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コリントの信徒への手紙第一1:10~17 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。パウロは紀元50年頃コリントにやって来て、約1年半コリントで伝道した。アキラとプリスキラの家に寝起きし、アキラと共にテント造りの仕事をしながら伝道した。パウロ自身が洗礼を授けた人は少なかったようだ。クリスポはユダヤ人の会堂の会堂長だった人。ガイオは、おそらく会堂の隣の家、会堂を追い出されたパウロに伝道の場を提供したギリシア人、ティティオ・ユストのことだろうと言われている。コリントの教会には派閥ができてしまった。パウロ派、アポロ派、ペトロ派、キリスト派。おそらくコリント教会の開拓者であるパウロを尊敬する人々と、現牧師で説教に力のあるアポロの熱烈なファンが対立したらしい。そういうのを見てイヤだなと思った人々が「使徒と言えばやっぱりペトロでしょう」と言ったり、あるいは「人間についていくとろくなことはない。私は人間の指導者ではなくキリストに従う」という人たちがいるのだが、こういう人たちもパウロは叱っている。教会をよくするために努力しようとしていないからだろう。ところで、この段落の最後の一文、「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」というのは雄弁な説教者アポロへの皮肉ではないだろうか。アポロはその弁舌をもって力強く説教し、もしかするとパウロを会堂から追い出したユダヤ人たちさえもねじ伏せて洗礼を受けさせたのかも知れない。けれどもそうした熱心な伝道がキリストの信者ではなくアポロの信者を作り出してしまった。そういうことへの批判のように読めると思う。それでもパウロは「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(3:6)とアポロの働きをパウロ自身と共に神に用いられる大切なものとしている。自分の正しさ(と信じているもの)を主張し、相手の誤り(と信じているもの)を批判攻撃してもあまり良い結果は出まい。大切なのは、欠けの多い者たちが互いにカバーし合っていくことだろう。
September 6, 2021
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2016年7月17日 聖霊降臨節第10主日礼拝 前奏 ✻招詞 詩編100篇1~2節 ✻賛美 さあ主にささげよう 来たれイエスを 主はわれらの太陽 祈祷 交読 詩編68篇2~11節 賛美 第二編186 日ごと主イェスに 朗読 ローマ14章10~23節 (新)294 牧会祈祷 説教 「『正しさ』をこえて」 ✻賛美 讃187 主よ命の ✻信仰告白 使徒信条 献金(福382 God bless you) 感謝 主の祈り ✻頌栄 讃546 聖なるかな ✻祝祷 ✻後奏 【今週のみ言葉】 「あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。」(ローマ14:16) 【命の言葉】 14章のはじめに「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」とあります。旧約聖書の律法に従って食べていいもの、いけないものを判断する人もいれば、すべてはきよいと考える人もいました。パウロは「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べている」と言います。禁忌にとらわれているのは弱い人です。けれどもパウロはそのような信仰の弱い者に配慮せよと命じます。なぜなら、信仰の弱い人もまた神が受け入れたひとりですから。 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。ここに私たちの生き方の根本があります。ライフスタイルには様々な流儀や礼儀作法があっても、突き詰めれば生も死も主のためということに尽きます。 人は、慣れ親しんだものを絶対化しがちです。この箇所に即して言えば飲食の問題…酒やたばこ、あるいは異教徒の宴会(法事)への参加があります。ある人はなるべく避けようとしますし、ある人はまったくこだわらないでしょう。自分と違う人を見て眉をひそめたことありませんか?そういう人を「弱い人」と言っています。私たちは弱さを抱えながらキリストに従おうとしています。パウロはそういう人たちの躓きにならないようにと警告しています。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」。正しさだけでなく弱い者への配慮ができるように祈り求めましょう。
July 17, 2016
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前奏招詞 マルコ1章15節賛美 小羊をばほめたたうる(讃美歌164)祈祷交読 詩編51篇3~11節賛美 昔主イェスの(讃美歌234A)朗読 ローマ7章7~13節牧会祈祷説教 「掟が死に導く」賛美 ふかきみむねを(讃美歌507)信仰告白 使徒信条主の晩餐 献金 互いに愛し合い(教会福音讃美歌362) 主の食卓への招き 感謝 聖別祷、 制定語 主の祈り 配餐 感謝 賛美 まごころもて(教会福音讃美歌260)頌栄 みめぐみあふるる(讃美歌540)祝祷後奏【今週のみ言葉】「罪がその正体を現すために、善いもの(律法)を通してわたしに死をもたらしたのです。」 (ローマ7:13)【命の言葉】 律法は神がイスラエルに与えた聖なる掟です。クリスチャンは「十戒」だけにしか目が行かない傾向にありますが、十戒はいわば憲法にあたるものです。十戒によって生きる人は申命記までの全ての律法を守る必要があります。 パウロはイエス・キリストを信じる前は熱心なファリサイ派でした。その熱心さの故にイエスをキリストと信じる人々を迫害したほどでした。その彼が「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました」というのはおかしい、これはパウロ自身のことではないはずだ、という人がいます。しかし、律法を守ることに熱心であったけれども律法の本当の意味を知らなかったということなのでしょう。律法を本気で守ろうとすれば、守れない自分を見出し、罪の深さを知らざるを得ない。「自分は律法をきちんと守っている」と胸を張って言える人は、実は律法をわかっていないから胸を張れるのです。 自然的人間は誰しも欲望を持っています。自分の欲望を満たすためには他者と競い、他者を打ち負かそうとします。掟がなければそれは「当然のこと」であり、「罪」とは思いません。 しかし、掟は欲望に規制をかけ、ある一線を越えるものを罪と定めます。律法が掟としての本質を発揮すると、自己を内省し、罪にがんじがらめにとらわれている自己を発見せざるを得ないのです。つまり、律法は救いようのない自己を指し示すものに他ならず、人を救うものではありません。救いは律法ではなく、イエス・キリストの十字架と復活に示された神の愛にあります。
November 1, 2015
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2015年10月27日 名古屋学院大学礼拝メッセージ 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48) 「完全主義者」を辞書で引くと「不足や欠点を容認せず、完璧さを追求する考え方を持つ人。万事につけ完璧にしたがる傾向を持つ人」とあります。几帳面で、頑固で、何事にも融通が利かない人というイメージがありますね。フロイトは、排泄がコントロールできるようになる1歳~3歳頃に親から厳しい躾を受けると、几帳面、頑固、倹約といった完全主義的な性格が形成されるとしています。さらにこういう人にはその完全主義的な性格が原因で、強迫性人格障害になることがあるそうです。 さて、イエスさまが「あなたがたも完全な者となりなさい」という時、それは今言ったような完全主義者になれという意味でしょうか?そんなことではありません。イエスさまはユダヤ人ですから、旧約聖書の考え方が深くあったと思います。旧約では完全という言葉は「全き者」という言葉で出てきますが、特に神に献げるいけにえの動物について言われています(日本語訳の聖書では「傷のない」という訳語が使われています)。犠牲の動物は牛とか羊や山羊ですが、私も皆さんもあまりこれらの動物に接したことがないでしょうから、猫を例に取りましょう。 私はこれまでに4匹の猫を飼ってきました。最初の猫は娘が拾ってきた茶トラです。なかなか賢い猫でエサは器に入れたものを食べ、近くに袋に入れたままのキャットフードがあっても手をつけません。冬は私がベッドに入ると潜り込んできてクルッと向きを変え、私と同じ態勢になります。2匹目の猫は白猫で、これは食い意地の張った猫で食べ物を見つけると何でもバリバリ袋を破いてしまいます。ドアノブに飛びついてドアを開けるという技を使います。3匹目は安城の友人が連れて来た黒猫で他の猫と仲良くしない孤高の猫です。狩猟が上手でスズメ、メジロ、ハトまで捕まえてきます。今うちにいる4匹目はグレーの猫で黙って座っていると美しいのですが、落ち着きのない猫で部屋の外から中に入れろと騒ぎます。入れてやると間もなく今度は外に出せと騒ぎます。そして甘えん坊です。 どの猫がより完全な猫なのでしょうか? 実は全部完全な猫なのです。足が4本あって、耳が二つ立っていて、ヒゲがピッピッとをあって、目が二つ明るさによって瞳孔が丸くなったり細長くなったりする。そして爪研ぎをする。そういう猫として当たり前の特徴が揃っていれば完全な猫なのです。ドアを開ける知恵や狩猟の能力がどのくらい優れているかは関係ありません。 そのような旧約の「完全」の概念を知っていたイエスさまが「あなたがたの天の父が完全であられるように」つまり「神さまが完全なように」、「あなたがたも完全な者になりなさい」というのです。やはり無理な話ではないか、人間はどこまで行っても人間であって神さまの完全には行き着かないと考える人もいるでしょう。しかし、文脈をよく見て理解しないといけません。ここでは神さまというのはどんな方だ、と言われていますか?「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」方だと言われています。 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか」。徴税人というのはローマに納める税金を集める役人で、本来徴収すべき金額にかなり上乗せした金額を取り立てて、自分のポケットに入れていたと言われています。そういう「不正」+「ローマのための徴税」ということで悪者の代名詞としてみんなから嫌われていました。「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。異邦人とは単に外国人という意味だけでなく、ここでは異教徒、神さまを知らない人々という意味です。悪者や神を畏れぬ異教徒と同じことをやっているだけではだめでしょう、とイエスさまは言ってるのです。神さまは人を分け隔てせず、誰の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせる。だから、あなたがたも「人を分け隔てせず、挨拶し、また愛しなさい」。これが言われている「完全な者」の具体的な内容です。そうすると、聖書が言う「完全」というのは、やるべきことのリストがあって、一つでも欠けがあってはならないというようなこと、つまり「完璧であれ」ということではなく、「誰に対しても善意をもって接しなさい」という、態度や意志の問題だということがわかると思います。 ルカによる福音書には「善いサマリア人」というたとえ話がありますが、そこでもこの問題が扱われています。 旧約聖書に詳しい専門家がイエスさまにたずねました。「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。イエスさまは逆に「旧約聖書には何と書いてありますか」と問い返しました。彼は専門家ですから即答しました「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」。これは本学のスクールモットー『敬神愛人』の基になっている言葉です。ところでこの専門家は一気に答えましたけど、前半の「あなたの神である主を愛しなさい」は申命記、後半の「隣人を愛しなさい」はレビ記に出てくる言葉です。つまり、彼は旧約聖書の中から一つの箇所だけを選んだのではなく、二つの箇所を選んで一つにまとめたのです。そこに彼の旧約聖書の専門家としての有能さが表れています。イエスさまは彼のこのまとめに大賛成しました。そして、もうひと言付け加えました。「知識としては素晴らしい。あとはその通りに生きることだよ。そしたら永遠の命が得られる」と。「それでは、隣人とは誰のことですか?」というところからたとえ話が始まります。 イエスさまの時代、ユダヤ人とサマリア人はとても仲が悪かった。ユダヤ人はエルサレムとガリラヤを行き来する時に途中にあるサマリアを通りたくないために、はるかに遠回りをするほどだったそうです。「善いサマリア人」というのはこんな話です。 あるユダヤ人が強盗に襲われて半殺しになっていた。そこをエルサレム神殿の祭司さまが通りかかったけど「自分も襲われたら大変だ」と思って、この人を助けずに急いで通り過ぎて行った。次に祭司の助手として神殿に仕えるレビ人と呼ばれる人が通りかかったけど、これも助けずに行ってしまった。最後に、ふだんユダヤ人とは関係の良くないサマリア人が通りかかったが、この半殺しになっている人を見て、傷の手当てをし、ロバに乗せ、近くの宿まで連れて行き、宿の人に2万円ばかり渡して治療を頼み、「これで足りなければ帰りに払います」と行って旅を続けた、という話です。イエスさまは旧約の専門家にたずねました。「三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。もちろん襲われた人を助けたサマリア人ですね。イエスは最後に言います「行って、あなたも同じようにしなさい」。 今の時代で言うなら、自動車と自転車の交通事故を目撃したとき、自転車に乗っていて投げ出されたのが自分の家族や友達だったら、もちろん救急車を呼んだり、警察に通報したりしますね。応急処置の出来る人ならそれもやるでしょう。もしあなたが悪人だったとしてもそうするでしょう。でも事故に遭った人が自分に関係ない人だったら、あるいは自分とは関係の悪い人だったら、知らん顔して通り過ぎますか?イエスさまは事故に遭った人がどんな人であっても、通報し、あなたにできるなら必要な応急手当をしなさいというのです。もちろんちゃんとした知識がないのに、手を出すとかえってまずいこともありますから、そこは医療関係者に任せるべきでしょう。そうして、自分にできること、できないことを区別して、自分に可能な事柄でその人を助ける。たとえ、自分にできることが119/110番通報だけであったとしても、それをする人が「完全な者」であるのです。 聖書が「完全な者」というとき、それは完璧な人、欠点のない人、ミスを犯さない人ではありません。誰に対しても善意をもって接することをいつも心がける人を指しています。どうして誰に対しても善意をもって接することができるのか?神さまが全ての人を愛している、つまり、私は神さまに愛されているということを知っており、また神さまはあの人をも愛していることを知っているから、私はあの人をも愛するのです。 完全な者とは、神さまが私を、人を、愛してくださることを感じる人ということにもなりましょう。人の愛は移ろいやすいものです。でも、神さまの愛は永遠です。そして無限です。神さまの愛を感じ、そこから人を愛する人になっていただきたいと願っています。
