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背番号25(その7)背番号25の第7回目です 前回紹介した濱中さんはホント惜しかったよね ケガさえなければ多分「ミスター」まで行けてたんじゃないとおもうよ やっぱり一歩一歩確実にというのが大事で焦ってはいけないんだという教訓を残してくれたのかもしれないねさていよいよ残りは5名になりました 今回は2名の投手を紹介しますね。最初の選手は皆さんはたして記憶してるかしらね? 前川さんという投手なんだけど タイガースにいたのは20年位前かな 一体どんな選手だったのかというより 社会人としてとんでもない人みたいよ!2人目は地味ながら中継ぎで安定した成績を残している投手です 現在(2024年)ファームでピッチングコーチをされてます前川勝彦 投手大阪府大阪市出身の左投手。高校はPL学園で、福留孝介の一学年下に当たる。1995(平成7)年は春夏、1996(平成8)年は夏の選手権に出場しているが、注目されたのは96年夏で、3試合投げて41奪三振を記録した剛腕投手。この年は秋の国体で優勝投手になっている。 同年のドラフト会議では近鉄バファローズから1位指名を受けて入団する。高卒ルーキーながら1年目の1997(平成9)年に一軍を経験しており5試合に登板した。内容的には計5イニングで自責点8、防御率14.40というものでこれは仕方ないだろう。2年目の1998(平成10)年は1試合しか投げていない。 3年目となる1999(平成11)年には15試合に登板して2勝1敗と初めて実績ができ、翌年の飛躍につながっていく。 2000(平成12)年、33試合に登板しそのうち27試合が先発、つまりローテーション投手に抜擢された。成績は8勝13敗と負け越したが、8完投はリーグトップ。173回を投げて規定投球回数もクリアし奪三振105自責点80で防御率は4.16だった。 さらに2001(平成13)年は28試合中24試合が先発で、自己最多勝となる12勝9敗と勝ち越し、3・4月には月間MVPも受賞するなど活躍している。ただし防御率は5.89でよく打たれている印象があった。 2002年(平成14)年は22試合すべて先発したが4勝11敗と大きく負け越してしまう。さらに2003(平成15)年は16試合で4先発しているが4勝2敗のうえ防御率は7点台と打ち込まれてしまい、オフに川尻哲郎との交換トレードでタイガースへ移籍してきた。2004(平成16)年、タイガースで背番号「25」を背負った前川は、確かにストレートは球威もあり変化球の種類も多彩だったが、大観衆が入るとコントロールを乱す特徴があった。4月に3試合を投げているが14回1/3で自責点16と滅多打ちにされるとファーム行きを命じられ、結局そのまま最後まで1軍に呼ばれなかった。成績は0勝2敗、防御率10.05。2005(平成17)年は6月に一度1軍に上がり2試合に登板したが、3回2/3を投げて再び2軍へ落されてそれっきりだった。ファームでは5勝1敗で防御率2.44の成績を挙げて最優秀投手賞を受賞したがアピールにはならず、オフに相木崇との交換でオリックス・バファローズへ戻った。オリックスでは2006(平成18)年に1勝したが7敗。翌2007(平成19)年1月には、大阪市内で歩行中の女性と接触事故を起こしてその女性と路上で口論となり、警察官が駆け付けると逃走したが取り押さえられ「ひき逃げ」の容疑で逮捕される。裁判の中で過去のスピード違反事案が次々発覚、運転免許自体2002年に取り消されていたにもかかわらず、無免許運転を続けていたことも明るみになり、懲戒解雇となった。 保釈され丸坊主で反省の謝罪会見も行ったが、多くのPL学園OBの選手たちからは批判され 裁判では懲役2年執行猶予4年の判決がおりて有罪となった。その後10月にはドミニカにわたりウィンターリーグに参加したり、アメリカでマイナーリーグを転々としたようだ。(有罪判決が出て執行猶予中の人が海外に行って働けるのか疑問だけど法律ではどうなってるのかな?執行猶予がなければ本来服役中の期間だよ) 2010(平成22)年に四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズに入団。1年プレーした後に三重スリーアローズに移籍したが秋には退団しており、以後消息を絶ったまま2024年現在全く所在生死不明だという。 プロ通算では149試合31勝45敗1ホールド、609回を投げ417奪三振、自責点385防御率5.26である。渡辺 亮 投手(再掲)渡辺は競艇選手志望から体格で道を閉ざされ、プロ野球選手への道へ転換した変わり種の投手。入団時の背番号が「25」だった。「背番号12ー7」ですでに紹介しているため全文を再掲する。徳島県鳴門市出身で鳴門工業時代は競艇選手になろうと思っていおり、その体力づくりのために野球部に所属していたが、競艇選手の身長制限を超えてしまい断念したことで野球に専念する。1999(平成11)年の選抜大会に出場したが1回戦で市川高校に1-2と惜敗している。卒業後は同志社大に進みエースとして通算26勝13敗316奪三振、防御率1.62という素晴らしい成績を残している。その後社会人日本生命を経て、2005(平成17)年秋の大学・社会人ドラフト4巡目でタイガースの指名を受けて入団、背番号は「25」だった。ルーキーの2006(平成18)年は二軍生活だったが、2007(平成19)年に一軍に上がると中継ぎ投手の適性をいかんなく発揮して53試合に登板し、1勝1敗7ホールドで防御率2.47と結果を出す。身長175センチ体重70キロと投手としては小さいほうだが、140キロ台後半のキレのあるストレートで三振も取れ、コントロールが好いのが強み。 2008(平成20)年から2012(平成24)年までは、66試合、46試合、61試合、56試合、50試合と大車輪で働き、この5年間のなかで3シーズンは防御率が2点台、2011(平成23)年は1点台と安定感も抜群だった。背番号については、2008年にFAで新井貴浩が加入したことにより「25」を譲り、「12」に替わっている。プロ入り以来順調に働いていたが、2013(平成25)年の春季キャンプに肩痛を発症してしまう。これまでほとんど故障というものに縁がなかったが、二度と状態は改善せず引退へつながってしまうことになる。 この写真は2015年に先代がナゴヤ球場のブルペンで撮ったもので 故障のためファームで調整してた時みたい 先代にとって渡辺さんの現役最後のショットなのね 2013年が15試合。2014(平成26)年が14試合、2015(平成17)年には1試合しか投げられず10月に引退を表明する。引退後は2016(平成28)年からフロント入りし、スカウトとして活躍している。投手の目線から打者を評価しており、井上広大、小野寺暖、佐藤輝明などを担当した。2024年から2軍投手コーチに転じて若手育成に汗をかいている。現役通算362試合に登板し、すべてがリリーフ。15勝6敗60ホールドで、防御率は2.64と素晴らしい。目立たなかったがタイガースにとってなくてはならない存在だった。まとめこの前川って人はどうしようもないね ドラフト1位で契約金1億だったらしいけど野球に没頭出来ないタイプだったんでしょう しかも免許取り消されてから5年も無免許のまま運転してる確信犯 執行猶予なんて甘すぎじゃないの? 今は行方不明みたいでどうしてるんだろね渡辺さんは現役時代にも観てますが 最近はファームの試合に行くとナゴヤ球場のブルペンでよくお見掛けしてるんだよね 前より身近な存在だわ25の8に続く
2024年09月17日
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背番号25(その6)背番号25の第6回目です6回で終わるかなとおもったら「25」は結構つけた選手が多いのよ まだ7名残ってるので第8回まで行きそうね今回は2名紹介することにしますね 1人目は外国人選手なんだけどわかるかな? 1年しかいなかったから多分覚えてる人は少ないかも 2人目はミスターに成れそうでけがに泣いたあの選手よデーブ・ハンセン 内野手アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチ出身の右投げ左打ちの内野手。1986(昭和61)年のドラフトでロサンジェルス・ドジャースから指名されてプロ入りしている。1990(平成2)年にメジャーに初昇格し、1992(平成4)年には132試合に出場して打率.214、6本塁打、22打点を記録しているが、記録としてはこれがピークでその後も控えの内野手に甘んじている。その後伸び悩み、1997(平成9)年にシカゴ・カブスに移籍したが、ここでもレギュラー級には程遠い控え選手だった。暗黒時代真っ最中のタイガースは1997年に吉田義男が3度目の監督に就任したが5位に終わっている。マイク・グリーンウェルが途中退団、フィル・ハイアットも不振で、5月にはダネル・コールズ、6月にリード・シークリストを急きょ入団させるがいずれも働かずオフに解雇している。1998(平成10)年、吉田監督の2年目を支援しようと球団も動き、トレードで大豊泰昭、中日を退団していたアロンゾ・パウエル、そしてハンセンを獲得することで、重量級クリンナップを形成し打撃のチームを標榜してシーズンに臨むことになる。ハンセンは背番号「25」となった。これが額面通り機能すればよかったが、現実は甘くなかった。まずパウエルはもう膝がガタガタでまともに守れない重症。78試合52安打28打点9本塁打で打率は.255に終わる大豊も期待を裏切り、99試合71安打61打点で打率.231、ただしホームランは21本打ってくれた。 そしてハンセンだが、いちおう121試合に出場しており、規定打席もクリアすることはできたが、400打数101安打55打点11本塁打、打率,253という実に中途半端な成績だった。結局タイガースは最下位に沈み、吉田監督は退任、外国人野手は一掃され、新たに野村克也監督を迎えることになる。濱中 治(おさむ) 外野手・内野手 (再掲) 濱中は「背番号5-8」で紹介済みだが、改めて再編集して掲載する。和歌山県田辺市出身で南部高校時代は投手。甲子園大会には縁がなかったが、下の記事にあるように投げて打って走れる三拍子そろった好選手として全国的にも名前は知られていた。 高校通算51本塁打が示すようにバッティングセンスの評価が高く1996(平成8)年のドラフト会議でタイガースから3位指名を受け入団する。最初に着けた背番号は「66」だったが覚えている人は少ないだろう。ちなみに同期ドラフトは1位が東洋大の今岡誠、2位が天理高校の関本健太郎、4位は日本文理大の星山忠弘の4名だった。当初関本が3位の予定だったが、日本ハムが競合してくるという情報があったため急きょ繰り上げて2位、濱中が3位になったと言われている。 球団内部では濱中の入団当初から将来の4番に育てる方針を固め、ルーキーイヤーの1997(平成9)年からファームの4番に抜擢している。シーズン終盤には1軍公式戦も6試合出場し、12打数2安打0打点で打率.167の数字が残っている。高卒1年目の野手として掛布以来となる1軍スタメン出場も経験したが、翌1998(平成10)年は11試合出場にとどまって足踏みしている。 1999(平成11)年に新監督となった野村克也は「濱中の素質は天才的」と見抜いており、その指示でサードへコンバートされる。背番号も「25」に変更して実際35試合と出場試合数は大きく増えた。しかし気が優しくて貪欲にならない性格が災いするのか、翌2000(平成12)年は外野手に戻って9試合というように、1軍に上がっても定着することはできず、結局最初の4年間は試行錯誤でホームランも打てなかった。 2001(平成13)年、新庄剛志がニューヨーク・メッツに移籍して外野のポジションが空いたことが転機となる。登録名を「おさむ」に変えた濱中は主に3番打者として110試合に出場し規定打席をクリア、411打数108安打53打点13本塁打で打率.263を記録、プロ入り5年目にしてレギュラーとなった。 2002(平成14)年、新監督となった星野仙一も濱中をクリンナップで使い続ける。この年は田淵幸一コーチの指導のもと打率も3割を超えて確実性も高まり順調に育っていく。 ところが8月のナゴヤドームでの守備でダイビングキャッチを試みた際に右手親指を骨折したため、出場は102試合にとどまり規定打席に届かずに終わっている。それでも366打数110安打51打点18本塁打は立派な数字で最終打率は.301だった。 2003(平成15)年はチームがリーグ優勝した年で、濱中もシーズン序盤から打ちまくった。5月半ばまでに11本塁打を放ち打点は他を大きく引き離してタイトルも期待されるなかで事故が起きる。5月20日の広島7回戦、フォアボールで出塁して一塁走者となり牽制球で頭から帰塁する際に右手でベースタッチに行き肩を痛めてしまう。この時は捻挫(実際は亜脱臼で抜けたがすぐ嵌まったらしい)の診断だった。翌日から星野監督は無理をさせず代打でしか使ってこなかったが、チームも調子がよく濱中も早期のスタメン復帰を強く望んでいた。6月10日の中日13回戦、代打で出てそのまま負傷後初めて守備に就き3打数2安打、この試合では打球は飛んでこなかったので守備機会はなかった。6月13日の巨人13回戦、星野監督は濱中をスタメン4番に復帰させるが、「打球はとるだけでいい、絶対投げるな」とクギを刺して送り出している。 6回表、巨人江藤の打席で濱中がファウルフライを落球。その直後にホームランを打たれる。これに責任を感じてしまったのか、次打者阿部のライト線へのヒットを処理して全力でセカンドへ返球してしまう。これは自然に体が動いてしまったと本人が語っているように「野球人の性」としか言いようがない。その瞬間に右手がブラブラに。今回は完全に右肩が外れ、最低でも2か月の戦線離脱が決まった。野球人としての本能的なプレーだったかもしれないがこれは球団にとっても痛すぎた。星野監督も守らせてしまったことを後悔しただろう。 これでシーズンの残りを棒に振ることになり、55試合176打数48安打48打点11本塁打で打率.273に終わっている。せっかくのリーグ優勝も喜べなかった。 それでも濱中は何とか日本シリーズに間に合い、第2戦、第6戦、第7戦には指名打者としてスタメン出場したほか第3戦と第5戦は代打に出ている。しかし5試合で12打数1安打0打点1三振に終わり貢献できなかった。もし濱中がシーズンで怪我などせず万全の状態なら日本シリーズの行方も変わっていたのかもしれない。 濱中の負傷は球団にとっても大打撃だった。2001年から2002年に飛躍してきた生え抜きスターを「中心選手」に育て上げる年と位置づけ、星野監督もFAで獲得した金本知憲をあえて3番に置き、濱中を4番に据えてきたが、すべて水の泡になってしまったからだ。 2004(平成16)年は背番号を「31」に変えて臨むが17試合、2005(平成17)が73試合と低迷が続いた。 2006(平成19)年、登録名を「治」に戻し背番号も「5」に変えたのが効いたのかようやく調子が戻り、139試合に出場することができた。成績も486打数147安打75打点20本塁打で打率.302とキャリアハイの年になっている。 しかし2007(平成19)年は故障もあって不振に陥り62試合の出場に終わると、シーズンオフに2対2の交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍することになる。 オリックスでは3年を過ごすが主力とは成りえず、3年目の2010(平成22)年には出場がわずか4試合で10月2日に戦力外となっている。 2011(平成23)年、手を差し伸べてくれたヤクルト・スワローズに入団したが出場できたのは5試合に過ぎず、オフに現役を退いた。 通算成績は744試合2167打数580安打311打点85本塁打17盗塁209四球408三振、打率.268だった。 引退後は2015(平成27)年に2軍打撃コーチとしてタイガースに復帰。2019(令和元)年まで在籍し退団。 2022(令和4)年から、生まれ故郷の和歌山県田辺市を本拠とする関西独立リーグ和歌山ファイティングバーズ(現和歌山ウェイブス)のゼネラルマネジャーに就任した。まとめハンセンさんは成績だけ見るとものすごく悪いというわけじゃないよね かと言って大した成績とも言えない 日本人選手であれば下位打線でレギュラーとして使ってもらえそうな数字だけど高額な助っ人としては期待外れになるってことなのね濱中さんは背番号5でも詳しく紹介してるけど書き直してみました とにかく順調にいけば「ミスタータイガース」と呼ばれそうな・・・そのちょっと前の段階まで来ていたとおもうのよ 右打者だからいずれホームラン40本もクリアしたんじゃないかなってね ホントに惜しいことをしたとおもうよ 焦らず完治させてから復帰すべきだったんだよなあこれは星野監督も痛恨だったんじゃない? 濱中さんは脱臼してベンチに帰るとベンチ裏で監督さんから『何やっとんじゃボケー!』ってすごい勢いで怒鳴られたんだそうよ でも監督さんは自分自身に対しての怒りってこともあったんじゃない? いくら本人の意志とは言えそれを尊重して守らせてしまって野球人生を台無しする結果になったことには のちのちも後悔してたとおもうんだ 25の7に続く
2024年09月13日
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背番号25(その5)背番号25の第5回目ですさあ今回は山本和行投手が登場するよ 17年間「25」を背負い続けた左の名ストッパー ドラフト1位で最初のころは先発投手だったんだけどね山本さんの後もドラフト1位の左投手が着けてるのよ さて誰でしょう? ネタを明かすと すでに背番号「17」で紹介してますよ今回はこの2名の投手の紹介にします 山本 和行 投手広島県広島市出身で高校は名門広島商業。2年時の1966(昭和41)年に夏の選手権にエースとして出場したが1回戦敗退。同チームの3年生に三村敏之(元広島監督)がいた。高校3年時には全国大会に縁がなく、卒業後は亜細亜大学に進み2年時からエースになっている。1971(昭和46)年の春季リーグではリーグ最多タイの9勝を挙げて優勝に貢献しMVP。大学通算では63試合33勝26敗351奪三振、防御率は1.83という素晴らしい数字を残した。1971年のドラフト会議ではタイガースが1位指名。山本本人は地元広島が第一志望だったが「巨人以外のセリーグの球団を望んでいます」と語っていたことからすんなり入団を決めている。普段から多くを語らない山本だが、頑固な一面があり、対巨人の意識は非常に高いものがあった。それを物語るようにプロ初登板、1500投球回数、1000奪三振、100セーブ、100勝、600試合登板、700試合登板(プロ最後の登板)など節目の記録を巨人戦に合わせて達成している。背番号は行方不明になった高山が着けていた「25」をもらうが、引退するまでの17年間着け続けている。1年目の1972(昭和47)年は村山現役監督が正念場の3年目を迎えていた。山本はルーキーながら28試合に登板しており、そのうち12試合の先発も務めた。成績は3勝5敗ながら投球回数100回、防御率3.42で完封勝利も記録している。2年目の1973(昭和48)年には金田正泰監督に代わり、選手との対立などの問題もあってチームがまとまらない中で18試合(8先発)0勝1敗に終わる。翌年も32試合(14先発)6勝8敗1セーブという結果で、先発とリリーフの掛け持ち状態が続いている。1975(昭和50)年、吉田義男が1期目の監督に就任すると、山本のフォークボールに目を付けスパッとリリーフ専門に配置する。吉田監督はリリーバーや代打の適正を見抜く目効きと決断の面で非常に有能だった。1975年 49試合 4勝6敗 3セーブ 93回2/3 防御率4.791976年 67試合 6勝3敗18セーブ 113回2/3 防御率2.921977年 58試合 9勝5敗 9セーブ 130回2/3 防御率3.71この3年間で先発は14試合しかない。それでも投球回数を見ると非常に多く、1977年は先発が4試合しかないのに規定投球回数に到達している。ロングリリーフが当たり前の時代だったことをあらわす数字だろう。1978(昭和53)年に後藤監督が就任すると、先発投手の絶対数の不足という台所事情から山本を先発へ配置転換。しかし翌1979(昭和54)年のブレイザー監督になるとリリーバーが主体になり、1980(昭和55)年~1981(昭和56)年の中西監督の時にはまた先発に戻されるが、2年続けて200イニング以上を投げ、15勝、12勝を挙げてエース級の活躍だった。チーム事情があるにせよ酷な使われ方をされるなかで淡々と仕事をこなし結果でも貢献しているのは素晴らしいことだ。1982(昭和57)年に安藤統男監督が就任すると、またもやリリーフに配置換えされる。しかしこの3年間の数字がまた立派だった。1982年 63試合15勝8敗26セーブ 141回2/3 防御率2.411983年 45試合 5勝9敗 8セーブ 72回 防御率4.001984年 52試合10勝8敗24セーブ 83回2/3 防御率3.55 ひじや肩の故障が少ない山本が1983年の成績が落ちているのはだれが見ても勤続疲労によるものとわかる。これは同情すべきで1982年と1984年は最優秀救援投手のタイトルを獲得している。こういう隔年現象は投手にありがちなことだ。 この成績を見たドジャースからオフに声がかかり、山本もメジャー行きに本気になってしまうが、FA制度もポスティングシステムもない時代で球団も手放す気はなく話だけに終わっている。実際にドジャースは住居も決め背番号「25」も用意していたというから驚きだ。 1985(昭和60)年、吉田監督が2度目の就任。第一次同様、山本をリリーフ専門で使っている。明らかに先発より特性があると見込んでいたのと、当時のタイガースにはフォークで三振が取れるほかの左投手がいなかったこともある。 4月17日のバックスクリーン3連発をきっかけに「打撃」が注目されるようになったが、優勝するうえで接戦もしぶとくモノにしており、その最後を締めていたのが山本だった。 8月のロードを5割でしのぎ、いよいよ優勝争いの終盤に差し掛かった9月4日のナゴヤ球場、試合前の練習中に左足アキレス腱断裂により戦線を離脱することになる。全く無念というほかない。 山本を欠いてリリーバーの福間、中西が奮起し、調子を上げた打線に引っ張られて9月は13勝5敗1分で広島と巨人を振り切って、19年ぶりの優勝ができたのは本当に良かった。 祝勝会にも入り(左から2人目)喜びを共にしている。 日本シリーズにも登板できなかった山本だが、日本一が決まるとチームメイトに胴上げされて感慨に浸ることができた。 1986(昭和61)年にはアキレス腱断裂から復活して11勝3敗15セーブ、防御率1.67の好成績を挙げる。 しかし1987(昭和62)年になると急にボールのキレがなくなって防御率4点台に急降下してしまう。さらに1988(昭和63)年には0セーブ、4試合に先発しているがこちらも結果は芳しくなく0勝3敗、防御率は屈辱的な6点台になって現役を退いている。月間タイガースの本間勝さんのコラムでは、投球に対する山本独自の考えについて次のように回想している。『一塁が空いているなら、自分がいやだと思うバッターは歩かせていい』それが逆転となる走者であってもいいという。すべてが計算通り。理詰めで攻めていくピッチングは、きっちりした性格そのまま。見ていて気持ちいいし、圧巻だった。』引退後は古里の球団で愛着のある広島カープで4年間投手コーチも務めている。山本の通算成績は700試合116勝106敗130セーブ、1817回2/3、451四球1252奪三振、自責点739防御率3.66だった。猪俣 隆 投手 猪俣については背番号「17-4」で紹介済みだが再掲する。ルーキーから2年間が「17」。引退した山本から「25」を譲られ3年目から9年間着けている。 新潟県長岡市出身で東京の堀越高校に進む。高校時代は予選ベスト4が最高だったが法政大に進学して大きく進化する。大学1年の春新人戦でいきなりノーヒットノーランを達成して驚かせ、大学4年間で4度の優勝を経験している。リーグ戦通算で43試合に登板し、20勝7敗、防御率1.87、180奪三振の好成績を挙げ、2年続けて日米大学野球の代表入りするなど、文句なしのドラフト1位候補になった。1986(昭和61)年のドラフト会議でタイガースに1位指名されて入団し、源五郎丸が着けていた「17」を継承する。186センチの長身から投げ下ろすストレートも好かったが、得意球は揺れながら落ちる落差の大きなナックルで、三振を奪うウィニングショットに使っていた。1年目の1987(昭和62)年はルーキーながら即戦力のローテーション投手として期待されて22試合のうち14試合が先発だった。しかし内容的には5勝7敗とパッとせず、2年目の1988(昭和63)年には右けい肩腕症候群を発症して一度も一軍登録されずに終わっている。源五郎丸が壊れてしまったことに続き猪俣の故障もあって「17」は縁起が悪い番号という印象になってきたため、1989(平成元)年に引退した山本和行の背番号「25」を引き継いだうえでブルペンに配置換えして気分一新を図っている。この年は一軍で54試合に登板して4勝6敗3セーブの数字を残す。 しかしその後も故障が多く1990(平成2)年は先発に戻り23試合5勝11敗。1991(平成3)年が27試合9勝13敗、1992(平成4)年は14試合5勝5敗と、どうしても勝ち越せない。 1992(平成4)年がキャリアハイで、27試合すべて先発して11勝12敗とプロ生活で唯一の二けた勝利を挙げたものの、やはり負け越している。 1994(平成6)年以降も故障に悩まされ続け、1997(平成9)年には一度も一軍と登録がないまま10月に戦力外通告、自由契約選手となってしまった。 ここで中日が救いの手を差し伸べて入団するが、在籍2年間で1度も一軍での登板機会はなく、1999(平成11)年を最後にプロ生活を終えている。 先発タイプで、立ち上がりのエンジンのかかりが悪いのが欠点。これさえ上手く切り抜ければすいすい完投してしまう力があった投手だが故障には勝てなかった。 通算成績は191試合43勝63敗3セーブ623奪三振、807回1/3で自責点330、防御率3.68である。 引退後は寿司職人に。写真もあった。まとめ山本さんは優勝した1985年に欠かせないメンバーの一人だった アキレス腱のけがは不本意だし悔しかったとおもうよスピードはないけどキレのあるストレートに加え まったく同じフォームから投げる途中で握り替えるフォークを駆使して三振が取れるから抑え向きだったのねバッティングでもエピソードがあって、先発した試合で自分で満塁ホームラン打って、同じ試合で満塁ホームランを打たれたことがあるそうよ(1981年6月23日 対広島)猪俣さんは「勝ち越せない男」 こういう投手ってプロ野球にはしばしばいるよね それがまたケガのせいで満足に投げたシーズンが無いのよストレートに力があるし 絶対的決め球のナックルを持ってて三振が取れる投手だったようだけど 故障に泣いたんだね 25の6に続く
2024年09月09日
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背番号25(その4)ようやく「台風10号~熱帯低気圧」が消滅したよ 長かったね そう言ってるそばで11号が発生したっていうのね これは今のところ台湾方向へ行くって予報なんだけど 10号のことを考えると信用しきれない みなさん備えはできてる?背番号25の第4回目です今回からは昭和40年代になってくるんだけど最初は古沢憲司さん この人は入団のいきさつも変わってる タイガースでは「70」「25」「51」と3つの背番号を着けているんだけど 現実には「背番号51」の姿しか見たことないっていう人が多いのよね 実績から言えば本当は「51」で紹介すべきなのよ でもこの連載は若い番号から順番に進めてるのでお許しを そして2人目は高山忠克さんなんだけど皆さん知ってる? この人は甲子園で初の春夏連覇そしてプロ入り後最後は失踪~逮捕って・・・ 今回はこ2人の選手を紹介します それぞれちょっと変わった経歴なので2人だけに限定させてもらいます 古沢 憲司 投手愛媛県新居浜市出身。新居浜東高校へ進学するが、高校1年生の時に視察に来たタイガースのスカウトにプロ入りを直訴し、1964(昭和39)年1月に中退してテスト生として入団している。 3月31日生まれなのでまだ15歳の時のことだった。最初の背番号は「70」を着けている。あだ名は「バーディー」。ゴルフに関連して付けられたという説もあるが、入団当時に虎風荘で飼われていた「バーディ」という名の犬に顔が似ていたからだというのが有力だ。驚くべきことに古沢はプロ1年目に1軍デビューしている。1964年7月25日の対国鉄スワローズ戦で4番手でリリーフすると3イニングを無失点2奪三振の好投を見せた。しかし1年目には8試合に登板したものの勝敗には関係なく終わっている。16歳と117日という古沢の初登板記録は、戦前から戦後にかけて中日ドラゴンズのスラッガーとして名高い西沢道夫(西沢は初代ミスタードラゴンズと言われる強打者だが、投手としても231試合60勝65敗の成績を残す)の16歳0か月に次ぐものである。 しかも古沢のプロ初先発は1年目の9月30日で16歳5か月、こちらは正真正銘NPBの最年少記録である。さて、古沢は続く2年目の1965(昭和40)年には31試合の登板を果たすが1勝1敗、防御率3.63だった。プロ初勝利となった1勝は6月30日の大洋ホエールズ戦だった。古沢に対する期待値が高まったことから1966(昭和41)年、背番号「25」が与えられるが、同年は11試合0勝0敗、1967(昭和42)年が21試合2勝1敗、1968(昭和43)年も7試合0勝0敗と足踏みしてしまう。古沢は少年時代の骨折で右手首の角度が変わってしまっており すべての球がスライダー回転してしまうハンディがあった。これを克服するための期間が必要と判断され、1969(昭和44)年から1970(昭和45)年にかけては1軍での登板はなく、ひたすらフォームの改造とシュート系の変化球の習得に取り組んでいる。1971(昭和46)年、古沢は背番号を「51」に変えて1軍のマウンドに帰ってくる。ややスリークォーター気味の変則モーションで、スライダーとシュートのキレが良く打たせて取るピッチングに変わっていた。このシーズンは36試合(先発19)に登板し12勝9敗、171回1/3で防御率2.05(リーグ3位)の数字を残し大飛躍を遂げている。1972(昭和47)年は開幕投手に抜擢されるも16試合1勝6敗、防御率も5.20と苦しむが、翌年から安定した勝ち星を挙げていく。1973(昭和48)年 43試合(先発 9) 9勝 9敗 防御率3.401974(昭和49)年 37試合(先発28)15勝10敗 防御率3.231975(昭和50)年 36試合(先発27) 9勝10敗 防御率3.601976(昭和51)年 41試合(先発31)10勝 9敗 防御率3.35主力投手としてしっかりと役割を果たしているし、1974年からはローテーションの一角を守っており毎年200イニング前後を投げている。ところが1977(昭和52)年から様子が変わってくる。1977(昭和52)年 36試合(先発33)11勝17敗 防御率4.001978(昭和53)年 34試合(先発22) 4勝16敗 防御率4.99ローテーションは守っているが勝てない 打線にも問題はあるが実際に防御率が悪くなっているし被本塁打が34本、33本と極端に多くなった。合わせて信じられないようなポカも見られるようになり大きく負け越している。球団は「力が落ちてきた」と感じ取っていたようだ。1978年12月9日、田淵幸一の放出に伴う複数トレードの一員として新球団・西武ライオンズへの移籍が決まる。タイガースで15年を過ごした古沢だったが年齢はまだ30歳。ここらが売り時という意味もあった。西武へ移って1年目の1979(昭和54)年は16試合に先発しており、ローテの一角として期待されたが4勝15敗5セーブに終わる。翌1980(昭和55)年からはリリーフに回ったものの成績は芳しくなく、1982(昭和57)年のシーズン中に、高橋直樹との交換で広島カープへ移籍する。広島では貴重なリリーフとして3年間過ごしており、3年目の1984(昭和59)年には防御率1.47と移籍後では一番好かったが、すでに限界を悟っていたのかシーズン終了後に引退している。36歳だった。通算成績は543試合87勝115敗25セーブ643四球1181奪三振、1896回1/3を投げ自責点784、防御率3.72だった。引退後は1993(平成5)年から1995(平成7)年まで広島で1軍投手コーチや2軍投手コーチ、1996(平成8)年から2000(平成12)年まで2軍投手コーチを務めた。2012(平成24)年には再び広島の1軍投手コーチを務め、翌年にはカープアカデミーでドミニカの選手を指導している。2023(令和5)年8月22日、75歳で逝去。高山 忠克 外野手この選手がタイガースに在籍したことを知る人はほとんどいないだろう。栃木県出身で高校は作新学院。1962(昭和37)年の選抜大会にエースの八木沢荘六(元ロッテ)を中心に優勝すると、同年夏の選手権では赤痢感染で八木沢を欠いた状況で勝ち進み、史上初の春夏連覇を成し遂げたチームで4番センターだったのが高山である。1963(昭和38)年、高校を卒業し国鉄スワローズへ入団する。ルーキーイヤーこそ3試合の出場にとどまったが、2年目の1964(昭和39)年は127試合に出場407打数89安打で打率.219ながら、3月と4月に立て続けに満塁ホームランを記録するなど18本塁打を放って一躍主力選手になっている。1965(昭和40)年以降は規定打席に達することはなかったが準レギュラーとして貢献しており、1968(昭和43)年には自身2度目となる二けた本塁打14本を記録している。しかし、1970(昭和45)年に出場61試合、打率.131、本塁打0に終わると戦力外とみなされてしまう。当時、現在の「現役ドラフト」に似た制度で、加盟全球団の戦力均衡化を図るためにオフに開催されていた「トレード会議」というものがあり、高山はその指名対象リストに載せられ、タイガースが3巡目に指名して獲得している。背番号は「25」。こうして1971(昭和46)年はタイガースでプレーし21試合に出場していたところ7月14日に虎風荘から突如姿を消し、行方不明になってしまう。高山は国鉄時代からギャンブルにのめり込んで相当な借金を抱えており、厳しい取り立てに追い詰められての失踪だったようだが、タイガースは借金の情報を知らないまま獲得していた。 一方で1970年に国鉄から球団を譲渡されたフジ・サンケイグループでは高山の借金については把握していたと言われており、タイガースはとんだ傷物をつかまされた格好だ。タイガースは失踪した高山を契約違反行為としてセ・リーグに契約解除を申請し、リーグは8月4日付で無期限失格選手を公示して決着を見た。10年以上の時が流れた1981(昭和56)年11月12日、高山が詐欺容疑で逮捕されたニュースが流れ、長野県でキャバレーを経営していたことなどが明らかとなっている。現在、高山に関する情報は一切なく生死も不明である。タイガース時代の写真は見つからない。通算成績は690試合1645打数369安打171打点51本塁打54四球320三振、打率.224だった。まとめ古沢さんはエース級の投手に近い働きをしてるね ボールの威力は大したことなくて三振を取るタイプじゃないんだけど 今でいう「小さな変化」のクセ球で芯を外して凡打にするから 調子がいい日はすいすいと球数少なく完封してしまうことも多かったってとにかく15歳で入団して16歳で初勝利というのは今ではあり得ない話よ 本文で出てきた西沢道夫さんは旧制小学校高等科2年でのテスト入団だけど時代が違うからねえ高山さんはギャンブルか・・・ プロ野球選手も人間だし時にはこういう人もいるわけね 選手としては好い素質を持っていたんだけどね最後は自分の店のホステスさんからお金をだまし取って捕まったらしいわ25の5に続く
2024年09月03日
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背番号25(その3) 台風10号の影響で試合がなかったので背番号史を挟むよ 背番号25の第3回目です振り返ると球団創設から昭和25年までの約15年間に初代森監督を含め6人が「25」を着けたんだけど 戦争による中断や応召で抜けてるところもあるから一人平均2年くらいの計算になるかな ここまでは長く着けた人がいないね今回2人目に山本哲也さんを紹介するんだけどこの人が昭和30年代の正捕手として8年間着けます でもまだ10年以上の人は出てこないんだなあ日下 章 外野手兵庫県尼崎市出身で甲陽中学、関西大学に進んで左打ちの強打者として4番を務め通算4本塁打の記録が残っている。 1951(昭和26)年タイガースへ入団、背番号「25」を着ける。6年間在籍しているが100試合以上出場しているのは1954(昭和29)年だけで、この年であっても182打席なので、1試合平均2打席立っていない。常時1軍にはいるが、あくまで控え選手で代打や守備要員だったようだ。 1956(昭和31)年のシーズンを最後に解雇されている。藤村排斥事件にかかわったのが原因という説もあるが真相は不明である。 通算成績は6年で346試合477打数116安打36打点8本塁打39盗塁30四球60三振、打率.246だった。 引退後は、父親が県会議員だったことから日下も政界に転じ、尼崎市議に当選し最後は尼崎市議会議長も務めた。2004(平成12)年1月10日、76歳で死去されている。山本 哲也 捕手熊本県熊本市出身で高校は強豪熊本工業。同学年にエース山部儒也(よしや)がおり、同校出身の後藤次男の勧めで獲得に動いた青木スカウトがバッテリーとして入団させている。言わば「山部のついでに獲得した選手」の扱いだった。 1953(昭和28)年にタイガースに入団したときの背番号は「39」で4年間着けている。「25」に変更したのは1957(昭和32)年でそこから引退まで8年間着けた。入団から4年間は2軍にいるほうが長く、徳網茂(タイガース背番号史 13の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))や石垣一夫の後塵を拝している。 背番号を「25」に変えた1957年が転機で93試合に出場している。エースの小山正明との相性が良かったのも評価されてレギュラー捕手へと近づいた。 山本はリードとキャッチングは優れていたが、打者としては非力で打率も低かった。しかし昭和30年代のタイガースは鉄壁の内野陣や小山・村山に代表される守りのチームだったため山本の存在も貴重だった。 規定打席に到達したシーズンは1度もないが、1958(昭和33)年も87試合、以降も122試合、99試合、107試合、98試合とレギュラー捕手であり続けた。 1959(昭和34)年の「天覧試合」でも捕手を務めており、捕手として目の前で放たれた長嶋のホームランの判定にクレームをつけていない。小山は「山本が抗議しなかったんだからホームランだったんだろう」と振り返っている。 また1963(昭和38)年には、村山がストライクボールの判定に激高して審判に詰め寄った「涙の抗議事件」で、必死に村山を抱きとめて抑えている姿も印象的だ。(タイガース背番号史 11の3(村山実伝説) | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))を参照。 月間タイガースのコラム「本間勝交遊録」で本間さんが当時の山本について述懐しているが、バックネットすれすれのファウルフライを取る名人だった。「バックネットぎりぎりに上がったファウルフライを追いかけるのは各捕手だれも同じだが、バックネット直前まできてからが山本さんの真骨頂。ポーンと跳び上がってネットに足をかけるや、その勢いで一歩、二歩とよじ登ると、見事にボールをミットにおさめていた。打球が落下してくる場所を見極め、まるで軽業師のような身のこなしは人間業とは思えない。これを見て付いたニックネームが『モンキー山本』まさに、ピッタリ。」 藤本敦士よりずっと以前に元祖「モンキー」がいたわけだが、藤本は「顔」で山本は「身のこなし」がニックネームのもとになっているという違いがある。 1964(昭和39)年を最後に引退。そのままタイガースに残り、2軍バッテリーコーチ、1軍ブルペンコーチなどを歴任、新人の江夏のフォームを改良し、翌年のシーズン401奪三振を達成させたのは有名で、江夏も「江夏豊という投手は、山本さんに育てられたと言っても過言ではない。」と著書に記しているほどだ。その後フロントに入り、スコアラーやスカウトも務め、最後は業務部次長記録担当で定年まで全うしている。通算成績は12年854試合1655打数341安打109打点12本塁打29盗塁62四球224三振、打率.206である。2019年10月13日、85歳で死去。 土屋 正孝 内野手 長野県松本市出身で高校は松本深志高校。高校時代は制球力に定評のある投手だったが、ほかに捕手や内野手もできる万能型の選手。1954(昭和29)年、投手として読売に入団している。読売では即内野手にコンバートされおもにセカンドを守った。1年目こそ7試合の出場に追わったが、2年目の1956(昭和31)年以降5年間は100試合以上に出場しレギュラーとして活躍している。1960(昭和35)年のシーズンが終わり、川上哲治が監督に就任すると土居章助とのトレードで国鉄スワローズへ移籍させられてしまう。120試合に出て規定打席もクリアしているにもかかわらずだ。このトレードについては本人が自著「なぜぼくは巨人を追われたか」(ベースボールマガジン社1986年)で書いている。1961(昭和36)年、国鉄に移って発奮した土屋は全130試合に出場して132安打を放ち、生涯最高の打率.269を記録するなどの大活躍で、国鉄球団史上初のÅクラス3位に躍進する原動力となった。 この年の9月の巨人戦でのタッチアウトか走塁妨害かでもめにもめたエピソードも有名。興味のある人は(2日がかりの試合に怒り、後楽園のスタンドでたき火?【1961年9月7日】 | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE (findfriends.jp))を参照のこと。1962(昭和37)年~1963(昭和38)年も100試合以上に出場してレギュラーを維持している。ところが1964(昭和39)年オフ、国鉄はサンケイに身売りすることが決まり、60試合の出場にとどまっていた土屋は、経営立て直し策の一環として「高給のわりに貢献度の少ない選手」の第1号に選ばれてしまい、タイガースへトレードされて、引退した山本から背番号「25」を引き継ぐ。1965(昭和40)年、タイガースでは有力な選手になれず、主に代打や守備要員として52試合しか出場できなかったため同年オフに現役を退いた。通算成績は11年1097試合3452打数826安打299打点54本塁打154盗塁287四球527三振、打率.239の数字が残る。プロ入り2年目でレギュラーになるなど野球センスは抜群で、特に守備は軽快。つねに打球の来る場所を想定して守備についており「眠狂四郎」のニックネームでも親しまれた。1959(昭和34)年と1961(昭和36)年の2度、セカンドでベストナインに輝いた実績を持つ。 まとめ 今回は日下さんが6年 山本さんが8年と 背番号「25」にも落ち着きがでてきたかなとおもったら 3人目の土屋さんでまた1年に戻っちゃいました日下さんはレギュラーまでは届かなかった感じだけどセンスはいいものを持っていたようね山本さんは打力はないけど投手を生かすキャッチャーで 昭和の時代はこういうタイプの捕手が多かったみたい だから引退後にはバッテリーコーチとしても成功してるのよね土屋さんは言っちゃ悪いけど「出がらしのお茶」みたいなもので 他球団で力を出し切った選手が晩年にくるっていうパターンよ タイガースではよくあるわさて次回第4回は2人の選手だよ 最初が「ふ」の付く人 次に「た」が付く人 誰だか予想してみてください25の4に続く
2024年08月31日
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背番号25(その2)背番号25の第2回目です お久しぶり!今回も3名を紹介です 戦後の復興期の選手たちはあまり名前が知られていない人が多いんだけど今回出てくる別当さんは別格ね現役はそれほど長くなくて10シーズンなのよ それでも一流の成績を残してるわ それ以上にやめてからのほうが精力的に球界に貢献してるんだよね タイガースにいたのがわずか2年というのが残念だったね「25」は投手や野手に関係なく着ける番号と言えるかな。では順次見ていきましょう 松本 太 投手愛知県生まれで東邦商業(現東邦高校)の出身だが情報は極端に少ない。戦後のプロ野球1946(昭和21)年からリーグ戦も再開するが、戦死した選手や負傷して野球ができなくなった選手も多く、まだ復員していない選手までいた時代だ。興行的には再開にこぎつけたが各球団の選手不足は深刻な状況だったため、頭数合わせにプロのレベルにないような選手が入団したケースもあった。松本もそのような経緯の中で1946年6月にタイガースへ入団している。記録では170センチ60キロ、左投げ左打ちの投手というプロフィールが残っている程度で詳細は一切わからない。タイガースでは背番号「25」を付けたが1度の公式戦登板もなく、1947(昭和22)年のシーズン開始直後に東急フライヤーズへ移籍している。東急では1試合にリリーフ登板して0勝1敗、1/3イニングを投げ、打者5人に対し被安打1、四球3、失点・自責点2、防御率18.00という記録だけが残る。別当 薫 外野手 タイガースのお膝元である兵庫県西宮市出身。旧制甲陽中学時代は投打に才能を発揮してエース兼4番打者として活躍。1937(昭和12)年には選抜、1938(昭和13)年には選抜と夏の選手権に出場している。当時すでに職業野球が始まっており、別当は地元タイガースのサード景浦にあこがれる野球少年だった。 卒業後は慶應義塾大学へ進み、スラッガーとして通算35試合133打数47安打1本塁打で、打率.352の記録を残しており、1942(昭和17)年春季には打率.500で首位打者になっている。しかし戦争の激化によって学徒出陣命令が下り、6大学野球は中断となって1943(昭和18)年から終戦まで別当は海軍に身を置いた。 戦後の1946(昭和21)年、東京6大学リーグが再開されると復帰し、主将として春季リーグ優勝に導く。同年大学を卒業すると地元に戻って一旦は家業の製材業に就くが、1947(昭和22)年に社会人チーム「全大阪」に入り野球を再開する。 実力のあった別当はいきなりエース兼4番打者となって都市対抗本戦に出場、準決勝まで進んだが鐘紡高砂に敗れている。これを機にプロで野球をやってみたいと決断し、1948(昭和23)年、地元であり少年時代からファンだった大阪タイガースへ入団することになった。背番号「25」。 1年目から別当の強打は猛威を振るう。シーズン公式戦が始まる前に実施されたトーナメント大会では8試合で7本塁打を放ち、3か所でのトーナメントすべてでタイガースを優勝に導いている。 公式戦が始まっても高打率を維持していたが6月に左足を骨折し全治に3か月を要したため89試合の出場にとどまった。それでも348打数114安打57打点13本塁打で打率.328の数字は素晴らしく、規定打席に未到達ながらも外野手としてベストナインに選出されている。 2年目の1949(昭和24)年は俗に「ラビットボール」と呼ばれた反発力の高いボールが採用されたことで各打者の打撃成績が軒並み上がったシーズンである。タイガースでは「ダイナマイト打線」の異名で呼ばれた強力なオーダーが人気を博し、その中心となったのが別当、藤村、土井垣のクリンナップ。 藤村富美男が当時の日本記録を大きく塗り替える46本塁打でホームラン王に輝いたが、別当もこれに続く39本塁打を記録、土井垣武も自己最高の16本を打っている。 1950(昭和25)年、プロ野球が2リーグに分裂。別当は若林忠志や土井垣と行動を共にしてパシフィック・リーグの毎日オリオンズへ移籍してしまった。 移籍1年目の別当は打ちまくり、120試合で477打数160安打(最多安打)、ホームラン43本に105打点はいずれもタイトル獲得。打率も.335と三冠王にあと少しだった。しかも盗塁も34個とオールラウンドで活躍している。 1951(昭和26)年以降は「飛ぶボール」が廃止されたこともあってか、ホームランが20本に届くことはなかった。長距離砲と呼ばれる打者は中軸を打つようになるとあまり盗塁をしなくなるが、別当はよく走った。1952(昭和27)年に40盗塁、1954(昭和29)にも34盗塁を記録している(この年は選手兼任監督だったから驚きだ)。毎日では8年間プレーし、1957(昭和32)年のシーズンを最後に現役引退した。現役通算10シーズンの成績は891試合3191打数965安打549打点155本塁打186盗塁318四球254三振、打率.302である。 またタイガースで2試合、毎日で1試合投手として投げており、0勝1敗、12回で被安打11奪三振5自責点2、防御率1.50という記録も残っている。 別当は引退後のほうが球界への貢献は高く、その経歴をすべて網羅しているとキリがないため以下に簡略化して記載する。 1954年~1959(昭和34)年 毎日オリオンズ監督1960(昭和35)年 ロサンゼルス・ドジャースへ各員留学1961(昭和36)年 大毎オリオンズ1軍打撃コーチ(兼球団取締役)1962(昭和37)~1964(昭和39) 近鉄バファローズ監督1967(昭和42)年 大洋ホエールズ ヘッドコーチ1968(昭和43)年~1972(昭和47)年 大洋ホエールズ監督1973(昭和48)年 広島東洋カープ監督1977(昭和52)年~1979(昭和54)年 大洋ホエールズ監督1980(昭和55)年~1981(昭和56)年 大洋球団代表兼常務取締役1988(昭和63)年 野球殿堂入り 実に4球団で通算19年も監督を務めている。この間の成績が2497試合1237勝1156敗104引分、勝率は.517。弱小球団の監督を引き受けることが多かったため通算1000勝以上の監督の中で唯一優勝がなかったのは惜しい。 タイガースには2年間在籍しただけだが印象は強かった。もし2リーグ分裂時に移籍しなかったら、藤村と共に中軸を担っていたはずでタイガースの優勝回数はもっと増えていただろう。 すらりとした長身で慶應ボーイ。都会的でダンディなイメージをまとい、監督としても紳士的だった。川西勇治 投手 大阪府出身で鳳中学から1945(昭和20)年に関西大学へ進むと1年生からエースになっている。1949(昭和24)年は主将となったが春季は故障して投げられなかった。秋季はエースとして復活しチームを優勝に導いている。 1950(昭和25)年2月、大阪タイガースへ入団。背番号「25」を着けるが、一度の登板もないまま同年12月23日に解雇されている。 詳しいことは全くわからないが、大学4年時に痛めた肩の状態が悪く、元々は速球派で球が重かったようだが、プロでは超緩球投手という評価だったらしい。 退団後は社会人の全東洋高圧でプレーし、1952(昭和27)年の産業別選手権に出場している。 2005年9月24日に80歳で逝去。まとめ 松本さんが足掛け2年 別当さんが2年 川西さんが1年 とても短いね 松本さんや川西さんは資料も少ないし写真は見つかりません 松本さんは1試合しか投げてないし川西さんなんて一度も登板してないから写真がないのも当然だよなあ戦後はこういうことが多かったのよね 別当さんは毎日の引き抜きで出て行ったというのが真相のようで 藤村さんとの不仲説も流れたりしたようだけど のちにお二人とも否定されてるから そういうドロドロしたものじゃなかったんだろうね 特に別当さんに限ってはダンディさに反することはしないとおもうよ戦後すぐのころの背番号「25」はあまりいい印象ではないんだけど 次回出てくる山本哲也さんは現役でも指導者でも活躍してるよ25の3に続く
2024年08月26日
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背番号25(その1)今回から「背番号25」を開始しますよ ます第1回目ですこの番号は球団創設の年から着けらていますね 歴史をざっと見ると投手や野手のどちらかに偏っているわけでもないんだけど 一番最初は初代監督の森茂雄さんだよ タイガースOB会の生みの親でもある重要人物ねほかにも結構主力選手が着けていることが多いのよ 古いところでは別当薫さんや昭和の守護神だった山本和行さんも着けてたよね投手野手に関係なく主力やドラフト上位が着ける番号と言えるかな。では順次見ていきましょう森 茂雄 初代監督愛媛県松山市の出身で旧制松山商業では内野手としてプレー。卒業後は早稲田大学に進んで東京六大学リーグで活躍。通算93試合で315打数78安打、打率.248、0本塁打、41打点という記録が残っている。 卒業後は社会人クラブチーム「東京倶楽部」に入り1931(昭和6)年~1932(昭和7)年に都市対抗野球で連続優勝を飾る。その後母校松山商業の監督として1935(昭和10)年の夏の選手権で優勝すると、同年創立された大阪タイガースの初代監督として招かれ、背番号「25」を着けるが、森はタイガースとはあくまで「監督」として契約しており試合に出ることはなかった。 日本の野球の発祥地ともいわれる松山出身で、母校松山商関係の選手などを集めるなどチームづくりに尽力し、1936(昭和11)年、タイガースは初めて職業野球に参戦することになる。 ところが同年7月29日、森は突然解任されてしまう。当時阪神は同じ鉄道会社である阪急に強烈なライバル心を持っており、阪神社長から絶対負けるなと厳命されて臨んだ阪急との練習試合で大敗したことで逆鱗に触れ、解任に至ったと言われている。 退団した森は1937(昭和12)年、創設されたばかりのイーグルスに監督兼選手として招かれ、1939(昭和14)年まで指揮をとった。この間、1937年秋季に1打席、1938(昭和13)年は春季に1打席と秋季に2打席、代打として自らバッターボックスに立ったことがある。結局は4打数0安打1三振でこれが生涯成績となっている。 戦後の1946(昭和21)年に東京大学野球部のコーチとして球界に復帰すると、1947(昭和22)から1957(昭和32)年まで早稲田大学の監督として通算9季のリーグ優勝に導いている。広岡達朗も教え子の一人。早稲田大監督時代の森 1959(昭和24)年には大洋ホエールズに招かれ、球団社長兼監督に就任する。西鉄の三原修監督の招へいなどチームの大改革を断行し、1960(昭和35)年には新監督となった三原のもとリーグ優勝・日本一を達成させている。 1972(昭和47)年にはタイガース出身者に声をかけ、松木謙治郎を会長に据え、藤村冨美男を副会長として「阪神タイガースOB会」設立に尽力した。 1977(昭和52)年に逝去、享年71歳。死後、功績をたたえられて野球殿堂入りしている。野球殿堂博物館の顕彰プレート玉井 栄 外野手 福岡県出身で旧制小倉工業高校ではエースとして活躍。1934(昭和9)年の春夏、1935(昭和10)年春、1936(昭和11)年は春夏と、通算5季の甲子園出場はすごい。 ちなみに2020(令和2)年3月には、玉井が1936年の選抜で受賞した個人賞のブロンズ像(5体のうち1つ)が遺族から甲子園歴史観へ寄贈されており、貴重な史料となっている。 甲子園での実績から読売と阪神による争奪戦になったが、タイガースが好条件を提示して1937(昭和12)年に獲得にこぎつけた。背番号「25」。 玉井は甲子園でホームランも記録するなどバッティングにもセンスがあったため、プロ入りと同時に外野手に転向している。 ところがプロ入り後の成績はさっぱりで、1937年春が20試合20打数2安打0打点で打率.100。同年秋季は出場が15試合に減っている。 1938(昭和13)年になると春・秋とも8試合づつしか出ていない。しかも年末には軍に召集されて延々と終戦まで戦地に赴いており、その間に負傷するなど不運も重なった。 玉井は戦争が終わってもプロへ復帰はせず、九州電力へ就職している。ここでも社会人として野球をしたかどうか実績は伝わっていない。 1953(昭和28)年、作業中の感電事故で亡くなっている。享年35歳だった。 プロ在籍は実質2年間で、51試合51打数10安打2打点4盗塁8四球12三振、打率.196である。高山 泰夫 外野手・内野手 岐阜県出身で旧制岐阜商業(現県岐阜商)では1939(昭和14)年の選抜大会に補欠で出場し準優勝を経験する。翌1940(昭和15)年にも選抜大会に出ている。この時も控え選手だったが3打数3安打を記録してチームの優勝に貢献しいる。なかでも決勝戦では同点の8回に代打で登場して決勝点をたたき出しており、一躍優勝の立役者となって当時の「美技賞」を獲得している。さらに1941(昭和16)年の選抜にも出場。この年はファーストのレギュラーでベスト4まで進んだが連続優勝は逃した。 1942(昭和17)年にタイガース入団、背番号25。この年は18試合に出ているが20打数2安打で打率.100で終わっている。 1943(昭和18)年はわずか9試合という数字しか残っていないが、シーズン中に軍の招集にあい、終戦まで戻れなかった。 1946(昭和21)年にタイガースへ復帰。41試合で77打数21安打9打点1本塁打、打率.273という成績を残す。タイガースに戻ってくると背番号「25」はすでに松本太が着けていた。仕方なく空いていた「8」でプレーしていたが、同年山口政信が復帰してくると戦前から着けていた「8」を希望したため譲り、高山はまた空いていた「27」へ変更するという「背番号の玉突き」があった。 事情は定かではないが、1947(昭和22)年は出場がなくそのまま退団している。引退後は社会人東洋産業。 通算成績は68試合108打数25安打13打点2本塁打2盗塁14四球21三振、打率.231だった。まとめ 最初は初代監督の番号だったのね ただし事情があってすぐに解任されてるから着けてたのは1年にも満たない期間だけだったけど 2人目の玉井さんは悲劇的で 戦争で人生がゆがめられた犠牲者の一人 亡くなったのも若いし不慮の事故でお気の毒だった 3人目の高山さんも戦争行ってるからやっぱりついてないよ 背番号25を着けたのもわずか2年間だったからなあ しかも戦後に復帰したら背番号「25」はすでに別の人が着けてたってこれもついてないよね 画像資料も見つからなかった25の2に続く
