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今日、職場に、九州大学の研究員の方が資料調査に見えました。かなり高度なお話を伺って感心することしきり。実は考古学、地域や大学によって得意不得意がとってもはっきりしているギョーカイなんです。たとえば、古墳についてなら、古墳がたくさんある近畿が研究の中心、とか。ちょうど、奈良県の箸墓古墳が、邪馬台国の卑弥呼の墓かも?というニュースを聞いたばかりだったので、その頃の時代を得意としている職場のおねーさんに昨今の邪馬台国論争について聞いてみました。ちょうど、ワタシが古代史に興味を持ち始めた頃は、邪馬台国北九州説のほうが主流。北九州か、大和か?というこの論争、一般の歴史ファンの間でも注目されていますよね。最近は、邪馬台国畿内(大和を中心とする近畿地方)説に傾きつつあるのだって。北九州説を支持する九州の方はそれでいいの?そしたら、北九州は北九州で、邪馬台国とは別の高度な文化を持つ国があった、という考えになっているんだとか。邪馬台国の後、日本を広く治める大和政権が成立していく、というのが今までのベーシックな考え。ところが、邪馬台国は邪馬台国、大和政権は大和政権。だけど、九州にも、関東にも、他の地域にも、たくさんの別の国が成立していて、しかも、それらの国が、邪馬台国や大和政権に従属していたわけではない、という考え方が出てきたそう。これって、現在の地方分権、地方文化の見直し、という方向からも歓迎される考えですね。簡単に言うと、日本だって、全国、同じ文化や人で構成されているんじゃないんだよ~、てことです。難しくいえば、文化の多様性を認めて、尊重しましょうということ。これ、とても大事なことだと思います。まず違う価値観の存在を認めることが、小さくは身近な人間関係から大きくは世界平和に繋がることですから。ちょっと硬い話になりましたが、歴史のお勉強というのは、現代社会をよりよく生きていくために、実はとっても必要なことなのです。さて6月の予定5日(金) 渋谷にある母校の博物館見学(新校舎も完成したようで、ひさしぶりに訪ねてみたい。で、渋谷で何を食べようかなあ)6日(土) 特派員1号のお部屋訪問(実は、まだ行ったことがないのです!その後池袋でランチの予定)11日(木) 新橋演舞場 歌舞伎「NINAGAWA十二夜」(桟敷で観劇!)12日(金) 鎌倉に、精進料理を食べに行きたい!13日(土) 特派員1号と某アパレルのバーゲン出陣予定(娘とデートの機会が増加。やっぱり一緒に遊ぶには娘っていいよね~。)20日以降どこかで 映画「剣岳 点の記」を見る(壮大なスケールの山岳ロマン)27日(土) 銀座で観劇関係オフ会28日(日) 101氏と月例ランチ会(笑)最近お気に入りの「木曽路」で(夏限定の「ひつまぶし」を予約済み!初めての「ひつまぶし」楽しみ!)
2009年06月01日
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クイズをひとつ。記録に残っているかぎり、日本で一番最初にラーメンを食べたのは誰でしょう?明治時代、横浜の中華街の人?いえいえ、実は、あの方。テレビでもおなじみの、有名なあの方です。ご存知の方もいらっしゃいますね。答えは、なんと江戸時代。水戸黄門様こと徳川光圀公です!名君としていまでも慕われている光圀公。新しい知識を取り入れたり、海外の事情にも詳しい好奇心旺盛な方でもありました。ちょうどそのころ、中国大陸では、明王朝が滅んで満州族の清王朝が成立。清朝に従うことをよしとしない人たちが、日本にも亡命してきました。そのひとりが、大学者の朱舜水先生。光圀公は、朱舜水先生を学問の師として水戸徳川家に招きます。そして、この朱舜水先生から教わったレシピによって、ラーメンを作ったのです。水戸家の記録には、光圀公が、お客にラーメンを振舞ったという記事が。今から、300年ほど前、江戸時代中頃のお話です。そして、昔の記録からレシピを再現したのが水戸藩らーめん。水戸市内のいくつかのお店でいただけます。現在の日本のラーメンとはかなり違います。なにしろ、中国直伝のレシピ。鶏や豚でダシをとる本格中華。漢方素材やカラダにいいお野菜を使い、健康にもいいように考えられています。洗練された、というのとは、ちょっと離れていますが、きっと、300年前の中華料理はこんな感じだったのかな?なぜ、この話を書いたかというと、来週、水戸に行くかもしれないので、久しぶりに水戸藩らーめんを食べてこよう!と。ちょうど梅も満開で、いい季節です。
2007年03月10日
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昨日の「冷やしたぬきうどん」、予想を超えるコメントをいただきました。ありがとうございます。さて、一般に、関東地方では蕎麦、関西地方ではうどんが好まれる、と思われていますね。実際、東京には美味しいお蕎麦屋さんがたくさんあります。しかし、このお蕎麦、意外に歴史は浅いのです。うどんは、奈良時代くらいから食されていたようです。これは、もともとのルーツは中国。遣唐使として中国に渡った留学生たちが日本に伝えたものでしょう。当時の唐の都長安(現在の西安)は、餃子や刀削麺などの小麦粉系食品が名物です。ただし、当初、日本で食べられていたうどんは、麺ではなくて、餃子のようなものとも言われています。要するに、小麦粉を練って作った食べ物を、うどん、と呼んでいたようですね。ところで、麦の栽培できるところにうどんあり!というわけで、日本全国でうどんは食べられています。関東地方でも、東京の多摩地区、埼玉県、群馬県、山梨県などはうどん文化圏と言ってもいいほど。このあたりの旧家では、お祝い事があるとうどんを振舞ったそうです。食べ方はいろいろですが、埼玉の加須うどん、山梨のほうとう、埼玉県北部から群馬県のおきりこみなど、現在も人気です。そして、お江戸。江戸時代初めは、やはりうどんを売る店だけだったようです。寛永20年(1643年)の料理書に「蕎麦きり」の製法が載っているので、このころには、蕎麦は食べられていたようです。ただ、単独で商売にするには、もう少し時間が必要でした。18世紀中ごろになると、江戸の名物蕎麦屋の名前が登場してきます。このころになると、製粉技術も発達して、いいそば粉が作れるようになったこと。現在の千葉県産の、いいお醤油が出回り始めたことも蕎麦が広まった理由と考えられます。そうなると、カッコつけたがりの江戸っ子。蕎麦の粋な食べ方を考え、つゆはどーだ、麺はどーだ、薬味はどーだ、といい始めます。さっと、一口ですすれる蕎麦は、気の短い江戸っ子にぴったりのファーストフード。たちまち蕎麦屋も増えて、江戸といえば蕎麦、になったのでしょう。ところで、もり蕎麦の粋(とされている)食べ方。お箸でとった蕎麦の下3分の一ほどをつゆに浸し、噛まずにすする。だから、おつゆは、しょっぱいくらいでいいのだとか。薬味はもちろんわさびで決まりです。参考・・・『江戸学事典』
2006年05月16日
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という番組を昨日見た。(いつもおせわになっている「はちきんさん」のブログでも紹介されています。)まず、予想通り、坂本龍馬と織田信長のダントツの首位争いだったようだ。アンケート結果から100人選んだようだが、それにしても、???という人物も多くて面白かった。この番組、タイトルが「偉人」だよね。「歴史上の有名人」では、決してないのだ。「マリー・アントワネット」…フランス革命で断頭台に送られた悲劇の王妃。でも、彼女は、民衆に嫌われこそすれ、何もいいことはしてないよな。オスカル・フランソワなら革命に味方した貴族として偉人になるだろうけど。(注・詳しくは『ベルサイユのばら』をお読みください。ただしオスカルは実在の人物ではありません。)「夏目雅子・本田美奈子」…お二方とも、若くして病に倒れた。永遠の美人女優・アイドルとしてファンの心に残る方たちだが、偉人、というのとは、ちょっと違うような。マザーテレサ、ガンジー、野口英世、エジソンなど、人類のために尽くした人は、文句なく偉人だろう。徳川家康、豊臣秀吉も、戦乱の世を終わらせた歴史的な功績は大きい。このあたりが上位にランクインするのは妥当だと思う。結果は信長が1位、龍馬が2位。ご両所とも、人気は抜群である。それぞれ、歴史的に意義あることもした。彼らがいなかったら、時代が変わらなかったのは本当だ。ただ、信長のあとを受けた秀吉、家康。また龍馬が取り持って同盟を結び倒幕を成功させ、のち明治政府の政治家となった伊藤博文や大久保利通。実際に政治を行って業績を上げたひとより、いわば、志半ばで非業に倒れたひとのほうが、やはり、日本人は好きなんだね。繰り返しますが、「偉人」のランキング、というのでちょっと???と思うのですよ。「好きな歴史上の有名人」なら、全然構わないのです。なにしろ、土方歳三が、なんと!10位にランクインである。(予想はしていたが)近藤勇も沖田総司も名前が挙がっている。ここで???なのである。新撰組は偉人か?この結果をみて、歳さんは、きっとこう言って笑うだろう。「偉人だって?笑わせるんじゃねえ。俺ぁ、ただの喧嘩屋さ。」
2006年05月08日
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柏餅を買った十万石ふくさやさんは、行田市の和菓子屋さん。行田市は、埼玉県の北東部にあります。利根川を挟んで隣は群馬県。忍城というお城があり、戦国時代は何度か戦の舞台にもなりました。江戸時代には、十万石の忍藩がおかれました。この店名の「十万石」は、ここからとったもの。埼玉県には、お城が川越、岩槻、そして忍とあります。江戸に近いため、幕府の重役を務める大名が赴任することが多かったのです。(川越は、犬公方徳川綱吉公の側用人を務めた柳沢吉保も城主になっています。「水戸黄門」のドラマでは悪役の柳沢ですが、地元では、新田を開発したりと良民に慕われる名君だったのですよ。)忍城も、幕末には徳川将軍家の親戚筋の大名(松平家)が城主となりました。そんなわけで、このお店のマークも、葵のご紋をデザインしたもの。十万石松平家の城下町、というプライドが感じられます。さて、このお店のロングセラーが、「十万石まんじゅう」。地元UHF局テレビ埼玉で流れるCMでお馴染み。(埼玉エリア限定なので、全国の皆様ごめんなさい!)ごくごくシンプルなおまんじゅうです。でも、こういうシンプルなものこそ、和菓子屋の実力が現れる!大和芋を混ぜたしっとりした皮。上品な甘さの餡。そして、「十万石」の刻印。たったこれだけのおまんじゅうです。でも、埼玉県内に多数出店し、大量に売っているおまんじゅう。お値段は1個90円。お手頃な大量生産なのに、お味のレベルは決して低くない。それがロングセラーのゆえんでしょう。子供の頃からこのおまんじゅうに親しんでいる埼玉っこは少なくないはず。ところで、行田にはもうひとつ売りがあります。それは「さきたま古墳群」。漢字の刻まれた鉄剣が出土したところです。そちらに因んだお菓子が「はにわサブレ」。踊る埴輪の愛らしい姿が、また美味しそうなお菓子です。先日ご紹介した、加須市のこいのぼり。ワールドカップサッカー本大会に、加須のジャンボこいのぼりが応援に行くそうです!しっかり応援してきてね!