October 28, 2015
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前奏招詞 ハバクク書2章2節賛美 f.75 感謝と喜びを赤138 来たれイエスを主の足もとに祈祷 司会者交読 詩編78篇1~8節 (旧)913賛美 福226しもべらよ、み声きけ朗読 ヘブライ11:32~12:2 (新)416牧会祈祷説教 「自分のレースを走り抜こう」賛美 福245御名をほめたたえる信仰告白 使徒信条献金(福210主を待ち望む者は)主の祈り頌栄 福269たたえよ、主の民祝祷後奏【今週のみ言葉】「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブライ人への手紙12:1~2)【命の言葉】 手紙の著者は信仰を「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」と定義し、信仰に生きた人びとを列挙します。私たちも来月、同様に信仰に生きた人びとの名を挙げ、信仰の共同体を確認する時を持ちます。 しかし、イエス・キリスト以前に信仰に生き、世を去って行った人々は、信仰を神に認められながらも、約束されたものを手に入れることができませんでした。その意味において彼らは完全な状態に達しなかったのです。 言い換えると、イエス・キリスト以後に信仰を生きる私たちは、完全な信仰を生きることができる幸いを与えられています。 「完全」というと、神と同じになることと受け取り「あり得ない」と拒否する人がいますが、イエス・キリストは明確に「完全な者となりなさい」と命じています(マタイ5:48)。主が命じられる完全とはどのようなことかは聖化大会のオズワルト先生と竿代忠一先生のメッセージ(tokai.holy.jp/autumn/ で聴けます)を聴いていただきたいのですが、ここではヘブライ人への手紙の著者が言う完全だけ言っておきます。それは、上に掲げた聖句がそれです。旧約の信仰者たちはイエスの姿を見ることができなかった。しかし、私たちは新約によってイエスの姿、とりわけ私たちの罪の身代わりとして十字架に死んでくださった姿、罪と死の力を打ち破ってよみがえられた姿を知っています。このイエスから目を離さずに信仰の道を走るなら、それは完全な信仰者の行き方と呼ぶことができるのです。
October 18, 2015
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【今週のみ言葉】「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマの信徒への手紙12章21節) 【命の言葉】 心が傷つくような酷いことをされたとき、相手が私に悪意を持ってないことが判っていても、私が傷つくであろうことを予測し、その行為をやめなかったことで、私が相手に悪意・敵意を抱くことがあります。ましてや悪意をもってしたことと判っているなら、当然の如く敵意をいだきます。それが普通の人情でしょう。しかし、イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教えられました。そして十字架の上で実際に「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られました。 このようなイエス・キリストの実例に基づいてパウロは「迫害する者のために祝福を祈りなさい」(14節)と言います。念押しのように、祝福であって呪いではないと重ねています。 おもしろいのは、このことはまず兄弟愛、つまりクリスチャンの交わりに関する教えの中に入れられていることです。それから後で「すべての人」との関係に拡大されているのです。 パウロは元々ファリサイ派律法主義者で、ナザレ派(キリスト教)迫害の急先鋒でした。それがクリスチャンになると一転「律法によっては救われない」と言い出しました。今度はユダヤ教的感覚の抜けないクリスチャンが「パウロなどは使徒ではない」とパウロを迫害しました。 教会もまたトラブルを抱えた場所です。けれども、さまざまな欠陥・欠点・問題点を抱えながらも神が選ばれた人々の集う場です。教会生活の問題の解決は神にあります。ソリの合わない人も神の選びの中にある人、もし悪をされても善を返しキリストの愛が勝利するようにしましょう。
August 2, 2015
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前奏招詞 イザヤ書43章18-19節a賛美 タンバリンと踊りで主はわが羊飼い小羊イエスに祈祷交読 詩編13篇2~6節証賛美 福485あなたの平和の朗読 ペトロ一3章13~22節牧会祈祷説教 「苦難の時に」賛美 福402歌いつつ歩まん信仰告白 使徒信条献金(福450私たちは一つ)主の祈り頌栄 福273グロリア・グロリア祝祷後奏 【今週のみ言葉】「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」(ペトロの手紙一3:17) 【命の言葉】 来週は平和聖日を迎えます。今年は1945年に日本が戦争に敗れてから70年を迎えます。戦前・戦中の日本の体制を思い起こすなら(人々の多くはもう直接体験していないのですが、継承しなければなりません)、「戦争をしない。平和を追求する」憲法の精神は、私たちの信仰から見ても適切なものです。 『悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ』(11節)とペトロは勧めます。このように歩んでいるのに苦しみを受けることがあります。歴史の中で多くのクリスチャンが神のもとの平和を語りながら受難しました。ペトロはその時にも、私たちの希望を「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するように」と指示しています。 私たちは不義が行われている時に、沈黙し見て見ぬふりをしてはいけません。しかしまた、「糾弾」するようなやり方も正しくないでしょう。私たち自身も罪人であり、誤った生き方をしてきた者です。どのような罪人に対しても、イエス・キリストはご自身を犠牲にして罪を赦してくださるのです。ペトロの指針は糾弾ではなく、神への立ち返りを促すものでしょう。19~20節は今の私には十分に理解し解き明かすことができません。留保します。 21節「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」私たちの抱いている希望(信仰)を証しするために正しい良心をもってせよとありましたが、洗礼を受ける(受洗者として生きる)とは、そのような態度で神と人々に向かうことです。
July 26, 2015
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鈴鹿教会6月21日の礼拝 前奏 招詞 詩編33篇3節 賛美 さあ手を打ち鳴らし(ミクタム赤105) 主はわが羊飼い その日全世界が 祈祷 交読 詩編23篇1~6節 (旧)854 賛美 福6父なる神様 朗読 使徒言行録8章26~38節(新)228 牧会祈祷 説教 「信仰と洗礼」 1.福音宣教者フィリポについて 6章の7人の執事選出からステファノの殉教を経て、フィリポのサマリア伝道、そして天使の語りかけに敏感に反応し行動しガザへ下る道へ。私たちは彼のように聖霊の語りかけを聞き取り敏感に行動することができるだろうか? (説教では言わなかったけど私の心の中ではずっと「御霊の云えるごとくせよ」の聖歌が響いていた) 2.エチオピアの高官 エチオピアという国はソロモンとシバの女王の子メネリク1世に始まるとされている。古代からユダヤ教徒がいた。従ってエルサレムへ礼拝に行く役人がいても不思議ではない。また325年頃にキリスト教国になったのはフィリポのこの高官への伝道がやがてもたらしたものかも知れない。 3.洗礼式文 この個所は洗礼式に関する最初の記事だ。洗礼を受けるエチオピアの高官と洗礼を授けるフィリポだけである。伝道者はいつでもどこでも信ずる者に洗礼を授ける権能を主から委託されている。 宦官が読んでいたのはイザヤ書53章。すなわち人々の罪を担って死んで行く犠牲の小羊こそメシアである。イエスはそのような意味で救い主なのだということが明確に語られ、それを信じると告白して洗礼を受けている。 新共同訳の本文では省かれている37節は初期の信仰告白で、洗礼式の定式だったのだろう。 4.ホーリネス弾圧 1942年6月26日96名のホーリネス系教職が逮捕された。翌年4月の第二次検挙と合わせて134人が逮捕された。122名は日本基督教団の教師だった。再臨信仰が問題にされた。千年王国の時には天皇の統治は廃止されるというケシカラン教えだというのだ。 この事態に対して教団の幹部には逮捕を喜ぶ者がいた。 「これを御当局において処断して下さったことは、教団にとり幸いであった。」 「今後の(教団)運営上かえって好結果がえられるのではないかと考え、当局の措置に感謝している」 「日本においてキリスト者が再臨問題をとりあげて説くことがそもそもの間違いである。」など。 教団が誤りを認めて謝罪したのは1984年だった。 5.いま 憲法が骨抜きにされようとしている。憲法が規定する信教の自由も時の政権の都合でどうにでもなるだろう。この時代にどんな信仰告白をするのか? 教会は聖餐共同体だ。キリストの体と血に与る者は、キリストと共に死に、キリストと共に生きる。イエス・キリストのうちにこそ救いがあることを日々告白してこの時代を生きていこう。 賛美 福256水により洗われて 信仰告白 使徒信条 献金(福290感謝せよ、主に) 主の祈り 頌栄 福268父・子・聖霊に 祝祷 後奏
June 21, 2015
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11/30待降節第一主題 主の来臨の希望招詞 イザヤ40:4-5開会 讃美歌21 242 主を待ち望むアドヴェント(1節) 教会福音 62 主の民久しく Come, thou long-expected Jesus ZAWAMEKI 御前にひれ伏して MichtamI 79 尊き我が主詩編 25:1-14朗読 エレミヤ 33:14-16賛美 教会福音 159 見よ、主は雲に乗って Lo! He comes with clouds descending説教 主は我らの救い賛美 教会福音 163 光かかげよ Ermuntert euch, ihr Frommen献金 教会福音 289 聖なる主よ Santo, santo, santo閉会 教会福音 269 たたえよ、主の民 Praise God, from whom all blessings flow12/7待降節第二主題 旧約における神の言葉招詞 イザヤ40:4-5開会 讃美歌21 242 主を待ち望むアドヴェント(1~2節) 教会福音 63 ひとつのバラが花を開く Es ist ein Ros entsprungen MichtamI 59 主イェスを求めることこそ LP楽譜集 主を待ち望む者は詩編 19:8~11朗読 イザヤ書55:1~11賛美 教会福音 178 人となりたる O Word of God incarnate説教 神の言葉は成し遂げる賛美 教会福音 351 主の言葉の光のうち When we walk with the Lord献金 教会福音 289 聖なる主よ Santo, santo, santo聖餐 教会福音 259 共にパンを分け合おう Let us break the bread together閉会 教会福音 270 世をこぞりて ST. THOMAS12/14待降節第三主題 先駆者招詞 イザヤ40:4-5開会 讃美歌21 242 主を待ち望むアドヴェント(1~3節) 教会福音 66 朝日は昇りて 新撰讃美歌 教会福音 90 天なる神には It came upon the midnight clear詩編 85:2~14朗読 ゼファニヤ書3:14~18賛美 教会福音 101 私のため栄え捨て Thou didst leave Thy throne説教 預言を軽んじてはならない賛美 教会福音 304 恵みのひびきの Amazing grace, how sweet the sound献金 教会福音 289 聖なる主よ Santo, santo, santo閉会 教会福音 272 三つにまして一つの神 To the Trinity12/21待降節第四&降誕日主題 待降節第四:告知、降誕日:キリストの降誕招詞 テトス2:11開会 讃美歌21 242 主を待ち望むアドヴェント(1~4節) 教会福音 69 いま来たりませ(1~5節) Nun komm, der Heiden Heiland 教会福音 65 我が魂主をあがめて ルカ1:46-55by蔦田直毅 (cf.讃21-175)詩編 89:20~30朗読 ミカ書5:1~3賛美 教会福音 87 あら野のはてに 説教 救い主は小さき者から賛美 教会福音 85 宝も栄誉も追い求めず En etsi valtaa, loistoa(讃21-271と同曲、別詞)献金 教会福音 362 互いに愛し合い Let there be love shared among us聖餐 教会福音 93 きよしこの夜閉会 教会福音 69 いま来たりませ(6節)12/28降誕節第一主題 東方の学者たち招詞 テトス2:11開会 教会福音 95 彼方の国から We three kings of orient are LP楽譜集 107 イエスはみことば賛美 LP楽譜集 12 目をあけて(別の訳と節回し)詩編 21:2~8朗読 イザヤ書61:1~11賛美 教会福音 92 人みな喜び歌い祝え God rest you merry, gentlemen説教 国と民族を超える福音賛美 教会福音 83 マリヤに抱かれ What child is thist GREENSLEEVES献金 教会福音 362 互いに愛し合い Let there be love shared among us閉会 教会福音 277 グロリア、グロリア、グロリア (讃21-26)クリスマスイブの礼拝は別です。
