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『播磨灘物語』1~4・司馬遼太郎(講談社文庫) 時々ふっと、この筆者の蘊蓄というかお説教というか、ご隠居話を聞きたくなる時があります。何と言っても博引旁証でいらっしゃる上に、語り口が何とも暖かみがあってとってもよろしい。例えばこんな感じ。 ちょっと、筆を休めたい。 二十年ばかり前、ふと思い立って、播州の三木という町に行ったことがある。 三木というのは別所氏が亡んでのちは、城下町ではなくなったから、町並などもごく雑駁で、古城趾をとりまいて雑貨、洋品などを売る商店街があるのがめだつ程度だった。 とか、 信長というのは、大空に石を高く投げて高鳴りさせるような精神の響きを感じさせるところがあって、そのことは、かれが精神の重大な一点において理想のもちぬしであったことと無縁ではない。 が、その現実的計算の面だけを見れば奸物としか言いようがない。 二つめの文章のような表現は作品中至る所にあるのですが、よく考えてみると、こういった断定はいったいどうしたらできるんですかね。 まー、今となっては誰も信長に実際に面会したことのある人はいないわけですから、様々な文献を読んだ後言ったもん勝ちみたいなところはありますわな。 でも、私だったらとってもこう断定的には書けません。 うーん、たぶん、学識に裏打ちされた自信なんでしょうかねー。 ま、しかし、筆者のこんな蘊蓄話を読みたいだけならば、随筆集のたぐいは沢山出版されていますね。代表的なものは新潮文庫から『司馬遼太郎が考えたこと』というタイトルで15冊にまとまっています。 この本もとっても面白いですが、さすがに5冊くらい読むとちょっと飽きます。(その代わり、その5冊は一気に読めます。) だから私は、3期くらいに分けて、間に1年ほどを2回挟んで読み切りました。 さて冒頭の4冊の小説ですが、だいぶ前に一冊105円で買ってずっと読んでいなかったものであります。 わたくし、兵庫県の生まれなもので、別に郷土意識の強い人間ではありませんが、なんとなく知った地名の小説作品は集めるともなく集まったりしています。 話は飛びますが、大学時代、東北地方出身の友人から(もちろん酒でべろべろになった後の他愛ない話でありますが)、おまえは関西人だから関西がらみの文学を研究する義務があるみたいなことを言われまして、そもそも頭の作りがアバウトにできていた私は、なるほどとあっさり納得し、アルバイトでお金を貯めては『織田作之助全集』とか『武田麟太郎全集』とか『開高健作品集』とかを買ったのですが(西鶴の全集も買おうと思ったのですが、ちょっとビビッてやめました)、どの全集も完読できていません。 というわけで、我が家には冒頭の小説があったのですが、今回それを読むに至ったのは、やはりNHKの大河ドラマのせいでしょうかねー。 わたくしは人間が軽いわりにはテレビから影響を受けることはきわめて少なく、というよりそもそもほとんどテレビを見ませんので影響を受けようもないんですが、それでも今年の大河の主人公が黒田官兵衛であるくらいのことは存じ上げ、そしてついふらふらと『播磨灘物語』を手に取ったという顛末でございます。 やはり、大河ドラマで取り上げられると、思わぬところに需要が生まれるものですねー。偉いものです。(といって今回の私においては、何ら経済活動に寄与はしていませんが。) さて、やっと内容についての報告でありますが、読みながら、あーそーだったよねー、と思い出したのですが、そして冒頭に書いた司馬じいさんのご隠居話についての感想とは少々矛盾するかも知れませんが、よーするに、まー、とっても長いお話ですわ。 『坂の上の雲』を読んだ時も『龍馬が行く』を読んだ時も、『菜の花の沖』の時は特に強く感じたのですが、ちょっとながすぎません? という印象であります。 一方で官兵衛の一生を描いたとすると、後半から終盤の分量バランスがとってもいびつであります。信長の死以降が極端に短く、秀吉が明智光秀を滅ぼして後は、わずか一章分で一気に書き上げています。(今数えてみたら全部で36章ありますから、そこは1/36の分量ですね。) これはなぜなんでしょうね。 私の想像に余るんですが、やはり何かあるんでしょうね。 きっと作品の必然性以外の何かがあるように思います。しかしそもそも大河歴史小説には、そんな性格があるのかも知れませんが。(ふっと頭に浮かんで、いやいやこれを明示してはいけないだろうと思ったのが時代劇の『水戸黄門』でありますが、……あ、書いてしまった。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2014.01.27