2024年08月19日
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背番号24(その5)背番号24の最終回です2024年(令和6)年は誰も着けていません今回も3名の選手を紹介するんだけど 最初の横田選手のことがあるからかな その後日本人の選手は着けていないのよ 横田さんと一緒にプレーした選手たちがたくさん現役で残ってるから偲んでるのかもしれないね横田 慎太郎 外野手生まれは東京だが育ちは鹿児島県日置市。父親はロッテオリオンズの外野手として活躍した横田真之氏。父親の影響もあって幼いころから野球を始めており、鹿児島実業に進学すると1年生から4番を任せられるほどの実力があったという。甲子園大会出場はできなかったが、3年時にはエース兼4番でチームの中心になり、高校通算29本塁打を記録する。横田の息子ということで知名度もあり、投手として140キロを超えるストレートも持っているという逸材だった。2013(平成25)年のドラフト会議ではタイガースが2位指名。背番号も引退した桧山の「24」を継承しており、期待の高さがわかる。ちなみに同年のタイガースは、1位が岩貞祐太だった。そして2位が横田。以下は3位・陽川尚将、4位・梅野隆太郎、5位・山本翔也、6位・岩崎優という面々で、2024年現在では横田と山本以外の選手はまだ現役だ。1年目の2014(平成26)年、前年10月にゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任した掛布雅之がファームの指導をしており、中村GMからは「横田を一人前にしてくれ」という使命を託されていたという。安芸キャンプでは掛布のマンツーマンに近い指導を受けて着実に力を着け、ウェスタンリーグが始まると79試合に出場し173打数39安打23打点6本塁打、打率.225の成績を残している。高卒1年目としては評価できる数字だった。2年目の2015(平成27)年もファームでじっくり育てる方針は変わらなかった。ウェスタン103試合に出場、347打数74安打36打点9本塁打、打率.213を記録し盗塁も9個決めている。全体的に前年より数字を上げているが、打率がもう一歩というところだろう。2016(平成28)年、2軍監督となった掛布はシーズンを前に横田を1軍へ推薦すると金本監督もその気で、3月25日の開幕戦では2番センターでスタメンに名を連ねた。翌26日には内野安打ではあったがプロ初安打も記録、積極的な盗塁も見せている。しかし、打撃に関しては打球が上がらず、1割台に甘んじて壁に当たり、5月6日に登録抹消される。その後も2度1軍登録されたが結果を残せず、6月以降は2軍暮らしになってしまった。結局1軍では38試合で105打数20安打4打点0本塁打4盗塁、打率.190に終わる。2017(平成29)年、春季キャンプを迎えたころ原因不明の頭痛を訴えるようになる。どうも本人は前年から異常を感じていたようだが、コーチの眼にもプレーに変調が確認できるほどになり、キャンプを離脱して診断を受けた結果脳腫瘍が判明して治療に専念することになった。約半年間戦列を離れて治療を続け、「寛解」ということで9月2日から練習を再開したもののリハビリは容易ではなく、11月16日に育成契約となる。背番号も「124」に変わったが、「24」は横田の復帰を見込んで、それまでは空番とすることも決まった。2018(平成30)年、独自メニューでリハビリを続けて身体は戻ってきたため、安芸キャンプでは全体練習にも参加できるほどになってきたが、ウェスタンの試合に出ることはなく、10月31日には一旦自由契約にされ11月15日に再度育成契約選手に戻っている。2019(令和元)年、バッティング練習中に異常を感じる。「自分で打った打球の行方が全然見えない」「打撃投手の投げるボールが二重に見える」といった症状を訴えたため9月に引退を勧告される。本人もこれを了承して9月25日の対ソフトバンク、ウェスタン最終戦が引退試合とされた。横田はこの試合の8回二死から出場し、いきなり「奇跡のバックホーム」を成し遂げる。実際にはホームの方向すらはっきり見えていなかったと言うが、ノーバウンドで捕手のミットに収まるというのは本当の奇跡だった。試合後に引退セレモニーが行われ、10月31日をもって自由契約となり現役引退となった。鹿児島に帰って治療を続けたが、2020(令和2)年には脊髄への転移が発見されるなど病状は悪化していく。そのため関西の病院に入院し放射線や抗がん剤の投与を続けながら講演活動なども行うなど復帰を目指し懸命に治療したところ、2021(令和3)年4月ごろに腫瘍が消滅したとして退院している。しかし2022(令和4)年3月、脳腫瘍の再発が確認され、その後右目を失明。それでも懸命の療養を続けていたが、2023(令和5)年7月18日、タイガースが優勝へ進撃を続けるさなかに永眠した。まだ28歳だった。タイガースの選手たちは訃報にショックを受けるが、横田に優勝を届けようと団結し、7月終盤から快進撃を続けて独走状態でリーグ優勝を決めると入団同期の岩崎が横田の「24」のユニフォームを掲げて胴上げされ涙を呼んだ。そして日本一の場面でも再び「24」は輝いた。タイガースナインの追悼の思いは横田に届いただろう。横田が目標に掲げていた「甲子園でライトにホームランを打つ!」は叶わなかったが、最後まであきらめないという強い意志を見せる姿が人々に与えたものは大きい。横田の闘病生活を知る同期の岩崎、岩貞、梅野らは、「あの頑張りから教えられたことは大きい 自分たちもいい加減なことはできない」と思いを語っている。横田の通算成績は38試合105打数20安打4打点4盗塁2四球13三振、打率.190。 最後に横田を直接指導しその人柄を知る掛布氏がスポーツ報知に語った追悼の談話を掲載する。今回ばかりは野球の神様を恨まずにいられない。関係者から横田の訃報を聞いたときはショックで言葉を失った。まだ28歳。あまりにも若すぎる。私がもう一度、阪神のユニホームに袖を通すきっかけとなった選手だった。2013年のドラフト後、中村勝広GM(15年死去)から「左の長距離打者を育てたいので手伝ってほしい」と頼まれて阪神DCに就任。粗削りで、不器用で、素直で、野球が大好きな素晴らしい身体能力を持つ18歳にほれこんだ。松井秀喜に負けないパワーだけでなく、トリプルスリーを狙えるスピードも備えていた。口酸っぱく言い続けたのは「独りに強くなれ」ということ。みんなとやる練習も大事だが、最後は独りでどれだけやるかだ。「遠征先でも素振りは続けなさい。俺もそうやってきた」と。横田が参加した15年オフの台湾でのウィンターリーグを2軍監督として視察した際、関係者から伝えられた。「初日のミーティングが終わった後、横田から『バットを振る場所はありますか』と聞かれました。あんな選手は初めてです」。この言葉を聞いたとき、「横田は大丈夫だ」と確信した。16年、金本監督によって開幕スタメンに抜てきされ、38試合に出場。だが、ステップアップするはずだった17年の春季キャンプで病魔に襲われた。病室を見舞った際、「復活」と太く書いた色紙を渡した。引退後も大事に自室に飾ってくれていると聞いていた。第二の人生でこそ大輪の花を咲かせてくれると信じていた。誰からも愛された優しい笑顔が忘れられない。メル・ロハス・ジュニア 外野手背番号「24」は前述のとおり横田が育成契約になった時点で空番とされ、2018(平成30)年から2020(令和2)年まで誰も着けていない。そして2021(令和3)年から引き継ぐことになったのがロハス・ジュニアだった。元大リーガーの父を持つロハス・ジュニアはアメリカ・インディアナ州出身。父親は投手だったがジュニアはスイッチヒッターの野手になっている。2010(平成22)年にピッツバーグ・パイレーツから3巡目指名されプロ入り。パイレーツ傘下時代はメジャーに上がることができず、2016(平成28)年にアトランタ・ブレーブスへ移籍する。ブレーブス傘下の3Aでプレーしていたロハス・ジュニアに韓国のKTウィズから声がかかったのは2017(平成29)年のことで、シーズン途中の6月12日に契約している。韓国での1年目は83試合にしか出場できなかったが、打率.301、18本塁打、56打点を記録して存在感を示した。そして2年目からの数字がすごい。2018 144試合564打数172安打114打点43本塁打 打率.3052019 142試合521打数168安打104打点24本塁打 打率.3222020 142試合550打数192安打135打点47本塁打 打率.349なかでも2020(令和2)年の成績は、本塁打王と打点王の2冠を獲得した上にあわや3冠王という打率も残すなど驚異的だった。これではタイガースならずとも騙されて不思議はない。2020年12月25日、タイガースと契約合意したロハス・ジュニアの入団が発表され、背番号は「24」、2年契約で年俸250万ドル。当時はまだ円高で1ドル105円くらいのレートだったが、それでも年俸は2億6000万円強というところだ。韓国の数字がものを言っている。 2021(令和3)年は春季キャンプに参加せず4月4日に来日したためファームでの調整に1か月以上を要した。一軍昇格は5月8日になったが、初打席から21打席連続ノーヒットという外国人選手による球団ワースト記録を樹立してしまう。初ホームランは5月18日のスワローズ戦で出たがこれが来日初安打だった。その後約1か月たっても打率が1割に届かないためファーム行きとなり、以後昇格降格を繰り返す。8月以降に調子が上がり最終的に2割台に到達するが、60試合で41安打21打点8本塁打、打率.217では助っ人としてお話にならない。ただし2年契約でもあり、1年目はキャンプ不参加での調整不足による出遅れが原因ということで、翌年もプレーする。2022(令和4)年、今度は1月23日に沖縄入りし春季キャンプからオープン戦と調整期間は十分だったが、オープン戦の段階で調子が上がってこないため開幕スタメンに入れなかった。 もう一人の外国人選手ジェフリー・マルテも故障が多く1軍と2軍を往復しており、それに加えてロハス・ジュニアが2割程度ではタイガースも戦力補強が必要となって、6月20日にアデルリン・ロドリゲスと契約する羽目になった。ロハス・ジュニアは89試合に出場して41安打27打点9本塁打で打率.224という前年とあまり変わらない成績で終わり、10月28日に退団が発表された。「韓国での数字は何だったのか?」という疑問に対し、「現在の韓国プロ野球のレベルが下がっているからだ」という答えを、ロハス・ジュニアが明らかにしてしまったということなのだろう。ブライアン・ケラー 投手ロハス・ジュニアのあと背番号「24」はブライアン・ケラーに引き継がれる。B・ケラーは2022(令和4)年12月14日、年俸60万ドルでタイガースと契約。スリークォーター気味の右投げでストレートはそれなりに速く、映像の段階ではピッチングに関して評価は悪くなかった。しかしオープン戦からいきなり馬脚を現す。まず腕の振りが一定でないためリリースポイントがばらばらでコントロールできない。そのため右打者の場合だと内角への危ない球や、外角へのワイルとピッチなど、ホームベース上を通るボールが少ない。クイックもまともにできないため、セットポジションになるとさらにコントロールを乱し、デッドボールやワイルドピッチが普通に出てしまう。フィールディングもバタバタで、べースカバーなども怠ることが多く、まともに投内連携もできない。とてもプロのレベルとは言えない惨状だった。当然開幕2軍を命じられ、右ひじの違和感から6月には検査のため一時帰国。一週間ほどで再来日したが、その後も登板機会はなく7月25日に自由契約となって退団した。結局ウェスタンで3試合3勝1敗、15回2/3を投げ自責点6、防御率3.45というのが日本での実績だった。何のために獲得したのか、まったく疑問である。まとめ横田さんはすごく素直で一生懸命野球に取り組んでいた選手だったんだね しかも掛布さんが認めるように走・攻・守の三拍子そろった素晴らしい素質を秘めた選手だった。開花する前に病魔に襲われてしまったけど 今度は「必ず復活する」という強い意志で病気と闘う姿を見せてくれたんだよね残念ながら28歳で亡くなってしまったけどタイガースファンは忘れないよ 先代のブログでは2016年かな ウェスタンの試合で何度か横田選手を見て「ファウルやゴロしか打てない」と不審に思ったことが書いてある 病気の影響が出始めていたのかもしれないね・・・ロハス・ジュニアさんは2代目も期待してたんだよ 韓国の数字が桁外れだったからねえ 騙されました でも両打にこだわらず右打席一本で勝負した方が良かったっていう気はするなあB・ケラー投手は実際に見たことがあるけど 唯一好い状態の時だったんだよ ランナーをほとんど出さなかったからクイックの必要がなく安定してたんだろうね ランナーが出るとメロメロなんだけどその日だけ好かったんだよこれで背番号24は終わりです 2024(令和6)年はまた空番になってるよね 多分来年のルーキーが着けることになるんだろうな背番号25へ続く
2024年08月05日
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背番号24(その4)背番号24の第4回目です今回も3名の選手を紹介するんだけど 2人はあまり知られていない選手だとおもうわ 2代目も初めて知った選手3人目が桧山さんね 22年間「24」を着けて活躍しました 桧山さんも順風だったわけじゃなく苦労も多い選手でしたが ファンに愛されたという点では群を抜いてたんじゃない?佐藤秀明 投手秋田県秋田市出身。秋田県立高校(現秋田中央高)から東洋大学へ進む。4年委にようやく頭角を現したが、通算では30試合5勝3敗に過ぎない。大学卒業後は社会人の日立製作所に入社、1984(昭和59)年の都市対抗本戦で高評価をされ、同年のドラフト会議で阪神タイガースから2位指名を受けて入団。引退した太田から背番号「24」を継承した。この年のドラフトは1位が嶋田章弘、3位が和田豊、4位には嶋田宗彦、5位が大野久、6位が山口重幸だった。佐藤のルーキーイヤーは1985(昭和60)年なので、リーグ優勝・日本一の年である。実際に佐藤は1軍公式戦の37試合に登板しているが、意外に記憶している人は少ないようだ。5月26日の中日8回戦がプロ入り初登板でリリーフ。その後のすべての登板もリリーフだった。35回1/3を投げて0勝2敗、奪三振17、自責点13、防御率3.31の成績を残している。日本シリーズでも第3戦と第4戦でリリーフしているが、いずれも負け試合のビハインドの状態での登板だった。これも記憶している人は少ないだろう。1986(昭和61)年も公式戦で46試合に投げており、すべてリリーフ。成績は58回2/3で2勝1敗1セーブ、防御率4.45だった。ところが1987(昭和62)年は3試合、1988(昭和63)年は4試合と、登板機会が激減し、福家雅明とともに住友一哉・南秀憲とのトレードで近鉄バファローズに移籍することになる。近鉄に移った1年目の1989(平成元)年は自己最多の47試合に起用され、すべてリリーフながら7勝3敗4セーブで防御率3.64の好成績を挙げるブレイクを見せ、リーグ優勝の貴重な戦力となった。巨人との日本シリーズは、加藤哲郎の「シーズンの方がよっぽどしんどかった、相手も強いし」という発言が「巨人はパ最下位のロッテより弱い」と報道されたことで巨人が発奮し、3連敗のあとの4連勝されて近鉄が敗れたシリーズだったが、佐藤は第2戦でリリーフし勝利投手になるなど2試合で投げた。1990(平成2)年が29試合、1991(平成3)年は27試合と登板は減っていき、1992(平成4)年は一軍登板がないまま引退の道を選んだ。通算では193試合10勝11敗6セーブ、255回2/3を投げ55四球113奪三振、自責点135で防御率は4,15だった。引退後は甲子園球場近くで焼き肉店を経営していたが、2007年3月17日に脳出血のため死去、まだ46歳だった。住友一哉(かずや) 投手徳島県鳴門市出身で高校は鳴門工業。3年だった1975(昭和50)年の夏は県大会で優勝し南四国大会に進んだが土佐高校に敗れて甲子園へは行けなかった。右本格派としてプロからの評価は高く、同年のドラフト会議では阪急ブレーブスから1位指名を受けたが、これを拒否して法政大学へ進学している。法大では江川卓の2年後輩にあたり、1・2年時にはあまり登板機会はなく、おもに3年以降で26試合10勝4敗、防御率1.65、奪三振69の記録を残し、4年秋にはベストナインに選ばれている。卒業後の1980(昭和55)年にはプリンスホテルに入社、同年の都市対抗で好投している。1981(昭和56)年のドラフト会議で近鉄バファローズの6位指名で入団しているが、「高校の時に1位で阪急に入っていた方が良かったかも」と言われたりもした。近鉄には1982(昭和57)から7年間在籍して165試合に登板しているが先発は3試合のみ。7年間で15勝7敗10セーブだった。 1988年のオフに南秀憲とともに佐藤秀明・福家雅明との交換トレードでタイガースに移籍、佐藤の背番号「24」を受け継いでいる。 タイガース1年目の1989(平成元)年は自己最多の44試合すべてリリーフで登板し3勝4敗7セーブで防御率3.41と結果を残したが、1990(平成2)年が19試合、1991(平成3)年はわずか1試合と尻すぼみとなって引退。 通算成績は229試合18勝11敗17セーブ、383回を投げ奪三振170、自責点178で防御率は4.18。引退後は近鉄に戻って二軍投手コーチやスコアラーを務め、オリックスに合併後も残留し2006(平成18)年の一軍投手コーチを最後に退団した。桧山進次郎 外野手・内野手 京都市左京区の出身で平安高校。桧山が在籍していたころの平安は低迷期で、主軸となった3年の夏は予選の2回戦で敗退している。 卒業後は東洋大学へ進み、2年秋のリーグ戦では首位打者。通算で76試合に出場、261打数83安打、打率.318、13本塁打、45打点。ベストナインには3回選ばれている。 プロ入りは1991(平成3)年のドラフト会議だが、4巡目に三井浩二を外したタイガースが再入札で獲得する。全国的な知名度は薄かったが、コアなタイガースファンからはすでに長打力を高く評価する声が多かった。 桧山は最初にもらった背番号「24」を引退まで22年間背負い続けた。タイガース一筋で1つの背番号を20年以上背負った前例はなく、藤田平(19年)、藤村冨美男(17年)、吉田義男(17年)などを凌駕している。 1年目の1992(平成4)年はチームが優勝争いをする中、桧山は7試合しか一軍出場がなかった。2年目~3年目もそれぞれ33試合、32試合と伸び悩んでいる。 4年目の1995(平成7)年、ライトの亀山努が開幕早々ケガで離脱すると、その穴埋めのために出場機会が増え、115試合で規定打席は届かなかったが打率249、36打点、8本塁打という数字を残した。 1996(平成8)年が本当の意味でブレイクしたシーズンだった。この年に正式就任した藤田平監督が潜在能力に目を付けてレギュラーに抜擢したことで開花する。全130試合に右翼手として出場し、464打数122安打73打点22本塁打、打率.263を記録して中心選手となった。 吉田監督に代わった1997(平成9)年~1998(平成10)年も136試合、122試合とレギュラーを張り、3年連続で規定打席もクリア、ホームランも23本、15本と二けたを打っている。 ところが野村監督が就任した1999(平成11)年には故障と打撃不振で95試合ホームラン8本と成績を落としてしまう。さらに2000(平成12)年は外国人選手にポジションを奪われる形で出場が減り、87試合34安打でホームランはわずか4本と追い詰められてしまった。 しかし2001(平成13)年は逆に新外国人イヴァン・クルーズの不振でレギュラーポジションへ返り咲き、初の打率,300、ホームランも久々に12本と二けたに乗せた。 この年には28試合連続安打も記録するなど活躍が目立ち、読売の長嶋監督も「ほしい選手」と言ってはばからず、「今年の成績は?」「はい3割打ちました」、「ホームランは?」「12本です」、「少ない!君ならもっと打てる」などと会話があった。 星野監督の2年間も外野の一角をしっかり守り、2003年には18年ぶりのリーグ優勝にも貢献している。 岡田監督時代の2005(平成17)年まで5年連続で100試合以上に出場しており、再びリーグ優勝を経験できた。ここに至る中で2002(平成14)年オフに金本知憲のFA獲得が明らかになると、フロントの自分に対する評価を疑問視してFA宣言している。結局他球団からのオファーはなく、星野監督に慰留されて残留したが球団へのわだかまりを残したかもしれない。 2006(平成18)年は不調が続き85試合、2007(平成19)年には岡田監督の若手起用方針からやはり出番は85試合にとどまる。 2008(平成20)年になると桧山本人も代打で生きる道を考えるようになり、2004(平成16)年に八木裕が引退してからこれという切り札のなかった代打へ名乗りを上げ、おもに代打を中心に打率3割を記録して見せた。このころから「代打の神様」と呼ばれるようになっている。 以後、引退する2013(平成25)年まで代打一筋の道を歩む。この間に遠井吾郎が持っていた球団記録の代打108安打を抜き去り158安打まで伸ばした。ほかにも、これも球団記録となる代打通算111打点と14本塁打も記録している。「神様」にふさわしい数字だ。 引退した2013年はクライマックスシリーズにも出場し、第2戦の9回に代打で登場するとライトスタンドへ2ランホームランを放っている。これは広澤克実が持っていたCS本塁打最年長記録41歳6か月を大幅に更新する44歳3か月での一発だった。しかしCSは敗退し、桧山の現役野球人生もピリオドとなった。 引退後は球団を離れ、2024年現在、まだコーチなどの現場復帰はない。指導者として待たれる存在である。 通算成績は1959試合4863打数1263安打707打点159本塁打466四球1100三振、打率.260。まとめ3名紹介したけど まず佐藤さんは2位指名するほどの投手だったのか疑問ね 1984年のドラフトでは3位の和田さんの方がものになったし監督までなったよね住友さんはちょっとよくわからない 高校生の時に1位指名されてるんだよね 拒否したけど ホントにそんなすごい感じだったのかな? 社会人になって改めてドラフト指名されたときは6位だし桧山さんは2代目も現役時代を知ってます 三振が多いっていう印象はあるんだけどね 代打での活躍は本物だった なんといっても現役22年間を「背番号24」でやりぬいたってことが素晴らしいよねいつ頃から「ひーやん」と呼ばれるようになったかは2代目にはわかりません24の5へ続く
2024年07月29日
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背番号24(その3) 背番号24の第3回目です前回まで背番号「24」の6人目の選手を紹介しましたが一番長く着けたのは渡辺博之さんの8年です今回は2度目の掲載となる遠井吾郎さんが出てきますが ルーキーから4年間「8」を着けたあと 16年間「24」を着けて記録を更新したんだよね 主力選手として活躍したのも「24」を着けてからだったので 当時を知る人は「遠井と言えば24」という印象らしいわ遠井さんのあと2年間空き番になるのよ 長く着けた人のあとってつけにくいのかな 今回は遠井さんのほか2名を紹介します 3人目には有名な甲子園のアイドルも出てきますよ!遠井吾郎 外野手・内野手(再掲)遠井は背番号「8」で紹介済み。タイガース史上では欠かせないキャラクターなので若干の加筆をしたうえで全文再掲する。山口県柳井高校出身。高校時代から打撃は注目されており、昭和33(1958)年に八幡製鉄への就職を取りやめてタイガースに入団し、大崎三男から「背番号8」を譲られるが、「8」を着けていたのはルーキーから4年間で、昭和37(1962)年から引退までの16年間は「24」を着けている。遠井のあと「8」は毎日オリオンズからトレードで入団した福塚勝哉が2年間着け、1964(昭和39)年から同じく毎日から「世紀のトレード」で移籍してきた山内和弘が着けることになる。将来有望で結果も残しつつあった遠井が、4年間で「8」を譲って「24」に変える必要性はあまり感じない。まったくの憶測だが、世紀のトレードの2年前の段階ですでにタイガースの腹は決まっていたのではないか。水面下で山内獲得の動きはあって、表面的にはまず遠井が「8」を空けて福塚に譲るという形で現れたというのは勘ぐりすぎだろうか。いずれにしろ「24」をもらってから16年も着けたことで、こちらのほうが遠井のトレードマークとなった。遠井は180cmを超える堂々とした体格だが、年間に打ったホームランは最高でも16本。スイングの軌道は同僚の藤田平に通じるものがあり、バットコントロールが柔らかく、併殺打は比較的少ない。どちらかと言えば巧打者・中距離ヒッターというほうが本質に近いのだろう。最初は外野を守ることが多かったが、昭和38(1963)年ごろから藤本勝巳を押しのける形でファーストのレギュラーになる。しかしシーズン100安打以上を記録したのはプロ生活20年のうち6シーズンだけというのは意外に少ない。1966(昭和41)年には打率.326で首位打者を争い長嶋に次ぐ2位、1967年(昭和42)年には全試合に出場して打率.309はベストテン5位。 1968(昭和43)年も全試合に出場しており、このあたりが遠井の現役生活のピークだった。その後は徐々に太ってきて走れなくなり、昭和40年代後半はファーストしか守れなくなる。晩年はファウルフライが上がっても最初から追わないということもあった。普通ならタイガースファンの猛烈なヤジを浴びるはずだが、遠井の場合は「ファン公認」で許されていた。これは遠井の人柄がファンからも愛されていたからかもしれない。守備位置がほぼファーストに限定されると、どうしても外国人選手とのポジション争いになってしまう。ジョージ・アルトマンやハル・ブリーデンが来ると、めっきり出場数は減り、自然に立ち位置は代打専門へと変わっていった。体格に似合わず大振りをしない遠井のミート打法は代打で大いに生きる。代打で挙げた打点96は球団では桧山進次郎、八木裕に次ぐ歴代3位であり、プロ野球全体でも6位に入る好成績である。現役最後の1977(昭和52)年はわずか56打席だが球団創設3000本目のホームランを代打で打ち、記憶に残る選手として引退していった。だれも怒ったところを見たことがないというほどの好人物でお酒好きの「仏のゴローちゃん」は2005(平成17)年に65歳で他界している。 通算記録は、20年間で1919試合5281打数1436安打688打点137本塁打、打率.272である。鈴木弘規 投手 岩手県陸前高田市出身。岩手・水沢一高では、エースとして1974年夏の県予選決勝に進むが、一関商工に惜敗して甲子園出場はできなかった。身長191センチの右本格派で、長身を生かして投げおろすストレートは威力があり、カーブも落差が大きく将来性を買われて、1974年のドラフト会議で阪急ブレーブスから4位指名を受け入団している。阪急ではプロ入り後4年間は1軍登板がなく、1979(昭和54)年に公式戦最後の試合でようやく初登板を果たしたが1イニング投げたに過ぎない。 1979年12月、谷村智弘との交換でタイガースへの移籍が決まるが、10勝前後を期待できる谷村に対し プロ5年で1イニングしか投げていない鈴木が交換相手ではかなりのリスクがありファンの不満の声もあった。 タイガースでは2年間空いていた背番号「24」を着け、移籍1年目の1980(昭和55)年は10試合に登板して0勝1敗、18回2/3を投げて防御率6.16の成績だった。この1敗は、4月29日の甲子園で江川卓を相手に先発を任された試合で好投したときのもので、結果は0-2の敗戦だったが、鈴木のプロ人生最高の晴れ舞台と言えるだろう。 1981(昭和56)年から1982(昭和57)には1軍登板がない。タイガースでの最後のシーズンとなった1983(昭和58)年5月に中日戦で先発するも1回にフォアボール3つ、ホームランを2本浴びてノックアウト。即ファーム行きとなりそのまま2軍生活で終え、11月には太田幸司との交換で巨人へ移籍している。 1984(昭和59)年は巨人で6試合のリリーフ登板があったが、いずれも敗戦処理で制球難は治らず、1985(昭和60)年も登板機会がないままで現役を退いた。 通算成績は18試合0勝2敗、30回2/3を投げ18四球17奪三振、防御率6.75に終わっている。 引退後はそのまま巨人に残り、1986(昭和61年)から2004(平成16)年までバッティング投手を務めた。太田幸司 投手 青森県三沢市出身で高校は三沢高校。今日では伝説のようになった「甲子園最初のアイドル選手」と言われる。三沢基地にいたアメリカ軍人と母との間で生まれたと言われるハーフ。色白で髪はブラウンの美少年だったが、甲子園でドラマを作ったことで女性ファンが熱狂する人気者になった。 エースとして1968(昭和43)年の春、1969(昭和44)年の春・夏と3季で甲子園の土を踏むが、注目されたのは最後の夏の選手権だ。太田のワンマンチームだった三沢高校は太田の好投によって4試合を勝ちあがり、東北勢として初めて決勝に進出する。決勝戦の相手は強豪、愛媛県の松山商業だった。 8月18日、三沢・太田、松山商・井上の投げ合いで始まった試合は9回を終わって0-0で決着がつかない。延長に入っても太田は好投を続けるが、三沢高も松山商の堅い守りに阻まれて得点ができないまま延長18回が終わり0-0。当時の規定により引き分け再試合になった。炎天下の試合は4時間16分に及び、太田は262球、井上は232球を投げた。 このころは選手の健康面への配慮の必要性がまだ十分に認識されていなかったのだろう。この過酷な試合を戦い抜いた末の再試合は翌日8月19日に実施される。 三沢高は再試合でも太田が投げ切ったが、松山商は井上が先発したものの要所要所でライトの中村と交代を繰り返しながら投げた。ワンマンチームの三沢高と層の厚い松山商の差が出たと言えるかもしれない。試合は4-2で松山商が勝ち、悲劇のヒーローとなった「コーちゃん」は全国の人気者になってしまう。 11月20日に行われたドラフト会議では、この超アイドル投手をどの球団が指名するかに注目が集まった。この年のドラフト会議は予備抽選によって決まった順で指名していき、重複を認めないというルールで実施されており、注目の指名順は中日-阪神-大洋-南海-西鉄-近鉄-東映-広島-ヤクルト-ロッテ-巨人-阪急となった。 まず中日が早稲田大の矢沢健一を指名。次はタイガース。当初会議の会場内では「阪神が指名するだろう」と目されていた。しかしタイガースは現実性を重視し即戦力の東洋大・上田次郎を指名する。その後も、大洋は早稲田大の荒川堯、南海は日大の佐藤道郎、西鉄は盛岡鉄道管理局の泉沢彰と各球団が現実的な指名をしているのは冷静だった。 5球団が太田をパスしてチャンスが巡ってきた近鉄は迷わず指名、12月8日に近鉄本社で入団発表会見が行われたが、詰めかけた報道関係者が200人、そのほか女子学生などのファンでホテル周辺もごった返す騒動だったという。背番号はいきなりエースナンバー「18」で、これも重荷になったかもしれない。 アイドル系の雑誌の表紙をプロ野球選手が飾るのも初めての出来事で、取材対応やグラビア写真の撮影などで多忙を極め、本来プロ野球選手である太田を苦しめることになる。特に今で言うストーカーまがいの付きまといや待ち伏せなどに辟易して精神的に参ってしまったのは気の毒というほかない。 ルーキーの1970(昭和45)年はキャンプからフィーバーが止まらず、太田は困惑を深める。当時全盛だった鈴木啓司などのボールを間近に見て、数年はファームでみっちり鍛えないととても追いつけないと感じていたからだが、球団は太田人気で集客を図ろうと開幕1軍メンバーにねじ込んだ。 4月19日のロッテ戦でリリーフして幸運な初白星を手にしたが 1年目は1勝のみ。しかしオールスターファン投票では圧倒的な人気で独走し、戸惑う本人とは関係なく選ばれてしまう。 当時のオールスターは3試合行われており、他球団から預かった投手を3連投させるなどありえないことだったが、西本監督は過熱するファンに配慮して3試合とも太田を起用せざるを得ず、ケガをさせてはいけないとひやひやだったそうだ。 フィーバーは1972(昭和47)年まで収まらず、ほとんど2軍にいるのにファン投票では望んでもいないトップになってしまうため、1軍で活躍している選手の手前、太田が肩身の狭い思いをしていたであろうことは想像に難くない。なにしろプロ入り3年間で3勝しかしていない状況だからだ。 とにかく常にファンが取り囲んでおり、合宿所を出ることもままならない。練習場への移動も関係者や同僚が太田を取り囲んでガードしないと動けないという有難迷惑なフィーバーぶりで、練習にも集中できなかった。 フィーバーが収まったのは入団4年目。ようやく精神的に余裕が生まれたのか、太田は6勝、10勝、12勝、9勝、10勝と安定した成績を残すようになる。しかし1978(昭和53)年から故障がちになり、1980(昭和55)年から3年間は勝ち星を挙げることができず、1982(昭和57)年のオフに金銭トレードで巨人へ移籍する。 巨人でも1軍で投げることはなく、1983年オフに鈴木弘規との交換でタイガースに入団することになる。 タイガースとしては太田の人気にあやかろうとしたわけではなく、小林の引退があって先発投手の絶対数が足りず、それなりの実績を残している太田に興味を示したということだ。 一方で太田の側は、近鉄時代からタイガースへの移籍を熱望しており、ここでようやく念願がかなったというのが実際のところだ。しかし残念ながら太田はもうすっかり峠を越えていた。 タイガースでは交換相手の鈴木が着けていた「24」を継承したが、1軍で投げるほどの力はなく、公式戦で1度も登板することなく1年でユニフォームを脱いだ。 通算成績は318試合58勝85敗4セーブ1331回1/3を投げて604奪三振、防御率4.05だった。 もっと静かに野球に専念できていたら数字は大きく変わっていたのではないか。太田の事例をみれば、注目されすぎると選手の人生を変えてしまう場合もあるということを痛感させられる。まとめ遠井さんは背番号「8」で紹介してるけど 残した数字も立派だし 人柄もよくて皆に愛された選手だったみたいね 20年間タイガース一筋というのも大したものよ 鈴木さんは 素材としては期待されてたとおもうよ 多分当時の日本のプロ野球では190センチを超える大型選手を指導するノウハウは全くなかったんじゃないかな 規格外でどう育てていいかわからない そんな感じだとおもうよ 今の時代ならもう少しものになってたんじゃないかなあ太田さんは60歳くらいから上の年代の人には超有名な人みたいだね いろいろ調べてみると簑島高校の島本講平さん 鹿児島実業の定岡正二さん 東海大相模の原辰徳さん 東邦高校の坂本佳一さん 横浜高校の愛甲猛さん 早稲田実業の荒木大輔さん 同じく早稲田実業の斎藤祐樹さん などと見てくるとアイドル系はやっぱ投手が多いわね その第1号と言われるのが太田さんね 当時としては前代未聞の出来事で それまで野球なんか見たこともなかった女子高生とかがどっと詰めかけたんだって 若い女の子たちが野球に興味を持つきっかけにもなったんだよ そういう意味で太田さんはプロアマを問わず球界の功労者って言えるわ 殿堂入りしてもいいくらいの価値があるんじゃない?24の3へ続く
2024年07月22日
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背番号24(その2)背番号24の第2回目です今回は背番号「24」の4人目の選手から6人目まで3名を紹介します この3人のうち渡辺博之さんはレギュラーにもなって8年間着けてますが、ほかの2人はそれぞれ1年と3年しか着けてませんね。最初に登場する渡辺さんはプロ入りが遅かったために現役期間が短いけどけどすごくいい選手ですよ渡辺博之 外野手・内野手大阪市阿倍野区出身。同志社大学に進みエースとして活躍。1940(昭和15)年から2年連続で関西大学リーグ優勝を飾っている。卒業後すぐ軍に応召し終戦を迎える。戦後は会社員を経て独立し、御堂筋で用品店を経営しながら社会人チーム「全大阪」に参加し、1946(昭和21)年から3期連続で都市対抗野球に出場している。1949(昭和24)年12月、2リーグ分裂を目前にしてタイガースに2軍が創設されることになり、初代二軍監督に就任した森田忠勇が渡辺の旧知であったことから勧誘され、当初は2軍要員として大阪タイガースへ入団している。プロ入りした時はすでに28歳だった。背番号「24」。1年目の1950(昭和25)年、夏場に2軍から昇格し66試合に出場しており、打率.301、44打点、11本塁打、8盗塁とオールラウンドで能力を開花させる。渡辺は8年間タイガースでプレーしたが、2年目以降の7年間は常に100試合以上に出場する中心選手として活躍した。中でも5年目の1954(昭和29)年が選手としてのピークとなり、129試合に出場して482打数170安打91打点7本塁打30盗塁、打率.353と打ちまくって打点王を獲得している。NPB史上で一桁本塁打での打点王は2024年現在渡辺が唯一の記録だ。打率も素晴らしかったが与那嶺要(読売)に一歩及ばず首位打者は逃したものの2位は立派な成績で、この年のベストナインに輝いている。またこの年優勝した中日のエース杉下茂に強く、他の選手が誰も打てなかったフォークボールを打つのを得意としていた。1955(昭和30)年も打率.313を記録し2年連続でベストナインを獲得するが、1956(昭和31)年に内野手転向。この辺りから成績が落ちていき、1957(昭和32)年のオフに金銭トレードで近鉄パールス(翌年からバファロー)へ移籍する。近鉄では2年間プレーしたが衰えは隠せず、1959(昭和34)年のシーズンを最後に38歳で現役を退いた。通算記録は1019試合3278打数896安打453打点54本塁打76盗塁306四球245三振、打率.273であり、バランスよくまとまった選手だった。1960(昭和35)年、母校同志社大学へ講師として戻り、1961(昭和36)年から1978(昭和53)年まで野球部監督を務めた。大学で指導した選手には 久野剛司(阪神~西鉄)・笹本信二(阪神~阪急~読売)・田尾安志(中日~西武~阪神)・島田芳明(中日~近鉄)・中本茂樹(ヤクルト)などがいる。 田尾の回想が残っているが、「渡辺監督は元プロの選手でしたが、僕はバッティングの技術指導を一度も受けたことがない。そこがすごいなと思うんです。『打てているバッティングが一番いいんだ。それは直す必要がない』という考え方です。」という指導者像だったようだ。 1990(平成2)年10月2日、京都市内の自宅で妻とともに縊死されており、理由は家庭内のトラブルや持病を苦にしてなどと憶測されているが真相は不明。69歳だった。河津憲一(宏紀) 内野手(再掲) 河津はすでに背番号9-3で紹介済みですが、掲載から1年以上経っていることから一部修正・加筆して再掲します。長崎県長崎商業高の3年次の4番打者で、昭和27(1952)年の選抜大会でベスト8、同年夏の選手権ではベスト4に進出している。 大会で活躍したエースの太田正男を見に来たタイガースの青木スカウトの目にとまり、昭和28(1953)年にタイガースへ入団する。もらった背番号は「34」だった。河津は180センチ74キロの当時としては大型内野手で、サードが主だがショートやセカンドも守れるユーティリティプレーヤーだった。ところが不運なことに1年目の1953(昭和28)年と言えば、同期入団には吉田義男と三宅秀史がおり、セカンドには全盛期の白坂長栄がいた。そのため河津は入団して2年間は1軍の試合に出ていない。 3年目の1955(昭和30)年、ようやく6試合に出場したが2打席無安打1三振の成績しか残せなかった。 1956(昭和31)年、ようやく69試合に出場できたものの103打数20安打11打点2本塁打で打率.194と結果を残せていない。 その後も出場機会は少なく、1957(昭和32)年は背番号を「9」に変えるがわずか28試合、1958(昭和33)年には背番号を「24」に、登録名も「宏紀」に変えて相当な覚悟で臨んだが79試合にとどまっており、スター選手になった三宅や吉田の壁は厚くなるばかりだった。 そのため1958年オフに金銭トレードで東映フライヤーズに移籍することになる。しかし東映での3年間も内野の控えであり守備要員の位置づけにとどまっている。1961(昭和36)年には22試合連続三振という不名誉な日本記録も作るなど活躍できず、同年のシーズン終了後に戦力外、自由契約となってしまう。 1962(昭和37)年は南海ホークスと契約できたが出場は31試合、翌1963(昭和38)年も37試合に終わり、限界を感じて引退した。 通算成績は421試合747打数82安打66打点14本塁打17盗塁54四球183三振、打率216だった。高井良一男(たかいらかずお) 内野手 山口県下関市出身。下関商業では全国大会の経験はないが、大型スラッガーとしての評価は高く内野はどこでも守れた。当時のカイザー田中監督もかなり将来を期待していたと言われている。 1958(昭和33)年12月にタイガース入団。背番号は河津の移籍で空いた「24」を継承する。 1年目の1959(昭和34)年は1軍公式戦1試合の出場で、1打席で1三振の記録が残っている。 2年目の1960(昭和35)年には6試合に出て8打数3安打2打点。3年目の1961(昭和36)年は5試合で4打数無安打2三振だった。 以前にも指摘したように、昭和30年代前後のタイガースは高校生の新人を積極的に入団させているが、見切りも速く、高井良も3年で見切られて交換トレードで大毎オリオンズに移籍している。 オリオンズでの1年目となった1962(昭和37)年は初めて二けたの31試合に出場し59打数13安打5打点2本塁打の成績を残す。 1963(昭和38)年には三桁の107試合に出て215打数44安打20打点5本塁打を記録して頭角を現すかに見えた。 しかし1964(昭和39)年に慶応大のスター選手だった石黒和弘が入団してきて押し出されるように出番が6試合に激減、オフに現役を退いた。 通算成績は156試合290打数60安打27打点7本塁打12四球44三振、打率207と寂しい。まとめ恥ずかしながら2代目は渡辺さんのことは全然知らなかったのよね 記録を見るとオールマイティに標準より上の力を持った選手なんだよね 大学卒業後すぐ軍に呼ばれて数年を棒に振ってるし、戦後も社会人で4年ほど過ごしてるのね もし大学から即プロ入りし戦争も無かったら きっとかなりの通算成績を残したとおもうよ ホントにもったいないよね河津さんは時期が悪かったかなあ タイガースだけじゃなく日本プロ野球史に残るような名選手3人がいた時代にガチ合うなんてね しかも内野全部が埋まってるのよ たまんないわよね 高井良さんは当時の「高卒使い捨て時代」に入った選手で 能力を出せずじまいで終わりました チャンスがもらえないのは今も昔も苦痛なのは同じよね 24の3へ続く
2024年07月17日
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背番号24(その1)背番号24の第1回目ですこの番号は球団創設2年目からつけらています というか1年目はギリギリの人数で始めていて 2年目にかなりの新人が加わったから20番台の多くは1937(昭和12)年からつけられた番号なのね「24」をつけた選手は比較的少数なんだけど それは長く着けた人がいるから タイガースでは中心選手として有名な人も着けてるし 近いところでは残念ながら若くして亡くなってしまった横田慎太郎さんも「24」だったよねタイガースではどちらかというと野手が着けることが多い背番号です では早速見ていこうか本堂保次 内野手大阪府八尾市出身。旧制日新商業(現東大阪市立日新高校)から1937(昭和12)年にタイガースへ入団し、背番号「24」を初めて背負う選手になった。 165センチ65キロという小柄な体格だったが、1958(昭和33)年まで現役を続けており、途中に戦争の影響で4年間のブランクがあるため実働は17年間だが非常に息の長い選手だった。「知の本堂」と異名を残しているが、これは相手のサインや選手の癖を見破る能力に長けており、二塁手として内野陣をリードする頭脳的なプレイヤーだったことに由来している。入団してすぐレギュラーに定着し中心選手として順風満帆だった。しかし1941(昭和15)年に軍に召集されてしまう。3年間軍務につき最後はフィリピンでマラリアに罹患して1943(昭和18)年に除隊となった。1944(昭和19)年のシーズンからタイガースに復帰するも、戦争激化のため職業野球は一時中断となった。戦争が終わって1946(昭和21)年に野球が再開されると、2年続けて100試合以上に出場し、再びレギュラー二塁手として活躍する。1947年のシーズン終了後、他のチームを経験したいと「10年選手制度」を使って太陽ロビンスに移籍して、1948(昭和23)年の1年間プレーしたが、1949(昭和24)年はタイガースに戻って、再び背番号「24」を着けてプレーし、初めて3割を記録している。左から 土井垣武 / 若林忠志 / 本堂保次 / 呉昌征しかし翌1950(昭和25)年、プロ野球の2リーグ分裂に際して若林忠志らと行動を共にし、毎日オリオンズに移籍する。このため当時のタイガースファンからは「裏切者」呼ばわりされたようだ。毎日での1年目は打率.306、自身唯一の二けたである12本塁打を記録するなど大活躍の年になった。1958(昭和33)年まで9年間をオリオンズで過ごして引退しているがこの間4年間のコーチ兼任の時期もある。走攻守三拍子そろった名選手と言えるだろう。通算成績は1374試合4754打数1242安打588打点58本塁打145盗塁413四球289三振、打率261だった。引退後も毎日に残って1962(昭和37)年まで二軍監督、1963(昭和38)年から3年間は一軍の監督を務めた。その後1974(昭和49)年には近鉄バファローズに招かれ、コーチ、二軍監督、ヘッドコーチなどを歴任したのちスカウトとしても貢献している。1997(平成9)年6月8日、79歳で亡くなっている。三輪裕章 内野手群馬県出身で桐生中学では二塁手として1939(昭和14)年から3年連続で選抜大会に出場している。軍に召集された本堂の穴を埋める形で1942(昭和17)年にタイガースに入り、本堂の不在で空いていた「24」を着ける。1年目は58試合に出場しており、これからという2年目の1943(昭和18)年のシーズン早々の5月、2試合出場したところで召集がかかってしまう。そのまま終戦を迎え、戦後はプロへは復帰せず、社会人チーム「全桐生」に入って1946(昭和21)年と1947(昭和22)年に都市対抗野球本戦に出場している。プロでの通算成績は60試合102打数12安打3打点、16四球19三振で打率は.118である。1990(平成2)年4月12日逝去。奥井成一 内野手大阪府大阪市出身で府立生野高校を卒業後、岡山の実家で家業の鉄工所を手伝いながら実業団オール玉野でショートを守っていたところをスカウトされ、1948(昭和18)年にタイガースへ入団。本堂が太陽へ移籍して空いた「24」を着けてセカンドを守り34試合に出場したがけがのため1年で引退している。成績は34試合42打数12安打3打点2四球2三振で打率,286だった。そのままタイガースに残り、1949(昭和24)年からフロント入りし、マネージャーを務めた後、球団の業務部長、管理部長、資料部長などを歴任して定年まで勤めている。その後はベースボールマガジン社の顧問を務め、松木謙治郎が著わした「大阪タイガース球団史」を加筆し、1992年版「大阪タイガース球団史1992年度版」として同社から発行している。2008(平成20)年9月11日逝去。まとめ3名の選手を紹介しました 最初の本堂さんは体格が吉田義男さんと変わらないくらいだから小柄だけどいい選手だったみたいねただし 途中で抜けたり 2リーグ分裂でパリーグへ行ったりがあって タイガースファンの評判はよろしくなかったらしいわ三輪さんと奥井さんは 今まで聞いたこともなかったんだけど 三輪さんの方は早々にプロをあきらめてる 奥井さんもケガで1年きりだったけど 球団に残って出世したね これも別の人生 別の意味の功労者です!24の2へ続く
2024年07月08日
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背番号23(その3)背番号23の第3回目です現役時代は「牛若丸」と呼ばれ 鉄壁の内野陣の中核を担う華麗な守備で観客を魅了し 打っては俊足好打のトップバッター そして3度も監督を務め1985(昭和60)年には球団初の日本シリーズ優勝に導いた吉田義男さんが着けていた番号です過去2回を読んでくれた人にはお分かりのように それまであまりいい番号という印象じゃなかったよね 吉田さんが着けたことで市民権を得てそのまま欠番になってしまったのねでも吉田さんの現役最後の年が1969(昭和44)年で「23」が永久欠番になったのが1985年だから その間の15年はどうなってたのかな?ちょっと不思議な「23」なのよなお吉田さんは先代が書いていた当時 背番号「1」で紹介済みなんだけど あまりに要約されてしまってるので この「23」で詳細にまとめなおして掲載するわね吉田義男 内野手(再掲)京都府京都市中京区出身。山城高校では2年生の夏に遊撃手として甲子園に出ており、1回戦で敗退したが阪急や中日のスカウトから高く評価されている。しかし非常に小柄であったことから見送られ高校からのプロ入りは実現しなかった。立命館大に進むと、高校時代から吉田に興味を持っていたタイガースの青木一三スカウトから熱心に口説かれ、1953(昭和28)年に中退して入団し前年で引退した丸岡の背番号「23」を受け継いだ。現役時代の公表された体格は身長165センチ・体重56キロという数字が残っており、確かにプロ選手と言うにはあまりに小さかったのは間違いない。ルーキーイヤーの1953年は吉田が20歳になったばかりだったが、当時の松木謙治郎監督は開幕からレギュラー遊撃手に抜擢する。しかし吉田は1年目から「名手」だったわけではなく38個もの失策を記録しているし2年目も30失策だった。しかし松木監督は「将来性を感じた選手は辛抱強く試合で成長させる」という信念を持っており、吉田がエラーしてしょげていると「もう一つエラーしてこい」といいながら使い続けてくれた。吉田も「最初の監督が松木さんでなければ、以後の自分はなかった」と振り返っている。1年目は128試合445打数119安打34打点2本塁打で打率.267。盗塁も22個成功させた。1年でレギュラーの座を獲得した吉田は、2年目の1954(昭和29)年には51盗塁を決めてタイトルを獲得。4年目の1956(昭和31)年にも50個で2度目の盗塁王になり、プロ入りから1966(昭和41)年まで14年連続で二桁盗塁を記録している。 小柄なためホームランは少ないが、年間0本だったのは引退年の1969(昭和44)年だけで、ルーキーから16年連続で必ず何本かは打っている。犠打も多く記録しており、4シーズンで年間リーグ最多犠打の数字が残っている。引退時における通算264犠打は当時の日本記録だった。逆に三振は非常に少なく、年間で最も多く三振した年でも2年目の1954年に記録した30個に過ぎない。17年間の現役生活で通算325三振なので平均すると1年に20個未満という少なさだ。1964(昭和39)年には179打席連続無三振という当時の日本記録を達成している。小柄な吉田に対して、投手側からはストライクゾーンが小さくかつ低くなり投げにくかったようで、特に大柄な金田正一は「吉田は天敵だ」というくらい苦手にしていた。現役17年間の通算打率が.267の吉田だが、金田に対しては.310の数字を残しており、ホームランも通算66本のうち金田から8本打っている。金田がプロ入り8年目にして初めてサヨナラホームランを打たれた相手も吉田だった。また金田は1960(昭和35)年から1965(昭和40)年の6年間、吉田から一つも三振が取れない時期もあった。本当に投げにくかったのだろう。次に吉田を象徴する守備についてみてみる。ゴールデングラブ賞がなかった吉田の現役当時は、守備の評価としてはベストナインがゴールデングラブ賞の意味合いも含んでいたわけだが、吉田は遊撃手部門で6年連続を含む9度も受賞している。長嶋と三遊間を組んでいた巨人の広岡は同い年の吉田がいたため1度しか取れなかった。その広岡が吉田の守備を次のように評価している。「自分も含めて殆どの内野手は取ってなんぼ、アウトにしてなんぼのレベルだが、吉田は『取ってアウトは当たり前、見せてなんぼ』の選手だった」。吉田の守備は「捕るが早いか投げるが早いか」と評されたように、打球に追いつくのも速いが、取ってから持ち替えて投げるまでの動作が他の選手をはるかに凌駕していた。そこには、年中グラブとボールを手放さず、たとえ食事の途中でもグラブからボールを手に取る動作を繰り返していたというほどの守備に対する執着と精進があった。吉田が最初に監督に就任した年、プロ2年目だった掛布雅之は直接守備の指導を受けているが、当時を振り返って次のような話をしている。「吉田さんも1回目の阪神の監督を務められた時は若かったので、実際に守備の動きを目の前で見せてくれたのですが、めちゃくちゃうまいんですよ。ボールがグラブに入った瞬間に右手に持ちかえていましたし、難しい当たりも簡単にさばいていました。何よりも驚いたのは、二盗を刺す時の走者へのタッチです。キャッチャーの送球を捕った瞬間に、走者にタッチしている感じでした。動きが軽やかで無駄がないんです。見ていて惚れ惚れしましたし、もう芸術品でしたね。」 現役を退いて丸5年を経過している時ですら、若手選手がまねできないほどの技術が錆びついていない。それほどの神業だったのだろう。全盛期にセカンド鎌田、サード三宅、ショート吉田が組んだ内野陣は鉄壁を誇り、「シートノックだけで銭が取れる」と言われるほど華麗かつ堅実で、目の肥えたファンをも魅了するものだった。現役晩年、藤田平が入団してきたことで、1967(昭和42)年はポジションを譲りセカンドへコンバートされて開幕から守ったが「私のセカンドは失格ですわ」と話している。吉田の守備技術はよほどショートに特化されたものだったのだろう。もう一つ特筆すべきなのは強肩だったことだろう。現役当時を間近でみた本間勝氏が語るところでは「三遊間の打球をダイビングして捕球。この状態から立ち上がって一塁へ送球。見事打者走者を刺すプレーを、ごく当たり前にやってのけた。強肩が成し得る技だが、小柄ながら肩の強さは抜群だった。そして、イージーな打球は、捕球したかと思ったらいつの間にか送球している。その早いこと。まさしくプロ中のプロ。我々投手陣には本当に心強い存在でした」と証言している。(月間タイガース2013年10月号)タイガースファンのみならずプロ野球ファンが認める名手で人気もあり、オールスターゲームの常連で13回出場している。1968(昭和43)年からコーチ兼任になり、翌1969(昭和44)年のシーズンを最後に現役を退く。17年間に及ぶ現役時代の通算成績は、2007試合6980打数1864安打434打点66本塁打498四球325三振、打率.267だった。1992(平成元)年には、プレイヤー表彰で野球殿堂入りしている。 1970(昭和45)年から村山実がプレーイングマネージャーに就任する一方で、吉田は一旦タイガースを離れる。このタイミングでの退団だったため不仲説もうわさされたが本人たちは否定している。村山監督は3年間で2位、5位、2位。そのあとを受けた金田正泰監督は2年間で2位、4位で選手に殴られるなどチーム内もばらばらになって退任。タイガースファンもフラストレーションが溜まりに溜まっていく。この状況を打開しようと球団は人気選手だった吉田に監督就任を要請する。これを受けて1975(昭和50)年から指揮をとることになり背番号は異例の「1」。尊敬するヤンキースのビリー・マーチン監督に倣ったという。吉田42歳。1年目は大きな補強もなく、外国人選手もボビー・テーラー(元中日、前年入団)とジョージ・アルトマン(元ロッテ、病気から復活1年目)の二人で大きな期待はできず、球団不審の江夏を抱えて先行き不透明だった。この年はドラフト同期で2年目の佐野仙好と掛布雅之のポジションをどうするかが課題になっており、吉田は最初、相手が右投手のときは掛布、左投手なら佐野という使い方をしていた。その後掛布のバッティングが急速に開花し始めたため、シーズン後半ではサードのレギュラーとし、佐野を外野へコンバートする方向性が決まる。このような中で手探りのシーズンは3位に終わり、そのオフにタイガースは大幅な血の入れ替えを断行していく。その筆頭は江夏豊のトレードだろう。球団は1976(昭和51)年1月19日に江夏に対しトレードを通告、江夏+望月充に対し江本孟紀+池内豊+長谷川勉+島野育夫の大型トレードが成立する。さらに新外国人選手としてハロルド・ブリーデンとマイク・ラインバックが加入。ほかに加藤博一や片岡新之介を補強するなど、フロントも2年目の吉田監督を積極的にバックアップしていたようだ。このシーズンはブリーデン40本、田淵39本、掛布27本、ラインバック22本と主力がホームランを量産し、チームシーズン最多日本記録となる193本と打ちまくったが、惜しくも2ゲーム差の2位に終わる。3年目の1977(昭和52)はブリーデンが37本、ラインバックは.325の数字を残すが故障がちであり、田淵にも衰えが見え、掛布も死球で一時戦列を離れるなど戦力がそろうことなく4位でシーズンを終え、当時史上最低勝率だった.466という成績の責任を問われて事実上解任になった。1985(昭和60)年、再び監督に就任する。第1期監督を退任後、タイガースは優勝できないままであり、3F野球を掲げた吉田はあくまで「チームの土台作り」「挑戦者」と言い続けてシーズンを戦うことになる。背番号は「81」。真弓とバースが32歳、掛布30歳、岡田27歳。いずれも中堅選手として経験を積んでおり、一番力が出る年代に当たっていたことや、ベテランの弘田や長崎、そこに若手の木戸、平田、北村などがうまく機能してバランスのいい打線が完成を迎えた状況だった。そのため新外国人投手のゲイル以外は、ほぼ現有戦力でシーズンに臨んだわけだが、投手陣が脆弱だったこともあり8月31日時点では3位、特に広島にはシーズン中に8連敗するなど相性が悪く対戦成績も拮抗しており抜きつ抜かれつが続いている。打線爆発の印象が強いが決して楽なシーズンではなかった。9月に入ってようやくチーム状態が上向き、連勝ができるようになって、あっという間に差が開いていき10月16日にリーグ優勝が決まる。日本シリーズでは当初ほとんどの選手が緊張から沈黙してしまった中で、バースが開幕から3試合連続ホームラン。 脆弱だった投手陣が踏ん張るうちに 各打者の調子も上向き、4勝2敗で日本一に輝いた。優勝直後の共同会見で連覇に向けた意気込みを聞かれた吉田監督は「私たちはあくまで挑戦者です。明日からまた来年に向けて練習していきます」と答え、隣にいた掛布から「えーっ もう明日から練習ですか?」と突っ込みを入れられて大爆笑になったのが吉田らしい。 しかし1986(昭和61)年から1987(昭和62)年への転落は激しく、米田コーチが途中退団したり掛布がケガで離脱したりと歯車が狂いだすと3位そして最下位へと転落してしまう。 優勝から2年で最下位という天国と地獄を見た当時の監督やメンバーたちで「天地会」を作ったのは、この3年間を戒めとする意味があるのだろう。3度目の監督就任は1997(平成15)年、2度目の村山監督が最下位・5位、次を受けた中村監督も最下位・最下位・2位・4位・4位・最下位、そして藤田監督が最下位、まさに暗黒時代真っただ中だった。もう誰も引き受け手のない状況であり玉砕覚悟の上での就任と言えるだろう。この第3期監督時代の背番号は「83」だった。 1年目は球団もバックアップを惜しまず、当時のレートで3億4500万円という史上最高額の年俸を奮発して「ミスター・レッドソックス」と言われたマイク・グリーンウェルを獲得しているし、2年目には元中日のアロンゾ・パウエルを獲得、さらに関川・久慈を放出してまでも打線強化のために大豊泰昭を獲得するなど大ナタを振るったが、5位・最下位に終わって辞任した。 監督としての吉田は代打専門の選手を多く成功させている。第1期監督時代は桑野議や遠井吾郎、第2期では川藤幸三、第3期では八木裕を代打で起用し選手生命を延ばしているのは特筆に値するだろう。まとめ吉田さんも書ききれないね 「ムッシュー時代」のこととか「ケチ」だったという噂とか まだまだいろんな逸話があるけどこれくらいでご勘弁を選手時代は守備の名手 体格的には小さいから人並み以上に努力したとおもうよ 捕球した瞬間いつ持ち替えたのかわからないほど素早く送球する守備は誰もまねできなかったのよ打つ方は それほど打率は高くないのよね どちらかというと進塁打を打ったりランナーを送ったりが仕事 でもなかなか三振に取れないし、出塁すると足は速いし 時にはホームランも打つし 相手からは嫌な選手だったんじゃない?吉田さんが引退した翌年の1970年以降 背番号「23」は誰も付けることがないまま15年間も「準永久欠番」みたいな状態だったのね理由はよくわかんないけど よく考えてみると吉田さんは「牛若丸」とは呼ばれても「ミスター」と呼ばれたことはないのよ この辺りがどうも引っかかるよね藤村さんや村山さんは はっきり「ミスター」って呼ばれてたからすぐ決まったんだろうけど 吉田さんの場合は球団も迷ったまま時間が経過しちゃったんじゃないかな 1985年に監督として日本一に導いたのがいい機会になり 長年の功績を加味して背番号「23」は永久欠番になりました 至極順当でいいんじゃない? 2代目はよっさん大好きよ!背番号24へ続く
