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ロビンアイランドには、たくさんのペンギンがいた。ペンギンだけではなくこの島には独自の動植物などが結構繁殖しているらしい。車で島内を案内されて目に入ったのは本当に小さな「町」であった。郵便局や教会、学校などがあり刑務所の看守などを務めた人々がここで暮らしていたという事だった。この人々の中でも子供が生まれる事などがあったらしく、男の子が生まれたら青、女の子が生まれたら赤の旗が高く掲げられたのだという。しかし島全体は非常に殺風景であり、少し行けばすぐに海にあたる。四方が海に囲まれたこの小さな島は、この時私には本当に寂しいところに思えた。海の向こうにはケープタウンが見えるが、その間の波は激しくとても人を寄せ付けないというのがしみじみと理解できる。政治犯としてこの島に収容された人々は、自由を奪われこの殺風景な島で何を思って日々を過ごしていたのだろうか。そこには計り知れない思いがあったことを感じずにいられなかった。この島はまた、軍事的にも大きな意味を持っていたという。確かにケープタウンの沖合いにポッカリ浮いているこの島は見るからに軍事拠点としての意味を持たざるを得ないような地理的要件を満たしている。島内を見て回ると軍事施設や砲台の跡なども目に付く。雨が降ったり晴れ間が見えたりとこの日の天気は大変気まぐれなものであったが、私達は狭い島内のガイドツアーをあっという間に終えてこの島を離れる時間となった。ロビンアイランドは観光用に一般公開されてはいるものの、自由に見て回ったり島に滞在する事は現在禁じられている。船でこの島に上陸してから約2時間ほどの観光をするとすぐに帰りの船に乗らなければならない。私達は島を後にした。
2006.07.31
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(2006.7.30)南アフリカへの出張を終え、久しぶりにブログの更新が出来た。僅かの間にすっかり人が離れてしまったようなので、また頑張りたいと思う。今、私はロスにいる。南アフリカからそのままアメリカへ飛んできた。というのも、今回私はこの支援事業を本格化させるにあたり、しっかりとうちのボスから協力を得ることが大事だと思ったからである。また、同時にうちのボスへこの支援事業の中心となる人物を紹介する予定を入れ、日本から呼び寄せた。ロシアへ出かける予定だったボスを足止めし、明日よりミーティングに望むつもりである。南アフリカでの最初の足場固めは何とか無事に終えることが出来たので、次はいよいよ日本での法人立ち上げを念頭に置いた取り組みである。その一環として、スティーブン・セガールに協力をしてもらう事ができるなら私の予定もかなり早く進むだろう。実はこれまでにも彼には私たちの活動の一環に協力をしてもらい、チャリティオークションなどに商品を提供してもらってきた。その時の収益はAIDS関連団体に募金させてもらっている。今後は彼に会長に就任してもらい、NGO団体として活動を行っていこうと考えている。しかし細かい構想や人手の確保などしなくてはいけない事が山積みでもある。もしこの楽天ブログ内で、日本での団体設立及びボランティアなどに興味があり、当方を支援しても良いと思っていただける方がいらっしゃったらぜひ楽天私書箱宛にご連絡をください。
2006.07.30
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小雨の降る中、私達はロビンアイランド行きの船に乗った。この日は海も荒れ気味だったせいか、船酔い客が続出していた。乗客を見ると、ここでは黒人の数が多い事に気がついた。これまで私が見てきた観光スポットは白人の方が目立っていた事を考えると、ちょっと不思議な感じがした。話しかけてみたい衝動に駆られたが、いかんせん皆がそろって船酔いの状態を呈している為、ちょっと不可能だった。ガイドブックの簡単な説明では、ロビンアイランドは1959年に開所され1991年に最後の政治犯が釈放される約30年間に述べ3000人の政治犯が収容されたとある。刑務所の閉鎖が1996年で、現在は島全体が博物館となり、また1999年12月に南アフリカ初の文化遺産としてユネスコ世界遺産に登録されている。もう少し詳しく調べてみると、この島が実は17世紀から流刑地として利用されてきた事がわかる。インド洋と大西洋の海流がぶつかり合う事で知られるケープタウンの沖合いにあって、脱出が非常に困難であったことからアメリカの「アルカトラズ」や古くは日本の佐渡のような存在であったのかもしれない。奴隷や犯罪者の流刑地として利用されていたこの島は19世紀前半には軍人や政治犯の収容地となり、19世紀後半より20世紀前半にかけてはらい病患者や精神障害者用の病院になったりもしている。そして最もこの島を有名にしたのはネルソン・マンデラ元大統領をはじめとした、数多くの今日の南アフリカ政権を作る基盤となった人々の収監である。1993年のアパルトヘイト全廃により1997年この島は一般公開されているが、この公開には「自由と人権」がメッセージとしてこめられているのだという。ガイドに付いたのは以前このロビンアイランドで政治犯として収容されていたという人物であった。彼から聞いた話を少し記しておきたいと思う。アパルトヘイト下で政治犯として収容されていたのは全て男性とされていたらしいが、実は女性の囚人もこの島にはいたのだという。その女性の囚人から生まれた子供もいたという。囚人が子供を生んでいたということは、今でも正式な記録として残されてはいないがそういう事実があったのだという話を聞いた。また、手紙の検閲はほとんど収監された人々への信書の権利を剥奪するものだったらしい。1日に2回の粗末な食事。建物の外に出れるのは1日1回僅かな時間のみで、その時も政治犯は1人きりだったらしい。話をする事がまず難しかった、という話だった。その他にも、ただ意味も無く穴を掘る作業を延々と繰り返させられたり、不必要な暴行を受けたりといった事も話していた。意味のない単純作業を強いられる事などは、精神的に相当な苦痛を要したという。敷地内の見学中、まず施設について私が思ったことは意外に思われるかもしれないが、想像した以上の酷さではなかったということである。確かに独居房は狭くトイレがバケツだったというのは酷いと思ったが、日本でも30年ほど前までの刑務所はこの程度だった。私は以前北海道の網走刑務所を見学した事があるが、そこの旧建築物はこの島の施設に比べればはるかに酷かった。そういう意味で、この時には私は施設設備の酷さについてはそれほど関心を抱けなかったというのが正直な感想である。ただし、この島では囚人とされていた人々のほとんどが政治犯であった事を考えると思いは複雑にならざるを得ない。政治犯という括りは犯罪者というものとは異質であるからだ。ネルソン・マンデラ氏について言えば、彼は共産主義者として投獄された事実がある。しかし彼が本当に共産主義者だったのかといえば、答えは否である。当時のアパルトヘイトを推進していた政権下では無理やり理由付けをする事で政治犯という括りにしてしまい、この島をはじめとした監獄へ黒人の自由を訴える人々を片っ端から放り込んでいたらしい。その何の罪も無い人々が刑務所へ収容されてしかも20年、30年という年月をその刑務所で無為に過ごさなければならなかった無念さは言語に絶するのではあるまいか。無実の人々を長期間拘束し、時には殺す事さえあったという事実を私はこの島を訪れて非常に重く受け止めざるを得なかった。わが身にこの出来事を置き換えたなら、私にはそのとき絶望しか浮かばないだろう。しかし、この刑務所の中で信念を曲げることなく戦ってきた多くの黒人は現在その多くが政権を担っている。現在の南アフリカについては数多くの問題点があることを理解しつつも、私はこの時彼らのそれまでの努力や忍耐に対し素直に賞賛を送りたい気持ちになった。
