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年賀状配達といっても、郵便局でバイトしたとか、そういう話しではないんです。じゃ、なに? どういう事って、まぁまぁ、そんなにあせらずに! ん? 焦ってなんかないって、ですよね。中学3年の時、大晦日の夜中、0時になると同時に、自転車に乗って年賀状の配達をはじめる。普通の年賀ハガキに書いてるわけだから、わざわざ自分で配達なんかしなくてもよさそうな気もするでしょうが、何故だか「自分で配達しよう! どうせ配達するなら、新年早々、夜中に行こう!」と思い立ったのだからしかたがない。今ならそんな発想はしないだろう。若いと言うこともあるが、人と違ったことをしたがる質は、このころからあったようだ。まず、女の子の家にはあまり遅い時間に行くと印象が悪いので、まず配達の順番として、女の子の家からということになる。配達といっても、ただハガキを郵便受けにいれて回るだけじゃなく、しっかりそのお宅を訪問して、手渡しをするのだ。これは、やってみると結構楽しかった。「ごくろうさま、寒かったやろ、おぜんざいでも食べて行きなさい」とご馳走してくれるお宅があった。雑煮やおせち、お餅までご馳走になり、帰る頃にはお腹いっぱいになってしまった。楽しくて、高校一年の時もまたもや配達をした。女の子のおかあさんたちに気に入られて、「また遊びにおいでね」なんて、声をかけられ、実際に遊びに行ったこともある。「なんで、お母さんと話し込んで帰るん?」と女の子に不思議がられたこともあるほどだ。それはもう、年賀状配達というより、年始の挨拶回りみたいなものだった。そんなことをするやつは、他にいないと言うのもあるが、殆どのお宅で歓迎された。それは、ボクが思っているほどの歓迎ではなかったかも知れない、ただ、変わったやつやな~程度だったと思う。それでも、友だちの親たちに挨拶をして、友だちにも新年の挨拶をすることが、ボクにとっては、特別の行事だった。もちろん全てのお宅の呼び鈴を鳴らして、訪問したわけではない。何となくベルを押しづらいお宅もあるのだ。犬にほえられ退散したこともある。家構えやその家の雰囲気、友だちとの間柄やその子の性格など、いろんな要素が、ベルを鳴らして訪問するかどうかの判断基準になっていたんだろう。寒い中を自転車で走りながら、「自分が家庭を作ったら、友だちや色んな人が気軽に訪れてくれる家をつくりたいな~」などと、漠然とではあるが、そんなことを思った記憶がある。それは、自分の家に、あまり来訪者がなかったということにも原因はあるのだろう。とにかく自転車で走りながら、色んな事を考えた、何を考えて走っていたかは、殆ど思い出すことは出来ないが、ビリビリした寒さの中で巡らした思いだけは、今でも心の土台になっているような気がする。子どもの頃の正月は、そんな風に特別なものだった。特別ということに於いては、誰しもも同じようなものだと思う。そして、その頃の正月は今よりも、もっと特別だった気がする。お店は、5日ぐらいまで開いてなかったので、お年玉の使い道をあれこれ考える時間もいっぱいあった。そう、そういう時間が楽しくてしょうがなかったんだ。今、スローライフが流行るのも分かる気がしてきた。
December 29, 2005
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「今日はクリスマスパーティだったね」我が家の3歳7ヶ月の男の子の言葉で、ケーキにろうそくをともしました。(^^ゞ(笑)ケーキを買いに出かけたついでに、年賀状を買うために寄った知り合いのたばこ屋で長話になったせいで、今夜の晩ご飯は、ピザとあいなりました。でも、そのおかげで、クリスマスっぽいかなと。。。子供達も大満足でしたので、結果オーライということで。そこで、年賀状ネタとひとつ為になる話をおひとつ。先日、テレビで聞いて初めて知ったのですが、年賀状に「A Happy New Year !」と書くのは、間違いだそうです。知らなかったです。「A」はいらないそうですよ。「A」を付けるのは、「Merry Christmas and a Happy new year !」のようにクリスマスカードなどに書く場合だそうです。「A Happy New Year !」というのは、「良いお年を!」の意味だそうです。しかし、日本にいる外人さん! そんなこと、もっと早く指摘しなさいって! ねぇ! え? みんなそんなこと知ってるって?そういえば、学生の時、何で「A」が付くのかうっすらと疑問に思った事もあったことを思い出した。まだ年賀状を書いてない方は、「Happy New Year !」に直しましょう! 年賀状作成ソフトのテンプレートやイラスト集にも殆どが「A Happy New Year !」になってますので、お気をつけください。お正月に、「良いお年を!」はオカシイですぞ(^^ゞ(笑)我が家は、やっと今日年賀状を買いましたので、印刷もこれから。「A」を省いて、年賀状をつくります。といっても奥さんが作っているのですが・・・・。