2024年07月01日
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背番号23(その2)2024年6月28日のヤクルトvs阪神戦が雨天中止になったので背番号史を掲載しますね 背番号23の第2回目です 最初の呉昌征さんは戦前から戦争を挟んで戦後も活躍した数少ない選手で巨人と阪神の両方でレギュラーになってます 現役生活20年に及ぶ息の長い選手です2人目は中田金一さん すでに背番号「16」で紹介済みだけどもう一度全文を載せておきます。3人目の丸岡武さんは情報がほとんどありませんね 2年間しか在籍してないし呉 昌征(ご しょうせい) 外野手当時日本領だった台湾台南市の出身。嘉義農林学校時代には春選抜に1回、夏の選手権に4回の甲子園出場がある。初出場当時「はだしのプレイヤー」として有名になったが、実は買えなかったわけではなく、出場記念に新調したスパイクのサイズが合わず靴擦れで困ってしまい、はだしでプレーしたのが真相のようだ。1937(昭和12)年、当時の巨人監督だった藤本定義(のち阪神監督)が嘉義農林学校の監督と松山商のOBというつながりがあったため、読売へ入団することになった。小柄だが非常に俊敏な選手で、1年目の春季からセンターのレギュラーになり、打率.289、18盗塁の成績を残す。三塁打はリーグ最多の8本。選球眼もよく四球を多く選んでいる。1937年の秋季から打撃面で壁に当たり、1938(昭和13)年から1939(昭和14)年にかけて低迷期が続き出場試合が激減している。1940(昭和15)年に91試合、1941(昭和16)年も89試合に出場してようやく一人前といえる成績を挙げ、レギュラーに定着する。 そして1942(昭和17)年に打率.286、1943(昭和18)年には打率.300を記録して2年連続の首位打者に輝くまでになった。この当時は非常に反発の悪い粗悪なボールが使われており、1942年に記録した2割台での首位打者獲得はNPB史上唯一のことである。 また、1942年は40盗塁・77四球、1943年は54盗塁・84四球を記録しており、出塁率が高い上に出れば走ってチャンスを広げるリードオフマンとして大活躍。相手にしてみたら非常に厄介な選手で守備も軽快そのもの。「人間機関車」の異名で恐れられた。 1943年のシーズンが終わると、台湾へ帰郷すると申し出て退職金1500円をもらって読売を退団。ところが帰郷途中に立ち寄った大阪で、なぜか神島化学工業に就職して国内にとどまる。さらに神島化学の宮原社長がタイガースの富樫社長に紹介してトントン拍子で話が進み、タイガース入りが決まったと伝えられている。事前に話ができていた疑いもあるが真相は定かではない・・・ タイガースでは1944(昭和19)年からプレーし、戦後の1946(昭和21)年から1948(昭和23)年の3年間はいずれも100試合以上出場するセンターのレギュラーとして活躍している。 また、特に1946年は戦後の投手不足を補うため、投手としても27試合に登板しそのうち20試合に先発、181回1/3を投げて14勝6敗、防御率3.03の好成績を挙げており、投打にわたって貢献度は高い。 ところが呉は1949(昭和24)年の2リーグ分裂を機に、パリーグに移籍した若林忠志と行動を共にして毎日オリオンズへ移籍してしまう。タイガースでは在籍5シーズンを通して背番号「23」でプレーしたことになる。 毎日に移ってからも8シーズンプレーするが、そのうち4シーズンは100試合以上出ており、ケガの少ない丈夫で長持ちの選手だったようだ。 1987(昭和62)年に67歳で亡くなっているが、その功績がたたえられて特別表彰で1995年に野球殿堂入りしている。 通算成績は実働20年1700試合4867打数1326安打389打点21本塁打381盗塁818四球、打率.272だった。投手としては31試合15勝7敗66奪三振、自責点77防御率3.48の数字を残した。中田金一 捕手・内野手・外野手(再掲)中田は背番号「16」で紹介しているが 改めて全文を掲載する 大阪府の出身で日新商業時代の1938(昭和13)年には一塁手として選抜大会で甲子園に出場している。この年に捕手としてタイガースと契約し、入団当初は背番号「35」を着けた。163センチと当時としても小柄な選手。お笑い芸人のような面白さがあり、チーム内の人気者で「金ちゃん」と親しまれていた。主将や監督として時代を共にした松木謙治郎が「笑いすぎて横腹が痛くなるほどだよ」と著書に書いており、「彼は道を間違えた」とみんなから言われてからかわれたという。次の写真の一番右の眼鏡の選手が中田金一。その左の小さい人物はグラウンドボーイなので間違えないように! 1年目となる1939(昭和14)年は11試合9打数1安打1打点に終わったが、2年目の1940(昭和15)年は64試合に出場しており、157打数35安打14打点1本塁打、打率.223の数字を残す。 1941(昭和16)年は24試合と出場が減り、翌1942(昭和17)年に応召されて満洲方面へ出征。戦後も1948(昭和23)年までシベリアに抑留されて辛酸をなめた。 帰国した1948年10月に背番号「16」でタイガースに復帰したが出場は1試合のみ。1949(昭和24)年が2試合、1950(昭和25)年は背番号を「23」に変えたが4試合の出場に終わり引退している。 出場106試合211打数43安打1本塁打15打点1盗塁32三振、打率.204が通算成績である。 引退後はセリーグの審判員になった。丸岡 武 外野手 この選手の資料はほとんど見当たらない。NPBの在籍者名簿によると1950(昭和25)年から1952(昭和27)までの阪神に在籍となっている。 滋賀県彦根市出身で彦根高校卒業、左投左打ちの外野手。1950年2月にタイガースの入団テストを受けて合格し背番号「36」をもらうが、その年は1軍でのプレーはない。 1951(昭和26)年に背番号を「23」に変更し守備要員で公式戦4試合に出場する。1打数1安打というのがこの年のすべてだった。 1952年は24試合に出場、12打数2安打2盗塁3三振の数字が残っている。ここで現役を引退、その後社会人チームの日鉄二瀬に入ったという情報もあるが確認はできない。写真やプロフィールが残っているのが奇跡的である。プロフィールでは「彦根商」となっている。まとめ3名の選手を紹介しました 呉さんは有名な人 タイガースでもダイナマイト打線の一員だったよね 戦前からやってる選手の中では20年もプレーしてる人って珍しいし 運もよかったんだろうねプレースタイルは現代的な感じ 今のベースボールでならもっと活躍したんじゃないかとおもうなあ中田金ちゃんは2度目の登場 ムードメーカーって団体競技ではチームに必要なのよ 3人目の丸岡さんは奇跡的に写真が残ってる 実力はプロでやれるだけのものじゃなったようだし知名度もほとんどないんだけど タイガースの歴史に名を残し写真も残してるってすごいことかもよ さて背番号「23」は残すところ吉田義男さんだけになったね 次回は詳しくお伝えするからお楽しみに 23の2へ続く
2024年06月28日
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背番号23(その1)本日は2024年6月23日 甲子園で予定されていた横浜DeNA戦が雨天中止になったので背番号史を掲載します 背番号23の第1回目です「23」が永久欠番なのは多くのタイガースファンならご存じだよね 吉田義男さんが着けていた番号ですでも球団創設の1936(昭和11)は誰も付けてなくて 2年目の1937(昭和12)年に原一郎さんという方が着けたのが最初なの 戦前は3名の選手しかつけていないし 吉田義男さんを含めても7名しかいないんだよなので「23」はその3までになります原 一郎 捕手広島県出身。地元呉港中学時代はのちにタイガースに進む藤村冨美男とチームメイトで甲子園でも活躍している。 1934(昭和9)年は春夏ともに出場して夏には全国制覇、1935(昭和10)年夏も出場しベスト8、1936(昭和11)年には正捕手となって春夏出場している。 1937(昭和12)年、先に入団していた藤村のあとを追うようにタイガースに入団し、背番号「23」を着けたが、公式戦では1打席(凡退)しか記録に残っていない。同年の5月に大東京(ライオン)へ移籍しているからだ。 これほど早く移籍してしまった理由は不明だが、「23」の最初の選手として名を残した。 大東京では出番に恵まれ、1937年秋には20試合64打数15安打8打点1本塁打の数字が残る。 1938(昭和13)年も春秋併せて25試合に出ているが、同年に軍に召集されてそのまま戦死したとされる。ほとんど資料は残っていないが、次の写真は大東京時代の原と言われている。 通算成績は51試合148打数34安打13打点1本塁打2盗塁14四球16三振、打率.257。富松信彦 外野手兵庫県西宮市出身で実家は上甲子園にあった旅館。甲子園球場と国道43号線を挟んだ北側にあった甲陽中学の出身(旧ダイエーのあたり)。1932(昭和7)年は投手として選抜大会で甲子園の土を踏む。学校から目の前で歩いてすぐというのはどういう感覚だろう。大学は立命館に進みかなりの強打者だったという。1939(昭和14)年、タイガースへ入団し原の移籍後1年間空いていた背番号「23」を着けた。1年目は85試合に出ており240打数48安打20打点2本塁打の数字を残しているが、2年目の1940(昭和15)年は19試合36打数5安打と振るわず、この年のオフには黒鷲に移籍している。黒鷲移籍後は1941(昭和16)年79試合、1942(昭和17)年にも77試合と出場数・成績とも安定したが、1942年のシーズン途中で西鉄軍へ移籍する。1943(昭和18)年は西鉄でプレーしたが62試合187打数27安打で打率.144と低迷した。その後は戦争激化のため職業野球が中止され、そのまま終戦を迎える。戦後、職業野球が再開されると1946(昭和21)年の1年だけパシフィックに所属してプレーしたのち引退。その後社会人野球のコロムビアに入団し都市対抗野球で活躍している。最後は川崎コロムビアの監督を務めた。プロ通算では424試合1367打数251安打93打点7本塁打49盗塁、打率.186という数字を残している。渡辺誠太郎 投手・内野手 秋田県秋田市出身。土橋商業時代から投手兼一塁手として活躍し、1941(昭和16)年にタイガースへ入団し、富松の移籍で空いていた「23」を引き継いだ。公式に残る記録では身長182センチ(実際はもっと高かったとも言われる)となっており、当時としてはずば抜けた長身だった。そのため球速自体は並みだったが「ドロップ」と呼ばれた縦のカーブの落差がすごかったという。 戦前はあまり出番がなく、1941年が1試合、1942(昭和17)年が11試合1勝1敗、1943(昭和18)年が4試合0勝2敗で、その後軍に召集されて、そのまま終戦を迎えている。 戦争が終わると1946(昭和21)年にタイガースに戻り、32試合10勝12敗、防御率3.64。また戦後の選手不足から、投げない日はファーストとして48試合に出場しており、投手として出場した分も合わせて80試合250打数72安打33打点2本塁打、打率.288という打撃成績を残しているようにバッティングセンスもかなり好かった。 1947(昭和22)年は21試合で5勝4敗と成績を落とし、オフに太陽ロビンスに移籍する。 ロビンスでは1950(昭和25)年まで3年間プレーしているが、2勝、6勝、5勝と大きな戦力とはなっていない。 1951(昭和26)年には大洋ホエールズに移籍し1年間プレーする。しかし9試合で1勝0敗に終わり引退。下は大洋時代の集合写真。後列左から2人目が渡辺。 投手としては通算149試合30勝34敗158奪三振、637回で防御率3.79。 打者としては219試合449打数113安打47打点3本塁打、打率.252だった。まとめ3名の選手を紹介したんだけど やっぱり3人とも何かの形で戦争の影響を受けてしまってるね最初の原さんは戦死だし 富松さんは2年のブランク 渡辺さんは戦地で終戦を迎えてるわ みなさんもっと成績を残せたかもしれないのに時期が悪かったというしかないよね 世界中では今も紛争が絶えない 安全にスポーツを楽しめる時代は何時になったら来るんだろう 23の2へ続く
2024年06月23日
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背番号22(その6)背番号22の第6回目です今回が最終回 残すところあと4名になりました田淵さん以来 捕手の番号として定着したかに見える背番号「22」なんだけど ここにきてまた変化してきます田淵さんがタイガースを出て行って40年経つわけだし 永久欠番になったわけじゃないので「田淵」というイメージが薄れて 近年では藤川球児さんの方がイメージ強いよね球児さんについては長くなってしまうので近年の時期は簡略にさせてもらって、入団当時や頭角を現したころのことを重点にしたよ それでもやっぱ長いんだけどね喜田 剛(ごう) 内野手福岡県福岡市出身で高校は沖学園。父親は元大相撲幕下の佐田の花。少年野球時代は投手だったが高校で外野手に転向し通算32本塁打の強打者となる。福岡大に進むと捕手に転向、明治神宮大会でホームランを放つなど活躍し、大学全日本チームの4番を任される。大学4年時には再び外野手に転向している。大学通算9本塁打、打点王2回、本塁打王1回、ベストナイン3回。2001(平成13)年のドラフト会議ではタイガースが7位で指名して入団。力士だった父親譲りの体格に恵まれ、入団時の背筋力は200キロ越え、握力も70キロと並外れたパワーを秘めていた。しかし俊足ではなかったことから、すぐにファーストへコンバートされている。ドラフト下位ながら背番号「22」が与えられたのは将来性を期待されてのことだろう。ルーキーの2002(平成14)年は1軍昇格がなかったが、ウェスタンリーグでは75試合8本塁打と持ち前のパワーを見せた。2003(平成15)年は星野監督の2年目でリーグ優勝した年で1軍戦力が充実しており、わずか1試合の出場に終わっている。その試合で1打席に立ってプロ初安打を記録した。しかし翌年以降もウェスタンでは結果を出すも、なかなか1軍に呼ばれないという状況が続く。そんな中で喜田は2004(平成16)年に背番号を「55」に変えている。実際に2年目以降のウェスタンでの実績を並べてみるとこれで1軍に呼ばれないのか?と不思議に思うほど素晴らしい数字を残している。ファームでは無双の4番バッターだった。 2003年 80試合 5本50打点 .2982004年 79試合11本56打点 .2902005年 86試合21本55打点 2冠王とMVP .3032006年 82試合14本56打点 2年連続の2冠王 .270 しかしこの4年間で1軍のゲームには合計7試合にしか出ていない。1軍のファーストを見ると、2003年が桧山進次郎、2004年はジョージ・アリアス、2005年~2006年はアンディ・シーツといずれもレギュラーで打線の中核を担う選手が守っており、喜田に出番がないわけだ。ウェスタンでのタイトル獲得は、1軍に上がれなかったことの裏返しの結果なのである。 いくら何でもこれほどファームで力を発揮している選手を5年間で8試合にしか使わないという「飼い殺し」はまずいだろう。 2007(平成19)年の5月のある日、遠征先での広島カープとのウェスタンのゲーム。ファーストを守っていた喜田の耳に「キダさんキダさんカープに来て!」と何度も大声を上げている人物がいた。 スタンドを見上げると広島1軍のブラウン監督だった。このラブコールがあって1週間もしない21日、シーズン途中ではあったが喜田は山田真介との交換トレードで広島へ移籍することになる。 広島に移った年は67試合に起用され、150打数37安打12打点3本塁打を記録している。広島では221試合に出場したが、2010(平成22)年5月17日にオリックスへトレードされ、再び岡田監督と一緒になる。しかしここでもT-岡田の壁に阻まれて1軍は遠かった。同年12月には横浜ベイスターズへトレードされてしまう。 2011(平成13)年、結局横浜での出番はなく戦力外となり、12球団トライアウトを受けたが声がかからず引退した。 プロ通算では239試合409打数102安打46打点9本塁打、打率.249だった。喜田はとてつもない打者になった可能性があり、この結果にはどこか納得できないものがある。マイク・キンケード 内野手・外野手 アメリカ合衆国ミシガン州リボニア出身。1995(平成7)年にワシントン州立大学からミルウォーキー・ブルワーズへ入団している。2000(平成12)年のシドニー五輪にはアメリカ代表で出場し金メダル獲得。長打はないが広角に打てるほか、投手以外のすべてのポジションが守れるユーティリティプレイヤーとして非常に便利な選手だったようだ。岡田監督の1年目だった2004(平成16)年にタイガース入り。ホームランでも全力疾走で、ファンからは「キンちゃん走り」と呼ばれ意外な人気ものになっているが出場したのはたった26試合。打席で向かっていくタイプなのかよけるのが下手なのか、とにかくデッドボールをよくもらう選手だった。基本的にインコースにきてもよけない。故意に当たったとして死球と判定されなかったケースすらある。そもそも4月2日の巨人戦、来日初打席でいきなり上原浩治にぶつけられている。26試合で12個もの死球を記録している。これは驚異的なハイペースだった。2004年時点の日本記録は1952(昭和27)年に岩本義行が記録した24個(120試合)。2007(平成19)年にオリックスのラロッカがこれを破る28個(136試合)を樹立するが、キンケードのペースを仮に130試合に換算すると60個!になる。これは異常だ。これだけ死球をもらっては無事でいられるわけがなく、5月11日の巨人戦で左手薬指を骨折して登録抹消。8月に1軍登録されたが、復帰2試合目の守備で負傷しすぐに登録抹消され、結局そのままシーズンを終え、10月17日に退団している。タイガースでは26試合86打数20安打7打点3本塁打、打率.233という寂しい成績に終わった。 アメリカに戻るとマイナーリーグや独立リーグで2008(平成20)年までプレーして引退している。藤川球児 投手 藤川は高知県高知市出身。高知商業高校時代の2年生だった1997(平成9)年の夏、外野手兼控え投手として甲子園に出場。1回戦ではリリーフ登板し、兄順一と兄弟バッテリーを組んで6イニングを無失点に抑え勝利投手になる。続く2回戦では、優勝候補と言われた京都の平安高校のエース川口知哉と投げ合い、「球児」という名前も手伝って話題になった。試合では10三振を奪う好投を見せながらも0-5で敗退し悔しさのため大泣きしている。3年生ではエースになったが甲子園には出られなかった。 1998(平成10)年のドラフトでは、タイガースは松坂大輔(横浜高)や二岡智弘(近畿大)の獲得を目指すが難航の末に断念、戦略転換を迫られた中で急遽浮上したのが藤川だった。担当の谷本稔スカウトが強く推しており、チーフスカウトの末永正昭もこれに同調して1位指名に至っている。最初の背番号は「30」。かつてなら歴代監督が着けた偉大な番号だ。 入団時はまだ身体が細く体力的に未完成で、球速も140キロをようやく超える程度だったため、1年目の1999(平成11)年はファームでじっくり育てられる。ウェスタンですら夏場以降の3試合しか登板はなく基礎体力の強化に徹した1年だったようだ。 2年目の2000(平成12)年、野村監督が開幕1軍に抜擢し、すべて敗戦処理のリリーフで19試合に投げた。勝敗等に関係はなく、防御率も4.76だったが、22回2/3で25三振を奪っており片鱗は見せている。また藤川はこの年に高校時代から交際していた女性と結婚している。 3年目は右肩の故障により1軍登録されることはなく、ウェスタンで14試合4勝3敗、防御率3.58に終わっており、結婚したばかりでプロでの実績もなく、藤川にとって一番厳しい時期だった。4年目の2002(平成14)年、星野監督が就任したこの年に藤川は背番号を「92」に変更している。名前の「球児」に掛けたものだったが、一部では失笑を買うものでもあった。しかし高卒は4年目で結果を残さないと次の年には大卒の即戦力が入ってくる。この年に賭ける思いがあったのだろう。星野監督は中日の監督のころ自軍の2軍選手を見るためファームの試合のビデオをよく見ており、相手チームだった藤川についても「いいものを持っている」と評価していた。タイガースの監督に就任し「高卒4年目ならもう結果が必要だろう」として7月に1軍に上げる。先発して打者一巡目は三振もしっかりとれるし抑えるが、二巡目以降になると捕まるというパターンを7~8試合繰り返している。それでも星野監督は「消化試合になる前に勝たせたい」としてあきらめず、9度目の登板となった9月11日のヤクルト戦で、初回真中にソロホームランを浴びるが、8回1安打1失点でプロ初勝利を手にすることができた。星野監督に褒められウィニングボールを渡された藤川は泣いていた。ただしこの年は12試合1勝5敗に終わっている。5年目の2003(平成15)年は18年ぶりのリーグ優勝を飾った年だ。藤川は開幕1軍を逃し、登録された4月11日の巨人戦の9回7-1から2点を返された場面でリリーフし、仁志にタイムリー、後藤に同点3ランを浴びてしまう。その後も結果は出ず、5月25日のヤクルト戦でのシーズン初先発も4回4失点KOに終わってファーム行き。再登録されたのは9月14日、翌15日にタイガースは優勝を決めており、藤川は貢献することができなかった。19日の巨人戦でようやく1勝を挙げたが、結局日本シリーズも登板機会はなく、当時の藤川は「戦力外」も頭をよぎっていたという。日本シリーズが終了した日に岡田彰布の監督就任が発表され、すぐに行われた編成会議では「藤川は広島やヤクルトからトレードの打診がある」「スタミナがなく肩・肘に不安がある」という資料が岡田の目に留まる。編成サイドは戦力外・トレードを提案したようだ。しかし岡田は星野から「いいものを持っている。使い方によっては化ける」という話を伝えられており、2軍監督として見ていた目から「短いイニングならいけるやろ」というアイデアを持っていたため、フロントの提案を却下する。藤川のリリーバー、ストッパーとしての道が拓けた瞬間だった。2004(平成16)年、藤川は1軍の結縄キャンプに抜擢されるが、右肩痛を発症してリタイア。ファームに行ってリハビリしながら悩み、苦しんでいた時、二軍投手コーチに就任したばかりの山口高志が声をかける。山口は「肩が痛くなるんはフォームに問題がある」と指摘し、やや横振りだった藤川に「まっすぐ叩きつけるように投げてみろ」とアドバイスを送り、山口自身が高校時代に教わり、豪速球を生み出した自らのフォームを伝授してくれた。実際にそのフォームで投げ込んでみても肩の痛みがない。藤川は夏場まで黙々と練習を続けてフォームを固めていった。7月27日に1軍に上がると28日の中日戦のリリーフで3者連続三振。球速は元のフォームから10キロ以上も速くなり150キロを超えた。「火の玉ストレート」の誕生だった。これで1軍に定着し26試合で2勝0敗、31回を投げ35奪三振 自責点9で防御率2.61という数字を残した。2005(平成17)年、キンケードが1年で解雇されて空いた背番号「22」を受け継ぐ。藤川は「佐々木主浩さんや高津臣吾さんが付けていた番号で光栄です」と語っており、もう「田淵の番号」ではなくなった。 この年岡田監督は ウィリアムス~藤川~久保田の順を固定したため「JFK」が誕生し、順序が入れ替わっても呼び名は変わっていない。 藤川はセットアッパーとして能力をいかんなく発揮し、リーグ最多の80試合に登板して7勝1敗1セーブ46ホールド。92回1/3で132奪三振は驚異的な数字で、防御率も1.36。最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。 2006(平成18)年もセットアッパーでスタートしたが、6月に久保田が故障で離脱するとストッパーに配置転換される。38試合連続無失点、47回2/3連続無失点と日本記録を塗り替えるなど、「藤川が出てきたら点を取るのは不可能」とあきらめさせる快投を演じている。 この年の成績はすさまじく、63試合登板5勝0敗17セーブ30ホールド、79回1/3で122奪三振、自責点は6で防御率は0.68という信じられない数字を叩き出している。オールスターでは全球ストレートの予告でカブレラを三振に取るなど無敵ぶりを見せつけた。 長くなってきたのでこの辺りからは端的にしていくが、2005年の大ブレイクに始まり2012(平成24)年まで不動のストッパーとして君臨する。この8年間の防御率は2010(平成22)年の2.01以外はすべて1点台以下。2008(平成20)年は自己最高の0.67を記録しており、この年のWHIPは0.69と素晴らしい成績だった。 こうした実績を積み重ね、長年心の中で温めてきたメジャー挑戦が実現したのが2012(平成24)年オフのことだ。この年の7月に藤川は33歳を迎えることもあり、周囲からは「時期を失したのではないか。今からでは大きな活躍は期待できない」という声も聞こえたが意志はゆるがず、12月2日にシカゴ・カブスと2年契約を締結している。 カブスでは1年目の2013(平成25)年は12試合投げたところで5月にリタイア、6月にトミー・ジョン手術を受けシーズンを棒に振る。 2014(平成26)年も故障の回復が遅くほとんど故障者リスト入りしており、15試合の登板に終わりオフに自由契約となる。 2015(平成27)年はテキサス・レンジャースと契約できたが故障者リスト入りのまま開幕。5月にようやく2試合に登板するも3失点で見切りを着けられて自由契約となり帰国した。 日本に戻ると高知アイランドリーグのファイティングドッグスに入団。当初タイガースへの復帰が期待されたが、故障の状況から球団フロントが受け入れに及び腰だったと言われている。 登板機会がないままシーズンが終わり契約が満了すると、ヤクルトや中日が触手を伸ばしたため、慌てたタイガースは金本監督が直接交渉にあたって復帰にこぎつけている。藤川はふたたび背番号「22」を着けた。 2016(平成28)年、当初は先発として復帰したがうまくいかず5試合で断念。結局セットアッパーやクローザーで晩年の5年間を過ごした。 2020(令和2)年9月1日に引退会見。11月15日の巨人戦が引退試合となった。 タイガースでの通算成績は782試合60勝38敗243セーブ163ホールド、935回1/3を投げて1220奪三振、自責点216防御率2.08である。 獲得タイトルは最優秀救援投手2回(2007年、2011年) 最優秀中継ぎ投手2回(2005年、2006年) 250セーブには足りなかったが、2022年に総合的に入会条件に匹敵するという評価により特別枠で名球会入りしている。呉 昇桓(オ・スンファン)投手 藤川がメジャーへ行った後のタイガースの守護神の役目を担ったのは韓国の剛速球投手オ・スンファンだった。 スンファンもアマチュア時代は苦労している。もともと少年野球から投手だったが高校で肘を壊して外野手に転向し、大学では投手に戻ったがトミー・ジョン手術を受けて大半の期間は投げられない状態だった。 それでも素質を見込んでサムスン・ライオンズが指名しプロ入り。リハビリのために大学時代に投げていないのが幸いして肩肘は消耗しておらず、すぐに実践で結果を出している。 1年目の2005(平成17)年は61試合10勝1敗16セーブ11ホールド。99回で115三振、防御率も1.18と素晴らしく、最優秀新人賞を獲得している。2013(平成25)年までの韓国における9年間で28勝13敗277セーブ16ホールドの実績を積んだ。ストレートは常時155キロ前後で伸びがある上に重く、「石直球」と呼ばれるほど威力があった。 これほどの投手だけにメジャー志向は当然持っていたが、日本の野球を経験することでワンクッション置きたいとFA権を行使してタイガースへ移籍する。契約期間は2年だった。 2014(平成26)年、藤川が抜けた後を埋める形でストッパーを担うが、キャンプの段階で二段モーションを指摘される。右足を上げたあと下ろすときに一度つま先がチョンと地面につくのが違反投法というのである。 この問題に結論が出るまで思わぬ時間がかかって開幕が迫ってきたが、前年のWBCでも同じフォームで投げて何らの指摘もなかったということで決着がつき無事OKとなった。 この年は64試合で39セーブを挙げて最優秀救援投手。66回1/3で81奪三振も立派で、防御率は1.76だった。 2015(平成27)年になると他球団も研究し、個々のバッターもなれてきたのか被安打が3割ほど増え、逆に奪三振は2割ほど減った。そのためか防御率が2.73と悪くなっている。その代わり投球には老獪さも加わってきて前年を超える41セーブを挙げており2年連続タイトルに輝いている。 予定通り2016(平成28)にメジャー進出。セントルイスカージナルスを皮切りにトロント・ブルージェイズ、コロラド・ロッキーズに在籍。4年間で232試合16勝13敗42セーブ42ホールドという数字を残している。 2020(令和2)年、サムスンに復帰し、41歳になる2023(令和5)年までプレーして引退した。引退年にも30セーブを挙げているのはすごい。 また2021(令和3)年の東京オリンピックにも韓国代表チームの現役投手として来日している。 韓国では通算400セーブを達成。日本とアメリカの分を合わせると通算522セーブという途方もない数字を残した。まとめ今回は4人が対象で長くなってごめんね 前回までは田淵色を帯びた捕手の番号だったのが 藤川さんの成績がすごくてクローザーの番号みたいに変えちゃったね 1年だけキンちゃんが着けたのは余計だったけど・・・ 喜田さんについては先代はいまだに怒ってるよ 外国人選手やFA選手にばかり頼ってた時期で タイガースでレギュラーにできなかったのはすごく残念だったって藤川さんが付けて アメリカに行ってる間はスンファン投手 2016年が空き番になって 2017年から再び藤川さんが着けるのねそして2020年に藤川さんが引退したあとは2024年まで4年間空位となってるよ 次はだれが着けるんだろうね 田淵さんと藤川さんという2人の大物選手が着けただけに 取扱いが難しい番号になっちゃったかな?これで「22」が終わりました 読んでくれたみなさんお疲れ様次回から「23」ですが 永久欠番ってことはご存じよね 若い人で知らない人が意外に多いのよ・・・背番号23へ続く
2024年06月17日
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背番号22(その5)背番号22の第5回目です前回は田淵幸一さんだけの紹介だったよね やっぱり「3代目ミスタータイガース」とまで呼ばれた人だったからエピソードも豊富ね ホントはもっと紹介したいことはあるんだけど長くなってしまうのでカットしたことも多いのよそして今回なんだけど 大物だった田淵さんのあと 簡単に背番号を受けつぐ人はなくて1979(昭和54)年から1982(昭和57)年までの4年間は誰も付けていないのそして1983(昭和58)年 ドラフト1位で入った捕手が付けることになるんだけど 皆さん誰だかお分かりよね?木戸克彦 捕手大阪府堺市出身。中学校時代から一貫して捕手で高校は当時の強豪PL学園に進んでいる。3年時には西田真二(のち広島カープ)とバッテリーを組み春夏連続で甲子園に出場している。選抜はベスト8に終わるが、夏は最強と言われた中京高校と準決勝で当たると4点差を9回に追いついて延長12回サヨナラ。高知商との決勝でも9回2点差を逆転してサヨナラ勝ちを収めて優勝。この奇跡的勝利の連続によって「逆転のPL」と語り継がれている。 卒業後は法政大に進んでいるが、1年上には1985(昭和60)年に日本一を分かち合うことになる池田親興がいた。大学では最初外野手に転向したが、2年時には捕手に戻っており5季連続でベストナイン、最後は主将を務めるなど大学ナンバーワン捕手へ成長する。リーグ優勝3回、通算打撃成績は76試合出場で274打数84安打33打点5本塁打、打率.307。 1982(昭和57)年秋のドラフト会議でタイガースが1位指名。田淵の移籍で4年間「空位」になっていた背番号「22」が与えられる。 ルーキーとして臨んだ1983年だったが木戸はわずか8試合しか1軍での出場がなかった。背番号「22」を受け継いだ重圧、大学での輝かしい実績からのファンの過度な期待。それらに応えようとしてキャンプでのオーバーワークが逆効果になり腰を痛めてしまったからだ。 木戸は翌1984(昭和59)年も伸び悩んでいる。1軍では前年西武ライオンズから移籍してきた山川猛が114試合に出ておりほぼ正捕手で、木戸はわずか26試合28打席にしか立てなかった。 しかしシーズンが終わって安藤監督が退任し、吉田義男監督が就任すると「来シーズンは木戸を正捕手に育てる」という方針になったようだ。 1985(昭和60)年のシーズンが始まると、前年ブレイクした山川を退け開幕から木戸がマスクをかぶった。ご存じの通りリーグ優勝から日本一に駆け上がったあのシーズンだ。 木戸は優勝を争う中で急速に成長していく。103試合に出場して守備やリードが評価されてダイヤモンドグラブ(現ゴールドグラブ)賞を受賞している。また規定打席には届かなかったがホームランも生涯唯一の二けたとなる13本を記録してバッティングでも優勝に貢献した。 1985年に挙げた実績を踏み台にしてレギュラーを維持していけるかと思えたが現実は厳しく、1つしかないポジションだけに常にライバルとの争いは続き、1980年代は嶋田宗彦、1990年代になると山田勝彦や関川浩一とレギュラーの座を競い合っている。 唯一規定打席に到達したのは1988(昭和63)年で、121試合に出場して408打席に立った。351打数89安打も自己最高を記録したが、この年をピークに下降線をたどっていく。 1991(平成3)年以降は3桁の出場はなくなり、どちらかというとブルペンで若手投手の球を受けアドバイスを送ることが多い立ち位置になっていく。1992(平成4)年には不振でファーム行き寸前だった湯船敏朗を叱咤激励しノーヒットノーランを達成させている。 1996(平成8)年に現役引退。そのままチームに残り、バッテリーコーチ、ブルペンコーチ、2軍監督などを歴任した。 通算成績は965試合2192打数505安打226打点51本塁打、打率.230というもので打撃は平凡だった。それでも背番号「22」の重圧と闘いながら現役14年間を通して背負い続けたのは素晴らしいと言えるだろう。 2012(平成24)年からはフロント入りし中村GMの補佐などを務めたのち、球団本部部長(プロスカウト担当)として2024(令和6)年もチームを支えている。加治屋さんの入団にもかかわってたんだね!関川浩一 捕手・外野手(再掲)関川については背番号21-5ですでに詳しく紹介している。東京都調布市の出身。神奈川の桐蔭学園から駒澤大学を経て1991(平成3)年に入団し、6年間背番号「21」を着ける。木戸の引退した翌1997(平成9)年に背番号「22」を受け継いだが、わずか1年で中日ドラゴンズにトレードで移籍している。詳しくは背番号21-5を参照してほしい。タイガース背番号史 21-5 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)中谷仁 捕手和歌山県和歌山市出身。智辯和歌山高時代は高校生ナンバーワン捕手として全国に知られる存在になる。2年時の1996(平成8)年には春選抜大会で優勝。キャプテンとなった3年時の1997(平成9)年には夏の選手権で優勝を飾っている。 1997年秋のドラフト会議で1位指名されるが、同年の目玉は慶應大学の高橋由伸。タイガースも獲得を目指していたが、高橋が在京セリーグ(巨人またはヤクルト)を表明したことで断念し、次の候補として浮上したのが中谷だった。中谷はトレードで移籍する関川の着けていた「22」を引き継ぐわけだが、トレード相手に矢野輝明が入っていることに両親が反発する。「日本一の捕手に育てると言っておきながら、トレードで捕手を獲るのは矛盾しているのではないか?」ということで入団交渉は長引いたが無事タイガースの一員になる。1年目の1998(平成10)年はウェスタンで22試合に出場しており、翌1999(平成11)年には春先に井川慶を連続完投勝利に導いてブレイクへのきっかけを作るなど、捕手として順調に育っていくかに見えた。 ところがその1999年5月、浜辺でバーベキュー(シーズン中のこの時期にバーベキューというのも変な話だが)をしているとき、中込伸投手が投げてよこした携帯電話が左眼球を直撃し、あわや失明という重症を負ってしまう。翌2000(平成12)年にはボールを受けるのに支障がない程度まで視力は回復したものの、ウェスタンでは39試合で打率.190と打撃に影響しているように見えた。2001(平成13)年にはウェスタン64試合に出るまでになったが、打率は.171と低調だった。2002(平成14)年は背番号を「66」に変更して臨み、星野新監督のもと初めて1軍に呼ばれて17試合に出場している。8月29日の中日戦では初安打初打点を記録するが、タイガース在籍で打った唯一のヒットとなった。 2003(平成15)年から2005(平成17)年までの3年間は1軍へ上がる機会もなく、2005年オフに金銭トレードで楽天へ移籍する。楽天には2006(平成18)年から6年間在籍したが、2009(平成21)年の55試合が最高で、あとはほとんど1軍の試合には出れなかった。2011(平成23)年オフに戦力外通告を受け自由契約となったが現役続行を希望して12球団トライアウトに参加、巨人との契約にこぎつける。2012(平成24)年、巨人では5試合の出場しかないが、4月15日から8月初頭まで出場選手登録されて一軍に帯同し、若手投手の球を受けて育成の役割を務めている。2012年をもって引退、プロ通算成績は111試合173打数28安打17打点4本塁打、打率.162だった。2017(平成29)年には母校智辯和歌山にもどり、2018(平成30)年に硬式野球部監督に就任。2021(令和3)年の夏の選手権で兄弟校の奈良智弁学園との決勝戦に勝利し優勝を飾っている。高校生時代に選手として全国大会の優勝を経験し、卒業後に母校の監督として同じ大会で再び優勝した事例は8人目である。まとめ田淵さんのあとを受けた木戸さんにとって背番号「22」ってどういうものだったんだろう 4年間の空白ののちだけに余計にプレッシャーがあったんじゃないかなでもあの伝説的な優勝の年に主力メンバーの一人として活躍、貢献できたのはすごい財産だよ しかもそこで「22」を着けてたんだし 十分誇っていいとおもうな!関川さんについては背番号21-5を参照してね中谷さんはケガがすべてって感じがする もしあれが無かったら人生はどう変わってたんだろう プロで一流選手になってたら 逆に母校へ戻って高校野球の監督という道には進んでなかったかもしれないし・・やっぱり人生って流れに任せてその中で努力するしかないのかな このケガについては山村宏樹投手にも関係するから読んでない人はタイガース背番号史 21-6 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)の方も参考に見てくださいね今回の3人はすべて捕手 やっぱり田淵さんがそういう流れを作ったのねでも次の人から様子が変わっていくんだよ背番号22の6へ続く
2024年06月11日
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背番号22(その4)背番号22の第4回目です今回は田淵幸一さんの紹介です 村山さんの衰えるのと入れ替わるように「ミスター」となっていった人ねタイガース時代の田淵さんを調べてると「スター選手の辛さ」というものがなんとなくわかってくるのよ 特にタイガースという球団は関西で唯一のセリーグ所属だし 創設以来 東京の巨人に対抗する大阪のタイガースっていう構図が「伝統の一戦」なんて呼ばれ方をしてて 気の小さい選手なんかには大きなプレッシャーになって襲ってくるのよそして巨人の沢村さん 川上さん 長嶋さんというスターの系譜に対抗するかのように タイガースにも景浦さん 藤村さん 村山さんというスターがいたのよねそうした流れに巻き込まれていくのが田淵さんなの これはもうスター選手としてタイガースにいる以上避けられないこと 多分ネアカな田淵さんだったから耐えられていたんだとおもう では本文へ 長くなるけど最後まで読んでね田淵幸一 捕手・内野手・外野手東京都豊島区出身。地元の区立高田中に入って野球を始め、すぐに頭角を現す。当時は痩せてひょろひょろしていたことから、付いたあだ名が「もやし」だった。法政一高へ進学すると1年生の秋からレギュラー捕手になっているが、毎年強豪校と言われながら在学中に全国大会への出場は叶わなかった。法政大学へ進むと松永怜一監督のもと山本浩二・富田勝と共に「法政三羽烏」と呼ばれ3度のリーグ優勝を経験する。特に話題になったのはホームランで、3年時の春にそれまで長嶋茂雄が持っていた通算記録8本を早々と抜き去り、その後もどんどん記録を伸ばし続けて、最終的に22本という大記録を打ち立てた。約30年後に高橋由伸が塗り替えるまで不滅と言われた大記録だった。 この「22本」という大記録は、プロ入り後に背番号「22」を選ぶ理由の一つになったのかもしれない。ちなみに法大時代も背番号「22」を着けており、村山の「11」と同じように不思議な縁がある数字なのだろう。 田淵は大学通算97試合342打数94安打78打点22本塁打、打率.275でベストナインにも3回選出されている。 1968(昭和43)年のドラフト会議。東京生まれの東京育ちで巨人ファンということは周知の事実だったし、田淵も「在京球団」希望を表明していたためタイガースからの指名はないだろうと思っていたようだ。 しかし結果はタイガースが1位指名。当時は重複抽選のルールは無かったため即座に交渉権が確定してしまう。巨人は三角トレードを画策するなど懸命に田淵獲得に動いたがタイガースは譲らず、田淵は泣く泣くタイガースへ入団することになった。背番号は前年まで西村公一が着けていた「22」を継承する。 ルーキーイヤーの1969(昭和44)年、タイガースはスター選手の田淵にファーストを守らせたかったようだ。キャッチャーではマスクで顔が隠れてしまうからだ。実際にファーストを守ることもあったが、捕手というポジションに魅力があり自負もあった田淵はレギュラー捕手の道を選んでいる。 1年目は117試合に出場し359打数81安打56打点22本塁打、打率は.226と低かったが新人王に選出された。1年目のホームランが22本というのも、なにかこの数字に縁があったのかもしれない。滞空時間の長いきれいな放物線を描く田淵のホームランは芸術的と絶賛された。 捕手としての能力も高く、座ったままで矢のようにセカンドへ送球できる強肩を生かし盗塁阻止率.534を記録したのも素晴らしい。 しかし、2年目の1970(昭和45)年8月26日、田淵を恐ろしいアクシデントが襲った。甲子園での広島戦で投手はエースの外木場、その剛速球が左のこめかみを直撃して田淵は昏倒する。身体は痙攣し耳・鼻・口・目からまでドクドクと血が溢れ出して、周囲が「死んじゃうんじゃないか?」と思うほどの状態だったという。 大阪厚生年金病院に救急搬送され、診断は「左側頭葉脳挫傷及び頭蓋内血腫」で全治3カ月という重症だったが命に別状なく、「脳波の異常や神経障害の症状も認められない」ということで、9月18日は報道陣の前に姿を現すまでに回復している。 NPBはこの深刻な事故を受け、選手の保護のためヘルメットの耳当てを義務化する対応を取っている。 また2017(平成29)年1月の産経新聞のオンライン記事では当時を振り返る次のような田淵自身の証言が掲載されていた。「三途の川って本当にあるんだ。事実オレが渡りかけた。葦(あし)の葉がいっぱい茂ってて水は膝ぐらい。とにかく向こう岸へ行かなきゃとザブザブ歩いてるんだ。そしたら後ろの方から『たぶち〜、たぶち〜』の声が聞こえてきた。向こうへ渡らなきゃいけないのにうるさいなぁ。だんだんその声が大きくなる。うるさい、誰や!と振り返ったら意識が戻ったんだ。だから、生死をさまよっている人には、枕元で一生懸命に名前を呼ぶ。これが大事だ」 実際にそういう臨死体験をしたのかもしれないし単に夢を見てただけかもしれないが、本人が語ったということだから非常に興味深い証言だろう。 これも本人がのちに証言していることだが、死球による何らかの影響があったのか太りやすい体質に変わってしまったり、キャッチャーフライにすぐ反応できずボールを見失うことが増えたなど、振り返ってみると後遺症のようなものはあったようだ。その影響か、法政大時代は同じ三羽烏の山本浩二よりも俊足だったが、太ってくるにつれて鈍足になってしまっている。 田淵はここまで89試合で前年にあと1本と迫る21本塁打を打っていたが、残りの約40試合を棒に振ることになった。 3年目の1971(昭和46)年、死球によるケガの影響も感じさせないほどオープン戦は好調だったが、開幕前に風邪をこじらせ、急性腎炎を併発して入院する。この回復に思わぬ時間がかかり、公式戦出場にたどり着いたのは6月17日だった。最終的に80試合の出場にとどまって276打数63安打45打点18本塁打で打率.228。ケガや病気の影響に配慮して捕手としては1試合のみ、主にファーストや外野を守った。こうしてみてくると3年目までの田淵は明らかに不完全燃焼だろう。本来の素質が現実のパフォーマンスとなって開花するのは4年目の1972(昭和47)年からだと言える。この年は128試合に出場して初めて30本を超える34本塁打を放ち、打点82を記録している。それまでの3年間の合計が7個だった敬遠四球が、1年で14個となり、翌年からは24個、28個、25個と明らかに対戦相手が恐れる打者へと成長していく。 捕手としても江夏豊との「黄金バッテリー」で数々の名勝負を演出し、オールスターでは9連続奪三振を達成するなど、ONに対抗する人気を博している。 1973(昭和48)年には37本塁打90打点、巨人の王貞治を脅かす存在になってきた。 そして1974(昭和49)年、ついに40本の大台に乗せる45本塁打を記録、キングを獲得した王の49本に迫った。 1975(昭和50)年は、新規加入したマイク・ラインバックとハル・ブリーデンに挟まれる形でクリンナップを形成し猛打をふるう。全130試合に出場し、426打数129安打90打点43本塁打で、打率は自身生涯唯一の3割越え(.303)というキャリアハイで念願のホームラン王に輝いた。 しかし同年オフに江夏豊がトレードで南海ホークスへ放出されたことから球団に不信感を持つようになり、吉田義男監督ともそりが合わず、球団からは不協和音の原因のようにとらえられるようになっていく。 新しいスター選手として掛布雅之が順調に成長する中、球団フロントは田淵の放出を検討してきたが、1978(昭和53)年に後藤次男監督でリーグ最下位になったのを機に、チームを一新するため田淵のトレードを決断する。 このトレードでは、創設したばかりの西武ライオンズの根本監督がスター選手を欲したことで、交換要員に真弓昭信や若菜嘉晴という有望な若手選手を出してきたこともあり、利害が一致する形になった。 11月14日の深夜に突然の呼び出しがあり田淵はホテル阪神へ。そして日付が変わって2時半ごろロビーに現れ、涙を流しながら記者たちにやり場のない怒りをぶちまけている。「オレを西武に出すとはっきり言った。こんなタイガースだとは思わなかった。この問題が出て何日たった? その間、球団から何の説明もない」「何が西武で勉強してこいだ。なぜ、タイガースで教育できないんだ。自分たちが無能だと認めているのと同じじゃないか」「南海の広瀬は頼りないから預けられない。西本さんは1年限りだからダメ。その点、根本監督はいい監督だから君のためにもなるって。そんな言い方ってありますか? 広瀬さんや西本さんに失礼でしょう」「ボロボロになってもタイガースで骨を埋めたかった。そのためにボクは10年前に大阪へきたんですよ」 もちろん、「ミスター」とまで呼ばれ、このシーズンでは38本塁打89打点、打率.288の数字を残していた田淵の放出にファンからは強い批判もあった。しかし結果論になるが、7年後の日本一へ向けた第一歩となる重大な決断だったとも言えるだろう。 10年間のタイガース時代に田淵が打ったホームランは320本。プロ生活474本のうち3分の2を打ったことになる。 西武ライオンズに移った1979(昭和54)年は田淵が33歳を迎える年で、野球選手としてはピークを越えておりベテランの域になろうという時期だった。この年は107試合で27本塁打69打点と不本意な成績に終わっており、田淵自身にも覇気がなく、新しいチームでの立ち位置にも戸惑う状態だったようだが、2年目の1980(昭和55)年にファーストに固定されると打撃が向上し、5年ぶりに40本を超える43本塁打を記録して貢献し、チームも前年の最下位から4位へと成績を上げている。 1982(昭和57)年から広岡達郎が監督に就任すると、当初は管理野球に反発したが、田淵もチーム内での重鎮として役割を果たすようになり、日本ハムとのプレーオフを制して日本シリーズに出場、中日ドラゴンズを破って西武ライオンズになって4年目にして日本一に輝いている。 1983(昭和58)年~1984(昭和59)年は出場が100試合に至らず、本人も限界を感じて引退している。もう1年頑張っていればタイガースとの日本シリーズという舞台に立てたかもしれなかったが、この時には予想もできなかった。 それでも1983年には80試合で30本塁打を記録しているが、これは規定打席数未到達の選手による30本以上の本塁打を打った史上6人のうち唯一の日本人選手としての達成者であり、ホームランアーチストの面目躍如と言うべきだろう。 1990(平成2)年、ダイエー・ホークスの監督に招聘されるが最下位。翌年から5位、4位と順位を上げたが3年で辞任している。 2002(平成14)年、親友の星野仙一がタイガースの監督に就任すると「ブチ やるぞ!」と誘われ打撃コーチに就任。星野はトレード放出以来タイガースと縁が切れた状態の田淵を、なんとか古巣に復帰させてやりたいと常々思っていたようだ。 「Wikipedia」には「うねり打法」で浜中おさむや関本健太郎を育てたという記述もあるが 星野監督の退任と同時に2年間で退任しており、どの程度の効果があったかはわからない。少なくとも浜中と関本は全く違うタイプの打者なので同じ理論で指導していたわけではないだろう。 生涯成績は1739試合5881打数1532安打1135打点474本塁打、打率260であり、ホームランバッターとしては比較的三振は少なく1000三振に到達していない。本塁打は歴代11位だが、通算三振はNPBのホームページにある40傑にすら入っていないのである。 2020年にはエキスパート表彰で野球殿堂入りした。誰もが認める天性のアーチストであり、入団2年目のアクシデントさえなければ、少なくとも野村克也の650本に迫るくらいのホームランを打てたのではないか。そうであれば生涯をタイガースで全うできたとおもう。まとめいやはやすごい選手だったんだねえ WEB上に映像がいくつも残ってるから見てみたよ ふわーと上がった瞬間に歓声が上がるんだけど なかなか落ちてこないから一度静寂の時間があるの すべての観客が上空を見上げてる そしてスタンドに落ちてきてもう一度大歓声になるのね こんな美しいホームラン見たことないよ大谷さんのようにアッという間にスタンドインというのとは違って 時間が止まって余韻を残すようなホームラン だから芸術的って言われたのかな?実際に近くで見ていた掛布さんもどこかの談話で「田淵さんの凄さは狙ってホームランが打てること。一発で試合を決める。それが出来る打者だった」というようなことを言ってるよ江夏さんは「田淵ほど、何もしない、何も考えないでホームランを打った男を知らない。オレがいままで見た野球選手のなかで、天才と呼べるのはただ一人、田淵幸一だけや」 そして落合さんも「俺の中ではね、プロ野球何百人、何千人っている中で、ただ一人なんですよ、ホームランバッターって認めてるのは。田淵さんだけなんだよ。天性のホームランバッター。あの打球の角度といい放物線といいね、あれは人にはまねできないものだから」これらがすべてを物語っているかもしれないね 凡人がいくら練習しても打てないような独特のホームランだったのよ他に満塁ホームラン10本(歴代14位)とか サヨナラホームラン6本(歴代12位)というのもスター選手ならではの数字 田淵さんの性格や明るさについては 先代が「これが一番よくわかるよ 知らない人は読んでみな」って言ってるよ 2代目も読んでみよう 下は映画版のポスターね背番号22の5へ続く
