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今日で長男が16歳になった。ブログを辿ると12歳と9歳のときに彼の様子を記録している。読み返すと、「成長したな」と思うところもあるが「大きくは変わってないな」というのが正直な感想。どこまでもマイペースで、好奇心旺盛で、色々なものに恐れのないところは相変わらず彼の本質として変わっていない。16歳の彼の今はこんな感じ。なんとなく消化不良が否めなかった中学生活を終え、高校生活が始まった。公立高校だがとにかく生徒の自主自律を重んじる学校なので、勉強やクラブはもちろん学校行事などもすべて生徒が進めていく。「そういう学校だよ」と伝えていたのだけれど、実際に入ってみてその凄さがわかったようで、とにかく毎日楽しく、そして忙しく充実した毎日を過ごしている。クラブは数学研究部(という名のプログラミング研究会?)。狭い部室にパソコン持ち込んで、肩寄せ合うようにしてパチパチひたすらプログラミング。一体何が楽しいの??と思ってしまうが、先輩に色々指導してもらいながらどうやらゲームを一から作っているらしい。本人いわく「めちゃめちゃ楽しい」部活らしいので、良かったのだろう。学校では色々な委員会活動にも積極的に参加しているみたい。入学早々「土曜日も委員会がある」と言って休日も学校へ。行事委員といって、2年生で行く修学旅行の委員になったのだが、行き先を決めるために、旅行会社の人と何度も打ち合わせしたり、国を決めるための集会でプレゼンする資料を作ったりと大忙し。修学旅行を自分たちで作っていくって大変だけど、実のある経験になるだろうな。週末は小学生のころからずっと通っている「大阪自然教室」でリーダーとして活動している。今までは、連れて行ってもらう側だったが、今度は子どもたちを引率する側にまわる。彼は弟がいるが、弟のことにはほぼ関心がなく、決して「面倒見が良い」タイプとは言えない。人様のお子さんを引率する姿が想像できないし、山や海など自然の中での活動なので、事故などの危険もある責任ある活動だ。ちゃんとできているのかな、と心配していたら「低学年は言葉が通じない、ほぼ動物」「とにかく散り散りになる子どもたちを、牧羊犬のように追い立てて、はぐれないようにするだけ」(笑)とのこと。手取り足取りの団体ではないので、そんな感じらしい。なんだか笑えてくるが、歳の離れた子どもたちと接する機会は彼にとって貴重な経験になることは間違いない。それに、大阪自然教室のリーダーは高齢者から社会人、大学生、高校生と年齢層が幅広い。週末の度にリーダーだけで、電気も水道もガスもない田舎での「リーダー研修?」とやらに出かけていくのだが、いつも住所すらわからない山奥に行くので、一体どこで何をしているのか全くわからない。「どこで何してるの?」と聞けば、どうやら古くなった民家を借りてそこを修復しているらしい。障子を張り替えたり、側溝を掘ったり、風呂を焚いたり、ひたすら肉体労働をしているみたいだけれど、夜は満天の星空の下の宴会をしているようで、いろんな年代のリーダーと交わるその時間が普段の高校生活とはまた違う世界でたまらなく楽しいのだそう。普段は毎日部活でピコピコとプログラミングをして、週末は電気も通っていないような田舎で過ごす。デジタルと超アナログ、こんな両極端な生活をしている高校生はあんまりいないと思う。実際、数研部の人たちは「電気も水道もないところなんて嫌」と言いそうだし、自然教室の人たちは「とにかくパソコンに弱い」らしい。だから、パソコンと自然中での生活、両方に精通していることが彼の武器になっていくような気がしてならない。どちらも本人好きだからやっているだけだけど。そんな風にして平日は学校と部活、週末は自然教室と、とにかく休み無しフル回転で4月からの高校生活が始まった。本人曰く「充実しすぎてて、毎日があっという間に過ぎる」。忙しすぎて、家ではほぼ「勉強しようとして教科書を開いてそのまま寝てる」というパターン。「勉強してないやん」といいたくなるけれど(実際ほとんどしてない)、相変わらず彼の興味の広さは学校の授業だけにとどまらず、何故か中国語を覚えようとしていたり、あんなに科学好きだったのに、何故か大学で開催される「法学部(国際政治や安全保障)」の講座に申し込んだり、とにかく「やりたいこと」がいっぱいでどうすりゃいいの、とエネルギーあふれる若さが眩しいばかり。目下の彼の課題は、いっぱいやりたいことがある中で、限りある24時間という時間を「いかに効率よく使うか」ということ。今はとにかく忙しすぎて疲れて「気がついたら寝てる」という毎日。朝だって、バタバタで毎日遅刻してないのが奇跡なくらいギリギリに出ていく。この前見たら、Tシャツを裏返しかつ前後逆に着ていて、1日それに気づかなかったらしい。大丈夫かいな…。なんか毎日が楽しくて忙しくていわゆる「青春」だなあと。見たところ「悩み」があるようには見えないけれど、彼なりに「悩み」ももちろんあるだろう。でも、基本が「なんとかなるさ」ととっても楽天的な彼。本当に羨ましい。16歳。あれもこれも欲張っていいよ。今しかできないこと、いっぱいやって、私の知らないところで楽しいことしたり、悪いことしたり、失敗したりたくさん味わってほしい。とにかく、キラキラで、ごちゃごちゃしてて、でもなんだが見ていてワクワクする彼の今。いつかのために記しておきます。お誕生日おめでとう。
2017年07月10日
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先週は久しぶりに小学校と中学校の読み聞かせに行った。長男が一年生のときに始めた読み聞かせ。途中私が体調崩したりして、休み休みになってるけれど、なんだかんだで、10年近く続いている。やっぱり辞められない「自分が好きな」活動だ。 小学校で読んだのは「はずかしがりやのれんこんくん」と「たいせつなこと」。「はずかしがりやのれんこんくん」は自分の「良いところ」が見つからないれんこんくんのために、友達が一生懸命彼のいいところを探してくれる絵本。地味で静かなれんこんくんの長所がなかなか見つからず苦労する友達たち。でも、小さなことだけど、一つ二つと良いところが見つかって…。そして皆が気づく、池の蓮の葉っぱを支えているのが、実はれんこんくんだった!蓮の葉っぱなら、みんないつもお世話になっているじゃない!そして、最後にもう一つサプライズが。暗いところから始まる絵本なのに、最後の展開が明るく素敵な絵本だ。 「たいせつなこと」は「ありのままの自分」の大切さを、詩的にとても丁寧に綴った絵本。時々開くと心が落ち着く。絵も文章も本当に素敵で、プレゼントにもオススメできる。 中学校の読み聞かせはテーマが決まっていて、今回は「友情」。実は以前同じテーマの時に読もうと思って取りやめた「哲学」の本を、「やっぱり読みたい」と引っぱり出してきた。中学生に「哲学」なんて、きっと皆眠くなって聞いてくれないだろうなって思って、前回は読まなかった。 選んだのは「14歳の君へ」という哲学家池田晶子さんの本。「14歳の」というくらいだから中学生向けて書いてある。それに、文章は池田さんが生徒に向かって話しかけるような文体だから、何とか聞いてくれないかな、でも難しいかな…と今回も迷ったけど、やっぱり、私自身が今の中学生に「哲学」をぶつけてみたくて、この本を読むことに決めた。教室に入って最初に黒板に「哲学」と書いた。「知ってる人?」と聞いたら、半分くらいの子が手を挙げた。じゃあ、「哲学って何か説明できる人はいますか?」と尋ねたら、一人の男子生徒がすっと手を挙げ「物事の本質を深く考えること」と答えてくれた。模範解答だね。 私は、哲学は「◯◯って何?」と考えてみること。考える事自体が哲学で、正解がある訳でもなく、自分や他人の意見を聞きながら、考えを掘り進めていくことが哲学です…という風な前置きをして、朗読を始めた。 時間が20分と限られているので、「友愛」という最初の章だけを読んだ。この章の始まりはこんな感じ。 「どうして君は友達に好かれたいと思うのか。好かれたら嬉しいし、嫌われたら悲しいのはどうしてか。このことを一度考えて、納得しておくと、これからの友人関係の悩みが減るかもしれない」 中学生と言えば、何かしら友達関係で悩みを抱えている年頃(のはず)。この掴みの文章で、何人かの生徒が明らかに顔をコチラに向けた。ここで、すでに「この本にして良かったかも」と確信した。 私の住む地区は、読み聞かせに熱心なお母さんたちが多くて、毎月毎月、子ども達のために、考えに考えて選んだ本を読んでくれる。小学校の頃から、読み聞かせを通じて、話をじっと聞くということに慣れている子ども達だということもあり、なんとかこの「哲学本」について来てくれたのだと、後から思った。 そこから展開される話は、生徒に問いかけられるようにして進められる。 「人に好かれようとする自分は本当の自分か?」 「ありのままの自分を見せたら嫌われる?」 問いかけの後は、少し生徒さんに考える時間の間を取りながら、読み進める。 池田さんの強い言葉が続く。 「人に好かれようとするよりも、人を好きになるようにしよう、そのほうが断然面白い」 「人に好かれることは自分じゃどうしようも出来ないことだけど、人を好きになる方は自分で出来ること、その方がが楽しい!」 語り口調なので、「コレが正解です!」という講義のような感じでなく、一人の人間、池田晶子さんが「どうよ?」と、遠慮なく、でも親しみを込めて言葉を投げかけてくれるので、子ども達はそれぞれにその言葉を受け取っている。もちろん、それは受け入れられないって子がいてもいい、そんな雰囲気。 続いて、そもそも「好き嫌いって何だろう?」というテーマに入っていく。大人なら分かるけど、好き嫌いだけはどうしようもないもの。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。おそらく学校のようなところでは「誰とでも友達になりなさい」的な雰囲気が流れているので、自分の好き嫌いは全面に出しにくい。 でも、池田さんはどんどん続ける。 「嫌いなものは嫌いだ。これはもうどうしようもない。」 ずばっと言うおばさんですね(もう亡くなっているが)。 この辺で、生徒たちの顔がニヤける。そうだよね。なかなか「嫌いなものは嫌いでいい!」って認めてくれる大人ってあんまりいないから。 そこからさらに続く。 「じゃあ、どうしても嫌いな人に、君はどういう態度を取ればいいんだろう?」ちょっと困ってる、中学生。 池田さんは畳み掛ける。 「君はこうすることが出来る。嫌いなものは嫌いだ。これはもうどうしようもない。そして嫌いなものはそこにある。これもどうしようもない。だからそのことを自分で認めてしまうんだ。そしてそれ以上そのことにこだわらないんだ。そうすれば嫌いなものは嫌いで、ほおっておくことが出来る」 半分くらいの生徒が、フムフム。半分くらいの生徒はキョトンとしてる。 最後のとどめ、「好き嫌いは好き嫌いとして、どうしてもそれは存在する、それなら、それはそれとして認めてこだわらないこと、『これが愛』というものなんだ」中学生は???「嫌なものがが嫌いで愛だって??」という顔をしている。 中学生にとっては、(まあ大人にとっても)愛といえば「好き」に近いイメージだと思う。でもそこもバッサリ。 「愛と好きとは違う。愛は感情じゃない。愛は好き嫌いを超えたもの、『それがそこに存在することを認めるということだ』」 うーん。深いですね。大人なら、ウンウンと頷くことが出来るけど、(実際ここを読んだ時、担任の先生が激しく頷いていた(笑))中学生には、難しかったかもしれない。 と、かなり、深い話まで進んで、この「友愛」についての章を読み終わった。 中学生にどこまで響いたかは…疑問だが、彼らの心や頭を少しはグラグラと揺らすことが出来たのではと、私は自己満足で教室を後にした。 読み聞かせの後、読み聞かせのメンバーで、それぞれが読んだ本について、シェアする時間がある。皆それぞれに「友情」について、中学生に色々と考えてもらえるような、深い本を選んでいる。 「友達に流されて、いじめに加わってしまう気持ち」「友達に流されず、『私は私』と強く一歩を踏み出す大切さ」 「一人でいることが何が悪い?」「人が集団になった時に陥る、集団の論理の恐ろしさ」色々なメッセージを投げかけられた生徒さんたちは、どんな風に感じただろう。 おそらく生徒たちが自分では手に取らないような本を、押し付けるでもなく、でも大人として揺るぎない視点をもって本を選んでいる。ホント、ここの学校の生徒たちは幸せだなあ、と思う。 私の本も皆に紹介したら、「嫌いなものは嫌い、でもそれが存在することを認める、それが愛」ってところで一同「深いねー」と。この本「14歳の君へ」というタイトルだけど、大人でも、十分読みごたえがある。 ちなみに、池田晶子さんの本で「41歳からの哲学」という本もある。参考までに。
2016年10月22日
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次男が朝日少年少女囲碁大会に出場しました。今回、初めて大阪府の代表を決める「代表決定戦」に出場することになりました。ハンデ無しの正真正銘実力勝負です。上位三位までが8月にある全国大会に出場できるのですが、惜しくも四位で終わりました。今日は、本当に忘れられない日になりました。準決勝に破れ、三位決定戦。決勝戦が先に終わってしまい、皆が見ている中での対局になりました。接戦でしたが、本人曰く「優勢だった」対局の終盤、突然頭を抱えた彼。盤面を見ても素人の私はわかりませんが、何かが起こったのは確か。そのまま、一瞬時間が凍りついたようになって、抑えられない彼の嗚咽が場内に響きました。ああ、なにかミスをしたんだなあ、ということは分かりました。そして、それがどうやら取り返しがつかないような物だということも、彼の様子から分かりました。囲碁は逆転の利くゲームですが、取り返しの付かない一手というのがあるみたいで、彼はその一手を見逃していたようです。彼の呼吸がおかしくなって、過呼吸のような気配。私は思わず「倒れるかも」と彼の側に駆け寄りそうになったのですが、夫に止められました。対局中は立ち入り禁止なのです。泣きじゃくる彼を抱きしめてやりたいけど、出来ないもどかしさ。時間だけが過ぎて、彼の泣き声が響きます。沢山の人がその様子をじっと見ています。私は居ても立ってもいられない気持ちで、とにかくそこに立っているだけで精一杯でした。対局はまだ終わっておらず、泣きながら彼は自分の負けをもう一度時間をかけて、ゆっくり確認します。相手の子は彼より年下でしたが、冷静に彼が盤面を読み終わるのを待っていました。もう一度確認しても、負けは負け。そこで「投了」といって自分で負けの合図を出します。持ち時間一人40分で、一局打つのに一時間から一時間半かかります。星の数ほどある手の中から、一手一手時間を使って先を読み、最善の一手を選んでいく。とにかく根気のいる作業を積み重ねて、ようやく勝利が手に入りそうだったのに、自分で終わりを告げないといけない、そのことが悔しくて、悔しくて、涙が止まりません。私も正直泣きそうでしたが、泣いたらもうそのままグチャグチャになってしまいそうだったので、必死に涙をこらえていました。ギャラリーの人が数人もらい泣きをしていました。絞りだすような声で投了して、碁石を片付けて、終わりの挨拶。二人で大会本部へ結果報告して、やっと私のところへ倒れこむように帰ってきました。その後、会場を出ても声を上げて泣くのを止められません。あまりにも大きな声なので、部屋を出ても会場まで届きそうでした。とりあえず、二人で非常階段に避難して、そこで思いっきり泣きました。「表彰式には出られない」といって、延々泣きます。私はまさに「掛ける言葉が見つからない」状態でひたすら背中をさすっていました。泣くだけ泣いて、やっと落ち着きました。そして自分から会場に戻りました。まだ表彰式は始まる気配はありません。全国大会は上位三人ですが、表彰は四位までしてくださるとのこと。出来れば、胸はって出てほしいなあと思っていたら、彼はスタスタ歩き出して、空いている席に向かって、一人さっきの対局をもう一度最初から打ちはじめました。切り替えの早さについていけない私。正直心の弱い私は、皆の見ている前で慟哭する息子をみて「こんなつらい勝負の世界に身を置く必要なんて無いよ」と思ってしまいました。もう彼は次のことを考えていて、「どうして負けたのか」をもう一度自分に突き付けていました。とても冷静に。その表情はとても大人びていて、自分の子どもなのに、自分の子に見えませんでした。そして、今度は負けた相手のところへ近づいていき何やら話をしています。どうやらさっきの試合を一緒に検討してくれと頼んでいるようでした。囲碁では「検討」といって対局が終わった後に、もう一度振り返りながら、もっといい手は無かったか、色々と検討をします。とにかく囲碁は打つ手の選択肢が多いので、後から検討すると、何通りもの打ち方、試合の展開の仕方があるのです。彼は、すっかり切り替えをして、この負けから何としてでも何かを掴もうとしているのが分かりました。悔しさを乗り越えて、前へ向かう気持ちの強さに、私はただただ感服するしかありませんでした。表彰式では、涙もすっかり乾いて、清々しい顔で賞状を受け取っていました。そして、負けた相手の子に「全国大会で頑張って」とエールを託していました。自分が10歳の時、彼と同じことが出来ただろうか…絶対無理です。負けたショックでそのまま帰ってしまうだろうなあ。彼は、私にはない「強さ」を持っている、そのことに驚きました。今日は彼にとって忘れられない一日になったことでしょう。そして、私も今日のことはいつかきっと思い出すだろうなと思って、こうして記しておきます。
2016年05月05日
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【2015年12月7日 手術前日】入院。前日15時に入院。採血をしたくらいで、あとは部屋でまったり。手術前にお決まりの、剃毛&浣腸が無い。どちらもこの病院では必要ないとのことだった。(私が知る限りでは他のどの病院もこの2つは行っている)夕方麻酔担当医が部屋に来てくださった。私と同い年くらいの女医さん。この病院開院以来2000件以上の手術を、すべて一人で担当しているという。あの先生が信頼して任せている麻酔医というだけあって、こちらの目をみてとても丁寧に麻酔の流れを説明してくださった。こちらが気にしている首については、手術室に入ってから、私の持参したものを含め、何個か枕を試してみて決めましょうということになった。同意書にサインを求められたので、私がふざけて「二度と目覚めないかもしれませんという記述は無いのですね」と言うと「大丈夫、必ず目覚めます」と真っ直ぐこちらを見て仰った。後は特にすることもないまま、夕食の時間。食事は京都の病院らしく、おばんざいのような和食中心のおかずが、きちんと和食器に盛り付けられて出てきた。とても優しい味がして、「理想の病院食」だった。夜はもちろん寝付けず。睡眠薬をもらって眠る。【2015年12月8日 手術当日】手術当日。快晴。朝から慌ただしく準備が・・と思っていたが、私の手術は午後二時から。午前中は特にすることもない。朝から絶食かと思っていたが、思いの外朝食が出た。パン、フルーツ、ヨーグルトを美味しくいただく。普段あまり朝食を食べないので、食べようか一瞬迷ったが、その後のことを思うと、結果的に食べておいて良かった。【12時。手術二時間前】いよいよ準備。手術着に着替え、足には血栓予防のストッキングを履く。看護師さんが来て点滴の予定だったが、午前中の手術が伸びていて、私の手術が開始が遅れそうとのこと。どのくらいの遅れが出るのかまだ見えないので、随時報告に来ますと言われた。手術開始時間は一応の目安で、遅れる可能性もあるということは聞いていたので、特に問題なし。ただ、正直ここまで来たら早く終わってしまいたいというのが本音。手術立ち会いに来てくれた夫と、そわそわと上っ面な会話を交わす。やっぱり落ち着かない。【13時すぎ】看護師さんが部屋に来る。手術は更に伸びているので、とりあえずまだ水・お茶は飲んでもいいとのこと。【14時すぎ】看護師さん点滴を持って来室。とりあえず、点滴開始。でもまだ終了時間わからず、よって私の手術開始時間も未定とのこと。他人事だけど、午前中に手術している方のことが気になる。9時からスタートした手術。予定3時間として現時点で3時間近く遅れている。癒着が酷いのかなあ。それとも何かトラブルがあった?【15時半】看護師さん来室。「遅れているが、心配しないでいいですからね」と優しく伝えてくれる。私は流石に待ちくたびれて、イライラしてきた。おそらく17時ころのスタートになるという。3時間半の遅れ・・は想定してなかったなあ。でも、どうすることもできないので、イライラする気持ちを抑えるため、点滴刺したまま、廊下を手術着のままウロウロ歩く。ペラペラの手術着しか来てないので、寒い。そうこうするうちに両親が到着した。私がまだ病室にいることにびっくり。両親ともまた落ち着かない会話をするが、皆上の空。【16時45分】慌ただしくドアが開いて、麻酔の先生が入ってくる。手術着のまま頭にはキャップを被って、前の手術が終わったそのまんまの格好で私の病室に来てくれた。額は汗ばんで、頬は上気している。「遅くなってごめんなさいね。今準備をしているから、出来次第始めますね。前の手術が長くて、先生やスタッフが疲れて居ないか心配なさっているでしょう?スタッフ一丸となって気合を入れなおして手術するから大丈夫ですよ!」結局午前の手術は延びに延びて7時間を超えた。そのハードな手術を終え、そのままの足で病室に来てくれて私を励ましてくれた。その先生の笑顔に思わず涙が出た。待ちくたびれてイライラしていた自分を恥じた。プロって凄い。そして、この先生たちに手術してもらえる私はなんて幸せなんだろう。私はすっかり落ち着いて、手術の準備が整うのを待った。程なくして看護師さんが迎えに来てくれ、手術室に歩いて向かった。【17時半】手術室の入口で家族に笑顔で(笑顔のつもりだった)手を振って入室する。前室のようなところで、名前生年月日を確認して手術室に入る。手術は3回めだけど、今までで最も狭い手術室だった。過去に入った手術室はとにかく寒い所だったが、ここはそんなに寒くはなかった。看護師さんに促され、手術台に登る。ゆっくり横になると、背中が暖かい。手術台は裸で乗ることを想定して、暖かく保温されていた。緊張していた体が少しだけ緩んだ。麻酔の先生が枕を幾つか持ってきてくれて、順番に試す。高さ、首の位置などを細かに調整して、私は一番しっくりした枕を選んだ。「この枕にします」そう言ったら、すぐに酸素マスクを当てられた。「酸素が出ます」少し不思議な匂いがした。そして「麻酔が点滴から入りますね」と言われて、徐々に頭がクラクラ・・・そこで記憶は途切れた。目が覚めた時は病室だった。後から記録を見ると、正確には手術室で麻酔から覚めて受け答えしていたそうだが、そこは記憶にない。側に夫が居るように思ったので、「どうだった?」と聞くと「無事に終わって悪いところはなかった」よと言われた。時間を聞くと、「7時半」とのこと。結局私の手術は予定より早く終わって、2時間しか経っていなかった。後で知ったが、手術そのものは1時間で終わっていた。その後、看護師さんが「点滴に痛み止め入れますね」と言ったのを覚えている。後から家族に聞いたら、しつこいくらいに「悪いところはなかった?」と繰り返し聞いていたという。まだ眠るには早い時間だったと思うが、そもそも時間の感覚が狂っていたし、気怠くてぼーっとしていた。ただ、心配していた傷の痛みは大したことがなく、看護師さんが「座薬要りますか」と何度か聞いてきたが毎回断った。少し眠っては看護師さんが来て、検温する。痛みを聞かれるが、軽い生理痛くらい。試しに少し寝返りを打ってみたら、なんと寝返り出来た。枕元の時計で12時位。寝たのか寝てないのかよくわからない。でも不思議と気分は悪く無い。今まで手術の夜は熱と痛みでうなされて唸っているうちに朝、といった感じだったから随分と楽だ。看護師さんが「眠剤飲む?」と聞いてきたので、そのまま飲ませてもらう。そこから数時間寝た(と思う〕。【2015年12月9日 手術翌日】翌朝、6時に起床。と言ってもまだ手術から12時間も経っていない。看護師さんが、「起きられる?」と聞いてきたので、起きてみることにする。そのまま尿管も点滴も外してくれるという。帝王切開の時は3日ほど点滴挿しっぱなしで大変だったので、とてもうれしい。さすがに腹筋に力を入れるとお腹は痛いが、すっと起きられた。楽勝!とばかりに、そのまま手術着からパジャマに着替える。ベッド脇で立ち上がってみたけど、別にふらつくこともなくスムーズに着替えられる。トイレもそのまま行ってみる。やっぱり楽勝だった。「腹腔鏡手術を受ける方へ」の冊子に書いてあったが、術後の痛みは想像できる痛みを10として1から2、痛くても3から4と誠にその通り。傷の痛みは1か2で収まっていた。着替えて、朝食が出るまでに、喉が渇いたといったら、ゼリーとりんごジュースが出てきた。ごくごくと飲み干す。美味しい!朝食はおかゆ。和食器に入っているのが嬉しい。完食、と調子に乗っていたら、肩のあたりに違和感が。これも事前に聞いてはいたが、お腹に入れたガスが抜ける際に肩や横隔膜などに痛みが出るという。これが曲者で、この後数日はこの痛みとお腹の張りに苦しめられる事になった。痛みは筋肉痛を鋭くした感じ。今まで経験したことがない痛みだった。それでも傷口はほとんど痛まず。腹腔鏡手術のメリットを享受した。【2015年12月11日】夜診の終えた先生が手術の説明をしてくれるとのことで、部屋に向かった。希望すれば手術の映像を見ながら・・ということだったが、気分が悪くなりそうだったので、映像は見ないでで説明を聞いた。手術は予定通り、右側卵巣を摘出。万が一を考えて、お腹の中で卵巣を袋に入れた状態で取り出したので、のう腫の内容物がお腹に漏れだすこともなく、スムーズに摘出できた。術前に懸念されていたお腹の中の癒着は殆ど無く、過去二回の帝王切開術が大変丁寧に行われていたと思われるとのこと。ちなみにどこの病院で帝王切開をしたのか、わざわざ聞かれたくらいだった。取り出した腫瘍は先生が中味を見てみたところ特に悪性の所見はなかったとのことだった。病理検査に出しているので、その結果を持って確定診断となる。とりあえず、ほっとして涙が出た。そして同時に先生やスタッフの方に心から御礼を言った。そして、先生から言われた。「大きな病院で腹腔鏡手術をしている所は多いのに、このような小さな病院を わざわざ選ぶ患者さんは、病気について懸命に調べ、勉強する方ばかりです。 言い換えれば、そのように色々と調べる方はそれに伴う、悩み、不安に耐えうる力を 持っている方ということです。 回復したら、ここに辿り着いたそのパワーをどうか、 社会や次世代(子どもたち)のために使っってくださいね。」と。私が今感じている大きな感謝の気持ちは、これから周りに還元していってくださいね、ということだった。先生は先生で、ご自身が出来ることを最大限続けていかれる。最大限と書いたが、本当に先生は休みを取っていない。月曜から土曜までは診察と手術、日曜はその週に手術を受ける方への術前説明の日に充てられていた。看護師さん、受付の方、掃除の方、食事の調理師さん、誰もがプロフェッショナルで、丁寧で完璧な仕事をしている病院だった。私は、そのことにとても感銘を受けて、これからの自分に大きな力をもらった。私は人一倍気が小さくて、怖がり。なので、大した病気でもないのに、大騒ぎして、あーでもないこーでもないと、自ら不安を大きくするところがある。その上、疑い深いから中々先生を信用できず、あれこれ調べまくる。そして、調べてまた不安になる。この自作自演とも言える、面倒なドタバタをこんなに評価してもらえるとは。しかも、それは自分の弱点だと思っていたけれど、先生に言われると、それが何かに活かされるような気がしてきたから不思議。病室に戻る廊下で私は心から思った「この病院で手術して良かった。そして、これは自分にとって必要なことだったのだ」と。部屋を出る前、USBメモリを手渡された。手術を録画した映像が入っているという。「要らなかったら消して、普通に使って下さい」と先生は言った。私は見る勇気はなかったが、一つの記録として大切に取っておこうと思った。しかし、手術の映像を渡す先生って、なかなか珍しいと思う。どこに出してもらっても結構ですという先生の言葉に、手術に対する揺るぎない自信が伺える。【2015年12月13日】術後5日で無事退院。まだお腹は張っていて、普通のズボンは履けない。傷は力を入れると痛い。車の振動がお腹に響いた。傷は日にち薬だからしばらくは痛んでも仕方ない。腹腔鏡手術といっても手術は想像以上に体に負担をかけているから、年末年始はくれぐれもおとなしくしているように、と念を押された。【2015年12月28日】術後診察日。病理検査の結果は良性。術後の回復も順調とのこと。そこで、入院中のカルテと数々の検査結果、手術の記録(何時何分にどういうことをしたかという詳細な記録)麻酔の記録(術中の血圧、体温、使用薬剤とその量など詳細に書かれている)を渡された。通常患者には渡ることがないと思われる、その専門的な書類にびっくりした。私は物珍しさもあって、それら書類を食い入るように読んだ。今までの診察も今回の入院手術も、すべて患者がどのような医療行為を受けたかが、最大限分かるように情報開示されていた。その極めつけが手術の映像。私が「素晴らしいですね」と先生に伝えたら、「それでもまだまだ足りない、至らない所はあります」との先生の弁。この謙虚さ・・本当に医者の鑑の様な方だ。家に帰って、すっきりした気分で、一区切りにと、手術の映像を見てみることにした。感想は・・見ていてお腹が痛くなった。自分のお腹の中はあんまり見るものじゃ無いですね(笑)