November 27, 2014
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県民の1/3に避難指示が出された今回の台風。 教会には被害はなかった。 が、家には軽度の被害あり。 朝、ゴミ出しをして玄関前を見ると2枚の板が置いてある。家の部材が剥がれ落ちたのを近所の人が拾ってくれたようだ。 どこの板が剥がれたのか眺めると、2階の雨戸の戸袋の板が一部なくなっている。 どうやって補修したらいいのかと、その場所へ行って戸袋を外から見ると、板をはめ込んであるだけ!下を何か(にかわ?)で固定してあるらしい。 とりあえず落ちた2枚(落下した衝撃で割れて2枚になったようだ)を木工用ボンドで接着した。
August 11, 2014
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今日の礼拝は主題が「悪霊追放」、聖書日課は旧約:サムエル上16:14-23、使徒書:使徒16:16-24、福音:マルコ5:1-20でした。前の教会では全て朗読し、なるべく全てのテキストに関連するように説教を組み立てていましたが、鈴鹿教会は1ヶ所のみの朗読なので、使徒16:16-24を選び、「悪霊もイエスに従う」という説教題にしました。選曲は教会福音讃美歌と讃美歌21は私が選曲しましたが、ワーシップは週報作成と奏楽を担当してくださっている長老さんが提案してくださった2曲をそのまま採用しました。この2曲が説教の内容といちばんマッチしていたと思います。というようなことも説教の中で触れておきました。(1)「聖なる聖なる聖なるかな」 Reginald Heber/John Bacchus Dykes言うまでもない定番的な歌ですが、教会福音讃美歌の訳で歌いました。2行目は「われらの賛美を受けたまえ」と続きます。讃美歌21では「聖なる聖なる聖なる主よ、夜ごと、朝ごとにほめたたえん」です。(2)「グローリー ハレルヤ イエス 勝利」 わたしは初めての歌。出所は知りません。「イエスの御名は自由…解放…勝利…悪魔の力 破る」先ほどyoutubeで検索したらいくつか動画が見つかりました。事前に見ておけばよかったと思う反面、それほどのこともないかとも…。もっとも録音状態のよいと思われたyoutube動画(静止画)を挙げておきます。2分半過ぎからの曲です。https://www.youtube.com/watch?v=kV3OSYrbBbU(八戸ノ里キリスト教会)(3)「イエスわがすべて」 ミクタム1-18「喜び、平安、愛、イエスの名前にあり」イエスの名前の力を歌っています。(4)説教前「イエスは委ねられる」 Jeffery Rowthorn/Cyril V. Taylor「イエスは委ねられる 伝道のみ業 『神のことば伝え、病をいやせ』…」伝道する教会に聖霊を求める歌です。(*)説教 プロジェクタの画面6枚分。a.聖霊が働く時、悪霊も働くb.霊を見分ける必要c.祈りの場(礼拝)に向かう時に起こった事件d.正しいことを言いながら私たちを神から引き離す悪霊e.悪霊を利用して儲けようとする者(も悪霊に憑かれている)f.常に聖霊に従い、祈りと賛美を!(5)説教後「すべての人よ、主をたたえよ」テゼ共同体/Jacques Berthierたぶん、テゼの歌は鈴鹿教会では初めてではないかと思います。https://www.youtube.com/watch?v=e7v3baLOVQ8(6)献金「目を上げよ、王の王に」ミクタム1-70「王の王のみ前に拝し、歌え」(7)頌栄「父・子・聖霊のひとりの主よ、栄えと力はただ主にあれ、とこしえまで」曲:Thomas Hastings
June 29, 2014
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例年はイースターに行っている墓前礼拝、今年は教会総会と重なったため、ペンテコステの今日行われました。 教会から車で30分ほど離れた四日市市の泊霊園にある教会の墓地です。近くには教団の四日市教会や、美濃ミッションの墓地もあります。 前奏 招詞 ローマの信徒への手紙8:11 賛美 「讃美歌21」385 花彩る春を 祈り 司式者 主よ、永遠の平安を彼に与え 会衆 絶えざるみ光をもって照らしてください 司式者 全能の神よ、みもとに召された愛する…終わりの日の復活と永遠の命とを主イエス・キリストの死と復活によって堅く待ち望みます。アーメン 納骨 祈り 司式者 主よ、憐れみをお与えください 会衆 キリストよ、憐れみをお与えください 司式者 主よ、憐れみをお与えください 一同 (主の祈り) 聖書 テサロニケの信徒への手紙一4:13~18 説教 賛美 「讃美歌21」379 この世にあかし立てて 祝祷
June 8, 2014
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ローマ8:35-39 死は地上における私たちの交わりを壊し、終わらせるものです。「こんばんは」という決まり切った挨拶さえ交すことができなくなります。 昨年10月、Fさんが大動脈瘤破裂で倒れた後の日曜日に私は初めてこの教会に来ました。Yさんがお母様の様子を報告し、滝口牧師がお祈りしたことをはっきりと覚えています。それから半年、ご家族や多くの人の祈りと医師をはじめ病院のスタッフの働きによっていく度かのピンチを乗り越えて来ましたが、Fさんのために新しく用意したお部屋に迎えたいという願いは叶えられずに、15日午前0:35ごろ息を引き取られました。 ご家族や教会の人々の祈りは無駄だったのでしょうか?そうではありません。聖書には死んだ人が生き返ったという話が幾つかあります。けれどもそうやって生き返った人たちは皆、歳を取ったら結局亡くなっていったのです。ただイエス・キリストだけが死んで三日目に甦り、天に昇って行きました。他の生き返った人たちは、このイエス・キリストを指し示す役割を果たしています。 Fさんはこれで死んでもおかしくないというピンチを何度か乗り越えてこられました。私たちはそこに生きて働いておられる神さま、私たちの祈りを聞いてくださる神さまの力を見せていただきました。聖書の中に出てくる生き返った人びとと同じような役割を冨美子さんも果たしてきました。 今、Fさんは生きている者の世界から死んだ者の世界へと移されましたが、それは命の一面です。私たちはキリストの復活によって永遠の命をいただいています。Fさんの遺体に向かって「こんばんは」と声をかけても返事は返って来ませんが、今、私たちの霊がFさんの生涯を覚えて神を賛美している時に、Fさんの霊もまた神を賛美しています。私たちは冨美子さんと共にこの場で神をたたえています。 私たちは日曜ごとに教会に来て、一緒に礼拝をささげますが、それは肉体をもって足を運んでくる人たちだけでなく、地上の生涯をを終えた人々や天使たちと共になされる礼拝です。この交わりはやがて天国で新しい体を与えられ、完成しますが、それまで絶えることなく続く霊的な交わりです。ですから私たちも天のみ国で新しい体をもって再会する日までFさんを忘れることなく、覚えて共に神さまを賛美しましょう。
April 16, 2014
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2014年4月13日(棕櫚の主日)前奏招詞 詩編51:19賛美 輝け主の栄光/主イエスの血潮/主イエスの十字架の血で祈祷詩編 交読24:1~10聖書 マルコによる福音書14:32~42牧会祈祷賛美 讃美歌138 ああ主は誰がため説教 「春眠暁を覚えず」といいます。私はかつて片道40数kmの距離を車で通勤していました。この季節、帰りは途中で眠くなり喫茶店で一休みしていました。今は半年牧師の職を離れていたこともあって、毎日家に帰ると早く寝てしまいます。この原稿も金曜日に「原稿お願いします」と言われて机に向かったものの睡魔に勝てず、土曜の朝書きました。 主の弟子たちがなぜ眠かったのか、聖書は述べていません。今の季節はイスラエルでも同じように眠いのでしょうか。それもあるかもしれませんが、むしろ主イエスと弟子たちの霊的ギャップが眠気を催させたように思われます。イエスさまの苦しみが弟子たちにはじゅうぶんに伝わっていません。いや、相当程度伝わっていたはずですが、妨げるものがあった。サタンの働きです。主と共に歩むことから私たちを引き離そうとする力です。弟子たちはこれに打ち勝てませんでした。 「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(ローマ7:22-23)とパウロは述べています。そのような私たちを主イエスは励まし続けておられます。が、ペトロたちはその励ましにも応えることができませんでした。結局彼らは3度も寝てしまったのです。その弟子たちに主は言われます。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい…立て、行こう…」。 パウロは言います。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ローマ7:25)心は燃えても弱い体しか持っていない私たちを伴ってくださる主に感謝します。使徒信条賛美 讃美歌137 かちうたうたいて献金 (賛美 鹿が谷川を慕うように)派遣 聖徒の足音よ祝祷後奏
April 13, 2014
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総督ピラトの裁判 11節 総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。 26章64節と同じように「あなたは」「言う」の2語。ただ27:11は現在形。イエスはこの後何も答えない。総督がローマ人だからだろうか? バラバ・イエス 口語訳と新改訳では「バラバ」である。 新共同訳とフランシスコ会はバラバ:イエス、これは翻訳の底本が変わったから。これによって、同じイエスを釈放するがどっちのイエスか?ということになる。 ピラトについての記述はキリスト教がローマに敵対するものではないという弁証の意図が働いているように私は感じる。使徒言行録などでも同様に感じる。 25節 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」 もローマの責任を回避している。 それにもかかわらず教会では毎週「大祭司カイアファのもとに苦しみを受け」ではなく、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とピラトの名が登場する。正義を貫いて無罪の者を無罪としなかったからである。やはり責任は免れ得なかったのである。 人を裁くことの重さを感じる。
April 10, 2014
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聖書 ローマ5:1-11説教 「十字架の勝利」神の栄光に与る希望を私たちは持っている。これは誇りだ。この希望はどのようにして得られたか。イエス・キリストへの信仰→義認→神との平和→今の恵み→神の栄光に与る希望。苦難も誇りだ。苦難→忍耐→練達→希望。苦難も神の栄光に与る希望を生み出す。希望の確証としての神の愛 希望はこの世に生きている間、私たちが頑張る力を得るための幻想だろうか?そうではない。確かな保証がある。聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれている。 誰のためなら身代わりになって命を捨てることができるだろうか?正しい人のためになら身代わりになろうという人はまずいない。恩人のために身代わりになる人はあるかもしれない。しかしキリストはキリストに逆らい信じないわたしのために死んでくださった。わたしの罪の身代わりとなってご自分の血をもって神にとりなしてくださった。そうしてわたしの罪は神さまに赦していただくことができた。ここに神の愛がある。神との和解 キリストが身代わりとなって死んでくださったことによって、私たちと神との関係は正しいものとなった。これを聖書の言葉では義という。これは、わたしたちが自分勝手に生きるのではなく、神さまの御心をたずねつつ御心に従って生きるということだ。もちろんそう願いつつもできないことだってあるだろう。だがそれは以前の神に背を向けて平気で生きているような姿勢ではない。神の赦しの信仰の中で悔い改めていくものである。 まだ神に敵対している時に、イエス・キリストが身代わりとなってわたしたちが神に赦されたのであるから、キリストを信じて神に従う生活をしている今は、確かに救いを得た者として神とも人とも和解のうちを歩もう。
April 6, 2014
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今日から、日本キリスト教団鈴鹿教会の牧師に着任しました。7ヶ月、様々な教会の礼拝を体験させていただきました。貴重な経験として、今後の牧会・伝道に生かしていければと思います。出席させていただいた教会(いくつかの教会では説教を担当)に感謝します。2013年9月1日 美濃ミッション富田浜聖書教会2013年9月8日 インマヌエル四日市教会2013年9月15日 日本キリスト教団四日市教会(?)2013年9月22日 日本長老教会北四日市教会2013年9月29日 日本キリスト教団四日市教会2013年10月6日 日本キリスト教団名古屋東教会2013年10月13日 聖公会四日市聖アンデレ教会2013年10月20日 日本キリスト教団鈴鹿教会(説教担当)2013年10月27日 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド四日市神召教会2013年11月3日 インマヌエル四日市教会2013年11月10日 日本キリスト教団四日市教会2013年11月17日 カトリック四日市教会2013年11月24日 アライアンス名古屋教会(説教担当)2013年12月1日 日本長老教会四日市キリスト教会2013年12月8日 近畿福音ルーテル四日市教会2013年12月15日 日本バプテスト連盟四日市教会2013年12月22日 日本キリスト教団知立伝道所(説教担当)2013年12月24日 キリスト改革派四日市教会2013年12月25日 日本ハリストス正教会名古屋教会 2013年12月29日 日本キリスト教団知立伝道所(説教担当)2014年1月1日 インマヌエル四日市教会2014年1月5日 日本キリスト教団城之橋教会(共同司式)2014年1月6日 日本ハリストス正教会名古屋教会2014年1月12日 日本ホーリネス教団蒲郡教会(説教担当)2014年1月19日 日本キリスト教団知立伝道所(説教担当)2014年1月26日 ネクストタウンズ鈴鹿キリスト福音教会2014年2月2日 近畿福音ルーテル鈴鹿教会2014年2月9日 カトリック鈴鹿教会2014年2月16日 ネクストタウンズ鈴鹿キリスト福音教会2014年2月23日 日本キリスト教団知立伝道所(説教担当)2014年3月2日 日本長老教会鈴鹿キリスト教会2014年3月9日 日本キリスト教団甲府教会2014年3月16日 日本キリスト教団知立伝道所(説教担当)2014年3月23日 日本キリスト教団南遠教会・相良教会2014年3月30日 日本キリスト教団鈴鹿教会(説教担当)今気がついたことは、単立の教会には一つも行ってなかった。