2024年06月03日
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背番号22(その3)背番号22の第3回目です今回は昭和30年代半ばから40年代半ばまでのあいだに背番号「22」を着けた3選手を紹介するけど たぶん3人ともあまり知られていない選手だとおもう「22」を着けた期間もそれぞれ3年 2年 2年だから 当時リアルタイムで見てた人であってもほとんど印象がないんじゃないかな ただし谷本さんはスカウトとして有名なんだよ室山皓之助(こうのすけ) 外野手岡山県出身で高校は倉敷工業。1957(昭和32)年の選抜大会にセンターとして出場しベスト4。卒業後は法政大学に進む。東京6大学リーグでは4度の優勝を経験。1960(昭和35)年春季では首位打者になっている。また同年の大学選手権でも優勝している。1960年春から1961(昭和36)年春にかけて3季連続でベストナインにも選ばれた。リーグ戦には通算68試合に出場し、232打数69安打26打点2本塁打、打率.297の成績だった。 1962(昭和37)年にタイガースへ入団。実際は阪神電鉄に入社しタイガースへ出向という形をとっており、ドラフト制度以前のタイガースでは大卒の選手を獲得する場合はこのパターンでの入団が多く村山実なども同様だった。背番号は「22」で入団から3年間着け、その後の2年間は「28」に変えている。右投げ右打ちの好打者としてキャンプで認められ、開幕から1軍で起用されて52試合に出場していたが、8月15日の大洋ホエールズ戦で近藤昭仁のフライを追っている最中にアキレス腱切断というアクシデントに見舞われる。1年目は97打数17安打5打点2本塁打、打率.175の成績のところでリタイアを余儀なくされた。 それでも翌1963(昭和38)年には復帰して自己最高の81試合に出場しており、スタメン3番を担うこともあった。打撃成績も153打数32安打45打点3本塁打で、打率.209と向上している。 しかし、当時のタイガースの外野陣にはソロムコ、並木、藤井と好選手がそろっていたため、その牙城は固く、レギュラーの道は開けなかった。 そして1964(昭和39)年はわずか4試合の出場に終わっており、背番号を「28」に変えて臨んだ1965(昭和40)年には再びアキレス腱を切断してしまう。 1966(昭和41)年、またも復活はしたが19試合出場にとどまって現役をあきらめ引退している。通算では182試合303打数59安打17打点5本塁打67三振、打率.195の成績しか残せなかった。 1967(昭和42)年、引退後は電鉄社員に戻り、ホテル阪神に勤務したのち、1979(昭和54)年から今度はタイガースフロント入りし、日本一になった1985(昭和60)には吉田監督付き広報という立場だった。谷本 稔 捕手愛媛県八幡浜市出身で高校は八幡浜高校。高校1年時の1952(昭和27)年に父親を亡くして母子家庭となって経済的に厳しい時代を過ごす中でプロ野球入りを意識することになったと言う。 八幡浜高校の野球部監督だった徳田節次郎が、当時大映スターズの監督だった藤本定義の実兄である縁で、1955(昭和30)年に大映に入団している。 大映には1957(昭和32)年まで準レギュラー級の捕手として在籍したが、球団合併によって1958年からは大毎オリオンズの選手となる。 オリオンズでは7年間プレーし、そのうち4シーズンで100試合以上の出場実績があり、安定して2割7分程度の打率も残し、ほぼレギュラー級捕手として定着していた。大毎オリオンズ時代 右が谷本 左はエースの小野正一 しかし1964(昭和39)年は88試合の出場にとどまり、それまで8年連続で記録していた本塁打も0となって醍醐猛夫にポジションを奪われてしまう。 1965(昭和40)年、大映時代の監督だった藤本定義が監督を務めているタイガースへ牧勝彦とのトレードにより移籍し、室山から譲られた背番号「22」を着けた。 3年間プレーしているが、1967(昭和41)年からブルペンコーチ兼任になって背番号も「53」となり、同年に引退している。 プロ通算成績は1099試合2759打数708安打360打点46本塁打236三振、打率.257。 引退後も1974(昭和49)年まで2軍バッテリーコーチとして残り、1979(昭和54)年から1981(昭和56)年まで1軍バッテリーコーチ、1982(昭和57)年は2軍監督を務めた。 その後はフロント入りしてスカウトとして敏腕をふるい、嶋田兄弟や藤川球児を入団させている。特に藤川は線が細くまだ球速も出なかったため「1位でとるほどの投手じゃない」という声があったが谷本の強い推しで1位指名となっている。想像だが、のちに藤川が「22」を着けたのは谷本の着けていた番号だったからかもしれない。(藤川は2005年から7年間、2009年のWBC、メジャーから戻った2017年から4年間と3度の機会で「22」を着けている)西村公一 内野手・外野手 (再掲) すでに背番号8-3で紹介しているが、最初に着けた番号が「22」であるため少し詳しく再掲する山梨県大月市の出身。高校は地元の甲府工業で1966(昭和41)年の夏の選手権で甲子園を経験し、ベスト8になっている。 1955(昭和30)年にタイガースへ入団していきなり22勝で新人王に輝いた西村一孔(背番号「20」で紹介済)は実兄である。1966年の二次ドラフト1位でタイガースに入団し2年間「22」を着けるが田淵幸一に譲り、その後「8」→「43」と変えている。兄の一孔は1960(昭和35)年に引退しており同時に在籍していた期間はない。 ルーキーだった1967(昭和42)年は10試合で10打席に立ったがノーヒットで4三振に終わっている。 翌1968(昭和43)年が16試合、1969(昭和44)年が23試合、1970(昭和45)年も12試合と出場機会は増えない。 1971(昭和46)年にようやく52試合に出場、打数も101と三桁になったが打率は,168。入団以来、公式戦の打率が2割に届いたことがない。 1972(昭和47)はファームでは本塁打王になったが1軍のゲームに5試合しか出場できず、翌1973(昭和48)年は公式戦出場が0となって自身の限界を感じ引退した。 同僚の江夏豊によると、「試合に出たくて骨折していても隠してプレーしていた」というほど根性のある選手だったようで、内外野どこでも守ったのも試合に出たいがためだった。しかし選手としてプロのレベルにはついていけなかったようだ。 通算118試合170打数26安打7打点2本塁打61三振、打率.153という数字が残る。引退後はプロゴルファーに転身した。まとめ今回はの3人は背番号「22」を着けた期間が短い人ばかりだったね 選手としての知名度はというと 谷本さんはパリーグでかなり活躍してるようだけど 他の2人はちょっとわかんないだろうねタイガースでの谷本さんはスカウト時代が一番有名みたい とくに藤川球児投手を1位指名した功績が大きいわよね 室山さんは2度もアキレス腱切ってしまってはさすがに断念だったよね 2度とも復帰はしてるから努力家だったんだろうねさて次回はいよいよ3代目ミスターと言われる田淵幸一さんの登場だよ!この人はエピソード盛沢山すぎて単独掲載になるよ背番号22の4へ続く
2024年05月28日
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背番号22(その2)背番号22の第2回目です今回は昭和20年代半ばから30年代半ばまでのあいだに背番号「22」を着けた3選手を紹介するよ すでに3人ともお亡くなりになってます3人の中にはタイガース史で絶対外せない大物2人がふくまれてます 一人目はダイナマイト打線の一員として活躍し監督も2回就任したことがある後藤次男さん後藤さんは背番号「8」や「12」で掲載済みで3度目の登場になるわね でも皆さんによく知ってもらいたいのでコピペでわるいけど再々掲載しました 読んでね次の田宮謙次郎さんも背番号「6」で紹介済み でもこの人も大物だからコピペで再掲載します もう一度「28」でも登場するんだけどね3人目は初登場の人ね この人はよほどのタイガース研究家でないとわかんないとおもう 2代目もまったく知らなかったよ後藤次男 外野手(再々掲)山口が退団したあと背番号8は後藤次男が引き継いでいる。ダイナマイト打線の一翼を担い、のちにタイガースの監督も務めた愛称「くまさん」だ。熊本工業時代に3度の甲子園を経験、選抜ベスト4の実績がある。卒業後は法政大学に進学し4番打者として活躍した。大学の先輩である若林忠志監督の誘いで昭和23(1948)年に大阪タイガースに入団。ルーキーの年と翌年の2年間は背番号「8」。1950(昭和25)年から2年間が背番号「22」。その後1952(昭和27)年から引退する1957(昭和32)年までは「12」を着けた。ルーキーイヤーの1948年、後藤はセカンドで全140試合に出場している。511打数129安打36打点5本塁打で打率.252というまずまずの成績を残しているし、俊足を生かした27盗塁も光った。後藤は好きOBとしてチームにかかわり続けた2年目の1949(昭和24)年から3年間は、10本、15本、13本と二けた本塁打を記録、入団時から5年連続100安打、2年目から4年連続3割以上も記録しており、ダイナマイト打線の一員として活躍しているが、記録を見る限り強打者というより巧打者の印象だ。また、2リーグに分裂した1950(昭和25)年には多くの選手がパリーグに移る中、タイガースに残った。しかし、1953(昭和28)年、まだ29歳だったが、鎖骨を折る大けがを負い、完治しないまま試合に出たため何度も折れて手術を受ける。この無理が祟って、翌1954(昭和29)年は試合に出ることができなかった。ケガの影響は深刻で、1955(昭和30)年以降も影響を残しており ケガをする前のようなプレーができなくなる。出場試合数も毎年100試合未満になってしまった。通算成績は949試合3260打数923安打355打点51本塁打113盗塁160三振で、打率.283は立派だ。 ダイナマイト打線 左から2人目が後藤1957(昭和32)年に限界を感じて現役引退。翌年からは一軍打撃コーチ~二軍監督~一軍ヘッドコーチを経て1969(昭和44)年に一軍監督に就任している。一軍打撃コーチ時代は藤本勝巳、遠井吾郎、藤田平などを指導し成長させた功績がある。 1968昭和43)年をもって7年間監督を務めていた藤本定義が退任し、次期監督が決まらないままタイガースは秋季キャプに入る。11月19日、当人不在のまま阪神電鉄本社で記者会見が開かれ、ヘッドコーチ後藤の監督昇格が発表された。簡単に後任監督の調整ができない状況で時間は経過していくばかり。やむを得ず後藤に白羽の矢が立ってしまったというのが実情らしい。 1969(昭和44)年のシーズンは、江夏豊が成長期にあり、後藤の母校法政大から田淵幸一が入団、前年好結果を残したウィリー・カークランドを4番に据えて5月までは首位を走った。しかし6月に入って打線が湿りだし巨人に抜かれると、ジリジリと差を広げられていき、6.5ゲーム差の2位に終わっている。 後藤は「自分はあくまで繋ぎの監督」と認識していた。翌1970(昭和45)年には村山実が現役監督に就任することで1年で交代している。 1978(昭和53)年には、史上最低勝率を記録した吉田監督が退任。選手と首脳陣もギクシャクした状態で監督の引き受け手がない中で2度目の監督として引っ張り出された。 就任の会見ではチームのキャッチフレーズを聞かれ「みんな仲良くボチボチと」、目指す野球はの問いには「お祭り野球」と答え、これにはさすがのタイガースファンも拍子抜けとなった。 安芸キャンプで新旧主砲に囲まれて シーズンに入ると選手にやる気は見られず、後藤監督も注文をつけないというダラダラ野球が展開されるなか、ブリーデン、ラインバック、掛布など主力の故障も相次ぎ最下位を独走することになる。 前年、吉田監督は4位で勝率.466だったが、これがタイガースの史上最低勝率だったことで退任している。しかし、後藤監督はこれを1年で大きく更新し、41勝80敗9分の.339という悲惨な勝率で終わり1年で退任させられており、まさに「貧乏くじ」だった。 ちなみに後藤は、引退翌年の1958(昭和33)年のコーチ就任の年は現役最後の「12」のまま、1959(昭和34)年は「60」、1966(昭和41)年から第1期監督も含め4年間が「55」、第2期監督時代は「71」を着けた。 入団からタイガース一筋。いつも後輩の選手を見つめる視線は暖かかった。過渡期には汚れ役と分かっていてもタイガースへの思いから監督を引き受けるなど「タイガース愛」にあふれた人で誰からも愛されていた。その功績は大きくタイガース史に刻まれている。2016(平成28)年、92歳で逝去されている。田宮謙次郎 投手・外野手(再掲) 田宮は茨城県下館高校から日大を経て1949(昭和24)年に大阪タイガースへ入団している。中学時代は柔道に熱心で足腰が鍛えられており、高校に入ると真剣に野球に取り組むようになって投手として目を引く存在になる。日大に入ると左投げ左打ちで投手と外野手を兼任し、打っては首位打者を獲得、投げてはノーヒットノーランも達成した万能選手だった。本当に戦前から戦後のこの時期は二刀流が多い。田宮の能力を高く評価したタイガースは、大学を中退してのプロ入りを熱心に勧めた結果、田宮も決断し獲得に成功している。 タイガースでの1年目の背番号は「28」。翌年の1950(昭和25)年から2年間が「6」、1952(昭和27)年から1958(昭和33)年には「22」を着けている。 1年目の田宮は投手として34試合に登板しており、11勝7敗159回2/3を投げて防御率4.56という成績だった。ほかに野手として6試合に出ており、登板した試合を含め打撃成績は66打数12安打6打点1本塁打、打率.182である。 その後プロ入り4年目までは投手を続けたが肩を痛めていたため、1950(昭和25)年が1勝2敗、1951(昭和26)年は0勝1敗、1952(昭和27)年も0勝2敗に終わって投手を断念し、松木監督の奨めでシーズン途中から外野手に転向することになった。この1952年の打撃成績は94試合190打数47安打34打点7本塁打で打率.247だったが、野手としてやっていける足掛かりになった。 写真は左から大津淳、吉田義男、田宮謙次郎 1954(昭和29)年、125試合に出場して初めて3割を打ち、実力が開花する。この年を含めて1958(昭和33)年までの5年間はセンターのレギュラーとして活躍、そのうち4シーズンで3割を越えている。タイガースでの最後の年となる1958年には打率.320で、タイガースでは戦後初の首位打者に輝いた。 ホームランはシーズン最高でも12本という中距離打者だったが、確実にミートする技術があり、二塁打や三塁打が多い。首位打者になった年は勝負を嫌がられ、リーグ最多の20回も敬遠で歩かされている。また当時のタイガースでは吉田義男に次ぐ俊足で、1953(昭和28)年を皮切りに8シーズン連続二けた盗塁を記録しており、その中でも1957(昭和32)年には自己最多の37盗塁を決めている。全くタイプは違っていたが藤村引退のあと4年間4番打者を担った。藤村という長距離打者の代わりがいなかったためであり、本来なら1番や3番に適していた打者だろう。左から小山正明、田宮謙次郎、江藤慎一昭和33年オフ、A級10年選手制度の「ボーナス受給権」を行使しようとしたが金額的に球団と折り合わず決裂すると、やむなく「自由移籍権」を行使して大毎オリオンズへ移籍する道を選んだ。オリオンズでは5年間プレーしたが すべて130試合前後に出場しており、そのうち3シーズンで打率3割を記録。好打者ぶりは健在だった。現役最後となった1963(昭和38)年も132試合に出場して103安打で打率.278の成績を残したが、本堂監督の起用法によってスタメン出場が減り規定打席に届かなかったことを不満としてきっぱり現役引退している。 通算成績は1488試合4807打数1427安打597打点106本塁打190盗塁416四球467三振、打率.297であり、特にレギュラーになった1954年から引退までの10シーズンのうち7シーズンで3割をマークしている。走攻守そろった一流の選手だった。引退後、1988(昭和63)年には第2期村山実監督の1年目にヘッドコーチに就任してタイガースに復帰したが、シーズン中に村山監督と意見が合わなくなり6月に退任し、そのままフロント入りした。OB会長を18年間つとめ、監督や指導者に厳しい意見を言いながら、選手たちを応援していた。2002(平成14)年には野球殿堂入りしている。2010(平成22)年5月5日、82歳で逝去。古川啓三 捕手岡山県倉敷市出身。倉敷老松高校に進むが全国大会出場の経験はない。卒業後は法政大学へ進学する。目立った成績はないが、東京6大学リーグのベストナインに一度選ばれたことがある。その後社会人の川崎コロムビアに進み、1957(昭和32)年~1958(昭和33)年の2年連続で都市対抗本線に出場して捕手としての評価が高まった。1959(昭和34)年にタイガースへ入団し、オリオンズへ移籍した田宮が着けていた背番号「22」を継承。 即戦力捕手として期待された1年目は14試合14打数4安打、打率.286と冴えず、2年目の1960(昭和35)年は出場わずか4試合になって一軍戦力とは程遠い存在になる。 3年目の1961(昭和36)年も10試合14打数4安打に終わって現役を続けることができないと引退する。 1962(昭和37)年は肩書こそ「1軍ピッチングコーチ」だったが、ひたすらピッチャーのボールを受け、その調子を監督に報告するブルペン捕手の役目を担う。 1963(昭和38)年から1966(昭和41)年までは2軍のバッテリーコーチの肩書で事実上ブルペン捕手を務めていたが、これにも体力の限界を感じて辞職している。 1984年10月6日、54歳の若さで亡くなった。まとめ後藤さんや田宮さんはオールドファン(80歳以上かな)には忘れられない選手なのよ 実際にタイガース史を語るときには必ず登場する人物ね逆に古川さんは歴史に埋もれた選手という感じかなあ おなじプロの飯を食ったと言っても 大スターもいれば1度も公式戦に出ないうちに引退する人もあるわけよ古川さんは明らかにプロとしては力不足だったようね でも試合に出たことがあるだけでもましなのかもしれないよ 写真は見つからなかったなあ背番号22の3へ続く
2024年05月21日
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背番号22(その1)みなさんこんにちは 背番号史忘れてないよね? 前回が5月6日だったからちょうど1週間たっちゃいました 試合がある日以外でも書きたいことが飛び入りであったりしてなかなか進まないけど 週1回のペースは守っていきたいなとおもってます 忘れずに見に来てね 背番号22の第1回目です 「22」は球団創設の1936(昭和11)年は誰も着けてないのね 設立2年目から塚本博睦さんという方が着けたのが始まり第1回目は塚本さんから始まって2リーグ分裂直前の1949(昭和24)年までにこの番号を着けた4名の選手を紹介するね塚本博睦(ひろよし)外野手(再掲)すでに背番号「21」で登場しているがあらためて掲載する。広島県呉市出身。地元呉港中学時代はのちに職業野球に進む藤村冨美男(大阪)、や原一朗(大阪)、田川豊(南海・太陽・近鉄・大映)などとチームメイトで甲子園でも活躍した。1934(昭和9)年の夏には全国制覇、1935(昭和10)年夏も出場しベスト8になっている。 1936(昭和11)年、立教大学へ進学したが、先にタイガース入りしていた藤村から誘われ、年末に大学を中退して大阪タイガースに入団し、タイガースで初めて背番号「22」を着ける。 公式戦には1937(昭和12)年から出場しているが、同年春が12試合、秋は6試合、翌1938(昭和13)年も春に11試合、秋にも15試合で、主に代打や守備固めにとどまっている。 しかも20歳になったばかりの1938年末に陸軍に召集されて3年間中国北部で軍務についており大きなブランクとなった。 軍務を終え除隊となって復帰した1942(昭和17)年はレギュラー外野手として94試合に出場、309打数66安打20打点1本塁打で打率.214を記録、盗塁も20個決めている。 1943(昭和18)年は81試合、1944(昭和19)年に31試合に出たところで、戦争激化のため職業野球が中断となる。なお、1944年から背番号を「21」に変えて退団するまで着けた。 戦争が終わり1946(昭和21)年のシーズンから元の背番号「22」で復帰。1947(昭和22)年には106試合347打数104安打34打点17盗塁でリーグ第4位の打率.300を記録、中心選手として活躍する。 しかし、年俸など金銭面での待遇に不満を持っていたため、1947年暮れに退団してしまい、阪急ブレーブスへ移籍し、以後は毎年のように球団を渡り歩くことになる。 1948(昭和23)阪急で135試合に出場、139安打を放ち39盗塁を記録するが1年で退団。 1949(昭和24)年は東急フライヤーズで113試合に出場。122安打で盗塁も24個を記録するが1年で退団。 1950(昭和25)年、2リーグ制になると西日本パイレーツ、1951(昭和26)年には西鉄ライオンズ、1952(昭和27)年に広島カープに移ってプレーし、同年に引退している。なんともあわただしい選手生活だった。 引退後は社会人チームの監督を経て、1960(昭和35)年にタイガースに戻って2年間2軍監督兼打撃コーチを務めている。 通算成績は実働12年885試合2824打数712安打219打点17本塁打170盗塁229三振で打率252。典型的な俊足の中距離ヒッターで2番を打つことが多かった。森下 博 投手愛知県出身で東邦商業(現東邦高校)時代の1940(昭和15)年に選抜大会に出場しベスト8の経験がある。森下に関しての情報は極端に少なく、戦争中にどうしていたかもよくわからない。戦争が終わって職業野球が再開されたが、戦地から復員していない選手が多く、各チームが選手不足で困っていた1946(昭和21)年の6月、貴重なサウスポーとしてタイガースへ入団し、背番号「22」を着けている。この年、公式戦に3試合登板し投球回数6回、被安打6、与四球7、奪三振0、自責点7、防御率10.50というのが残っている数字のすべてだ。1年で退団しており、その後社会人の今泉産業や富久山日東紡でプレーしていたという情報は確認できるが詳細はわからない。当然ながら写真等の資料も一切見つからない。長原 孝浩 投手 広島県出身で呉港中学。1947(昭和22)年に読売ジャイアンツへ入団しているが、登板は1試合のみ。2/3を投げただけで打者5人に対し3四球、暴投1の記録が残る。なぜか失点・自責点とも0。1年で自由契約。 翌1948年はタイガースに入団、森下の退団のあと1年間空き番だった「22」を着けた。 タイガースでは2試合に登板、2回2/3で打者16人に対し被安打2、6四球、奪三振3、暴投1、失点・自責点4、防御率9.00という数字のみが残っている。 その後はタイガースでバッティング投手を務めたらしいが、詳細な情報は皆無である。江藤 正(晴康) 投手 福岡県八幡中学(現八幡高校)の出身で法政大学に進む。右投げ本格派の投手で活躍しているが学徒出陣で軍に召集され、台湾で終戦。 終戦後は社会人野球の門司鉄道管理局や大洋漁業で投げていたが、1949(昭和24)年に大阪タイガースと南海ホークスとの間で獲得合戦が起こり、4月2日、タイガースはすでに南海ホークスと仮契約を済ませていた江藤と強引に契約書を交わし二重契約問題が勃発してしまう。これを知った南海は江藤の身柄を確保し潜伏させる対抗措置をとる。 タイガースは「1949年だけはタイガース所属でプレーし、翌年ホークスに譲る」という妥協案を提示したがホークスは拒否して連盟に提訴した。 結局連盟の裁定は、「一度タイガースへ形式的に入団した形をとり、即時ホークスへトレード」というものだったが、この二重契約の当事者である江藤には1年間の出場停止のペナルティがつき、1949年はまったく試合に出られないという厳しいものとなった。 ということで江藤は背番号「22」の選手として一瞬だけタイガースに在籍したことになる。まったく試合にも出ていないがタイガースの在籍名簿に残ることになった。 江藤は1950(昭和25)年から南海で4年、1954(昭和29)年には高橋ユニオンズに移って1年、1955(昭和30)年は東映フライヤーズに1年在籍したのち引退しているから短命な選手だった。しかし、南海在籍中の1951(昭和26)年には45試合25勝5敗、268回2/3を投げて奪三振100、自責点68、防御率2,28という成績を残し、最多勝のタイトルを取っている。まとめ初期のころはいろいろあったんだね塚本さんは戦争に3年も行ってるけど戦前戦後それぞれである程度の数字も残せたのはまだ恵まれていたのかもしれないね めまぐるしく移籍を繰り返してるのは本人の意思だったのかしら?森下さんなんて記録に数字が残ってなかったら誰も覚えていないかもしれないよ長原さんはプロ野球現役2年で3試合の実績しかないのに 巨人と阪神に在籍した記録を持ってるなんて他に聞いたことのない珍事じゃない?それぞれの球団で公式戦出てるし江藤さんは2リーグ分裂前後のどろどろとした大人の争いに巻き込まれちゃった感じよね それにリーグの裁定は江川さんのときとなんとなく似てるね ペナルティは江藤さんのほうが重いなあ 江藤さんのケースはタイガースが強引すぎるとおもう 2リーグ制になって球団が増えたから人材不足なのはわかるけど 昔は汚いことやってたんだ背番号22の2へ続く
2024年05月13日
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背番号21(その7)背番号21の第7回目です 5月6日の広島戦が雨天中止になったの久しぶりに背番号史を挿入しますね 「21番」も残すところ3人となって今回が最終回 登場する3人はみんな投手よ それぞれ活躍したピークの時期があって それなりに貢献した選手たちです前回のクリーク投手以来5人続けて投手がつけてるから 最近では背番号「21」は投手の番号として認識されるようになってるねでは最後の3人を見ていきましょう 今回はちょっと長くなるよ お付き合いのほど!吉野 誠 投手埼玉県さいたま市出身のサウスポー。大宮東高時代は県内有力とみなされながら甲子園出場はできなかった。卒業後日本大学へ進学すると2年にはエースとなり、東都大学野球1部昇格の原動力になる。1部リーグに上がってからは38試合14勝15敗192奪三振で防御率2.24を記録している。1999(平成11)年のドラフト会議ではタイガースの2位指名を受けて入団、背番号「21」の継承者となる。 ルーキーイヤーの2000(平成12)年は、当時の野村監督がほぼ中継ぎ専門で34試合に起用しており、0勝4敗、防御率3.99の成績だった。ところが翌2001(平成13)年は15試合に終わって投球回数も半減、防御率も4.12と成績を落としている。 2002(平成14)年、星野仙一が監督に就任し、佐藤義則がピッチングコーチとなって転機が訪れる。高校時代からオーバーハンドで通してきたが、これという特徴もなく、このままではプロとして厳しいと判断され、サイドスローへ転向したのが吉と出る。 この年は35試合すべてリリーフに起用されて27回を投げ奪三振33、防御率は1.33と飛躍的に成績が伸びた。投球回数が登板試合数を下回っていることが示す通り、左打者へのワンポイント起用でも結果を出している。奪三振も初めて投球回数を上回った。 続く2003(平成15)年はリーグ優勝した年で、吉野はすべてリリーフでチーム最多となる56試合に登板し貢献している。日本シリーズは惜しくも3勝4敗でダイエー・ホークスに敗れたが、吉野らしい使われ方をされ、しっかり期待に応えた。全7戦のうち6試合に登板し次の成績を残している。第2戦 1回 12球 打者4人 被安打0 1四球 1奪三振 失点0第3戦 3回 36球 打者9人 被安打1 3奪三振 失点0第4戦 1/3回 3球 打者1人 被安打0 失点0第5戦 1/3回 6球 打者2人 被安打1 1奪三振 失点0第6戦 1回1/3 16球 打者5人 被安打1 失点0第7戦 1回1/3 16球 打者5人 被安打1 失点0 ロングリリーフあり、ワンポイントあり、イニング跨ぎありと、あらゆるリリーフ形態で使われ6試合で無失点、第3戦では勝利投手になっている。しかし大車輪の活躍は疲労を残し、次のシーズンにも影響していく。 2004(平成16)年は岡田彰布が監督に就任、4月7日の横浜ベイスターズ2回戦で悲劇が起こった。試合のスコアは次の通り。阪神 000 000 000 0 横浜 011 232 08X 17 この試合の8回に登板したのが吉野で、スコアは0-9とうこともあり敗戦処理の意味もあるが、この回がおそらく横浜最後の攻撃となることから調整登板だったと考えられる。 ところが吉野が打たれだして止まらない。1イニング打者14人に対し被安打9で8失点、1イニングに投じた64球は今もプロ野球記録だ。監督は大敗濃厚の試合の8回を吉野でさっさと終わらせるつもりでマウンドに送ったが、ポカスカ打たれ続けて代え時を失い、結果的に「晒しもの」にしてしまった。この試合は吉野にとって相当なトラウマになったかもしれないし、岡田監督への不信感が生まれたかもしれない。この年は23試合の登板に終わり、防御率は16.76と桁違いの不振に終わった。 以後、2005(平成17)年が12試合、2006(平成18)年は背番号「21」をルーキーの岩田稔に譲って「47」に変わり8試合、2007(平成19)年は7試合と低迷を続け、浜中おさむとともにオリックスへ放出されてしまった。オリックスでは1年目の2008(平成20)年に43試合の登板したもののその後2年間は低迷。ところが2010(平成22)年に就任した岡田監督のもと、2011(平成23)年に復活を遂げ、50試合に登板し防御率1.19というプロ入り以来最高の投球を見せた。その翌年も40試合に投げて貢献したが、2013(平成25)年は開幕戦のリリーフに失敗して2軍暮らしとなり、シーズン途中の7月にソフトバンクホークスへトレードされる。ホークスでも登板機会はなくシーズン終了後戦力外となって引退した。通算成績は340試合4勝11敗1セーブ26ホールド 250回2/3を投げて奪三振197、自責点109、防御率3.97である。岩田 稔 投手岩田は大阪府守口市の出身で大阪桐蔭高校へ進んでいる。高校2年生の冬に1型糖尿病を発症、病気を理由に社会人野球部への内定を取り消されるという仕打ちを受け関西大学へ進学する。病気と闘いながら野球を続け、大学通算23試合6勝10敗143奪三振、防御率2.11の成績を残した。迎えた2005(平成17)年のドラフト会議では当時タイガースのスカウトを務めていた山口高志の強い推しで「希望入団枠」によりタイガースへの入団が実現したものの、1年目の2006(平成18)年が1試合0勝1敗、2年目の2007(平成19)年が4試合0勝1敗と壁に当たる。 2008(平成20)年、岡田監督が先発ローテーションに組み込んで辛抱強く起用すると、27試合10勝10敗、防御率3.28と覚醒する。しかしながら病気を持ちながらの選手生活は厳しいものがあり、以後二けた勝つことはできなかった。それでも2009(平成21)年から引退する2021(令和3)年までの13年間で168試合に登板しているが、そのうち162試合に先発しており、貴重なサウスポーとして選手生活を全うしたと言えるだろう。ほとんどが先発起用だったことには、1型糖尿病の影響で疲労回復に時間がかかり、毎日投げなければならないリリーフを務めることは難しかったこともあったと思われる。通算でも負け越しており、中6日でも厳しかったのかもしれない。 150キロ前後のストレートが微妙に揺れる「ムービングボール」を武器に、スライダー、フォーク、チェンジアップなどの変化球も多彩で、三振もとれる投手だった。岡田監督は岩田の能力を高く評価しているし、病気がなければ100勝はしていたのではないかと思うと残念だ。岩田は同じ1型糖尿病と闘う人たちへの支援活動も行うなど社会貢献が評価され、2013年には球団から「若林忠志賞」を送られている。1型糖尿病患者の人たちへの支援活動は現在も続けられている。 通算成績は200試合(先発193)60勝82敗、1178回2/3を投げて854奪三振、自責点443、防御率3.38という立派なものだ。現役16年間を背番号「21」で通し、タイガースでこの背番号を背負った最長の選手でもある。秋山 拓巳 投手香川県丸亀市出身だが父親の仕事の関係で愛媛県西条市に転居している。少年時代から投打に優れた才能を発揮し頭角を現すのは早かった。高校は地元の西条高校へ進み、当然のように1年生でエース兼4番としてチームの中心になり、3年時の2009(平成21)年には春夏とも甲子園に出場し、長身から投げ下ろす本格右腕としてプロの評価も高まった。一方左打者として高校通算48本塁打を記録したようにバッティングもポテンシャルは高かった。2009年のドラフト会議ではタイガースが4巡目に指名して入団しており、最初にもらった背番号は「27」だった。高卒新人投手は通常30番台から40番台が普通なので、秋山への期待の高さがうかがえる。 ルーキーイヤーの2010(平成22)年8月21日の東京ドームでの巨人戦で初登板初先発のチャンスが来る。秋山は5回まで3-2とリードをもらうが6回に2失点で負け投手になる。成績は6回打者27人に対し6安打3四球5奪三振4失点だった。一週間後の8月28日のヤクルト戦では5回1失点でプロ初勝利を挙げている。前回登板に続き4四球と制球には課題が残すが、9月12日のヤクルト戦では制球も修正され被安打4奪三振3でプロ初完封勝利を飾っている。 1年目は7試合に登板しすべて先発で4勝3敗、40回1/3を投げて奪三振23、自責点15防御率3.35の成績で、近い将来ローテーションの柱になるのではという期待が膨らんだ。 ところが2年目から6年間に及ぶ長期の低迷期に落ち込んでしまう。その間の成績は次のように寂しいものだった。 2011(平成23)年 2試合0勝1敗 7回1/3 防御率6.14 2012(平成24)年 2試合1勝1敗 8回 防御率9.00 2013(平成25)年 8試合0勝3敗44回2/3 防御率3.83 2014(平成26)年 2試合0勝1敗 6回2/3 防御率20.25 2015(平成27)年 3試合0勝1敗14回1/3 防御率4.40 2016(平成28)年 8試合1勝1敗20回 防御率4.05 高校時代には剛腕を誇った秋山だったが、プロ入り以降は一向に球速が上がってこない。平均球速が130キロ台の投手のままで、これではストレートと変化球のスピード差による緩急がうまく使えない。この6年間は自分の投球スタイルをどうしていくか模索と苦悩の連続だった。 そうした中で投げ込んでいるうちに増してきたのが制球力。非常にコントロールが良くなって、きわどいコースの出し入れが自在になってきた。これが武器になっていく。 2017(平成29)年は背番号が「27」から「46」に変えられたが、秋山は1年間ローテーションを守って25試合25先発、12勝6敗、159回1/3を投げて規定投球回数もクリア、与えたフォアボールがわずか16個というのはリーグ最少だった。奪三振123は自己最多、自責点53で防御率は2.99。ぎりぎりだが2点台を叩き出し、大変身を遂げた。 2018(平成30)年から2019(令和元)年には、打線とかみ合わないめぐりあわせが多く、5勝10敗、4勝3敗と低迷する。 しかし、2020(令和2)年はローテーションの一角を守って11勝3敗と2度目の二けた勝利を挙げ、防御率も2.89で内容は安定していた。 続く2021(令和3)年もローテーションを死守し、10勝7敗で2年連続二けた勝利。防御率も2.71と自己最高を記録している。シーズン終了後の契約更改ではプロ12年、30歳にして1億円プレーヤーとなった。 2022(令和4)年には岩田の引退により背番号「21」を引き継いでいるが、一方でチームの編成方針が変わってくる。近年ドラフトで投手を上位指名してきており、選手起用を見ても投手陣全体の若返りにシフトしたような様相である。 秋山は開幕早々2連敗すると4月10日に登録抹消され、28日に復帰して1勝するがまた打ち込まれて抹消。その後は2軍でシーズンを終え、公式戦は5試合1勝3敗で防御率5.48に終わっている。2023(令和5)年に岡田昭信監督が就任すると若手優先の傾向が強まり、秋山は1年間の大半を2軍で過ごした。テスト的に開幕直後と8月の2度先発の機会が与えられたが0勝1敗で、結果が出ないとすぐ抹消されている。それぞれ1試合のみで判断されて即抹消というのは残酷に感じるが、チーム方針が決まって、伸び盛りの若手投手がひしめいてきている状況では仕方ないのだろう。厳しい世界である。結局2試合0勝1敗で、オフにはトレード候補や現役ドラフト候補などと周囲からささやかれたが残留。2024(令和6)年は進退のかかった正念場を迎えたと言っていいだろう。まとめ皆さんどう?3人の投手思い出した?吉野さんは先代に聞くとほんの1~2年だけど ものすごいキレのあるボールを投げてたんだってね でもこういう変則の左横手投げタイプは故障しやすいんだって 田村勤投手とか榎田さんなんかもそんな感じだったそうね ウィリアムスさんは頑丈だったみたいだけど岩田さんは病気を抱えながら16年間もよく頑張ったとおもう 同じ病気の人のために役に立とうという気持ちも素晴らしいな そんななかでの通算60勝はすごい数字なんだけど 病気がなかったらとおもうとホントに残念だわ ココリコの遠藤さんに似てるって言われたんだってね 確かに似てるわ秋山さんはツイてないことが多いのかな 高卒ルーキーで4勝したあとの長い低迷が痛いなあ 2023年までの14年間で49勝44敗と勝ち越してるのはいいけど いろんな歯車が合っていれば80勝ぐらいできたんじゃないかなって思うこれで背番号「21」は終わりです。次の「22」は田淵幸一さんに代表される番号ね 新しいところでは藤川球児さんも付けてたわ 期待して待っててね!背番号22へ続く
2024年05月06日
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背番号21(その6)2024年4月29日18時開始予定だったマツダスタジアムの広島-阪神戦は雨天のため14時45分に中止が決定しました ということで背番号史を掲載するよ 背番号21の第6回目です 3人の選手を紹介するけど それぞれ1年ずつしか背番号「21」をつけていませんこういうこともあるのね 3人のうち2人が外国人選手よ これは仕方ないかもね 多分使いもにならなくて1年で解雇されたんじゃないかって想像つくから3人目は期待されたのに大物になれなかった投手ですでに背番号17その5で紹介してるよ そう山村宏樹投手よねダネル・コールズ 内野手・外野手アメリカ合衆国カリフォルニア州サンバーナディーノ出身。1980(昭和55)年にオレンジコースト大からドラフト1巡目(全体6位)という高評価でシアトル・マリナーズに指名されプロ入り。メジャー時代はファースト、サード、ショート、レフト、ライトの守備経験があり、これを見ればユーティリティプレイヤーのように感じるが、どこを守ってもそれほど守備はうまくなかったようだ。メジャー実働14年で957試合2891打数709安打368打点75本塁打20盗塁445三振、通算打率.245という数字は平均よりやや下くらいかというレベルだった。中日へは1996(平成8)年に入団し130試合に出場、ほぼ1年間トップバッターとして起用されサードを守っている。打撃成績は513打数155安打79打点29本塁打で打率.302を記録した。 しかし、トップバッターなのに試みた盗塁はたった3回で、しかもすべて失敗しており相当な鈍足。サードの守備も動きが悪く20失策を犯すなど、翌1997(平成9)年から本拠地がナゴヤドームになる中日にとっては不要とみなされ、契約延長はなく1年で解雇される。1997年のタイガースは3度目の就任となった吉田監督をバックアップするため、超大物のマイク・グリーンウェルを獲得したが、出場わずか7試合で負傷し、5月14日に引退会見して帰国してしまった。 4番候補の突然の引退で頭を抱えた球団は、前年の実績を過信してコールズに目をつける。事情が事情だけに深く吟味する時間的な余裕もなかったのだろう。5月24日、コロラド・ロッキーズに在籍していたコールズを金銭トレードで急遽獲得することになる。背番号は「21」。 タイガースではファーストを14試合、サードを23試合、外野を20試合守ったが、足の故障もあってどうしても守備は三流で、エラーの次の打席に必ず凡退するという悪循環もあった。 打撃成績も63試合231打数56安打28打点7本塁打、打率は.245と期待外れに終わり次期戦力構想から外れて解雇された。ダグ・クリーク 投手アメリカ合衆国バージニア州フレデリック郡ウィンチェスター出身。メジャーでは通算279試合に登板しているが先発は3試合のみ、ほぼリリーフ専門で、主として中継ぎやセットアッパーとして過ごした。1998(平成10)年、2年目となる第3次吉田監督は先発投手不足を解消しようと、左の速球派投手として獲得したクリークをメジャーで先発経験が3試合しかないにもかかわらずのローテンションに入れざるを得なかった。 4月5日の横浜ベイスターズ戦で初先発し7回1/3で1失点と好投して期待を持たせたが、その後6試合に投げて4連敗。28回2/3で24三振を取るが、フォアボールも25個出すなど不安定さが目立ち、防御率5.65。7試合で見切りをつけられ1か月で2軍落ちしてしまう。 その後はファームの試合でローテーションを守って投げ続け、17試合に先発し9勝1敗、防御率2.16の成績を挙げてウェスタンリーグ優勝に貢献した。勝率1位のタイトルもとっている。 しかしファームでは1試合に11個の四球をという当時の新記録を作るなど制球の不安定さは相変わらずで、1軍では危なくて使えないとみなされ、シーズン終了後に解雇された。 アメリカに戻ると5球団を渡り歩きながら2005(平成17)年までリリーフ専門として現役を続けたのち引退している。 タイガースでの成績は7試合0勝4敗、28回2/3で被安打23、25四球24奪三振。自責点は18で防御率5.65だった。山村宏樹 投手(再掲)山村は背番号17-5で紹介しているが若干の変更を加えて再掲する。山梨県敷島町の出身で高校は甲府工業に進む。2年生の夏に甲子園に出場しすでにエースで4番という中心選手だった。1回戦で完投勝ち、2回戦敗退。3年次は県予選ベスト8で敗退している。高校生の投手としては、ストレートの伸び、変化球のキレともに高レベルでフィールディングのレベルも高く、「江川2世」と評判になり、1994(平成6)年のドラフト会議でタイガースに1位指名されて入団している。背番号は「17」。 もともと細身で入団時はまだプロの身体ではないと判断されており、1年目の1995(平成7)年はファームでの12試合に登板して0勝2敗、防御率6.49でもっぱら体力づくりに専念している。翌1996(平成8)年も一軍に上がることはなく、ウェスタンで3試合投げただけ。1勝0敗で防御率は1.13。非常に大事に育てられていたことがわかる。1997(平成9)年になるとファームでは7勝7敗、防御率も3.12と力を出し始め、6月には初めて一軍に呼ばれ中継ぎで5試合に投げた。しかしすぐにファームに戻され、一軍では0勝0敗で防御率は4.82という数字を残しただけだった。1998(平成10)年は一軍で10試合に登板し先発も5試合経験する。9月17日には広島戦でプロ入り初勝利も飾っている。しかしここまで順調に階段を上っていると思われた山村が、突然自律神経失調症を発症して心身のバランスに変調を来たし、まともに野球ができる状態ではなくなってしまうのである。 当時のタイガースでは(あえて実名で書くが)中込伸によるチームメイトへの嫌がらせが横行していると噂されていた。真相は当人たち以外には分からない。山村は「後頭部踏みつけ事件」もう一人中谷仁の「携帯眼球直撃事件」という報道があったのは事実である。しかし中込が故意に起こした事件なのかどうかや、山村のケースではそもそも中込がやったのかどうかも霧の中だ。 山村は精神的な立ち直りを期して1999(平成11)年に背番号「17」を返上し「21」に変えている。 しかし背番号を変えたくらいで気分が晴れることはなく、ファームの試合ですら投げられないほどになってしまい、オフに戦力外とみなされて自由契約選手となる。タイガースでは5年間で公式戦では1勝を挙げたのみ、事実上のクビだった。背番号「21」は1年着けただけで終わった。 この状況に救いの手を差し伸べたのが近鉄バファローズの一軍監督に就任したばかりの梨田昌孝だった。梨田は直前まで近鉄の二軍監督に就いており、ウェスタンで山村の投球を間近に見ていたため「潜在能力は持っているから環境が変われば再生できるはず」と山村を獲得している。 2000(平成12)年、近鉄に移った山村は27試合(先発24)に投げて6勝9敗、翌2001(平成13)年は23試合(先発16)で7勝6敗とローテーションの一角でそれなりに結果を残すことができた。環境が変わったことで精神的に回復してきたのかもしれない。2002(平成14)年から2004(平成16)年までの3年間は1勝しかできず厳しい状況になるが、2004年の近鉄球団消滅による分配ドラフトで東北楽天ゴールdンイーグルスに移籍が決まるとまた復活する。2005(平成17)年は16試合(先発11)で2勝7敗だったが、2006(平成18)年には30試合(先発22)に投げて7勝10敗と頑張りを見せている。 その後はブルペンに配置されて2012(平成24)年まで18年に及ぶプロ野球生活を全うした。引退セレモニーではチームメイトに胴上げされている。 通算成績は225試合(先発90)31勝44敗2セーブ20ホールド330奪三振、671回1/3を投げ自責点374、防御率5.01だった。 なお、チーム内の嫌がらせ事件については、文春オンラインの記事(「ドラ1クラッシャー」中込伸は中谷仁の左目になぜ“至近距離から”携帯電話を投げたのか…元エースが語り始めた“24年前の真相” | 文春オンライン (bunshun.jp))が詳しいので参照してほしいが、やや中込を弁護するような内容になっており、これも真相かどうかは確かめようがない。まとめ思った通り両外国人選手は役立たずで終わった部類ね 1年で解雇の外国人選手って多いのよね山村投手は17-5で紹介済みだけど 改めて考えると あの事件がなかったらタイガースのエースになってたかもしれない素材だったとおもうなあ密室の事件は真相がわからず 当時のタイガースはかなり中込投手の方に目をかけてたようだし 握りつぶされてしまった事件かなこれについて先代に聞いても「うわさみたいな話で、ウヤムヤのまま終わったなあ。中込犯人説は確かにあったけど、どうやって終結したのかもよくわからないよ。最後は中込も干されて台湾へ行っちゃったし」と言ってるわ背番号21の7へ続く
2024年04月29日
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背番号21(その5)背番号21の第5回目です1週間ぶりね 前回までの選手覚えてる? ここまで見てきて 確かに金田正泰元監督や米田哲也さんのような大物も着けた番号なんだけど 金田さんは1年 米田さんも1年 この番号をつけた状態で長年活躍できた選手は出てないのよね今回は3人紹介しますが3人ともトレードを体験し それぞれが特徴ある野球人生を送ってて面白いよ! ちょっと長いけど最後まで読んでみてね プロ野球選手の生き方も色々っていう実感がわくとおもうよ山内新一 投手島根県出身で高校は県立邇摩(にま)高等学校。高校時代は全く無名の投手で卒業後は三菱重工三原へ入社している。1966(昭和41)年の都市対抗野球でベスト8、産業別大会では1試合11三振の好投を見せたことからプロからも認められるようになり、同年秋のドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受けて入団している。1年目の1968(昭和43)年は一軍での登板はなく、2年目の1969(昭和44)年8月18日が1軍初登板だった。すでにシーズンも終盤に近く、結局7試合の登板で1勝1敗、防御率6.35に終わっている。1970(昭和45)年はおもにリリーフとして41試合に登板し8勝4敗、防御率1.78と頭角を現す。続く1971(昭和51)年も33試合で5勝5敗の数字を残すが、この年に右肘を壊してしまう。 1972(昭和47)年、故障の影響が長引き11試合0勝1敗、防御率9.00と落ち込むと読売は早々に見切りをつける。長嶋茂雄が衰えてきたことから後継の三塁手を確保したい読売は、南海ホークスの富田勝に目をつけ、松原明夫と山内を交換要員としてトレードが成立、山内は南海へ移籍することになった。1973(昭和48)年、移籍先の南海の監督は現役捕手兼任の野村克也だった。肘を故障してストレートに威力がなくなった山内に、「変化球を軸にコントロールを磨いて武器にすればまだまだやれる」と助言し、山内は軟投型投手へモデルチェンジしていく。移籍1年目のこの年、野村監督は読売でリリーフ専門だった山内を30試合に先発させる。見事に技巧派へ変身した山内は期待に応え、ローテーションの軸として20勝8敗、防御率3.30の好成績を挙げてリーグ優勝の立役者となった。南海では11年間プレーし、309試合に登板、そのうち303試合に先発で起用され、二けた勝利が8度、1973年と1976(昭和51)年には20勝を記録しており、エースとして君臨している。1983(昭和58)年、山内は13試合2勝9敗に沈み防御率も8.55と落ち込んで戦力外のにおいが漂っていた。そこに目をつけたのが、小林繁が引退して先発投手陣が手薄になってきたタイガースだった。 山内は83年のオフ、無償トレードの形でタイガースに入団することになる。背番号は益山の引退で空いた「21」を継承した。 1984(昭和59)年、安藤統男監督は「5イニング限定の先発投手」と割り切って山内を起用。25試合すべて先発登板した山内は期待に応え、7勝9敗、防御率4.74の数字ながら1年間ローテーションの一角を守った。タイガースでの2年目は日本一になった1985(昭和60)年だったが、さすがに力尽きたか登板はわずかに5試合、1勝1敗、防御率7.45に終わった。それでもリーグ制覇の一員に連なり、10月24日の対読売シーズン最終戦が引退試合となった。通算成績は17年で431試合に登板し143勝142敗、2459回で774奪三振、自責点1021、防御率3.74だった。150勝近く勝っている投手としては、1試合当たりの奪三振が2.83個と極端に少ない。これは読売時代に痛めた右肘がまっすぐ伸びないためキレのあるストレートが投げられなかったからで、変化球を駆使した配球、そして絶妙のコントロールを武器に凡打にさせることで生き延びてきた証でもある。遠山昭治 投手熊本県芦北郡田浦町出身。八代第一高校では全国大会こそ出れなかったがエース兼4番打者としてチームを引っ張った。投打ともに優れた才能があり、ノーヒットノーラン通算11回や1試合18奪三振など投手としての記録のほか 打者としても対外試合通算35本塁打を打ち4割以上の高打率を残している。1985(昭和60)年11月20日、日本一の興奮冷めやらぬ中で行われたドラフト会議で、タイガースは1巡目に清原和博を指名するも6球団が競合し、抽選に敗れて指名したのが遠山だった。ちょうど山内の引退で背番号「21」が空いたため継承することになる。ルーキーの1986(昭和61)年は4月27日に1軍抜擢されて中日戦で初登板。5月1日のヤクルト戦では初先発を経験し、5月14日の広島戦で9回2失点の好投を見せてプロ初勝利を飾っている。 この年のタイガースは先発投手の絶対数が不足しており、遠山は27試合に登板、しかもそのうち24試合が先発で、ほぼローテーション投手の働きをしている。成績も8勝5敗、128イニングで自責点60。防御率は4.22だったが、高卒1年目ルーキーとしては近年にない活躍だった。しかし翌1987(昭和62)年は1年目の頑張りの反動が出たのか早くも左肩痛を発症し、9試合0勝3敗に終わる。1988(昭和63)年に就任した村山監督は、遠山をリリーフに配置換えすることで復活させ42試合に登板、2勝9敗ながら防御率は3.84を記録した。しかし1989(平成元)年になると、故障した左肩は短いイニングすら満足に投げられず10試合で2勝1敗。1990(平成2)年には7試合0勝0敗、防御率9.00と使い物にならなくなり、オフに高橋慶彦とのトレードでロッテ・オリオンズへ移籍する。ロッテでは投手として4年間過ごすが白星はなく、その後打者に転向してみたがこちらも1軍で通用せず、1997(平成9)年にはついに出番がなくなって戦力外、自由契約となった。現役を続けたい遠山はタイガースの入団テストを受けたところ、入団当時も監督だった吉田監督から「投手として投げてみろ」と要望され、投げてみると好い球が来るし痛みもない。野手として過ごす間に自然に肩痛が回復していたようで、投手として古巣に復帰することができた。1998(平成10)年、11試合の登板に終わっているが、新しく就任した野村監督が「左投手は手放せない」と球団に申し入れたことで戦力外をまぬがれ、ワンポイントのサイドスロー投手に変身、これにより運命の扉が開けた。 1999(平成11)年63試合、2000(平成12)年が54試合、2001(平成13)年が52試合と3年間ワンポイントリリーフでファンを沸かせた。左打者に対してリリーフで登場し、右打者になると葛西が登板し遠山は1塁守備、さらに左打者で遠山が再登板という「遠山・葛西スペシャル」は、巨人の松井を完璧に封じるなど野村タイガースの見せ場となった。ところが星野監督が就任した2002(平成14)年になると坐骨神経痛が悪化、23試合で12回1/3しか登板できず、戦力外通告を受けて引退。通算成績は393試合16勝22敗5セーブ、480回1/3で283奪三振、防御率4.38というのが投手成績。打撃成績は408試合90打数14安打1打点、打率.156である。数字だけを見れば平凡以下かもしれないが、タイガースファンには大きな印象を残した選手だった。タイガースには通算10年間在籍し、背番号「21」はルーキーから5年間、ロッテから復帰した後の5年間は「52」をつけている。関川浩一 捕手・外野手遠山がロッテに移籍した翌1991(平成3)年に背番号「21」を受け継いだのは関川浩一。東京都調布市の出身。神奈川の桐蔭学園に進むと1年時の1984(昭和59)年の夏の選手権に外野手で出場、2年生になると捕手に転向している。 強肩の捕手で好打者かつ足もあり、駒澤大学に進むと東都大学リーグ通算50試合161打数42安打13打点3本塁打、打率.261の成績を残している。大学ベストナイン捕手にも2度選ばれるなど評価は高かった。1990(平成2)年秋のドラフト会議では、タイガースから2位指名を受け入団している。しかし1年目となる1991(平成3)年はまだ木戸克彦の存在が大きく、そこに山田勝彦が台頭してきたところで、捕手としての関川の出番はほとんどなく出場10試合に終わる。2年目の1992(平成4)年も31試合にとどまるが、1993(平成5)年になると山田から正捕手の座を奪い、出場数は89試合に伸びた。 さらに1995(平成7)年には124試合に出場して規定打席もクリアし、打率も.295と大活躍、完全にレギュラー捕手の地位を獲得している。1996(平成8)年と1997(平成9)年は、規定打席こそ足りなかったが2年続けて打率3割を超え、好打者としてもチームに貢献している。 ところが1997年オフ、晴天の霹靂のような電撃トレードで久慈照嘉とともに中日ドラゴンズへ放出されてしまう。これはタイガースファンにとっても驚きだった。中日は1997年から本拠地がナゴヤドームに変わったが最下位に低迷。野球観が変わり、広さに対応した俊足・好守の選手を必要としていた。 一方3度目の就任となった吉田監督で戦ったタイガースは貧打に泣いて5位と低迷し、大砲を欲していたため大豊泰昭と矢野輝明の獲得となり、両チームの利害が一致するトレードとなった。 1998(平成10)年、中日に移った関川は星野監督に重用され、トップバッターとして起用されると125試合に出場して規定打席に到達、打率.285と活躍し、もともと速かった足も生きて15盗塁を決めるなど、チームの2位躍進に貢献する。 1999(平成11)年には135試合に出場、キャリアハイの172安打を放ち、打率も.330、20盗塁を記録して11年ぶりのリーグ優勝の原動力になった。 しかしこの年をピークに力が落ちていき、2004(平成16)年には12試合で無安打に終わると、無償トレードで新球団東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍することになる。楽天での3年間は控えの外野手で過ごし、2007年のオフに引退。その後は楽天、阪神、ソフトバンクでコーチを歴任している。通算では1408試合3953打数1129安打324打点24本塁打91盗塁702三振、打率.286と立派な成績を残した。まとめ今回の3人は記憶に残る選手たちかな巨人で戦力外とみなされた山内さんを復活させたことで野村監督が「野村再生工場」とよばれるようになったって言われてるんだよ遠山さんもタイガースに復帰して野村監督のアイデアである「遠山・葛西スペシャル」で一世を風靡したわこうしてみると野村さんは監督としてやっぱりなかなかのものねそして関川さんは野球センスが抜群なことが災いして器用貧乏になってたんだけど 中日へ移って 関川さんの素材を見抜いていた星野監督に起用されることで一流選手として開花できたのよ監督に恵まれるってこういうことかな 背番号21の6へ続く
