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龍谷ミュージアム正面の展示パネル6月14日の会期末直前の12日(金)に、掲題の特別展を鑑賞してきました。堀川通の西側にある西本願寺に対して、通りの東側に龍谷大学龍谷ミュージアムがありまます。 入手していたPRチラシによれば、今回が寺外初公開の特別展だそうです。寺外初公開という言葉に惹かれて出かけてみました。 当日購入した入館券です。真如堂で呼び慣れているお寺は、京都市左京区、吉田山の南東方向に位置する小高い山頂部に所在します。真如堂一山の寺院が点在します。正式には、鈴聲山(れいしょうざん)真正極楽寺真如堂と称する天台宗の寺院です。永観2年(984)の創建と伝えられています。この特別展は館内での撮影は禁止でした。ご紹介にあたり、PRチラシ等を一部引用します。展示会場は、4セクションに構成されていました。 第1章 真如堂の創建と「うなずきの弥陀」 第2章 真如堂に伝わった仏教美術の精華 第3章 真如堂の歴史と三井家 第4章 真如堂創建当時の都の仏像 当日購入した図録の表紙第1章は、真如堂の創建を語る『真如堂縁起』絵巻の展示から始まります。この表紙は、縁起の巻上の絵から撮られたもの。上掲正面の展示パネルにも使われています。 (PRチラシより、以下同様)この絵は、「慈覚大師円任、中国五台山で生身の文殊菩薩に会う」という場面。絵は掃部助久国筆です。(巻上は展示期間外でした。残念)『真如堂縁起』絵巻(摸本) の展示期間(絵:海北友竹筆)であり、たしか別の場面を見ました。第1章では、真如堂の本尊阿弥陀如来立像の摸刻像が並べて展示されていました。真如堂所蔵で江戸時代に造像された二躯、大山崎町に所在の浄土宗・大念寺に伝わる鎌倉時代(1243年)に造像の摸刻像、東山天皇の中宮・承秋門院が信仰していた江戸時代に造像の赤栴檀製の真如堂摸刻像で、京都・穴太寺に納められた像です。 (付記 :「軀」を「躯」と表記しています)併せて、画像として描かれた真如堂阿弥陀如来像も数点、展示されています。慈覚大師円仁と、真如堂を開創したと言われる戒算上人その他の掛幅の絵画像も展示されていました。< 第2章 真如堂に伝わった仏教美術の精華 > は、この特別展のハイライトの一つです。 この図録の裏表紙にも使われていますが、この二躯が今回のハイライトでもあります。右側は、院蓮作、木造阿弥陀如来立像。真如堂一山 法輪院の本尊像。 割矧(わりはぎ) 漆箔・玉眼 像高80.9cm昨年、美術院での修理に際し、像内から墨書名が発見されたことにより、造立年と仏師名がわかったそうです。仏師法印院寛の子院蓮と。左側も、木造阿弥陀如来立像で、鎌倉時代13世紀の作。真如堂一山 喜運院の本尊像。 寄木 漆箔・玉眼 像高80.2cmこの2躯は、いずれも「上本下生印」の印相を表し「三尺阿弥陀」と称される阿弥陀如来立像です。真如堂の諸像が一堂に会して展示されていました。木造地蔵菩薩立像 二躯 平安時代後期(10世紀)左手に宝珠、右手は垂下。与願印。像高99.4cm。 鎌倉時代(13世紀)左手に宝珠、右手には錫杖を持つ。像高147.0cm木造不空羂索観音立像 室町時代(16世紀)寄木 漆箔・彫眼。 像高92.7cm木造釈迦三尊像(釈迦如来坐像・文殊菩薩騎獅像・普賢菩薩騎象像) 江戸時代(17世紀)寄木 漆箔・玉眼。 像高は順に、45.0cm、27.5cm、28.2cm私は、普段見ることが少ない木造妙見菩薩倚坐像の姿に興味を抱きました。「総髪で顎鬚を蓄え、両脚を下ろして倚坐し、その形姿は・・・・鎮宅霊符神に近似する姿」でしたので。江戸時代(17世紀) 寄木造。彩色・玉眼。像高 31.9cm。さまざまな掛幅が展示されていましたが、画像がありませんので省略します。< 第3章 真如堂の歴史と三井家 > を鑑賞して、真如堂と三井家の関係を初めて知りました。三井家の元祖三井高利とその妻かねが、真如堂を菩提寺とすることを希望し、子院東陽坊の檀家となったことから、縁ができたそうです。夫婦ともに、真如堂の墓地に葬られたと言います。三井家は江戸時代を通じて、数多くのものを寄進してきたようです。この章で展示されているものと三井家の寄進との関係は図録には明記がないので不詳。江戸時代(17世紀)の「木造 三井高利夫妻坐像」(真如堂所蔵)の展示が記憶に残ります。 この章で一番印象に残るのは、PRチラシに使われているこの「寒山拾得図」です。狩野山雪筆。江戸時代(17世紀)。紙本墨画淡彩の作品。101.9cm X 130.8cm というサイズです。画面全体に、寒山と拾得の部分図をいっぱいに描いているのが圧巻です。 この二幅を見ました。左は豊臣秀吉像。右は足利義輝像。図録に徳川家康像、伊勢貞国像が載っていますので、こちらの二幅は多分前期展示だったのでしょう。最期は、< 第4章 真如堂創建当時の都の仏像 > です。ここでは、京都・滋賀の諸寺院が所蔵される諸仏像が展示されています。鑑賞当日、展示品のメモをしていません。図録掲載ベースで数えてみます。 木造 地蔵菩薩立像 (1)、木造 如来立像(伝 弥勒仏)(1) 木造 阿弥陀如来立像(3)、木造 阿弥陀如来坐像 (1) 木造 薬師如来立像 (3)、木造 聖観音立像 (1) 木造 普賢菩薩坐像 (1)、木造 不動明王坐像 (1) 木造 毘沙門天立像 (2) PRチラシに掲載された木造阿弥陀如来立像(京都・恵福寺所蔵) 像高91.5cm平安時代後期(10~11世紀)に造立されたこの仏像は、上半身が真如堂本尊阿弥陀如来立像を手本として造像されていると言います。今回が寺外での初公開とのこと。 こちらもPRチラシに掲載。木造薬師如来立像(滋賀・西教寺所蔵) 像高161.3cm比叡山根本中堂の本尊がモデルだとか。「天台薬師」です。平安時代後期(10~11世紀)100点近くの展示品を静かに鑑賞することができました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『京都 真如堂の名宝』 2026 龍谷大学龍谷ミュージアム・三井記念美術館編補遺真正極楽寺 真如堂 ホームページ 仏像 美術・宝物真正極楽寺 :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.07.23
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第3ステージは、<死後の世界の門を叩け!> です。「新王国時代の歴代ファラオが眠る王家の谷には、『門の書』と呼ばれる葬送文書があり、12の門扉で守られた冥界を太陽神が舟に乗って通り抜ける様子が描かれている」そうです。さらに、「古代エジプトの王族や貴族の墓には、西への入口として、『偽扉』が設けられている」と言います。それは、亡くなった人の「バー」<霊魂>が現世と死後の世界を行き来するための門扉とみなされるとともに、その偽扉に「個人の名前、称号、供物リストなどが刻まれ、ときには歩み出る死者のカー<生命力>を浮き彫りに彫る」こともあり、「死者が供物を霊的に受け取るための場所でもあった」そうです。門を叩けというのは、この門扉と繋がるようです。(図録より、以下同じ)冒頭の画像は、「壁龕(へきがん)に配された像」で、「扉口で歩く男」を表わす供養像だそうです。墓主の姿を表現しているとのこと。「地位の象徴を両手に握り、真っすぐに立つこの男の姿は、死者の霊魂は死後のさまざまな障害を乗り越えた後、来世で自由に動き回ったり、供物を受け取ったりする存在に変化できるという信仰を示している」とか。前2625~前2350年頃。石灰岩。高さ114.9cm、幅56.2cm、奥行き20.3cm。 アメンエムハトの石碑(ステラ) 前1938~前1875年頃。石灰岩。高さ43.2cm、幅53.3cm、厚さ6.4cm。上段のヒエログリフには、エジプト人が来世において望んだものが列挙されているそうです。 ジャッカルの伏臥像 前664~前30年頃。木、顔料。高さ18.7cm、幅35.2cm、奥行き8.3cm。ジャッカルのこの姿勢は、アヌビス<聖なる山の上にいるもの>神を表しているそうです。 ネコの坐像 前664~前343年。青銅、中空の鋳造品。高さ13.3cm、幅4.1cm、奥行き9.5cm。 魚形のガラス容器 前1390~前1292年頃。ガラス。高さ5.7cm、幅11.1cm、奥行き4.1cmナイル・ティラピアと同定されています。再生と復活の力強い象徴とされたとか。神聖な動物たちとして、動物の棺の上に置かれたトガリネズミの像(青銅)、サルの像(青いファイアンス)も展示されています。 ヌン<原初の海>を表した皿 前1539~前1493年頃。青いファイアンス、細部は黒彩。高さ8.8cm、直径26.3cm。「創生神話によれば、生命は最初、エジプト人が『ヌン』と呼ぶ暗い水によって表される無から生じた」といわれています。「古代エジプト人は、死後も現世と同様の生活が続くと信じ、日常生活で必要とされる品々を墓に納めることで、来世での豊かな生活を保証しようとしていた」と言うことは、ピラミッドをはじめ古代エジプトの報道番組でご存知と思います。この特別展でも、副葬品の展示がありました。 花柄の襟飾りが施された壺 前1292~前1190年頃。エジプシャン・アラバスター。高さ28.5cm、幅25cm、奥行き28.3cm。「この文様は、花輪を土器にかけるという古代エジプトの葬送儀礼と結びついており、花輪には再生の意味合いを持つ花や植物が使われた」 短剣 前1983~前1759年頃。銅、黒檀、カバの牙。長さ24.1cm、幅4.8cm、厚さ1.3cm。 ハエのペンダント 前1539~前1292年頃。銀、ひも(現代)高さ12.7cm、幅16.5cm、奥行き1.3cm。 耳飾り 前1539~前1292年頃。金。高さ2cm、直径2.4cm。高さ2.5cm、直径2.6cm。 各種装身具がずらりと展示されています。 ベス神とタウェレスト女神のペンダントが付いた首飾り 前1539~前1292年頃 金、カーネリアン(紅玉髄)、ヅァイアンス。 長さ37.9cm、幅2.7cm。ベス神はライオンの耳やたてがみなどを持った姿。タウェレスト女神はカバの姿だそうです。 ビーズの襟飾り 前1390~前1352年頃。ファイアンス。高さ17.1cm、幅35cm。 帆船の模型 前2008~前1759年頃。木、亜麻布、顔料。高さ54.3cm、幅84.5cm、奥行き18.1cm。 ネフェテュス女神像と泣き女のレリーフネフェテュス女神像 前664~前30年頃。木、彩色。 高さ40.6cm、幅17.8cm、奥行き29.2cm 「イシス女神とネフェテュス女神の姉妹がイシスの夫オシリスの遺体に祈り続けると、 オシリスは冥界の王としてよみがえった」泣き女のレリーフ 前1319~前1204年頃。石灰岩。 高さ29cm、幅41.2cm、厚さ7.2cm 「古代エジプトでは、嘆き悲しむ行為は葬儀に不可欠な要素であり、これが死者の来 世での再生を後押しすると考えられていた」 冥界の神々のレリーフ 前1336~前1250年頃。石灰岩。高さ27.3cm、幅61cm、厚さ6.7cm。 カノプス壺と蓋 前664~前525年またはそれ以降。石灰岩。高さ29.3cm~24.8cm、直径13.4cm~11.4cmカノプス壺の蓋は、左からジャッカル、ハヤブサ、人間、ヒヒをかたどったものです。4つの壺の蓋は、「『ホルス神の4人の息子』と呼ばれる4柱神に対応し、それぞれが臓器を守る役割を担っている。ジャッカルは胃を守るドゥアムトエフ、ヒヒは肺を守るハピ、人間は肝臓を守るイムセティ、ハヤブサは腸を守るケベフセヌエフを象徴している」 カルトナージュ棺のアップリケ 前305~後395年頃。亜麻布、ジェッソ。高さ17.5cm、幅27.5cm、厚さ0.3cm。 ウェンネフェル(タアメンの子)のミイラの包帯 前332年~後1世紀。亜麻布、インク高さ6.7cm、幅51cm。「プトレマイオス朝時代には新たな慣例として、ミイラの包帯に『死者の書』が書写されるようになった」と言います。これはその展示の一例です。 ワニを両側に配した神 前664~前525年またはそれ以降。亜麻布、インク。高さ55.2cm、幅25.7cm。ミイラとなった遺体を覆い、保護するために使われた亜麻布です。「2匹のワニを両脇に配したこの人の姿の図像は、危険な生き物を支配する力を示すもの」と言います。 ネコの棺とミイラ 前664~前332年。木、ジェッソ、顔料、亜麻布、動物の遺体。高さ63.2cm、幅25.9cm、奥行き44cm。「動物をミイラ化する目的の大半は神への供物とするためだった」そうです。第3ステージの最後に、棺が展示されています。 トトイルディスの木棺 前664~前525年。木、彩色プラスター。(棺)高さ175.3cm、幅55.9cm、奥行き18.5cm (蓋)高さ177.8cm 幅61cm、奥行き50.8cm 棺が展示されている傍にこの円柱が置かれていました。図録には収録されていません。展示会場環境の形成のためのレプリカかもしれません。 デメトリオスと言う名の男性の肖像とミイラ ローマ時代、後95~後100年。彩色された布、金、人間の遺体、蠟画、板。 高さ190cm、幅39cm、奥行き34cm。古代エジプトにおけるミイラ化の慣行はローマ時代まで続いた一例です。「亜麻布表面に施された金箔の装飾には、エジプトの神々だけでなく、デオメトリオスの名前と『59』という死亡時の年齢がギリシャ語で書かれている(その名前から、デメトリオスはギリシャ人であったことがうかがえる」 最期のハイライトは、このPRチラシに使われている展示品です。 神官ホル(ホルス)のカルトナージュとミイラ 前760~前558年頃亜麻布、顔料、ジェッソ、人間の遺体。 高さ176.5cm、幅45.7cm、奥行き33cm。 カルトナージュとは「亜麻布やパピルスをジェッソ(漆喰)で固めて何層にも重ねた素材」のことです。ミイラとなった遺体がカルトナージュ棺に納められます。彩色による装飾を施すための十分な面積がありますので、「人型のカルトナージュ棺は、死後の世界に必要な情報を死者とともに確実に保存できた。・・・ミイラとなった死者を守り、霊魂の復活を助ける神々が大勢描かれている」のです。 会場を一巡し、展示品の鑑賞し、最後にハイライトとして一連の棺を眺めた後、美術館を出ました。16階の屋外テラスに出るドアの手前、一隅に、こんな展示コーナーが設営されていました。記念撮影コーナーなのでしょう。 屋外のテラスから大阪市内を久々に展望しました。 アジサがイ咲いていました。(2026.6.5)ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『ブルックリン博物館所蔵 特別展 古代エジプト Unraveling the Mysteries of Ancient EGYPT from Brooklyn Museum』 2025年1月 朝日新聞社 東映 日本テレビ放送網 発行 補遺古代エジプト :ウィキペディアファラオの一覧 :ウィキペディアエジプト歴史年表 :「ハシムの世界史への旅」古代のエリート書記の重要性 河江肖剰の古代エジプト YouTubeネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.07.21
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<あべのハルカス>の16階フロアに設置の案内掲示です。会期が終わって早くも1月余が経ちました。 前売券を購入していたのですが、 6月5日(金)、会期が終わる少し前に出かけてきました。 こちらは美術館入口近くの掲示パネルです。「掘り起こせ、三千年の謎」という副題がついています。ブルックリン博物館所蔵品から選ばれた遺品、出土品を企画展示する特別展です。 特別展を鑑賞した後、ミュージアム・ショップで購入した図録ご覧の通り、図録のタイトルは英文表記となっています。「古代エジプトの秘密・謎」が「三千年の謎」、「unravel」は辞書によれば、「<難問など>を解明する、解く」という意味ですから、「掘り起こせ(・・・・ 謎)」ということになりますね。硬さを避けた上手な副題の名づけ方だな、と後で思いました。今回の展示は、基本的に撮影OKでした。この点はラッキー!一方、展示品の多くは比較的小ぶりなものが多く、ガラスケース内の展示であり、ガラスが鏡面反射を生じることや、鑑賞者が多いこともあり、小ぶりな展示品にデジカメの焦点を適切に合わせることがしづらかったりと、思うに任せない面もありました。ここでは、一応ご覧いただけそうな写真を抽出して、記録のまとめを兼ねて、ご紹介します。上掲の図録を参照しつつ、鑑賞の記憶を整理したいと思います。前売券に載っているのは「死後の世界の門を叩け!」という最後のステージに展示されていた神聖な動物たちの一つです。ご覧になって、何かは想像はついていることでしょう。「カバの像」高さ7.6cm、幅11.4cm、奥行き5.7cm という大きさ。前1938~前1539頃の出土品。カバは豊饒と再生の象徴とみなされていたそうです。「墓にカバの像を納置すれば、死者の魂はその強い力で保護されると信じられた」(図録より、以下同じ)そうです。特別展は3つのステージで構成されていました。 第1ステージ 古代エジプト人の謎を解け! 第2ステージ ファラオの実像を解明せよ! 第3ステージ 死後の世界の門を叩け! 順路に沿って展示品を眺めていきましょう。その流れの中での抽出した展示品をご紹介します。会場入口を入ると、最初の展示群が彫刻像です。第2ステージに関係する展示品です。 王の頭部。前2650~前2600年頃。花崗岩。高さ54.3cm、幅29cm、奥行き33cm。「知られているなかでは最古の、現存するエジプト王の巨像の一部」上エジプトの王冠(白冠)をかぶっています。 穀物倉の監督官イルカープタハの坐像 前2455~前2425年頃。石灰岩。高さ74.9cm、幅29.2cm、奥行き43.2cm。 アメン神官の像 前381~前362年頃。末期王朝時代。閃緑岩。アメン神は、テーベ三柱神の一柱で、カルナク神殿を本山としていたそうです。高さ51cm、幅15.9cm、奥行き14cm。 高官メチェチィの像 前2371~前2288年頃。木に彩色された像。「メチェチィは第6王朝の初代の王テティのもとで高官を務めた人物。・・・上層の役人が着る長い腰布をまとっている」 高さ61.6cm、幅31.8cm、奥行き13cm。第1ステージの展示品は全く撮っていません。なぜだったか記憶があいまいです。 これは特別展のPRチラシ。ここに使われているのが第1ステージの展示品。貴族男性の男性のレリーフ 前1992~前1075年頃。石灰岩、顔料。高さ51.3cm、幅43.8cm、厚さ7.62cm。新王国時代のエリート層の墓に描かれたレリーフの一部だそうです。これは特別出品と図録に記載があります。数千年間にわたる古代エジプト文明の、上流階級を中心に彼らの「日常生活」をテーマとして、出土品から古代エジプト人の日常を感じ取ろうというものでした。第2ステージの展示品のご紹介を続けます。 王像の上半部 前2455~前2425年頃。花崗岩、顔料。高さ34cm、幅16.2cm、奥行き14.1cm「亜麻布でできた縞模様のネメス頭巾をかぶり、王権と神性の象徴であるウラエウスを額に配した王を現わしている」 ニウセルラー王かも(?)とか。 ひざまずくペピ1世の小像 前2338~前2298年頃。硬砂岩。高さ15.2cm、幅4.6cm、奥行き9cm。儀式用の小さな丸い壺を捧げてひざまずく。王がひざまずくのは神の前だけなので、神殿に配された神像の前に置かれていたという。壺にはワインを入れて捧げていた可能性が高いとか。「目は銅製の縁に白と黒の石が象嵌されている」エジプシャン・アラバスターと黒曜石 王子の方形彫像 前874~前830年頃。石灰岩。高さ35.4cm、幅18.5cm、奥行き22.2cm。「オルソコン2世とカラマ王妃の息子である王子の方形彫像」 奉納石碑 前804年。石灰岩。高さ52.1cm、幅32.4cm、奥行き6.4cm。「奉納石碑には、神殿施設やそこに仕える人々への土地の寄進を記録した記念碑文が刻まれる」 花模様の帯状装飾 前1187~前1156年頃。ファイアンス製の小さなはめ込み細工。高さ6.4cm、幅29.2cm、奥行き2.5cm。エジプトの王宮の壁や調度品を飾ったタイルや彩色されたガラスペーストの一例。 オベリスクの模型の一部 前1481~前1479頃。エジプシャン・アラバスター。高さ7.2cm、幅2.8cm、奥行き3.2cm。「オベリスとは上方に向って細くなる方形の石柱で、先端はピラミッド形に彫られている」 新王国時代の神殿の復元模型が展示されていました。高さ108cm、幅87.6cm、奥行き111.8cm。 鍬の模型(鎮壇具) 前1478年~前1458年頃。木。長さ31cm、長さ31.2cm。王が新しい建造物を建てるとき、地鎮のために、基礎の四隅に物を埋めたといいます。 石の運搬具の模型(鎮壇具) 前1478~前1458年頃 木 高さ5.1cm、幅22.8cm、奥行き8.5cm。建造に用いられる道具の模型も、上掲同様、鎮壇具に含まれていたそうです。 日輪を戴く聖蛇ウラエウス(金銅製のコブラ) 前305~前30年。青銅、金。高さ12.6cm、幅5.1cm、奥行き3.8cm。 青冠をかぶった王 前664~前30年あるいは近代。大理石。高さ14.5cm、幅9.3cm、奥行き10.2cm。「本作はプトレマイオス朝時代の統治者たちの類似の頭部像を忠実に模倣して作られた近代の作品かもしれないと、美術史家は考えている」といいます。彫刻に一風変わった特徴がみられるためだそうです。 オシリス神像 前664~前525年。硬砂岩。高さ20.5cm、幅12.8cm、奥行き6.8cm。オシリス神は冥界を支配する神。エジプトの王たちも来世で再生できると考えていたそうです。「オシリス神は多くの場合、生きている王と同じ冠をかぶった姿で描かれる」「この像では炎を吐き出すコブラである聖蛇ウラエウスが冠に付いている」 ハヤブサの棺 前305~前30年。青銅。高さ21.8cm、幅7.5cm、奥行き18cm。 ムト女神の立像 前664~前332年。青銅。高さ18.5cm、幅3.8cm、奥行き3.7cm。 シストラム(古代エジプトの楽器)を持ちハトホル女神の前に立つ王 玄武岩。高さ19.7cm、幅22cm、奥行き8cm。 メンチュヘテプ3世のレリーフ 前1957~前1945年頃。石灰岩。高さ78.7cm、幅130.8cm、厚さ11.4cm。「メンチュヘテプ3世のために、ルクソール(古代名テーベ)から19km南のアルマントに建てられた神殿の礼拝堂の壁の一部をなしていた」といいます。 壁の中央に描かれた女神イウニト アメン・ラー神またはアメンヘテプ3世の像 前1390~前1353年頃。珪岩。高さ19.5cm、幅14.3cm、奥行き10cm。 スフィンクスの姿で表されるアクエンアテン王 前1353~前1336年頃。石灰岩、顔料高さ24.8cm、幅38.1cm、厚さ18.4cm。 ネフェレトイティ(ネフェルティティ)王妃のレリーフ 前1353~前1336年頃。石灰岩、顔料。高さ23.5cm、幅38.1cm、厚さ4.4cm。 戦いの場面を描いたレリーフ 前1332~前1322頃。砂岩、顔料おそらくカルナク神殿の壁面レリーフの一部とか。高さ22cm、幅26cm、厚さ1.8cm。 ラメセス2世の石碑 前1279~前1213年頃。砂岩。高さ168.5cm、幅87.2cm、厚さ18.5cm「ナイル川に浮かぶ島にあるアメン・ラー神の神殿で発掘された」石碑。 セティ1世の境界碑 前1290年頃。石灰岩。高さ64.8cm、幅39.4cm、厚さ17.1cm。2つの土地の境界を示す碑。上段のファラオは、青冠をかぶり杖を持つセティ1世の「保護された像」「このような石碑は古代エジプトの民間信仰に使われた」と言います。 プトレマイオス2世フィラデルフォスのレリーフ 前282~前246年。花崗岩。高さ69cm、幅60cm、厚さ6cm。 ファラオの頭部(おそらくプトレマイオス12世) 前332~前30年。石灰岩。高さ38.7cm、幅14cm、奥行き36.2cm。こんなところで、次回は第3ステージの展示をご紹介します。つづく参照資料*図録『ブルックリン博物館所蔵 特別展 古代エジプト Unraveling the Mysteries of Ancient EGYPT from Brooklyn Museum』 2025年1月 朝日新聞社 東映 日本テレビ放送網 発行
2026.07.20
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「光陰矢の如し」 まさに、実感しています。6月4日(木)に奈良国立博物館に行った後、続きに奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に向いました。橿原考古学研究所のことは以前から多少は知ってはいましたが、付属博物館があるということをうかつにも今まで知りませんでした。ある人のブログで、奈良旅行をされた記事の中に、2026.4/18(土)~6/14(日)の期間で開催中の春季特別展「葬る 弥生人は墓に何を託したか?」を橿原考古学研究所付属博物館で見てきたいう記述がありました。特別展案内ポスターの写真が掲載されていました。その記事を読み、付属博物館の存在を知ったという次第です。そこで、久しぶりに奈良に出向いたので、博物館のはしごをすることにしました。奈良国立博物館を出た後、近鉄奈良駅まで歩き、近鉄で向かいます。西大寺経由で近鉄橿原線畝傍御陵前駅まで乗車。西出口を出ますと、西へ徒歩5分程度の距離でした。当日、館内では特定の撮影禁止対象物を除き、展示品の撮影はOKでした。その時の写真を確認しつつ、記録をまとめようと思ったのですが・・・・・。大失敗!当日の写真をデジカメからパソコンに保存したはずだったのです。が、奈良博で撮った写真とフォールダーを区分して保存したはずなのに、何らかの操作ミスをしていたのでしょう。あるべきフォールダーに写真がありません。嗚呼!1ヵ月余経てから気づくとは! 当日の観覧券令和8年度春季特別展のPRチラシの図柄と観覧券の図柄はほぼ同じです。PRチラシは省略。この春期特別展は、付属博物館の特別展示室が会場でした。こちらは当日、鑑賞後にミュージアムショップで購入した図録の表紙です。この表紙に使われている出土品について、以下でご紹介するにあたり、表紙の右側の出土品を上から下に、R1、R2、R3、R4と仮称します。左側も同様にL1~L5とします。弥生時代は、社会構造に大きな変化が生じた時代です。その変化が人々の精神世界にどのような影響を及ぼしたかを探るということが、この特別展のテーマになっていると受けとめました。 ・弥生時代は、海の向こうの地域との人々の交流が背景にあります。 ・この時代に稲作が始まります。 ・金属器やガラスの利用、つまり技術の受容・拡大が大きな変化を生み出します。その結果、社会構造に大きな変化が生み出されていくことになります。弥生時代の墓は、結果的に弥生時代を表象するものを内蔵し、現代に伝えてくれているということになります。この特別展は、5つのセクションで構成されていました。図録の目次をまずご紹介。 第1章 縄文の墓から弥生の墓へ 第2章 近畿の区画墓 第3章 海をこえて 第4章 土器に眠る 第5章 人と社会を繋ぐ墓 展示の第1章として、最初に、弥生時代の墓の構造と分類についてビジュアルに概説するパネル掲示があります。墓の埋葬主体部の分類と墓の上部構造の分類が図解されていて、様々なタイプの墓が形成されていたことがわかります。< 第2章 近畿の区画墓 > では、大和と河内から発掘された方形周溝墓と北近畿の区画墓が紹介されていました。少し見づらいですが、上掲表紙の中央部、「葬る ・・・・・」というタイトルの背景は、区画墓の写真です。観音寺本馬遺跡(奈良県)方形周溝墓群の航空写真が使われています。表紙のR4は、供献土器の壺で、宮滝遺跡(奈良県)の方形周溝墓からの出土品。L3は、大県郡条理遺跡(大阪府)の周溝内から出土した広口壺。< 第3章 海を越えて > は、まず「青銅器時代の朝鮮半島を中心に、中国の東北部、日本の北部九州に見られる墓のかたちの一つ」である支石墓に着目します。玄界灘沿岸に古い支石墓がみられるそうです。支石墓は、「地下・地上に設けられた埋葬主体部の周囲に複数個の石を並べ、その上に大きな上石を載せるという構造の墓です。L3は供献土器で、久保泉丸山遺跡(佐賀県)からの出土品です。R2の左は有柄式石剣(長さ38.4cm)、右は有茎式磨製石鏃(長さ9.2cm)で、田久松ヶ浦遺跡石槨墓(福岡県宗像市)からの出土品。R3は貝製品の一つ。土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)からの出土品。L1の大型長頸壺(残存高57.4cm)も土井ヶ浜遺跡からの出土品。土井ヶ浜遺跡で発掘された一次葬の人骨の多くは足が海の方を向いており、少し頭を起こしたような状態で出土する頭骨が多かったそうです。「まるで頭骨が海の方を見ているかの印象を受ける」形だったとか。< 第4章 土器に眠る > では、まずその典型として吉野ケ里遺跡(佐賀県)が取上げられています。土器に眠るというのは「甕棺墓」を意味します。「北部九州の弥生人たちは、弥生時代前期中葉より成人の甕棺葬をはじめた」と言います。長く伸びた甕棺墓列を上空から撮った発掘調査途中の写真をこの特別展で初めてみました。L5は、祭祀土坑からの出土土器。栗山遺跡(福岡県朝倉市)出土品。図録表紙の上辺中央に、銅鏡が見えます。これは、立岩遺跡10号甕棺墓の副葬品として出土したものです。(福岡県飯塚市)連弧文「日有喜」銘鏡(径18.2cm)。前漢鏡だそうです。棺内の左右に3面ずつ置かれていた鏡の一つ。被葬者の威信を示すために副葬されたと言います。< 第5章 人と社会を繋ぐ墓 > では、まず、三坂神社墳墓群(京都府京丹後市)の出土品が取上げられています。L4はその一つで、垂飾り(長さ13.5cm)。ガラス製小玉です。「遺跡全体で出土したガラス製小玉は総数で約2900個に及ぶ」そうです。「ガラス製品には中国大陸産と考えられる鉛バリウムガラスを用いたものが多く、被葬者たちの集団が関わっていた遠隔地との交易・交流の存在を示唆するもの」と考えられています。最期はR1です。これは人形土製品(高さ9.5cm)です。楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)で、丘陵の先端部にあり、両端に突出部をもつ特殊な墳形だそうです。弥生時代後期後葉の墳丘墓。葬送儀礼に用いられた遺物と考えられています。これで一区切りとします。付属博物館には、特別展示室とは別に、中庭の周囲に3つの展示室があります。ここは博物館の常設展示室になっています。 第1展示室 旧石器時代 縄文時代・弥生時代 第2展示室 古墳時代 第3展示室 飛鳥・奈良時代 平安~室町時代この常設展示でもかなり写真を撮ったのですが・・・。改めて、常設展示を再見し、写真を撮ってきたいと思います。再訪した折に、あらためてこちらのご紹介をしたい所存です。ミュージアム・ショップで、常設展示の図録があるかと尋ねて購入したのがこれです。図像中心にビジュアル重視で、考古学分野の入門ガイダンスという感じの図録です。考古学にはずぶの素人である私にはちょうどよい図録と言えます。表紙は藤ノ木古墳の時代の出土品。鞍金具(後輪 しずり)の部分図です。唐草文と象の部分が拡大ずとして使われています。本図録を参照に、撮影OKの展示品を再度撮ってきて、ご紹介する機会を作りたいと思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*『令和8年度春季特別展 葬る 弥生人は墓に何を託したか?』 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 2026年4月補遺奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 ホームページ奈良県立橿原考古学研究所 ホームページネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.07.12