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『出雲の阿国・上下』有吉佐和子(中公文庫) えー、長編小説であります。 中公文庫で上下500ページずつ、合計1000ページであります。 もちろん、この作品を書いた作家のしんどさはその比ではないでしょうが、でも読む方だって、結構大変でありました。 特に、ここだけの話ですが(って、意味ないですが)、この筆者の文章はどちらかと言えば「地味っぽい」感じが、わたくし、申し訳ないながら致しておりましてー、えー、結構辛かったです。 しかし、その甲斐ありましてー(何の甲斐?)、読み終えるととってもよかったです。感動しました。 この感動はいわばながーい本を読み終えたという「達成感」ですね。 と書くと、なんだ、作品の出来の善し悪しは関係ないのかい、自己満足みたいなものかい、と思われるかも知れませんが、いえいえこの達成感は結構大切であります。 わたくし、実は、作曲家ブルックナーの交響曲が結構好きでありまして、CDでよく聴きます。時々演奏会に行って、そこでもブルックナーの交響曲を聴いたりします。 ブルックナーは、習作も含めますと11曲の交響曲を残していまして、私としましては、何とか全曲生演奏で聴きたいものだとは思っているのですが、なかなか全曲コンプリートが出来ません。(実際は、コンサートに載せるには出来があまりよくない曲もあるのだということを聞いたことがあります。) しかし、ブルックナーの交響曲の演奏会は、大体いつ行ってもとても感動的であります。もちろんそれは、素晴らしい演奏をした楽団のおかげでもありましょうが、ある時私はふと別のことに気づいたのですね。 今でも覚えております。私はその演奏会の少し前に、人生何度目かのぎっくり腰にかかりまして(わたくしも腰痛持ちなんですね)、いわばその回復期にありました。 そこへブルックナーの交響曲第7番の演奏会であります。一曲だけで80分近くあります。ブルックナーの曲はとにかくとっても長いんですね。(マーラーの交響曲は大体それ以上に長いですが。) もちろん随所に素晴らしい旋律があるのですが、それでも長いです。 そこに、腰痛回復期にあった私の腰であります。第2楽章あたりから徐々に鈍痛を発生し始めました。 一曲80分も掛かるような曲を演奏する方々も大変でしょうけれど、あんな狭い椅子にずっと座らされている観客も結構大変なわけで、私は狭い椅子の中でビミョーに姿勢を変え、また変え、また変えと、少しずつ姿勢ローテーションをしながら聴いています。 でも腰の鈍痛は、そのどす黒い痛さを増す一方です。冷や汗が、にじみ始めます。大変です。 そして第4楽章、作品の終盤になり、そんな演奏者の大変と私のような観客の大変が一緒になって(書き忘れていましたが、ブルックナーにはクラシック音楽に珍しくオッサンのファンがとっても多いです。ということは、きっと私のように腰痛を我慢しながら必死に聴いているオッサンもかなり多いと推測されます)、カタストロフに向かってお互いのマゾヒスティックな、固い共同感覚・団結意識が生まれます。 そして、あの、耳も砕けよと鳴り響く金管楽器の集団催眠のような効果の中で、80分が終わった時、もー、わーーーーーっと、拍手の嵐であります! わーーーーーーーっ! わーーーーーーーっっ! やっと、終わったーーーーっっっ!! なんとか、腰もったーーーーーっ! ……やー、ブルックナーは、やっぱり、めっちゃ、ええですなー。 ……えーっと、なんの話、でしたっけ。 ……思い出しました。失礼いたしました。『出雲の阿国』であります。 しかし真面目な話これだけ長いと、単に主人公の一代記だけの内容に留まらず、いわゆる筆者が持つ様々な「哲学」が顔を出します。(この「哲学」を作品の芸にしたのが司馬遼太郎でありますね。) 本作で言えば、一種の芸術論でありましょうが、もう少し絞り込んで言いますと、本当に優れた(天才的な)演技者・演奏者の生き方とはどういったものか、と言うことでありましょうか。 それは、何らかの形で作品が残る芸術や、たった一人でもコツコツと作り続けていくことができる芸術と違って、本質的に「一回性」という性格を持つ芸術に魅入られた芸術家の生き方のことであります。 筆者は、その一つの回答例として主人公「阿国」を描いています。 本作品には何ヶ所かクライマックスと目される部分がありますが、終盤の、阿国の一種の「身の引き方」を描いた部分もまた、深い静かな感動を生み出す部分となっています。 力作です。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2014.01.12
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