2006.07.29
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(2006.7.26)応援の声、本当にありがとうございます。大変励みになっています。本日26日で今回の南アフリカ出張は終了とし、一度日本へ戻る予定である。今回はオフィスの契約がうまくいき、ケープタウンに小さくは在るが拠点を作る事ができた。家のほうは今回はうまい具合に行かなかったが、何もかも一気に進むという事も難しい事と思うので次回の課題にしたいと思う。ヨハネスブルグでも仮事務所として現在ダイヤモンドセンターにオフィスを構えている新しい友人のところを利用できる運びとなった。ダイヤモンドセンターというのは世界でも有数のダイヤモンドの産地であるこの国の中で特にダイヤモンドのディーラーがオフィスを構えている一つの区画である。数百のディーラーがここにオフィスを構えており、またダイヤモンドだけでなくゴールドなどのディーラーのオフィスもここに集っている。ヨハネスブルグの市中にあり、治安が悪いといわれている中その一角だけは別の国のように治安が良かったりする。私の本業の繋がりで、以前この国で仕事をしていた日系アメリカ人がいたのだが、その彼の人脈が私にとって有利に働いた。ちなみにその彼は、既に亡くなっているらしい。らしいというのは、私はその彼にあったことがないからなのだが、今は彼の冥福を祈ると共に感謝を捧げたい。南アフリカでの団体設立認可の方はもう少し時間がかかりそうである。この国では、とにかく役所関係の仕事が遅いのが難点である。以前の記事にも書いた事だが、役人に限らずあらゆるところで賄賂がまかり通っており何か事を起こそうと思っても、なかなかすんなりとはいかない事が多い。現地団体の設立が出来れば他団体との交流も活発に行っていける予定なので何とか早めに設立したいところだが、あまり賄賂を使ってというのも私の今回の趣旨に反するのでじっと待つより仕方ないだろう。事務所には早速専用の電話回線とインターネット環境を引いてもらおうと思いTELKOMというこの国の唯一の電話会社にその申し込み掛けたのだが、なんと電話の設置に最低でも1ヶ月以上かかるという。それもそのオフィスには前の利用者が電話線を引いてあったらしいのだが、日本のようにその回線がすぐに復帰できないという事で非常に驚いた。私は特に今回、今後の事を考えてADSLラインの設置をあわせて申し込んだのだがこれには3ヶ月かかるという当初の返事であった。全ての作業に工事が必要であるとの事だった。この時、私の友人はすぐに別の友人のところに電話を入れた。話を聞いていると、この電話の設置にかかる時間を短縮しろと話しをしている。「OK,THANK YOU.」と、彼は電話を切ると私にこう言った。「電話会社のヘッドオフィスに友人がいるからここの工事をとっととやれと言っておいた。ADSLまで含めて2週間以内にOKだと思う。」なるほど、持つべきものは友人である。が、しかしこれでよいのだろうかとちょっと疑問を感じたりもした。この時この国の電話の事情についても少し聞いてみた。この国では1980年代までは少なくとも都市インフラは世界でも有数の水準であったらしく、それは電話回線についてもいえていたらしい。当時は電話会社は国営企業であったが、アパルトヘイト解放に伴う政権交代劇の中で電話会社は民間会社となった。その後も民間会社として電話インフラの整備は続いており、主要都市部では現在ADSLがかなり普及してきているらしい。残念な事にこの時聞いた話では光ファイバーの普及はまだ進んではいないという事だったが、インターネットを利用するものにとってはADSLで1Gというものまであるらしくそれほどの不便は感じないかもしれない。ただこのADSLについても定額使い放題というわけではなく、基本使用料なども日本と比べると驚くほど高い。恐らくは黒人の平均所得者では、高すぎてADSLを利用する事はできないだろう。というより、パソコンを買う事がまず出来ないかもしれない。私が強く感じたのは、インフラ一つとってもそれを利用できるものと出来ないものがはっきりと分かれてしまっている事だった。今回の出張で私は何度かスーパーマーケットにも行った。そこで売られている野菜や肉なども決してそれほど安さを感じるほどではなかった。全く物価は安くないのである。にも関わらず一般所得者の平均賃金は低いのである。「貧富の差」という言葉よりも「経済の2重構造」と言うほうが理解しやすいのかもしれない、などと独り考えに耽ってしまったりもした。とりあえずこの記事を書いている今は朝の4時だったりするのだが、時差ボケを解消する為に本日は寝ないで日程を消化して明日出国する。次に来る時にはインターネット事情も改善されているはずなので、その時は逐一の報告も可能となるはずだ。いよいよ次は、日本での活動準備を開始したいと考えている。日本でのNPO法人設立も時間がかかりそうである・・・次回からはまた暫し、旅行記にもお付き合いください。
2006.07.26
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(2006,7,23)仕事に暇を作る事が出来たので急遽、ケープタウンに今後の南アフリカでの活動拠点を作るべく個人的な出張を現在している。まだブログを始めて間もないが思ったより反響があり私自身も驚いているのだが、ほぼ毎日の更新ペースは崩れてしまった。ただ、読んでくださっている方々には本当に感謝している。現在、私が始めて南アフリカを訪れて感じた事や見聞きした事を中心に自分のメモなどを元に旅行記を書いているが、私が様々な支援活動を行おうと思った動機がこの最初の旅には込められている。なので、どうしてもこの旅行記は最初に書いておきたかったのだが、恨めしくも遅筆の自分に呆れている。予定では7月中に書き終えたかったがどうもまだまだかかりそうなので、平行して現状の報告なども行っていこうと決めた次第である。今後もお付き合いいただけると幸いである。私はケープタウンに今後、私がこれから行っていこうと思っている支援活動のオフィスを求めてやってきた。実は、南アフリカの友人に今回私が行いたいことを打診し、その上でオフィスが必要な旨を告げておいた。同時に私自身も今後、手の空いている時間は極力南アフリカに滞在したいと考えているので、そのための家をオフィス近くに借りてもらえるように頼んでおいた。今回、その友人が私の趣旨に賛同してオフィスを提供しても良いという人物を探してくれたのである。また、ヨハネスブルグの友人を中心に南アフリカ共和国内にも、ひとつ支援団体を作ってもらうつもりであり、実はその申請を既に終えて現在認可待ちの状態でもある。私の計画としてはまず、日本と南アフリカでそれぞれ団体を設立し、相互支援の下にHIV/AIDS問題に対するアプローチを行って行きたいと考えている。個人で行えることの限界を感じた時、私は幸運にも友人・知人に恵まれていた。彼らの助けを借りながら、今、最も必要な事を見極めつつ支援活動をしていくつもりである。