2006年05月07日
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一日遅れになりましたが、柏餅を買ってきました。(なにせ、昨日はドリアン解体で忙しかった!)さて、5月5日は端午の節句、と呼ばれています。「端」は初め、「午」は午の日、ということで、月の初めの午の日のことですが、中国で漢の時代に5月5日のことを言うようになりました。ヨモギで邪気を祓ったそうです。日本でも、古代から、薬草採集に出かけたりしました。宮中の行事では、菖蒲を冠に飾ったりしました。ヨモギと同様、菖蒲にも魔よけの意味があり、また、薬草としても使われてきました。5月5日は旧暦だとすでに6月に入ったころ。気温も湿度も急上昇する時期です。食べ物もいたみやすく、夏の伝染病も流行り始める頃。そうした時期を、気を引き締めて無事に過ごしなさい、という古来からの知恵なのでしょう。その、厄除けの菖蒲が、「尚武」に通じることから、武家社会になると男の子のお節句として大事にされるようになりました。武家屋敷では旗や幟を外に飾りました。(戦場で実際に使うようなやつです。)それを羨ましがったお江戸の町人。「うちの息子にも、旗なんか飾ってやりたいなあ。」でも、武家と同じものを飾るわけにはいきません。そこで、考えられたのが鯉のぼり。滝も上っていくような鯉は、出世を象徴する元気でおめでたい魚です。たちまち町人の間に広まり、現在に続いているというわけです。ちなみに、埼玉県の加須市は鯉のぼりの産地として有名です。さて、端午の節句の食べ物といえば、「粽」と「柏餅」。粽は、古代中国に由来します。政治を憂いて入水自殺をした屈原という政治家がいました。それを見た漁民が、せめて彼の遺体が魚に食われないよう粽を投げ入れ、魚を追い払うため舟のパドルで水面を叩きました。それから、屈原の鎮魂と五穀豊穣を祈って、5月5日に粽を備え、ドラゴンボートレースを行うようになった、と言われています。いまや、香港ばかりでなく世界各地で盛んになったドラゴンボートレースは、舟で魚を追い払ったことに因むものです。ただし、日本では、屈原の話とともに粽だけが取り入れられたようです。柏餅には、柏の葉が、新しい芽が出ないと古い葉が落ちないことから、子孫が絶えない、という意味があります。普段、何気なくやっていることにも、ちゃんと意味があるものですね。今日の柏餅は埼玉県行田市の十万石ふくさや。実は、ここのお饅頭、埼玉県民なら誰でも知ってるくらい有名なお饅頭です。(でも、県外のひとは、ほとんど知らないと思います。)ちゃんと、そちらも買ってあるので、後日ご紹介しますね^^~
2006年05月06日
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今日は、花吹雪舞う一日。外でお花見はちょっとつらそうなお天気です。地元大宮公園は桜満開ですが、有名なお花見スポットであるそちらの写真を載せるのは、いかにも芸がない。渋めに、大宮氷川神社境内の桜をご披露します。うっそうとした境内の木々のなか、1本だけの桜が鮮やかです。ところで、ここ大宮氷川神社は、首都圏初詣の人出ベスト10に入る大きな神社。歴史も古く、「大宮」という地名は、この神社に由来するとも言われています。氷川神社というのは、関東地方に多い神社ですが、朝鮮系の人々に関わるとも言われます。埼玉県、東京都(昔は武蔵国といいました)には、渡来系の人たちも多かったのでしょうか。埼玉県西部には、高麗川、なんていう地名もあります。さいたま市の自慢したい景色のひとつが、この神社の参道。さいたま新都心駅(大宮駅のひとつ東京より)近くから、ケヤキ並木の参道が始まります。高層ビルから見下ろすと、濃い緑のラインが1本、神社の森まで続いているのがわかります。
2006年04月03日
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中華3大高級食材、といえば、燕の巣、フカヒレ、干しアワビ!燕の巣は、以前にボルネオ島などの東南アジア産だと紹介しました。フカヒレと干しアワビ、これが日本産だと知ってました?香港の高級レストランで使われるフカヒレは、東北の気仙沼産など。もちろん、日本以外のものもあるのだけれど、最高級とされているのは、なんといっても日本産。話は、江戸時代まで遡ります。鎖国をしていた江戸時代ですが、長崎で中国(当時は清朝)、オランダと貿易をしていたのはご存知でしょう。この貿易で、日本側の輸出品として「俵物(たわらもの)」がありました。これは、俵に収められた海産乾物類。主に蝦夷地(北海道)で獲れるアワビ、ナマコ、そしてフカヒレもありました。これらが、中国に輸出され、料理に使われたそうです。ここに、一人の政治家登場。18世紀の幕府老中、田沼意次さん。ワイロ政治家として、悪評高い田沼さんですが、商業重視政策で経済を活性化しようとした、いわば改革派。田沼さん、長崎貿易にも力を入れて、その中国向け主力商品が、この「俵物」だったのです。高級中華料理を楽しめるのは、田沼さんのお陰かも?
2006年04月02日
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お昼前に家人2嬢から届いた画像。雪に縁取られた五稜郭です。いやあ、きれいですねえ。高いところから見ると、きっちり星形になっているのがわかります。実際の景色は、壮大でしょうね。うらやましい。さて、この五稜郭。江戸幕府末期に作られた西洋式のお城です。そこが、それまでの日本のお城とは違うところですね。ペリー来航以来、開国だ、攘夷だ、と日本中がかしましいなか、江戸幕府は西洋の学問や技術を身につけた若者を抜擢してきました。咸臨丸で太平洋を横断した勝海舟、難破してアメリカ船に助けられ、アメリカで教育を受けた漁師の若者中浜万次郎(ジョン万次郎)などは、ご存知の方も多いでしょう。薩摩や長州の討幕派から、非難攻撃されることの多い江戸幕府ですが、実際は、進歩的で、海外に目を向けていたひとたちが多かったのです。当時、外交の最前線で格闘していたのは江戸幕府なので、関心を持たざるを得なかった事情もあるでしょう。この五稜郭も、北方警備のために1857年から江戸幕府によって建設が始まりました。武田斐三郎(たけだあやさぶろう)という洋学者が、フランスの築城書を頼りに設計したそうです。日本のお城は、攻めにくくするため、複雑な迷路のような構造をとることが多い。それに比べて、対称で美しく整えられた構成はヨーロッパ的。ベルサイユ宮殿の庭園に繋がるものが感じられます。実際のヨーロッパの城を見ることもなく、これだけのものを作り上げた武田斐三郎さん。とても美的センスがあったひとではないでしょうか。明治政府は薩長藩閥政府、とよく言われます。トップクラスは確かにそうですが、実際の仕事は、江戸幕府で、外交交渉の最前線にいたひとや、海外留学組、西洋の技術をマスターしたひとたちに支えられていたのです。
2006年03月09日
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昨日の記事で、megumeguさんから教えていただいた道明寺。さっそく調べてみました。ひとくちに桜餅、といっても、地域によって思い浮かべるものが違うようです。関東育ちの人間にとって、桜餅、といえば、小麦粉を水で溶いたものを焼いた皮で、あんこをくるりと巻くもの。その始まりは向島の長命寺。旗本の三男坊徳田新之助、ではなくて徳川吉宗が、江戸庶民のために植えさせた隅田川の堤の桜。この葉っぱで何かできないか?と考えられたのが桜餅だったとか。とらやさんのサイトに詳しい話がのっています。一方、関西のひとにとっての桜餅は、道明寺粉、というもち米の粉で作ったもの。つぶつぶがのこった透明感のある皮で、食感もぷにゅぷにゅしています。あんは中に入っているので、形は丸い。この道明寺。菅原道真ゆかりのお寺の名前とやら。ただ、塩漬けの桜の葉っぱに包まれているのは共通。皮がピンク色で春らしいのも一緒。皮の材質上、道明寺のほうが、色鮮やかでつやつやです。もちろん、お菓子としては、どちらもそれぞれに美味しい。東京だと、どちらも売っている和菓子屋さんも少なくありません。でも、桜餅、と聞いて、どっちを思い浮かべるか?みなさんはいかがですか?
