遊心六中記

遊心六中記

PR

×

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

茲愉有人

茲愉有人

Calendar

2016.12.30
XML
カテゴリ: 探訪 [再録]

                                                                [探訪時期:2016年1月]
東福寺を探訪した後に、その記録の整理をするために調べていて知ったのは、藤原定家の父である藤原俊成の墓が深草にあるということでした。そこで、2016年1月下旬に 歌人・藤原俊成の墓を探訪 しそのまとめをご紹介していました。ここに再録します。

墓域の説明を平易にするために、冒頭の地図(Mapion)を切り出して借用し、追記しました。 元の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。

一番の最寄り駅は、京阪電車鳥羽街道駅 です。本町通から藤原俊成の墓への道筋をご紹介します。鳥羽街道駅から本町通を南下すると、まず目印は「第二久野病院」です。そこから南に少し下がると、通りに面して 「極楽寺」 があります。

私は、本町通を北上しました。北に上がる場合は、西側に久野病院があり、通りを挟み北東側に極楽寺が見えます。 極楽寺の少し北側・緑の丸を付けた所から東方向に 緩やかな坂道の通りがあります。黄緑色の線を付した道です。

黒色の丸を付したのが、この「願成寺(西)・開土町(北)案内図の掲示板のある場所 です。この 案内板自体の地図内に黒色の丸を付けたところが冒頭の地図と一致 します。 青色の丸の場所が目的地です。

マゼンダ色の丸を付けたところが、この写真 。坂道を少し降った突き当たりの掲示板が上掲の案内図です。

一見民家への通路と見える坂道の入口、 西側角に「夜泣地蔵尊参道」、東側角に「五條三位俊成卿 兆殿司 墓参道」の石標 が建てられています。

正面にみえる民家の私有地道路かと戸惑う坂道に左折すると、東側に階段が見えます。この階段を上ると墓域となっています。

墓域の入口に近いところに、「夜泣地蔵尊」 が祀られています。
周りには、石塔や石灯籠ほか、いろいろと集められています。
夜泣地蔵尊をキーワードにして検索しますと、京都の各地で祀られているようです。ここで祀られているのもその一つなのでしょう。子供の夜泣きを封じてほしいという願いを叶えてくださるというご利益のある地蔵尊として、信仰されているようです。



夜泣地蔵尊の小祠 を正面から眺めたものです。



坂道の参道を東に上りますと、 築地塀に囲まれた一画 が見えます。
6630,6654
築地塀の手前に、ここが俊成と兆殿司の墓所であることを示す石標が建てられています。右の写真は墓所を南西側から眺めたところです。


参拝してから墓所を仔細に拝見しました。


墓所北東隅に昭和3年(1928)秋建立と背面に刻されたこの石碑が、この墓所の墓の説明を記しています。

北側に建てられた五輪塔二基のうち、右の少し大きい方が大歌聖「藤原俊成の墓」で、少し小さめの五輪塔が「淨如禅尼の墓」です。
説明碑の南隣の 自然石はこの墓所の中央に位置します が、これが 「南明開山業仲禅師の墓」 なのです。

そして、業仲禅師の墓の 南側に置かれた自然石 が東福寺における 画聖「吉山明兆禅師の墓」 だとか。つまり、 兆殿司と称される画僧 です。
東福寺の本堂で涅槃会の折りに御開帳される巨大な 「大涅槃図」を描いた画僧 がこの明兆なのです。(資料1)

藤原定家があまりにも有名で、俊成はその父であり、歌人として勅撰集である『千載和歌集』を撰進した人だという事くらいしか知識がなかったのです。これを契機に少し調べてみて、多少のことが学べました。

俊成は御子左家権大納言家長の孫にあたり、父は俊忠で二男だったのです。その官位から「五条三位」と通称され、本名は顕広。二男でしたが、仁安2年(1169)54歳の時に本家に戻ったそうです。その後に俊成と改名したとか。安元2年(1176)9月、病により63歳で出家し、法名を釋阿と号したようです。元久元年(1204)11月30日に91歳で死去ということなので、当時としては驚異的な長命だったのでしょうね。
俊成は当時和歌と蹴鞠で有名だったようです。和歌はその奥義を究め、歌仙(歌聖)と称されるのです。 (資料2,3)