2006.07.24
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翌日、生憎の曇天模様になってしまったが、私は朝9時からネルソン・マンデラ元大統領が長年囚われていた「ロビンアイランド」へと向かった。この日は一日観光をする為にスケジュールを取ってもらっていた。私達の宿泊しているゲストハウスから車で5分も行かない位の所にウォーターフロントというエリアがある。ロビンアイランド行きの船はそこから出ていた。かなり洒落たショッピングモールであるウォーターフロントは周辺に居住区画も整備中であり、ケープタウンの新しい顔であるらしかった。日本で言えばお台場に匹敵する感じかもしれない。立派なビルディングや高級マンション、レストランなども豊富にあり、ここでもやはり強くアフリカを感じさせるものは少ない。とても、この国の庶民が手の届かないような物が溢れている。ショッピングセンターの客層は観光客やこの国の金持ちが多いらしく、この地域の治安状態は驚くほど良いという話を聞いた。つまり、それだけセキュリティに金が使われているのだと。この国ではセキュリティカンパニーがかなり繁盛しているらしい。この日私に同行していた人物にはボディガードがついていたのだが、聞くと自宅にも24時間セキュリティが常駐しているという。ある程度の金持ちは皆そうしているらしい。理由は、強盗や殺人に巻き込まれないためなのだろうが、そのためのコストを考えるだけでも日本人の私には具合が悪くなりそうだった。私の会社のボスも仕事柄、常時最低でも4人から6人のボディガードがついているが、彼がこの国を訪れるときはその数が3倍になる事を私は知っていた。治安が悪いということは、そこにステイするために莫大な金がかかるという事でもある。安全は無料ではないという事は良く分かっているつもりの私でも、この国の事情はそんな私の理解を軽く超えている。セキュリティを常駐させてみたところで、強盗の危険がなくなるかといえばそうではないという話も聞いた。知人の話では、セキュリティがいるにも関わらず武装強盗が押し入るという事件も起こっているらしい。彼の友人がまさにそんな事件に巻き込まれて、射殺されているという話だった。またこれは最近耳にした話だが、セキュリティカンパニーで働く人々にも労働組合があるらしく、賃金UPの為のストを行ったりしている。しかし、ヨハネスブルグでこのストに参加せず働いていた人々が組合に襲撃されるという事件が起きている。驚く事にこの時の襲撃事件では死者が60人も出ているとか。この話をしてくれた私の友人は、金を払って安全を買っているのにこれでは意味が無いと嘆いていた。この国ではセキュリティシステムは一般家庭でも広く普及していて、日本で言えばセコムのようなシステムがいたるところで目に付く。まるで表札のようにセキュリティカンパニーの看板が家の塀に掲げられ、その種類も結構あることが分かる。窓や出入り口を中心に赤外線探知装置が取り付けられ、それが反応すると大体2分以内でセキュリティカンパニーの人間が拳銃を携えてやってくる仕組みだ。この国ではアメリカのように銃の所持がある程度合法である。従って、セキュリティの人間は大体銃を所持している。また、武装している犯罪者側の武装の程度も拳銃だけではなく機関銃まで持っていたりするのだとか。近年、ヨハネスブルグ国際空港でこの重武装した強盗団が強盗事件を起こした話を私は聞いた。当然、セキュリティカンパニーの人間にとっても武装した犯罪者がいるかもしれない場所に行くことが仕事となるわけで、そこで壮絶な銃撃戦が繰り広げられるというのもそれほど珍しくは無いらしい。警察は電話をしても早くても30分は来ないという国なので、このようなセキュリティカンパニーが繁盛せざるを得ないようだ。安全が当たり前で電話すればすぐに警察が来る日本と違い、この国では日常が危険との隣りあわせなのだと痛感した。
2006.07.19
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ケープタウンでは人種構成比がこの国の一般的な場合に比べて、混血層であるカラードが突出している。カラードといっても見た目は実に様々であり、この日の会食にも何人かのカラードの人々が訪れていた。私から見ると一人は普通にインド人に見えたし、一人は白人にしか見えなかった。ただ、アパルトヘイト下では彼らは共にカラードという分類であったらしく、差別の対象となっていたらしい。また、白人層もイギリス系住民が割りと多く、ヨハネスブルグと違い普通の会話も英語であったりする。こそこそと話しているときに使われている言語が私の全く分からないアフリカーンス語であったヨハネスブルグ(厳密に言うとサントンだが)に比べると、ケープタウンは非常に気分が楽だった。街全体の雰囲気も私が海が好きであるからなのかもしれないが、開放的な感じがする。最も犯罪発生率がやはりヨハネスブルグに比べて格段に低い事が大きく影響しているのかもしれない。少なくともケープタウンでは街を散歩する事はできるらしい。夜の一人歩きや、地域によっては危ないらしいが。しかし私の目を一番引いたのは何といってもこの街のシンボルとして街全体を睥睨している山、テーブルマウンテンだった。山の上部をナイフで切り取ったような形をしており、まさにテーブルのように見える。この時期、既に秋という事だったが夜になっても夏を感じる気候で、待ちいく人々はタンクトップや半袖に半パンといった格好であった。ビジネスでも、こちらではスーツを着用している人は少なく、非常にラフなイメージである。私達は名物のクレイフィッシュを肴にワインを飲み、やがて会食を終えた。この時の私はかなり疲労が溜まっており、明日の観光の予定もあったため、すぐにベッドに入り時差を整えた。
2006.07.18
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この日から3日間ほど私はケープタウンに滞在する予定だった。今回の宿泊先はホテルではなく、ゲストハウスにしてもらっていた。シティから車を走らせること5分程度の場所にシーポイントというエリアがある。そこのゲストハウスに私たちは宿泊した。初日の夜は大西洋に面したキャンプス・ベイというビーチの広がる地域で食事をした。日本人が比較的珍しいらしく、日本人である私に会うために数人が同席した。ケープタウンの黒人はその多くがコサ族であるという話を聞いた。ネルソン・マンデラ元大統領や現職のサモ・ムベキ大統領もこの民族の出身という話だった。民族という点では、この南アフリカ共和国には非常に多くの民族が共生をしている。公用語だけでも11言語あり、公用語になっていない言語も含めると23~24言語が日常的に使われている。公用語の中でも最もこの国で通用する第一言語はやはり英語で、教育も英語に力点が置かれている。