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もっちん4476さんComments
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河井継之助(かわい つぐのすけ、文政10年1月1日(1827年1月27日)-慶応4年8月16日(1868年10月1日))は幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣である。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぐのすけ」とも「つぎのすけ」ともよまれる。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍う窟。禄高は120石。妻は「すが」。
河井家の先祖は、もともと近江国膳所藩本多氏の家臣である。藩主の娘が初代長岡藩・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・河井清左衛門の家系は、その総領の義左衛門が近習・目付け班を進め大組入りした。戊辰戦争で従卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。

弟の忠右衛門は、はじめ祐筆役となり、その後郡奉行となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、新潟奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行や新潟奉行などを歴任した4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされて120石となったと「河井継之助傳」にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。
以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。

文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12,3歳の頃、それぞれ師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。その後、藩校の祟徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松蔭の影響で陽明学に傾倒していった。
天保13年(1842年)に元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は、元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、継之助は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳のとき、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。