この墓は、「東福寺字南谷南明院山に在り。此地は古へ法性寺の所有山たり」と記されています。旧の葬所はどこかは解りませんが「下壇の地」にあったようで、弘安2年淨如文書によれば現在地に改装されたそうです。淨如がその維持のために土地を購入し寄付したと言います。「法性寺俊成の卿御はか山林の事」として、東西南北の境界がどこになるかを明記した弘安2年(1279)8月5日付の淨如の文書が南明院に残っているようです。 (資料2)
この淨如禅尼とは誰なのか? 俊成の女 (むずめ) のようですが、「一に母公とあり其是非を知らず」と記された古文書も残るようです。 (資料4)

東福寺の六波羅門の南に「永明院」があります。この永明院の封域を将軍足利義持が割いて、応永21年(1414)に、東福寺111世業仲を開基として創建した塔頭です。 (資料5)
時の経緯を考慮すると、淨如は俊成の墓域を購入して、永明院に寄進して菩提を弔う事にしたのですが、135年後に南明院の創建により、その寺域の一部になったのです。『山城名勝志』 (大島武好編・正徳元年[1711]刊) の記載から窺えます。 (資料6)

時代の変遷とともに、深草の丘陵地に住宅が開発されて、現在はこの墓域は南明院の飛び地になっています。住宅地の中に取り込まれた形になって、周辺にとけこみ見落としてしまいそうなところです。

序でに、南明院には、天正18年(1590)正月14日に聚楽第で没した豊臣秀吉の妹・朝日姫が葬られたお寺です。朝日姫は秀吉の政略により徳川家康の室となった女性です。『坊目誌』によると、当時の南明院の住持・天翁に朝日姫が帰依していたことにより、この寺を香華院とするに至ったと記されているようです。

これは昨年(2015)5月に東福寺三門の楼上の特別拝観で訪ねた折り、その前を歩いた現在の 「南明院」 の山門です。 石段の左側に「徳川家康公正室旭姫墓」、右側に「凌雲山南明禅院」の石標 が建てられています。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 東福寺涅槃会-大涅槃図御開帳-   :「東福寺」
2) 『新修 京都叢書 第21巻 京都坊目誌五』 野間光辰編 臨川書店 p476,477
3) 『平安時代史事典 本編下』 角田文衛監修 古代学会古代学研究所編 角川書店 p2149
4) 『新撰 京都叢書 第3巻』 新撰京都叢書刊行会編 臨川書店刊 
     『京華要誌』(明治28年刊) 
5) 『京都市の地名 日本歴史地名大系27』 平凡社 p285
6) 『新修 京都叢書 第14巻』 野間光辰編 臨川書店 p301 
     『山城名勝志』巻第十六

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
観音寺 (京都市上京区) 出水の七不思議  :「お寺の風景と陶芸」
壬生寺 夜泣地蔵   :「土曜日は古寺を歩こう」
六面体地蔵尊(夜泣き地蔵)  :「おおさと歴史探訪会」
藤原俊成   :ウィキペディア
藤原俊成   :「コトバンク」
藤原俊成 千人万首   :「やまとうた」
兆殿司   :「コトバンク」
絹本墨画羅漢像  伝兆殿司  :「文化遺産オンライン」
明兆[兆殿司] 羅漢   :「東京文化財研究所」
兆殿司の赤達磨   :「曹洞宗巨嶽山正福寺」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -1 塔頭の門前を眺めて
   2015年5月に探訪した折りのまとめを9回シリーズでご紹介しています。   
スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -3  正覚庵(筆の寺)・月輪南陵・九条陵と防長藩士之墓所
   藤原俊成の墓の存在を知ったきっかけはこのブログ記事に記載しています。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2016.12.30 21:31:43
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: