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もっちん4476さんComments
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紀貫之
紀氏(きし)は、古代豪族の一つ。氏族・紀氏の長は紀伊国造を称し、現在に至るまで日前神宮・国懸神宮(和歌山県和歌山市)の祭祀を受け継いでいる。
ここで説明する紀氏は、竹内宿禰の子の紀角宿禰(木角)の一族である。
竹内宿禰系の紀氏は、宿禰の母・影媛(宇遅比女、竹内角宿禰の祖母)が紀伊国造家の出であったことから母方の紀姓を息子に名乗らせたことによる。
古代は臣姓・朝臣を賜り、紀小弓・紀大磐・紀男麻呂などが朝廷や鎮守府将軍として軍事面で活躍する傾向が目立っていたが、平安時代に入り藤原氏が朝廷の要職を占めてくるにつれて紀長谷雄(紀大人の子の紀古麿の子孫)以降は政治・軍事面で活躍する機会はほぼ無くなり、紀淑望・紀淑人(紀長谷雄の子)、紀貫之・紀友則(紀大人の子の紀園益の子孫)以降の子孫は神職や文人として活躍するようになる。
紀氏の流れを汲む末裔として、浦上氏や安富氏、益子氏、信太氏、高安氏、中村氏、堀田氏(江戸時代の大名家の堀田氏は仮帽系図であると思われる)、品川氏などが挙げられる。

紀貫之(き の つらゆき)は、歌人・随筆家。三十六歌仙の1人。紀友則は従兄弟にあたる。幼名は阿古屎(あこくそ)。
延喜5年(905年)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集「古今和歌集」を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂し、仮名による序文である仮名序を執筆した。「和歌は、人の心を種として、万の言の葉となぞれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。
また、「小倉百人一首」にも和歌が収録されている(人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける)。
随筆家としたは「土佐日記」の著者として有名である。日本文学史上、おそらく初めての仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。

百人一首
貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」(さくらまち)と称されたという。その遺址の京都御所富小路広場に当たる。
年譜
・貞観8年(866年)または貞観14年(872年)?-この頃生まれる?
・延喜5年(905年)4月-醍醐天皇の勅命により「古今和歌集」を選者の1人として編纂。
・延喜6年(906年)2月-越前権少掾に任官。
・延喜7年(907年)
・2月27日-内膳典膳に遷任。
・9月-宇多天皇が大井川に外出された際に、歌や序を供奉。
・延喜10年(910年)2月-少内記に専任。
・延喜13年(913年)-「亭子院歌合」に参加。屏風画などを作る。
・4月-大内記に転任。
・延喜17年(917年)1月7日-従五位下に叙位。大内記如元。加賀介兼任。
・延喜18年(918年)2月-美濃介兼任。加賀介任替。
・延喜23年(923年)2月-大監物に遷任。
・延長7年(929年)9月-右京亮に転任。
・延長8年(930年)1月-と土佐守に遷任。
・醍醐天皇の勅命により「新撰和歌集」を編纂。
・承平5年(935年)1月-土佐守の任を終え、帰洛。後にこの紀行を参考に、「土佐日記」を書く。
・天慶3年(940年)3月-玄蕃頭に任官。
・天慶6年(943年)1月7日-従五位上に昇叙。玄蕃頭如元。
・天慶8年(945年)
・3月28日-木工権頭に遷任。
・5月18日?-没。
・明治37年(1904年)4月18日-贈従二位。
代表歌
霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける
袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける
吉野川いはなみたかく行く水のはやくぞ人を思ひそめてし