2024年04月22日
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背番号21(その4)背番号21の第4回目ですちょっと間が空きましたが続けていくので忘れないでね なかなかスター選手が生まれない背番号「21」だけど 今回最初に登場する投手が 初めて「ドラフト1位入団の選手」として着けます 結果はどうでしょうねこの第4回では3名紹介しようとおもうんですが 実は3人のうち2名がドラ1入団なのよ さらに残りの一人は日本歴代2位の通算算350勝を誇る鉄腕投手だよ 皆さんわかるかな?ではもったいつけてないで本文に進みますね五月女 豊 投手栃木県鹿沼市出身で高校は鹿沼農商高校。3年時の1967(昭和42)年に夏の選手権で甲子園に出場するが1回戦で今治南に0-3で敗れている。 高校卒業後1968(昭和43)年から社会人の日本石油に籍を置くが、プロが目をつけるほどの目立った存在ではなかった。ところが1972(昭和47)年の日本産業対抗野球大会が運命の転機となる。2回戦の対日本生命戦でノーヒットノーランを達成、準決勝では当時の強豪大昭和製紙、決勝では鐘淵化学を連続完封して優勝。五月女は最優秀選手賞に輝き、一躍ドラフト候補となった。1972年のドラフト会議でタイガースが1位で指名し入団、引退した山尾の背番号「21」を引き継ぐ。 しかしプロの壁は厚く、ルーキーイヤーの1973(昭和48)年は公式戦わずか3試合の登板で0勝2敗、防御率6.00の成績で終わっている。2年目の1974(昭和49)年は先発した8月8日の大洋ホエールズ戦で7回4失点ながらプロ初勝利を挙げるが、シーズンを通して9試合しか使ってもらえず1勝0敗、防御率3.00だった。3年目も10試合で0勝0敗に終わる。シュートやシンカーなど右打者のインコースへ投げる変化球は好いものを持っていたが、肝心のストレートが二級品なため変化球も生きてこない。タイガースは3年で見切りをつけ1975(昭和50)年オフ、太平洋クラブライオンズの片岡新之介とのトレードにより放出している。 ライオンズではおもに中継ぎとして貴重な戦力となり、在籍5年間で111試合に登板8勝8敗1セーブ、279回2/3を投げて自責点127、防御率4.09の数字が残る。 1982(総和57)年には大洋ホエールズに移籍しており 3年間で9勝をマークするなどやはり中継ぎとして貢献したが、タイガース戦ではよく打たれたという。通算235試合18勝17敗1セーブ207奪三振 475回で自責点215、防御率4.07。米田哲也 投手鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市)出身。少年時代は捕手だったが境高校に進学すると地肩の強さと顔の怖さを買われて投手に転向。いつもあと一歩で甲子園出場を逃していたが、剛腕投手としての評判は出場組をしのいでいた。1956(昭和31)年に阪急ブレーブスと契約するが、その後地元後援者の策動によって大阪タイガースとも契約してしまい、二重契約問題が起こる。この問題は最終的に井上コミッショナーの裁定によってブレーブスへの入団で決着するが、事前にコミッショナーから聴取された米田が「背番号18」を確約してくれたブレーブスを希望し、その意向を汲んでの結論だったようだ。この時点ではタイガースとは縁がなかったということだろう。米田の実績を書き連ねると簡単に終わらない。大投手であることは、多くの通算記録のベスト10に登場していることからわかる。これから主だった数字を見ていくことにする。 通算登板試合数は949。岩瀬仁紀が抜くまで歴代1位だった。岩瀬は99.9パーセントがリリーフ登板なのに対し、米田は66パーセントが先発という中で達成しておりタフで頑丈だったことがわかる。通算勝利数350。金田正一の400勝に次ぐ歴代2位。通算先発数626試合。歴代1位。通算完投数262。上には上がいてトップは金田の365。米田は歴代8位。通算完封勝利64。トップはスタルヒンの83で米田は歴代7位。通算投球回数5130回0/3。金田の5526回2/3に次ぐ歴代2位。通算奪三振3388。金田の4490に次ぐ歴代2位。通算失点1940。歴代1位。通算自責点1659。歴代1位。 あだ名が「ガソリンタンク」「人間機関車」など 丈夫なうえに力持ちという印象があったのだろう。ほかにも驚くような記録を残している。19年連続二けた勝利。これは現在も日本記録。いかに故障が少なく長く働いたかの証明だ。今はこれほどの投手なら途中でメジャーへ行ってしまうから今後誰も破れない途方もない記録だ。20勝以上は8シーズンあるが、最多勝は1度(1966年25勝)しか取れなかったのは不思議なくらいである。また高校時代からバッティングにも自信を持っており、打率は低いが長打力は相当なものだった。通算本塁打33本は1位・金田正一の38本、2位・別所毅彦の35本に次ぐ歴代第3位である。また、満塁本塁打とサヨナラ本塁打の両方を記録したことのある唯一の投手でもある。阪急には1956(昭和31)年から1975(昭和50)年の途中まで足かけ20年在籍し、902試合338勝278敗1セーブの数字を残している。1975年は登板数が減ったため、シーズン途中に自らトレードを申し出てタイガースに移籍してきた。背番号は「38」。 この時のタイガースは第一次吉田義男監督の1年目で、投手コーチに通算320勝の小山正明がおり、350勝を目指す米田の登板間隔などに気を使いながらバックアップしたため、移籍後に22試合8勝3敗1セーブの数字を残し、阪急で挙げた2勝を加えて年間10勝を達成している。350勝まであと4勝となって迎えた1976(昭和51)年、米田は達成を期して背番号を「21」に改めてシーズンに臨んだ。この年のタイガースはラインバックやブリーデンの加入や掛布の成長などでチーム力が上がり、終盤まで読売との優勝争いを繰り広げた。小山に代わって就任した皆川睦男投手コーチも、優勝争いの中では現実主義にならざるを得ず、衰えの目立つ米田の登板機会は大幅に減ったため13試合2勝2敗に終わっている。350勝まであと2勝とはなったが、シーズン終了後にタイガースは米田に戦力外を通告する。背番号「21」は1年間しかつけなかったことになる。 自由契約選手となったが、現役をあきらめきれない米田に手を差し伸べたのは、阪急時代の監督でもあった近鉄バファローズの西本幸雄だった。1977(昭和52)年、西本監督のもとでコーチ兼任で臨んだ米田はなかなか勝てなかった。シーズン終了間近の10月7日、西宮球場での対阪急戦。ここまで11試合1勝2敗で迎えた米田は、監督の計らいで6-1と近鉄が5点をリードした状況で4回裏に登場し2イニングを投げ1失点で降板、勝利投手の権利を得る。残り4イニングを3人の投手がリレーして逃げ切り、悲願の350勝達成となった。さすがに納得できたのか10月18日に米田は引退を発表している。米田が再度タイガースとかかわりを持つのは、あの日本一に輝いた1985(昭和60)年のことだ。2度目の監督に就任した吉田義男は西本幸雄からの推薦を受け、米田を一軍ピッチングコーチに迎える。米田は苦しい台所の投手陣を預かって何とか恰好をつけ、シーズンを戦い抜いて日本シリーズも制した。 ただし、徐々に吉田監督と意見が合わなくなり、1986(昭和61)年にはブルペン担当に配置換えされてシーズン終了後に退団している。現役22年間の通算成績は949試合350勝285敗2セーブ、被安打4561(これも歴代1位)、3388奪三振、5130回で自責点1659、防御率2.91という素晴らしいものである。益山性旭(せいきょく) 投手兵庫県宝塚市出身だが、高校は大阪府の福島商業(現履正社高校)に進んでいる。全国大会には縁がなかったが速球派サウスポーとしてスカウト等には知られた存在だった。1972(昭和47)年のドラフト会議では大洋ホエールズから4位指名を受けたが、入団を拒否して帝京大学へ進学する。大学では速球に磨きがかかり首都大学リーグ戦通算78試合29勝31敗の数字を残す。援護に恵まれず負け越しているが防御率は1.65である。速球で奪った通算三振はそれまで上田次郎(東海大~阪神)が持っていた393個を大幅に更新する450個を記録し、50年近く経った現在もリーグ記録として破られていない。1976(昭和51)年のドラフト会議では文句なく1位候補となり、タイガースが1巡目指名して入団が決まる。背番号は自由契約となった米田がつけていた「21」を継承。入団時には「巨人戦で王・張本から連続三振を取りたい」と抱負を語っている。1年目の1977(昭和52)年から1軍公式戦で使われており、6月にデビューして以降28試合に登板し、6度の先発も経験した。結局3勝3敗、77回2/3を投げて65奪三振、自責点35防御率4.04の成績だった。1978(昭和53)年、タイガースは後藤監督の下、史上最低勝率で初の最下位の屈辱を味わったこともあり、投手陣は軒並み援護のない状態で成績を落としている。益山は45試合に投げ1勝10敗、防御率5.40と散々だったが、7月2日の広島戦では9回一死までノーヒットノーラン、惜しくもその後1安打1点を失ったが、北別府に投げ勝って初の完投勝利でこの年唯一の白星を挙げている。スピードはあるが制球がままならず、突然コントロールを乱して勝手に崩れてしまう。この状態が治らないまま1979(昭和54)年から1982(昭和57)年までの4年間は1勝5敗1セーブ、0勝0敗、3勝3敗、3勝6敗と低迷が続き立ち直れない。1983(昭和58)年はついに1軍登板がなく現役引退、翌1984(昭和59)年はバッティング投手として過ごす。ところが打撃投手をしているうち、徐々に制球力がついてきたのと、チームに左投手が少なかった事情もあって、1985(昭和60)年に現役復帰。優勝争いをするチームにあって、中継ぎとして微力とはいえ8試合に投げ優勝メンバーに名を連ねることができた。それで満足したのかやはり限界だったのか、シーズン終了後には改めて現役引退している。 背番号「21」は7年間着け、打撃投手時代は「95」、現役復帰後は「39」を1年だけ着けた。現役通算成績は167試合11勝27敗1セーブ、414回を投げて262奪三振、自責点213防御率4.63だった。まとめ三者三様で悲哀を感じさせるなあ五月女さんと益山さんは同じドラフト1位で似たとこもあるけど、五月女さんは他球団でかなり貢献してるよね益山さんはタイガース一筋 しかも一度引退して打撃投手になってからまた復活の現役復帰 しかも最後はいちおう優勝の一員に加わってもう一度引退というのもどう言ったらいいのか ツイてるって言えないこともないか・・・米田さんは打者でいうと野村さんみたいな感じかなあ 野村さんは「ONの陰に咲く月見草」なんて自嘲してたみたいだけど、米田さんは「金田さんに追いつけないナンバー2」って感じよねでも記録を見ればすごいよ 今の選手じゃまねできない もっとリスペクトされてもいい投手じゃないの? 22年間これだけ投げて 特にケガも故障もないなんて秘訣を聞いてみたいよ 背番号21の5へ続く
2024年04月15日
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背番号21(その3)背番号21の第3回目です今回最初に登場するのは横山光次さんなんだけど皆さん知ってた?この方は10年間「21」を背負ったのよ 10年以上着用した選手はこの番号では初めてねここでネタばらししてしまうと 横山さんの後も10年以上つけた選手はなかなか出てきません 2人目は岩田稔投手なのよ 岩田さんは16年も着けました そして10年以上着けたのは横山さんと岩田さんの2人だけなんだよ背番号「21」も紆余曲折の番号なのよね横山光次(よこやまこうじ) 投手・外野手大阪府東淀川区の出身。扇町商業高校(現:扇町総合)時代の1951(昭和26)年にエース兼4番打者として選抜大会に出場しベスト8。高校時代から非凡なバッティングは評価が高かった。 1952(昭和27)年にタイガースへテスト入団、最初の背番号は「43」だった。登録は投手で最初の2年間は1軍に上がれずファーム暮らし。打撃センスを買われて外野手に転向した1954(昭和29)年に初めて1軍に上がるも6試合9打数1安打0打点で、ようやく「1軍を経験した」という程度だった。1955(昭和30)年、背番号を「21」に変更すると1軍に定着、69試合に出場するが打率.207ではレギュラーを取るまでの数字ではない。 1956(昭和31)~57(昭和32)年も常時1軍におり、並木輝男との併用ながらスタメン機会も増えてくるが、2年続けて打率が1割台に低迷してポジションをつかめない。 1958(昭和33)年に初めて100試合を超える113試合に出場すると、翌1959(昭和34)年には田宮謙次郎の移籍で空いたライトでレギュラーとなり、123試合に出場してプロ生活唯一の規定打席にも到達、407打数104安打37打点8本塁打、打率.256を記録して活躍した。 しかし、1960(昭和35)年にマイク・ソロムコ、1962(昭和37)年には藤井栄治が入団すると、徐々にスタメン出場数は減っていき、そのかわり代打での活躍が目立った。 通算8本の代打本塁打を記録しており、引退した1964(昭和39)年には球団史上2人目の代打満塁ホームランも記録している。 現役通算は888試合2041打数471安打191打点37本塁打57盗塁326三振で打率.231である。滝川博已 外野手和歌山県出身で高校は南部高校。4番センターの中心選手として活躍し、1960(昭和35)年にタイガース入団。最初の背番号は「53」をもらった。非常に珍しい左投右打ちの選手(タイガースではのちに紹介するハロルド・ブリーデンがいる)だった。 入団して3年間は1軍に上がることはなく、4年目の1963(昭和38)年に初めて昇格するが2試合2打数1安打0打点1三振に終わっている。 翌1964(昭和39)年も16試合12打数2安打1打点3盗塁3三振で打率は.167と伸びた様子が感じられない。 1965(昭和40)年には背番号を「21」に変えて臨んだが、21試合6打数1安打で代走要員といった位置づけになっている。 1966(昭和41)年は背番号を「31」に変えて自己最多の57試合に出場する。と言っても48打数7安打3打点で打率.146ではもう戦力外と見做されても仕方がないだろう。シーズンが終わると引退している。 通算では96試合68打数11安打5打点8盗塁22三振で打率.162。プロでホームランは記録できなかった。山尾孝雄 投手・外野手(再掲)山尾はすでに「背番号14-3」で紹介済みだが若干の修正をしたうえで再掲する。大阪府大阪市出身で明星高校から同志社大学に進む。高校時代から投手として活躍。大学3年時に肩を痛め一時はボールが投げられないほどだったが4年時にはある程度回復する。通算55試合に登板して24勝10敗、防御率1.19の好成績を残したが、投手としての伸びしろは失っていたと思われる。 1963(昭和38)年にタイガースへ入団し本間勝から背番号「14」を譲られる。1年目に3試合に投げているが防御率6.30と打ち込まれて自信を無くし、1964(昭和39)年には早々と野手に転向した。 ただし、野手転向といっても簡単ではなく、1968(昭和43)年までの5年間は満足な出場機会に恵まれない状況に甘んじている。この間、1965年まで3年間着けた「14」を本間に返し、1966(昭和41)年から「21」に代えて引退するまで7年間背負っている。 1969(昭和44)年には71試合に出場して初めて100打席を超え、翌1970(昭和45)年は94試合、1971(昭和46)年も98試合とセンターで準レギュラー級として働いた。しかし守備や足は好かったが打撃に関しては目立った成長が見られなかった。 1972(昭和47)年、ドラフト3位で望月充(立教大~大昭和製紙)が入団するとポジションを失い、わずか19試合の出場に終わったことから現役を退いた。通算10年で448試合に出場、792打数176安打49打点12本塁打7盗塁174三振、打率.222という数字が残る。投手としては1年5試合0勝1敗、10回を投げ奪三振3、自責点7で防御率は6.30だった。まとめ今回の3名を見ると 背番号「21」としては比較的長く着けた人が2人いるよね 横山さんが10年 山尾さんが7年 でも成績はどうかというと「レギュラー近くまで行ったかな」という程度で華々しい活躍はできずスターとは言えないよね 実際今回の3名は顔がわかるような写真が残ってないわ それ以前の選手でも残ってる人は多いのによ 山尾さんのユニフォームの写真しか見つからなかったのは残念ね というわけで強引だけど桜の写真を添えさせていただきました さて次回の予告だけど 山尾さんのあとに着けるのは1972(昭和47)年秋のドラフト会議で1位指名で入団した投手なのよ 初めて「21」が脚光を浴びるときが来たわ 誰だかわかる? 次回をお楽しみに!背番号史を読んでくれてるみなさんへ 公式戦が始まってしまったので週1回ペースになりそうなの なかなか進まないけど隙間を見つけてアップしていくから待っててね背番号21の4へ続く
2024年04月08日
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背番号21(その2)背番号21の第2回目です一人目の谷田さんは3度目の登場になります この人は「21」を最初の2年だけ着けてたんだよね二人目は金田正泰さん ご存じのとおりダイナマイト打線の中軸だった選手でのちには監督も務めてるけど 「21」を1年だけ着けてるのよ三人目の河野さん 四人目の弘瀬さんもそれぞれ1年間しか着けてないわ 最初のころの「21」は短命な番号になってるんだよね谷田比呂美 捕手・内野手(再掲)谷田は1948(昭和23)年の入団。最初の背番号は「21」で次に「12」かわり、「14」は3番目に着けた番号。若い番号から順に紹介しているためすでに「12―2」で登場しており、そのままを再掲する。兵庫県の旧制尼崎中学を卒業後、社会人野球鐘紡に所属していたところ陸軍に召集され、戦後もシベリアに抑留された経験を持つ。帰国後には社会人の鐘紡に戻り、1948(昭和23)年にタイガースへ入団している。最初に着けた背番号が「21」だったが、入団から2年間だけで変えており、「6」をつけて出場したのは2年間で12試合に過ぎない。1年目は6試合5打数0安打。2年目も同じく6試合5打数0安打と大した戦力にはなっていない。 3年目となる1950(昭和25)年に「背番号12」に変更すると33試合に出場が増え60打数11安打を記録。4年目の1951(昭和26)年に84試合に出てからは第2捕手の位置づけとなっている。1952(昭和27)には背番号を「14」に変えており、「12」は2年間着けただけだった。選手としての特徴は、出場試合数に比べて打席数が少ないことがあげられるが、これは谷田がブルペンで準備する投手のボールを受けるブルペン捕手としての役目が多かったことと、右の代打の切り札的存在だったことによる。1953(昭和28)年の対大洋13回戦では、セ・リーグ初の代打サヨナラホームランを記録しているように、1打席での勝負強さがあったのだろう。タイガースでの最後の年となった1955(昭和30)年には自己最多の104試合に出場している。安打数や打点もキャリアハイだったが、同年オフに国鉄スワローズに移籍した。タイガースでは8年間プレーしたことになる。国鉄に移ると、金田正一との相性がよく、ほぼ専用捕手としてマスクをかぶる存在だった。ちなみに金田が新人の長嶋茂雄から4打席連続三振を奪った試合でもバッテリーを組んでいた。国鉄では5年間プレーし、1960(昭和35)年のシーズンを最後に現役を退き、その後数年国鉄でコーチを務めた。13年間で823試合に出場、通算成績は1511打数339安打170打点22本塁打7盗塁284三振、打率.224だった。金田正泰 外野手(再掲) 金田は1942(昭和17)年の入団。タイガースにおいて背番号「7」を外野手の番号として認識させた人物と言えるだろう。現役通算15年をタイガース一筋で通し、首位打者を獲得するなど非常に高い出塁率を誇る俊足好打の名外野手。背番号は最初が「28」、次いで「7」に変え、なぜか1950(昭和25)年だけ「21」を着け、その翌年から引退まではまた「7」を着けている。すでに紹介済みだが、タイガースの球団史においては重要人物であるため詳しく再掲する。金田は当時日本統治下だった朝鮮の出身、昭和24(1949)年に日本人女性と結婚して帰化している。京都平安中では春夏合わせて5回甲子園に出場する。左投げ左打ちで俊足の好選手だった。昭和16(1941)年に1週間ほどタイガースの松木謙次郎が平安中野球部をコーチをしたことがあり、当時キャプテンだった金田を高く評価している。その縁もあって昭和17(1942)年にタイガースへ入団することになった。最初につけた背番号は「28」。「7」に代わるのは昭和19(1944)年からだ。途中でなぜか昭和25(1950)年だけ1年間「21」を着けたが、翌年から引退までまた「7」を着けた。 戦前は3シーズン経験しているが芽が出ていない。昭和17年から19年までの3年間のトータルの数字は、170試合432打数88安打24打点4本塁打で、打率は.203に過ぎなかった。足が使えて積極的に盗塁を仕掛けているが、3年間で26回試み、成功15失敗11と成功率は高くない。選手として開花するのは、終戦の翌年、昭和21(1946)年からだった。この年の金田は人が変わったように打ちまくり、438打数152安打61打点1本塁打、打率.347で首位打者になっている。まだ1リーグ時代で152安打は当時のシーズン最多安打の新記録だった。 ダイナマイト打線 左から2人目が金田 この年を含め、昭和30(1955)年まで10シーズン連続で100試合以上に出場しレギュラーを守り、そのうち6シーズンで3割をこえている。しかしながら、二けたの本塁打を打ったのは現役中に1シーズンしかない。在籍16年、実働15年の通算では、1476試合5354打数1527安打568打点55本塁打187盗塁457三振、打率.285という立派な成績を残している。もっぱら1番を打つことが多かったが、俊足は盗塁よりも、広い甲子園を十分に生かした三塁打に現れており、通算103本という数字は、2023年現在でも、福本豊の115、毒島章一の106につぐ歴代3位の大記録だ。1シーズンに18本(これは現在もNPB最高記録)も打ったことがあるだけにベースランニングも上手かったと想像される。昭和31(1956)年は、有名な「藤村排斥事件」の首謀者とみなされ、出場機会が失われていき、翌昭和32(1957)年を最後に現役生活を終えている。引退の翌年、昭和33(1958)年には二軍監督に就任、翌年途中から一軍コーチとなっている。この2年間も背番号7を引き続き着けていた。昭和35(1960)に一軍監督となって背番号は「30」に代わる。この番号はタイガースでは創設以来金田まで、監督が着ける番号だった。この年はなんとか3位Aクラスで終わったが、翌昭和36(1961)年は開幕からチーム状態が悪く最下位を低迷する状態になり、6月6日に球団から「休養」を命じられて事実上の退任、シーズン終了後に退団し評論家生活となる。昭和47(1972)年、プレーイングマネージャーとなった村山監督の強い要請でヘッドコーチに就任し、ここから3年間「73」を着けた。開幕から波に乗れない村山監督が4月21日に指揮権を返上して現役一本に絞ると宣言したため、事実上の監督となる。ただし、表面上の監督はあくまで村山のままだった。成績が5割に戻った5月13日に金田は指揮権を村山に戻すことを球団社長に申し出たが、戸沢一隆社長は受け入れず、そのままシーズン終了まで金田に事実上の指揮をとらせた。一方の村山はこのシーズンを最後に監督を辞任、現役も引退する。これが金田に追い出されたように見える形となったため、藤井栄治、権藤正利、江夏豊などの村山シンパから反感を買うことになる。昭和48(1973)年、正式に監督に就任した金田は、ペナントレースでは首位から最下位までが6.5ゲーム差のなかにひしめく混戦で優勝争いを展開した。そんな中で村山シンパの選手たちとは冷え切った関係になり、特に権藤、藤井、江夏とはお互いにマスコミを通して批判を言い合うほど関係が悪化していき、逆に上田次郎をかわいがって偏重に扱うようになる。残り2試合でマジック1となった10月20日の中日戦、金田監督は中日キラーの上田ではなく江夏を先発に起用し、2-4で敗れる。1日空けて甲子園でのシーズン最終戦、巨人の高橋一三の前に散発4安打完封負け。目の前で巨人の優勝が決まった。胴上げを阻止しようと観客がグランドになだれ込み、巨人の選手に暴行を加えるなど球場は大騒乱状態になったため巨人は胴上げができず宿舎に帰った。なんとも後味の悪い幕切れだった。 中日戦で江夏、巨人戦で上田という起用は、様々な批判や論争を巻き起こしたが、金田は首脳陣と相談の上「後半戦の上田は不調で大きく負け越しており、エースである江夏の実績とプライドに賭けた」と言っている。また江夏も「大事な試合では勝ち星の多いほうを選ぶのは当然。自分の先発が間違っていたとは思わない 打たれた自分が悪い」と語っており、この一件に関しては「決してわざと負けようとしたわけなどない」と両者納得しているようだ。シーズン終了後、11月23日のファン感謝デーで権藤が金田に対し暴言の謝罪を求めたが応じられなかったため殴りつけるという事件が起きる。権藤はそのまま引退を宣言。藤井栄治はトレードされる。権藤を慕う江夏はこの件で「金田監督とは一緒に野球ができない」と言ってトレードを志願するが、球団は認めず残留、金田監督も翌年の指揮を執ることになる。 昭和49(1974)年のシーズンは出足好調だったが失速して4位。史上最低勝率だったこともあって退任する。この年、入団1年目の掛布雅之を周囲の反対を押し切って1軍で積極的に起用して定着させる。同期ドラフト1位の佐野仙好とサードのポジションがかぶっており、1位を差し置いて6位の掛布を使うことにはフロントからも強い批判が出たようだが、金田は無視して使い続けた。もちろん金田が見た第一印象も「体も目立って大きくないから、正直なところ2、3年ファームで体を鍛えて、いずれ守備要員でもなればと、そういう感じの選手でしたな」というものだった。しかしすぐに掛布の資質を見抜いて、批判されながらもシーズンで使っていった金田の目は確かだった。掛布自身も「金田監督がいなかったらのちの自分はなかった」とまで語っている。河野 博 外野手金田が着けたあと1年間空番になっていた「21」を受け継いだのが河野博。兵庫県出身で神戸二中(兵庫高校)時代には2年時、3年時と二年続けて4番打者として選抜大会を経験している。高校3年時に大阪タイガースの入団テストを受けて合格し入団する。1年目の1950(昭和25)年は背番号「43」で、3年目の1952(昭和27)にちょうど空いていた「21」を継承するが、この年のオフに引退しているので1年間しかつけていない。タイガースには3年間在籍しているが1軍の公式戦に出たのは2年目だけで、それもわずか10試合にとどまる。そのためこれというエピソードも残っていない。通算成績は実働1年10試合6打数0安打0打点1三振というさびしいもので、プロでヒットは打てなかった。1953(昭和28)年から神戸製鋼に入社して社会人野球でプレーした。弘瀬昌彦 投手背番号「21」は、河野の引退の翌年は空きとなっている。1954(昭和29)年に受け継いだのが弘瀬昌彦。高知県高知市出身で高校は高知商業。高校時代はファーストを守っていたが社会人野球の土佐電鉄に進んで投手に転向する。社会人時代には1953(昭和28)年に都市対抗本戦に進出してベスト8の経験を持つ。当時は「南四国のサブマリン」と異名を持つ下手投げの好投手という評価だった。1954(昭和29)年にタイガースへ入団。開幕2日目の洋松ロビンズ(現横浜DeNA)戦のリリーフでいきなりプロ初勝利を挙げる。しかしこの年5試合に登板しただけで、まだシーズンも終わらない夏に病気療養を理由に退団する。後に本人が明かしたところでは、魚とパンしか食べられない極度の偏食が原因で体力が続かなかったという。遠征先では食事に注文も付けられず、満足に食べることができないため夏場になって完全にバテてしまったようだ。タイガースでは1年5試合1勝0敗、15回1/3で自責点3、防御率1.69という数字しか残せなかった。故郷の土佐電鉄に戻って野球を続けていたところ、同郷で高校の先輩だった岩本章が当時広島カープのマネージャーをしており、その誘いがあって1957(昭和32)年に広島へ入団してプロへ復帰する。 広島では1964(昭和39)年まで8年間プレーしており、333試合43勝61敗、999回で自責点369、防御率3.32。1963(昭和38)年には50試合で先発も26試合務めて200イニングを超え、自己最多の10勝を記録するなど頑張った。しかし偏食は相変わらずで夏場以降はほとんど勝てなかった。1965(昭和40)年には阪急ブレーブスに移籍して10試合に投げるも0勝0敗に終わって2度目の引退となった。まとめ なんだか「21」は雑に扱われてる気がするよね今回の4人が着けた期間は 谷田さんが2年 金田さん河野さん弘瀬さんは1年づつ 4人で5年間ってあまりに少ないなあ 弘瀬さんは変わってるよね 偏食が理由で引退なんて初めて聞いたなあ あとで復帰してるけど偏食って治らないんだね・・・4人のうち投手は1人だけね のちには投手の番号に定着していくんだけど この当時はそういう意識も無かったんだろうね背番号21の2へ続く
2024年03月27日
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背番号21(その1)背番号21の第1回目です「21」は球団創設当時に選手が着けたなかで一番大きい番号ね これより大きい番号は監督が着けた「25」と「30」だけです創設年の1936(昭和11)年は監督が途中で交代してるから「25」と「30」なんだね これはまたそれぞれの番号で紹介します第1回目は戦前に背番号「21」を着けた5人の選手を一気に紹介するよ小島利男 内野手愛知県名古屋市出身で愛知商業学校時代には2年生だった1928(昭和3)年夏に始まり、1929(昭和4)年選抜、1930(昭和5)年春と3年続けて甲子園に出場している。2年時にはサード、3~4年時はセカンドだった。大学は早稲田大に進み、1934(昭和9)年に首位打者、1935(昭和10)年秋にはリーグ最初の3冠王になった。卒業後1936(昭和11)年に実業団の三菱鉱業へ入社するが同年8月に退社して、創設間もない大阪タイガースへ入団した。背番号は「21」。この年は秋季から公式戦に出場し31試合117打数30安打18打点、打率.256の成績を残している。小島は早稲田大の先輩である森茂雄監督を慕ってタイガース入りを決めたが、森は1936年7月29日に突如解任されており、小島が入団した8月には2代目の石本秀一監督に代わっていた。これを不服とした小島は何かにつけて石本監督と対立してしまい、球団からチームワークを乱すと判断されて、1937(昭和12)年春季の途中に突然イーグルスへ移籍することになる。ただし、イーグルスでは前年タイガースを解任された森が選手兼任監督となっていたため、ある意味で念願がかなった。イーグルスでは1937年の春季の途中から終戦まで所属しているが、1939(昭和14)年から1940(昭和15)年に1度目の応召、1941(昭和16)年から1942(昭和17)年にかけて2度目の応召、さらに1944(昭和19)年から終戦まで3度目の応召、ほとんどの期間を戦争に翻弄され続けた。1946(昭和21)年、プロ野球が再開されるとパシフィックに所属してプレーしたが、八百長が蔓延していることに嫌気がさして途中退団し、引退してしまう。1947(昭和22)年に電通に入社し3年間籍を置いていた。1950(昭和25)年に西日本パイレーツに招かれて選手兼任監督を務めたが1年で辞め、電通に戻った。その後は実業界に身を置き、文化放送を経てフジテレビの役員を務めた。1969(昭和44)年、55歳で逝去。プロ通算成績は276試合949打数215安打120打点4本塁打26盗塁103三振で、打率227だった。比留木虎雄(ひるきとらお) 内野手長崎県出身で長崎商業学校時代には1933(昭和8)年の選抜大会で甲子園を経験している。当時はセンターを守っていた。1936(昭和11)年11月にタイガースと契約。1937(昭和12)年が1年目のシーズンだが、当初背番号は無く、小島が移籍した春季リーグ途中時に「21」を継承し、おもにサードで起用されている。この年は春季・秋季合わせて8試合に出たが14打数0安打1打点でヒットは出なかった。1938(昭和13)年1月早々に応召すると約3年間軍隊生活をおくる。1940(昭和15)年の秋に復帰して7試合13打数2安打2打点、翌1941(昭和16)年には背番号を「27」に変えたが17試合で29打数3安打0打点に終わって引退した。 その後、高校野球の指導者に転じ、監督として母校長崎商業を率いて1952(昭和27)年の夏選手権、1953(昭和28)年の春選抜に甲子園出場を果たした。プロ通算は実働3年32試合56打数5安打3打点1盗塁9三振、打率.089である。木下 貞一(旧姓:松本) 投手・内野手・外野手愛知県出身で東邦商業時代には春の選抜で3回、夏の選手権で1回の甲子園出場を経験しており、1939(昭和14)年の選抜大会ではエース兼3番打者として優勝。甲子園通算10勝1敗の成績を残すスター選手の一人だった。内外野どこでも守れる万能選手だが、投手としては、ハエがとまるような超スローボールを織り交ぜながら打者を翻弄する巧みなピッチングで人気を集めたという。1941(昭和16)年にタイガース入団。背番号は比留木から「21」を受け継いだ。この年、16試合に登板して2完封を含む4勝4敗、73回2/3を投げて自責点13、防御率は1.58という数字を残すとともに、外野手としても11試合に出ている。 1942(昭和17)年は本格的に野手に転向したため投手としては1試合に投げただけで0勝1敗だった。セカンドとして起用され61試合203打数47安打9打点で、打率.232を記録している。ところがこの年木下家の養子となると、木下家の希望にしたがってシーズン途中で現役引退している。戦後は社会人野球の愛知産業に所属して主軸として活躍し、1953(昭和28)年には名古屋ドラゴンズでプロ野球に復帰する。ドラゴンズでは非常に成功率の高い代打専門の選手として「日本一のピンチヒッター」と呼ばれ2年間過ごしたのち引退している。その後は妻の実家の瀬戸市で陶磁器製造業を営んでいたが2007年12月に88歳で逝去。大橋 棣(やすし) 投手・内野手大阪府出身、旧浪速中学から関西大学へ進み遊撃手として活躍。卒業後は門司鉄道管理局に所属し、1942(昭和17)年10月にタイガースへ入団している。背番号は引退した木下の「21」を引き継ぎ2試合に出場した。1943(昭和18)年は5試合に出場、そのうち投手として1試合に投げたが、同年オフに退団してしまう。その後はアマチュアの指導者となり、1954(昭和29)年には監督として米子東高校を夏の甲子園に導いている。プロ通算成績は、打撃が7試合8打数0安打0打点、投手として1試合防御率4.50だった。塚本 博睦(ひろよし) 外野手広島県呉市出身、旧制呉港中学私大の1934(昭和9)年には藤村富美男などと共に春選抜に出場し全国制覇している。卒業後は立教大学に進んだが、先にタイガースに入団していた藤村の誘いを受けて中退し、1936(昭和11)年12月17日、タイガースと契約した。最初の背番号は「22」で、この番号を着けた最初の選手である。1937(昭和12)年に6試合、1938(昭和13)年に15試合とレギュラーに慣れないうちに同年末に応召され1941(昭和16)年まで3年間の兵役を務めることになる。1942(昭和17)年に復帰すると94試合に出場、主に1番センターとして20盗塁を決めるなどレギュラー選手となった。1943(昭和18)年も81試合に出たが打率は1割台で、どちらかと言えば「守備の人」のイメージだったが、1944(昭和19)年は打率が2割5分台になって向上したが、戦争の激化で31試合しか出場機会がなかった。戦後にプロ野球が再開されると、1946(昭和21)年にタイガースに復帰し背番号を「21」に変える。1947(昭和22)年には106試合347打数104安打34打点17盗塁で打率も3割を記録して優勝に貢献したが、金銭面などの待遇で球団に不満があり、オフに自由契約を希望して阪急ブレーブスに移籍してしまう。1948(昭和23)年、阪急では135試合に出場し536打数139安打48打点4本塁打、39盗塁を決める大活躍を見せたが1年で退団。 1949(昭和24)年は東急、1950(昭和25)年は西日本パイレーツ、1951(昭和26)年は西鉄ライオンズ、1952年は広島カープと渡り歩いて引退している。通算成績は885試合2824打数712安打219打点17本塁打170盗塁229三振、打率.252である。2009年8月20日、90歳で逝去。まとめやっぱり戦争の影が色濃く影響してるなあ小島さんは野球やってる期間より戦争に行ってる期間のほうが長いくらいだし比留木さんに至っては3回も応召してる やってらんないよね 4人の写真が残ってるっていうのは奇跡に近いわこれまでの背番号史を振り返っても 戦前の選手たちはホントについてないわ 戦争によって人生を台無しにされた人が多いのよ でもこういう人たちがつないでくれたから今のプロ野球があるわけね 塚本さんは戦後毎年のように球団移ってる こんなんで落ち着いて野球できたのかな? でも戦後のほうが成績は好いのよね背番号21の2へ続く
2024年03月18日
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背番号20(その8)背番号20の最終回第8回です ようやく最終回にたどり着いたね 今回は4人です 10年以内のことだから皆さん覚えてるよね?球団創設から現在の森木大智投手を含めて26名の選手が「20」を着けました 背番号「19」は16名だったから10人も多いのね10年以上着けたのは(その5)で紹介した伊藤文隆さん一人だけで それもちょうど10年間だったのよ ということは「20」を着けた人には長期にわたってチームを支える中心選手がほとんどいなかったことになるわ 森木投手は高校から入って2024年が入団3年目になるけど、今季は一軍でバンバン投げてほしいよね ずっとファームにいてはファンが「20」を見る機会が遠のいちゃうからねロマン・メンデス 投手ドミニカ共和国サンペドロ・デ・マコリス出身。2007(平成19)年7月にボストン・レッドソックスとマイナー契約してプロ入り。2010(平成22)年にトレードでテキサス・レンジャースに移り、2014(平成26)年に初めてメジャーに昇格し30試合で0勝1敗、防御率2.18の成績を残したが、2015(平成27)年の途中にボストン・レッドソックスへ移籍。日本へ来る前年の2016(平成28)年はメジャー昇格がなく、3Aポータケットで32試合に登板。4勝2敗2セーブ59奪三振・防御率3.38という数字が残っている。 2016年11月27日に1年契約でタイガースに入団。背番号「20」が与えられた。外国人投手はランディ・メッセンジャーとマルコス・マテオがすでに契約済みで、ラファエル・ドリスは手術後の状況が不明なため未契約。その保険としてメンデスと契約したようだ。 191センチの長身から投げるストレートは威力があり、触れ込みでは最速162キロという剛腕が自慢の右本格派投手というものだった。 しかしドリスが春季キャンプに間に合ったため、外国人投手が4人になってしまった。外国人投手の一軍登録枠は3名という規定があり誰か1名は外れることになる。 シーズンに入るとマテオとドリスの調子が上々だったため、メンデスは7月中旬までファーム暮らしとなるが、ウェスタンで38試合に登板して19セーブを稼ぎアピールを続けていた。 その甲斐あって、腰の張りによってマテオが抹消されると7月22日に一軍登録されて5試合に登板し1ホールド1失点の結果を残す。しかしマテオが回復すると7月31日には登録抹消されてしまう。 8月11日にメッセンジャーと入れ替わって再び登録され3試合に登板するも計8失点と打ち込まれ、わずか5日で抹消されてしまった。 その後もウェスタンでは投げ続け、最終的にリーグトップの23セーブを記録したのは評価できる。まだ27歳で伸びしろも感じられるためシーズンが終わるとフェニックスリーグに派遣されて出場しており残留の可能性があると思われた。しかし結局12月2日に自由契約となって退団している。 タイガースでの成績は8試合0勝0敗1ホールド9奪三振、9回2/3を投げて自責点7、防御率6.52だった。ウィリン・ロサリオ 内野手ドミニカ共和国ボナオ出身。2006(平成18)年にコロラド・ロッキーズとマイナー契約しプロ入り。アメリカ時代は主として捕手だった。 2011(平成23)年に初めてメジャーに昇格し16試合に出場している。2012(平成24)年から2014(平成26)年までの3年間は、いずれも100試合以上に出場し、本塁打も28本、21本、13本と長打力も見せており、メジャー5年間で71本塁打を放っているところは大きな魅力だ。2015(平成27)年には出場が87試合に減ってしまい、韓国に新天地を求めて海を渡る。2016(平成28)年はハンファ・イーグルスに所属し、127試合に出場、打率.321、33本塁打、120打点と大活躍。 続く2017(平成29)年も119試合の出場で、打率.339、37本塁打、111打点、10盗塁という好成績を挙げている。シーズンが終わると当然ハンファ側は引き留めたがロサリオは退団を申し出る。 2017年12月13日にはタイガース入団が決まり、背番号「20」を着けることとなった。年棒3億4千万円+出来高の1年契約。マイク・グリーンウェルの3億3千万円を上回る新外国人最高額となった。 韓国での2年間の成績が抜群なだけに、タイガースではファーストを守り開幕から4番に起用されたが、そのバッティングは期待を大きく裏切る結果となる。他の外国人選手と同様にインコースを攻められたあと、外へ逃げるスライダーに対応できない弱点を露呈し、5月には4番を外されてしまう。打率は2割5分に届かない上にホームランも期待ほどでないことから6月3日にロサリオの登録を抹消し、同月15日には新たにエフレン・ナバーロを獲得している。ロサリオは7月17日に再登録されたが打撃は精彩を欠き、8月27日に再び抹消されるとそのままファームでシーズンを終えている。成績は75試合281打数68安打40打点8本塁打71三振、打率.242では1年で解雇もやむを得ない。韓国での数字は何だったのか?とファンのガッカリ感は半端ではなかった。 背番号「20」は、ロサリオ退団の翌2019年は空き番となっている。中田賢一 投手福岡県北九州市出身で県立八幡高校から北九州市立大学へ進む。高校時代は130キロ程度だった球速が大学で150キロまで上がり、リーグ通算300奪三振を記録してドラフト候補へ成長すると、2004(平成16)年のドラフト会議で中日ドラゴンズに2順目で指名され入団している。ルーキーイヤーの2005(平成17)年は開幕からローテーション入りし、15試合で8勝3敗、防御率3.63の好成績を挙げる。3年目の2007(平成19)年には28試合14勝8敗1ホールドで自己最多勝を記録した。中日には9年在籍し186試合61勝51敗1セーブ16ホールドの成績を残し、2015年11月6日に国内FA権を行使する。タイガースは熱心に獲得に動いたが、結局は故郷に近い福岡ソフトバンク・ホークスを選択して移籍している。ソフトバンクでは移籍1年目の2016年に自身2度目の二けたとなる11勝を挙げるなど、6年間在籍して39勝26敗の成績で先発投手として貢献したが、年々成績は落ちており、2019(令和元)年に公式戦わずか1試合の登板に終わると戦力外を通告された。 2020(令和2)年、タイガースに無償トレードで移籍し、中日時代に着けていた背番号「20」がちょうど空き番だったので継承する。 この年には3試合に先発したが0勝1敗で防御率も7.95と復活できず、2021(令和3)年は一軍に上がることもなく、ファームで調整を続けるうちに限界を感じたため9月28日に引退を発表した。 一度はFAで蹴られた選手だけに、タイガースファンとしては後味の悪い最後だったのではないか。 通算成績は297試合100勝79敗1セーブ16ホールド、1550回1/3を投げて1350奪三振、防御率3.75である。森木大智 投手高知県土佐市出身。高知高校時代に甲子園出場はなかったが、3年時にはストレートの最速が154キロに達してプロ注目の投手の一人となっている。 2021(令和3)年のドラフト会議でタイガースは1巡目に小園健太を指名したが横浜DeNAと重複し抽選に敗れたため、改めて森木を指名して入団が決まり背番号「20」の継承者となった。 1年目の2022(令和4)年はファームで14試合4勝2敗、53回を投げて自責点24で防御率は4.08だったが、投球回数を上回る58個の三振を奪っており、期待は膨らんだ。1軍でも2試合いずれも先発で起用されたが0勝2敗、計8回2/3を投げて自責点6で防御率は6.32だった。 2年目の2023(令和5)年は投手陣が充実しており、優勝へひた走っていたこともあって1軍での登板機会は与えてもらえなかった。 ウェスタンでは15試合に登板し3勝4敗。52回2/3で自責点36、防御率は6.15と精彩を欠き、三振も34個しか奪えず1年目の勢いがなくなってしまっている。 2024(令和6)年は3年目。まずプロ初勝利を挙げたいが、そういう機会が与えてもらえるかどうかは本人次第だろう。まとめ メンデス投手は保険として契約した感じで、結局は余剰戦力になってしまったようね ファームではかなり好い成績だったのに残留すらできず 何しに来たのやら分からないまま解雇ってちょっとかわいそうだった ロサリオ選手はとんでもない結果に終わったね とにかくメジャーで71発打ってるし韓国での数字が抜けてるから手拍子で3億4千万円も出しちゃったけどドブに捨てたなあ 最近の日韓のレベル差って相当開いてるんだろうね・・・ 中田さんは一度FAで阪神を袖にしてるのによく来れたなあっておもった ソフトバンクで通算100勝を達成してたから 阪神で一つでも上積みしたいって会見で言ってたけど1勝もできずかっこ悪かったよ 森木君は期待の投手 どちらかというとパワーピッチャーです 184センチ93キロの体格も立派 才木君や湯浅君のように速球で押せる投手になってほしいわ これで背番号「20」は終わりです 読んでくれてありがとう背番号21に続く
2024年03月08日
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背番号20(その7)背番号20も第7回になりました各選手の着けてる期間が短いことも多くてその分人数が多いよね 今回を含めてあと7人残ってますが 結論を言うと約90年の歴史で一流と呼べるほどの人は着けてません まだこれから育てないといけない番号なのよ金沢健人 投手茨城県北茨城市の出身で県立磯原高校時代は全く無名の投手だった。卒業後NTT関東に入社し、1998(平成10)年の日本選手権で優勝。金沢は抑え役として活躍している。この年NTTグループの再編によりNTT関東が消滅し野球部も廃部となったため、規定より1年早くプロ入りが認められる。ドラフト会議ではタイガースへ逆指名2位で入団。背番号「20」を継承した。 187センチ90キロの大型右腕でポテンシャルが高く、タイガースでは大切に育成する方針となって2年目まではファームで鍛えられた。 一軍デビューは3年目の2001(平成13)年8月。この年12試合にすべてリリーフで登板したが0勝0敗、13回を投げて自責点10、防御率6.92に終わっている。 2002(平成14)年にはフォークボールを習得し、新しく就任した星野仙一監督が積極的に起用したため50試合で5勝4敗1セーブ、防御率4.33の成績を挙げ、1年を通じて貴重な中継ぎで活躍した。49試合がリリーフで先発は1試合だけだったがその試合で勝利投手になっている。 2003(平成15)年はすべてリリーフで36試合に投げ、防御率2.75と安定した成績でリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは1試合に登板しているが2回8失点と炎上して貢献できなかった。 2004(平成16)年には右ひじの故障で23試合1勝1敗にとどまりオフには手術を受ける。 2005(平成17)年は故障の影響で一軍での登板は無く、ファームの9試合で投げただけだった。 2006(平成18)年には復活して25試合に投げ3勝1敗7ホールドの成績を挙げたが、防御率は4.78と信頼性が無くなってしまったため、2007(平成19)年の開幕直前に、正田樹との交換トレードで日本ハムファイターズへ移籍することになる。背番号「20」は入団から移籍するまでの8年と約2か月付けた。 2007年と2008(平成20)年は日本ハムでプレーしたが、2年で戦力外。2009(平成21)年は入団テストに合格したオリックスで5試合に起用されるも2010(平成22)年4月にソフトバンクへトレードされてしまう。 ところがソフトバンクに移ると38試合に起用されて防御率2.89と覚醒する。移籍1年目の2011(平成23)年には53試合1勝1敗3セーブ16ホールドで防御率1.66と生涯最高の成績を挙げる。 2012(平成24)年も49試合で防御率2.44と安定した数字を残しており、まさに「晩成」と言っていい。 2013(平成25)年、27試合で防御率も3点台に低下して衰えが顕著になると10月に戦力外通告を受ける。合同トライアウトに挑戦したが獲得球団はなく引退に追い込まれた。 通算成績は332試合15勝11敗4セーブ32ホールド287奪三振、412回1/3を投げて自責点171、防御率3.73だった。正田 樹(いつき) 投手金沢健人とのトレードで2007(平成19)年4月にタイガースへ入団し、背番号も金沢から「20」を受け継いでいる。群馬県太田市出身で188センチの大型左腕。1999(平成11)年、桐生第一高校の3年時にエースとして夏の選手権に出場し群馬県代表として初優勝を飾る。正田も3完封と活躍してプロ注目の投手になり、同年のドラフト会議では日本ハムファイターズから1位指名されて入団している。 プロ1年目の2000(平成12)年に5試合、2年目の2001(平成13)年に1試合と一軍を経験するが勝ち星は付かなかった。3年目の2002(平成14)年、ローテーション投手に抜擢されて23試合に投げると規定投球回数をクリアして9勝11敗、防御率3.45の好成績を挙げ、最優秀新人に選ばれている。2003(平成15)年から2005(平成17)年までの3年間はすべて先発で起用されたものの5勝、8勝、2勝と伸び悩み、2006(平成18)年はついに一軍登板なしで終わってしまう。既述のように2007年4月に金沢に代わってタイガースへ移籍したが、在籍2年間で一度の一軍登板もないまま戦力外通告。2009(平成21)年から2年間は台湾にわたって興農ブルズでプレーし、2011(平成23)年に日本に戻って独立リーグの新潟アルビレックスBCで地区優勝に貢献するピッチングを見せた。2012(平成24)年にはヤクルトスワローズに入団してNPBに復帰。2年間中継ぎとして39試合に登板し1勝1敗4ホールド、防御率2.85と働いたが戦力外。 2014(平成26)年には再び台湾に渡り楽天モンキーズに入団するも5月には解雇されて日本に戻り、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツに入団し、2023(令和5)年までプレーして引退した。NPBでの通算成績は123試合25勝38敗4ホールド263奪三振、486回1/3を投げて自責点254、防御率4.70だった。筒井和也 投手(再掲)筒井投手は背番号「19」で紹介済み。再掲する。愛媛県伊予市出身、松山北高校から愛知学院大学へ進む。大学時代には2年時の大学選手権での8連続三振を記録。大学通算29勝4敗で防御率1.04の成績を残すとともに、リーグ戦で24連勝を記録するなど、三振が取れる速球派の大型サウスポーとして注目を浴びる存在となった。2003(平成15)年のドラフト会議では自由獲得枠(逆指名1位)でタイガースに入団、最初は川尻が着けていた「19」を引き継いでいる。鳴り物入りで入団した筒井だったが大きく期待を裏切り、1年目に1勝しただけでプロ入り5年間は芽が出ていない。2004年 1試合 1勝0敗 5回1/3 自責点1 防御率1.692005年 1試合 0勝0敗 3回 自責点2 防御率6.00 2006年 一軍登板なし2007年 4試合 0勝0敗 5回 自責点6 防御率10.802008年 3試合 0勝0敗 4回 自責点1 防御率2.25筒井はこの間に事件も起こした。2005(平成17)年1月、兵庫県内の中国自動車道で自家用車を運転中に、83キロオーバーの速度違反で検挙される不祥事を起こし、球団から50万円の罰金と当面の対外試合出場禁止、自動車運転の禁止という重い処分を受けている。芽が出ない筒井は2009(平成21)年、背番号を「20」に変え、一応一軍のブルペンにいたものの当初は敗戦処理だった。7月にプロ初ホールドを記録したあたりからようやくエンジンがかかり、結果的にこの年45試合に登板して53回1/3を投げ、防御率3.71を記録している。 本当の意味でブレイクしたのは2012(平成24)年のことで、すでにプロ入り9年目。キャリアハイの58試合に登板して2勝1敗2セーブ18ホールド、50回46奪三振、自責点18防御率3.24という成績だった。その後の2年間も39試合、28試合とそこそこ働いたが、2015(平成27)年が6試合、2016(平成28)年には1試合となって引退。 通算成績は221試合8勝6敗3セーブ29ホールド、242回を投げて215奪三振、防御率3.87だった。背番号「20」は8年間背負った。まとめ 金沢さんはフォームに問題がったのかヒジを壊したんだよね それまではボールのキレが抜群だったらしいよ でもソフトバンクでは完全復活できて好かったよね 高校時代の正田さんは凄い投手だったんだね プロでも3年目に新人王になって日本ハムでエースになりそうな雰囲気だったのに そこをピークに下降してしまうのよ タイガースでは何の役にも立たなかったわ筒井さんは背番号「19」で紹介済みだけど 湯浅君の担当スカウトだったのよね 今の湯浅君を見てると心配してるんじゃない?何かアドバイスしてあげてほしいよ背番号20-8に続く
2024年03月05日