December 24, 2005
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遊び場だった裏山。カブトムシやクワガタを捕り、川で泳ぎ、水晶の原石を探した裏山。ある時ふと思った。あの山の向こうには何があるんだろう!その幼い衝動は抑えられなかった。山を見るたびにそう思うようになった。まだ小学3年か4年の頃だ。今思い返すと何故だか分からないのだけれど、その山の向こうには海があるんだと思いこんでいた。おそらく、いつも田舎に帰る道がそちらの方向に向いていたからだと思う。それが恐ろしくトンチンカンな思いこみだとは、思いもしなかった。その日は、快晴の青空が目にしみるような日だった。いつものように山の方へ向かって歩いていた。何をしに出かけたのかは思い出せない。ただ山へと向かって歩いていたのを覚えている。快晴の空の山の稜線から、コルネのような雲が現れた。日頃から胸に秘めていた衝動が蠢いた。ーあの山の向こうを見に行こう!コルネのような雲を目指して歩けば、山の向こうまで行けそうな気がした。この山は途中までなら何度となく登った事があった。そう、その時は何の躊躇いもなく、気がつくと山を登っている自分がいたのだ。快晴の爽やかな昼下がりだった。ひとつだけぽつんと浮かんだ雲はボクに手招きでもしているように思えた。歩いた。ただただ歩いた。雲を目指して歩いた。歩いても歩いてもちっとも近づかない。と言うより道なりに歩いていると雲から遠ざかって行く気さえした。道を外れて一直線に雲を目指した。いつしかコルネのような雲は真上に見えていた。そしてボクが歩いてきた方角へと漂うようにゆっくりと流れていった。しばらく雲を眺めながら、どうしたものかと立ち止まった。雲を追いかけても山の向こうへは行けないと分かったからだ。ーとにかく山を越えよう!それから2時間ほど歩いた。時計は持っていなかったので、その時間が正確には2時間だったかどうかは分からない。なぜだかそんな記憶があるだけだ。山の中をまっすぐ歩いていくと道にでた。ーこの道はどこへ行くんだろうそう思ったものの、もともと何処へ向かっているのかさえ分からないボクに、それに対する答えなど出るはずはない。そして、その道を歩き始めた。そしてその道を走り出した。早く山の向こうに何があるのかを見たかったんだ。走ったり歩いたりを繰り返し、しばらくすると開けた場所にでた。遙か向こうに街が見えた。あの街は何という街だろう?歩きづけてやっと街に着いた。街に着いたとたん、とても不安になった。どうやってココまで来たのか覚えてないことに気がついたからだ。スゴク焦って走り出した。くたくたになるまで走り回った。小高くなった空き地を見つけ、石垣をよじ登った。その向こうに線路が見えた。ー電車が走ってるんだ。電車に乗れば帰ることが出来る!そう思って線路の方へと走った。途中で○○○駅という看板を見つけたので、そちらの方へともつれかけた足を運んだ。ーやった!駅だ! これで帰ることが出来る。ーでも、お金もってない! どうしよう!考えてから言ったのか、咄嗟に出た言葉なのかわからない。「お金を落としたので、電車に乗れなくなったの。どうやったら帰れますか?」ボクは駅員さんにそう言った。「何処まで帰るの?」「○岡です。」「そうれじゃぁね、ちょっとここで待ってて、頼んできてあげるからね」そう言って、部屋に入っていった。ボクは、車掌さんが乗るところに、ちょこんと座らされて、送ってもらった。「ありがとう!」車掌さんにお礼を言った。ホームにいた駅員さんが改札まで付いてきてくれた。「ありがとう!」駅員のおじさんたちにお礼を言って、家路についた。越えていった山を見ながら帰った。いつしか増えた雲が紫がかった朱に染まっていた。結局二つ向こうの街まで行っただけだった。半日の冒険旅行は楽しかったのだけれど、自分が思っていた所と違うところに着いた事に納得できず、親に頼んで地図を買って貰った。自分のこどももこんな風にふらふら出かけていきそうだな(^^ゞ(笑)