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金峯寺仁王門の金剛力士像(南北朝時代、康成作)が「仏像館」に展示されていることを、特別展「吉野・大峯」のご紹介記事の最後に触れました。6月4日(木)に特別展を鑑賞した後、新館から地階の連絡通路を経て「仏像館」(旧館)に回りました。仏像館はその名の通り、様々な仏像等が展示されています。定期的に展示品が入れ替えられています。年に数回訪れる頻度では、ほぼ毎回展示替えになった仏像群を鑑賞できます。奈良国立博物館所蔵のものは一部で、凡そが様々なお寺が所蔵されている仏像等をここで鑑賞できるところが大きなメリットです。個別のお寺を訪れることも難しいし、訪れたからといって、拝見できるとも限りませんから。ガラス越しにはなりますが、すぐ間近くで鑑賞できることがうれしい点です。館内では、一部制限がありますがそれ以外は、撮影OKです。購入図録を片手に持ちつつ、デジカメで片手撮りをしましたので、ピントが甘い写真が多くなりました。比較的ましな画像を適宜抽出して、記録を兼ねてのご紹介です。展示品の羅列になります。 出山釈迦立像 木造 金泥塗 南北朝時代(14世紀) 当館(奈良国立博物館)「成道会」の本尊とされたと言います。出山像は図像が多く、彫像は珍しいそうです。 各展示品には、このような案内文が展示品の傍に設置されています。それぞれの展示品に、撮影OKかどうかも掲示されています。英語、中国語、韓国語での説明が併載されています。(煩雑になりますので、以下省略) 釈迦如来立像 木造 古色(現状) 鎌倉時代(13世紀) 奈良・長谷寺京都・清凉寺の本尊を模した像。鎌倉時代に信仰の高まりにより模像制作が流行した。 菩薩立像 木造 彩色・ 飛鳥時代(7世紀) 奈良・金龍寺本体の大部分と蓮華座までを一材から彫り出す。童顔のかわいらし顔立ちは、7世紀後半の一様式を示します。 文殊菩薩坐像(重要文化財) 木心乾漆造・漆箔 奈良時代(8世紀) 奈良・薬師寺 十一面観音菩薩立像(重要文化財) 木造 一本彫像 平安時代前期平安時代前期の一木彫像を代表する像だそうです。 准胝観音菩薩立像(重要文化財) 木造 彩色 平安時代(10世紀) 文化庁重文指定は千手観音像となているそうです。サクラ材の一木造。丸太様の体型に平安中期の特徴がみられると言います。 十一面観音菩薩立像(重要文化財) 木造 彩色 平安時代(11世紀) 奈良・新薬師寺「頭上面や天衣、光背や台座、また表面の彩色まで当初のものをのこす保存良好な作例。左脇腹に塑土を盛り上げて造る技法は、板製彩画のいわゆる板光背とともに、いかにも南都らしいもののである」(説明文転記) 十一面観音菩薩立像 木造 漆箔 平安時代(12世紀) 奈良国立博物館「目を伏せた優しい表情、なで肩で華奢な体型、浅く穏やかな彫りの衣文などに、平安後期彫刻の典型的な特徴が認められる」(説明文より)十一面観音菩薩立像 木造 彩色 平安時代(8~9世紀) 奈良・薬師寺「髻(もとどり)の周囲に頭上面のあとをのこす十一面観音像。ほぼ全身を一材から彫出する一方、細部表現には乾漆も用いており、奈良時代と平安時代初期の特徴をあわせもつ。一部に当初の彩色がのこる点でも貴重」(説明文を転記) 薬師如来立像(国宝) 木造 素地 平安時代(9世紀) 奈良・元興寺「体の大部分をカヤの一材から彫り出す。口をきつく結んだ表情、頭部が小さくて肩幅が広い体型、腹から太ももにかけて量感を強調する表現により、強い存在感を放つ。平安時代の初期の傑作の一つ」(説明文転記) 広目天立像(重要文化財) 木造 彩色 平安~鎌倉時代(12~13世紀)奈良・興福寺威厳に満ちた風貌と引き締まった体躯。勇敢で重厚かつ充実感がみなぎる姿。2616 二十八部衆立像の一部 木造 彩色 鎌倉時代(13世紀) 当館 五部浄居天 毘楼博叉天 毘沙門天 婆藪仙人 二十八部衆は千手観音の眷属です。京都・愛宕念仏寺に伝来したものだそうで、鎌倉時代にまで遡る彫像は珍しいそうです。均整のとれた姿勢、力強い表情です。 毘沙門天立像 木造 彩色・鍍金 鎌倉時代(13世紀) 奈良国立博物館京都・石清水八幡宮の宝塔院(琴塔)に伝来の像だとか。 男神・女神坐像 木造 彩色 平安時代(12世紀)顎鬚(あごひげ)のある男神と垂髪(すいはつ)の女神の対。「体部に衣文を刻まない点は、平安時代の神像彫刻に一般的な表現である」(説明文より) 伊豆山権現立像 木造 彩色 平安~鎌倉時代(13世紀) 奈良国立博物館熱海市の伊豆山神社の祭神。走湯権現の別称あり。温泉(走湯)が神格化された存在。烏帽子に直衣・袴姿に袈裟を着けているのは仏教に帰依した神の姿。神仏習合の生み出した形です。 童子形坐像 木造 彩色 平安時代(12世紀) 奈良国立博物館髪を美豆良(みずら)に結う少年像です。神像の可能性があるそうです。「像の木取りなど技法上の特徴が、神像彫刻に共通する」(説明文より)との理由によります。 龍神像 木造 彩色・漆箔 平安時代(12世紀) 奈良・薬師寺「薬師寺の東院堂の南にある龍王社に神体として祀られていた。当初は単体の像ではなく、灘陀龍王の背後に絡みつく龍形として制作されたと見られる。大きく身をくねらせた迫真的な表現が魅力的」(説明文を転記) 大津皇子坐像(重要文化財) 木造 彩色 鎌倉時代(13~14世紀) 奈良・薬師寺「寺伝では、謀反の疑いをかけられ、死後に怨霊として祀られた大津皇子(663~686)像と伝える。幅5寸5分(約17cm)厚み2寸(約6cm)の規格の材をブロックのように組み合わせて造る」(説明文を転記)大津皇子坐像の近くに、十二神将像が通路両側の展示ケースに6躯ずつ並べて展示されています。各神将は頭に干支の彫刻像をシンボルとして載せています。そして、神将名の代わりにその干支名が表示されています。その方が親しみやすいからでしょうか。 子神 丑神 寅神 卯神 辰神 巳神 午神 未神 申神 酉神 戌神 亥神これらは上掲の二十八部衆と同様に、像高20cm位と思える小像群です。 狛犬(重要文化財) 木造 彩色 鎌倉時代(12~13世紀) 奈良国立博物館口を閉じた吽形で、頭頂に一角を有する狛犬像です。筋骨の写実的な描写から鎌倉時代の早期の作と考えられているそうです。 獅子 木造 彩色・截金 鎌倉時代(13世紀) 奈良国立博物館 かつて背中に文殊菩薩像を乗せていた獅子とのことです。 獅子(重要文化財) 木造 彩色・截金 平安時代(11世紀) 奈良国立博物館もとは文殊菩薩の台座の獅子です。ただし、「本像のように口を閉じて正面を向く例は少ない。丸く大きく飛び出た眼や、上に立つた耳、丸く張りのある胸などの表現から、11世紀の作と考えられる」(説明文を転記)そうです。 獅子 木造 彩色 江戸時代(17世紀) 狛犬 木造 彩色 鎌倉時代(12世紀)この獅子・狛犬は、東大寺の鎮守である手向山八幡宮に伝わるもので、獅子・狛犬6躯の内の2躯だそうです。展示の狛犬は鎌倉時代に遡る優品の作。残りの5躯は江戸時代の補作だと言います。表面の彩色はいずれも後補だとか。 勢至菩薩立像 鋳造 鍍金 鎌倉時代(13~14世紀) 奈良国立博物館「鎌倉時代以降、関東地方を中心に流行を見せた善光寺式阿弥陀三尊像の脇侍像。宝冠に表わされた水瓶の標幟(ひょうじ)から勢至菩薩とわかる。整った目鼻立ちや衣文表現は、やや地味ながらも堅実な作風を示す」(説明文を転記) 薬師如来坐像(重要文化財) 銅造 鍍金 鎌倉時代(13世紀) 文化庁裳懸宣字座に坐された姿で、光背には七仏薬師が配されています。奈良・新薬師寺本尊の薬師如来像を縮模する像で、原像の再現を意図していると言います。もと興福寺に伝来したとのこと。 釈迦如来坐像 銅造 鍍金 平安時代(12世紀) 滋賀・園城寺もと園城寺唐蔭大師堂安置の像で、定朝様に基づく平安時代後期の典型を示すそうです。像内は外形に沿って空洞で、銅厚は非常に薄いそうです。外観を眺めるだけではわかりませんね。 不動明王立像 鋳造 鎌倉時代 文永6年(1269) 当館「台密の不動十九観に基づく不動明王像」とのことです。両肩以下を別に鋳造して、体部と繋ぐという鎌倉時代通例の技法で制作されているそうです、順路に沿って、一通り鑑賞して仏像館を出ました。ご覧いただきありがとうございます。【付記】この後、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に、初探訪&観照目的で向かいました。別稿としてまとめたいと思っています。補遺二十八部衆 :ウィキペディア十二神将 :ウィキペディア仏像の乗り物(台座)をイラストで解説 :「仏像入門ドットコム」善光寺式阿弥陀三尊 :ウィキペディア阿弥陀如来および両脇侍立像(善光寺式三尊像) :「e国寶」不動明王 不動明王十九観 :「大峰山登山参拝のご案内」(大峰山ようお参り)ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.06.14
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奈良公園入口に設置された掲示先週、6月4日(木)に、奈良国立博物館に行ってきました。特別展「神仏の山 吉野・大峯」の開催期間が6月7日(日)までということに、あるきっかけで気づいたのです。 奈良国立博物館・新館の手前の案内掲示。左側背後に見えるのは旧館です。現在は「仏像館」として使用されています。特別展鑑賞後に、巡りました。後わずか数日という最終段階に入っていたためでしょうか、当日券の購入に15分くらい列に並びました。平日の午前中に入館したのですが、会場はかなりの混雑状態でした。 会場で入手したリーフレットです。NHKジュニアガイドとして、二つ折りA4サイズの「特別展 神仏の山 吉野・大峯 ワークシート」が無料配布されていました。他に「展示品一覧」リーフレットも入手。事後的に今回の特別展PRチラシも入手しました。展示会場は、残念ながら1箇所を除き会場内撮影禁止でした。入手したワークシート他を一部引用することで、この特別展のご紹介と記録のまとめを兼ねたいと思います。吉野・大峯と言えば、すぐに連想するのが役行者、修験道の場です。特別展のタイトルに対して、副題は「蔵王権現に捧げた祈りと美」です。特別展は全体が6章構成でした。 第1章 伝説の地 吉野 --- 役行者と蔵王権現に出会う --- 第2章 金峯山をめざして --- 藤原道長の埋経 --- 第3章 ひろがる信仰世界 --- 修験者・縁起・曼荼羅 --- 第4章 後醍醐天皇 吉野へ --- 山上の新政権 --- 第5章 豊臣秀吉 華の宴 --- 神木の桜花に詠う --- 第6章 近世・近代の吉野と奈良この構成から、少なくとも次の側面が読み取れます。1.山岳修行の祖・役行者から始まる修験道という信仰世界の広がりと進展2.平安時代に天皇を始め貴族たちが、金峯山寺をめざした信仰としての埋経 その典型事例が藤原道長の行動、吉野山の金峯山寺詣です。3.後醍醐天皇が吉野の山に、新政権を立てることで、南北朝時代がはじまりました。 吉野が政治の拠点となる時代があったという側面も欠かせません。4.吉野の花見を盛大な規模で実施した豊臣秀吉の事績は、遊興であるとともに、政治的な権力の誇示行為だったのでしょう。 会場に入るなり、入口正面で最初に見たのが、この「役行者椅像及び二鬼坐像」です。三像は玉眼造りです。前鬼・後鬼は赤い玉眼が輝いていました。奈良・吉水神社蔵。室町時代(15世紀)役小角(えんのおづぬ)すなわち役行者は7世紀後半から8世紀頃の山岳宗教者です。役行者は鬼神を使役し葛城山と金峯山に橋を架けさせたという伝承・逸話があります。その金峯山を拠点に、山岳信仰の修行場が築かれて行きます。鎌倉時代中後期には、吉野の金峯山から大峯の山上ヶ岳に至る連峰一帯が修行場として確立します。山岳信仰と仏教が融合し、神仏習合が始まります。「金峯山寺では、役行者が金峯山で蔵王権現を感得し、その姿をヤマザクラの木に刻んで山下と山上にまつったのが大峯山寺と金峯山寺の始まりとされている」(図録より)そうです。大峯山寺はその名の通り、大峯山山上ヶ岳の頂上に所在するお寺です。大峯山寺(山上ヶ岳)から和歌山県の熊野本宮までの山岳修行の経路が「大峯奥駆道」です。 これは大峯山寺に祀られている「蔵王権現立像」です。いろいろなバリエーションの蔵王権現立像が各所に展示されていましたが、その基本形はこのポーズです。日本では、中世の神道の説として、「本地垂迹」という思想が形成されました。「それぞれの神は皆、仏菩薩が人びとを救うために現れたものだと説明したこと」(新明解国語辞典第5版・三省堂)つまり、仏・菩薩と日本の神との関係を垂迹関係と言います。仏・菩薩が仮に日本の神に姿を変えて現れることをであらわれることを「権現」と称しました。つまり、役行者が感得した神様が「蔵王権現」です。金峯山寺蔵王堂に安置される巨大な3躯の蔵王権現立像は、会場で大きなスクリーンに、原寸大の像としてVR映写されていました。すごい迫力を感じる映像です。 大峯八大童子立像が展示されていました。南北朝時代(14世紀)。奈良・櫻本坊蔵。山岳修行で峯入りする修行者たちを守る修験道の尊格です。第2章は、藤原道長が金峯山に登る旅を実行し、祈願・埋経した事実に焦点が当てられます。金峯山経塚から出土した「藤原道長経筒」(奈良・金峯神社蔵)は、以前に京都国立博物館で見た記憶があります。久しぶりに経筒を鑑賞しました。今回は、この経筒と併せて、経塚から発見された道長筆のお経が展示されていました。 藤原道長筆紺紙金字法華経の一部です。購入した図録の裏表紙に使われています。これは、法華経巻7巻の一部を切り出した部分です。また、藤原師通筆の法華経巻4・無量義経・観普賢経も展示されていました。加えて、金峯山経塚から出土した平安時代の経箱も4合展示されていました。第3章に進みますと、広がる信仰世界の様子が見えてきます。 これは購入した図録の表紙です。ここには、厨子に安置された蔵王権現立像が使われいます。蔵王権現立像は鎌倉時代・嘉禄2年(1226年)の製作で、厨子は鎌倉時代(13世紀)のもの。共に、奈良・如意輪寺蔵。他にも、蔵王権現立像が出展されています。このセクションでは、信仰の広がりの例として、吉野曼荼羅、天川弁才天曼荼羅、熊野垂迹神曼荼羅などの図像が展示されていました。吉野を愛した西行の「西行坐像」(江戸時代・1785年、奈良・吉野水分神社蔵)や絵巻「西行物語絵詞」(鎌倉時代・13世紀、文化庁蔵)もあります。 こちらは、吉野水分神社の中社殿の獅子・狛犬です。右側の阿形像が獅子で、左の吽形像が狛犬です。第4章では、吉野を拠点とした後醍醐天皇の新政権(南朝)を扱っています。 後醍醐天皇像の部分図です。後期は同じ清浄光寺所蔵の摸本が展示されていました。事後に図録で確認して知ったのですが、上部の中央に天照皇大神名の墨書は同じですが、左にに八幡大菩薩、右に春日大明神の名が墨書されていて、上掲の後醍醐天皇図像とは異なります。意図的なのかどうかは不詳。礼服の上に袈裟を着て、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴を持ち、密教尊の金剛薩埵と同じ手の構えで描かれています。密教に造詣が深い天皇だったそうです。(図録より)後醍醐天皇は足利尊氏らとの対立の過程で、志半ばで崩御し、吉野山山内の陵墓に葬られました。その陵墓を守るのが如意輪寺です。 如意輪寺本堂の秘仏本尊として安置される「如意輪観音坐像」が寺外初公開として展示されていました。像高は92.9cm。像底に延慶3年(1310)の墨書があるそうです。南北朝の始まりが1331年で、後醍醐天皇崩御が1339年8月ですので、後醍醐天皇はこの如意輪観音坐像に祈りを捧げたのでしょうね。第5章は、豊臣秀吉による華の宴という一大イベントが吉野で行われます。 PRチラシに「吉野花見図屏風」(六曲一双)の左隻第二・三扇の中央部が使われています。会場(後期)では、屏風の右隻・左隻全体を鑑賞できました。京都・細見美術館蔵。安土桃山時代(16世紀)左隻は秀吉一行の行列が蔵王堂に向けて坂道を上る構図です。金峯山寺の仁王門と蔵王堂が画面の中心に描かれ、銅の鳥居をくぐって蔵王堂に向う秀吉が描かれています。文禄3年(1594)に吉野の桜を愛でる一大イベントが行われました。天下統一後の豊臣政権・豊臣家の永続を願うためであるとともに、これも世に豊臣政権の威をアピールするねらいがあったのでしょう。花見とほぼ同時期に、秀吉の息子・秀頼と豊臣秀長とが、金峯山寺蔵王堂や吉野山水分(みくまり)神社本殿の再建を成し遂げているそうです。この花見の時に自らが作詞したとされる新作能「吉野詣」を秀吉自ら演じたと言います。このセクションには、奈良・勝手神社所蔵の能面が4面展示されていました。今回の鑑賞で初めて知ったのですが、吉野郡大淀町桧垣本には、桧垣本猿楽の一座が居たそうです。吉野猿楽には五座があり、その一つだったと言います。展示されていたのは、桧垣本七郎という面打師の作でした。< 第6章 近世・近代の吉野と奈良 >最後のセクションでは、最初に、役行者椅像と理源大師椅像が並べて展示されています。 これは理源大師聖宝椅子像です。理源大師聖宝(832~909)は平安前期に活躍した僧で、後に京都・醍醐寺を開きました。聖宝は若い頃、役行者に私淑し金峯山で山岳修行に励み、大峯山修験を中興した高僧として仰がれています。大峯奥駈道での修験が復活することになります。 このセクションの最後に、この蔵王権現立像が展示されています。特別展の会場では、これだけが撮影OKでした。アメリカのロサンゼルス。カウンティ美術館所蔵の木彫像です。 額上の天冠台の正面に桜をかたどった金銅製の飾りをつけている点が注目されているそうです。「役行者が大峯で蔵王権現を感得し、その姿をヤマザクラの木に刻んでまつったとされるなど、蔵王権現と桜との結びつき」(図録より)が具体的な造形として取り入れられている稀有な例だと言います。 鎌倉時代(13世紀)の作。像高40.9cm。「ヒノキとみられる針葉樹の寄木造りで、条帛は彩色の上に截金文様をほどこし、裙や獣皮には一部に盛り上げ彩色を交えたあざやかな文様があらわされる」(図録より)特別展のご紹介はこれで終わりです。ここで、一つだけ加えてご紹介します。それは、「仏像館」で今年の9月13日(日)まで期間限定の特別公開が続いている木像ことです。 金峯寺仁王門の金剛力士像(重要文化財)です。康成(こうじょう)作。 南北朝時代 延元4年(1339)すぐ近くから見上げることができ、写真を撮ることもできます。特別展は終了しましたが、この金剛力士像はあとしばらく鑑賞することができます。「仏像館」(旧館)を巡る前に、庭園を新館のテラスから眺めました。 庭園の木々の緑でしばし目をリフレッシュしました。ご覧いただき、ありがとうございます。補遺金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺 ホームページ大峯山寺 :ウィキペディア蔵王権現 :ウィキペディア吉野曼荼羅 金峯山寺蔵 :「奈良女子大学」熊野垂迹神曼荼羅図(甲本) :「文化遺産オンライン」熊野曼荼羅図 :「わかやまの文化財」曼荼羅 :ウィキペディア吉野山観光協会 ホームページネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.06.10
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2026.5.20 (水)撮影これは、三条通と高倉通の角で撮った京都文化博物館別館です。この角の右側を北に上がると、京都文化博物館の入口がこの赤煉瓦の建物の北隣りにあります。「原安三郎コレクション 北斎 X 広重」展の鑑賞をした後に、これもまた久しぶりに別館に入りました。改めて、ここも掲載しご紹介します。京都のタウン・ウォッチングの一景色です。別館は入口が三条通に面しています。この建物は明治文化を今に伝える洋風建築。「日本の近代建築の祖ともいうべき辰野金吾とその弟子・長野宇平が設計し、明治39年(1906) に竣工した日本銀行京都支店の建物」です。(資料より)国の重要文化財に指定され、上記のとおり、京都文化博物館の別館となっています。 建物正面の西端 アーチ形にデザインされた正面入口の右側に、現在は「京都文化博物館」の銘板が嵌め込まれています。かつては「日本銀行京都支店」の銘板が掲げてあったのでしょう。洋風建築として、当時の装飾感覚が各所に施されています。正面入口を入ると、左側・右側にドアがあります。 右側のドアから入り、内部から撮ると・・・・・。感じはおわかりいただけるでしょう。入ったところは公衆溜り(来店客の空間)です。 銀行ですから、来店客と銀行職員の営業室を隔てるカウンターがあります。カウンターの下部には大理石が使用され、カウンター台には優美にデザインされた鉄柵が仕切りとして設けてあります。防御柵ですね。 一階平面図 カウンターとセットになった柱。柱の形もしゃれています。 東寄りからカウンターの西方向を眺めた景色 西側から東方向にカウンターを中心に眺めた景色突き当りのドアの方向に戻り、ドアを通り抜けて左側に回り込んで行きます。 カウンターの中央部に戻って、営業室側の天井部の眺め 東を向いて、公衆溜り空間の2階部分を眺めた景色 ドアの手前で、営業室の北壁面と東壁面を撮りました。2階は回廊で東西両側がつながっています。逆に言えば、2階までほぼ全面吹き抜けの広々としたというか、贅沢な空間利用です。さすが日銀の権威を示す・・・・というところか。西欧風の導入なのでしょうね。 営業室側に入ります。東から西側、公衆溜りの上部を眺めた景色回廊下の長方形の空間が正面入口の内側部分です。東西両端にドアがあります。 西側2階部分の壁面 2階の北西側の眺め北側は窓と外壁ですが、西側は建物内の内壁で、北側には部屋が並んでいるようです。詳細不詳。2階の柱部分等の装飾箇所を切り出してみました。ギリシャ風の装飾なのでしょうか。近代の装飾傾向を採り入れているのでしょうか。不勉強で識別はできません。しかし、まあ、西欧に追いつくという意識が強かった時代だからこそ、生み出されたデザインなのでしょうね。建物が時代を反映していると言えるのでしょう。現在は、1階の営業室空間が、「別館ホール」として、音楽会や展覧会などの催しで利用されています。「三条通を中心とする『界わい景観整備地区』における景観重要建築物のひとつとして保存公開されて」います。(資料より)この別館に入るのは無料です。正面入口から入り、右側(東側)のドアから、通路伝いに通り抜け、中庭を経由して、博物館の1階総合案内のエリアに行くことができます。別館の通路沿いの部屋は、今は別館店舗として利用されています。明治文化を感じるのに、一見の価値ある洋風建築物です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*リーフレット「京都文化博物館展示スケジュール 2026-2027」
2026.06.03
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展覧会「北斎 × 広重」で、3階展示会場から2階展示会場に降りる前に、久々に「やすらぎコーナー」に立ち寄りました。この休憩室の二側面は全面ガラス壁で、屋外は鍵形に砂利敷きの細長い小さな庭が設えてあります。 [ 2026.5.20 (水)入館 ]その小庭に、「信長と石仏」と題した案内板が設置されています。この小庭に安置されているのは、足利義昭の居館として信長が築いた「旧二条城」の跡地(推定)から出土したものと言います。撮影禁止の掲示を見かけませんでしたので撮ってみました。かなり以前にもご紹介した記憶があります。あらためてご紹介します。ガラス越しなので、ほんの記録写真程度ですが・・・・。なぜ、石仏が? は、案内文をご一読ください。 石仏の頭部を見ると、如来形の石仏が多いように思います。ご覧いただきありがとうございます。
2026.05.30
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北斎のセクションには、「冨嶽三十六景」の写真撮影コーナーもあります。これを補足することから、始めます。 「駿州江尻」(冨嶽三十六景)での強風に慌てている旅人たちが生き生きと描かれています。北斎は富士そのものよりも、人々の姿・行動に注目してその瞬間をとらえている印象を受けます。(この作品そのものは前期展示でした)この絵に描かれた旅人3人が、壁面の手前に大きくスケールアップして切り出されています。歌川広重のセクションに移ります。最初の展示は広重の存在を世に知らしめた出世作である「東海道五拾三次之内」です。展示は、「東海道五十三駅続画 保永堂」と墨書された画帖の扉(題字)の展示から始まります。「本揃物は全図刊行後、画帖に仕立てられたと考えられ」るそうです。題字があるのはそのためとか。(図録説明より)東海道五十三次は宿駅の数です。そこに起点の江戸・日本橋と終点の京・三条大橋が加わりますので、55図で揃物となります。今回の現物展示を見ていて気づいたことがあります。浮世絵は木版画ですので、一定の枚数を摺ると版が摩耗してしまいます。広重の東海道は人気が高くて大いに売れたのでしょう。再版されています。再版の際に、図柄そのものが部分変更されたものがいくつかあるのです。「日本橋 朝之景」として世に出た景色が、再版では、「日本橋 行烈振出」と副題も変更されました。前景に描かれた魚や野菜を担う棒手振たちを含む人々の数が道幅全体を埋める位に賑やかな情景に変更されています。再版の図が併せて展示されている宿駅図は、どこが変っているのかを探す楽しみもあります。例えば、「小田原 酒匂川」では、小田原城の背景の山の形もかなり変わって描かれています。 「吉原 左冨士」(東海道五拾三次之内) これは後期展示です。 広重のセクションには、この記念写真撮影コーナーがあります。 壁面左側の切り出しは、上掲「吉原 左冨士」(東海道五拾三次之内)から。中央手前の天狗面を担ぐ姿は、「沼津 黄昏図」(東海道五拾三次之内)から。壁面右側の切り出しは、「原 朝之冨士」(東海道五拾三次之内)から。 左側手前は、「御油 旅人留女」(東海道五拾三次之内)からの切り出しです。旅籠の客引き(留女)が旅人を宿に引っ張り込もうと働きかけている場面を描写しています。壁面中央と右側手前の横笛吹きは、広重筆「冨士三十六景」のうちの「東都駿河町」に描かれた人々。駿河町にある呉服を商う越後屋の前で、正月を言祝ぐ角付けたちが描かれていて、その中の万歳の太夫と才蔵のうちの才蔵、太神楽一行の内の笛吹きです。 図録の裏表紙これは東海道五拾三次之内の「箱根 湖水図」の中央部に描かれた東海道最大の難所と言われた箱根山を部分図として切り出しています。この部分図の右下側に、箱根峠とその山間の道を下る大名行列が描きこまれています。次に進むと、ワンクッション置くように、「東海駅路狂歌寿娯録」と題した廻り双六が全体を広げた形で展示されています。83.5cm X 120.5cmという大きなもの。日本橋を振り出しにして、京・三条大橋を上りとする。廻り双六です。広重筆の東海道各宿駅の絵の中に、狂歌が書き込まれています。「東海道各宿のほか金沢八景、鎌倉、江の島、伊勢神宮、二見ヶ浦、名古屋と近隣の景勝地を加えた62の場所の名所、名物」(図録説明より)を描いてあります。右下枠外に、「禁売買 春友亭蔵板」とあります。「狂歌仲間に配られた非売品」と考えられているようです。嘉永2~5年 (1849-52)の作。図録を購入したら、付録(?)として別添されました。著作権の明記がありますので、ご紹介できないのが残念。そして、「京都名所之内」「雪月花」と続きます。広重の「雪月花」はそれぞれ錦絵三枚続として仕上げた作品。冬景色の「木曽路之山川」、「武陽金沢八勝夜景」で月を描き、鳴門の激しい潮の流れが生み出す渦潮を花に見立てた「阿波鳴門之風景」の3点セットです。北斎を意識していたのでしょうね。その次が、「冨士三十六景」です。北斎の「冨嶽三十六景」に対抗する広重の冨士景色です。 この近くに設定されたのが、この記念撮影場所。 「東都隅田堤」(冨士三十六景)隅田川東岸から、浅草寺、吾妻橋、遠景に黄昏時の富士山を眺める景色です。桜の木の向こう側の女性を、手前に切り出して大きくしています。 「雑司かや不二見茶や」(冨士三十六景)ここでは茶店の客を切り出しています。この女性の姿勢を考えると、富士山は見ていませんね。どこを見つめているのでしょう・・・・・。 後期展示 「相模江之島入口」(冨士三十六景)文政4年(1821)に再建された江の島の入口にある青銅の鳥居をくぐり石段を登ってくる女たちが切り出され、スケールアップして手前に置かれています。江之島の鳥居越しに絶景の冨士が見えます。図録の解説には、3人は揃いの浴衣姿なので、常磐津節の連中と推察しています。彼女たちが目指しているのは、「左の松皮菱の暖簾が揺れる茶屋」との読み解きです。(図録解説より)北斎は富士山を主題に描きましたが、富士山の景色に中に、人々の営みや姿を鮮やかに際立たせ強調する指向が見られるように感じます。一方、広重は、東海道五十三次と冨士三十六景において、人々を描き込んではいますが、全体的には景色の中に人々が融和し一体感を生み出している姿を大事にしている印象を持ちました。冒頭に載せた北斎の「駿府江尻」(冨嶽三十六景)に描かれた旅人たちの姿、強風の場面を取り上げる北斎のスタンスは、広重の冨士三十六景の場面設定のスタンスと対比してみる事例の一つになると言えるでしょう。最期のセクションは、浮世絵の一分野である肉筆画の展示です。< 特集 原安三郎の慧眼(けいがん) > と題されています。 後期展示PRチラシには、歌川豊春筆「遊女と禿図」が肉筆画の一例として載っています。寛政期(1789ー1801)の作。歌川豊春(1735ー1814)は幕末の浮世絵界を席巻する歌川派の祖です。このセクションに、歌川広重筆のもう一つの「雪月花図」が展示されています。絹本着色で3幅がセットとなり、「更科之月」「東都吉原八朔之雪」「吉野之桜」を描いた作品です。もう一つ、広重筆「十二ヶ月風俗図短冊」という12枚の肉筆画が展示されています。他の浮世絵師の肉筆画コレクションも展示されていますが、省略します。最後に触れておきたいのは、冷泉為恭筆「佐竹本三十六歌仙絵巻(模本)」弘化4年(1847)作と、15巻の「更科日記絵巻」(公文蘆淵画・千葉胤明書。昭和16年4月作)が展示されていることです。これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『原安三郎コレクション 北斎 × 広重』 2026-2028 毎日新聞社*展覧会 PRチラシ補遺歌川広重と東海道五十三次 全宿場一覧と浮世絵の見どころを解説 :「ノミチ」東海道五十三次(浮世絵) :ウィキペディア不二三十六景 :ウィキペディア歌川広重・富士三十六景 :「みんなの知識 ちょっと便利帳」冨士三十六景・東都飛鳥山 :「文化遺産オンライン」佐竹本三十六歌仙絵巻 :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都文化博物館 「原安三郎コレクション 北斎 X 広重」展 -1 北斎 へ
2026.05.29