ビジネスシーンで我々がよく耳にするのはこの他にアパルトヘイト時代に公用語とされていたアフリカーンス語で、オランダ語をベースに英語やドイツ語など多種多様な言語を組み合わせてこの国で作られた言語であるということだった。アフリカーンス系白人及びカラードと言われている混血層がこの言語を話す事が一般的であるらしく、それは今でもあまり変化が無いようだ。人種層の割合を聞くと、最も多いのがズールー族で次にコサ族、ソト族やスワジ族などと続くらしいが、この日私は聞いてもその民族呼称を全て覚えることは不可能だった。唯一、映画で知っていたブッシュマンのニカウさんがコイサン族というのは記憶にあったのだが、これも実はコイ族とサン族に分類されるらしい。ちなみにニカウさんはサン族であったようだ。このサン族とコイ族の人々については今、人口が激減しているらしく問題になっているという事だった。ただ、話を聞いているとそれだけの民族と言語に別れている以上、意思の疎通という点においては一般レベルでは我々が考えている以上にコミュニケートが取れていないらしい。しかし、際立って民族対立が起きているという訳でもないらしく、世界から見てこの国は民族の対立で治安が悪化しているというのはかなり的外れでもあるらしいことを知った。治安面については以前にも書き記したがギャングやマフィアといったシンジケート化された各組織や外国人麻薬組織などが現在の問題の中心のようだ。政治的なテロリズムなどは1990年前後に最もひどかったらしいが、最近ではそこまで目立ってはいないらしい。最も殺人事件だけとっても日本の100倍、アメリカの20倍ほどの発生率のこの国においては、外国人の私から見て何が政治的闘争で何が単純犯罪なのかは正直分からない。昨夜見たこの国のテレビニュースでも殺人事件を取り上げたニュースというのは全く無かった。アメリカあたりでも思う事だが、事件が多すぎてそれをいちいちテレビでは取り上げないというスタンスのようだ。日本では殺人を犯せば必ずニュースになるが、それがニュースにならない国というのは日本で言えば窃盗程度の感覚だからなのだろうか。もし、そうだとすれば日本人としては恐ろしいところに迷い込んだという印象しか抱けないところでもある。さらに、この国では殺人の5倍もレイプの発生件数が報告されている。あくまでも公表されている数字だけでこの規模であるから、公表されていない分を考えるとそれだけでも空恐ろしい数に上るだろう。このレイプが、HIV/AIDSの蔓延に相当な拍車をかけているとも聞いた。現在低く見積もっても黒人女性の3人に1人はHIVに感染しており、同じく3人に1人はレイプ被害体験を持つという。殺人以上にこの信じられないほど多いレイプ事件が、この国を今、急速な勢いで蝕んでいるのではないかと私には思えた。
2006.07.17
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約2時間のフライトを終えて到着したケープタウンは空港が思ったより小さかった。日本の地方都市空港程度の広さで、少し意外な感じがした。ケープタウンは世界的に観光地として有名な街だ。アメリカやヨーロッパの著名人もこの地に別荘を持つ人はかなり多い。私の周りにもケープタウンに別荘を持っている知人が何人かいる。アフリカを感じさせない街並み。ワインの産地としても有名で、温暖な気候と美しい自然がゆったりとした街の雰囲気を作っている。新鮮な魚介類、特にクレイフィッシュ(伊勢海老)は安くてうまい。リゾートとして訪れるには最高の街だ。というのがアメリカに住む私の知人の話であった。ガイドブックを紐解くと、ケープタウンは南アフリカでも最初に開かれた港町である事が記されている。沖合いには、ロビンアイランド(ロベン島)がユネスコ世界遺産として佇んでいる。この島はアパルトヘイト時代の政権が南アフリカ共和国の黒人最初の大統領ネルソン・マンデラ氏を、1964年から1990年まで26年間も投獄していた監獄島として有名である。現政権のアフリカ民族会議(ANC)にとっても、聖地のような場所であるらしい。ケープタウン滞在中にこの島を訪れる事を私は昨晩のうちに決めていた。ネルソン・マンデラ氏についても、もう少し勉強してみようと思っていた。自身なりの分析を多少始めてはいたものの、この国の事情を理解するには相当な時間が必要だとこの時既に認識をさせられていた。空港を出ると抜けるような晴天で、すこし強めの風が気持ちよかった。私たちはすぐに迎えの車に乗り込むとまず、ケープタウンのシティを目指した。空港を出るとすぐに、私の目にはひどく粗末な作りの小さな家が無数に集まっている地域が飛び込んできた。アパルトヘイト下で黒人が住むことを定められていた地域だという。家というにはあまりにも粗末なその作りは、これで本当に普通の暮らしが出来るとは到底思えない代物だった。この日は仕事のミーティングを到着後すぐにこなさなければならず、私達は慌しくマウント・ネルソン・ホテルへ入った。車中、運転をしていた初老の紳士はこのホテルはケープタウンで一番グレードが高いのだという事をしきりに話していた。エリザベス2世女王陛下がこの地を訪れた時、彼の家族がその接待の一部を担当したらしくそれを誇らしげに語っていた。元々がイギリスのコロニーであったこの国の中でも特にケープタウンはイギリスとの縁が深いらしく、この地域は多くのアングロサクソン系の白人がいるらしい。車中から見る街並みも本当にアフリカという事を一切感じさせないビルディングばかりだった。
2006.07.15
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ヨハネスブルグでの最初のミーティングを終えた私は、翌日ケープタウンへと向かった。ヨハネスブルグはこの旅程の最後の2日間を過ごす予定にしていたので、この時はまだ車窓からの眺めと近代的な街並みしか私の目に映ってはいなかった。昨日到着した国際線の空港に隣接する近代的なビルディングである国内線ターミナルに到着した私は、その外見の綺麗さに比例する内装の見事さにも若干驚いた。しかし、この時にはある種ここがデュバイのように一部金持ちによって作られている側面が強いところである、ということが飲み込めてきていたので驚きは大きなものではなかった。この国の金持ちのレベルというのは、どちらかというとアメリカやヨーロッパのそれと変わらない。セレブのひとつの目安がプライベートジェットを持っていることであり、家は投資の対象で数件持つことが当たり前、という感覚だ。この国の経済について言うなら、黒人は全くその主導権を握ってはいない。アパルトヘイト下では国営企業として栄えていた各種国営事業も、アパルトヘイトが崩壊する前後にその多くが民営化されたらしい。その多くは白人の経営者が引き継ぎ、言ってみれば人種の隔離はそのまま経済と政治の分離に引き継がれた感がある。この日私が聞いた興味深い話がある。アパルトヘイトが崩壊し、すぐにペプシコーラがこの国で黒人を経営者として事業を運営した。するとこれまたすぐに経営が立ち行かなくなり、ペプシはこの国からの撤退を余儀なくされた。この国でコーラといえば今はそのほとんどがコカコーラである。この話を聞いた時、何故なのかを私は当然聞いた。「この国の黒人に経営を任せたからさ」という答えが返ってきた。ちなみにこの話をしたのは白人ではあったが、彼はアパルトヘイトは悪法であったと断じているしこの国の現状と黒人の将来を憂えてもいた。