家であったため、幕府側では「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と皮肉ったという。だが一方で、寝返った藤堂家は、官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。
本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先でである会津藩蒲生家と高松藩生駒家、さらには加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。こららの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。

生誕 弘治2年1月6日(1556年2月16日)
死没 寛永7年10月5日(1630年11月9日)
別名 与吉、与右衛門(通称)
主君 浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄
豊臣秀長、秀保、秀吉、徳川家康、秀忠、家光
藩 伊予今治藩~伊勢津藩主
父母 父:藤堂虎高、母:藤堂忠高の娘
兄弟 姉(鈴木弥右衛門室)、高則、高虎
妹(山岡直則のち渡辺守室)、高清、正高、妹(藤堂高経室)
妻 正室:一色義直の娘・久芳院 継室:長連久の娘・松寿院
子 高次、高重
娘(蒲生忠郷正室) 娘(藤堂忠季室) 娘(岡部桂賢室)、養子:高吉
養女:織田信清の娘(藤堂高刑室) 娘(生駒正俊室) 娘(小堀政一室)