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先週の20日に、京都文化博物館で「北斎 X 広重」展を鑑賞してきました。あっという間に1週間が経過。冒頭の画像は、この展覧会の前売券の半券です。 こちらはPRチラシの表紙。原安三郎氏(1884-1982)が蒐集された浮世絵コレクションの中から、葛飾北斎と歌川広重の名所絵シリーズの揃物を中心にして、初公開作品も展示される展覧会です。原安三郎氏は、日本化薬株式会社元会長として、実業界、財界で活躍された人。一個人の蒐集としては質・量ともに最大級と評価されているそうです。2005年に初公開されたそうですが、私には今回が初めて鑑賞する機会になりました。浮世絵というジャンルは愛好者が少し限定されるのか、先日ご紹介の2つの展覧会とくらべると、同じく平日ですが参観者が少し少なく、ゆったりと浮世絵を眺めることができました。浮世絵愛好家にとっては、多分、垂涎の展覧会と言えるのではないでしょうか。展示構成の大枠をまずご紹介します。会場での作品撮影は禁止でした。*北斎の作品 「冨嶽三十六景」(大判錦絵46枚揃)、「冨嶽百景」(半紙本3冊揃) 「諸国瀧廻り」(大判錦絵8枚揃)、「諸国名橋奇覧」(大判錦絵11枚揃) 「雪月花」(大判錦絵3枚揃)、「百物語」(中判錦絵5枚揃) 「千絵の海」(中判錦絵10枚揃)*広重の作品 「東海道五十三次之内」(大判錦絵55枚揃)、「東海駅路狂歌寿娯録」(狂歌入双六) 「京都名所之内」(大判錦絵10枚揃)、「雪月花」三部作(大判錦絵3枚続) 「冨士三十六景」(大判錦絵55枚揃)、*特集 原安三郎の慧眼 諸浮世絵師による肉筆浮世絵各作品、「佐竹本三十六歌仙絵巻(模本)」冷泉為恭筆 「更科日記絵巻」(公文蘆淵画、千葉胤明書) 私は後期展示に切り替わった初期に鑑賞しました。前期・後期で一部展示作品の入替がありますので、完全な揃物としては見られなかったのは少し残念でした。まあ、これは仕方がないですね。 会場を出る前に購入した図録です。下半分に帯がまかれています。 幅広のこの帯がなぜ必要? それは後ほどご説明。会場で面白かったことや、興味深かったことについて、以下ご紹介します。上掲のPRチラシに掲載の作品を参照引用します。 展示会場は、まず葛飾北斎の「冨嶽三十六景」から始まります。その冒頭はこの「凱風快晴」です。三十六景の中では、良く知られている絵です。北斎の「冨嶽三十六景」は、遠景に富士山、近景に人々の旅や暮らしの側面を描きこんでいる作品が多いので、人物が描かれていない作品は少なくて、そのうちの一枚です。会場を巡っていて気づいたのは、 ここは撮影OK。こんな壁面が設定されていることです。壁面と少し手前に様々な人々の姿態が取り出されています。他にも3ヵ所あります。鑑賞記念撮影用のコーナーを兼ねているのでしょう。図録を購入していますので、どの浮世絵から切り出されたものかを、自宅で確認してみました。これもまた、浮世絵を違った視点で事後に再鑑賞する機会になりました。 壁面左の街道をあわただしく走り抜ける人馬は、千住付近の隅田川左岸に位置す「隅田川関谷の里」(冨嶽三十六景)から。右側手前の女性は「東海道吉田」(冨嶽三十六景)の不二見茶屋の店なかの土間に立ち、冨士を指出して感嘆している姿の切り出しです。 壁面左の子どもの手を引く女性の後姿と、左手前の荷物を下ろし座り込んで休憩する二人組は、「五百らかん寺さざゐどう」(冨嶽三十六景)から。後ろ姿は勿論、遠くの富士山を眺めているところです。「三匝堂(さんそうどう)」の最上階からの広々とした眺望を描いた作品です。お堂の内部が螺旋(らせん)構造となっていて、サザエに似ていることから「さざゐどう」とも称されるとか。壁面右側の駕籠かきと客の一休みは、「東海道程ヶ谷」(冨嶽三十六景)から。「冨嶽百景」は半紙本の特定ページを開いて展示。会場では「冨嶽百景」を映像で全図紹介するコーナーが設置されています。ベンチに座って全景眺めました。ちょっとした休憩タイムにもなりました。次は、「諸国瀧廻り」の作品展示。 図録の帯をはずした表紙表紙に使わている「下野黒髪山きりふりの滝」です。日光三名瀑の一つだそうです。旅人は瀧を見上げて、圧倒されかつ感嘆しているのでしょう。「諸国名橋奇覧」は、北斎が各地の橋から有名な橋と形や構造が面白い橋、現存しないがよく知られた橋などを選んで描いたシリーズです。 「飛越の堺つりはし」(諸国名橋奇覧)。飛騨と越中もしくは越前の国境あたりを想定した絵だそうですが、詳細は不明だとか。国境に吊り橋があるのはうなずけますが、こんな吊り橋・・・・本当に渡れるのでしょうか?北斎の想像画? でしょうかねぇ。北斎は、「雪月花」と題して、墨田の雪、月夜の淀川、桜満開の吉野を3枚揃いとして描いています。北斎の作品展示は「千絵の海」と続きます。これは図録の説明によれば、「智慧の深さを海にたとえる『智慧の海』という言葉からつけられたもの」だそうです。上記の通り、10枚揃いの作品です。その1枚に、「総州銚子」があります。難所として知られる銚子の海に漕ぎだしている舟と人々を描いた図。上部に寄せる大波、下部に引く浪を描き、そこを乗り切ろうとする舟と人々。この図柄を見て、「神奈川沖浪裏」の構図を連想しました。 「甲州火振」(千絵の海)火振という言葉を初めて知りました。夜に松明などを灯して川などで猟を行うことをいうそうです。川の水の流れはなめらかでリズミカルです。「五島鯨突」(千絵の海)長崎県五島列島で行われている捕鯨の様子を描いた図。北斎は五島列島までは出かけてはいないでしょうから、その意味では想像図でしようね。だけど、関東のどこかで捕鯨の見聞経験があるのでしょうか・・・・・。最期は「百物語」。江戸で流行した怪談会のことを百物語と称するそうです。「夜、100本の行灯の灯心(もしくは蝋燭)に火を点け、人々が順番に怪談を語る。話が終わるごとに一本ずつ消していき、最後の一本を消すと怪異が現れるとされた」(図録説明より)とか。北斎が描いたのは5枚揃です。「お岩さん」が前期展示であり、見られなかったのがちょっと残念。この辺りで、一区切りとします。この後は、「広重」のセクションに移ります。つづく補遺冨嶽三十六景 :ウィキペディア葛飾北斎の『富嶽百景』 電子展示会 :「国立国会図書館」諸国瀧廻り :ウィキペディア諸国名橋奇覧 葛飾北斎 :「みんなの知識 ちょっと便利帳」諸国名橋奇覧 摂州天満橋 :「国立国会図書館デジタルコレクション」葛飾北斎・雪月花 :「みんなの知識 ちょっと便利帳」葛飾北斎・千絵の海 :「みんなの知識 ちょっと便利帳」百物語(葛飾北斎) :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都文化博物館 「原安三郎コレクション 北斎 X 広重」展 -2 広重、肉筆画 へ
2026.05.28
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< 第2章 北野天満宮の歴史 > の前半は < 1 北野天神縁起絵巻の世界 > の展示であり、そのハイライトは前回、ご紹介した「承久本」と称される現存最古かつ最大の国宝絵巻です。この特別展では、この絵巻に加えて、さらに北野天満宮所蔵の「北野天神縁起絵巻」で「弘安本」「光信本」「光起本」と称される絵巻も展示されています。これらは重文です。「天満宮御略伝」も併せて展示されています。さらに、「建治本」(大阪・和泉市久保惣記念美術館蔵)、「津田本」(兵庫・津田天満神社蔵)、「荏柄天神縁起絵巻」(東京・前田育徳会蔵)、「松崎天神縁起絵巻」(山口・防府天満宮)が併せて展示されています。後半は、< 2 北野社の風景と京の人々 > に移ります。冒頭に掲げたのは、「北野宮曼荼羅図」(北野天満宮蔵)です。回廊を持つ社殿が描かれ、本殿の中に束帯姿の天神像が大きく描かれているところがおもしろいと感じました。「北野天満宮本社棟札」が展示されています。現在の本殿(国宝)の棟札で、豊臣秀頼(1593~1615)が建立したことがこの棟札に期されています。このセクションで印象深いのは、巨大な絵馬が展示されていることです。(通期展示)一つは、長谷川等伯筆「弁慶・昌俊図絵馬」(重文、北野天満宮蔵)桃山時代・慶長13年(1608)です。縦275cm、横407cmという巨大さ。図録によれば、「源頼朝の命で京都六条室町にあった源義経邸を襲撃するも失敗し、鞍馬山に逃げた土佐坊昌俊を弁慶が捕え、義経のもとに拉致する様子」を描いていた図だそうです。二つめは、「虎図絵馬」二面です。こちらは、いずれも縦170cm、横211cm。虎が向かい合う姿で、2枚1組として、慶長15年(1610)に描かれた絵馬(北野天満宮蔵)です。もう一つが、曾我直庵筆「曳馬図絵馬」二面のうちの一面です。豊臣秀頼が奉納した絵馬。絵馬に秀頼が己の字(あざな)「松」を絵馬中央上部に墨書しています。縦200cm、横290cmという大きさです。虎図絵馬同様に二面を並べると迫力があることでしょう。今回は一面だけです。< 第3章 北野天満宮と芸能・文化 > というテーマで北野が芸能と文化の一大拠点になった側面を展示しています。もともとは、怨霊鎮めという目的で、北野の地に神社が創建されました。だが、時を経て、まず、< 1 学問・芸能の神 > として崇められ、信仰されるようになりました。今では、北野天満宮、天神さんを受験合格祈願の神として知らない人はいないのではないかと思います。この最初のセクションで、北野天満宮と東福寺所蔵の「渡唐天神像」図像を見ました。私はなぜ道真が唐に渡るの・・・・と思うのですが、室町前期から急速に「渡唐天神説話」が広まって行き、図像が描かれることも広まったようです。 前期展示の最終時期として、「阿国歌舞伎図屏風」(京都国立博物館蔵、重文、桃山時代、17世紀)を見ることができました。出雲大社の巫女と伝えられる阿国は、北野社の境内で歌舞伎踊りを開始したとされています。当時の風俗がわかる屏風絵です。この阿国の踊りが淵源となって、後に歌舞伎へと発展していきます。もう一つ、前期展示の長谷川宗宅筆、六曲一双「李白・陶淵明図屏風」(北野天満宮蔵、桃山時代 16~17世紀)を見てきました。後期展示(5/19~6/14)は、海北友松筆、六曲一双「雲龍図屏風」に入れ替えられます。通期展示としては、浮田一蕙筆「北野大茶湯図」(北野天満宮蔵、江戸時代 1843年)を興味深く眺めました。< 2 武芸の神 > のセクションが最後になります。ここでは、北野天満宮ほかに奉納された太刀や鎧が中心に展示されています。 前期展示の「赤糸威鎧 大袖付」(奈良・長谷寺蔵)です。奈良・與喜天満神社に奉納された大鎧です(室町時代 16世紀)。 太刀の展示品の中では、2口だけが撮影OKでした。 太刀 国綱ト銘ガアル(鬼切丸・髭切) (北野天満宮蔵。重文、鎌倉時代 14世紀) 太刀 銘□忠(薄緑・膝丸) (京都・大覚寺蔵、鎌倉時代 13世紀) それと、その近くに展示の「羅生門絵巻」2巻(京都国立博物館蔵)が撮影OKでした。 これは巻上 第四段です。 こちらは巻下 第一段です。 源頼光(948~1021)に仕えた四天王の一人、渡辺綱(953~1025)は、頼光から賜った名刀を携えて、羅生門に棲む鬼を退治する顛末譚を絵巻にしたものです。この鬼退治の功により、名刀の名前が「髭切」から「鬼切丸」(鬼切・鬼丸)に改められたと言います。平成知新館を出ますと、平成知新館に入る手前で見た案内パネルの裏側が目が向きます。今秋の特別展「源氏物語 王朝のかがやき」(2026.10.6~11/29)開催の予告です。秋の特別展が今から楽しみになります。平成知新館の展示室を巡っている間に、一雨降ったようです。館外に出た時はまだわずかに小雨がぱらついていましたので、念のため持参の傘をさしました。普段なら、噴水周りに行き、ロダンの考える人を撮って、西の庭を眺めに巡るのですが今回は取りやめました。雨が再発する前に駅まで戻ることを優先しました。最後に、平成知新館に入館する前に一枚だけ撮った西方向の景色をご紹介します。この時は曇り空でした。ロダン作、考える人の背中側を今まで撮ることはなかったので、景色の一部として登場してもらいます。青空であれば、すっきりとした新緑の庭景色というところなのですが・・・・。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*PRチラシ*「京都国立博物館だより 2026年4・5・6月号」 同、英文版 NEWSLETTER*図録 『『特別展 北野天神』 京都国立博物館 2026*「特別展北野天神 出品一覧・展示替予定表」補遺北野天満宮 ホームページ出雲阿国 :ウィキペディア渡辺綱 :ウィキペディア羅生門 芥川龍之介 :「青空文庫)ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 特別展「北野天神」 -1 入館・第1章・第2章 へ
2026.05.20
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七条通に面した歩道沿いの特別展案内パネル 博物館南側 正面の壁面の案内パネル先週の13日(水)、くもり空で一時雨の予報でしたが、特別展「北野天神」を鑑賞に行ってきました。 前売り券を購入していましたのですんなりと博物館入口を通過。ゴールデンウィークの後でしたが、それなりの入館者数です。会場では鑑賞者の列がほぼ繋がっていてゆるやかにとどまることなく前進するというくらいです。 明治古都館前のツツジがまだ花を咲かせているのを眺めることができました。 平成知新館手前の案内パネルを眺めて、館内に入ります。いつも通り、まずは3階までエレベーターで移動。 2つ折りでA4サイズのPRチラシこの案内文によりますと、来年2027年は菅原道真薨去から1125年目にあたり、式年大祭「半万燈祭」が執り行われるそうです。これを機会に、北野天満宮所蔵品と全国の天神信仰ゆかりの文化財を今年、特別展として公開する企画が実現したのです。会場内はほんの一部を除き撮影禁止でした。PRチラシ、案内パネル、京都国立博物館だよりの写真を一部引用してご紹介したいと思います。3階から1階まで、順路案内に従い、各展示室を巡りながら階を下っていきます。特別展の全体は3章構成になっています。 第1章 天神信仰 第2章 北野天満宮の歴史 第3章 北野天満宮と芸能・文化 です。< 第1章 天神信仰 > は3つのセクションから構成されています。 3階の最初の展示室でまず「伝菅公遺品」6点を眺めました。(国宝、大阪・道明寺天満宮蔵)この写真は12日から展示に加わった3点の内の2点です。道真が愛用したと伝わる遺品だそうです。上は「玳瑁(たいまい)装牙櫛」、下は「銀装革帯」です。「犀角柄刀子」(中国・唐時代9世紀)と「白磁円面硯」(中国・唐時代7~8世紀)が印象に残りました。刀子(とうす)は、紙の代わりに用いられた木簡や竹簡に書いた誤字を削って字を消すための文具。いわば、消しゴムとカッターナイフの役割を持った道具。柄は犀(さい)の角が使われているというもの。もう一つは白磁の円形の硯(すずり)です。元は円周に20本の脚が付いていたものですが、それらは全てなく。円周にこぶ状の膨らみが並んでいるだけになっています。道真が愛用していた頃から脚部が欠損していたのかどうか・・・・など想像するとおもしろい! なにせ、舶来品なんですから。2つ目は「神になった道真」です。ここでは、 「束帯天神像(根本御影)北野天満宮所蔵の現存最古級で、束帯姿の天神像です。北野天満宮所蔵で伝雪舟筆「束帯天神像」も展示されていました。こちらは前期展示のみ。他に、束帯姿で木彫の天神坐像や天神立像も展示されています。これらは重要文化財。同じく重文で、小ぶりな「鬼神像」(11躯)も展示されています。姿のバリエーションがおもしろい。3つ目は、「神仏習合」 十一面観音立像(京都・曼殊院蔵)本地垂迹の思想が広まりますと、北野天神の本地仏は十一面観音とみなされました。北野天満宮が旧蔵したこの像は、北野別当職を延暦寺の曼殊院門跡が兼任することが慣例となった後、第29世の良尚法親王(1622~93)によって、曼殊院に移坐されたと伝わるとか。奈良・長谷寺と大阪・道明寺の十一面立像、京都・平等寺の十一面坐像も展示されています。北野天満宮所蔵の「厨子入十一面観音および四脇侍立像」は、十一面観音の像高が8.8cmというもので、室町時代15世紀の作です。 北野天満宮に近い大報恩寺の千手観音立像(重文)も展示されています。詳細は不詳ですが、北野天神との関わりの伝承があるとか。< 第2章 北野天満宮の歴史 > がやはりこの特別展のハイライトです。現存最古かつ最大の国宝絵巻である「北野天神縁起絵巻」(承久本)を眺めることができることです。ただし、出品一覧表を見る限りでは、全巻そろいでみることはできません。どの時期においても、全9巻の内、巻第二と第七の2巻、あるいは、巻第七か巻第八のいずれかが出展されていない状態になるためです。一方で、巻替があり、各巻は前半、後半のように、部分的開示の形での展示です。絵巻の展示では通常の展示方法なのですが。しかし、ほぼ全巻近くを一堂に鑑賞できる機会はそうそうないことでしょう。まさに、一見の価値ありです。国宝・北野天神絵巻(承久本)の巻の場面をいくつかご紹介します。 巻第1 第一段 前期展示の場面 菅原是善の邸宅に、五、六歳の姿の道真が現れる場面会場に掲示の説明文をメモしていないので、「京都国立博物館だより 2026年4・5・6月号」に掲載のキャプションを引用します。「ある時、菅原是善が自邸でとても美しい5、6歳くらいの幼児を見つけた。幼児は父母もなく家もなく、是善を父にしたいというので、是善は大変感激し、以来大切に育てた。この幼児が後の道真である」これと同趣旨の説明掲示を読んだ時、私の頭は疑問の渦。どういうこと?これまでは、菅原是善の実子としてしか理解していなかったのですから・・・・。 巻第2 第一段 5/5~5/17に展示の場面 貞観12年(870)に、道真が都良香の邸で弓射の腕を披露する。 勉強ばかりではないという側面を表わす。的に2発命中させたとか。 巻第3 第三段 5/5~5/17に展示の場面 道真が左遷の命令を受け、幼い子供を伴い筑紫へ旅立つ前 自邸の紅梅殿の梅樹との別れを惜しむ場面 「こちふかば匂ひおこせよ うめの花 あるじなしとて 春をわするな」「京都国立博物館だより」の英文版 NewsLetter も入手しました。この表紙の下段に、 巻第5 第一段 5/5~5/17に展示の場面 道真は筑紫において、高山に登り、自らの潔白を7日間訴えたそうです。 その祈りが通じて、「天満大自在天神」になったとされます。 特別展の会場から出て、売店で購入した図録です。表紙に使われているのは、巻第6 第三段の場面。この場面は後期展示の予定だったので、残念ながら実物を眺めることはできませんでした。これは延長8年(930)6月26日、宮中の清涼殿に落雷があり、臣下数名に死傷者が出たというよく知られた場面です。この場面、上掲のPRチラシにも使われています。鑑賞したのは、第一段、病臥の時平が、祈祷僧浄蔵を招き祈祷を受けようとします。だが、祈祷を受けられない事態が起こります。巻第7からは、なぜかその内容は菅原道真の話から、日蔵が修行中に突然死去し、ふたたび蘇生するという事件に転じていきます。蘇生するまでの間に、日蔵が三界六道の世界を巡歴する状況が描かれていくのです。巻第9は、下絵のままです。この下絵が展示されています。結果的には、「北野天神縁起絵巻」は未完であるということを、今回初めて知りました。この絵巻は、縦の長さがおよそ52cmであり、現存する日本の絵巻では、最大の画面高を誇る絵巻だと言います。この大きさにまず驚嘆しました。絵の色の鮮やかさがそのまま保たれていることも驚きでした。この辺りで一区切りにします。つづく参照資料*PRチラシ*「京都国立博物館だより 2026年4・5・6月号」 同、英文版 NEWSLETTER*図録 『『特別展 北野天神』 京都国立博物館 2026*「特別展北野天神 出品一覧・展示替予定表」補遺菅原道真 :ウィキペディア藤原時平 :ウィキペディア北野天満宮 ホームページ 天神様の縁起絵巻 Vol1北野天神縁起絵巻 :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.05.18
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4月22日に、久しぶりに京都市京セラ美術館に来て、2つの企画展覧会を鑑賞しました。「西洋絵画 400年の旅」と「大どろぼうの家」です。それぞれ、別にブログ記事としてまとめ、掲載しました。冒頭の美術館の景観から始めました。このとき、この美術館で初めて巡った場所があります。そのご紹介と記録を兼ねてまとめておきたいと思います。 「大どろぼうの家」展を鑑賞する時、中央ホールにあるこの螺旋階段を登りました。北回廊側の2階から撮りました。 2階の北側通路から「大どろぼうの家」展の入口を東方向に眺めた景色です。 南東方向 南方向 さて、これからが初めて巡った館外のエリアです。北回廊2階の「大どろぼうの家」展の出口から出ますと、通路を挟み、少し先の透明のガラス・ドア越しに見えた場所がありました。そこは「東山キューブ」の屋上部分に相当する場所です。東山キューブは、この美術館がリニューアルされた際に、増設された現代アートの展示に対応するスペースです。この屋上の一部に上がれることを知りませんでした。「東山キューブテラス」と称されています。これは、探訪しなくっちゃ・・・・です。東山キューブの平面区画からみれば、ほんの一部のスペースがL字形(鍵形)に開放されているだけなのですが、なかなか良い空間です。 北回廊の東端から眺めるとこんな景観です。北側に東西方向に壁面が設営されていて、その傍に、ひな壇状のスペースが設けてあります。ゆっくりと休憩できるスペースです。 東側から逆に2階北回廊の東端を眺めるとこんな眺め。 休憩スペースのひな壇の中央部の上から、南方向を眺めた景色 このスペースの良さは、美術館の日本庭園を見下ろすことができることと、 東山連峰の眺望を美術館2階の高さ眺めることができることです。この日本庭園は、七代目小川治兵衛が作庭に関わったといわれています。いままで1階の館内や庭園の散策という形でしか、この庭園を眺めたことがありませんので、私には新発見であり、かつ新たなアングルから庭を眺める楽しみを得たことになります。 庭を俯瞰できるというのもいいものです。 通路スペースを東端に進みますと、端に階段があります。美術館の東側、岡崎通の傍から出入りできる階段です。機会を作って、次回はこちら側の階段からテラスに上ってみたいと思います。階段の左側からその先で左折し、北端まで進みます。 美術館の北側の二条通と岡崎公園野球場を見下ろす眺めが広がっています。 野球場の東側には、テニスコートが見えます。 二条通と岡崎通の交差点 北東方向の山をズームアップしてみました。如意ヶ嶽の左大文字の火床の空間が見えます。この辺りで、東山キューブテラスの東北端からスタート地点に戻ることにしました。 館内に戻る前に眺めた本館の2階東側面です。階段で1階に降り、久しぶりに本館の正面玄関側に巡ってみました。 途中で見たステンドグラス かつては、この階段を上がり、2階の展示室に向かうか、階段の左/右を回って、北回廊、中央ホール、南回廊に向ったものです。 今は閉鎖されていますが、正面玄関の入口から入ってきたときのエントランスホールがこのスペースです。いまでは、ここまで館内を巡ってくる人は多分少なくなったでしょうね。私以外に誰も居ない、静謐感が漂う空間になっていました。若い頃に慣れ親しんできたエントランス。やはり重厚感を感じる空間です。ご覧いただきありがとうこざいます。過去に、次のブログ記事もまとめています。併せて、ご覧いただけるとうれしいです。2019~2022年に載せたご紹介です。観照 京都・岡崎 京都市京セラ美術館外観を巡って観照 京都市京セラ美術館 館内巡り 観照 京都市京セラ美術館外観と日本庭園 細見探訪&観照 琵琶湖疏水と京都市京セラ美術館 -1 疏水風景と「天の中庭」探訪&観照 琵琶湖疏水と京都市京セラ美術館 -2 日本庭園と疏水端・大鳥居
2026.04.30
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この展覧会を見終えて、売店で図録がありますかと尋ねると、普通にイメージする図録はありませんでした。図録に代わるものとして、3種類のブックレットが売られていました。一冊だけ買いました。それが冒頭の64頁というボリュームの本、『大どろぼうの家』です。表紙には、「大どろぼう 文・絵」と記されています。これも見立ての遊び心でしょう。奥書には、「文 草刈大介、永岡綾 絵 コジマユイ」明記されています。 この会場マップと同じ名称のセクション構成で、散文詩風の文とイラストによりまとめたブックレットです。いわば、この企画展のコンセプト・ブックにあたるようです。「いやはや、あなたをお待ちしておった。 よくぞこの部屋を見つけてくださった。」という文から始まります。< 赤の隠し部屋 > のバナーの冒頭の文がこれです。 「こちらは息子のものですな。 どろぼう小説に、どろぼう漫画。 わしにいわせりゃ、玉石混交。 だが、あやつの情熱だけは認めてやらねばないますまい」書棚には様々なものが集められています。大どろぼうの息子、さらには孫娘の集めた様々なグッズが陳列されている部屋です。たとえば、書棚の上には、右から「自転車泥棒」「恋する泥棒」「華麗なる泥棒」「大泥棒」「小さな泥棒」という映画のポスターが陳列されています。どろぼうの絡む絵本、アニメ、ゲーム・・・・と、書棚の展示品を一点一点眺めて行けば、結構おもしろいかもね、です。私はさらり~と眺めるにとどまりました。 目に留まったのはコレ! 幕末から明治に生きた浮世絵師・月岡芳年の錦絵です。絵の左下に、「芳年武者無類 源牛若丸 熊坂長範」と題されています。赤色が鏡面反射していて見にくいですが・・・・。右側下のメッセージは、上掲ブックレットの文の一節です。「そうそう、貴重な逸品もありますぞ。 かの牛若丸と刀を交えた豪傑の盗賊、熊坂長範(くまさかちょうはん)の錦絵です。 父から『棺桶に入れてくれ』といわれたんですが、 まあ、わしが墓に入るときでも遅すぎるということはありますまい」次の部屋は、< 銀の前前室 > と称されています。京都展から展示に加えられたセクション。(ということは、巡回展になっていることでしょうか。詳細は不詳) 「2024年11月13日、谷川俊太郎の訃報に触れた」というメッセージ。谷川俊太郎ファンのどろぼうが、2025年4月1日に、家に忍び込んで、谷川俊太郎の15の詩その他を盗みだしたのです。 谷川俊太郎の書斎の写真や、詩のノート、生前に演奏していたというカリンバという楽器などがどろぼうが盗んできたコレクションになっています。谷川俊太郎の詩集も置かれています。 「銀の庭」のバナー 谷川俊太郎の詩の世界。詩の朗読と音で詩の世界にひたるという試みがなされている空間。(私がそこに居た時には、朗読と音は聞こえてきませんでした。たまたまそんなタイミングだったのでしょう)< 銀の庭 > の次に、 < 白い部屋 > が続きます。 有名作家の原画などをこっそり盗み出してきたどろぼうのコレクションです。目利きのどろぼうという見立てです。 さくらももこさんの『ちびしかくちゃん』原画がありました。 その隣は、< トリコロールの廊下 > です。ここの展示、見過ごしてしまったのかも・・・・。 なぜか、ここで撮っているのはこれだけです。「絵本作家ヨシタケシンスケにどろぼうが書かせた絵本の原画を展示」とマップには記されているのですが・・・・・。 そして、< 黒い壁 > が、2階北回廊での突き当りのコーナーになります。よく見ますと、真っ黒な片方だけの靴下が同心円状に大きく壁一面に円を作りあげています。ここまでやると、これも一大作品ですね。冒頭の本には、烏の巣作りという言葉が、< 黒い壁 > のセクションに出てきます。巣作りの延長線上での、靴下どろぼうの烏の仕業・・・・・でしょうか。 その傍に仮設の壁面が見えます。 ここに、手持ちの仮面が置かれています。怪盗ルパン気分で、泥棒になったつもりの記念写真が撮れる壁面になっています。悠悠と、泥棒は天空へ逃げて行く・・・・・・。 最期は、< 光の蔵 > です。「大どろぼうの偏愛品やガラクタ、いつのまにか見なくなったアイテム」などがずらりと並んでいます。 まず目にとまったのが、「映画村大手門」の木札。そういえば、いまだ太秦の映画村は訪れていないなぁ・・・・・。京都銭湯の提灯がずらりと並んでいるのがおもしろい。子供の頃に、銭湯に行っていたのが懐かしい! こんなグッズも。 ぬすんだもの 衣食住之内家職幼絵解之図 盗ってきた場所 竹中工務店歴史収蔵庫「明治初期、文部省が家庭教育用に刊行した錦絵シリーズで、二代目歌川国輝(曜斎国輝)によるもの。道徳・運動・農林・西洋発明・数理・力学など多様なテーマで幼年期教育を支援した」(解説文転記)錦絵を教材に使った時期があったのですね。知らなかった。大どろぼうの家という見立て、人それぞれの楽しみ方が詰まっている企画展だと感じました。最後に、冒頭に載せた『大どろぼうの家』の < 白の小部屋 > に記された次の文をご紹介して終ります。”いつかきっと、心にこそ価値があると、みんなが気づく日がくるって。 美術館が心を交換する場所になる日がくるって。”ご覧いただきありがとうございます。観照 京都市京セラ美術館 「大どろぼうの家」展 ー1 へ
2026.04.29
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北回廊1階で「西洋絵画 400年の旅」展を鑑賞した後、北回廊2階に上り、「大どろぼうの家」展に向いました。久しぶりに、企画展のはしごをしました。 企画展の名称に興味を抱き、こちらも前売券を購入していました。 前売券を申し込んだ折、チケットに同封して送られてきたPRチラシです。折り目が付いているのはそのためです。上掲チケットとほぼ同じ。 会場入口そばの掲示 エントランス壁に様々な鍵が吊るされ、「ようこそ大どろぼうの家へ」の歓迎メッセージ。 正面の壁には大きな鍵穴。鍵穴から覗ける大泥棒の家の室内この入口で得たのがこの「大どろぼうの家」のマップです。正面の先の部屋(展示会場)に進みます。一見すると、この部屋だけがこの企画展の会場なのかとちょっと錯覚するところが、まず導入になっています。それは、先に進むには、一旦エントランスに戻って、幅の狭い入口から <青の応接間> へと進むことになるからです。さりげない入口空間が設定されているだけ。 まずは、先の部屋 <緑の回廊> へ。 入った部屋の正面円弧状の壁面には、古今東西の有名などろぼうたちの肖像画がずらりと並んでいます。 部屋の中央に置かれているのは、大どろぼうが盗んできた有名なブロンズ彫刻像! オーギュスト・ロダン作 「アダム」(1880年) 京都市美術館蔵そこで、気づきました。この企画展、大どろぼうの盗んだ物に見立てた展示であり、泥棒をテーマに創作された作品とを組み合わせた、「見立て」を主軸にした遊び心なんだと。 アダム側からは、「緑の回廊」のバナーの隣に、この絵が展示されています。歌川国芳が描いた浮世絵「相馬の古内裏」に描かれた大きな骸骨をモチーフに描かれたパロディ風の絵です。パロディとして、図柄を盗んだとも言える作品。この絵の傍に台が置かれ、広口の大瓶には甘いにおいのする金貨が入っています。そして、こんなメッセージが:「もし金庫に黄金とチョコレートがあったなら、 ぼくは迷わずチョコレートを盗むよ」 「アダム」の右側、部屋の壁面前には、この像が鎮座します。盗んだもの 紫式部乾漆像 盗ってきた場所 京都文化博物館 と掲示(笑)「この像は社団法人現代教育研究協会が創立20周年の記念事業として京都府に寄贈したものである」とのこと。(掲示説明より)それでは、泥棒たちの肖像画をご紹介! 左から、泥棒猫の図、「アルセーヌ・ルパン」、「怪傑ゾロ」 「アダム・ワース」 左は、「3億円事件」の犯人、右は「怪人20面相」 左は「ラプトル」、右は「ロビン・フッド」 「ビンセンツオ・ペルージャ」 「弁天小僧菊之助」 左は「鼠小僧次郎吉」伊野孝行作。右は何??? 私には不明・・・・・。 左は「石川五右衛門」、右は「ホッツエンブロッツ」(何者かは知りません!) もう一度「アダム」を眺めて、次の部屋に進みます。 青の応接間 盗んだもの 大工道具 盗んできた場所 竹中工務店歴史収蔵庫 竹中の半纏と大工衣装 本棚には様々な盗んできた専門書が並んでいます。画像を拡大して、書名をいくつかご紹介しましょう。『泥棒の事典』、『焚き火』、『MORAL』、『善と悪の』、『西洋の鍵』『暗号解読事典』、『推理小説作法』などなど・・・・・・と。「心も盗む」という張り紙もあり。 壁には、こんな漫画が掛けてあります。それでは、<赤の隠し部屋> に進みましょう。つづく補遺歌川国芳 :ウィキペディ相馬の古内裏 :ウィキペディアAdam Worth From Wikipedia, the free encyclopediaジェームズ・モリアーティ :ウィキペディア大どろぼうホッツェンプロッツ :「kaisei web」(偕成社のウェブマガジン)ビンセンツォ・ペルージャ :ウィキペディア竹中大工道具館 ホームページ竹中大工道具館・大工道具の博物館 :「神戸観光壁紙写真集 KOBE Photo Gallery」 インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都市京セラ美術館 「大どろぼうの家」展 ー2 へ