しかし、彼曰く、この国の黒人に経営を任せるということはビジネス的には非常にリスキーであるということだった。例え非常に高い学歴を有し経営ノウハウを学んだ黒人でも、実際に経営をさせると私腹を肥やすことに忙しくなり経営そのものがおぼつかなくなるという。当然全てがそうではないが、と彼は前置きした上でこの話しをしてくれた。この国では賄賂というのがどこにいっても非常に良く効く。日本では信じられないが、どちらかというと以前の中国に似ているかもしれない。この日、私は小さな出来事を目の当たりにしている。空港でチェックイン時に荷物の重量により課金されるシステムがあるのだが、この日私の前に並んでいた一組の白人の夫婦がかなり重量のありそうな荷物を手にしていた。どうみても別の窓口で重量オーバー分の超過料金を払わなくてはならいだろう荷物である。しかし、この夫婦はポケットから紙幣を一枚取り出しさりげなく手のひらに丸めるとそっと職員に渡した。職員は同じように手のひらにすぐにその丸まった紙幣を収め、チラッと確認するとその夫婦の荷物を全くチェックすることなく素通りさせた。こういうことはありなのか、と私はピエールに聞いた。「まあ、こんなのは全然ありだな。」これが彼の返事だった。聞けば、陸路のイミグレーションなどもこんな要領で通れてしまったりするらしい。だから不法移民も絶えないとか。とにかく金で融通が利くというのが今のこの国のある種問題点であり、個人が金で簡単に組織や規律を蔑ろにしてしまうという風潮が蔓延っているのが現状のようだ、と私は強く感じた。
2006.07.14
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私の知り合った多くの白人達は、黒人のことをこう呼ぶ。「カフェ」侮蔑の言葉である。彼らは言う。黒人は何年一緒にいても絶対に信用できない。友人だと思っていたら、次の日には殺される。人間ではない、と思った方がいい。この言葉の意味が私にはこの時、さっぱり分からなかった。なぜなら、これらの言葉は私の基礎の部分にあるなにかと真っ向から対立していた。しかしこの時、私は彼らとこの件で口論するつもりはなかった。ここまで開きのある考え方の違いというのは話し合ってどうにかなるレベルではないと思えたからだし、正直この話を聞いただけでは彼らの言葉の意味を正確に理解できていないのではないか、というのが私自身の中に強くあったからでもあった。私は彼らの話をもっと掘り下げて聞いてみようと思い、色々と言葉を投げかけてみた。その時の会話の内容を私なりに纏めてみたので、それを記したい思う。まず、アパルトヘイトに至った背景にあったのは何であったのか。彼らは言う。白人はいきなりそれほどひどい差別を行ったわけではない、と。また、全ての白人が黒人を嫌っていたわけではないし、何より彼ら自身、黒人とうまくやっていくことを希望した時期もあった。そのための教育を黒人に施そうした人々もいたし、現にそうしていた人々もいた。しかし、その結果どうであったか。彼らは殺された、と。教育を施そうとする白人を黒人は殺した。食料を与えた白人を彼らは犯した。将来までを考えて色々と与えてみても、与えるもの全てを彼らはその時に全て消費してしまう。時には、幼い子供の頃から白人の家庭に育てる試みもしたが、その家族さえも殺された。我々にどうすることが出来たのか、と。教育や貧困を問題にする人々が世界に多いことは知っている。しかし問題はもっと根底にあるもの、文化なのだ、と。例えば黒人のある民族では、男は戦うことを生きる糧とし、女は働くものであるというのが風習である。その世界の中では男は女を犯すことが当たり前のことであり、時に人を殺し糧を得ることもまた当然である、と。そして、それが文化として定着してしまっている。文化を教育で覆すことが本当に出来るのだろうか、と。我々が選んだのは、単に住み分けである。なぜなら、彼らと真っ向から対峙して彼らの意識改革を行う労力や時間、金が有意義となりうることを待つほど当時の南アフリカは豊かではなかったし、そこまでの犠牲を払うことを白人の全てが納得できるはずもないではないか、と。徹底的な住み分けが白人にもたらしたものは、安全と富であったが、それを搾取だといわれるのは理解が出来ない。我々は黒人に雇用も創出したし、敢えて劣悪な環境に彼らを放り込んだわけでもない。なぜなら彼らの生活は元々我々と比して劣悪であり、貧困であったのだから。そもそも何と比べて貧困というのか。我々は彼らを貧困に貶めるようなことはしていない。むしろ、アパルトヘイトの下でも彼らにはギブしている。ただ単に我々と彼らにはどうしようもない文化の違いがあったから、住み分けを徹底しただけではないか、と。当時の我々の家には、セキュリティシステムもなければ車に鍵を挿しっぱなしにしても盗む者などほとんどいなかった。我々の民意はけして低いわけではない。なぜなら我々は努力することを知っているし、理性がある。今の状況はどうだ。犯罪大国と呼ばれ、一人で歩くことも出来ないではないか。教育問題を掲げてみても、実際に改善など全く出来ていないではないか。教育とは、それを理解しようと努力することによってはじめて成果が現れるものだ。それを理解しようと思わない黒人にどうして教育が施せるのか、と。私はこの話の中で、ひとつ、質問をした。では、この国はずっとこのままなのか?彼らの答えは、こうだった。我々もこのままでいいと思っているわけではない。今はただ、20年後に期待したいとも思っている、と。正直、私はこの時彼らの言っていることを少し理解することが出来た。そして、この地域が持つ問題の根深さを感じた。私にとって彼らの発言が直接、差別的な考えに結びつくものではなかったが、しかし例えばこれをビジネスレベル、政治レベルで考えた時、私はどうするのか。日本というひとつの文化圏で育った私にとって、このような問題を真剣に考えるということはこの時までそれほど意識して行ったことがなかった。日本が戦後復興をいち早く果たした背景には教育が大きなウェイトを占めていると私は考えている。しかし、この場合の「教育」と今この地域で求められている「教育」というのは同義に語られて良いものなのだろうか。文化、カルチャーという言葉が彼らの口からはしきりに出てきた。日本と比較した場合、我々日本人とても教育の過程の中でそれまでの日本の文化を置き去りにしてきた経験はあったはずである。しかし、それを我々はある程度受け入れることが出来た。なぜなら敗戦というひとつの転換点が失望と諦めを生み、新たな文化を受け入れる土壌となったのではないかと私なりに分析している。しかしそういった土壌を持たずにそれまでの習慣や文化を否定するような教育をすんなり受け入れることが出来るものであろうか。私は非常に難しいと思わざるを得なかった。可能だとしても、そのためには時間と、何より「犠牲」が必要に思えた。では、この場合必要な犠牲とは何であるのか。アパルトヘイトという差別的な状況を抜け出したこの国の黒人及び有色人種層は既に過去に大きな犠牲を払って今の状況を勝ち取っている。その彼らにこれ以上の犠牲を払うことが可能であろうか。ならば、彼らのために犠牲になるべき存在が必要であるのではないか。私はこの時から少しづつ、この国の抱える問題について私に何が出来るのかを考えるようになった。
2006.07.13