2006年03月04日
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今年も、なんとかお雛さまを出しました。本当は、7段飾りなのですが、人間が犠牲にならないと飾れないため、ここ数年、お内裏さまに代表になってもらってます。おひなまつりに付きもののお菓子、といえば桜餅。各お菓子やさんが競って売っていますが、ここは、浅草の舟和をセレクト。なぜか、というと、ここは、つぶあんの桜餅を出しているから。たいていのお店では、桜餅の中味は漉しあん。ところが、漉しあんがきらいなメンバーとつぶあんが嫌いなメンバーが混在しているため、両方の桜餅が必要。舟和には両方あるので、たいてい毎年ここでお買い上げ、となります。写真の左側、ピンクの皮が漉しあんで、白い皮がつぶあん。わかりやすくて親切ですね~。舟和といえば、浅草の老舗。首都圏のデパートにもたいてい入ってます。芋ようかんでお馴染み。ほとんどお芋だけで作られた素朴なお菓子。以前は、手土産にするにはちょっと・・・だったのが、いまや健康志向にマッチして人気スイーツに。この舟和、わりにお手ごろでシンプルなお菓子が多い。浅草という土地柄か、気軽なお茶請け、という感じです。さて、大宮そごうの舟和の向かいにあるのが、川越の亀屋。こちらは、江戸時代創業、川越藩御用達というお店です。こちらも、サツマイモを素材にしたお菓子が人気で、埼玉県らしいお土産として重宝ですが、本来は、ちょっとハイソなお菓子やさん。日本各地、だいたい城下町にはいい和菓子やさんが多い。江戸時代から続いているところもあれば、明治以降創業して全国区になったお店もあります。松江の風流堂などは、知るひとぞ知る人気店。江戸時代、お武家の教養、交際に茶道は必須。そのため、城下町にはお茶会用のお菓子を作るお店が必ずありました。特に松江は、江戸後期の殿様松平不昧さんという方(財政再建をしていちおう名君、とされている方ではありますが)が茶道をきわめてしまったため、現代でもお茶がとてもさかん。そこまでいかない小さな城下町でも、昔からの和菓子やさんを見つけられます。一方、街道の宿場や浅草のような庶民の街のお菓子やさんは、ずっと気軽。お茶会のお菓子のように、小さくて美しくはないけれど、大きくておやつにぴったりのお饅頭やお団子。旅人や名所見物にやってきたひとたちを楽しませたことでしょう。浅草舟和と川越亀屋の商品ケースを見比べると、いまでも、そんな違いが感じられます。
2006年03月03日
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お友達のmegumeguさんから漢字バトンを受け取りました。かなり、考えました。漢文は必修だったからよく読んだし、書道も高校まで習っていて、かの、王義之大先生の「蘭亭序」など書いたこともあります。だから、漢字は大好き。バトンを受け取ってから、漢和辞典など引っ張り出してみました。選びに選んだ答えです!1.好きな漢字3つ(自分のイメージで)玲 玉の鳴る音。玉のように美しい。という意味。実は、大好きな字で、ブログの名前も、この漢字の中国語読みです。碧 みどり、濃い青色。大好きな杜甫の詩「江は碧にして鳥いよいよ白く」から。馨 かおる、という意味の字のなかで、これがビジュアル的に一番好き。2.回ってきた漢字の印象(自分のイメージで)雛 あでやか、華やぎ輪 仏教(輪廻)話 人と人のつながり3.次に回す漢字3つ翔花翼4・大切に思う漢字3つ凛 常に、こうありたいと思う。(むずかしいけど)望 必ず、いつかは叶うだろうか?志 別に、天下国家を憂えなくていいんです。ほんの小さなことからで。5・好きな四文字熟語春風駘蕩6・漢字をどう思うビジュアル的にも美しい。それぞれの意味と形が合っているのが凄い。7.私のお友達(次に回す人)、七人を漢字でイメージしてもし、やってもいいよ、という方がいらっしゃいましたら、受け取ってくださいな。いらっしゃいましたらそのときに、イメージにあう漢字を考えましょう!8.回してくださったmegumeguさんのイメージ雅とてもセンスのいい方。日々の生活も、御自分の感性のままに楽しんでいらっしゃる。日本にとどまらず、海外でも、センスのよさをいかんなく発揮されている。これからも、いろいろ教えて下さい!こんなとこで、今日は終わります。あらためて、漢字ワールドの深さを認識、また書道をやろうか、と思った次第。お付き合いいただいて多謝!
2006年03月02日
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今日は節分。各地の神社、お寺では豆撒き行事が賑やかに行われました。さて、この節分。立春の前の日になります。江戸時代、旧暦の時代には、大晦日が節分に当たりました。お正月の前に豆まきをしたわけです。(平岩弓枝さんの人気時代小説『御宿かわせみ』シリーズなどには、この大晦日の節分の様子が登場しています。)まだまだ寒い日が続きますが、日も伸びて、どことなく温かさも感じられるようになる季節です。ところで、豆まきで悪者にされる鬼。角がはえたり、恐ろしい形相で表現されることがほとんどですね。人間をとって食うような悪逆非道のイメージです。しかし、この鬼、たとえばキリスト教の悪魔、とはちょっと違います。日本古来の鬼は、どちらかというと神様に近い存在。超人的な力を持っていたり、不思議な現象を起こしたりするもの。あるいは、外国人など見慣れぬ人々、また、政府に従わない人々を指したようです。そこに、まったくの悪のもの、というイメージはありません。ただ、自分たちとは、力や姿が違う、ということが恐怖感に繋がったとは言えましょう。そういう意味では、一方的に悪者にされる現在の鬼は可愛そうな存在です。島国に暮らす日本人、どうしても、異質なものを受け入れることが苦手です。違うものは排除してしまおう、という意識が、知らず知らず数多の『鬼』を生んでいるのかもしれません。ちなみに、中国語の「鬼」は、死んだ人の霊魂のことです。こちらも、恐ろしいもの、ではありませんね。Saitさんがコメントで紹介してくださった、埼玉県嵐山町鬼鎮神社(きぢんじんじゃ)の節分祭の様子です。鬼が祭神になっている珍しい神社です。http://www.town.ranzan.saitama.jp/0800kanko/0801info/spot01tuki-setubun.html
2006年02月03日
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新年も6日目になると、だいぶ、普段の生活に戻ってしまうこの頃。でも、大阪では、これからえびすさんのお祭りが始まるそうです。で、以前、ぴかちゅうさんよりご提案のネタ。大阪は今宮戎神社。こちらの神社では福娘という若いお嬢さんたちが、福笹を授けてくれます。十日戎、といい、1月10日のこのお祭りは大阪では大層な賑わいだとか。大阪今宮戎神社のサイトhttp://www.imamiya-ebisu.net/htm/top.htmlこの戎さん。恵比寿、とも書きます。山手線恵比寿駅の由来にもなっています。(実は、恵比寿ビールが先で、後に、近くの神社に町名にちなんで恵比寿様をお招きしたそう。)もともとは、出雲大社に祀られている大国主命のお子さん、事代主命で、鯛と釣竿を持った姿で描かれている神様。七福神のおひとりでもあります。鯛と釣竿で、漁業の神様として祀られ始め、海は人や物の交易、交流の場、市にもなったことから、市場の神様、商業の神様になっていったそうです。そして、大阪が商いの町として盛んになるに連れ、戎さんの人気も上がり、商売に関わる人たちの間では、かかせない神様になったそう。ところが、関東ではあまり、戎さん、を聞きません。勿論、いろいろな神社にいらっしゃるのですよ。そうでした。関東では恵比寿、と書きます。恵比寿講、という恵比寿さまをお祭りする会は結構あちこちにあります。でも、なぜ字が違うの?戎、という字。これは、古代、関東に住んでいた蝦夷などを指す蔑称でもありました。となると、蝦夷の子孫も少なくない関東人としては、やはりこの字を使いたくはないでしょう。それで、恵比寿、と大変おめでたい字を当てたのではないか、と推測。さて、関東ならではのお祭り、といえばお酉さま。酉の市です。この本拠地は、浅草鷲(おおとり)神社。この神社にお祀りされているのは、アメノヒワシノミコト、鳥にゆかりの神さま、そしてなんといっても有名なのは、日本神話の英雄日本武尊です。日本武尊が関東を征服する際、この神社に戦勝祈願。そのお礼参りをしたのが酉の日であったことから、その日が祭日になったそう。また、非業の死を遂げたあと、その魂が白鳥になって飛んでいった、という伝説も酉に関連しています。浅草鷲神社のサイトhttp://www.otorisama.or.jp/index2.htmこの酉の市。江戸ばかりではなく、関東地方の農村のひとびとにとって楽しみな行事でした。それで、農具や農産物、植木などがたくさん売られています。(酉の市の流れをくむ大宮の十日市は現在でもそうですよ。)どちらかというと、商業が盛んな大阪で、商売の神様戎さんが信仰され、江戸時代までは農業のほうが盛んだった江戸周辺では、酉の市が賑わった、といえるでしょうか。ところで、この鷲神社、おおとり神社という名前の神社は、他にもあちこちにあります。どれも日本武尊の伝説を持っています。そして、面白いことに、実際に白鳥の飛来地だった場所に重なる神社も多いのです。神話の英雄ではあるけれど、悲劇的な生涯を送らねばならなかった日本武尊。そこに、美しい白鳥の姿を重ねた人々が、素朴に護って来た信仰を今に伝えているように思います。