2026.04.28
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前回、Part 2の始まりに少し触れました。「物語」が変質していく続きです。冒頭の絵は、19世紀フランス風景画を先駆した画家と称されるジャン=バティスト・カミーユ・コローが描いた「もの思い」です。 1865-70年頃の作コローは、1866年頃から、アトリエで様々な衣装を身にまとったモデルによる「空想的人物像」を描くようになったそうです。ここには、イタリアの農民の衣装をまとい、もの思いにふける少女が描かれています。スカートの上に集めた小さな花々を見つめる姿は、コローが描いた「生命の春」(1871年、ミネアポリス美術館蔵)のミューズの姿に通じます。 ジャン=バティスト・カミーユ・コロー 「ユディト」 1872-74年頃ユディトは、旧約聖書外典「ユディト記」に登場するユダヤ人の女傑だそうです。コローは、外典の物語の主題よりも、「女性のメランコリックな内面を醸し出した『空想的人物像』となっている」(図録より)側面を描いていると言います。つまり、歴史画という視点に拘らずに絵を描くという方向に歩みだしているということなのでしょう。「決まり事」のない世界への遷移の始まりです。 ギュスターヴ・クールベ 「水平線上のスコール」 1872ー73年クールベはフランスのレアリスムを代表する画家。「古典的理想化を排して現実に忠実な絵画を」「目に見えるものしか描かない」と主張したそうです。レアリスムの父と呼ばれたと言います。(図録より)これも「波」の連作の一つ。大波の塊が押し寄せるダイナミズムが見事に描かれています。クールベと聞けば、海岸の波を連想します。クールベは「鹿」の連作も描いているそうです。 ピエール=オーギュスト・ルノワール 「赤い服の女」 1892年頃この企画展でのハイライト作品の一つです。PRチラシ、案内パネル等に登場しています。「カノチェ」と称する麦わら帽子、「マルセル・ウェーブ」と呼ばれた髪の毛のカール、袖の膨らんだデイ・ドレス、当時流行していたファッションの女性が描かれています。 (図録より) 肖像画から解き放たれ、新たな絵の領域へ。絵を描く対象としての「人物画」。ルノワールは「画家仲間と戸外での製作にも励み、画面の中に戸外の乱舞する光を捉えた筆触分割の技法を確立し印象派の旗揚げに加わった」(図録より)のです。 ピエール・ボナール 「若い女」 1905年頃ボナールは、後に彼の妻になるマリア・ブールサン(愛称マルト)をモデルに数多くの絵を描きました。「親しい者だけが見ることを許された情景を、繊細な筆触で色彩の中に包み込むように描き」ました。それで、アンティミスト(親密派)と呼ばれます。後には、色彩の魔術師と賞賛される画風を確立していった画家です。 マリー・ローランサン 「二人の女」 20世紀前半優美で甘美な女性美の世界を描き続けた画家。20世紀前半では、きわめて少なかった女性画家の一人です。 アメデオ・モディリアーニ 「ポール・アレクサンドル博士」 1909年この博士は、若き日のモディリアーニの最初の理解者であり支援者だった人物だとか。1909年にポール博士の肖像画を3点制作しているそうです。この絵にも、縦長のフォルムで人物を描くという特徴が出ています。 フィンセント・ファン・ゴッホ 「鋤仕事をする農婦のいる家」 1885年オランダ南部のニューネンに住んだ頃の作品。農民画家としてのゴッホが形成されたといわれています。ゴッホはニューネン近郊の風景を精力的に描きました。絵画が「物語」の歴史画から、現実に目を向けていく方向に進みます。レアリスムや印象派の画家が活躍する動きへ。一方で、幻想の世界に絵の主題を求める動きが始まります。マルク・シャガールの「曲馬」とジョルジオ・デ・キリコの「ヘクトルとアンドロマケ」が展示されていますが、残念ながら撮影禁止でした。シュルレアリスムは第一次大戦後にパリで始まった芸術運動です。 ルネ・マグリッド 「再開」 1965年 ルネ・マグリット 「観念」 1966年マグリットは、シュルレアリスムのデペイズマンの手法を巧みに使った「イメージの魔術師」と呼ばれています。普段見慣れた事物を素材にしながら、日常の中ではありえない組み合わせをぶつけて、見る者に対し、そこに超現実的感覚を喚起させます。観念、感性に対して刺さってくる絵画の世界です。印象派の運動を嚆矢として、造形の革新が始まり、加速していきます。「光と色彩の饗宴」です。風景画が独立したジャンルとして様々に広がり、それぞれの画家が独自に己の絵画の世界を確立しようと動き始めます。その一端を、このPart 2では楽しむことができます。 ウジェーヌ・ブータン 「ベルクの海岸」 1878年ブータンは、屋外の光のもとで風景画を完成させる手法の実践に、先鞭をつけた画家の一人だそうです。 カミーユ・ピサロ 「秋、朝、曇り、エラニー」 1900年ピサロは終生かわらぬ「田園画家」でした。細かいタッチの描写を重ねていく手法を試みています。点描画法の利用です。新印象主義に参加しますが、後には新印象主義を放棄し、点描画法から離れたそうです。 アルフレッド・シスレー 「牧草地の牛、リーヴシェンヌ」 1874年「ヴァルール(画面の各部間の色彩の色相、明度、彩度の相関関係)の均整のとれた美しさ」(図録より)を表わす絵です。 アルフレッド・シスレー 「レディース・コーヴ、ラングランド湾、ウェールズ」 1897年 ポール・セザンヌ 「オーヴェールの曲がり道」 1873年この作品、アメリカ人の著名コレクターが1901年にパリの画廊で見つけて購入し、セザンヌ作品では渡米第一号となった作品だそうです。 ギュスターヴ・カイユボット 「トルーヴィルの別荘」 1882年 ポール・ゴーガン 「水辺の柳、ポン=タヴェン」 1888年「当時ゴーガンは絵画は観察に基づきながらも、線と色の関係に対する画家の美学的な考察と感覚とを総合しなければならないとし、この総合主義を唱える画家たちのリーダー的存在となった」(図録より)そうです。彼の考えは、ナビ派の形成を促すことになったとか。 アンリ・マルタン 「画家の家の庭」 1902年「前景の花々から後景の山々に至るまで緊密に配された点描の筆致は、新印象派の特徴を顕著に示している」(図録より) アンリ・ル・シダネル 「森の小憩、ジェルブロワ」 1925年 アンリ・ル・シダネル 「黄昏の古路」 1929年「淡い紫色と黄色の補色関係にある色彩の組み合わせや、点描によって美しく調律された色彩」(図録より)の魅力。 モーリス・ユトリロ 「モンマルトル、ノルヴァン通り」 1916年頃ユトリロは好きな画家の一人です。哀愁を帯びた街の風景が惹きつけます。「強い遠近法でとらえられた構図が、石造りの小路と建物の存在感を高めている」(図録より)通りを歩く人々はごく簡略に描かれているだけ。 キスリング 「花」 1929年静物画は、この作品と、ジョルジオ・モランデイの「静物」の2点だけです。 クロード・モネ 「睡蓮」 1908年 本作は、モネが68歳の時に描いた15点の連作中の1点だそうです。 エミール・ベルナール 「城のあるスミュールの眺め」 1905年セザンヌの教えが応用されています。「これらの建造物は、円筒や直方体など単純化された立体形で捉えられ画面中央の空間を構成している」(図録より) アルベール・マルケ 「トゥーロン湾の眺め」 1938年激動の近現代では、*補色を意識した輝かしい色彩表現*補色の効果を狙いながら、原色に近い明るい色彩の筆触を並べて置いていく「筆触分割」の技法*細かな「点描」を用いて、緻密な画面を造り上げる、点描の画法*フォーヴィスムにおける大胆で激しい色彩表現*対象の本質に迫る揺るぎないフォルムと構築的な空間構成の追究が試みられていきます。 (図録より)西洋絵画の変遷をざっくりと感じるのに、役立つ「西洋絵画400年の旅」です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『珠玉の東京富士美術館コレクション』(西洋絵画400年の旅)*PRチラシ「西洋絵画400年の旅」
2026.04.27
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久しぶりに、京都市京セラ美術館に行きました(2026.4.22 水)。現在の美術館は、神宮道から美術館の敷地に入ると、緩やかなスロープを下って行き、西面する本来の玄関の下、地下1階に相当するガラス・ウォールの正面入口から館内に入る形になっています。 前売券を購入していたので、そのまま正面の階段を本館1階の中央ホールまで上がります。 北側の壁面に企画展の案内が掲示されています。会場は北回廊1階です。左端が北回廊に向う通路です。 通路を抜けると、広場(中庭)があります。 こちらは事前に入手したこの企画展のPRチラシの表紙・裏表紙です。二つ折でA4サイズ。チラシに記されていますが、この企画展は、「東京富士美術館」の西洋絵画コレクション所蔵品から80点あまりを厳選して京都で展覧するという企画展です。時間的距離は近くなったとはいえ、やはり東京まではそう簡単にはいけませんので、こういう企画展はありがたい。もう一つうれしいことには、一部作品を除き、スマホでもデジカメでも、写真撮影OKだったことです。PRチラシはさらりと見てはいたのですが、この記載を見過ごしていました。展覧会場は、美術館の北回廊の部屋を展示作品を鑑賞しながら順に巡って行く形です。全体は2部構成になっていました。 Part Ⅰ 絵画の「ジャンル」と「ランク付け」 Part Ⅱ 激動の近現代 ---- 「決まり事」の無い世界 これは、鑑賞後に購入した今回の図録表紙です。図録には透明の幅広のプラスチック帯のカバーがかけてあります。 表紙 クロード・モネ 「睡蓮」 ( Part Ⅱ に展示 ) 裏表紙 アントニー・ヴァン・ダイク 「ベッドフォード伯爵夫人アン・カーの肖像」 ( Part Ⅰ に展示 )それでは、< Part Ⅰ 絵画の「ジャンル」と「ランク付け」> の会場を巡っていきましょう。ルネサンスから19世紀前半頃までの西洋絵画が展示されています。が、今回の展示方法は西洋絵画史の時間軸で展示するのではなく、西洋絵画の世界を絵画が扱う主題、つまりジャンルが大きく格付けされていた時代を、「ジャンル」と「格付け」という観点で作品群をセクション分けして展示するというアプローチです。当時は、最も絵画の格が高いものと認識されていたのが「歴史画」です。神々の世界や人間の歴史を物語る絵画を人々は高尚なものと受け止めていました。平日でしたが、会場は結構混雑していましたので、撮影OKの作品でも撮らずにスキップした作品もあります。そこで、私なりに撮った作品を中心に、記録を兼ねてまとめて、ご紹介します。1.1 「歴史画」では、神話、物語、歴史などが描かれています。中世の絵画はほとんどそればかりといえるでしょう。神話や歴史が理解されていてこそ、絵が理解できるともいえます。 ノエル・ニコラ=コワペル 「ヴィーナスの誕生」貝殻上のヴィーナス像も、こんな描き方があるんですね。ハンニバルという歴史上の英雄の生涯を描いた物語が6点展示されています。 その内の一つがこれ。クラウディオ・フランチエスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 ー ローマに対する永遠の憎しみを誓う少年ハンニバル」 クラウディオ・フランチエスコ・ボーモン「ハンニバルの生涯 ー サグントゥムの戦いを前に戦利品の報酬を約束し、兵士を鼓舞するハンニバル」2.2 「肖像画」が、歴史画に続きます。まずは、王侯貴族など身分の高い人々を描くことから始まり、時代の変化とともに、富裕な市民階級の人々に広がります。上掲の図録の裏表紙の絵は、このジャンルに入ります。このセクションで一番目に留まったのは次の3点です。左から右に並べて展示されています。そう、ナポレオン1世です。 左側に、ロベール・ルフェーブル 「ナポレオン1世」中央は、上記の「歴史画」のジャンルに入る作品で、有名な場面です。ナポレオン関連でここに並んでいるのでしょう。ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房 「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」右側に、ジャック=ルイ・ダヴィッドの工房 「載冠式の皇帝ナポレオン」 ジャン=マルク・ナティエ 「フェルテ=アンボー侯爵夫人」 ジャン=フランソワ・ミレー 「男の肖像」1.3「風俗画」が、肖像画に続きます。市井の人々の生活する場面を描いた絵は、さらに低くランク付けされていたのです。 ジョシュア・レノルズ 「少女と犬」 1780年頃この画家は、イギリス絵画史上で、肖像画家として有名だそうです。肖像画と風俗画の中間にある作品と説明されていますが、威厳を秘めて取り澄ましたような肖像画などより、私にははるかに親しめる絵です。距離感が近くなります。こういう絵を、現在は「ファンシー・ピクチャー」と呼ぶとのこと。この用語は上掲PRチラシでも使われています。ピエール・ベルゲーニュの「田園の奏楽」、トマス・ゲインズバラの「田舎家の前の人々」などが展示されています。まさに風俗画という場面の絵でしたが、撮りませんでした。1.4「風景画」がさらに下位に続きます。風景は、歴史画の中で、「背景」という形で描かれました。それが絵の主体になる形ではなかったのです。そこから、純粋に風景そのものを主題として描くことが始まります。 アンドリエス・ファン・エールトフェルト 「オランダ船対バーバリ海賊船との戦い」フランドルの画家の作品 17世紀前半風景画の一つとして、展示されています。オランダの風景画家、ヤン・ファン・ホイエンが描く「釣り人のいる川の風景」は、風景画の典型のようでした。画面の7割は水平線上の大空が広がり、その下に、画幅いっぱいに広がる川幅。手前の岸辺に牛が群がって佇み、川には漁師たちの活動する船が数隻浮かんでいます。川を航行する帆船が水平線に向って点在するという風景です。 オランダの画家、ヤン・ハッカールト 「イタリア的な風景」 17世紀のオランダの画家が、この風景をイタリア的とイメージしていることに興味を抱き、撮りました。「このようなイタリア的な風景画は、実際にイタリアを訪れたことがない画家たちによっても描かれた」(図録より)そうです。これって、水墨画において、日本の画家が中国的な山水画を描いたことと通じるところがあるように感じます。 カナレット(ジョヴァンニ・アントニオ・カナル 「ヴェネチア、サン=マルコ広場」ヴェネチアの画家が描いたサン・マルコ広場 1732ー33年頃ヴェネチアに旅行した時、サン・マルコ広場を訪れました。広場は一部浸水していた記憶があります。思い出とのつながりで、この絵を撮りました。18世紀半ばには、そういうことは全くなかった。想像すらできなかったことでしょうね。左側の奥の運河の側から、手前のサン・マルコ大聖堂に歩んだと記憶しています。この絵の視点からサン・マルコ広場を見ることはなかったように思います。1.5「静物画」は、当時のランク付けでは最下位になります。歴史画の中においては、風景が単なる絵の背景であり、人物の近くに置かれた果物や器、花などの「静物」は装飾に過ぎないという認識だったのでしょう。このセクションでは、花瓶に盛られた花々の絵や、花と果物の組み合わせの絵などが展示されています。17世紀フランスの花の画家、ジャン=バティスト・モノワイエの描いた「花」は、花瓶に盛られた花々を美しく描いていますが、本来なら同時期に咲くことがない花々が一緒に描きこまれているとの事です。それでは、< Part Ⅱ 激動の近現代 ---- 「決まり事」の無い世界 > に移りましょう。産業革命、市民革命、資本主義社会の誕生が、「近代」の始まりとなります。絵画におけるアカデミズムに異議が唱えられ、絵画の世界が激動していきます。アカデミズムの世界における「決まり事」が無くなっていく時代が生み出されて行きます。逆に、私たちの親しんでいる絵画の世界の始まりです。ジャンルの序列が撤廃されて、風俗画、風景画、静物画など、全てが横並びの絵画の世界が始まります。新しい時代の入口を少し、覗いてみます。まず、古代史や神話、聖書の物語などを描いてきた歴史画が変質していきます。中世の歴史や同時代の「事件」「戦争」など、時事的な出来事を描き、記録する。絵の主題として扱われるようになって行きます。 ジョセフ・マラード・ウィリアム・ターナー イギリスの大風景画家「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」 1832年1688年、イギリスの名誉革命の際、オランダ総督オラニエ公ウィレム3世(1650-1702) はイギリス議会に招請されました。ユトレヒトシティ64号は、ウィレム3世がイギリスへ向けて出航した艦隊の先導艦の名前だそうです。ウィレム3世は、妻メアリ2世とともに共同統治者ウィリアム3世としてイングランド王に即位し『権利章典』が定められ近代議会政治の基礎が確立します。その始まりを導くのが、この艦隊の出航というわけです。ターナーが「歴史的海景画」を描いた作品です。加えて、この絵は、かなり正確に17世紀の船を再現して描いている点が、称賛される要因の一つになっていると言います。 ウジェーヌ・ドラクロア 「手綱を持つチェルケス人」 1858年頃ドラクロアはフランス・ロマン主義の代表的画家。「チェルケス人はヨーロッパとアジアの境といわれるカフカス山脈の麓、北カフカス地方の黒海沿岸に住む民族で、中世には奴隷として多くの人々がイスラム諸国へ流出し、マムルーク(奴隷軍人)としてカイロのマムルーク王朝に仕えた」(図録より)そうです。この辺りで、一区切りとします。つづくご覧いただきありがとうございます。観照 京都市京セラ美術館 「西洋絵画 400年の旅」展 -2 Part 2 へ
2026.04.26
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京阪電車の三条駅で降りて、地下道で御池大橋への出口に向かいます。地上に出ますと、川端通の歩道のツツジがほぼ満開でした。左の標識に「13」という数字が見えます。「そすいさんぽ 琵琶湖まで 13km」という標識です。琵琶湖疎水沿いの遊歩道のところどころにこの標識が設置されています。 川端通沿いの遊歩道 北方向の景色 御池大橋方向の眺め川端通の横断歩道を渡り、東側の歩道から少し北へ。仁王門通に右折して東へ。 仁王門通の南側(北門前町)に寂光寺があります。その築地塀の前にもツツジが。天正の頃、寂光寺には、開山日淵上人の法弟で日海と称する囲碁に優れた僧が塔頭本因坊に住んでいたそうです。世に「本因坊」と呼ばれた僧です。本因坊算砂(さんさ)です。境内墓地には、本因坊算砂を筆頭に、二世~五世の墓があります。 東大路通を横断し、岡崎の琵琶湖疎水端に至る手前、歩道と車道の境界にもツツジが見られます。 東方向 北方向疎水沿いの桜の花は既に散り去りて、青葉一色になっています。 平安神宮に向う神宮道、疎水に架かる慶流橋上から、東方向の眺め。岡崎通の広道橋が見えますが、こちらも緑一色。疎水端には静けさが戻ってきたようです。神宮道の通りには、平日ですがけっこうな数の観光客が往来しています。疎水の左側が、京都市京セラ美術館。久しぶりにこの美術館内にはいります。この日は、当美術館内で開催中の2つの展覧会の鑑賞に出かけてきました。別稿としてまとめて、ご紹介します。鑑賞後には、白川沿いの道を使い、京阪三条に戻ることにしました。歩道沿いにも、ツツジが満開になっている箇所が2か所ありました。蹴上の方向に行けば、もっとツツジがみられるのですが・・・・・・。方向が違うので、断念しました。京の町中に今、咲く、ツツジを記録しておきます。ご覧いただきありがとうございます。参照資料『昭和京都名所圖會 2 洛東ー下』 竹村俊則著 駸々堂
2026.04.24
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青龍殿から再び将軍塚道の入口に戻ります。ここからは、「粟田口(あわたぐち)」に下っていきます。こちらの山道は「京都一周トレイル」の東山ルートの一部になっています。 上掲の道標に至る少し手前で、青龍殿の大舞台直下の山道を回って行くことになります。山道をルート通りに下って行きますと、 尊勝院の入口に至ります。 本堂尊勝院の歴史は古く、もとは1136年に陽範阿闍梨が比叡山横川の地に、尊勝坊(院)を創建されたのが始まりで、僧行観の代に、現在地に別院としての堂宇が営まれたそうです。応仁の乱での罹災後に荒廃し、慶長年間(1596ー1616)に豊臣秀頼により本堂が再建されたと言います。天台宗で青蓮院に属するお寺です。堂内には、本尊として元三大師像が安置されています。併せて、元三条白川橋畔にあった金蔵寺の遺仏の地蔵菩薩像(俗に、米(よね)地蔵の通称あり)と庚申三猿像が併せて祀られています。(資料1) 振り返って眺めた景色境内地を通り抜けることになります。この辺りから、住宅地になっています。道沿いに下って行けば、粟田小学校の南側の道路に出ます。 そこで振り返った坂道の景色。「元三大師」の道標が尊勝院への目印になります。三条通に出ると観光客等が多いので、三条通より一筋南側の通りを利用して、三条大橋東詰に向います。この途中経路は省略します。最終的には京阪電車の三条駅に戻ってきますので、三条大橋からは、まず高瀬川沿いの桜を眺めに行きます。 「史蹟 高瀬川一之舩入跡」の石標が設置されています。「舩」は旧字で「船」です。この「舩」という旧字は、祇園祭の時に、船鉾に行きますと、この旧字が提灯に墨書されています。 高瀬川に架けられた北側の橋から南を眺めた高瀬川。高瀬川を往来した「高瀬舟」が繋いであります。この橋の右側(西側)には現在は日本銀行京都支店があります。そして、かつてこの辺りが「高瀬川開鑿者 角倉氏邸址」になります。手元の資料によれば、「元和元年(1615)に角倉玄子が淀川過書船支配及び高瀬舟兼務の代官に任じられ、二条河原町に面した役宅が構えられた。寛文9年(1669)からは竹材を含むお土居の管理も角倉与一の歴代が任された」のです。(資料2)玄子とは角倉了以の子・与一です。父・角倉了以は、大阪冬の陣があった慶長19年7月12日に61歳で没しました。「明治2年3月に、角倉家の高瀬船支配は罷免され、同年8月に、府土木課に移管された」と言います。 (資料2) 一筋南の橋から眺めた高瀬川と桜 橋の上で振り返えった高瀬川・南方向の眺めこの後、高瀬川沿いに、桜を眺めつつ三条通まで戻ります。 三条通を横断し、少し南に下がったところ。高瀬川の西側にみえるのはお地蔵さまを祀るお堂です。 地蔵堂傍の橋上から眺めた桜 この辺りで、鴨川の三条大橋に戻ります。鴨川沿いの今年の桜も、花が散る前に眺めておきたいので。 鴨川のすぐ西側が、先斗町(ぽんとちょう)通です。先斗町通の東側に立つ建物群。石垣のすぐ傍が、「みそそぎ川」です。夏になると、川床が仮設され、川の上に張り出されます。1か所、桜が満開でした。ご紹介兼記録をまとめることができた今は、はやツツジが満開に咲く時季になっています。ご一読ありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛東ー下』 竹村俊則著 駸々堂 p31-322)『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p160
2026.04.20
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西展望台の階段を上る途中で、桜の木々の向こうに見える青龍殿の屋根です。 足元近くを眺めると、西展望台に続く庭園への庭門と小径が見えます。 展望台を登り切って、眺めた青龍殿 上から眺めた将軍塚。円墳の形です。桜の花が将軍塚の周囲を華やかにしています。もう今頃はかなり葉桜になっていることでしょう。 西方向を眺めた京都市内の眺望 展望台階段の踊り場から展望台の舞台に進みます。ここから京都市内西方向の景色が一望できます。 南西方向を眺めますと、京都タワーがランドマークとしてはっきりと見えます。 足下の桜 こちらの舞台はひな壇状で、坐って展望できる空間です。 中央部の高い位置から西側を眺めた全景です。 ふり返って、将軍塚を見下ろした景色西展望台を降りた後は、上掲の庭門を通り抜け、青龍殿庭園を散策します。 回遊路庭園内の小径沿いに庭園を眺めつつ、大日堂の近くに戻ります。 左に設置された石標には「琴線響魂」と刻されています。 一弦琴を連想させる幾枚もの平石を伝って下ってくる一筋の水が方形の水鉢に流れ落ちています。散り桜はゆったりと流され、水鉢の縁に集まったかのような趣です。拝観受付所でいただいたリーフレットには、「青龍殿庭園は回遊式庭園に枯山水庭園を取り込み、室町時代、すなわち日本庭園が技術的にも芸術的にも最も優れた時代の手法を用いて作庭されたもので、一見して作庭者の企図とする着想が庭の隅々まであふれている野心作です」と説明されています。 小径は建仁寺垣と生垣に沿い、次の庭景色に導いていきます。 生垣傍に立つ織部灯籠 反対側の生垣傍にも石灯籠 あまり見かけないずんぐりとした形の石灯籠が置かれています。庭園の散策路ですので、要所要所に様々な形の石灯籠が配置されています。 回遊式庭園ですので、小径の先に、東屋があります。 東屋でひと休みしながら、将軍塚を遠望できます。借景庭園になっています。 森の小径を散策するという風情でしょうか。」 庭園の小径が石畳の延段に変わり、庭園の雰囲気が変わります。その一隅に大きな石碑が建てられています。近くで見ますと「大隈重信侯 手植松」と刻されています。 これはその手前の駒札を拡大してみました。 石仏・石塔などが庭園の一隅に集められて、庭景色の一部になっています。庭園の出口に近い、最後のところに枯山水庭園が作庭されています。逆方向に散策するなら、ここが最初の庭になります。「庭園には、紅葉(約220本)、桜(約200本)、源平垂れ桜、藤、シャクナゲ、サツキ等が植えられ、特に紅葉、桜の名所となっています」とリーフレットに記されています。秋季と春季には、ライトアップも催されるそうです。四季折々の景色の変化を楽しめる庭園です。これでご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*拝観の折にいただいたリーフレット「青龍殿「大舞台」と「将軍塚」のご案内補遺天台宗 青蓮院門跡 ホームページ02435_将軍塚絵巻 :「東京文化財研究所」 インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)付記この後、将軍塚道を、粟田口に下る経路を歩み、三条経由で鴨川沿いと高瀬川沿いの桜を眺めに行きました。別稿としてまとめて、ご紹介します。探訪&観照 京都 「青龍殿・大舞台」と「将軍塚」 ー1 へ
2026.04.19
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将軍塚道を登り、舗装道路に出たところで、左方向を眺めると、山門が見えます。将軍塚と大舞台があるところです。あることは知っていましたが、将軍塚に幾度か来ながら訪れたことはありませんでした。冒頭の山門には、「青蓮院門跡」の木札が掲げてあります。 左側から境内地に入ります。山道では桜の木をほとんど見かけませんでしたが、ここで再び満開の桜を見られました。 その先の生垣傍に、「将軍塚」の名所案内駒札が設置されています。後ほど、改めて触れます。 こんな石碑が建立されていますが、不詳。 「大日堂」の額を掲げたお堂があります。このお堂は入れないようです。そんな雰囲気。ここの拝観受付所で手続きをして、右手の方向に境内を進みます。 参道を進めば、「青龍殿」に至ります。その前を通り過ぎてその先に行けば、将軍塚です。しかし、参観順路は、青龍殿 ⇒ 大舞台 ⇒ 将軍塚 ⇒ 西展望台 ⇒ 庭園 という経路になっています。 正面入口の上部に「青龍殿」の額が掲げてあります。 入口に立ち、振り返った前庭の景色 石灯籠から少し離れた左の方にこの石標が設置されています。「活私奉公」と判読。「滅私奉公」のアンチテーゼと受け止めました。おもしろい。 石灯籠の右に置かれた大岩の右側には、この石板が設置されています。 「花は色 人は心」と刻されています。堂内は撮影禁止です。この青龍殿は、もとは京都北野天満宮前に、大正天皇の即位(1913年)を記念して、「武徳殿」(略称)が建立されました。その建物が閉鎖・解体処分されることになりました。平成21年(2009)に青蓮院がその歴史的文化遺産の継承を決意し、「青龍殿」として、この地に移築再建したそうです。平成26年(2014)10月に完成しました。この時、内陣部分を新築されています。、 当日の拝観券 右に描かれた図が、国宝「絹本着色 青不動明王二童子像」の部分図です。ご神体の色が青黒(しょうこく)なことから通称「青不動」と呼ばれる図像です。この国宝「青不動」が、この青龍殿の奥殿、つまり新築された内陣に安置されているようです。その手前に、精巧に製作された複製が祀られています。秘仏像とお前立像との関係のような位置づけなのでしょう。 将軍塚清涼殿サイトの「国宝としての青不動」のページをご覧ください。 詳細な説明が開示されています。青不動図像に向って、左側に石仏が安置されています。大日如来坐像だそうです。上掲の「将軍塚」駒札は、「青龍殿に安置する本尊大日如来像は付近の山中から発見された花頂院の遺仏と伝えられる」と説明しています。 青龍殿を出た後、この建物の右側面から「大舞台」に入ります。 こんな感じで舞台が見えてきます。まずは、北東隅まで直進します。 大舞台・北東隅からの背龍殿全景青龍殿を眺めた景色。手前(北側)の部分が新築された内陣部分なのでしょう。京都市内を一望できる木造大舞台が新設されたのです。清水寺の舞台の4.6倍の広さ(延面積:1046㎡)だそうです。京都の新名所になっています。 大舞台・北東隅からの眺望高欄沿いに西に進みつつ、京都市内の眺望を撮ってみました。 中ほどで、北方向の景色 その位置から西方向を眺めた眺望 麓の建物をクローズアップ。多分、知恩院の境内の一部だろうと思います。 高欄沿いに西側に移り、青龍殿の西側を通り抜けて行きます。 「将軍塚」の駒札が設置されています。 東郷元帥お手植えの松を示す石柱があります。約20m四方の大きさの塚です。そこで、最初に掲載した「将軍塚」案内駒札の説明をご紹介します。「794年、桓武天皇が平安京造営に際し、王城鎮護のため、高さ8尺(約2.1m)の像に甲冑を着せ、弓矢と太刀を持たせ、京都御所の方を向けて埋めるように命じた塚であると伝えられている。 平安末期以後、天下に異変があるときは必ずこの塚が鳴動して前兆を表わすという伝説が生まれ、『源平盛衰記』によると、源頼朝挙兵の前年、治承3年(1179)7月には、3度にわたってこの塚が鳴動し、次いで間もなく大地震が起こったといわれる。 『鳥獣戯画』で有名な鳥羽僧正筆の『将軍塚縁起絵巻』に、この像を埋める図が残されている」 (駒札より転記) 将軍塚を反時計回りに回り込んでいきます。 桜の木の背後に、西展望台が見えます。こちらは鉄骨・鉄筋コンクリート構造の展望台です。西展望台に上ります。つづく参照資料*拝観の折にいただいたリーフレット「青龍殿「大舞台」と「将軍塚」のご案内*京都市作製の駒札「将軍塚」補遺天台宗 青蓮院門跡 ホームページ 国宝「青不動」を青龍殿奥殿に安置将軍塚 :ウィキペディア将軍塚・京都市営展望台 :「ニッポン旅マガジン」東山山頂公園 :「京都ガイド」 インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 「青龍殿・大舞台」と「将軍塚」 ー2 へ
