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象さん123 @ Re:完全な人 マタイ5:38~48(10/28) 素敵なメッセージですね。感銘を受けまし…
石田聖実@ 今日の礼拝のプログラム 前奏 招詞 詩編51:19 讃美歌 第二編194 「…
象さん123 @ Re:辞任から3ヶ月(12/01) 羨ましいですね。普通の牧師は 良くも悪く…
やまひで0207 @ Re:プレハブの掃除に行きました(05/04) 大学時代、奥多摩の山を歩き回りましたの…
AGIOS @ Re[1]:義母の死と葬儀(02/17) 象さん123さん ありがとうございま…
September 27, 2009
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今日の礼拝の聖書と説教
旧約書 出エジプト記20:1~17
使徒書 エフェソの信徒への手紙5:1~5
福音書 マタイによる福音書19:13~30 
説 教 「新しい戒め」

出エジプト記は「十戒」
教会によってはこれを毎週唱えるところがあるようだ。
私はそれをしない。
十戒は、旧約の律法体系の中で、いわば憲法のような部分だ。

十戒に付随して様々な律法が定められていて、その全体を守らなければならないものだ。
先週のテキストであったヤコブの手紙2:10によれば、「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となる」のだ。十戒を唱えるということは、そのような律法の体系に生きるということだと思う。

キリスト教は旧約を(そして新約も)律法の体系として理解していない。六法全書を読むような読み方で聖書を読まない。神がイスラエルに、また教会に関わってこられた歴史(専門用語で「救済史」)として聖書を読む。ユダヤ教の正典とキリスト教の旧約聖書39巻は同じ書物だが、39巻の順番は異なっているのはユダヤ教が、その書の性格によって分類しているのに対して、キリスト教は歴史の順番に並べているからだ。たとえば、ルツ記やエステル記などはユダヤ教ではずっと後ろの方にある。我々の聖書ではそれぞれの物語の時代設定の場所に置かれている。

それではキリスト教は旧約の律法体系を守るべきものとしては無視するのかというとそうではない。キリストの光によってとらえ直すのだ。
たとえば、十戒の中でも重要な安息日の掟は、「神さまは6日間で正解を創造され、7日目はお休みになった。だからあなた方も6日間働いて週の第7日(土曜日)は一切仕事をせず、聖なる日としなさい」という趣旨である。
キリスト教ではセブンスデー・アドベンチスト(SDA)という教派を除いて皆、土曜には礼拝をしていない。(日曜日の礼拝では集まる人を収容しきれないので土曜にも礼拝をする教会はあるが、日曜には礼拝をせず、土曜のみというのはSDAだけである。)
イエス・キリストが死者の中から復活し、弟子たちに現れたのが週の第1日=日曜日だったので、イエスを救い主として仰ぐ者たち(クリスチャン)は日曜日に集まり、礼拝をするようになった。
このように、週の一日を一切の世俗のことから離れて聖なる日として、集まり神を礼拝するということは旧約から受け継ぎながら、その根拠は律法の規定からイエス・キリストの復活へとシフトしている。

このようにキリスト教では、旧約の律法をそのまま守るのではなく、イエス・キリストを通して再解釈されるのだ。
それによると、我々がなすべきことは次のように要約される。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

名古屋学院の言葉で言えば『敬神愛人』である。
この二つは実は一つである。神を愛すると言うことは具体的には隣人を愛することなのだ。だから
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。(Iヨハネ4:20)
と言われている。

さて、ある若者がイエスのもとに来た。永遠の命を得るためにはどんな善いことをしたらいいかと尋ねに来た。永遠の命というすばらしいものをいただくためには、さぞかし、徳を積まねばならないことだろうと思ったのではないだろうか。

たぶん、若者は拍子抜けしただろう。「な~んだ、そんなことか。その程度のことならちゃんと守ってるよ」
ところがイエスはもう一言付け加えた。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
この「もし完全になりたいのなら」という言葉はくせ者だ。
この若者は、とても敬虔でまじめなユダヤ教徒だったと思う。
礼拝、献げ物、断食…、律法で要求されていることはきちんと定められたとおりに行っているのだと思う。
『まぁまぁ立派な信者』と呼んでいいだろうと思う。でも完全とまではいかない。我々は『まぁまぁ立派な○○』であることをもって良しとしていないだろうか。○○は信者でも市民でも政治家でも入れ替えたらいい。対象によって「完全な○○」も定義が変わると思うが…。