2016年01月05日
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めったに更新しないこのブロク。たまに書いたかと思えば、病気の話ばかり。長く付き合ってきた病気なので、ひとまずの区切りがついたところで記録しておこうと思う。【2013年10月】ことの始まりは約二年前。婦人科のがん検診の時に、右側の卵巣に見つかったのう腫。のう腫と言うのは卵巣に出来た腫瘍のこと。袋状になったもので、その中身が血液だったり脂肪だったり、様々な種類がある。その種類は多岐に及んでいて、卵巣という場所柄(ある意味iPS細胞の集まり的なところ)か、のう腫の中味が髪の毛だったり、歯であったりすることもあるらしい。一番最初に受診したのは地元の総合病院。エコー検査でのう腫を確認したところ、白いものが写っていた。診察室で先生が絵を書きながら説明した。先生の診断は「皮様性のう腫」ということで中味はおそらく、脂肪もしくは髪の毛、歯などとのこと。このタイプは大きくなることはあっても小さくなることは無いとのことで、いずれは手術になことが多いという。先生はとても気軽に「手術で取りましょうか?」という。看護師さんに「手術の空きって何時があるかな?」と、どんどん話を進める。私は全く先生のペースについていけず、必死で先生の話をストップして今この大きさでも手術する必要があるのかと食い下がった。何のことは無い「別に急ぐことはない」という。ちなみにどういう手術になるのかと聞くと、「二回帝王切開をしているので開腹手術になります」とのことだった。手術という言葉にショックを受けつつ、あまり納得行かないまま帰宅。で、いつもの通り疑い深く、調べ物大好きな私はそこから、病気の事、手術のことを調べ始めた。私の場合、調べると言うと割合で言えばネット6割、本雑誌など書籍が2割、人づての情報が2割くらいになる。これがどこかに偏るといけない。当たり前だが、情報量は圧倒的にネットが多い。ただ、真贋を見極めるのが大変。なので、先に本で大枠の知識を固めてから、ネットでの様々な情報を集めていく。その上で最も重要なのが、人づての情報だ。情報量は少なくても、信頼度が高い。それに、仮にそれが個人的な傾きを持った情報だとしても、その人をよく知っていたらその辺はこちらで修正して(例えば何でも大げさに言うタイプの人なら、そこを差し引いて)受け取る事ができる。今回も同世代の女の友人に相談してみたら、意外にも同じ病気の人が数人いた。中には既に手術した方も数人いて、その一人に「先生によっては開腹しなくても腹腔鏡手術ができるかもよ」と言われて、早速腹腔鏡手術の道を探ってみることにした。すると、どうやら過去に開腹手術をしていても、腹腔鏡手術は可能なことが分かった。この腹腔鏡手術というのはお腹に穴を開けて、カメラと器具を入れ、ガスでお腹をふくらませた空間の中で、カメラ頼りに手術をするというものだ。いわゆる開腹手術に代わる術式として多くの病院で普及していて、胃や腸、肝臓や胆囊そして婦人科などの領域で多く行われている。お腹を大きく切らなくていいので、術後の痛みが少なく、回復も早いという。ただ、術者の高い技量が必要らしく、それなりに多くの手術をこなしている、腕の良い先生を探さないといけないということがわかった。しかも、どのページにも書いてあるのが、過去に開腹手術をした人は、大抵の場合腹腔内が癒着を起こしているので、癒着がひどければ腹腔鏡手術から開腹手術へ術中に移行することが有るとの事だった。私の場合、一回目の帝王切開で、卵巣の一部を切除している。おそらく、何らかの癒着があってもおかしくない。ということは腹腔鏡手術のハードルは高いだろうな、と予想された。【2014年1月】その後色々とネットで調べて、婦人科の腹腔鏡手術をやっているという病院を幾つか見つけた。腹腔鏡手術を専門にやっている病院を受診し、そこでMRI検査を勧められ、検査の結果卵巣のう腫は最初に診断された「皮様のう腫」ではなく、『子宮内膜症』によるものだとわかった。そして、過去に帝王切開を複数回していても、腹腔鏡手術は可能だということが分かった。ただ私は手術する気分になれず、経過観察を続けた。【2014年2月】その後、また、知り合いに病状について相談する機会があった。すると、たまたまその方の友人二人が、最近京都の病院で腹腔鏡手術を受けたという。その先生がとても良い先生だったとのことで、その病院を受診してみることにした。京都烏丸にあるその病院は、細い通りにひっそりと町並みに馴染んで建っていた。後で知ったが、そこは京都で最初に出来た産婦人科医院だという。現在は建て直され新しい建物であったが、歴史のある病院らしい。院内はホテルのように高級感があり、受付の方、看護師さんが感じよくキビキビと仕事をしていた。予約をしていったにもかかわらず、かなり待つ事になったが、ゆったりとした待合室で静かに過ごすことが出来た。やっと呼ばれた診察室は待合室からドアを二回開けないと入れない、静かな部屋だった。婦人科の診察室で、カーテン一枚の仕切りで次に診察を待っている人に丸聞こえの状態で自分の話をしないといけないことが多々あった。病院というのはそういうものだからと割りきっていたけれど、婦人科という場所柄話しずらい内容の時もあり、もう少し配慮があればと思うことがあった。通された部屋は大きなテーブルを挟んで向こう側に、先生がパソコンを前に座っていた。開口一番「おまたせして申し訳ありません。」と頭を下げる先生。私は少し恐縮しながら、手前にある座り心地の良い椅子に腰を下ろした。先生はとても穏やかで、私が持っていったMRI画像を丁寧に見ながら説明をしてくださった。ひとしきり説明が終わったあと、「私が一方的に話してばかりで、申し訳ありません。何か、質問はありますか?」と仰った。いつもお医者様にこちらから質問をする時、先生が忙しそうだったり、急かされている様な雰囲気に負けたりで、タイミングを見つけるのに苦労することが多い。こちらの先生は、「さあどうぞ」と私に質問タイムをくださった。腹腔鏡手術についての不安、私の現状とどのくらい急ぐのかということ、その他細かなことを聞いて、その一つ一つに丁寧に答えていただいた。まだ手術に抵抗がある私の希望で、とりあえずは三ヶ月ごとの経過観察をすることになった。血液検査をして、特に投薬はなし。会計を済ませると。領収書と共に一枚のA4の紙を渡された。そこには今日診察で先生が説明したことと、今日行った血液検査の内容、結果が何時出るか、次回の診察はいつかなどが詳細に書かれてあり、文末に先生の手書きのサインがあった。この病院では毎回、診察の後にこのような紙を全員に渡しているのだ。その上で「いつでもご質問等ありましたら、お電話ください」と先生はおっしゃっている。このようなことは初めてだったので、いつも病院に行った時に残る「消化不良感」は全くなく、毎回気持ち良く診察室を出ることが出来た。こういうやり取りの中で、3ヶ月毎の経過観察と半年ごとのMRI検査を続けた。とても人気のある病院らしく毎回待ち時間も生じ、場合によっては先生が少しお疲れでやりとりが愛想のない時もあったが、先生に対する信頼感は段々と深くなっていった。【2015年3月】経過観察を続けていたが、残念ながら私ののう腫は段々と大きくなっていた。それと同時に、最初からエコーに写っていた白い影のことを先生が気にするようになってきた。卵巣のう腫はそのほとんどが良性であるが、なかには悪性のものが稀にある。途中から悪性に転化するものもあるという。普通、怪しきものは生検といって、直接その組織の一部を取って検査をすることが多いが、卵巣の場合、体の奥のほうにあるのでそれが難しい。そのために、私は半年ごとのMRI検査をし、血液検査で腫瘍マーカー値もチェックしてもらっていた。ただ、MRIも血液検査も「絶対に良性」と確定診断出来るものではないらしい。そういう不安要素に加え、のう腫の大きさが増していることも気になると先生が指摘した。また、先生の最近の経験上卵巣がんはとても増えているとの事だった。実際良性と判断して手術を行い、その後の病理検査で悪性であるとわかった患者さんがポツポツあるという。「そろそろ手術をしたほうがいいのでは」と薦められた。漢方薬を飲んだり、食事に気を使ったり、運動してみたり、一応あがいては見たが、のう腫は小さくなることはなかった。そして自覚症状(下腹部痛、腰痛)も少しずつひどくなってきて、自分の中では「手術は嫌だけど、今の先生だったら受けてもいいかな」という気持ちが徐々に芽生えてきた。【2015年7月】経過観察で受診。半年ごとのMRI検査の結果が帰ってきた。今までは「恐らく良性」との診断だったが、今回はのう腫の肥大もあるので、一度造影MRI(造影剤をつかって、腫瘍内の血流などを調べる)を勧めるというものだった。しかし、私は喘息の持病があるので造影MRIは行えない。先生はの診断は「手術しましょう」だった。あーついに来たか。しかも、今回先生は何時になくシビアな表情で、「○○医大を紹介します」と言った。「え?!先生が手術するんじゃないの??」私は混乱した。先生の意見としては、医大だと手術中に取ったのう腫を迅速判断して、悪性の所見があれば、必要に応じて反対側の卵巣、子宮などをそのまま取る手術が出来るとのことだった。私はようやく「この先生だったら、手術してもいい」と思えるようになってきたのに、別の病院を紹介するだなんて、とても受け入れられ無かった。普通はこういうのは先生の指示に従うのだろうけど、今まで築いた信頼関係か、はたまた、追い詰められた火事場の馬鹿力か、何時になく我儘な私がむくむくと立ち上がった。「今まで先生のところで手術可能と言われてきた状態と、今回とではどういう変化があったのか」「今の状態で先生のところで手術することは、リスクが大きいのか」「私は手術するなら先生がいいのですけど、いや、先生じゃなきゃ嫌なんですけど ここで手術していただくことは無理ですか」最後は駄々っ子のように、懇願していた。先生は一つ一つ穏やかに答えてくれた。「状態は大きくは変わらないが、最近の手術で良性→悪性という方が立て続けに続いて、 その方々は、別の病院で再手術ということになっているので、そのリスクを減らしてあげたかった」「今の状態で良性→悪性というパターンのリスクは最初から変わっていなくて2%程度」「もちろん私が手術することは可能です。ただ、悪性の場合は別の病院で再手術という可能性が 残るということです。」そういえば、色々な文献にも乗っているし、相談した医療関係者にも言われているが、40歳代の私のタイプの卵巣のう腫の悪性化は2%程度。それを低いと思うか高いと思うか。非常に難しい判断を迫られる。そのため、それを補完する形で、MRI検査や血液検査、エコー検査が行われるが、私の場合、なんらかの白い影が写っていることが先生の一番の気がかりだった。診察室で、黙りこんだ私。「先生が手術することは可能」という言葉が一番心に残った。私は珍しく強く決断をした。しかも短い時間で。「先生のところでやって下さい」。先生の提言を覆すという、思い切った行動に出た私。くるくると色んな不安はよぎるが、こんなに手術が嫌だという私が、体を預けてもいいと思える何かがこの病院、先生にはあった。毎回質問することに、嫌な顔せずそして包み隠さず答えてくれること。忙しい中、明らかに診察時間外になっているにもかかわらず、電話の返事をくださること。診察内容、検査結果を必ずコピーしてこちらに渡してくれること。先生の所作の一つ一つが、とても静かで丁寧なこと。無駄な検査、投薬を極力しないところ。看護師さんが皆穏やかで、キビキビとしていて、採血がとても上手なこと。病院が何時行っても塵一つなく、ピカピカに掃除されていること。手術内容を録画して、術後に渡してくれること。などが、疑い深い怖がりな私を納得させるに足りる要素だった。だって、意識のない中体の中をあちこち、切った貼ったされる・・誰だっていい訳はないでしょう。先生には「この人だったら」と思えるものがあったのだ。手術は10月8日に決まった。帰りに「腹腔鏡手術を受ける方へ」という冊子をもらう。A413枚に渡るその書類には、手術までの検査の流れ、準備物、入院中~手術当日~退院までの詳細なタイムスケジュールが書いてあった。検査、投薬なども細かに記されていて、どんな感じで事が進むのか手に取るようにわかる。そして、術後に起こりうることも詳細に書かれていて、その対応法まで記されていた。この冊子、手術までに何度目を通したことか。考えうる質問はほとんど網羅されていて、コレを読めば手術に関しては特に何も質問が浮かばないほどだった。完璧。【2015年9月】手術一ヶ月前の術前検査。心電図、レントゲン、血液検査、尿検査、止血検査などが行われる、予定だったが、当日私の首が悪化。動くこともできず、泣く泣く術前検査をキャンセルすると、残念ながら、手術自体も延期せざるを得ないとのこと。大きな病院なら融通も利くが、先生一人でやっている個人病院。その上患者さんが多く、先生は休みなしで毎日診察、手術をこなしているのを知っていた。泣く泣く手術は延期になり、12月8日が手術日になった。【2015年11月】今度は無事に術前検査を受けられた。検査諸々とは別に、詳しい問診があった。麻酔のための既往、体質に関するものと、手術に関する不安など何でも良いので言って下さいとのことだった。私は痛めている首が不安だと相談した。何故なら腹腔鏡手術はお腹にガスを入れる関係で、足を高く挙げる姿勢で長時間居なければいけない。それが首に負担になりはしないかということがとても不安だった。看護師さんはそのことを「できる限りケアしますので何でも言って下さい」と言ってくださった。術中の姿勢については麻酔医がきめ細やかに対応しますとのことだった。首については、若干の不安あり。ただ、手術についてはもう「お任せしよう」という大船に乗った気分で、手術までの日々を過ごした。
2015年12月18日
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久しぶりに、私の近況報告。しつこいようですが、内容が「首」です。私、もしくは「首」に興味のない方には、大変退屈な文章となっておりますので、先に断っておきますね。今日は内容からして、いつもの「である調」ではなくて「ですます調」で書きます。昨年、夏の終わりに首を痛めてから、早6ヶ月が過ぎました。各方面色々とご心配をおかけして、本当に申し訳ありません。「スッキリ治ったー!」と報告したいと思い頑張っていますが、今のところまだ完治とは言いがたいです。整形外科のリハビリと、鍼灸院に通う日々です。どんな感じ?とよく聞かれます。動けるの?ランチくらいは誘っていい?と色々優しく推察してくださっている方々へ。首はじっとしていれば痛みはありません。動かすと、いわゆる首の可動域の半分くらいは動きます。例えば、普通の人は「右向いて」と言ったら、90度位は向けますよね。私はだいたい45度くらいでいっぱいいっぱいです。で、左に回す時、45度に届きそうになると、首から肩にかけて、痛みが走ります。激痛ではないです。ただ、その痛みは首を正面に戻しても、残ります。残る時間は15分位だったり、半日位だったり。その時の調子によります。今度は首を上下に動かしてみます。天井を見ると・・ほとんど見えません。うがいも、あと少しで出来そうで出来ない角度です。インフルエンザの時期にうがいが出来ないもどかしさ(笑)目薬は横になって点します。一応、軽いキスなら出来る角度です(余計なこと書きましたね)。今度は下を向いてみます。これは結構普通の角度まで動きます。この上下の動きはあとに痛みを残しません。こんな感じで、動きには色々制約があります。どうしても首が回らない分を体の動きでカバーしようとするため、多少ロボット的な動きになります。滑稽ですよね。あと、全体的に視野が狭くなっています。なので、家の中であちこち体をぶつけます。掃除も隅々まで行き届いていないでしょう。先日、久しぶりにパーマをかけようと思い立ちました。ただでさえひきこもり状態でクサクサしているので、気分転換にと。でも、そのためにはあのシャンプー台をクリアしなければなりません。いつもお願いしている美容師さんに電話で相談。「首を大きく後ろに反らすことが出来ないけど、やっぱりシャンプー台無理かな」「ちょっと試してみる」ありがたいことに、アシスタントさんを使って、終業後に色々シュミレーションをしてくださったみたいです。結局、私が実際に台に寝てみて大丈夫か確認してから・・ということで美容院へ行きました。普通のシャンプー台の首のところに、角度がつかないように首枕(タオルとビニール袋で手作りしてあった)をセットしてありました。ホントにありがたい。早速試しに寝てみました。「いけそう!」「じゃ、やってみるか、痛くなったらすぐに言ってな」「オッケー」とシャンプーが始まりました。お湯で頭全体を湿らせて・・・って「やっぱり痛いわ(笑)」と、一分も経たないうちに、シャンプー断念。せっかく色々準備してくださったのにね。本当にごめんなさい。どうやら、首の角度の問題ではなくて、頭が宙に浮くことで首に頭の重さがかかることが問題のようでした。頭も支えるシャンプー台(洗いにくいよね)を開発してくれとも言えず、しばらくはドライカットのみで行くことにしました。あと、首の動きで、よくあるのがいわゆる「首をかしげる仕草」。若い子がやると可愛いヤツです。これも、ほとんど動きません。痛いのです。首はかしげなくても生きていけそうなので、無理はしていません。最終段階として、首をぐるぐる回す運動、はもちろんまだ無理です。恐怖感があり、試すことも出来ていません。リハビリの先生には、「動かさないと、筋肉が固まるから動かして、でも、痛みが残るようなら無理はしないで」と言われています。なので、基本は動かそうとしています。でも、大概の動きで痛みが残ってしまいます。その辺を打破できないかと、昨年末から鍼灸院に行っています。もともと鍼は大好きでしたが、今の症状に適しているかわからなかったので整形の先生に相談したら、「ぜひ行ってみて」と言われました。私の場合、首の深いところの筋肉が固まってしまっているので、そこを治療できる先生を色々探しました。結局鍼灸院だけで、6軒回りました。(一回だけ行ったのも入れて)今のところに落ち着いてようやく2ヶ月が過ぎました。可動域が広がりだしたのは、鍼灸を初めてからなので、やはり鍼灸の力はすごいと思います。あと、それとは関係なしに、天候、気圧の影響を多大に受けます。雨の降りだす前、ひどく冷えた朝、とにかく悪化します。これはおそらく首が自律神経に大きく関わっているということだと思います。とにかく、普通の怪我のように、日にち薬でスイスイとは行きません。首が複雑構造なのが原因のようです。レントゲンもMRIもとりましたが、整形の先生ですら、具体的に私の症状がどこから来ているのかが特定出来ないのです。「恐らくこの辺を痛めているのだろう」とか、そんな言い方です。それくらい私でもわかります。鍼灸の先生もたくさんの体に触れてきているだろうけど、やっぱり「手探り」感を否めません。それくらい、首は複雑なのだそうです。そんなに、大切なところを痛めてしまった。しかも、わざわざ、治療にと行った整体で。ちゃんと知識があれば防げたような気がすることに、いつまでたっても、後悔の念が薄れません。情けないですが。数年前に前庭神経炎を患って、歩けなくなった時もそうでしたが、病気や怪我は、人生にとってマイナスといえばマイナスですが、必ず、何かプラスも与えてくれます。人に甘えることが苦手な私が、ほぼ強制的に毎日毎日誰かに甘えっぱなしの生活を強いられます。申し訳ない気持ちで、卑屈になってく自分。「ありがとう」を素直に言えば良いのに。でも、意地を張っていても、一向に症状も良くならないし、長期戦の様相。もう、あちこちに、素直に甘えるしかない状況に追い込まれました。実母が病気がちなこともあって、結果として義母に甘えっぱなしになりました。そりゃ遠慮もします。気も遣います。でも、仕方ないのです。家事が出来ないのですから。義母は本当に良くしてくださいました。もともと仲の良い嫁姑でしたが、今回のことで更に距離が縮まりました。私も義母の前で泣いたし、義母も私のために涙を流してくださいました。本当の親子になれたような気がします。家族には本当に助けられました。一緒に心配して、一緒に闘ってもらいました。家族だから、当たり前・・だとは思えません。他人行儀に、心からお礼を言いたい気分です。症状は三歩進んで二歩下がる、の繰り返し。この「二歩下がる」の時に、心が折れるのです。でも、子どもたちもいるから、わめき散らしたいのに、それが出来ない。とにかく我慢する。それでも、こぼれ出る時も多々ありました。折れそうになる気持ちを立て直すのは本当に大変です。自力ではほぼ不可能。そこが本当に弱い私。いつもそう。だから、他力にすがるのです。これもいつもそう。たくさんの友人たちからの、励ましや、メール、手書きの手紙だったり、電話だったり。お菓子や本が送られてきたり、家まで来てくれた形跡があったり。あえて、しんどいだろうからと、連絡を控えてくれている・・それもまた嬉しかった。とにかく、首を痛める?!というわかりにくい事態に対して、精一杯の想像力を働かせて色んな方法で私を励ましてくれる人たちの言葉が、気持ちが本当に力になりました。感謝しかありません。首は自分で治すしかないけど、傾いた心は他人の力でもとに戻るのです。こういう経験が、また私を動かします。今度は私が気持ちを温めてあげたい。大したことは出来ないけど、少しでも誰かの心の温度を上げることができたらいいな、と体が動く範囲で、また色んな活動を再開していけたらいいなと思います。それにしても、首は大切。人の話を聞くにしても、ウンウンと首を振らないと、聞いているよって気持ちが伝わらないでしょ。運転するにも、首が後ろ向かないと駐車できない。とりあえず、駐車場が狭いところはなるべく避け、どうしても停めないと行けない時は体ごとひねって、面白い動きで駐車しています。首は自律神経にも大きく影響していて、食欲がなくなったり、不眠にもなります。ダメだとわかっていても睡眠薬、激増してます。私は自分の首、実は結構好きでした。どんなに高いタートルネックにも埋まらない、細くて長い首(笑)。でも、今はこの首取り替えてほしい気分です。悲しいかな、それくらい、違和感がある。最初の問いにもどりますが、ランチくらいは出来ます。夜も調子よければ出られます。ただ、天候、気圧なのか、「痛い日」があります。痛い日はたいてい首肩もガチガチに凝ります。笑顔が作れなくなるくらい。なので、当日キャンセルもあり得ます。こんな感じで良ければ、皆様遠慮無く誘ってくださいね。では、とにもかくにも、皆様首は大切に。
2015年03月11日
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7月9日で長男が12歳になった。誕生日には、彼が生まれたときのビデオを見返してみた。ついでに初めて歩いた日の映像も。一緒に画面を食い入るように見ている彼の横顔を見ながら「よう、ここまで大きなってくれたなぁ・・」としみじみ思った。確か3年前に9歳の彼をこのブログに記していたので、今回も彼の今を残しておこうと思う。(ただの親バカ日記だけど)3年前もそうだったけど、ちょうどこの時期は個人懇談の時期。学校での彼はどんな風なのか先生に聞いてみた。「基本的に学校でとてもリラックスしている」「休み時間は基本的にずっと何かの『本』を読んでいる」「理科と歴史が大好きで、相当詳しい」「友達は広く浅く」「授業や行事では色々アイデアを出して、盛り上げ役」あと、昔からずっと言われてきた「物事に集中するあまり、周りが見えない」という欠点は「少しずつ視野が広がってきてるので、心配ない」との事でした。こう書いてみると、3年前とそんなに変わってないかな。それから今回は自己評価シートみたいなのを見せられた。本人が目標(学習面、生活面)を細かく設定して、個々について自己評価(◎・〇・△)をつけている。先生がおっしゃったのは、個々の目標が達成できたかどうかより、自分で自分をどれ位高く評価できるか・・を見ているらしい。最近の子は実際は結構出来ているのに、自分に△をつける子が多いらしいが、彼は結構◎を付けている(笑)「自己肯定感」が高いのでしょうね、とのことでした。私から見て、ここ数年で彼がもっとも成長したのは、「自分をまっすぐ表現できるところ」だと思う。絵や、写真という自己表現のツールを自分のものに出来たのことは、一生の宝だと思う。。作品を評価されたり、発表出来るという機会に恵まれたことで自信を持つことが出来るようになった。あと、自分の気持ち、考えを言葉にするということも随分できるようになってきた。色んな講座やイベントで「意見、質問のある人」といわれたら、ほぼ毎回手を挙げて発表している。そもそも緊張しない人というのも大きいが、会場が百人、二百人といった大きな会場でも、堂々としゃべっている。私は子どもの頃とっても緊張しいで、人前で話すのが苦手だった。(今は人前で話すの平気になったけど)だから、人前で話すのを若干楽しんでいるくらいの彼を見ると、なんだか羨ましい。あと、最近は自分のホームページ(とブログ)を作り始めているみたいでそこに色んな文章を書いている。もともとパソコンは得意だったが、昨年一年間市のパソコン教室に通ったおかげで、自力でHPを作れるようになった。どこからか、無料のサーバーを見つけてきて自分でアップしているようだ。学校の友達が読者になってくれているようで、それを励みに少しずつ更新している。まだ製作中みたいだけど、ここが彼のホームページ。(本人了承済み)12歳。まだ、思春期の入り口に立ったばかりの彼、これから、体も心も急激に成長する。ホームページに書いているような素直な文章も「書きたくない」と投げ出す日も来るかもしれない。嵐の前の静けさ??のような穏やかな彼の笑顔を見ていると、今は今で記憶に焼き付けたいなあと思って、今回はここに記しておきました。とにもかくにも、お誕生日おめでとう。
2013年07月12日