2026.04.18
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4月6日に円山公園の桜を眺めに行きました。緩やかな斜面を、桜を眺めつつ公園内を東方向に上って行きました。その折の桜見物は一週間余前にご紹介しました。実は、あの後、ノートパソコンのバッテリー交換が必要となり、交換作業に出していました。昨日(4/15)の午後に配送されてきました。やっとブログに復帰です。桜の景色の出てこない内容を、記録を兼ねて、ご紹介します。石標を見た思いつきから、行先を即座に変更し、円山公園側から「将軍塚」に山道歩きをしたという次第。当初は、知恩院の三門辺りを眺めたら、川端通から、三条に出て、高瀬川の桜を眺めて帰ろうかくらいの心つもりだったのです。それが思わぬ低山登りに急転しました。円山公園のほぼ東端の桜を見た後、その先に石段があるので、ちょっと上って行きました。すると、高台に開平された広場の北方向の先にお堂らしき建物が見えます。高台に咲く数本の桜を見ながら、近づいていくと、まず目にとまったのが、冒頭の石標。「大聖歓喜天尊」と刻されています。 その先にお堂が見えます。参道があり、自由に行けるようですので、勿論お堂へ。 一石五輪塔 お堂には、「円山聖天堂」の木札が向拝の柱に掲げてあります。「大聖歓喜天」と墨書した提灯が正面に吊るされています。歓喜天尊を祀るお堂です。円山安養寺の東方向に位置します。 参道を少し引き返すと、山道があり、「将軍塚道」の道標が目にとまりました。せっかくだから、将軍塚まで上り、粟田口側に降りるか・・・・。一人歩きの気軽さ。山道を登ることに即決。観光客が来ることもまあないし、静かに登れるだろう・・・と。山道を下ってくる人、数人とすれ違っただけになりました。山道の先には、 まず、知恩院口に下る道との分岐点がありまます。 案内図が設置されています。さらに先には 山道の脇にお地蔵さまが安置されています。 分岐点に石仏群が見え、道標が設置されています。 「左 蛍の窟 三町 知恩院 四町」と刻されています。 木製の道標も設置されています。 「菊渓谷頭」と刻され、知恩院と菊渓への分岐点に木製道標が設置されています。私は菊渓の方向は未訪です。 さらに、「東山山頂公園」つまり、将軍塚への道を登ると、この分岐点に至ります。 山頂まではあと少し。 東山山頂公園への道路に出る手前に、「粟田口」に向かう道との分岐点があります。ここに、「京都一周トレイル 東山コース」の道標が建てられています。山道の一部は東山コースのトレイルにもなっているのです。山道を登りきると、 幅の広い舗装道路に出ます。 こちら、南方向に進めば、東山山頂公園です。 舗装道路への出入口に、小さめの「粟田口 知恩院」と表示した道標と、京都一周トレイルの道標が建てられています。 その近くに設置されているのが、このマップです。舗装道路の反対方向にあるのが、「青蓮院将軍塚大日堂」です。この大日堂への山門までは幾度か来ています。しかし、拝観は未訪でしたので、こちらを探訪することにしました。一旦、ここで区切りとします。「青蓮院将軍塚大日堂」で眺めた桜、将軍塚、展望台からの景色などは、稿を改めてご紹介します。ご覧いただきありがとうございます。
2026.04.16
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昨日(4/6)午後、やはり円山公園の桜をちょっと眺めておこうと、出かけてきました。四条通は月曜日ですが、数多くの観光客で混雑していました。久々に四条通を八坂神社の西楼門に向って東方向に歩きました。西欧人の観光客で、着物を着て歩いている人の数が増えていることに気づきました。東洋系の観光客で着物姿の人は以前から結構見かけていましたが、西欧人はたまに見かけるくらいでした。昨日はちょと目につきました。着物を着てみたいという西欧人が増える傾向にあるのかも・・・・。冒頭の写真は、四条通の東端に位置する、八坂神社西楼門の両脇に鎮座する「随身(ずいしん)像」です。観光客で一杯なので、この随身像だけ撮りました。 本殿を南東側から遠景で 本殿の東側に境内社が並んでいます。本殿と同様に、境内社も正面から社殿の写真禁止の掲示がそれぞれに設置されています。なんだかますます、神域のおおらかさがなくなるように感じます。しかたがないので、ここも遠景だけに。境内社のご紹介の気が失せました。次の石灯籠はOKのようですのでご紹介。この案内掲示、以前にもあったかな・・・・記憶は不確か。見た目はまだ新しそう。 南端の境内社の傍に、御神水が注がれています。 その右(南)側に、この「祇園社青龍石柱」が奉納されていました。これは確実に初めて見る建造物です。「奉納 令和七年十月吉日」という銘板が正面の左側に嵌め込まれています。昨年(2025) に造立されたばかりです。「御本殿下の龍穴に湧く神水と祇園祭発症の地であります新泉苑の閼伽水から生まれた青龍神水によるミストです」と記された案内銘板が正面右側に嵌め込まれています。青龍石柱に近づきますと、龍口からミストがやわらかく吹き出ていました。石柱の傍から東方向に通り抜け、円山公園に向います。境内を抜けた後、すぐ左(北)側の広場で撮りました。ここには茶店があるので、結構混雑状態でした。人を撮らずに桜を撮るのは苦労します。満開を過ぎようとしている感じ・・・・。 円山公園中央にある瓢箪池に向います。 瓢箪池前の南北方向の道路手前に、円山公園のしだれ桜があります。それがこの景色。かつての記憶にあるしだれ桜からはちょっと寂しい気がしました。 池畔にある時計台傍の桜 瓢箪池に架かる石橋上から北方向の眺め ふり返って、南方向の眺め。こちら側には桜はほとんどなし。公園内の桜を眺めつつ、東に進みます。 坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像 銅像付近で撮った西方向の眺め 葉桜になり始めている木もかなり見ました。さらに、東の端まで進んでみることにしました。 「夢」と刻した岩が建立されているのが目にとまりました。 その傍の、料亭かと思える建物傍で目に留まった石灯籠。雪見灯篭の変型でしょうか。もう少し上に行けそうですので、東方向にさらに進みます。1954この辺りが、円山公園の桜の花を見られる東端になるようです。これで、公園散策での桜の花のご紹介を一区切りと致します。この後、別稿として続けます。ご覧いただきありがとうございます。補遺八坂神社 ホームページ円山公園 :「京都市情報館」円山公園 :「京都観光Navi」 インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.04.07
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禅堂と西隣りの祖師堂の間には、北側の寺地とを仕切る築地塀があります。 以前から不思議に思っているのですが、ここの築地塀だけに、砕石が塗り込まれています。 なぜかは不詳・・・・。 回廊から離れ、少し南から、「祖師堂」の全景を撮りました。 祖師堂とその西側の鼓楼との間に見えるこの築地塀と対比していただくとわかります。 築地塀の傍から見える北側の建物。山内案内図の「潜修禅」のようです。詳細不詳。 正面入口の上部に「祖師堂」の額が掲げてあります。祖師堂は、寛文9年(1669)の建立。桁行3間、梁行3間、前面一間通り吹放ちですので、堂内の奥行は2間になります。 堂内の中央奥に、厨子が置かれ、達磨大師坐像が安置されています。禅を初めて中国に伝えた禅宗第一祖。つまり祖師です。 達磨大師坐像は范道生作。寛文3年(1663)に造立された木像で、当初は体全体に金色が施されていたそうです。今では、下地の朱漆色が目立ち、金色は部分的に残る姿になっています。 このお堂には、祖師像を安置する厨子の左右に、黄檗宗の開山隠元禅師から歴代管長の位牌が祀られています。 「本山歴代一覧表」が正面右側の腰板のところに掲示されています。 祖師堂前から南を眺めると、石條(参道)が真っすぐに延び、南側には伽藍堂が見えます。伽藍の配置としては、祖師堂と伽藍堂が対置されています。 祖師堂の西側に「鼓楼」があります。 鼓楼は、延宝7年(1679)の建立。重層入母屋造、本瓦葺。二階の四周に縁と勾欄を巡らしてあります。勾欄には逆蓮柱が使われています。南の回廊にある鐘楼と相対する位置にあります。「朝5時開静、夜9時の閉枕に大鐘と太鼓をもって、時刻と消灯、本山の大衆に起居動作の始終を知らせています。また賓客来山のときに鐘鼓交鳴して歓迎をあらわします」(資料1)という使い方をするそうです。 回廊の分岐点で、天王堂前を通り、南の回廊に行く方向を眺めた景色こちらは鼓楼傍から、左折して進むルートです。逆に、右折していくと、回廊に吊るされた「合山鐘(がっさんしょう)」、右側に「石碑亭」「寿蔵」、左側に「中和井」と庭を眺めつつ、「開山堂」に至る回廊を歩むことになります。今回は、この経路を行かず、天王殿前の石條(参道)に戻り、通玄門から開山堂に行きました。 開山堂の寺域は白亜の築地塀で囲まれ、石條が門に向って一直線に延びています。 通玄門寛文5年(1665)建立。四脚門で切妻造、本瓦葺。門の柱は円柱です。この門が重要な結界の一つになるため、円柱がつかわれているとか。 「通玄門」は「奥深く玄妙なる真理=仏祖の位に通達する門」を意味します。(資料1)門に向い、右側に「中和門院御宮跡」と刻された石標が建てられています。後陽成帝の女御で、後水尾法皇の生母である中和門院前子の屋敷跡(大和田御殿)がこのあたりにあったのです。上記の中和井(ちゅうわせい)はその屋敷で日常使われていた井戸だったそうです。萬福寺が創建される時、近衛家所領の一部を幕府から下賜されていることを示す史跡と言えます。(資料1) 門をくぐると、幅の広い「氷裂文の石畳」(参道)がお堂に導きます。形が異なる平石が実に巧みに精妙に敷き詰められています。同じ形の石は全くないそうです。(資料1) 開山堂は延宝3年(1675)建立。大雄宝殿と同じ卍の勾欄が使われています。屋根は重層で、入母屋造、本瓦葺。上層正面に費隠書「瞎驢眼」の額、下層正面に木庵書「開山堂」の額が掲げてあります。正面の半扉は「桃戸」です。魔除けとされる桃の実の彫刻が施されています。 前面の垂れ幕中央にも桃の実が象られています。 堂内最奥に、隠元禅師の椅坐像が安置されています。范道生作。寛文3年(1663)に造立された木像で、禅師の生前に古希を祝して造られた寿像だそうです。(資料1) 開山堂正面の拝所から東方向の回廊を眺めた景色このお堂も、蛇腹天井の形式が使われています。回廊は真っ直ぐの垂木を使った切妻屋根の形式です。 西に見える回廊の端に、小さな鐘が吊るされています。屋外の鳴物としての鐘の設置に気づいたのはここだけです。他にもあるかもしれません。 開山堂の白壁の塀で囲まれた区域の西側に「松陰堂」があります。もとは隠元禅師が本山住持を退かれる際、禅師が過ごされる建物として、寛文3年(1663)に建立されたそうですが、禅師示寂後に客殿に改築され、元禄7年(1694)に現在地に移転・増築という形で再建されました。(資料1) ここにも円窓が。書院造の和風建物です。この門は、建物の庭に直接入れるようです。 開山堂の前庭も砕石が敷き詰められただけの空間です。熊手で筋目が付けられています。目に留まったのが竹製の蓋をしたこの場所。これ何? 不詳のままです。最後に、次の1点だけ加えます。総門を出て、前の道路の反対側に、ま新しい碑が建立されています。気づいたのは昨年です。 「隠元禅師種茶之碑」と刻された顕彰碑特徴的なのは、この碑が亀趺(きふ)の形式で造立されていることです。 碑の上部には龍像が彫刻され、 石碑の台石に大きな亀の形が使われていることです。想像上の大亀なのでしょう。一部スキップしましたが、これで今回の萬福寺探訪を終わります。ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料*『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社*『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫1)『最新版フォトガイドマンプクジ 黄檗山萬福寺』 黄檗山萬福寺 発行補遺黄檗宗大本山萬福寺 ホームページ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -1 総門・放生池畔の桜・三門 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -2 三門、菩提樹、八幡宮祠堂、天王殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -3 鐘楼、聯燈堂、賣茶堂、伽藍堂、斎堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -4 大雄寶殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -5 回廊、法堂、慈光堂、宝篋印塔、禅堂 へ
2026.04.05
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大雄宝殿から、少し引き返し、回廊に戻り、左折して回廊を東に法堂に向います。 回廊から少し外れますが、途中に、西面する「双鶴亭」があります。 双鶴亭前の通路から、回廊越しに大雄宝殿の側面を眺めた景色です。 大雄宝殿の東面から、正面に「法堂」を眺めた景色法堂正面の石段の幅に合わせて、石條(参道)の幅が広がっています。正面をズームアップして見ますと、法堂の扉の上部に「獅子吼」の額が掲げてあります。費隠の筆です。費隠は中国黄檗山萬福寺の禅僧で、隠元禅師の師にあたる僧です。獅子吼は、百獣の王である獅子が一度咆哮すれば、百獣すべてが従うことにたとえた言葉です。 回廊から眺めた法堂(はっとう)法堂は桁行5間、梁行六間です。こちらも前面一間通り吹放ちです。単層、屋根は入母屋造で桟瓦葺です。正面は通路になっています。勾欄には「卍崩し」と称される独特の木組みが用いられています。後掲の案内文では、中国様式をあらわしているそうです。 回廊に長椅子が置かれています。目に留まったのがこの背板の部分のデザインです。中央は三葉葵紋、つまり徳川家の紋で不思議ではないのですが、その左右の意匠は王冠の意匠のように見えます。これは何を意味しているのでしょう・・・・。 北方向に目を転じますと、大雄宝殿と法堂との間は、砕石を敷き詰めた庭(空間)で、熊手で筋目が整然と描かれています。日常の修行、作務の一環なのでしょう。北側の廻廊の先に見える屋根は、案内図によれば「慈光堂」です。 その先に、石段があり、その上は、「東方丈」の入口です。通常、閉まっているようです。左折して、法堂に向います。 回廊の壁面に円窓が設けてあります。 法堂正面 法堂の案内が掲示されています。法堂の内部は拝見できません。閉まっています。説法を行う時以外に、「上堂や住持の晋山式などに使われます」(資料1) 一間通り吹放ちの通路部分で見上げますと、軒下の垂木が円弧を描いたアーチ形になっています。普通、地垂木は真っすぐです。この特徴的な形は、蛇腹天井とも称されています。石條(参道)の意匠が、龍の背の鱗をモチーフとするのに対して、こちらは龍の腹を現わしているそうです。「檐廊(えんろう)」と呼ぶとか。(資料1) 梁の上の木組みの形もおもしろい。 法堂側から 回廊側の眺め正面が西方丈の玄関の間です。普段は戸が閉まっています。回廊の屋根裏は、普通の真っすぐな垂木です。 法堂の北側の廻廊に繋がる箇所を回廊の石段付近から撮りました。ここにも、巡照版が柱に吊るしてあります。毎日打たれているのでしょう。中央部が凹んでいます。背後の板塀には、「西方丈」の案内が掲示されています。 その近くに、今回の案内板(国際交流芸術展)が設置されています。 (ここで展示内容等には触れません)その左側には、「黄檗山威徳殿徳川家歴代尊霊霊牌」一覧表が掲示されています。こちらは常設の案内掲示です。威徳殿は、法堂背後の山の中腹に位置しています。今回初めて気づいた点があります。天王殿・大雄宝殿・法堂は東西軸の一直線に伽藍が配置されています。各お堂は西面しています。それにも関わらず、法堂の左右に位置する2つの方丈は、北側が西方丈、南側が東方丈と称されているのです。今まで意識していませんでした。この呼称はなぜなのでしょう。中国黄檗山萬福寺での名称を踏襲したということでしょうか。私にはちょっと不可思議・・・・。今回、初めて西方丈内を拝見した後で、このブログ記事をまとめていて、意識した次第。 北側の廻廊から南の眺め冒頭に載せた「双鶴亭」の屋根が南回廊の向こうに見えます。回廊のこの辺りだけ、回廊に白壁が境界として設けてあります。丁度正面辺りに、上掲した長椅子が置かれています。 ふり返りますと、北方向に通路があり、その先に南側の廻廊から見えた「慈光堂」が見えます。回廊に「納骨堂」の額が掲げてあります。以前のブログ記事で記したことを一部再掲します。慈光堂は「延宝3年(1675)に建立されたお堂で、一般信徒の位牌を納め、永代供養する場所になっています。隠元禅師300年遠諱のときに納骨堂が併設されたそうです。納骨堂の額が掲げてあるのはこれに由来するのでしょう。宗旨を問わず納骨を受け付けている」と言います。(拙ブログ記事 2022.1.16) 慈光堂の西側には、宝篋印塔が建立されています。 石塔前に近づきますと、塔身の正面に「怨親平等(おんしんびょうどう)」と刻されています。インドのグプタ朝時代に、釈迦の伝記(ブッダチャリタ)が作られ、『仏所行讚』として漢訳されたそうです。釈迦の御遺告の中に、この語句が出て来ると言います。「怨敵と親しい者とを平等にみる」という意味だそうです。(上掲拙ブログ記事より) 北側回廊から、大雄宝殿に立ち寄ってみました。前面の一間通り吹放ちの空間、つまり通路部分の上をあらためて見上げますと、法堂と同じ形式の蛇腹天井が見えます。 大雄宝殿前の月台にも、法堂前と同様に砕石が敷かれていて、こちらも熊手で筋目が整然と描かれています。南側回廊沿いに、左から斎堂、伽藍堂、鐘楼の伽藍が列をなしている景色が見えます。 大雄宝殿の北西側から眺めた禅堂です。禅堂に向います。禅堂も桁行5間・梁行六間、前面一間通り吹き放ちで単層、入母屋造、本瓦葺です。 禅堂に向かう回廊 禅堂の手前の柱に、「黄檗専門道場」の木札が掛けてあります。禅堂についての案内掲示板の傍にも、巡照版が吊り下げてあります。山内の5ヵ所に、巡照版が設置されているそうです。(資料1) 禅堂の入口の扉の左右の柱には、聯が掛けてあります。 入口の扉の上には、「選佛場」の額が掲げてあります。隠元禅師の筆によります。禅堂の扉は閉められ、木札「止静」が吊り下げられています。修行中のために御静かに! 静謐さを求められる場所です。この禅堂(坐禅をする所)、斎堂(食堂)、浴場の3箇所は、三黙道場と称されます。沈黙が必須の場所です。禅堂の西にある伽藍に進みます。つづく参照資料*『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社*『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫1)『最新版フォトガイドマンプクジ 黄檗山萬福寺』 黄檗山萬福寺 発行補遺黄檗宗大本山萬福寺 ホームページブツダチャリタ :ウィキペディア佛所行讃 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -1 総門・放生池畔の桜・三門 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -2 三門、菩提樹、八幡宮祠堂、天王殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -3 鐘楼、聯燈堂、賣茶堂、伽藍堂、斎堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -4 大雄寶殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -6 祖師堂、鐘楼、開山堂ほか へ
2026.04.04
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あらためて「大雄寶殿」の正面を冒頭に載せます。天王殿側から撮った景色です。まず、外観を眺めておきましょう。二重屋根の正面の間に、「大雄寶殿」の額が掲げてあります。額字は開山隠元禅師筆。(以下、旧字の寶を宝で表記します)大雄宝殿は寛文8年(1668)に建立されました。伝統的な寺院建築とは一線を画し、「中国明代様式」を保存する建造物です。 法堂側から眺めた大雄宝殿 大雄宝殿の南側面この大雄宝殿は、本堂(仏殿)にあたる建物です。桁行5間、梁間6間ですが、天王殿と同様に、一間通り吹き放ちがあり、回廊と繋がっています。堂内としては梁間5間の規模です。屋根は重層で入母屋造。本瓦葺。 斎堂から左折して回廊を北に歩んできますと、大雄宝殿の南西角に至ります。正面の両端には、白壁に円窓が設けてあります。上掲の写真で解る通り、側面に出入口の扉があります。そして、花頭窓がその隣に。 正面・一間りの通路です。大雄宝殿の正面にも大きな香炉が設置されています。 正面入口の上部に「萬徳尊」の額が掲げてあります。この額字は二代木庵禅師筆。 ふり返ると、月台の先、西方向に天王殿が見えます。両お堂は石條(セキジョウ)で繋がっています。 柱に掛けられた聯の説明文が掲示されています。両柱の内側側面に掛けられた聯の説明文です。 堂内中央部に内陣が設けられ、須弥壇の上に、本尊釈迦如来坐像と迦葉(かしょう)・阿難(あなん)の両脇侍像が安置されています。「中央 釈迦三尊像は、京大仏師兵部作」という説明が上掲円窓の下の案内板に記されています。最も多い三尊形式は、釈迦如来の脇侍に文殊・普賢菩薩を従えます。そこに迦葉・阿難の両尊者を加わえて五尊者に広がります。ここでは、釈迦如来・迦葉・阿難で三尊形式とするところが興味深い。 釈迦如来坐像 迦葉尊者 阿難尊者迦葉(梵名マハーカーシャパ)と阿難(梵名アーナンダ)は、釈迦に教えを受けた高弟・十大弟子の中の二人です。 堂内の一隅に、この宗報号外が掲示されていました。萬福寺の法堂・大雄宝殿・天王殿の三棟が国宝に指定されたことを奉じています。また、二十三棟が国の重要文化財に指定されていることも併せて報じています。南北両壁面沿いに、十八羅漢坐像が安置されています。内陣の周囲を巡りながら像を拝見できます。これらの羅漢坐像は、中国人仏師范道生作です。 南側の壁面前に安置された羅漢像群。羅漢像の尊名は、羅漢名を音写で表記しています。変換困難な漢字が使われていますので、ひらかなで表記します。括弧内は梵名のカタカナ表記です。右端・慶友尊者。その左側・あじた尊者(アジタ)。いんかだ尊者(アンガジャ)右から、あごら尊者(ラーフラ)、じゅはくか尊者(ジーヴァカ) 左が、かりか尊者(カーリカ)右から、なくら尊者(ナクラ)、かなかばりだじゃ尊者(カナカ・バーラドバージャ)そして、びんどらばらだじゃ尊者(ビンドーラ・バラドヴァージャ) 内陣の眺め 内陣の背後の南東隅に吊るされた鐘。どのような場合に使われるのでしょうか。不詳です。案内文はなかったと思います。 法堂側の出入口を挟んで、厨子が設けてあり、数多くの位牌等が安置されています。 堂内を北壁側に回り込みます。右から、かなかばっさ尊者(カナカヴァッツア)、すびんだ尊者(スビンダ)右から、ばつだら尊者(バドラ)、じゅばらじゃほつたら尊者(ヴァジラプトラ) 虎の木彫像が置かれています。右から2人目・はんたか尊者(ぱんたか)。3人目・なかちな尊者(ナーガセーナ)左手に載せられた碗に、龍が入っています。右から、ばなばし尊者(ヴァナヴァーシン)、ちゅうだはんたか尊者(チューダパンタカ)。つづいて、賓頭盧(びんずる)尊者十八羅漢像が安置されています。萬福寺のホームページの説明によりますと、従来の十六羅漢に二尊者を加えて、「十八羅漢とした明代寺院の形式を受け継いでおり、中国に現存する大雄宝殿と同様」と言います。尚、賓頭盧(びんずる)尊者は上掲のびんどらばらだじゃ尊者と同一と考えられているとも言われています。(資料1)平安時代後期に羅漢信仰が、法華経信仰と密接な関連で始まったようですが、中世以降は禅宗とともに広まりました。禅宗では16人の聖者(羅漢)たちを、修行の過程にある者の姿として尊んだそうです。「十六羅漢」という言葉で知られています。画像に描かれるのがほとんどです。十六羅漢については、玄奘訳『大阿羅漢難提密多羅所説法住記』という経軌に詳しく説かれているそうです。この『法住記』の著者が慶友尊者です。慶友尊者と賓頭盧尊者を加えて十八羅漢と称されます。(資料1)これで堂内を一巡し、拝見したことになります。 黄檗山 山内案内図 (部分図)それでは、回廊を少し戻り、法堂方向に進みましょう。つづく参照資料*『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社*『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫1)『仏尊の事典』 関根俊一編 学研補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ阿羅漢 :ウィキペディア仏像画集 十六羅漢(1/2) :「鹿鳴文庫」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -1 総門・放生池畔の桜・三門 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -2 三門、菩提樹、八幡宮祠堂、天王殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -3 鐘楼、聯燈堂、賣茶堂、伽藍堂、斎堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -5 回廊、法堂、慈光堂、宝篋印塔、禅堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -6 祖師堂、鐘楼、開山堂ほか へ
2026.04.03
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天王殿側から眺めた南側回廊の鐘楼です。天王殿から南に回廊を進みます。 鐘楼 二階建ての建物。厨子に入れた小ぶりな観音立像が机上に安置されています。 鐘楼正面の左側の柱に、この巡照版が吊るしてあります。各所に見られます。朝夕打たれることで、墨書された句が見えづらくなっています。 謹白大衆 (謹んで大衆に白す) 生死事大 (生死は事大にして) 無常迅速 (無常は迅速なり) 各宜醒覚 (各々宜しく醒覚すべし) 慎勿放逸 (慎んで放逸する事勿れ)一山の僧は、いましめの句を声高らかに唱えるそうです。 (2026.4.2 19:00 追記)鐘楼前から東方向に、法堂に至る南側の廻廊が続いています。その前に、鐘楼より東方向を探訪しておきましょう。大王殿前の廻廊を南に進んできた南端を西側から眺めた景色。廻廊屋根の上に見えているのは、上掲鐘楼二階の屋根。その方向に向かうのが、南側の廻廊です。廻廊南端の先に進むと「聯燈堂」があります。 西に目を転じますと、窟門が見えます。手前の石柱は、この先に「賣茶堂」があることを示しています。白亜の漆喰塀の背後に見える建物は、 文華殿 (後で、三門に近いところの窟門から近くまで行きました)門を通り抜け、左折しますとお堂があります。 賣茶堂お堂の前に近づくと、左方向に「賣茶翁顕彰碑」が建立されています。(賣は売の旧字)売茶翁と称されるのは、江戸時代の黄檗僧・月海。煎茶中興の祖です。還俗後は、高遊外とも称した人。肥前蓮池(現在の佐賀市)生まれの人で、本名は柴山元昭。多くの文人らと交流を深めたそうです。伊藤若冲とも交流があり、若冲は売茶翁像を描いています。(参照資料1,2)「享保20年(1735)61歳の頃、東山にはじめての茶亭・通仙亭を構え、煎茶を売って暮らすようになりました」(資料3)売茶堂の北方向、少し離れた通路の角に、「茶具塚」が建立されています。ここから、南側の廻廊に引き返し、東方向に進みます。鐘楼の近くの廻廊から眺めた天王堂。桁行5間、梁間3間。単層。本瓦葺。入母屋造。 天王堂から北東方向に目を転じますと、「大雄宝殿」が見えます。 お堂の前にある「月台」の形がわかりやすい。天王堂側から撮った「伽藍堂」鐘楼の東側「伽藍堂」の正面。萬福寺の伽藍を守護する神を祀るお堂です。「伽藍堂」額は木庵筆。堂内中央に、華光(けこう)菩薩坐像を安置しています。 菩薩像の衣をよく見ますと、龍が描かれています。 龍ー水ー防火というつながりでしょうか。 向って右側には、厨子に安置された坐像が見えます。 頭部を見ると、鳥居を載せ宇賀神がその内側に居るように見えます。 多分、弁才天坐像だろうと推測します。 向って左側には、大黒天像が厨子に安置されています。 その先の廻廊途中に、吊るされた「雲版(うんぱん)」 伽藍堂の東側に「斎堂」があります。 正面に掲げられた額には「禅悦堂」と記されています。その字は木庵筆です。江戸時代に出版された『都名所図会』を読みますと、「食堂(じきどう)」の名称で記載されています。 斎堂の東側で、回廊に吊るされているのは、木魚の原型とされる法具の一つです。 廻廊の柱の一つに、この案内が掲示されています。斎堂の前から、「大雄宝殿」を眺めた景色。開梆の下をくぐった先で左折して、回廊を北に向かうと大雄宝殿に至ります。大雄宝殿の大棟には摩加羅(まから)が置かれています。棟の先端は鬼瓦の形式ですが、よく見ますと、鬼ではなく、奇妙な造形です。摩加羅と照応する形で波頭のイメージを造形しているのでしょうか。鬼板ととらえるべきかもしれません。不詳です。 隅(降)棟と先側の稚児棟には、鬼瓦が見えます。さて、この辺りで、いよいよ大雄宝殿に向います。 境内 部分図つづく参照資料*『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社*『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫*『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社1) 売茶翁 :ウィキペディア2) 売茶翁 日本大百科全書(ニッポニカ) :「JapanKnowledge」3) 売茶翁 レファレンス事例:「レファレンス協同データベース」観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -1 総門・放生池畔の桜・三門 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -2 三門、菩提樹、八幡宮祠堂、天王殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -4 大雄寶殿観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -5 回廊、法堂、慈光堂、宝篋印塔、禅堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -6 祖師堂、鐘楼、開山堂ほか へ