April 1, 2014
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140330四旬節第4主日 主題:主の変容2コリント4:1-61 こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。2 かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。3 わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。4 この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。5 わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。6 「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。 もう一箇所お読みいたします。 マルコ9:2-102 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。 このマルコ福音書の箇所には二つの意味があると思う。その1は「これはわたしの愛する子」という言葉。マルコ1章にも出てくる。1章ではヨハネから洗礼を受け水から上がったあと、聖霊が鳩のように降った時に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。この後イエスさまは伝道の生涯に入られます。9章の方は高い山の上にいたら雲が彼らを覆い「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声が聞こえた。雲は神さまの臨在を表します。この時から十字架と復活による救いの成就へと歩んで行かれます。そのことは、「人の子が死者の中から復活するまでは…」といった言葉からも見て取ることができる。 第2の意味は、十字架に死んで復活したイエスさまの栄光の御姿を、弟子たちが予め垣間見ることが許された。これは「垣間見た」という程度だった。エリヤとモーセは旧約を代表する人物だ。その二人が現れてイエスさまと親しく語り合っている。しかも、イエスさまのお姿は真っ白に輝いている。モーセが神の山ホレブに登り十戒の板をいただいて山を降りてくると「イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた」。エリヤもまた天から火を呼び降し神の栄光を顕した人物です。この旧約の代表者を前にしてイエスさまが輝いている。弟子たちは呆気にとられたというしかなかった。この時はこの出来事が何を意味するのか理解できなかった。 私たちは出会った出来事の一つ一つ、すべてその場で意味がわかるわけではない。ずっと後になって、あああの時の出来事はこういうことだったのかと納得できることがある。ペトロはこの時は何が何だかわからず「小屋を三つ建てましょう」などとトンチンカンなことを言っている。しかし後に第2の手紙の中で「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。」(2ペトロ1:16-19)と述べている。彼は闇の時代をキリストの光によって生きていくべきことと、キリストがやがて来られることをこの時の体験から後に理解した。 パウロはペトロと違って、この世で生きておられたイエスさまと出会っていない。しかし、この出来事はパウロにも伝えられていただろう。パウロはホレブから光り輝いてきたモーセが、人びとと会うときには顔に覆いを掛けていたことを念頭に置いて、「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」という。 私たちはこの世の神に目をくらまされ、キリストの光を見失ってはいないだろうか?キリストに従うことよりも大切な何かを隠し持ってはいないだろうか?そのようなものがあるなら、悔い改めて立ち帰ろう。 神の前に出るとき、私たちは土の器だ。人は土の塵から取られて作られた。やがて再び土に帰るものだ。もろく壊れやすい。しかし、神は土の器にすばらしい宝を入れてくださったとパウロは言う。「わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」少しややこしい言い回しかもしれない。4節では「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」という言葉もある。キリストは神の似姿である。だから神の栄光がキリストにはある。実は人間は神によって神の姿に似せて作られたはずだが、私たちには罪があり、罪によって私たちは暗くなってしまっている。神の栄光を持つイエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架に死んでくださったことによって、私たちの罪とその暗さはイエス・キリストに転嫁され、十字架の上で処分された。代わって私たちに与えられたのはキリストの栄光の福音、言い換えるなら、キリストが持っておられた栄光の光が私たちに与えられた。私たちがキリストを信じるとき、信じて自分を全くキリストに委ねきってしまうとき、私たちの暗さはキリストのうちに取り去られ、キリストの顔の輝きが私たちの顔に顕れる。そういう生き方は「わたしたちは落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。」そのような生き方をしましょう。神はそうしてくださる。 祈りましょう。天におられる父なる神さま、あなたは土の器である私たちに、イエス・キリストの御顔に輝く栄光を見せてくださり、私たちもまたその栄光のうちに生きることができるようにしてくださいます。どうか私たち鈴鹿教会に集う一人一人がそのような歩みをすることができるようにしてください。み言葉を曲げず、正直に、愛をもって隣人と共に生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。
March 30, 2014
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2014年2月5日 金城学院高校全校礼拝 詩編24:1~6 【ダビデの詩。賛歌。】地とそこに満ちるもの世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き潮の流れの上に世界を築かれた。どのような人が、主の山に上り聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく欺くものによって誓うことをしない人。主はそのような人を祝福し救いの神は恵みをお与えになる。それは主を求める人ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。 讃美歌21 361番 1.This is my Father's world, and to my listening ears all nature sings, and round me rings the music of the spheres. This is my Father's world: I rest me in the thought of rocks and trees, of skies and seas; his hand the wonders wrought. ここは私の父の世界耳をすませば自然は皆歌い、私の周りで奏でる天空の音楽をここは私の父の世界私は黙想のうちに憩う岩も木も 空も海も彼の手がすばらしいものを作り出した、と。 2.This is my Father's world, the birds their carols raise, the morning light, the lily white, declare their maker's praise. This is my Father's world: he shines in all that's fair; in the rustling grass I hear him pass; he speaks to me everywhere. ここは私の父の世界鳥たちはキャロルを高らかに歌い朝の光も 白いユリも造り主を賛美している。ここは私の父の世界美しいものすべての内に主は輝いている私は草の音の中に主が通られるのを聞く主はどこででも私に語りかけてくださる。 3.This is my Father's world. O let me ne'er forget that though the wrong seems oft so strong, God is the ruler yet. This is my Father's world: why should my heart be sad? The Lord is King; let the heavens ring! God reigns; let the earth be glad! ここは私の父の世界私が忘れることのないように悪が強く見えるときにも神はそれを治めておられることを。ここは私の父の世界なぜ私の心が悲しむことがあろうか?主は王、諸天は告げよ神が支配する、地は喜べ 讃美歌21の361番「この世はみな」は、1901年にニューヨークの教会のモルトビー・ダベンポート・バブコック牧師が作った詞です。1901年はランドルフ先生が名古屋に来て学校を作って⒓年、エラ・ヒューストン先生の時代です。バブコック牧師は神学校を卒業して、オンタリオ湖に近いニューヨーク州のロックポートという町の教会に遣わされました。 イエスさまはしばしば町を離れて人気のない山に退いて祈られましたが、バブコック牧師もよく町から少し離れた断崖絶壁の山(たぶん鳥や花など豊かな自然に恵まれている)に登りました。彼はその山をこの世からの避難所として、悩みがあるとき、仕事がうまくいかないときには、この山で祈り、神さまと交わりました。 この賛美歌の出だしは英語を見ると This is my Father's World 「ここは私のお父さんの世界」 とあります。それほどに彼は神さまと親しく交わり祈りました。 この歌は一見すると美しい自然を歌い、創造者なる神さまをたたえる歌に見えますが、それだけではありません。3節を見ると「悪魔の力が世に満ちても」とあります。神さまの世界を壊そうとして悪の力が働いています。美しい自然を破壊する力であり、人と人との間柄を引き裂き、敵対意識や憎しみを持たせる力であります。 けれども、そのような力が働いているときでさえ、この世界の真実の支配者は神さまです。3節前半を英語の歌詞から訳すと ここは私の父の世界 悪が強く見えるときにも 神さまが支配していてくださることを 私が忘れることのないように 皆さんも勉強のこと、部活での問題、家族との関係、友達との関係…、様々なピンチに遭うかもしれません。その時にはこの歌を思い出してください。心から神さまを求めるとき、私たちは神さまのみ心に適う人間にされています。
February 5, 2014
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8月末日で尾陽教会の牧師を辞してから3ヶ月が経った。8月31日に9月1日の礼拝のために週報を印刷したのが最後の仕事。教会での礼拝と牧会を司らなくていいこの期間は貴重な学びの期間でもある。なるべく多くの教会の礼拝を訪ね、この地域(四日市周辺)でどのような教会がどのような活動を行っているかを知り、牧師たちと知り合うことを目指している。9月1日は最も近い美濃ミッション富田浜教会の礼拝に参加した。説教をなさった牧師は、TEFの地震委員会でもご一緒したし、この教会の信徒が尾陽教会に転会してきたこともあって、以前からの知り合いではあったが、文語訳聖書とリバイバル聖歌を用いていることは知らなかった。適切な朗読がなされれば文語訳も案外すっと入って来るものだと感じた。以後、行った教会は、教団の四日市教会(3回)と、名古屋東教会、鈴鹿教会(説教)、インマヌエル四日市教会(2回)、アッセンブリー四日市神召教会(コミュニティーチャーチ)、聖公会四日市聖アンデレ教会、カトリック四日市教会、アライアンス名古屋教会(説教)、日本長老教会北四日市教会、そして今日は同四日市教会。それぞれの教会に特徴がある。カトリックや聖公会のような聖書日課に基づいて朗読と説教がなされているのは教団のいくつかの教会だった。説教にパワーポイントを使っていたのは、長老教会の四日市とアッセンブリー。私は新共同訳と讃美歌21を用いてきたが、この組み合わせは教団の教会以外ではアライアンスが同じだった。また、ワーシップソングを多用するのはこれまで私が行った教会ではアッセンブリーだけだった。プロテスタントでは1954年版の「讃美歌」を使う教会が多い。「教会福音讃美歌」はインマヌエルだけだった。「讃美歌」の歌い方は多くの教会で、私が歌ってきたのよりも遅く歌っていた。このような外形以外に実は大事な点があるのだが、今はまだ文字にしない。来年度からの牧会活動に備えて、なるべく吸収できるものは吸収したいと思う。
December 1, 2013
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昨日は車を運転しなかった。9月前半に東京へ行った時以来だ。関西線で阿漕(津の次の駅)へ行くのに富田駅でICカードをタッチして入場した。津で乗換時に不安になって、運転手に阿漕ではICカードが使えるか聞いたら、カードは四日市までだという。入場記録を取り消すための書類を書いてくれた。
November 17, 2013
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M.ヘンゲル「キリスト教聖書としての七十人訳聖書」を読んだ。注をほとんどとばしたので、もう一度じっくり読む必要があるが、末尾のH.ゲーゼの引用は以前から感じていたことそのものだった。その末尾のH.ゲーゼの引用「人文主義の宗教改革に対する影響の中で致命的であったのは、パリサイ派による正典削減と、「人文主義的」源泉復古として持ち出されたマソラ本文伝承とが、互いに混同され、外典が除外されたことであると、私は考える…。新約聖書は旧約聖書の伝承形成を終わらせ、解決したのであり、それによって聖書伝承形成はすべて完結し、こうして初めて深い意味において正典となるのである。」