December 23, 2005
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京都近郊に住んでいると案外普段から寺巡りなどしないものだ。いつでも行けると思ってしまうからなのかも知れない。それは、高校をでてフラフラしていた頃の話だった。ふとした切っ掛けから、何回か京都案内をしたことがある。行きつけの飲み屋でいつものように、知り合いが集まっていた。その日は、その店で写真展を開いていたのだ。写真展と云っても個展のような大がかりなものでもなく、模造紙に沢山の写真を貼り付け、壁一面に張り巡らしただけの代物だったが、写真は生き生きとした表情をしていた。知り合いが、ロンドンから帰ってきて、向こうで撮りためた写真を展示していたのだ。写真も興味深いものだったが、彼の話もそれに輪をかけて面白かった。ロンドンで住んでいたフラットの隣人が、バンク少年で、深夜帰宅すると必ず雄叫びを上げながら、ジャックナイフでベッドのマットを切り裂く話。麻薬の売人に絡まれた話。イタリアで置き引きにあって無一文になり。警察に行って事情を説明し、無一文だと分かると豚箱に放り込まれ、ロンドンまで豚と一緒に護送された話。この話なんか、まるで映画の「ミッドナイト・エクスプレス」のようで、ドキドキしながら聞いていたのを思い出す。異国の写真とエキサイティングな話で、ボクはまるで異次元空間に彷徨っているような感じがしていた。そんな時、店の扉が開いて、誰かが挨拶をしながら入ってきた。それと同時に出て行く人もいたので、しばらくドアが開いた状態が続いた。その間、外にいた女の子2人が、まるでドアの空間に切り取られた一枚の写真のようにボクの目に飛び込んできた。そして、ドアが閉まる瞬間に4つの目がボクの2つの視線にぶつかった。「入ろうかどうしようか、迷ってるのかな?」隣にいたやつにボクは言った。「何が?」「今、ドアが開いたときに外にいた子」「じゃ、声かけてこいよ」そう言われて、ボクは何故かためらいもせずドアを開けて店の外へ出た。「お店探してるんですか?」「いいえ、そう言うわけでは・・・」「じゃ、一緒に飲みませんか?」「・・・・・」「今、写真展してて、いっぱい集まってるんですよ」「いいんですか?」「いいですって、みんな大歓迎するから」2人は東京から来た旅行者だった。その日来たところで、明日と明後日は京都観光をすると言った。その日は金曜日だった、、と思う。11時近くまで、みんなで飲んだ。桃井かおりのファーストアルバムが何度も何度も流れていた。初めてあったにもかかわらず、かなり盛り上がった。遅くなったので木屋町の旅館まで送ってあげた。明くる日ボクは、朝霧が立ちこめる南禅寺の山門を見ながらベンチに腰掛けていた。昨夜彼女たちがココに来ると言っていたので、驚かそうと待ちかまえていた。8時から1時間ほど待った頃、2人は永観堂の方からやって来た。お参りをして振り返ったところを写真に納めた。その次の瞬間、2人の驚きと笑いの入り交じった顔が朝日に輝いて可愛かった。「ホントに来るとは思わなかったよ」「だめだった?」「そんなことないけど、びっくりした、時間も言ってなかったのに」「よくやるよって・・・(^^ゞ(笑)」2人はボクより年上だし、もうしっかり働いているOLさんだ。それ故かどうか分からないが、ボクの破天荒な行動が可笑しかったようだ。2時間ドラマで有名な南禅寺の疎水を案内し、南禅寺名物「エブリバディおじさん」(通り過ぎる観光客にエブリバディ・エブリバディと声をかけて記念撮影の商売をしているおじさん)を紹介した。それからどんな風に京都の町を案内したのかは、よく覚えていない。とにかく一日中歩き回った。もちろんタクシーにも乗ったのだけれど、色々とかけずり回ったという感じだった。二条城で写真を撮っているので、二条城に行った記憶は多少残っている。京都の直ぐ近くに暮らしていて、こんなに京都の町を1日で見て回ったのは、初めてだった。明くる日は、京都駅まで見送りに行った。旅先で出会った青年と観光をした旅行者の2人にとって、この旅は不思議な旅だったかも知れない。それは、ボクにとっても同じで、たった2日だけしか一緒に過ごしていないのに、何だか昔からの友だちみたいな気持ちになっていた。それからしばらくし、フラフラ生活に終止符を打って、大学に行ったボクは、夏休みにバイクで東京に行ったことがある。京都旅行に来た1人の実家が喫茶店をしていたので「友」と言う喫茶店を探して立ち寄った。家族で歓迎してくれて、とても嬉しかった記憶がある。今みたいにネットもない時代なので、簡単にやり取りも出来ず、それ以来連絡も取っていないが、こうやって思い出してみると、なんだかとても懐かしく思えるのだ。元気でやってるのだろうか? もう孫がいてもおかしくない年齢になっているんだな~と思う。今すれ違っても分からないかも知れない。それはそれでいいと思う。しかしそんな出逢いがあったことに感謝している。