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昨年11月から12月にかけて、子どもたちがとあるギャラリーにて個展(絵画、写真、造形)をさせて頂いた。「させて頂いた」と書いたのはまさにその通りで、「個展をやりませんか」と言われて、それに「こんなのでよろしければ」と乗ったという経緯があるからだ。自分たちで「個展をやりたい!」などと思ったことはもちろん無かったので。子どもたちだけの個展??そんなの聞いたことも見たこともない。「どうしてそういうことになったの?」という質問も多々受けるので、備忘録兼ねて書き記しておくことにする。ウチの子達(男二人)、いたって普通の小学生で、絵を描くことが好きかと聞かれれば「好き」。ただ絵画教室などに通うほどではない、というくらい。ただ、二人とも小さい頃から絵を描いたり、ブロックだの工作だの粘土だのモノを作ることは大好きだった。家のおもちゃの棚には、いつでもそういう作業が出来るために、画材や工作の材料やさまざまな道具を子どもたちの手の届くところに置いておいた。もちろん、カッターなどの危険な道具もその使い方を教えた上で。不思議なもので、子どもたちは何かを作り始めると、静かにとても集中するし、喧嘩もしない。何かを「作る」ということは小さい頃(それこそ一歳くらい)から慣れ親しんだ室内でやる遊びの一つだった。当然家のなかには次々「作品」たちが生まれるので、それらをスペースが許す限り色んなところへ飾っておいた。子どもたちが作る、たどたどしいながらも、自由な作品たちが私は好きで、お家の中はさながら自己満足なギャラリーのようになっていた。ただ、これが直接個展に繋がるというわけではない。で、ここからは、ほとんどが偶然に次ぐ偶然が重なっていく。長男が3年生のとき、学校で授業に書いた遠足の絵がMOA美術館の児童絵画展で入賞した。この絵は学校の授業で描いたものを、学校から学年全員分出展したもので、本人も出展されていることさえ知らなかった。入賞の知らせを聞いて、表彰式に向かって初めてその絵画展のことも知ったくらい。恥ずかしながらそれまで、私は長男の絵について、何か光るものがあるなどとは、全く気づいていなかった。その後、夫がその絵の写真をパソコンに入れていたところ、仕事で知り合った写真家の先生がたまたまその絵を見ることになる。その先生は元府立高校の教諭をされていて、現在は写真家ととあるギャラリーの館長をされていた。そのギャラリーがかなり特殊で、いわゆる普通のギャラリーではなく、NPOとして運営しているフリー(完全に無料ではないが、限りなく無料に近い)ギャラリーだった。芸術家の卵や、芸大の学生さん、小学校や幼稚園の卒業展など、発表の機会が欲しいがお金はない人たち(つまりは普通のギャラリーは借りるのが相当高いということ)に発表の場をというコンセプトらしい。そんなギャラリーは極めて珍しく、そのためギャラリーは大人気でいつも30組近い方が待っているという状態だという。そこの館長さんが、たまたまウチの子のその絵をみて「ビビビっ」と来てしまったというのだ。「子どもたち二人で個展をしませんか?」と言われて正直私は「こんなのでいいの??」と思った。特に絵を習ったこともなく、本当に子どもたちそのままの表現だったので。そのギャラリーでも小学生兄弟二人の個展は初めてだという。でも、私の不安をよそに、館長さんは子どもたち二人の力をとても「信じて」くださって居るようだった。ということで、かなり迷ったけど、こんな機会もないだろうと思ってお受けすることにした。展示したのはウチ飾ってあった絵や学校、幼稚園で描いた絵、旅行のときに作った作品たちをかき集めたもの。なんだかんだと数だけはあって、新たに個展のために描く必要はなかった。さらには館長さんが写真家だったので、写真の指導もしていただいて、長男は初の白黒フィルム写真を撮影、現像までした。普段からちょこちょこ子どもたちにカメラを触らせていたので、今までに撮っていた写真もあり、それらも展示した。館長さんの考えが、個展の運営自体を「なるべく子どもたちの力で」ということだったので、全ての過程に子どもたちが携わった。DMのデザインをし、どの作品をどんな風に展示するかを自分たちで決め、来られたお客さんには作品の説明をして応対、見終わったお客さんにどの作品が印象に残ったか取材。クリスマスイベントに何をするかを考え(長男のマジックショーをした)、個展最終日には子どもたち二人でお客さんお礼の挨拶をした(内容も考えて)。終了後は作品の撤収から、最後の掃除そしてHPの展示レポートまで。特に長男はそれらすべてにフル回転で関わっていた。もちろん経験も知識もないので、館長さんや私が最低限の説明、指示はするものの色んなことの最終決定は本人がした。私はとにかく裏方というか、見守りに徹することにした。ただ、それが実はとても大変だった。正直に言っていろんなことは「私がやったほうが早い」。やきもきする気持ちを抑えて、じっと見守る時間は私にとって忍耐が必要だった。ただ、館長さんがとにかく「子どもを信じてじっと待ってやる」という姿勢の方だったので、私もそれに賛同してその姿勢を貫いた。個展が終了して数日間はまさに「抜け殻」のようになった長男。それだけ、全力を尽くしたということだと思う。こんな経験本当になかなかできない。というわけで、作品も個展の運営も子どもたちの力を中心にすべてが回っていった。今回ギャラリーという場所にかなりの時間居たのだが、そこはとても不思議な空間だった。家族親戚、知人友人、それだけでなく、いわゆる通りすがりの人、新聞(今回新聞に告知をしてもらった)を見て足を運んでくださった方、色んな方がこの空間で交差する。子どもたちの自由奔放な絵に囲まれているとなんとういか、楽しい気分になるもので絵を見た後もそのままそこで寛いでいく人もいた。折り紙教室をされている人が見に来た子どもたちに折り紙を教えてくださったり、絵を見たサッカー選手がウチの子どもたちにサッカーを教えてくださったり、画商のおばあさんが子どもたちの絵を見て「サインをして」と言ってくれたり、通りすがりのカップルが館長さんに乗せられてキスをしたり、写真家の方が個展のフォトブックを作ってくださったり、ピアノの先生が子どもたちの絵に音楽をつけてくださったり・・・。思いもかけないようなことが次々と起こった。子どもたちの絵が、不思議な力を持っていることは、ギャラリーの空気を見ていたら納得できた。館長さんが信じていた「子どもたちの実力」をまざまざと見せ付けられたような気がする。今まで子育てをしていた中で、自分自身が一番大切だと思っていたこと。それは「子どもは自ら育つ」ということ。子どもたちはエネルギーに満ちていて、自ら成りたいという方向へ枝を伸ばし、葉をつけ、どんどん花を咲かせ、実をつけていく。親として出来ることは、水と栄養と、太陽の光(愛情)を与え続けて応援してやるだけ。今回は館長さんとの出会いという新しい刺激も加わって、ますます自由に子どもたちは枝を伸ばしていた。今回の個展は、自ら育つ子どもたちを信じてやろう、と改めて思った貴重な経験だった。ここから展示された作品が見られます。(サムネイルをクリックすると拡大されます)
2013年01月06日
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小学校で読み聞かせのボランティアをして、今年で五年目。毎回自分で選んだ本を読んで、子どもたちと楽しい時間を共有している。元々絵本が好きなので、今まではいわゆる絵を見せながら読む、「絵本の読み聞かせ」をしてきたが、そろそろ新しいことにチャレンジしようと思い、今年はいわゆる「朗読」をしてみようと思い立った。ちょうど先月、「読み聞かせ講座」なるものがあり、もう一度読み聞かせの基礎を見直す機会があった。そこで、最後の質問コーナーで「朗読にチャレンジする予定だが、絵本と違って、何か気をつけることはありますか?」と先生に質問してみた。今までは、お話だけでなく、素敵な「絵」という子どもにとってこれ以上ない情報源があったので、読み手の表現力はそこまで必要とされていなかったかもしれない。子どもは感覚的にまず絵から入るので、絵をバックに私の読むお話が流れているという状態で、絵の力を借りていることが多かった。でも、朗読となると、もちろん絵がないので、絵に頼ることが出来ない。おはなしを伝える手段は私の声のみ。先生は最初に「ご自分の声は好きですか?」と質問された。この私、ハイと言えなかった。いつも鼻声だし、女性にしては低い声だし。「まずはご自信の声を好きになってくださいね」と言われてはっとした。いつも読んでいて思うことは、まず第一に私自身がその絵本を好きであること、それが子どもたちにお話を伝えるときに、とても重要なのだ。だから、図らずも朗読するということで、自分の声と向き合うことになった。不満はあるけど、この声で表現していくしかないんだろうな。一応最終目標として自分の声を好きになれるように、ということも願って。私のもう一つの不安は、朗読する人と子どもたちの距離感だった。いつもは絵本の絵に、私も子どもたちも注目することで、いっぺんに一つになれた。でも、今回は私は本に目を落とし、子どもたちは・・・一体どこ見て話を聞くんだろう?朗読者と、聞く人との間になんとなく、気まずいような空間ができやしないかな、とそのことが、不安になった。先生のアドバイスは、朗読といっても、要所要所で、読み手の顔を見るんですよ、との事。絵本でもそう、字を追いながら、子どもたちの目を見るその瞬間が私は大好きで、子どもたちの目がきらきらしているとこっちまで、うきうきしてくる。そっか、そんなに難しく考えなくても良かったのだと、ようやく合点がいった。絵は読み手、聞き手がそれぞれの頭の中に自由に描く。ただ、それだけのこと。あとは、その絵を描くための情報を私がしっかりと伝えればいい。ということで、最初から長編も厳しいので、時間内にさらっと読める短編を探した。先生お勧めの本「木曜日はあそびの日」(グリパリ作 岩波少年文庫)の中から、一足の靴というお話を選んだ。一足の夫婦の靴(右足が夫で左足が妻)が主人公で、その靴を買った婦人の日常と、靴の世界が交錯するファンタジー。とにかくその靴の夫婦が仲良しで、彼らの会話(夜の戸棚の中で繰り広げられる)と人間界の会話のちぐはぐさが可笑しい、短いながらも楽しいお話だ。長さもゆっくり読んでも15分以内で終わる、ちょうどいい長さ。あとは、読み方の問題。とにかく会話が多いので、登場人物が混乱しないように、声の高低、大小を駆使して何とか会話が目に浮かぶようにした。よく、絵本なんかでも、演劇さながらに声色を使って演じ分ける方がいるのだけれど、一応読み聞かせの世界では、それはご法度(紙芝居は別)。必要最小限の演出で、後は聞き手の想像力に任せる。それが、読み聞かせの極意ともいえるかも。こちらが派手にやればやるほど、子どもたちは楽しむだろろうけど、受け身になる。今の子どもたちは、ゲームにテレビに日々刺激的な映像に触れているから、言葉から想像する力はきっと弱くなっているのだと思う。だからこそ、言葉に耳を傾けるという時間がとても大切なんだと(私は)思っている。とにかく初めてのことなので、いつも以上に念入りに練習を重ね、今日は息子のクラスである5年3組で読んできた。本から顔を上げるポイントまで決めておいて、途中何度も子どもたちの顔を見た。あちこち余所見して聞いてるだろうな、と高をくくっていたら、なんと子どもたちは読んでる私の顔をじっと見ていた。だから、どこを向いてもたいてい子どもたちと目があった。読み進んでいくと、一人の女の子がじっと自分の上靴を見つめて、動かしているのが目に入った。私たちの知らないところで、会話をしている靴たちの世界(もちろんファンタジーだけど)にすっと入っているのがわかって、正直やった!と心の中でガッツポーズ。途中幾度か子どもたちが声を上げて笑う場面もあり、あっという間に読み聞かせが終わった。絵本より、ずっと難しいかなとは思っていたけど、むしろ冷静に子どもたちの心の中を確認しながら話が進められて、正直楽しかった。まだまだ読みたい本で長編なのもあるので、今年は少しずつチャレンジしていこう。読み聞かせ講座の中で、先生が最後におっしゃったのは「言葉の力を信じたい」。この歳にもなると、言葉の持つ力だけでなく、むしろその薄さ、儚さ、もっといえばいい加減さなどという、言葉の限界なんかも嫌というほど味わってきて、最近の私はもう「言葉は信用ならん」とまで思ったりもしていて。でも、やっぱり言葉でないと伝わらないものもあるし、言葉にしなくてはいけない時もある。おはなしが言葉に乗って、子どもたちの中で生き生きと動き出したとき、やっぱりその言葉の力には、参りましたというしかない。何を隠そう、こうした思いをまたつらつらと書きつづっている私は、やっぱり言葉の力を信じてるんだろうな。
2012年06月11日
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今年も恒例の?母校(高校)でのワークに行ってきた。ウチの高校では家庭科の授業で親学習を取り入れていて、部外者である私たちに一コマ授業をさせてくれる。家庭科の先生たちの「出来るだけ実社会のことを知ってほしい」という願いから実現できた授業。私にとっては、仕事としてだけではなく、母親としても貴重な体験になっている。昨年は卵のワークをした。今年は別のアプローチでと通常のテキストを使って「自分と親」について改めて考えてもらうワークを行った。高校一年生つまりは16歳の思春期真っ只中の生徒に直球で「親」とぶつけても、いったいどうなんだろう。でも、身近すぎて普段は考えることもないだろうと思って、強制的にならないように向き合ってもらった。いつも通り、エピソードの親子のやり取り(帰りが遅くなった子どもに親が注意する場面)をグループで読んでもらい気づいたことをシェアしてもらう。「遅くなるときは、ちゃんと連絡するように」と子どもの話を聞かずに一方的に注意する親に、「貴方なら親にどういう風に返事しますか」と聞いてみたら、大体の生徒は「わかったよ」とか「次から気をつけるよ」とかその場しのぎの返答を。「ほんとに納得してる?」と聞いてみたら、やっぱり本心は『うるさいなあ』とか『べつに、おしゃべりしてただけやん』とか腹には思ってるよーと表情が緩んだ。でも、あえて本心は話さず、衝突を避けたいのだという。まあ、自分の子どものころを振り返ってみても、その頃だと、真正面から親と向き合ってたかというと、そうでもないし。「わかってもらえない」自分は、寂しくもあり、でもどこか「自分だけの『自分』な気がして頼もしくもあり。そういう年頃なんだなあと。自分が親の立場で考えると、寂しい気もするし、もっとぶつかりたい気もする。でもまだまだ「自分製造中」の中途半端な彼らだからこそ、逃げたり甘えたりの中途半端も認めてあげないといけないのかもなあ、って。たまたま去年に高校の同窓会があって、皆でアルバムをめくったり、懐かしい映像を見たりしたけど、自分が「高校生」だった頃って、正直はっきり思い出せない。とにかくどうしようもなく何かに夢中だったり、理由もなく可笑しくて、楽しかったり。不必要なほど、自信がなくなったり。漠然とした不安をその場しのぎでも誤魔化したり。かなり、カラフルであることは確かだけど、どこにもはっきりとした焦点を結ばなくて、キラキラしている。出来ればたまにしか開けたくないような、宝箱みたい。確かに、目の前に居た高校生たちは、子どもでもなく、大人でもなく。その中途半端さには、全く気づいていない。もちろんその時期しかない輝きにも。でも、そのままでいいよ。最後に短い時間だけど、私自身の「親」との距離が、高校を卒業して22年経った今どんな風に変わったかを話した。普段はファシリテーターが自分のことを話すことはないのだけど、授業としては経験談、体験談は貴重だという事で。「卒業生です」、と自己紹介したので、その辺のおばさんよりは親近感を持って聞いてもらえたかな。皆しんとして耳を傾けてくれた。私も高校生の頃は親に背を向けていた事や、その後も大きく変わる親との距離、今はとても小さく頼りなくなった親についての気持ちを話した。今はわからなくても、どこかでまた思い出してくれたらいいかな。ただ、ひとつだけ気になったことが。今回、うちの高校には「文理コース」なるものが新設されたらしく、(受験的に言えばそちらの方が、偏差値が高いらしい)私は普通コースのクラスと、文理コースのクラスと両方に入ったのだけど、明らかな違いが。文理の生徒たちの方が、なんと言うか「斜に」構えていて、ワークもサクサクこなすのだけれど、次の授業の単語テストの内職も見事な手さばきで同時進行。でも、悪びれもせず、私たちのワークにもそれはそれで参加してくれている。器用でり、どこか冷めてもいて。先生に聞けば、一年生の時点で、受験する大学や学科が決まってる子が多くて、受験に関係ない授業に手を抜く生徒が多いと。それって、どうなんだろう。私が好きだった、勉強もクラブも行事も全力投球!な校風が変わってしまわないかと少しだけ不安になりつつ、母校を後にした。来年も機会あれば、またワークできるといいな。
2012年02月13日
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4月に発病して4カ月。体調は日に日に良くなり、日常生活はほぼ普通に行っている。ただ、見ている景色は倒れる前のそれと同じではなく、視線や姿勢を動かしたときの、違和感、浮遊感はちゃんと残っている。だだ、それに随分慣れてしまったので、もうこの景色が普段の景色となっている。全く寝たきりだったのが3日間。4日目に身体を起こしてみようとして、起きられないあのショック。一週間でやっとそろそろ歩き出したものの、まるで生まれたての子羊?みたいによろよろ。窓の外を行き交うお見舞いの人たちを見て、正直「あんなふうに普通に歩けるようになるんだろうか」と心底自分を疑ったあの絶望感。うちに帰ってきて、何とか室内は歩けるものの、とにかく船酔いのように気分が悪く、動いてはすぐに横になる日々。一ヶ月が経ってそろそろ外を散歩しようと、表に出ると、開けた視界に脳が混乱して、歩くのがとても怖かった。そして、それからしばらくは一進一退の病状に先が見えず、鬱のような状態に。やっと見つけためまいの専門医の書いたリハビリ本に私の身に起こっていることがすべて肯定してあって、ようやく気持ちが落ち着いた。「治る」のではなくて「慣れる」のだということに気づいて、とにかくリハビリに打ち込む。そうこうしているうちに、「何時になったら元に戻る?」という焦りより、「これはこれで出来ることをやっていけばよい」という現状受け入れの状態までやっと辿りついた。その頃から、気分がふさぐこともなくなったかな。ざっと4ヶ月を振り返ると、こんな感じ。私の病気はあまりポピュラーではなかったし、「平衡感覚」という普段は意識さえすることのないものが侵されるという、私自身も始めての体験だったので、私の内面や見ている景色、そして身体が感じていることを言葉で説明するのにいつも苦労した。そして、いつも伝わらないもどかしさが募った。残念ながら病気の原因ははっきり分かっていないので、「どうしてこんなことになったのか?」を自問しても答えは出ない。(もちろん忙しすぎたとかストレスがあったとか思い当たることは あるけど)ただ、「病気になったことにどんな意味があるんだろう?」という疑問には自分なりに答えを見つけたい気分になっている。このブログをはじめた頃にも書いているが、若い頃は、自分の人生、身の回りで起こっていることを「自らコントロールしよう」ということに躍起になっていた。病気(そしてもしかしたら災害なんかも)はある日突然自分に降りかかってくる。たいていの場合、それは自分の意思とは関係なく。で、誰もが最初は受け身にオロオロとするばかりなのだけれども、あるところまで行くと、必ず折り返し点というか、気持ちの切り替わるポイントが来る。その切り替わるまでの時間が、とても大切なんだと思う。嘆きや落胆に浸っている時間はたっぷりと必要。時に的外れな言葉であっても、周りの励ましもやっぱり必要。そして抱えている自分の気持ちがどうやったって、自分のモノでしかないという「孤独」もちゃんと引き受けなければならない。(解って欲しいとという甘えももちろんあるけど)その上で、満ちた潮が引くように、すーっと気持ちの圧が下がっていく時がある。私の場合何がきっかけだったか、はっきりとは思い出せないのだけど、義務感でやっていた夜の散歩(暗やみに慣れるため)の途中、風に吹かれて歩いているそのことが、とっても幸せに思えた。不意にやってきたその瞬間は、やっぱり力づくではなくて思いどうりにならない現状への「降伏」からもたらされた。これが結構快感なのだけど。「あるがまま」を受け入れる事は難しい。欲望だったり、向上心だったり、生きる力だったり人は自分で目の前の景色を変えることが出来るのも事実。ただ、どこを歩いていても、どんな風に生きていても、避けようのないことが降りかかることはあって、「そのこと」を受け入れないといけない時がある。震災で多くのものを失った人は沢山いるし、私の病気なんて本当にちっぽけな事なんだけど、「受け入れるというのは実は結構な快感である」それを知ることが出来た、というのが今回の病気になった意味ではないかな。と自分勝手に結論付けてみたのでした。
2011年08月03日
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三月の震災の後から、普段見ないテレビをついついつけっぱなしにしたり、関東から避難してくる親戚、友人たちの生活を案じたり、原発についてあまりに自分が無知だったことを恥じ、今さらながら色々と調べたり。復興支援に自分が何ができるのか?「節電」というか、自分たちの生活のエネルギー源がこのままでいいのか?そもそも、関西で同じことが起こったとき、子どもたちを守れるのか?色んな課題、命題が明らかにされるのだけど、それらは、どれも不完全な答えしか見つからなくて、中途半端で、行動を起こしてみても、どれもしっくりいなくて、グルグル思考の螺旋を回るばかり。そんな時、実家から父の精神病とアルコール依存が悪化とSOS、その渦にもグルグル巻き込まれることとなり。ああ、疲れてるなあ・・・それにしても、これらの思考の迷路は出口があるのかな、と思っていたら、本当に目が回りました。4月2日朝、洗濯物を干し終えた途端、天井がものすごいスピードで回転して、頭も身体もついていけない。ゲーゲー吐き気もして、救急車を呼んでもらう。あまりのことに、頭は真っ白、手足もビリビリしびれてきて、正直死ぬかと思った。結局そのまま入院となりました。とにかく目も開けられないし、気持ち悪いし。それから三日間は遊園地のコーヒーカップに乗っているかのように回りっぱなし。メニエール病など、めまいの起こる病気は色々あるらしいが、めまいの強さなら、私の病気は「最上級」とのこと。三日間ほぼ寝たきりで、本当にきつかった。回転が収まってきたのはいいけど、今度はフラフラでベッドで起き上がるのもやっと。一体どうしてこんなことになったかというと、「前庭神経炎」という病気だった。三半規管にある前庭神経(平衡感覚を司る)が炎症を起こし、その機能を失ってしまう。そのため今まで当たり前だった平衡感覚を失ってしまったのだ。平衡感覚って言ったって、誰も普段は意識すらしていない、当たり前の感覚。平均台に乗ったり、遊園地の乗り物に乗ったときなどに、くらくら、よろよろと崩れて初めてその「感覚」に気づく程度の「当たり前」の感覚。だけど、それは見ている景色とそこに存在する自分の身体すべてを支配しているので、一旦失うとそれはもう大変。分かりやすく言うと、基本が「船の上」にいるようなふわふわ感で、その上で、自分の意識している視界、つまり見ようとするモノ、景色がいちいちとグラつくのだ。言葉で説明するのはとっても、難しい。私たちは普段、立つのも、歩くのも、テレビを見るのも、メールをするのも意識こそしていないが、視覚=目で見た情報と、身体の感覚=前庭神経の感知した感覚この二つをを上手く連動させて行っている。それがいちいち上手くいかない。結果どうなるかというと、船酔い、車酔いのように何をしても気分が悪くなってしまう。ようやく立てるようになったのが、入院6日目。そろそろと歩く練習をして、フラフラのまま約二週間でとりあえず退院。「前庭神経炎」と病名こそ付いたが、この病気実ははっきりと原因が分かってない。なので、薬もいわゆる対症療法的なものばかり。しかも、先生から通告されたのは「一度炎症を起こした(前庭)神経細胞は再生しない」ということ。ただ、それで絶望的かというと、人間は良く出来ているもので、失った片方の前庭神経の機能を脳が代替してくれるという。フラフラ、くらくらしたままリハビリを続けていれば、普通の生活に戻れますよ、と笑顔で言われた。ただ、その「脳が代替する」までの期間は1~数ヶ月となんともアバウトな説明。不安を残したまま、退院した。その後帰ってきて、二週間くらいは家の中で歩くのがやっと。何をしてもすぐに酔って気分が悪くなってしまう。一か月を過ぎた頃から、ようやく船酔いからは開放された。五月に入って、リハビリに外を歩いてみると、これまた軽いショック。家の中とは違って、外だと視界に入ってくるモノの距離感があまりにバラエティに富んでいるので、脳が追いついていかない。また、すぐにくらくら、フラフラしてしまう。この辺りから、「これ、本当に治るの??」という不安めいた思考が自分を支配するようになってきた。だって、正直すべての景色がフラフラくらくらしていたら、気分もつられてフラフラくらくらしてくる。現に、この病気の後遺症でうつ病になったり、精神が不安定になる人も多いという。そして、もれなく私も病院で安定剤をもらうことに。身体と心は連動していて、平衡感覚と同時に、心の安定も失われていく。でも、それと同時に、身体は自然と無くなったものを受け入れ、それを補完しようと変化していく。先生の言っていた「脳が機能を代替する」ということ。だから、少しずつだけど、フラフラくらくらしている景色に慣れていった。そう、フラフラくらくらが無くなるのではなくて、それに「慣れる」ことで普通の生活に戻れるのだ。そういえば、先生も「治る」とは言ってなかったな。「また車も乗れるようになりますよ」とか「普通の生活に戻れますよ」とか。倒れてもうすぐで三ヶ月、まだまだ疲れやすく、車も運転できないけど、何とかパソコンに向かって文書を打つことが出来るようになった。正直、この文面も休み休み書いているのだけど。病気になって、気づいたこと。倒れる前の自分は本当に忙しすぎた。後で振り返ってカレンダーを見たけど、予定がぎっしり。もうちょっと身の丈にあったスケジュールにしないとね。それから、入院してよかったこと。子どもたちが、随分成長していることが分かった。正直、めまいがあまりにひどくて、最初の数日は子どもたちのことをすっかり考えないでいた。上の子を産んで10年近く、育児という意味で、ここまですっかり子どものことから離れた時間は無かったかも。そして、入院期間中も、不思議と子どもたちのことが心配にならなかった。良い意味で。あの子達だったら、大丈夫だろうと。もちろん、祖母にすぐ来てもらったのも大きいが、春休み~新学期と不安定になるこの時期、家を留守にするのは忍びなかったけど、今回は不思議なくらい、子ども達のことを信用できた。実際、家の手伝いもちゃんとして、いつもと変わらぬ生活を送っていたよう。おまけに入院中に迎えた私の誕生日のために、手作りのケーキやフエルトの小物などを一生懸命作って、病院へ持ってきてくれた。40歳の誕生日を病院で迎えることになったが、思わぬプレゼントに忘れがたい誕生日となった。この入院は、子ども達の成長を、しっかり確認できたとっても良い機会となった。私の体調も、すっかり前のように戻るということは難しそうだけど、これはこれで、やっていくしかない。暑い夏を乗り切れるのか、少々不安だけど、ぼちぼちやっていこう。
2011年06月25日
