全3件 (3件中 1-3件目)
1

金峯寺仁王門の金剛力士像(南北朝時代、康成作)が「仏像館」に展示されていることを、特別展「吉野・大峯」のご紹介記事の最後に触れました。6月4日(木)に特別展を鑑賞した後、新館から地階の連絡通路を経て「仏像館」(旧館)に回りました。仏像館はその名の通り、様々な仏像等が展示されています。定期的に展示品が入れ替えられています。年に数回訪れる頻度では、ほぼ毎回展示替えになった仏像群を鑑賞できます。奈良国立博物館所蔵のものは一部で、凡そが様々なお寺が所蔵されている仏像等をここで鑑賞できるところが大きなメリットです。個別のお寺を訪れることも難しいし、訪れたからといって、拝見できるとも限りませんから。ガラス越しにはなりますが、すぐ間近くで鑑賞できることがうれしい点です。館内では、一部制限がありますがそれ以外は、撮影OKです。購入図録を片手に持ちつつ、デジカメで片手撮りをしましたので、ピントが甘い写真が多くなりました。比較的ましな画像を適宜抽出して、記録を兼ねてのご紹介です。展示品の羅列になります。 出山釈迦立像 木造 金泥塗 南北朝時代(14世紀) 当館(奈良国立博物館)「成道会」の本尊とされたと言います。出山像は図像が多く、彫像は珍しいそうです。 各展示品には、このような案内文が展示品の傍に設置されています。それぞれの展示品に、撮影OKかどうかも掲示されています。英語、中国語、韓国語での説明が併載されています。(煩雑になりますので、以下省略) 釈迦如来立像 木造 古色(現状) 鎌倉時代(13世紀) 奈良・長谷寺京都・清凉寺の本尊を模した像。鎌倉時代に信仰の高まりにより模像制作が流行した。 菩薩立像 木造 彩色・ 飛鳥時代(7世紀) 奈良・金龍寺本体の大部分と蓮華座までを一材から彫り出す。童顔のかわいらし顔立ちは、7世紀後半の一様式を示します。 文殊菩薩坐像(重要文化財) 木心乾漆造・漆箔 奈良時代(8世紀) 奈良・薬師寺 十一面観音菩薩立像(重要文化財) 木造 一本彫像 平安時代前期平安時代前期の一木彫像を代表する像だそうです。 准胝観音菩薩立像(重要文化財) 木造 彩色 平安時代(10世紀) 文化庁重文指定は千手観音像となているそうです。サクラ材の一木造。丸太様の体型に平安中期の特徴がみられると言います。 十一面観音菩薩立像(重要文化財) 木造 彩色 平安時代(11世紀) 奈良・新薬師寺「頭上面や天衣、光背や台座、また表面の彩色まで当初のものをのこす保存良好な作例。左脇腹に塑土を盛り上げて造る技法は、板製彩画のいわゆる板光背とともに、いかにも南都らしいもののである」(説明文転記) 十一面観音菩薩立像 木造 漆箔 平安時代(12世紀) 奈良国立博物館「目を伏せた優しい表情、なで肩で華奢な体型、浅く穏やかな彫りの衣文などに、平安後期彫刻の典型的な特徴が認められる」(説明文より)十一面観音菩薩立像 木造 彩色 平安時代(8~9世紀) 奈良・薬師寺「髻(もとどり)の周囲に頭上面のあとをのこす十一面観音像。ほぼ全身を一材から彫出する一方、細部表現には乾漆も用いており、奈良時代と平安時代初期の特徴をあわせもつ。一部に当初の彩色がのこる点でも貴重」(説明文を転記) 薬師如来立像(国宝) 木造 素地 平安時代(9世紀) 奈良・元興寺「体の大部分をカヤの一材から彫り出す。口をきつく結んだ表情、頭部が小さくて肩幅が広い体型、腹から太ももにかけて量感を強調する表現により、強い存在感を放つ。平安時代の初期の傑作の一つ」(説明文転記) 広目天立像(重要文化財) 木造 彩色 平安~鎌倉時代(12~13世紀)奈良・興福寺威厳に満ちた風貌と引き締まった体躯。勇敢で重厚かつ充実感がみなぎる姿。2616 二十八部衆立像の一部 木造 彩色 鎌倉時代(13世紀) 当館 五部浄居天 毘楼博叉天 毘沙門天 婆藪仙人 二十八部衆は千手観音の眷属です。