ところがイエスは完全であることを求めている。
「完全になること」は決してオプションではない。
まぁまぁ立派な信者であるこの若者は、全財産を売り払って貧しい人々に施して、スッカラカンになってイエスについて行くことまではできなかった。彼の財産が若い彼自身の才覚によって稼ぎ出したものなのか、あるいは先祖から受け継いだものだったのかはわからないが、「まぁまぁ立派」からその先へ踏み出すことはできなかったのだ。
彼はきっと多額の献金をしていたに違いない。しかしあのやもめのように全財産を献げることまではできなかったのだ(ルカ21:~4)。
(イエス・キリストの命令は全財産を神殿ないし会堂に献げることではなくて、貧しい人々に施すことだった。宗教団体の懐を潤わせることを命じられたのではないことを強調しておく。全財産を施して貧乏人になったらイエスのところに来いというのだ。)

残念ながら彼はイエスの求めに応えることができず、失意のうちに帰っていった。その後ろ姿を見送りながらイエスは弟子たちに言う。
「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ19:23&24)
イエスによれば、「まぁまぁ立派な」この青年は天国に入ることはできない。彼が天国に行くのは、「ラクダが針の穴を通るより難しい」。

「そこそこの信仰生活をしていれば、天国でもそこそこの身分になれるんじゃないか?」というのは通用しないのである。
完全であるか、完全でないか、そのどちらかである。
それでは完全とはいかなる完全か?
先ほど「敬神愛人」と言ったように、隣人を愛することが原点である。隣人を愛することにおける完全性は、「善いサマリア人のたとえ」によって示されると思う。

この青年と同じように、どうしたら永遠の命を得られるかと聞きに来た人物がいた。彼は律法の専門家だった。だからイエスは自分で答えずに、「あなたはどう思うか?」と問いを返している。この律法の専門家、さすがに専門家だけあって、立派な答えをした。イエスが金持ちの青年に答えたのと同じことを答えている。
そこでイエスは彼を賞めて「そうだ、その通りだ、実行しなさい」と言った。しかし律法の専門家にとって「実行しなさい」が大変に痛い言葉だった。聖書には詳しいけど、社会の中でその聖書の知識を実行しない人いるような気がする。
教会の中では立派だけど、教会の外の世界に行くと、この世の原理で動いている人ね。

この専門家は「隣人愛を実行しなさい」と言われて、論点をずらそうとした。「『隣人』が未定義なので実行できません」
どこまでが隣人か?つまり、どういう関係までが愛すべき対象か?
これは大事なことかもしれない。
近所で不幸があったら、通夜・葬儀に参列すべきかどうか。香典はいくら包むべきか。親戚だったらどうか。「うちのじいちゃんの葬式の時、○○さんはいくらくれたから、○○さんの葬儀はこのくらいでいい」とか、「香典は同じ金額包んだのに香典返しがうちより安っぽいからけしからん」とか、そういうことにとても気を遣う人がいる。それで、愛すべき対象から外したりする。
家族、親戚、向こう三軒両隣、町内会、市民、同胞、外国の人でも同じ宗教の人… と広がっていく関係の中で、どこまでが隣人なのか?

そういう問いに対してイエスは、「愛を必要としている人の『隣人となる』」ことを教えられた。
このようにして、「敵を憎み隣人を愛しなさい」という旧約の教えは、「今まで敵であったとしても、愛して隣人となりなさい」へと転換された。

ここに愛における「完全」が見られるのではないだろうか。
そして愛における完全は神のご性質に他ならない。
ヨハネは再三にわたって「神は愛である」と述べる。
今日のもう一つのテキストであるエフェソ5:1は「神に倣う者となりなさい」という。
神に倣うとは何だろうか?これがいにしえの聖人たちであったならあまり違和感を感じないかもしれない。
「パウロに倣う者となりなさい」 伝道に情熱を注いだ生涯だった。
「マザー・テレサに倣う者」 最も貧しい人々に仕えた生涯だった。
しかし、「神に倣う者」と言われても、出所が違うんだから無理!
と思うだろう。
よく考えてみるなら、アダムは「神の像(形)に似せて創られた」はず。
この神の像(形)を取り戻すことが「神に倣う者」となることだろう。
それは聖霊によるクローニングによって可能とされるのではないだろうか。
霊から生まれた者は霊であるとはそのようなことだろう。





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Last updated  September 27, 2009 08:43:37 PM
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