December 20, 2005
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ラジオの深夜放送が一世を風靡した時代がありました。というとなんだか大げさな言い回しですが、とにかくそれが学校での話題の中心だった頃のおはなしです。その晩もラジオのスイッチを入れ、良く聞いていた深夜放送を何となく流しながら、本を読んでいたときのこと。その本のタイトルは覚えていないけれど、その時流れてきた話は今でも鮮明に覚えている。「K先生は、おかあさんにより、こたつに座ったまま死んでいるところを発見されました。ストレス性の心臓発作に似た症状だったそうですが、ホントの原因は不明だということです。」ーK先生? こたつで亡くなった? 何処かで聞いた話だ。そこからは、ボクの思考回路はラジオから流れてくる声に集中した。「K先生は、生徒の間ではとても人気があり、みんなのお兄さんみたいな存在の先生でした。ホームルームの時、教室にギターを持ってきて弾き語りをしてくれたり、みんなの悩みや相談事にも気軽にのってくるような先生でした。先生が何に悩んでいたのか、亡くなられた今となっては、もう誰にも分からないこととなってしまいました。」DJは、少しコメントを挟みながら、その投稿ハガキを読み続けた。「先生間のいじめに似た行為をみんなは知っていました。年輩の先生たちの間では、今時の若者的なK先生の印象は良くなかったのでしょう。何かにつけてK先生を悪く言うようなことを見聞きしたのです。」この投稿ハガキは、数週間に渡ってその番組で話題になった。投稿したのは同級生の女の子だった。先生の事を誰かに話したくて話したくてどうしようもない衝動に駆られたようなハガキだった。ボクもその先生とよく話をした。その先生は理科の先生で、質問もした覚えがある。その場で分からなくても、ちゃんと調べて教えてくれた。調べても分からない時は、「これ以上の事は、調べてもわからなった。ごめんな」と正直に話してくれたのを覚えている。中学校ぐらいになると、先生と生徒の関係というのは、ある一定の距離のようなものが生まれ、生徒も生意気にも先生の評価をするようになったりする。しかしまだまだ先生との距離のようなものが存在した時代だったのだ。その中でも、K先生は、学園ドラマに出てきそうな雰囲気を持っていて、生徒には人気があった。ある朝礼の時、生徒たちが集まっている中で、生徒指導のS先生が、K先生の発言を遮ってこう言った。「君は黙っていなさい! 君が口を挟むような問題じゃない!」S先生の人格がボクには透けて見えた。他にもそれに似た、侮辱ともとれる言動を時々見かけたことがある。おそらくそれらの目に見えることは、氷山の一角に過ぎなかったのだろう。それでも先生は頑張っていたはずだ。みんなの前では、朗らかに笑っていた。そして、ボクたちが卒業した次の冬、K先生が亡くなった事を知ったのだった。まだ20代半ばで、これから先生として成長し、色んな生徒と向き合って行くはずだったのに。心ない言動で、その芽はつみ取られてしまった。S先生だけが悪いワケじゃないと思う。K先生にも未熟な所はあっただろう。しかし、当時のボクは、行き場のない思いにやるせなさを深く感じた。今、自分の子供が学校を卒業するまで、まだ10年以上もある。時代と共に学校のあり方も変わって当然なのだが、自分がその時その時思ったこと、感じたことをこれからも吐き出していきたいと思う。人間1人の成長は、大同小異こそあれ、毎回毎回繰り返される事なのだから。「大好きだったK先生のご冥福をお祈りします。ありがとう!K先生。私たちは元気です。」ハガキは終わった。ラジオは静まりかえった。しばらくDJも黙っていた。ボクはその沈黙がいつまでも続くように、ラジオのスイッチを切った。
December 13, 2005