京都・愛宕念仏寺に伝来したものだそうで、鎌倉時代にまで遡る彫像は珍しいそうです。均整のとれた姿勢、力強い表情です。 毘沙門天立像 木造 彩色・鍍金 鎌倉時代(13世紀) 奈良国立博物館京都・石清水八幡宮の宝塔院(琴塔)に伝来の像だとか。 男神・女神坐像 木造 彩色 平安時代(12世紀)顎鬚(あごひげ)のある男神と垂髪(すいはつ)の女神の対。「体部に衣文を刻まない点は、平安時代の神像彫刻に一般的な表現である」(説明文より) 伊豆山権現立像 木造 彩色 平安~鎌倉時代(13世紀) 奈良国立博物館熱海市の伊豆山神社の祭神。走湯権現の別称あり。温泉(走湯)が神格化された存在。烏帽子に直衣・袴姿に袈裟を着けているのは仏教に帰依した神の姿。神仏習合の生み出した形です。 童子形坐像 木造 彩色 平安時代(12世紀) 奈良国立博物館髪を美豆良(みずら)に結う少年像です。神像の可能性があるそうです。「像の木取りなど技法上の特徴が、神像彫刻に共通する」(説明文より)との理由によります。 龍神像 木造 彩色・漆箔 平安時代(12世紀) 奈良・薬師寺「薬師寺の東院堂の南にある龍王社に神体として祀られていた。当初は単体の像ではなく、灘陀龍王の背後に絡みつく龍形として制作されたと見られる。大きく身をくねらせた迫真的な表現が魅力的」(説明文を転記) 大津皇子坐像(重要文化財) 木造 彩色 鎌倉時代(13~14世紀) 奈良・薬師寺「寺伝では、謀反の疑いをかけられ、死後に怨霊として祀られた大津皇子(663~686)像と伝える。幅5寸5分(約17cm)厚み2寸(約6cm)の規格の材をブロックのように組み合わせて造る」(説明文を転記)大津皇子坐像の近くに、十二神将像が通路両側の展示ケースに6躯ずつ並べて展示されています。各神将は頭に干支の彫刻像をシンボルとして載せています。そして、神将名の代わりにその干支名が表示されています。その方が親しみやすいからでしょうか。 子神 丑神 寅神 卯神 辰神 巳神 午神 未神 申神 酉神 戌神 亥神これらは上掲の二十八部衆と同様に、像高20cm位と思える小像群です。 狛犬(重要文化財) 木造 彩色 鎌倉時代(12~13世紀) 奈良国立博物館口を閉じた吽形で、頭頂に一角を有する狛犬像です。筋骨の写実的な描写から鎌倉時代の早期の作と考えられているそうです。 獅子 木造 彩色・截金 鎌倉時代(13世紀) 奈良国立博物館 かつて背中に文殊菩薩像を乗せていた獅子とのことです。 獅子(重要文化財) 木造 彩色・截金 平安時代(11世紀) 奈良国立博物館もとは文殊菩薩の台座の獅子です。ただし、「本像のように口を閉じて正面を向く例は少ない。丸く大きく飛び出た眼や、上に立つた耳、丸く張りのある胸などの表現から、11世紀の作と考えられる」(説明文を転記)そうです。 獅子 木造 彩色 江戸時代(17世紀) 狛犬 木造 彩色 鎌倉時代(12世紀)この獅子・狛犬は、東大寺の鎮守である手向山八幡宮に伝わるもので、獅子・狛犬6躯の内の2躯だそうです。展示の狛犬は鎌倉時代に遡る優品の作。残りの5躯は江戸時代の補作だと言います。表面の彩色はいずれも後補だとか。 勢至菩薩立像 鋳造 鍍金 鎌倉時代(13~14世紀) 奈良国立博物館「鎌倉時代以降、関東地方を中心に流行を見せた善光寺式阿弥陀三尊像の脇侍像。宝冠に表わされた水瓶の標幟(ひょうじ)から勢至菩薩とわかる。整った目鼻立ちや衣文表現は、やや地味ながらも堅実な作風を示す」(説明文を転記) 薬師如来坐像(重要文化財) 銅造 鍍金 鎌倉時代(13世紀) 文化庁裳懸宣字座に坐された姿で、光背には七仏薬師が配されています。奈良・新薬師寺本尊の薬師如来像を縮模する像で、原像の再現を意図していると言います。もと興福寺に伝来したとのこと。 