2006年01月06日
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本日仕事始め。ティッシュの箱を抱えながらお仕事してきました。ご心配いただきありがとうございます。たぶん、数日で復活できると思います。さて、昨夜のNHK『新選組!!土方歳三最期の一日』。歳さんファン待望のドラマです。幕府崩壊。近藤勇は官軍に捕らえられ斬首。沖田も病重くなり、ひっそりと江戸で息を引き取った。新選組の生き残りを引きつれ、土方歳三は官軍と戦いながら会津へ向かう。しかし、会津藩も形勢不利。土方たちは仙台に行き、おりしも、江戸から脱走してきた榎本武揚率いる幕府海軍に合流する。榎本は、北海道に渡り、新しい国をつくることを夢見ていた。そして、榎本隊は函館五稜郭に本拠を構え、独立を宣言する。しかし、当然ながら、明治新政府がそんなことを認めるはずはなかった。冬の間は休戦状態が続いたが、春になると官軍の攻撃が開始された。新政府が成立して1年。混乱していた世の中も落ち着き、新しい時代へ、人々の気持ちも向き始めている。その中で、最後の抵抗を試みる榎本軍。いくら軍神土方が奮闘しても、劣勢はいかんともし難い。そして、榎本は、ついに降伏することを決意する。榎本は、自分の命と引き換えに、皆の助命をする、という決意をしたのだった。のっけから、洋装の山本土方登場。現存している写真の土方に、まさに、そっくりである!榎本役の片岡愛之助。このひとは歌舞伎俳優だが、おしゃれなひげを蓄えた顔が、また、こちらも榎本本人によく似ている。絶対、これは見た目でキャスティングしたな。ビジュアル的には眼福、眼福。眉間にしわを寄せた山本土方、はまり役である。このあたりの展開、多くの土方ファンは司馬さんの『燃えよ!剣』の最終章を思い浮かべるだろう。おそらく、脚本の三谷さんはそれを承知して、司馬さんとは違う演出を必死で考えたと思われる。三谷脚本は、土方と榎本、そして大鳥圭介との間に友情を結ばせ、土方を生きるために戦わせる。結局は、官軍の攻撃が予想外に早く、降伏以外、打つ手がなくなってしまうが、あくまで土方は、生きるため、敵陣突破を試みる。『燃えよ!剣』の土方は、もっと凄絶で、ひたすら死に場所を求めて生き急いでいた。あくまでも孤高。己一人で、すべてを背負って、敵陣に突っ込んでいく。『燃えよ!剣』に比べると、三谷脚本は、やや甘めの土方像といえるだろうか。『新選組!』では、土方、かなり部下に慕われるリーダーだったから、こういう解釈もあり、だろう。最後に、榎本や大鳥のその後について。榎本以下幹部の多くは外国留学経験者だったり、幕府で外国関係の職についていたり、といった当時としては先端のエリートたち。官軍の大将黒田了助(黒田清隆…このひと、のちに総理大臣にもなる)は、榎本たちの才を惜しみ助命する。赦されたあと、榎本はロシア公使、逓信大臣、文部大臣などを歴任。大鳥も外交官として活躍。その他の幹部たちも、新政府のもとでそれぞれの力を発揮している。土方のように、滅び行くものに殉じるのも見事。しかし、榎本たちのように、生き抜いて夢を見続けるのも、また見事な生き方と言えるだろう。そんなことはどーでもよくて、いやー、山本くん!かっこいい!!
2006年01月04日
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昨日、日テレで放送されたスペシャル時代劇。中村勘三郎さんが越後長岡藩家老河井継之助を演じている。この、河井継之助というひと。幕末維新期の有名人たちのなかでは、ちょっと知名度が劣るだろう。なにしろ、この時代、超がつくほどのきらびやかな人材が多すぎるから、仕方ないところではある。もっとも、司馬遼太郎ファンの方にとっては、『峠』の主人公としてお馴染み。長岡藩というのは、徳川幕府譜代の藩で、殿様は幕府の老中を勤めていた。だから、当然、討幕派からは幕府方と見られている。そして、越後の雪深い土地に領地を持っていて、正直、大きくて豊かな藩ではない。そんな長岡藩の舵取りを任された継之助は、藩の財政を立て直し、産業を進めて、独自の軍事力を持とうとする。目指すのは、スイス。小さな国でも、強力な軍隊で武装したうえで、どの勢力にも属さない、中立国である。大政奉還した幕府が鳥羽伏見の戦いで負けると、他の藩は、続々討幕派…いまや官軍、に付きはじめる。一部、朝敵とされた会津や桑名などは戦わざるを得なくなるが、ほとんどの藩は官軍になり、いわば勝ち組になっていく。そういう状況のなかで、継之助の長岡藩は中立を目指す。しかし、その希望は官軍にあっさり蹴られる。そこで継之助は究極の判断を迫られる。面子を捨てて官軍に付くか、武士の意地を通して官軍と戦うか。継之助は武士の意地を通す道を選ぶ。しかし、その道は、戦闘で藩士たちの命を奪い、領民たちに大きな犠牲を強いるものだった。結局長岡藩は敗れ、重傷を負った継之助も死ぬ。個人としては先見の明を持ち、革新的な政策をうちだし、なかなかに優れたひとである。しかし、長岡の町を戦場にし、大きな犠牲を出したことで、地元の人々からはあまり好意は持たれていないようだ。ここで、どうしても比べてしまうのが土方歳三。土方も、自分のプライドのために最後まで官軍と戦い続ける。その姿が現在でも共感を呼んでいる。一見、継之助も同じではないか、と思える。しかし、大きな違いがひとつある。土方は新撰組のリーダーではあったが、後ろに一般の庶民は背負っていなかった。自分自身と、心から慕って付いてきてくれる部下と、それだけでもって戦えばよかった。一方、継之助は家老である。長岡藩の家臣たち、領民たちに責任を負わねばならない立場である。そのような立場で、武士の意地のために戦う選択が、果たして最善だったか。ここは、他の藩のように、プライドを捨てて、実利をとるほうがよかったのではないか。継之助の掲げた理想は立派である。理想を追求する人生は素晴らしいと思う。これはこれで、見事な生き方と言えるだろう。しかし、リーダーとしては、メンバーの利益のために、理想を少し引っ込めなくてはならないこともあるだろう。土方と継之助。同じ意地を通した人生だが、対照的な結果を興味深く見た。ドラマそのものは、勘三郎さん以下、歌舞伎俳優さんも多数、唐沢さんが竜馬でちょっとの出演など豪華キャスト。かなりいいものだったが、2時間ちょっとではもの足りない。表面的に流れを追うだけになってしまったのが残念。ただ、越後の長岡、というあまり時代劇でもとりあげられない場所に、こういう新しい考えを持ったひとがいた、ということを広く知らせたことはとてもよかったと思う。
2005年12月28日
