セミリアイア「晩年」日記

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2019.12.23
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カテゴリ: 随想
今年の4月くらいに、「カテゴリー」というものが、そういえばあったなと思い、最初は「日々雑感」「練習日誌」「試合日誌」を立て、次に「評論」、しばらくしてから「随想」を立てた。

それ以前の記事は、一部だけ「評論」にカテゴライズしておいたが、すべて「未分類」扱いのままで放っている。

今年、最も多く書いたように思うのは「評論」で、88記事あった。しかし、実際は「日々雑感」が110、「練習日誌」が108。もちろん、文章量は「評論」が圧倒的に多い。

「評論」では、自分の「思想」といえるほどのものではないが、生き方の基盤になっている「思考」を書き綴った。他の記事と違い、後から修正したり、加筆したりもした。近代的自我が綴る日記の本質は「再読と加筆」であると言った富永茂樹の評論があったが、まさにその通りである。

近代的個人は自分がどのような人間であるかを、たえず確認しないではいられない。なぜなら、彼には共同体の中での安定した位置は、もはや与えられていないからだ。また、神による救済も信じていない彼は、自らが自らを救う他ないからである。

デカルトが言った「我思う、故に我あり」とは、「我」とは「思う」ことによって作られる総体だという意味である。逆に言えば、思うことなしに自我は存在しない。そうであるならば、「我」が何をどう思ったのかについては、絶えず点検し、修正しなければならない。これが日記の本質である。

考えてみれば、ノート一冊あれば、それで事足りるのであるが、検索・分類機能や、後からの修正がすぐできる機能が、非常に使い勝手が良いのである。でなければ、チェーザレ・バベーゼの日記のように「何月何日のところに・・・ということを追加」のような書き方をしなければならない。

そして、誰かがこれを読み、反感を持ったり、共感したりすることも、少しは想定している。だが、そういうことにいちいち反応する気はないから、コメント機能は使っていない。

1本の矢の軌道は、放たれてしまった後では、どう修正することもできないが、一つの文章は、書いてしまった後から修正することは可能なのだ。それは、通常は思考の微修正であるが、時にはドラスティックな転換でもあり得る。





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最終更新日  2019.12.23 06:04:59


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