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誕生日に死んだ人って、今までに何人いるだろう?いきなり何を言うのかと思うかも知れないが、ボクが一番好きな映画作家、「小津安二郎」がまさにそうだった。1903年12月12日東京は深川に生まれ、1963年12月12日満60歳の誕生日に亡くなっている。そして北鎌倉にある彼の墓石には「無」の一文字が記されている。酒をこよなく愛し、映画に執念を燃やし、妥協を許さない。しかし、彼の描く人間像は、か細くささやかで忘れ去られがちな市井の魂だ。生涯を独身で過ごした。しかし後生に残したものは尊大だ。父と娘、母と娘、子どもや青年、彼が描く人々は、普通に暮らし普通に生きようとしている人たちが多い。普通に生きなかった彼が、どうして普通の人々に執着するのかは「お早う」という映画を見ていて何となく分かったような気になったことがある。何気ない一言、これといって意味のない挨拶、そんな中に生活の潤滑油が存在し、それが人と人を結びつけ、愛や思いやりやましてや憎しみまでもを生み出す土台のような働きをしているように思える。彼が生み出したローアングルの画像や、花瓶のロングショットの中に、胸の中のどうしようもない思いや、ため息も出ないような気持ちが見えてくるときがある。生涯ひとりだった彼は、自分の家庭を映画の中に投影し、その中に第三の登場人物のように自らが存在していたのかもしれない。「生まれてはみたけれど」の弟役の青木富夫(突貫小僧)さんに、小津さんは、こんな事をいったという。「お前、オレの映画を見てどう思う? あんなのはみんなウソだよ。夫婦愛とか家族愛とかありゃしない。でも、そういうふうな家庭がほしいよな、突貫!」彼の人生観は、まるで「人生はあてにならない」といいたげだ。それは、そうなのかも知れない。だからこそ、日々の些細な出来事の積み重ねが、その時間の流れの中に身を委ねた自分が自らを感じ、ほんのささやかでも幸せを味わうことが出来れば、それでいいと。笠智衆のセリフに「いやあ、欲をいやぁきりがないよ」というのがある。それに集約されているのかも知れない。こういう意味のセリフは、彼の映画の中に頻繁に出てくるからだ。彼が生まれてから100年以上が経っている。100年といえば1世紀だ。21世紀を迎えた今、いや、これから、何を大切にして何を思い何を感じ何に思いを馳せるべきか、彼の残した映画という芸術をもう一度見直してみたいと思っている。アメリカ映画の模倣から始まった小津作品がなぜ、禅の境地をみいだしたのか。「タクシー・ドライバー」の脚本を書いたポール・シュレイダー(アメリカン・ジゴロの監督)ー彼の車のナンバーは[OZU]だったー や、ヴィム・ベンダース、アキ・カウリスマキ(レニングラード・カウボーイズ)など世界の監督たちがなぜこれほどまでに小津監督を絶賛するのか、おそらくストイックなまでに作り込まれた映像の中に、人の思いがすり込まれているのだと思えるのだけれど、ある程度年を取った今、もう一度、彼の作品を見直してみると、それらの意味がハッキリと掴めるような気がしてならない。来年の抱負を今から言わせて貰うなら、今まで気になった彼の作品やもう一度見たいと思った映画たちと久しぶりに対面してみるのも良いかもしれないな、と思うのです。
December 12, 2005
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このごろ子どもを狙った事件が、多すぎますね。かといって子どもに携帯電話を持たせても、安全とは言い切れないし。懐疑心ばかりが先走りして、子どもに気安く声もかけられない社会になっていくのがどうも気がかりです。と、お堅いお話しで初めてしまいましたが、今日は、他人の携帯番号を簡単に聞き出す方法を書いてみます。これは、今年の春ぐらいにネットで見かけた方法です。先日娘がテレビで同じようなのを紹介していたと聞いたので、紹介しておきます。チャットをしている女の子の携帯番号を聞き出す方法として載ってました。こんな方法で他人に電話番号を知られないよう、みなさんもお気をつけ下さい。まずは、相手に電卓を用意してもらい、「電話番号占い」とか言って、電話番号の上4桁を電卓で押して貰います。(090-1234-5678という番号だったら、上4桁は、「1234」です。)そして、その数字に「×250」をしてもらいます。12345×250=308500ですね。この出てきた結果に、「×80」をしてもらいます。308500×80=24680000そして、相手に今度は下4桁の番号を、今出てきた数字に足して貰います。24680000+5678=24685678最後にもう一回5678を足してもらいます。24685678+5678=24691356ここで、「あなたの番号は、090-2469-1356ですか?」と聞きます。番号が違うので、相手は安心するわけです。この数字から、あなたは相手の番号を知ることができます。さて、この数字をどうすれば相手の電話番号になるでしょうか?ヒントは、途中で掛ける数字は「×250」と「×80」のところが「×125」と「×160」の組み合わせでもOKです。2で割ると、相手の番号が分かるという仕組みです。こんな事で、電話番号を聞き出すより、信頼関係を大事にしましょうね。