釈迦如来坐像 銅造 鍍金 平安時代(12世紀) 滋賀・園城寺もと園城寺唐蔭大師堂安置の像で、定朝様に基づく平安時代後期の典型を示すそうです。像内は外形に沿って空洞で、銅厚は非常に薄いそうです。外観を眺めるだけではわかりませんね。 不動明王立像 鋳造 鎌倉時代 文永6年(1269) 当館「台密の不動十九観に基づく不動明王像」とのことです。両肩以下を別に鋳造して、体部と繋ぐという鎌倉時代通例の技法で制作されているそうです、順路に沿って、一通り鑑賞して仏像館を出ました。ご覧いただきありがとうございます。【付記】この後、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館に、初探訪&観照目的で向かいました。別稿としてまとめたいと思っています。補遺二十八部衆 :ウィキペディア十二神将 :ウィキペディア仏像の乗り物(台座)をイラストで解説 :「仏像入門ドットコム」善光寺式阿弥陀三尊 :ウィキペディア阿弥陀如来および両脇侍立像(善光寺式三尊像) :「e国寶」不動明王 不動明王十九観 :「大峰山登山参拝のご案内」(大峰山ようお参り)ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.06.14
コメント(2)

奈良公園入口に設置された掲示先週、6月4日(木)に、奈良国立博物館に行ってきました。特別展「神仏の山 吉野・大峯」の開催期間が6月7日(日)までということに、あるきっかけで気づいたのです。 奈良国立博物館・新館の手前の案内掲示。左側背後に見えるのは旧館です。現在は「仏像館」として使用されています。特別展鑑賞後に、巡りました。後わずか数日という最終段階に入っていたためでしょうか、当日券の購入に15分くらい列に並びました。平日の午前中に入館したのですが、会場はかなりの混雑状態でした。 会場で入手したリーフレットです。NHKジュニアガイドとして、二つ折りA4サイズの「特別展 神仏の山 吉野・大峯 ワークシート」が無料配布されていました。他に「展示品一覧」リーフレットも入手。事後的に今回の特別展PRチラシも入手しました。展示会場は、残念ながら1箇所を除き会場内撮影禁止でした。入手したワークシート他を一部引用することで、この特別展のご紹介と記録のまとめを兼ねたいと思います。吉野・大峯と言えば、すぐに連想するのが役行者、修験道の場です。特別展のタイトルに対して、副題は「蔵王権現に捧げた祈りと美」です。特別展は全体が6章構成でした。 第1章 伝説の地 吉野 --- 役行者と蔵王権現に出会う --- 第2章 金峯山をめざして --- 藤原道長の埋経 --- 第3章 ひろがる信仰世界 --- 修験者・縁起・曼荼羅 --- 第4章 後醍醐天皇 吉野へ --- 山上の新政権 --- 第5章 豊臣秀吉 華の宴 --- 神木の桜花に詠う --- 第6章 近世・近代の吉野と奈良この構成から、少なくとも次の側面が読み取れます。1.山岳修行の祖・役行者から始まる修験道という信仰世界の広がりと進展2.平安時代に天皇を始め貴族たちが、金峯山寺をめざした信仰としての埋経 その典型事例が藤原道長の行動、吉野山の金峯山寺詣です。3.後醍醐天皇が吉野の山に、新政権を立てることで、南北朝時代がはじまりました。 吉野が政治の拠点となる時代があったという側面も欠かせません。4.吉野の花見を盛大な規模で実施した豊臣秀吉の事績は、遊興であるとともに、政治的な権力の誇示行為だったのでしょう。 会場に入るなり、入口正面で最初に見たのが、この「役行者椅像及び二鬼坐像」です。三像は玉眼造りです。前鬼・後鬼は赤い玉眼が輝いていました。奈良・吉水神社蔵。室町時代(15世紀)役小角(えんのおづぬ)すなわち役行者は7世紀後半から8世紀頃の山岳宗教者です。