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背番号20(その6)背番号20の第6回目ですここまで見てきても「背番号20」はタイガースでは地味系な感じがしてならないよね今回の最初の人も「誰だろうね?」となってしまうんだけど だんだんと時代も新しくなって来てるからそれなりに「ああいたよね」って名前を思い出す選手も出てくるよ眞鍋勝已 投手・捕手・外野手岡山県倉敷市の出身で高校は関西高校だったが全国大会などとは無縁。1986(昭和61)年のドラフト会議でタイガースから6巡目に指名されて入団。最初の背番号は「57」だった。1年目の1987(昭和62)は秋季オープン戦の巨人戦で好投して1勝をあげると、この秋に就任したばかりの村山実監督が惚れ込んで背番号「20」へ変更させている。「20」で臨んだ1988(昭和63)年はカリフォルニア・リーグの1A、フレズノ・サンズへ野球留学するが目立った成果がなく、帰国後一軍に上がることはできなかった。 1989(平成元)年には、背番号「20」を渡辺信彦に譲り、「55」に変えて臨んだがウェスタンで1試合に投げただけで肩を壊してしまう。 投手として投げられなくなり、1990(平成2)年は捕手に転向したが、ファームですら試合に出れず、もっぱら受けるだけのブルペン捕手に終始している。 1991(平成3)年に外野手へ転向。結局ウェスタンの試合にすら出場できずにオフには引退している。在籍5年間で一軍公式戦の出場はできなかった。 1992(平成4)年、ブリンクマン・フローミング審判学校で学んだ後、セントラル・リーグの審判部に採用されて関西審判部に入局。 2021年4月6日、甲子園での阪神VS巨人伝統の一戦で通算2500試合出場を達成している。現在では最古参の審判員である。2020年の東京オリンピックでも審判を務めた。 眞鍋は6回だけストライクのコールが変わる。このイニングだけ天を見上げ両手を上げるのだが本人はそのわけを明かさないという。渡辺伸彦 投手兵庫県尼崎市で生まれだが島根県邑智郡石見町へ引っ越したため高校は島根県の益田高校。高校時代に捕手から投手に転向している。3年時に社会人王子製紙米子のテストに落ち、広島の常石鉄工に入団した。 1988(昭和63)年の都市対抗予選での活躍が認められて同年ドラフト会議でタイガースの5位指名を受けて入団している。眞鍋から背番号「20」を引き継ぐ。 ルーキーイヤーの1989(平成元)年、5月31日のヤクルト戦で一軍公式戦初登板を果たす。この試合の6回、渡辺はラリー・パリッシュの頭部へデッドボールをぶつけた。激怒したパリッシュがマウンドへ突進し、止めに入った捕手の岩田徹の頭を空手チョップで叩いたことで両軍が入り乱れる乱闘に発展した。この結果パリッシュが退場し、渡辺は続投するが、乱闘直後に中西親志の頭付近へまたも危ないボールを投じたことから再び大乱闘になり外野を逃げ回る醜態を演じた挙句、セ・リーグでの危険球退場適用第1号になった。(パ・リーグでは1982年の井上祐二が初)それでもこの年は30試合にリリーフ登板し防御率3.70と戦力になっている。 2年目の1990(平成2)年にはパリッシュが移籍してきてチームメイトになったため無事に和解する。5月1日のヤクルト戦でプロ初勝利を挙げたが、この試合ではパリッシュが第6号ホームランで援護している。 渡辺は41試合に登板して先発も4回経験するなど65回1/3を投げ、2勝1敗2セーブで防御率は5.10だった。 ところが1991(平成3)年が8試合、1992(平成4)年も11試合と登板機会が減り、1993(平成5)年には背番号「20」を郭李健夫に譲って「41」に変えたが21試合0勝2敗に終わっており、オフには古溝克之との交換トレードでオリックス・ブルーウェーブへ移籍する。 オリックスには1997(平成9)年まで4年間在籍し、すべてリリーフで121試合に登板 通算7勝7敗13セーブ防御率2.98の成績を残しているが自由契約に。 1998(平成10)年はテストで横浜ベイスターズに入団したが登板は無く、在籍2年目に5試合で6イニングを投げたが、7失点で防御率10.50に終わり、2000(平成12)年に引退した。 2002(平成14)年にタイガースへ復帰して2019(平成31)年までバッティング投手を務めていた。郭李建夫(クォリー・チェンフー) 投手台湾平鎮市の出身。 中華高給高校からノンプロ栄工棒球隊や俊国棒球隊に所属。速球主体の本格派右腕として1992(平成4)年のバルセロナ五輪ナショナルチームのエースとなり銀メダルを獲得している。 五輪後、日本のプロ野球入りを希望し、激しい争奪戦となったが子供のころからのタイガースファンであったこともあり、在籍中のオマリー、パチョレックに次ぐ「第3の外国人」として入団している。背番号は渡辺から「20」を引き継いだ。 当時一軍公式出場選手登録の外国人選手枠は2名で、郭李の出場機会が少ないことを分かっていながら(PKO問題)、このタイミングでタイガースは野田浩司を放出してしまうという矛盾を犯している。それだけ郭李に期待していた裏返しではあるのだが・・・ そんな状況だった1年目の1993(平成5)年、郭李は27試合に登板、そのうち24試合がリリーフだったが5勝4敗2セーブで防御率3.68という数字を残す。51回1/3で48奪三振も期待通りだった。 1994(平成6)年は49試合47試合がリリーフ。7勝5敗2セーブで防御率3.14と数字を伸ばしている。 1995(平成7)年は待望の先発ローテーションに入りも果たし、30試合のうち17試合の先発があったが、成績は5勝12敗と大きく負け越してしまった。ただし防御率は3.37でそれほど悪くなく援護に恵まれなかった面はある。1996(平成8)年にはチーム事情により途中からストッパーに配置転換されながらも、46試合で8勝9敗15セーブとよく働いている。1997(平成9)年は故障などでわずか5試合しか登板できず、ファームでも13試合で1勝6敗1セーブと低迷した。 1998(平成9)年も11試合2勝1敗と奮わず、この年で解雇されて台湾に戻った。タイガースでは在籍6年間を通して背番号「20」を背負った。 台湾に戻ると大信ホエールズで5年間プレーしたのち引退している。 NPB通算成績は167試合(先発28)27勝31敗19セーブ299奪三振、375回で自責点146の防御率3.50。 入団当初から期待が高く150キロを超えるストレートで三振を奪う力もあったが、何度もフォームを修正させられるうちに成績が伸びなくなっており、使われ方も先発とリリーフのどっちつかずで大成できずに終わったのは残念だった。 まとめ 一人目の眞鍋さんは多分タイガースファンの記憶にほとんど残ってないんじゃない?でも審判として大成できたのは凄いよ 選手だけが人生じゃないのよ 渡辺さんはなんだかわけがわからない選手ね コントロール悪かったのかな 強気でインコース攻めておいて相手が怒ると外野まで逃げていくってなんなの??? 郭李さんは当時を知る人に聞くと期待度は凄かったみたいね 確かに体つきもがっしりしてるし 剛速球投手ってイメージは分かるな でも台湾で育ってるから 日本の指導者から見るとフォームに色々欠点があったらしいのよ いじられてるうちに混乱して大きく伸びることができなかったようね 素材は一級品だったのに惜しかった投手だわ背番号20-7に続く
2024年03月03日
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背番号20(その5)背番号20の第5回目です多くの選手の着けた期間が短いという特徴のある背番号「20」だったけど前回は石川緑さんが6年 辻恭彦さんが7年で すこし落ち着いてきた感じがしたよね今回は3人を掲載するけど 3人目に出てくる伊藤投手が唯一この番号を10年着けた選手 その選手のおかげで「20」が投手の番号に定着したともいえるかな? 伊藤さんは「14-5」で登場済みだけど再掲するよ笹本信二 捕手・外野手徳島県板野郡松茂町出身で高校は鳴門高校。3年時の1970(昭和45)年の選抜大会に4番・捕手・キャプテンとして出場しベスト4、卒業後は同志社大学に進学する。大学では1年春から4年秋まで、リーグ戦の全試合に出場して優勝4回、ベストナイン4回。特に一学年下のエース田尾安志とバッテリーを組んでいたころは無敵の強さだった。通算95試合346打数86安打8本塁打、打率.249の成績を残している。 1974(昭和49)年のドラフト会議でタイガースから3位指名を受けて入団、辻恭彦の着けていた背番号「20」を受け継いだ。 右投げ左打ちでバッティングフォームは掛布と似ておりパンチ力もあったが確実性に欠けるところがあった。 即戦力捕手と期待がかかっているが、1年目の1975(昭和50)年当時はまだ田淵幸一がマスクをかぶることが多かったため33試合にしか出ていない。しかも代打や守備固めがほとんどで25打席に立っただけだ。成績も23打数5安打5打点9三振で、打率は.217と寂しい。 2年目の1976(昭和51)年には阪急ブレーブスから片岡新之介(タイガース背番号史 13の3 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp))が移籍してくる。当時のタイガースは基本的に一軍ベンチの捕手は2名体制だったため、ますます出番が減って14試合13打数1安打4三振、打率.077という数字しか残せなかった。 そのため1977(昭和52)年のシーズン開幕直前に、竹村一義・新井良夫との1対2の交換で阪急へ放出されてしまう。 移籍先の阪急には正捕手の中沢伸二がおり、笹本は控え捕手に甘んじている。それでも打力が向上して1979(昭和54)年は68試合ながら打率.327、翌1980(昭和55)年は79試合で7本塁打と貴重な戦力になっていた。1977年4月24日のロッテ戦では5度の盗塁阻止を記録。これは2024年現在でも1試合における盗塁阻止数の日本プロ野球タイ記録である。 ところが1981(昭和56)年に片岡新之介がタイガースから戻ってきたため余剰戦力となり、1982(昭和57)年のシーズン序盤で読売ジャイアンツへトレードされることに。二度も片岡に追い出された格好になった。 読売には山倉和博という正捕手がいたためまた控えに甘んじ、4年間在籍したものの111試合の出場に終わって、1985(昭和60)年を最後に現役を退いた。 通算成績は462試合598打数145安打20打点16本塁打98三振、打率.242。竹村一義 捕手・外野手高知県安芸市出身。安芸高校ではエースだったが全国大会には縁がなかった。それでも1967(昭和42)年のドラフト会議では大洋ホエールズから7位指名を受けプロ入りする。大洋では3年目の1971(昭和46)年に38試合登板して103回2/3を投げ2勝5敗、防御率2.86と働いたが、5年在籍中の勝利はこの年の2勝のみ。5年目の1973(昭和48)年シーズン途中に阪急ブレーブスへトレードで移籍する。 1973年の途中からとはいえ、移籍先の阪急では先発要員に抜擢され8勝3敗で防御率2.93と結果を出す。 1974(昭和49)年も先発機会が多く、31試合9勝3敗で規定投球回数に達し、最高勝率のタイトルを獲得した。 1975(昭和50)年には26試合で11勝6敗とプロ生活唯一の2桁勝利を挙げて貢献している。 1976(昭和51)年には有名な事件があった。6月17日の日本ハム戦の4回、ウィリアムスの後頭部へ死球を投じ、続く5回にも上垣内誠へ顔付近への死球を当て、怒った日本ハム監督の大沢啓二が一塁コーチャーズボックスから駆けつけて殴打した。 ウィリアムスと大沢の2人は退場処分となったが、当時は危険球退場の規定はなく、抵抗しなかった竹村は処分を受けなかった。一方で退場となった2人は罰金5万円と一週間の出場停止の処分も追加されたため大沢は「危険な投球に対しては退場処分を下す」ように主張を続け、その後危険球退場制度へつながっていく。 結局竹村はこの年0勝に終わり、1977(昭和52)年の開幕直前に前述の笹本とのトレードでタイガースに移籍することになる。 このシーズンは13試合0勝3敗、防御率5.82と戦力になれず自由契約となり、日本ハムファイターズの入団テストを受けるも不合格となって引退に追い込まれた。 通算成績は172試合(先発79)30勝23敗290奪三振、609回を投げて自責点255、防御率3.77で勝ち越しているのは評価できる。伊藤文隆(「伊藤 弘利」「伊藤 宏光」) 投手(再掲)背番号14ー5で登場済みだが再掲する 愛知県名古屋市出身で大同工業高時代に予選決勝まで進んだことで注目され中日から5位指名を受けたが拒否。明治大に進むも中退して社会人三協精機に入部している。1977(昭和52)年の都市対抗での好投が評価され、同年秋のドラフト会議でタイガースが1位指名し入団することになる。もらった背番号は「20」で10年間着けており、1988(昭和63)年から引退までの4年間は「14」を着けた。 入団当時はタイガースで一番ストレートが速いと言われた本格派右腕で期待されたが、1年目の1978(昭和53)年は18試合で1勝1敗に終わると、2年目が1勝3敗1セーブ、3年目が4勝6敗と期待を裏切り伸び悩んだ。4年目の1981(昭和56)年に33試合で8勝を挙げ、ようやく頭角を現してくると、1982(昭和57)年には10勝をマークしてエース級に成長するかに見えた。ところが日本一になった1985(昭和60)年は5勝に終わり、翌年に8勝と持ち直したものの、1987(昭和62)年は0勝9敗と白星を挙げることができなかった。1988(昭和63)年、心機一転を期して八木から背番号「14」を譲り受けて臨み、開幕から2連勝をいずれも完封勝利で飾る。しかし、4月27日の大洋戦で右踝をスパイクされて重傷を負ってからほぼ1年を棒に振った。翌年からは3勝8敗、2勝4敗、0勝1敗と活躍することはできず、1991(平成3)年のシーズンを最後に現役を退いた。 ストレートは速く威力があり、好調時には手のつけようがないと感じさせるほどのピッチングを見せるが、あっさりとノックアウトされたり突如制球を乱すなど波が激しいのが特徴だった。通算成績は14年間で320試合に登板し54勝81敗4セーブと大きく負け越しており、防御率も4.43だった。エースを期待されながらなり切れなかった投手である。まとめ 笹本さんは巡り合わせが悪かったというのもあるけど 実際には実力不足だったんだろうね でもドラフト3位で入れといて2年でトレードって ちょっとかわいそうだよね 竹村さんはその笹本さんとのトレードできた投手 タイガースではもう晩年で1勝もできずに1年で終わっちゃったから 余計に笹本さんが気の毒におもえるわね 伊藤さんは背番号14ですでに紹介してるけど タイガースは先発ローテを守る投手になってほしかったようね でも評価ではストレートがすごく速いということみたいだから リリーフ専任で試してみるのもありだったんじゃない? 1イニング限定にしてあげれば先発と違ってペース配分もないからバンバン速球で攻めて三振取っちゃうほうに向いてたんじゃないかなあ背番号20-6に続く
2024年02月28日
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背番号20(その4)背番号20の第4回目です最初に出てくる伊奈さんは背番号17-2で紹介済み 中日から来たんだけど背番号「20」は1年しかつけなかったんだよねその伊奈さんから背番号を引き継いだ石川緑さんも中日からの移籍組なんだけど この人はタイガースでも割と活躍してるのよ石川さんの次は辻 恭彦さんで「ダンプ辻」と呼ばれたキャッチャーね伊奈 努 投手(再掲) 伊奈については背番号17-2で紹介しているが ここでも全文を再掲する愛知県御津町(現豊川市)の出身。豊川高校では左のエース級投手である一方で一塁手もこなし地区予選ベスト4が認められて、1953(昭和28)年に名古屋ドラゴンズへ入団し、プロ入り後は投手に専念する。 1957(昭和32)年には36試合(うち先発19)に登板して12勝12敗・防御率2.67と活躍してオールスターにも出場。この年から登録名を「勉」から「努」に変えている。 1959(昭和34)年には57試合(うち先発23)で267回を投げており、先発とリリーフでフル回転して16勝14敗・防御率2.53の好成績を挙げた。ドラゴンズには8年間在籍し46勝46敗453奪三振、800回2/3で自責点264、防御率2.97だった。この数字を見ると、安定感はあるが結局は勝ち負けの数がほぼ同じくらいの平均点的な投手だったようだ。ケガなどもあって1960(昭和35)年は2勝5敗で防御率6.75と振るわず、オフにタイガースへトレードされてしまう。 1961(昭和36)年、タイガースに移ると背番号「20」を着ける。この年は30試合に登板しており先発も14試合あった。かなり期待はされていたが、4勝9敗で防御率も3.62と結果を出せずに終わる。翌1962(昭和37)年には、後を追うように中日から移籍してきた石川に背番号「20」を譲り、自身は「17」に変えて2年間着けている。タイガース在籍の3年間で61試合に登板しており、そのうち31試合は先発だったことから、ローテーションの穴を埋める貴重な左投手という位置づけだったことが想像される。しかし1年目が4勝9敗、2年目は3勝2敗、3年目は0勝5敗に終わっている。とても役目を果たせたとは言えない。この成績では引退もやむを得なかった。 タイガースでは3年間で61試合(先発31)7勝16敗、168回1/3で奪三振86、自責点90防御率4.81に終わっている。 1984(昭和59)年9月1日49歳で逝去。石川 緑(みどり) 投手本名は「伊藤緑郎(いとうろくろう)」。伊奈努と同じ愛知県豊川市出身。県立国府高校を経て1954(昭和29)年に中日の入団テストを受けて合格し入団したサブマリン。2年目の1955(昭和30)年に10試合(先発6)を投げて3勝2敗、防御率3.51の成績を挙げたがその後は伸び悩み、1956(昭和31)年から1959(昭和34)年までの4年間には1勝しかできなかった。1960(昭和35)年、61試合(先発22)とフルに使われたことでようやく自分の投球をつかんだのか13勝12敗、197回1/3を投げて防御率2.36の好成績を残す。ところが1961(昭和36)年は3勝1敗と落ち込み、シーズン終了後には時季戦力構想から外れ、8年間在籍した中日からタイガースへ金銭トレードされてしまう。 中日で落ち目となってタイガースへやってきた石川だったが、先発投手としてかなりの戦力になった。伊奈から受け継いだ背番号「20」は入団から自由契約になるまで6年間背負っている。 移籍1年目の1962(総和37)年は5勝4敗ながら19試合の先発をこなし、リーグ優勝に貢献している。 3年目の1964(昭和39)年には10勝3敗と二けた勝利を挙げ、防御率も2.90と上々で、村山実、ジーン・バッキーの陰ながらリーグ優勝の重要なパーツになった。日本シリーズでも3試合のリリーフ登板がある。 次項に出てくる「ダンプ辻」の証言によれば「立ち上がりでその日の出来が分かる人で、1回からつかまることも多かったけど、1回を過ぎたら必ず5、6回は投げられる人でした。だから僕がブルペンにいたときは、「先発・石川」となったら最初から緊迫状態です。何も言われんでもピッチャーをつくっておかなきゃいけないですからね。ただ、そこを抜けたらもう大丈夫。2回以降はのんびりやっていたのを思い出します。」というタイプだった。 1965(昭和40)年も10勝10敗、防御率2.91と2年連続で二けた勝利したが、1966(昭和41)は6勝13敗と勝てなくなり、1967(昭和42)に1勝4敗となったところで自由契約を言い渡される。タイガースでは6年間で41勝42敗の成績だった。 1968(昭和43)年は東映フライヤーズに拾われて1年間在籍したものの27試合1勝3敗に終わって現役を退いた。 プロ通算成績は実働14年で374試合62勝60敗547奪三振、1169回1/3を投げて自責点432防御率3.32である。2004(平成16)年4月20日に69歳で逝去。辻 恭彦(やすひこ) 捕手愛知県名古屋市出身。高校は愛知4商の一つに数えられる名門享栄商業(現享栄高校)。高校では1960(昭和35)年の夏に甲子園に進んだが1回戦で敗退。高校を卒業すると岐阜県の実業団・西濃運輸へ入社。打線の中軸として1962(昭和37)年には都市対抗本戦に出場し、同年タイガースへ入団している。もらった背番号は「67」だった。入団した年には試合に出ることは無かったが、なぜかジーン・バッキー投手の入団テストの捕手役をやっている。どっしりとした体つきに加え運送業の西濃運輸からの入団ということもあって「ダンプ辻」の愛称がつき、同時期に在籍した捕手の辻佳紀(ヒゲ辻)と識別された。1967(昭和42)年までは芽が出ないままで、一軍公式戦は同年の29試合出場が最多で6年間もくすぶっている。この間の1963(昭和38)年には背番号を「44」に変えたが効果は無かった。 伸び悩む中で前項の石川緑から「お前、これから長いことやりたいんだったら、毎年一人、いい若いピッチャーをつかまえて教育しろ」という金言をもらったことで覚醒していく。1968(昭和43)年、退団したその石川から背番号「20」を引き継ぐ。辻は藤本監督から入団2年目の江夏豊の相手を任されたことを契機にして、「もっと三振を取りたい」という江夏の希望をかなえていくためにアドバイスを送ってサポートし、「俺が投げる大事な試合はダンプさんにしてくれ」と言わせるまでになる。江夏はこの年25勝12敗で最多勝、日本記録の401奪三振と大化けし、辻も自らの存在感を高め、86試合に出場した。 1971(昭和46)年には田淵が体調不良で長期離脱し復帰してもファーストや外野を守ったため、辻は全試合出場を果たしている。 1972(昭和47)年は田淵が正捕手に復帰したあおりで58試合、1973(昭和48)年は24試合、1974(総和49)年も23試合と出番が激減し、オフには辻佳紀とのトレードで大洋ホエールズへ移籍する。入れ替わったヒゲ辻は出戻りでのタイガース復帰だった。 大洋では出場機会は多くなく、最高でも75試合と控え捕手に甘んじているが、貴重な戦力として1975(昭和50)年から10年間在籍し1984(昭和59)年に引退する。頑丈な身体で大きなけがもなく、プロ野球生活は実に23年に及んだ。 通算成績は974試合1998打数418安打163打点44本塁打353三振、打率.209。 引退後も大洋(のち横浜ベイスターズ)に残って1998(平成10)年までコーチを務め多くの選手育成に貢献した。イップスで満足な送球ができずに悩んでいた若手時代の鈴木尚典を指導してのちに2年連続首位打者への道を開いた実績もある。まとめ 4回目になってようやく背番号「20」にも光が差してきたかなでも伊奈さんと石川さんは中日からの移籍だし ダンプさんは大洋へ出て行っちゃったから 3人ともタイガース一筋で現役生活を全うしていないのよね 投手2人のあとまた捕手が着けてるから まだポジションもはっきりした決まりがないよ 予告だけど次回の最初に登場するのは捕手兼外野手よ さて誰でしょう?背番号20-5に続く
2024年02月24日
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背番号20(その3)背番号20の第3回目です前回までに7名の選手を紹介してますが 成功したと言えそうなのは藤村隆男さんだけね しかも藤村さんが「20」を着けたのはたった1年だけ なんだか「不幸の背番号」みたいになってるねさて3回目となる今回はどうかな? 3名の選手を紹介しますが今回もすっきりしない内容になってるわ阪田正芳 内野手大阪府出身だが兵庫県神戸市生まれとも言われる。いずれもプロ選手となった阪田3兄弟の次男で、長男の清春は滝川中から阪急・南海でプレーした捕手、三男の芳秀は波華商から毎日へ進んだ捕手。阪田正芳は167センチ66キロと小柄だが、波華商時代は投手。1946(昭和21)年の夏は控え投手として全国制覇を経験しており、1947(昭和22)年の選抜にはエースとして出場したが2回戦で、さらに1948(昭和23)年の選抜では弟・芳秀とバッテリーを組んで再度出場するも1回戦で敗れた。卒業後は実業団の郡山日東紡績に進み、1950(昭和25)年にタイガースへ入団し1年目は背番号「33」を着けた。 タイガースでは内野手(主にショート)に転向したが打力がなく守備要員に甘んじていたようだ。 1950年は背番号を「20」に変え、41試合に出ているがスタメンは4試合、58打数15安打3打点で打率.259に終わっている。 1951(昭和26)年は38試合で24打数3安打2打点、打率.125と打撃に進歩はなく、1952(昭和27)年はわずか4試合の出場しかできず、結局3年間の在籍で退団に追い込まれた。 退団後は社会人に戻り、松下電器に入社。1992年8月20日に64歳で亡くなっている。内山 清 投手(再再掲)先代が背番号3-1、2代目が背番号5-2で紹介しているが改めて詳しく掲載する。阪田の退団後、1953(昭和28)年は背番号「20」は空き番となる。次に「20」を背負った内山清は和歌山県西牟婁郡上富田町の出身。167センチ56キロという小柄な投手で、県立海南中学時代は無名の選手。海南日東紡績を経て、1948(昭和23)年7月にタイガースへ入団し、最初は背番号「3」を着けている。1年目はシーズン途中からの出場となったが、15試合に登板して54回を投げており2勝3敗で防御率4.50の成績を残す。2年目の1949(昭和24)年は30試合で先発も8試合あり、105回2/3を投げて5勝5敗。防御率は5.94ながら戦力になってきている。1950(昭和25)年は背番号を「5」に変えて開幕投手を務めるなど主力投手として47試合に登板、そのうち22試合が先発だった。キャリアハイの220回を投げており、12勝15敗で防御率は4.46だった。1951(昭和26)年も42試合登板で10勝5敗、防御率3.34と2年連続で二けた勝利を挙げている。 ところが1952(昭和27)年になると登板は20試合に減る。投球回数も33回1/3にとどまり、1勝1敗で防御率3.71の成績に終わった。 1953(昭和28)年はさらに衰え、3試合で1勝0敗となり、1954(昭和29)年には背番号を「20」に変えてみたが成績は振るわず2試合0勝0敗、ファームでは内野を守っていた。シーズン終了後に引退。 引退後はアマチュア野球の指導者となり、埼玉県で高校野球日の監督を48年間も務めた。市立川口高校ではのちに読売でエースとなる斎藤雅樹を育てている。西村一孔(かずのり) 投手山梨県大月市出身。都留高校時代には2年時に夏の甲子園に捕手として出場するも1回戦で敗退、卒業後は社会人・藤倉電鉄に入社。1954(昭和29)年の都市対抗では3試合連続完封、27イニング連続無失点の大活躍で準優勝に貢献してプロ注目の選手となり、争奪戦を経て同年タイガースと契約する。契約金、年俸ともに新入団選手の中では最高で背番号は引退した内山から「20」を引き継いだ。 1955(昭和30)年、藤村隆男、渡辺省三、小山正明などの諸先輩を差し置いてルーキーながら開幕投手に抜擢されると6回2失点でプロ初勝利を挙げる。 地肩が強く、先輩投手たちが目を丸くするほどの剛速球だったため、だれからもルーキーの開幕投手抜擢に文句は出なかったという。 その後も投げまくって勝ち星を重ねていき、オールスターにはファン投票で選出されている。次の写真は1955年のもので向かって左が西村、右が小山。 1年目は60試合に登板。うち先発が20試合で12完投5完封。22勝17敗302奪三振、295回1/3で自責点66の防御率2.01という素晴らしい成績を挙げている。302奪三振はのちに権藤博に破られるまで新人選手の最多記録だった。 この成績で文句なしの新人王に輝き、一気にエースの座へ駆け上ったかに見えた西村だったが、1年目に肩を痛めていた。 1956(昭和31)年は肩の故障の回復が思わしくなく、開幕に間に合っていない。7月から公式戦に投げたが、今度は盲腸炎を発症してしまう。優勝もあり得たチーム事情から、薬で痛みを散らしながらシーズン終了まで投げ切ったが、23試合で7勝3敗に終わり貢献できなかった。それでも104回1/3で自責点16、防御率1.38という数字は大したものだ。 しかし盲腸炎をこらえながらの投球がたたって、オフに手術をしたものの2カ月も入院生活を送ることになる。 もともと地肩の強さにものを言わせての「担ぎ投げ」、力任せに上半身だけで投げてくるフォームは我流で、3年目に肩は完全にパンクする。実際に投球フォームはひどいもので、次の写真のようにリリースのとき顔はまったく下を向いてしまってホーム方向を見ていない。(元読売の岡島投手に似ている) 1957(昭和32)年は、わずか5試合のリリーフ登板のみで0勝0敗、18イニングしか投げられなかった。 1958(昭和33)年、肩が回復する見込みがないまま12試合の登板で2勝0敗に終わっている。 1959(昭和34)年~1960(昭和35)年は一軍に上がれないまま故障と戦ったが回復できず、6年間の現役生活を終えた。 プロ通算成績は100試合31勝20敗419奪三振、443回1/3で自責点96、防御率は1.95である。 小山正明は入団した当時に西村の剛速球に驚いたが、その投球フォームから「いつか肩を壊すんじゃないか」と予想していたという。 我流フォームを修正する暇もないうちに、1年目から好成績を出してしまったことが却って短命に終わる結果に直結したようだ。当時を知る人たちから「優に150キロを超えていた」という証言もあるだけに、無理のないフォームに直せていたら「伝説の剛腕投手」で終わることは無かったのではないか。まとめ 球団創設から25年 まだまだ背番号「20」は厳しい時代が続いてるよね西村さんがこれまでの最長になる6年間「20」を背負ったわけだけど、1年目にいきなり22勝で新人王になったまでは好かった でもそれでほぼ終わっちゃったのね 2年目には病気と肩の故障で潰れてしまいましたこれまで10名の選手が「20」を着けたなかで10年以上プレーできたのは藤村隆男さんだけね・・・先に言っちゃうけど実はタイガースでこの番号を10年以上付けた選手は一人しかいないのよ 今着けてる森木君は大丈夫かなあ・・・背番号20-4に続く
2024年02月22日
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背番号20(その2)背番号20の第2回目です1回目を見る限りでは なんだか「不幸の背番号」みたいになってる創成期の「背番号20」 内訳は4人のうち3人が内野手で1人が投手だったね今回もあまりいいお話は出てきません・・・星沢 純 投手・外野手宮城県宮城水産高校出身。1941(昭和16)年の夏には予選を勝ち抜いて東北代表になったが瀬能のため本大会が開催されず涙を呑んでいる。そのご社会人の石巻日和クラブに所属してプレーしていたところ、1947(昭和22)年、当時タイガースの監督だった若林忠志にスカウトされて入団し、背番号「20」を着ける。1948(昭和23)年が公式戦デビューとなったが、9試合登板0勝1敗、21回を投げて防御率4.29の数字しか残せなかった。また、1試合のみ外野手としての出場があり、打撃成績は投手としての打席もふくめ9打数2安打3三振という数字が残っている。これ以上の資料はどこを見てもなく、生年月日は1924(大正13)年1月3日とのことだが、現在の情報はなく生死不明であるが、タイガース在籍時代のブロマイドの画像が残っている。名前はかろうじて星澤投手と読める。藤村隆男 投手(再再掲)藤村弟についてはすでに「背番号2-1」及び「背番号9-1」で紹介済みである。背番号「20」は1年間しか着けていない。ミスタータイガース藤村富美男の4歳下の実弟。兄と同じ呉港中学の出身で昭和15(1940)年に大阪タイガースに入団している。すでに兄・富美男は兵役に行って不在だったが、この年監督になった松木謙次郎に素質を見込まれ可愛がられた。1年目に7勝すると2年目の昭和16(1941)年には12勝10敗と成長を見せたが、大東亜戦争が始まり、昭和17(1942)年は3勝5敗で軍に徴集されて中断してしまった。結局背番号9を着けたのは戦前の3年間だけだった。昭和21(1946)年、パシフィック(のち太陽ロビンス)で現役復帰を果たすもののすぐに肩を故障し翌年退団に追い込まれる。仕方なく昭和23(1948)年には大分で白石勝巳が創設した社会人植良組に入部するが、別府温泉に入り浸るうちに肩の調子が回復してきたこともあって、昭和24(1949)年に大阪タイガースに再入団できることになった。復帰後の1年目にいきなりチーム最多の16勝を挙げると、翌昭和25(1950)年以降も、11勝、16勝、25勝(最高勝率)、21勝、11勝と二けた勝利を続けており、2リーグ分裂で貧打となったタイガース打撃陣を補う存在として活躍している。 昭和31(1956)年、3勝に終わると自由契約となり、翌年は広島カープでプレーしたが、わずか1勝しかできず引退している。 引退後は広島や近鉄を経て、昭和44(1969)年からタイガースに復帰、二軍投手コーチ、二軍監督、スカウト、一軍投手コーチなどを歴任し、多くの選手を育てた。背番号は戦後にタイガースに復帰した昭和24年に1年間だけ「20」を着け、その翌年の昭和25(1950)年から退団する昭和31年までは「2」を着けている。 通算では414試合に登板し、135勝97敗、2104回を投げて自責点620、防御率2.65というもので、兄弟選手として立派な成績である。 平成5(1993)年12月25日、73歳で逝去された。島田吉郎 内野手大阪府出身で市岡中時代には遊撃手として甲子園も経験している。その後早稲田大学を経て社会人の桑名組に進み、1949(昭和24)年に大陽ロビンスに入団した。ロビンスでは一軍に上がることはなく、二軍での出場にとどまっていたところ、タイガースの森田忠勇二軍監督の目にとまり、1950(昭和25)年に移籍、背番号「20」を着けることになる。しかしタイガースでも公式戦の出場は代打の1打席のみで三振に終わり、1年で解雇されてしまう。その後は大阪ガラスや日鉄三瀬などの社会人チームで野球を続けたようだが詳しい情報は無い。まとめ 星沢さんのブロマイドは奇跡的!この程度の実績でよく作ってもらえたなってね・・・ 藤村さんは以前に紹介しているしかなり成績を収めた投手だったけど 「20」を着けたのは1年だけだわ でもその年は47試合で16勝13敗の成績だからちょっとは番号に箔が付いたかな? 島田さんはこれまた情報が少ないよ 1年だけしかも1打席だけだからなあ・・・ということでなかなか「20」が好い番号になってこないよね 次回3回目こそ誰か主力級が出てこないかなあ・・・背番号20-3に続く
2024年02月20日
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背番号20(その1)背番号20の第1回目ですいよいよ20番台に突入です この番号も球団創立時から着けられた背番号なんだけど やっぱり最初のころは名前すら知らなかった選手が多いよまず戦前に着けた4人を一気に紹介しますが そのなかで4人目の川北さんは昭和19年の入団なんだけど最初は「背番号なし」だったらしいわ??? 戦後になって「背番号20」を貰うんだけど 一応戦争を挟んでることになるのかな⁇加藤信夫 捕手・内野手愛知県出身で強豪中京商業(現中京大中京高)から専修大学に進む。 1936(昭和11)年、タイガースは入団契約を締結したはずの滝野通則が無断で法政大学に入学して契約不履行を犯し職業野球連盟から除名されたため内野手不足となった。このとき加藤が専修大を中退し同年7月に入団している。背番号は「20」 セカンドがメインのポジションだが投手だった藤村がコンバートされたため、サードに回り、時にはキャッチャーも務めた。 初年度は春季秋季合わせて8試合しか出番がなく3打数0安打だが2打点が記録されている。 翌1937(昭和12)年は春季に6試合3打数1安打0打点、秋季は4試合で2打数1安打0打点に終わって、1938(昭和13)年1月早々に応召。 戦死と伝えられるが没年月日は不明。非常に不遇な選手だった。朴 賢明(パク・ヒョンミョン) 投手1911(明治44)年朝鮮生まれ。前年に日韓が併合しており当時は日本国籍だった。平壌高等普通学校から社会人全京城に進む。1938(昭和13)年の都市対抗で準優勝、朝鮮に遠征した明治大野球部を7回ノーヒットに抑えて評価が高まり、同年途中にタイガースへ入団して背番号「20」を着けた。 今回の4人は写真など残っていないと思ったが、朴投手だけは奇跡的に出てきた。これは日本の記事ではないようなので、ご覧になりたい場合は次のURLを参照いただきたい。【北朝鮮】北朝鮮史上初の日本人プロ野球選手 ---パク・ヒョンミョン(박현명)@棒球運動推廣 ハラバン - バハムート (gamer.com.tw) ストレートも変化球も好く、制球力もあったと伝えられるが、投手陣が充実していた当時のタイガースではほとんど出番は無く、1年目は打撃投手のような存在だった。 1939(昭和14)年に2試合登板の記録が残っているが0勝1敗、8回1/3で自責点1、防御率1.08というもので、これが職業野球における成績のすべてだった。 1940(昭和15)年には朝鮮に帰り、戦後は北朝鮮に住んだ。没年月日は不明である。平林栄治 内野手 長野県出身で松本商業(現松商学園)では1940(昭和15)年の春夏甲子園に出場しており夏はベスト4。当時は名ショートと評価も高く、サードの土屋亨(のち南海・中日)と組んだ三遊間は有名だった。1941(昭和16)年にタイガース入団。前年空き番になっていた背番号「20」を着ける。当時タイガースにはショートのレギュラーに皆川定之(背番号29で紹介予定)がいたため、セカンドに回っている。1年目は13試合に出場したが、13打数1安打1打点で打率.077に終わった。1942(昭和17)年になると皆川が退団したため出番が増え、39試合に出場している。しかし内容的には83打数15安打4打点、打率.181とさびしい。1943(昭和18)年には18試合に出たところで応召。同年の12月に戦死と伝えられる。川北逸三 内野手和歌山県海草中学出身。戦争も佳境になった1944(昭和19)年にタイガースに入団しているが、同年は背番号が与えられていない。ただし1試合の出場記録が残っており、3打数0安打だった。公式記録が残っているからには選手登録があったということのはずだが、背番号なしでの支配下登録・公式戦出場という事例は他に聞いたことがない。こんなことがありえたのか不思議である。NPBの選手名鑑には右投げ右打ち、164センチ60キロ、海草中とあり、上記の打撃成績が記載されている。戦後になって1946(昭和21)年、背番号「20」の選手として登録されたが、結局出場機会はなく、同年で退団しており没年も不明である。 まとめ 第1回は悲しくなるほど不幸な選手ばかりでしたね 4人の選手それぞれがもし現代で何の不自由もなく野球ができてたらどんな人生になったんだろうって考えると身につまされるわ こういう時代もあったんだと胸に刻まないといけない・・・4人のうち3人が没年すら不明なのよ ちょっと酷すぎるよね 背番号「20」は大変な滑り出しだったというほかない第2回の予告をしておくけど 紹介するのは3人 「20」を着けた期間はそれぞれ2年・1年・1年なのね 「20」の冬の時代は簡単には終わらないのよ背番号20-2に続く
2024年02月16日
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背番号19(その6)背番号19の第6回目 最終回です最終回は3名の紹介になるんだけど「19」は創成期からある割に着けた人数は通算16名で 意外に少なかった感じがする 藤井栄治さんあたりから長い期間付ける人が多くなったんだよね小林さんが投手の番号として確定させたのはの間違いないわ そのあとは投手以外は着けてません 2023年は欠番状態になって、今これを書いてる2024(令和6)年はルーキーの下村海翔投手が着けることになりました蕭 一傑(しょういっけつ) 投手台湾の屏東県屏東市出身。郭泰源に憧れていた蕭は日本で野球をやりたい思いが強く、2002(平成14)年に宮崎県の日南学園に野球留学する。奈良産業大に進むと3年まで主にリリーフだったが4年時に先発に回ってエースとなり、通算16勝1敗、防御率0.63という高い数字を残すまでになった。一般のファンの認知度は低かったが、各球団のスカウトは上位指名候補にリストアップしていたようだ。台湾出身ではあるが5年以上日本の学校に在籍たことでドラフトの対象選手になる。2008(平成20)年のドラフト会議で、タイガースは松本啓二朗(早大・外野手)、藤原紘通(NTT西日本・投手)を次々と抽選で外し、外れ外れ1位で蕭一傑を獲得している。背番号は筒井和也から「19」を受け継いだ。 1年目の2009(平成21)年はファームで育成され、ウェスタンリーグの16試合に登板、7勝1敗で防御率2.26の好成績を残している。フレッシュオールスターでは優秀投手賞を受賞している。蕭はどちらかというとアーム投法で肘のしなりが少ない。そのためスピードも140キロ台後半がたまに出る程度で、変化球もカーブ・スライダー系しかもっていなかったため、配球にも幅がなかった。2010(平成22)年9月に初めて一軍登録されるが、チーム事情で登板機会がないまま抹消されている。ファームでは16試合で5勝2敗、防御率3.13と安定した働きを見せていただけに惜しかった。2011(平成23)年8月、ようやく一軍で初登板初先発できたが5回1失点で敗戦投手に。結局2試合で抹消され0勝1敗に終わった。 2012(平成24)年はファームでも17試合で1勝3敗、防御率4.15と結果が残せず戦力外通告を受け、シーズン終了後に自由契約となる。 2013(平成25)年はソフトバンクに育成選手として拾われたが、結局伸びしろがなく、同年1年限りで戦力外となった。 翌年には台湾に帰って義大ライノズに入団し4年間プレーして引退。 2019(令和元)年には日本ハムファイターズで王柏融の通訳を務めたのち帰国。翌2020(令和2)年から味全ドラゴンズで投手コーチを務めている。藤浪晋太郎 投手大阪府堺市出身で大阪桐蔭高校に進み2012(平成24)年の春・夏連覇を達成しドラフトの目玉となった。当時197センチの長身から投げ下ろすストレートはMax153キロを計測し、花巻東高の大谷翔平と並んで高校球界の2大怪物と称されている。ちなみに藤浪と大谷は選抜1回戦で当たり9-2で大阪桐蔭が勝ったが、藤浪は大谷にソロホームランを打たれている。高校野球時代に「ホームランを打たれたことがない」という藤浪が許した唯一ともいうべき一発だった。 注目されたドラフト会議ではタイガースのほかヤクルト、オリックス、ロッテが1巡目で入札して抽選となったが、和田豊監督が引き当てタイガースに入団が決まる。背番号は退団した蕭一傑から「19」を引き継ぐことになった。 1年目の2013(平成25)年は、開幕3戦目3月31日のヤクルト戦でプロ初先発。高卒ルーキー投手の初先発最速記録を塗り替える。 4月14日の横浜DeNA戦でプロ初勝利すると月間3勝を挙げる。背中の張りで5月には2週間ほど登録抹消されたが、再昇格してからも高卒新人とは思えない並外れた投球を見せて勝ち星を積み上げていった。 最終的に惜しくも規定投球回数に届かなかったものの24試合(先発23)10勝6敗126奪三振、137回2/3を投げて自責点42、防御率2.75という素晴らしい成績を残す。高卒新人の1年目での10勝到達は1967(昭和42)年の江夏豊以来の快挙だった。ただしリーグワーストのワイルドピッチ8個という課題も残している。 2014(平成26)年には投球回数163回を上回る172三振を奪うなどさらに凄みを増し、8月1日の横浜DeNA戦では球団タイ記録の7者連続三振も記録している。25試合すべて先発して11勝8敗だが四死球から失点することが多く、防御率は3.53で1年目よりかなり悪かった。与死球は11個でリーグ最多を記録している。 2015(平成27)年はNPBにおける藤浪のピークとなった。28試合すべて先発、3年連続の二けた勝利となる14勝7敗の成績で大きく勝ち越しており貢献度は高い。しかも防御率も2.40と自己最高を記録、199回で221個の三振を奪い最多奪三振のタイトルを獲得している。 一方で与四球82、与死球11、ワイルドピッチ9個はいずれもリーグ最多を記録し、制球の面は相変わらず課題が解決できないままとなった。 2015(平成27)年、制球の悪さを改善するために首脳陣はインステップの投球フォームを矯正しようとするが、もともとオーバーハンドではなくスリークォーターの藤浪の腕の振りまでは替えられない。ますます制球は不安定になり、右打者へのデッドボールからトラブルが多発してイップス状態に陥る。 落合博満は「インステップで右打者の内角を攻めるのが藤浪の持ち味なのにそれを無くしてしまった」と言っている。長所を伸ばすのではなく短所として矯正しようとしたのが間違いだという指摘だろう。このあたりは関係者のみならずファンも巻き込んで議論が巻き起こったが、藤浪本人にも制球難の原因はよく判らず、日本人離れした長身のため身体のバランスがズレていると指摘され肉体改造にも取り組んでいくことになる。 結局26試合で7勝11敗、相変わらず四死球は多く、防御率も3.25に落ちてシーズンを終えたが、翌年から泥沼にはまっていく。 2017年 11試合3勝5敗 防御率4.12 2018年 13試合5勝3敗 防御率5.32 2019年 1試合0勝0敗 防御率2.08とうとう1勝もできなくなってしまい、ほとんどをファームで過ごす状態にまで落ちている。 2020(令和2)年、先発で負けが続いてついに中継ぎに配置転換されると、7ホールドを挙げてやや復活の兆しも見えた。(24試合1勝6敗7ホールド) しかし2021年(令和3)年は21試合3勝3敗4ホールド、2022(令和4)年も16試合3勝5敗で、結局タイガースも匙を投げるところまで来てしまう。 ストレートは相変わらずメジャーでも最速クラスの160キロ近くを投げることができることから、藤浪は2022年オフにポスティングシステムでのアメリカ行きを決意し、2023(令和5)年1月14日、オークランド・アスレチックスへの入団が発表された。 アスレチックスは藤浪を当初先発で起用するが、制球難から大量失点が続き、ファンからの猛烈な批判もあってリリーバーに配置転換する。34試合で5勝8敗3ホールドを記録したところで、ボルチモア・オリオールズからのオファーに応え交換トレードで放出した。 藤浪はオリオールズで64試合に登板、7勝8敗2セーブ5ホールドの成績を残し(防御率は7.18)、11月にはFAとなり、2024(令和6)年はニューヨーク・メッツと契約した。下村海翔 投手 甲子園球場のある兵庫県西宮市出身。九州国際大学付属高校では最速149キロを記録する速球派としてエースになるが甲子園出場はできず、青山学院大学へ進む。 大学ではひじの故障もあって2年時には投げていない。通算16試合7勝3敗1セーブ、100イニングで83奪三振、自責点18防御率1.62の成績を残す。4年時には全日本大学選手権で優勝、最速152キロを出している。 2023年のドラフト会議でタイガースが1位指名して入団。174センチ73キロで投手としては小柄だが、制球力とキレで勝負する投手であり、大学時代は先発でも中継ぎでも安定した力を発揮している。まとめ 蕭一傑さんはドラフト上位候補ではあったけど1位までの投手じゃなかったとおもうな 「外れ外れ1位」だったのをみても ものすごく期待されてたってわけじゃないのよ ストレートは「普通」 変化球も多くなく 制球力も「普通」 結局はプロでたった2試合しか投げられず、0勝1敗という残念な成績で終わってるね藤浪さんはいろんな人がいろんなことを言ってるけど 2代目個人としては日本の野球におさまる器・規格じゃなかったとおもうのよ この人こそ最初からアメリカへ行くべき投手じゃなかったかってね藤浪さんはいろんな人が口出しする日本のプロ野球向きじゃないのよ 2代目はメンタル以前に投手としてのポテンシャルは高くても それを生かすだけの技術が足りていないんだとおもうのね だから周りが口出ししたがるわけよ 日本にいると外野がうるさくて迷ってしまうから 科学的な分析が日本よりはるかに高度なアメリカでなら早くに技術的な部分を解析して「違う藤浪」になってたんじゃないかなあ 下村選手はまだわかりません 体格的には村上様に近い感じだし ボールの質やコントロールがどれくらいかにかかってる 先発・リリーフ共に人材が豊富な今のタイガース投手陣では一軍枠に食い込んでいくのは容易じゃないけど期待はしてますよ これで背番号「19」はおしまい 読んでくれてありがとう背番号20へつづく
2024年02月13日
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背番号19(その5)背番号19の第5回目です小林さんのインパクトは凄かったんだね 江川事件もさることながら移籍1年目の大活躍がタイガースファンを熱狂させたこともあって「背番号19」が一気にメジャーな番号になったし 「投手の番号」のイメージにもなりました 小林さんのあとに「19」を引き継ぐには相当な覚悟がいるだろなっておもうけど ドラフト1位ルーキーが着けます そしてそのあとの2人ももちろん投手ですよ中西清起 投手中西は高知県宿毛市出身で高知商業高校時代に4季連続で甲子園に出場し、1980(昭和55)年の選抜大会ではエース兼4番打者として優勝している。中西の活躍から水島真司が「球道くん」のヒントにしたと思っていたが、漫画の「球道くん」は1977(昭和52)年から連載されており、実際はこの主人公「中西球道」にちなんで、甲子園で優勝した高知商の中西が「球道くん」の愛称で呼ばれるようになったようだ。 高校からすぐにプロ入りすることなく社会人のリッカーに進む。1981(昭和56)年の都市対抗ではベスト8に進み「若獅子賞」を受賞。1982(昭和57)年は明治生命の補強選手、1983(昭和58)年は熊谷組の補強選手として3年連続で本大会に出場している。1983年のドラフト会議でタイガースが1巡目で指名し入団が決まり、引退した小林繁から「19」を受け継ぐことになった。もともと中西は「剛腕」と呼ばれるようなストレートは持っていない。カーブ、スライダー、パーム、ナックルなどの変化球を駆使したコンビネーションとコントロールで抑えていく投手だ。ルーキーの1984(昭和59)年、6月に一軍に上がると安藤監督は先発として起用するが結果が出ないところからリリーフへ配置転換する。このシーズンは33試合(先発9)で1勝6敗、67回1/3を投げて自責点50、防御率5.35と期待を裏切った。1985(昭和60)年、監督に復帰した吉田義男は、山本和行をストッパーに固定し、中西をセットアッパーとするダブルストッパーでシーズンをスタートさせた。強力打線にけん引されたタイガースは優勝争いを展開するが、9月4日の中日戦で山本がアキレス腱を断裂して戦列を離れてしまう。以降、吉田監督は中西をストッパーに指名、10月16日のヤクルト戦では引分ながら優勝が決まり、中西が「胴上げ投手」になっている。この年19セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルも手にした。 吉田監督は引きつづき1986(昭和61)年と1987(昭和62)も中西をリリーバーとして固定しており、第2期吉田監督時代の3年間では一度も先発していない。1988(昭和63)年には村山実が監督に就任し、この年は中西をストッパーに起用しており、46試合で15セーブを挙げている。1989(平成元)年になると、先発陣の駒不足から中西もシーズン途中から先発に回る。34試合登板のうち18試合に先発しており10勝10敗5セーブと、初めて二けた勝利を記録している。1990(平成2)年に初めて大きな故障を経験し、オフには右ひじのトミー・ジョン手術を受けている。その後もチーム事情によって先発に回ったりリリーフに戻ったりの年が続いたが、1995(平成7)年になると急速に力が落ち、リリーフ専門でありながら防御率が6.63と極端に悪くなってしまった。1996(平成8)年には登板数がわずか3試合、防御率9.82と完全に衰えてしまった。こうした状況から球団は引退してコーチに就任することを薦めたが、中西はあくまで現役にこだわり、横浜ベイスターズや福岡ダイエーホークスの入団テストを受けたが不合格となり、引退に追い込まれた。入団から13年間の現役時代に一軍で投げなかった年はない。この間「19」を背負い続け、通算477試合に登板、63勝74敗75セーブ633奪三振、986回2/3を投げて自責点461、防御率4.21の成績を残した。引退後は評論家・解説者の仕事を経て、2004(平成16)年に監督に就任した岡田彰布に招かれ、一軍投手コーチとしてタイガースに復帰する。ブルペン担当でJKFを使いこなすなど2005(平成17)年のリーグ優勝にも貢献。2015(平成27)年まで一軍・二軍で投手を指導した。川尻哲郎 投手背番号「19」は、中西が引退した翌年の1997(平成9)には空き番となっている。そして1998(平成10)年からこの番号を受け継いだのが川尻である。東京都中野区出身で日大二高に進むが甲子園経験はなく、亜細亜大学へ進学する。大学時代は小池秀郎や高津臣吾の陰に隠れた第三の投手で、東都大学リーグでは通算4勝しかできなかった。社会人日産自動車に入社して1993(平成5)年にサイドスローに変えてから頭角を現し始める。この年の日本選手権では準優勝ながら「敢闘賞」を受賞、1994(平成6)年も準優勝に貢献してワールドカップ代表にも選ばれた。1994年のドラフト会議でタイガースが川尻を4巡目に指名して入団が決まるが、最初の背番号は「41」だった。 ルーキーイヤーとなった1995(平成7)年、二軍スタートだったがいきなり4月のウェスタン月間MVPを獲得すると即昇格。4月28日のヤクルト戦で中継ぎながらプロ初登板初勝利を挙げた。そのまま一軍に定着すると29試合(先発20)で8勝11敗、148回と規定投球回数にも到達して自責点51、防御率3.10という期待以上の結果を残した。2年目の1996(平成8)年は、シーズン当初はブルペンに配置されるものの、中継ぎではいい結果が出ない状態が続いたため先発に回る。すると19試合の先発で13勝(9敗・1セーブ)を挙げ、防御率も3.26という活躍で、一躍エース級投手に駆け上がった。このころはサイドハンドながらストレートが140キロを超えており、球威で押していける投手だったが、3年目くらいからスピードが落ち、変化球主体に変わっていく。1997(平成9)年には開幕投手に抜擢されたが、脱税事件のペナルティで3週間の出場停止処分を受けるなどの影響で調子が上がらず、5勝14敗と大きく負け越し、防御率も3.92と低迷している。1998(平成10)年、川尻は心機一転、背番号を「19」に変えて臨み、25試合すべてに先発で起用されて10勝5敗、防御率2.84と復活している。また5月26日の中日戦ではノーヒット・ノーランを達成している。シーズンオフには日米野球でも9回一死まで0封する快投を見せ、当時、螺旋状に旋回する成分を持ったいわゆる「ジャイロボール」を投げていると大きな話題にもなっている。ところが1999(平成11)年に野村克也監督が就任すると18試合で3勝5敗、2000(平成12)年が10勝7敗、2001(平成13)年が1勝6敗と、1年おきにしか好い成績が残せない特徴が顕著になってきた。 1勝しかできなかった2001年のオフ、川尻は突然ポスティングシステムでのメジャー行きを希望して球団と揉める。日米野球でのあわや完封で自信を持ったのだろうか?年が代わっても契約更改せず粘っていたが、星野監督が水面下で説得し1月24日に無事更改した。しかし星野監督時代は2002年(平成14)年が5勝4敗。2003(平成15)年はリーグ優勝した年だが、川尻は登板わずか2試合で1勝1敗、日本シリーズでの出番もなく、オフには前川勝彦との交換トレードで近鉄バファローズに移籍することになった。2004(平成16)年、近鉄に移った年は球界再編問題で翻弄され、20試合に先発したが4勝9敗と結果を残せず、シーズンが終わると近鉄球団消滅に伴う分配ドラフトにより、東北楽天ゴールデンイーグルスへ行くことになる。2005(平成17)年はもはやお荷物扱いだったのか2試合登板に終わり0勝1敗。わずか1年で戦力外となって引退している。通算成績は11年で227試合60勝72敗3セーブ744奪三振、1083回1/3で自責点439、防御率3.65だった。筒井和也 投手愛媛県伊予市出身、松山北高校から愛知学院大学へ進む。大学時代には2年時の大学選手権での8連続三振を記録。大学通算29勝4敗で防御率1.04の成績を残すとともに、リーグ戦で24連勝を記録するなど、三振が取れる速球派の大型サウスポーとして注目を浴びる存在となった。2003(平成15)年のドラフト会議では自由獲得枠(逆指名1位)でタイガースに入団、川尻が着けていた「19」を引き継いでいる。鳴り物入りで入団した筒井だったが大きく期待を裏切り、プロ入り後5年間は芽が出ていない。2004年 1試合 1勝0敗 5回1/3 自責点1 防御率1.692005年 1試合 0勝0敗 3回 自責点2 防御率6.002006年 一軍登板なし2007年 4試合 0勝0敗 5回 自責点6 防御率10.802008年 3試合 0勝0敗 4回 自責点1 防御率2.25筒井はこの間に事件も起こした。2005(平成17)年1月、兵庫県内の中国自動車道で自家用車を運転中に、100キロ制限のところを83キロオーバーの速度違反で検挙される不祥事を起こし、球団から50万円の罰金と当面の対外試合出場禁止、自動車運転の禁止という重い処分を受けている。 前年には上坂太一郎が同様の違反で神戸地裁から懲役6月、執行猶予2年の判決を受けており、度重なる不祥事に沼沢正二管理部長もけん責処分となる始末だった。芽が出ない筒井は2009(平成21)年、背番号を「20」に変える。一応一軍のブルペンにいたものの当初は敗戦処理だった。7月にプロ初ホールドを記録したあたりからようやくエンジンがかかり、結果的にこの年45試合に登板する。 本当の意味でブレイクしたのは2012(平成24)年のことで、すでにプロ入り9年目。キャリアハイの58試合に登板して2勝1敗2セーブ18ホールド、50回46奪三振、自責点18防御率3.24という成績だった。その後の2年間も39試合、28試合とそこそこ働いたが、2015(平成27)年が6試合、2016(平成28)年には1試合となって引退。 通算成績は221試合8勝6敗3セーブ29ホールド215奪三振、242回を投げて自責点104、防御率3.87である。引退後はそのまま球団フロントに入りスカウトとして現在に至る。筒井自身が担当した選手で初めてドラフト指名されたのが2018年6位入団の湯浅京己だった。まとめ中西さんは好いときに入ったよね 社会人から入って1年経験したあと2年目にあの日本一に貢献できたっていうのはツイてる その年にタイトルも取ったし 先代は「甲子園で人気者にもなったけど大した投手じゃなかった」と言ってるけど運は好かったかな 以下 先代のイメージを聞いて書いてるよ 川尻さんは「19」のイメージが強いんだって というか「41」のイメージが無いみたい 活躍したころは「19」に変わってたんだろうね ノーヒットノーランやった時も「19」だしなあ 同じく筒井さんも背番号変えてるけど、この人は「19」のイメージじゃないみたいなのよ 芽が出たのは「20」に変えてからなんだって それにしても筒井さんは湯浅君の担当スカウトだったのねえ 筒井さんにしてみたら湯浅君には「19」か「20」を継いでほしいんじゃない? でも「20」は森木君が着けてるし、藤浪さんのあと空き番になってた「19」は今シーズンからルーキーの下村投手が着けちゃったね こうなったらしばらく「65」のままでいくしかないのかな?背番号19―6に続く