December 9, 2005
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「ヘルメットをかぶらないと危ないぞ」「分かりました、今度買いま~す」それが、彼とボクとの最後の会話だった。その数分後、彼は交通事故で亡くなった。事故自体は単なる接触事故だったようだ。バイクに乗っていた彼は、殆ど立ち転けのように軽く転倒しただけだった。街灯のコンクリート土台の角に頭をぶつけ、そのまま亡くなった。知らせを聞いたボクは、病院に駆けつけた。病院にはすでに誰もいなかった。初めて訪れたその病院のロビーは、静けさに包まれ、誰かが何処かに紛れ込んでも探すことが出来ないほど整然としてブラックホールのように広く広く感じられた。彼と言葉を交わしてから、5時間後の事だった。彼はまだ高校生だった。性格も良く将来が楽しみな少年だった。生きていたらどんな風な人生を歩んでいただろうと、12月8日が来るたびにそう思う。彼が運ばれた病院からの帰り道、寒空にもかかわらず何故か空いた窓から、ジョン・レノンのイマジンが流れてきた。気がつくとボクは足を止め、終わりまでその曲を聴いていた。次にかかったのが、「ラブ」だった。その時、ボクは思い出した。今日は、ジョン・レノンの命日だ。それは、小学3年から聞いていたビートルズの、そしてボクにとってのひとつの節目になるような出来事だった。「ビートルズのジョン・レノンさんが凶弾に撃たれて亡くなりました」そのニュースを聞いたのが、ビートルズばかりをかけている喫茶店で2杯目のコーヒーを飲んでいるときだった。何故か分からないが、その時マスターが普段はつけていないテレビをつけていた。そのマスターと一緒にいた友達とボクは、目を見開いたままテレビに釘付けになった。ニュースが終わってマスターがかけた「Starting over」が今も心に響いている。この日は、ボクの胸に2つのやるせない消滅が刻まれた日だった。それから、10年たってNYのセントラル・パークにあるストロベリー・フィールドの「Imagine」の文字を見たときも、足場が組まれたダコダハウスを見たときも、2つの死が重なって胸の奥深くに沈んでいくのを静かに感じていた。簡単に消える命。大事にしなくてはいけない。
December 8, 2005
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うちの奥さんのお気に入りのHPにこんなのが紹介されていました。ココをクリック説明なしです、不思議です。トライです。なんだこれ?です。ご存じの方、いらっしゃいますか?うちの奥さんは、すぐに謎を解きました。やはり、ただの○○では、ないです。(^_^)尊敬いたします。m(__)m (^^ゞ(笑)
December 7, 2005
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ひさうちさん家に、お邪魔してテレビで野球を見た。これまた20年以上前の話だ。新しい銘柄のビールが一度に多く出た時に、色々買い集めてそれを手みやげに、彼のマンションに出向き、一緒にビールを飲んだ。彼は漫画家だ。今では蛭子さんと同じように彼を漫画家だと認識している人は少ないかもしれない。関西の人なら、ひさうちみちおと言われてピンと来なくても、おそらく顔を見れば知っていると思う。昔、「ガロ」というマンガ雑誌があった。古くは、白土三平の「カムイ伝」を連載し、水木しげる、つげ義春、永島慎二を送り出し、その後は、ひさうちみちお、蛭子能収、みうらじゅんや内田春菊などなど、その手の漫画家の登竜門的存在の、少々硬派なイメージの月刊マンガ誌だった。当時のボクもご多分に漏れず「ガロ」を愛読していた。と言っても立ち読みなので、偉そうには言えない。当時付き合っていた彼女が、ひさうちさんのファンクラブの会長をしていた経緯で、打ち上げの宴会や集まりに参加するようになり、何故か個人的に彼のマンションまでお邪魔するようになったのだった。