役行者は鬼神を使役し葛城山と金峯山に橋を架けさせたという伝承・逸話があります。その金峯山を拠点に、山岳信仰の修行場が築かれて行きます。鎌倉時代中後期には、吉野の金峯山から大峯の山上ヶ岳に至る連峰一帯が修行場として確立します。山岳信仰と仏教が融合し、神仏習合が始まります。「金峯山寺では、役行者が金峯山で蔵王権現を感得し、その姿をヤマザクラの木に刻んで山下と山上にまつったのが大峯山寺と金峯山寺の始まりとされている」(図録より)そうです。大峯山寺はその名の通り、大峯山山上ヶ岳の頂上に所在するお寺です。大峯山寺(山上ヶ岳)から和歌山県の熊野本宮までの山岳修行の経路が「大峯奥駆道」です。 これは大峯山寺に祀られている「蔵王権現立像」です。いろいろなバリエーションの蔵王権現立像が各所に展示されていましたが、その基本形はこのポーズです。日本では、中世の神道の説として、「本地垂迹」という思想が形成されました。「それぞれの神は皆、仏菩薩が人びとを救うために現れたものだと説明したこと」(新明解国語辞典第5版・三省堂)つまり、仏・菩薩と日本の神との関係を垂迹関係と言います。仏・菩薩が仮に日本の神に姿を変えて現れることをであらわれることを「権現」と称しました。つまり、役行者が感得した神様が「蔵王権現」です。金峯山寺蔵王堂に安置される巨大な3躯の蔵王権現立像は、会場で大きなスクリーンに、原寸大の像としてVR映写されていました。すごい迫力を感じる映像です。 大峯八大童子立像が展示されていました。南北朝時代(14世紀)。奈良・櫻本坊蔵。山岳修行で峯入りする修行者たちを守る修験道の尊格です。第2章は、藤原道長が金峯山に登る旅を実行し、祈願・埋経した事実に焦点が当てられます。金峯山経塚から出土した「藤原道長経筒」(奈良・金峯神社蔵)は、以前に京都国立博物館で見た記憶があります。久しぶりに経筒を鑑賞しました。今回は、この経筒と併せて、経塚から発見された道長筆のお経が展示されていました。 藤原道長筆紺紙金字法華経の一部です。購入した図録の裏表紙に使われています。これは、法華経巻7巻の一部を切り出した部分です。また、藤原師通筆の法華経巻4・無量義経・観普賢経も展示されていました。加えて、金峯山経塚から出土した平安時代の経箱も4合展示されていました。第3章に進みますと、広がる信仰世界の様子が見えてきます。 これは購入した図録の表紙です。ここには、厨子に安置された蔵王権現立像が使われいます。蔵王権現立像は鎌倉時代・嘉禄2年(1226年)の製作で、厨子は鎌倉時代(13世紀)のもの。共に、奈良・如意輪寺蔵。他にも、蔵王権現立像が出展されています。このセクションでは、信仰の広がりの例として、吉野曼荼羅、天川弁才天曼荼羅、熊野垂迹神曼荼羅などの図像が展示されていました。吉野を愛した西行の「西行坐像」(江戸時代・1785年、奈良・吉野水分神社蔵)や絵巻「西行物語絵詞」(鎌倉時代・13世紀、文化庁蔵)もあります。 こちらは、吉野水分神社の中社殿の獅子・狛犬です。右側の阿形像が獅子で、左の吽形像が狛犬です。第4章では、吉野を拠点とした後醍醐天皇の新政権(南朝)を扱っています。 後醍醐天皇像の部分図です。後期は同じ清浄光寺所蔵の摸本が展示されていました。事後に図録で確認して知ったのですが、上部の中央に天照皇大神名の墨書は同じですが、左にに八幡大菩薩、右に春日大明神の名が墨書されていて、上掲の後醍醐天皇図像とは異なります。意図的なのかどうかは不詳。礼服の上に袈裟を着て、右手に五鈷杵、左手に五鈷鈴を持ち、密教尊の金剛薩埵と同じ手の構えで描かれています。密教に造詣が深い天皇だったそうです。(図録より)後醍醐天皇は足利尊氏らとの対立の過程で、志半ばで崩御し、吉野山山内の陵墓に葬られました。その陵墓を守るのが如意輪寺です。 