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この夜、私は自分の無知に呆れたのだが、アパルトヘイト法施行下での南アフリカは「先進国」であったことを知った。1970年代に建築されたビルディングはヨハネスブルグにまだその姿を残しているし、街の作りをとってもそこはヨーロッパと大差がない。当時の完全なる白人とその他人種の住み分けは、この国に繁栄をもたらしたことは間違いない事実であった事を知った。前回までの記事で話した先住入植者のオランダ系住民のことをアフリカーンスというのだということも教えてもらった。私はそれまで彼らをドイツ系だと思い込んでいた。この夜の会食はアフリカーンスの白人数人と行われた。中の2人とはロスで会ったことがあったのでスムーズに会話は進んだ。私の印象だが南アフリカのアフリカーンスの人々は特に親しく馴れるまで時間がかかる。そういう時は決まって若干見下されている感じが否めない感がある。この日はそれほどではなかったものの、やはり初対面の人間について言えばそれほどの好印象は抱けなかった。酒が入りだして彼らの舌が緩むのをこの日も私は待っていた。ヨハネスブルグのことを現地の人間はそのスペル、JOHANESBURGを縮めてJOBURG(ジョバーグ)と呼んでいた。ちなみに日本人の友人は、「ヨハネス」とこの街の事を呼ぶ。ヨハネスブルグやサントンを含むこの地域ゴーテン(ハウテン)州は特にアフリカーンスの人々が多い。過去イギリスに追われ北へ移動したアフリカーンスの人々はこの地域にトランスバール共和国という国を作ったほどで、今でもこの地域はトランスバール地方と呼ばれてもいる。彼らにとってはこの地域がやはりこの国の中心であるという考え方であるようだ。アパルトヘイト法施行下も、この地域が一番取締りが熾烈であったようだ。この日、私はアパルトヘイトについての話をアフリカーンスの白人数人から聞かせてもらったのだが、彼らはアパルトヘイトが悪法であったとは未だに考えてはいなかった。むしろ当時の強く繁栄していた南アフリカを回顧している節が多々見受けられた。彼らの話では、当時の政権は黒人の大虐殺も考えていたらしい。実際に虐殺事件もあったと語っている。またその中の1人は平然とこう続けている。「AIDSがやがてこの国の黒人を綺麗に掃除してくれる。我々はその時を待っているだけさ。」勿論、すべての白人がこのように思っているわけではないとは思う。が、このような考えがあることだけは間違いがない事実でもある。AIDSによって友人を失ったことがある私は、この話を聞いた時かなりやりきれない思いがした。と同時に、空恐ろしさを感じた。なぜなら彼らは少なくともこの国においてはインテリ層であったからだ。
2006.07.12
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私は滞在初日の宿をピエールの勧めに従い、サントンのインターコンチネンタルにしてもらっていた。ここで私が目にしたのは、非常に近代的な街並みであった。高層ビルに整備された綺麗な道路。アフリカにいることを感じさせない光景は、私を驚かせるには十分だった。軽い食事をしてから2時間ほど体を休め、私は散歩に出た。散歩といっても外をぶらぶらとしたわけではなく、このインターコンチネンタルホテルから続くショッピングモールを見て回った。このショッピングモールは非常に広大な敷地面積を有しており、全てを見て回るには優に丸1日必要であろう。やがて私はネルソンマンデラスクェアと名づけられたショッピングモール内の広場に辿り着いた。ここでもやはり、目に映る限りの人種構成比が全くアフリカを感じさせない。白人の割合が非常に多く、インド人やユダヤ人、時折私と同じ黄色人種を見かけるが、最もこの国に多いはずの黒人やカラードの人々は決してそれほど多くはない。ネルソン・マンデラ元大統領の巨大な像を見つつ行きかう人々を眺め、やがて私はショッピングセンター内の散歩を続けた。ショッピングセンター内はいくつかの区画で分けられているようだったが、初めて訪れた私にとっては軽い迷路のようでもあった。歩いているうちに日本でも割と馴染み深い、ルイ・ヴィトンやダンヒル、デュポンやグッチといったテナントを見つけた。ブランド品にはさして興味がない私は、どちらかというとあちこちで売られている電気製品とこの国が世界的に有名な理由のひとつである宝石を見て回った。電気製品については総じてかなり値段が高く、日本やアメリカ、中国での価格を見慣れていた私にとってはこの値段では正直購買意欲が湧かないレベルである。テレビやパソコンなどは単純に日本の倍の値段で売られていた。この国では今、日本製品より韓国製品が総じてよく売れているという話であった。また中国製品も非常に豊富に入ってきており、そちらの方がかなり安くはあるもののそれでもやはり高価という印象が残った。この国の給与所得の平均は非常に低いはずであり、とてもこの値段では庶民は手が出ないだろうという物が溢れている。何より、私がこの時立っていた場所は余りにもこのときまで私が抱いていた私の中にあるアフリカとかけ離れていた。散策を続けて、さらに意外に思ったのは宝石類についても同様に高価すぎるということだった。宝飾品は日本で買って持ち込んだ方がむしろ儲かるのではないかと思えるような値段であった。私は2時間ほどをかけて一通りショッピングモール内を見てから少々道に迷いつつもホテルに戻り、夜のミーティングへと向かった。
2006.07.11
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資本主義と民主主義を標榜する西側社会にとって、当時民主主義を持たない資本主義国とされた南アフリカは格好の攻撃の的になったのではなかったか。その背景には当時共同歩調をとっていたアメリカとイギリスの世界戦略に南アフリカが反していた、ということが言えるのかも知れない。結果、当時の南アフリカ白人政権はそのパワーゲームに敗れたともみえる。私が思うところ、有色人種の事実上の独立という見方においてさえも現在のところまだ懐疑的である。この国における白人のマジョリティは先住入植者のオランダ系住民ボーアの人々であった。国民党政権の中心となり、イギリス連邦を脱し独自の政策を展開して行ったのもこのボーアの人々である。民主主義という言葉をこの白人の中だけで使えばマイノリティであるイギリス系住民は思うように政策に関与することが出来なかったと見ることもできる。そこで起きたアパルトヘイトの崩壊とイギリス連邦への復帰は、あたかもマイノリティであるイギリス系富裕層住民が外交ルートを使ってクーデターを起こしたのではないか、というのが私の穿った見方である。その後、彼らはすぐにイギリス本国に帰国しており、遠くから事態が落ち着くのを待っていた節も見受けられたりもする。その後の混沌とした国内状況は徐々に落ち着きを取り戻し、それに付随する経済発展は、結果的に有色人種への雇用機会を増やしているし虐げられてきた人々の為になったのは間違いはない。しかし反面、新たな支配者層を黒人の中に生み出し、最も改善が必要な貧困層はほとんど手付かずというのも現実であり、一気にマイノリティに追い込まれたボーアの人々の中に生活困窮者を生み出し、アングロサクソン系の金持ち層がさらに儲ける機会を創出しているだけという事実が私には垣間見える気がした。貧富の差は人種を越えて加速されており、今後も決して貧困者にとって容易ではない状況が続くであろうと想像がつく。ただし、少しづつではあるものの社会福祉や雇用機会の創出に対して改善されつつある点も多いことは評価できる点だとは思った。この国の孕んでいる矛盾はまだまだ大きいし、私自身、歴史的背景や人種間の背景など本当に学ぶ必要がある点が山積みだと感じさせられた。この時の私には、大きな疑問がいくつかあった。南アフリカ共和国が真に欲しているのが黒人を主体とした民主政治であるのか否か。それとも、現政権でさえも実は経済面から支配されている傀儡であるのか。表と裏のパワーバランスはどのような綱引きをして未来を作り出していくのだろうか。少なくとも現時点ではさらに強力な内政基盤の整備が急がれているのは間違いない。正直、私には見えない部分が余りにも多くあるが、今後の展開を注意深く見極めたいと思った。