そして、そのファンクラブがボクには、何とも不思議な存在だった。何が不思議かというと、ほぼ全員が若い女の子なのだ。そして彼女たちは、ひさうちさんの仕事の手伝いなどもよくしていた。スクリーントーンを貼り付けたり、べた塗りをしたりと、殆どアシスタントがするような仕事をボランティアでしていたのだ。この話だけだと、何だかほのぼのとした、いい話に思えるのだが、不思議なのは、彼女たちがべた塗りしているマンガの内容だった。ひさうちさんの作風というか彼が書くマンガのジャンルは、何パターンかあった。デビュー当時の「パースペクティブ・キッド」のようにロットリングペンで細かく書き込まれた、スノッブな雰囲気の漂うものと、妄想の世界を描いたエロマンガとがあった。「週刊エロとピア」という雑誌にも連載されたりした時代だったので、おのずとそう言う絵も多くあるわけだ。大股を開いた女性の絵にべた塗りをしている若い女の子の様子を想像してください。なんだか不思議な光景だと思いませんか?その中にボクは、ひとり男性だった。いや、ひさうちさんがいるので正確に言うと男性は2人なだが、その時のボクはなんだか変なドキドキ感を覚えた。ご存じの方はお解りいただけると思うのが、彼のほんわかしたムードからは、マンガの内容は想像しがたいものがある。そして、何故女の子たちが集まるのかも、これまた想像しがたいものがあるのだ。「白鳥の湖」や「罪と罰」のアイドルに捧ぐシリーズは、人の欲望を旨く表現した秀作だと思うのだけれど、エロ系の極致のような作品集なので、誰にでも勧めるわけにいかないのだ。(興味のある方は是非お読み下さい)そんな作品群とは無縁のような本人の佇まいが、なんだか好きだった。愛すべきキャラクターとまでは言えないかもしれないが、少なくとも母性愛を刺激するのは理解できるのだ。越前屋俵太とふたりで「バスでコロコロ」という、京都の町を歩き回る番組では、そのキャラクター振りを発揮していて、なかなか面白かった。しかしなんと言っても、エロマンガの才能はピカイチなのだ。だけど、文章で表現するのは難しいので、読んでもらわないと分からないと思うだ、が、それはその、「at your own risk」 と言うことで(^^ゞ(笑)
December 6, 2005
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ブロードウェイ目指してバスに乗った。そこには大事な何かが待っている。そんな期待を胸にバスは夜の街から旅立っていった。バスに乗って何処へ行くんだと思われるだろう、ブロードウェイにバスで行けるはずがないじゃないかって。ところがどっこい行けるんだ。そう、ブロードウェイへ。20歳を過ぎたころ、東京行きはいつもバスだった。お分りのかたもいらっしゃるだろう、ブロードウェイといっても、もちろんNYじゃない、東京中野のブロードウェイだ。じゃ、何しにそのブロードウェイに行くのか。そして、そもそも中野のブロードウェイとは何か、そこは、なんのことはないただのショッピングセンターなのだ。そしてただ単に、おいしいソフトクリームがあると聞いて、それを食しにわざわざ出かけていったわけだ。はたしてその味はというと、わざわざ出かけていった甲斐はあった。うっすらとレモン味の入ったバニラは、子どもの頃食べた近所のソフトクリームを彷彿させる味で、とても気に入った。近所のケーキ屋さんで売っていたソフトクリームは、ボクにとって幻の味なのだ。未だにあの味を越えるソフトクリームに出会ったことはない。それでなのかどうかは定かではないが、わざわざ東京までソフトクリームを食べに行ったのだった。今も中野のブロードウェイは存在するようだが、あのソフトクリームが今も売られているのだろうか? ボクにとっては、そんなばかげた行動が、なんだか懐かしく思い出されるのだ。そして、その後近くの「クラシック」という喫茶店に寄り、安いコーヒーを飲んで帰るのだ。たしかコーヒーが120円だったと思う。フレッシュを入れてあるピッチャーがカルピスのふただったりするのだ。そして建物自体も傾いていて、風情というよりも異様な佇まいの店だ。そして、夏になると「省エネのため夏期の間はお休みさせていただきます」という張り紙をして、営業もしていない変わった店だった。そのくせ行くといつも満員なのが不思議なのだ。若いときにしかできない、こんなバカな行動が、ウキウキした思い出として残っていて、思い出すたび、懐かしいというより微笑ましくもある。こんなことする人、どれぐらいいるのだろうか?