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昨日のNHK「そのとき歴史が動いた」は土方歳三の再放送。お正月に新撰組!スペシャルドラマ『土方歳三最期の一日』を放送するので、その関連であることは見え見えである。当然、すでに視聴済みであるが、やはり、また見てしまった。歳さんにほれ込んだ皆様にとって、さして目新しい事実はない。だが、そんなことは承知!歳さんの最期は、何度見ても泣けるのが、贔屓というもんである。所詮、新しい動きに乗れなかった馬鹿じゃないか。そういう意見もあるだろう。もっともである。榎本武揚はじめ他の函館政権のリーダーたちは、みんな、新政府に降伏して、その後、要職についている。彼らにすれば、新しい国つくりのために力を尽くすことが、死ぬことより大事だ、と判断したわけだ。もちろん、彼らはいずれも才能があり、西欧の学問も修めた優秀な人材である。日本のために、その才能を活かすことはなによりも有意義だと思う。だから、別に、彼らが降伏したことを非難するつもりは毛頭ない。しかし、言っちゃなんだが、歳さんは学問があるひとではなかった。実践オンリーでここまで出世したひとである。万一、新政府に採用されたとしても、陸軍の指揮官くらいにはなれただろうが、はっきり言って、それ以上の人材ではない。なによりも、散々薩摩・長州藩士を切りまくってきた歳さんを、薩長中心の新政府が許すわけがない。近藤勇も、あっさり斬首されているのだ。歳さんは、そのあたりのこともよっくわかっていた。自分には、新政府のもとで生きていく場所がないことがわかっていた。なによりも、今まで自分が死なせた人びと・・新撰組隊士たちや討幕派の連中のためにも、ひとりだけ生き続けることはできない、と早々に覚悟を定めていた。この覚悟、美学といわずしてなんだろう!歳さんは、まだ十六歳の部下市村鉄之助を死なせないために、多摩の土方家へ自分の写真を届けることを命じる。本当は、とても優しく、繊細なひとだった。「鬼の土方」周りはそう呼んだが、それは歳さん自らが、鬼を演じていたのである。そうすることで、リーダー近藤勇の人望は上がり、組織もまとまる。自ら憎まれ役に徹した歳さん。ひとことも、言い訳も愚痴も言わずに、滅び行く徳川幕府のために殉じてやった歳さん。そんなところが、時を超えて共感を呼ぶのだ。
2005年12月22日
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先ほど、生協で、お正月食品の注文をし終わったところ。生協も、ネットで注文して宅配してくれるので、便利になったものです。ジャガイモや玉ねぎは箱買いのrin家では、重いものを届けて貰える宅配はとても重宝。さて、お正月の料理といえば、これも、日本各地、さまざまですね。北陸地方出身の方と結婚した友人。「棒鱈のなんだか」が食べたい、というご主人のリクエストに、必死に探し回る。アメ横でやっと、その「棒鱈」なるものを発見。で、その「棒鱈」。戻して、煮るのだそうです。京都の料理に「芋棒」というのがあって、コレは、何かのお芋と、この「棒鱈」を煮る(いや、京都では、煮る、とは言わないのか?)もの、ということは聞いたことがあります。京都を中心に、北陸地方でよく使われる食材だとか。しかし、関東では、まったく知らないひとがほとんどの食材でしょう。一方、おそらく関東から東オンリーの食材といえば、新巻鮭はどうでしょう。塩を振った鮭1匹丸ごと。最近は、あまり見かけませんが、以前は、これを、よく贈答品に使ったものです。鮭は寒い海の魚なので、利根川あたりが、鮭が上ってくる南限になるようです。北海道のアイヌの文化では、食べるだけでなく、鮭の皮を衣服に使ったりもしました。それほど、重要な魚だったわけですね。東日本で、稲作の普及が遅れたのは、鮭やマスがたくさん獲れたため、という説もあったほど。白いご飯に、辛口の塩ジャケ。なんていう組み合わせは、東日本ならではのものかもしれません。
2005年12月12日
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さ来年(なんて、先のこった!)のNHK大河ドラマ「風林火山」。主役の山本勘助に、舞台、ドラマで人気急上昇中の内野聖陽さんが決定した。この山本勘助、武田晴信(信玄)の軍師として、川中島の戦いにも参加した人物である。実は、詳しい経歴は不明のようで、それだけに、小説的には作り甲斐があるのだろう。とだけで終わるのでは、歴史のおへや、にならないので、少々調べました。山本勘助晴幸(?~1561年)三河出身、祖父は今川氏に仕えたという。20歳のとき、諸国遍歴の旅に出る。その後、武田信玄に使え、重用された。タダ、諸説あり、存在そのものも疑われていたが、勘助の名が記された信玄の手紙が発見され、実在は確実視されている。色は黒く、隻眼で、足も不自由だったという。第4回目の川中島の戦いで討死したとされる。(参考「国史大辞典」)大河の原作、井上靖「風林火山」では、勘助は諏訪家の姫君(信玄の側室になり、勝頼の母となる姫)を密かに慕いつつ・・という設定になっている。軍師として頭角を現したのだから、知性派で、なおかつナイーブで屈折した人物に仕上げるなら、内野君の起用はアタリ!と思う。(いや、単に、お気になんです。・・笑ってくれていいですよ。)ところで、戦国時代ファンのなかでは、武田信玄、上杉謙信は無視できない武将だと思うが、どうも、謙信のほうが人気が高いような気がする。ストイックで自分の美学を貫く謙信に比べて、謀略を駆使し、じわじわと勢力を広げていく信玄は、どうも嫌われるようだ。個人として見るなら、確かに、謙信は魅力的な人物だと思う。しかし、政治家としての評価は、断然信玄が上である。謀略というのは、不必要な戦いを避けるため。勢力の拡大は領国の安定に繋がる。信玄は、治水や鉱山、新田開発などを行い、国を豊かにしている。武田家滅亡後も、慕う人は多い。徳川家康といい、大政治家として名をなしたひとは、案外人気がないが、きっと隙がなさすぎて面白みがないのかもしれない。ともかく、どんな山本勘助、そして武田信玄(誰がやるのか楽しみ!)を作ってくれるか、期待!その前に、来年の大河原作「功名が辻」、早く読まなきゃ?
2005年11月22日
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最近、奈良県の、キトラ古墳や高松塚古墳の壁画保存プロジェクトが進行中です。ニュースを小耳に挟んだ方もいらっしゃるでしょう。だいたい、考古学なんぞというものは、お墓を掘ってばかりいるようなもの。古くは、縄文時代の穴から、新しいほうでは江戸時代のお墓まで。結構、よくあるものです。なかでも世間の話題になるといえば、超セレブな人々のお墓。日本なら古墳、エジプトのピラミッド、中国の皇帝のお墓などなど。だいたい、人間偉くなると、大きなお墓を作りたい!というのは世界共通のようですね。こうしたセレブのお墓には、とんでもなく豪華な品物が一緒に埋められています。そのときの、最高技術で作られた、きらびやかな装飾品や、道具類が、お墓の主のために、惜しげもなく埋められます。そして、何千年、何百年後の考古学者が掘り出して、当時の生活のすばらしさに、世間がびっくりする、というわけです。しかし、考古学者にとってだけでなく、古来から泥棒にとってもお墓は宝の山。多くのお墓は、すでに盗掘されているといいます。まあ、あの狭い墓に入るのは、どんな気分なのでしょうね。あまり、いいものではないのではないでしょうか?一度、飛鳥の石舞台古墳の中に入ったことがありますが、なんというか、独特の感覚がありました。いいようのない圧迫感というのか。観光地になっている石舞台古墳でもそうなのですから、初めて人が入る墓なら、もっと不気味でしょうね。「ツタンカーメンの呪い」も、ありそうな気もします。これから、大発見が見込まれているのは、なんといっても、中国の秦の始皇帝陵。有名な兵馬踊は、このお墓のお供にすぎません。どれだけのものが出てくるか、とても楽しみです。・・・といっても、もの凄く大掛かりになるので、資金調達や発掘後の保存方法などが確立されないと着手できないでしょうが。将来に期待です。さて、こんなセレブなお墓ではなく、日本のごくごく一般庶民のお墓でも、おもしろい発見があります。たいがいの庶民のお墓は地面に穴を掘ったものです。もっとも、日本の土は酸性が強いので、骨が残ることはあまりありません。ところが、骨は無くても、穴の中から、お金が見つかることがあります。それも6枚。ここで、ピンと来た方もいるでしょう。そうです。よく言われる「三途の川の渡し賃」、これです。これは、仏教が伝わってからの習慣ですが、死んだひとが困らないように、ちゃんと、お金を一緒に納めたのですね。そういえば、現在でも、中華圏のお葬式では、盛大にあの世用のお金を燃やしますね。やっぱり、地獄の沙汰も金次第?下の写真は、大宮駅西口の某ビルからの景色。うっすらと、秩父の山が見えます。富士山も見えてるんだけど、携帯カメラでは写らなかった!