November 9, 2013
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今日の聖化大会、午後は私が司会に当たっている。集会で歌う賛美歌は聖会専用の歌集2冊の中から選んでいるが、歌集1は私が名古屋に来る前に作られたものだと思う。主に「聖歌」と「インマヌエル讃美歌」から選ばれている。歌集2は2006年の秋に作ったもので、内山勝先生と私が中心となって編集し、主に「讃美歌21」と「ひむなる」から採っている。午後の集会のために私が選んだのは「聖霊の神、きよき愛よ」(讃美歌21 344)「あめなる喜び」(讃美歌21 475)「光の子になるため」(讃美歌21 509) 3曲ともUnited Methodist HymnBookにあるものを選んだ。夜の司会は内山勝先生で「御前につどい」(ひむなる 15)「あなたをたたえ」(ひむなる 31)「主のようになること」(ひむなる 146)要するに二人とも自分が選んで歌集に収めた曲から今日の歌を選んだのわけだ。でも、主題には合っていると思う。ちなみに、私は今日の説教題と聖書箇所を知らされる前に選曲して奏楽者に伝えていた。
October 24, 2013
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今日、東海聖化大会が行われます。午後2:30 聖会1 アラン・カページ先生『バルナバ~聖霊に満たされた弟子メーカー』 信徒集会 松浦みち子先生『土の器に宿るすばらしいお方』午後7:00 聖会2 アラン・カページ先生『クリスチャン経験の4段階』午後の集会は私が司会を担当します。お祈り下さい。
October 24, 2013
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愛知神学会という名前で、近隣の牧師有志の読書会をしています。現在読んでいる本は 近藤勝彦著「キリスト教倫理学」ずっと組織神学系統の本を読んでいます。かつては「教会問題研究会若手組」でした。老人組(というと怒られそう)もあったのです。ところが若手がいつしか中堅となり、教団・教区の要職を担うようになりました。それに伴って勉強会への出席も困難になり、閑散とした会が続くようになりました。もう無理だろう、そう思って昨年度後半、最終回の呼びかけをしました。すると多くのメンバーが集まってくださり、「もっと呼びかけよう」「開催日を固定しよう」などの提案がありました。今年度に入って3回目の今月、夏期伝道中の神学生も加わって13名。久々の盛会でした。
August 11, 2013
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母が名古屋に来てからもうすぐ17年になります。檜原にあった家は母屋は取り壊しました。借地の100坪はお返しし、地主さんの親戚の方が家を建てました。うちの土地のうち40坪ばかりはある方に売り、家が建ちました。60坪ほどがうちの土地として残っており、プレハブが1棟あります。かなり多くの布団がなぜか処分されずにプレハブに保管されていました。母が元気な時は、父の墓地のこともあり、年に数回、行って泊まっていましたが、80過ぎてからは行くこともなくなり、私が年に数回プレハブには泊まらずです。今回は、5月2日の午前3時頃家を出て、新東名の浜松SAで仮眠、御殿場から138号線、東富士五湖道路、中央高速河口湖線を経由し、上野原から甲武トンネルで檜原村上川乗へ抜ける道を使いました。持っていったものは、ハサミ、カッター、ゴミ袋45リットル用30枚、ほうき、ちりとり、バケツ、雑巾10枚、除草用バーナーとガスボンベ。着いてまずやることは、パイプ椅子を外に出し、そこに布団を掛けます。布団は湿気を吸って、かつカビ臭い。そしてカーペットを切り取ります。小さくカットしてゴミ袋に入れます。カーペットの下にカビが黄色の粉末状になってたまっています。(12畳の部屋ですが、長いカーペット2枚で部屋全体に敷き詰めてあります。)前回、ある程度カーペットをめくって床を拭いておきました。今回は全体の3/5を切り取り、床の化粧合板の表面を拭きました。電気、ガス(は都市ガスではないので関係ない)、水道すべて停めてあるので、水は川から汲んできます。床の合板がかなりもろくなっており、歩くとベリッ、ベリッと音を立て、所によってはかなり沈みます。剥がして別の板を入れる必要があるかもしれません。とりあえず荷重が一点に集中しないように、ソファーベッドの下には長さ1.8m幅10cmほどのの板を数枚、また布団が置いてあった部分にはすのこを置くことにします。4時頃まで掃除をして、布団をとりあえず中に入れて1日目は終了。途中でホームセンターによって板4枚、すのこ2枚を買って宿へ。宿泊は羽村のビジネスホテル。ビジネスホテルはどうやら羽村が一番近いようです。観光旅館や民宿は檜原村や五日市にもあるけど、使い勝手はやはりビジネスホテルがいちばんいい。予約したところは別棟の大浴場があるので気に入ってます。実は前回も同じ所に泊まりました。2日目は8時頃に出発。途中、大岳がよく見えたので車を駐めて撮影。左から馬頭刈山(884m)と高明山(798m)、中央が大岳(1267m)、右へ行って御岳山の奥の院(1073m)、麻生山(794m)9時半頃から作業、まず布団を外に出します。再び床を雑巾で拭きます。この大量の布団は、幼児園の園児のお昼寝用、聖会や都内の教会学校のキャンプなどで使われた物がそのまま残っていたものです。ソファーベッドの位置を戻し、その下に板を入れ、床の危ない部分にすのこを置きます。比較的軽量な物をすのこの上に移しました。今回持ち帰って廃棄する布団、ここに泊まる必要がある時に使う布団、今回は持ち帰れないけど次回以降持ち帰って廃棄する布団に分けました。状態の悪いのをまず持ち帰って廃棄します。状態のいいのを宿泊用にします。それ以外は床の丈夫な部分に積み上げます。12時半頃出発、これだけ布団を積んで、なお遊びながら帰ろうという…。奥多摩周遊道路を走ります。ゴールデンウイークですから、バイクがたくさん!そして白バイやパトカーも。駐車場ではアマチュア無線家が移動運用。この写真の駐車場ではお二人が、他の駐車場にも一人いました。いちばん景色のいい駐車場は奥多摩側にだいぶ下がったところですが、ここです。石尾根の展望がバッチリ。下には奥多摩湖も見えます。駐車場でたこ焼きと磯辺焼きを売っているおじさんがいました。どちらも300円。そして缶ジュースやお茶を付けると400円。これはかなり安い。おじさんの息子が4月から岡崎に転勤になったということなので、八丁味噌が名物だと教えてあげました。奥多摩湖からは国道139号で小菅村を通り松姫峠を越えて大月へ向かいます。武田信玄の娘、松姫が織田信長の軍勢から逃れるのにここを通ったのが名前の由来だとのこと。とても急峻な地形で、徒歩での逃避行はさぞ大変だったことでしょう。バス停があります。運行は休日のみ、冬期は運休。午前中に松姫峠行きが一本、って、つまり到着時刻かな?午後は1時台に小菅の湯行きが一本。3時台と4時台に上野原駅行きが一本ずつ。でもよく見ると上野原駅行きは小菅の湯発だ。だから松姫峠から出るのは一本だけ。小菅の湯へ行って一風呂浴びて上野原へ向かう、という設定でしょう。大月からは河口湖線、東富士五湖道路をへて御殿場から新東名を経由し、伊勢湾岸道で帰りました。一部渋滞しているところもありましたが、概ね順調に帰ることができました。プレハブの近くにわらびが生えている場所があります。ことしも数本ありました(あらかたもう採られています)。今日のお昼の山菜そばになりました。
May 4, 2013
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今週は非常勤で行ってる二つの高校の学年末試験が行われています。男子校は昨日が聖書の試験、そして今日は出講日なので、試験監督。「世界史」と「情報」の監督をしましたが、教室へ行くと、「先生、聖書、メチャ難しかったですよ」という声。中には90点以上取れると豪語する強者もいたけど、たしかに難しい問題だったかもしれません。アモス、ホセア、イザヤ、第二イザヤの預言の特徴は、教科書にも、別に配布したプリントにも載っているし、私が風邪で授業を休んだ時に自習課題として出したプリントをそのまま試験問題にしたのですが…。女子校の方は金曜の2限が聖書の試験、そして私は3限に試験監督が入っています。試験の後は聖書科の教科会、その後近くの教会を会場にギリシャ語の原典講読とキリスト教倫理学の読書会をします。全然関係ないけど、2月後半から今日までに撮った写真の中から鳥の写真と花の写真をクラウドで公開しました。楽天写真館
March 6, 2013
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2月25日(月)、福音センター(インマヌエル名古屋教会)で東海聖化交友会の総会が行われました。開会礼拝は松浦剛会長(日本イエス名古屋教会)のメッセージ。議事は2012年度活動報告、会計報告、2013年度の活動計画、会計予算そして今年は役員の選出が行われました。役員の選出は選挙ではなく、予め各教団が決めたメンバーによって構成されます。例外は私で、私は教会単位の加入ではなく個人加入であり、また私の教団からは他に参加している教会もないので、本来は役員になる資格はありません。規約に必要があれば個人会員からも役員を選ぶことができるという規定があり、それによって役員に入れられています。今年は今まで役員をしてくださった方がお二人転任ということで、メンバーチェンジがありました。会長以下の役割分担は役員の互選です。全員の要請で引き続き松浦牧師が会長を務められることになりました。数年来空席になっていた副会長に長年書記を務めてこられた秋山牧師(中京聖泉キリスト教会)が選ばれました。書記には一麦教会の古田大展牧師が就くことになりました。私は今まで通り広報担当です。メンバーが替わったこともあるのでホームページの更新を行いました。東海聖化交友会 http://tokai.holy.jp/
February 27, 2013
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"Joy to the world, the Lord is come"、英語賛美家の父ともいわれる Isaac Watts の作品です。クリスマスが近づくと教会でなくてもあちこちで聴こえてくる有名な歌ですね。今日の礼拝の後の賛美家練習でまず CDで "Joy to the world, the Lord is come" (曲はANTIOCH) を聴きました。http://youtu.be/O5hj518Iugk「皆さん、この歌は世界でも有名なクリスマスソングですが、この歌を讃美歌(うちの教会では「讃美歌21」)で探せますか?」すると、たいていの人は『諸人こぞりて』を開きます。「もう一度かけますから、出だしの英語をよく聞いてください」♪Joy to the World …「Joy to the World!と歌っていましたね。『諸人こぞりて』の楽譜左上の英語を見てください。"Hark the glad sound! the Savior comes" 作者はPhilip Doddridgeと書いてあります。だから、讃美歌(21)に載っているのは Joy to the world ではありません。実は讃美歌には今聴いていただいた歌は載っていません。英語で歌われているのと日本の讃美歌の『諸人こぞりて』は同じ曲でも全く別の歌です。」そして英語の原歌詞と和訳(http://lyricdata.seesaa.net/article/26516434.html)を見ます。(ただし Lord は「神」ではなく「主」と訳すべき)そして、中田羽後訳の『民みな喜べ』を歌いました。さて、『諸人こぞりて』ですが、英国の歌集 The New English Hymnal から譜面(BRISTOL)を印刷、私の訳で対訳を作り、The New English Hymnal のCDで聴きました。同じ曲の動画はこれ http://youtu.be/VMAhB8Inymk後からわかったこと"Joy to the world, the Lord is come" が載っていない歌集が英国には少なくない。というかあまり載っていない。"Hark the glad sound! the Savior comes" 載っている歌集と載っていない歌集があり、英国ではBRISTOL、米国ではRICHMONDで歌われることが多いようです。米国聖公会の歌集には2曲併記してありました。日本の賛美歌集では「聖歌」「聖歌総合版」「インマヌエル讃美歌」という中田羽後編(総合版は和田編)に中田羽後訳のものが"Joy to the world, the Lord is come"『民みな喜べ』とANTIOCHの組合わせで載っていますが、他の歌集には一切載っていません。また中田以外の全ての歌集に「諸人こぞりて」がANTIOCHとの組み合わせで載っています。私の手持ちの海外の歌集と私が見た範囲のYouTube動画ではANTIOCHに"Joy to the world, the Lord is come"以外の歌詞を当てている例は見当たりません。聖歌系を除いて日本の歌集はこの曲に関しては世界的に例外的な国といえるでしょう。こうした事態が起こった理由は「讃美歌21略解」よればこうです。1903年(明治36年)の「讃美歌」にはANTIOCHの対して両方の歌詞が載っていたのですが、DoddridgeのHark...(諸人こぞりて)の方が曲にマッチしていたため、Wattsの Joy to the Worldは歌われなくなってしまったというのです。翻訳の出来具合でこうなってしまったのですね。しかし、その後 Joy to the World を訳し直そうという動きはないのでしょうか。また、Hark the glad soundは現在でもいくつかの曲で歌われているので、日本の歌集も別の曲を充ててもいいのではないでしょうか。現に1954年版までBEECHERを当ててきた「あめなるよろこび」は、21ではもう1曲HYFRYDOLも加えるということをしています。今年出版された「教会福音讃美歌」がWattsの名作を拾ってくれなかったことが、そしてANTIOCHに『諸人』をそのまま残してしまったのがちょっと残念でした。日本語だけで歌っている分には何も差し支えないのですが、外国の人と一緒に歌うチャンスがある教会ではどう対処しているのでしょう?