2026.04.02
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三門前にたちますと、左側に船の模型が置かれています。台座の刻字は「隠元禅師寶船」読めそうです。隠元禅師が来日の折の船の模型のようです。 その隣に、記念撮影用の羅漢像パネルが置かれています。三門をくぐると、参道が一直線に延びています。正面に見えるのは、「天王殿」です。天王殿の先に大雄宝殿と法堂が東方向に一直線上に配置され、萬福寺の伽藍の中軸線になっています。参道を歩みながら、北方向を眺めますと、 通玄門と開山堂 隠元禅師が持って来られたとされる菩提樹 八幡宮祠堂 参道右側の木の傍に、「黄檗山 山内案内図」が設置されています。 その先に、正面に「天王殿」の額を掲げたお堂が見えます。天王殿です。天王殿は、明・清代の寺院では仏殿正面に設けられた寺の玄関的な建物です。正面の石段を上った両側の勾欄は、X字型の組子を使った「襷勾欄(たすこうらん)」の意匠が用いられています。 左(北)側の石垣の傍に、宝篋印塔が建立されています。 参道の反対(南)側には、蓮形の手水鉢が細い紐状に水を注いでいて、 その背後には、長方形の池があります。石段を上ります。 天王殿正面 「天王殿」額の左右の柱には聯が掛けてあります。 この形式は他のお堂も同様です。 建物正面前は一間通りの吹き放ちになった空間で、回廊に繋がっています。大きな香炉がこの通りに置かれています。 一間通り・北西側からの天王殿正面の景色。南方向に向かう回廊が先に続きます。天王堂内に入ります。 堂内の中央に、布袋(ほてい)和尚坐像が安置されています。 この布袋和尚像は、弥勒菩薩の化身と考えられています。 ここに布袋さまが祀られていますので、萬福寺は「都七福神まいり」の一寺になっています。 布袋和尚坐像を東側に回り込みますと、 背後には、護法神の韋駄天像の立ち姿を見ることができます。堂内南北二壁面の前に、東西南北の護法神である四天王像が護りを固めています。 北側 多聞天像 広目天像増長天像 持国天像四天王の名称は記されていなかったと思います。像の持物を参考に、方位との関係を当てはめて推測してみました。間違っているかもしれません。(その節にはご教示ください) 大雄宝殿のある東側に出ます。東面には、「威徳荘厳」の額が掲げてあります。即非の筆。 額の左右に掛けられた聯 天王殿の東面から、東方向の「大雄宝殿」(本堂)を眺めた景色三門をくぐって歩いた参道と同じ形式の参道が繋がっています。この参道の中央には正方形の平石が一直線に敷かれ、参道の両側を「石條(セキジョウ)」で挟むという特殊な形式です。萬福寺のホームページでは、「龍の背の鱗をモチーフ化したもの」と説明されています。この「石條」の参道は、総門を起点にしていますので、すぐお気づきになるでしょう。序に、ホームページに記載の次の説明を引用しておきましょう。「中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、黄檗山では大力量の禅僧を龍像にたとえるので、菱形の石の上に立てるのは住持のみです」という不文律があるそうです。建物の手前に石段が設けられた「月台」と称される台状の空間が見えます。ここで、一旦西側の正面に戻ります。 北方向に延びる回廊廻廊の床面には、敷瓦が四半敷(目地45°の角度に並べる方法)で敷き詰められています。この回廊を北に進むと、禅堂・西方丈に向かう回廊との分岐点を経て、回廊に吊り下げられた梵鐘の傍を経由し、開山堂に行くことができます。今は、反対方向の南側に進みます。南側の廻廊を経由し、大雄宝殿に向かうためです。 三門(東面)を眺めた景色次回は、南側の廻廊沿いの探訪です。つづく参照資料*『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社*『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫*『図説 歴史散歩事典』 監修 井上光貞 山川出版社*黄檗宗大本山萬福寺 ホームページ*都七福神まいり ホームページ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -1 総門・放生池畔の桜・三門 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -3 鐘楼、聯燈堂、賣茶堂、伽藍堂、斎堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -4 大雄寶殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -5 回廊、法堂、慈光堂、宝篋印塔、禅堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -6 祖師堂、鐘楼、開山堂ほか へ
2026.04.01
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昨日、日曜日(3/30)に、地元の図書館に行った続きに、黄檗山萬福寺の放生池畔に立ち寄ってきました。週末に一気に桜が開花しましたので。また、22日にも萬福寺に来ていて、この時には三門より奥の境内も探訪しています。ここで併せてまとめてご紹介したと思います。まずは、桜を中心に。冒頭の桜景色は、萬福寺総門前の北側にある同寺の駐車場の東辺、萬福寺の塔頭の庭で開花している桜です。 萬福寺総門 総門に向って右側(南)の築地塀越しに見える桜。八分咲き位に見えます。 総門前の道路を挟み、南西側には、普茶料理の老舗「白雲庵」があります。その門前の桜もほぼ満開でした。それでは、総門を潜って、放生池の畔、築地塀近くに行きましょう。総門を入ると、参道の先に桜の木が見えます。総門を入り、すぐ右側の看門寮と総門の間の通路を右に歩むと、放生池があります。まずは、築地塀の内側で池畔にある桜、上掲の桜をすぐ傍から眺めます。築地塀の外側から眺めた桜をすぐ傍から眺めて この2枚は、3月21日に撮ったもの。放生池の東側、三門まえの池畔の桜の木の開花はまだかなり先か・・・という感じでした。総門前から、参道の先に眺めた桜の木の一つ。参道の右(南)側から眺めています。桜の木の傍に、萬福寺全景の案内図が池の前に設置されています。参道を右折して、三門の方に歩みます。脇道に逸れますが、22日に来た時に初めて気づきました。実に、遅ればせながら・・・。 参道の角にさりげなく置かれたこの銭形の手水鉢に。 今まで幾度もそばを通ながら見過ごしていました。 龍安寺の庭に、蹲として設置されているものと同形です。 そう、中央部の口と合わせて、「吾、唯、足、知」の四文字を読み取れます。放生池の南東側、上掲の三門と池を撮った写真でいえば、池の反対側で右上の位置にあたります。この景色の右端に見えるのが看門寮です。さて、桜見物を一旦終えて、日付は22日に遡ります。三門を入り、その先の境内を再訪しましたので、久しぶりにこの先の境内を再度探訪しました。「国際交流芸術展」が3月18~22日に、宇治市障がい者ART協会主催で開催されるというこのPRチラシを事前に入手していたのがその時の来寺理由でした。黄檗宗大本山萬福寺がその開催に協力されたのです。お陰で、展示会場となった境内にある「西方丈」の建物にも入ることができました。(このチラシを持参しますと、入山料無料で境内を訪れることができました。その点もラッキーでした。)では、次回から境内再探訪をまとめていきたいと思います。 2026.3.22 撮影ご覧いただきありがとうございます。補遺黄檗宗大本山萬福寺 ホームページアートと障害のアーカイヴ・京都 ホームページ一般社団法人 障がい者アート協会 ホームページネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -2 三門、菩提樹、八幡宮祠堂、天王殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -3 鐘楼、聯燈堂、賣茶堂、伽藍堂、斎堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -4 大雄寶殿 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -5 回廊、法堂、慈光堂、宝篋印塔、禅堂 へ観照&探訪 宇治 黄檗宗大本山萬福寺再訪 -6 祖師堂、鐘楼、開山堂ほか へ
2026.03.30
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東大寺二月堂のお水取りの行事が終わりかけた頃から、我が家の庭にも花が咲き始めました。昨日(3/23)撮った写真を、記録を兼ねてまとめてみます。 玄関の手前東側の鉢植えに、沈丁花が咲いています。 玄関口の東側に置いた一鉢には、うつむいたクリスマスローズが咲いています。 指でつまみ、花を持ちあげてみました。 玄関への短いアプローチの通路脇、東側の花壇に、地植えの白い水仙が咲き、 その上に、アーマンディが白い花を開いています。 道路に出る通路の両側、東側の花壇の前に置いたプランターや、西側の駐車スペースとの間に並べた鉢やプランターなど、 あちこちに、ムスカリが点在して咲いています。 リビングの外側、庭に面した所に置かれたプランターに小さな紫の花。これ何の花? と家人に尋ねると、あっさりと、雑草との返事。画像検索する気が失せました。何枚か撮りましたが、うまく撮れなかったのも一因・・・・(笑)西側の敷地境界にも、幅の狭い花壇があります。 西南隅には、ボケ(木瓜)、レンギョウ、水仙が咲いています。南天が赤い実をつけています。 西側の花壇にも、クリスマスローズが俯いて咲き、水仙が適当に離れた位置に咲いています。花々の場所は実に適当な・・・・・。いずれにしても、我が家の庭にも、春が巡ってきました。ご覧いただきありがとうございます。
2026.03.24
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昨日(3/23)、伏見にある檀家寺に行きました。墓参りと彼岸会での供養に出席するためでした。帰路、久しぶりに桓武天皇柏原稜~伏見桃山城~伏見北堀公園の辺りに立ち寄る形で、ウォーキングしつつ帰宅しました。伏見北堀公園で目にした花をいくつか、記録を兼ねて載せます。体育館の傍から、伏見城の北堀の遊歩道沿いに歩き、公園を東方向に通り抜けます。 最初に目に留まったのが、ツルニチニチソウです。花の名前はグーグルの画像検索で見つけました。識別ミスがあるかも知れません。(その節には、ご教示いただけるとうれしいです)この辺りで、昨年はヒガンバナを撮りました。 道路を挟み、反対側には、ツバキの蝦夷錦(エゾニシキ)が咲いています。 そのすぐ近くに、定番のツバキが咲いていて伏見城遺構の北堀が整備され公園になっていますが、北堀の外側から内側の遊歩道に進みます。 北堀の内側の遊歩道に移る手前に、ヤマザクラが咲いていました。遺構としての北堀の一部(西端側)には水を湛えてある箇所があります。北堀を西側から東側に、遊歩道沿いに歩きます。東方向は、空堀で、堀底も歩けます。堀底には小川と遊歩道が整備され休憩所も設けてあります。北堀の上の遊歩道部分は、かつては犬走と称された通路かもしれません。北堀を見下ろしながら進む通路の反対側は石垣で、その上が土塁斜面です。遊歩道沿いには常緑樹が大半です。 画像検索で、ハクモクレンと判断しました。4月になれば、伏見北堀公園に、どのような花が咲くのでしょうか。伏見北堀公園は、「京都一周トレイル」では、伏見稲荷を起点とする東山コースにリンクする「伏見・深草ルート編」での通過地点に組み込まれています。ご覧いただきありがとうございます。補遺【京都一周トレイル®公式】大岩山山頂でほっこり。森の奥にある神聖な鳥居を目指して!(東山コース 伏見・深草ルート編) :「京都観光Naviぷらす」京都一周トレイルとは :「京都観光Navi」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.03.23
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先週、3月11日に、大阪・渡辺橋にある中之島香雪美術館に出かけてきました。あっというまに、10日が過ぎ去りました。冒頭の画像は、「名画への旅 虎次郎の夢」展のPRチラシ(A4サイズ) です。大原美術館所蔵作品の美術展。 入場券 当日購入した図録の表紙 (右:表表紙 左:裏表紙)大原美術館には、大昔に一度行ったことがあります。その後機会がなくていけませんでした。この展覧会、3月29日が最終日なのですが、遅ればせながら、先週鑑賞に出かけてきました。記録を兼ねて、まとめてみます。大原美術館は、倉敷紡績の二代目社長、大原孫三郎氏の思いをベースに、1930年に我が国初の西洋美術館として誕生しました。創立100周年を目前にして、大原美術館の改修工事にともなう休館により、所蔵品の館外展示が可能となり、この展覧会が実現したと言います。大原美術館は、100点に満たない西洋の絵画と彫刻の蒐集を基に始まりました。それらは、洋画家の児島虎次郎が、大原孫三郎の資金援助により、ヨーロッパに渡って現地で買い付けた作品群だったそうです。児島虎次郎と大原孫三郎の二人には、「日本の人々に本物を見せたい」という思いが共有されていたのです。展覧会場は、< はじめに > に続き、∞ 形に巡る順路で 6章構成になっています。<Ⅰ 最初の渡欧 > < Ⅱ 帰国 > < Ⅲ 「絵を買ってよし」‐フランス > < Ⅳ スペイン、イタリア、スイス > < Ⅴ エジプト > < Ⅵ フランス、ふたたび > 当日、展覧会場では、特定の作品を除いて、スマホによる撮影はOKでした。スマホで撮影した絵画をここに掲載してご紹介します。会場で出品リストを入手しました。会場での作品紹介文とこのリストを見ますと、大原美術館所蔵作品を主体にしつつ、高梁市成羽美術館所蔵(以下、NM蔵と略記)の作品と個人蔵の作品が併せて展示されていました。児島虎次郎(1881ー1929)という洋画家をほとんど知りませんでした。本展を鑑賞して再認識した次第です。岡山県出身。東京美術学校西洋画科に入学。大原家の奨学金を得ながら、黒田清輝の指導のもとに学んだそうです。二度の飛び級で選科を卒業したそうですから、優秀な画家だったのでしょう。大原孫三郎が本場での研鑽を促し、サポートしたそうです。当日入手した資料によりますと、大原美術館の一環として、2025年4月に、児島虎次郎記念館がグランドオープンしたそうです。「虎次郎の絵画作品と彼が収集したエジプト・西アジアの古美術作品が鑑賞いただけます」(作品リストより)とのこと。< はじめに > には、虎次郎の2作品を展示(NM蔵)。< Ⅰ 最初の渡欧 > 虎次郎は、1908年1月25日、神戸港からフランスに旅立ち、1908年3月11日にマルセイユに到着。1912年10月19日まで滞在します。 この初渡欧では、ベルギーの王立美術学校に入学し、校長ジャン・デルヴァンから有益な指導を得たと言います。ここには、デルヴァンを通じて知り合ったベルギーの画家たちの作品が展示されています。この美術学校を首席で卒業。< Ⅱ 帰国 > 1912年10月帰国。帰国後、結婚。孫三郎の期待にはなかなか応えられない苦境の時期となったようです。己の画風の確立への苦しみなのでしょう。 児島虎次郎作 「春の光」 19161918年3月末から、3ヵ月間、己の根っ子にある東洋精神の血統を見つめなおすために、中国と朝鮮に旅をします。< Ⅲ 「絵を買ってよし」ー フランス > 第一次世界大戦後、1919年5月6日に出航することで、2回目の渡欧をします。 この渡欧において、虎次郎がサロン・ドートンヌに出品した作品<<朝鮮の少女>>がフランス国家に買い上げられたと言います。虎次郎の前進が目に見えてきます。 一方、「日本の若い画徒」のためにヨーロッパで名画を購入するという希望を、孫三郎が承諾したのです。 このセクションには、虎次郎が購入した名画が展示されています。その一部を撮りました。9点中の4点。虎次郎作の1点も展示されています。 ギュスターヴ・クールベ作 「秋の海」 1867 ジャン=フランソワ・ミレー作 「グレヴィルの断崖」 1871 ギュスターヴ・モロー作 「雅歌」 1893 ウジェーヌ・カリエール作 「想い」 1890 - 93頃< Ⅳ スペイン、イタリア、スイス > 1922年5月から1923年5月の1年間、三回目の渡欧を行い、虎次郎は「大々的大蒐集決行」を行うことになります。フランス、ベルギー、スウェーデン、ドイツ、スイスなどを訪れて、名画蒐集に奔走したそうです。 フェルディナン・ホドラー作 「木を伐る人」 1910 エル・グレコ作 「受胎告知」 1590頃-1603冒頭の画像で繰り返し使われている名画です。静かに眺めることができました。パブロ・ピカソの「頭蓋骨のある静物」(1942)が出品されています。撮影禁止でした。 アメデオ・モディリアーニ作 「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」 1919< Ⅴ エジプト > 虎次郎は3回目の渡欧の折、行きと帰りの途次で、念願のエジプト滞在を果たしたそうです。このセクションでは、NM蔵の「児島虎次郎エジプトコレクション」の遺物、虎次郎の様々な素描作品が展示されています。 虎次郎の作品で、珍しいと感じたので掛軸に装丁された作品を撮りました。個人蔵です。左は「金字塔 埃及王朝五千年之遺跡」 1926 水彩画 右は「埃及帝武王朝三千年之遺跡」 1926 水彩画< Ⅵ フランス、ふたたび > 児島虎次郎は、1929年3月、47歳で永眠しました。大原孫三郎は、世界恐慌の真っ只中にもかかわらず、1930年に、虎次郎の業績を記念し、自邸の庭に大原美術館の建設を決断したそうです。 この最後のセクションには、「大原美術館の精華というべき印象派の画家たちの作品を中心に展示」(図録より)されています。 ジャン=フランソワ・ラファエリ作 「アニエールの街路」 制作年不詳 カミーユ・ピサロ作 「ポントワーズのロンデスト家の中庭」 1880 カミーユ・ピサロ作 「りんご採り」 1886 ポール・セザンヌ作 「風景」 1888-90 ポール・ゴーガン作 「かぐわしき大地」 1892 ポール・ゴーガン作 「かぐわしき大地(ポーラ版)」 1893-94 エドヴァルト・ムンク作 「マドンナ」 1895-1902 エドガー・ドガ作 「赤い衣装をつけた3人の踊り子」 1896 クロード・モネ作 「睡蓮」 1906頃この作品も、冒頭のPRチラシや図録で使われています。ハイライト作品の一つです。 ポール・シニャック作 「オーヴェルシーの運河」 1906 ピェール・ボナール作 「欄干の猫」 1909 モーリス・ドニ作 「波」 1916茶室の間に置かれたジャコメッティの「ヴェニスの女Ⅰ」も撮ってみたのですが残念ながらNGでした。出品リストでは66点の展示数です。写真を撮るのはデジカメ中心ですので、あまり使わないスマホのカメラ機能では、この辺りを記録するにとどめました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*「大原美術館所蔵 名画への旅 虎次郎の夢」出品リスト*図録『大原美術館所蔵 名画への旅 虎次郎の夢』補遺大原美術館 ホームページ高梁市成羽美術館 ホームページ中之島香雪美術館 ホームページネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.03.22
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先月(2月)の26日と28日に、源氏物語ミュージアムでの講座聴講に出かけてきました。 ミュージアム前の庭には、カンツバキが咲いていました。 井筒から水があふれ出るように設えた池から鑓水が流れ出て、エントランスの傍の池に流れ込みます。その一帯のカンツバキが見頃でした。 ミュージアムの南側の庭には入れませんが、 建物の傍に、紅梅と白梅が並んでほぼ満開でした。 垣根の傍から、デジカメのズーム機能で記録写真程度は撮れました。ミュージアムのエントランスの前(東側)には、「さわらびの道」が宇治上神社、宇治神社の方向に続いています。 さわらびの道の傍の木です。 私にとっては、この木、何の木・・・・です。 ネットで画像検索してみますと、クロガネモチのようです。さわらびの道は、静かな散策路です。 (宇治市源氏物語ミュージアム・リーフレットに掲載の案内図を引用)ご覧いただきありがとうございます。補遺カンツバキ :「庭木図鑑 植木ペディア」クロガネモチ 樹木図鑑 :「木のぬくもり・森のぬくもり」クロガネモチ :「岡山理科大学」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.03.02
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三連の切妻屋根の黒っぽい建物が「茶づな」です。北方向を眺めています。建物の背後、左側に見える緑の森は、「莵道稚郎皇子御墓」とされている御陵の樹木です。この写真を撮っているエリアが「お茶と宇治のまち歴史公園」の北部分。東(右)方向に向けば、京阪電車宇治線の軌道と宇治駅が見えます。 上掲の案内図を利用します。赤丸が冒頭の撮影場所。黄緑色が「茶づな」で、緑色の大きな丸が上記の御陵エリア。京阪電車宇治駅は青色の丸となります。宇治川(西)と宇治線の軌道、御陵で囲まれた三角形のエリアが「お茶と宇治のまち歴史公園」です。 「夢と情熱を人から人へ」碑がここに建立されています。2019年7月18日、京都アニメーション第1スタジオで発生した事件「亡くなられた36人、一人ひとりの志を36羽の鳥に託し、長く記憶に留めるため、仲間、家族、応援してくださる方々により建立されました。 2024年7月 建立」(一部転記)この碑の近くに 十月桜が咲いていました。 上掲の案内図に黄色の丸を付けた辺りです。中エリアと記されたところ。「密に打たれた杭止め護岸」が復元されています。道沿いに北方向に進みますと、オレンジ色の丸を付けた北エリアに至ります。 宇治川太閤堤の「石積み護岸」が復元されています。 石積み護岸の背後(東側)に見えるのは、大きな緑色の丸を付けた御陵です。 護岸に使われた杭が見えています。案内板の説明には、宇治川太閤堤で使用されている石材は、「堤跡全てを通して頁岩(けつがん)・粘板岩(ねんばんがん)であり、宇治川上流から採集されていたものであると考えられます。工事は区画を区切って行われたようで、およそ5mごとに石の並べ方などに変化が見られます」(一部転記)たぶん、5mごとに区切って、作業者グループを配置し、相互に競わせたのでしょうね。秀吉さん特有の人使いで・・・・。また、「この2m下には、実際の護岸が保存されています」(転記)茶づなの周辺を少し歩いてみました。ご覧いただき、ありがとうございます。補遺京都アニメーション放火殺人事件 :ウィキペディア京都アニメーション放火殺人事件 :「朝日新聞」史跡宇治川太閤堤跡パンフレット PDFファイル :「宇治市」 ダウンロードできます。宇治川太閤堤跡 :「文化遺産オンライン」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.03.01
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26日(木)に宇治市源氏物語ミュージアムに出かけてきました。地元の地の利を活かし、講座室で開催される連続講座を聴講するためでした。講座の帰路に、京阪電車宇治駅の北西側に位置する「お茶と宇治のまち歴史公園」に立ち寄ってみました。第一目的は、『ポケふた』を見つけるためです。(ポケモンのカラーのデザイン・マンホール蓋)冒頭の景色は、宇治駅の西側を回り込み、道沿いに北ア方向に歩き、「茶づな」の建物へ向かう道の途中で撮ったもの。(宇治川右岸と京阪電車の軌道との間です) 手前の道路にあるマンホールの蓋。探していたおめあては、コレ!(実は、少し以前にこの近くまで来ながら、設置場所を知らなかったので見過ごしていました)ヤバソチャ、チャデス という名称とPokemon の文字が記されています。これで、2枚めのマンホール蓋を確認できました。これら2枚の蓋は、令和6年(2024)6月18日に、『ポケふた』お披露目会が実施されていたそうです。地元なのですが、私は知らなかった!2月7日に宇治市源氏物語ミュージアムに来た折、宇治上神社、宇治神社に久しぶりに立ち寄った時の記録は既にご紹介しました。その時に掲載したのが、こちらの『ポケふた』です。これがたまたま見つけた第1号でした。これを載せた時、現在はブログを主体に交流している友人、Jobim さんからコメントをいただき、現在3箇所に設置されているそうだという情報を得たのです。宇治市として、オープンなのはこの2枚です。機会を作って、次は3枚目を見つけにいきます。宇治市に所在する「京都府ニンテンドーミュージアム」施設内のどこかにあるようですので。茶づなの周辺の景色は別稿でまとめます。ご覧いただきありがとうございます。補遺茶づな ホームページ宇治市に『ポケふた』が設置されました! :「宇治市」ポケふた 公式ホームページ 京都府 ⇒ 地域別一覧のページ ピカチュウ 京都府ニンテンドーミュージアム施設内 (宇治市小倉町神楽田56番地)
2026.02.28
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さわらびの道を南に歩み、宇治神社境内に側面から入ります。拝殿の側面から、すぐに二の鳥居の前に行けます。石段の手摺の正面に宇治神社の案内板が設置されています。 宇治郷の産土神で、古墳時代の皇子莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)が祭神。 毎年十月第一日曜日に開催される宇治茶まつりの時、宇治神社の宮司 が名水汲み上げの儀から興福寺まで先導します。 (案内板転記) 石段を上がると、正面に朱色の中門と瑞垣が見えます。拝所からは、内側にテントが設営されていて、本殿が部分的にしか見えません。 拝所から少し先の台上に、「みかえり兎」が鎮座しています。莵道稚郎子が道に迷った時に、白兎が現れて、振り返りつつ皇子の道案内をしたという伝承によります。当神社では神の使い、シンボルです。春日大社の鹿、日吉大社の猿、伏見稲荷大社の狐に相当します。久しぶりに、反時計回りに周囲を巡ってみました。本殿は三間社流造の建物(国重文・鎌倉)です。 瑞垣には、ずらりと提灯が吊り下げてあります。みかえり兎が描かれています。 本殿に向って右側には、境内社が3社並んでいます。手前から 春日大社・日吉大社・住吉大社の神々が摂社として勧請されています。いずれもよく知られた大社ですのでご存じでしょう。 本殿の背後を巡り、本殿の左側に回ると、境内社が4社並んでいます。その背後の石柵と生垣の向こう側が、さわらびの道。この景色の右方向に道を進むと宇治上神社です。右側から順に 伊勢両宮 天照大御神・豊受大御神 内宮と下宮の祭神 高良社(コウラシャ) 武内宿禰命 松尾社 市杵島姫命 廣田社(ヒロタシャ) 蛭子命(ヒルコノミコト)・天照大御神の荒御魂 二の鳥居の右側には、歌碑が建立されています。宇治と言えば、まず連想される喜撰法師が詠まれた歌「わが庵は都の巽・・・・」です。 鳥居の手前、一段下の境内地にある拝殿「桐原殿」です。 正面の参道を下ると、参道の左側に手水舎があります。 手水の注ぎ口が、兎像の口になっています。一般的には龍像の口が多いですね。神の使いの兎がまずここにいます。 参道の反対側の社務所前には、石段の両側にあまり見かけないスタイルの狛犬像が置かれています。 向って左側の石造の狛犬像を撮ってみました。ふと、思い出したのが、奈良・東大寺の南大門に置かれた石造狛犬です。スタイル類型としては、これに近い狛犬だと思います。ネット検索してみますと、「東京狛犬倶楽部」のサイトに、「東大寺(南大門)」という項で掲載されています。クリックしてご覧ください。 一の鳥居宇治川右岸・川沿いの道路に面した宇治神社の一の鳥居です。ここには、鳥居の傍に一般的なスタイルの石造狛犬が鎮座しています。鳥居が面する道路は、府道247号で、「朝霧通り」と通称されています。ネットのマピオンの地図にその名称が記されています。 一の鳥居の前方には、宇治川に架かる朱塗りの「朝霧橋」があります。その橋の傍に、『源氏物語』宇治十帖に因んだモニュメントが建立されています。モニュメントの前に行く時に気づきました。新しいマンホールの蓋! 久しぶりに、ここを訪れての発見! 以前はなかったはず。ポケモンのイラストです。ビバニー、バッチールという名称が記されています。まだ新しい感じの蓋です。マンホールの蓋ウォチングと写真撮りコレクションも趣味の一つですので、うれしい副産物になりました。 台座は宇治川に浮かぶ小舟。それに乗るのは、勿論、匂宮と浮舟。橘の小島へ向かう小船に乗っている場面です。背後には、源氏物語絵巻「橋姫」をレリーフした屏風が配されています。ここまで来たら、やはり朝霧橋を渡りましょう。 橋上から、下流側の宇治橋を眺めた景色 ふり返って、上流側を眺めた景色。 朝霧橋を渡り、宇治川の橘島に降りて、宇治神社一の鳥居と背後の大吉山(仏徳山)を眺めた景色 ここには、「宇治川先陣之碑」が建立されています。「1184(寿永3)年、木曽義仲軍を攻める源義経の配下佐々木四郎高綱(たかつな)と梶原源太景季(かげすえ)が、それぞれ名馬生喰(いけづき)と磨墨(するすみ)にまたがり先陣を争った」(参照資料、p66)という史実を顕彰する碑です。橘島を下流側に進み、左岸に架かる橘島を渡り、左岸の遊歩道に出ます。 遊歩道を少し、平等院傍まで歩き、遊歩道と平等院の境界の木々の間から、逆光状態ですが鳳凰堂の屋根を垣間見しました。この辺りで、戻ることにしました。遊歩道の下流側の端から宇治川の川原に降りて、宇治橋の西詰にある紫式部像のモニュメント傍に向かいます。モニュメント近くの川原から撮りました。西詰側から眺めた宇治橋です。 冒頭で触れた「宇治茶まつり」の折に、宇治橋のこの場所、「三の間」と称される張り出し箇所で、「名水汲み上げ」の儀式が行われます。三の間に立ち、宇治川の上流の景色を、最後に眺めました。ご覧いたあだきありがとうございます。参照資料*『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社(2011年8月刊)*源氏物語「宇治十帖」古跡 (宇治十帖モニュメント) :「宇治市」 pdfファイルとしてまとめられています。https://www.city.uji.kyoto.jp/uploaded/attachment/3798.pdf補遺菟道稚郎子 :ウィキペディア宇治神社 公式ホームページ東大寺(南大門) :「東京狛犬倶楽部」春日大社 ホームページ日吉大社 ホームページ住吉大社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治 -1 さわらびの道、源氏物語宇治十帖の古蹟、宇治上神社 へ以前(2015年6月)にまとめた探訪記事もご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治 宇治神社細見と宇治橋・通圓茶屋・未多武利神社