2005年11月17日
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最近、「ロハス」という言葉をよく聞きます。便利さを享受しながらも、環境や健康にいいことを、無理なく続けるライフスタイル、ということでしょうか?(詳しい方、教えてください。)決して、ガチガチの自然保護主義、というわけではなく、各自が出来る範囲で、長く続ける、というのがポイントのようです。確かに、これならちょっとできそう、と思えますね。さて、ロハスなライフスタイル、といえば、縄文人の生活はまさにそう!彼らの生活の基本は、自然との共存にありました。縄文人の生業は、狩猟(漁)と植物採集です。遺跡から発見される動物の骨や植物の痕跡から、彼らは、実に多種類の動植物を利用していたことがわかっています。動物にいたっては、ほとんど広東料理の食材の世界です。でも、これだけ見て、彼らが、なんでも見境なく食べる、食い意地が張っていた人々、と思うのは間違い。たとえば、イノシシの肉は美味しいです。現代日本人でも、好まれる方は少なくないですね。でも、美味しいからといってそればかり獲っていては、たちまちイノシシは絶滅してしまいますね。彼らは、自然の生態系を壊さないように、さまざまな動植物を、必要なだけとって暮らしていたのでしょう。ところが、弥生文化とともに、米作りを中心とする農耕が縄文社会にもやってきました。農耕というのは、自然を、人間の都合のいいように変えていく、という発想が根底にあります。これは、世界中どこでも同じです。一方で、農耕は、がんばればがんばっただけ豊かになる、という効果も生み出しました。そして世界の多くの国は、この弥生農耕文化的価値観で、現在まで突っ走ってきたわけです。その結果、便利で快適で豊かな生活を手に入れた人々。反面、大きな弊害に苦しめられることになりました。それは環境破壊と飢餓。森を切り開き、川の流れを変え。さらに、生きるため、ではなく楽しみのために動物を乱獲して生態系を破壊する。また、多種類の動植物を利用していれば、ひとつの種類がダメでも他に食べるものがあります。しかし、限られたものを栽培する農耕では、メインの作物がとれなければ、たちまち飢えの危険が。江戸時代にも度々飢饉に襲われたことは、ご存知かと思います。現在のアフリカでも、主な作物が出来ないために飢餓が続いているのではないでしょうか。勿論、現在の生活を、否定するものではありません。でも、昨今縄文文化が見直されているのは、地球のために、自然と共存するその思想が注目されているからではないでしょうか。十分賢くなったはずの現代人。ちょっとだけ、縄文的思想を取り入れて、ロハスな生活を始めてみたいものです。
2005年11月07日
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昨日の縄文・弥生顔ネタ、盛り上がっていただきありがとうございます。引き続いて、今日も、顔の話。時代はずっと下って江戸時代。当時のセレブといえば将軍様こと徳川ファミリーです。東京は芝の増上寺に徳川家の墓所があります。この墓所を改葬することになり、その際、発掘調査が行われました。そして、大切に埋葬されていた将軍や正夫人、側室方の遺骨も調査されました。その結果が大変おもしろい。昨日の縄文・弥生の二つのタイプに関わりがあるのか、江戸時代には2種類のタイプの顔がありました。ひとつは、丸顔で鼻が低い顔。庶民顔、といいましょう。そして、もうひとつが、細面で鼻が高い美男美女顔。コチラは、現代人に多いタイプです。なるほど!とうなずかれる方もいらっしゃるでしょう。そうです。ほとんどの将軍様、そして正夫人、側室方は、この美男美女顔だったことがわかったのです。固い食べ物をかじる庶民と違い、セレブのお食事はごく柔らかく料理され、噛む必要もないほど。小さな頃からそんな食生活を続けていれば、あごは細くなります。歯も、あまり減らないようです。さらに、注目されるのは側室方の顔。超名門のお姫様である正夫人が細面美人なのは当然ながら、庶民出身も多かった側室方も、やはりみなさん細面の超美人。これは、庶民のなかでも、現代的な美人しか側室に選ばれなかった、ということです。そして、これらの現代的細面美人からお子さんが生まれています。当然、その子は、さらに美形になっていくわけです。そのため、後の時代になればなるほど、現代人に近づき、いやいや、現代人以上に鼻も高く、目も大きいイケメンも出現。(14代将軍家茂さんは、まさにそう!)フジテレビ系のドラマ「大奥」がなかなか快調ですが、本当に、大奥には美人しかいなかったようです。そして将軍様も、ハンサムな俳優さんが演じて正解!
2005年11月01日
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日本列島では、1万年近い長い間、縄文人たちの暮らしが続いていました。ところが、2千数百年前、大陸から、米作りの技術と一緒に別の人々が移住してきます。この人たちが、弥生人、と呼ばれています。当時、中国は戦乱の時代。戦火を避けて亡命してきた人もいたに違いありません。(弥生時代の始まりについては、新しい年代測定で従来より古くなる可能性が出てきています。まだ、確定はしていないので、ここでは、数百年の幅を持って考えたいと思います。どちらにせよ、中国では漢が中国を統一するより前、まだまだ、国がまとまらなかった頃とお考えください)北九州あたりから日本に入ってきた弥生人は、米作りと金属の道具、という高度な技術で、たちまち東西に広がっていきます。そして、もともと住んでいた縄文人と混血していきます。現在の日本人は、縄文人と弥生人、両方の血を受け継いでいると考えられます。しかし、みんなが同じというわけではなく、縄文DNAの濃いひとから弥生DNAの濃いひとまで、受け継ぎ方はさまざま。弥生人が北九州から来て、近畿方面に広がっていたことから、特に、これらの地方では弥生DNAが濃く、一方、中央から離れた地であった、関東以北や沖縄には縄文DNAが濃いようです。特に、アイヌや沖縄の人は、縄文人らしい要素が強いですね。さて、縄文人、弥生人の顔やスタイルは、発見された骨から、復元することができます。勿論、個々人の差はあるはずですが、大きな違いは見えてきます。まず、縄文人。二重まぶたの大きな目に厚い唇、高い鼻、頬骨が高めで、耳が大きい。ぱっと見て、派手で濃い印象。身長は低めで筋肉はしっかりしているが、手足、指が長く、意外にすらりとした感じです。一方、弥生人。大陸起源の弥生人は、寒さに適応したひとたち。一重まぶたに低めの鼻、薄い唇、顔の起伏が少なくすっきりした顔立ちです。身長は高いけれど、手足は短めで、ちょっとずんぐり体形?典型的な縄文系は沖縄出身のタレントさんたち。仲間由紀絵さん、夏川りみさんなど。弥生顔の女性タレントさん、パリコレモデルの富永愛さんなどはそうでしょうか。男性では、ご贔屓の金城武くんは縄文系。佐藤浩市さんもそうですね。華やかなイケメンが揃ってます。弥生顔の代表は、こちらもご贔屓の大沢たかおくん。知的でクールなイイ男ですね。さて、みなさんは、縄文系?弥生系?東南アジアの街に溶け込んでしまっているあなたは、縄文顔かも。逆に、北京の街で、中国語で話しかけられたあなたは弥生顔。下記のサイトをご参考に、自分の顔を眺めてみてくださいね。国立科学博物館「日本人はるかな旅展」サイトより縄文人の顔http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-01.html弥生人の顔http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/5-09.html
2005年10月31日
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今朝の朝刊経済面で、面白い記事を発見。ペットの高齢化で、商機到来!というものです。ペットの高齢化とともに、彼らの健康のための市場が活性化しています。犬のためのアクアフィットネスや、ヘルシー志向のペットフード、歯周病予防のガムなど、続々登場しているそうです。まあ、お金をかける、かけないはともかく、最後まで大切な家族の一員として、可愛がってあげてほしいものです。ところで、ペットと人間の幸せな関係の証拠は、縄文時代にも見つけられます。なぜ、わかったの?ある遺跡から、埋葬されたらしい犬の骨が発見されているのです。しかも、中には年老いて、足を骨折した犬の骨もありました。犬は狩猟犬として、1万年以上前から飼われていたと考えられています。オオカミを家畜化していったらしいのです。しかし、単に狩猟に役立つ、という理由だけなら、怪我をしたり年をとって働けなくなった犬は、見捨ててしまえばいいわけです。でも、この遺跡の住人は、働けなくなった犬を最後まで面倒みたのでしょう。そこには、何らかの感情的なものがあったことが推測できます。ひるがえって、結局飼い切れずに、野に放り出される動物たちの話題で賑わう、現代ニッポン。はてさて・・・?