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「熟議」とはその名の通り、「熟考し討議する」ことの略。文部科学省が2010年に「熟議カケアイ」というサイトを開いたのが始まりらしい。今まで政策施策決定にあたり、識者による委員会などの意見を参考にしてきたが、もっと現場の意見を!ということでとりあえず教育の分野で実験的に試みられているという。サイトを見てみたが、実際どのくらい声がどんな風に反映されているのか、分かりづらく少々アヤシイのだが、教育に関する幾つかのテーマで、既に議論がなされていた。正直、ネット上での議論は興味のない私。ただ、今回は「リアル熟議」ということで、実際に人々がどこかで集い、話し合いをするというイベントを知った。テーマは「子ども達がイキイキする学校、コミュニティとは」というもの。開催場所が、以前から知っている小学校(といっても公立で無くフリースクールのような所)で、対象者が教育関係者から学生、保護者など幅広かったので、参加してみることにした。普段から、子どもの学校に出入りしたり、ファシリテーターとして色んな人の話を聞いたりしている中で、「学校」については色々と思うところがある。あんなことも、こんなことも、それはどうよ、ということも。色んな思いが自分の中でかなり溜まっていて、アウトプットする場が欲しかったのも事実。当日は定員50名の満員御礼。定員にあふれ、熟議には参加せずオブサーバーとして参加している人もいるほどだった。あらかじめ、5名から7名ほどのグループ分けがされていて、各グループにはファシリテーター(進行役)がつく。いつもは自分がファシリなので、自分の意見は封印!で話を進めるが、今回は参加者なので、思う存分話が出来る。言いたいことも聞きたいことも満載で、ワクワクしながらグループの話し合いが始まった。私のグループのメンバーは、私と、フリーライターをしているお母さん、公立中学の先生(なんとうちの近所の学校)、市会議員、フリースクールを立ち上げようとしている元高校の先生、と男女混合、年齢も幅広い面々。簡単な自己紹介のあと、とりあえず各々が「学校」やそれをとりまく「コミュニティ」について思うところと発表し合った。いわゆる問題提起だが、もうそこから参加者の意見が様々。私は「学級崩壊とそれに対する学校、保護者の対応」他には「諸外国における学校選択の幅広さとそれに対する、国、社会の柔軟さ」「多様性がみとめられず、思うような授業ができない現在の学校」「子どもの『教育・学び』に関心が持てないくくらい、親自身が生活に 困っている地域の現状」など。一通り意見をだして、ざっと風呂敷を広げたものの、本当に問題は多岐に渡っていて、どこから手をつけようか・・と目の前に張られたポストイットに目を通した。でも一見バラバラなようで、他人の書いたものを見ていると、自分の思いと交差する点が見えてくる。次第に、意見の糸はあちらからこちらへ、寄り道をしながらも途切れることなく紡がれていく。そうすると、最初意見を出した人とは別の人たちが、提起された問題を深めていく、という「深め合い」のような形になってきた。ファシリをしていると分かるが、特に誰かが話題を持っていってしまうという形にならない、対等で理想的な話し合いの場。与えられた時間はあっという間にすぎて、前半の話し合いが終了。出てきたワードは、「多様性」「既存の学校の限界」「子どもたちの自主性」「社会、大人たちの閉塞感」「事なかれ主義」などなど。後半は前半話し合ったワードについて、「私たちが具体的に出来ること」を模索していく。前半が終わったところで、ある程度くもの巣のように皆の意見は繋がれたのだけれど、まだまだ幅広く、散らかったまま。でも、会の最初にも説明されたとおり、何か結論を導きだすための「熟議」ではないとのこと。たしかに数時間でこのテーマを収束するのは不可能だろう。だから、発散とそれをどこまで深めるかというところまでで良いとのことだった。後半も色々な意見が出てくる。不思議なことに、ほんの数時間一緒に過ごしただけなのに、明らかにメンバーの距離感が縮まっている。最初接点が見出せるかな?と感じた、各々のバックグラウンドの違いは途中、共感や尊敬に変わり、「この人たちは『なんとかならないかな』で終わりたくない『何とかしたい』人たちなのかも・・」という親近感が場を温めていた。後半のテーマは、「学校や子ども達がイキイキとするために、私たちが出来ることは」というもの。前半で出た問題点に対する具体的な方法を探る。前向きで現実的なアイデアを出したい気持ちはあるものの、なかなか良い案は出てこない。それぞれ理想とするところはあるのだが、それを阻む現実が。「多種多様な子どもたちを認めてあげる教育がしたい」「子どもの自主性を尊重する教育を」⇒公立学校の教師一人に35から40といった多人数教育では限界が。「核家族化で孤立し視野が狭くなっている親たちの気軽な話し合いの場づくり」⇒これは私のやっている「親学習」なども有効か。でもなかなか普及していないのも現実。(もっと参加者を増やすために垣根の低いものが必要か)「生活そのものが苦しい親や地域への支援」⇒お金が必要。行政の範疇か。親の価値観も様々。私たちができること・・と考えていくと、そこに集まっているメンバーは既にその「何か」をしている人たちだったと気づく。公立学校の教師たちに余裕がないなら、もっともっと地域の人たちが学校に入って授業をしていけばいいのでは、という意見が出たが、私も小学校や高校の授業に参加してきたし、ファシリテーターをしている大学生も様々な職業を持った集団で中学校に出前授業をするという活動をしている。学校の選択支が少ないという話も出たが、メンバーの一人はこの4月に高校生対象のフリースクールを立ち上げるという。ちなみに、彼は元私立高校と塾の教師でまだ28歳。まだ20代の彼らが、具体的に出来ることをちゃんと見つけてやっている。私にはそのことが、今回一番の収穫になった。若い彼らの行動力に、とっても刺激を受けた。終了後、各グループの話し合いの結果を発表された。「まずは大人がイキイキとするために8時間以上は働かない!」「子どもたちに学びの場や機会を提供できる人たちが、自由に 情報交換できるインターネットのサイトを立ち上げる!」「子どもたちを指導するのではなく、見守る大人が大切」など、これは!!という妙案が出たわけではないが、実際に熱意、行動力のある方が多く集まっていることはわかり、何とかこの繋がりを今後に活かせないかという話で会は幕を閉じた。私としては、日ごろモヤモヤしていたことが話せて、とってもすっきり。そして何より若い人たちが、子ども達のために色んな行動を始めていることに触れることができて、とても心強かった。私たちのように、子を持つと、まず「自分の子」という狭い視野に立ってしまいがちだが、社会全体としての「子ども」というものが、いかに重要でまさに未来そのものだということは、誰も否定はできないだろう。大人も子ども、もどんどん息が詰まるような世の中になっているような気がしてならない。ファシリテーターの大学生が言っていた。「せっかく大学に入学したのに、『就活』一色で、何を学ぼうとか何がしたいのかとか全く見えなくて、ひどい閉塞感で潰れてしまいそうだった。」実際『就活』で上手くいかなくて自殺する大学生が増えているという。幸い彼女は休学して、色んな世界を見て随分視野が広がったと言う。社会が、親が、良い会社に就職することをゴールに子供たちを育てているのだとしたら・・・。考えるだけでオソロシイ。でも、周りを見回しても、小学校の塾通いなんかも、きっとそれが終着点なのだろう。本当にそれで大丈夫??私は声を大にして言いたい。「『就活』がゴール??そんなわけないやん!!」もっと世界は広し。人生は自由。そして、生きることはキビシイ!のだと。自分の子どもだけに、言ってても意味ない。さあ、自分に何ができるかなあ。せっかく色々な方面の人とお知り合いになれたので、私も微力ながら、自分で出来ることを広げていこう。そんな力が湧いてくる、とってもいい時間だった。参考までに、毎日新聞に載った当日の記事
2011年03月08日
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去年からはじめた「親学習」のファシリテーター。「親」について知る、学ぶワークなので、普段は子育て中のお母さんを対象にやることがほとんど(子育てサークルや幼稚園保育園、小学生の保護者など)。ただ、「親学習」というのは小学生から、中高生、妊婦さん、子育てを終えた「子育て支援期」の方まで、幅広い層対象にテキストが作られていて、それぞれの立場で、自分と周りの人との人間関係を考えることを目的としている。ということで、今回は地元の府立高校から、高校生対象のワーク依頼があった。家庭科の授業の中で「親学習」を行うのだという。実は依頼が来たのは私の母校。公立高校とはいえ、地元では有名な進学校であるため、生徒たちは「受験」を意識した勉強に偏りがち。そのことを危惧した家庭科の先生が、一年生を対象に、自分のライフスタイルについて考えてもらったり、地域の高齢者の方の話を聞いたり、子育て中の親子と触れ合う機会を持ったり、とにかく「実社会」を知るための授業を、様々な工夫の上に行っている。その授業の総まとめとして、私たちのやっている「親学習」を昨年から取り入れているという。公立高校の家庭科の授業を一コマまるきり私たちに任せてくれるという。教師でもない私に、こんなチャンス滅多にないこと。一年生8クラスを何人かいるファシリテーターで分担し、各自自分が担当する授業については、今まで彼らが学んできたことを踏まえてそれぞれが自由にワークを組み立てて良いということになった。私は以前からどうしてもやってみたいワークがあった。通称「卵のワーク」。小学生~これから親になる子育て準備期の人向けのワークで、参加者一人ひとりに卵を一個ずつ配って、それを赤ちゃんに見立ててもらう、という一風変わったワークだ。ファシリテーターの研修で、小学生を対象に行われている様子のビデオを見たことがあり、一度やってみたいと思っていた。ただ、私としては「卵のワーク」は初めて。そして、高校生相手というのも初めて。そもそも、イマドキの高校生がどんな感じかもさっぱり想像がつかない。いつも接しているのは幼稚園生や小学生ばかり。それに自分の高校時代を思い出せど、遥か遠い記憶であると共に、それは「高校生の目線からみた、高校生」で、客観性もなし。とりあえず、対象がイメージできないことには、ワークが組み立てられないので、依頼してくださった家庭科の先生に、今の生徒について色々リサーチしてみた。先生がおっしゃったのは、・全体的に幼い生徒が多い。・とくに男子があまり元気がない。・進学校のためか、そもそも家庭科に興味なし。・「指示待ち」な生徒が多い。などなど、どこかで聞いたような話が。ただ、私たちに「親学習」を依頼した先生は、ここ数年の生徒の様子や、それを取り巻く学校、親たちに明らかに危機感を抱いておられた。だからこそ、受験勉強ではない、生徒に必要な授業について色々模索し、試行錯誤されていた。部外者である私たちに授業を依頼されたのも、それが、生徒たちにとって新たな刺激になるのではと考えられたのだと思う。生徒が変わった、というのはおそらく正確ではない。なぜなら、先生がおっしゃった「最近の生徒たちの気になる点」は私がいつもあちらこちらで見聞きする、子ども達の「気になる点」とほぼ同じだから。そして、そういう変化の原因の多くは、子どもたちを取り巻く環境であることは身をもって感じている。端的に言えば、子どもが能動的意志で自由に行動、試行錯誤しその結果を引き受ける機会が少ないということ。そして、親が確実に過保護、過干渉になっているということ先生が教えてくれたエピソードにぞっとなった。授業の選択科目を決めるのに、親に決めてもらったり、親の顔色を伺う生徒がいるという。ちょっと信じられない話。高校生なら自分で決めるのがあたりまえでしょ??もっと恐ろしいのは、親がしっかりしすぎていて「お母さんの言うとおりすればいい」と母親に依存しそれを快適と(つまりは反抗する気すらない)生徒がいるという。主に男子生徒らしい。ああ、末恐ろしい。そんな、前情報に不安を感じつつ、とにかく自分のワークを組み立てた。「卵のワーク」では、まず最初に一人ずつ卵を配り、その卵に顔を書いてもらい、名前を考えてもらう。それから、卵を手の中でしばらく温めてもらう。今日は卵を赤ちゃんだと思って接してくださいという説明をする。私のイメージでは、高校生にいきなり卵や赤ちゃんなどと言っても、「は?」という冷めた反応か、照れて卵と向き合えないか・・と思っていた。実際、そういう生徒は少数で、案外ワイワイと顔を書いたり名前をつけたり・・ある意味幼い反応。その後、二人一組になって、どちらかが仕事に行くという想定で、卵をもう一人に預けてもらう。しばらくして、卵を迎えに行ってももらい、今度は役割を交代。そのあと、グループごとに卵を手にしたときの気持ちや、預けた、預かったときの気持ちを話し合ってもらい、そこから「赤ちゃんと接するときに大切な事は何かを」想像してもらう。実はこの「卵のワーク」、途中で必ず卵を割る生徒が出る。(小学生などはあちこちで割れるらしいが)もちろん、その体験も必要なので、割れたらこちらはしめしめと思うのだけど。そして、予想通り、卵に感情移入できず、コロコロ転がし始める生徒。中には穴を開ける生徒。かと思えば、自分のひざ掛けで大切そうに卵を包み抱っこしている生徒。黙って、じっと大切そうに卵を温める生徒。本当に反応は千差万別で、「赤ちゃん」というワードを投げ掛けることで今おかれている親との関係もやはり影響してくる。「親がうざい」とワークシートに書いていた生徒は、最後までワークに入れずに居た。そういう、それそれが「卵という赤ちゃん」つまりは「壊れ易いもの=壊れたら二度ともとには戻らないもの」を手にすることで、ぼんやりでもいいから、もしかしたら「いのち」ってそんなものなのかなと感じて欲しいな、と。これから親になるというのも想像し難い。自分が親にそういう風に育ててきてもらったのかも、という方がまだ想像できるかな。とにかく、高校生にとっては「赤ちゃん」も、「自分のいのち」も、そしてそれを「守り育ててきた親」もわざわざ考えたり、感じたりすることは殆どないのだと思う。とにかくこのワークでは、手にした卵からなにかしら「感じて」もらうことが大切だと、色々考えて組み立てた。しかし、グループワークをして、それを皆に発表という形をとると分かると、生徒たちが何かしら、感じたことを文字にしてまとめるという作業が入る。そうすると、とんでもないことが起こった。「卵を手にして感じたこと」「卵がいなくなったときの気持ち」「赤ちゃんと接するときに大切なこと」ワークシートや模造紙に「書く」という作業を入れると、恐ろしいスピードで、生徒が文字を書き出した。卵を転がしていたり、放置していた子も、すらすら、さらさらと文字を走らす。「愛情が湧いた」「預かると責任を感じた」「言葉が通じないから、赤ちゃんが何を望んでいるのか 良く観察して、こちらが察してあげる必要がある」・・・などなど模範解答というべき答えがすらすらとでてくる。おいおい、君たちホントにそう思ってる??的な。行動と頭の中の恐るべき乖離があらわになった。確かにウチの高校は特殊といえば特殊で、沢山受験勉強をして入って来る生徒が多い超進学校。とにかく、「問い」⇒「解答」という流ればかり身体に染み込んでいる。鉛筆を持った途端、人が変わったように紙に文字を埋めていく様子を見て、「テストばっかりやってきたんだろうな」と思ってしまった。とにかく「頭」が育ち過ぎている子たちなんだろうな。そして「感じる」ということがおざなりにされてきたんだろうな。それを目の当たりにして・・・それでも、何かこの生徒たちの手の中に、心に残ればいいなあと、私なりにあまり押し付けがましくならない様に、ワークを進めた。最後は得意の「絵本読み聞かせ」で『いのちのまつり』という本を読んで(これが結構反応良かった)、普段あまり受けていないであろう刺激を与えるだけ与えて、教室を後にした。今回は初めてだったので、学校の教室の配置やいつもの家庭科の形式を踏まえていたので、幾つか制約があった。ただ、正直、この『卵のワーク』をイマドキの高校生に響かせることができるか、というと、かなり難しいものがあると思った。でも、「卵」という実物があるのだから、「頭で考えようとする」生徒たちには有効であるのも事実。今度は机を取っ払って、車座になって、「書く」作業はせずにやりたいなあなんて思っている。また、来年チャンスがあれば是非。
2011年02月14日
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一月の三連休、東京にいる夫の両親の「結婚40周年記念の会」に出席するために帰省をした。「結婚40周年」とはあまり聞きなれない数字。日本では結婚生活を祝うなら、金婚式(50年)のお祝いの方がメジャーだが、夫のお母さんがクリスチャンで、どうやらキリスト教においては「40」という数字がは特別な意味をもつとのことだった。実際、50年周年だと夫婦そろって元気に迎えられるかというと、年齢的にも難しいことが多い。だから、40周年というのは、なかなか良いタイミングではないかと思う。40年前にもキリスト教式で結婚式を行った二人なので、今回も神父様を招いて、「結婚40周年を祝うミサ」が行われた。ミサの中では「結婚更新」という言葉が使われていた。40年という区切りに、改めてお互いを夫婦としていくことの意思確認が行われた。「あなたは○○を妻とし続けることを誓いますか」「ハイ 誓います」というあの結婚式でおなじみのやり取りもなされ、さらには、もう一度指輪の交換まで行われた。(義母は指輪が外れずに、別の指輪を用意していたケド)正直、髪の白くなった二人がこうやって、多くの人に見守られ、もう一度「結婚式」のようなものをやると言う景色は初めて見たので、少々戸惑った。さすがにウエディングドレスなどは着ないので、華やかさはないが、40年という年月を重ねてきた二人が改めて「誓い合う」というのはとても静かな深い誓いに思えた。これから起こることなど何も知らないある意味「無知」な若い二人が交わすその誓いとは、随分重みが違うのだろうなと。お互いをよく「知らずに誓う」のと、色々「知って誓う」との違い。40年という年月の中には、お互いを知って、時にはぶつかり、それを「赦(ゆる)し」・・・という長い歴史を経てきたに違いない。ミサのあと皆で食事をし、落ち着いた頃に、夫(つまりは夫婦の息子)が作った「結婚40年を振り返るスライドショー」が上演された。夫はそういったことを生業としているので、技術的には難しいことではないだろうが、自分の親を主人公にというと、照れくさかったり、変に感情移入したりとかなり悪戦苦闘していた。あちこちから、それこそ埋もれていた写真たちを発掘し、整理し、デジタル処理をし、音楽に乗せて、40年の流れを構成していく。幸い、思っていた以上に多くの写真が出てきた。それらの中には、ちゃんと整理されずに袋に入ったままのものもあった。黄色く色褪せた写真。日付が消えてしまったもの。べっとりとくっついてしまって、はがすのに一苦労したものも。作業をしている脇でそれらの写真たちを見ていたら、なんともいえない気分になった。一枚一枚に降り積もる時間。「写真っていいなあ」。夫はそれこそ、音楽の選択や、写真たちをいかにストーリーとして見せるかということを試行錯誤していたが、私はもうその古い写真たちが持つ力に圧倒されて、申し訳ないけど「どうやって作ったって、いいものになるよ」なんて無責任なこと言っていた。それ位、その写真たちは多くを語っていた。その中で一枚、印象に残る写真があった。新婚当初の若い二人がささやかな新居のベランダで、同じ腕組みのポーズで立っている。誰が撮った写真なのか定かでないが、ちょっとおどけた空気や、普段着のリラックスした感じから、それが特別な日でないことがわかる。その「何気なさ」に、二人が新しい生活に見つけた喜びや、希望が息づいている。私は血の繋がった娘ではないが、「義理の親だから」とかいう親近感ではなくもっと普遍的な「しあわせ」がそこにはあった。なんともいえない愛おしい気分になる写真だった。20分ほどにまとめられた写真の数々を、集まった親族たちで笑い、時には目を潤ませながら見入った。息子が自分の親の歴史を振り返るなんて、正直どこか恥かしいような、照れくさいようなものに、なるのではと思ったが、そこはプロ。夫は仕事のように、とにかく客観的に「作品」にしていたので、杞憂に終わった。スライドショーの最後にお互いへのアンケートが少し紹介された。「好きなところ」「嫌いなところ」もちゃんと書かれていたが、その「嫌いなところ」を「何とか受け入れようとしている」という一文が「結婚」を物語っていたように思う。しかし、40年って長いなあ。写真だけでも膨大な数。そして、一枚一枚がその日その時は生々しい日常であったと思うと、今、日々を紡いでいくある意味地味な作業が、確実に未来のいつかに繋がっているんだなと実感することができた。
2011年01月11日
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2011年も明けました。「2011」とは二十世紀生まれにとっては、なんとも未来形な数字。それでも現実はいつもと変わりなく粛々と進んで行くのだけれど。昨年も色々と活動してきたけど、「忙しすぎる」ことの無いようにだんだんセーブする能力がついてきたみたいで、パンクすることはあんまりなかった。それでも、年末に急性副鼻腔炎に罹り、顔面痛と頭痛で元旦から休日診療に行くことに。初詣で引いたおみくじもひさびさの「凶」。幸先良い始まりではない新年なので、気を引き締めないとね。とりあえず、去年もずーっと体調がすっきりしない(それを「老化」と呼ぶのでしょうか)日々だったので、今年は重い腰を上げて、やっとちゃんとした運動をと思い一念発起。というたいそうなものでなないけれど、毎日ウォーキングすることにした。ウォーキングというよりは「めっちゃ早歩き」。気分としては、もうちょっとしたら「走り出しそう」な感じかな。でもジョギングとかにすると、続かないような気がするので、一応歩きにこだわった。荷物を持たないで、子どもたちも置いて一人で!ということにすると、とっても身が軽く、とにかく気分がいい。幸いウチの周りは坂道だらけなので、フツーに歩くだけでも結構な運動になる。基本、運動はあんまり好きではないけれど、歩くのだけは大好きなので、何とかつづけられそうかな、と。去年は「家計簿をちゃんとつけよう!」と決めて、今のところ続いている。一年に一つづつくらいなら、なんとかなるかなあ。「継続は力なり」。後はファシリテーターの仕事を今年はもう少し深めようかな。いつもは子育て中の母親対象にワークをすることが多いのだけれど、今年は高校生相手のワークにも参加することになった。縁あって母校にも行くことに。いまどきの高校生にも興味津々。伝えたいことも沢山。いつものワークとはまた違って、新しく組み立てないといけないので大変だけど、結構楽しみにしている。それにしても、自分の高校にこんな形で行くことになるなんて、ホント不思議な縁。子育ては、心配しなくてもいつも新たな課題が用意されている。今年は「手を抜いて、気を抜くな」。色んなことが自分たちで出来るようになってきた子ども達。私は一歩引いて、でもちゃんと見守っていてあげたい。その辺の距離感が難しいのだけれど。ブログももうちょっと更新できたらいいな。と、おみくじ「凶」の低め発進だけど、今年はゆっくり、じっくり「マイペース」で行くつもり。以上、新年の抱負でした。
2011年01月06日
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先日とあるブログにて紹介されていた、「『普通がいい』という病」 泉谷閑示著(講談社新書)を読んだ。面白くてあっという間に読み終えて、二度読み。今年読んだ本の中でもダントツ一位。もちろん今まで読んだ本の中でもかなり上位にくるかな。私たち自身、そして社会が「普通」だと思っているもの。正確に言えばそれぞれの「頭」がそう認識しているものがいかにあやふやか。そして、そもそも「自分」の中にあると思っている「頭」や「心」「体」はどんな仕組みで成り立っているのか。それらが、非常に分かりやすく説明され、その上でもう一度「自分とは何か」を謙虚にでも希望をもって考えられる内容になっている。もちろん、今までも数々の偉人賢人たちが、いろんなアプローチで同じようなことを語っている。数々の宗教や、詩人や、思想家、哲学者、文学者、心理学者・・・私も断片的にそれらに触れ、いちいち感化されてきた。そして、この本には、その国も時代も人種も異なる人々の言葉が非常に的確に引用されている。そのことが、この本が語ることの普遍性をより高めているのは確かだ。そして、私にとっては、まるで、頭の中にあった数々のメモが綺麗に整理され、一冊の本に綴じられたように感じる、不思議な体験だった。基本となるのは、『(以下本文より)たとえるなら、「心=体」という先住民族に、(頭)という移民がやってきていつの間にか先住民を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。本来人間の中心は「心=体」の方なのだということを、「頭」はわきまえる必要があるます。「心=体」は「頭」などがおよびもつかない深い知恵を備えているものです。しかし、それがあまりにも桁外れにすごい能力であるために、「頭」にはそのすごさが分からない。単に気まぐれデタラメとしか理解できない。それで「頭」は「心=体」が劣ったものだと誤解している。その結果「頭」が思い上がって「心=体」をコントロールすべきものだと考え、このような独裁体制が作られれしまったのです。』という現代人に対する警鐘。養老猛司さんや、私がいつも読んでいる篠先生のブログ(子育ての観点からそのことを書いていらっしゃいます)など「心=体」の感覚を取り戻すことが大切だと説いている方も実際には多いのだが、現実社会はもう随分と長い間「頭独裁時代」に入ってしまっているような気がする。そもそも「頭」とは「心=体」(これ切り離せません)とは何か。それぞれの役割、関係をもう一度丁寧に紐解いていくうち、「そもそも『普通』とは何か」とか「感情とは何か」といった手垢にまみれた私たちの概念が、もう一度洗濯されて、すっかり元の色を取り戻してくるのだ。読んでいて、そこがとても気持ちが良い。そして、さらには「愛と欲望とは」「生と死とは」といった、深い深い話へと話は広がっていく。(この辺のことはまた後日書こうかな)思えば、若かりし頃の自分。何事も「頭」のコントロールで、何とかなる、してみせるとそりゃもう必死だった。もちろん、そんなことは到底無理で、闘えば闘うほどボロボロになっていく。でも、おかしなもので、そういう一見無謀な闘いも、突き詰めてみれば思わぬところへ辿りつくもので、闘い敗れてフラフラの体に宿ったのが小さな命。このブログをはじめようと思ったのも、自分の人生がそこから面白い位に急転回を見せたからだ。自分の身に起こった妊娠、出産が、すべて、自分の意思とはかけ離れたところで、絶妙に、かつ完全に行われていくことを体験。それらは本当に「素晴らしい」と言うしかないシステムで、そこで自分の奥にはっきりと見えてきたものがあった。「頭」で考えていることはどうやらアヤシイ。もっと、早くに気づけばよかったんだけど。そして、その目覚めた感覚で実際に「普通」に子育てすることは、非常に困難だった。育児書に書いてあること、病院で言われたこと、保健所で言われることすべてが疑わしい。現に、子どもと向き合って疑問が生じたとき調べれば調べるほど、あちこちにバラバラの答えが返ってくる。最終的には「子育てに正解はないからね」なんて言われる。それでいて、世界中どこでも子どもは大人へ育っていっているではないか。グルグル回って、気がつけば「子どもは自ら育つ」という自然の摂理に立ち戻っていた。そして、日々出会う小さな選択には、自分の「感覚」を信じるしかないのだと、腑に落ちた。そこからの私のはいかにして、「頭」を賢い手下として手馴づけるかを考えた。私の「何でも疑ってかかり⇒調べ物癖」は正解さがしのためではなく、日々迫ってくる「普通」に対する自分の「感覚」を研ぎ澄ますための道具となった。特に子育ての場合、自分に沢山の経験があるわけでもない。気がつけば「人の子育ての話を聞く」という仕事についていたのも、自分にとっては、色んな「直観」の精度をあげるのにとても有効である。(「直観」も良くある「学説」や「理論」と同じくらい?ハズれるしね)そういうわけで、私の場合、今のところ子育てに関してはかなり動物的?ともいえる「直観」優勢で色んな選択がなされている。で、今のところだけど、子育てに関する「普通」とは決別したことで、かなりの悩みは減ったような気がする。とはいえ、周りはまだまだ「普通」で動いている世の中。そいう「普通」とも折り合いをつけていかなければならないのも事実。そんなとき「頭」で仕入れた「情報」は結構使える。先日息子が水ぼうそうに罹った。ウチは予防接種をしていないので、普通に熱がでて、発疹も全身に。なので、完治するのに学校を一週間近く休んだ。同じクラスで同時期に発症した子ども達は、予防接種を打っていたり、病院から出される抗ウイルス剤を飲むのが「普通」なので、学校も2から3日休むだけで治る。長く休む息子を心配して「大丈夫ですか」と担任の先生が電話をくれた。もちろん、「大丈夫です」と。この場合、「抗ウイルス剤」を飲むのが今では一般的=「普通」となっている。ただ、私の感覚として、必要でない予防接種や薬に頼ることにどうしても違和感がある。ここではっきりしておくが、私は「予防接種を否定している」のでもなく、「抗ウイルス剤」を否定しているのでもない。正直「自分の子を見ていて、水ぼうそうくらい薬無くても治る」という勘が働くだけのことであって、これが正解という理屈があるわけでない。実際、「予防接種が有効か」とか「薬にも副作用がある」ということをさまざまな情報を調べてみれば分かるが、こういう医学に関する疑問は、キリがないくらい、双方の主張がそれなりに展開されている。そしてどれも、全世界、全ケースについて調べることは不可能なので、どこまで行っても不完全な情報でしかない。ただ、薬を飲むのが「普通」と思っている先生に「飲ませてません」というと即座に「何故」という雰囲気が押し寄せてくる。これが「普通」の怖いところ。そこで、「親の勘です」とでも言えたらいいんだけど、これまた先生が「??」となるのが見え見えなので、どこかで仕入れた「抗ウイルス剤がこんなに使われているのは日本だけで、アメリカなどでは『その副作用と効果を天秤にかけて、必要と思われる子どもにだけ使うように』と注意がなされている薬なんですよ。」と答えておいた。するとこれまた「欧米諸国のやっていることは、『普通』そんなにおかしくは無いはず」という「普通」派の方には(これがアジアだとか言ったら、すぐに疑うクセにね)とても有効だったようで、「お母さん良く知ってらっしゃいますね」と感心されたりして。あくまで、断っておくが、私は「アメリカ医療信仰派」ではございません。こういう情報を、「普通」社会と折り合いをつけていくための道具としているだけ。でも、このやり方、相手も傷つけないし、とっても有効。ちょっと話がそれたが、様々な経験も、色んな知識もその「直観」の精度を高めるために上手に使う。「心=体」という偉大なものに、「頭」は謙虚について行き、見捨てられないように良い仕事をしなくちゃね。そう思えば、「情報にふりまわされる」ということにはならないと思う。「頭」と「心=体」は仲良くできるのが、一番いい状態であるにちがいないし。興味ある方は、是非ご一読を。(私と著者とは何の関係もございません)
2010年12月28日