2024年02月10日
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背番号19(その4)背番号19の第4回目です前回までで9名の選手のうち投手は2名に過ぎないのよね しかも西村さんが3年間 工藤さんも4年間 いたって短い期間しかつけていなかった2代目は 工藤さんのあとに今回紹介する小林投手が着けたことで「投手の背番号」という位置づけが決定的になったんじゃないかっておもうのよ みなさんはどう感じますか?今回は小林さん一人を取り上げることにしますが すでに語りつくされた感もあるし先代も初期のころに書いたりしているので エピソードではなく成績の部分もしっかり見てみることにします 長いけど完読してね! お時間のある方は先代が書いた連載記事「空白の一日」も参照してみてね(空白の一日(連載第1回) | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)小林 繁 投手鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町)出身。中学生時代から投手で、由良育英高校に進んだときはまだオーバーハンドで投げていたが、スピードも球威も人並みと自覚していため高校2年時に自らの判断でサイドスローに変える。小林の場合、腕を横振りにしたことで球威が増し、シュート系の変化球が投げ易くなったことが野球人生の転機になったと言えるかもしれない。結局甲子園とは縁がなく、大学進学を目指して関西大学のセレクションを受け推薦がほぼ決まるが、突如推薦制度が廃止されて入学できず、社会人野球の全大丸への入社の道を選ぶことになる。社会人野球時代には、よりアンダースローに近いフォームへと改良を加え、球種を増やすなど工夫を重ねている。片足の状態で一旦止まり体を沈ませていくことで「タメ」を作るいわゆる二段モーションで この「タメ」の部分の時間の長短で打者のタイミングをずらす狙いがあった。王はこのモーションが苦手で、小林が打撃投手で投げるとバッティングが崩れると嫌っていたし、阪神に移籍して対戦相手になると極度な苦手意識から二本足で打ってきたこともあり、その画像も残っている。子供のころから胃腸が弱く細身であったため、本人にはプロ入りという意識は無かったようだが、巨人の伊藤スカウトから熱心に誘いを受ける。小林が「プロ入りの意志はない」と伝えても、1971(昭和46)年のドラフト会議で巨人は6位で指名し交渉権を獲得した。しかしすぐに契約することはなく、交渉権を持ったまま翌年の都市対抗本戦が終わるまで契約交渉は据え置かれる。全大丸は3年ぶりに都市対抗本戦まで進出し、7月の本大会で活躍した小林はプロ入りへの自信が持てたとして大会終了後に入団を了承する旨を伝えた。こうして1972(昭和47)11月に巨人と正式に契約して入団している。この時にもらった背番号は「40」だった。ルーキーイヤーとなった1973(昭和48)年は、大半をファームで過ごしている。イースタンリーグでは7勝5敗10セーブで防御率2.43の好成績を挙げており、9月末に一軍に呼ばれた。一軍では6試合にリリーフで登板し、11回1/3を投げて無失点。これでプロでの手ごたえをつかんだという。2年目の1974(昭和49)年はプロ入り初勝利を含む8勝を挙げているが、登板した44試合のうち先発は9試合だった。当時の巨人はリリーフエースや火消し役が固定されておらず、小林は巨人在籍の間、先発ローテーションで回りながらリリーフも掛け持つ過酷な使われ方をされ続けている。 3年目の1975(昭和50)年は5勝に終わり、長嶋新監督の率いた巨人は最下位に沈み、その反動でオフの秋季練習は厳しいものとなった。その中で不真面目な練習態度を杉下投手コーチから叱責され、雨中で3時間を超えるランニングをさせられたことにキレた小林は、前任の宮田コーチに電話して「引退してプロゴルファーを目指す」と宣言して勝手に練習を休み、実際にゴルフ用具を買い込むなどの行動を起こしたことで大騒動になってしまう。同僚の高橋善昌から説得されて思い直し、小林は杉下に謝罪して引退を撤回して練習に復帰したが、この行動と言動は球団から「我儘で扱いにくい奴」と受けとられ、のちのトレードに影響した可能性は否定できない。4年目の1976(昭和51)年、巨人は前年最下位から一気にリーグ優勝に返り咲くが、小林は43試合に登板して18勝8敗2セーブで防御率2.99という成績を挙げ多大な貢献をしている。しかも先発が29試合、リリーフも14試合というフル回転を強いられる中での数字である。翌1977(昭和52)年も18勝8敗7セーブで防御率も2.92と連続優勝に貢献しており、42試合のうち30試合に先発しつつ、12試合のリリーフ登板があった。この小林の熱投は高く評価され、ベストナイン、セ・リーグMVP、沢村賞を受賞している。1978(昭和53)年も43試合に登板しているが、さすがに2年続けてフル回転してきた勤続疲労があったのか13勝12敗2セーブで防御率4.10と成績を落としてしまう。日本シリーズでもよい結果を残せなかった。そしてそのオフに「江川問題」が起きる。これについては先代が詳しく書いているので参照していただきたい。ここではざっとした流れを記述する。(空白の一日(連載第1回) | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)ドラフト会議の前日、巨人が協約の紳士協定を一方的な解釈で破り、江川卓と入団契約を締結。コミッショナーはこれを認めず、巨人は翌日のドラフト会議をボイコット。巨人不在の中で行われたドラフト会議で、阪神が江川を強行指名して交渉権を得る。社会では江川や巨人に対する怨嗟の世論が沸き起こる一方で、ドラフト制度が「職業選択の自由」を侵す人権問題として国会でも取り上げられるなど混乱を極め、収拾がつかない状況になった。年の瀬も押し迫った12月21日、金子コミッショナーは「巨人と江川の契約は無効」「ドラフト会議を有効」とする裁定を下す。しかし舌の根も乾かない翌12月22日には、巨人に対して阪神とトレード交渉を進めるよう「指令」を出す。さらにその一方で江川には阪神と契約するよう「強く要望」した。ドラフト会議を有効と認めながら巨人が江川に対して権利を持っていることも認めたもので、矛盾を孕んだ苦しい裁定だったが、裏交渉の結果ともいえる。端的に言えば、一旦は江川に阪神と契約させたうえで、改めてトレードによる巨人入りを可能にして収拾を図ろうというものだ。新入団選手の選手登録の期限は1月31日に迫っており、ギリギリの判断だった。このあたりの段階では、まだ小林にとっては他人ごとであり「江川も大変だな」くらいの感覚でしかなかった。1979(昭和54)年1月31日の朝、宮崎キャンプへ向かうために羽田に現れた小林は球団職員によってハイヤーに乗せられ昼頃にホテル・ニューオータニへ到着、12:00過ぎに長谷川代表から「阪神へ行ってくれ、日が替わる前までに決断してほしい」と通告を受ける。同日15:00頃から阪神と江川親子の交渉が始まり16:00時に契約締結、16:10から入団記者会見が開かれた。江川の結論が先に出てしまって小林は逃げ場を失い、23:00ごろ球団社長に「お受けします」と伝えている。時系列から見て、阪神と江川の交渉が始まるより前に小林がトレード通告をされているという事実から察すると、すでに巨人と阪神の話し合い(裏取引?)の中で「江川の阪神入団~小林とのトレード」は決定済みで、小林だけが何も知らないうちにすべてのレールが敷かれていたと言わざるを得ない流れだった。ニューオータニに就いたときにはすべての外堀が埋まっており、小林にはトレードを拒否して引退するか、黙って阪神入りするかの二者択一しかなく、「野球が好きだ」という小林は後者を選ぶ以外なかった。すぐに移籍の契約書にサインし、日付が替わった2月1日1:00ころ記者会見している。小林の内心はともかく、さわやかな表情で阪神入りを受け入れた態度は絶賛された。しかし、江川の巨人入りのために阪神も加担し、小林獲得という利を得たという点では巨人・阪神とも同じ穴のムジナのようで後味は最悪だった。 1979年2月10日、正式に小林の阪神入団記者会見が開かれた。背番号は本人が巨人時代と同じ「19」を強く要望したため、工藤一彦が譲る形での継承となった。同年、小林は37試合に登板、22勝9敗1セーブ、防御率2.89という成績を挙げ、最多勝のタイトルのほかベストナイン、セリーグMVP、2度目の沢村賞などを受賞している。特に巨人戦に合わせてローテを組んでほしいとブレイザー監督に直訴していたこともあって、9試合に先発して8連勝無敗と捻じ伏せ、タイガースファンを狂喜乱舞させた。しかしこの結果について小林は「悔しさをぶつけただけの自分のためだけのあざとい野球で全然ダメ、なのにファンもマスコミも俺が巨人に勝つたびに大騒ぎをする。世の中が、そんな風に動くのが嫌だった。『あんたら馬鹿か』と思いながら、それでも、俺は巨人に負けたくないと思って必死に投げていたんだ。結局、世間に踊らされていたんだよ」と語ったという。1980(昭和55)年8月16日には因縁の江川との直接対決が実現するが、3失点で完投した江川に対し小林は5回4失点で降板、試合は巨人が勝利し江川が勝利投手となっている。これについては「こういうことはね、早く終わったほうがいいんだよ。大体、ふたりの投手が投げ合っただけじゃない。それなのにカメラにずっと追いかけられて、無駄な写真もいっぱい撮られて晒し者にされたような気分だったからね。……まぁ、僕の野球人生における煩わしいことが、これで終わった。あの子(江川)が勝ってよかったのかもしれない。負けていれば、何を言われるかわからないしね。」と江川に対する同情も含めたコメントをしている。この年からタイガースのエースの扱いとなって開幕投手も務めたが、前年の燃焼がすさまじかった反動もあるだろう、小林は15勝14敗と成績を落とし、ホームランはリーグ最多の36本を浴びている。移籍1年目のような熱投が見られなくなっていた。1981(昭和56)年は16勝10敗2セーブと持ち直したが、1982(昭和57)年は11勝9敗に落ち込んだため、シーズン終了後に「来年15勝できなかったらユニフォームを脱ぐ」と宣言する。小林は1978年から肘の状態が悪く、無理を重ねてさらに悪化してきたことや、タイガースという球団の体質になじめなかったこと、チームとして勝ちたいという優勝を目指すムードが感じられないこと等々、大好きな野球をやるという意識が持てない状況だったことも影響しているようだ。1983(昭和58)年での引退については、当時広報担当だった本間勝さんが月間タイガース2011年9月号の「本間勝交遊録」のなかで回顧しているので原文のまま引用する。「人騒がせな男ではあったが、この時ばかりは本当に驚いた。1983年の夏場だったと思う。つかつかと歩み寄ってきたかと思うと『本間さん。僕、もう今年でやめますから』突然の出来事だった。どちらかと言うと、冗談をよく口にする小林氏だが、顔は真面目そのもの。まさか…。と思いながらも『何言うとんねん。まだまだいけるやろ』一応、私の意見を話してみたが、同氏の表情はいつもとは違って硬い。これは、私が結論を出せる問題ではない。慌てて当時の安藤監督を呼びに行ったが、同監督の説得にも気持ちが揺らいだりすることはなかった。その後も、小津社長(故人)はじめ、球団は総力を挙げて慰留に努めたが『外角へのコントロールがままならなくなった。自分の思うように体が動いてくれなくなった』と言い残してユニホームを脱いだ。性格からしてこの男、一度口にしたことを撤回することはない。」実際は10月2日の中日戦で15勝目を挙げて、昨年目標に挙げた勝ち星をクリアしたが、一度引退と決めた意志は変わらなかったようだ。のちに次のように語っている。「肩も肘もきつかったけど、騙し騙しやれば、次のシーズンも10勝はできたかもしれない。それに技巧派にスタイルを変えるという手もあったはずだと思う。結局、あのトレードから、人の評価に振り回される僕の人生が始まった。自分のやりたいように生きていなかったね。周りの評価ばかり気にして、そんな自分が嫌で、つかれて、もう野球から離れたかったんだと思う。」 波乱の野球人生だった小林だが、非常に気が強く信念を貫く姿勢や意地にこだわる一面についてはもう一度本間さんの回顧録を引用したい。「負けん気の強い男だった。信念を持った選手だった。早々とユニホームを脱いだのは小林流の男の美学だろうが、巨人に対しての反骨心と言おうか、わだかまりは最後まで消えることはなかった。同氏がOBになってから、何試合かの阪神─巨人のOB戦を行ってきたが、一度も巨人のユニホームを着ることはなかった。常に縦縞のユニホームに袖を通して、さっそうとマウンドに上がっていた。 骨っぽい男。反骨精神旺盛な男。鼻っ柱の強い男。等々、表面に出ていた行動を中心に記載してきたが、本来の小林繁氏、普段はおくびにも出さなかったが、実に几帳面な性格だった。まわりが乱雑な中、同氏のロッカーは、いつも整然としていた。」 小林の通算成績は11年で374試合に登板139勝95敗17セーブ1273奪三振、2029回1/3で自責点718、防御率3.18である。引退後は野球評論家や解説などの仕事の傍ら、飲食店経営や不動産事業などをしていたが、1997(平成9)年に近鉄バファローズの一軍投手コーチに復帰することで、14年ぶりに現場に戻る。5年間在籍して退団し福井県でゴルフ場の支配人を務めるなどしていたが2009(平成21)年に日本ハムファイターズに二軍投手コーチとして招かれ、翌年は一軍の投手コーチに昇格する。ところが間近にキャンプを控えた2010年1月17日、福井市内のマンションで「背中が痛い」と変調を訴え救急搬送される。病院到着時には心肺停止状態で、急性心筋梗塞による心不全で亡くなってしまった。まだ57歳だった。まとめ小林さんについては先代の資料も一杯あるし ご本人の自伝もあるし 様々な人が回想したり証言したりしてるから今回は端的にとおもったんだけど やっぱり長くなってしまったわね 江川さんとの事件がなければ 巨人で順風満帆な野球人生が送れたのかもしれない でもこのトレードでタイガースに戦う姿勢というものを持ち込んでくれたんじゃないかな?小林さんは引退したけどその2年後に優勝、日本一になったんだから なお 江川さんとは2007年に黄桜酒造のCMで共演した際にお互いのわだかまりが無くなったことで一応の「和解」ができたんだって いま振り返って当時の資料など見てると ホントに球界どころか日本中を揺るがす大事件だったんだね 背番号「19」はこの小林さんが着けたことが起点となって タイガースでは投手の番号に定着したんだなって実感があるわ タイガースの選手にも球団にもそしてタイガースファンにも とてつもないインパクトを与えた存在だったのよ!背番号19―5に続く
2024年02月08日
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背番号19(その3)背番号19の第3回目ですさて前回予告した通り 7人目として「19」を着けたのはまたまた野手(外野)の藤井栄治さん しかも12年間着けるんだよね しかも藤井さんのあともまた外野手なのよ いったいどうなってるの?というわけで今回も3人を紹介するけど 3人目にやっと投手が出てくるよ!藤井栄治 外野手大阪府出身で登美丘高校から関西大学に進む。高校では投手だったが大学に入ると打撃のセンスを買われて外野手に転向している。大学通算では68試合213打数64安打29打点で打率は.300。ただしホームランは無く、どちらかというとミートの上手い巧打者タイプだった。1962(昭和37)年にタイガースへ入団すると1年目からライトのレギュラーに抜擢される。期待に応えた藤井は127試合405打数97安打38打点2本塁打、打率.240を記録している。怪我も少なく1969年まで新人から8年連続100試合以上に出場してレギュラーを守り、1964(昭和39)年と1965(昭和40)年は2年連続で全試合に出場するなど不動の5番打者としてチームを支える存在になった。並べてみると1963年 133試合484打数145安打54打点8本塁打 .3001964年 140試合527打数140安打58打点9本塁打 .2661965年 140試合499打数119安打54打点8本塁打 .2381966年 125試合441打数124安打51打点9本塁打 .2811967年 125試合459打数122安打52打点9本塁打 .2661968年 113試合377打数101安打40打点4本塁打 .2681969年 112試合373打数 88安打25打点2本塁打 .236この間にオールスターにも3回出場するなど人気選手として活躍しており、数字を見る限りでは成績の波の振幅が小さく安定しているのがわかる。 それでも1968年から徐々に力が落ちてきており、1970(昭和45)年にはついに出場試合が75と二けたになってしまう。これを機に成績が下がり続け、タイガースでの最終年となった1973(昭和48)年は金田正泰監督との確執も生じて44試合しか出れなかった。シーズンオフになると「出場機会は減ったがまだまだ自分はやれる」という思いと金田監督への嫌悪から藤井はトレードを直訴し、阿部良男との1対1の交換トレードで太平洋クラブライオンズへ移籍している。タイガースでは入団から移籍までの12年間、背番号「19」を背負い続けた。ライオンズでの1年目となった1974(昭和49)年は、久々に105試合の出場を果たし320打数74安打38打点4本塁打と気を吐いたが、翌年には90試合、さらに59試合と出場が減ると、大学の先輩である阪急ブレーブスの上田利治監督の要望もあって無償トレードで移籍する。阪急では背番号をタイガース時代と同じ「19」をもらって2年間プレーしたが、さすがに力は衰えており、1978(昭和53)年のシーズン終了後に現役を退いた。プロ生活17年間の通算成績は1650試合5173打数1344安打545打点73本塁打で打率.260だった。藤井はバットを折らなかったことが有名で、年間を1本のバットで通し、秋にはミートポイントのところだけ少しくぼんでいたという信じがたい逸話が伝わっている。それほどミートが上手かったということだろう。また現役時代は非常に無口な選手であったため「鉄仮面」の異名も付いている。外野守備は強肩で、常に片手キャッチながら失策は少なく、外野手として817守備機会連続無失策は2024年2月現在もセ・リーグ記録である。引退後は西武、阪神、近鉄でバッティングコーチを務め、卓越したミートのセンスに基づいて後進を指導した。ただし、近鉄時代に鈴木啓示監督が就任すると意見が合わず、開幕わずか5試合で辞表を出して辞任している。阿部良男 外野手宮城県石巻市出身。県立宮城水産高校から社会人全常磐に入社している。1968(昭和43)年のドラフト会議で西鉄ライオンズの4位指名を受けて入団、1973(昭和48)年まで5年間在籍している。 1974(昭和49)年、藤井栄治とのトレードでタイガースに移籍し、藤井の着けていた背番号「19」を着けることになった。 しかし当時のタイガースの外野は世代交代期にあって、使いたい若手が多くひしめいており、阿部にはあまり出番が回ってこない状況であった。実際に11試合の出場にとどまっており、11打数1安打0打点4三振の記録しか残っていない。結局1シーズンで自由契約となり、ロッテオリオンズに拾われたものの1975(昭和50)年は一軍に上がることもできないまま引退している。その後は少年野球チームの指導などで野球に携わっていたが、2017年6月29日に71歳で逝去された。工藤一彦 投手茨城県筑波郡谷田部町の出身で高校は土浦日大高校。中学時代から知られた存在だったが、ある日土浦日大の見学に行くと監督から「工藤君ちょっと投げてみろ」と言われてマウンドに立たされた。工藤は当時の土浦日大レギュラーを相手に9連続三振を奪って監督をうならせ、「俺たちと一緒にやろう」と誘われて入学を決めたという話が残っている。高校時代は銚子商業の土屋正勝、横浜高校の永川英植、鹿児島実業の定岡正二とともに高校四天王と呼ばれ、1974(昭和49)年は甲子園に春夏出場しているがともに2回戦敗退。ただし秋の国体では銚子商に勝って優勝している。同年のドラフト会議ではタイガースの2位指名で入団し、背番号「19」を背負う2人目の投手となった。ドラフト1位は丸善石油の古賀正明だったが、球団の期待度は工藤のほうが高く、示された契約金や年俸も2位の工藤より安かったために入団を拒否、翌年改めて太平洋クラブライオンズの1位指名を受けてプロ入りするという波紋も残した。1975(昭和50)年、実際にプロ入りしてみると186センチ90キロの堂々たる体格の割に工藤のストレートは130キロ台半ば程度に過ぎず、どちらかというと回転数が少ない球質だった。しかしほかにこれという変化球もない状況では、すぐ使える投手ではなかった。 まずプロ入りから3年間は一軍登録すらされていない。4年目の1978(昭和53)年8月にようやく初登板したが、投げたのは2/3イニングのみ。しかも5安打を浴びて5失点、防御率67.50という不名誉なシーズンに終わった。1979(昭和54)には背番号を移籍してきた小林繁に譲って「26」に変更し、ここからブレイクしている。31試合(先発18)に登板して7勝8敗の成績で完投も2試合あり、防御率は4点台ながらものらりくらりと抑えてしまうという特徴を見せた。芽が出ない間にフォークボールをマスターしたことがこの年の転機になったと言われている。1980(昭和55)年は引き続き先発とリリーフ掛け持ちで使われ5勝10敗と負け越してしまう。しかしローテーション投手として固定された1981(昭和56)年に9勝9敗、1982(昭和57)年には念願の二けたとなる11勝8敗でオールスターにも出場、さらに1983(昭和58)年はキャリアハイの13勝10敗と好成績でエース級の働きをしている。 1984(昭和59)年に肘を痛めて7勝5敗に終わると、1985(昭和60)年に就任した吉田義男監督は工藤を中継ぎに戻すがローテーションの谷間では先発もこなしている。この年にはもともとスリークォーター気味だったフォームをサイド気味に変えたが6勝どまり、翌年が5勝、そして1987(昭和62)年の3勝を最後に勝ち星と縁が無くなる。その後も肘の状態は回復せず、1990(平成2)年まで在籍したものの3年間白星がないまま引退に追い込まれた。通算成績は308試合66勝63敗4セーブ623奪三振、1186回2/3で自責点533、防御率は4.04というもので、勝ち越しているのは立派だ。高校時代に騒がれた四天王のうち工藤だけがドラフト2位で、他の3人はいずれもドラフト1位だった。しかし他の3人のだれよりも現役年数が長く登板数や勝ち星も一番多かったことを思えば、よくやったほうだと言えるかもしれない。まとめこれまでの3回で9名を紹介したんだけど投手は2人に過ぎません でも西村さんと工藤さんはそれなりに成績を残した投手だよね 今回の1番目、藤井さんは押しも押されもしないタイガースの名外野手。山内一弘さんや並木輝男さんなどと共に、巧打を兼ね備えた外野陣を形成した時期があったんだよね阿部さんは必要がなかった選手だとおもうんだけど 藤井さんほどの選手を出す見返りに一人ぐらいは貰っておけということだったらしいわ タイガースではほとんど試合に出てないからライオンズ時代の写真しかありませんでした工藤さんは甲子園で騒がれた選手だったんだけどプロで一流と言われるまでには成れなかったわね コントロールの良さと要所で使うフォークボールでなんとなく抑えていくのが特徴で とらえどころがないタイプだったそうです 完封も6試合あるし、術中にはまるといつの間にか抑えられてしまうって感じかな?背番号19―4に続く
2024年02月05日
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背番号19(その2)背番号19の第2回目です1回目に創成期の3人を紹介したけど3者3様だったよね 今でこそ投手の背番号として定着した「19」も初期はどちらかというと野手の番号だったのよ2回目の今回も3人を掲載しますが投手はいないのね 2人が内野手で残りの一人は外野手です 多分3人ともみなさんご存じない選手かもしれないよ西江一郎 遊撃手・二塁手・三塁手土井垣遺跡の翌年から「19」を引き継いだのが西江一郎。福岡県飯塚市出身で社会人日鉄二瀬から1948(昭和23)年に入団している。最初に着けた背番号は前年空き番になっていた「12」だった。戦後再開された職業野球ではあったが、まだ選手不足が続いており、投手が野手を兼ねることが当たり前の時代に入団してきた。タイガースも内野手が足りず ショートを投手が守る状況だったため西江の入団が決まったわけだが、同期入団の名手白坂もショートが専門で、いきなりポジション争いをする羽目になる。 1年目の1948年は31試合の出場にとどまるも、2年目の1949(昭和24)年には72試合へと出場数を伸ばす。1950(昭和25)年には背番号を「19」に変更して勢いがついたのか、白坂とのポジション争いに勝ってショートのレギュラーをつかみ、137試合に出場して488打数122安打51打点3本塁打の成績を残している。 しかし、一方でセリーグのショートでは1シーズンの最多記録となる71失策を犯してしまい、翌1951(昭和26)年には守備の好い白坂にポジションを明け渡すことになる。 それ以降は守備のユーティリティ性を生かしてセカンドやサード・ショートを守る控え選手という立場でチームに貢献していたが、1954(昭和29)年には出場が24試合と出番を失い自由契約選手となってしまった。 1955(昭和30)年は東映フライヤーズと契約して5年ぶりに三けたの129試合に出場、453打数127安打30打点で打率.280という好成績を挙げてレギュラーに復活する。ところが1956(昭和31)には63試合出へと激減し、わずか17安打、打率も.155と急激に衰えたため引退している。 通算成績は696試合1738打数417安打144打点6本塁打32盗塁で、打率は.240である。鹿野鉱一(かのこういち) 遊撃手愛知県名古屋市出身で高校は名門・中京商業(現中京大中京高)、1951(昭和26)年の選抜大会で甲子園出場経験がある。タイガースへは1955(昭和30)年に社会人東海電通から入団し、前年自由契約となって移籍した西江のあとを受けて「19」を着けた。しかし遊撃手として白坂がレギュラーで盤石だったため、4試合の出しかできず、5打数0安打0打点2三振という成績しか残せないまま1年で退団してしまう。その後は社会人に戻り、愛知産業を経て清峰伸銅では1959(昭和34)年に都市対抗本戦に出場している。大津 淳(あつし) 外野手兵庫県明石市出身で高校は明石高校。1947(昭和22)年には捕手として選抜大会に出経験がある。関西大学に進むと外野手に転向し、4年時の春には首位打者タイトルを獲得するなど中心選手として活躍。通算93試合319打数102安打で打率.323、3本塁打という記録を残してプロの注目選手になった。しかし大津はプロの誘いを断ると社会人日本生命に進む。1955(昭和30)年にはオール鐘紡の補強選手としてクリンナップを打ち優勝に貢献、世界アマチュア選手権の日本代表チームにも選ばれている。社会人での華々しい実績が加わって評価が高まりプロ球界でも獲得競争となったが、結局大津は大学時代から接触していたタイガースへの入団を決断する。入団は変則で、阪神電鉄に入社して「出向」の形をとっている。背番号は引退した鹿野の「19」を継承し引退までの6年間を通した。1年目の1956(昭和31)年は99試合に出場しており、344打数85安打44打点3本塁打19盗塁で打率.247の成績を残し、外野レギュラーの一角へ食い込んでいる。1957(昭和32)年には128試合、1958(昭和33)年は105試合、1959(昭和34)年も115試合と3年連続で100試合以上に出場しレギュラー外野手で活躍している。しかし、1960(昭和35)年~1961(昭和36)年にはそれぞれ92試合の出場に終わると、あっさり現役引退してしまう。このあたりは「電鉄社員でタイガースへ出向」という立場の強みで、引退後は阪神電鉄社員に戻ったのちに球団フロントに入り、営業部長時代には1985(昭和60)年の日本一を経験している。タイガース現役時代の記録は、6年間で631試合1947打数478安打194打点24本塁打46盗塁、打率.246だった。まとめ2回目までで6名の選手を掲載したけど投手は1人だけなので 「19」は球団創設期から昭和中期までは野手の番号だったと言えそうね これは意外でした今回最初の西江さんて知ってた?この人も「器用貧乏」の部類に入るのかな 活躍は1年だけで 最後は他球団で引退を迎えてるのね2人目の鹿野さんはさらにまったく知らなかった 1年しかいなかったから写真などの類も皆無 5打席しか立ってないもんなあ・・・大津さんはアマチュアでも名選手だったみたいだし それほど長くないけどタイガース時代にもある程度の数字を残せた選手ですね フロントでは編成部長や営業部長を歴任して1985年の日本一に裏方として貢献してるんださて「19」は何時から投手の番号になったのかな? 予告しておくけど 次の3回目の最初に出てくる藤井栄治さんも外野手よ背番号19―3に続く
2024年02月04日
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背番号19(その1)背番号19の第1回目です2代目の知る範囲で見聞きしてきた感覚で言うと「19」も投手の番号かな この番号も球団創立時から着けられた背番号ですちなみに最初に着けた人は佐藤武夫さんという方で捕手兼一塁手兼外野手だったのね ということでどのようにして投手の番号になっていったか興味が出てくるわよね佐藤武夫 捕手・一塁手・外野手愛知県岡崎市出身で岡崎中時代は捕手。在学中は稲葉(高塚)誠治(のちプリンスホテル監督)とともに強豪と呼ばれる時代を築いている。1936(昭和11)年に創成期のタイガースに入団、創設時には「いろは順」で背番号が着けられたが、順番では「13」となるところ、この番号を避けて「19」を着けることになった。職業野球では「弱肩、鈍足、三振」のレッテルを張られる選手として有名だったらしいが、色黒なことから「クロちゃん」の愛称で親しまれた選手。写真は見つからないが結成時のメンバーに「捕手」として名が記されている。 タイガースでは1936年の春夏季で1試合、秋季で1試合に出場しただけである。この年の通算が2試合3打数1安打0打点0本塁打0三振というものでシングルヒットを1本打っただけだ。シーズンオフには新球団のイーグルスに移籍したが、1937(昭和12)の1シーズンをプレーしただけですぐに東京セネターズに移籍する。セネターズでは1938(昭和13)年から3年間を過ごす。1939(昭和14)年に89試合、1940(昭和15)年は101試合に出場する正捕手だったが、いずれも打率は1割台。三振は1939年にリーグ最多の56個を記録するなどつねにトップクラスの数字だった。ただし、豪快な大振りが返って人気を呼び、1939~40年は東西対抗のメンバーに選出されている。1941(昭和16)年には大洋軍(のち西鉄軍)に移籍し3年間プレーするも、1941年はリーグ最多三振、打率は1割台どころか3年目の1943(昭和18)年には1割に満たず.098という数字が残っている。 現役最後の1944(昭和19)年は巨人に移籍している。通算成績は496試合1537打数262安打112打点12本塁打3盗塁、打率.170である。 戦後は社会人野球を経たのちにプロ野球審判員となったが、1962(昭和37)年に現職のまま45歳で亡くなっている。西村幸生 投手 三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。宇治山田中学から関西大学に進んでいる。大学時代はエースとして2度リーグ優勝しており、1932(昭和7)年には東京6大学の5チームから勝利するなど無敵を誇った。 大学最終年には社会人と職業野球とで争奪戦となったが、同郷(宇治山田市出身)の巨人・沢村栄治との対戦を切望してタイガース入団を決めたという。背番号は移籍した佐藤の着けていた「19」を継承しており、タイガースの投手として初めて「19」を背負った選手である。 ルーキーイヤーの1937(昭和12)年は、まず春季が19試合9勝3敗で防御率2.24と素晴らしい。 さらに秋季には25試合15勝3敗で防御率1.48の好成績を挙げて最多勝と最優秀防御率の二冠に輝いている。しかもタイガースは巨人に7戦全勝、そのうちの4勝を西村が挙げており「初代ジャイアンツキラー」と呼ばれる。 春季優勝の巨人と秋季優勝のタイガースによる年度決勝戦でも4勝2敗でタイガースが勝っているが、西村は4勝のうち3勝を挙げている。 1938(昭和13)年は、春季で19試合11勝4敗、防御率1.58で2季連続の最優秀防御率投手となっている。秋季も20試合で9勝2敗、防御率も2.48と安定感抜群だった。 1シーズン制となった1939(昭和14)年は29試合11勝9敗、防御率2.42と安定した力を見せている。 しかしこの年、契約切れになるとタイガースを退団する。肩を壊していたという説もあるが実際の事情は定かではない。 翌1940(昭和15)年は満洲の新京電電でプレーしたが1年で引退してしまう。 1944(昭和19)年に応召し、同年フィリピンで戦死。34歳だった。通算成績は3年間で112試合55勝21敗394奪三振350与四死球、733回1/3で自責点164の防御率2.01という高い数字を残した。故郷の伊勢市には銅像が建てられている。 西村は別名「酒仙投手」とあだ名されて有名な選手だ。当時の野球評論家の大和球士が名付け親だが、決して酒豪でも酒乱でもなく、酒を飲むことを愛するいたって練習熱心な選手だったらしい。当時の石本秀一監督はのちに「自分が見た中でコントロールは稲尾と西村が双璧だ」と回想している。制球力は抜群だったという証言だが、数字を見るとかなりフォアボールは出している。判定の問題だろうか?土井垣 武 捕手 タイガース3人目の背番号「19」は1940(昭和15)年入団の土井垣武で、今度は捕手である。 鳥取県米子市出身で米子中学の最終年に主将として甲子園に出場、準決勝で嶋投手率いる海草中学に敗れた。 後にダイナマイト打線の一角として人気選手になる土井垣だが、戦前はレギュラーになれずに終わっている。 1年目はわずか20試合で41打数8安打、2年目の1941(昭和16)年が71試合194打数44安打だった。3年目の1942(昭和17)年には72試合で277打数69安打と徐々に数字は上がっているが、この年は主にショートなど内野手としての出場が多かった。シーズンが終わると応召、終戦まで軍隊生活となってしまう。1945(昭和20)年に復員し職業野球にも復帰、東西対抗戦に出場している。そして翌1946(昭和21)年から本格的にレギュラー捕手として活躍するようになる。この年は99試合412打数134安打で打率.325、打点も70を記録し、「和製ヨギ・ベラ」と異名をとるようになった。1947(昭和22)年には116試合、1948(昭和23)年が138試合と完全にレギュラーの座を守って人気選手となる。1949(昭和24)年には土井垣・藤村富美男・別当薫で強力なクリンナップを形成し、126試合473打数155安打86打点、打率.328でホームランも自己最多の16本を記録しダイナマイト打線の中軸を担った。次の写真の向かって一番左から土井垣、順に金田正泰、別当薫、藤村冨美男、呉昌征。 この年は別当が39本、藤村が46本打っており、クリンナップ3人で101本を放ったことになる。まさにダイナマイト打線の名にふさわしい数字だ。(ちなみに1985年のバース・掛布・岡田は129本、これも驚異的だ) 1950(昭和25)年、土井垣は2リーグ分裂の際の若林忠志に対する球団の姿勢に対して不信感を持ち、若林に同調する形で毎日オリオンズへ移籍してしまう。 オリオンズで4年間レギュラー捕手として活躍したのち、1954(昭和29)年には東映フライヤーズに移籍し2年間プレー、最後は阪急ブレーブスに移籍してやはり2年間プレーして引退した。 引退後は報知新聞社に入ってスポーツ記者として数年を過ごし、1963(昭和38)年に二軍バッテリーコーチとしてタイガースに復帰するも、翌年のシーズンオフに本人が「寝耳に水」と言うように突然解雇されている。通算成績は1413試合4783打数1351安打654打点79本塁打、打率.282である。土井垣は用具にも独自性をもって自分でミットの改良を重ね、捕球部分が非常に薄いものにたどり着いている。それは現代のモデルに近いもので、現行ミットの原型と言われることもあるようだ。まとめ 第1回はそれぞれに特徴ある選手がでてきたね 佐藤さんは一応捕手ということではあるけど内外野守れるユーティリティの選手だったようね 打率の低さは置いといて かなり意外性があって時に長打も出るバッターだったみたい 豪快なフルスイングの三振もご愛敬で人気はあったのよ ちょっと芸人タイプって言う選手だったのかな? 西村さんは「酒仙投手」って呼ばれていたのよね この異名は有名で2代目も聞いたことがあるわね いろんな証言から「酔っ払い」みたいな感じではなかったみたいよ 若くして戦死されてるし現役生活も短期間だったけど凄く好い成績残してるよね 土井垣さんはタイガースファンの中では超有名だよね 先代の話では漫画「ドカベン」に出てくる明訓高校の主将でキャッチャー・土井垣将のモデルになった人なんだってね おしくも2リーグ分裂で移籍してしまったけど攻守ともに名選手の部類に入るとおもう背番号19-2に続く
2024年02月03日
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背番号18(その8)背番号18の第8回目です 今回が「8」の最終回となります前回3名の投手を紹介したんだけど そのうち藪さんと杉山さんがドラフト1位だったよね今回もドラフト1位の投手が2人登場するよ やっぱり「18」は投手の番号で定着したね そして「エース候補」と言われる人が背負う番号になってるわ(結果はさておきだけど・・・)いまのところタイガースでは この「18」をエースらしいエースが着けたと言えそうなのは最初の若林さんくらいなのよね もっともっとすごい投手が出てきてほしいなっておもうのよね!二神一人 投手高知県幡多郡大月町出身で高校は高知高校。右投げ本格派投手として2005(平成17)年の夏の選手権で甲子園に出場している。高知高校は県予選の決勝で明徳義塾に敗れていたが、不祥事による明徳の出場辞退で繰り上がっての出場だった。甲子園では1回戦で日大三高に敗退。卒業後は法政大学に進学、4年間のリーグ戦通算成績は35試合9勝7敗136奪三振、防御率3.11と特に目立った数字ではない。しかし4年春に5試合4勝0敗防御率1.41で最優秀防御率のタイトルとベストナインに輝くと、大学選手権では4試合で3勝を挙げて優勝しMVP。最終年度で素晴らしい実績を作って一躍大学ナンバーワン右腕との評価が高まった。 2009(平成21)年のドラフト会議でタイガースは菊池雄星(花巻東)の抽選に敗れ、外れ1位で二神を単独指名し獲得している。背番号は杉山直久から「18」を譲られた。 プロ1年目の2010(平成21)年は春季キャンプで一軍メンバーに入ったものの3月のオープン戦で左内部腹斜筋の筋挫傷をおこしてリタイアする。この怪我の回復に時間を要したため、ウェスタンの実戦に出るのは7月になってからだった。ようやく試合で投げる機会が訪れたと安堵したところ、7月10日に右肘内側側副靱帯損傷で再びリタイア。結局ルーキーイヤーはウェスタンで1試合に投げただけで終わってしまった。二度にわたる怪我でのつまずきによる練習不足・実戦不足は、2年目の2011(平成23)年にも影響して一軍登録なし、ウェスタンでもわずか4試合で0勝2敗、防御率5.79という数字しか残していない。2012(平成24)年、腰を痛めた福原忍に代わって6月30日に初めて一軍に昇格、7月6日の巨人戦の2番手でデビューし、2イニングを被安打1の無失点で抑えた。8月16日の横浜17回戦で初先発、5回1/3を被安打5四球2三振2で3失点と無難に投げたが勝敗は付かなかった。最終的に2年目は4試合0勝1敗、12回1/3で自責点6防御率4.38という結果に終わっている。大卒ドラフト1位で4年目となる2013(平成25)年は勝負をかける年とみられ春季キャンプは一軍に入ったが、練習試合で1回5失点と炎上して降格。ファームに行くとサイドスローへの投球フォーム変更を命じられる。その後微修正を続け、スリークォーターへと試行錯誤しているうちに一軍へ上がる機会もないままシーズンが終わってしまう。ウェスタンリーグでの25試合3勝5敗1セーブ、防御率4.38というのが4年目のすべてだった。 背番号「18」を剥奪されて「66」に変更して臨んだ2014(平成26)年は一軍で11試合に投げるも0勝2敗1ホールドで防御率8.79。2015(平成27)年も12試合の登板に終わるが、防御率は2.57とやや光が見えたと思われたが、2016(平成28)年は一軍に呼ばれることもなくシーズンが終わり、10月1日の戦力外通告を受けて現役を退いている。通算成績は27試合0勝3敗1ホールド、40回2/3で37奪三振、自責点24、防御率5.31で、ドラフト1位入団としては非常にさびしい数字だった。 引退後は球団職員として残り広報を担当している。藤川球児 投手 藤川投手は背番号を何度も代えた選手で、アメリカ時代を含めると現役通算で8つの背番号を背負ってるのよね。タイガースでは「30」「92」「22」「18」と4つの背番号を着けてます。 このブログでは若い番号から順次進めているため、アメリカから復帰した年に1年だけ着けた「18」での紹介ということになります。高知県高知市出身で高知商業。高校時代は2年生だった1997(平成19)年の夏に明徳義塾を破って兄順一とともに甲子園に出場し話題になる。この時はまだ外野手兼控え投手だった。旭川大付属との1回戦では4-3の4回裏からリリーフして6イニングを無失点に抑え勝利投手になる。2回戦はエース川口知哉を擁する優勝候補平安高校と対戦、1回に自らの拙いバント処理などで4点を失い、9回完投10奪三振の力投も0-5の完封負けで大泣きしている。 1998年、タイガースは二岡智宏(近畿大)の逆指名を得ようと交渉していたが失敗し、ドラフト会議では藤川を1位指名している。入団時の監督は野村克也で背番号は「30」が与えられた。 ルーキーイヤーの1999(平成11)年、非常に細身だった藤川は身体を鍛えるところから始まっており、ウェスタンリーグでも夏場以降に3試合投げただけだった。 2000(平成12)年、開幕を一軍で迎え開幕戦横浜1回戦で初登板を果たし、リリーフで2回無失点に抑えている。この年は19試合で22回2/3を投げて0勝0敗、防御率4.76に終わっているが、投球回数を上回る25三振を奪っており、「火の玉ストレート」の片りんは見せた。 しかし翌2001(平成13)年は1年間故障が絶えず、一軍に上がることができなかった上に、ウェスタンでも14試合登板にとどまり、4勝3敗で防御率3.58の成績しか残せなかった。 2002(平成14)年、監督が星野仙一に代わると藤川は背番号を名前にちなんだ「92」に改めて心機一転、一軍公式戦では12試合すべて先発で起用される。9月11日のヤクルト戦では8回1失点の好投でプロ入り初勝利を挙げているが、全体では1勝5敗、防御率3.71だった。 2003(平成15)年はリーグ優勝した年だが、藤川は17試合(先発2)で1勝1敗、防御率3.38とほとんど貢献できず、日本シリーズでの登板もなく終わっている。ただし、この年に二軍投手コーチに就任した山口高志の指導によって球速はぐんぐん上がって、のちの活躍へつながっている。 プロ入り6年目の2004(平成16)年、岡田彰布が監督に就任、二軍監督として長く藤川を見てきており、ようやくプロらしい身体つきになり、球速も150キロを超えてきた藤川をリリーフに定着させる。藤川は26試合すべてリリーフ登板で防御率2.61と結果を出し翌年の飛躍へとつながる年になった。 2005(平成17)年には背番号を「22」に変更、ジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに「JFK」を形成して大ブレイクする。藤川はセットアッパーに固定されリーグ最多の80試合に登板して7勝1敗1セーブ46ホールド、防御率1.36の成績で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得している。92回2/3で139個の三振を奪った速球は「火の玉ストレート」と異名が付いた。 2006(平成18)年も「火の玉」は唸る。セットアッパーとしてスタートしたが久保田が故障でリタイアするとクローザーを担い圧倒的な投球で相手を捻じ伏せていった。63試合で5勝0敗、79回1/3を投げて自責点はわずかに6。防御率0.68という驚異的な数字をたたき出して、2年連続で最優秀中継ぎ投手となった。 2007(平成19)年はクローザーに専念し、71試合で5勝5敗46セーブの成績で最優秀救援投手のタイトルを獲得。ここまで3年連続して100三振以上を奪っており、ホップすると言われたほど回転の多い「火の玉」の前に相手チームは沈黙している。 長くなってしまうので以下渡米までの5年間は数字のみ記載するが、防御率が2点を超えたのは1年だけ、しかも2.01だからいかに安定していたかがわかる。 2012(平成24)年のオフ、それまで積み重ねてきた実績を引っ提げ、海外FA権を行使し、シカゴ・カブスと2年契約してメジャーへと転身するが、アメリカでは故障に泣かされることになる。2013(平成25)年、5月13日に「右前腕部の張り」で故障者リストに入り、一度は復帰するも5月26日に再発、6月11日にトミー・ジョン手術を受けそのままシーズンを終えた。2014(平成26)年は15試合に登板して防御率4.85と復調が見られず、大半は故障者リストに入っており、シーズン終了後自由契約となる。2015(平成27)年にはテキサス・レンジャースと契約して1年契約して移籍するも、メジャーではわずか2試合で3失点したところで早々と見切られ、5月22日に自由契約選手になってしまう。失意で帰国すると6月に四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに入団したが9月に退団している。 その後ヤクルトとの交渉が伝えられる中、10月17日にかつてのチームメイト金本知憲が監督に就任すると、直接藤川との交渉を進めタイガースへの復帰を決断させた。背番号は二神が剥奪されてから2年間空位になっていた「18」を着けることになった。 復帰した藤川は、クローザーを務めていた呉昇桓の残留を想定に先発として調整を開始。これは「先発で調整していれば中継ぎへの転換も容易だが、その逆はしんどい」という判断からだった。結局呉昇桓は交渉が不調に終わって退団したが、藤川は先発投手としての調整を続けていく。2016(平成28)年のシーズンを先発投手としてスタートすることになったが、ペース配分を意識したためにボールに勢いがなく、シーズン序盤に先発した5試合で1勝2敗、防御率6.12と苦しんでいる。4月10日の広島戦では自己ワーストの7失点を記録するなど散々な結果に終わり、6月からブルペンに配置転換された。リリーフでは38試合に登板しており、4勝0敗3セーブ10ホールドで防御率は3.58と貢献できている。 藤川は1年で背番号「18」を返上して、2017(平成29)年から引退までは渡米前の「22」に戻している。そして2017年は52試合、2018(平成30)年が53試合、2019(令和元)年も56試合と安定してブルペンの柱になっている。 特に2019年は16セーブと同時に23ホールドを稼ぎ、中継ぎとクローザーのニ役をこなして防御率も1.77と素晴らしかったが、一方で心中では「この先2年以内に引退」を意識した年でもあった。 40歳を迎える2020(令和2)年のシーズンで、ガクンと衰えが襲ってくる。オープン戦から調子が上がってこないままシーズンでも救援失敗が続き2度の登録抹消を経験。2度目の抹消時に引退を決断し球団に申し入れ、8月31日、球団を通じて正式に引退の発表となった。 エピソードなどは書ききれない。詳しいことは様々な媒体で紹介されているので、ここではこの程度にして終わりたい。 タイガースでの藤川の通算成績は、782試合(先発19)60勝38敗243セーブ163ホールド1220奪三振、935回1/3、自責点216、防御率2.08である。馬場 皐輔 投手 宮城県塩釜市出身。強豪仙台育英高校時代には3年春にベスト8進出、夏は2回戦で敗退したが剛腕投手として存在感を見せている。大学は地元仙台大学に進むと剛腕に磨きがかかり、4年秋には37イニングで60三振を奪う力投を見せ、奪三振率14.59の驚異的な数字を残すまでになった。 リーグ戦通算の記録は32試合15勝6敗206奪三振、167回2/3で防御率は1.34だった。 2017(平成29)年のドラフト会議ではタイガースとソフトバンクが指名重複となり、抽選で勝ったタイガースに入団が決まる。大学時代の数字から見ても、前年限りで藤川が返上して1年空いていた「18」は、馬場のために空けてあったように思える。 しかし期待は裏切られ、ルーキーイヤーの2018(平成30)年は2試合、翌2019(令和元)年も2試合しか一軍での登板がなく、足踏みがつづいて心配される。 3年目となった2020(令和2)年に32試合30回1/3を投げて2勝1敗9ホールド、2021(令和3)年には44試合47回1/3で3勝0敗10ホールドを記録して一軍のブルペンに定着するかに見えた。 ところが2022(令和4)年には7試合、2023(令和5)年も17試合と出番が減ってしまった。 馬場投手の特徴は、先発、中継ぎ、抑えのどのポジションもそつなくこなせるしロングリリーフも平気というオールラウンダーであることだ。 これが曲者で、野手にも「器用貧乏」があるように、投手でも各ポジションに好い投手が定着してくると、器用な馬場の必要性がなくなってしまうという典型的な例ではないかと感じる。 タイガースでの通算成績は106試合7勝4敗22ホールド106奪三振、118回2/3で自責点が46、防御率は3.49だった。 奇しくもライバル巨人へ行くことになったが、タイガースでの馬場は今だ本来のポテンシャルを見せていたとは言い難い。2024年、タイガースに対しどう向かってくるか、非常に不気味な存在になったと言えるだろう。まとめ3人だけど長くなっちゃったね 二神さんは「ドラ1」のレベルでの評価は高すぎたかもしれないわね 入団時点で凄い速さのボールがあるわけでもなかったし これという変化球も持ってなかった 高く評価され過ぎたことが本人も重荷になっていたんじゃないかなあ藤川さんはもう説明の必要がないわ 読んでくれてる皆さんのほうがよくご存じだと思う この先は指導者としてまたタイガースに貢献していただけるものと待ってます たった1年しか着けなかったのは残念ね馬場さんは昨年ファームの試合で何回も見てるけど ボールは速くて球威も感じたよ 上の写真でもわかるように山本由伸投手と似た腕の動き方でゆったりしたモーションだけど 投げ込むときに持ち前の馬力がプラスされる感じなのよ コンパクトな腕の振りからビュッと投げてくるのでタイミング合わせにくそうだった とても放出される選手とは予想できなかったなあ 敵に回すと嫌な投手だとおもう 背番号18は馬場さんのあと2024年は空き番のまま行くみたいだけど 次に誰が着けるのかな? 今年のドラ1候補は内野手って噂だしね・・・ではこれで背番号18は終了です 読んでくれてありがとう 次は「19」に進むよ 小林繁さんとか藤浪さんも登場ね! 背番号19へ続く
2024年01月30日