2026.02.13
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宇治市源氏物語ミュージアムの前の遊歩道「さわらびの道」を南に歩みます。大吉山(仏徳山)への登山口が見えてきます。この山の南面、山裾に宇治上神社・宇治神社があります。その下方が宇治川の右岸です。さわらびの道は、宇治川右岸の道に合流します。 この登山道の入口に、『源氏物語』宇治十帖に因む古蹟碑が建てられています。宇治十帖を踏まえた見立ての地なのでしょう。ここは「総角の古蹟」。さわらびの道の少し先には、 与謝野晶子の歌碑が路傍に建立されています。この歌碑から数分先、左側に宇治上神社があります。源氏物語ミュージアムでの講座聴講を終えてから神社を訪れましたので、閉門まで残りわずかの時間でした。 南面する門を入ると、境内地の正面に、拝殿が見えます。(国宝、鎌倉時代)この建物は鎌倉時代の建築物ですが、平安時代の寝殿造建築に近く、現存する唯一の住宅風建築だそうです。 この拝殿は、「両妻1間が縋破風(すがるはふ)と呼ばれる独特の屋根構造」になっていて、軽快で優美な感じを生み出していると評されています。母屋の両妻(両側面)に一間(けん)の通し庇を付けた形で、その庇屋根の部分が縋破風の屋根構造になっています。妻側(側面)は梁行3間です。また、正面を観察しますと、母屋は桁行5間に左側だけ幅の狭い1間が付加された6間で、両妻に1間の通り庇(白壁の箇所)が付いています。左右のバランスに違和感はありませんね。 拝殿正面の階の両側には、青竹で結界を設け、円錐形に「清め砂」が設けてあります。 拝殿の南東側には、「桐原水」の建屋があります。 石段を下りて、建屋内の水面を眺めますと、水は澄んでいて、湧いてきています。宇治七名水の一つで、現在水が湧くのは唯一ここだけになったそうです。今は飲料用としては禁じられているとか。 建屋内で見上げるとこんな感じです。 拝殿の右側を回り込みますと、正面に境内摂社の一部が見えます。 本殿に向って右側には、この3社が勧請されています。左側は、春日神社本殿。一間社流造で国重文。祭神は藤原氏の祖神である武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)。中央は、住吉社。祭神は上筒男命(ウワツツノオノミコト)・底筒男命(ソコツツノオノミコト)。右端は、香椎社。祭神は神功皇后(ジングウコウゴウ)・武内宿禰(タケノウチスクネ)。 本殿に参拝しようと進みかけると、閉門の案内がかかりました。タイムアウト! 本殿手前でこの1枚だけ撮った次第。幾度も拝観しているので、仕方がないか・・・・。本殿は最古の神社建築。見えているのは覆屋(おおいや)で、外観上は一棟。正面の格子戸から内部を拝見すると、左殿・中殿・右殿の三社が並列になっています。祭神は、中殿に応神天皇、その左右に応神天皇の子、仁徳天皇と莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)がそれぞれ祀られています。勿論、本殿は国宝。ここで、仕方なく退出。宇治上神社の参道から宇治神社に向かいます。 参道脇の石灯籠 部分拡大した灯籠の竿棹の文字にご注目!「正一位離宮大神」と刻されています。「離宮」という文言。往古、この辺りは応神天皇と莵道稚郎子の離宮跡であるという伝承があるそうです。宇治郷地域の産土神で、宇治上神社と宇治神社は、二社一体として、上社・下社と称されていて、伝承地であることから、離宮八幡、離宮明神とも呼ばれていたと言います。『延喜式』神名帳には「宇治神社二座」と記載されています。 正面の参道を歩んでくれば、最初に目にするのがこの鳥居です。今回は宇治上神社拝観の最後に撮りました。この参道が「さわらびの道」の一部でもあります。 鳥居の傍、参道脇の石灯籠。石灯籠の向こう側をご覧ください。 宇治十帖の一つ、「早蕨の古蹟」として小ぶりな石碑が建立されています。 鳥居の傍、神社の建物に吊るされている提灯。これが宇治上神社の御神紋なのでしょう。では、宇治神社へ!こちらはオープンなので、閉門を気にせずに参拝できます。つづく参照資料*『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社(2011年8月刊)*国内最古の寝殿造遺構-宇治上神社拝殿を作ってみました。:「3D京都」補遺さわらびの道 :「4travel.jp」世界遺産 宇治上神社 公式ホームページ世界遺産(世界文化遺産)宇治上神社 :「京都府」宇治上神社本殿 :「文化遺産オンライン」宇治上神社拝殿 :「文化遺産データベース」春日大社 ホームページ住吉大社 ホームページ夫婦の宮、香椎宮 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.02.12
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2月7日(土)午後に、地元の源氏物語ミュージアムで、上掲チラシの、大人と子供能楽鑑賞会に申し込み、聴講しました。宇治市源氏物語ミュージアム講座室が会場です。講座室に続く、板敷の間が舞台となりました。講師は。能楽師観世流シテ方の味方團(みかた まどか)さんと田茂井廣道(たもいひろみち)さんのお二人です。当日の番組構成を私の記録を兼ねて記します。 仕舞 小塩クセ お話 能のなかの和歌 玉蔓・草子洗小町・卒塔婆小町・蝉丸 清経・采女・木賊・弱法師 連吟 弱法師 仕舞 頼政 かるたに挑戦 休憩 独吟 夕顔 お話 能面、能装束について お話 小塩(おしお)・鵺(ぬえ) 仕舞 小塩クセ 仕舞 鵺板敷の間が、能舞台になり、仕舞、連吟、独吟が演じられました。ここ10年近くは講座室での連続講座などを聴講してきていますが、この板敷の間で仕舞が演じられるのを初めて拝見しました。なかなか良い音響でした。もともと能楽にも使えるように床下の音響が工夫されているのかなと想像しました。間に挟まれた「お話」も、この舞台で、鑑賞・聴講者をリラックスさせる意図もあったのでしょうが、掛け合い漫才調で話が進み、楽しく聴講しました。能の演目の謡に取り込まれた和歌の話が中心になったのは、「かるたに挑戦」と関係がありました。今年の「能楽玉手箱」は、「百番一首 謡かるた」がテーマになっていたのです。大正14年製の「百番一首」のかるたの一部が、「謡かるたに挑戦」として組み込まれていました。百人一首のかるた取りと同じ要領です。違いは、能の謡の調子で上の句、下の句が読み上げられるというもの。わずか七首での試しですが、初めて聞く和歌ですので、けっこうおもしろく感じました。「謡かるた」が作製されているのを、この時初めて知りました。講座中は撮影・録音は禁止。今回は、最初から舞台の背景を兼ね展示されていた能装束と能面の解説に持参された能面を、講座終了後にしばらく展示されました。この時には撮影OKでしたので、ご紹介できます。 味方さんが持参された能装束能が演じられる時に、この衣装が何通りの使い方があるかという問いかけが上記お話の中でありました。能舞台は今までに幾度も見ていますが、考えたこともなかった問いかけ。聞き間違いでなければ、この衣装を9通りで使えるとのことでした。能装束を京都国立博物館の展示でも鑑賞していますが、写真は撮れませんので、能装束を撮る機会はそうそうありません。能装束は一品制作の特注品になるそうです。衣装の部分写真も撮ってみました。 この装束の場合、生地は図柄に金糸が織り込まれ、装束全体に花の意匠が鮮やかに刺繍されています。これをまとめていて気付いたことです。刺繍された花々は切り花が折形(おりがた)で包まれていることです。和紙で包む礼法は平安時代からあるようですが、武家の礼法の一つとして、折紙礼法、または折形が確立したと言います。(資料1)写真を細見していて、最近拝読しているブログ記事の内容と結びついてきて、あっ!折形だと気づいた次第です。 能面と扇 若女女面として表現される能面にはいくつか種類があります。一般的に、若く可憐な女性を表す面は「小面(こおもて)」と称されます。主に観世流では「若女」と称されるとか。勿論、中年の女性、年老いた女性を表現した能面もあります。「般若」は男面か女面かという問いかけもありました。答えは女面。 「能面の一つ。女性の嫉妬を表した恐ろしい顔つきの鬼女」(日本語大辞典・講談社)です。 扇扇も儀礼で使われる他に、いろいろな道具を表象するために、しぐさ・動作の中で使われることを、刀にもなり、弓矢にもなるとか・・・実際に実演して解説がありました。そういえば、落語でも扇はいろいろに使い分けられていますね、2時間の能楽鑑賞会、楽しめました。 源氏物語ミュージアムを出て、久しぶりに宇治上神社に向かいました。ミュージアムの外、道沿いにサザンカが咲いています。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 折形 :ウィキペディア2) 能面の種類:女面 :「能:Simple Energy」補遺能楽師 味方 團(みかた まどか) ホームページ能楽師 田茂井 廣道(たもい ひろみち) ホームページ折形とは 遅生の故玩館ブログ :「はてなブログ」能面 :ウィキペディア増女(ぞうおんな) 能面と能装束[能面] :「文化デジタルライブラリー」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.02.08
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NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」が始まりました。日曜日にその第1回を視聴。秀吉と秀長のキャラクターの対比が面白くなりそう。過去2年の大河ドラマと比較すれば、戦国時代の武将たちが登場する故に、親しみもあり一般受けするのではないかという気がしました。秀長の視点から史実を踏まえての経緯が描かれると、新鮮味が加わるのではないか、そんな気がします。昨年は幾度も歩きましたが、年をあけてからは昨日(6日)に初めて歩いてきました。かつての伏見城の北堀の東端を起点に、濠沿いの道を東から西に西端まで歩きます。西端の近くには地域体育館があり、その西側の道に入り、南方向に歩きます。現在この北堀一帯は「伏見北堀公園」になっています。道沿いに進めば、数百メートル先に伏見桃山城天守閣(模擬天守)の北面が見えてきます。天守閣の傍の道を南に縦断していきます。冒頭の景色は、南側から眺めた天守閣です。勿論、これは鉄筋コンクリート造り。1964(昭和39)年に建設されました。今は、廃城になっていて、この周辺を自由に散策できますが、天守閣の石垣周辺から内側は立入禁止。このお城の周辺は「伏見桃山城キャッスルランド」と称する遊園地になっていました。幾度か行きました。お城にも入れたと思います。2003年1月に閉園となりました。廓を南に進めば、城門があり、表に出ると門の東側に「伏見桃山城」の碑が建てられています。 少し離れて眺めた全景城門前は、今では結構広い駐車場になっています。この駐車場の南側に、桃山陵墓地が広がっています。この伏見桃山城の北西側には「桓武天皇柏原陵」が所在します。駐車場入口前の道路に沿って西方向に少し下って行きますと、陵墓区域に入る通路が道路の反対側にあります。道沿いに南に歩きます。この道は陵墓域のメインの参道に出ます。 メインの参道に出たところでの二方向の景色左は今歩いてきた緩やかな坂道の御陵参道。この地点から「桓武天皇柏原陵」への参道でもあります。右は、陵墓に向かうメインの参道。幅の広い砂利道です。この途中、参道沿いの右側に、伏見城で使用された城石が遺石として保存展示されています。このメインの参道を反対に西方向に歩めば、JR奈良線桃山駅、近鉄京都線桃山御陵駅、京阪本線伏見桃山駅に至り、その途中に御香宮神社があり、大手筋通となります。伏見の街中に向かいます。砂利道をしばらく東方向へ歩きます。10分くらいでしょうか。 上円下方の陵形の墳墓が見えます。 陵墓の正面全景。「明治天皇伏見桃山陵」です。 陵墓前は広々とした砂利敷きの広場になっています。 振りむけば、南の景色が見渡せます。少し急な石段が正面参道になっています。 広場の東端には、東に下る坂道の参道があります。この道を歩みますと、 もう一つの陵墓に至ります。 明治天皇の陵墓より、東側で一段低い位置に、「昭憲皇太后伏見桃山東陵」があります。こちらの陵墓も上円下方の陵形です。この陵墓の正面の参道を道沿いに下って行きます。 道沿いに進めば、明治天皇稜の正面石段を右方向に眺める地点に至ります。私はここをウォーキングする時は、この正面の石段を使うことはありませんが、この石段、普段はスポーツクラブ系の人たちの脚力トレーニングの恰好の場として使われているのを見かけます。正面石段の左側(西側)にこの「陵墓参拝のご案内」が設置されているのを初めて見ました。明治天皇伏見桃山陵が設置された辺りが本来の伏見城の本丸、天守閣があった場所に相当するようです。詳しい位置関係についての知識は持ち合わせていませんが。最後に、伏見城についてですが、調べてみますと、3度にわたって築城されているそうです。最初は1592年、指月山に築城されました。指月山伏見城と称されます。この城は地震で崩壊します。その後直ちに、城づくりが木幡山で行われます。木幡山伏見城です。これが豊臣期の伏見城。関ヶ原の戦いの際に、徳川家康の家臣、鳥居元忠らが伏見城を守備しましたが、西軍に敗れ落城。焼失。この時の遺物が、一例として、東山の養源院「血天井」として残されています。その後、徳川家康が1602年頃に、木幡山伏見城を再建。しかし、1619年に廃城とします。この時の建物等は、各地に移築されて行きました。この案内図、陵墓参拝のご案内の記述の下の道路の右に、「伏見桃山城運動公園」と記されています。そこに上掲の模擬天守閣があり、その周辺にスポーツ施設が設置されています。正面、南側の坂道を下り、出た道路沿いに東方向に坂道をさらに下って行きますと、京阪電車宇治線の桃山南口駅に至ります。冬の伏見城跡地の景色をご紹介しました。今では、桃山御陵という名称の方が普通になっています。散策、ウォーキングをするのには静かでいいエリアです。ご覧いただきありがとうございす。参照資料*伏見桃山城 :「KYOTOdesign 京都デザイン」*伏見城 :ウィキペデ*伏見城 都市史 :「フィールド・ミュージアム京都」*伏見桃山城運動公園 :「京都市地域体育館・運動公園」
2026.01.07
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あけましておめでとうございます。本年も、拙ブログにお立ち寄りくださりありがとうございます。2026年の元旦があと少しで日付が変わります。例年と変わらぬ一日が過ぎそうです。昨年の大晦日は比較的近いところにあるお寺で、日付が変わる少し前から並び、除夜の鐘を撞かせていただき、その後、これまた比較的近くにある神社に深夜の初詣に回るという恒例(?)行事。例年深夜のため写真は撮りません。元旦は、ブログと年越しになる本を読む形になりました。積読本がたまっていまして・・・・読み切れません。そこで、昨年12月19日に、この冬も山科川に戻って来た水鳥を、ウォーキングの折に撮っていましたので、記録を兼ねてデジカメ画像をアップします。シラサギだと思いますが・・・・確認はしていません。今年もまた、拙ブログにお付き合いいただければ、うれしいです。茲愉有人
2026.01.01
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12月23日(火)に用事で伏見の大手筋に出かけ、それで終わりのはずの要件の付帯事項で改めて大手筋に出かけざるを得なくなりました。この時寄道した探訪について、覚書を兼ねてスポット的にご紹介します。23日には、伏見区西奉行町の「伏見奉行所跡」碑を見てきました。伏見奉行所があったことを今も、東奉行町・西奉行町という町名にとどめています。 伏見奉行所跡地は、今は団地になっています。その団地の入口の坂道のところに、「伏見奉行所跡」碑と冒頭の駒札が設置されています。さらに、南北の道路に面した入口付近が奉行所の塀の姿に擬してちょっとした演出が加えられていることです。さらに、団地の建物の西側面も蔵の側壁風に装飾されています。この工夫が落ち着いた雰囲気を醸し出しています。明治維新の戊辰戦争。伏見の戦いでは、幕府軍側がこの伏見城を拠点とし、北に位置する大手筋通に面した御香宮神社境内を拠点にした官軍とが一戦を交えたことで、この伏見奉行所の名が伝わっています。小説の題材となる新撰組関連の描写で出て来る場所。そして、昨日29日、午前中再度大手筋に行く羽目になりました。そこで、久しぶりに、東西方向の大手筋通から大昔に歩いたことのある風呂屋町通を南に歩いてみることにしました。風呂屋町通をそのまま南に歩めば、いまは「龍馬通り」という通称で知られた通りになります。その先は、道路を横切る川に至ります。 「蓬莱橋(ほうらいばし)」が架かっています。橋を渡って南から撮った景色。橋の西側には、「宇治川派流」の標識が設置されています。川沿いに西に少し行けば、「京橋」。橋から北西方向には「寺田屋」があります。 橋の南詰東側に、「周辺観光案内図」が設置されています。 蓬莱橋のところで、川べりに降りて下流方向に歩いてみました。蓬莱橋の景色。 道路沿いの側面にサザンカの生垣が設けてあります。川の流れに沿って右側にカーブしていきますと、 伏見では、観光面では有名になっている川沿いの酒蔵風景が見られます。観光客はちらほら。シーズンをはずれているので、静かな雰囲気を楽しました。 さらに歩めば、観光船の発着所が見えます。川面に浮かぶ十石舟(観光船)もしっかりと青いシートで覆われてシーズンが過ぎ去った佇まいです。ここで、川沿いの道路に戻ります。 道路の手前に設置されているのがこの案内板です。「宇治川は流域の歴史」を説明しています。左下に英文での説明が併載されています。(省略) 道路に戻ると、西側に「長建寺」が見えます。中書島の東部、伏見区東柳町に所在。 道路側 境内側から 独特の竜宮門です。「建築学上貴重な門です。 下構の部分に対して上構の楼閣部分がきわめて小さい。 瓦も一枚ずつ小さくなっている。軒下の?(たるき)が中心から放射状に出る 唐様になっているのが安定感のなかに異国情緒を強めている。 京都市内唯一の門と言われている。江戸時代の作」 (掲示板から全文転記) 境内側 山門に向って、右側には右奥から「摩利支尊天」「飛龍大権現」の朱色のお堂があり、その左に地蔵堂があります。摩利支尊天に掲示された駒札には、”「勝利に神」として武士社会の守護神として戦国武将が祈願した。 「勝利」「入試合格祈願」「自分に克つ(克復)」などの庶民信仰がさかん 「亥年の仏様にあたる」”(転記)と説明されています。同様に、飛龍大権現には、”どんな苦しい事があつても権現さまに願いをかけて成功させよう。 生命を大切にして、長生きをしよう。” (転記)権現とは、「仏・菩薩が日本の神に姿を変えて現れること(たもの)。[昔の神の尊号の一つとしても用いられる]」(新明解国語辞典第5版、三省堂)と説明されています。地蔵堂には、「京都の町では地蔵信仰がさかん この寺の地蔵さまは、延命地蔵・子育地蔵です」と掲示されています。 格子扉から少し見えるお地蔵さまは、ここもやはりお顔に薄く化粧が施されています。 お堂の西側の、鐘楼には大きな梵鐘が置かれています。正面の六文字の三行: 南無遍照金剛は、真言宗の開祖空海 南無聖宝尊師は、醍醐寺の開山・理源大師 南無神変大菩薩は、修験道の開祖・役小角 を意味します。 その隣りに「杭」が保存されています。”この「杭」は江戸時代、前の川(弁天湊)で三十石船を停泊させる時に使われていました」(説明文転記) 「長建寺古図」説明文によると、長建寺は地震、水害に悩まされ、幾度も再建されてきたそうです。現在のお寺は江戸時代の1826(文政9)年に再建されたそうです。この時に、シーボルトが立ち寄っていると言います。 山門からの参道を真っすぐに進むと本堂です。長建寺は、東光山と号する真言宗醍醐寺派のお寺です。「当寺は元禄12年(1699)ときの伏見奉行建部内匠頭が中書島を開拓するにあたって深草大亀谷の即成就院の塔頭多聞院を移し、その姓の一字をとって長建寺と改めたという」 (資料1)本尊は八臂弁才天。音楽を司る神ですので、花柳界の信仰をあつめてきました。弁才天を本尊にするのは、ここが唯一だとか。(資料2)「島の弁天さん」の名で知られています。(駒札より)参道の左側に「閼伽水(あかすい)」が湧いています。大きな手洗い石が置かれています。上記の多聞院にあったものをここに移したそうです。閼伽水とは仏様にお供えする水。功徳水、参拝する人の清め水。伏見の酒に使われる良質の水と同じ水脈の水だそうです。 (掲示案内文より) その傍に「カエル」石が置かれていて、その上に陶器製のカエルが乗っていておもしろい。 賓頭盧尊者坐像が本堂の左手前に安置されています。比較的新しい像のようです。かつては7月23日に弁天祭が行われていました。上掲の「長建寺古図」には、「辨天祭には、京都祇園町より大勢のお詣りがあったとか」と記されています。御輿や篝(かがり)船を中心とした勇壮な船渡御が淀川にくりだす祭で、「伏見の弁天祭」として知られていました。しかし、船渡御は1951(昭和26)年を最後に途絶えました。現在は、7月第4日曜日夜に弁天祭が行われています。(駒札、資料1,3)時計回りに境内を巡ってみました。本堂から少し右に歩むとこの灯籠があります。 「辨天型燈籠」と称されています。建部内匠頭政宇(たつべたくみのかみまさゆき)が元禄12年12月に奉納した灯籠一基です。伏見奉行に着任してすぐに奉納されているとか。併せて、御香宮、藤森神社にも灯籠を奉納しているそうです。灯籠の竿の正面の中央に「辨才天石燈籠 一基」と刻され、その左右に日付と名前も刻されています。 句碑(?) 境内地の北辺近くに、織部型石灯籠が目に留まりました。近づいてみますと、石灯籠の竿の下部に像が浮彫にしてあります。「マリア灯籠」と称されています。キリシタン禁制の江戸時代に造られた石灯籠です。「もとはこの付近にあったお茶屋の隠れ座敷に置かれていたものである。燈籠の下部には聖母マリアが刻まれており、当時のキリシタンたちが隠れて祈りを捧げていたという」(資料3)とのこと。明治以降のある時に、ここに移設されたのでしょうね。 もう一基、わりとオーソドックスな石灯籠が設置されています。特に掲示はありません。 近くに「中書島とは」の駒札が設置されています。中書島の由緒がわかります。 境内の北東側に「福富稲荷社」が祀ってあります。境内社です。 本堂の北東方向、境内の中央部です。真言宗醍醐派の柴燈(さいとう)大護摩修行が行われる場所のようです。 西側の東面する正面のこのお堂には、 中央に「厄除開運不動明王」が祀ってあるようです。「人生の迷いや種々の煩悩を焼きつくすと共に、あらゆる災難を焼きすてて諸願を叶えてくださる力強い仏さまです」の説明の後に、不動明王の姿の説明が続きます。不動明王の案内文の左に「山伏の本尊は」という案内文が掲示されています。説明文の末尾に、役小角(えんのおづぬ:神変大菩薩)、醍醐寺開山・聖宝尊師(理源大師)の名が記されています。このお堂に祀られているのかどうかは不詳。堂内が良く見えませんでした。向って右側には「水天」、左側には「青面金剛」の図像が祀ってあります。案内文がそれぞれ掲示されています。水天は、十二天の内、西方の守護神。水の神、河の神。「伏水(伏見)のように水に恵まれた町、お酒の町にとっては一番大切な神(佛)であろう。水天は龍族(龍王)を眷属とするところから水天法には、雨を降らすとして農業など水を使う仕事のように、料理飲食業者等の信仰もあつい」(説明文より一部転記)青面金剛は、江戸時代に流行した民間信仰の一尊。病魔、悪鬼を払う神。盗難除けを祈願する霊尊で、庚申信仰の本尊とされています。 (掲示説明文より) 境内を一巡しましたので、長建寺を出て、川沿いの道路を川下に向かいます。 南東方向に向かうことになります。少し歩むと、辨天橋が架かっています。左の景色は辨天橋西詰から眺めた長建寺方向の景色です。 十石舟遊覧の発着所より、川下にも、十石舟が青いシートでしっかりと覆われて、来年のシーズンの到来までまでひっそりと係留されています。これもまた、冬景色の一コマです。この後は川沿いの道路から宇治川の堤防道に出て、観月橋まで歩きました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p1212) 長建寺 :「そうだ京都、行こう」3) 長建寺 :ウィキペディア補遺長建寺 八臂弁才天♪通称“島の弁天さん”京都で唯一弁財天が御本尊(京都伏見) :「とっておきの京都プロジェクト」不動明王 :ウィキペディア役小角 :ウィキペディア空海 :ウィキペディア理源大師 ⇒ 聖宝 :ウィキペディア八臂弁財天 御尊像 :「江島神社」弁才天 :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2025.12.30
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「火の願ひ・坤」 1947年 前回ご紹介した六曲一双屏風の右隻と対になる左隻です。 「乾」と「坤」。「乾坤」と合わせますと、天地を意味します。 陰陽という意味もあるようです。 さらに、方位でこの文字が使われていますが、その場合、乾は「いぬい(=北西)」で坤は「ひつじさる(=南西)」の方位を意味しています。 第一扇 第二扇 第三扇 第四扇 第五扇 第六扇 「四天雄飛の図」 小矢部川雪解け居(お)るも吾妹子の矢羽根紫袂香(たもとにお)ふもこれは棟方志功が作った歌。万葉集を好んだ棟方は吾妹子という言葉を好んで用いたそうです。吾妹子は紫の着物が好きだった妻を意味していると言います。(資料1,2) 大雪となりし高志路のしずけさは深々として切なかりけれ 吉井勇の歌 (資料3)脱線しますが、京都の祇園、白川の畔に立つ吉井勇の歌碑「かにかくに碑」が有名です観光スポットにもなっています。 かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる毎年11月8日には、この歌碑のところで吉井勇を偲び、「かにかくに祭」が祇園甲部の行事として行われています。かつて新聞報道の記事を読んだこともあります。(資料4)戻ります。棟方志功展の展示の続きに、日本民藝館の本来の展示、民芸品関連が2階から1階にかけて展示されています。また、民芸運動に賛同する芸術家の作品が展示されています。 2階と1階での展示の景色をいくつか集約します。 吹き抜けになっている空間の2階フロアーから1階を眺めた景色様々な芸術家の作品が並んでいます。時間の都合で作家を確認できたのは一部でした。 松文間仕切り 芹沢銈介作 1961年 いろは文掛布 芹沢銈介作 1973年芹沢作品の掛けられた壁面の前の台には 陶磁器の大皿が展示されています。ここに展示されているのは、濱田庄司の作品です。上掲の展示ケースでは、河井寛次郎の作品を何点か見ました。 棟方志功の大作「大世界の柵」最期の圧巻は、棟方志功のこの大板画でしょう。 1階に戻り、中庭を眺めた景色大きな民芸品が中庭空間にも展示されていました。最後に、今回の棟方志功展は、棟方の福光時代を取り上げていました。展示品は凡そ、南砺市立福光美術館と同美術館の分館である棟方志功記念館・愛染苑(あいぜんえん)の所蔵品が展示されていました。一度、現地を探訪してみたいな・・・と思いました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) (18) 棟方志功歌碑 :「南砺市郷土WiKi」2) 女性をテーマに棟方作品 記念館 板画や倭画40点を展示 2021.5.27:「中日新聞」3) 「寒行」「流離抄」吉井勇 富山市・八尾 立野幸雄 :「ごの会」4) かにかくに碑 :「京都観光Navi」補遺火の願ひ :「山田書店」棟方志功《四天雄飛の図》レプリカ仕立て :「YPP山田写真製版所」柳宗悦の心と眼―柳宗悦の民藝と巨匠たち展|富山県水墨美術館 :「富山県」日本民藝館 ホームページ 濱田庄司作品 :「日本民藝館」 河井寛次郎作品 :「日本民藝館」公益法人の活動紹介 大阪日本民芸館 :「公益法人information」南砺市立福光美術館 ホームページ 棟方志功記念館 愛染苑 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪日本民芸館 (1) 棟方志功の板画 へ観照 大阪日本民芸館 (2) 棟方志功の板画 宮沢賢治[雨ニモマケズ] へ観照 大阪日本民芸館 (3) 棟方志功の板画と絵 へ
2025.12.13
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瞞着川板画巻 上 1948年 瞞着川板画巻 下 1948年調べてみますと、富山県南砺市法林寺に、河童伝説があるという川が流れています。これを聞いた棟方志功が「瞞着川(だましがわ)」と名づけたそうです。「瞞着(まんちゃく)」は「だますこと。ごまかすこと」(新明解国語辞典第5版、三省堂)という意味です。この地の川沿いの遊歩道には、「瞞着川板画巻」の中から13枚の板画パネルを設置されているとのこと。(資料1) 壁面には棟方志功が描いた額入りの絵が展示されています。 河童を彫った板画もあります。 五箇山之図 1950年 「挿頭花集」と題した板画を貼り付けた二曲一隻の屏風 「火の願ひ・乾」1947年 と記した掲示が傍に置かれています。 第一扇 第二扇 第三扇 第四扇 第五扇 第六扇屏風の第一扇の下段に貼り付けてありますが、詞は河井寛次郎、板画は棟方志功、摺りは名崎俊彦と明示されています。展示は六曲一双の屏風でその一隻(右隻)です。屏風の第一扇の上には「火の願ひ」という題字だけ。屏風の傍の掲示には、「火の願ひ・乾」と表記してあります。少し調べてみますと、山田書店さんのホームページには「火の願ひ」が載せられています。その説明には、「河井寛次郎詞29篇 木版裏手彩全44図」という説明があります。 (資料2) 観自在二菩薩 会場の照明がガラスに反射しています。ちょっと残念。 汐吹 鯨壺 でしょうね。つづく参照資料1) 瞞着川 :「旅々なんと」(南砺市観光協会)2) 火の願ひ :「山田書店」3) 福光美術館 「火の願板画柵」 :「facebook」4) 2013年度 常設展 第3期棟 方志功と西洋民衆版画 pdf :「町田市立国際版画美術館」補遺法林寺歴史街道 :「いこまいけ南砺」五箇山 四季の彩り 五箇山彩歳 ホームページ (五箇山総合案内所)青森県立美術館 ホームページ 棟方志功 河井寛次郎 :ウィキペディア河井寛次郎記念館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪日本民芸館 (1) 棟方志功の板画 へ観照 大阪日本民芸館 (2) 棟方志功の板画 宮沢賢治[雨ニモマケズ] へ