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先日書いた学級崩壊とは直接関係無いが、懇談会のときに、担任代理になった先生が言った言葉が気になった。「もう、なんでもかんでも『先生やって~』なので、ホントに大変なんです」つまりは「先生ー 消しゴム忘れた」「先生ー ○○ちゃんが泣いてる」「先生ー 作り方わからへんから教えて」と一日中子どもたちが先生に助けを求めるらしい。実はこの話、最近あちこちで耳にする。教師をやっている友人や、子どものスポーツ指導員の方や放課後児童活動のボランティアをされている方などなど。ちょっとトラブルがあったり、不具合があるとすぐに「何とかして」と大人に頼ってくる。消しゴムが無ければ、友達に借りるとか、半分分けてもらうとか。泣いてる子が居たら、理由を聞いてみたんだろうか。周りの子が上手く出来ていて、自分が上手くいかないのなら人と比べてみてどこがおかしいのか、探ってみたのだろうか。やり方を聞いてみたんだろうか、いわゆる試行錯誤はしたのだろうか?人に聞く前に、まだまだ出来ることがあるだろうに。この傾向、実は子どもだけではない。今年は住んでいる地区の自治会の役員をしている。毎月一度の役員会に寄せられる、小さな苦情。「隣の庭の植木が伸びてきて、自分の敷地に入ってきている」とか、「夜窓を開けてテレビを見る音が大きくて、うるさい」とか「子どもが道路でボール遊びをしていて危ない」とか。「自治会の役員さん何とかしてー」って、子どもが「先生ー何とかしてー」と全く同レベル。隣の木が伸びてじゃまなら、直接言えばいいのでは。テレビの音もそう。子どもも気になれば自分で注意すればいいでしょ。何でそれが出来ないの???そういう小さなトラブルに対して、ちゃんと自分で考え、コミュニケーションをとり、解決していくと言うことが出来ないのだ。そういうトラブルこそ、ちゃんと対応すれば、前よりもっと親しくなれたり、自分が逆の立場になったときに気遣いが出来たりもするのに。自治会も学校や幼稚園の保護者の会でも、とにかく、「義務は果たさず、権利ばかり主張」する輩の多いこと。面倒な役は引き受けたがらないくせに、ちょっとした不手際や文句ばかり。とにかく「受け身」な人の多いこと。そして、「自分で考えない」人の多いこと。大人はもう手遅れとして、子どもたちが「先生ー先生ー」と自分から動かなくなってしまったのは、どう考えても子どもたちのせいではない。「受け身で、自分で考えない」大人を見ているから?きっとそれだけではない。子どもたちは「受け身で自分で考えなくていい」ように育てられている。良くある小学生の一日。朝、母親にに起こされ、出された朝ごはんを食べ、「早く用意して」と促され学校へ。学校では、「ノート出して」、「二列にならんで」、「静かにしなさい」・・すべて先生の指示によって行動し、帰ってきては、「宿題やりなさい」と指示され、その後すぐに「習い事の時間よ」と習い事へ。そこでも、習い事の先生に言われたことをやり、帰ってきて、ご飯を食べ、テレビを見て、「お風呂入りなさい」「歯を磨きなさい」「もう寝なさい」と指示されベッドへ。見事に誰かの指示、ばかりで生活している。子どもたちが、自分で決め、自分で考え、好きなように出来る時間って学校での休み時間と帰ってから、習い事に行ってないときに出来る自由な遊び時間のみ。そして、子どもたちの聖域ともいえる自由な時間ですら、「廊下は走ってはいけません」「道で遊んではいけません」「危ない場所へ行ってはいけません」「公園の花はちぎってはいけません」と大人の干渉が入る。もちろん、子どもはバイタリティがあるから、おそらく大人の目を盗んで好き勝手な事を何とかしているのだろうと思う。でも、自分たちの子どもの頃と比べたら・・・自由度は雲泥の差。私は特に自然の多い大らかな土地で育ったわけではない。でも、好き勝手に人のうちの塀を登っていたし、線路にも上がっていたし、公園の水道を噴水みたいにして遊んでいたし、商店の裏で野良犬餌付けして飼ってたし。どれも、今の子には許されざる行動なんだなあ。(正直私は許してあげたいけど)子どもたちが、心配なほど受け身で、自ら試行錯誤する意志が萎えているのは、ことごとく子どものそういう時間を大人が奪っているんじゃないかなって。子育てをしていると分かるが、子どもたちが唯一自由な意思を持って「自主的」にやるものが「遊び」なのである。「遊びなさい」って指示したこと一回もないものね。そして、本来ならその自由な「遊び」の時間に、子どもたちは自分で決め、自分で考え、その結果を自分で引き受け、成功し、失敗し間違い、学び・・・と大きく成長するのに。その大切な時間がいかに少なく、ないがしろにされているか。そうこうしているうちに、またその子どもたちも大人になって「何とかしてくれー」ばかり言う、「受け身で自分で考えない」大人になるのです。ああ、恐ろしや。
2010年12月14日
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「学級崩壊」とは誰が付けたかすごいネーミングだけど、学校の教室内で、子どもたちの私語が多かったり、立ち歩いたりで授業に入ることが出来ない状態のことをさす。どうやら息子(3年生)のクラスが「学級崩壊してるらしい」という噂が。噂を聞いた数日前、息子がぐったり疲れて帰ってきた。聞くと6時間ある授業のうち、半分くらいが授業にならなかったと。チャイムが鳴っても席に着かない子がいたり、注意する先生に暴言を吐いて激しく反抗する子が居たり、クラス全体に私語が多かったり。もう「先生の言うこと」を聞こうという雰囲気がなくなっているとのこと。その日息子は皆に何度も「静かにしろや!」と叫び、すっかり疲れてしまったらしい。一学期に行った参観などで「すこしザワついているクラスだなあ」とは思っていた。担任の先生はまじめすぎる位堅い感じの新卒二年目の女の先生。一体何時からそんなことになったのだろう。時を同じくして親たちの間でも、「どうやらウチのクラスが・・・」と噂があっという間に広がった。そしてその噂の中で「学級崩壊」という単語が使われるようになっていった。それでも子どもたちからの情報は不確かだろうし、噂はたいてい大きくなって広がる。だから、この目で確かめてみようと思った。私はボランティアで時々学校へ足を運ぶ。そのついでに息子のクラス様子を伺ったりしてみたが、どうやら授業に入れていないのは本当らしかった。教室の前に担任以外の先生が二人出たり入ったりしている。どう見ても物々しい雰囲気だ。そうこうしているうちに、翌週ついに担任の先生が学校を休んでしまった。一週間がすぎ、ようやく代理の先生が出した学級通信に「担任は体調が悪いのでしばらく休みます」とたった一行連絡があった。そこには、授業が出来なくなっている状態について、全く何の説明もなかった。私は子どもたちから聞いていること、そして親たちが噂していることについて、ちゃんと説明してください、と学校へ言いにいった。なぜなら、子どもたちがそういう態度を取るというのは、先生と子どもたちだけの問題ではないと思ったから。どうしようもない状態になっているのなら、親は親で一緒にこの問題に向き合いますよという姿勢を示したいのもあった。でも、その後も学校側からは何の連絡も無いまままた2週間。全校の参観、懇談があったので、さすがにそこでは何かしらの説明があるだろうと期待しつつ、学校へ出向いた。噂話に不安を抱いていた保護者も多かったのだろう。ウチのクラスは普段よりもたくさんの保護者が参観、懇談会に参加した。最初に校長先生が来て、担任の不在でご心配をおかけして申し訳ありませんと謝罪があった。そして、来週から担任は学校に来れるようになったが、まだ体調が不十分なので、代理のベテラン教師がしばらくは授業を行い、徐々に引継ぎをしていくとのこと。それだけ言って校長先生は教室を出た。その後、担任代理の先生が「3年生はいわゆる”ギャングエイジ”で、言うことを聞かなくなってきている。しかし、それは成長の過程でもあるので、たびたび起こる子どもたち同士の揉め事を皆でしっかり話し合って解決していくことで、成長できたら」との当たり障りのない話があった。ただ、肝心の「授業が出来ない状態にまでなっていた」という事についての説明が全く無い。あきれたと言うか、なにかそこまでして「隠さなければならないこと」があるのかそんな気すらした。そして、保護者のほうに質問された「他に何かありますか」と。は??何かあるに決まってるから、こんなにたくさんの保護者が来ているんじゃないの!何とか怒りを飲み込んで、とりあえずここに居る、ほとんどの保護者が気になっている、「授業に入れない状態」ということが、どういう状態だったのか、そのことについてちゃんと話をしたい、と私が切り出した。こちらが想像している以上に、その代理の先生は多くを知らないようだった。なので、結果的に、保護者の方が口々に「こんな話を聞いた」、とか「あんなことがあったらしい」とか情報を提供した。口々にでた母親たちの意見を総合すると、子どもたち(特に男子)が先生に対して不信感を抱いていたらしい。それは、小学生らしい「喧嘩の仲裁で先生がメソメソ泣く女子をひいきする」といった、そんなに根深いものではなかった。ただ、少しずつずれていった先生との関係が、時間を掛けて「授業に協力しない」という反抗の姿に変わっていったようだ。では何でこうなってしまったんだろう。先生と子どもたちとの間に、コミュニケーションの基本となる信頼関係が築けていない。もちろん、そこに先生の力量が問われているのも事実だが、私は今回の問題に対する、学校全体の雰囲気にその原因があるような気がした。担任が学校を休んで3週間。「体調不良」とだけ伝えられた子どもたちは、一体何を考えたのだろう。授業を邪魔した子どもたち、先生に暴言を吐いた子どもたち。そのことと「先生が休んだ」ことがどれくらい関係したのか、学校がなんとなく「体調不良」という曖昧な言葉でそれをぼやかした為、子どもたちも今回のことをそれぞれが「何となく」とらえるしかなかった。もちろん3年生にもなれば、子どもたちも勘がいいだろうから、自分たちのしたことと、先生の「体調不良」が繋がっているということは感じているのかもしれない。ただ、クラスでちゃんとした話し合いが持たれなかったり、学校側が保護者にも結局なんの説明もしなかった、そういう姿勢がこういった人間関係のトラブルに対する「人間としての姿勢」として、子どもに伝わったのも事実だ。子どもたちは、不満があるなら親に言わずにもっともっと先生にぶつければいい。先生は三週間もの間、休んでどんな気持ちだったか、ごまかさず子どもたちに正直に話せばいい。そういう「人と人との真剣な向き合い」がなされずに、どうやって信頼関係が築けよう。担任の先生がまだ2年目で難しいなら、第三者である他の先生を挟んで子どもたちと先生が話し合うことなどはできなかったんだろうか。そして、学校と保護者もどうしてもっと本音で話し合うことが出来いんだろうか。結局、3週間の休暇の後、担任の先生は戻ってくることになった。ただ、まだ授業の引継ぎその他不安もあるので、しばらくは代理で入った先生と二人体制で行くと言う。私は、懇談会の最後に念を押した。「先生と子どもたちの間にわだかまりがあるのは、どうやら事実らしいので戻ってこられるなら、その辺りを一度しっかり話し合ってはどうでしょうかでないと、また同じことの繰り返しになると思います。」と。そしてその話し合いもどうやら持たれないまま、現在に至る。息子に聞いてみた。最近のクラスの状態は?「殆ど先生がいつも二人いるので、前のようにざわついては居ない」では先生と皆は仲直りしたのかな?「前よりは仲良くなってるけど、なんか中途半端な感じ」今は先生が常に二人居る厳戒体制で授業がされている。結果として静かに授業が進んではいるのでそれで一件落着??なんだろうか。どうも腑に落ちない。学級崩壊にせよ、なんにせよ、トラブルが起きたということはそこで仕切り直せば前より深い関係を築ける良いチャンスだと思う。(これも懇談会で言ったけど)。「先生と子どもたち」「学校と保護者」どれもがガッツリ向き合うことを恐れているとしか思えない。これが、今の学校なのですね。
2010年11月28日
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近頃のワタシ、・近所の農産物直売所にハマッている。 最近のお気に入りは無花果(いちじく)。生で食べたり、ジャムにしたり。 ここだけは野菜が全く高騰してない。・秋は週末イベントだらけ。 学校の行事に、稲刈り、あちこちで開催される様々なイベント。 毎週どこかへ出没してる。・髪型がここ二年位ずーっと変わってない(ロング)。・もう随分と長い間、ぐっすり眠れてない(寝つきが悪い、途中覚醒する)。 そのため、あちこちコリコリしているので、鍼灸院通い。もぐさの匂いを プンプンさせて歩いてる。・あまりにも、疲れやすいなと思っていたら、また貧血。鉄剤飲む様に言われる。 しかし、鉄が足りないから、鉄剤って、根本的解決になってないような 気がしてならない。 ・漢方薬も飲んでる。(不眠、貧血)・幼稚園の行き返りの「ママの井戸端会議」をパスする日が多い。 ・子どもたちに「手」が掛からなくなってきた。 勝手に外へ遊びに行ってくれたり、お留守番してくれたり、お手伝いしてくれたり。 (相変わらず、子育ての「気」は抜けないけど。)・そのせいか、夕食が一品増えてるような気がする。・乳がん検診に引っかかって、半年ごとの経過観察。・近しい友人が今年出産ラッシュ。・目がコンタクトを拒絶する日が多い。・あちこち、子育て講座に参加。日々の育児を振り返る。 振り返れば振り返るほど、子どもたちには非はなく、 すべては私の問題だということが分かる。・「フジファブリック」というバンドのCDをほぼ毎日聴いてる。 昨年ボーカルの志村君が亡くなってから、聴き出したが、 彼のファンになってしまった。 長年の奥田民生氏熱がついに醒めてしまったのか、単なる浮気なのか まだ見極められずにいる。 ・ジーパンばかりだったけど、スカート履く様に子供に言われ、 最近スカートの割合高し。・仕事はファシリテーターとイベントレポート記事作成を少しずつ。 どちらも、評判は良い。 ・最近つくづく、自分の耳と鼻が敏感なことが、あまり喜ばしいと 思えなくなってきた。 聞こえてほしく無いこと、臭いたく無いものが増えてきた。と、こうやって書くと、大した近況ではないなー。だから、日々の徒然をブログに書く気にはなれないのだけど。一応、リクエストがあったので、お答えしてみました。今年もあと数ヶ月。平穏に暮らせたらいいなあ。
2010年10月14日
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「人に言えない秘密ありますか」。ネットでの某調査によると、約4割が「墓場まで持っていきたい秘密がある」とか。それが、多いか少ないかなんとも判断しようがないけど。私も40近くになって、さすがに「秘密」が重たくなってきてね・・・って、私の場合、自分の「秘密」でなくて、他人の「秘密」なんだけど。なぜだか分からないけど、私の所には「秘密」が集まる。女の子にしては、口が堅そうに見えるのか、それとも、大概の話にあんまり驚きそうにないように見えるのか。「これは絶対誰にも言わないでね!」って前置きで、とんでもない秘密が次々と舞い込んで来る。おそらく自分一人で抱えているのが苦しくて、打ち明けたくなったのだろう。人の話を聞いたり相談に乗ったり・・というのは得意な方なので、そういう話が来るのも仕方ないけど。もう「相談」というレベルではなくて、ただただ聞くしかないようなトンデモナイ「秘密」が次々と私のところへ集まってくる。人の秘密とはいえ、さすがに私も重たくなってきて、いっそぶちまけて・・・なんてしませんよ。そりゃ私だって、下世話な人間なので、そういう話が嫌いではない。でも、それが親しい人であればある程、聞いた後、気持ちが重ーくなるのも事実。ただ、決まって打ち明けた本人は少しは元気になるから、「秘密」を聞いたことに意味はあったかな、と思う。どんな「秘密」かって。そりゃ秘密だから教えられないけど。個人特定できないように、すこし捏造して披露すると。「実は隠し子が居る」(これ、聞いた時、思わず声出してしまった)とか、「旦那に内緒で家を出つもり、だからお金貸して」とか。「浮気の証拠を着々と集めてる」とか「兄は病死でなくて、自殺した」とかまだまだあるけど、書けない。一番多いのは、男女のこと、その他お金のことや病気のことなどなど。ちょっと間違えば「土曜サスペンス劇場」みたいな世界は案外、日常のそこら辺に転がっているのかも。見事に集まった色んな「秘密」を並べて、横からじっと見てみる。親しい人からのものだから、ついつい甘くはなってしまうけれど、どれも、起こるべくしてというより、まっすぐに、道を進もうとしている人たちがほんのちょっとだけ、ずれてしまっただけなんだなって。明らかな悪意があったり、「いかにも」って言う人は一人もいない。「秘密」の裏にある話をよくよく聞けば、悲しいような運命すらある。その証拠に、その「秘密」は確かに今も「秘密」のままで、皆それを抱えたまま、日々の暮らしをまたコツコツとまじめに積み重ねている。決してやけを起こさずにね。苦しくなって、私に打ち明けたってことは、そこに「罪」の意識も感じているからで、それなりに、秘密に似合うだけの苦しみも引き受けてるんじゃないかなとも思ったりして。幸か不幸か、私も打ち明けてもらった沢山の「秘密」たちから、色々と学ばせてもらっている。その一方で、「隠すような秘密なんて、ございません」という人も結構居る。調査では6割近く?!それは、それでまた立派。色んなものと、ちゃんと闘ってきたんだろうな。で、貴女はどうなのよ、って言われそうだけど。そこのところは「秘密」にしておきますっ。ちなみに、私はまだまだキャパがあるので、どうしてもって方は、まだ「秘密」受け付けてますよ。
2010年09月18日
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ぬちしぬじがま、沖縄の方言で「ぬち=いのち」を「しぬじ=しのいだ」「ガマ=洞窟」つまり「命をしのいだ洞窟」へ行ってきた。今年で三年目になる沖縄家族旅行。毎年、飛行機と宿だけ取って出掛ける。唯一、前もって予定を入れるのが、自然体験のツアー。Ryuさんというガイドの方が一人でやっているツアーは一年目に「浜辺と磯のツアー」、去年は「ジャングルの沢歩き」「夜の探検ツアー」に参加、今年は「鍾乳洞ツアー」を予約した。今まで参加したどのツアーも本当に素晴らしく、毎回子どもも大人も大満足だった。いつも、初めて出会う自然にただ感動するだけでなく、地球のこと、時間のこと、色んなことを考えさせられるとっても刺激の多いツアーだ。今年も、期待いっぱいで待ち合わせの場所へ。いつもの通り、Ryuさんの車で探検場所へ行く。今までは、殆ど観光客も来ない「秘密の場所」だったが、今回は、Ryuさん以外の方もガイドをしているという鍾乳洞。車を降りて歩くと、整備された案内の看板があった。「ぬちしぬじガマ」。いのちをしのいだ洞窟という意味だそう。戦時中、この集落の約300人の方が、3ヶ月もの間その洞窟に身を隠したという。幸い、その方たちは無事助かり、死者を出さなかった。それでも、「戦争」というキーワードが出てきて、ちょっといつものツアーとは違うな、という緊張感が漂った。沖縄本島のへそ(中心)にあたるこの場所。サトウキビ畑の横を歩くと、漂う牛の臭い。このあたりは闘牛の町だそうで、牛を飼っている所が多い。闘牛には会えなかったけど、肉牛?が居たので、子どもたちは餌やりをした。段々狭くなる上り坂を歩くと、にわかに大粒の雨が。また、雨女っぷりを発揮してしまう。足早に洞窟近くへ急ぐ。Ryuさんが入り口近くの岩盤のところへ私たちを案内した。いわゆる山あいの土地なのに、よく見るとそれは岩盤ではなく古いサンゴだった。その証拠に二枚貝の化石があちこちに埋まっている。山の中に貝??遥か昔の地殻変動で海の底が隆起したのだろう。「昔はここは海の底だったんだよ。」と言われて不思議な気分。洞窟へ入る前に注意事項の最終確認。鍾乳洞であるため、頭上と足元はとがった岩ばかり。帽子をしっかりかぶり、特に大人は頭に注意するよう言われた。一人ひとつずつ懐中電灯を渡され、いよいよ入り口へ。細い曲がった道を下り、また登り、ガジュマルの木がうっそうと茂る湿った日陰に、暗い入口が不気味に口を開けていた。隠れ家にふさわしく、この入り口はなかなかに分かりにくい。雨で湿った空気とその静けさに、大人の私でさえ正直少しぞっとした。Ryuさんを先頭に洞窟へ入る。いきなり、左右から大きな岩がせり出した通路を通る。探検気分は一気に盛り上がる。音の響きが外界とはすっかり変わり、光が届かなくなってすぐに外の世界のことは忘れてしまった。足元にはひんやりと浅い川が流れている。この川は外界とつながっているので、生息する生物は外界のものと同じものが多い。ヨシノボリ、やエビなどを見つけながら、奥へ進む。奥へ進むと天井の高い、少しだけ広めの空間へと出た。とりあえずそこで探検はストップ。暗闇に目が慣れてきたとはいえ、どのくらいの広さかなかなかつかめない。ここで、Ryuさんの懐中電灯を残し、それぞれの電気を消した。そして、最後にRyuさんの懐中電灯を消す。真っ暗。「目の前で手のひらを振ってみてください」と言われやってみるけど、当然何にも見えず。瞬きをしても、もちろん何も変わらず。ただただ、暗黒の世界。そこにある懐中電灯の電池がすべて切れたら、私たちは外へは出られない、とRyuさんに言われぞっとする。命の危険すらあるので、この洞窟にはちゃんと管理者がいて、許可を取らないと入れないという。私たちがいかに「光」に頼って生きているかを痛感する。「どんな音が聞こえますか」といわれ耳を澄ます。視界が奪われると、必然的に聴力は研ぎ澄まされる。さわさわ・・と水の流れる音。ひたひた・・と水が岩肌をすべる音。ぴたぴた・・としずくが落ちる音。私たちの気配を除けば水の音だけ。脳にインプットされるのが、こんなにシンプルな音だけというのもなかなか無いことで、体と頭の中がイマイチ状況についていってない様な、異様な感覚。暗黒の時間が一分、二分と過ぎていくと、むらむらと湧き上がる欲求。「電気点けたい」。暗闇が怖いというより、とにかく落ち着かない、不快な気分。ああ、はやく灯りを・・と思っていたら、案の定、次男(五歳)が悶えだした。私にしがみついてくる。そうよね、落ち着かないよね。「早くつけて・・」。5分が過ぎようやく懐中電灯を点けてOKと言われる。ほっとして肩の力が抜ける。明らかに、さっきより視界がクリア。目が暗闇に順応して、わずかな光も拾おうとする。普段はまず使わないが、ちゃんと人間にもそういう能力があるんだね、と再確認。ちょっとだけ研ぎ澄まされた感覚で、探検を続ける。足元の水の冷たさも、最初よりは慣れてきた。鍾乳洞であるので、よくよく見ればどの岩も奇妙な形をしている。そして、ひたひたと流れるカルシウムたっぷりの水のおかげで、今も少しずつ少しずつ形を変えている。その速さ、1センチで100年ほど。ということは、そこらにある岩はそれぞれウン千年?ウン万年?の時を凝縮している。気が遠くなるほどの時間の流れ。歩いていると、Ryuさんが「こうもりの臭いがする」という。「こうもりの臭い??」、鼻には自信があるので、精一杯鼻を澄ます?とわずかだけど生き物の臭いが。「臭っ」というほどではないけど、生暖かい風と共に埃っぽい臭いがしてきた。懐中電灯をかざすと、ぱたぱたとこうもりの群れ。別にこっちに攻撃を仕掛けてくるわけでもなく、子どもたちも怖がらず見上げている。しかし、よりによって、こんな場所に住むなんてね。でも意外と静かでいいのかな。気がつけば探検も一時間を超えていた。初めよりは、洞窟に順応してきた自分がいる。再び、広い空間に出てきたところで、Ryuさんがこの近くの集落のおばあに聞いたという話をしてくれた。(その2へ続く)
2010年08月30日
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Ryuさんが出会ったおばあは、まさにその洞窟に身を潜めていた一人だった。おばあは当時まだ小さな女の子。300名もの人たちと3ヶ月もの間、洞窟で生活した。ある日その女の子(おばあ)の弟が、洞窟内で熱を出した。もちろん医者に行くことも出来ず、食料すら満足に無い。弟が心配でたまらなかった女の子は、ふと「熱にはバナナの皮を額に貼ると良い」と誰かに聞いたことを思い出す。居ても立ってもいられなくなった女の子は、大人たちの目をかいくぐって、こっそり洞窟を出た。人っ子一人いない村を駈け、女の子はバナナの葉を取って帰ってきた。だが、その姿をアメリカ兵が目撃していた。誰も居ない集落と思っていたところに、女の子の姿。これはきっとどこかに隠れ処があると、アメリカ兵は女の子の後をつけ、ついに洞窟を発見した。日本語を話せるアメリカ兵が洞窟に向かって話しかけた。「もう戦いは収束に向かっている。皆を助けるので、どうか投降して出てきてほしい」。とうとう見つかったと、洞窟の中の人たちは落胆した。当時、同じ様に沖縄各地の洞窟に身を潜める人たちが多数いた。その中には、アメリカ軍につかまって虐殺されるよりはましだと、自決したり、殺しあったりした所もあったという。混乱の中、村の長の下、話し合いが持たれた。そして、長が一つの決断を下した。「私が行って、もし無事に助けられたのなら、外から皆さんに呼びかけます、 そうしたら、皆も続いて出てきて下さい。 私が帰ってこなかったら、アメリカ兵は私を殺したと思ってください」僅かに残っている、命の助かる可能性に賭けようということだった。村の長はそう言い残すと洞窟を出た。そして、外から皆を呼んだ。「大丈夫、皆出てきてください」。そうして、300名の人たちは無事助かったのだという。それから、その洞窟は「ぬち(命)しぬじ(しのいだ)ガマ(洞窟)」と呼ばれ、今も管理、保存がされて沢山の人がそこを訪れている。こんなに狭く、暗い空間に300名もの人が、3ヶ月間も暮らしていたなんて。想像も出来ない。灯りは豚の油で灯し、食料は休戦している夜中に男たちが周りの畑に取りに行ったらしい。川が流れていたので、水は確保できていたのだろう。でも、あまりの閉塞感に私だったらすぐに発狂してしまいそうだ。それでも、耐えに耐えしのび、人々は命をつないだ。3ヶ月の間に、洞窟内で出産した人も居たという。まさに、命を守った洞窟だった。ウチの子どもたちがこの話をどこまで理解できていたかは分からないが、確かにこの場所に300名ほどの人が隠れていたのだ。信じられない気持ちで、残りの出口への道を踏みしめて歩いた。「出口が見えましたよ」。Ryuさんの声で、頭を上げる。一瞬息を呑んだ。遠くに開いた出口から、青白い光が霞んでいる。今にも消えてしまいそうな光に映し出された、険しい出口への道と、空をバックにした木々のシルエット。やっと辿り着けたはずの光は、眩しいどころか、青白く、儚げで神聖だった。いつもの沖縄の黄色い日差しではない。ここに身を潜めていた人たちは、どんな気持ちでこの光を見たのだろう。思うと胸が熱くなった。最後の険しい道を登り、ようやく地上に出た。いつの間にか雨も上がり、普段の輝かしい沖縄の日差し。露にぬれた木々の緑も一層鮮やかだった。これが「生命の色」だ。洞窟に入ってから一時間以上が経っていた。帰り道、Ryuさんから洞窟の長さがたった200メートルだと聞かされびっくりする。慣れない空間に体も心も対応するのが必死で、あちこち疲れている。頭上に足元に注意を払いながら歩いていたので、とても長く感じた。車へ戻る途中、穏やかな村の景色に「いのちを繋いだ」人たちの今を感じた。生き残った人たちが、ここに確かに居るんだ。明らかに、行きとは違う愛おしい風景に見えた。また、心に残るツアーになった。Ryuさんに感謝。
2010年08月30日
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昨年の新型インフルエンザ騒動のときに、暇に任せて、お家でビオトープを作ろう!と小さな池を作った。ビオトープとは聞こえがいいが、要するにそこらの池のように、「ほったらかし」「自然の生態系のまま」の池のことである。小さなプラ船(左官屋さんがコンクリートなどを混ぜるプラスチックの四角い容器)に田んぼの泥や、岩、水草などをレイアウトして、生き物を入れるだけ。だから、餌はやらないし、エアーポンプもつけないし。弱肉強食そのままだし。昨年5月から一年ちょっと。越冬できずにメダカはほとんどが☆になった。ヌマエビは卵が残っていたらしく、春先から増え始めた。ただ、このビオトープ、夏場に蚊が産卵するとボウフラだらけになるので、それを食べてくれるメダカが必要だ。昨年は田んぼで捕まえてきたが、数を減らしてしまったので、今年はホームセンターでクロメダカ(在来種)を買ってきて何とか殖やそうということになった。ちょうど、実家で古い火鉢を見つけたので、それをビオトープ2号にすることにした。陶器に睡蓮はとっても似合う。ここに金魚を入れたら素敵かも・・と目論む。その後、トンボが沢山やってきて、ビオトープ一号に次々と産卵。あっと間にヤゴだらけになる。ヤゴは肉食なので、当然メダカも狙われる。ちょっとした緊迫状態。メダカも必死で逃げるので、思ったほど捕まらない。結果、餌不足でヤゴは淘汰され、私が確認できたところでは、トンボは二羽が羽化した。(おそらくシオカラトンボ)エビは相変わらず順調に増え、脱皮を繰り返しながら成長する。脱皮後の殻が透き通っていて、なんとも綺麗。メダカもいつの間にかどこかに卵を産み、小さな稚魚が泳ぐようになった。稚魚は数を減らしながらも(おそらく共食い?)精鋭たちが生き残り、今のところ人間で言えば、中学生くらい?の大きさになるものもでてきた。夏休みに入り、川で捕まえてきたメダカ、ドンコ、ヨシノボリ、カワニナなどどんどん仲間が増える。夏祭りの金魚、出目金も火鉢に投入。調子に乗って、ビオトープ3号も製作。(1号と同じくプラ船)先日田舎で捕まえたどじょうも仲間入りし、今のところ3つの池に、メダカ、ヌマエビ、ヤゴ、ドンコ、ヨシノボリ、カワニナ、坂巻貝、金魚、どじょうが生息している。そして、それら生き物たちと一緒に暮らしているのが睡蓮、水草、藻、浮き草といった水生植物だ。光合成によって酸素を供給し、魚たちの餌となり、産卵場所となり、隠れ家になり、と生き物たちには欠かせない。あと、忘れてはならないのが、バクテリア、プランクトンといった微生物。「自然のまま」と放置しているのだけど、恐ろしく水質が良いのは彼らのおかげ。バクテリア、プランクトンたちが雑菌を食べるので、水が臭くなることもない。いわゆる水換えもせず、時々雨水を足すくらいでOK。見た目は地味なビオトープだけど、色んな自然の営みがぎゅっと凝縮されていて大きな一つの生き物のよう。毎日、じっと池を覗く。夏祭りの金魚は半分近くが逝ったが、その他は元気に泳いでいる。出目金はとっても臆病ですぐに睡蓮の葉の下に隠れる。日当たりが良すぎると、とろろのような藻が増えすぎるので、少し取り除いてやる。メダカの稚魚が日に日に大きくなっていく。時々メダカが群れて泳ぐので「メダカの学校」みたいで微笑ましい。やっぱり、火鉢に金魚はよく似合う。見ているだけで、とっても癒される。心配なのはこの暑さ。すだれなどで日除けしているけど、水温が上がる。さて、あと少し、残暑をなんとか乗り越えてくれるだろうか。
2010年08月18日
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7月20日で次男が5歳になった。お兄ちゃんと4歳違い。気がつけば、何から何まで対照的な兄弟になっている。生後間もないころから、その違いは如実だった。基本的に穏やかな赤ちゃんだった兄とは違い、ぐずぐずと良く泣く。夜も、寝てもすぐに泣いて起きる。抱っこすると寝るが、布団に置くとまた寝る。まあ、こういう赤ちゃんはよく居るので、特に悩むというわけでは無かったけど、手が掛かるので、二人目の育児にしてはとても疲弊した。なので、次男の生後から7、8ヶ月くらいまでの記憶が、殆どない。赤ちゃんとして、どんなしぐさをしていたかとか、そのときの自分の気持ちなんかも全く思い出せない。とにかく無我夢中で世話をしていたんだろう。1歳を過ぎ、言葉を理解し始めたり、片言でもおしゃべりを始めると、その子の「性格」がじわじわと見えてくる。穏やかで、マイペースだった兄とは正反対、とても敏感で、まわりをよく観察している子どもだった。いつも兄がそばにいるので、必然的に遊びも生活も兄の見よう見まねから入る。でも、それ以上に大人の様子、その場所、雰囲気なんかも注意深く気にしていた。だから、当然人見知り、場所見知りもする。どこへでも、恐れなく飛び込んでいく兄とは対照的。でも、ラッキーな事に、彼にはお兄ちゃんという強い味方が。積極的な兄を盾に、怖々でも何とかいろんなことにチャレンジできるようになってきた。そしてもれなく下の子の特権「甘え上手」も身につけ、ママだけでなく、パパ、じいじ、ばあばを意のままに動かす。長女、長男だらけのこのウチでは、貴重な存在だ。昨年から幼稚園に入った。さて、集団生活ではどんな風に振舞うのだろう。楽しみにして、個人懇談に出かけた。先生曰く、「話をとてもよく聞いていて、すばやく行動できる」「幼稚園で大泣き、駄々こねなどは全くしたことがない」「みんなのお兄ちゃん的存在」お兄ちゃん???ってうちではすっかり弟だけど。ただ、いつもお兄ちゃんのお友達と遊んでいるので、どうしても同世代の子たちを「年下」に見ているようなところがある。それが、出てるのかなあ。それにしても、随分優等生だこと。でも、先生の話を聞いていて、とっても思い当たることがあった。「私に似ている」。そう、明らかに次男とは共通するところがある。気質というか性格というか。周りをよく観察するところ。そもそも、怖がりで、そのために情報収集が必要なんだけど。そのため全体がよく見えるので、集団生活ではいつも優等生。このタイプ、ささっと何かを察知したり、合わせたり、とても俊敏にことに対応する。その反面、じっくりと何かに取り組むことが苦手。これも兄と対照的。何かを作っているときも、次男はすぐに材料を選び、色を決め、てきぱきと仕上げる。一方長男はとにかく、取り掛かるだけでも、かなりの時間を要する。初めてもとっても丁寧で、ゆっくり。仕上がるのは一番最後。まあ、幼稚園などは、そつなくこなせているようだった。そしてとあるお迎えの日のこと。先生に言われた。「実はJくん、女の子に大人気で・・・そのことで女の子同士揉め事がおきてるんです」って??実はおませな5歳の女の子たちが「私がJくんと結婚する」「いや、私が結婚するんやで」と勝手に口論をはじめ、お遊戯で座るときには次男の隣の席が取り合いになっているらしい。先生も困っている、とのこと。さらにややこしいのは、その中に双子の姉妹がいるらしい。だから、その姉妹は家に帰っても、「わたしのJくん」で揉めているとか。この男なかなかやるではないか。確かに、次男は女の子に優しい。明らかに、女の子には順番を譲ったり、おもちゃを貸したり、男の子と扱いが違う。「女の子には優しくしないと駄目よ」なんて、一度も言ったこともないし、このウチで私が女子だから特段丁寧に扱ってもらっているかというとそうでもない。どこで覚えたんだか、全く。それでも、さすがは甘え上手。いつもは「ママが世界一大好き。もう好き過ぎて好き過ぎて・・・」と芝居がかった演技(本気?)で押さえるところは押さえている。先日、珍しく年下のお友達(私の友人の娘さん)が遊びに来た。2歳の可愛い女の子と遊ぶことはあんまりないので、戸惑いながら相手をしていた。途中で兄とその友達が数人遊びに帰ってきた。そちらが気になって、結局女の子をほっぽり出して、お兄ちゃんたちと遊んでしまった。友人と女の子が帰ってしまって、しばらくした後、次男がつつつっと私のそばに来た。次「なあなあ・・」私「どうしたん?」次「さっきKちゃん(女の子)来てたけど、 途中からぼくがお兄ちゃんたちと遊んじゃったから、 遊んであげらへんくなって、悪かったなあと思って」ともじもじ、している。正直、びっくりした。私はもちろん、そのことについて何もとがめたり、叱ったりしていないし、まあ、子どもなら良くあることだと気にも留めていなかったから。それに、女の子が帰って、かなり時間も経っていた。その間に、自主的に自分の行動を客観的に振り返り、反省し、それを私に伝えにきたのだ。5歳になったばかりの子どものとった言動としては予想外だった。私のなかの5歳児のイメージなら、子どもが少し前の自分を振り返ったり、そのことで自分を客観視したり、それを反省したり、そんなことはしないのである。もっともっとその時、つまり「現在」を生き、自分を含め周りへの視野は恐ろしく狭くて、俯瞰したり、振り返ったりなんて作業を自分からするなんて。少なくともお兄ちゃんのときには、考えられなかったこと。まあ、これこそが、次男らしいなあ、と。周りへの関心がとっても高いから、そんなことを一人ふと考えて言葉にしたのかなあって。「よく気づいたね」って沢山誉めてあげた。子どもの成長に触れた瞬間で、とってもドキリとした。そんなこんなで、彼は彼らしく育っている。対照的な兄も含め、これからまたどんな風景を見せてくれるんだろう。楽しみ、楽しみ。
2010年08月18日
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7月9日で、上の息子が9歳になった。早いもので、あの日から9年。私の人生で最もシアワセな日から、9年。嬉しい誕生日のはずが、その日に発熱。で、お家でまったりの誕生日となった。今日は親バカ全開で彼の『今』を書き記しておこう。たまたま、今日は学校の個人懇談でもあった。私の知らない、学校での彼はどんなものか。先生曰く、「とにかく物知り。皆に『博士』と呼ばれている」「授業中頼んでもいないのに、前に出て、皆に説明を始める」「人前でしゃべるのが大好き」「本読みがとっても上手で、感情込めて(劇団の子みたいに)大きな声で 読む」「お友達は、特に誰かと親しいというわけではなく、色んな子と 広く浅く遊んでる」「時々、自分の世界に入ったり、授業中に教科書を読みふけったりで 先生の話を聞いてないことがある」大体予想通り。物知りなのは、とにかく本が好きなので、当然の結果。本に図鑑に漫画。新聞にチラシに説明書に看板。色んなものを読みふけっている。結果、手が止まり、やらないといけないことが、何にも進まないんだけど。こちら一言も「読め!」とは言ってないのに、しがみつくように色んなものを読む読む。確か、私も子どもの頃、色んな商品の箱やシールに書いてある「成分」だの「原材料」だの「注意書き」などなど、じーっと読んでた記憶がある。それと似たのかな。それにしても、漫画など一旦読むとすごい集中力で「はだしのゲン」全10巻を3、4時間ぶっ続けで読みきったり。図書館の手塚治虫作品は、ほとんど読破。ちょっと目を離すと、何かを読んでる。で、本ばかりで外で遊ばないかというと、そうでもなくて。お友達もクラスの友達だとか、近所の友達だとかいつも色んな子が「遊ぼう」と誘いにきてくれる。彼のいいところは、どんな友達とも、結構訳隔てなく付き合ってる。「来るもの拒まず、去るもの追わず」。だから、色んなところから声が掛かる。そして、も一つ、強いなと思うのが「一人が平気」なのだ。一人でも色んな講座や、活動に参加できる。「お友達と一緒でないと嫌だ」という子も多いが、彼はそれが平気。そして、それなりに、初めて会った子達とも楽しそうに打ち解けている。変なこだわり、恐れが無い。だから、色んな「初めてのもの」は、彼にとってすべてキラキラと輝いて見えるらしい。そのおかげで、色んなところへ興味が湧き、素直にどこへでも入っていける。「やってみる?」と聞いて「嫌だ」と言ったことは殆どないのでは。いつも「やるやる!」といって、するりと飛び込んでいく。私なんかは子どもの頃、恐れと疑いに満ちてたので、どこへ行くにも、何をするにも緊張と不安が付きまとっていた。それが彼には無い。穏やかに、飄々と、モノに例えるなら「水」かな。なんて、褒めちぎったけど、どう考えても私から見ると、羨ましいというか頼もしい限りで。もちろん、そんな彼も9歳そしてこれから迎える10歳あたりで、少しずつ、「自分」というものに気づいていくんだろうなあ。今まで見ていた景色が、少しずつ違って見えたり。周りを気にしない彼だけど、もしかしたら、周りが少しずつ気になるかもしれない。まだまだ、これから色んな壁に当たるんだろうけど。その、しなやかさや、素直さで乗り越えてほしいなあ。と、今日は親バカ記でした。
2010年07月09日
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ゴールデンウイークに、夫の祖母が住んでいる山口へ行ってきた。瀬戸内の小さな田舎町に91歳で一人暮らし。白髪に痩せた体で、いわゆる昔話に出てくるおばあさんの風体になってきた。親戚の居るところへ移り住むのも、ホームに入るのも拒み、地域のヘルパーさんや、月に一、二度通ってくる息子夫婦に見守られて自力で生活している。洗濯は手洗い、風呂は五右衛門風呂を自分で焚いている。自分でその生活がいい!と言って聞かないので、周りがそれを尊重している。一年ぶりに訪ねたが、前回訪れた時と殆ど何も変わっていない。広い敷地にある母屋は普段使わず、離れの二部屋が生活空間。台所とその続きの和室で一日のほとんどを過ごしているようだ。ちゃぶ台に座椅子を置いて、専らそこでテレビを見ているか、何かを読んでいる。「私には『活字』があるから」と言って、いわゆる人付き合いは極力しない。おそらく近所からも、とっつきにくい人と思われているのだろう。本人もそれをわかって、「それでいい」と。読んでいるのは新聞、それに文芸春秋、家庭画報などの雑誌類。毎日、毎月決まって届くそれらを、きっと隅々まで静かに目を通しているのだろう。バックナンバーが整然と並べられていた。机の上には、新聞と老眼鏡。そしてお茶のセット一式。隣の小机には、庭の草花がこじんまりと活けられている。台所には使い古された道具が、綺麗に手入れがされ片付けてある。食事の支度をするのに、祖母のいつも使っている冷蔵庫を開けた。小さな冷蔵庫に最低限の食料。保存容器にはきちんと取った「だし」が入れてある。半分になったきゅうり。小さな魚の切り身。どれもきっちりラップをして、ちょこんと冷蔵庫に並んでいた。週に一度訪ねてくる訪問販売の商店から少しずつ、必要なものだけを買い、それらを大切に食べているのだろう。冷蔵庫を見ただけで、どんな食生活なのかすぐにわかった。いわゆるお出かけもすることがない。祖父が亡くなって30年近く、一度の入院以外、毎日途切れることなくそんな日々を積み重ねている。祖母が日々触れている物たち、それらの並ぶ風景、どこを切り取ってみても、「心乱れた」形跡がない。日々の生活の所作の一つ一つが、規則正しく、とても慎ましやかに行われている。静かな時間のなかで、「心穏やか」に暮らしているのだろう。隣の家とは少し距離があり、前は畑、裏は山、空は満天の星。夜は本当に周りから隔絶されたように静かだ。私にとっては、怖くてむしろ落ち着かないくらい。ここで、一人明かりを灯して、一体どんなことを考えているんだろう。とても失礼だけど、「一体どんなことが楽しくて生きているんだろう」という疑問が浮かんだ。私たちが普段生きているような生活のペースとは、まるで違う。そして、何より、91年も齢を重ねるということの意味が、私にはまるでわからない。だから、想像しようにも、とっかかりすら掴めない。私たちの想像する個人の楽しみ、なんてものは祖母の日々の行動からすると、おそらく「活字を読むこと」ぐらいしか見つからない。でも、それが生き甲斐と言うほどの楽しみではないだろう。他には・・・探してみるけどなかなか見つからない。孫やひ孫の顔を見ること?でも、頻繁に訪ねてくるわけでもないし、そもそも、祖母の方から「顔を見せに来い」と言ったこともない。いわゆる長男の嫁だから、「家を守る」ということに誇りを持っているんだろうか。でも、それだけで30年も一人暮らしができる??考えても、考えてもピンとこない。夕食後、デザートを差し入れに祖母の部屋へ行った。そこで、二人きりでしばらく話をした。血の繋がった孫ではないけれど、祖母は私に気を許してくれているようで、ざっくばらんに色んなことを話してくれる。毎回話してくれることは、「子どもが男の子でよかったねえ(祖母も息子が二人)」「私は近所の人たちとは、話が合わないのよ」「私には『活字』があるからね」などなど。そして、今回は91歳にもなったことについて、「もう十分すぎるくらい十分」と。私に気を遣っているのか、いわゆる「愚痴」のような、ネガティブなことは一言も言わない。でも、血の繋がった家族にも、「一人暮らしが、大変だ」とか「体が不自由だ」とか助けを請うようなことは、言っていないようだ。息子夫婦や私たちは、やはり見てわかる肉体の老いやどんなに頑張っても管理しきれない大きな屋敷から考えて、祖母に頼まれてではなく、自主的に様子を見に行っている。そういう形になっていること、そのことがまさに祖母のプライドというか心の支えになっているのは確かだ。そして、その「十分すぎるくらい十分」といったときの表情で、私ははっとした。私たちが想像するような、「個人の幸せ」みたいなものをもうさすがに求めてはいないんだろうなあ、ということ。そういうと仙人みたいだけど、あの暮らしはある意味現代の仙人。当たり前だけど、死ぬまで生きなくてはならない。そこに、生き甲斐だのなんだの、ぐちゃぐちゃ理由付けをする必要がない、もはやそういうところに居るのではないか。命があるから、生きてる。それはもう祖母の個人的な「命」ではなくて、あの土地で何代も何代も生きてきた沢山の先祖から、たまに訪ねてくる、小さなひ孫たちまで、しっかりと続いている、ひとつの大きな「命」。そこにすべてを委ねているかのよう。私たちはといえば、やっぱり命はまず「自分の命」であり、それが満たされなければ、すぐに不平を言い、生き甲斐や楽しみなどを、必死で求め、やっと子を持っても、まだ自分とその子の「命」にしがみつき。そりゃ、いろいろと大変な訳で。「どんなことを楽しみにして生きてるんだろう」なんて、愚問だったな。反省。91歳まで、遥か遠く感じる。でも、もしかしたら、この私を悩ます「私の命」が少しずつ「大きな命」に変わっていく、それが老いることだとしたら、それはそれで、歳をとるのも怖くはないのかな、なんて、祖母に会って感じた。
2010年05月10日
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9日で、39歳の誕生日を迎えた。さすがに、この歳になると、誕生日にわくわくしたり、そわそわしたりしなくなる。それでも、忘れず誕生日を祝ってくれる家族や、友人知人たちのおかげで、何かのけじめの日であることは感じずにはいられない。「今まで生きて来られた事に感謝やね」。いや、ホントよくここまで生きて来られたなあと、自分でも思う。思い出せばきりがない、ピンチの数々。卒論下書きとその資料が入った鞄を、ゲームセンターで盗られたり。深夜にタクシーに飛び乗ったが、所持金が足りず、途中から運転手さんの好意で目的地まで送ってもらったり。睡眠薬を気前よく飲みすぎて、一週間ほど寝たきりだったり。弱ってる時におみくじを引いたら、「生死」という欄(「病気」とか「縁談」とかの並びに)があって、そこに「十中八九死す」と書いてあったり。突然の胸の痛みと呼吸困難で倒れ、そのまま救急車で運ばれたり。妊娠してるとも気づかず、妊娠初期に「飲んではいけない薬」を飲んでしまってたり。帝王切開の手術中に麻酔が効かず「先生、痛いんですけどおお!!」と訴えたり。木枯らし吹き荒む中、ひとり八王子家庭裁判所に調停に通ったり。その他にも、車に轢かれかかったり、飲んで記憶なくしたりとか。いつも、もう駄目だ・・と思ってもどこかから救いの手が。「神様のおかげ」とか思ってたけど、よくよく紐解けばそこにはいつも誰か人の目、人の手があったように思う。39(サンキュー)ということで、やっぱり今年の誕生日は「感謝」の日ということにしよう。あまりに、当たり前すぎて、でもホントに「感謝」出来てるかと言われれば、出来てない。だから、わざわざこの言葉に引っかかるんだろうなあ。お世話になった、数々の人たちへの感謝だけではない。一番忘れがちな先祖代々私へ命を繋いでくれた人たちへの感謝。その一人ひとりにぎゅっと濃い人生が詰まっていると思うと、とても心強い。そして、あたりまえずぎて、お礼すら言っていない近しい家族。どれをとっても、ちゃんと「感謝」の念を持ってるかと言われれば、持ってはいるけど、普段はついつい奥の方へ。これらをどうやって伝えたり、自分の人生に活かしたり、そんなことが今の自分に大切なのかなって。とりあえず、これを読んでいる貴方。「本当にありがとうございました」本当に、本当にね。まだまだ、懲りない私ですが、これからもよろしくなり。あれ、今日はどうしたん??って言われそうだけど。そんな39歳の誕生日でした。
2010年04月12日
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先日、久しぶりにタクシーに乗る機会があった。行き先を告げたあと、運転手さん主導であれこれ世間話をした。道が余りに混んでいたので、そこから道路事情や、車の増加、マンション乱立、ひいては運転マナーの話と論議が白熱。タクシーの運転手さんは毎日多くのお客さんとそういう「世間話」を重ねているから、角界の最新情報や裏事情など(もちろん怪しいのもあるけど)、かなり話が濃い。目的地に着いてしまって、話が尻切れトンボになったが、結構スッキリした。「その場限り」だから好きなことを言えるというのが、世間話のいいところ。私は生まれも育ちも大阪だが、5年ほど東京に住んでいたことがある。その後、大阪に戻って一番に感じたことは、大阪の人が、「かなり、馴れ馴れしく話しかけてくること」だった。公園で、お店で、ちょっとしたことをきっかけに、話かけてくる。大阪に戻った翌日、マンション下の公園で子どもを遊ばせていたら、新顔と認識されたのかすぐに話しかけられた。東京に居た頃なら、「お子さんはおいくつですか?」とか「お家はどこですか?」とか、初対面の人にはまず丁寧語で話しかけるのが一般的。でも、大阪は違う。「昨日引越しのトラック止まってたなあ」「どこから来たん?」「この辺、同い年ぐらいの子多いで~」とまるで旧知の友達かのように馴れ馴れしい。関西人の私でも、久しぶりのその感じにちょっと面食らった。たとえば、お店などでちょっとした行列が出来ているとする。ちゃんとした一列になっていればいいが、自然発生的な列の場合、それを無視して、あやふやに並ぶ人がいたり、別の列が出来始めたり。お客さんの間に、気まずい雰囲気が流れることがある。東京ではそういう場合、かなりの確立で、皆がなかなか口を開かない。気まずいような空気は流れているのだが、黙って大人しく並んでいる。そうこうしているうち、見かねた誰かが店員を呼んできて、整理させる、とそういう解決の仕方が多い。で、大阪だと・・・、かなりの確立で、「そこ列と違いますで」とか「私先に並んでますわ」とかお客さん同士の会話がなされることが多い。そして、その延長で「この店前はこんなに混んでへんかったのになあ」「そうや、近くのスーパーが潰れたからちゃうか」「もっと『ここから並んでください』とか書いといてくれたらいいのになあ」とか世間話のようなものが展開されたりする。そして、それはそんなに珍しいことはない。その場限り、空間を共有しているだけの、見ず知らずの他人がこれまたその場限りの会話をする。これは、大阪(特に下町)だとかなり普通のことのよう。昔勤めていた会社の同僚の奥さん(東京出身)が、初めて大阪で暮らし始めた時、「もう大阪なんて嫌!」と旦那に泣いて訴えたことがあった。彼女は東京のかなりいいトコのお嬢さんだったらしく、見知らぬ土地での初めての生活や、大阪特有の馴れ馴れしさにどうしても馴染めずにいたという。ある日、彼女がスーパーで買い物をしていたところ、レジで並んでいると、後ろに居た大阪のオバちゃんに買い物カゴを覗かれ、「あんたとこ、今晩すき焼きか~。景気ええなあ、うちら長いこと牛肉も買うてへんわ」と言われたらしい。彼女は勝手にカゴを覗かれたショックと、その畳み掛けるような大阪弁に何も言うことが出来ず、半泣きで帰ってきたという。たしかに、デリカシーなく勝手に人の買い物カゴを覗き、初対面の人に向かって、ある種非難めいた語調で話しかけるなんて、彼女には考えられなかったのかもしれない。ただ、大阪出身の私から言わせれば、それくらいのことは「ありうる会話」なのである。ちなみに、正解を言えば、大阪で見知らぬオバちゃんにそういう風に話しかけられたら、「そんなんうちとこも、すき焼きなんて、いつも豚やん。 今日は特価や、チラシはいってたで」とか「そやねん、今日は結婚記念日やから、贅沢さしてもらうわ」とか切り返せばいい。まあ、それをいきなりしろといわれても無理な話で、例の同僚の奥様はついには大阪が合わないと言って、東京へ帰ってしまったらしい。これは、極端な話だが、大阪に「かなり馴れ馴れしく話しかける文化」があるのは確かなようだ。それでも、私の子どもの頃に比べれば、そういうその場限りの「世間話」は大阪でも減っているような気がする。ウチの母なんかそういう「世間話」が大好きで、八百屋のおっちゃんや、配達に来た酒屋のおっちゃんと長々と話していた。そして、必ずその延長で私たちこどもにも、大人たちは馴れ馴れしく話しかけてきたものだ。そういう会話の中で、子どもは親ではない大人を知っていったものだ。子どもを狙った犯罪も多いので、「見知らぬ人には警戒するように!」と言わざるを得ない。公園などで、こっちが声をかけたら、明らかに警戒している子どもも居たりする。なんだか、寂しいなあ。馴れ馴れしい大阪の文化、もっと良いほうに活かせたらなあ、と思うのである。
2010年03月29日
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3月で今年度の読み聞かせも無事終わった。最後の読み聞かせの後、子どもたちから「感謝状」の束をもらった。思いがけないご褒美にびっくり。息子の小学校の子どもたちは本当に本が大好き。毎月楽しみにしていてくれることがわかった。一昨年から初めて2年。毎月ワクワク本を選び、子どもたちの笑顔に癒されながら、読み手のほうこそ楽しい時間だった。ボランティアといいながら、完全に自分のためにやってるのかも。参考までに、今年読んだ本を紹介。1年生に「いちねんせい」 詩:谷川俊太郎 絵:和田誠 小学館大好きな詩人谷川俊太郎さんの詩。ある意味、子どもが書くよりもっと子どもっぽい。自由で生き生きした言葉の世界。読んでいると脇をこちょこちょくすぐられるようで、とっても楽しい。どれを読んでも子どもたち大笑い。たとえば「もしも」 もしもあたまが おしりだったら ぱんつは ぼうしになるだろう もしもじめんが そらだったら にじは とんねるのなかにでるてな具合。場がほぐれるので(ほぐれすぎることも)、導入にはぴったり。「はずかしがりやのれんこんくん」 作:二宮由紀子 絵:長野ヒデ子 童心社こちらは内気で恥かしがりやのれんこんくんが、「自分のいいところなんてない」と落ち込んでいるところ、みんなでれんこんくんの「いいところさがし」。なんとか頑張って探しているうち、夏のある日、れんこんくんは立派な花(蓮の花)を咲かせる。子どもたちには「れんこん=蓮」という知識がないので、一様に驚いてくれる。誰にだって、素敵なところがあるんだよ、という話。ためしに、「自分のいいところってわかる?」と子どもたちに聞いてみたら、「ないー!」という答えが結構あって、びっくり。自己肯定感の低い子どもが多いとは聞いていたけど、少し心配になった。ぜひぜひ、家族やお友達同士で「いいところさがし」してみてね、と言って帰ってきた。他人に見つけてもらう「自分」が、どんなに自信をあたえてくれることか。2年生に「いえでをしたおかあさん」 作:西内ミナミ 絵:遠藤てるよ 文研出版ウチにあった古い絵本。やんちゃな子どもたちとの毎日に疲れたお母さんが家出をするという話。一人きりになったお母さんが、家族と離れることで、かえって家族のことをばかり考えてしまう。お母さん目線の本が、子どもたちには新鮮みたいで、真剣に聞き入っていた。自分とは立場の違う人の「気持ち」に心を傾けてみる、そんな読書の醍醐味を少しでも味わってくれたなら。お母さんにもオススメの本なんだけど、残念ながら絶版とか。もう一冊「ウエズレーの国」 作:ポール・フライシュマン 絵:ケビン・ホークス 訳:千葉茂樹 あすなろ出版息子のクラスに行くのに、さて何を読もうかと探して見つけた本。ちょっと変わり者で友達の居なかった少年、ウエズレーが、夏休みの自由研究に自分ちの庭に「国」を作っていく、という本。庭を耕し、新しい作物を作り、食べたことのない果実を味わい、その繊維で服を作り、新しい言語を作り・・・と壮大な国づくり。最後はそのあまりもユニークな国に、周りの友達も惹かれて集まってくるという話。ページごとに予想も出来ない新しい世界が開かれていくのが、大人でもわくわくする。絵も綺麗で、なにより息子が気に入りそうなので選んだ。もう少し上の学年でもいけそう。私もお気に入りの一冊。3年生に「りんご畑の九月」 作:後藤隆二 絵:長谷川知子 新日本出版社りんご農家の小さな兄弟が、りんご泥棒を何とか退治しようと悪戦苦闘。大人の目の届かぬところで、子どもなりに考え、それを行動に移し、ちょっとした冒険もして、困難をくぐりぬける。あくまで、大人の目の届かぬところで、繰り広げられるおはなし。子どもなりに考え、話し合い、行動して。未熟で、おっかなびっくりでも、その一つ一つが子どもたちの心と体に刻まれていく。子どもには子どもの世界がちゃんとあって、そこに大人は必要ない。今の子たちは、どこに行っても大人の目が届きすぎ。君たちだってもっともっと冒険してもいいんだよ、というメッセージを込めて読んだ。5年生に「ことりを好きになった山」 作:アリス・マクレーラ 絵:エリック・カール 訳:ゆあさふみえ 偕成社随分前に、本屋で出会った大切な本。エリックカールの素敵な絵。「誰かを好きなる」という気持ちを知った孤独な山が、目覚めた恋心のために、もがき苦しむ。いわゆる「恋愛」の本。でもその力は自らを大きく変えて、不可能を可能にしていく。とにかく絵が素晴らしくて、引き込まれる。大人向けかなあ、と思いながら、好きな絵本なので読んでみました。6年生に「ねこはしる」(紙芝居) 作:工藤直子 絵:ほてはまたかし 鈴木出版これは、詩集「のはらうた」などで知られる詩人でもある工藤直子さん(息子さんはなんと漫画家松本大洋!)の作品ということで、手に取り、引き込まれた作品。自分に自信のない子猫が、ある出会いとともに成長していく。紙芝居といっても、15分ほどかかる大作で、扱うテーマも出会いと別れ、自然の摂理そして命と深い。高学年なら何か感じ取ってくれるのでは、と思って読んだ。読み終わると「しーん」として重い空気。あとからじわじわと思い出してくれたらなあと。最初は読むのにウルウルしてしまい、感情コントロールするためにかなり練習を重ねた。演劇にもなっているようで、それもいつか見てみたい気がする作品。私の読んだ本以外にも、毎月ボランティアの方がそれぞれに素敵な絵本を探してきてくれる。今日は、それらの中から、自分たちも聞いてみたい本をリクエストして、ボランティアだけの「お話会」を開いた。子どもに読むのとはまた違って、人の読み聞かせを見ることはとてもいい勉強になった。いつもお話を聞く側の子どもたちの気持ちも少しわかった。「読んでもらう」のもまたいいもんだなあ、と。そこには、お話だけでなく、それを伝えてくれる「人」の温度があった。皆で時間や気持ちを共有する、その空気も幸せだった。やはり、自分のためにも新年度からも続けていこうと思う。