December 16, 2012
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今朝、神学校の同級生が「ブログに説教要旨を掲載した」と書き込んでいました。見ると、「旧約における神の言葉 20121209 イザヤ書59・12~20 説教要旨」とあります。私も教団の聖書日課を使っているので同じ個所です。すぐさま「ありがとうございます。さっそく使わせていただきます!」と書いて使ってしまいました。彼の説教の中心聖句は16節の「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業。」私は説教題が「恵みの鎧、救いを兜」、これは17節の「主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい/熱情を上着として身を包まれた。」から採っています。また、私は旧約・使徒書・福音書の3個所を読み、なるべく全てに言及することにしているので、彼の説教要旨をふくらませただけではダメですが、しっかり最初の部分に組み込ませてもらいました。こうしたことができるのは、同級生だからかなと思います。神学生時代に夏の実習で1ヶ月間地方の教会で毎週説教しましたが、その時に有名な説教者の説教集を持っていきました。その説教集と同じ個所を説教するのです。でも、結局その説教集は全く使えませんでした。その本に書かれている説教はとてもすばらしい説教なのですが、私が語る言葉にはならないのです。しかし同級生の説教は、私が語ってもおかしくない言葉なのです。時代のせいなのか、その当時の神学校の空気なのか、あるいは彼と私の共有している何ものなのか、そんなものがあるのだと思います。http://biyo-c.org
December 9, 2012
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今日は午前中熱田教会で愛知西地区ニュースの発送、それから大学へ行って礼拝に出席。今日の説教者は名古屋堀川伝道所の島しづ子牧師だった。聖書は詩編133篇、「共に座る恵み」。説教要旨は以下の通り。2人のユダヤ人画家の話。シャガールはユダヤ教徒なのになぜイエスを描くのか?彼の描くイエスはなぜ明るく晴れやかなのか?彼にとってイエスはユダヤ人として自分たちと同じ苦難を体験した者だった。ベン・シャーンはリトアニア出身のアメリカの画家。イタリア系移民のサッコとバンゼッティの冤罪事件や第五福竜丸の被爆などを描いている。なぜ彼はイタリア系移民や日本の漁民の苦難を描いたか?彼の妻によるとアメリカが行ったこれらの事件に彼は責任を感じていたという。ベン・シャーンの作品に白い鳩と黒い鳩が共にいる絵がある。その上には詩編133篇の1節がヘブライ語で書かれている。肌の色、宗教、生き方が違っても一緒に生きていこうと言っている。平和とは穏やかに暮らすことではない。考えの違う者が共にいるのだから葛藤しながら歩むことだ。イエスは苦しめられた人たちと並んでいる。チャペルの後は隣の白鳥庭園へ。平日だがかなり賑わっていた。お年寄りや障がい者施設の人たちはわかるのだが、若いカップルもいたりする。紅葉がきれいだった。
November 14, 2012
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まったく「にっき」と入れて変換すると「日基」と出るという偏ったボキャブラリーの辞書です。という話じゃなかった。先月末に一人の青年が失踪し、ずっと心配してきましたが、22日に遺体で見つかりました。マイミクだったすずめと似ているケースかもしれないと思いました。信仰があってもその信仰を発揮することができなくなってしまうほどの闇の力。本当におそろしいと感じました。前夜式では 詩編22篇葬送式では ヨハネ17章 からみ言葉に聴き、復活の信仰を与えられました。もう一人、高齢の方の懸案があります。来週、私が成年後見人(任意後見人)となるための手続きに入ります。家裁で法定後見人を選任してもらってよさそうな状態ですが…。
October 26, 2012
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日曜の夜になるとくだらないことばかり考えてる…9月4日に妻の整形外科を待っている間に山崎川で撮ったサギの写真をよく見たら、アオサギだった。左:山崎川でいちばんよく見かけるのはコサギだ。新瑞橋駅の近くで見るのはたいていコサギ。中:そして少し上流のラグビー場の横の橋のところにはゴイサギがいる。右:そして新瑞橋より少し下流、イオンの裏手あたりでアオサギに出会った。これでサギが3種類! と思ったのだが過去の写真をよくよく調べていくと新瑞橋駅付近でダイサギ(2枚目)も撮っていた。というわけで、新瑞橋付近でこれまでに4種類のサギを見ています。
September 16, 2012
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夏季休暇中で東京にいます。土曜は賛美歌学会の大会と総会に出席しました。月曜はウェスレー・メソジスト学会の大会と総会に出席します。9月に入っていますから、学校の授業は始まっています。みんな「それは休暇とは言わないよ」と言いますが、今日の礼拝は他の先生にお願いして、私はよその教会に一クリスチャンとして出席するので、今日に関して休暇です。さて、今日はどこの教会に行くか決めていませんでしたが、朝早くから片付けねばならない「仕事」をやっていたら10時になってしまったので、もう遠いところへは行けません。同じ教団のM教会へ行こうかと思って水道橋のホテルを出ましたが、教会に行く前に二つの銀行へ行って、記帳と出金と入金をしておこうと思いました。その銀行は二つとも神保町交差点にありました。銀行でちょっと手間取って銀行の用事が済んだ時点で10:29、M教会は遅刻だなぁと思った時に、GOSPEL HOUSEという文字が目に飛び込んできました。救世軍神田小隊でした。私の教会は元々救世軍熱田小隊だったわけで、救世軍の聖別会に出ておくのもよろしかろうと、中に入りました。ここは10:10からなのでもう始まっていて、男性が証をしていました。聞き覚えのある声、そしてだいぶ変わってはいるけど見覚えのある顔、大学の先輩でした。個人的にも教会的にも、ここに来たのは導きだったと感じました。食事の後は野戦(普通の教会では路傍伝道という)を小隊の前で行いました。トランペットなど金管4本で軍歌(賛美歌)を演奏し、小隊長(牧師)がメッセージを語りました。野戦が終わってホテルに帰ると、ホテルのすぐそばにカトリック教会がありました。とても古い建物で登録有形文化財です。見学時間が設定してあるので、入口にいた人に見学させて欲しいと申し出ると、「今日はプライベートなコンサートをやっているので歩き回ることはできないけどどうぞ」とのこと。「プライベートなコンサート」って何だろう? 演奏はオルガンと室内楽、そして歌手がソプラノとバリトン。曲目はバッハ、モーツァルトなどよく知られた曲でした。終わった時に主催者の挨拶がありました。お母さまの追悼演奏会とのこと。世間の言い方では一周忌の法要、プロテスタント教会なら記念会ですが、そこでコンサートを行うというのは音楽関係のご一家なのでしょうか?終わりまで聞いてホテルに戻ると、本日のホテルの団体客の看板が出ていました。「○○教会」が3つほど。その内の一つは「東京インドネシア教会」。ホテルの会議室を借りて礼拝を行っているようです。暑い外を歩かなくても礼拝に出席することができたのです。しかし神保町の銀行へ行ったから、尾陽教会のルーツと私の大学の先輩に出会えました。これも神の恵みでした。
September 9, 2012
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今朝、8時半ごろ教会にお出でになった方です。前 奏礼拝への招き 招きのみ言葉 詩編51:12~14 賛 美 2 聖なるみ神は 開会の祈り み 言 葉 賛 美 ファイル49 小さなかごに 旧約書 申命記6:17~25 詩 編 交読詩編29:1~11 使徒書 ローマの信徒への手紙10:5~16 賛 美 352 来たれ全能の主 福音書 ヨハネによる福音書3:1~15 説 教 「神の国の国民になるために」 石田聖実み言葉への応答 賛 美 414 せかいの友と 信仰告白 (使徒信条) とりなしの祈り p7~13 献 金・感謝の祈り 主の祈り派 遣 頌 栄 26 グロリア、グロリア、グロリア 祝 祷後 奏■説教「神の国の国民になるために」 ニコデモは最高法院の議員でした。年齢も重ねて皆から尊敬される人物でした。このニコデモがガリラヤからやって来た若者に教えを請うためにやって来ました。いかにニコデモがイエスさまを認めていたかがわかると思います。彼は自分がラビ達から学んできた聖書の教え、そして人生の経験をたくさん積み重ねてきましたが、まだ「これで私は人生のすべてを了解した」とは言えませんでした。さらに神と世界と人生の知恵を積み増すべく、若いラビ・イエスのところに来たのです。しかし、イエスの言葉は彼の想定を超えていました。「新たに生まれなければ…」彼が理解したのは「新しい考え方を身に付ける」ことでした。老人には無理だと思いました。 けれどもイエスは、「身に付ける」「積み上げる」のではないというのです。風がどこからどこへ行くのかわからなくてもタンポポの綿毛は風に乗って行き、落ちたところでやがて芽を出します。霊から生まれた者は人生の行き先を聖霊にお任せします。永遠の命(神の国の人生)というのはそのようなものです。 ニコデモはわかったような、わからないような思いを抱いてイエスさまの前から帰って行ったのではないかと思います。けれどもヨハネの福音書を読み進んでいくと、ニコデモは十字架から降ろされたイエスさまに香料を塗ってアリマタヤのヨセフと共に墓にお納めしました。伝承では彼はクリスチャンとなり殉教したとされています。 イエスさまは永遠の命をいただくために「すべて聖霊に委ねよ」と言われたのですが、パウロはもう少し具体的に私たちがすべきことを教えてくれます(パウロはやはり教師です)。(1)「イエスは主である」と公に言い表す。(2)「神はイエスを復活させた」と信じる。これだけで救われます。 この1と2は表裏一体です。1を言うけど2は信じないとか、2は信じるけど1は言えないという自称クリスチャンがいても、それは「救われたクリスチャン」ではありません。 心に信じて、口で告白して救われたならば、生活に信仰が表れます。私たちはどのように行動するのでしょうか。「主の目にかなう正しいこと」を行うのです。一つの事柄をとっても様々な観点があります。経済的、社会的、衛生的、軍事的…、私たちは聖書的観点によって物事を判断します。「どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように」
June 10, 2012
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5月7~8日、東北へ行ってきた。東海福音フェローシップ地震対策委員会のメンバーと共に、昨年TEFがボランティア活動をした場所を視察し、今後東海からどのような支援ができるかを探るためだ。2泊3日で初日は石巻(エマオ石巻も訪ねた)、2日目は南三陸と気仙沼、3日目は亘理。ただし私は日程の都合で2日目までで帰ってきた。この詳細はきちんとまとめなければならないが、今日はその中の一コマだけ。気仙沼第一聖書バプテスト教会を訪ねた。ただ、確実に訪ねることができるかどうかはわからなかったので、嶺岸牧師に「行きます」とは言わなかった。しかし嶺岸牧師は外国からのお客さんがあって、石巻・女川方面へ行くとの連絡をくださった。そこは前日私たちが行った地域だ。そういうわけで外から見ただけだが、去年のあの報道された瓦礫の散乱する中に流木をぶっ違えて立てた十字架の写真と見比べれば、すっかりきれいになったことがわかるだろう。しかしこの場合「きれいになった」とは全く再建がなされていないという意味でもある。教会はともかくプレハブの建物を建てた。しかし周囲の建物は全く再建の気配はない。建物跡地に草が生えている(植物は人間などよりもはるかに生活再建が早い!)。その中に純白のスミレがあった。こんなに白いスミレは見たことがなかった。聖書の言葉が思い出された。見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。」すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。(ヨハネの黙示録7:9-10, 13-14)
May 16, 2012