2005年10月24日
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昨日の首都圏の地震、びっくりでしたね。rinは吉祥寺駅の駅ビル1Fにいましたが、中央線が通過しただけで、こんなに揺れるかな~?と、かなりのんびりでした。新宿で、埼京線が遅れていて、それも大宮どまりになっていたので、やっぱり地震ね、と納得した次第。日本列島はプレート型の地震に加えて、火山性の地震も多い場所。歴史に残っている大地震も少なくありません。ところで、発掘調査をしていると、地震や洪水の跡がわかることがあります。どうしてわかるの?調査をするときは、土を一気に全部掘りあげるのではなく、一部、土の堆積の様子を見るため残します。そして、土の色や混ざりモノ、堅さなどを観察していきます。この、土の堆積の様子から、災害の跡がわかるのです。地震であれば、断層になっていたりするし、洪水だと、土砂が一方向から流れ込んでいる様子が、はっきり現れていたりします。土器がそっくり埋まって見つかる住居の跡。持ち出すヒマもなく濁流が襲ってきたことが窺えます。さて、あなたのお住まいの下に、遺跡がもしあったら。遺跡が人の住んでいた村の跡だったりしたら、あなたの家は、かなり安全。しかも、その遺跡が縄文時代以前のものなら最高です!地震にもかなり安心。水害にも強い。なぜなら、縄文時代の遺跡があるのは、台地の上。氷河期が終わって温暖化していた日本列島は、かなり奥地まで海が入り込んでいました。今、低めの土地はほとんど水の中。だから、縄文時代の遺跡は低地にはありません。この台地は地盤もしっかりしているし、高台だから水害の心配もなし。しかも、日当たり良好。(大昔も、理想的な家の立地条件は変わらない、というわけ)なにしろ、数千年にわたって人が住み続けているところは、いい場所なわけです。おおっ、うちはいい場所だから安心だぜ!と気を緩めないでくださいね。どんな事態になるか、想像はできません。ご油断めさるな。
2005年10月17日
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おっ!なんと意味深なタイトル。と期待した方、ごめんなさい。とりあえず、全員とっくの昔に鬼籍に入られた方ばかりです。歴史マニアさんのサイトでは必ずある「大好きな歴史上の人物」なるテーマを、ついに書いてみよう!とようやく思った次第。どうしても、人物の評価という以前に、タイトルのとおりミーハーな心境になっちゃうので、避けてたのですが。昨日いただいたコメントに土方歳三さまのお名前が出てしまったからには、書かねばなりますまい。一応、歴史オタクの端くれとしましては、各時代、ひとりやふたり、いい男は見つけております。そのなかから4人厳選してみました。まずは、明智光秀。織田信長配下の武将として活躍。しかし、本能寺の変で、信長を討った裏切り者として後世に名をとどめてしまったひとです。光秀は、若い頃諸国を流浪していました。司馬遼太郎の「国盗り物語」では、美濃の斉藤道三の甥で、信長の妻濃姫の従兄、という設定ですが、ほんとの素性はよくわからないようです。苦労の末、越前朝倉家に仕官。松永久秀らに幽閉されていた足利義昭(のち室町幕府最後の将軍になる)を脱出させ、信長に紹介。そして信長に仕えてからは軍略の才能を発揮して、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と競うようにスピード出世をしていきます。光秀は、築城や鉄砲の扱いなどに秀でていたうえ、和歌や茶の湯など古典的な教養も完璧でした。その教養深いところが信長に買われ、京都の朝廷や足利将軍家との折衝役として重用されます。当時の武将には珍しく、夫人ひとりを大切にしていたそうで、夫妻の間に生まれた娘のひとりが、細川ガラシャです。この奥さん、苦労時代の光秀を支え、髪を売ってお金を工面したというエピソードもあります。しかし、頭は抜群にいいけれど、家族には優しく、文化を愛する繊細な感性は最終的には信長を拒絶していきます。信長を討って、一時は天下をとったものの、彼はリーダーの器ではありませんでした。秀吉との戦いで大敗し、最後は農民の竹やりで非業の死を遂げます。次は石田三成。秀吉の腹心として政権を切り盛りし、秀吉死後、徳川家康と関ヶ原で戦い敗北。自身は徳川方に囚われ、斬首されます。こちらも、過去も現在もてんで人気がない人物。なんで、光秀といい、三成といい、こんなひとが好きなのか?二人の共通点、知性派。これポイント高いです。体育会系英雄よりなんたって好き!そして、トップに立つ器ではないが、参謀あるいはNO2として、抜群の力量を発揮するところ。最後は、非業の最期。男は死に方も美学でなきゃ・・・(ミーハーのタワゴトでございます。ご容赦!)時代は飛んで、幕末。新撰組副長、土方歳三見参!歴史的な業績、という面では、先のおふたりには到底及びませんが、男の生き様(なんてミーハーな表現だ!)としては最高だよ!陰の役に徹して嫌われながらも、見事に新撰組という組織を作り上げる。政治的どうこうなんかどうでもいいけど、とにかく戦いそのものが好きでしょうがない。実は、剣の腕前そのものは、たいしたことはなかったという土方。俳句をたしなむ風流な一面もあったとか。冷徹だが、子供の無邪気さも併せ持つ彼。さぞや女性にもてまくりだったでしょうね。(死んだ後でも、ますますもてる土方さまです)最後に、明治新政府側から、大久保利通をあげておきます。このひとも、西郷隆盛に比べたら、人気ないですね。でも、自分が嫌われるのを承知で、というか、むしろ嫌われるべく、次々厳しい政策を打ち出していく大久保。新政府としてやらねばならないことは、他人からどう思われようと実行する。本当の政治家のあり方ではないでしょうか。大久保も暗殺されます。彼は権力を手にしていたけれど、その生活はつつましく、ます夫人と子供たちをとても大切にしていたよき家庭人でもありました。他にも、魅力的なひとは多々います。有名人でなくても、一生懸命生きてきたひとたちは、それぞれに素敵な人生を背負っています。知られていない素敵な人生を発見するのも、歴史のお楽しみのひとつでしょう。
2005年10月07日
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ちょっと、想像力を働かせてください。瀬戸物の茶碗も、ステンレスのやかんも、プラスティックのバケツも、なあ~んにもない。電気、ガス、水道、石油ストーブだって勿論ない。ついでに、井戸もない、とします。人間、生きていくには何がなくとも水です。あなたは、何とかして水を手にいれたい。まずは、川や池まで汲みに行かなければなりませんね。水のある場所くらいは、なんとか見つかるでしょう。そこで、水を飲むことは勿論簡単です。問題は、どうやって水を家まで運ぶか。大昔の人間、まだ、石の道具くらいしか使っていなかった人々にとって、この水を運ぶ、という仕事は大問題だったでしょう。水を入れるには、うつわ、が必要。彼らにとって、中に何か入るうつわとしては、何があったでしょうか?すでに、石を打ちかいた利器を持っていた彼らは、太い木を刳り貫いてお椀を作ることはできたでしょう。石の窪みにも水は貯められます。でも、これらのうつわでは、たいした量は運べません。そこで登場するのが動物の皮。これは、上手に剥ぐと、大きな袋状になります。水もたくさん入るし、肩に担いで運びやすい。ひとまず、これで水運び問題は解決です。家に帰れば食事のしたく。ただし、火、といってもあるのは焚き火の火だけ。このころのメニューは・・・狩りで獲った動物の直火焼き。生で食べられる果物類や草。思いつくのはこんな程度。あるとき、あるひとが、土が火に当たって硬くなっていることに気付いた。ここから、人類発達史における大発明がスタートします。土でうつわを作ること。それも、ただ土と水を捏ねて形にするだけでなく、火で焼く、という工程を入れたのです。出来上がったうつわは丈夫で、しかも、火にかけても燃えない!その結果、人々は、火でお湯をわかす、という手段を手に入れました。お湯がわかせると、肉も焼くだけでなく、煮ることができます。生食できない木の実や草などを、あく抜きしておいしく食べることもできます。一気に、料理方法が広がったのです。土器を手に入れると、人類の文化は驚異的なスピードで発展していきます。それまで数百万年の間、焚き火と石器の生活をしていた人類。土器の使用が始まってから、PCで世界中とネットをし、宇宙に出かけていく時代まで、1万年数千年しか掛かっていないのです。
2005年10月01日
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先日のミュージカル「エリザベート」に関連して、思いついたこと。ちょうど、19世紀後半、同時代のことです。骨董商青山家の娘のミツは、オーストリア・ハンガリー帝国の外交官として東京に来ていた、クーデンホーフ・カレルギー伯爵に見初められます。伯爵の熱意が実り、二人は正式に結婚。これが、日本人が正式に国際結婚した最初の例、とされています。まだ、明治時代。外国人と結婚することにまだまだ反発もあった日本社会。一方、名門カレルギー伯爵家に、東洋人の、しかも庶民の娘が嫁ぐことは、伯爵家周辺からも強硬な反対があったことは想像に難くない。しかし、幾多の困難を乗り越え、二人は幸せに暮らします。やがてカレルギー伯に帰国命令が出て、ミツ改め光子もヨーロッパへ。その後、光子は夫の死後もカレルギー伯爵家を支え、赤十字の活動などにも力を注ぎ、ヨーロッパの社交界で一目おかれる存在になっていきます。一説には、ゲランの名香「MITSUKO」は、彼女がモデルともいわれています。ウイーン、ハプスブルグ家と日本の意外な縁。もしかして、彼女は、エリザベートに会ったかもしれません。ごく普通の庶民の女の子が、ヨーロッパと日本の架け橋になった。とても励まされる話なので、簡単に紹介させていただきました。
2005年09月20日