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背番号18(その7)2代目タイガース非公式サイトです おかげさまで雪も止んで交通機関も平常に戻りました スリップした車の接触などの小さな事故はあったようだけど 道路の雪も日陰以外はほぼ解けてきてるよ いちばん気をつけなきゃならないのは 昼間でも陽の当たらないとこは凍ってるからツルツルで危ないことかな 背番号18の第7回目です 前回は紹介した3人のうち最後の野田さんがドラフト1位だったよね 残念だけど「エース候補」と目されながら結局トレードで他球団へ行っちゃった・・・ 流れの中で野田投手のあと「18番」は翌年空き番となってしまったのよそして1993年のドラフト会議で1位指名された藪さんが引き継ぎます 藪さんはすでに背番号4で紹介しているから 少し加筆したりして再掲です今回は藪さんを含めて3名の選手を紹介するよ藪恵壱(恵市)投手(再掲) 三重県の御浜町出身で高校は和歌山県の新宮高校。高校時代は県ベスト8が最高で、一浪して東京経済大学に進む。どこのセレクションにも合格できず一度は野球をやめようかと思っていたところ、たまたま野村克也の講演を聞く機会があって思い直したという話を聞いたことがある。(先代の談) 東京経済大は首都大学リーグの2部リーグだったが、藪は通算36勝を記録してプロからも目をつけられる存在になっていった。 大学を卒業すると社会人の朝日生命野球部に籍を置き、保険勧誘の営業の傍ら野球に取り組んだ。藪は1993(平成15)年のドラフト会議でタイガースを逆指名して1位入団し、期待されてエースナンバーの「18」を与えられる。185センチのすらりとした長身で、入団当時から「織田裕二にそっくり」と言われ特に女性ファンの人気が高かった。入団を機に登録名を「恵市」としている。 1年目の1994(平成6)年は9勝9敗ながらもチームでは最多勝、暗黒時代の打線を背負いながら防御率も3.18という立派な成績で新人王に選ばれている。 ストレートは最速140キロ台後半で綺麗なフォームから投げる素直なボール。どちらかというと最初右打者の体に向かってからストライクゾーンへ曲がっていくキレのあるスライダーを武器としており、プロに入るとそこにフォークボールを織り交ぜることで投球の幅を広げている。 しかしながら、まともに暗黒時代と重なり合うなかで、2年目からは7勝13敗、11勝14敗、10勝12敗と3年連続負け越してしまう。1998(平成10)年にプロ5年目にしてようやく11勝10敗と勝ち越した。 ところが野村監督の3年間は、6勝、6勝、0勝と振るわず、特に2001(平成13)年の0勝は右ひじの故障による影響が大きかった。 本人も野村監督時代は「怒られてばかり」と振り返っているように、「棒球」などとなじられたり、「点が取れないんだから0点に抑えろ」と無理難題を言われたりで、精神的にかなりキツイ状況もあったようだ。実際にこのころの藪は、序盤は好投していても中盤に突如連打を浴びて崩れるパターンでファンをがっかりさせることが多かった。 2002(平成14)年、監督が星野仙一に代わり、藪も心機一転復活を果たすため川藤の奨めもあって背番号を「4」に変更し、2004(平成16)年まで3年間背負った。背番号を替えた年に10勝6敗、防御率3.14の成績で久々の二けた勝利を挙げ、カムバックしている。 2003(平成15)年は先発と中継ぎを掛け持ちしながら8勝3敗とリーグ優勝に貢献しているが、夏場に肘痛を発症したため日本シリーズでは登板機会がなかった。 その後、2004(平成16)年に取得した海外FA権を行使し、平成17(2005)年にオークランド・アスレチックスに入団し中継ぎで4勝するも自由契約となる。2006(平成18)年はコロラド・ロッキーズと契約したが3月に解雇されメキシカンリーグへと活路を求めて6月にティファナ・ポトロズと契約するも同年中に解雇。翌2007(平成19)年はどこにも所属できずに浪人となって自主トレに明け暮れるというどん底を経験した。2008(平成20)年、なんとかサンフランシスコジャイアンツと契約にこぎつけ、中継ぎで3勝を挙げたが翌2009(平成21)年7月に解雇されてしまう。さすがにアメリカでのプレーは断念し帰国すると、2010(平成22)年7月、テストにより楽天イーグルスに入団。11試合で2ホールドを挙げたが、限界を感じて同年引退した。 引退後は平成2011(平成23)年から、タイガースで二軍投手コーチ、一軍投手コーチを務めて後進を指導した。 タイガースでは通算84勝106敗と大きく負け越してしまったが、貧打を極めた最下位常連の暗黒時代にあってよく頑張った。Aクラスに定着できる時代なら勝敗の数は逆転していただろうし、もっと勝っていたに違いない。 おっとりとした印象の藪も、巨人に移籍してきた清原には強気で内角を攻め通算6個のデッドボールをぶつけている。清原が指3本を立てて「三度目やぞ」というポーズをしたとき、藪も3本指で「3億も貰ってるなら避けられるやろ」とやり返してあわや乱闘のにらみ合いになったこともある。ちなみに清原は藪に対し通算50打数8安打で打率.160と極端に苦手としていた。マーク・バルデス 投手 アメリカ合衆国オハイオ州デイトンの出身で、フロリダ州立大学を経てドラフト1巡目でフロリダ・マーリンズに入団している。メジャーでは7年間で12勝15敗2セーブの成績を残す。 2002(平成14)年1月にタイガースと契約。藪が返上した「18」を譲られている。 バルデスの特徴はいわゆる「クセ球」。まともな真っすぐという球はなく、すべてのボールが変化するため「縫い目の魔術師」と呼ばれることもあった。 星野監督は前年クローザーを務めた成本年秀に見切りをつけてバルデスを抜擢すると、内容的には十分期待に応えている。 42試合に登板して4勝3敗22セーブ、防御率も1.54と申し分のない成績と言えるだろう。球団も10月11日時点で残留方針であると公表している。 しかし、2002(平成14)年の米国視察で投球を見て以来、熱望していたジェフ・ウィリアムスの獲得に成功すると、惜しげもなくバルデスを解雇してしまった。 2003(平成15)年、バルデスは中日ドラゴンズと契約。しかし、中日は2003年にはギャラードや大塚晶則、2004(平成16)年には岩瀬というストッパーがおり、バルデスは主に中継ぎやセットアッパーに使われて、2年間で計67試合1勝4敗2セーブに終わってしまった。 2004年の中日はリーグ優勝して日本シリーズに進み、バルデスは2試合に登板して第2戦では勝利投手にもなったがオフに解雇された。 バルデスさんがわずか1年で去って、その後2003(平成15)年から「18」を背負うのはドラフト1位の杉山さんなんだけど、すでに背番号「17」で出てきてしまってるから丸ごと再掲とするね。杉山直久 投手(再掲)京都府舞鶴市出身で東舞鶴高校に進むが甲子園の経験はない。龍谷大学で頭角を現し、2年時にノーヒット・ノーランを記録すると、3年秋は4勝を挙げて防御率0.86という好成績で優勝に貢献し、MVPに輝いている。4年になると150キロを超える速球を武器に日米大学野球の代表に選らばれるなどドラフト1位候補として名前が挙がってくる。大学通算では15勝4敗で防御率1.19の数字を残した。2002(平成14)年、タイガースはドラフト自由獲得枠(逆指名1位)で杉山を獲得する。背番号は前年藪恵市が返上したエースナンバー「18」と決まった。ルーキーイヤーの2003(平成15)年は、キャンプから前半戦まで体力づくりに専念し、8月に一軍へ昇格する。結局3試合(先発2)しか登板機会は無く、0勝2敗で防御率も7.71に終わっている。2004(平成16)年6月15日のヤクルト戦で先発し5回2/3をなげて3失点でプロ初勝利を飾ったが、この年は13試合2勝2敗で防御率5.30だった。2005(平成17)年、体の開きが早かったフォームを改良してブレイクする。23試合(先発22)で9勝6敗、134回2/3を投げて奪三振103自責点44、防御率2.94の好成績を残してチームのリーグ優勝に貢献した。日本シリーズでは3連敗後の第4戦に先発したが、2回に李承燁の2ランをあびて先行を許し敗戦投手となっている。ところが2006(平成18)年からまた思うように勝てなくなる。この年17試合で4勝4敗に終わると、2007(平成19)年も20試合4勝5敗1ホールドと低迷が続く。2008(平成20)年には登板が9試合と激減し、2勝3敗の成績で一軍から遠ざかっていく。2009(平成21)年、背番号「18」を剝奪され、前年まで金村が着けていた「17」に変えて再スタートしたものの、一軍での登板はわずか2試合で0勝1敗、防御率5.40とどん底に落ちてしまった。 2010(平成22)年は一軍で7試合に投げるも先発は一度もなく終わり、2011(平成23)には一軍に上がることすらできないまま過ごして戦力外となった。 トライアウトを受けたがプロではお呼びがなく、2012(平成24)年はBCリーグの富山サンダーバーズに所属した。 現在はオリックスのチームスタッフとして裏方で汗をかいている。まとめ前にも書いてるかもしれないけど 藪さんは暗黒時代にまるかぶりで援護のない中で好く投げたとおもうよ 「エース」と呼んでいい時期もあったと言えるんじゃない?清原さんに強気で攻めてたなんてエピソードがエースの証明ねバルデス投手は結構いい数字残してるんだよね でもウィリアムス投手とは決定的な違いがあるのよタイガースでのバルデス投手は52回2/3を投げて39奪三振 一方のウィリアムス投手は7年で371回2/3で418個の三振を取ってるのストッパーに求められる特性は ここという場面で狙って三振が取れるかどうかなのよ なのでウィリアムス投手に軍配が上がったんだとおもうドラフト1位の杉山さんは怪我が原因でエースと呼ばれる投手になれなかった 「無事これ名馬」と言うように 怪我しないというのは一流になる条件ね 「ケガが多い選手は大成できない」っていう典型だったんじゃないかな背番号18-8に続く
2024年01月26日
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背番号18(その6)背番号18の第6回目です「エースナンバー」と言われながら地味な番号になってしまってた「タイガースの背番号18」1962(昭和37)年のブラウンスタイン投手以降は投手しか着けてないのよね そして今回から令和の馬場投手までの間も投手しか着けてないわどうやらピッチャーの番号に固定されたって言えそうね 今回最初に出てくる大町さんまでは地味な選手が続くけど そのあとはエース級またはエースを期待された投手が着けてるんだよ大町定夫 投手山口県光市出身で高校は柳井商業に進むが高校時代に甲子園は経験できずに終わっている。183センチの長身だが本格的な右投げアンダースローで 力強さは無いもののお手本のように綺麗なフォームの投手。ただし球速はストレートが120キロ出るか出ないかというほど遅く、「ハエがとまるボール」などと言われた。社会人の新日鉄光に入部するとプロのスカウトの目にとまるようになってくる。1973(昭和48)年のドラフト会議では太平洋クラブライオンズから6位指名を受けるが拒否。1975(昭和50)年にはロッテオリオンズの2位指名も拒否している。 1979(昭和54)年、三菱重工広島の補強選手として都市対抗本戦に出場すると決勝まで5連投で3勝を挙げ、初優勝の立役者となって「橋戸賞」を受賞する大活躍を演じた。しかし年齢が26歳に達していたこともあってか、ドラフト会議で指名する球団はなく、タイガースの渡辺スカウトが交渉してドラフト外で入団が決まる。背番号は広島へ移籍した安仁屋の「18」を継承した。 ルーキーシーズンの1980(昭和55)年は37試合に登板したが先発は2試合のみで35試合がリリーフだった。2勝2敗4セーブで71回2/3を投げ防御率2.75という数字は安定感を感じさせる。 2年目の1981(昭和56)年はすべてリリーフ登板で50試合に投げている。しかも7勝1敗8セーブと結果も出し、79回1/3で防御率も1.91と頼りになるリリーフエースになってきた。偏光サングラスをかけて表情を変えず淡々と投げるのが特徴で「村長」のニックネームも付き、ファンから認知される存在になっているが、この年が成績のピークとなった。 1982(昭和57)年は35試合に投げ、そのうち先発も9試合に起用されたが2勝3敗、防御率5.13に落ち込む。翌1983(昭和58)は登録名を「大町定生」にかえて巻き返しを図ったが役割はどちらかというと敗戦処理。21試合で0勝1敗、防御率4.61と登板数自体も激減してしまう。 1983年12月7日に自由契約選手となり、大町は4年間であっさりと現役をあきらめ、引退してフロント入りする。30歳を節目としたのかもしれない。 通算成績は143試合11勝7敗12セーブ144奪三振、250回1/3を投げ自責点94、防御率3.38である。 引退後はスコアラー、ビデオ係、ファームのマネージャーなど裏方的な仕事や広報なども担当し、その後営業部に転じた。池田親興 投手宮崎県宮崎市出身。高鍋高校時代は甲子園には縁がなかったが、1977(昭和52)年のドラフト会議でタイガースから4巡目で指名を受けた。しかし池田は進学を希望していたため入団を拒否して法政大学へ進んでいる。ただし、大学時代には常に2番手投手の扱いに終わっており、4年時に上げた2勝しかしていない。池田は社会人に進んで開花した投手だ。1982(昭和57)年に日産自動車へ入部すると、新日鉄釜石を完封するなどの活躍で都市対抗ベスト4に進んでいる。1983(昭和58)年は東芝の補強選手として出場し優勝に貢献した。その勢いでロス五輪代表にも入ったが、アジア予選決勝で台湾の郭泰源(のち西武ライオンズ)と投げ合ってサヨナラ負けしている。同年のドラフト会議では再びタイガースから2位指名を受け今度は入団。引退した大町から背番号「18」を引き継ぎ在籍7年間着けている。ルーキーの1984(昭和59)年は29試合に登板。20試合が先発で、早くもローテーションの一角を担う。成績も2完封を含む9勝8敗、152回1/3を投げて防御率3.90と上々だった。近藤真彦に似ていると女性ファンから評判になって「球界のマッチ」などと呼ばれる人気者になっている。1985(昭和60)年、開幕投手に抜擢されるなど飛躍が期待された。シーズン成績は32試合9勝6敗だが防御率は4.45。バース・掛布・岡田に代表される猛烈な打線の援護に助けられて勝ち越したという印象だ。しかし日本シリーズでは第1戦に先発し完封勝利を挙げ チームを勢いづけて日本一に貢献している。 1986(昭和61)年、5月27日の巨人戦で松本匡史に足を踏まれて骨折しシーズンの大半を棒に振って4勝4敗に終わる。 その後4年間は28試合5勝13敗、28試合7勝10敗、14試合2勝7敗、15試合2勝8敗と勝ち越しの年がなく低迷してしまったことで、1990(平成2)年のオフに4対5のトレードでダイエーホークスに移籍することになった。 ホークスでは田淵幸一監督がストッパーに抜擢したことで再生され、1991(平成3)年に6勝4敗13セーブ、1992(平成4)年も8勝4敗18セーブと活躍するが根本陸夫監督変わると低迷、1994(平成6)年オフに戦力外となりヤクルトスワローズに拾われる。 1995(平成7)年は13試合にリリーフで投げたが0勝1敗の成績では現役引退するしかなかった。 引退後ダイエーに戻ってスカウトを務めるが1年で退団。その後は評論家や解説者として活躍している。 通算成績は277試合(先発131)53勝69敗30セーブ。970回を投げ570奪三振、自責点494防御率4.58。結局プロ12年間で二けた勝利は一度もなかった。野田浩司 投手(再掲) 野田については先代が「背番号1」で紹介済みだけど、かなり簡略化しての記載になってるので詳しくして再掲するよ野田は熊本県球磨郡多良木町の出身で高校は多良木高校。高校時代は県ベスト4はあるものの全国的にはまったく無名の選手だった。1986(昭和61)年に社会人九州産業交通に進むと、2年間で22勝13敗の成績を挙げてプロ候補に数えられるようになる。1987年のドラフト会議では3球団が競合した東亜学園の川島堅投手の抽選に敗れたタイガースが「外れ1位」で指名し入団し、弘田の引退で空いた背番号「1」を着ける。投手が「1」を着けるのは1957(昭和32)年の西尾以来30年ぶりだった。 ルーキーだった1988(昭和63)年は吉田から村山へ監督が代わった年だったがチームは混乱・低迷を極めており、打線の援護が期待できない状況。野田は42試合(先発17)とよく使われたものの3勝13敗と大きく負け越してしまった。1989(平成元)年はほとんどリリーフで登板し5勝4敗2セーブという成績だった。入団した時期が悪かったと言えるのかもしれない。1990年(平成2)年には監督が中村勝広に代わるが、野田は先発10試合リリーフ27試合というどっちともつかない使われ方の中11勝12敗5セーブとフル回転で活躍し、初めて二けた勝利を挙げている。 1991(平成3)年、3年間着けた背番号「1」を新外国人選手のオマリーに譲り「18」を着けている。前年の二けた勝利によって期待が高まったため「エースナンバー」へ切り替わった考えていいだろう。中村監督もこの年は野田を28試合に先発させ、ローテーションの一角を担わせたが、成績は8勝14敗と負け越してしまった。 1992(平成4)年は新亀ブームが巻き起こって暗黒時代唯一の2位になった年で、野田も規定投球回数には少し足りなかったものの8勝9敗1セーブで防御率は2.98で、プロ入り5年目にして初めて2点台をマークしている。 ところがそのオフ、打線の中心となる打者を獲得したいタイガースのフロントは、オリックスの松永浩美との1対1の交換トレードで野田を放出してしまう。まだ24歳で三振が取れる素質のあるエース候補の放出にファンからは不満の声が渦巻いた。野田本人もトレード拒否の気持ちが強く、当時現役だった岡田彰布にも相談したが、説得されてトレードを受け入れた。投手としての能力は高く、フォークボールはヤクルトの野村監督が「お化け」と呼ぶほど落差があった野田も、タイガースでは先発・中継ぎ・抑えと何でもやらされたのが災いして5年間で35勝52敗9セーブと大きく負け越していた。 それがオリックスに移籍後した1993(平成5)年は全26試合に先発し、17勝5敗と飛躍を遂げる。225回で209奪三振、防御率も2.56と素晴らしい成績を残した。 一方でタイガースに来た松永は80試合303打数80安打31打点8本塁打、打率.294と振るわず、オフにはFA権を行使してたった1年の在籍でダイエーホークスへ行ってしまった。タイガースファンが怒り心頭となったのは言うまでもない。野田は1994(平成6)年に12勝、1995(平成7)年も10勝を挙げて3年連続二けた勝利を記録。この間、やはり3年連続で200奪三振も記録している。1995年にはロッテ戦で1試合19奪三振という日本新記録も達成しており、フォークボールを決め球に快刀乱麻の全盛期だった。1996(平成8)年から二けた勝てなくなり、肩を壊した1998(平成10)年から2年間は未勝利に終わって引退。オリックスに移ってからは故障する前までの5年間で54勝35敗と花開き、タイガース時代の35勝52敗とは数字が逆転している。通算では316試合(先発209)89勝87敗9セーブ1325奪三振、1614回1/3を投げて自責点628、防御率3.50である。引退後は評論家、オリックスのコーチ、社会人ニチダイのコーチや飲食店経営など多方面で活躍、ボーイズリーグで少年野球の指導などもしている。まとめ先代に大町さんのことを聞くと 笑って「リトルリーグの選手にも打ち込まれそうな遅さだったなあ」って言うのよねそれだけ球速がなくても好いときはちゃんと抑えてたみたいだから 独特の変化球とか配球の上手さとかがあったんだろうねと想像してます ただし4年で辞めちゃったのは本人もプロでの限界を感じてたんだとおもう池田さんは日本シリーズ初戦の完封勝利が光ってるね タイガースでの成績を見ると大したことないんだけど人気者だったみたい エースっぽいところまで近づいてるけどエースには到達できなかった投手かな野田さんは現在のタイガースで言うと才木投手みたいなタイプ 結果論かもしれないけど惜しいことをしました 先代も当時は頭に来たって言ってるよ しかも当時のファンは 野田さんを出してまで松永さんを欲しいとは考えていなかったんじゃないかって・・・ 結局は1985年の日本一から暗黒に転じて6~7年、株主総会で相当責められてたのかな?フロントの主導で大失敗を演じてしまいました背番号18-7に続く
2024年01月23日
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背番号18(その5)背番号18の第5回目です前回まで短い人が続いたんだけど 昭和40年代に入ってドラフト会議が始まり やっと「18」も落ち着きを見せてきますこの回でも3名を紹介しますが そのうちの2名はドラフト1位の投手よ!エースナンバーとして意識的にドラ1に与えられるようになったわけね石床幹雄 投手香川県の小豆島出身で高校は高松商業に進むが、投手の頭数が多く競争が厳しいと感じて1学期が終わった時点で土庄高校へ転向している。高校2年時の練習試合で岡山東商のエース平松政治と投げ合って1安打完封する。のちに大洋ホエールズでエースとなって201勝を挙げる平松はすでに全国に名が知られたドラフト1位候補だったため、投げ勝った石床にも注目が集まるようになった。 石床は3年時の1965(昭和40)年夏に北四国大会まで進んだが松山商に敗れて甲子園出場はできず、大会終了後には早々と社会人の四国電力への就職が内定している。 これを知っていたにもかかわらず、同年から始まったドラフト会議でタイガースは大方が予想していた鈴木啓司ではなく石床を1位指名して驚かせた。 初のドラフト1位入団である石床に対し球団はそれまで着けていた中井悦雄を自由契約にして背番号「18」を贈る。若林や梶岡のようなエースになってほしいという思いが込められていたに違いない。 1966(昭和41)年は高卒1年目にして一軍で14試合に登板している。すべてリリーフ登板で20イニング投げ、自責点6で防御率2.35だった。 ところが2年目の1967(昭和42)年がわずか1試合、3年目の1968(昭和43)年も1試合(先発)と壁に当たってしまう。プロ入り3年間は白星も黒星もなかった。 4年目の1969(昭和44)年は5試合に登板、10月12日の大洋戦で6回無失点に抑えようやくプロ初勝利を手にする。しかしもともと身体が強いほうではなく、このシーズンには慢性の腎臓疾患を発症してしまう。 1970(昭和45)年には故郷に戻って療養に専念している最中に肺炎まで併発して現役を続けることが絶望となり、23歳で引退を余儀なくされた。 通算成績は21試合1勝1敗25奪三振、46回2/3で自責点14の防御率2.68である。谷村智弘 投手(再掲)谷村については背番号15-3ですでに紹介しているが、ドラフト会議で1位指名されて最初にもらった背番号が「18」なので再掲する。香川県の小豆島出身で高校は高松商業に進むが、投手の頭数が多く競争が厳谷村は兵庫県西宮市出身で高校は報徳高校。3年生だった夏の選手権では2試合連続完封勝利を記録してベスト8に進んだ好投手だった。関西学院大に進むと、リーグ戦60試合に登板し20勝25敗179奪三振、防御率1.67と言う成績を残す。1970(昭和45)年は社会人鐘淵化学でプレーし都市対抗で優秀選手賞を受賞、社会人ベストナインに選ばれた。ドラフト会議ではタイガースが1位指名して入団、最初の背番号は石床の引退で空いたエースナンバー「18」で4年間着け、1975(昭和50)年から「15」に替えて5年間着けることになる。投手としては軟投型で三振をとるタイプではなく、踊るような投げ方で打たせて取るのが特徴。配球だけでなく投球フォームの中にも変化をつけてタイミングを外す変幻自在の投法で、打者からボールが見えにくく球威の無さをカバーしていた。1年目は24試合に登板し、先発が5試合、リリーフが19試合。1勝2敗で防御率3.43と平凡だった。 2年目の1972(昭和47)年に22試合に先発して11勝11敗、防御率もセ・リーグ2位の2.26とブレイクし、以後1977(昭和52)年まで毎年20試合以上に先発するローテーション投手となり、1975(昭和50)年に11勝9敗、1976(昭和51)年に12勝8敗と活躍している。1975年に広島から移籍してきた安仁屋宗八に背番号「18」を譲り、「15」へ変更している。 故障も少なく、先発をしながら毎年10~20試合程度のリリーフ登板もこなしており貢献度は高かった。その割に球団の評価が今一つだったのは地味で人気選手というわけではなかったからかもしれない。 1978(昭和53)年~1979(昭和54)年は2年続けて1勝どまりで、1979年オフに鈴木弘規との交換で阪急ブレーブスへ移籍した。 阪急では1年目に7勝を挙げて貢献したが、2年目からの5年間で9勝しかできず、1985(昭和60)年を最後に現役を退いた。 プロ通算成績は393試合72勝82敗5セーブ、奪三振512、1489回で自責点681、防御率は4.12だった。安仁屋宗八 投手 沖縄県沖縄高校出身。中学時代から野球を始めたが昭和30年代の沖縄はまだ占領下にあり、テレビ放送もなくプロ野球や甲子園大会なども見たことが無かったという。 1962(総和37)年、高校3年のときに沖縄大会で優勝して南九州大会に進み、宮崎大淀高校を破って甲子園出場を決める。それまでの沖縄代表は「招待」の扱いで出場していたが、この年に初めて実力で甲子園出場を果たした。甲子園では1回戦で広島の広陵高校と当たって敗退している。 1963(昭和38)年に高校を卒業し沖縄煙草に入って野球を続け、大分鉄道管理局の補強選手として都市対抗に出場する。1回戦で敗退したが好投を見せた安仁屋に広島が目をつけ、現役選手だった平山智をスカウトとして沖縄に送り込んだ。何度も熱心に勧誘された結果、安仁屋は広島カープへの入団を決意する。 1964(総和39)年、カープでの1年目は3勝8敗に終わっているが、弱小球団の貧打に泣かされた結果であり防御率は3.52と悪くはない。 その後も、1965(昭和40)年が9勝13敗、1966(昭和41)年が8勝14敗、1967(昭和42)年も8勝16敗であり、プロ入りから4年連続して負け越しが続いている。 ところが5年目の1968(昭和43)年に根本陸夫が監督に就任すると安仁屋は大変身する。先発・救援のフル回転で57試合313回1/3を投げ、23勝11敗と生涯で唯一の20勝以上を達成し、防御率も2.07、奪三振237個という好成績を挙げた。 その後も1969(昭和44)年10勝9敗、1970(昭和45)年も10勝14敗と二けた勝利が続いたが、1969年に発症した「痛風」に悩まされ続け、1971(昭和46)年以降の4年間は一桁しか勝てない投手になってしまう。 1974(昭和49)年にはシーズン中にルーツ監督から「アンダースローに変えろ」と命じられたことに反発して対立してしまい、成績も4勝4敗2セーブで防御率3.96と振るわなかったため、オフに若生智男との交換トレードによりタイガースへ移籍することになった。タイガースでの背番号は谷村からエースナンバー「18」を譲られ、在籍した5年間着けている。 1975(昭和50)年は吉田義男が初めて監督に就任した年で、移籍してきた安仁屋を中継ぎ専門で起用した。この年すべてリリーフで自己最多の66試合に登板し、12勝5敗7セーブの成績を挙げて規定投球回もクリア、防御率1.91で生涯唯一のタイトルを獲得するとともに「カムバック賞」も受賞している。 翌1976(昭和51)年も53試合10勝4敗10セーブで防御率2.25と安定した働きで貢献しているが、33歳となる3年目から成績は落ちていく。 タイガースでの5年目となった1979(昭和54)年にブレイザーが監督になると、配球をめぐって対立し二軍に落とされると長い二軍生活となって公式戦登板は12試合に激減。0勝2敗で防御率5.00と最低のシーズンになった。 シーズンが終わると球団から「引退して二軍投手コーチに就任しないか」と打診があったが現役を続けたい意向があって拒否。広島の古葉監督が手を差し伸べてくれたため、タイガースを退団して広島へ復帰する。 しかし広島での最後の2年間は合わせて3試合の登板しかなく0勝0敗、防御率36.00に終わっている。 1981(昭和56)年をもって現役引退。現役18年の通算成績は655試合に登板、119勝124敗22セーブ1432奪三振、2090回1/3で自責点715、防御率3.08だった。 引退後は広島で投手コーチなどを務めたのち、2006(平成18)年に沖縄で社会人野球チーム「安仁屋ベースボールTRY」を立ち上げて指導者として活動を続けている。まとめ石床さんはタイガースが鈴木啓二さんを差し置いて1位指名したほどなんだから かなり期待が大きな選手だったのね もし石床さんじゃなく鈴木さんを指名してたら・・・鈴木さんは「石床がいたから大好きだったタイガースに入れなかった」って言ってるし 江夏さんは「鈴木がタイガースに入っていたら、2年続けて高卒の左投手は取らんだろうから、阪神の江夏は存在しなかっただろうね」と言ってるよそれでもって いちばん活躍できなかったのが石床さんなんだから 人の運命って不思議なんだよね谷村さんは2回目の登場だからもう評価書かないけど 地味で目立たないわりに貢献してくれた選手です安仁屋さんは広島で主力級投手として11年働いたのちにタイガースに来たのよね 吉田監督は3年間徹底してリリーフ起用し再生しました 数字を見ても好く頑張ってくれたって分かるよね今回の3人をみても一人一人が全く違う野球人生なのよ 同じプロ野球選手と言っても 運・不運や巡り合わせ 不慮の事故や病気 監督との対立 等々 さまざまな要因で大きな差ができるのね・・・背番号18-6へ続く
2024年01月22日
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背番号18(その4)背番号18の第4回目です創成期のエース・若林さんから始まって3名の選手が着けてきたよね そのうち2名は投手で 梶岡さんもかなりいい成績を残しているわでも今回からしばらくは ちょっと冴えない番号になってしまうわ 短い期間しか着けてない選手が続くのよ みなさんこの3人知ってる?これも「タイガースの歴史」なんけどね藤重 登 捕手アメリカ合衆国ハワイ出身。ハワイ・レッドソックスから1956(昭和31)年に南海ホークスに入団している。南海には2年間在籍したが、公式戦では1956が9試合、1957(昭和32)年が24試合の出場にとどまり、2年続けて打率が1割台という成績で戦力外となり退団してハワイ・レッドソックスに戻った。1959(昭和34)年、監督でハワイの同郷でもあるカイザー田中が獲得に動いてタイガースに入団し再来日、背番号「18」を着ける。この選手に関しては資料がほとんどなく、どんなプレイヤーだったかはよくわからない。捕手としてはそれなりに能力はあったらしいが、バッティング技術が低く主戦捕手にはなれなかった。当時は山本哲也が正捕手でエース級の小山正明や村山実の投げる試合のほとんどでマスクを着けていたので、その合間で二線級以下の投手のときにしか藤重の出番はないのが実情だったようだ。タイガースでの1年目は公式戦35試合で63打数15安打0打点0本塁打で打率.238。 最も働いたのが2年目の1960(昭和35)年だったが、それでも61試合141打数34安打8打点3本塁打で、打率は.241に過ぎない。 在籍最後となった3年目の1961(昭和36)年はわずか26試合で49打数11安打3打点1本塁打とさびしい成績で打率も.224と冴えなかった。シーズン終了後に引退しハワイへ帰っている。 通算成績は5年間で155試合295打数66安打14打点6本塁打31三振3盗塁、打率.224。マーク・ブラウンスタイン 投手 この選手についてはいずれ「外国人選手史」でも紹介するつもりだが、在籍1年で公式戦出場なし、まったく戦力にならず解雇されている。 1962(昭和37)年にアメリカ・カリフォルニア大学を卒業して即タイガース入りという、ちょっとありえないような経歴で、しかも投手としてさっぱりな上に故障したためシーズン途中に野手転向を試みるなどお粗末すぎる。 期待を込めて背番号「18」を与えたのか、たまたま空いたから与えたのか不明だが、入団の経緯もよくわからないし、大型右本格派の評判とは裏腹に来日当初から球威・球速ともに期待外れで実力不足。しかも日本に来たそのシーズンに野手転向などタイガース側にも大いに問題があるケースだろう。 タイガースの「18番」の黒歴史というほかない・・・中井悦雄 投手 中井は大阪府出身で大鉄高校で2年時に選抜大会で甲子園経験があるが1回戦敗退。関西大学に進むが1年で中退し、1963(昭和38)年にタイガースに入団し背番号「18」を引き継いでいる。「18」に決まったのは担当スカウトが18-3で紹介した河西俊雄だったことも影響しているかもしれない。 ルーキーイヤーはファームで20試合13勝1敗、防御率1.17で最多勝・防御率1位・勝率1位の三冠に輝く大活躍でウェスタンリーグの優勝に貢献、9月には一軍に上がっている。 公式戦では7試合に登板し4勝1敗で防御率が1.22。4勝のうち3勝は完封勝利だった。2試合にリリーフ登板し4イニングを無失点に抑え、9月19日の大洋戦(甲子園)で初先発。8安打を浴びながら1-0で2勝目を挙げる。9月24日の国鉄戦(甲子園)では金田正一と投げ合い2-0で7安打完封、さらに9月29日(中日球場)の中日戦でも2安打に抑えて5-0で完封してしまった。10月17日の広島戦(広島球場)で2回裏に藤井弘のソロホームランを浴びて1点を失い初失点を記録したものの「デビューから31イニング連続無失点」という日本新記録を樹立した。しかし当時この記録は話題にもならず、2023(令和5)年に同じタイガースの村上頌樹が並ぶことで60年ぶりに脚光を浴びることになる。村上も抜くことはできず、中井はいまも村上と並んで日本記録保持者であり続けている。 1964(昭和39)年、前年の成績から大きな飛躍が期待されるシーズンとなった。ところが中井は開幕当初勝ち運に恵まれず、4月30日の国鉄戦でようやく1勝を挙げる。しかもこの1勝がタイガースにおける最後の白星になるとはだれも想像もしていなかった。 5月に起こったアクシデントが中井の投手晴明を奪ってしまう。ウィキペディアなどでは「交通事故による負傷」となっているが、実際は次のようなことだったようだ。 自転車で阪神電鉄甲子園戦の踏切を渡っている際に、誤って転倒し右肩を強打してしまった。「交通事故」というより自らの不注意が招いた転倒事故だ。この負傷で戦列を離れその後のシーズンを棒に振ってしまう。結局11試合で1勝2敗、防御率3.66というのが2年目の成績だった。 1965(昭和40)年、現場に復帰するも一軍では1試合わずか1イニングの登板に終わり、1966(昭和41)年は一軍で投げないまま自由契約となって退団している。 1年を経て1968(昭和43)年に再びタイガースに復帰したものの一軍での登板はなく西鉄ライオンズへトレードされてしまった。タイガースでの最後の1年は背番号「46」を着けている。 西鉄に移った1969(昭和44)年のシーズンは当初先発で起用されるが結果が出ないためリリーフに転向し35試合に登板している。2年目の1970(昭和45)年には42試合に登板し3勝0敗、85回2/3で防御率3.24と貢献した。 しかし3年目の1971(昭和46)年は17試合しか登板がなく8月でほぼ戦力外とみなされてしまい、シーズン終了後に現役を去った。 通算成績は実働6年で109試合9勝6敗145奪三振、245回2/3で自責点91防御率3.33。 その後、一般の会社に勤めていたが1979(昭和54)年に二軍投手コーチとしてタイガースに復帰する。ところが同年8月23日に突然の心不全で急逝しまう。まだ36歳という若さだった。まとめ今回の3人は三者三様という感じよね藤重さんはハワイから来て2球団でプレーしたけどパッとしないまま短期間で終わっちゃった選手 写真は南海時代の小っちゃいのが一つ見つかったよブラウンスタイン投手はもう訳が分からないわ 大学新卒のアメリカ人選手が入るってのもほぼ例がないし それがまた全く役に立たないで帰ってるのよね 「一体全体何だったのよ?」って言いたいわよね これでは写真なんて残ってるはずもなく見つかんなかったわ中井さんはツイてないって言うのかなあ・・・ 実際1年目の活躍をみると順調にいけばエース級になってたはずだとおもう それが不注意からの事故で台無しにしてしまってるのよ 不利なカウントから平気でど真ん中へ投げ込む勝負度胸があって周囲の期待は相当なものだったらしいわよ だからいまも「幻のエース」と言われることがあるみたい しかもせっかくコーチで復帰したのに早くに亡くなってしまって・・・とても残念!背番号18-5へ続く
2024年01月19日
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背番号18(その3)背番号18の第3回目です創成期のエース・若林さんから始まって3名の選手が着けてきたよね そのうち2名は投手で 梶岡さんもかなりいい成績を残しているわでも今回からしばらくは ちょっと冴えない番号になってしまうわ 短い期間しか着けてない選手が続くのよ これも「歴史」だから・・・ でも河西さんは選手としてよりスカウトになってからの功績が凄いんだけどね河西俊雄 内野手・外野手梶岡が返上した「18」を継承したのが河西俊雄で、主に内野手(セカンド)の選手である。河西は兵庫県姫路市出身。明石中から明治大学を経て1946(昭和21)年に近畿グレートリングに入団している。グレートリングというのは現在のソフトバンクの先祖に当たる球団で、遡れば1938(昭和13)年に南海電鉄が立ち上げた「南海軍」から始まっている。河西が入団したのが戦争による中断が終わり、1リーグ8球団で再開された1946年で、ちょうどこの年が「近畿日本軍」から「近畿グレートリング」に改称した年に当たる。 残された記録によると河西は164センチ56キロという非常に小柄な選手だったようだが、グレートリング時代の4年間はほぼレギュラーで通している。 1946年から1948年まで3年連続で盗塁王になっており、39個、53個、66個と相当な俊足だったことがわかる。 1950(昭和25)年、2リーグ分裂に伴い、多くの選手が抜けて内野手が手薄になったタイガースの藤村富美男から誘われて移籍することになり、背番号は「18」が与えられた。 1年目はレギュラーとして113試合に出場しているが、前述のとおり選手が不足しているタイガースだったため外野の守備にも就いている。この年は主に2番を打って351打数97安打30打点1本塁打、打率.276で23盗塁となかなかの活躍を見せた。 2年目の1951(昭和26)年も114試合385打数103安打14盗塁、打率.268でリーグトップの30犠打を記録している。 しかし1952(昭和27)年になると98試合の出場にとどまり盗塁も10個と衰えが感じられるようになってきた。 1953(昭和28)年から二軍コーチ兼任となったため、背番号を「31」に変更。コーチ業が主になったため公式戦出場は8試合に減った。 1954(昭和29)年には現役のまま二軍監督に就任、公式戦には出場していない。1955(年昭和30)年に7試合出て現役を引退している。 1956(昭和31)年まで二軍監督を続け、1957(昭和32)年には二軍コーチに戻り、1958(昭和33)年にはフロントに入ってスカウトに転じ、藤井栄治や遠井吾郎を入団させた。 その後も「すっぽんの河さん」と異名をとるほどスカウトで能力を発揮し、藤田平、江夏豊、山本和之、掛布雅之などのちのスター選手を担当して、1976(昭和51)年に退団。 通算記録は771試合2524打数652安打183打点11本塁打、打率.258、盗塁233である。与儀真助 内野手 与儀はアメリカ合衆国ハワイ準州出身で、前年先に入団していた同郷の小島勝治の推薦で1953(総和28)年に入団。河西に続いてまた内野手が「18」を着けることになった。 個人の推薦であったためタイガースは半信半疑で獲得したが、1年目の1953年は130試合に出場し、サードを守っていた藤村をファーストへコンバートさせるほどの活躍を見せて関係者を驚かせる。 この年、492打数145安打72打点14本塁打で打率.295は新人王でもいい内容だ。盗塁も19個を記録しサードのベストナインにも選ばれるなど「思わぬ拾い物」となった。 翌1954(昭和29)年も122試合に出ているが、401打数103安打37打点4本塁打で打率.257と全体に成績を落としている。ところがこのオフ、当時のタイガースは経営が苦しく、経費節減をしなければ運営が困難な状況になっていたため、ハワイの選手とは翌1955(昭和30)年の契約は更改されず、小島とともに解雇の憂き目を見てしまった。非常に残念である。与儀の退団後の1955年は「18」は空き番となった。1957(昭和32)年、活躍した当時のタイガースの監督だった松木謙治郎が大映ユニオンズの監督に就任し、与儀に声をかけて大映に入団させ日本球界に復帰する。しかし85試合の出場にとどまり、219打数44安打12打点で本塁打はゼロ。打率.201と低迷して1年で退団している。日本での3年間の通算では337試合1112打数292安打121打点18本塁打41盗塁、打率263だった。井崎(前岡)勤也 投手・外野手 井崎は三重県亀山市出身だが、スカウトにより和歌山県立新宮高校後援会の幹部だった前岡武吉と養子縁組して新宮高校へ進み、期待に応えて1954(昭和29)年春に始まって三季で甲子園に出場している。左の速球派投手で「ホップするボール」と評判になっており、藤川や村上のように回転の多いボールを投げていたと思われる。 1954年春はベスト4、夏の選手権では準決勝で延長13回を投げ抜きノーヒットノーランを記録して決勝に進出するも準優勝だった。 1955年(昭和30)年の夏は予選で2試合のノーヒットノーランを達成、甲子園ではベスト8まで進むが、準々決勝で中京商から14三振を奪いながら0-6で敗退している。 井崎自身には明治大学への進学希望があった。しかし180センチのスラリとした長身で貴重なサウスポーでもあり、高校時代の成績やスター性は高く評価されていたため、プロ球団の争奪戦に巻き込まれる。 タイガースの青木スカウトは粘り強く前岡家に通って養子離縁させ、改めて実家の井崎家と交渉するという荒業を使い、当時破格の契約金800万円で入団にこぎつけたと言われている。背番号は1年間空いていた「18」を着けることになった。下のスポニチさんの記事では「400万円内外?」となっているが様々な憶測があったのだろう。 ルーキー井崎は1956(昭和31)年2月の春季キャンプでの紅白戦にいきなり登板する。タイガースの親会社・阪神電鉄でも高校野球の大スターだった井崎への期待が大きく「早くお客さんに披露しろ」と藤村監督に強い圧力をかけており、これに抗しきれずに先発させてしまったというのが真相らしい。 井崎は初球から肩に違和感を感じてその後調子を落とすと、「フォームのせいだ」と勘違いしたコーチが改造と称していじくりまわし、ますます駄目になっていく。この様子は背番号17で紹介した源五郎丸洋とダブる。25年も前にすでに同じ失敗を犯していたわけだ。結局1年目は公式戦5試合に投げたものの、0勝1敗、19イニングで5奪三振に終わっている。せっかくの逸材も1年目で台無しとなって、2年目以降も14試合、9試合、6試合と満足に投げられなかった。 タイガースでの白星は3年目の1959(昭和34)年9月の大洋戦に完投で挙げた1勝のみ。ちなみにこの年に背番号を「48」に変え、登録名も「前岡」としている。結局「18」は3年間着けただけに終わった。 井崎は4年間で見切られて、1960(昭和35)年のオフに金銭トレードで中日ドラゴンズへ放出されてしまう。 中日に移っても肩の状態はどうしようもなく、1年目の1961(昭和36)年は8試合に投げただけで勝ち負けは付いていない。 翌1962(昭和37)年には1軍登板はなくなり、まだ25歳ということで1963(昭和38)年に外野手転向の道を選んだがこれも上手くいかなかった。 最終年となった1964(昭和39)年にはほぼ代走と守備固め専門となり、51試合に出場し8盗塁を決めているが気力は限界だったのかオフに引退している。 通算では投手として42試合1勝4敗61奪三振、108イニングで自責点50、防御率4.17だった。まとめどうまとめたらいいのかなあ河西さんは体格に恵まれなかったけど短いながらも好い成績残してる 足も速いし打線ではつなぎ役をきっちり果たしてるわ でもスカウトになって大物選手を担当して次々と獲得してきた貢献度はもっと大きいよ与儀さんと井崎さんは不完全燃焼で終わってしまった感じよね 与儀さんはチームの経営事情もあって解雇されてしまったけど続けて契約できてたらもう一度化ける可能性は十分あったとおもうな井崎さんは源五郎丸さんと同じように潰されちゃったね 高校時代の大活躍を見れば誰でもエースナンバー「18」を与えたくなる投手だったのに 長く貢献してくれるエースを育てるより 目先の一試合の観客動員しか念頭にない球団の体質が浮き彫りになってる 今は違うけど当時はタイガースに限らずこういうことが多かったみたいねさて次回の「18―4」も着けた期間の短い人が続くよ とてもエースナンバーと呼べない時代だね背番号18-4へ続く
2024年01月16日
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背番号18(その2)背番号18の第2回目です創成期のエース・若林さん着けたことで「エースナンバー」と呼ばれるようになった「18番」だけど その後の昭和の時代はあまり冴えない番号だったみたいね今回最初に出てくる山口さんは野手で戦前は「8番」 「18」は数か月付けただけなのよ まえに紹介したのが2023年3月だったのでもう一度詳しく残しておくよそれと今回もそうなんだけど 戦争を挟んだ頃は背番号を変えてることも珍しくないのね だからすでに出てきたことのある選手がまた登場することが多いわよ 山口政信 外野手・内野手(再掲)山口政信は「背番号8」で紹介済みだが要約して再掲する。山口は大阪府日新商業の出身で外野手として甲子園に3度出場している。昭和10(1935)年の夏の選手権では藤村冨美男のいた呉港中に敗れている。昭和11(1936)年大阪タイガース創設時に入団、背番号8を着ける。戦前は俊足巧打の外野手として活躍する。ホームランは少ないがプレー振りは豪快。俊足を生かした盗塁が多く、昭和12(1937)年春季には29盗塁でタイトルを取っている。また選球眼が優れており、この年には春季60個、秋季48個の四球を選びいずれもリーグ最多だった。カーブ打ちを得意としており「和製ディマジオ」とも呼ばれ、景浦將などと並んで当時の人気選手の一人に数えられる。 昭和13(1938)年に一度目の召集を受け昭和17(1942)年に除隊されて復帰して以降はかつてのプレーができなくなってしまう。昭和18(1943)年末に二度目の召集がありそのまま終戦まで軍務についた。山口は1946(昭和21)年に復帰し、短い期間だったが背番号「18」を着け、同年に復帰してきた若林忠志に明け渡して「8」に戻っている。タイガースに復帰後2年間プレーしたが、もう外野が守れず一塁手として合計71試合158打数26安打21打点2本塁打で打率.165というさびしい成績に終わって昭和22(1947)年のシーズン終了後に引退した。その後、実業団の土屋建設でプレーイングマネージャーをしていたところ、戦前のタイガース在籍時の監督だった石本秀一が2リーグ制で新しく創設された広島カープの監督に就任し、その誘いがあって昭和25(1950)年にカープで現役復帰する。カープでは2年間プレーし、129試合441打数113安打42打点3本塁打、打率.256の成績を残している。昭和26(1951)年のオフに引退。その後は野球とは一切かかわらず昭和51(1976)年に永眠。タイガース背番号史 8の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)若林忠志 投手(再掲)エースナンバーの元祖。詳しくは背番号18-1を参照。戦争による中断を経て1946(昭和21)年のシーズン途中に復帰したときに、山口から譲られる格好で「18」を着用する。タイガース背番号史 18-1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)しかし、翌1947(昭和22)年には現役監督に就任したため背番号は「30」に変え、1949(昭和24)年まで3年間着けたのち、1950(昭和25)年には毎日オリオンズへ移籍した。梶岡忠義 投手(再掲)若林が1947(昭和22)年に監督になって返上した背番号「18」を引き継いだのは梶岡忠義。じつは梶岡は10年間の現役時代に4つの背番号を着けている。すでに先代が2015年に「背番号1-1」「背番号3-1」で紹介しているが(タイガース背番号史1の1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)。)、先代はかなり簡略にして記載しているので詳細な内容を加筆して再掲する。梶岡は大阪府大阪市出身で成器商業から専修大学へ進む。エース兼4番打者の二刀流で活躍し、東都大学野球4季連続優勝の原動力となっている。大学4年時にはタイガースから声がかかっていたが学徒出陣に応召され満州で終戦を迎え、1946(昭和21)年に帰国すると一時的に社会人野球の中央工業に籍を置く。1947(昭和22)年2月、南海からの勧誘を断って、戦前に声をかけてくれていたタイガースへ入団した。背番号は兼任監督就任で若林が返上した「18」を引き継ぐことになる。投手としての梶岡は「七色の変化球」で打者を翻弄した若林と正反対で、「変化球なぞ投げられるか!」と言って全盛期は直球勝負にこだわり続けた。若いころは本当にストレートしか投げず、肘を壊してからようやくカーブも使うようになったという。ルーキーイヤーの1947年は34試合に投げている。28回の先発がありそのうち24試合で完投(5完封含む)しているところは若林譲りの「エースの仕事」と言えるだろう。この年は22勝8敗、280回1/3を投げて自責点60、防御率は1.92と文句なしの内容で、タイガース戦後初優勝に貢献している。1948(昭和23)年はさらに凄みを増し、50試合に登板して41試合に先発し35試合で完投(完封5)している。成績は26勝17敗、367回2/3で自責点104、防御率2.54である。50試合のうち43試合で勝利または敗戦投手になっており、投げた試合は最後まで責任を持つという「エースの姿」を体現している。8月24日の対南海戦ではノーヒットノーランも達成した。ルーキーからの2年間で48勝を挙げ、さすがに疲労があったのか1949(昭和24)年には肩を故障し30試合13勝10敗(防御率3.96)に落ち込んでしまった。そのためか1950(昭和25)年には背番号「18」を返上して「1」に変えているが結局は12勝9敗(防御率3.57)、1951(昭和26)年も13勝7敗(防御率3.43)と勝ち星が伸びない時期が続いた。 1952(昭和27)年、背番号を「1」から「3」に変更すると、38試合に登板して21勝8敗と復活を見せ、防御率1.71でタイトルを獲得している。しかし1953(昭和28)年の16勝13敗を最後に二けた勝利はなくなり、1954(昭和29)年が8勝、1955(昭和30)年は白星が0となった。1956(昭和31)年には投手コーチ兼任となって背番号も「32」に変更したが一軍での登板はなく、同年限りで現役を退く。そのまま1964(昭和39)年までタイガースに残って、主に二軍投手コーチなどを務めて退団しているが、引き続きOB会長として毎試合甲子園に足を運んで後進たちに声援を送っている。梶岡は直球勝負がたたって被本塁打も多く、1948(昭和23)年にはホームラン配給王にもなったりしている。しかし見るほうは爽快であり、3年間に過ぎなかったが「18」を背負うにふさわしい気質を持っていた。通算成績は299試合に登板して131勝85敗、1920㌄を投げて自責点598、防御率は2.80である。大学時代に鳴らしたバッティングはプロでも健在で、実働9年間に327試合728打数151安打66打点12本塁打6盗塁を記録しており、通算打率.207も投手としては立派なものだった。2003(平成15)年に82歳で死去。まとめエースナンバー「18」がどうなて行くか注目なんだけど 山口さんは野手だったね 戦前は人気選手だったのに残念ながら戦争の影響で活躍の時期は短かった 若林さんは18-1で詳しく紹介してるから見てほしい ホントにタイガースの功労者だよ! 藤村さんや村山さんに匹敵します梶岡さんは投手として実働期間は9年と短かかった でも20勝以上が3シーズンあるし 「ストレートしか投げない」っていう潔さがなんとも気持ちいいよね 故障が無ければ200勝近くいってたんじゃないかなと想像します 成績が落ちると背番号を変える・・・を繰り返しているのを見ると 梶岡さんはあまり番号へのこだわりがなかったのかもしれないわね背番号18-3へ続く
2024年01月13日
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背番号18(その1)背番号18の第1回目です球団創立時からある背番号よね プロ野球の世界ではいわゆる「エースナンバー」と呼ばれることが多い「18番」タイガースでは1936(昭和11)年の創立時に当時のエース若林忠志さんが着けました 実は若林さんが大活躍したことで「18」がプロ野球界で「エースナンバー」と呼ばれるようになったんだよ!その後も投手が着ける番号だったのは間違いないんだけど タイガースでは意外に大エースと呼べるほどの選手は出ていないのよ 藤川球児さんが着けてたのは覚えてる?でも1年だけなのよね とにかく順番に見ていくと若林さんのあとは「あまり知られてない人が続くなあ」って感じがするよ若林忠志 投手アメリカ合衆国ハワイ出身の日系二世。ハイスクール時代に親善試合で来日し剛速球が評判となって1932(昭和7)年に法政大学へ進む。 日本の環境に慣れてきた大学2年時の秋のリーグ戦では優勝に貢献したが、3年時には肘や肩を痛めたことでサイドスローに変え、のちに「七色の変化球」と呼ばれる技巧派への転機となった。1シーズン制となった1934(昭和9)年には全15試合に登板して11勝3敗1引分と鉄人のような活躍を見せ優勝、大学通算で87試合43勝28敗という成績を残した。大学卒業後は一旦日本コロムビアに入社する。1936(昭和11)年、職業野球の創設に伴って読売、阪急、タイガースなどから勧誘され、「契約金」を要求する若林の意向を汲んだタイガースへの入団が決まり背番号「18」を着ける。契約金は「3000円」だったという。 まず若林の現役生活において、戦前の1936年から1944(昭和19)年までの9年間の数字を見てみる。355試合に登板し、177勝86敗、2357㌄で自責点432、防御率は1.65だ。その内214試合に先発し176完投しており、完投率が8割を超えることがすばらしいし、300㌄以上投げたシーズンが5シーズンもあり、1943(昭和18)年には415回2/3で年間10完封を記録している。さらに驚くのは1943(昭和18)年は39試合に先発して39完投、1944(昭和19)年も24試合に先発して24完投。つまり先発した試合では全て最後まで投げ切っているという驚異的な数字だ。 戦前最後の1944年シーズンは35試合しか行われなかったが、そのうち31試合に登板して阪神を優勝に導き、最多勝・勝率1位・防御率1位とMVPを獲得している。この年、すでに36歳になっていたにもかかわらずチーム勝利27勝のうち8割以上の22勝を稼ぎ、2位巨人のチーム勝利数(19勝)より多かった。こんな投手は他にはいない。背番号「18」がエースナンバーと呼ばれるのにふさわしいことを数字が証明している。まさに大エースだった。後にエースとなる小山正明も先発完投にこだわる投手だったが、この若林の影響を受けているのは間違いないだろう。「七色の変化球」と異名をとっていたが、実際には4種の変化球に緩急と微妙な変化を加えて、“七色”どころか、無数の変化球があるように打者を幻惑していく「投球術」に長けた投手で、駆け引きが抜群に上手かったと言われる。1942(昭和17)年からは現役監督となって背番号は「30」を着けている。戦争による中断の間は妻の実家の水産会社に勤めており、終戦後は年齢も年齢だけにプロ復帰は考えていなかった。しかしプロ野球再開後の運営に苦しむ藤村富美男の説得に応えて1946(昭和21)年にタイガースに戻り再び背番号「18」を着ける。翌1947(昭和22)年から現役監督となって1949(昭和24)年までの3年間、背番号「30」を着けている。この3年間も26勝12敗、17勝20敗、15勝14敗の成績を残しており、1949年は41歳のシーズンだった。1950(昭和25)年、2リーグ分裂に伴ってパリーグの毎日オリオンズへ移籍する。もともとアメリカ出身だけに、2リーグ制への移行推進の支持者であったためでもあるが、当初パリーグの中心となるはずだったタイガースが豹変してセリーグに残ったことでフロントと対立し、最も高く評価してくれた毎日への移籍となったという。毎日へ移った1950年には42歳になっており、シーズンは4勝に終わったがリーグ優勝。第1回の日本シリーズでは第1戦の先発投手として日本シリーズ史上最初の勝利投手になった。第6戦では奇策ともいうべきノーアウト満塁での敬遠というこれもプロ野球初の珍プレーを記録している。毎日では3年間プレーしたが1年目に4勝したのみ、44歳で現役を退く。現役最後の年になった1952(昭和27)年に2試合登板して1三振を取り通算1000奪三振を達成している。通算成績は528試合237勝144敗1000奪三振、3557回1/3で自責点786、防御率1.99。特に327試合に先発して263試合に完投しているのは凄い。最多勝2回、最優秀防御率2回、勝率1位1回のタイトルも取っている。またタイガースで6シーズン、毎日で1シーズンの一軍監督経験があり、タイガースの監督として2回の優勝も記録している。 2リーグ分裂の際にダイナマイト打線の主力だった別当薫・土井垣武・呉昌征が若林と行動を共にしたことから、タイガースにおいては長く「裏切者」扱いを受けることになったが、タイガースにおける通算233勝は今なお球団最多勝利記録である。1964(昭和39)年に野球殿堂入りしているが、その翌年の1965(昭和40)年3月5日に57歳の若さで亡くなった。 若林は社会貢献活動の先駆者でもあった。自費で子供対象のファンクラブを立ち上げ、少年野球の発展やファンの開拓に尽力。孤児らの施設への慰問など慈善活動にも精力的に取り組んでいる。タイガースは2011(平成23)年3月5日、チーム内で多大な社会貢献をしたものを表彰する「若林忠志賞」を創設し、長年のわだかまりを払拭するとともに若林の名を顕彰している。まとめ今回はタイガースにおける背番号「18」の元祖で この番号が「エースナンバー」と呼ばれるきっかけとなった若林さんだけにしましたそれだけ輝かしい実績を残し貢献しているのよ ミスターと呼ばれる村山実さんの222勝を超える233勝をタイガース時代に記録してる大エース素晴らしい投手だったのに2リーグ分裂時のごたごたでタイガース内部では評価が下がってしまったのね 本来なら「ミスター」と呼んでもいい選手だよこれからも背番号18を背負う選手は あらためて若林さんのことを知り その遺志を受け継いでいく名選手になってほしいとおもう現役タイガース選手では2023年まで馬場皐輔投手が着けていたんだけど 現役ドラフトで巨人に行っちゃったので これを書いてる2024年1月現在は「空き番」になってる 次に誰が着けるんだろうね?簡単にはもらえない番号だし もらったら責任が重い 2代目は村上投手が適任だと思うんだけど みなさんはどう思う?背番号18―2に続く
2024年01月08日
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