2010年03月13日
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息子の周りではかなりの確立でいわゆるゲーム機(DSとかWiiとか)を持っている。ちなみにうちにはまだどちらもないんだけど。殆どの家庭にあるということは、それらを購入しているのはおそらく両親だろうから、考えるに、ほとんどの家庭ではゲームで遊ぶことは(仕方なくも含め)容認されてるんだろうなあ。ゲーム機自体は、それこそテレビやパソコンと同じく、もう社会の中でしっかりと居場所を確保してしまっているので、「反対!」とか叫ぶつもりはない。娯楽として、楽しむ人がいても言いと思う。そういう私だって、子どもの頃はゲームウォッチやファミコンも買ってもらってたし、テトリスにはまったり・・とそれが楽しいおもちゃであることは知っている。ウチでも、「欲しい」といわれたことはあるけど、(確か上の子が一年生の頃)結局買わなかった。まあ、私が嫌だったんだけど。何が嫌なのかというと。1.子ども(少なくとも7歳とか)にはまだ早すぎると思う。確かな根拠はないけれど、そもそもその「ゲーム機」の中の世界がバーチャルだということが、わからないような年齢(つまりはサンタを信じることができるような年齢)の子にそれを与えることにどうしても抵抗がある。2.もう一点は、とにかく、時間がもったいないような気がする。 ゲーム機に向かうとあっという間に30分一時間が過ぎる。学校から帰って、宿題して、遊んでも冬なら5時過ぎには暗くなってしまうその貴重な遊び時間をゲーム機に取られるのがもったいない、と。つまりは、中高生とか大人がするのはまだいいんだけど、あんまり小さい子がそれに熱中するのが、どうしても怖い。現に、幼稚園児とかが、DSにはまっているときの目なんて、ちょっとぞっとするくらいだったりする。私の勝手な調査によると、およそ8から9割近くの一年生が何らかのゲーム機を持っている。早い子では、幼稚園から使っているみたいだ。買い与えているお母さんと話をすると、「いいとは思っていないが、皆もっているので、仲間はずれになるのがかわいそうだから」という理由が一番多かった。私も一番気にしたのは、それだった。「持っていないから、いれてやんない」。実際息子も言われたことがあるようだが、だからすぐに買い与える・・というのも。いつも友達のゲームを横から見ているだけだったが、息子は息子で自分の世界があって、「虫博士」だの「ロボット博士」だの、周りのお友達の持ってないもので勝負?!してくれて、それに惹かれて友達が集まるようになってきた。それに、幸いなことに、うちの周りは子どもたちの遊び場が豊富で、あちこちの空き地だったり、里山のある公園だったりと楽しい「外遊び」がいっぱいできる環境にある。気がつけば、流行っているのは「ひみつ基地作り」や「探検」「鬼ごっこ」など。皆、ゲーム機をほっぽり出して遊ぶようになって行った。ただし、困るのは雨の日。仕方なくどこかのお家に集合してWiiしよ!という話になるらしいが、ウチにくるとゲーム機がない。でも、いわゆる昔からあるボードゲーム類(人生ゲームや、野球版ゲームなど)やカードゲーム(トランプやウノ)は結構ある。ウチの子はこれらの類が大好きで、正月やそれ以外でも家族で一緒にする。最初、近所の子たちは、微妙な反応だった。「これって楽しいの??」確かにWiiみたいに、派手な音も映像もないけれど、さすがに子ども見たこともないものには、興味をそそられるみたい。息子に巻き込まれて、しぶしぶ参加してくれるようになった。これらのゲームの良いところは、人数などに融通が利きやすいこと。そして、どんなゲームもまずはルールややり方を理解しないことにはできないので、それらを共有するのに、かなりのコミュニケーションを必要とすること。知ってる子が知らない子に教える。最初の数回は「練習」をさせてあげる。また、負けたりしてもふてくされたりせず、ルールにのっとって勝ち負けを認めるなどなど・・。小学校二年生の子どもたちがワイワイと喧嘩しながらもゲームを囲んでいる。まだまだ、未熟で根気のない子どもたちも多いので、すぐに「辞めた!」とか「違うのしよ!」とか途中で挫折することも多い。それでも、気がつけば、雨の日は結構な割合でウチに集まってくる。実は、皆嫌いではないのだ。中でも男の子に人気なのが、「魚雷戦ゲーム」。その昔私は男の子と遊ぶことが多かったのだが、男の子の家に行くと決まってあったのが、この「魚雷戦ゲーム」。小さな鉄球を打ち合って、互いの船を落としあうという単純なゲームなのだが、これが大人気。実際にやってみるとわかるが、玉の角度、撃つタイミング、逆に相手の玉をよけるタイミング、それらはすべて丁寧にやらないと上手くいかない。手先の微妙な動きを必要とする。いわゆる子どもの「雑」な動きだと難しい。最初のころは上手くいかなくて、イライラする子どもも多かったが、段々わかってくると、それぞれ工夫をして闘っている。あと、一応のルールは箱に書いてあるが、やっている過程で、自分たちでルール改正して(お互いが同意しさえすればいい)、盛り上がるように上手く工夫しだした。こういう風に融通が利くのもボードゲームならでは。人生ゲームも、二年生ながら(途中で抜けるこもあり)すったもんだしながら、一応ゴールまで出来ていたようだ。野球版ゲームは工作好きの息子が手作りをした。(すごい大変だったけど)その他、皆好きなサッカーゲーム、昔懐かしい玉落としゲームにポンジャンなどなど、それぞれ好評だ。そんなこんなで、うちには色んなゲームがおいてあるのと、「工作やり放題」(廃材やその他工作道具使いたい放題)があるので、雨の日は沢山のお友達と、ワイワイ盛り上がっている。子どもたちのコミュニケーション力育てるのに、ボードゲーム、カードゲーム類はとってもオススメ。子どもたちがもめている会話って、横で聞いていると本当に面白い。順番のこと、ルールのこと、物理的にゲームが「壊れた!どうしよう」とか。その都度、「あーすれば?」「こうすうれば」「いやそれは違うで」と子どもなりに議論している。もちろん喧嘩も。色々助言したくなるのを、ぐっとこらえて、聞き耳たてて楽しんいる私。
2010年03月12日
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去年は本当に忙しかった、とこのブログでも書いた。半ば勢いでそのまま年を越えようとしていたが、さすがに年末年始、何かおかしいなあと違和感が。体と心が「休みたい」と言ってる。日々、それをなだめ、すかしながら活動していたら、とうとう糸がぷつんと切れた。三学期が始まり、子どもたちを送り出した途端、動けなくなってしまった。眠い、そして頭が痛い。まぶたが強制的に降りてくる感じ。この感じ、久しぶり。洗濯物を干そうとするけど、目がチカチカする。いつもなら、一番気分のいい時間なのに。そのままベッドに倒れこんで眠った。それから一週間くらいそんな日が続く。昼間の眠気と頭痛。私は普段あまり頭痛しないので、これが一番こたえた。夜も何度も目が覚めて、熟睡できない。常用している睡眠導入剤では太刀打ちできないようになってきたので、仕方無しに病院へ。先生いわく、「うつ」になりかけてる状態なので、ここはひたすら休める限り休みましょう。襲ってくる眠気にどこまでも従ってみて、とのこと。自分でもこの感じは昔(随分前だけど)よく陥っていたので寝ればいいということは知ってる。実際、一人のときは、ひたすら何時間でも寝ていた。週末、ただただ寝て過ごすことも良くあった。それで、いつの間にか復活できるのだ。先生も、「主婦だし休めるでしょう」って。どうしても休めないもの以外は全部止めてしまってくださいと。とりあえず、去年からはじめている活動の類はキャンセルし、新しく予定を入れないようにする。それ以外の、日々の家事、育児については・・・これがなかなか手ごわい。「どうしても休めないもの」って・・・朝起こして幼稚園、小学校へ送り出すこと、幼稚園のお迎えは、休めない。というか、子どもが居ない時間をまず確保しないことには。それ以外、家の掃除洗濯、食事の用意などなど、いわゆる家事はやらなくても・・・??毎日、宅配弁当って訳にもいかず、洗濯も一日休むだけで、すごい量が溜まるし。掃除もずっとしなかったら、想像するだけで、怖い。そして、それらを全部家族や他人?に任せられるかというと実際無理。なんだかとっても休みにくい。一日くらいなら「完全オフ」しても何とかなりそうだけど、今私が欲してる休息はそんなもんじゃないのがわかる。結局、毎日少しずつ休む!という形しか無理だと気づく。とにかく、新しい予定を入れないように・・・と思いながら学校、幼稚園の行事はやっぱり行ってやりたい、とか、親が手術、入院するからもそのサポートしないと・・・、と決して私個人の贅沢ではないんだけど、「人の面倒も看たいな」という欲求が。きっと本当はそれらも含めてキャンセルしないと休んだことにならないんだと思う。だけど、どうしてもどうしてもそれが出来ない。そんな訳で、日々自分の調子が横ばいか右肩上がりになってるかだけをチェックして、これ以上悪くならないように、ということに気をつけ、「休みながら、働く」ということを続け・・・気がつけば三月になってしまった。ある意味綱渡り的なやり方だけど、そもそもの自分のやり方、働き方に問題があったような気もするので、「少しずつ広範囲にわたって手を抜く」というのは、自分が少し変われるチャンスかという気もする。何事も程よい加減つまりは「いい加減」を身に着けないと。よく「長女体質」とか言われるけど、やっぱりどこか本当の自分より「頑張って」背伸びしてる。周りには「しっかりしてる」とか「活動的」とか「前向き」とか言われる。で、本当は「面倒くさがり」で「いろいろ大ざっぱ」で、「小心者」の自分も結構なボリュームで存在する。周りから見た私と、自分が見てる私。そのバランスがとっても悪い。なんとか上手く統合できないものかな。しかし、人間変わるってホント難しいもの。今回はかなり時間かかりそう。。。
2010年03月03日
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今年も、いつものように暮れようとしてる。クリスマスに、大掃除、お正月準備と特に省略することも無く粛々と新しい年を迎える。当たり前だが、年々一年間の「体感」は短くなって行き、去年の大晦日がつい昨日のよう。その代わり、今年一年の出来事が圧縮されていて記憶が頼りない。先日、とある集まりで、それぞれが「今年の重大(10大?)ニュース」について発表する機会があった。何を話そうか記憶を手繰り寄せるけど、今年はたやすく引っかかる「大物」のニュースがない。しばらく考えて、その「大きなニュースが無い」ことが一番のニュースかな、と答えた。思えば毎年毎年、引越ししたり、子供が生まれたり、別居したり??同居したり心身ともに疲れることばかりのこの数年。今年は案外平和だったなあと。今年は下の子が幼稚園に入ったので、一人の時間がもてるようになった。そのせいで、欲張ってチョコチョコあちこちに顔を出すようになったら、思いの他忙しくなってしまって、パソコンに向かう時間すらなくなり・・。一個一個の活動は小さなものなんだけど、あちこち手出しすぎたかなと今は反省。今年継続的にやったこと。・月に1~2校、市内の小学校で親学習のワークショップ(ファシリテーターとして)・そのワークショップの準備のため、同じく月1~2回は打ち合わせ・月一で、サークル(母親同士の勉強会みたいなの)に参加、そのうち 数ヶ月に一回は、幹事としてテーマ決め、資料の用意なども・月一で小学校で読み聞かせボランティア・読み聞かせボランティアの有志で、「パネルシアター(人形劇みたいなの)」 の立ち上げ。人形制作から、演目の練習、発表のため、月2~3回は学校へ・放課後クラブのボランティア(不定期、月1くらい)・月一でPTA向け家庭教育学級に参加・子育て連続講座に参加(月2回×3ヶ月程度)・彩都リポーターとして、イベント取材とリポート(不定期)・月一で子どもと一緒にひと山プレイパークへ(山遊びの会)・月一でガムラン(インドネシアの民族音楽)の練習、年1~2回は コンサートに出演。パンフレットに原稿寄稿・内観に出会い、なわて内観研究所へ通う(不定期)他にもあったような気がするけど・・。それぞれ、月一とか大した回数ではないけど、カレンダーはあっという間に埋まった。忙し過ぎて体を壊すと、しばらくお休み。そして、また元気になると、上記のペースで再開。それを繰り返しているうち、あっという間に一年が過ぎた。どの活動もとても楽しく、自分にとってはやりがいのあるものばかり。だから、うまく削れない。でも、来年はもう少し的を絞って、それらを深めるのもいいかなと思う。それにしても、認めたくないけど、最近歳をとったなあ、と感じることしきり。一番は体力の低下。今年は子どもの病気をことごとくもらって、いつも私が一番ひどい。新型インフルエンザも、もれなくいただきました。疲れも一日寝たくらいでは、すっきりしなかったり。そして、記憶力の低下。過ぎたこと、これからのこと、どっちも覚えられない。思い出せない。昔は手帳要らずの女(予定も出来事も日付ともにばっちり記憶してた)のに、今じゃあ、あちこちでダブルブッキングしたり、ちょっとした買い物が覚えられなかったり。やばいんじゃないの。これ。一応ビジュアルの老化は、ぎりぎりのとこで食い止めてるつもり、なんだけど。。。今年、38歳になりましたが、これってどうなんだろう。でも、今年は生きてて良かった、と思うことが。大好きだったバンド(ユニコーン)が再結成して16年ぶりにコンサートに行けましたよ。目の幅の涙流して。おっさんになった彼らは、私たちに郷愁を与えるためにやってきたのではなくて、16年経った今だから出来る新しい音楽を引っさげて私たちを魅了してくれたよ。やっぱ生きてて、それぞれが音楽続けててよかっただろって。ホントかっこいいおっさん達。その他にも、何年ぶりだかに友人に会うことが出来たりとか、ずっとずっと長い間、言えなかったことを、人に伝えたり。曲がりなりにも生きててよかった、と思うことが多々あった。なので、様々な衰えはあるけど、歳を重ねるのはいいことだなと無理なく思えるようになったかな、という一年だった。不惑の40歳まであと一年ちょっと。噂では、女40歳は何かが、すっかりと変わるらしいんですが。期待していいのかな。
2009年12月31日
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すっかり、ご無沙汰のブログ。あっという間に季節も巡っている。あんまりにも更新されないので、「大丈夫?」かとメールくれた友達さえ。大丈夫、生きてます。現実界が忙しく、ゆっくりパソコンへ向かえなかっただけでした。春から、下の子が幼稚園に行きだしたので、念願の「おひとりさま」の時間ができた。正直に言うと、「やっと自由な時間が」と思う反面、手持ち無沙汰というか、寂しくなるのが怖くて、色々と新しい活動を春からはじめることに。今まで自分の子育てのことばっかりだったので、もう少し顔を上げて、地域の子育て、他人の子育てなどに関わってみようと。それはもちろん自分の子育てに返ってくるものでもあるし。自分が子育て中に受けた「親学習」というグループワークがあって、それのファシリテーターの研修を受けてみた。今年は見習いということで、市内の小学校の保護者向けのワークに春から参加している。「親学習」という名前は硬いんだけど、平たく言うと、「子育て井戸端会議」。それで、ファシリテーターは話の交通整理役。毎回、ひとつのテーマ(「しつけ」や「子育て中の自分の時間のとり方」や「見守るということ」など)に沿って話し合いをするんだけど、基本的にそれぞれの個人的な子育ての上での、意見の交換になる。友達同士ではなく、顔見知りか初対面の人たちが、短い時間のなかでリラックスして話ができるように、サポートするのがファシリテーターの役目。当然、話し合いからは一歩引いたところで、全体を見て聞いて進めていく。6から8人くらいの少人数で行うのだが、決して強制せず、かといって、誰かだけが主導権を取って話さないようにし、話が深まりそうなキーワードが出たらそれを広げ・・・と実は結構難しい。それでも、女性はさすが日ごろから井戸端会議には長けていて、毎回それなりに話が盛り上がる。最初控えめだった方が、思いがけず、皆をうならす一言を言ったり。普段溜め込んでいる、姑との同居のストレスが一気に爆発したり。普段立ち止まって考えないことを、ちょっと立ち止まるだけで、そこらへんの育児書には載っていそうなことはどんどん出てくる。ほとんどは、「そうそう」と思いながら「普段はできてないよなあ」ということばかり。でも、わかっちゃいることをわざわざ取り出して、言葉にしてみることに結構意味があるような気がする。参加者各々の事情によって、その日の話し合いのどこが「響く」のかは違うけれど、それぞれがそれぞれの「気づき」を持って帰ってくれればそれが理想なんだけど。実際は皆が満足して帰ることは難しいんだろうけど、終わったあとのアンケートを読むと、かなり好評。やはり、普段の井戸端会議では、近所の人間関係だったり、お互いの価値観の違いだったり、人目だったり、色んなことを気にしながら話をしている。だから、参加自由、でそこでの話の秘守を約束されたある意味特殊な時間をわざわざつくることで、皆が解放されて、色んな本音がでてくる。皆子育ての中でそういう時間を欲してるのだなあと気づかされてた。一見部外者のようなファシリテーターも、実はその話し合いの中で毎回沢山の「気づき」をもらえる。それは、新たな発見だけではなくて、「ああ、みんなも同じなんだなあ」という子育ての上での連帯感みたいなものも。まだまだ、ファシリテーターとしては駆け出しだけど、自分のためにも継続してやっていこうかな。
2009年10月15日
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つい先日、近所の公園で遊んでいたら、上の息子が「ママ、ママひな鳥がいる!」と言うので、見に行くとスズメのひながうずくまっていた。よく見ると、パタパタとはばたく練習をしていて、少しなら浮揚することができる。でもまだまだおぼつかなくて、私も周りの子どもたちも釘づけになってしまった。どうして、こんなところに一羽だけ落っこちてきたんだろう。スズメの生態はよくしらないんだけど、近くに巣があるような気配もない。空を見上げても親鳥が探している様子もない。おそらく前日がひどく風の強い一日だったので、風で吹き飛ばされてきたのかもしれない。いずれにせよ、ひな鳥はひとりぼっちであることに変わりはない。「触ったら鳥インフルエンザになるで」「踏むな、踏むな!」と子どもたちは大騒ぎ。最近は捨て犬、捨て猫も見かけることもないので、子どもたちには珍しくて仕方ないようだ。よく見ると何とかもう少しで飛べそうな感じ。私も一体どうしたらいいものか、考えあぐねる。でも、その昔野鳥であるスズメは鳥かごでは飼えないと聞いた記憶があったので、連れて帰るわけにもいかず。暗くなってきたので、泣く泣く安全そうなところへスズメを移してうちへ戻ってきた。帰ってからも、息子はぐずぐず言っている。ひな鳥が可愛そうに思えたらしい。「自然は厳しいのよ」と言いながら、私も内心やりきれない気分だった。この「やりきれない」感じ、久しぶりに感じた。子どもの頃、私は動物が大好きだった。うちでは小さい頃から、小鳥やうさぎ、カブトムシ、亀、犬、猫と色んな動物を飼っていた。そして、私の住んでいた街では、学校の行き帰りや、友達と遊んでいるときにあちこちで色んな生き物に出会った。野良犬、野良猫や、いわゆる「捨て犬」「捨て猫」を見かけることもあった。出会ってしまったら最後、気になって仕方がない。親に隠れて牛乳を持ち出し捨て子猫に与える。でも、もうすでに犬や猫を飼っていたので、うちではこれ以上飼う事は無理だとわかっていた。夕方、仕方なく子猫たちを置いて帰る。そのときの「やりきれなさ」。友達と協力して野良犬を餌付け。小さな食料品店の裏のゴミ箱から残飯を探し、野良犬に与える。何日かそうやって、自分たちでは世話をしているつもりになっていたが、野良犬は突然姿を見せなくなった。おそらく保健所に連れて行かれたのだろう。子どもが勝手に餌付けしているのをみて、誰かが電話をしたのかもしれない。もう会えなくなった野良犬を探すときの「やりきれなさ」。子ども心に小さな生き物が可愛くて可愛くて仕方ないのに、自分たちではどうすることもできない。でも、やっぱりまた「出会ってしまう」のだ。そんな子どもだった私に、救世主が現れた。近所の動物病院の松本先生だ。自分で飼っていたインコを連れて行ったのがきっかけだが、その先生は本当に動物を大切にしてくれた。子ども心にこの人は周りの大人とは違う!と感じていた。その日私と友達は拾った猫を抱えて、四苦八苦していた。友達が登校時に見つけてきて、学校の倉庫の裏に隠しておいたのだが給食の牛乳を与えても上手く飲めない。ミャーミャーお腹が空いて鳴いているのだか、どうしても上手く飲めない。生後間もないこともあり、どうやら目もちゃんと見えてないようだ。放課後、段々弱っていく猫を抱えて、私と友達は途方にくれていた。そして私は思い出した。「松本先生なら何とかしてくれる!?かも」。早速恐る恐る動物病院のドアを開けた。もちろん、財布も何も持たずに。事情を説明すると、先生は猫を優しく抱いて、注意深く観察した後、鼻にミルクが詰まっていることを突き止めた。スポイトのようなもので、ミルクをやるとすごい勢いで子猫はミルクを飲んだ。私も友達も大喜び。先生は飼い主を見つけてあげるからと言って、猫を預かってくれた。もちろん一銭も取らずに。今まで、「やりきれない」思いで別れてきた動物だちだったが、初めてすがすがしい気持ちで家路に着いた。私たちにとってはまさに救世主だった。それから、傷ついた鳥や、こうもりなど、怪我をしているとわかった時は私は迷わず先生の病院を訪ねた。動物病院だし、さすがに元気な捨て犬を連れて行くのは、子供心に遠慮しておいた。いつも先生は嫌な顔ひとつせずに、傷ついた動物を大切に引き取ってくれた。もちろん、毎回無償で。で、子どもの私は良かったのだが、大人になった私はめでたしめでたしというわけには行かない。先生は私の「やりきれなさ」を引き受けてくれていたんだ。小さな命を大切に思う、その気持ち。人間以上に厳しい環境の中で生きている動物たちの現実。そして、人間だって生活していくことが大変なのに、その中で、自らの犠牲を払って、傷ついた動物たちの面倒を見るということの意味。子どもの私はそんなこと到底知りもせず、そのなんだか「やりきれない」気持ちを先生にぶつけていたのかもしれない。そして、先生は一人の大人として、ひとつの答えを持って小さな私の気持ちを受け止めてくれた。その意味が大人になってわかればわかるほど、先生の大きさにただただ、頭が下がる。これはなんとしてもお礼を言わねば、と思っていたら、先生が亡くなったとの知らせを聞いた。先生はその後もずっと「儲け主義」とは程遠く慎ましやかに動物病院を続け、まだまだ若くして亡くなられたという。ああ、なんとういういことだろう。いい人に限って、早く亡くなるのが世の常。私は先生の影響で、「獣医師」になりたいと子ども心に思っていたのに、結局その道には進まず。今日だって、スズメのひなを公園に置いてきた。それでも、私が小さいころから沢山出会ってきた無数の小さな命は、私の心を充分に揺さぶったし、やっぱり地球で人間が偉そうに振舞っていていいのかといったら、そんなはずはない。色んな命のなかで、もみくちゃにされながら生きていくしかない。だから、「やりきれない」気持ちは当然で、それくらいはしっかり噛み締めて生きていかねば・・・と思うのである。ああ、だからこそ、松本先生の存在は私にとって救いだった。本当に感謝感謝なのである。ご冥福、心からお祈りします。
2009年05月25日
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世間をお騒がせしているとおり、私の住んでいるI市も一躍有名になってしまった。今週は学校、幼稚園なども一週間休校。地元のドラッグストアではマスクは売り切れ。この子どもの多い街でも公園ですらひっそり。店もいつもより人気が少ない。なんだか、ちょっと不気味。でも、静かで落ち着くのも事実。私は正直、公園でちょこっと遊ばせるくらいええやん、と思っていたのだが、この子どもの多い街。子どもが皆出てきたら、公園だって人だかり。ということは、うちの庭か、どこか他の場所か。お友達誘って・・とか思ったけど、そんな雰囲気でもない。ということで、近所の子と家の前でちょこっと遊ばせる以外は、べったり親子三人の時間となる。さてさて、何をしよう。この非日常な感じ、なんだかわくわくしてきた。時間も使うし子どもは喜ぶし、一番お手軽なのは「手作り」もの。とりあえず、「パン」や「餃子」など作ってわいわい。あと、創作もの。新聞敷いて、工作資材(ガラクタ)と画用紙、画材を与えて後はお好きなように。でもやっぱり、「外に出たい」と。とりあえず庭で家庭菜園の世話。そして砂場で砂遊び。そんなこんなで、一応子どもたち飽きずに遊んでる。(あ、勉強忘れてた!)庭で作業していて、ふと思い出した。そういえば、前からやりたかったことが。そうそう、庭に小さなビオトープ(自然生態系のある池)を作ろう!計画があった。この際、それをやってしまおう。というわけで、マスクしてホームセンター(外出してるやんか)でプラ船(左官の人がコンクリート混ぜる入れ物)や水草、などを購入。幸いうちにはカルキ抜きしなくていい雨水がたっぷりあるので、それと庭になぜか転がっている大きな石を組み合わせて少し高低差のある池をレイアウト。水草を植えて、藻類も浮かべて。周り静かなのに、うちだけ庭で異常に盛り上がる。なぜかこの一連の作業がとっても楽しい。「池」を作るってわくわくする。理由なんかない。本能的に。で池ができたら、そりゃ生き物。ということで、またこそこそと人のいない田んぼへいって、メダカ(許可もらってマス)を取りに。田んぼの泥も生物の宝庫なのでバケツで持って帰る。近くの公園の池でも、エビ、小魚(ハゼ類?)をゲット。沢山動植物とは接触してるけど、人とは接触してないからいいでしょ??ということで、うちに「池」ができた。小さな四角い池だけど、なんだか見てるだけで癒される。これから、この池のなかで、どんなミクロのドラマが繰り広げられるのだろう。気がつけば、また一番興奮しているのは私。ところで、来週からは一体どうなるんだろう。近所のママたちもそれが気になる。働くママにとっては死活問題。感染者じわじわ増えているから(きっと明るみに出ていない感染者莫大だと思う)、学校再開したらあっという間に広がるんだろうなあ。でも、このまま休校続けるのも、実際無理。もうこれは避けられないんだよね。しかし「新型インフルエンザ」(旧姓 豚インフルエンザ)なんて命名するからなぜか怖がるんだけど。専門家いわく、いつものインフルエンザと「ほぼ同じ」。皆免疫持ってないし、ワクチンもまだだから、そもそも防ぎようがないのでは。かかるときはかかるし、大丈夫ならラッキーだったと。そうやって受け入れるしか、方法ないのでは。皆してウィルスと闘ってるのが、どうしても滑稽に見える。共存するしかないのにね。だって、タミフルだろうが、リレンザだろうが、消毒液だろうがウィルスを全滅させることは不可能なんだから。共存とはつまり、いつものインフルエンザと同じということ。熱が出たら休み、タミフル飲みたい人は飲み。それ以上に何がありますか?専門家の方々。もちろん、予防できる限りはするけれど、「毒性が弱い」というのは付き合える相手だというメッセージなのでは。私、もう新しいウィルスと付き合う覚悟出来てる。皆もそうだと思うんだけど、違うかな??