2025.12.12
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二菩薩釈迦十大弟子の屏風が展示された会場の反対側の壁の手前のフロアーに、展示ケースがあります。その中に、棟方志功が、宮沢賢治の[雨ニモマケズ]を板画に起こした作品が展示してありました。宮澤賢治の詩を併載します。青空文庫からの引用です。〔雨ニモマケズ〕 宮澤賢治雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ※ノ ※は一文字 掲載にあたり変換不可小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ [「朿ヲ」はママ]南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ南無無辺行菩薩南無上行菩薩南無多宝如来南無妙法蓮華経南無釈迦牟尼仏南無浄行菩薩南無安立行菩薩付記※ (「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)つづく補遺宮沢賢治 :ウィキペディア〔雨ニモマケズ〕 宮澤賢治 :「青空文庫」雨にも負けず 宮沢賢治 :「Keio University」窪田等 朗読『雨ニモマケズ』作:宮沢賢治【字幕あり】 YouTube棟方志功 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪日本民芸館 (1) 棟方志功の板画 へ
2025.12.11
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国立民族学博物館を出た後、大阪日本民芸館に回りました。この「日本民藝館」を訪れた記憶がありませんので。 大阪日本民芸館前に行き、丁度タイミングよく棟方志功展が開催されていました。「棟方志功と福光の風景 ー交歓の日々よりー」という企画展です。福光とは、富山県西砺波郡福光町(現南砺市)のことで、棟方が戦時中の疎開で移住した土地です。この地の自然をこよなく愛したと言います。民芸品の展示は一部しか見られませんでしたが、棟方志功の版画等を久々に満喫できました。民芸館の1階は自由に入れて、民芸品のショッピングエリアになっています。そこに展覧会の受付を兼ねた係の人が居ました。 展覧会への入場券はごくシンプル。普段の観覧券がそのまま使われているようです。展示会場は2階です。まあ、普段の民芸品展示が棟方志功の作品群に切り替えられただけという感じ。そのためか、後で確認したのですが、展示品一覧表も、この企画展の図録も作成されていませんでした。会場内での説明掲示もいわばミニマムという感じ。幸だったことは、会場内の写真撮影はOKですという点です。(撮りましたが、けっこうNG画像もありました。また、ここでは一部サンプリングで載せています)そのため、どのような作品が展示されていたか、覚書を兼ねて、画像の列挙という形ですがご紹介します。作品名・所蔵者等の掲示はありましたが、ほぼ作品自体を眺める形で鑑賞しました。ここでもそのスタイルでまとめます。掲示で特に着目したことや多少調べて得たことなどを少し書き込みます。 会場に入ると最初に目にしたのがこの屏風です。棟方志功が描いた屏風絵です。調べてみますと、これは八曲一双の屏風の右隻です。(南砺市立福光美術館蔵)「美魅寿玖(みみずく)の図」 倭画 昭和19年 棟方志功筆鑑賞した時は、右隻が展示されていました。(会期中に入替があったかもしれません。不詳) 展示室の景色。その続きの壁面の展示はこんな景色です。 すぐ傍の仕切り壁で見えない箇所に、 この菩薩像の板画があります。棟方志功は、己の作品を版画ではなく、「板画」と称するようになりました。『板画の道』『板画の肌』というタイトルの著書を出版しています。その左側に六曲一双の板画屏風が展示されています。 右隻は墨書の「文殊」(菩薩)と釈迦十大弟子のうちの5人 左隻は釈迦十大弟子のうちの5人と墨書の「普賢」(菩薩)この屏風、「二菩薩釈迦十大弟子」屏風の形式です。 屏風を挟む形で、左側にこの菩薩像の板画が展示されています。最初の板画と一対になっています。富山県の南砺市立美術館所蔵の作品がこの企画展で数多く展示されています。この美術館のホームページを見ますと、収蔵作品のページに、「二菩薩釈迦十大弟子」の作品が公開されています。こちらは六曲一双の両端に二菩薩の板画が貼られています。屏風の両側に展示の板画の二菩薩像が墨書に照応するようです。南砺市立美術館の公開ページを対比的にご覧いただくと、興味深いことに気づくと思います。お試しください。 この展示室の突き当りの壁面には、額縁が掛けられ、展示ケースが続きます。 ご紹介に3点を取り上げます。 観音菩薩像の背景には、般若心経の経文の一部が彫り込まれています。頭部の左側には、真言の箇所が部分的に読みとれます。 巻物の形に仕上げた作品も展示されています。 多分これは、棟方志功が揮毫した作品と思います。詳細不詳 4つの額縁をセットにした作品がありました。棟方志功の特徴的な図像とびっしりと刻み込まれた文(文字)が混然一体となっています。 部分拡大してみましょう。 この屏風、六曲一隻です。第一扇の一番上には、「棟方板画愛染品」とタイトルが見えます。 第二扇の上・中・下の各板画 第三扇の上 第四扇の上 第五扇の上・中 第六扇の上には、これが貼られています。「棟方板画愛染品」は、百三部限定で摺られ、これはその内の41冊目にあたります。それが、このように板画を貼った屏風に仕立てられたのでしょう。つづく補遺大阪日本民芸館 ホームページ棟方志功 :ウィキペディア南砺市立福光美術館 ホームページ屏風 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2025.12.10
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Cブロックは、東アジア、中央・北アジア地域の展示です。C1:朝鮮半島の文化、C2:中国地域の文化、C3:中央・北アジア、C4:アイヌの文化、C5:日本の文化という構成で展示されていました。 C2冒頭の写真とこれは中国地域の文化のセクションで撮ったもの。2頭の龍が中空に吊るされています。 C2獅子舞の頭。スタイルの異なる獅子頭が並んでいます。台の上には、「融合と多文化化」という題の案内が掲示されています。日本の私たちがリンクさせやすい獅子頭もあります。そこに獅子頭の多文化化の一端があるのでしょう。地域の文化に融合していく結果でしょうか。 C3 C3 C3中央アジア地域では、やはり実物の天幕が目に止まりました。カザフ人のかつての草原でのくらし。 C4 C4アイヌの文化に進みますと、まずこの住居が目に止まります。 C4 C4 C4カヌー、弓矢、白熊の毛皮なども展示されています。そして、最後に「日本の文化」です。一番身近な日本の文化についても、知らないという事実を知ったという思いです。ほぼさらりと眺めて巡るというだけの状況になりました。初めて目にするものが如何に多いか・・・・・そんな思いです。 C5馬頭観音像は見たことがありますが、路傍に建立されたこのような石碑を見たことはありません。これは複製ですが、岩手県遠野市の馬頭観音の文字碑。1977年収集。 C5 C5 C5 C5 C5その隣には、長浜祭の曳山が置かれています。 滋賀県長浜市 文化9年(1826)の製作とか。 これだけ整然と展示されると壮観です。 C5日本のどの地域でどれがどのような行事で使われるのでしょうか。今回は写真に撮っただけに留まりました。私には前列では左から2つ目と3つ目の二体。左義長の舞いの装束くらいです。壁面では、能で使われる能面が展示されているな・・・という程度。ここだけでも、本格的に知ろうとすれば、結構時間が必要ですね。 注連飾りと称される飾りのバリエーションなのでしょう。 C5これだけ広がりがあるとは知りませんでした。所変われば品変わるという部類でしょうか。中央にデンと据えられた顔形の飾りに惹かれます。どこで見られる飾りでしょうか。グーグル画像検索で調べてみますと、長野県の指定民俗文化財で、長野市の「芦ノ尻道祖神祭り」(神面装飾道祖神祭)で使用されるそうです。正月7日・七草の日の村内の松飾りのしめ縄であり、道祖神の文字碑に独特の顔を作るという風習のようです。文字碑に被せられると理解しました。 C5やごろどん人形 鹿児島県曽於市 身の丈4m85cmの大男。穀物の豊作や地方守護の先導役としての存在だそうです。人々はこの人形に無病息災、悪疫退散の願いを託すとか。 この人形の大きさに魂消ます。夕暮れ時に不意に見たら仰天することでしょう。 C5青森県・弘前のねぷた 弘前のねぷたまつりは、津軽の夏の夜空を彩ります。青森市ではねぶたと称します。この辺で、今回はまずは一巡したことに満足して会場から出ることにしました。 1階の通路から、民博の正面外を眺めた景色 1階フロアー 正面入口付近から 民博の外観 左:特別展示場 右:本館 館内から見えたモニュメント(?) 階段状の斜面を水が流れ下っています。 ご覧いただきありがとうございます。補遺疫病に立ち向かう精神力、地域との絆という文化による免疫力 :「日本人の忘れもの知恵会議」芦ノ尻道祖神祭り 長野市(旧大岡村) :「じやらん」芦ノ尻の道祖神祭り ユニークな顔をしたムラの守護神 :「八十二文化財団」岩川八幡神社の弥五郎どん祭り :「曽於市(そいし)」弘前ねぷたまつり :「弘前」青森ねぶた祭 オフィシャルサイトネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 国立民族学博物館 本館 常設展へ (1) へ観照 国立民族学博物館 本館 常設展へ (2) へ
2025.12.09
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B4Bブロックに進みます。B1は音楽、B2は言語、B3は企画展示場です。この3箇所ではデジカメでの撮影はスキップ。次のB4は南アジア、B5は東南アジアです。冒頭の眼の大きな人形、ちょっとユーモラスな感じ。これが写真的にはまず目にとまりました。「ジャガンナート神」 インド オディシャー州プリー 1990年制作つまり、ヒンドゥー教の神様。 B4 B4 B4 パイラヴ(シヴァの忿怒相)表記にシヴァとあります。ヒンドゥー教の女神。傍に、この衣装の各パーツを説明するイラスト図が掲示してありました。ちょっとピンボケになりましたので割愛します。後で調べてみますと、マハーカーマバイラヴァ、カーラバイラヴァ・ジャヤンティーとも称されるようです。補遺をご覧ください。 カトマンドゥの寺院入口装飾(トーラナ) 1987年制作 ネパール B4 B4 ドゥルガー女神 インドインドのベンガル地方では、9月末から10月初め頃の雨季明けに、ドゥルガー・プージャー祭礼が行われます。壮大華麗な女神像を祀ってお祝いをするそうです。中央の大きい像がドゥルガー女神。むかって左脇には、ラクシュミー女神。右脇にはマヒシャ。その下部には、右からサラヴァスティー女神、カールディケーヤ神。左端はガネーシャ神です。ヒンドゥー教の神々。 こちらも同系の神々の像。 B4 B4 B4 インドの山車 南アジアから東南アジアに移りますと、また変化します。 B5龍が舞う? と感じた展示には、「生命の廻旋Ⅵ ー 布のような舌」(2021)というタイトルが掲示されています。「ユマ・タルー タイヤル族」と記載されています。調べて見ますと、タイヤル族とは、台湾の北部から中部にかけての山脈地域に住む原住民(民族集団)とのこと。「伝統的な生業は狩猟や焼畑農業、織物で、現在では農業を中心に生活しています」(AIによる概要)東南アジア(B5)に展示。 壁面とその前に、「仏教の世界」が広がっています。大小さまざまな仏像とマンダラが展示されています。 B5 B5 ダーキニー女神日本の仏像に見慣れている私には、同じ仏教とは思えぬ仏像の造形と表現。同じ仏教とは思えない広がりです。仏教は地域が変わると、仏像のイメージが大きく異なり、地域性に溢れています。興味深くもあり、不思議な気もします。 B5 B5 B5 穀倉「稲穂や籾(もみ)を貯蔵する倉庫であり、また、稲の霊の安息所でもある、壁面を飾る水牛、ニワトリ、太陽などの彫刻はトラジャの神話や儀礼において重要な意味をもつ」(掲示説明より)後で調べたのですが、トラジャはインドネシアのトラジャ族のことです。ここには、トラジャ族の建築の一つ、穀倉が展示されているのです。 B5 仮面クメール民族 カンボジア 制作者:イッサリン、アン・ソック 1999年制作「仮面舞踊劇ラオカン・カオルに使われる。役者はすべて男性で、リアムケー(ラーマーヤナ)物語を演じる。登場人物は王子、王女、魔物、猿の4種類にわかれ、魔物と猿のみ仮面をつけて演じる」(掲示の説明文) B5 B5 B5 B5 B5 B5 B5 B5 仮面 バリ民族 インドネシア 制作者:イ・ヴヤン・レカ 1970年制作「仮面舞踊劇トペン・パジェガンに使われる。ガムラン音楽を伴奏に、ジャワ島やバリ島を舞台にした歴史物語を演じる。一人あるいは数人の役者が、順番に下面をつけかえ、それぞれの役割を演じわけていく」(掲示の説明文) 木彫り人形 スンダ民族 インドネシア 1987年収集 B5「人形芝居ワヤン・ゴレックに使われる。ジャワ島西部のスンダ人社会ではワヤン・ゴレックが盛んである。ここではラーマーヤナのおもな登場人物を展示している」(掲示の説明文) B5 操り人形 B5 影絵人形 マレーシア ケラマンタン地域 1960・1975・2007年収集「影絵人形芝居ワヤン・クリット・シアムに使われる。人形つかいダランが、語り、歌い、すべての人形をあやつる。ヒカヤット・マハラジャ・ワナ(ラーマーヤナ)物語のほか、さまざまな創作物語を演じることが多い」(掲示の説明文) こんな説明パネルが掲示されています。 B5日本の仏像とは距離感を感じます。初めて見たときはまず違和感がありました。これって、見慣れているかどうかと大きく関係するのでしょうね、元々の仏像が日本に将来された当初の距離感はもっと近かったのでしょう。歳月の経過とともに、たぶん日本の風土に合う形に仏像の姿が変容していくプロセスを重ねてきたのでしょう。 B5 仏具・法具の共通点と差異も対比的に眺めますと興味深いです。さらに、Cブロックの方に進みます。つづく補遺南アジア :ウィキペディア東南アジア :ウィキペディアジャガンナート :ウィキペディアマハーカーラ :ウィキペディアカーラバイラヴァ・ジャヤンティー :「シーターラーマ」トラジャの神話 ⇒ バナナ型神話 :ウィキペディアトラジャ族が伝える神話 ⇒ 諏訪春雄通信 115 :「学習院ひろば」トラジャ族の集落と建築 世界建築ギャラリー :「kamit.jp」【カンボジア】仮面舞踊劇ラカオン・カオル仮面(カンボジア)Masked Dance Drama Lakhon khol Mask CAMBODIA YouTubeトペン・パジェガン(Topeng Pajegan) :「極楽通信・UBUD」トペン・パジェガン :「コトバンク」ワヤン・ゴレクとは 無形文化遺産でつながるアジアの芸能 :「国立劇場おきなわ」ワヤン-インドネシアの人形芝居- :「東京国立博物館」ワヤン・クリ :ウィキペディアチベット密教法具 仏具全般 :「BOUNA VISTA」法具の種類 :「仏像のある暮らし(多羅堂)」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 国立民族学博物館 本館 常設展へ (1) へ観照 国立民族学博物館 本館 常設展へ (3) へ
2025.12.08
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特別展示館を出て、本館に向かいます。入口を入り、正面方向で最初に目に止まったのがこれです。本館2階が展示会場です。展示室に向かう通路にまずおもしろい試みの展示があります。 2階の展示会場は地域展示と通文化展示の区分があります。展示スペースの主体は地域展示になっています。2階は大きくとらえますと3ブロックから構成され、本館のレイアウトではA(南側)、B(西側)、C(北側)という展示エリアの位置関係で、展示地域が次のように区分されています。A:1、オセアニア、2.アメリカ、3.ヨーロッパ、4.アフリカ、5西アジア、B:1.音楽、2.言語、3.企画展示場、4.南アジアC:1.朝鮮半島の文化、2.中国地域の文化、3.中央・北アジア、4.アイヌの文化 5.日本の文化凡そ、この順番で観覧してみました。まず、圧倒されたのは、その展示品の膨大さです。感覚的にはほぼびっしりと実物諸資料が床面と壁面に展示されています。詳細に展示の解説を併読しながら展示品を鑑賞するならば、一日このフロアーで過ごしても時間が足りないことでしょう。見ごたえは十二分にあります。今回は順を追いながら全体の概略を見て回る程度になりました。さらにその中でも、私的に関心を抱いた箇所や目に止まった箇所をデジカメで撮りました。展示品の撮影はOKです。ちょっと残念だったのは、展示品のリストや図録がないことです。各展示品は傍に設置された説明文掲示を参照するだけになりました。この説明もじっくりと読んでいるゆとりがありませんでした。そのため、ここでは撮り方がまずかったNG写真等を除き、各展示エリアで撮った写真を列挙する形で、鑑賞のまとめを兼ねて、ご紹介します。気になる展示品があれば、ぜひ民博の会場で実物と説明を直接ご覧ください。足を運んで見る価値は十分あると思います。その誘いになれば幸いです。 A1オセアニア地域での展示 A1ブーメランと縞模様に塗り分けられた動物が目に止まりました。 A2 祭壇「パチャママの門」 ペルー A2 ウシの仮面 メキシコ A2 トーテムポール A2 聖母像と神輿 ペルーカトリックの祭で、聖母マリアや守護聖人像が神輿にのせられ、市中をめぐり、人々に祝福を与えます。 A2 キリスト教信仰 「死者の日」関連品と十字架 A2 骸骨人形「酒場で興じるトランプ遊び」 メキシコ A2 アステカに暦石(複製) メキシコ アステカの世界観を説明する掲示 A2 A2 木彫(龍) メキシコ 2010年の収集品 製作者:A.ヒメネス、I.ヒメネス、M.ヒメネス A3シェラーとローラー オーストリア 1981年制作オーストリアのチロル地方のカーニバルの仮面と衣装日本のなまはげに似た行事だそうです。「男性的なシェラーは冬、女性的なローラーは春を象徴する」(説明文より) A3冬から春へ。越年祭シルベスタークロイゼで使われる祭礼用仮面 A3 A3右:大主教祭服 左:司祭服 ギリシャ 2003年収集品 A3 A4 A4 トーテムポール A4 人像 カメルーン 中央の人像の背面 A4 A4 A4 A5 キスワ サウジアラビア メッカ 1966-67年(イスラーム暦1386年)使用「メッカにある聖殿カアバの外壁にはキスワとよばれる黒色の垂れ幕が下げられている。この絹布の幕には金糸や銀糸でコーランの聖句が刺繍されている。キスワは毎年、イスラーム暦12月(巡礼月)に掛け替えられる」(説明文転記) A5 A5 説明掲示を撮り忘れて不詳ですが、載せておきます。つづく補遺国立民族学博物館 ホームページ首長人形の軌跡 八木百合子 「文部科学教育通信」 2019.4.22 第458号メキシコの死者の日って? :「メキシコ観光 PASELA」メキシコの伝統文化「死者の日」 骸骨たちが街中にあふれる、ユニークな祝祭とは? :「OnTrip JAL JALが提案する観光ガイド」最も美しい伝統的な祭り :「オーストリア austria.info」キスワ :ウィキペディアウルネシュ村のシルベスタークロイゼ YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 国立民族学博物館 本館 常設展へ (2) へ観照 国立民族学博物館 本館 常設展へ (3) へ
2025.12.05
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特別展示館の2階に進みます。 たらい舟 新潟県・佐渡市 佐渡島・宿根木写真や映像で見たことはありますが、実物を見るのは初めてでした。 沖縄の小型船の一種、サバニ(伊江島)が展示されています。右の隅側に、沖縄県・本部町(沖縄本島)のタンク舟(復元)も展示されています。これは、米軍機の落下式補助タンクを加工した全長4m程度の舟だそうです。 オセアニアで舟造りに使われる斧。斧の素材は貝・石・鉄。貝斧、石斧、鉄斧と表記して展示されています。 舟を造る道具として欠かせないものがあります。展示されているのは墨つぼ。器部分に墨を入れ、糸に墨をしみこませ、その糸を引っ張って、線跡をつけるという道具。例えば、左から2つ目はインドネシア共和国のロンボク島で使われているもの。これだけ「墨打ち具」と表示されています。その右隣は日本の墨壺。京丹後市久美浜町で使用のものです。 様々な舟の模型が展示された一画があります。カヌーという一語で総称されますが、様々な形態と工夫があることが一目瞭然にわかります。模型を一堂に展示するメリットですね。地域が変われば伝播して行った舟の姿も用途と地域に対応して変化していくようです。大きくは櫂だけで漕ぐ基本のカヌーに、シングル・アウトリガー式とダブル・アウトリガー式のカヌーが創造され、さらに舟に帆を取り付けて風力を利用する形にも発展していることがわかります。舟を漕ぐ櫂(かい)にも、地域により様々な形、バリエーションが生まれます。壁面にズラリと展示されています。 実物の櫂に触れるコーナーが設けてあります。体験コーナーです。 オセアニアの様々な釣り針を集めて展示されています。猟をする魚の種類に応じて、釣り針の大きさや形状が工夫されているのでしょう。 こちらは釣り道具箱です。 展示されているのは、左から順に、沖笠(タイ国パタニ県)、漁撈用帽子(キリバス共和個億)、筌(せん)つまり魚を採る仕掛け道具(キリバス共和国)、筌(インドネシア共和国西ジャワ州)が展示されています。 視点を変えて撮ってみました。 一般的なのが、投網に使われる漁網でしょう。これはマレーシア・ケダー州のものです。 これらは、樹皮布を作る時に使う樹皮叩き具です。左はインドネシア共和国・スラウェシ島)、中央はソロモン諸島・ロビアナのもの。右は不詳(図録に不掲載) オセアニアの各地で作られた樹皮布が展示されています。 地域により船の形は様々です。インドネシアの中央部に位置するムナ島のメタンドクノ洞窟の壁には、舟の壁画が10数隻描かれています。この舟の壁画に、霊舟信仰とのつながりを垣間見ることができるそうです。福岡県に所在の珍敷塚古墳の中にある石壁には、他界に送り出す舟が描かれているそうです。また、「古代日本では船の形をした棺に遺体を納め、葬送の儀礼が行われていた」と言います。(図録、p162) 霊船(模型) インドネシア共和国・東カリマンタン州 霊船(模型) インドネシア共和国・東カリマンタン州 精霊船 島根県・松江市 島根町精霊流しに使われる船。「8月のお盆の時期に帰って来た先祖の霊を送る行事で、江戸時代より全国各地で盛んにおこなわれるようになったといわれる」(図録、p156)京都の夏の伝統行事である「五山送り火」の五山の一つに「船形」があります。アジア・オセアニアの地域に焦点をあてた特別展「舟と人類」は、「あの世とこの世をつなぐ舟」のセクションを最後として終了です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*『舟と人類 アジア・オセアニアの海の暮らし』 [監修] 国立民族博物館 [編集]小野林太郎 河出書房新社 2025年9月発行観照 国立民族学博物館 「舟と人類 アジア・オセアニアの海の暮らし」(1) へ
2025.11.25
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今回、万博記念公園に来た第一目的は、国立民族学博物館(以下、民博と称します)を訪れるためです。今はSNSでの交流が中心となっている友人のブログ記事に触発されて、実物の展示をみたくなったのです。それが冒頭に掲げたこの特別展「舟と人類」。会場は民博の特別展示館です。 建物に向かう通路の途中に、大きなトーテムポールがにょきりと立っています。民博らしいな・・・という印象。 特別展示館の正面玄関正面壁面に舟の図面が掲げられています。 万博記念公園の中央口を入る際に、購入した特別展の観覧券。事前に友人に教えてもらっていたので、高齢者である証明書を見せて、割引扱いの適用を受けることができました。 表紙 裏表紙 展示会場に入る際にいただいた小冊子「舟と人類 アジア・オセアニアの海の暮らし」裏表紙は、大林龍矢さんの「海漂(うみただよ)う民」と題する漫画の表紙になっています。表紙を入れて6ページの漫画です。子供、若者にとっては踏み込みやすいアプローチです。このパンフレット、次の質問で構成されています。特別展へのガイダンスになっています。 Q 舟にはどんな素材が使われているんだろう? Q 北の舟と南の舟の違いって何だろう? Q カヌーはどうやってつくられるのだろう? Q 舟って何を運ぶのだろう?展示会場での撮影はOKでしたので、この問いかけに対する展示の内容を、適宜抽出し覚書を兼ねて、ご紹介します。 図録 表紙 図録 裏表紙これは、観覧後に会場で購入したこの特別展の公式図録「舟と人類」です。復習を兼ねて適宜、参照していきたいと思います。 特別展示館の1階には、アジア・オセアニアの舟の実物が展示されています。最初に目に飛び込んでくるのが 筏(いかだ)です。ホモ・サピエンスは、アフリカで生まれたと言われます。そこから陸路を伝って各地に広がって行きます。一方、地球には川・湖や海がありまます。水のあるところも、人間は移動するための知恵を生み出しました。身近に手に入る木という素材を利用して「筏」という乗り物を考えついたのが、どうも最初のようです。これ自体が飛躍的な進歩です。約5万年前に、現在のオーストラリア大陸とニューギニア島からなる大陸に渡るために筏が舟として利用されたと考えられているそうです。手前の筏は、オーストラリア、クイーンズランド州の筏奥側の筏は、オーストラリア北西部のキンバリー地区に暮らすアボリジの人々が主に利用してきた筏。マングローブ材が使われているそうです。 あし舟南アフリカのボリビア、アンデス高原にあるチチカカ湖の「バルサ」と呼ばれるあし舟カヤツリグサの仲間である「トトラ」という草を素材として作られた舟です。 牛皮舟中国、チベット自治区。モンゴルやチベットなどの内陸で、川や湖を渡るのに水牛の皮を素材に使い、舟を作ったそうです。ほかの国や地方では、ウシ、ウマ、ヤク、ラクダ、トナカイ、クジラ、アザラシなど身近な動物の皮を使って舟が作られています。 日本において、古代に使われた舟は、舟形埴輪として出土しています。岡古墳出土の埴輪。大阪府藤井寺市 古墳時代。これは、準構造船と称され、「丸木舟の両舷側に板をつけ足し、積載量や航行能力を高めた舟」だそうです。(図録、p32) 樹皮舟手前の舟は、北海道に暮らしてきたアイヌの人々の作って来た舟の一つ「ヤラチップ」これは木のかわ(樹皮)を素材にして作った舟です。 北海道 沙流郡 平取町 二扇谷 奥側に見えるのは、白樺樹皮製カヌーこのカヌーは、カナダ・ケベック州のマニワキで作られたもの。アメリカ大陸で樹皮舟は、北米北部、南米のアマゾン川流域、チリの太平洋岸の南部と広範囲で使われているそうです。また、樹皮も「南下するにしたがってプラタナス、ポプラ、ハコヤナギ、シナノキ、クルミ科、トウヒなども用いられた」(図録、p41) アザラシ皮製カヤックとても軽いので、もち運びがしやすいとか。グリーンランド(デンマーク領)で使われている舟。カヤックは、アザラシやイッカクなど海獣猟に使われてきたそうです。カヤックは1~3人乗りの小型の獣皮舟です。それに対して、ウミアックは、10人以上が乗れる10m前後のサイズの大型の舟です。 1階の円形の会場は入口から1階周縁の半周を回り込むような順路で、反対側の周縁を経て中央部に進む形でした。さらに大型の舟の展示会場になっています。 帆走カヌー ミクロネシア サワタル島の舟 「ミクロネシアのカロリン諸島では、サワタル島の西に位置するヤップ島へ朝貢交易サウェイが行われていた。そのために離島では航海カヌーが使われ続け」てきたそうです。その建造技術や航海技術が現在まで維持されてきていると言います。「カロリン型航海カヌーの特徴は、船体に船体の約1/3と短いが厚みのあるパンノキ製のフロートが付けられる点である」そうです。 (図録、p57) 1階の中央部に置かれた3隻の舟 舟の傍に展示されていた貝類。装飾品かなと思っていたら、パプアニューギニア地域のトロブリアン諸島で、クラ交易に用いられていた「貝貨」だそうです。右側が「貝貨ムワリ」、左側が「貝貨バギ」。貝が貨幣に使われていた時代があったということを学んだ記憶を思い出しました。 中央に置かれた「クラカヌー」パプアニューギニア独立国 ミルンベイ州 トロブリアン諸島 キタヴァ島 トモタ村 まず、これに目を惹きつけられました。カヌーの前後に装着される「クラカヌーの波よけ板(堅板)」だとか。彫刻が施されています。その波よけ板の周辺が飾り付けられています。「クラ交易の際はウミウサギガイとパンダナスの葉で飾りつけられる」(図録、p62)この文様にはそれぞれ意味が込められています。図録にはイラスト図を添えて説明がされています。 カヌーの舷側板に描かれた「極楽鳥」。ワイディオリ・トゲヌア作。 カヌーの右側に「浮き木」が見えます。クラカヌーの特徴は、この浮き木を風上側に置いて航行するそうです。 アウトリガー式カヌー(オル) スリランカ共和国船首と船尾が上向きにカーブする点が特徴だそうです。 手前に置かれている舟は、「カツオ釣り用手漕ぎカヌー」 シングル・アウトリガー式サモア独立国 ウボル島オセアニアの島々では、カツオ漁は、伝統的に複数のカヌーを出して行う重要な集団猟として行われてきたそうです。また、男子の成人儀礼の一つとして行われることもあったとか。一段高い三角形の台上に置かれているのは「タタラ」 台湾 台東県 蘭嶼「蘭嶼島で、半農半漁の生活を営んできたタオ(ヤミ)が建造し、使ってきた舟である」(図録、p75)1~3人乗りの小型舟を「タタラ」と称し、6~10人乗りの大型舟を「チヌリクラン」と称するそうです。 (図録、p75) 家船(レパ) マレーシア サバ州 センボルナ「サマあるいはパジャウ人の中には、1950年代まで家船(やふね)を一生の住まいとして暮らす、海サマ人がいる。海サマ人が船上居住に用いていた家船はレパ(lepa)と呼ばれる」(図録、p76) 家船の図この1階フロアーに実物展示されたバラエティに富む舟を眺めて、最初の2つのQについては、凡そのイメージができました。それでは、この特別展示館2階の展示に進みます。つづく
2025.11.22
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