如意輪寺本堂の秘仏本尊として安置される「如意輪観音坐像」が寺外初公開として展示されていました。像高は92.9cm。像底に延慶3年(1310)の墨書があるそうです。南北朝の始まりが1331年で、後醍醐天皇崩御が1339年8月ですので、後醍醐天皇はこの如意輪観音坐像に祈りを捧げたのでしょうね。第5章は、豊臣秀吉による華の宴という一大イベントが吉野で行われます。 PRチラシに「吉野花見図屏風」(六曲一双)の左隻第二・三扇の中央部が使われています。会場(後期)では、屏風の右隻・左隻全体を鑑賞できました。京都・細見美術館蔵。安土桃山時代(16世紀)左隻は秀吉一行の行列が蔵王堂に向けて坂道を上る構図です。金峯山寺の仁王門と蔵王堂が画面の中心に描かれ、銅の鳥居をくぐって蔵王堂に向う秀吉が描かれています。文禄3年(1594)に吉野の桜を愛でる一大イベントが行われました。天下統一後の豊臣政権・豊臣家の永続を願うためであるとともに、これも世に豊臣政権の威をアピールするねらいがあったのでしょう。花見とほぼ同時期に、秀吉の息子・秀頼と豊臣秀長とが、金峯山寺蔵王堂や吉野山水分(みくまり)神社本殿の再建を成し遂げているそうです。この花見の時に自らが作詞したとされる新作能「吉野詣」を秀吉自ら演じたと言います。このセクションには、奈良・勝手神社所蔵の能面が4面展示されていました。今回の鑑賞で初めて知ったのですが、吉野郡大淀町桧垣本には、桧垣本猿楽の一座が居たそうです。吉野猿楽には五座があり、その一つだったと言います。展示されていたのは、桧垣本七郎という面打師の作でした。< 第6章 近世・近代の吉野と奈良 >最後のセクションでは、最初に、役行者椅像と理源大師椅像が並べて展示されています。 これは理源大師聖宝椅子像です。理源大師聖宝(832~909)は平安前期に活躍した僧で、後に京都・醍醐寺を開きました。聖宝は若い頃、役行者に私淑し金峯山で山岳修行に励み、大峯山修験を中興した高僧として仰がれています。大峯奥駈道での修験が復活することになります。 このセクションの最後に、この蔵王権現立像が展示されています。特別展の会場では、これだけが撮影OKでした。アメリカのロサンゼルス。カウンティ美術館所蔵の木彫像です。 額上の天冠台の正面に桜をかたどった金銅製の飾りをつけている点が注目されているそうです。「役行者が大峯で蔵王権現を感得し、その姿をヤマザクラの木に刻んでまつったとされるなど、蔵王権現と桜との結びつき」(図録より)が具体的な造形として取り入れられている稀有な例だと言います。 鎌倉時代(13世紀)の作。像高40.9cm。「ヒノキとみられる針葉樹の寄木造りで、条帛は彩色の上に截金文様をほどこし、裙や獣皮には一部に盛り上げ彩色を交えたあざやかな文様があらわされる」(図録より)特別展のご紹介はこれで終わりです。ここで、一つだけ加えてご紹介します。それは、「仏像館」で今年の9月13日(日)まで期間限定の特別公開が続いている木像ことです。 金峯寺仁王門の金剛力士像(重要文化財)です。康成(こうじょう)作。 南北朝時代 延元4年(1339)すぐ近くから見上げることができ、写真を撮ることもできます。特別展は終了しましたが、この金剛力士像はあとしばらく鑑賞することができます。「仏像館」(旧館)を巡る前に、庭園を新館のテラスから眺めました。 庭園の木々の緑でしばし目をリフレッシュしました。ご覧いただき、ありがとうございます。補遺金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺 ホームページ大峯山寺 :ウィキペディア蔵王権現 :ウィキペディア吉野曼荼羅 金峯山寺蔵 :「奈良女子大学」熊野垂迹神曼荼羅図(甲本) :「文化遺産オンライン」熊野曼荼羅図 :「わかやまの文化財」曼荼羅 :ウィキペディア吉野山観光協会 ホームページネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2026.06.10