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今日は2回目のキリスト教概説でした。昨年度と今年度は同じ授業にしています。マルコによる福音書を読んでいきますが、その前にキリスト教と聖書の表面的な解説をしています。プレゼンテーションソフトで授業の流れを作り、諸教派の礼拝を映像で見てもらうように用意したのですが、ノートパソコンは持っていったもののデータを持って行くのを忘れてしまいました。幸い、プレゼンテーションソフトよりもう少し詳しいものをワープロで作って、学内のサーバーに入れておいたので、それをスクリーンに映しました。文章だけ、かつ文字が小さいので後ろの席の学生たちは見るのが大変だったと思います。次回からはプレゼン関係も学内のサーバーに置くようにしようと思います。学生のチャペルレポートを受け取るため、キリスト教センターに行くと、職員の配置換えがあったのか、新しい職員がいました。彼女は私を知っていると言います。名札を確認すると、教会に来た人ではなさそう。K高校→K大学ということなので、高校の卒業修養会か、あるいは大学のチャペルアワーで私の話を聞いたのだろうと思います。大学の近くの道端(植えたもの?)にあったツタバウンラン大学の近くの駐車場の脇に生えていたマツバウンラン
April 19, 2012
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教会は何をするところかがわかっていない!ということで、リック・ウォーレンの「健康な教会へのかぎ」を教会で学ぶことにして3年ぐらいになろうか。ちょうどそれに関連したセミナーが名古屋でも開催され、そのワークショップが、東海聖書神学塾で行われた。先月のセミナーSession4で学んだ「スモールグループ」に関して。河野先生がご自分の教会で使っているテキストを紹介してくださった。また、それぞれの教会の様子を分かち合った。有益ではあるが、自分の教会でこれを行うのにはどうしたらいいか、と思う。それにしても、ある先生の教会。「ほとんど伝道らしいことはしていない」というが、「買い物ついでに寄ってみました」というような人が次々と来るそうだ。帰りは神宮東公園まで歩いてバスで帰ってきた。神宮東公園での写真。
April 16, 2012
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イースターおめでとうございます!今日はイースター、イエス・キリストが墓の中から復活したことを祝う日です。尾陽教会は例年、天白区の滝の水公園で早天礼拝を行います。今年はちょっと寒いけど行ってきました。イースターはいわゆる「移動祝日」で年によって日が変わります。最も早い年は春分の日直後ですから、それよりは半月も遅いのですが、今年は春が遅いのです。6:30に教会に集合し、7:00から公園の東側で礼拝(なぜ東なのかはわかりませんが、Easterはやはり東かな)。公園にいる人にイースターエッグを配って帰ります。もう少なくとも20年以上はここでやっているので、たぶん、毎日この公園に来ている人にはおなじみです。犬の散歩の人やジョギングの人が大勢来ているのです。何年か前に「イースターおめでとうございます」と声をかけられたことがあります。別の教派の人で、毎朝ここでジョギングをしている人です。その方が今年は挨拶だけではなく、礼拝の間、一緒にいてくれました。教会学校教師の説教を聞き、賛美歌を歌い、祈りに「アーメン」と言ってくれました。ちょっとしたエキュメニカルな雰囲気。その後「自分の教会の礼拝がありますので」とお帰りになりました。名古屋では名古屋キリスト教協議会が合同の礼拝をしていますが、私たちは教会学校の行事に数名の大人が加わった形になっています。10:30からはいつも通り、教会で聖餐のある礼拝です。今日は天気が良かったので、外に出て桜の下で記念撮影をしました。 タイマーをセットして、走って石垣に飛び乗るのですが、ガウン+ストールなので飛び上がりにくかったです。
April 8, 2012
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東海聖化交友会の機関紙に去年から関係する教会を紹介するページを設けています。今年は三重県度会郡大紀町錦にある錦キリスト教会を取り上げることにして、3月19日(月)に訪ねました。その時のことを出かけ系のブログ「AGIOS別館」に書きました。
March 22, 2012
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東日本大震災追悼と連帯の祈り日時:2012年3月11日17:00~場所:日本基督教団 名古屋中央教会 主催:中部地区キリスト教学校教務教師会 (金城学院中学校・高等学校・大学 中部学院大学・短期大学部・済美高等学校 名古屋学院大学、名古屋中学校・高等学校 名古屋柳城短期大学) プログラム 司式 大藪博康 奏楽 有田知子前奏招詞讃美 讃美歌21:575「球根の中には」聖書 創世記11:1~11祈り (司式者)メッセージ 「愚かな私たちをも」 石田聖実(日本基督教団尾陽教会牧師)祈り (石田聖実)讃美 「天のつどいは」 金城学院大学クワイア祈りの時間 名古屋中学校 生徒 金城学院高等学校 生徒 主の祈り:一同讃美 讃美歌21:457「神はわが力」祝祷 (石田聖実)応唱 讃美歌21:89 (金城学院大学クワイア)後奏報告■メッセージ 「愚かな私たちをも」東日本大震災が発生してちょうど一年を迎えた。今朝の新聞によると死者15,854人、行方不明者3,155人そして東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染もあって、避難生活をしている人が34万人余りいる。どうしてこんなに大きな災害になったのか。もちろん地震が大きかった。津波も大きかった。しかしあの地域は昔から大地震や大津波を経験している。1933年の津波でみんな流され4人しか生き残らなかった集落があった。彼らは「此処より下に家を建てるな」という石碑を建て、約80年間それを守ってきた。今回の津波では一軒も被害に遭った家はない。過去の津波の教訓をしっかり守っていれば、被害は防げた。別の対処をした地区もある。高さ10mの巨大な防潮堤を作ったのだ。しかし、津波は10mをあっさり超えた。防潮堤があることに安心して素早く避難せず亡くなった方も多いという。別の地区は15.5mの防潮堤を作った。村は守られた。当時の村長が15.5mにこだわった。明治三陸地震の津波が15mだったので、15.5mを譲らなかったという。この地区も過去の津波の教訓をしっかり守って被害を防いだ。部分的にはこのように賢く対処してきた地域もあるが、多くの地域が十分な対策をしなかった。原発などは最先端の技術が駆使され、万全の備えがあると思い込んでいたが、現実は全くそうではなかった。2重3重の安全策があるはずだが、ちゃんと機能せずかつてない大事故になった。ここには人間の傲慢さがある。創世記11章のバベルの塔の物語は科学技術の発達によってかつては作ることができなかった巨大な建物を作ることができるようになったことを語る。そして、神の領域である「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」という。バベルの塔の物語はバビロンにあった塔をモデルにしているといわれるが、バビロンとは「神の門」という意味だ。神に取って代わるメジャーな存在になろうとしたのだ。彼らはその技術を持っていると思っていた。科学技術の力はあったのかもしれない。だが、必要なことは科学技術だけではないのだ。彼らは意思の疎通を欠いてしまった。お互いを思いやる心を失って、自分中心で物事を考えるようになり、共同で町を建設することができなくなり、散らばっていた。総じて見るなら、津波災害も原発事故災害も人間の技術力を過信し自然の力を甘くみて、被害を大きなものにしている。要するに私たちは過去の災害にきちんと学ばず、適当な被害予測を立ててそれを超えるものは想定外として対策から外したのだ。愚かである。しかし、この愚かさは誰かのせいにしておけば済むようなものではない。今、名古屋のどこかで防波堤が壊れたすると津波がなくても、2m以上水没するところがあるという。低地に住む人々の誰が引っ越ししたり、土地をかさ上げしたりしただろうか?私たちもまた愚かである。警告に従わない愚かさを持っている。安全よりも利便性へと私たちの心は傾いていく。それが私たちの現実だ。ここより下には家を建てるなと書いてあっても、ほとんどの地域では守られなかった。そして津波にのまれた。ルカ13章にシロアムの塔が倒れて、18人が下敷きになって死んだことが書いてある。イエスはその18人は他の人よりも悪い人だったのか、と問う。そうではない、災害に遭って死んだ者も災害に遭わなかった者も等しく愚かである。その愚かな者に向かってイエスはいう。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。しかし悔い改めたならどうだろう。神と向きあおうとする者に対しては、どこまでも主は愛をもって臨んでくださる。この一年ほど「絆」という言葉が使われたことはなかった。バベルの塔の物語は、技術力を過信し、驕りが生まれ、絆が失われた物語だ。彼らは自分達の力を誇示し、神の領域に入り込んで絆を強めようとした。バビロン(神の門)を目指した野望だったがバベル(混乱)をもたらした。力を誇示することによっては絆は生まれない。むしろ謙遜になること、へりくだって相手を立てることで強められる。まず、自分達の愚かさを認め、神に向き合おう。神に向き合うと「オレがオレが」はなくなってくる。本当に隣人を愛し合い、かつ、師を超えたいのちに生きる者となることができる。■祈りの時間「東日本大震災を受けて祈りを共に」 キリスト教学校教育同盟・日本カトリック学校連合会 共同作成神さま、地震や津波にあって、今も苦しんでいる人々をお助け下さい。家族を失くした人々、家や仕事を失くして困っている人々、悲しみや苦しみのために心の力を失くしている人々に、勇気と希望をお与えください。そして、わたしたちも、この人々のことをいつも思い出し、助け合う心をもつことができますように。イエスさまのみ名によって。アーメン この世界を造り、わたしたちを守ってくださる神さま、わたしたちが自然の中で行き。自然と共に生かされていることに感謝します。 東日本大震災によって苦しむ人々のために、あなたからの助けと励ましを与えて下さい。そして、わたしたちと自然が共にあなたによって造られたものであることを、忘れることがないようにして下さい。 あなたはどのような時にもわたしたちから離れることなく、喜びや悲しみや苦しみを共にしてくださいます。 神さま、傷ついている人々のために、行動を起こす決意をわたしたちに与えてください。神さまがわたしたちに何を望んでおられるのか、日々の学びの中から知ることができますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン
March 18, 2012
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今日は学校に行って、金曜日に行われた学年末テストの答案を受け取ってきました。今週は「春の祭典」ならぬ「春の採点」ウィークです。昨日は日本基督教団中部教区愛知西地区東海地震対策準備委員会の会議を行いました。2月13日に予定していたものですが、義母が亡くなったため変更していただいて、ようやく昨日開くことがで来ました。この委員会は元々4名の牧師で構成されていたのですが、そのうちのお一人は、教会の牧師兼学院長兼校長になってしまって、今年度はずっと出席できなかったのです。ところが昨日は出席できるとのこと、日程が変わって良かったのかもしれません。今年度はメンバーを一人増員しました。永年高校の地学を教えておられた地質の専門家が加わって下さいました。この方が、地区内35の教会・伝道所を全部実際にその場所に行ってみて、危険性の有無を調べて下さいました。従来は地震による建物の倒壊のみを考えていましたが、東日本大震災では巨大津波の危険に注目が集まりました。しかし愛知西地区では津波がなくても、伊勢湾台風をきっかけに作られた防潮堤が老朽化し、地震で破堤する恐れが指摘されています。名古屋を南北に流れる堀川より西は地球の運動として地盤が沈下し続けていて、海面以下のいわゆるゼロメートル地帯の面積は日本でいちばん広いのです。名古屋付近では満潮時には平均海面より1.8mほど高くなります。津波が来なくても単に防波堤が一個所決壊すれば、広大なエリアで2m近く水没するのです。その他、地質図や古地図も用いて液状化の可能性や崖崩れの可能性なども勘案して、各教会ごとにどんな危険があるかの報告書ができました。このデータは地区総会に報告することにしました。
March 6, 2012