2006.07.10
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南アフリカにおいて最も歴史的な出来事はダイヤモンドと金の発見に尽きるのではないかと思う。この歴史的にも絶対価値を持つ二大鉱物資源がその後の大量のイギリス人入植者を呼び、ボーアと称される先住入植オランダ人との間で幾度もの戦争を巻き起こした。さらに、当時黒人文化圏の中で絶大な王国を南アフリカの広大な版図に作り上げていたズールー族の王シャカ・ズールー率いるズールー王国との軋轢を生じさせ、まさに血の雨が降ったのである。最初の入植者であったオランダ系住民ボーアは、戦いに敗れながらイギリス陣営に追われて北へ移動した。この移動のことを「グレートトレック」と現地では呼んでいる。日本語での訳はそのままカタカナを充てただけだが、これを「偉大な行進」と直訳するのはかなり微妙である。主観をどこにおくかによって全く意味が変わってしまうのではないかと思うが、「ボーア人の大逃亡」と訳すかはたまた「偉大なる開拓」と訳すか、それとも「強大な侵略」と訳すか南アフリカでも民族により受け取り方は様々であろう。やがてオレンジ川を渡河した彼らボーアは、オレンジ共和国やトランスバール共和国といった国を作るがこれもまもなくイギリスの手に下る。広大な南部アフリカ地域はイギリスの植民地とされやがて独立するに至るが、この時本当の意味でイギリスからの独立を勝ち取ったのは白人入植者でしかなかったと考えるのが私の中の順当な意見である。黒人にとっての真の独立は1994年のアパルトヘイトからの開放とネルソン・マンデラ大統領の誕生に始まるのかもしれない。それ以前に執行されていた余りにも有名なアパルトヘイト法は白人が有色人種に対して行った徹底的な差別で世界中の非難を呼んだ。後にこの旅の中で私自身このアパルトヘイトについて疑問に思ったことを色々と尋ねまわってみて、さらに深く考えさせられる部分が生まれたのだがそれはこの後に書いていこうと思う。歴史を戻ろう。イギリスの支配から独立を果たした南アフリカはボツワナ・ナミビアにおける実質的支配権をも確立している。国民党政権が樹立され、やがて差別主義が徐々に台頭していくのだが、特筆すべきはそのときに要していた軍事力である。当時の南アフリカは核兵器も持っており、僅か3日あれば北アフリカまで進駐を進めることが可能だったという話である。強大な軍事力と世界的に類を見ない鉱物資源を持ち食料自給率も100%以上であったこの国は、長年世界中から経済制裁を受けても尚、国力に余裕があったのである。しかし、この時言われる国とはけっしてそこで暮らす全ての人々にとっての国ではなく、あくまで白人がその他の人種を支配するという構図の中で出来上がった国を指している。その崩壊は、私の認識するところ悲しいかな決して虐げられてきた黒人を筆頭にした有色人種の運動で始まったわけではない。全て、外圧によって引き起こされているというのが私の感想である。イギリス連邦を脱し独自色を強めていった南アフリカは、先に述べた軍事力や資源を武器に大きく世界経済に関わりと影響力を持つようになっていった。日本で最も有名な企業としてはダイヤモンドの「デビアス」が真っ先にあげられるだろうが、この時デビアスは世界のダイヤモンド市場のほぼ90%を支配していたことは日本では余り知られてはいない。アパルトヘイトが崩壊し12年を経た現在においても「デビアス」のダイヤモンド市場における占有率は70%を占めている。特に最近でも独占禁止の観点からアメリカ政府とデビアスの間で数多くの摩擦が生じている。
2006.07.09
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この街では外資系の大手企業のみならず国内企業も軒並み撤退しており、その移動先に選ばれた最大の街がヨハネスブルグの隣にある、「サントン」であった。ちなみにこの南アフリカ共和国の首都は司法府と立法府と行政府がそれぞれ別の場所にあり、プレトリア・ブルームフォンテン・ケープタウンがそれにあたる。各国大使館などが主に集中しているのはプレトリアであり、ヨハネスブルグは経済の中心地に過ぎない。最近では各地名なども本来の黒人自体が使っていた地域名に変更されており、プレトリアは「ツワナ」とズールー語で呼称されることが正式に決定したばかりである。この地名の改名は今後も進むと思われ、そうするとヨハネスブルグも「エゴリ」(ゴールドの町の意)になり、白人がつけた地名が残りそうなのはケープタウンくらいになってしまうかもしれない。南アフリカ共和国を訪れるにあたり、私は恐らく一番役に立ちそうなガイドブック「地球の歩き方」を買い求め、若干の予習を行ってきた。それは、この国が今も内包する様々な問題をつぶさに観察するためでもあり、単純に私の知的好奇心を満足させる程度の意味でもあった。およそ、アフリカにおける歴史というものに触れる機会を持ち得なかった私にとって、ガイドブックから得られる知識だけでも相当なボリュームのあるものであった。過去、白人の入植に始まったとされるこの地域の歴史は、あくまでも白人主体の世界観に沿って描かれたものではあるが、私の好奇心を呼び起こすには十分なものだった。はじめにオランダから多くの入植者がやってきたこの国は、アフリカと言う不思議な音感からの連想を一度全て捨て去ってしまえばオーストラリアやニュージーランドまたはアメリカの歴史と大差なく思えてくる。このことは、必ず先住民との軋轢があり不幸と称される歴史も内包している点で同義である。オーストラリアでもニュージーランドでも、あのアメリカにおいてさえもその時の入植者による先住民への迫害は熾烈を極めている。アボリジニやネイティブアメリカンの悲劇を綴った歴史書は簡単に手にして学ぶことが出来る。現在でこそ、自由や平等といった思想が表面上の差別や迫害をかなり抑制してきてはいるが、けして差別や迫害がなくなったわけではないことは私自身海外でよく目にしてきたことでもある。この南アフリカでも例外はなく、入植当初から入植者と原住民との激しい衝突が繰り広げられた。ケープタウンに始まった入植は北部へとその足を速め、やがて広範な地域を白人入植者は占領する。当初、船の寄港地として重宝され、ワイン用のブドウ畑が広がっていった頃くらいまでがまだそれでも平和であったと呼べる時期であろうか。そのまま何事もなく歴史が進んで行ったならば、或いはこの南アフリカという地域ももっと違う歴史を歩んできたのかもしれない。しかしある出来事を機会として、すべての状況は一変することになったしまった。そして夥しい血で彩られた歴史が回転していくのである。