December 3, 2005
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12月に突入しましたね。この時期に思い出す事がいくつかある。そして、思い出したことを思い出すこともある。時間の流れをぶつ切りには出来ないが、思い出のシーンはどのようなメカニズムで記憶されているんだろうね。それはもう10年以上も前の今頃の季節だった。街はクリスマスのイルミネーションで飾られ、人の心までキラキラと輝かせていた。ロンドンのクリスマスは、ボクにいっぱいプレゼントくれたのだった。ロンドンの街には、交差点ごとにあるんじゃないかと思われるぐらい、パブがある。イギリスの食事はあまり評判が良くないが、パブでビールのつまみに食べたローストビーフとロールキャベツは、とても美味しかった。初めて来た場所とは思えないほど、何故か懐かしかった記憶がある。そして、ロンドンへ来てもう一つ懐かしい思いをした事があった。新聞でニルス・ロフグレン(ニール・ヤングNeil Young / After The Gold Rush に参加して名を上げた)のライブがあるの知り、懐かしくてライブハウスへと足を運んだ。場所は市街地と云うよりは少し郊外に位置した場所にあり、なんだか映画で出てきそうな街並みだった。もしかしたら、何かの映画で出てきた街並みかもしれない、懐かしい要素が重なったその時、ライブハウスのライブの予告ポスターに「少年ナイフ」の文字があった。ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、このグループは女の子3人組、日本ではあまり知名度はないが、ニルバーナとツアーをしたりと海外ではかなり認められた不思議な存在感のグループだ。20年程前の少年ナイフ「少年ナイフ」のライブを初めて見たのは、そのまた10年以上前のことだった。当時付き合っていた彼女の友達(美智枝ちゃん)がライブをすると言うので、京都の百万遍にある「サーカス・サーカス」というライブハウスへ見に行ったのが最初だった。ドラムとベースとギター・ボーカルのシンプルな構成で不思議な音空間を作るグループだった。アマチュアの数バンドが出演していて、その中でも荒削りで一風変わった輝きを持ったバンドだった。あの時の女の子たちが、ライブハウスのポスターの中で光っていた。そして、それもイギリスの「The Town and Country Club」というライブハウスでだ。このライブハウスは殆どの席が立ち見で、ノリによっては踊りながら見られるクラブ風の作りで、一度しか行っていないがお気に入りのライブハウスになった。出来事には、何気なく過ぎていくものがあったり、心に残る思い出ができたりと、その時々の状況や気分やロケーションで人の心に与える印象は様々だ。「The Town and Country Club」で見た「ニルス・ロフグレン」のコンサートは、そういう意味では特別な印象を受けた。ホテルマンに「The Town and Country Club」の場所と行き方を訊いたとき、「そこはすごくいいライブスポットですよ」と言われたときから、印象づけが始まっていたのかも知れない。ボクにとっては、アビーロードスタジオより、「The Town and Country Club」で見た「ニルス・ロフグレン」と「少年ナイフ」のポスターが、初めて訪れたロンドンの一番のプレゼントだった。その後、1999年にベースの中谷美智枝さんは脱退している。今は何をしているんだろう?
December 1, 2005
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