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先週の土曜(11日)の夜、妻の母が亡くなった。 間質性肺炎で入院して、当初は10日~2週間の入院予定だったのが、思いの外重篤であると知り、長期の入院になりそうだと覚悟した。 ところが消化器に穴が空き、そのため敗血性ショックということで亡くなった。 9日木曜だったと思うが、四日市の病院まで行って帰ってきて間もなく、親族は集まるようにという呼び出しがかかって再び病院に向かった。金曜の朝にも呼び出しがあったら、さいわい私たちが病院に着いた頃にはだいぶ改善していた。金曜日はまだ会話が可能だった。 土曜日はもう会話は不可能だった。呼吸が苦しそうだ。しかし、こちらが言っている事は聞こえており、理解していると思えた。 以前愛北教会を牧していた吉岡先生は一度本当に死にかけた事がある。 その時、周囲の人たち(医師・看護師)は危篤ということでバタバタしていたが、危篤状態に陥っている当人は冷静に話されている事のすべてを理解していたそうだ。 おそらく義母もそういう状態なのだろうと思う。 一度、家に帰る事にした。日曜日の礼拝は休まないから、週報を作る等の物理的作業はやらなければならない。途中、「いつ頃来られるか」という電話が入った。血圧が下がって瞳孔が開きかけているという。まだ死ぬなと祈りつつ、週報を印刷するだけを残して車に急いだ。 病院に着いて、祈祷書の「危篤の時」「臨終の時」「病床に集まっている人々のため」「死に臨んでいる人のための嘆願」を祈り、アーメンというのと同時に脈拍等が0に、そしてピーという警報が鳴った。20:25ごろだったとおもう。逝去直後の祈りを祈った。 医師による死亡確認はその後20:32になった。 義妹によると、母は3度ばかり大きく目を見開いてぎゅーっと口をすぼめたそうだ。彼女はそれを見て「行くぞ−」と言っているように受け取ったという。 私が引導を渡したということになるのだろう。 義妹のもう少し一緒にいたいという希望により、通夜は日曜ではなく月曜の夜、葬儀は火曜となった。 日曜日の礼拝は、ヨハネによる福音書5章のベトザタの池の回廊で38年も病に苦しんでいる人をイエスさまがいやし、後日会ったときに「あなたは良くなった のだ。もう、罪を犯してはいけない」と言われた話で「あなたは良くなった」というタイトルだった。義母が薬石効なく亡くなった翌日の説教題としては神さま からの最高のチャレンジだ。説教は次のように締めくくった。 「良くなったとはどういうことでしょうか。ただ単に病気が治った、手足が動くようになったということではありません。本来の人間性、つまり神のかたちが回 復されたということです。アダムとエバが創造されたときにいただいた神さまの息吹が再び聖霊の息吹として私たちに与えられたと言うことです。アダムとエバ は神のかたちの大事な要素である自由を用いて罪を犯しました。神に背いたのです。イエスさまはその自由を回復し神に従って生きよとおっしゃいます。その自 由は地上を歩く自由に留まりません。神さまの御国を歩く自由です。」 通夜では、住職が和讃「不退のくらゐ」について説教。 不退のくらいとは、現実と仏法の交差するところに立つ事とし、例として、MLキング牧師の「私は山頂に登ってきた」という説教の最後の部分を引用して、私 は山頂に登って神を見てきたのだからもう死も恐くないというこの境地こそが仏法に立つこと、そしてキング牧師は現実の問題に立ち向かった、これこそ不退の くらいに立つことだと説いた。この説教は明らかにクリスチャンである私と私の家族を意識したものだと思う。 後で葬儀屋さんに尋ねると、説教をする僧侶は約2割。この住職の説教はレベルが高く難しいという。私どもからすれば平易な伝道説教と感じるところだが、そ うではないらしい。葬儀屋さんは「キリスト教の葬儀の場合は信者さんの参列が多く、聞き慣れている方が多いから」と言うが、つまり日頃説教を聞き慣れてい ない新来会者には我々の易しい説教ですら難解ということなのだろう。 翌日午前の葬儀には副住職が勤められ、説教なし。初七日も副住職のはずだったが、住職夫人が来られた。終わった後、控え室に挨拶にうかがうと、急に亡くなった方がありこれからそちらに向かうという。「ご親戚だと思いますが…」 そういえば、朝、親戚の一人の方がもう一人の親戚を迎えに行ったら、誰も出て来ないし電話にも出ないと、心配しながら来られた。夕べちゃんと確認をしておいたのに…。それがそうだったのだ。 世間のお付き合いからいえば、父母の代まででよさそうな間柄だったが、母の葬儀に来てくださるつもりだったのに急逝されたという事情なので、こちらから弔問にうかがった。
February 17, 2012
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この時期、毎年湯河原まで行く。更新伝道会の全体委員会(総会)が開催されるのだ。鉄道を使うこともあるのだが、最近は集合写真を頼まれるのでカメラバッグと三脚を積んで車で行く。今年は初日の午前中、愛知西地区ニュースの校正の委員会があったので、出発が午後になってしまった。「夕食前には着きます」と連絡しておいたのだが、箱根から湯河原パークウェイを下っていく途中で、書記から「主題講演が終わっちゃったけどいつ頃着く?」と電話があった。「あと7~8キロ」と答えて、スピードを上げた。スタッドレスタイヤではあるが、路面が雪道ならやはり危険だ。雨だったので本当に良かった。さて、その翌日、帰り道である。朝から大雨警報が発令されていた。近いのは往路と同じ湯河原パークウェイだが、奥湯河原温泉から右折して大観山へコースを取った。途中、山の上から下まで全部滝、という感じの場所を通った。この上部は↓こんな感じで、なかなかよい。大雨警報に加えて山の中では当たり前だが濃霧が発生する。この写真は比較的いい方だ。芦ノ湖まで行ってみたが、外に出る気が起こらない。箱根峠の道の駅でなめこそばを食べたのが、唯一車外へでた時間。あとは一気に駆け下りて東名へ!であるが、三島市内を避けて三島インターまでつながっているバイパスへの入口をまた間違えた。右折東名の看板のある信号で右折すると、実はそれは小さな交差点でバイパスに入れない。看板の少し先にある交差点を右折しないといけないのだ。間違えたのは2回目。東名に入るとどっと眠気が襲ってきた。そこで富士川SAで仮眠。しばらく寝てから外へ出る。雄大な富士山がド-ンと眼前に現れるはずだが、この日は頂上も山麓も雲に覆われていて、中間の一部だけが見えていた。サービスエリア内に白梅と紅梅が一本ずつあるのだが、どちらも既に花が咲いていた。この写真は紅梅の方。よく寝たおかげで後は楽々で家までドライブできた。
February 9, 2012
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2月2日(木)の午前中、車で移動しながらNHKラジオを聞いていた。午前中はラジオビタミンという番組がある。ちょうど「ときめきインタビュー」というコーナーで若い女性がゲストだったが、それがクリスチャンのシンガー・ソングライターのMigiwaさん。不登校になって家にこもっていたが、教会には行けたそうだ。その時のインタビュー、もう一度ストリーミングで聞けないかとNHKのHPを見たが、残念ながら「ときめきインタビュー」はストリーミングをしていない。しかしMigiwaさんの公式サイトで聞くことができた。いい証になっている。リスナーからのお便りでは、19日にお会いするはずの方からのお便りが読まれていた。
February 4, 2012
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今年もよろしくお願いします。
January 1, 2012
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12月23日の教会学校クリスマスと、25日午後のクリスマス祝会にこの歌をやろうと思っています。On the twelfth day of Christmas,my true love gave to meTwelve drummers drumming,eleven pipers piping,ten lords a-leaping,nine ladies dancing,eight maids a-milking,seven swans a-swimming,six geese a-laying,Five golden rings.Four calling birds,three French hens,two turtle dovesAnd a partridge in a pear tree.この原歌詞と日本語訳、日本語で歌っている演奏の歌詞の対観表を作った。日本語で歌っている演奏を探すといくつか見つかった。ニコニコ動画、YouTube、iTunes Storeに一つずつあった。しかし、どれも訳が違うのはいいとして、登場するものの順序が違う。8日目~12日目の順番が違っているのだ。結局Amazonから購入したCD(翌日到着!)「決定盤みんなのクリスマス」の中に収められている曲が上記の英語通りの順番になっていた。このCDの歌詞はかなり省略されて、three French hensはフレンチがなく単に「めんどり3羽」だし、six geese a-layingも「卵を産んでいる」が省略されて「ガチョウ6羽」だけだ。その代わり歌いやすい。他の日本語版ではもっと忠実に訳しているのもあるが、一つの音符にたくさんの音を詰め込む形になってみんなで歌うのは困難だ。ところで、「クリスマスの12日間」っていつからいつまで?多くの解説は15月25日から1月6日のエピファニーまでと言っている。それでは13日になる。12月25日を第1日とすると、1月5日までで12日だ。12月25日夜~1月5日夜の12夜を挟む期間じゃないかと思うのだが。あと、この曲を選んだ理由は宗教的な意味です。木にかかった一人のキリスト旧約と新約、二つの聖書いつまでも残る三つ、信仰、希望、愛マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書…。7日目は「7つの秘跡」を表す というあたりはプロテスタントとしては微妙ですが。
December 6, 2011
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裏庭の菊です。15年前に母が檜原(東京都西多摩郡)から持って来たものが増えました。春(と言っても年末から咲き始めますが)はスミレ、秋は菊が檜原から来たものです。ただし、全然庭としては手入れをしていません。八事層という礫層でいくら掘っても砂利ばかりの地面です。
November 30, 2011
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きのうの役員会。聖化大会の振り返り。初めての試みとして、午後の集会では海外からの講師によるセミナーに並行して地元の女性教職による信徒集会を行った。これは成功だった。海外の講師の話が難しいという人もおり、その人たちにはとても良かったようだ。 海外からの講師については二つの議論がある。一つは毎年東京から西へしか行かないこと。仙台や札幌へも行ってもらったらいいのではないか。隔年で西へ行く年、北へ行く年としたらいいのではないか。もう一つは海外から講師を招く必要があるかという議論。ただ私はあまり内向きになってはいけないと思う。 議題の二つ目は来年6月の東海聖会。講師に岩本助成師をお招きすることが決定した。 三つめの議題は2月の総会の午後に行われる学びの時間について。かつては聖化大会の午後の集会と夕食の合間に総会を開いていたのだが、総会を独立させ、午前中に議事を行い、午後はメンバーの一人がライフワークにしていることなどを発表したり、学び合う時間とした。これまで聖餐論や東方教会とウェスレー、女性教職の立場などが論じられてきたが、次回は「牧師を百倍楽しむ」。かなり破天荒な発表が期待できそうだ。
November 26, 2011
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11月3日、東京都西多摩郡檜原村小岩にある日本福音教団小岩聖園の墓前礼拝がありました。15年前、母が名古屋に引っ越してくるまでは、母がこの霊園を管理していたし、父の墓もここにあるので連絡が来るのです。数年前までは母もこの墓前式に参加していました。ここ数年は私が参加しています。例年は教団の墓前礼拝ですが、今年は高齢化で体調のすぐれない先生方が多く、聖都教会単独で行うことにしたと、同教会の長老さんから連絡がありました。娘と二人で参加しました。夜中の3時半に家を出て前半は一般道、途中から東名高速を使い、ちょうど良い時間に現地に到着。今回の参加者は星野夫人(後妻)、井上長老夫妻、Mさんとご子息(といっても私より上?)、そして私と娘。本来は別の方が司式するはずだったのですが、その先生が歯痛のため欠席。現地に着いてから司式を依頼されました。既にプログラムは印刷されているので、プログラム通りに。黙 祷新聖歌 148 夕べ雲焼くる祈 祷聖 書 コリント第一15:56-58説 教祈 祷新聖歌 468 やがて天にて主の祈り祝 祷こういうのもいい経験かな。しかし、このプログラムは去年のと同じです。おそらく去年のプログラムを日付を変えて、司式者の名前を空欄にしただけ。去年の説教はある程度覚えていますが、この御言葉を通して私に示されていることを語りました。アルバムをご覧ください
November 4, 2011
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