コメント(2)

2026.5.20 (水)撮影これは、三条通と高倉通の角で撮った京都文化博物館別館です。この角の右側を北に上がると、京都文化博物館の入口がこの赤煉瓦の建物の北隣りにあります。「原安三郎コレクション 北斎 X 広重」展の鑑賞をした後に、これもまた久しぶりに別館に入りました。改めて、ここも掲載しご紹介します。京都のタウン・ウォッチングの一景色です。別館は入口が三条通に面しています。この建物は明治文化を今に伝える洋風建築。「日本の近代建築の祖ともいうべき辰野金吾とその弟子・長野宇平が設計し、明治39年(1906) に竣工した日本銀行京都支店の建物」です。(資料より)国の重要文化財に指定され、上記のとおり、京都文化博物館の別館となっています。 建物正面の西端 アーチ形にデザインされた正面入口の右側に、現在は「京都文化博物館」の銘板が嵌め込まれています。かつては「日本銀行京都支店」の銘板が掲げてあったのでしょう。洋風建築として、当時の装飾感覚が各所に施されています。正面入口を入ると、左側・右側にドアがあります。 右側のドアから入り、内部から撮ると・・・・・。感じはおわかりいただけるでしょう。入ったところは公衆溜り(来店客の空間)です。 銀行ですから、来店客と銀行職員の営業室を隔てるカウンターがあります。カウンターの下部には大理石が使用され、カウンター台には優美にデザインされた鉄柵が仕切りとして設けてあります。防御柵ですね。 一階平面図 カウンターとセットになった柱。柱の形もしゃれています。 東寄りからカウンターの西方向を眺めた景色 西側から東方向にカウンターを中心に眺めた景色突き当りのドアの方向に戻り、ドアを通り抜けて左側に回り込んで行きます。 カウンターの中央部に戻って、営業室側の天井部の眺め 東を向いて、公衆溜り空間の2階部分を眺めた景色 ドアの手前で、営業室の北壁面と東壁面を撮りました。2階は回廊で東西両側がつながっています。逆に言えば、2階までほぼ全面吹き抜けの広々としたというか、贅沢な空間利用です。さすが日銀の権威を示す・・・・というところか。西欧風の導入なのでしょうね。 営業室側に入ります。東から西側、公衆溜りの上部を眺めた景色回廊下の長方形の空間が正面入口の内側部分です。東西両端にドアがあります。 西側2階部分の壁面 2階の北西側の眺め北側は窓と外壁ですが、西側は建物内の内壁で、北側には部屋が並んでいるようです。詳細不詳。2階の柱部分等の装飾箇所を切り出してみました。ギリシャ風の装飾なのでしょうか。近代の装飾傾向を採り入れているのでしょうか。不勉強で識別はできません。しかし、まあ、西欧に追いつくという意識が強かった時代だからこそ、生み出されたデザインなのでしょうね。建物が時代を反映していると言えるのでしょう。現在は、1階の営業室空間が、「別館ホール」として、音楽会や展覧会などの催しで利用されています。「三条通を中心とする『界わい景観整備地区』における景観重要建築物のひとつとして保存公開されて」います。(資料より)この別館に入るのは無料です。正面入口から入り、右側(東側)のドアから、通路伝いに通り抜け、中庭を経由して、博物館の1階総合案内のエリアに行くことができます。別館の通路沿いの部屋は、今は別館店舗として利用されています。明治文化を感じるのに、一見の価値ある洋風建築物です。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*リーフレット「京都文化博物館展示スケジュール 2026-2027」
2026.06.03
コメント(2)
全3件 (3件中 1-3件目)
1

![]()