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昨夜、フジテレビで金曜ドラマ「蓮丈那智フィールドファイル・・凶笑面の謎」を見た。「大奥」の御殿女中役からじわじわ人気が出てきた木村多江さんが、新進民俗学者に扮し、謎解きをするというもの。結構ミステリードラマでは、学者系の主人公が登場する。ちょっとスノッブで、頭がよさげで(学者なんだから当然である。)、そのうえ自由な時間が多い職場、というあたりが、探偵役には相応しいのか?考古学者が主人公、というドラマも少なくない。ミステリーではないが、NHK夜ドラマでの浅野温子さんのお相手も吉田栄作さん演じる考古学者。まあ、お仕事風景などの描き方に、う~ん、という点も多いのは仕方ないでしょう。どんな職場を舞台にしても、その分野のプロから見れば、おいおい、と突っ込みいれたくなることはあるよね。でも、病院や銀行など一般のひとも関わる職場と違って、学者業界はかなり特殊。なかでも考古学なんて、そもそもやってる人の絶対人数が少ない。かなり知られてない世界。・・ではないかと思う。特に問題なのは、考古学者を演じているのがみ~んな素敵な俳優さんなこと。仕事には情熱を持ってて、オフはおしゃれで、カッコイイ。それはね・・・ありえないです。業界男性の実態。おしゃれじゃない!だいたい、専門書には万単位のお金を使うのが平気な彼ら。でもファッションにはお金をかけたくない。優雅にフレンチなんかには行かない!酒は大好きだが、ナイフとフォークを使うような食事はめんどくさくてキライ。基本的に歴史オタクが多い!さらに趣味でもいろいろな分野でオタクに走る。車やバイクは大好き!アウトドア仕事ゆえの必需品。四駆系の所有率高し。内外問わず旅行は好き!遺跡めぐりを基本に、どこでも行く。フットワークは軽いかも。以上、周辺の関係者を調査して分析してみました。ごくごく限られた例ですので、100%信じないでくださいね。吉田栄作のような人もちゃんといますよー。
2005年09月17日
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初めて、本業関連ネタを書いてみます。つまらなかったら、どうぞ、とばしちゃってくださいな。あ、タイトル分野で卒業しました、という程度なので、難しい突っ込みも入れないでくださいね(笑)歴史学は大きく3分野に分かれます。文献史学、考古学、歴史地理学です。文献史学は、文字で書かれた史料(歴史学ではこの字を使います)、たとえば、歴史書、公文書、手紙、碑文などを手がかりに、過去を研究するもの。一般に、歴史学、といえば、こちらを指すことがほとんどですね。考古学は、モノから過去を復元します。モノでも、特に、発掘された出土品と、遺跡そのものが主なターゲットです。特に、文字による記録がない時代では、考古学が、俄然威力を発揮します。歴史地理学は、地理的な観点から、歴史を見ようというもの。たとえば、関ヶ原の戦い。地形や気候から、その場所が戦いの舞台に選ばれた理由を考えてみたり。また、古地図などから、過去の景観を復元したりします。この3つは、それぞれ独立しているわけではありません。お互い、補いあって、ひとつの時代の様子を再現する。そして、より良い未来のために過去の教訓を生かしていく。それが、歴史学の目的です。なぜ、rinは考古学を選んだか?理由は簡単。古文書が読めなかったから。文献史学をやる場合、史料の原文が読めなきゃいけません。ご存知の方もあるでしょう。あの、ミミズがのたくったような筆字の文書です。全員必修の古文書学で、かな~り苦労したrinは、あっさり方向転換。考古学なら、現代日本語の活字の本だけでいいもんね。ところが、考古学には発掘というアウトドア作業が必須。お部屋のなかだけで、小奇麗に研究する、というわけにはいきません。また、歴史地理も現地調査が必要なので、実は、お上品な(?)文学部でも、かなりワイルドで自然科学系っぽい雰囲気のあるひとたちが集まっています。で、考古学をやるとどうなるか。まず、モノの見方が細かくなる。モノは言葉を発しません。だから、そのバックグラウンドをこちらが汲み取ってやらなければなりません。どうして、これが作られたのか。どうやって使われたのか。観察力と想像力。いやでも鍛えられます。モノの見方が幅広くなる。このモノは、物そのものだけでなく、物事すべて。ヒトが動くところ、モノが動く。1万年前だって、国際的な関係を抜きには語れない。これは、歴史学全般で言えることです。この2点は、生きていくうえで、結構使える能力だと思いませんか?あとひとつ。体が鍛えられる。ひと夏現場をやると、どこでサーフィンしてきたの?って羨ましがられるくらいのお肌にもなれます。あ~、がんがん焼いたツケが、これから出そうで怖い・・・。
2005年09月15日
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というわけで小学校以来、ん十年貯め込んだ、かなり役に立たない雑学、ご披露してみたいと思います。ただ、旅行ネタがサイトのメインコンセプトなので、かなり「たま~に」の記事にはなりますが。皆様からの、こんなこと知りたい、というご質問、ご意見大歓迎です。お調べできる範囲でお答えするつもりです。お取り扱い品目は日本史古代(旧石器時代からオッケーです)、室町、江戸、幕末維新、プラス中国をメインとさせていただきます。平安、鎌倉はあまり得意ではありませんが、なんとかします。基本的にミーハーでございますが、一応、史学科卒なので、極力、客観的に書くつもりです。また、他カテゴリの記事でも、どこかに歴史的視点風味を入れるようにしております。お気づきでしょうか。「歴史のおへや」新設に伴いまして、カテゴリーを少々、変更いたしました。
2005年09月03日
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3ヶ月くらいかかってやっと読了。文庫で3冊の大作である。あの、天下分け目の関ヶ原の戦いを、石田三成の視点をメインに描く。この戦い、実は、実際の戦闘が始まるまでに、勝敗は決していた。多数派工作の成否が運命を分けたのである。そういう意味で、非常に政治性の強い戦いであった。司馬氏は、老獪な大政治家徳川家康に対して、石田三成を、有能な戦略家・官僚ではあるが、所詮政治リーダーにはなれない人間とみた。この小説の最大の面白さは、家康がどのように多数派工作を進めていったかにある。特に、戦い直前のヤマ場、下野小山の会議を目前に、諸大名を、どのようにして家康方につかせるか、という駆け引きの描写は卓越。すでに結果がわかっている者にも、手に汗握らせる。一方、三成の戦略は少しずつずれて行く。しかし、彼は正義を重んじ卑怯な手段を軽蔑する人間。そんな自分が、腹黒い家康に負けるはずがない、と信じて突き進む。その三成を支える家老島左近。左近は、主の企てが失敗に終わることを確実に予想しつつ、彼なりの美学と義侠心をもって、最期まで三成についていく。殺風景な物語に、三成と初芽のロマンスが彩りを添える。初芽も、三成の滅びを察しながらも、彼を見限ることができない。司馬氏は、三成を、ひとりの人間としては、実に優しい人物に造形している。敗戦後、三成は自殺せず、自ら家康の縛につく。そして、京で、衆目のなか、斬首される。最期まで、己の信念を貫き通した誇り高い男であった。家康のように、誰もが知っている、そして誰もが認める成果を上げた人物は、勿論、賞賛に値する。しかし、結果が負け、とわかってはいても、誇りや、義のためにあえて闘う人間のほうに心引かれる。自分も、そうありたい、と密かに願ってはいるのだが。
2005年08月08日
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サイトのタイトルは茶亭、某所ではお茶にちなんだHNも使っております。実は、茶道歴かれこれ二十数年!(ただし、間に二十年近い空白期間含む)そもそもは、戦国時代を専攻しようと思っていたrin。中世史の教授のこんなお言葉を聞く。「戦国時代を理解するには、茶道を知らないとダメ。僕も習ってますよ。」そうなんだ。自分も戦国をやるからにはお茶を習わねば!かくして、母の昔の先生のところに通い始める。この流派は表千家。5年習った。おゆるし状も4つ持っている。名前をいただくところまで行かなかったのが残念である。ずっと中断していたが、3年前、機会があってお茶のサークルを作った。今度の先生は遠州流である。お茶の流派といえば、表と裏の千家しか知らない人がほとんどかもしれない。しかし、お茶には、千家流とは別の大きなグループがある。武家茶と呼ばれる流派である。遠州流、石州流などがある。流祖はみな武家である。小堀遠州は利休の高弟古田織部に茶を学ぶ。一方、江戸幕府の官僚として活躍。特に建築、作庭に才能を発揮。「きれいさび」といわれ、優雅で華やかさのある茶風で、大名はじめ上流武家に受け入れられている。実際、両方のお手前を比べてみると、非常に面白い。表千家は利休の侘び茶を受け継いでいる。お手前は、全体になだらかな動き、はんなり、という表現があうかもしれない。武家茶の遠州流は、少し角ばった印象。きりりとメリハリをつけた動きである。ところどころに派手な見せ場的な動作を入れる。もともと武家がやるものだから、男性のお手前は、ほんとにかっこいい!月1、2回、亀の歩みのお稽古なので、ようやくお濃茶を点てられるようになったところ。極めよう、とは思っていないが、茶席の、ぴん、と張り詰めた空気が好きなので、末永く続けたい。彼は、一世一代の決断を迫られていた。己の一言に、自分や家臣たちの命運はかかっている。彼はひとり、狭い茶室に籠もり茶を点てる。聞こえるのは、しんしんと釜の湯が滾る音。鮮やかな緑色の一服。馥郁たる香りが鼻腔に吸い込まれる。きりきりと研ぎ澄まされた神経が、ふっと、緩んだ瞬間。彼の胸にすっ、と落ちるものがあった。「殿・・。いかが遊ばします。」にじり口の向こうから低い声がかかる。彼は井戸の茶碗を置くと、静かに立ち上がった。「皆を、集めよ。」袴の裾をさっと捌き、彼は襖を開いた。こんな情景、大好きなんです。彼?石田さまか明智さまか、直江さまでも。とりあえず、今日はお稽古日。戦国武将の彼らに近づくために、がんばって参ります。
2005年07月28日
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