2009年05月19日
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ぽかぽか休日。いつものように子どもたちと近くの公園へ。お昼を食べてまったりしていたら、なにやら遠くに人だかりが。ときおり、「わー」とか「おおー」とか聞こえてくるので、子どもたちも我慢できずに走っていった。芝生にできた小さな人だかりの真ん中で、小柄なお兄さんが大道芸をしていた。息子たちは大人の隙間からするすると最前列へいってちょこんと座っている。やっぱり子どもには大人気で、沢山の家族連れが集まっていた。私はちょっとだけ後ろから、腕組してじっと見ていた。小さなボールを三つ、四つ、五つと増やしていくお手玉のようなジャグリング。わかり易いけれど、逆に難しさはあんまり伝わってこない。つぎに、ビデオテープ大の箱を三つから四つ左右の手で挟んで箱を移動させるもの。箱の一番小さい面で挟むので、相当難しそう。これも、難度の割には地味な芸なので、子どもたちの反応はイマイチ。その日は、まるで夏のような暑さで、全身黒ずくめのお兄さんはすでに汗びっしょりになっていた。次に棒についた紐でまわす「中国ゴマ」(茶碗を二つ底同士くっつけたようなもの)が始まった。勢いをつけて、空高く放り投げる。予想を遥かに超えて、高く上がるコマ。大きめの木の高さを軽々超えていた。「おおー」あがる歓声。このあたりから、お客さんを掴みだして、人だかりの輪が一つにまとまってきた。公園なので、あちこちから人が集まってきて、お兄さんの周りは、360度お客さんが囲んでいる。いわゆる「マジックショー」なら、タネと仕掛けの関係でこうやって全方位的に見られることもないだろう。そこは、大道芸。どこからみても、もちろんタネも仕掛けもない。実際、コマをキャッチするところで、一回失敗。「演出かな」とちらっと思ったけど、まとまってきた場の雰囲気から考えて、そのタイミングでわざわざ失敗させる必要もないだろう。間髪いれず再挑戦して、大技を成功させた。そのとき、ふとウン十年前に高校の卒業旅行で見た「上海雑技団」の公演を思い出した。公演といっても、テーマパークの片隅でやっている、小ぢんまりとしたショーだった。薄暗い仮設のテントの中、歩き疲れた私たちは休憩がてら、その演技を見ていた。お客さんもまだら、特に司会などもなくて、淡々と演技が続けられていた。玉乗りや様々なバランス芸。いわゆるテレビでやっている「中国雑技団」でおなじみのショーだった。そして、おそらく最後の演目として、これもまたおなじみの人間タワーが始まった。寝そべって両足を挙げた体格のいい男性。その足のうえに、板。その上にコロコロ転がる円筒。その上にまた板。その上に逆立ち。その上に、ハシゴ。その上に・・・。とバランスにバランスを重ねて、小柄な子どもたちが上へ上へと登って行く。それがそれが。途中で失敗するのだ。「がちゃーん」と大きな音をたてて。そのたび、板やら、ハシゴやらが舞台に投げ出される。その音があまりに大きいので、だらだらと見ていた私たちも心配になってきて、気がつけば舞台に釘付けになっていた。はっきりいって、テレビでみるそれは、そんなに失敗しない。それが「中国雑技団」のはず。演出?と思ったけど、高校生の私の目で見て、それは「わざと」のようには見えなかった。数回の失敗を繰り返しても、まだ演技は続く。なんの説明も、司会もないので、演技者と観客はただ無言でその成功を祈るようになった。そして、とうとうタワーが完成した。数少ない観客から、拍手が沸いた。その遠い記憶と、目の前の大道芸人のお兄さんが重なった。その時私の頭に浮かんだ言葉。「晒す(さらす)」。その時、その瞬間の自分を「晒す」。360度囲まれたその輪の真ん中で、自分を晒す。逃げ場のない空間で、自分の一部となっている「芸」を晒す。そのパワーに胸が震えた。とうとう最後の演目、火の着いた、たいまつをジャグリングするという荒技になった。そこでお兄さん「この技、一人ではできませーん、どなたか手伝ってもらえませんか」と。私、真っ先に手を挙げる。で「おねーさん!お願いします」、とご指名。息子たちも大喜び。まず、低めの台に円筒を横たえてゴロゴロ転がす。その上に板を置く。とりあえずは板の上に立って、バランスを取るのだが、そこまでもなかなか難しい。左右の足で絶えずぐらぐらバランスを取りながら、少し安定してきたところで、私が火のついたたいまつを渡す。私の役は燃え盛るたいまつを3本、持って渡すだけだが、「熱いので」と分厚い手袋を渡された。確かに熱いし、かなり重い。何とかお兄さん、バランスとれてきたので、「おねーさんお願いします」といわれ一本ずつたいまつを渡した。熱い。とにかく熱いんですけど。想像以上に熱いたいまつを渡そうとしたお兄さんを見てびっくり。頭の先から、足の先まで、汗びっしょり。どこかの池にはまって出てきた人みたい。その状態で、三本の火のついたたいまつをぐるぐると回し、観客の大歓声の中、演技終了。終わったあとお礼にと小さな人形をもらった。「とってもよかったです!」と声をかけると、演技中とは打って変わって無口な恥かしがりのお兄さん。でもね、私、ちょっと感動したんだ。「本物だ」って思って。そうやって、自分を人(それも不特定の)の前で晒す、ということで生計を立てる生き方がある。もちろん、仕事をしていたって、家庭にいたって、自分を晒さずにはいられない時だってある。ただ、対象はもう少し限定的だし、逃げ場もそれなりにあるような気がする。たとえ、その限られた時間にせよ、自分のそのままを「晒す」。そこには、大きな覚悟というか、真剣さが確かにあって、日々の小さな闘いの中、生きている私たちに力をくれた。のんびりとした休日の午後。小さな感動をもらって、また観客はばらばらと公園へと散って行った。
2009年04月17日
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一年間書いてきた、彩都のコラムも今回が最後になった。引っ越してすぐに始めて、新しい生活をする上で、毎月一回立ち止まって、街に関わることを書くというのはとっても楽しいことだった。やはり、なにかお題というか、切り口が決まっていると文章は書きやすい。幸い、各方面?からなかなか評判もよかったので、一年書き終えられてほっとしている。実は、来月からは、街のイベントのリポートみたいなのを書くことになった。こちらは今までより不定期で、且つ、住民向けの会員専門サイトになる。だから、広く一般の方に読まれるという訳ではないのだけれど。この春から、下の子が幼稚園に行くので、念願の「一人の時間」を得ることができる。毎日数時間ではあるけれど。はてさて、この時間をどうやって有意義に過ごそうか。思案中。キーワードは「広げる」「学ぶ」「書く」かなあ。今まで自分と子どもの狭い濃い世界にどっぷりつかっていたので、もう少し、視線を遠くに移して、色んなものを見てみたい。結果、人間関係も広がるだろうし。「学びたいこと」も沢山。手っ取り早いところでは、読みたかった本をどんどん読んでいこうと思う。あとは、「書く」こと。アウトプットの場所をもっと探して、もっともっと自由に気持ちよく書けるようになりたい。春のこの不安定な気候は落ち着かなくてそわそわする。昔っから何故かこの季節は色々なことが起こって、忘れられない思い出が沢山。生暖かい空気や、変わりやすい空が色んなことを思い出させて、胸がうずく。今年は、下の子が手を離れることに、一抹の寂しさが。子育ての蜜月は終わってしまうんだろうか。もちろん、これからも沢山の楽しい時間はあるだろうけど。べったり、ぴったり、すりすりのこのなんとも甘い時間が終わるのが正直サミシイ。それにしても、男の子の3歳位って、本当にかわいい。上の子のときも、ラブラブだったけど。ええい。春だもの。新しい一歩踏み出さないとね。ああ、でもやっぱりキュんとするわ、この季節。では、最後の彩都コラム、行ってみよー。「一周年」http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2009年03月27日
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「万博公園の森」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2009年03月12日
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原題は「In the Shadow of the Moon」という映画「ザ ムーン」に行ってきた。アメリカのアポロ計画(なぜに今?)にまつわるドキュメンタリーでNASAの蔵出し映像(本当によく録ってるわ)と現在の宇宙飛行士たちへのインタビューで構成されている。息子と二人で見に行ってきた。映画は「ポニョ」以来かな。時の大統領ケネディの掲げた「月へ人を送る計画」。単なる科学技術の挑戦というよりは、もっと色々なものが渦巻く。冷戦時代のソ連との力関係、そして、ベトナム戦争が泥沼化する中で国民をまとめるための施策としての意味合い。何より、アメリカがまだ「輝けるアメリカ」だった頃の映像になんだか、私でも懐かしさを覚えた。その辺から、何で今この映画なんだかがわかってきたような・・・。息子はただ単に芽生えてきた「宇宙」「天体」への興味などから画面に真剣に見入っている。訓練の様子、いちいちに国中が歓喜、高揚する空気。事故、そして、打ち上げの恐ろしい轟音。コンピューターを使わず、人の手の試行錯誤から生まれてくる機体。すさまじい時間とパワーと、それを後押しする「人々」の力。普段なかなか見えない「国」というものがそこにははっきりと存在していた。悲しいかな、戦争でも起こらない限り、私たちは「国」というものを見失う。あ、だからオリンピックがあるんだったね。アメリカのそして、ひいては人類の希望を載せて飛び立つロケット。そこには、どうしてもそこへ向かわなければならない、人の悲しい性を見たような気がした。どんなに時間を費やしても、脆い鎖ですべてがつながれているようなシステム。それをどこかで知りながらも、やはり飛ばずにいはいられない。そして、成功したときの、アメリカのみならず、全世界の歓喜。それと、対照的な荒涼とした月の風景。漆黒の宇宙と、真っ白な月の大地。「美しい」と形容もされるが、私にはやはり「踏み入れてはならない地」に見えた。実際そう語った宇宙飛行士もいた。ただ、遠くに見える地球は、紛れもなく美しい。そして、それもやはりどこか脆く壊れやすいもののように見えた。科学も進歩し始めたら止まることができない。いや、本当は止まったっていいのに。やっぱり、人間はわかってない。ただ、おろおろしながらも、その怖さを打ち破るべく必死で生きてる。「月へ行ったのはウソでは?」なんて噂が何年か前にタブロイド紙を賑わせていたけど、そんなことはどうでもいい。数々の映像の持つ力は、やっぱりすごい。それが本当であれ嘘であれ、それぞれの目で確かめるしかない。映画にはちゃんと映っていたような気がする、その光も影もね。
2009年02月02日
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「ファーストライト」アップしております。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2009年01月29日
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私には二つ下の妹がいる。現在、同じ市内に住み(去年までは同じマンションに住んでいた!)、私と同じく二人の子どもの育児をしている。そんな彼女の旦那様に、辞令が出た。海外異動しかも、「ギリシャ」だと。外資系の商社勤めだったので、海外勤務の可能性はあったが、よりによって、ギリシャとは。「ギリシャ神話、オリンピック、白い壁、青い海・・・」以上。それくらいしか浮かばない、縁もゆかりもない土地。旅行でもかすったこともなかった。しかし、サラリーマンは会社の命令に背くこともできず、今年の夏、発つことになった。寂しくなるなあ、と同時に、私には残された両親のことが頭をよぎる。「頼りになる親」→から「いづれ面倒をみることになる親」へ確実にシフトしつつある親のことで、正直少し気が重くなった。実は妹は私よりは両親と良好な関係を築いていて、特に母親とはしょっちゅうメールや電話をやりとりし、話もあう良くある「姉妹のような親子」。私は、それを横目で見つつ、イマイチ入れないでいる見かけ「しっかりものの長女」。そう、しっかりなのは見かけ倒しで、私はいつからか、両親と距離を置くようになった。書くと長いストーリーになるので割愛するが、高校生くらいからだろうか、私は明らかに家庭より、学校や外の世界に重きを置くようになった。それは、その年頃なら当たり前のことなのだろうが、私の場合、父と母を取り巻く不穏な空気の「交通整理役」に疲れていたことが主な理由だった。そして、社会人になって二年目、貯金も少しまとまったので、家を出て一人暮らしをはじめた。心のなかに、親から「逃げた」感覚があったのは否めない。普通の自立とまたそれは少し違うように思えた。不思議なことに、同じ屋根の下で育った妹には、そういう空気がなかった。彼女は当たり前のように、親との距離感は変わらないまま、結婚、出産をした。私から見れば、少々親離れ子離れができないでいるようにも見える位だった。ギリシャ行きが決まって、何が一番不安かと聞いてみたら、「今まで親と離れたことがないから、それが不安」だと。私が「弱っていく親を看るのが自分だけになるのが気が重い」と言うと、お互い「あらそうなの」と笑うしかなかった。ここだけ見ると、どこまでも私が親不孝ものになるのだが、それは否定しない。正直な気持ちがそうなのだから。私は思わず言った。「ギリシャに行くのが私で、イバラキに残るのが妹だったらよかったのにね」。そうすれば、あっちもこっちも丸く収まるのでは。でも、人生そう甘くはない。たっぷり課題のある方へ道は用意されている。要はそれを「越えなさい」ということ。わかっちゃいるけど、気が重い。でも、人生前に進むしかないんだな。
2009年01月15日
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色々あった正月も過ぎようとした先日、いつものように、ネットでその日のニュースをチェックしていた。すると、信じられない一文が。「ユニコーン!16年ぶりに、まさかの再結成」ほとんどの方にとっては、どうでもいい話なんだろうけど、私は椅子から立ち上がり、血圧上昇、おまけに涙まで出そうになる。「う、嘘でしょ??」「ユニコーン」というバンドがそれこそ、20年ほど前のバンドブームの時代に居たことは大体のひとが「知ってる」。とりたてて、大きなヒット曲もなし。アイドル的なルックスもなし。解散も人知れずこそっと。それでも、今の若い世代のバンドにも、ひそかに支持を得ているらしく、あちこちでカバーなどされているので、地味に知名度はある。だだ、私にとっては「青春そのもの」?「昔の恋人」?なくらいの存在なのだ。いつも自分のそばにあった音楽。音楽というより、存在。誰でも経験するように、「手の届かない人」にハマった恥かしい青春。コンサートはもちろん、雑誌、CDはほとんど手に入れ、大好きだった奥田氏に関しては、出身の実家を訪ね(ピンポンはしてないけど)、出身高校に潜入し、奥田氏元バイト先で彼考案のメニューを食し、親戚に頼んで名前入りのサインを入手し・・・とストーカーっぽく追い掛け回していた。アホですわ。私の愛情もきっと届いているなあ、というばかげた実感(妄想)もありついには、私のために曲まで書いてもらい(「陽」という曲です)。。。と幻想だか現実だかはもうどうでもよいくらいの存在だった。ずっとずっと奥田民生氏が好きなんだと思っていたが、どうやら、「ユニコーン」の音楽が好きだったようだ。だから、ソロで活動している奥田氏にはあまり触手が動かず、今回の再結成のニュースにワナワナしてしまったのだろう。何がどんなに良いかは、もったいないから教えないことにする。どうしても聞きたい方は気が向けば個別に。しかし、音楽の力はすごい。もうどこかへ千切れ飛びそうな記憶ですら、連れ戻してくれそうだ。久しぶりにCDを聴くと、記憶のあちこちが融解する。そして、とにかくとにかく心細かった私を確実に「満たして」くれた彼らが帰ってきてくれたことを、心から喜んでいる。母親になって、改めて思う。彼らがかっこつけもせず、偉ぶりもせず、ただ真面目に、とびきり可笑しく見せてくれたものがやっぱりこの子たちにも必要なんだよなあ。わからない人は、とにかく聴いてみてくださいな。ただし、「君を守りたい」だの「輝く未来に向かって」だのとは全然違う世界ですので、だら~んと聴いてください。でも、ちゃんと作られた「作品」なんだな。共感できる人が周りに居ないのがサミシイが、私にとっては、とにかくハッピーなニュースだった。もちろん、行きますともコンサート。ああ、楽しみ楽しみ。
2009年01月06日
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「彩都 花の話」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2009年01月06日
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2008年が終わった。一昨年よりは、少しはパソコンに向かう時間がふえたが、相変わらず細々としか書くことはできなかった。引越しによって、新しい生活が始まったので、それに適応しているうちに一年が終わった。子どもが成長するにつれ、色々行動範囲が増えたので、親子で楽しい時間を沢山共有できたように思う。なんだかとても忙しかった秋、反動で沈んだ12月。それでも、クリスマスは子どもたちとあれやこれやと楽しみ、大掃除、お正月の準備をとつつがなく事を運ぼうとしていた矢先、実家の父がやってくれた。おせち準備のために、実家へ行くと、そこに救急車が。ヤな予感。そばに居た近所の人に、「はしごから落ちた」と聞いて、救急車のドアをノックした。やはり父だった。幸い意識はあったが、そのまま救急病院へ。残念ながら、脳内で出血が見られ、そのまま入院することになった。外傷性くも膜下出血とのこと。手術の必要はなかったが、出血量はかなりあったようで、今後のさまざまな後遺症が説明された。とりあえず、帰ってきて、おせちなどを作ってはみるものの、正月な気分はどこかへ行ってしまった。そうこうしているうちに、年が明けてしまった。しばらく父の入院は続きそうだが、こちらはこちらで新しい年をはじめるしかない。今年は、春から下の息子が幼稚園に入るため、やっと自分の時間を少しもてるようになる、ということだけが決まっている。その時間の使い道などは、未定。仕事、その他何か新しいことをはじめることはできるのだが、はっきりと「これ!」と思えるものは見つかっていない。でも、なんとなく楽しみにしているのも事実。子どもがようやく手を離れたら・・・と思ったら、忍び寄る親の老い。人生うまい具合に、飽きさせないストーリーが用意されている。うちの場合、父は今回のことに限らず、病気のデパートのようにさまざまな持病を抱えている。そして、去年秋には母の頭に腫瘍が見つかった。その治療も、今後必要になってくるだろう。病気、そしてゆくゆくは介護という形で親とかかわっていく日が確実に近づいてきた。そして、こともあろうに、頼りになる妹一家の海外転勤!の話。逃げ場なし。あ、別に逃げるつもりはないのだが、明らかに私の「宿題」の締め切りが近づいてきた。それは、子育て中にむくむくと顔をだした、自分の親への「感情」。これから、親と向き合っていく前に、なんらか収まりをつけておかないといけないのはわかっている。そして、それはこれからの自分の子育てにも、大きな影響を与えるんだろうなあ。しかし、気が重い。新年早々、テンションが低くてどうかと思うが、客観的に見れば、色々な意味で、自分が楽になれるチャンスなのかも、しれない。でっかい石がどーんと自分の前に鎮座している。いつからこんなに重たくなってしまったのか、思い出せない。でも、その存在だけは嫌でも感じずにはいられなかった。いっそ背負って歩こうか。ひょいと乗り越えていこうか。見えないくらい遠くへ飛んでいけるかな。今年もまた、「先の見えぬ」お正月。でも、いつものことなので、ちょっと笑えるよ。
2009年01月05日
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「私の街の研究所」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2008年11月27日
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最近息子が冷たい。とくに母である私に対して。スリスリ甘えて来るのも、寝るときだけだし、話しもあまりしてくれない。もう一年生なんだから、仕方のないことなのかもしれないが。学校から帰っても宿題をばたばたと片付け、あっという間に友達とどこかへ消えて行き、帰ったかと思うと、机に座ってじっと本ばかり読んでいる。こちらが、質問しても生返事。食事のときも、黙々とあっという間に食べて、また机に向かって本。すっかり、本の世界に取り憑かれてしまっている。毎日外で友達とも遊んでいるのだが、どうも、同い年の友達としっくりこないようで、「一人の本」の時間が楽しくてしょうがないみたいだ。正直言って、親として「これでいいのか」と不安になるところではあるんだけど、私自身も結構一人の「自分の時間」が好きな人間なので、気持ちもわからなくはない。ちなみに、どんな本を読んでいるのかというと、学校で借りてくるのは「昆虫のひみつ」とか「有毒生物のひみつ」とか「自然のひみつ」とかのひみつシリーズや「宇宙」「恐竜」などの図鑑。その他、図書館で借りてくるのは、宮崎駿、手塚治虫関係。その他うちにある絵本、漫画類。すごい集中力で、あっという間に一冊読み上げる。そして何より、「すっごく楽しい」らしい。だから、こちらとしては、どうすることも出来ない。今はきっと色んなものを、自分の中に溜め込むのが、楽しくてしょうがないのだろう。昨日の参観で、紙粘土とドングリをつかって、ペンダントを作りましょうというのがあった。どの子も皆それぞれ集中して、出来上がったら、乾かすために後ろの棚に持ってくる。それぞれ作品の下に、題名と解説が書いてある。女の子たちは、熊だの猫だのお花だの、かわいらしいものが多い、男の子はロケットだの、恐竜だの結構シンプルなのが多い。息子のは、タイトル「フィルターネック」???その下の解説。「まずはし(橋)の下からじょうほうをうけとり、それを上のアンテナにおくり、それを下のアンテナにおくる。それをコントロールセンターのがめんにうつして、家へおくる。はしの上は人があるけるようになっている。くろうしたところは、はしのささえのところ」あのう、ペンダントではなかったっけ??空想入りまくりで、勝手に自分の世界に入ってる。この先、どこへいっちゃうんだろう?そして、先日、思いついたように、「おはなし書く」といって小さな、お話を書き上げました。前日に読んであげた、「どんぐりと山猫」(宮沢賢治)のパクリ??って思わなくはないけど(笑)、まあ、処女作としては、まとまっているかなあ。息子作「くりのきとけんじ」以上親バカ報告でした。
2008年11月08日
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息子の小学校で、「読み聞かせボランティア」を募っていたので、参加することにした。市内の小学校ならどこでも、そういう保護者による読み聞かせが行われているらしい。以前小さい子ども向けには読み聞かせをした経験もあったので、楽しみに応募した。私は小さいころからいつもたくさんの絵本に囲まれて育った。私の祖母は幼稚園教諭を経て、その後短大の講師をしながら「よい絵本」(全国学校図書館協議会絵本委員会選定)の選定委員になっていた。そのため、毎月毎月その選定委員によって選ばれた絵本を、祖母が持って帰ってきてくれる、というとても贅沢な環境で育った。そして、気がつけば絵本が大好きな子どもになっていた。それは、そのまま大人になってからも、本を好きになる土台となった。そのことは自分の財産になったと、とても感謝している。子ども心に深く残った絵本の数々。大人になってから、買った絵本。読み返した絵本。人に送った絵本。送られた絵本。人生の色んな場面で絵本は静かに、でもじんと心に栄養を与えてくれた。私にとって絵本は「とてもとても大切なもの」なのである。だから、自分の子どもにも、とにかく本に関しては、いつでも本があるのが自然な環境をつくり、それこそ赤ちゃんのときから、毎日寝る前に読み聞かせをしてきた。結果、上の子は今では取り上げないといけないほどの「本好き」になってしまった。下の子も気がつくと、自分で絵本を出し来てはぱらぱらとめくり、大人を見つけては「読んで」とせがむ子になっている。ただ、世間一般では、子どもたちの本離れがますます進んでいるという。人に読んでもらうことでも、本を好きになるきっかけになればと思い、読み聞かせに参加することにした。うちの小学校の読み聞かせのシステムは、基本的にボランティアが「自分の好み」で好きな本を選んでよいことになっている。年度の初めのミーティングで、それこそ「好みの押し付けになりはしないだろうか」とか「戦争や、宗教など特定の思想が色濃いものは避けるべきか」とかさまざまな論議がなされたが、結局、本もある意味「出会い」であるので、できるだけ、偏らずいろいろな本との出会いがあったほうがよいのではないか、というところに落ち着いた。そこで、それぞれが好みで選び、毎月読むクラスを替えるという方式が適しているのではということになった。ということで、毎回読むクラスが変わるので、その都度年齢や、既にそのクラスで読まれた本などを参考に本を選ぶ。この作業が結構時間がかかるのだ。いわゆる自分の好きな「読みたい本」は山ほどあるのだが、学年や読み聞かせをする季節、既読歴などを考えるとこれがなかなかしぼることができない。なんとか決まっても、15分という持ち時間のなかで、1冊では短すぎるということもある。そうすると、もう一冊となるのだが、これがまた、最初に決めた本との相性や、読む順番など、もう迷うことばかり。楽しい作業であるのだが、思いのほか労力を使う。そして、ようやく本が決まれば実際に読み聞かせの練習。声の出し方、読むテンポ、ページめくりのタイミング。間違わずに読むだけでなく、いろいろなことを同時に考えながら読まなくてはならない。本番では、さらに、教室の子どもたちの雰囲気も見ながら読むので、練習もたっぷりするが、本番は「ライブ」さながらその場の雰囲気を大切に読むようにしている。実際、教室にいくと、きらきらした子どもたちの目に囲まれて、こちらも特別な気分になってくる。期待通りの反応、思わぬ沈黙。はらはらドキドキだ。「読んで聞かせる」というより、その時間だけその絵本の世界を一緒に楽しんだという感覚がもてれば、とりあえず読み聞かせは成功かな、とほっとして教室を跡にできる。そして、その後皆で読後のミーティング。読んだ本の紹介と、実際の子どもたちの反応などを分かち合う。これが、想像以上に楽しい時間。それぞれ、本の選び方にも個性があり、ああ、そんな本があったのか、と毎月新しい本を知ることができる。また、読み聞かせに入る前に、導入として、簡単なお話や小道具を使って子どもたちの関心を引いてから、本に入っていく方がいたり、季節に合わせてテーマを決めて本を選んでいる方がいたりで、参考になることばかり。そして、どの方も、本を選ぶということに一番苦労されていて、考えの押し付けにならないだろうか、とか理解してもらえるだろうかとか、いろいろ十分すぎるくらいの時間をかけて選んでいることがわかった。要は、「本好き」の集まりだということ。ちなみに、今月私は「ないた」(中川ひろたか作 長新太絵 金の星社) 「けんかのきもち」(柴田愛子作 伊藤秀男絵 ポプラ社)との二冊を読んだ。「ないた」は「けんかのきもち」が読みたくて合わせて選んだ本なのだが、「けんかしてないた」「ころんでないた」と、さまざまな泣く場面の羅列から「おとうさんが泣くのをみたことがない」「おとなはどうしてなかないんだろう」「ぼくも大人になったらなかなくなるんだろうか」で終わる、結構余韻の残る絵本だ。案の状子どもたちはしんとしていたので、次の本に入りにくいな、と思って質問をしてみた。私「涙のスイッチってどこにあると思う?」子どもたち「目」「ゴミ」「脳みそ」とかいろいろ答えが出てきた。すると中に「悲しいこと」と答えた子がいたので、私「『悲しいこと』がからだのどこのスイッチを押すんやろうね。」「目」とか「るいせん」とか答えてきたので、あえて、「ここ(胸のあたり)の『きもち』と違うかな?とちょっと無理やり誘導しておいて、「けんかのきもち」を読んでみた。私が特に好きな絵本「けんかのきもち」はとっても臨場感のあるお話なので、こどもたちはぐいぐい引き込まれてくれた。男の子のけんかの話なんだけど、ちゃんと女の子もついてきてくれた。大概、途中「クスっ」とか「知ってる」とか茶々をいれる子がいるのだが、今回はこっちもびっくりするくらい、みんながしんと集中してくれた。終わったあと、担任の先生が感想を聞いてくれたのだが、「途中でなきそうになった」とか「かなしかった」とか、かなり感情移入して聞いてくれたようだ。絵と言葉だけで、見たことも会ったこともない人間のきもちがちゃんと自分のもののように、感じられる。これぞ、絵本の醍醐味。今回私が子どもたちとやりとりしたようなことは、本来読み聞かせでは必要ないのかもしれない。ただ、機械のように本のタイトルを読んで、本文を読んで、そのまま帰るということが、どうしてもできなくて、私は毎回毎回、少しだけ子どもたちと話をする時間を作っている。今のところ、先生からクレームが来ていないので、このスタイルでやろうかなと思っている。ちなみに先月は息子のクラスで「しゅくだい」(いもとようこ作絵 岩崎書店) を読んだ。先生が出した今日の宿題は「抱っこです」。主人公は忙しい母親になかなか出だせずに、夜まで宿題ができず・・。ようやく言い出せたら、おかあさんどころかおとうさん、おじいちゃんおばあちゃんにも「宿題」をしてもらえた、という話。子どもたちも大盛り上がりで、そのまま、先生に「今日の宿題抱っこにしてもらえますか」と聞いてみたらOKになり、その日の連絡帳には宿題「だっこ」と息子は喜んで書いて帰ってきた。子どもたちには本を通じてもっともっと沢山の人や世界そして人の気持ちに出会ってほしい。毎日塾に習い事に忙しそうにしている子どもたちを見ていて切にそう願う。受け取る子どもたちの気分や環境などによって、それぞれ響き方はちがうだろうけど、後からジンジン聞いてくる絵本もあるだろうし、また何年後かに再会する絵本もあるだろう。毎月、たった15分の時間だけれど、それは私にとっても、わくわくする出会いの時間になっている。
2008年10月28日
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「実りの秋」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2008年10月28日
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「自転車生活」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2008年10月01日
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