英訳 New International Version では "Repent and be baptized, every one of you, in the name of Jesus Christ for the forgiveness of your sins."「悔い改めて洗礼を受けよ、あなたがた一人びとりが、罪の赦しのためにイエス・キリストの名によって」。英訳の方が悔い改めと受洗が固く結びついている。日本語訳では「めいめい」も「イエス・キリストの名」も悔い改めにはかからない。 ここでは悔い改めることと洗礼を受けるということが不可分に結びついている。また、それが一人ひとりの自覚的な行為としてなされるべきことが言われている。悔い改めも自分一人で悪い行いを反省し、悪を避け善を行うよう努力するのではない。イエス・キリストの名において神の前に罪を告白し、神の支配に服する。神へ立ち返りますとの表明を洗礼という形で行う。このようにして罪が赦される。新共同訳は「罪を赦していただきなさい」としているが、原文は「罪の赦しのため」である。つまり 「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」という質問への答は 「罪を赦していただきなさい」(赦すという神の行為を表す動詞)ではなく、 「悔い改めて洗礼を受けなさい」(悔い改める+洗礼を受けるという2つのわたしたちの行為)である。
「受けます」は未来。他の日本語訳では「受けるであろう」「受けるでしょう」と訳しているが「もしかしたら受けられないかもしれない」というニュアンスが入ってしまうのを避けるために「受けます」と言い切ったのだろう。the gift of the Holy Spirit を「賜物として(の)聖霊」(新改訳・新共同訳)とするか「聖霊の賜物」(口語訳)とするか。giftが単数なので「賜物としての聖霊」の方が良いだろう。 悔い改めと一体となった洗礼は「罪の赦しのための洗礼」なのだから、受けることによって当然罪が赦される。しかし、聖霊を受けるというのは約束として未来形で書かれているので、水で洗礼を受ければ自動的に聖霊も受けたことになるわけではない。洗礼者ヨハネによれば「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが…その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。ヨハネは彼の洗礼で十分だとは言ってなかった。人が水で授けるバプテスマだけでなく、イエス・キリストご自身が授けるバプテスマを受けるべきだ。主のもとに招かれたすべての人に与えられている約束なのだから、受け取らないのは損だ。いや、聖霊を受けることをしないのなら、イエス・キリストという犠牲によって罪を赦されたユダヤ教徒に過ぎないのではないかと思う。 「聖霊が私を生きる」ところにキリスト教徒ならではの人生があるのだろう。 最初のキリスト者たちはまさにそのように生きた。 その日ペトロの説教を聞いてイエス・キリストを信じた3000人は「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。 「信者たちは皆一つになって…、おのおのの必要に応じて…分け合」い「神を賛美していた」。 経済のシステムとしては財産の切り売りではもたない。ここでは、互いに助け合う共同体を形作ったことを受け止めるべきだろう。