2006.07.08
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ヨハネスブルグは南アフリカ共和国のみならずアフリカ大陸最大の都市だが、アパルトヘイト解放後の黒人の自由化によって今では世界でも最も治安が悪い街となってしまっている。アパルトヘイトという世界史的にも稀有な「悪」法から黒人が自由を得て12年の歳月が経っているが、この無秩序な現状を見ると何か非常にやり切れない思いがした。無秩序の主たる原因は貧困層の都市部への大量流入と国外からの難民と化した人々の流入である。また、マフィアやギャングといった組織だった犯罪者グループが非常に問題となっており、私がこの時聞いた話では世界中から数百に及ぶ犯罪団体がこの国に拠点を設けており、司法や行政関係者もそういったクライムシンジケートの一員である可能性が高いのだという。アジアにおいてもこういう傾向の強い国々はあるのでそこまで驚くことではないのかもしれないが、しかし治安の悪さ世界一を喧伝されてしまうほどの状態に陥っていることは確かであり、2010年のワールドカップを控えて、この国がヨハネスブルグに対してどのように対策を打ち出していくのか非常に興味深いところではある。事件の多くが殺人・強盗・強姦という単純凶悪事件であり、貧困に起因すると定義する以前にエデュケーションの問題も大きいのではないかと個人的には感じたりもした。
2006.07.07
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ヨハネスブルグ国際空港は、国際空港というには少々規模の小ささを感じたりもしたが、最初に持っていた私のアフリカのイメージをまず払拭する程度には近代化されていた。すんなりとイミグレーションを通り、そのまま税関も素通りすると、すぐに人々が到着客を出迎える光景に行き当たった。私は、身の回りの必要なものだけを詰めた簡素なボストンバッグを片手に持ち、そこで待ち合わせていたピエールに苦もなく出会うことが出来た。彼はその身長の大きさゆえに非常に目立っていた。196cmあるということだった。白人は大きいというイメージは私の中でも固定観念としてあるのだが、それでも彼は際立って大きい部類だろう。彼に案内されて空港を出ると、そこでは大規模な工事が行われていた。2010年のワールドカップを睨み、空港も大きく改修されるのだという。国際線の空港の隣にはすでに立派な別の建物があり、あれも空港かと尋ねるとそちらは国内線の空港だという答えが返ってきた。現在のところ国際線の空港より国内向けの空港の方が立派なことになんとなく少々の違和感と驚きを覚えた。空港の敷地内は活発に人々が行き過ぎているが、目に付くのは白人やインド系、ユダヤ系の人が多かった。思ったほどは黒人の数が多くはなく、正直なところあまりアフリカに来たという感じではなかったように思う。ただ空港内で警備活動を行っている警察官のほとんどは黒人で、その中にたまに白人も見かける程度であった。わずかこの程度の光景ではあったが、私はこの時にアパルトヘイトが終焉した後の南アフリカ共和国を少しだけ感じることが出来たように思った。白人と黒人の共生、それが私がこの時まで漠然と思っていたアパルトヘイトの終焉というものだった。私の持参していたガイドブックには空港では特に泥棒や強盗が多いので注意するように書かれていたが、この巨漢のピエール氏を従えた私は何のトラブルにも会わず駐車場へと向かった。それから私たちは早速に車に乗り込み、ヨハネスブルグを横目に見つつサントンへと向かった。
2006.07.07
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南アフリカ共和国へは現在日本からの直行便はなく、私は日本からシンガポールを経由してトランジットまで含めると優に24時間を費やしてこの時はじめて南アフリカの土を踏んだ。幾度かの海外で旅慣れているつもりの私でも、さすがにこの移動時間はせめてビジネスクラスが必要に感じてしまったりもしたが、贅沢も言ってられない。この時はもうこれきりで南アフリカに来るのはやめようと思ったりもしていた。やがて飛行機のアナウンスがまもなくの到着を告げると私は窓から見えるアフリカの風景を眺めていた。上空の窓から見えた大地は赤みを帯びており、非常に乾燥したイメージだった。上空から見る限りではそこには日本にはない剥き出しの自然の荒々しさがあった。これからわずか10日間ほどの滞在で私が触れえる自然と文化に少しばかり期待が膨らんだ。今回の私の旅の目的は幾人かの人間との面会であり、目的地は南アフリカ共和国内でもTOP3の街、ヨハネスブルグ、ケープタウン、ダーバンであった。
2006.07.06
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サハラ以南の地域は通称「南アフリカ」と呼ばれる。この地域には、南アフリカ共和国・ボツワナ・ナミビア・モザンビーク・ジンバブエ・レソト・スワジランドなどがあるが、私が今回旅したのは南アフリカ共和国だった。南半球にあるこの国は日本とは季節が真逆である。私がこの国を訪れた時、ちょうどこの国は秋を迎えていた。しかし、私の想像の中での南アフリカはこの時まで「野生の王国」であり、そしてサバンナと熱帯雨林でしかなかった。昔観た映画「ブッシュマン」のニカウさんが私にとってのアフリカ人であり、チーターの時速100キロという足の速さや百獣の王ライオンの勇ましい姿に想像を膨らませたものだ。しかし、大人になってからはそういった想像とも無縁の暮らしを続ける中で、アフリカという地域を意識することすらほとんどなくなったと言っても良かった。それほどに私のイメージではアフリカ、ことに南アフリカという地域は秘境であった。また、10数年前にニュースで見た黒人のアパルトヘイトからの解放に伴う様々な事件や事故の断片的映像を憶えているが、その時の私にとっては遠い異国の出来事以上の何かではなかった。恐らく仕事がなければ一生、この国を訪れる機会はなかったのではあるまいかとも思う。私にとってはこの旅が大きく私の価値観を変える人生にとっての事件であった。
2006.07.05
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部下であり友人であった一人の若者が、AIDSで死んだ。ゲイだった彼はいつも明るく、AIDSであることを最後まで僕たちには語らなかった。僕はゲイに対する偏見は持っていない。ただ、彼が死んだことが、僕の心に暗い影を投げた。今、僕が彼のためにしてやれることはないけれど。今、僕は彼のために自分と向き合うことは出来る。ただ、そう思うまでには時間ときっかけが必要だった。今、世界中でAIDSが問題になっている。対策が叫ばれている。僕は仕事をきっかけに、その最前線に足を踏み入れた。
2006.07.04
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